父親たちの星条旗 | 11/3 | 上野東急2 | 監督/クリント・イーストウッド | 脚本/ウィリアム・ブロイルズ・Jr、ポール・ハギス |
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アメリカ側から見た硫黄島の戦い、って、それほどの重要性や意味合いはあったの? という認識で見はじめた。そうしたら、相当な意味合いがあったということが分かって驚いた。ひょっとしたら、当時のアメリカ人はみんな硫黄島を知っていたのではないか? と、思うだ。日本とアメリカが戦争をしていたことを知らなかった連中がいただとか、日本を中国の一部と思っているやつがいるとか、日本への関心や認識は薄いと思っていたのに、どういうことだろう。どっちが正しいのかな。 もっと驚いたのは1945年の3月、アメリカは経済的に疲弊していて戦争遂行が難しかったということ。へー。じゃあもうちょっと日本画がんばってたら、アメリカも金属を供出するようなハメになっていたのかな? といっても、戦争債権を売ればいい、ってんだから国民の貯蓄率は高かったのかも知れないが。でも、財政破綻寸前だったみたいな描き方だったよなあ。 さらに驚いたのは、この映画の主人公たちが掲げたとされる硫黄島の星条旗。あれが、実は占領完了時のものではなく、しかも、掲げ直したときのものだったという事実。うわー。本当なのかよ。しかも、写真に写っていない兵隊(後に戦死)が、掲げていた6人の中に強引に入れられてしまっていたということ。うわー。こういうことを知らずにいたよ。で、あの写真が戦争に飽き飽きしていたアメリカ国民の戦意高揚に一役買った、だけではなく、戦争国債を国民に買わせるためのシンボルにさせられていったということにも驚いた。あの旗を掲げたというだけで本国に呼び戻され、国債を買ってくれ運動のために全国を行脚したというのだから驚きだ。 さてと。この映画に生きた英雄はでてこない。戦債を売るための広告塔として英雄に仕立て上げられた若者が主人公だ。その時点で、戦争が、国民のためでもなく国歌のためでもなく、無意味なものであることを物語っている。冒頭で、年老いた主人公の語りが言う。戦争を知らないやつが戦争をしたがる。ほんとうに戦争を知っている者は、戦争のことを語らない。というようなことを。まさしくブッシュ大統領とそのとりまき連中への皮肉だろう。冷戦状態におけるベトナム戦争の泥沼化で戦争のバカバカしさは身をもって知っているはずなのに、あれやこれやと理屈をつけて海外に派兵し、若者たちを殺していく。映画の中でも、どこかの商人が自分の部下を「大学を出ているから君たちのように戦争には行かない」といったりする。戦争でいい思いをするのは戦争に行くことのない議員や階級の高い軍属や小賢しい商人たちで、一方、国のためにと志願して死んでいくのは貧乏人の小せがれだったりする。まあ、国にいても仕事もないし、志願して高給を取ろうという気持ちもあるだろうけれどね。でも、こういうのって、この間イラクに行った自衛隊員と同じだよな。イラクに行けば数100万のボーナスが出るというので志願者が続出したというからな。おっと、それでだ。英雄に仕立てられた若い兵隊たちも、戦争が終わるとただの仕事のできない連中になってしまう。インディアンはのたれ死に。もう1人は生涯ビル清掃人。主人公の衛生兵は葬儀屋をやって繁盛したようだけれど、でも、葬儀屋だからなあ。 映画はそういう小さな、でもちくりちくりと効果的なジャブを地道に積み重ねていく。たとえば、軍艦から落ちた兵士を助けに救命ボートがでないこと。上陸用舟艇の(戦車の?)キャタピラが、浜辺で死んだ米兵の死体を踏みつけていくシーン。味方の艦砲射撃で死にそうになるところ。米軍戦闘機の機銃掃射で死んでいく兵隊・・・。これまでのフツーのアメリカ映画なら取り上げないようなこと(都合の悪いこと、イメージダウンになること)を、じわりと描いていく。暗い、というより、これが本当の戦争なんだよ、と言い聞かせるみたいだ。「プライベート・ライアン」と比較されそうな上陸シーン、無惨な死骸。とくに、日本兵が洞窟で自爆している場面は強烈だった。きっとこれは、12月に公開の「硫黄島からの手紙」の内容と関係してくるのではないかと思うのだけれど、ね。 映画は、その後のエピソードがかなり長い。これはイーストウッドのせいなのか、それとも、脚本家のせいなのか。それから、登場人物は多いのだけれど、見慣れない役者ばかりなので区別がつきにくい。星条旗を立てた生き残り3人は分かるのだけれど、その周辺のキャラがいまひとつ立っていない。あと20分ほど尺を加えて、個人に迫ったりすると人間味が増す映画になるのかも知れない。実は、日本側からの視点も10%ぐらい入っているのかと思っていた。ところが、まるっきり米国側からの視点だけだった。次作の「硫黄島からの手紙」が日本側からの視点で描かれるらしいけれど、そっちも、100%日本側の視点なの? それで客は入るのかな? | ||||
手紙 | 11/7 | 新宿ミラノ1 | 監督/生野慈朗 | 脚本/安倍照雄、清水友佳子 |
