2007年4月

鉄人28号 白昼の残月4/3新宿武蔵野館1監督/今川泰宏脚本/今川泰宏
アニメ。描画は横山光輝のオリジナルに近く、場面によって正太郎少年の顔が違って見えるほど歪んでいたりするなど、稚拙。動作も大仰で、“漫画”的だ。時代設定を昭和33年にしているので、原作の味をできるだけアニメに移し替えようとして、そうしているのだろう。タッチを稚拙にして昔風にしているのは狙いなんだろうと思う。しかし、漫画では許せても、アニメでは違和感を感じてしまうところも多い。正太郎少年がチンポの毛も生えていないのに車を運転したり拳銃をぶっ放したりする、鉄人の縮尺が場面によってかなり違う、鉄人の飛行訓練を浅草〜千住辺りの隅田川で行なってしまう、どんな大事件も一部の警官が対応している・・・。もともといい加減な原作を、観客に「ま、いいか」と思わせるために時代設定を昭和33年にし、タッチも稚拙にしているのかも知れない。でも、素直に受け入れられないところもあったのは確かだ。
東京タワー建設中の昭和33年といえば、すでに戦後13年目。なのにシベリアからの復員兵が大量に電車に乗っていたり、特攻崩れが軍服で登場したりする。それは、時代考証的に正しいのかな。もう、戦後の影は薄れていたのではないかと思うのだが、どうなのだろう。同潤会アパートを思わせる建物が「相当古い」という表現で描かれるのだけれど、昭和33年に同潤会アパートは築後約30年のはず。まだそんなに古い建物ではないと思う。調べると、昭和33年は高度成長が始まった頃で、団地族という言葉もこの頃に登場している。せいぜい、一時代前、というところではないだろうか。それとも、原作がそうなっているのか?
ストーリーは、奇想天外というより、大ボラのようなところがある。しかも、複雑怪奇。廃墟弾だの米国財団だの、その財団がつくった(?)ロボットだの、その登場する根拠に説得力がなさすぎるのではないか。それぞれの意味がよく分からないし、伝わってこない。東京都内で大爆発が頻発するのも、おいおい、東京は大丈夫なのか? と思ってしまう。正太郎少年に異母兄の正太郎青年がいた、という下りも混乱が広がるだけ。さらに、正太郎青年の母親が黒幕・・・というのも、なんだかなー。意外性がどうのというより、ムリがありすぎだろ。混乱が増幅するだけだ。それにしても、横山光輝は変な話をつくったものだ。
と思って公式ページを見たら、なんとオリジナルストーリーなんだという。げげっ。しかも、テレビアニメでもこのタッチで放送され、それを引き継いでいるらしい。ふーむ。大いなる勘違いをしながら見ていたようだ。となれば、こんな複雑すぎてよく分からない話は鉄人には会わない、と言っておこう。ストーリーの大枠はシンプルに。意外性と小技をちょいちょいと利かす程度がいいのではないだろうか、と思ってしまった。
タイトルに、声の出演者が大書して登場する。これなんか、昭和30年代の映画のつくりを模しているのだろう。なかなかレトロで、悪くないと思う。エンドクレジットも縦書きだしね。で、個人的な思いなんだけど、鉄人っていうのはそんなに好きになれないのだよな。だって、意志を持たないロボットだろ。同時代のライバル、アトムが意志と心をもつロボットとしてあったのと比べると、鉄人はあまりにもメカニカル。歌詞でも「良いも悪いもリモコン次第」というぐらいで、リモコンが悪の手に落ちれば正義の味方ではなくなってしまう。たんなる操り人形なのだ。だから、あまり魅力を感じない。ま、機械的なロボットにも、それなりの魅力はあるのだろうけれど、アトムには未来を感じたけれど、鉄人はどうしても過去の遺物だと思う。ま、大東亜戦争における日本軍の武器だった、とこの映画でも語っているけれどね。
