蒼き狼 地果て海尽きるまで | 3/7 | 上野東急2 | 監督/澤井信一郎 | 脚本/中島丈博、丸山昇一 |
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製作総指揮が角川春樹で、監督は澤井信一郎。といっても、監督はフィルムを回しただけで編集権は角川春樹にあるみたい。なので、仕上げは角川春樹が行なっているのだろう、多分。撮影は前田米造なのだな。驚いた。とくに素晴らしい、というようにも思えなかったから。大量のエキストラを使っているようで、CG合成にはないリアリティはある。のだけれど、どういうわけだか迫力はない。たた大量の人間が映っている、という風にしか見えないのがもったいない。最初の、若林麻由美が掠われるシーン。いきなりカメラがブレブレなのが哀しい。レールを敷いてスムーズな動きを実現するとか、ステディカムを使うとか、もっと滑らかな動きはできなかったのかな。相変わらずの、日本映画はみすぼらしい、って印象を冒頭から受けてしまった。 なんといっても違和感が大きいのは、モンゴル人が日本語で「我らの興廃はこの一戦にある!」なんて、日本の戦国時代みたいな言語および口調でしゃべることで、そんなのありかよ、と思った。どーせなら全モンゴル語にして字幕でもつけてもらった方がよっぽどいい。 映画はチンギス・ハーンの両親の話から、モンゴルを統一して中国(万里の長城)に向かっていく場面まで。なんだけど、日本映画らしく人情が滲み出ていてうっとうしい。もっと冷徹で傲慢で自分勝手、征服欲にとらわれた男を描けばいいのに、なんだかんだと正当化したり理由づけをしたりする。チンギス・ハーンは男気のある奴で、人にやさしく思いやりがあり、殺戮は仕方なく行なったこと・・・なんて言われても、誰が納得するもんか。このあたり、脚本の中嶋丈博の思いはどれだけ反映されているのか知りたいところだね。こんな、演歌みたいなチンギス・ハーンを中嶋丈博は書いたのか? やたら説明が多い。ハーンの母・若林麻由美のナレーションがうっとうしいほど入り、さらにはくどい言い回しのセリフがびっしり入る。そんなに言葉で説明してどーすんだ。もっと絵で見せなくちゃしょうがないだろ。まあ、内容がないから言葉で埋めなくちゃいけなかったのかな。 戦闘シーンのいくつかは、洋画の描く中世の戦いシーンに匹敵するけれど、超えているとはとても言い難い。見ものは、こうした戦闘シーンなのだけれど、いくつかの戦闘シーンは言葉で説明されてしまうなど、手抜きがあったりする。まったく拍子抜けだ。全体の流れで見ても、とくにドラマはないし、人物が深く描かれることはない。脇の人物たちも、最初に出会うエピソードはそこそこ描かれているものの、いったん紹介されると、以後は単に顔を見せているだけの状態で、なんの働きもしない。たとえば、ハーンの妾になる女戦士なんか、戦闘シーンはひとつもない。ただのお飾りでしかない。バカみたいだ。ドラマがないから盛り上がりもないし、ヤマ場もない。だらだらといくつかの部族との戦いがつながれているだけ。なので飽きてくる。 ちょっとばかり物語性=因果を感じさせるのは、ハーンの母親は、ハーンの父親が掠ってきた他の部族の女であること。そして、ハーンの妻が、ハーンの母親が属していた部族に掠われて、孕まされることぐらいで、そうしてできた子供の存在がハーンとだぶる所ぐらい。でも、あまり活かされてはいないけどね。それにしても、ハーンには実子がいなかったみたいに描かれているけれど、そんなことはないんだろ? 妾ももっとうじゃうじゃいたんじゃないのか? エンドロールに刈谷俊介と永澤俊矢の名前を見つけたけれど、どこにでていたのか気がつかなかった。あーそうだ、チンギス・ハーンが反町隆史っていうのは、似合わないよなあ。相撲の朝青龍でも起用すればよかったのに、と思う。しかし、原作が森村誠一なのに、どーしてタイトルに井上靖の「蒼き狼」を使ってるんだ? たんなる商業主義の折り合いの付け方なのだろうかね。変なの。 | ||||
僕は妹に恋をする | 3/8 | 新宿武蔵野館3 | 監督/安藤尋 | 脚本/袮寝彩木、安藤尋 |
とてもつまらなかった。どこにも全然ドラマがない。70分過ぎ、屋上のシーンからとても耐えられなくなり、10分ぐらい寝てしまった。 題名の通り、近親相姦的な感情を抱き合う高校生男女の話。しかし、どこにもドラマチックがなく、人物たちは、中心となる兄妹(双子)の他の人物も、みな一様に元気も覇気もなく、気怠く淡々と話すだけ。主人公の2人は、ただ2人はなであったりさすりあったり。兄妹で愛し合ってしまったという閉塞状況の中で、駆け落ちを選択するわけでもなく、死ぬことを考えるわけでもなく、別れを決断するわけでもない。優柔不断にだらだらと暮らしていくだけ。愛することの苦しみや、兄妹で愛し合うことになってしまったことへの苦悩や葛藤、呪いのようなもが強く感じられない。それじゃ、映画にならないだろ。 画面は、近親相姦をきれいごとのように哀しく美しく、無意味にだらだらと長たらしく、よそよそしく撮るだけ。会話には内容がなく、感情移入も同調も、同情もできない。どーしようもなくつまらない映画だこういう映画がロングランする理由が、俺には分からない。 | ||||
紙屋悦子の青春 | 3/9 | ギンレイホール | 監督/黒木和雄 | 脚本/黒木和雄、山田英樹 |
