2006年12月

007/カジノ・ロワイヤル12/4上野東急監督/マーティン・キャンベル脚本/ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ポール・ハギス
面白い。ショーン・コネリーの頃のパターンでもなく、それをなんとなく踏襲した以後の作品とも違って"お決まり"を最小限にしている。冒頭のエピソードも添え物ではないし、トンデモ秘密兵器もでてこない。まずは激しいチェイスで惹きつけて、ヘマをするボンドを描く、ってのもユニーク。カジノでのカードゲームのシーンも、単調になっていない。とても上出来な映画だと思う。最大の理由は、ちゃんと人間が描けているからだと思う。女の前で殺人をも辞さないボンド。いままでの、オシャレで、汚れのないボンドとは大違い。自分の手で、ターゲットの首を絞めて殺していく。なんと生々しいことか。怪しい女とべたべたしたりすることもない。信じられるものは、自分の腕力だけ、ってな野性的なところ(ちょっと見はロシアの肉体労働者だよなあ)が、とてもよくでている。ヒロインのエヴァ・グリーンも、影のある存在をよくだしていた。
話のテンポも軽快。見ていて飽きない。のだけれど、いくつか分からないところもあった。1つは、ホテルの監視カメラの時間と携帯にメールが到着した時間を合致させるだけで、その発信元を確定したところ。いくらなんでも、それは無理なんじゃない? 2つめは、空港の職員通路に入るのに、M(ジュディ・デンチ)のところに電話して、そうしたら開いてしまったところ。なぜ開いたんだ? それから、エヴァ・グリーンは恋人を人質に取られて、テロの資金源であるル・シッフルの言いなりになっていた・・・てなことが最後に分かるんだけれど、そしたら話がおかしくないか? エヴァがシッフルに約束したのは、カジノですった金で、それを送ると確約したわけだ。でも、最初からボンドが負けるよう仕組めば、それでいいじゃないか。それに、約束した時点で、エヴァはパスワードを知らないわけで、どうやって送金しようと思ったのだろう? さらに分からないこともある。シッフルを殺したのは、誰? 最後にでてきたホワイトなる男? 彼が大元締めなのかい? でも、なぜシッフルを殺してボンドの命を救ったんだろう。それに、最後の最後でボンドの携帯にホワイトの電話番号が送られてくるけれど、あれは誰から来たの? それを知ってるやつって・・・?
リアリティを追究したような、この映画。そのせいか、ボンドはアクションはできるけれど、あんまり頭がいいようには描かれていない。まんまと簡単につかまってしまうし、自力で脱出することもできなかった。最後も、ホワイト氏にたどりつけたのも、自力ではない。それほどスーパーヒーローではなくても、こっちの方が生々しくて存在感があるね。CGもそんなに多くないみたいで、本物がひっくり返ったり壊れたりするところをなるだけ映している。そういうところも、好感度の一因かも。
まあでも、あまりやりすぎると、フツーのアクション映画と変わらない、なんてことにもなりかねない。007の映画である、というところを、どう維持していくか。難しいだろうけどね。
イカとクジラ12/5新宿武蔵野館1監督/ノア・バームバック脚本/ライフ・アクアティック
「ライフ・アクアティック」(見たはずなのだけれど、覚えていない。なぜなら、ほとんど全部寝てしまったからだ)に関わったやつが監督しているというので、爆睡するかもしれないな、と思っていた。ところが、なかなか面白くて笑えて、楽しめた。かなり偏向していて濃いところも、いい。
短く言うと、両親が離婚した家庭の物語。では、これが両親が離婚した家庭の一般例かというと、そんなことはないと思う。あまりにも家庭環境が特殊すぎる。夫婦で作家なのだ。女房は「ニューヨーカー」にも掲載される売れっ子。亭主は小難しい書き手で、昔は何冊か出版したけれどいまでは出版社に見向きされない。なので、大学で講師のようなことをしている。2人の仲はずいぶん前から冷え切っていて、女房は手近なところで浮気をしていた、らしい。それもコソコソではなく、亭主に当てつけのようにしていた、らしい。一方の亭主は知ったかぶりの自分は正しい間違っているのは世間だ!のようなやつ=60年代に学生運動でもしていたんじゃなかろうか=なので、女房の作品にもあれこれアドバイスするのだけれど、無視されてしまう。そんなこんなで臨界点に達して「離婚だ!」となってしまった、という次第。困ったのは高校生(中学生か?)と小学生の兄弟。一週間を一日おきに父親のところ母親のところと行ったり来たり。そのうち母親はテニス教師といい仲になり、父親も女学生を家に引っ張り込む。兄弟は次第に歪み始め、弟はビールを飲み始め、マスターベーション依存症となって、精液を図書館の本やロッカーになすりつける。兄貴の方は明白なる盗作(ピンクフロイド)で音楽コンテストにでる始末(だけど、この盗作は離婚の前に行っていたはずだ)。なのに、両親は、子供たちのことより自分のことしか考えていない見たいに思える・・・というようなストーリー。
