2007年2月

それでもボクはやってない2/6テアトルダイヤ監督/周防正行脚本/周防正行
話題の裁判映画だぞ。ムダのないシーン、必要にして十分なショットを焦らず丁寧に積み重ねていく手法は相変わらず。盛り上がりの少ないように思われる素材も、この監督の手にかかるとハラハラドキドキの物語に変わってしまうのだから、素晴らしい。注目すべきは法廷シーンで、なかなかにリアル。ここ数年、ときどき傍聴に行くのだけれど、あのかなりいい加減で分かりにくく「?」の多い裁判の空気をよくつたえていると思う。これまでの法廷ものの映画にあるような、緊張とサスペンスなんていうようなものは、ほんとうの法廷にはあまりないのだよ、実は。
えん罪事件を追いながら、現在の司法の限界を要所でちくりちくりと指摘しているのも、効果的。一方的な警察の取り調べ。ときに脅し、なだめながら、勝手な調書をつくりあげるところなんか、とても怖い。そして、真実を明らかにするより罪を認めさせることの方に力点を置いているふてぶてして検察の人々。木村拓哉の「HERO」と比べてみると、面白いだろうね。それと、拘置所内の生活もはじめて分かった。あの、法廷に出てくる人々がどんな生活を強いられているか、それを明らかにしてのも重要だ。傍聴しているだけでは分からない、裏の姿が見えたのだから。それにしても、法廷に引き出されるのはまだ容疑者であって犯罪者ではないのに、明らかに犯罪者扱いされている実態は、恐ろしい。ああいう場所では口答えもできないだろうし、反抗すれば心証を悪くするだけということもあるだろう。容疑者の扱いがあれでいいのか、ほんとうに考えなくてはいけないと思う。
それから、裁判官が替わってしまったというのも、鋭い。無罪判決を出す(検察や警察の顔をつぶし、権力機関に刃向かう)裁判官が地方に飛ばされるというのは、どこかで読んだか見たかで知っていた。まさに、そういうケースとして描いているのも、実態をえぐる意味では有効だろう。後任の裁判官が明らかに検察に肩入れしているような話しぶりだったりするのも、観客の怒りを倍増させる。いやほんとうに、検察や警察のやり口には、ずっと腹立たしくむかつく描写ばっかり。こういう気持ちにさせてしまうんだから、映画としては成功しているとしかいいようがない。
実際の裁判で、検察と弁護士が争っている場面に出くわすのは、まれ、というか、ほとんどない。たいていの場合は容疑者が罪を認めていて、検察も弁護士も、容疑者に同じ様な質問を繰り返す。そして、最後は定型文書のような、大げさなレトリック満載の情状酌量を求める論告・求刑が検察官によって行なわれ、弁護士側は情状酌量を求める。最後に裁判官が容疑者に、「なにか最後にいうことは?」と聞くと、容疑者は「悪かった。もうしない」という。そして、社会に戻ったら働く場所があるかとか、どうやって生活するかといったことを聞く。そこで反省しているような態度を表面的に見せないと、裁判官の心証が悪くなる。だから、罪を認めている容疑者は「悪かった」と口にする。もう、あれは儀式のようなもの。毎度お馴染みのワンパターンだ。さらに、自分で主義主張をしようとすると、必ず「聞かれたことだけに応えろ」といわれる。検察は、刑務所が矯正機関だという。でも、ホームレスで賽銭泥棒をした70歳の爺さまをつかまえて、矯正機関に送るのが相当、なんて平気で言う連中を見ていると、こいつらアホじゃないかと思えてくる。こんなことで裁判沙汰になるのか? というようなケースも少なくなくて、たまたま捕まったのが運が悪い、ってな風にしか思えない事件もある。自分が、傍聴席のあちら側にいても、おかしくないかも、と思う人はきっと少なくないだろうと思う。裁判所の日常は、そんな事件のオンパレードだ。