犯罪者の家族の悲劇を扱った物語。同類の物語はなくはない。でも、犯罪報道の犯罪が問題視されている時代なので、いいタイミングではあると思う。ただし、映画の中に犯罪報道そのものを示唆する映像はない。あくまでも、犯罪者の家族、という状況の悲劇が扱われている。原作は読んでいない。なので原作者の東野圭吾がどれだけの意図を持っているのかは分からない。 テーマはいいんだけれど、いろいろと甘い部分がありすぎ。世間の評価は高く、泣ける、という話のようだ。ちょっとグッと来たのが、沼尻エリカがワープロを買った理由が分かったとき。それと、泣け泣け!と監督が叫んでいるであろうラストの刑務所慰問漫才で、兄が弟に手を合わせて侘びながら涙しているところ。でも、涙は出なかった。あまりにも予定調和過ぎて泣いてやるものかと思ってしまうし、演出があまりにもベタすぎて情緒が足りないと思う。このベタ過ぎなところはいたるところで見受けられて、物語を描きながら観客の心を揺さぶるという技巧はほとんど見られない。手紙で語ってしまうとか映像で単刀直入に見せてしまうとか、いかにも安直。で、情報を見たら監督はテレビ屋さんなのだな。なーるほど、と思う。 沼尻エリカの存在について言うと、こいつバカじゃないか? である。工場労働者の中から山田孝之に目をつけ、しきりにアタックする理由がどこにも描かれていない。それでは説得力に欠けるだろう。南海キャンディーズのしずちゃん、とはいかなくても、貧乏だけど心根がやさしく芯が強くて愛嬌があってってなキャラなんだろ。だったらあの沼尻のつるんとした美形とざあますメガネは許されないだろ。ミスキャストまたは人物造形の失敗だ。 強盗殺人犯の兄は玉山鉄二。でさあ、脅して強奪後無慈悲に殺害したわけでなく、もみ合っているうちにたまたまハサミ先端部が主婦の腹部に刺さったのだから、無期懲役というのは重すぎるのではないのかな。目撃者もおらず、自首したのか逃走の末に逮捕されたのか分からないけれど、金品強奪の目的なども含めて情状酌量の余地があると思うのだがなあ。 弟がひとりでアパートに住むのに、どうして殺人犯の弟と分かってしまうのだろう。仕事場を何度も首になったような描き方だけど、子供が猟奇殺人犯になって、そういう子供を育てた親か、なんて非難されるのとは次元が違うと思うのだけれどな。アパートに、殺人犯、なんて落書きをしたやつは、どこの誰なのだ? そんなことができるのか? 住所をどうやって見つけ出すのだ? いや、そもそも弟は犯罪を犯しているわけではないので、弟に対する非難や恫喝は罪になるのではないか? 犯罪者が社会復帰するための組織や団体だってあるのだから、まして、家族への阻害や迫害は許されるものではないだろう。なので、吹石一恵の親が身辺調査したこと以外の弟への非難は、過度な描き方だと思う。とくに、弟が沼尻と結婚した後、寮の家族にまで知られて敬遠されるようになる描き方はあまりにもベタ過ぎ。そんなに世間は冷酷か? まあ、それでも犯罪者の家族は、それまでの会社や学校を辞めざるを得ず、住み慣れた故郷を離れてひっそりと暮らすことは多いはず。そして、そこには非難がましいことだけではなく、同情も大いに含まれていると思うぞ。とんでもなく非人間的で異常な殺人鬼なんかの場合を除いてね。なのに、この映画では、アパートの大家も会社もなにもかも迫害者のような描き方。そのワンパターンが、嘘っぽい。むしろ、もっと地味にリアルに描いていった方が、後々の感動にもつながるのではないかと思ったりする。 腑に落ちないこと。最初の会社で、田中要次が手紙を見つけ、弟をからかうシーン。あとから、田中が「俺も刑務所にいたんだよ」と言うのだけれど、うそー、と思った。同じ境遇なら黙っちゃうだろ、きっと。リアリティがないなあと思った。 それにしても、弟が大学進学をあきらめたのは資金面から納得できるけれど、お笑いのスターになろうと思うこと自体も理解不能。しばらくじっとして、世間に広く知られるようなことを控えるのがフツーではないのかなあ。 で、この映画の単調さは、登場人物をどんどん捨てていくことにもある。もっと利用したらいいのにと思う。たとえば、大検を通ってどこかの大学の夜間部に合格した田中要次とか、いいなずけと幸せそうな吹石一恵とか、人事課の仕事で忙しい杉浦直樹とか。その後の人生を描き出すだけでも違ってくる。それに、無期懲役は10年過ぎれば出獄できるのが一般的なのだから、出所する兄の姿を描き込んでもいい。 日本は欧米と違って犯罪が起きると、犯罪者個人だけでなく家族にも非難の眼差しを向け、迫害する。そういう土壌もあるだろうし、読者が求めているからと、マスコミが不要な報道をすることが拍車をかけている。被害者もそうだけれど、加害者の氏名も、書く必要などないのに。なのに、新聞や週刊誌は部数獲得のために氏名や写真や過去のもろもろをほじくり出し、センセーショナルに書く。それが、どれだけの人々を苦しめているか。そんなことには無関心に、今日もまた新聞記者は被害者のがん首写真を求めて卒業アルバムを漁りに走り回っている。欧米のように、個人主義が確立しておらず、しかも、家族主義が伝統的にあるからだろう。犯罪者は、被害者への罪とともに、家族にも罪を重ねている、というのは正解だけれど、この映画のように「犯罪者の家族への差別は当然だ」と認めていいものかと思う。それは誤った考え方を助長する方向につながるのではないかと思う。 | ||||
DEATH NOTE デスノート the Last name | 11/8 | 上野東急 | 監督/金子修介 | 脚本/大石哲也 |