登場するのは、イヤなやつらばっかりだ。両親ともにインテリで、父親はセラピーを受けることになった息子に、「きっとセラピストは学士しか持っていないだろう。うちは2人とも文学博士だ」なんいう始末。そんな俗物で、いいのかね。まあ、ごくフツーの家庭の離婚劇を描いても面白くないので、時代設定は1980年代で、インテリ一家にしたのかも知れない。いろんなエピソードや時代背景なんかは、分析してみればいろいろありそうなんだけど、なかなか尻尾をつかまえられそうもない。っていうのも、固有名詞なんかが意外と専門的というか、コアなんだよね。ゴダールの「勝手にしやがれ」のラストシーンのセリフがどーだとかモニカ・ビッティがどーだとか。1960年代に学生生活を送った連中、への皮肉だったりするのかな。 たとえばその、その後、マスコミに迎合してうまく立ち回った連中もいれば、できなかった連中もいる、というような象徴としてこの夫婦を登場させている、とか。でも、1960年代のことなんか、そんなにすぐは分からない。昔を思い返す、調べるかしないと、なるほどと分からないところが多いのかも知れない。まあ、それが分かったからといって、映画をより理解できるかという、それも疑問符なんだけどね。せいぜい時代性を再認識するだけのことなのかも知れない。
それにしても、あんな両親がいたら子供は大迷惑だよなあ。食事のときの会話にカフカだのフィッツジェラルドだのがでてきたり。息子を大学のゼミに連れ込んで、女性器がどーしたこーしたなんていう話を聞かされたり。それが知的なことだと(一部の)大人は理解していても、大概の大人にも迷惑な話で、ましてや、子供にはわけも分からないだろうにね。家庭でそんな文学談議なんかしていないで、遊園地へでも行ってアイスクリームを舐めていた方が、子供は幸せなのだよ。兄貴の方の想い出は、自然史博物館でみたイカとクジラの戦いの場面。そういうのが、子供心にずっと残っているわけだ。小理屈をこね回すような両親の想い出なんか、どこにも残りはしないのだ。だから、ラストシーンで、兄貴はそのイカとクジラを再体験しに行くわけだ。純真に母親に甘えることができた、かつての一瞬を求めて・・・。
パプリカ12/11テアトルダイヤ監督/今敏脚本/水上清資、今敏
30分ぐらいでつまらなくなってきて、だんだん眠くなってきて、1時間を過ぎた辺りで少し寝てしまった。で、理事長との対決の前には目が覚めたんだけどね。ストーリーもよく分からないし、絵もイマイチで、期待はずれ。まあ要するにドラマがないのだな。頭を使って考える部分がないと、俺はすぐ寝てしまう。
なんか、話は、というか設定が「セル」に似ていないか? あの、ジェニファー・ロペスの。いやまあ、基本的には違うかも知れない。「セル」では、殺人犯の脳の中に入り込んで、どこに誘拐したかを探るというような話だった。こっちは、夢の中に入り込むというか、入り込まれるというか、夢を介して人格を支配されるというのか。そういうような話だ。でも、その、千葉博士(=パプリカ)が、対決相手と交流(?)するときにベッドに横たわり、寝ながら戦うというところが、「セル」とか「マトリックス」を連想させてしまう。
で、最初は氷室とかいう同僚が犯人かと思わせておいて、実は理事長だった、みたいな話らしいけれど、俺は寝ていたのでよく分からない。なんでまた理事長が黒幕? なに、ちゃんと見ろって? いや、もういいよ、つまんないんだもん。分かりにくいし。そう。分かりにくいんだよ、設定と絵が。なんで千葉とパプリカが同じ人格なんだ? 刑事が夢の中に入っていくのにWebサイトから入り込んでいくっていうのも、なんかなー、変じゃないか? というわけで、いまひとつ説得力のない話で、俺は入り込めなかった。
それと、絵に迫力がない。どーしても「イノセンス」と比べてしまうのだけれど、あの、樺太の祭り(?)みたいなシーンの豊穣さ、緻密さ、絢爛さと比べると、あまりにもチャチ。登場する人形や人間たちはあまり動かないし、紙吹雪もケチっている。フレームの外にまで飛び出るような圧倒的なダイナミズムってーのが、まったく感じられない。せせこましく、正座しているような感じなのだよね。もっと、ぐぅぉーってな勢いがなければ、こっちは映像に酔うことなんかできやしない。絵のチャチさはそれ以外にもいろいろあって、全体的に動きはぎこちなく、コマを端折っていることが一目瞭然だ。
音楽は、なんとなく、よかったなあ。その音楽に映像が追いつくことができないでいる、ってな印象を受けた。いや、やっぱり基本的に話がしっかりしていなければダメだし、ドラマがなければつまらないし、“なるほど”と納得できる部分がないと、感動というか驚きにはならないよな。
硫黄島からの手紙12/13上野東急2監督/クリント・イーストウッド脚本/アイリス・ヤマシタ
"Letters from Iwo Jima"。制作はイーストウッドにスピルバーグ、ロバート・ロレンツ。原案はアイリス・ヤマシタとポール・ハギス。制作総指揮にポール・ハギス。・・・って、誰が一番決定権をもっているのかよく分からないんだけど・・・?