といっても、これは映画だから、些細なこともドラマにしなくてはならないし、派手な争いはなくてもちゃんとドラマになっていた。見応えがあるといってよいと思う。もっとも、最後まで腹がむかむかして、最後の判決でまた驚いた。おお。無罪にならないのかよ、あれで。うーむ。考えちゃうよな。映画なんだから最後はスッキリさせてくれ、と思ったけれど、タイトルを見てなるほどと思った。下されたのは、有罪判決。「それでもボクはやってない」なのだなと。
欧米並みに取り調べはすべてビデオで撮影するようにするのは言うまでもない。そうでなくては、警察の、何が何でも自白させてしまおうというやり方を止めることはできない。さらに、検察が、自分に有利になるよう証拠を出さないというのが駆け引き、で済んでしまっていいのか? 逮捕後に弁護士や家族に連絡できることを警察が説明しない、など、様々な現在の司法の問題に正面から堂々と取り組み、ちゃんと娯楽作品にも仕立て上げた手腕は、さすがだと思う。でもやっぱり、最後はスッキリしたかったなあ。
こうのとり、たちずさんで2/12東京芸術センター Blue Studio監督/テオ・アンゲロプロス脚本/テオ・アンゲロプロス、トニーノ・グエッラ、ペトロス・マルカリス
1991年の作品。つまんねえ。何をいいたいのか分からない。長すぎる(144分)。それに、最近の、話の展開が早い映画を見慣れた人間には、まどるっこしすぎる。セリフが思わせぶりで分かりにくい。時代・歴史的背景の説明がほとんどないので、前庭として知識(ギリシア、トルコ、アルバニア辺りの1990年頃のこと? クルド人迫害?)がなければ、分からない。でまあ、こういう背景を描き足したとしても70分もあれば言いたいことはすべて語れるだろうな。叙情的な部分も、もったいぶっているだけなので、要らないと思う。
ソ連崩壊につらなるユーゴスラビア分裂→難民がギリシアに流入?(のことでいいのかな?)というのが卑近な時代なら、ああ、あのことかで通じるんだろうけれど、もう17年も経っている。ただでさえ分かりにくい地域なのに、説明なくして余計に分からない。物語も分かりにくい。政治家にして作家だった人間(マルチェロ・マストロヤンニ)が突如失踪。たまたま難民を取材していたディレクターが撮影した映像の中にマストロヤンニを見つけ、元の妻(ジャンヌ・モロー)に連絡。その出会いシーンを撮影しようと目論む。まあ、それはいい。けれど、現地の酒場で若い娘に誘われて一夜を過ごしたのはいいけれど、その娘がマストロヤンニの娘だったり、その娘が川を境にした対岸の青年と結婚するという展開には「なんだこれ?」としかいいようがない。
決して難解な映画なのではない。判断材料が提示されていないだけのことなのだ。それで、勝手に解釈しろとでもいうのだろう。かつての、あまり語り過ぎない映画づくりの実態が、時代を経るとこんな有様になってしまう。政治的な内容であったとしても、語るべきことは語らないと、観客には通じなくなってしまう、という恰好の例だと思う。思わせぶりのシーンも数多く、でも、とくに読み解く必要もないようなものばかりで、退屈を加速させるだけのこと。なんとか寝ないで過ごせたけどね。
東京芸術センター Blue Studioは初めて入った。階段椅子が収納式らしく華奢で、床がぎしぎしいう。椅子は背もたれが低い。前方の椅子は簡易椅子が並べられているだけ。まあ、それも許そう。許せないのがスクリーン。横に2本つなぎ目がクッキリ。さらに、上下にシワが無数に寄っている。上映終了後に近づいてみたら、どーもビニール系統のスクリーンらしい。上下に引っ張られるテンションで、ワカメになっているようだ。このスクリーン、左右にカーテンがなく、上下もそのまま。だから、上映画面の上下左右がボケ足になっているのだ。これも気になってしまった。ま、金を取って映画を見せるような環境にないということだけは確かだと思う。
フリーダムランド2/16新宿武蔵野館2監督/ジョー・ロス脚本/リチャード・プライス