前編は1週間ぐらい前に日テレで放映したのを録画していて、昨日見た。よくも悪くもマンガだな。正義とは何か、誰かに犯罪者を罰する資格はあるのか、罰則とは何か、人は権力(人を殺す力)をもったときにどう行動するか、といった内容を扱っているはずなのに、内容に奥行きがなくとても軽い。しかも、演出がとても淡泊、フラット、単調。物語的には意外な状況になっていたりするのに、映像や音楽がとくに衝撃的になっていなかったりする。もうちょっと抑揚をつけたらいいじゃないかと思う。とくに、問題のデス・ノートを手にした人々が、みな一様に楽しむように殺したい人物の名前を書いていく過程に、とても違和感を感じてしまった。まあ、最初はいたずらに名前を書き込んでも、実際に人が死ねば(それが悪人であったとしても)、恐ろしい気持ちになっていくのではないかと思うのだ。そうして苦悩し、自問し、書き込まなくなる場合があるはずだ。物語の主人公のように徹底した合理主義者で、犯罪者を抹殺することが正義だと確信している人物ならいざ知らず、アイドルタレント(かつて家族を殺されたとしても、無関係な人を殺すのは躊躇するのでは?)やテレビキャスターまでも、どんどん気軽にノートに書き込んで殺していく。このお気楽さがリアリティに欠ける。つまりまあ、手短にいえば人間が描けていない。というか、描こうとしていない。これじゃ、つまらない。 話は二転三転するのだけれど、後半になるとよく分からないことがでてくる。白い死に神はなぜ死んで灰になったのか? あれは、アイドルタレントに好意を寄せて寿命を復活させたから? でも、そういうことをした描写はなかったけどなあ。エルの秘書役の藤村俊二はなぜ死んでしまうのだ? 黒い悪魔がノートに名前を書いたから? では、なぜ藤村の名前を書いたのだ? それは、エルの名前と取り違えたから? うーむ、わからん。エルはなぜノートに自分の名前を書く必要があったのか? べつに、自分が死ぬ必要なんかないじゃないのか? 藤原竜也は自ら監禁されるにあたって黒い悪魔からもらったノートを地面に埋めたわけだけれど、そこでノートを放棄したわけではないのになぜ記憶を消すことができたのだ? で、白い悪魔からキャスター女が受け取ったノートに触れると、記憶が戻った・・・でも、白い悪魔のノートであって、もともと自分の持っていた黒い悪魔のノートではないのに、なぜ記憶が戻ったのだ? どーも白い悪魔と2冊目のノートがでてきてから話がこんがらがって分かりにくくなってしまった。ラストのドンデンも、本物のデス・ノートをニセモノのノートと入れ替えていたって、あまりにもトリックがチープ。全編を通して「おおっ」て驚くようなところもなく、ほんと、うわべのストーリーを追っているだけの映画だなあとしか思えなかった。 そういえば何週間か前、昼過ぎに新宿アルタ前の馬の水飲み場の近くを歩いていたら、ちょっとした人だかり。警備員が停まるな停まるなといっている。ちらっとみたら、黒い上下に髪の毛つんつんの男性が見えた。たぶん藤原竜也。この映画のプロモーションだったようだ。でも、プロモーションなのに観覧席はほとんどなく、通行人には停まるなという。アホみたいだと思ったのだった。それにしても若手の役者の顔の区別がつかず、困った。藤原竜也の妹とアイドルタレントの顔の区別もつかないのだ。どっちも同じように見える。俺ももうジジイだからしょうがないけど。 | ||||
上海の伯爵夫人 | 11/9 | 新宿武蔵野館2 | 監督/ジェームズ・アイヴォリー | 脚本/カズオ・イシグロ |
ストーリーがある、というより、シチュエーションがある、といったような塩梅の映画で、これといったドラマチックはない。ではつまらないかというと、これがそこそこ見ていられる。ただし、盲目の元外交官や女給に身をやつした元伯爵夫人はどうなっちゃうのだろう、という興味はあんまりない。なんとなく映画の終わり方が予測できるからだ。むしろ興味の半分は魔都上海とジャズ。残る半分は白系ロシア人の落ちぶれた姿+満州+日本軍ってところ。でも、どれも断片的な描写で、少しも体系的ではない。歴史を知っていれば、もう少し欠落部分を補っていけるのだろう。でも、それはそれでいいのかも。激動の時代に翻弄される人々の、本当は過酷な生活が、ゆるやかに描き出されている。それはそれで評価したい。 ロシア革命から逃げてきた白系ロシア人の生活苦が描かれた映画は、あまりないのではないのかな。元貴族も、貧乏暮らしに堕してしまっている。主人公の伯爵夫人は、でも、叔母や小姑に冷たくされている。もしかしたら彼女は貴族の出ではなく、元は一般人だったのかな。それで、一族のために彼女だけが水商売に身をやつしているのだろうか。やっぱり、嫁の立場は弱いのね。 あの元外交官が提案した(中国人が感動したという)アジアの解決策っていうのは、何だったんだろう。それがちょっと気にかかる。その解決策が行われていれば、日本の満州国建設はなかった、っていうことなのかい? ううむ。 最大の難点は伯爵夫人が馬面かつマヌケ面で、ちっとも美しくなく魅力もないことだ。なんであんな役者が主演なのだ? と思って調べたら、トニー・リチャードソン監督とヴァネッサ・レッドグレーヴの娘なんだと。じゃあ、この映画には母娘で出演しているのか。やれやれ。伯爵夫人を、もうちょっとイイ女に替えれば、もう少し見られる映画になったろうと思われる。真田広之が怪しい日本人として登場する。工作員かスパイ? でも、具体的には分からず。役柄に厚みが足りない。ちょっと残念。それに、怪しさが足りないと思う。 金のかかっていない映画のせいか、上海のクラブなどの映像が、いささか貧弱。あの時代の上海の、もうちょっと豊かな怪しさを表現して欲しかった。それに、登場する日本軍の軍服がなさけなくて、まるで中国国民党の軍服みたいだった。 | ||||