外国人が撮影した日本映画で、昨今話題。平日の第1回目にもかかわらず半分ぐらいが埋まっていた。凄いね。さてと。まずは違和感を感じたところ。日本の将官が現地赴任するときって、勲章の実物をああやってぶら下げていくものなのか? 略章とかいうリボン状のものをくっつけるのだと思っていたが、栗林中将は勲章とともに硫黄島に着任したのかな。栗林中将とバロン西が浜辺で再会するシーン。西は中佐、栗林は中将。いくら西洋かぶれで相通ずるところがあったとしても「やあ」「どうも」なんていう挨拶はフランクすぎないのかなあ? 兵隊の軍服がみなだらしないんだけど、上官は指摘しなかったんだろうか。日本映画では、まあ、南方での作業中なんかは上半身裸もあったけれど、戦闘時にはボタンを全部キッチリはめていたように思うのだけど。二宮和也は、厭戦指向として描かれているけれど、戦友とも「こんな島アメリカにくれてやれ」みたいな会話を軽々しくしているのがとても気になってしまった。あんなことを言っていたら古年兵に鋲のついたスリッパで殴られっぱなしではないのか? 洞窟内で元憲兵の清水を迎え入れるところも、日本の軍隊ではないような感じ。キチンと敬礼もせずだらだらと入ってきて、迎える方も「君はどこからきた」なんて世間話をしている。上官と部下の関係も、あの時期にはそんなにうるさくなくなっていたのかな? 二宮に召集令状が来たとき、妻の裕木奈江が国防婦人会のおばちゃんに不満をいうけれど、あんな態度をとったら即非国民扱いだよなあ。清水は犬が殺せなくて硫黄島送りになった、という設定だけけど、そんな気弱な青年が憲兵学校をよく卒業できたものだと思ってしまった(っていうか、犬がうるさいからって憲兵はしょっちゅう犬殺しをしていたように見えるけれど、そんなことがあるのか?)。卒業前に逃げ出してしまうのではないのかな? 手榴弾で自決するときは、兵隊が一人ひとり順番に爆死していくのか? 三八式歩兵銃を「ライフル」と呼んでいたけれど、敵性語をそんなに気軽に使っていたのか? とかね、いままでみた日本映画の日本兵、国状と比較して違和感を感じるところが少なくなかった。これは、真実に近いのか、それとも外国人が解釈した日本の実状なのか、俺にもよく分からない。
映画は、最初から淡々と進む。最初の方はヤマ場がない。栗林が硫黄島に着任し、他の将官の反感を買いながら海岸の塹壕堀をやめさせたり洞窟を彫らせたり、玉砕は認めないといって不満を買ったり、島民を本土に帰させたりという有様をスタティックに描いていく。あまり呆気ないので、もうちょっとドラマチックに描いて欲しいなあという気持ちになった。でもまあ、中盤から戦闘シーンが始まり、次第にどろどろとしてくる前兆としては、ああいう流れでもいいのかも知れないけど。でも、副官達の個性があまり上手く描けているとは思えない。もうちょっと個人に寄った描写が欲しかったところだ。これは全体にも言えて、個人に迫っているのは二宮と清水(元憲兵)ぐらいなもの。栗林、バロン西はさておき、伊藤中尉(中村獅童)は典型的すぎる日本軍人としてしか描かれていないと思う。
この映画の最大の欠点は、日本語のセリフが全体的に聞き取りづらいこと。次に、時間経過および日本軍の疲弊する過程があまりよく描けていないことではないかと思う。栗林がいつ着任し、何日間ぐらいで洞窟を掘り上げたのか? それに、宣伝文句では5日で陥落のところを36日間もたせた云々と書いているのだけれど、映画では一体何日目なのかが分からない。すり鉢山の陥落も、そうなっていった過程などが伝わってこない。攻撃によってどれぐらいの被害がでて、どこまで弱って、というのが見えてこないのだ。なので、いきなり「すり鉢山は陥落」となって、ええっ? つてな印象を受けてしまった。
それから硫黄島からの手紙、と謳っているにもかかわらず、手紙がどのようにやりとりされていたのか、が見えてこない。航空機で手紙が送られるシーンとか、その手紙を内地で読むシーンだとか。兵隊たちに手紙が配られる場面だとか、兵隊がこまめに手紙を書いているところだとか、そういうシーンをもうちょい入れると、泣ける映画になったのではないだろうか。
というような不満はあるのだけれど、とくに日本びいきに作っているわけではなく、「父親たちの星条旗」と同様、両国を平等に見ているという視点が保たれていることは素晴らしい。どちらの正義を支持するわけでもなく、個人としての人間に迫ろうとしていることは確かだと思う。残虐なのは日本兵だけではなく、米兵だって残虐行為をする。それを隠し立てしたりせず、バランスを取っていく。もちろん日本人を美化したりもしていない。アメリカにも日本にもいろんな性格の、いろんな思想に染まった人間がいる、ということを描いていると思う。最後の方で、米兵が日本刀や拳銃を戦利品としてせしめるところがあるけれど、ああいうのを見ると、新聞の「戦場で拾った日本国旗を返したいという元米兵がいる」何ていう記事を思ってしまう。まあ、極限状態ではいろんなことが起きるんだろう。怖いことだ。
それと、「父親たちの星条旗」のあのシーンで、日本兵はこうしていたのか、というのがいくつか分かるようになっている。なので、あっちを見てすぐにこっちを見ると、戦闘がより厚みをもって分かるようになっているつくりは、面白い。それと、着弾するシーンで、砲弾が、おそらくCGでだろうけれど描かれているのが、とてもリアルに見えた。ただの爆発ではなく、砲弾は降ってくるのだ、と思い知った。
すり鉢山の陥落で、兵隊たちに自決命令が出るのも、いまだから言えることだけれど、バカみたいなことだ。最後の一兵まで戦った方が効率がいいと思うけれど、生きて虜囚の辱めを受けるなかれ、潔く散れ、とインプットされていると、そうせざるを得なくなるわけだ。もちろん、二宮のように自決できずに逃げ出す兵隊もいたことだろう。でも、彼らは戦後何年たっても「生きて帰ってきてよかった」とは公言できなかったはずだ。そんなことをいったら、戦後であっても臆病者非国民呼ばわりされたはずだ。いまだって「あの硫黄島から生きて帰ってきた兵隊は、投降兵」なんていう人はいるはず。そういう思考をどこかで止めて行かなくてはいけないと思うのだけれど、この映画がそういう方向に力を働かせてくれるのだったら、素晴らしいことだ。しかし、日本が、日本人が末永く反映するため、といって死んでいった兵隊たちが、いまの日本の現状をみてどう思うのだろう。死ななきゃよかった、こんなことなら、と思っているに違いないと、俺は思うがなあ。
掃除屋トム/短編アニメ12/13ギンレイホール監督/マイケル・ドュドク・ドゥ・ヴィット脚本/---
"Tom Sweep"。オランダ映画。2分30秒。アニメ。通行人がゴミを無神経に捨てることを戒めるような物語。モラルの低下は世界中どこでも同じなのだね。
お坊さんと魚/短編アニメ12/13ギンレイホール監督/マイケル・ドュドク・ドゥ・ヴィット脚本/---
"The Monk and the Fish"。フランス映画。6分30秒。アニメ。是が非でも池の魚をつり上げたいと、強迫観念に駆られてしまった僧の話。欲望に取り付かれる宗教者を皮肉ったものかな?