アメリカ社会に残る根強い黒人差別を扱った映画なんだけれど、いろんな要素が詰まっていて一筋縄ではいかない。映画は終わっても、問題はひとつも解決していない状態で放り出される。こういう問いかけの映画がつくられなくてはならないアメリカの現状がまだあるということだ。表面的には黒人をはじめとする有色人種の地位も向上しているように見えるけれど、ほんとうはそうではないのだよ、ということなのだろう。そうして、差別しているのは権力などの公的機関ではなく、一般の市民クラスの人々なのでもあるということだ。で、そういうフツーの市民グラスの人々が、警察などの公的機関で力をもつと、差別も露骨になってくるわけだ。まったく差別というやつは根が深い。
ジュリアン・ムーアの息子が誘拐された。ジュリアンの設定は複雑で、元ヤク中、兄は警察官、黒人の多い団地で保育園(?)教師のようなことをしている。そして、幼い息子との母子家庭というもの。つまり、彼女は黒人に偏見をもっていない(らしい)。その彼女の息子が件の団地内で誘拐されたのだ。担当するのは団地に知り合いの多いサミュエル・L・ジャクソンで、ハナから事件は狂言と見ている。が、ジュリアン兄が団地を封鎖して犯人を逃がさない対応を取る。知性ある冷静な黒人と、バカでマヌケな白人の対立構造がまずあって、黒人住民対警察の対立もある。サミュエルは警官だけど黒人なので、団地の住民との間で板挟みになるという具合で、こういう設定はとても興味深い。さらにここに絡むのが誘拐された子供を救う会、みたいな団体で、誘拐事件発生と聞きつけるとさっそく接近してくるのが凄い。実際にこういう団体があるのか知らないけれど、アメリカでは小児誘拐がいかに多いかも証拠なのだろう。…と、ここまでの展開はなかなか緊張感があるのだけれど、息子捜しの辺りからテンポがだるくなる。ジャクソンは救う会と連携し、市内の空き地を探索することにするのだけれど、それがフリーダムランドという養護施設の跡地。ここら辺は、話がくどくなってつまらない。展開ものろい。ジャクソンは、ほんとうにフリーダムランドに子供が遺棄されたと信じているのか? それとも、ジュリアンの告白を期待してフリーダムランドの探索を実行したのか? そこのところが、ちょっと曖昧だ。でまあ、この探索中になぜか突然、ジュリアンは事実を告白してしまうのだけれど、これが突然で、しかも、ちっとも衝撃的でなくあっけらかんなので盛り上がらない。これが大きな欠点だな。事件の最初から、ホントはジュリアンが…というような見せ方をしているので、意外性はまったくないのだ。ここはやっぱり、意外性があった方がよかったんじゃないのかね。
ジュリアンは妻子のある黒人とつき合っていて、自分の欲求を満たすために子供をないがしろにし、その結果、子供は薬を飲み過ぎて(故意にか)死んだ。死体は黒人男性が埋めた…という顛末。白人女性が黒人男性にすがった、というのは、やはり白人vs黒人というテーマから来ているのだろう。でまた、ジュリアンが、本当ならいろんな意味で世話になっている黒人団地で事件を捏造し、そのことに(たとえ潜在意識化でも)自責の念がないわけなので、ジュリアンの心の中にも黒人差別観はあったというわけで、いろんな意味で対立関係や差別関係が複雑に錯綜している。
ジュリアンの息子が病弱なこと。サミュエルがぜん息持ちみたいなこと。ジャクソンの息子が強盗で刑務所に入っていること。暴動が発生して、放火をする少年の姿に自分の少年時代。息子の少年時代を見るジャクソン。…など、他にもいろんなようそがてんこ盛り。ああ、そうだ、サミュエルの相棒の白人警官が、どっちかっていうと黒人に同情的な感じで面白そうなキャラなんだけど、あまり出番がないのがもったいないと思った。というわけで、いろいろと興味深い要素が満載なのだけれど、ミステリー/サスペンスという部分では物足りない。中だるみも気になる。原作はベストセラー小説らしいが、原作の要素を詰め込みすぎているのかも知れない。それにしても、ここまで白人がバカ扱いされると、白人観客は面白くないだろうな、とも思った。