前半はかなり退屈。ヤマ場はひとつで、明石少尉(松岡俊介)が、明日特攻出撃する、と告げに来る場面のみ。あとは、かなり淡々と進む。その押し殺したような淡泊さがあってヤマ場が盛り上がるのだけれど、それにしては前半が長すぎる。 淡々・・・の多くは、悦子(原田知世)と悦子の兄(小林薫)、その妻(本上まなみ)の何気ない会話で、その内容は漬物のことであったり、父親が買ってきた静岡のお茶のことだったり、たいして意味はない。しかも、聞き違いや齟齬などを、くどすぎるくらいに描き込んでいて、少しは笑いにつながる部分もあるけれど、ほとんどは退屈な日常的な会話。たとえ戦争中であっても人間は“何気ない日常”をつづけていたりするものだ、ということを伝えようとしているのだろう。 もちろん両親が東京大空襲で亡くなっていたり、兄が徴用で熊本まで長期出張したり、ほのかに慕っていた相手(明石少尉)が特攻出撃して死んだりと、周囲は戦争と死に満ちている。それでも人は昨日からつづく日常を明日へと淡々とつづけていかなければならないものだということを、告げているのだろう。生々しい戦争の影は、表面的には見えない。けれど、その見えない部分が、明石少尉の特攻出撃で鮮やかに切り込まれてきて、ちょっと胸に迫るという仕組みだ。といっても、好きな相手は死んで、それほど思っていなかった相手と結婚することになる、という、戦争映画なんかではよくある話ではあるのだけどね。 ホームページを見たら、原作は戯曲らしい。なるほど。登場場面が悦子の家だけに限られているのは、そのせいか。静的な展開も、舞台を前提にしたものだと言われると、納得。がしかし、舞台のスタイルをそのまま映画にしたせいで、やっぱり全体で見ると退屈。とくに、前半はあくびスレスレだ。 冒頭は現在のシーンで、夫(永瀬正敏が演じている。明石少尉の同輩で、明石は自分は命を捧げる覚悟なので、自分は譲った)と悦子が病院の屋上で会話している。以後、時々インサートされ、ラストも現在の2人で終わる。これは、戯曲にはあるのかな? ひょっとして、これは映画的演出なのかな。どっちか分からないけれど、この部分はあまり面白くない。なんでまた、あんなに暗い表情で2人が話さなければならないのか。この2人は結婚して、ずっとあんな調子で、本来ならば・・・とか、戦争がなかったなら・・・とか(セリフでは言っていないけど、どうみてもにこやかな夫婦には見えない)思いながら、重苦しく生きてきたのか? そんなことはあるまい。ちょっと意図的すぎて、不自然だ。なくても十分に通じると思う。それに、原田と永瀬が50〜60年後を演じているのだけれど、体つきが2人ともまるで老けていない。原田の方は顔がつるつるで、とても変。別の俳優にすればいいだろうに、と思った。 尺は111分だけれど、会話をもうちょっと洗練させて、短く刈り込み、90分未満に収めてもよかったんじゃないか。その方が、キレがでる。小品を目指すべきだったと思う。美術は木村威夫で、いかにもセットという味がでていて素晴らしい。原田知世は40歳なのに、30歳ちょっと過ぎの本上まなみと同年齢の、おそらく20歳代半ばを演じている。でも、それほど違和感はない。永瀬も実年齢は40歳ぐらいなのかな。みな実年齢はかなりいっているけれど、不自然ではない。それから、気になったのは、明石少尉が沖縄奪回に出撃、としか説明されていないこと。あれが自爆の特攻隊だということが、見ている人にちゃんと通じるのだろうか? ちょっと疑問。あー、それから、原田も本上も鹿児島弁が下手で、ちょっと聞いているのが辛かった。それに、2人の眉毛。剃ってあって細く書いてあるなんて、1945年には変だろ。 | ||||
パフューム ある人殺しの物語 | 3/9 | 上野東急 | 監督/トム・ティクヴァ | 脚本/トム・ティクヴァ、アンドリュー・バーキン、ベルント・アイヒンガー |
原題は"PERFUME: THE STORY OF A MURDERER"。こっちでも、人殺し、というのはバラしてあるんだな。いやその、香水に人間の臓器でも使っている・・・という話かな、と思っていたのだけれど、ミステリー仕立てではなく、あらかじめ人殺しだということをバラした上で話が進んでいく。っていうか、ファーストシーンは、牢獄にいるシーンなのだ。なーんだ、と思ったけれど、過去に遡って生い立ち(これがもの凄い。あの赤ん坊はCGか? 人形か?)から始まり、孤児少年が皮なめし職人に売られ、成長していくところはスリリング。というき、フェティシズムの極致のようで、かなり不気味。奴隷のような日常を強いられ、初めて町に連れられていったときの臭いの快楽に酔ってしまうところ、ごくフツーの女の体臭に惹かれてストーキングし、いとも簡単に(間違ってだけど)殺してしまうところ、死体の臭いを嗅ぎまくるところなんか、この男( ジャン=バティスト)の変態性がよくでている。 パティストの人生が変わるたびに人がどんどん死んでいく。母親、孤児を売る女、見ず知らずの町の女、皮なめしの親方、落ちぶれた調香師(ダスティン・ホフマン)・・・。周囲にいた人物がテンポよく死んでいく。さらに、臭いを求めて女狩りをしていく過程でも、運良く助かった、なんていう女はいなくて、みんな餌食になってしまうというのも、かえって清々しい。全体的にはスリリングな展開がテンポよくつづくので、面白く見た。昼食後すぐだったのに寝なかったんだから、ね。 