岸辺のふたり/短編アニメ12/13ギンレイホール監督/マイケル・ドュドク・ドゥ・ヴィット脚本/マイケル・ドュドク・ドゥ・ヴィット
“Father and Daughter”。イギリス・オランダ映画。8分。父親と幼女が岸辺で遊んでいて、父親がボートでどっかに行ってしまう。幼女は少女になり、母になり、老婆になりながらも、折に触れ岸辺にやってくる。そのうち川は干上がって野原になり、老母が草むらに入り込むと、そこに朽ちたボートが一艘残されていた。老母がそこに丸くなって寝ころんでいると、彼女はどんどん若返っていく。少女となって起きあがると、そこに父親が待っていて、抱き合う・・・というよく分からない話。父親は死んでしまったということなのか、どこかへ出奔してしまったということなのか。その辺がわからないので、いまひとつだな。ただし、幼女も次第に年老いて老婆になっていく、人間はその繰り返しだというところは、よく伝わってきたけどね。
恋は足手まとい12/13ギンレイホール監督/ミシェル・ドヴィル脚本/ロザリンド・ドヴィル
"Un Fil a la Patte"。フランス映画。IMDbでUn Fil a la Patteを検索したら、1914、1924、1933、2005がテレビと映画、合計5本でてきた。作者はGeorges Feydeau(1862-1921)。するってーとこれは古典なのか。舞台劇かな? ジョルジュ・フェドーなんて知らなかったけど。ま、いいや。で、ストーリーはよく分からなかった。エマニュエル・ベアールが泣いているところから始まって、いろんな男が訪ねてきて。で、逃げたと思っていた男が戻ってきたと知るや部屋に入ってばっこんばっこんやりまくり(映像ではでてこない)。新聞には劇評が・・・って、ベアールは役者か? で、男は一体だれなんだ? 誰かと結婚とか新聞にでているが? というような塩梅で、名前がたくさんでてくるし説明不足だしで、どういう設定で誰と誰がどーしたこーしたという設定が分からなすぎ。なので、いつのまにか寝てしまった。20分ぐらい寝たのかな。気がつくと一同が庭に出て行くようなところで、またまた庭でもすったもんだ。で、場面変わってどこかの一室で男が風呂に入ろうとして・・・。いろんなやつが訪れてきて大騒動。ベアールも訪ねてきて、またまたばっこんばっこんやりまくり。今度は映像でも見せている、といっても裸ではなく真似だけでリアルではなくコミカルにだけど。でもって、何かよく分からないうちに大団円。うーむ。なんだかよく分からない。字幕が足りなすぎるのか、それとも、もともとの映画が端折りすぎなのかな。ベアールは、歳をとったといっても、まだまだエロ可愛い。セックスシーンだの相変わらずサービスたっぷりで、大女優なのにエライねえ。
親密すぎるうちあけ話12/13ギンレイホール監督/パトリス・ルコント脚本/ジェローム・トネール
"Confidence Trop Intimes"。フランス映画。とても面白かった。オープニングからサスペンスタッチで、音楽も怪しい。セラピー医と間違って税理士事務所に入ってきた女性アンナ。アンナは夫に悩んでいる様子。税理士も、実は・・・とうち明けられるまま話を聞いてしまい、次第に女の虜になっていく・・・。さあ次はどうなっていくんだ? という具合でぐいぐいと引っ張っていく。でも、何かある何かあると思わせておいて、実はとくに何もないのだよな、これが。最後まで大した秘密もないのに、90数分持たせてしまうのだから、不思議な面白さだと思う。
で、よく考えてみると、ストーリー自体は別にサスペンスじゃないのだよね。コミカルな演出だって十分できる内容で、そうすればロマンスコメディというくくりだってできないことはない。なのに、あえて怪しいサスペンスを狙ったところが、大正解だね。とても面白い出来上がりになっている。
脇の連中もユニーク。税理士事務所のワケありオバサン秘書。同じフロアの、実はそっちに行くはずだったセラピー医、そこにかかっている閉所恐怖症のデブ男、下のフロアのメロドラマ好きのオバサン、税理士のちょっと前の彼女、その彼女の今のボーイフレンド、女の亭主・・・。みんな、ちょっとずつ怪しくて、ワケあり人物たちで、楽しめる。税理士役のファブリス・ルキーニという男優はそれほど魅力的ではないのだけれど、ちょっと奥手で正直なごくフツーの男をよく演じている。アンナ役のサンドリーヌボネールは、ちょっと厳つい風貌なんだけれど、見ていくうちにじわじわ魅力的に思えてくる。最後まで手を握ることもなく、キスをするわけでもないのに、恋の深みにはまっていく中年男女の奇妙な偶然のお話。手持ちカメラでゆらゆら揺れるのは、税理士の視線だったりアンナの視線だったりするからだろうか。ラストの真俯瞰のシーンも不思議。ここに至っても音楽はハッピーにならず、冒頭と同じ様なサスペンス感が漂っている。まだ、何かありそう、と思えてしまう不思議な終わり方でもある。
お坊さんと魚/短編アニメ12/15ギンレイホール監督/マイケル・ドュドク・ドゥ・ヴィット脚本/---
"The Monk and the Fish"。フランス映画。6分30秒。アニメ。「恋は足手まとい」をみるついでに見た。アニメ3本と「恋は足手まとい」は連続して上映されるので、どうしてもこうなってしまう。もっとも、上映時間に遅れたから「掃除屋トム」はエンドタイトルだけしか見られなかったけど。
岸辺のふたり/短編アニメ12/15ギンレイホール監督/マイケル・ドュドク・ドゥ・ヴィット脚本/マイケル・ドュドク・ドゥ・ヴィット