墨攻2/16新宿ミラノ1監督/ジェイコブ・C・L・チャン脚本/ジェイコブ・C・L・チャン
話の設定や展開が、なんとなく中国的ではないなあと思っていたら、エンドロールに日本人の名前がどかどかでてきた。Webで見ると原作は酒見賢一。なるほど、日本的な情感や考え方が滲み出てきているのは、そのせいか。製作にも日本人が1人入っているし、音楽と撮影監督、照明は日本人だ。なーるほどと思えてくる。
まず、戦わずして守る「墨家」という戦闘集団(って、言葉が矛盾していると思うけどね)っていうのが、大陸的ではないよね。で、趙に攻められようとしている梁が墨家に助けを求めるのだけれど、墨家は拒否。なのに、革離が報酬も求めず個人的に助けに来る、っていう人情路線が日本的だと思う。革離の行動を疑問視していた王子が、次第に革離に惹かれていく様子。外にも、弓の名手や女近衛兵なんかが、革離の魅力に惹かれていく。しかし、革離は欲望を表に出さない。この禁欲さ、清廉潔白さなんか、武士道だよな。それに、趙の手先になって浸入してきた人間を手厚く葬るところ。最後に敗軍の将である趙の将軍に対話を求めるところ。趙の将軍が1人残って梁の兵隊に討たれるところ(まるで自鑑と運命をともにする艦長みたいだ)、その将軍とともに残ると主張する部下たち…。いいろんなところに日本的な情緒・殉じる心、敵を敬う気持ちなんかがうかがえる。まるで日本の戦国時代の話を中国に置き換えたみたいだ。それから、この物語を貫いている厭戦思想。こういうのは、あまり中国映画では見かけない。欧米映画にもあまりないんじゃないのかな。
さらに、権力者というのは自分勝手なことを露骨に描いている。しかも、大群を率いる趙の将軍は武士の心得があるように描き、小国の梁の王や将軍、とりまき(あいつらは儒家か?)がどーしようもないように描いている。敵に対して憎しみを抱かせるような描き方ではなく、実は、本当の敵は内部にあることを描いているわけで、そういう映画をよくもまあ現在の中国が許したものだと、ちょっと驚いた。
ラスト。革離は女近衛兵に、愛で応えようとするのだけれど、声帯を奪われた彼女は助けの声を上げられない。牢獄には水が侵入してきて…。で、俺はてっきりハッピーエンドかと思っていたのだけれど、そうはならないところが、また無常観。うーむ。こういう終わり方は悔しいけれど、それなりに重みがあるので、まあ、いいか。というわけで、スリルに満ちながら、面白く見た。主人公以下、脇役もそれぞれキャラが立っていて、ちゃんと描き込みができている。重要人物でありながらさっさと死んで退場していくのも、リアリティあるし。テーマも一貫していて、深いものがある。
面白かったのは確かなのだけれど、昼食後、時間が経っていなかったせいで、15分ぐらいで少し目をつむってしまった。5分ぐらい寝たかな。でも、目を開けてからはとても面白かったので、前半の1時間足らずを見直した。そうしたら、見逃したカットはそれほど多くはなかった。でも、2度見ると、冒頭の流れも最初よりよく分かったし、半睡状態で忘れ去ってしまっていたシーンも、ああそうそう、と理解が深まったのであった。ははは。
Gガール 破壊的な彼女2/19新宿武蔵野館3監督/アイヴァン・ライトマン脚本/ドン・ペイン
原題は"MY SUPER EX-GIRLFRIEND"。いまひとつ盛り上がりに欠ける、ファンタスティック・ロマンス・コメディだった。第一にシナリオがいまひとつ。キャスティングが悪い。それをテキトーにしか料理していない。なので、よくなるはずはないような気がする。