でも、不気味なのは最初の1時間で、中盤は少しゆるくなって、でもって逮捕されてファーストシーンにつながり、処刑される・・・と思いきや13人(だっけかな?)の女のエキスを集めた香水をまき散らすと、群衆も処刑人も司祭も、娘を殺された親も陶酔の境地に浸って、バティストを許してしまうのだ。そんなのアリかよ。いきなりのユーモアはかなり笑えるし、悪いがちょっと萎える。前半のエログロ・フェティシズムはどこへ行ってしまった! で、ラストは生まれ故郷に戻って、香水を自身に振りかけてしまうというもの。これは、どういう意味だ? 処刑からまんまと逃げおおせて、ここで自殺なのか? たとえそれが甘美な匂いの中でのものであっても、だったら衆人環視の元で陶酔の中、縛り首になったらよかろう、とも思った。それに、貧民たちに食われてしまうというのも、ちょっと妙。だって、処刑場で究極の香水を振りまいたときは、群衆はみな陶酔に浸り、服を脱ぎ、周囲の人々と誰彼なくまぐわいはじめたんだぜ。なのに、貧民街で香水を撒くとバティストは食われてしまうのかい? なんか変。 設定として、バティスト自身は体臭がなく、若い女性の発する匂いに惹かれるというもの。性的欲望がペニスに来ないで、鼻に来ているわけだ。でもって、自分にはない他人(女の)体臭に陶酔するわけだ。やっぱ、変態っていうことか。それにしても、街中の魚や人糞や動物の匂いや腐敗臭や、そういうのが入り混じった中にバラの香りを混ぜても、ちっともいい香りのようには思えないんだけど。どーなんだろ。 ツッコミを入れると、女狩りをしたあとの死体に、脂が塗られていない状態なのはおかしい。あんな状態で死体を放置したら、誰が犯人なのか、本来ならすぐに分かってしまうはず。それから、貧民街で自分が食われてしまうところ。骨ぐらい残るんじゃないのか? とは思うのだけれど、まあ、女の死体も、骨まで食われてしまうのも、象徴的な表現だと思うので許容範囲かとも思う。それに、若い女の匂いを13人分抽出したとしても、それほどいい匂いではないのではないかと思ったりする。とくに西洋人の場合は腋臭だったりして、とんでもなく凄かったりしないのかな。かなり気になる。もの凄かったのは処刑場のシーンの後半で、広場いっぱいの群衆が脱ぎはじめ、愛撫し合うところ。宗教画を連想させるのだけれど、あれは、本当にあれだけのエキストラを集めて脱がせたのかな。とても興味がある。 | ||||
叫 | 3/12 | シネセゾン渋谷 | 監督/黒沢清 | 脚本/黒沢清 |
相変わらず異様・不可思議・おどろおどろしさをまき散らし、そこそこの結論まで持ってはくるものの、よーく考えてみればかなり無理矢理こじつけな話でしかない映画を捏造する黒沢清だ。筋は通っているように見える。脳病院に隔離され、病院が倒産した後も敷地内に踏みとどまりつづけた患者・・・。自分が世間から忘れ去られるという恐怖から窓外を見つづけ、そして死んでいった。怨霊となり、自分を無視した人々に復讐する・・・。けど、川崎から有明までの通勤フェリーに乗っていた客と目があったというだけで、なんでまた復讐されなくちゃいけないのだ? しかも、当の客本人への復讐ではないのだ。その客が、誰かを殺すようにし向けるのだ。なんでそんな手の込んだ復讐をしなくてはならないのか? その答えはどこにもない、と思う。どっかにあったのか? 誰か教えてくれ。 有明での女性殺人事件。最初は、役所広司の服のボタン指紋、古い電気ケーブルなんかが登場して、役所が犯人か? と思わせるサイコな流れ。でも、古い電気コードもボタンも別人のもので、単なる偶然、というご都合主義だったりするところも、なんだかなあ・・・。 で、第1の事件、第2の事件(医師が息子を殺す)と、怨念が事件を起こさせる・・・という流れなのに、なんで役所だけは人を殺していないのだ? と思っていたら、ずうっと登場していた小西真奈美は、実は死んでいた(役所が殺していた)という種明かしがあり、理屈は通る。のだけど・・・やっぱり合点がいかないよなあ。 舞台は埋め立て地の有明。地震が発生して土壌が液状化する・・・とは、何を示唆しているのだ? 殺しが海水で行なわれるのは、どういう意味だ? ひょっとして、再開発され、埋め立てられる東京湾の復讐だ、とでもいうのだろうか。それから、医師の尋問のときに鏡に映る情景が歪んでいるのは何を意味している? いろいろな思わせぶり、この映画にもあちこちに埋め込められているけれど、きっと大した意味はないのだろうと思う。たんに、はぐらかして、中身が深い、と思わせるだけではないのかな。 それにしても、世間から忘れられるのが怖い、と思う狂人たちは、そんなに現世への思いが強いのか? そして、行きずりの人たちも不幸に巻き込むほどの怨念があるのか? よくわからんね。それに、そもそも役所が小西を殺すのは何故なのだ? 役所は小西に嫌気がさしていたのか? その辺りが描かれていない。それに、役所は自分が小西を殺したことをすっかり忘れてしまっている。たとえば、第2の殺人を犯した医師が、息子の亡霊を見て怖がっているのと、対照的だ。第1と第3の殺人の犯人は、殺した相手を、まだ生きている、と認識していたのだろうか? それとも、亡霊として見ていたのだろうか? いや、役所以外の犯人たちに、葉月は見えていた(登場していた)のだろうか? そこのところは、表現されていない。 