アオグラ AOGRA | 11/10 | テアトル新宿 | 監督/小林要 | 脚本/足立紳 |
素晴らしい。オープニングからラストまで一気だね。最後にフォークルの「青年は荒野をめざす」が流れたときは、ちょっとうるっときた。脚本が素晴らしい。手堅くまとめた演出が素晴らしい。登場する青年たちも、それぞれに光っている。あー。たまらん。 レイトショー。見終えてポスターのタイトルを見て、その意味がやっとわかった。「アメリカン・グラフィティー」のもじりか。なーるほど(正式には「青森青春グラフィティ」というらしい)。いやその、見はじめてすぐアメグラ風だとは分かってたけど、題名がうろおぼえ。ちょいとピンとこなかった。なので、見終えてから納得した次第。 群像劇ではあるけれど、内田朝陽を主人公に据えたのは成功。彼が町内を移動することでさまざまな出来事が発生。たった1日(3月31日の設定なのかな?)のうちに、決定していた就職先はフイになり、積年の恋を告白すると同時に別れがあり、番長との因縁の対決が発生し、童貞を捨てる決意をし、三沢基地のGIたちと乱闘する。そして、故郷を捨てることになる。この凝縮と充実。しかも、エピソードや映像にひとつもムダがない。さらに驚くべきは、同級生たち仲間が10人ぐらい登場するのだけれど、その見分けがつかないということがないのだ。みんなキャラが描き込まれているし、ひと目で「ああ、あいつだ」と分かる。この技量が素晴らしい。 それと、1968年当時の十和田市の雰囲気がよくでている。昔の看板や古いクルマでつくりあげてところもさることながら、町並みなんかが、そのまま残っているような場所を使ったんだろう。こういう部分への丁寧な配慮も、素晴らしい。 | ||||
虹の女神 Rainbow Song | 11/13 | テアトルダイヤ | 監督/熊沢尚人 | 脚本/桜井亜美、齊藤美如、網野酸(岩井俊二) |
ぐっとくる映画だ。大学の映研、ビデオプロダクションと、映像まわりの世界はとても親近感が湧く。しかも、大学時代に映画を撮っていく過程を描きつづけているのも、しみじみと親近感が湧く。そういう背景が、登場人物たちを、リアルに描き出していくところがいい。たとえば「幸福のスイッチ」では上野樹里は東京の広告プロダクションに勤めている設定だったけれど、あのリアリティのなさとは大違いだ。「え?」と思って「なるほど」と思ったシーンがある。それは、コダック娘といいつつ、使っているカメラがフジカじゃねえか、と思った「え?」で、後半で、フジカのカメラにコダクロームを詰め替えて使った、というエピソードだ。おお。マニアック。ま、こんなところで感心している観客は、もう少ないだろうけど。 ストーリー自体は単純で、お調子者で鈍感な青年と、ナイーブな娘の、恋のすれ違い物語。上野樹里が市原隼人を好きなんだろうな、というのは観客には見えていて、だからそういう意外性を主題にしているわけではなく、上野の語らない秘めた想いが伝わってくる仕組み。市原のトンマぶりは仕事でも人間関係ぶりでも徹底的に描かれていて、とても使い物にならないほどなんだけど、それでも憎めないやつ、というレベルでかろうじて居残っている感じ。上野と同じく、上野の妹(蒼井優)や父親(小日向文世)なんかも、グッと感情を押し殺したようなところがたまらない。蒼井と上野と市原が行く夏祭りのシーンは、ただもうそれだけで泣ける。娘が死んだというのに素っ頓狂なことを言ったり冗談めいたことを言ったりする父親というのも、もう、そんなことで気持ちを押し殺すしかないのだろうなと、思えてくる。きっと、夜、妻と2人になったときはおいおい泣いているに違いない。そういうところまでが見えてくる映画だ。 というわけで、しみじみと感傷にふけることができ、泣かせてくれる映画、になっているのだけれど。でも、「恋人」の章にはとても違和感を感じた。それまでのいい感じが、ここで途切れてしまう。この章は要らないと思う。それに、「世界の終わり」8ミリビデオの章も、全部見せることはないと思った。こんなものは断章でで構わないと思う。最後まで心が交わることなく逝ってしまう上野樹里。上野の想いに気づかない市原。死んでからでは遅すぎるのだ。そんなのがびしびしつたわってくる。なんで彼女が飛行機事故で死ななくてはならないのだ(映画だからしょうがないんだけど)と、見ているこっちまで哀しくなるような映画だ。 | ||||
ナチョ・リブレ 覆面の神様 | 11/14 | 銀座テアトルシネマ | 監督/ジャレッド・ヘス | 脚本/ジャレッド・ヘス、ジェルーシャ・ヘス、マイク・ホワイト |