ルーク・ウィルソンが電車でユマ・サーマンをひっかける。ユマはルークにぞっこんになってしまう。ユマがGガールで、嫉妬深いことを知ると、ルークはさっさと別れようとする。でもって、前から気になっていた同僚のアンナ・ファリスといい仲になる。…のだけれど、アンナには彼氏がいて、たまたま別れたばかりで2人はくっついてしまうのだ。なんか、ルークもアンナも尻軽にしか見えなくて、感情移入できないよな。で、この2人の結びつきを正当化するために、ユマとエディ・ザードをくっつけるわけなんだけど、これって強引すぎるだろ。そりゃないだろ、っていう話の展開だよね。で、前半の主演女優はユマなんだけど、後半の主演女優はアンナになってきてしまう。だったら、アンナ・ファリスでなくて、ユマに匹敵するぐらいの格の女優を配さないと合わないと思う。で、冒頭から、女2人vsルーク・ウィルソンという図式にすべきだよな。それに。ルークは前の女と別れて6ヶ月、という設定だけれど、それにしては「冴えない、モテない」というキャラ設定になっていたりする。なのに、ユマに惚れられてしまうというのもおかしな展開。どーも全体がスッキリしない。なんか、いい加減につくっているな、というのがミエミエで、なんでこんな映画にユマ・サーマンが出るのかよく分からん。
アンナ・ファリスはブスではないけれど、いまひとつ魅力に乏しい女優だな。一度見てもすぐ忘れそうな顔をしている。どこにでもいそうな、平均的な美人顔。やっぱり、物足りないな。エディ・ザードは怪しい博士キャラなんだけれど、怪しさが全然足らない。もっとコミック的に、バカバカしいぐらいの悪役にしてしまえばいいのに、そうはなっていない。ファンタジーという点では、魅力が乏しすぎる。というわけで、どこをとってもイマイチな映画だった。
サンキュー・スモーキング2/20ギンレイホール監督/ジェイソン・ライトマン脚本/ジェイソン・ライトマン
原題は"THANK YOU FOR SMOKING"。10年ほど煙草を吸っていた時期があったが、もうやめて随分なる。他人が近くで煙草を吸うとむせるし、前を歩いているやつの吐き出した煙が顔に当たるのはとても嫌だ。そういう好き嫌いの感情を取り払ったとして、吸いたいやつが煙草を吸うことには別に反対はしない。吸いたければ吸えばいい。吸っているやつを非難しようとは思わない。だいたい、煙草が健康に悪いという、はっきりした証拠なんかない。たとえば先日、緑茶を飲む人の死亡率は、飲まない人よりも高いという統計結果が新聞に出ていた。では、これをもって緑茶反対運動が起こるかというと、起こらない。しかも記事では、緑茶の害というより熱い湯が喉を通るときの刺激のせいだろう、という解説付きだった。統計を取った大学が、緑茶組合に遠慮でもしているのだろう。なら、煙害だって、煙草と一緒に吸飲する酸素のせいだろう、と屁理屈をこねてもおかしくはない。人間は、酸素を吸うことによって細胞にダメージを与えているのは確かなことなのだから。だけど、そんな屁理屈をこねて煙草を養護する人はいない。煙草を悪とすることによって、世の中の物事は単純化できて、悪人も特定しやすくなるからだ。そうすれば、大衆の不満はそこに向かう。そうやって、大衆はコントロールされている訳だ。
この映画をコメディとしているようだけれど、煙害にたいする、ちゃんとした屁理屈になっていると思う。映画の中に「議論と交渉は違う」というのがでてきたけれど、ディベートの場では、相手を打ち負かす論理が必要になる。映画でも、チーズや自動車がやり玉に挙げられていて、比較対象としては有効だ。泥棒をしてつかまったやつが「あいつだって泥棒をしているじゃないか」といって放免されることはないけれど、外の泥棒を見過ごしているとすれば、法は平等ではなくなる。同様のことは産業界では茶飯事で、世の中はチーズも自動車も死亡原因に挙げようとはしない。それはチーズ業界と自動車業界で生活している人がたくさんいて、それぞれの業界のトップと政治家は太いパイプでつながっているからだ。実は大儲けしているのは業界の一部の特権階級の人々だけなのだけれど、大衆は毎日の生活の糧を頼っているから、分かっていても反論できない。それにつけこんで、一物件階級は冨を貪り、交通事故の補償もせず、高脂血症の手当もしないまま、原因はあなた個人です、と言っている。