死んでいるはずの小西が生きているかのような描き方をされているのは、このところよくある表現手法だよな。「シックスセンス」「アザーズ」なんかがそうで、とくに目新しさはない。そういえば小西は生活感のない描き方がされていたな、とは思うけれど、とくに驚きはなかった。 怨霊となる女性・葉月里緒奈は、最初に登場するときはムンクの「叫び」状態で、おっ、となるけれど、以後は化け物メークがされているわけでなく、ごくフツーの人間と同じように登場する(足もあるし、ドアから出入りし、役所は実体に触れるようにして触っていた。宙も飛んだけどね)ので、怖くない。目も、そんなにいってないし。なので、画面内での違和感が少なく、おどろおどろしさが足りないと思う。むしろ、笑ってしまうところがあるぐらいだ。笑ったといえば、ラスト、役所の同僚の伊原剛志が役所の部屋を訪ね、洗面器の水を覗き込むところ。背後から手が伸びるのか、洗面器のなから手が伸びてくるのか、さてどんな手を使うのだ? と見ていたら、天井から葉月が真っ逆さまに落ちてきて、伊原と一緒に洗面器の中へ飛び込んでしまったのだった。では、これの解釈は? すでに葉月の骨は役所が拾った後なのだから、葉月は成仏しているはず。とすると、葉月は自分から塩水の中に飛び込んだということになり、入水ということになる。では、伊原を道連れにした理由は? これが分からない。役所が、葉月の骨を拾って供養したことへの、葉月のお礼なのか? あ、そうだ。役所は第3の殺人の犯人の女性(奥貫薫)を見逃すのだけれど、事件は解決しなくてよかったのか? 第1と第2のの殺人の犯人は逮捕されているのに、それでいいんだろうか。 医師がビルから投身するところは、1カットで写されていた。モンタージュなしだと思うんだけど、どうだったんだろうか? スタントマン? 吹き替えなし? 後方に座ったオヤジ2人組が、とてもうるさかった。こいつら、ひそひそ声ができずに、たんに小さな声でしゃべっている。小便いってくる、だの、帰るわ、だのという会話が周囲に聞こえるのだ。さらに、携帯がぴろぴろ鳴ったと思ったら、片方がでやがった。「もしもし、もしもし」って応えてやがる。相手がでずに会話はしなかったけれど、液晶を光らせたままあれこれしばらくやっていた。さらに、その後、片割れが電話かトイレのために出て、戻ってきた。さらに、2人は映画終了前に出て行った。うっとーしーやつらだ。まったく。 | ||||
パリ、ジュテーム | 3/13 | 新宿武蔵野館2 | 監督/--- | 脚本/--- |
オムニバス映画なのだけれど、個々の映画の切れ目が最初の頃分かりづらかった。え? これで終わり? と思っていると、左下に場所を示すスーパーが出る・・・あ、これがタイトルと監督名か、と3作目ぐらいに理解した。それと、最初に画面が9分割されたので、120分で9作品。1作品につき15分弱ぐらいなのかと思っていたら、案外とエピソードは短く、しかも、なかなか終わらない。終わってみたら18本もあったのね。ちょっと細切れすぎないか? 「モンマルトル」監督・脚本ブリュノ・ポダリデス/★★やっと路駐場所を確保した男。横を通り過ぎた女が低血糖で倒れたので、クルマに乗せて病院まで送っていくことに。彼女は禁煙講習を受けに行くところだったのだが、最初の話だったので、え? これで終わりかよ、って、ちょっと呆気にとられてしまった。 「セーヌ河岸」監督・脚本グリンダ・チャーダ/★★★フランス人少年が、アラブ人の少女に一目惚れする話。アラブが嫌われている時期だけに、貴重な感じもする。 「マレ地区」監督・脚本ガス・ヴァン・サント/★印刷屋にやってきた青年が、印刷屋で働く青年と仲良くなろうとする・・・という、なんか同性愛的な内容。ううむ、だな。 「チュイルリー」監督・脚本ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン/★★★アメリカ人観光客が、地下鉄のホームでフランス人カップルに翻弄される話。とても面白い。 「16区から遠く離れて」監督・脚本ウォルター・サレス、ダニエラ・トマス/★★幼子を託児所に残して仕事に出る気丈な感じの女性。彼女は、誰か有名人か金持ちの家で、ベビーシッターのようなことをしている様子。自分の子供と別れたときに歌った子守歌を、仕事場でもするという皮肉。もう少しツッコミが欲しい気がした。 「ショワジー門」監督クリストファー・ドイル、脚本クリストファー・ドイル、ガブリエル・ケン、キャシー・リー/★老セールスマンが、中国人の理容師を訪ねる。紙の栄養剤か何かを売るつもりなのかな。話がよく分からないので、いまいち。 「バスティーユ」監督・脚本イザベル・コイシェ/★愛人のいる男が妻に別れ話を切り出そうとしたら、妻に「私は白血病」と告白され、愛人と別れて妻の世話をするという話。なんかなあ、いまいち。 「ヴィクトワール広場」監督・脚本諏訪敦彦/★★カーボーイになりたいといっていた幼子が死んで、悲嘆にくれていた母が見たカーボーイと息子の幻影。話はありきたり。パリのカーボーイをユニークと見るかどうか、だな。 「エッフェル塔」監督・脚本シルヴァン・ショメ/★刑務所で出会った男女から生まれた少年の話。父親はパントマイムをしているのだけれど、いまひとつピンとこなかった。タイツをはいている父親の腹が出ているのがとても気になった。それに、少し眠くなった。 「モンソー公園」監督・脚本アルフォンソ・キュアロン/★老人は英語で。