あー、ちょっと疑問点。特攻崩れのヤクザは、覆面の軍人に撃たれて死んだんじゃなかったのか? と思ったんだが、どーなんだろ。分からない。
情痴 アヴァンチュール4/3シネマスクエアとうきゅう監督/グザヴィエ・ジャノリ脚本/ジャック・フィエスキ、グザヴィエ・ジャノリ
フランス・ベルギー合作。原題は“Une aventure”で、不倫とか恋の冒険という意味らしい。で、内容はというと「だからどうした」ってな感じ。ストーリーはたいしたことがなく、ラストも「それでどうした」ってなところ。いかにもフランス映画らしい、だらだらっとした映画だ。
ジュリアンは幼いときに事故で両親を失い、両親の友人に引き取られて育った。その家の娘セシルは同年齢。成長して2人は同棲するようになる。・・・っていう背景が何気に解説されるんだけど、何か意味があるのかな? 見終わっても、意味があるとは思えないんだが・・・。で、こういう同棲関係って、親も公認だっていうのが日本の感覚とは違うよな。同棲中の2人が両親(ジュリアンにとっては育ての親)と食事をする場面があるんだけれど、みな違和感なく登場している。
さてと、ジュリアンは公立の映像図書館で働いている。映画のオープニングは、この図書館のビデオテープ自動挿入装置で、過去の記録映像とともに描写されていく。人間が必要に応じて記憶を呼び覚まし、再生する過程のようにも思えてくる。セシルも働いていたはずだけど、何をしてたんだっけ? 忘れた。2人は新しくアパートを借りる。ある雨の夜、ジュリアンは近所で女を目撃する。何かに怯え、問いかけても応えようとしない。数日後ジュリアンは、彼女が幼児を連れ、夫らしき男性と一緒のところを目撃する。とても幸福そうだ。しかし、何日かのちの夜に、ジュリアンは自傷し、怯えきった彼女と遭遇する。ジュリアンは女をつけ、彼女の部屋に入る。室内は血だらけ。女は何事もない様子で寝入っていた。ジュリアンは転がっていたビデオテープを無断で持ってきてしまう・・・。映像図書館で働いている彼らしい好奇心だ。ビデオには、夫らしい男性と幼児が映っていた。射撃する場面もあった。とりたてて不思議な映像ではなかった。
そして数日の後、レストランにいたジュリアンは、例の女のメイドだという女に声をかけられる。そうして、例の女(ガブリエル)と初めて口をきくことになる。・・・メイドがジュリアンを見たのは、いつだったかなあ? スーパーマーケットでかなあ? それにしても、ちょっと見かけた他人を「近所に住んでいるの? 一緒に飲まない?」と誘ってしまうのだから、話はちょっと強引。フランスあたりでは、とくに違和感はないのかなあ? でもって、ガブリエルに興味をもったジュリアンは女を尾行し、あるクラブへ行く。女も、つけられていることに気づいている。さらにそこで、女の夫に出会う。夫は、店に出仕しているらしい。で、ガブリエルはジュリアンとセシルを家に招待することになるのだ! なんという展開!