自動車は不問で銃は問題視される、というのは、これは平等ではない。煙草だってチーズと平等に扱えば、迫害視されることもないはず。なのに、煙草が、銃が、アルコールがやり玉に挙げられる。これは見せしめ以外の何物でもない。しかも、理屈が分かりやすいから大衆に受け入れられやすく、一部特権階級は大衆を味方につけやすい。実は大衆自身が被害者なのに、声を上げられない状態になっている。それにしても、かつてのアルコール禁止法のようなものが、煙草に対してもつくられようとしているのかな、アメリカでは。自由の国だとはいえ、まったく不思議な国だと思う。
というようなことを考えてしまうほど、この映画はいろんな要素に満ちている。世の中は欺瞞に満ちている、ということを知るにはうってつけだと思う。でも、この映画を煙草業界の悪あがき、と見る人も多いんだろうな。それに、世の中のトレンドにまんまと乗せられて、煙草は悪い、とすんなりと受け入れてしまう人もいるだろう。映画の主人公の妻なんか、その類なのかも知れない。そうして、そのトレンドに逆らうことが罪であるかのように思う人もいるに違いない。主人公の息子は、学校では肩身の狭い思いをしているようだ。正当な主張(屁理屈であっても)ができなくなるような社会が果たしてよいことなのか、考えることが必要なのかも知れない。この映画は、笑って済ませるほど軽い話ではないと思うのだけれど、どうなんだろう。
主人公の妻は、ちょっと個性的な顔をしているけれど、でも、知性が感じられるタイプ。主人公が色仕掛けで籠絡されてしまう新聞記者は、たれ目で原日出子を可愛くしたみたいなところがある。主人公が定期的に会合している仲間の、アルコール業界の広報担当の女性も、ちょいと魅力的。と、登場する女優がなんか、みんな色っぽかったりする。主人公の息子は、見たことがあるけどどの映画だっけ、と思っていて後から「記憶の棘」の少年だと気がついた。大人っぽい部分をもった少年だよね。この少年が、父親の仕事に興味をもちだし、弁論に長けてくる様子が面白い。弁舌で食っていける、というロビイストの存在を、子供も評価している、ということなんだろう。それに、主人公のやり方は、ロジックで相手をぐうの音も出せないように叩きのめすだけではなく、自分の側が悪いところもあると認めつつ相手を同じ土俵に乗せてしまったり、はたまた論点をすり替えたり、人情に訴えたりと様々に繰り出してくるのが面白かった。
映画俳優に煙草を吸わせよう、というわりに、映画の中で煙草を吸っているシーンがほとんど無いというのが、ちょっと変だな。主人公ぐらいがんがん煙草を吸わせろよ、と思った。ハリウッドのエージェントに、役者に煙草を吸わせてくれるよう頼みに言ったところで、「RAV」という頭文字がでてきたのが面白かった。ロシアとアラブと悪人(バイオレンスだったかな?)を映画に登場させるために、頼みに来る人が多い、てなことだっけかな。なるほど、映画にはいろんな背後関係があるのだな、と思ったのだった。
最初の方で、ジョン・ウェインが煙草を吸おうとして討たれるシーンは「硫黄島の砂」だ。ケーブルTVでやったのを、数カ月前に見たところだ。
音楽がよかったなあ。煙草業界のボスの葬儀シーンで流れる、ジャズブルースみたいな曲が滲みた。それから、“Twenty ten is three and fourty years away Will we still be walking together...”っていう「誓いのフーガ」も流れていたなあ。ちょっと懐かしい。
オープニングタイトルが、凝っていた。煙草のパッケージの銘柄名が、キャストやタイトルになっているもの。なかなか粋だった。
で、この映画のように、全米煙草協会のようなものは、ある(あった)のかな? それと、初代マルボロマンがでてくるけど、あれは本当なのか? マールボロにはエクスキューズしているんだろうか? えーと、それから、主人公が誘拐されてニコチンパッチをたくさん貼られてしまうのだけれど、貼られるとどうなるのか分からなかったので、ちょっと戸惑った。あとで調べて、なーるほど、であった。