バカ映画。修道院の下男(修道院で育った孤児がそのまま配膳係で居残っている状態)が、あこがれのプロレス世界で活躍する話。なのだけれど、修道院が極貧にあるとか食い物もロクにないとかいう説明があまりされない。単に、主演のジャック・ブラックが子供の頃からルチャ・リブレが好きだった・・・けど、修道院ではプロレスは禁止だった・・・てなことぐらいしか描かれない。だから、修道院の孤児のために一念発起してプロレス世界に、という具合には見えない。しかし、経験もなく興味半分でこそ泥(いつも修道院のチップスを盗むヤセ男)とタッグを組み、成功してしまうという、とんでもなくいい加減な物語。まあいいけど。 画質がもの凄く悪い。なんでこんなにボケボケで撮っているのだろう、と思うほど。予算がないせいなのか? テキトーに撮影したフィルムをテキトーにつないでいる感じがしなくもない。B級というより、C級だな、こりゃ。 バトルロイヤルに勝ったら勝負してやる・・・あたりから寝てしまい、気づいたら、すでにバトルロイヤルに勝ったのか、リングに上がるところ。もしかしたら、いちばん面白いところを見逃した? シスターが会場に応援にきた理由もわからなかった。やっぱり、つまらない映画は寝てしまうのだよな。 | ||||
クロース・トゥ・ホーム | 11/20 | 有楽町朝日ホール | 監督/ダリア・ハゲル、ヴィディ・ビル | 脚本/ダリア・ハゲル、ヴィディ・ビル |
TOKYO FILMeX 2006・コンペティション部門/イスラエル映画。英語名は"Close to Home"。エルサレム市内をパトロールするイスラエル軍の女性兵士。パトロールはアラブ人を片端からつかまえてIDカードをチェックするというもの。毎日の登録IDが、テロの際に意味がでてくるのだという。兵士はみな若く、20歳前後。多分、徴兵なんだろうけれど、アパートから通勤している。パトロールは2人1組で、特定の街区を上官に指定されて行なう。休憩は、30分ずつ合計1時間。それ以外は勤務に精を出さなくてはならないのだけれど…。スキあらば買い食いしたりショッピングしたり道路にしゃがみ込んだり。いかつい顔のサマダルは、とくにズルをしがち。相棒のミリトは、気真面目。お互いにあまり気が合わない。チラシの解説に寄れば、2人は18歳となっていた。見ているときは21〜2歳かと思っていたのだけれど。そういう設定は興味深いのだけれど、とくにドラマが発生しないのだよな。せいぜいズルをするサマダルにミリトが不満を言う程度。そんな中で、突然の爆発。サマダルは平気だったけれど、ミリトは巻き込まれて軽傷を負う。さて、この事件以来サマダルも多少真面目に登録作業をするようになったけれど、今度はミリトが心ここにない状態。爆発のとき介抱してくれたイケメン男を追跡して、でも、声をかけられない有様になってしまう(サマダルの方は、ちょくちょく男をひっかけてセックスを楽しんでいる)。挙げ句に、2人は海外タレントが宿泊するホテルで警備を任されるのだけれど、ミリトの方が外国人に誘われて仕事中に踊りに行ってしまう始末。なんか、いい加減な女性兵士たちである。なわけでミリトは営倉行きになるのだけれど、これがなんと1週間共同部屋に詰め込まれて軽作業をさせられるだけの、ゆるいもの。なーんだ、である。営倉行きのあとは、介抱してくれた男をめぐってすったもんだ。サマダルとミリトが対立するのだけれど、なぜなのかよく分からない。で、対立したままの2人がパトロール中、サマダルが1人のアラブ人にIDを要求。すると「見せなかったらどうなる?」と反論されてうろたえ、「見せろ」「やだ」のやりとりを見かけたイスラエル人たちが2人を取り囲み「おまえ女性兵士に手を挙げた」とかなんとか言いがかりをつけられて・・・。ここで、画面は真っ白になり、サマダルの声が「やめて!」と響く。再び画面に現れるのはサマダルが運転するバイクの後ろにミリトも同乗している様子。二人とも不機嫌な顔をしている。これで、エンド。 イスラエルの女性兵士という設定は面白いけれど、それを除いたらドラマがない。軍隊の様子を描きたかったのか、それとも、軍隊という設定を借りて若い娘の生活(青春物語)を描きたかったのか、どっちなのか分からない。とても中途半端。そもそもサマダルが業務に不熱心でほとんどID確認作業をしない理由が、分からない。思春期の楽しい時間を奪われた怒り、というのも感じられないし。たんにだらしがないだけなのか。いや、差別されるアラブ人に対する同情の気持ち、アラブ人が自由に生活できない現状への疑問があるからなのか? 彼女にそんな問題意識があるようにも見えなかった。つまりまあ、人間がちゃんと描写できていないのだよな。もっと家庭環境や好き嫌いや考え方や交友関係や、掘り下げて、人間を描くべきだろう。人物造形がとても甘いと思う。これはミリトも同じ。この2人以外にも女性兵士はいるのに、彼女たちはほとんど個性を持って描かれない。もっと群像映画として、人間に迫って欲しかったと思う。こんな脚本では、結局のところ何が言いたいのか、それが不明瞭になるだけだ。それにしても、イスラエルの軍隊というのは、こんなにゆるいの? 実質戦時下にある軍隊とは思えないぐらいのんびりしていて、罰則も厳しくない。第一、彼女たちは銃を携行していない。軍隊というより、警備隊というような感じにしか見えないね。もっとも、女性の大半が軍人になるという負担はたいへんだとは思うけれど。でも、女性は銃後で死ぬことはない、というのではないのは立派だと思うけれど。 上映後のQ&Aで監督2人が登場。「"Close to Home"というのは軍隊用語で、家から通う軍人システムのこと。それから、パレスチナ人とイスラエル人が同じ場所に同居していることも表している」「イスラエルでは女性もよく喫煙する」「イスラエル女性の80%が兵役に就く」「同僚の女性が、編んでいたオレンジ色のセーターを上官にプレゼントした理由。それは、ジョークだ。彼女は仕事をさぼってセーターを編んだ。それを上官に与えて喜ばせるという皮肉を表している」「映画に、軍の協力はあった。軍に対する批判は描いているけれど」 | ||||