で、ガブリエルの家。レストランであったとき、メイドはまるでガブリエルと友達みたいな口をきいていたのに、ジュリアン達を呼んだ夜は、使用人の服を着せられている。これは、ガブリエルがそう命じたかららしい。その意味は? セシルはあまり乗り気ではない。同棲中のジュリアンがガブリエルに興味津々なのを察知したからだろうな。
・・・という流れで、でも、ジュリアンはセシルに大きなウソはついていない。ガブリエルとの遭遇のことも話している。でもって、ここは重要なのだけれど、この映画は一貫してセシルのナレーションで語られていくのだ。なのだけれど、映像はガブリエルの主観ではなく、案外と客観描写だったりして、セシルのナレーションの意味がよく分からない。
で、おいおい分かっていくのは、夫だと思っていた男は郊外に家庭を持っていて、ガブリエルは不倫の相手だと言うこと。ガブリエルは夢遊病者で、愛人男もうすうす感じていたということ。そうしてガブリエルは自傷行動を繰り返すようになり、入院することになる。愛人夫は近寄らなくなり、ジュリアンが世話をしはじめる。開いていくセシルとの仲・・・。
と、なんとなく思わせぶりなまま話は進んでいくのだけれど、全然、意外な方向に話が転がっていかない。なので、ちょっと眠くなってきてしまい、ジュリアンがガブリエルを昔の両親の家に連れていく辺りで、5分ぐらい半睡状態になってしまった。うむむ・・・。
でまあ、ガブリエルは愛人男の家に乗り込んでいくのだけれど、愛人夫の妻はガブリエルの存在を以前から知ってたというのだ。それで、こちらの家庭では争いにはならなかったのかい? よく分かんないなあ。で、愛人夫がガブリエルを送っていき、そこでガブリエルに射殺されてしまう。何でだよ!? で、その行為は夢遊病中のことなので罪に問われず、ガブリエルは間もなく出所。幼児とどこかへ行ってしまった・・・。セシルはジュリアンとの分かれる決心をしたのだけれど、結局、分かれるまでには至らない・・・。
と、粗筋を書いているだけみたいな感想文になってしまったけれど、“読み”をしようと思う対象になる要素はいろいろと詰め込まれているんだけど、“読めない”んだよなあ。終わってみれば全然ミステリアスではないし、凄い! と思えるところもない。だいたいガブリエルはそれほど美人じゃないので、愛人男やジュリアンが惹かれるようになる理由が分からない。怪しいヒロインは、もっと魅力的であるべきだろう。それから、ナレーションのセシルについて、あまり描かれていない。彼女の主観はどこに行ってしまったのだ? そもそも夢遊病という設定自体が活かされていない。「イブの三つの顔」が描いている多重人格障害の女性の、不気味で圧倒的な違和感と比べてみると、とても薄っぺら。なんだか思いつきでたらたら撮っている感じで、シナリオの作り込みがなされていない。すべてに中途半端で、物足りないぞ。もったいないなあ。
デジャヴ4/5109シネマズ木場 シアター8監督/トニー・スコット脚本/テリー・ロッシオ、ビル・マーシリイ
原題は“Deja Vu”。題名から、ちょっとサイコっぽいクライムサスペンスかなんかだろうと思ってみていたら、なんと。SFだったのでたまげた。っていうか、かなり萎えた。だって、デンゼル・ワシントンがタイムトラベラーだなんて、似合わないよな。
戦艦(?)の乗組員家族で賑わうフェリー。その爆破テロと、もうひとつの女性死体から物語は始まる。女性クレア(ポーラ・パットン)がテロに関係あると見た捜査官ダグ(デンゼル・ワシントン)は、彼女を調べ始める。と、FBIの関係者からある部屋に案内される。数台の衛星からの映像で、4日前の映像が再現できるというもので、4日前のクレアの行動を観察し始める・・・のだけど、上空からの撮影でどうして室内の人間の顔かたちまで再現できるのか「?」だったんだけどね。しかも、メモリ容量の関係で一度しか見られない、っていうのが説得力に欠けるよな。でも結局その画像は、実は衛星が撮ったものではなく、現在と4日前の時空が接合したもので、4日前に進行している現実の映像を見ているのだと説明される。だったら4日前にも行けるだろう、という話になって、動物実験では失敗したけど・・・というのを説得して、デンゼルがタイムトラベルすることになる。