マッチポイント2/20ギンレイホール監督/ウディ・アレン脚本/ウディ・アレン
後半になって、ちょっとたまげた。ウディ・アレンがこんなシリアスな映画? ウィットやユーモアはさらさら無いではないの。で、クリス(ジョナサン・リス=マイヤーズ)が散弾銃を手にしたとき、前半にでてきていたドストエフスキーの「罪と罰」の意味が分かったのだった。なるほど。で、スカーレット・ヨハンソンの役名がノラ。イプセンの「人形の家」の主人公の名前だよな、と思いつく。のだけれど、読んだことがないのでストーリーが分からない。ひょっとして関係があるのかな。
「太陽がいっぱい」も連想した。貧乏人が金持ちと知り合いになり、上流社会に仲間入り。その生活を維持するために犯罪を犯す、という骨子が似ている。ま、この映画のクリスはテニスプレーヤーで、シード選手にはなれなかったみたいだけれど、トップレベルの選手と戦ったことがあり、でも、自分の限界を知ってレッスンプロへと転向した若者だ。それに、自分から上流社会にあこがれたわけではなく、たまたま、そうなってしまった、という要素も強い。単純には比較できないけれど、貧乏は嫌だ、という点では共通していると思う。
映画は、ムダなカットを徹底して排したカットつなぎで、淡々と進行していく。物語の展開は、とくに新しいところはない。むしろ古典的。クリスは、生徒のトムと知り合いになり。トムの妹のクロエと恋人同士になる。トムとクロエは、大企業の社長の子供。クリスがクロエと結婚すれば、冨と地位を我が者にできる。が、トムの婚約者ノラと知り合って心が揺れる。金持ちの娘だけど愛欲の対象にならない女と、貧乏だけどイキイキとしていて愛欲の対象になる女と、どっちをとるか。クリスはクロエと結婚するが、性的に満たされない。トムとノラが別れたまち、クリスはノラと再会。不倫の世界にのめり込む…。のだけれど、自分のモノではないノラは魅力的に描かれているのに、不倫を重ねていき、妊娠したとなると強引でワガママな女として描かれてくる。この辺りが、ちょっと物足りない。ノラは上流社会に憧れているわけでもなく、たんにクリスと一緒になりたい、クリスの子供が産みたい、と迫るごくフツーの女になってしまう。女優志願だったにしては、なんとも自立していない、ただの女になってしまっている。ま、クリスが「罪と罰」の世界に堕ちていくためには、邪魔な存在の女にならなければならなかつたのだろうげと、ちょっと前半の描き方からすると、つまらない女になってしまっている。これじゃ、男から嫌われるのもむべなるかな、と思ってしまう。ま、ノラは自立できていない、どこにでもいる、無教養な女、という設定なのかも知れないけどね。
せっぱ詰まったクリスは、ノラを殺害するのだけれど、意外と冷静で、ノラの隣室の老婆も道連れの計画犯罪を実行する。もっとも、あんなアパートで散弾銃を2発もぶっ放して気がつかれない、っていうのも変な話だと思うけどね。で、その犯罪は、ネットの上のあちら側に落ちるか、こっち側に落ちるか。クリスが盗んだ老婆の指輪、それを川に捨てたはずなのだけれど、川に落ちずに手すりに当たって落ちた。それをジャンキーが拾って、そのジャンキーがたまたまノラのアパートの近くで殺害されて、事件はそのジャンキーの仕業と言うことになってしまう。おお。「太陽がいっぱい」のように、いつかはバレる、という教訓はないのね。ふうむ。現在は、悪いやつほどよく眠る、という時代なのかも知れない。それに、運。運についてはトムが何度か口にしていたけれど、実力ばかりではなく、世の中は運がものを言うということだ。その運を、クリスは手に入れていた、ということなのね。こういう曖昧な、嫌な感じの終わり方というのは、ウディ・アレンが自信、養女と関係してドタバタしたことと、関係があったりするのかな。ううむ。