“Father and Daughter”。イギリス・オランダ映画。8分。しかし、父親はボートを漕いでどこへ向かったのだろう。死んだ、という象徴ではないような気がする。葬式があれば、子供でも納得できると思うし。離婚してどっかに行ってしまったのか、何らかの旅にでたのか。さて、何を象徴しているのだろう? ラストの再開は、老婆になった彼女の夢の中、なんだろうと思うけど。そうそう。そういえば、父親の自転車は、父親がいなくなってからも数年はあの場所に停めてあったんだね。
恋は足手まとい12/15ギンレイホール監督/ミシェル・ドヴィル脚本/ロザリンド・ドヴィル
"Un Fil a la Patte"。フランス映画。公式サイトなどであらすじを読んだので、初回よりは理解できた。寝ていたのはどーもやっぱり20分ぐらいで、最初のベアールの家の後半と婚約式の最初の部分だった。2度目であること、あらすじを知ったことで理解しやすくなったけれど、1回で全部分かれというのには無理があるかも。よーく読んでいればセリフにちゃんと言われてはいるのだけれど、ちょっとしか言われていなかったりするところもある。その、例の戯曲のセリフをそのまま使っているのかな? もっと分かりやすく変えてもいいんじゃないかと思うんだが。それと、中盤だったか、口のクサイやつがポケットから携帯電話みたいなのをポケットから取りだして耳にあてるんだけど、あれは何なんだ?
敬愛なるベートーヴェン12/15新宿武蔵野館1監督/アグニエシュカ・ホランド脚本/スティーヴン・J・リヴェル、クリストファー・ウィルキンソン
原題は"Copying Beethoven"。これは事実なのか? 公式ページを見たら、ベートーベンの写譜師というのは3人いて、その3人目は男女はっきりしないらしい。で、仮に作曲家志望の若い女性だったら・・・という仮設に基づいているみたい。そうだよなあ。こんな若い女性が聾のベートーベンを支えていたなら、もっと一般的に知られているはずだよなあ。
というわけで、老いぼれ写譜師の代わりに派遣されたのは、音楽学校を首席で卒業したアンナ。一方、自分は神に近い創造者といって横暴を極めるベートーベン。このぶつかり合いが、ちょっと面白くなりそうな予感を感じされてくれたのだけれど、クライマックスといってもいい第九の演奏が最大のドラマで、あとはほとんど面白くなくなってしまう。ベートーベンは、モーツァルトと違ってドラマのない人だったのかね。かなり中途半端なシナリオだと思う。
冒頭では、アンナが馬を走らせて瀕死のベートーベンのところへ向かう。で、一転してアンナが新任写譜師としてウィーンにやってくる。時間が遡っているわけだ。それはいい。が、しかし、ラストに近いところでベートーベンがアンナに体を洗わせるシーンは何を意味するのか? その後の、アンナが草原のようなところを歩くのは、いつのことなのか? 冒頭につづくベートーベンの死にづくのか? その辺りの時制がちゃんと分からない。それから、第九の演奏でアンナが舞台中央のへこみから指揮するベートーベンに向かってタイミングを送るのだけれど、あれは、観客から見えても問題ないものなの? 俺はクラシックを聴きに行ったことがないので知らないのだが。
アンナ役のダイアン・クルーガーが、知的な美しさを発揮させて、よろしい。エド・ハリスのベートーベンも、なんとなく似ていたりする。後はベートーベンの甥と、アンナの恋人の建築家、老写譜師ぐらいしか登場しない。ベートーベンには敵がそんなにいなかったということなのかな。
もしも昨日が選べたら12/18ギンレイホール監督/フランク・コラチ脚本/スティーヴ・コーレン、マーク・オキーフ
原題は"CLICK"。仕事に家庭に忙しい亭主。早く会社のパートナー(副社長かな?)になって、家族にゴージャスな生活をさせてやりたい。その代わり、家族とのキャンプも団らんもそっちのけで仕事だ! という塩梅なので、疲れ切ってしまう。で、あるときホームセンターにいいって、その別室に行ったら万能リモコンを手に入れて、過去の人生を巻き戻して見たり、面倒事を早送りしたり、嫌なやつはポーズボタンで停めておいて殴ったり・・・。で、いつの間にか自分の知らぬ間に1年経ってしまったり、10年経ってしまったり。得るものもあったけれど失うものも多かった。こんなことなら家庭を大事にするんだった、というよくある話だ。前半は"たられば"物語で、自分の欲望をリモコン使ってこなしていく。のだけど、リモコンのメモリ機能が利用者のクセを記憶してしまう、なんていうところがユニーク、かな。でもって、ラストが一炊の夢であるのは早々に分かってしまう。でも、ラストシーンでは、使ったリモコンが再び登場して、あれは夢ではなく実体験だったんだぞ、と思わせるところもあるんだけど。
前半はバカ話のコメディ。アヒルのぬいぐるみと交尾する犬が登場したり、下品な部分もあるけれど、よく笑える。ところが、後半になって主人公がリモコンに振り回されるようになると、話ががぜん重苦しくなってきて、笑えなくなってしまうのだ。そして、その笑えない部分が延々とつづくので、ちょっとうんざりしてきてしまう。「もう、わかったから!」と言いたいぐらいくどいのだ。いくらラストで「あれは夢だった」と分かるにしても、ちょっとなー。
主人公は建築家で、日本企業のビルを請け負う。テレビを見ていると松井が場外ホームランを打ち、日本企業との会食ではイチローの名前がでてくる。あともう1つぐらいあったような気がするけれど、日本がずいぶん登場する。日本市場を意識してのことなのかな?