で、このタイムトラベルには色んなところにムリがあって、どーも釈然としないことが多すぎる。なので、すんなり「なるほどなー」と納得できないのだよね。細かいことを言うなと言われそうだけど、でも、やっぱりねえ、タイムトラベル物にはよくできた物がこれまでにたくさんあるから、単に表面的なつじつま合わせをしただけの物は、ちょっと弱く感じてしまうのだ。とくにラストで現れる刑事ダグは、こっちの時間の流れでは何をしていたんだ? というような気分になってしまうし、クレアにとっては初対面ではないのに、こっちのダグにとってはクレアとは初対面ということになって、うーむ、それで大丈夫なんだろうか? と、疑念さえ感じてしまう。それに、タイムトラベルの話で、過去を変えてしまうと変わった方の時間軸が優先されて、もう一つの時間軸は次第に消滅する・・・とかなんとか言っていた。で、そういっていた科学者が、ダグを過去に送り込み、過去を変えさせようとしているところにも矛盾があるのではないのかな。分かりにくかったのは、ヘッドセットみたいなのをつけて、4日前の犯人を追跡するところ。4日前の画面を見ながら、いま現在の道路を走れば危ないに決まっているだろう。だったら、もう1人同乗させて、そのナビゲートで追跡すればいいのに。でも、そうすると映画のサスペンスがなくなってしまうのかも知れないけど、なんかムリがあるようなところではある。
で、そもそもの犯人だけれど、愛国的テロリストらしくて、別にアラブ人ではない。単なる狂人という設定なんだろう。でも、クルマを買う相手のクレアを殺害する理由がよくわからない。さらに、テロを阻止するためにダグがフェリーに乗り込んだことを知ると、橋の上からリモコンで爆破・・・という計画をさっさと捨てて、フェリーに乗り込んできてしまう。でもって、何をしようとしたんだろう? 犯人は。自爆しようとしたのか? 自爆の前に警備員を撃ち殺し、ダグをも撃ち殺そうとするけれど、それっておかしくないか? などと、突っ込みたくなるところがいくつもある。
そもそも、ダグがクレアを助けたくなったのは、4日前の画像を見て惚れてしまったから、なんじゃないのか? 単に既視感を感じたから、だけではないだろ。でも、そういうのって口では説明しづらいし、なので画像に映るクレアを延々と眺め続ける様子を映し出すわけだけれど、それって単なる覗きだろ、と思ってしまうところがある。
それにしても、将来的に、タイムマシン的監視でないとしても、あちこちに設置している監視カメラの映像で、Google Earthみたいに自由にチェックできるようになったりするのかね。犯罪者の動きどころではなく、一般人の一挙手一投足、いや、セックスしているところからオナニーしているところまで、ぜーんぶ見られてしまうことの恐怖があるよね。なんか、それってとっても恐ろしくないか? それで犯人が捕まればいい、って話でもないような気がするのだけどね。
アンフェア the movie4/6テアトルダイヤ監督/小林義則脚本/佐藤嗣麻子
どんな映画か分からなかったので検索したら、テレビ番組の映画版なんだとか。で、そのテレビ版は見ていないのだけれど、「踊る大捜査線」みたいに意外と化けることもあるのでひょっとしたら・・・と思ったけれど、テレビドラマとしても低レベルな部類にはいるようなデキだった。導入部なんか、ほんともう見ていられないほどお粗末。ホンも演出もつなぎも、学生がつくったんじゃないのか? って思えるぐらいで絶望的。