ウィンター・ソング | 11/21 | 新宿武蔵野館2 | 監督/ピーター・チャン | 脚本/Aubrey Lam、Raymond To |
原題は「如果・愛」、英文タイトルは"PERHAPS LOVE"。如果は、「もし〜だったら」という意味らしい。日本語タイトルの何といい加減なことか。冒頭いきなりミュージカル。舞台はサーカスで幻想的。いいムードかなと思ったけれど、話の展開がじれったい。舞台は上海。中国の女優ジョウと香港のスター金城が初共演で、監督はジョウの恋人がつとめる・・・という設定は分かったけれど、なかなかドラマが始まらない。そのうち金城武とジョウ・シュンがかつて2人とも貧乏な頃に恋人同士だったことが明らかになり、その過去と撮影中の映画の内容が入れ子構造になっていることが分かるのだけれど、だからどーしたという程度。なにしろドラマがほとんどないのだ。ときどきミュージカル、ときどき幻想的、ときどき叙情的、と、それぞれの場面のクオリティは高いのだけれど、まったく迫ってくるものがない。「昔恋人だった2人。女が有名になるため男を捨てて晴れの舞台へ。男も遅れて成功して再開。女はのし上がるために利用した監督という恋人がいる。男は女に未練たっぷり。女は現実を捨てきれない。監督は間に入って悩む」という、昔からよくある内容の、せいぜい15分もあれば終わってしまう物語を延々110分も水に薄めてのばして見せてくれても、ちっとも面白くないのだよ。空中ブランコやピエロや曲芸が何かの意味を持っているわけでもなく、紙芝居のように薄っぺらなイメージを積み重ねられても、つたわってくるものは何もない。途中から退屈で退屈で、眠くなってきて、早く終わらないかと時計ばかり見ていた。ラストも、何が起こるわけでもない。元の鞘に収まって、変化なし。つまんねえよ。あ、やっぱり、ミュージカルが体質に合わないからかな。 それにしても、ジョウ・シュンの演じる女はやな女である。それに、別れてから10年も思いつづけるような美女でもないし。なんと「小さな中国のお針子」の、あの貧相な娘役の女優らしい。田舎では映えるかも知れないけれど、中国のトップスターには、見えないぞ。ま、美しく撮れていなかっただけかも知れないが。 | ||||
マキシモは花ざかり | 11/22 | 有楽町朝日ホール | 監督/アウレウス・ソリト | 脚本/Michiko Yamamoto |
TOKYO FILMeX 2006・コンペティション部門/フィリピン映画。原題は"Pagdadalaga ni Maximo Oliveros, Ang"、英文名は"The Blossoming of Maximo Oliveros"。3/4ぐらいはとても面白かった。クライマックスにかかるところからラストが、いまひとつ。中途半端すぎてキリッとしない。しかも、ラストシーンがまるきり「第三の男」で、それはないだろうというようなもの。話をどう収拾しようか、という視点がよれよれになってしまっていて、ものすごく残念。ここが決まっていれば、傑作になれたのに・・・。もったいないことだ。 主人公はマキシモという12歳の少年。家の仕事で忙しく学校にも行っていない。しかも、ゲイ。なので近所の悪ガキにからかわれたりしているが、あるとき若い新任警官ビクトルに助けられる。で、マキシモは警官に惚れてしまう・・・。マキシモの父親は地元の元締め。長男、次男には盗みを教育し、海賊版DVDやクジなんかを売りつけて商売している。三男のマキシモは亡くなった母の代わりに炊事洗濯を受け持っている。一家は警察署長にはワイロを送りうまくやってきた。が、長男が殺人事件に関わり、警官ビクトルに疑いをかけられてしまう。で、父親と次男が夜中にビクトルを襲し、ボコボコにしてしまう。警官の正義感はいったんはひつこむ。しかし、警察署長が異動になって、謹厳実直な署長がやってきた。しかも、この署長は巡査の時代に一家と対立しており、どーも、ボコボコにされた経験をもっているみたい。なので、新所長は正義感の強いビクトルを片腕にして、一斉検挙に励み出す。次男は、殺人の疑いで刑務所へ。これはたまらんと、父親は銃を持って署長とビクトルと対立しに行く。が、署長に呆気なく撃ち殺されてしまう。釈放された次男は、長男とともに復讐に行こうとするが、ビクトルは争いをやめるよう消極的に止める。夜、ビクトルがマキシモの家の下にきて口笛を吹く。ビクトルに教えられた口笛で、マキシモも応える。・・・マキシモは学校に行くことにした。兄たちも心を入れ替えたかのように、マキシモの世話を焼くようになった。 というのが、ストーリー。悪徳一家の娘が対立する警察官に惚れてしまう、というような物語はよくある。それが、この映画ではゲイの末弟というのが面白い。彼の演技がなかなか素晴らしく、色気づいてきたゲイの気位の高さだとか、歩くときの腰の振り方だとか、堂に入っている。スラム街の住人たちもユニークで、陰鬱そうに調子っぱずれのビアノを弾く酔っぱらいオヤジだとか、ゴミの捨て方でケンカするオバチャンたち、学校に行っている生意気な少年、売春婦になった娘、とか、ちょっとしかでてこない人たちまで、なかなか濃い。