娘はフランス語で。と、妙な会話。夜の歩道で会話をつづけるだけで、様子がよく分からない。眠くなった。 「デ・ザンファン・ルージュ地区」監督・脚本オリヴィエ・アサイヤス/★マギー・ギレンホールが薬中女優だ、というだけの話。つまらない。少し眠くなりかけたぞ。 「お祭り広場」監督・脚本オリヴァー・シュミッツ/★★★広場で刺された青年を、黒人の娘(新人救命士)が手当てする。青年は何日か前、見かけたその娘をコーヒーに誘ったけれど、断られていた。刺されたまま、青年が「コーヒーはどう?」という。娘は、スタッフにコーヒーを買ってくるよう頼むが・・・という話。ラストで青年は意識がなくなって救急車に乗せられるのだけれど、気絶しただけなのか、死んだのか、よく分からない。 「ピガール」監督・脚本リチャード・ラグラヴェネーズ/★★中年男が覗き部屋にいる。そこに、中年女性がやってきて、本来は覗かれる若い女に「芝居をも見せる」といい、中年男と口げんかを始める。芝居か? 本気か? 喧嘩の後2人は大邸宅へ。玄関前に看板があり、2人芝居は終演、とある。気の利いた構成なんだけど、実際あの2人は喧嘩していたのか? 芝居なのか、気になってしまう。 「マドレーヌ界隈」監督・脚本ヴィンチェンゾ・ナタリ/★★吸血鬼の女性に襲われる青年の話。「シンシティ」みたいなタッチで、黒と赤が強調されている。話はありきたり。画調が、ちょっと魅力的。 「ペール・ラシェーズ墓地」監督・脚本ウェス・クレイヴン/新婚旅行、のようなものでパリに来た2人。男は墓には興味がない。女はオスカー・ワイルドの墓に興味津々。そんな2人がささいなことから言い争い、婚約破棄、ということになりかけたけれど、男はワイルドの幻影に会って女の機嫌をとり、元の鞘に収まる、のだけど、何かなあ、という話。 「フォブール・サ・ドニ」監督・脚本トム・ティクヴァ/★★★盲目の青年と知り合い、生活を共にする女優志願→女優になった娘。その娘から別れ話の電話があって、青年は落ち込む、が、それは芝居のセリフだったというオチ。面白い。 「カルチェラタン」監督フレデリック・オービュルタン、ジェラール・ドパルデュー、脚本ジーナ・ローランズ/★★離婚しようとしている老夫婦。互いにつき合っている若い相手がいるが、夫は妻の相手を養子にしようといい、妻は夫の相手を養子にしよう、という。なんか、妙な話。どうなっちゃうんだ? 「14区」監督・脚本アレクサンダー・ペイン/★★太ったアメリカ女性観光客の話。途中までは面白かったんだけど、突然「私は悟った」という。けど、大したことを悟ったわけではなかった。尻すぼみ。 | ||||
松ヶ根乱射事件 | 3/13 | テアトル新宿 | 監督/山下敦弘 | 脚本/山下敦弘、向井康介、佐藤久美子 |
相変わらずの奇妙な人間関係と、その展開図。今回は典型的な日本のど田舎を舞台に、狭いコミュニティの中で発生する人間くさいどろどろ模様(主に下半身関係)をオモシロおかしく表現している。もっとも、いくつかツッコミ所はあるし、最終的なオチの部分にもいまひとつ合点がいかないところが残る。けれど、この監督特有の奇妙なリアリティをもつ「間」やセリフが、本人たちは真面目なのかも知れないけれど、傍から見ていると笑えてしまう様子を鋭くほじくり出していると思う。 主人公は巡査。オヤジ(三浦友和)は女の所に入り浸り。母と双子の兄、祖父との4人家族で過ごしている。で、そこに知性のない悪いカップルがやってきて、なぜか池から金塊を引き上げる・・・。昔から村に1人はいる知恵遅れの女が、誰の種か分からない子供を孕んだり、エロジジイが知恵遅れ娘にちょっかい出したり、轢き逃げしてダマテンを決め込んだり、まあ、昔からよく描かれてきた定番のエピソードを、巡査を中心に豊穣に展開させていく。最初は分かりにくかった巡査の家族環境も次第に分かってくるし、いろんな人間関係も見えてくる。なので、パッチワークのような描き方だけど、人物の深みはちゃんと出されている。けれど、悪党カップルがいまひとつリアリティないのだよな。 あの2人がどういう過去だ? とか生首や金塊は何? というのは、別に気にならない。問題なのは、なぜ先に女がやってきたのか?(来たから轢き逃げされたのだ) 街に住まいがあったはずなのに、なぜあの村に居座るのか? 衣服は着たきり、食い物はどうしてたのだ? 双子兄を引きずり込む必然性はないだろ! 金塊を信用金庫に持って行くか? 溶かして売るって・・・。といった具合に、あの2人はかなり変。まあ、現実の泥棒なんてあのぐらいトンマ、ということなのかな。どーもすんなり納得できない。 それと、巡査とネズミのエピソードが、全然、効果を発揮していない。巡査の、実はネズミなんかいないのに気になって仕方がない、っていう妄想=狂気が、ほとんど感じられない。巡査の周囲の人間関係や、家族との軋轢、問題なんかが、とくに巡査の精神を臨界点まで押し上げているようにも見えない。なので、殺虫剤を水道に混ぜたい、って役場に行くシーンが、あまりにも唐突すぎて「?」だね。唐突すぎる。次のシーンでは病院か? それとも家で静養か? と思っていたら、相変わらず駐在所に勤めている。それはないだろう、と思ってしまったね。むとろ、ラストでストレス発散のため、のように銃を撃つのは、アリだなと思ったけど。なんかちょっと肩すかし。 似ていない双子とか、いるはずのないネズミとか、面白くなりそうな設定がありながら、活かされていないのが残念だね。あー、あと、途中までオヤジが三浦友和だとは気がつかなかった。ああいうオヤジも演じられちゃうのだな。ふうむ。 | ||||