予算もテレビ並みでチープ。爆破その他は肝心なシーンを見せないという、インチキさ。アクションシーンも完全な手抜きだった。役者もイマイチで、篠原涼子以下大半が大根。演技なんて言えるようなものはではない。阿部サダヲや加藤ローサは最初の頃にちらっとでてきただけ。寺島進だけが目立っているという始末だ。でもって、これは俺が悪いのかも知れないけど、区別がつかなくてさ、エンドクレジットに加藤雅也、江口洋介の名前を見つけて、え、ええーっ!? ってのけぞってしまった。そーだったの? 気づかなかったよ、なのだ。それに、成宮寛貴も、出演している映画はいくつも見ているのに顔が同定できないでいる。なんか、みんな似通ってるんだもん。江口陽介ったら、さらり長髪のイメージしかないんだよなあ。ジジイ >> 俺。
でもって、ストーリーが終盤になってバタバタと展開していくのだけれど、実は、実は、とバラされていく途中で何が何だか分からなくなってしまったよ。いったい本当の黒幕は誰で、何を目的にどういう計画を立てたのか、教えてくれ〜。
それにしても、警察病院に立て籠もって、金を指定口座に振り込め、っていっても、そんな計画が成功するはずがないだろう。どうやって逃げ出す? どうやって資金を引き出す? とても現実的だとは思えない。篠原がやすやすと地下から建物に侵入できてしまうのって、あり? さらに、建物の地下が地下鉄線路につながってるなら、警察もそっから入ればいいだろうに。だって、設計図をもってるんだろ? 感染病にかかった男が、幼児が近づいてくるのを止めないばかりか、抱きしめてしまうのって異常じゃない? とか、あまりにも杜撰なところが多すぎる。でもって、篠原が娘にワクチンを打ち、抱きしめるシーンは、これでもかというほど浪花節的に長すぎる。自分の娘の救出となると常軌を逸してしまう女刑事篠原涼子は、感情で動くバカに見える。で、警察の裏金が80億円? なんかなあ、説得力ないなあ。
篠原涼子は全然カッコよくも見えない。アクションの動きが全然できていない。ってか、していない。黒い下着が少し透けて見える白いシャツ姿なんだけど、これがほとんど色っぽくない。もうちょっと見せなさいよ、女っぽさ、エロスを。と思ってしまった。
さて、金曜日11時30分の回に行ったら、入口に「整理券を発行します」「本日は完全入れ替え制となっています」と書かれていた。もっとも初回なので整理券はなかったけれど、それでも平日にしてはそこそこの入り。こんな映画を青年たちは面白いと思っているのかね。まったく困ったものだ。
13/ザメッティ4/10シネセゾン渋谷監督/ゲラ・バブルアニ脚本/ゲラ・バブルアニ
原題は"13 Tzameti"。フランス/グルジア合作なんだと。なーるほど。フランス語っぽく聞こえなかった部分は、グルジアの言語なのかな?
巻き込まれ形の極限状況=恐怖をクリアして、いかにトンズラするかという話。予告編を見なければもっと楽しめたかも知れない。でも予告編では、男たちが輪になって、それぞれ前方の男に銃で狙いを定めているシーンがあった。これでは本編の意外性はまったくない。話も概ね予想した範囲で、それ以上のものではなかった。
そもそも、人間ロシアンルーレットの賭事なんて、わりと設定ではあるぞ。そんなに珍しい物じゃない。そのせいか、ロシアンルーレットのシーンでもほとんど恐ろしさを感じなかった。死ぬ恐怖は、「硫黄島からの手紙」の方が断然ぴりぴりときた。やっぱ、つくりごとの弱さなのかも知れない。
ラストのちょっとしたどんでん返しも、わりとよくある正当パターン。意外性に欠ける。設定もラストも、案外と当たり前で、新しさを感じない。これがそのまま40年前の映画だとしても、何らおかしくないと思う。ひょっとしたら、そういう古さを意識してつくっているのかも知れない。白黒、ワイド画像。まるで1960年代風の感じだ。
主人公は翌朝、いったん警察に隔離されるのだけれど、簡単に解放されてしまう。それはないだろ。硝煙反応と血液反応をチェックすれば、逮捕間違いなしだろう。そんなこともしない警察って、アホじゃないのか?