奥さん役のケイト・ベッキンセイルがなかなか美人だった。で、そういう彼女が、セックスをするのに、ベッドでなんとかの扮装をして待っているから、なーんていうのだよ。ううむ。コメディにしては下ネタが多くて、子供には見せられないかもね。
タイトルの「もしも昨日が選べたら」っていうのは、誤解のもとだと思うな。この映画では、過去に遡って(タイムワープして)人生をもういちどやり直す、ということは描かれていない。主に、面倒事の早送りが描かれている。これは、過去を選べるという訳ではないので、タイトルに偽りありだと思う。
あるいは裏切りという名の犬12/21銀座テアトルシネマ監督/オリヴィエ・マルシャル脚本/オリヴィエ・マルシャル、フランク・マンクーゾ、ジュリアン・ラプノー
原題は"36 Quai des Orfevres"。見はじめて、背景がよく分からなそうなのと、人物が見分けが付きにくそうなのと、登場人物の名前を覚え切れなさそうなので、不安になった。でも、結局はこんがらかることもなく、人物を取り違えるようなこともなく、最後まで見られた。しかも、面白い。脚本がしっかりしているし、人物もよく描けている。内容も、ちょっと陰湿だけれど、興味深い。
警察内部の権力闘争で、負けたやつが勝ったやつに復讐する話だ。でも、ヴリンクス(ダニエル・オートゥイユ)の方が正義に近くて、クラン(ジェラール・ドバルドュー)の方が卑怯者だ、という図式でとらえたような内容になっている。でも、よーく考えると、どっちもどっちってなところだと思う。そもそもドパルドューの悪人ぶりはたいしたことがない。私利私欲というより、立身出世名誉栄達。相手を罠にかけると言うような知的なものではなく、勇み足だったり先走りだったり隠し事だったりする。悪党と言うほどのこともないワルで、案外と小心者なんだよね。だから、そんなに憎めない。
見終えて、家に戻り、Webページを見たら宣伝惹句に「かつて親友だった。同じ女を愛した。今はただ敵と呼ぶのか…。実話に基づく、激しくも切ない宿命の物語」と書いてあった。「ええっ?」と思った。映画は退職寸前のエディという老刑事の送別会から始まって、翌日、2人は現金輸送車強奪事件の現場へ行く。そこに、クランがいて、ここでもう仲が悪そうだ、と分かる。で、そうなった経緯は描かれていない。親友だったこと、同じ女を愛したなんて過去は、ほとんど描かれていなかった。いや、もっと驚いたことがある。元娼婦の婆さんはミレーヌ・ドモンジョなんだと!! げげ。あの可愛い娘が、あんなになっちゃうのかよ!!