ヘンダーソン夫人の贈り物 | 3/15 | ギンレイホール | 監督/スティーヴン・フリアーズ | 脚本/マーティン・シャーマン |
原題は“Mrs Henderson Presents”。監督って今年のアカデミー賞に「クイーン」でノミネートされてた人なのね。ふーん。その割には、何だか軽い演出だったなあ。 日本では戦後話題になった額縁ショーが、英国では大戦中に行なわれていた、というのが面白かった。しかも、ロンドンががんがん空襲を受けている最中でも劇場を閉めないで公演しているという、戦時下の日本では考えられない様子が描かれている。こういうのをみると、そうだよな、戦地に赴く若い兵隊にはセックスというご馳走があってしかるべきだよな、と素直に思ったりする。ヘンダーソン夫人も、第一次大戦で21歳で散った息子がしまっていたヌード写真をみつけて、風車劇場で額縁ショーを始めたわけだ。日本のように禁欲的で鬼畜米英だった社会より、こういう大らかな社会の方がよっぽどましだよな、と思う。 それにしても、イギリスの金持ちはやることが途方もない。イギリスの植民地で築いた巨万の冨を受け継いだ70歳のばあさんが、余生の趣味に刺繍・・・ではなく、劇場をひとつ買っちゃうんだから。でもって、死んだ息子への思いから、ヌード劇場にしちゃうのだから凄い。まあ、そういう思いが過ぎてダンサーと若い兵隊をくっつけ、妊娠させてしまう・・・果ては空襲で殺すことになる、というのは辛いはなしだけど、もともとはよかれ、と思ってやったことだもんな。金持ちばあさんが世間を知らなくてもしょうがないとも言える。 ヘンダーソン夫人にジュディ・デンチ。彼女が雇うプロデューサーのボブ・ホプキンスが、いい感じをだしている。けれど、それ以外の脇役が、いまひとつ。せいぜい友達のばあさんと旧知の役人の2人ぐらいで、あとは影が薄すぎる。ダンサーたちは集団で描かれるだけで、個人としてはまったくといっていいほどフィーチャーされない。川で溺れそうになって雇われた娘だって、まともには描かれていない。オカマの男性俳優も、存在感はまったくなし。これはやっぱり、脚本が悪いと思う。人物の掘り下げをせず、感情移入できる役柄やエピソードがない。流れの上っ面をちょいちょいなでていくような軽い演出じゃ、いい映画になるはずがないだろ。もうちょっと丁寧につっこんでつくられたら、もっといい映画になったのにね。もったいない。 オープニングタイトルが、オンリー・イエスタデイ的なイラストで、とてもよかった。それから、オカマの役者が歌う早口言葉みたいな歌が、耳に残っている。いいね、なんか、雰囲気が。 | ||||
ホリデイ | 3/26 | 109シネマズ木場 シアター5 | 監督/ナンシー・マイヤーズ | 脚本/ナンシー・マイヤーズ |
洒落たロマンス、のつもりなのだろうけれど、ありきたり、の範疇を抜け出せていない。ま、その程度でいい、と思っているんだろうけどね。ちょっと変わっているのは、インターネットによる短期間の自宅交換によって、古い恋を捨て、新しい恋と遭遇するという設定ぐらいなものか。まあ、それでも、そこそこ楽しめる。 自宅を交換するのは映画の予告編をつくっているキャメロン・ディアス(ロス)と、編集者のケイト・ウィンスレット(ロンドン)。驚くのがキャメロンの自宅が豪邸なこと。予告編制作会社を経営してるからって、そんなにアメリカでは銭になるのかい? 一方のケイトはロンドンから電車で40分。しかも、車の入れない(ハイヤーは入っていかなかったけど、ケイトのミニやジュード・ローのクルマは家に着けていたよなあ・・・)小道をずいぶん入ったところにある、ほとんどあばら屋。仕事は第一線の編集者だってのに、だぜ。アメリカとイギリスの差は、そんなにあるのかい? そういう下世話な差ではなくとも、アメリカは映画産業で、イギリスは文学にまつわる産業で食べている、っていうのが、興味深い。 さてと。キャメロンは、イギリスのケイトの家へ。ケイトは、L.A.のキャメロンの家へ。2人とも失恋の痛手を癒すための、思いつきの臨時休暇。来ては見たものの、1日で飽きてしまう。なにしろ、することがないのだ。というところで、2人に新しい出会いが・・・という、お決まりの展開。なのだけど、キャメロンの方は、たまたま家を訪れたケイトの実兄を泊めてしまい、積極的にくわえこむという強引さ。一方のケイトは、映画音楽作曲家のジャック・ブラックとはゆるやかな進展。っていうか、ケイトは近所をよろよろと補助具を使って歩いている老人と仲良くなる方が主だったりする。でも、この老人との出会いは、映画に厚みを持たせるために大きく役立っているので、重要だ。なにせ老人は、1978年以来仕事はしていないけれど、アカデミー賞も獲ったことのある脚本家(イーライ・ウォラックが演じているのだけど、調べたら1915年生まれの92歳だよ。すげえ。しかも、まだまだ着実に映画に出ている人だった!)なのだ。この種明かしの部分は、びりびりっと来たぞ。老人が奨めるDVDを見ることで、ケイトは癒されていく。つまり、すでに存在していたはずの素晴らしい映画たちと出会うことで、視野が広がり、人間として成長していくわけだ。