ハンディカメラでブレながらの撮影はドキュメンタリー風で、なかなかにリアルでもある。まあ、周囲の音をすべて拾ってしまうので、クルマの音や近所の生活音まで入っているのは困ったものだけれど。でも、それなりにリアルには貢献しているかも。 問題は、父親が殺された後で、「復讐だ」と息巻いていた長男次男が、弟に気をつかったのか、いとも簡単に大人しくなってしまうのが理解できない。どころか、弟に制服を着せ、学校へと送り出す。そうなる原因というのが具体的に表現されていないから、なんで〜? という気持ちになってしまう。本来なら、若い警官ビクトルと小競り合いをさせ、反目しながらも理解し合う、といったエピソードでも挟まないと、すんなり先には進まないところだ。ここをいい加減にして手を抜いてしまったところに、この映画の限界があると思う。そして、学校へ行くマキシモが歩いてくるのを、ビクトルはクルマから下りて煙草を吸いながら待ち受ける。その横を、ビクトルは脇目もふらず歩き、ビクトルを追い抜いて一瞬足を止めるが、振り向くこともせず、また前に歩み始める。まったく「第三の男」だよなあ。なんだか、ここがかなり浮いている。それから、エンドロールで、マキシモが女性用の服を箱にしまうシーンが重なっているのだけれど、これはマキシモがゲイをやめる決心をした、ってことなのかい? しばらくゲイを休む程度なのかな。うーむ。 上映後のQ&Aに監督が登場。「実は、脚本では映画の中に登場するDVD映画小屋で「第三の男」を上映していることになっていて、それを受けてのラストシーンだった。しかし、権利料が払えず使えなかった。なので、ラストシーンだけがそのままになってしまった」「海賊版DVDは悪いことだけれど、安いDVDのお陰で多くの人がクロサワやキシェロフスキーなどに接している。フィリピンでも多くの人が「第三の男」を見て知っている」「脚本のミチコ・ヤマモトは日本人とフィリピン人のハーフ」「マキシモ役の子供は、ヒップホップの少年たちをオーディションして見つけた。本物のゲイの人たちは、テレビなどの影響で過剰に演技をしてしまうので外した。最後まで残った2人のうち1人が積極的に映画に出たがった。けれど、出たくないと言っていた少年の方を選んだ。そして、母親に説得してもらって出演させた」「有名俳優は使っていない。警官ビクトルの家は、私の実際に住んでいる家だし、マフィアのボスや住人たち、マキシモの友達も近所の人にでてもらっている」「フィリピンでは昔からゲイがシャーマン的な役割を果たしていた。それが、スペイン人の進行とともに、ゲイは悪、という価値観が入ってきた。マキシモは、汚職などで腐敗するフィリピンの警察に対する、聖的な役割を果たしているといえるかも知れない」などと語った。それから、沖縄にも造詣が深く、今年も3ヵ月も滞在する予定だとか。 | ||||
ハンモック | 11/24 | 有楽町朝日ホール | 監督/パス・エンシナ | 脚本/パス・エンシナ |
TOKYO FILMeX 2006・特別招待作品/パラグアイ映画。原題は"Hamaca Paraguaya"。終了後、トイレ前のソファでオバサンが連れに「こういう、演技をしない映画もあるってことよね」と、肯定派。エレベーターに乗ったら別のオバサンたちが「あんなの映画じゃないわよ。動かないんだから」と否定派。賛否両論でるってことは、招待作品として成功している、なーんて主催者は思うかも知れない。なに、バカをいってやがんだ。こんなのが評価の対象になる映画であるはずがない。時間の無駄だ金返せ。 森の中のロングショット。カメラはフィックス。老夫婦がやってきてハンモックをつるし、腰をかけて話し合う。犬がうるさい→息子はまだ戦場から戻らない→天気が悪くなってきた→犬がうるさい。ときどき曇天の空がインサートされる。次は父親のサトウキビ収穫。つづいて母親の洗濯。ロングショットで、一瞬アップになるけれど、顔は正面から写さない。そしてナレーションがかぶる。カメラはフィックス。その後も竈の前みたいなところなんかがでてきて、カメラは相変わらずフィックスで、息子が亡霊になって戻ってきて父、母と会話するような雰囲気の場面になるけれど、父親も母親も声では会話しているのに、画面では黙々と自分の動きをつづけているだけ。そうして、近所の人か誰かから戦争は2日前に終わったと告げられ、息子は胸を撃たれて死んだ、と兵隊が告げにくる。それを了解したのかしないのか、哀しみの表情を見せるわけでもなく、またしても淡々とハンモックに座ってあーでもないこーでもないと語り合う老夫婦。 出演者はセリフをしゃべらない。おそらくみんなアフレコで乗せているだけ。出演者の顔もほとんどまともに写さない。当然、演技もしない。カメラはフィックスでロングショットばかり。セリフには厭戦メッセージが込められているけれど、社会性というわけではなく、子供を奪われた老夫婦の戸惑いとでもいうようなもので、強いメッセージではない。だから、同情はできるけれど、共感することはできない。なんか、いらつく。いらつくまえに、飽きる。だって延々78分もつまらない風景とほとんど動かない人物と、どうどうめぐりのようなセリフを聞かされるのだ。拷問みたいだ。拷問から逃げるには寝るしかない。というわけで、途中ちょっと寝た。寝ても、ほとんど映画鑑賞には影響がなかった。 こんな実験は、もう映画先進国では何10年も前に行なわれている。いまさら退屈な実験を見せられても、何の発見も驚きもない。いくら映画後発国だからといって、こんな化石のような手法が評価されるというのは誤りだ。映画は動かなくては意味がない。飽きさせずに惹きつけなくては価値がない。セリフですべてを語る必要は、映画にはない。言葉で伝えたかったら、他のメディアを利用すればいい。こんな映画に、おそらく誰もついていかないだろう。金を返せ! | ||||