肝心の部分が描かれていなくても、それでもまあ、話は興味深く転がっていく。2人が追う現金輸送車強奪事件。ヴリンクスを利用して裏切り者を殺したヤクザな男。それから、ヴリンクスの友人の元娼婦をいたぶった謎のグループ。このグループとの対立が最後までかかわってくるのだけれど、異なる事件が絶妙に絡み合って話が進んでいく。この展開は、見事。なんだけど、やっぱりフランス映画だなと思わせる叙情的な映像も、とくに、妻や子供との関係などにあったりして、いい雰囲気をつくっている。のだけれど、どこかで合理性をないがしろにしてしまっているところがあって、歯切れが悪かったりする。まあ、それも含めてフランスのノワールなんだろうけど。
いささかの説明がもう少しずつ加えられていたら、もう少しカリッとした映画になったかも、たとえば、ヴリンクスはBRIで、クランはBRBという所属になっているけれど、いったい何なんだよ、そのBRI、BRBって。あの、謎のグループは何で元娼婦に乱暴をふるったんだ? 親友で同じ女を愛した? はっきり表現しろよ、である。そういう部分が描き加えられていたら、もっとスリリングで胸を打つ映画になったかも知れないと思う。
ラストが、よく分からなかった。昔の部下が謎のグループに殴られて意識不明。ヴリンクスは誰かに電話する。あれは、女刑事への電話だったのかな? 名前を言っていたはずだけど、咄嗟に分からなかった。で、パーティでヴリンクスはクランに銃を向けるのだけれど、撃たない。撃たないのは、最初から計画済み? たんに、それだけだったのか? で、ヴリンクスを追って道路に出たクランを、バイクに乗った連中が射殺。これは、謎のグループなんだろう。謎のグループに襲われた元刑事が、かつて謎のグループの1人に脅しをかけたときに一緒にいた刑事として、クランの名前を挙げたから、こうなったんだろう。でもさ、なんか、偶然にしては都合がよすぎないか? もしかして、ヴリンクスはクランを道路までおびき寄せたのか? では、ヴリンクスは謎のグループに通じていたのか? ううむ。その辺りがスッキリしない。DVDで繰り返してみれば分かるのかも知れないけど。分からないのが、ちょっと悔しい。
11時30分の回だったけれど、10分ほど前に行ったら並んでいた。整理券の番号は80番。客はあとからもどんどん入ってきて、前から4列目の左通路側で見た。画面が大きすぎて、字幕を読むのがたいへんだった。
鉄コン筋クリート12/28新宿ミラノ3監督/マイケル・アリアス脚本/アンソニー・ワイントラーブ
緻密で情報量の多い背景が素晴らしい。それを見ているだけでも楽しめる。そこにシンプルで稚拙なキャラクターが動き出すが違和感はない。ときどきシロが見る夢が水彩画か油絵のようなタッチで表される。この夢のトーンは違和感があってあまり好きじゃない。
時代設定は得体が知れない。占いにこだわるヤクザの鈴木が手にしていた占い本の表紙の文字が昭和40年代に読めたけれど、どうなんだろう。中国、タイ、インド、日本のチープさが混じり合った風景の中に昭和30〜40年代のレトロなクルマや市電、看板広告、建築群が溢れている。この不思議なミスマッチがとてもいい感じ。そこを縄張りにする15歳ぐらいのクロと11歳のシロの2人の少年がいて、さらに暴走族風のチンピラ集団がいて、さらに、昔風のヤクザが絡んで話が転がっていく。…という前半の60分ぐらいはまあまあ見られた。しかし、蛇という男が突然のように登場してからは次第に話がつまらなくなっていく。蛇の野望は何なんだ? 蛇の配下の3人の戦士は何なんだ? ヤクザ一派の内輪もめは納得できる人情話だけれど、ヤクザ一派と蛇グループの関係(利害関係の対立)がよく分からない。それに、クロとシロは別に正義の味方でもないだろうに(子供の城建設反対運動をしているわけでもない)、蛇がクロとシロを執拗に追う理由も分からない。さらに、クライマックスでクロが2人の戦士に追いつめられたとき、突然、得体の知れないのが登場して2人の戦士を簡単にやっつけてしまうのも「何?」だよなあ。瀕死のクロと、離れたところにいたシロが波長をシンクロさせて生み出した存在、とでもいうのか? 何なんだよ、あれは。
クロとシロ。見るからに相反する存在でもあり、また、補完関係を示唆しているのだろう。この映画のシロとクロも、2人で1人前。バラバラになると力を失ってしまう、みたいなところがある。そういう、露骨に見える意味論は、はいはいそうですか、と理解できるのだけれど、後半からクライマックスにかけては観念論の世界にどっぷり浸かってしまっていて、ちょっとついて行けない。
そもそも、子供の城計画がいかに悪であって、それで儲けようとしているやつが誰と誰で、それにクロとシロが刃向かった、とでもいうような図式が明確に提示されていないのでスッキリしないのだ。いや、たとえ提示されたとしても、無批判に「そーだそーだ、がんばれ」とも言いにくい。だって、そんな程度で対立して何の意味があるんだよ、と言いたくなってしまう。子供の城のどこが悪いのだ? たとえば子供の城が子供たちを食べてしまうとか、そういう奇想天外なこともないんだろ? それにクロとシロは宝町を守るというような高尚な思想を持っているわけでもないだろ。なのに、意味不明な子供の城との対立図式になってしまっていて、スケールが広がらない。「なーんだ」の拍子抜けである。なわけで、後半はとても眠くなってしまって、やっと目を開いているといった状態だった。
音がブツブツと、何回か途切れたようになったのが気になった。故意なのか、上映環境のせいなのか。どっちだったんだろう?
キンキーブーツ12/30ギンレイホール監督/ジュリアン・ジャロルド脚本/ジェフ・ディーン、ティム・ファース
「フルモンティ」の系譜につらなるイギリス映画。「ブラス」「リトルダンサー」なんかも同類だろうと思うけど。老舗の靴屋。親が死んで工場を受け継いだら経営難で従業員を大幅首切り。たまたま出会ったオカマの黒人ローラのブーツに目をつけて、それで復活するという話。予告編を見ていたので内容は分かっていた。ローラが店に乗り込んできてデザインを始める前までと、ミラノのショーの部分は面白い。けれど、ローラが店に来てからの部分がつまらない。なぜローラがいきなりデザイナーになってしまうのか? その部分が説明されていない。
オカマ用の靴をつくるだけ? のような描き方だったけど、そういうわけでもなかったのね、とミラノのシーンで気づいた。要は伝統的紳士靴一本槍からファッション性の高い女性用流行靴に方向転換した、ってことだよな。なのに、オカマ靴の印象が強すぎる。その辺りのビジネス戦略をバサッと省略しているから、倒産間近の工場が復活する、という印象が乏しい。やっぱりこういう映画は、成功した、という印象を与えてなんぼだ。狂言回しのオカマがうろうろし過ぎるのは及ばざるが如し。本来の骨格の部分をしっかり見せるべきだったろう。ミラノのショーの後も、では本当に靴は売れるようになったの? という疑問符がついたままだ。かなり舌足らずといってよい。
大手スーパーではチェコだかスロバキアの安い靴が売れているというシーンがあった。プライス社の靴は一生モノだ、といっても消費者はそんなものに興味はない。履き捨ての方が都合がいいぐらい。…という状況は日本だけではなく、伝統国家イギリスでも同じなのだね。英国紳士はいまいずこ?