ところで、ケイトの役名はアイリスなんだけど、おいおい、彼女は「アイリス」という映画に出ているんだよな。年老いてアルツハイマーになってしまった作家の物語で、ボケた彼女を年老いた夫が介護する話だった。なんか、そのイメージがかぶってしまうよなあ。意図的なのだろうか? ロマンスとしては、色気たっぷりなキャメロンとジュードの物語の方がとっつきやすいし、単純に面白い。けれど、人間の成長ドラマとしては、ケイトをめぐる物語の方が深みがある。それに、映画をめぐるエピソードもでてくるし、ね。とくにDVD屋で過去の名作・名曲をあれこれするシーンでは、DVDを買いに来ていたダスティン・ホフマンまで登場するのだから! 物語に、大きな意外性はない。ジュードには女がたくさんいるのかも・・・と思わせておいて、実は妻を失ったやもめで、幼子が2人いるというような設定にしているのは、よくあるパターン。ラストもハッピーエンドで、安心してみていられるロマンス、と言えるんだろうな。といっても、実際のところ、それぞれの仕事はちゃんとつづけているのか、アメリカ、イギリスのどちらに住んでるのか? とか、気になるけどね。それから、細かなところに対比関係が埋め込まれていて、それを楽しむのも一興。アメリカvsイギリス。映像vs文章。現役バリバリの映画人vs忘れ去られた映画人。豪邸vs小さな家屋。高級車vs軽自動車。とかね。 やたらSONY製品が出てくるのは、鼻につく。キャメロンは、ちょっと顔が崩れてきているね。シワが激増しているし。ケイトは、もともと美人じゃないと思っているのでどーでもいいんだけど、単なる太ったオバサンにしか見えないのが辛い。ジュード・ローは、そこそこ。ジャック・ブラックは、お前ちょっとおすまししすぎだろう、と言いたいぐらいフツーの男を演じている。それにしても、あの顔で若手女優と同棲しているって、それは映画業界で作曲家としてそこそこ売れているから、だけじゃないのか? あ、そういえば、冒頭でジャックが曲を付けている映画に出ているのは、ジュード・ローとケイト・ウィンスレットかと思ったのだけれど、違ったのね。 | ||||
蟲師 | 3/27 | 新宿ミラノ2 | 監督/大友克洋 | 脚本/大友克洋、村井さだゆき |
見はじめて、10分ぐらいで眠くなってしまった。幼女に角がある、とかいう噺の途中で、するするする・・・と。で、ときどき、ふっ、と気づいてはまた眠りに入り、ちやんと起きたのは、江角マキコが池の中に入ろうとしているシーンで、幼い少年の目が抉られるところ。以降はちやんと見て、でも、ラスト近く、虹を見る場面でまたしても瞬間的に意識を失ってしまった。というわけで、何の話しやらさっぱり分からず。とんでもなく退屈で、分かりにくく、つまらない映画という印象だけが残った。 | ||||
蟲師 | 3/27 | 新宿ミラノ2 | 監督/大友克洋 | 脚本/大友克洋、村井さだゆき |
寝てしまったシーンを確認するために、もう一度見た。そうしたら、1回目に分からなかったことがちゃんと描かれていて、大筋ではストーリーになっていることが分かった。といっても、やっぱり分かりにくい部分がある。 ぬい(江角マキコ)の亭主と息子の話が、よく分からない。ぬいが、ヨキ(後のギンコ=オダギリジョー)を拾って育てるのは分かった。けど、ぬいが池の中に入っていく下りがよく分からない。池の深くで虫を食べるギンコという魚がいるのは分かるが、なんでそれがヨキの名前になるのだ? なんで目玉を抉らなくてはならなかったのだ? 淡幽のところに、老いたぬいがやってきて、それでどうして淡幽(蒼井優)が虫に侵されるのだ? それを払おうとしたギンコ(オダギリジョー)がまた倒れるけれど、これはトコヤミのせいではなく、もともとギンコのなかにあったなにかのせいだという。うーむ。それは一体何なのだ? とかね、間尺に合わない話がどんどん進んでいく。かろうじて辻褄は合っているけれど、納得できるようなものではないのが辛いところだ。 大きな原因として、特殊な用語があげられると思う。“こうみゃく”と言うから「鉱」か「香」か、どっちの文字かと思っていたら、光脈らしい。なんだよ、その光脈って。というようなことが、たくさんありすぎ。とても耳で聞いて分かるものではない。それを、この映画では見せて分からせようとせず、セリフで分からせようとしている。そのせいか、セリフが口語体ではなく、かなりの部分で文語体になっている。とても、奇妙だ。漫画が原作らしいが、その原作から離れて、映画を初めて見る人にも分かるようにしなくては納得してもらえる内容にはならないだろうな、と思った。 で、ラスト。ある光脈で、現在の唖の夫と小屋で生活しているぬいは、なんでまた泥だらけ? 夫が小屋から引っ張り出した少年は、何? ぬいは、少年をいたぶってるのか? で、ギンコがぬいの身体に、虫を呼ぶ薬をかけるのは、なぜ? 何のためなのだ? うーむ。よく分からないぞ。 大まかな流れはできていながら、ツメが甘い。原作を尊重しすぎるから、こんなことになるのかもね。って、原作は読んだことがないのでよく知らないのだけど。で、面白くない原因は、対立関係がはっきりしていないからだと思う。ギンコが戦う相手、それはいろいろな虫だけど、それがかなり曖昧。冒頭の、音を吸い取り耳を聞こえなくする虫は分かりやすいけれど、それ以外のものになると、すっと納得できるような物ではない。トコヤミなんか、どういう虫で何のためにそうするのか、果たして駆逐しなければならない虫なのか、どーも手がかりがなさすぎる。伝奇・妖怪物としては、悪い敵をやっつけるというカタルシスが足りないと思う。で、ギンコの出自が明らかにされる過程が描かれるのだけれど、ギンコ自身は過去を知りたい、と思っていないわけで、これがまた弱い。主人公ギンコの意志が曖昧では、ドラマとして面白くなるはずがない。キャラクターとしては虹を求める虹郎(大森南朋)の方がイキイキしているのは、追い求める物があるという差だろうな。 | ||||