ヨハンソンは、少女から女の体型になって果ていて、胸がかなり大きくなっている。けれど、雨の中の重なり合いのところで見えた半裸を見ると、肉がちょいだぶついてきている。節制しろよ、といいたくなった。
ディパーテッド2/23上野東急監督/マーティン・スコセッシ脚本/ウィリアム・モナハン
2度目。ストーリーが分かっているせいか、あまり緊張感なく、食後まもなくだったせいもあって1時間ぐらいしたら眠くなってきた。で、最初の取引のところ(マット・デイモンがポケットの中の携帯を使って連絡する、あの部分)で、ふっと気を失った。ま、瞼が落ちていたのはほんの数分だと思うけど。で、感想は前回書いた通りで、とくに「なーるほど」と再確認するようなところは少ししかなかった。ひとつは、警察学校時代のラグビー。アメリカなのにラグビー? と思っていたのだけれど、そういえばアイルランド人だったな、と気がついた。それから、窓から見える議事堂の建物。最後のシーンにも出ていたけれど、デイモンは悪徳政治家を目指していたのかも知れないな、と思った。…という程度。
脚本はよくできているけれど、それだけに粗があると目立ってしまう。いくつかのツメの甘いところが見えてしまって、いまひとつ説得力がないな、というのも、前回と同じ感想だ。
世界最速のインディアン2/27銀座テアトルシネマ監督/ロジャー・ドナルドソン脚本/ロジャー・ドナルドソン
スピード狂の老人(アンソニー・ホプキンス)が、バイクで世界最速を夢見てNZから渡米。ソルトレークシティの塩湖でレースに挑戦する話。ストーリーがとんでもなくテンポよく進む。いくつかの障壁のようなものは起こるんだけれど、そこで停滞したりしない。すべて大きな問題になることなく、どんどん進んでいく。大河ドラマの総集編のようでもあり、都合のいい部分だけをつないだ、ほのぼのドキュメンタリーのようにも見える。
アンソニー・ホプキンス扮する主人公の周囲に登場するのは、すべて善意の人々ばかり。どっかで騙されたりするのかと思いきや、そんなことは全くない。だから、悪くいうとドラマがない。困難に立ち向かうハラハラドキドキはないし、克服していく快感もない。だからといって物語がつまらないかというと、そんなことがないのが摩訶不思議。これは、困難ばかりに出くわして目的を達成できない映画ばかりを見つけている弊害なのかも知れないな。うむ。もっと素直になろうか。
さて、その善意の人たちを挙げていくと、迷惑顔の隣家の住人、役所のおばちゃん、挑戦状を叩きつけてきたバイク野郎ども、ロスで宿泊したオカマ専門ラブホテル(?)の受付のオカマ、中古車屋のオヤジ、砂漠で助けてくれたインディアン、亭主に死なれて男日照だったオバチャン、ベトナムからの一時帰還兵、レースに参加する選手たち、主催者スタッフ・・・。みな、それぞれに人生が見える。人物造形は大したものだと思う。でもっても、こうした脇役たちは、マイノリティだったり異端者だったりして、人生の王道を歩いていない人ばかり、っていうのも効いているのかもね。類は友を呼ぶ、なのか?
ドラマはない、といったけれど、この映画全体が、大きなひとつのドラマと言えるのかも。老人がバイクの新記録を目指して挑戦する、っていうこと自体がね。だから、ドラマがなくても心地よく見ていられるのかも知れない。
それにしても、天真爛漫なジジイである。世の中の常識にとらわれず、いつでもマイペース。相手に迷惑書けてばっかりなのに、でも、嫌われない。愛すべき変人、とでもいうのかな。本当ならそんなことがあるはずないのに、なんとなくシンパシーさえ覚えてしまうから不思議だ。映画は事実に基づいているのだろうけれど、本当はどうだったんだろう。
それにしても、この爺さん元気。50代のオバチャンとはどんどん同衾するし、若い娘やオカマにもモテちゃったりする。

 
 

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