若き経営者プライスの婚約者が登場するけれど、ロンドンでは同居しているの? 結婚式間近という描写があったのに、ミラノに出品するために自宅を抵当に、という部分もあった。ってことは、いつのまにか2人は新居を購入して同居していたのか? ってことは結婚していたのか? その辺りの説明が足りない。で、この婚約者役の女優がしゃくれアゴであまり美しくない。この嫌われヒロインの他に、従業員の貧乏娘が登場する。なんか、人物配置としても典型的なパターンで意外性がないけどね。で、このヒロインの方も大して可愛くない。イギリスの下層階級風の顔立ちで、安物のジュディ・ガーランド風。やっぱ、ヒロインは美しいまたは可愛いじゃないとなあ。
トランスアメリカ12/30ギンレイホール監督/ダンカン・タッカー脚本/スティーヴン・カツミアスキー
性同一障害をロードムービーで見せていく映画。そこそこ面白いんだけど、なんだか凄く長い映画のように思えた。調べてみたら103分らしいけれど、2時間以上の映画を見たような気分にさせられた。時を忘れるような映画じゃなかった、ってことなのかな。
見終わってWebで知ったんだけど、主人公を演ずるフェリシティ・ハフマンは女だった!?(亭主はERのモーゲンスタン部長役のウィリアム・H・メイシーらしい)うへー。どーみても男にしか見えなかったけどな。だって、最初のカウンセリングのシーンで、ああ、オカマの映画か、って思っちゃったもん。いや、凄い演技だ。声は本物なんだろうか? うーむ。もっとも、フェリシティ・ハフマンを知らなかったこちらが悪いのかも知れないけどね。
N.Y.からL.A.へ、教会の女ブリー(実は父親)とチンピラ少年トビー(実は息子)がボロ車で旅をする。その過程でトビーの実家に立ち寄ったりヒッピーにクルマを奪われたり優しいメキシカンに出会ったりブリーの実家に立ち寄ったり、いろんな出来事が起こる。けど、映画が終わってみれば実は何も変わっていない。ブリーは当初の予定通りチンポコを切り落として女性としての道を歩きはじめるし、トビーはたまにケツを使った売春をするし、いまの仕事はポルノ俳優。トビーの、ブリーへの反感と嫌悪は最後に薄らいではいるけれど、同居するような気配はない。少年は少しはオトナになったけれど、なんだか、いろいろ壊れたまま、それでも世界は廻っている、みたいな終わり方だ。
いろんな要素がごった煮のように混じっている。電話セールス、ドラッグ、性同一障害、カウンセリング、青少年非行、義父による幼児への性的虐待、インディアン問題、メキシカン問題、同性愛売春、ユダヤ人の成金、性転換…。これがアメリカだというのをロードムービーで見せていくのが面白い。音楽も、テキサスだったらカントリー、ニューメキシコならメキシカンっぽいメロディと、旅をしているって感じがよく出ている。
大学生のときにたまたま1度女の子とセックスして、そのことをすっかり忘れていまはオカマ。もうすぐ手術というとき、あんたの息子が窃盗でつかまっているので引き取りに来い、っていわれりゃ焦るよね。なのでブリーは自分が父親だと告白できずに教会から来た、と言ったんだろうけど。で、その言葉を信じてN.Y.からL.A.までついてくる17歳の少年トビーも、そんなにワルではないんだろうな。逃げたりしないのだから。で、女だと思っていたブリーを、あるとき男だと知ってしまう。ブリーの立ち小便は笑えた。で、ブリーのチンポコを確認したトビーなんだけど、次のシーンではブリーが近々手術をすると知ってしまっている。これって、ブリーがトビーに言わなけりゃ分からないことだよなあ。なんか変。で、うざったく思っていたブリーに、あるとき「セックスしたい」と迫っていく。これは何故なんだ? トビーは同性愛者として開眼してしまったのか? うーむ、遺伝なのかね、と思ってしまった。あそこは、もう少し無理のない好意を描いてからの方がよかったんじゃないのかな。でまあ、この息子から父親へのアプローチがあって、ブリーはやっと「父親だ」と告白するわけだけど。
駄洒落が多用されているらしくて、字幕でも苦労の跡が見えた。実は、重要な内容がセリフに込められているのではないか、と思うことしばしばだ。他にも、ブリーの実家での会話に、言葉に英語読みのルビが書かれていることが多かったんだけれど、これは意味があるからそうしているんだよなあ。たとえば、食事の前のお祈りとかもそうだけれど。で、あとからブリーの家は父親がユダヤ教ということが明かされるけれど、セリフの中のもろもろは、ユダヤ教であることを示唆していたということなのかな。うーむ。短い字幕で多くを伝えるのは難しいかも知れないけれど、ネイティブならピンと来るようなところで、日本版ゆえに面白がれないところも多かったような気がして、ならない。

 
 

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