家の鍵 | 11/30 | ギンレイホール | 監督/ジャンニ・アメリオ | 脚本/ジャンニ・アメリオ、サンドロ・ペトラリア、ステファノ・ルッリ |
障害者の少年(軽度の脳性小児マヒか?)と、その父親の話。前半だらだらとつまらないので、途中で寝てしまった。気づいたのはバスケットホールのシーンで、自分から迷子になるところ。以後もたいしてドラマチックがなく、内容もステレオタイプ。つまらない。 障害者を扱った映画に対しては、なかなか反論しづらい。してはいけない、ような気配がある。この映画もそういうところを感じる部分がある。だって、とてもワガママなことばかりする少年だからだ。こんなガキはぶん殴ってやれ、と何度か思ったほどだ。故意にワガママを行なう自分を、どこまで許してくれるか(受け入れてくれるか)を試している、のだろう。でも、いくら障害者でも捻れた出生の過去があるからといって、社会的な道徳規範を逸脱していい、とはならないはずだ。だけれど、それを健常者が主張すると、反論されそうな気がする、のだ。「障害者の気持ちなんか分からないだろう。捨てられた子供の気持ちも、分かるはずがない」と。でも、だからといってワガママを許していいことにはならない、と思うのだよね。 冒頭のシーンは、とても分かりづらい。男が2人、話し合っている。一方は義理の兄のようで、もう一人の男(主人公)は義兄の妹と結婚していたらしい。しかし、妹は死んでしまっているらしい。6歳になっても自力で歩けなかった少年が、義兄のところにいるらしい。義兄は「会ってやってくれ。そうすれば目覚めるかも知れない」というようなことをいう。なんのことだ? 2人は駅で別れる。主人公が寝台車で目覚めると、隣にはシワになったシーツ。食堂車へ行くと、少年がケー六ボーイで遊んでいる。そこで、まるで初めて会ったかのように自宅の電話番号や住所を交換し合う。ん? 冒頭で会ってくれと言っていたのは、義兄の父親か母親ではなかったのかな? この少年は誰? 歩けなかったという少年? 冒頭で主人公は「仕事が忙しくて。もう行かなくちゃ」なんて、席を外そうとしていたのに、どうして子連れになっちゃったんだ? というように、経緯が分かりづらい。 さてと。理由が分からないまま主人公は少年をドイツの病院に連れていき、検査させる。少年は何度も病院に来ているらしい。これまでは義兄が連れてきていたのかな? 主人公に対してつっけんどんな態度を取る少年。以前に会っているのか? どういう関係なのか、主人公は知っている(実は実父というのは、冒頭の会話からも想像できる)のだろうけれど、少年は知っているのか? この辺りがよく分からない。あれこれワガママを言ったりしたりして、故意に主人公(父親)を困らせる少年。この過程がだらだらと延々とつづくので、俺は飽きて寝てしまったのだ。第一にドラマがない。ドキュメンタリー風の表現でもしてあれば、少しは違ったかも知れないけれど、中味のない、たんなる少年のワガママがだらだらつづくのは、まったく面白くない。あんなのは、2つ3つのエピソードを紹介すれば、それで事足りるはず。観客を惹きつける、または、考えさせることを映像に定着すべきだろう。で、寝て、気づいたら、少年は1人でバスに乗って迷子になろうとしていた。以後は少し人間たちも場所を移動したり話をしたりする。たとえば、主人公は病院であった女(シャーロット・ランプリング)と話す。内容は、あまりにもストレート。ランプリングは「娘の介護がたいへん。死んでくれたら、と思う」という。主人公は「実は、父親(と告白する)。生まれるとき恋人が死んでしまい、子供を捨てて、それ以来会うのは初めて。障害があっても少年に見えるうちは同情もされるが…」と、現実の厳しさを語る。この、語ってしまうことが安易。映像で見せろよ、と思う。でも、まあ、障害者をアンタッチャブルにせず、多くの人が本当は思っていること、をはっきり表現していることは、まあ評価したい。でも本当は、その先のドラマが見たい。 少年はすでに主人公が実父であることを知っている様子。俺が寝ている間に告白したのかな? それから、ノルウェーまで、少年の文通(?)相手の女の子に会いに行くのだけれど、「日曜だからいない」ってな展開は、おい、バカにするなよ、だよな。で、またしても少年はワガママをして主人公を試す。運転中のハンドルをいじろうとして、注意されてふくれる、のだ。みていていらいらする。「やめろ馬鹿者」と言って頭をポカリと殴ればいいじゃないか、と。でも、ヨーロッパでは、簡単にそうしないのかな。うーむ。この辺りは感覚の違いなのか、それとも、脚本家や監督も、障害者に遠慮しているのか。どつちなんだろう。 ラストはなんとなくお互いが分かり合ったかのようなところで終わってしまう。主人公が、息子に対して引け目がある(ように見える)からなか。こういう終わり方は、たんにはぐらかしているだけで、事実には迫っていない。とてもずるいと思う。 |