麦の穂をゆらす風 | 3/28 | ギンレイホール | 監督/ケン・ローチ | 脚本/ポール・ラヴァーティ |
原題は“The Wind That Shakes the Barley”。家に戻ってから見たら、監督がケン・ローチなのね。なるほど。主役やヒロインの顔が見えない群像劇なところ、シーンとシーンの接続詞がなく、一見テンポがよさそうに話が進むけれど、省略されすぎて分かりにくいところなんか、ケン・ローチだね。ははは。 IRAの話である。がしかし、実はアイルランドのことはよく知らなかったりする。なので、すんなりと話に入り込めたわけではない。が、何も知らなくても大筋は分かるような描き方をされていた。といっても、アイルランド側の視点からだけなので、イギリスの言い分というのもあるんだろうな、とも思った。話は、そのイギリスからの完全独立を目指すレジスタンス(映画では正規軍と呼んでいたけれど、みんな私服だった)の話だ。イギリス支配下にありながら、抵抗する若者たち。でもって、抵抗が功を奏したのか、それとも時代の流れなのか、イギリスがアイルランドの独立を認める。ただし、北アイルランドだけはイギリス領として残す、という条件でだ。この条件を飲む、飲まないで、またまたアイルランド人は割れる。そうして、かつての組織のリーダーは飲む方にまわり、そのリーダーの実の弟は飲まない方にまわる。そうして、条件を飲んだ方は自由国軍(だっけかな)という軍隊を組織し、全面独立を主張する連中を反乱者として弾圧するのだ。まるでかつてのイギリス軍のように・・・。そして、最後は兄が弟を銃殺するという、やれやれな話だ。 きっとこの、やれやれな話を描きたかったんだろう。あるときは目的が同じでも、次第に考え方や求める物が変わってきて、反目し合う。そうして、憎しみ合っていく。そういえば、日本の左翼運動の集合離散もこのパターンだったね。結局は、理想よりも、手近なところにあるパンに食らいつく連中がいるってことなのだ。世界のどこでも、同じ様なことが繰り返されている。みんな自分の主張ばかりして、相手を受け入れない。その根底にあるのは“欲”だと思うのだけどね、俺は。 個人名がたくさんでてくる。そして、どんどん死んでいく、これには、ちょっとついていけない。あの人は誰だっけ? なんでこの男は殺されなくちゃならないの? とか、要所要所でよく分からないことがあって、でも、そういうことに構っていると話について行けなくなるので、無視した。個人の掘り下げ=描写があまりないので、人物に感情移入することもあまりなかった。なんか、こう、ケン・ローチの映画っていつもドキュメンタリーみたいだからね。 上映が始まってから入ってきたジジイらしき客が、後方でべらべら喋っている。席が見えないとか、そういうことなのかな。気になってしょうがなかった。前に座った男性客の座高が高く、首も寝かせないので邪魔になってしまった・・・。隣の席に移ろうにも、隣の隣のオバサンが、隣の席に鞄を置いていて、ままならない。後ろの席では鼻水をずるずるとすする音がする。前の方では、ぐぉっほんぐぉっほんと咳をする男性客。あー。いらいらのし通しだった。 | ||||
スチームボーイ STEAMBOY | 3/29 | シネマスクエアとうきゅう | 監督/大友克洋 | 脚本/大友克洋、村井さだゆき |
ケーブルTVで放送されたのを見てるんだけど、やっぱりスクリーンに映し出される画像は大きくて迫力がある。もっとも、小屋がよくないのでスクリーンサイズはあまり大きくないんだけど。最初の30分ぐらいはハイテンポな展開で見せるけれど、それが過ぎると全体に話がスローテンポに。ロンドン博覧会を舞台にいろいろな出来事が起こるけれど、どーもこちらに伝わってこない。最新技術が戦争のために利用される・・・なんて話は、これまでも手垢がつくほど語られてきたわけで、目新しくも何ともない。だんだん飽きてきて、1時間20分目ぐらいから眠くなりだし、30分ばかり寝てしまった。眠るまいとして瞼をつむってしまい、はっ、と目覚めては、またうつらうつら状態がつづいた 絵の動きがぎこちない。きっとこれは、ディテールを描き込みすぎて、大雑把な動きができなくなってしまったため、じゃないのかな。そのために、活劇部分でもスピードが感じられない。背景や人物の描き込みは凄いけど、映像のスピード感が失われてしまっているような気がする。 設定は19世紀の英国だけれど、人物の仕草や動作、セリフが日本的すぎるように思う。大仰な反応や、しょっちゅう叫んでいる、っていのは、なんかイモっぽい。もうちょいスマートにできなかったのかなあ。 で、クライマックスを寝てしまっていたんだけど、少年の父親と爺さまはどうなったんだっけ? ビデオでも見ているのに、すっかり忘れてしまっているよ・・・。 |