冒頭部分の、屋根の修理をしている家の妻と、出入りしていた男との関係は何なんだろう? 放り出したまま終わってしまっている。ちょっと不満だな。
ブラッド・ダイヤモンド4/11上野東急監督/エドワード・ズウィック脚本/チャールズ・リーヴィット
最近はアフリカが舞台のドラマがよくつくられる。「すべては愛のために」「ホテル・ルワンダ」「ルワンダの涙」(未見)「ラストキング・オブ・スコットランド」(未見)・・・。「ER」でもカーターがアフリカに行く場面があったっけ。でまあ、アフリカ内乱がよく描かれているんだけど、この「ブラッド・ダイヤモンド」もそのひとつで、白人がダイヤを欲しがる→密売人が跋扈する→アフリカのダイヤを狙う→アフリカ人がダイヤを売る→内乱の資金源・為政者の遊興費に使われる→民族対立が深まる・・・という図式で描かれていて、まあ、それはそれでひとつの要因ではあるだろうけれど、それだけかあ? という気持ちにさせられてしまう。つまりまあ、同じ様な状況が日本で発生したとして、あんなに簡単に同国民を殺すか? 「ホテル・ルワンダ」のように民族が違っていたとして、あんなに残酷なことが日本で起こるか? と考えてしまう。せいぜいでてくるのは関東大震災の流言飛語で朝鮮人が殺されたとか、どのていどの規模なのかまったく明らかになっていない南京虐殺という意見じゃないのかな。でも、そういうレベルの物ならカスター将軍のウンデットニー虐殺(「ソルジャーブルー」)だとかベトナムのソンミ村事件だとか、いろいろ他国にもときどき発生する。そういう規模のものではなく、相手民族憎しで無茶苦茶なことをするといったら・・・クロアチアとかセルビアの紛争でもあったと思うけど・・・。なんか、東洋人の視点からすると、相手民族を殲滅するような諍いって、よく分からない。短絡的かも知れないけど、民族的または人種的な違いというのが大きいのではないか、と思ったりしてしまう。って、こういうことを言うと「お前は差別している」なんて言われそうだけど、あくまで印象ね。だって、映画はフィクションなんだから正しく描かれているとは限らないわけで。
アフリカの民族紛争って、なんか下世話にしか見えないのだよね。「あいつらだけいい思いをしやがって許せねえ」って暴力で殴り込みをかけているだけじゃない? だから、政府軍も反乱軍も結局のところ利権がらみで、なんだか暴力団が抗争みたいにしか見えないのだよね。そういう野蛮さって、東洋にはあんまりないと思うんだけどね。で、そういう連中に西洋人が武器を売りつけるわけだ。キチガイに刃物どころではない。アフリカ人たちがもっとゆったりとして進化をとげていけばいいのだろうけれど、文化・モラル的には西洋や日本の戦国時代のレベルしかないのに、いきなり20世紀の武器弾薬じゃな。なにも基盤がないところに文明をもってきても、そうそう根づくはずもないよな。というわけで、ダイヤで翻弄しているの西欧諸国だとしても、翻弄される側にも問題点があるのではないかと思えてします。
建て前の設定(アフリカの混乱は白人が元凶)はさておき、古典的なハリウッド映画の王道をいく映画のつくりだった。ディカプリオはダイヤの密売人で基本は悪徳商人のはずなんだけど、表面的にはヒーローとして描かれ、ラストになると自分を犠牲にして黒人一家を救うという展開。昔からよくある、主人公は悪人だけど本来はいいやつで、最後にいいところを見せる、というような終わり方だ。とはいうものの、ディカプリオが何を考えているのか、始めから最後まで分からなかった。両親が紛争で虐殺されたといっていたけれど、その後の心のひねくれ具合には特に共感はしなかった。ディカプリオにからむジャーナリスト(ジェニファー・コネリー)も、なんか存在がストレートすぎて人間味がない。いきなり不躾にディカプリオに質問するし、その後もとくに心を通わせるようなところがない。なのに、ディカプリオが生涯で初めて好きになった女、みたいな描き方をされていてとても不自然。女ジャーナリストの方も、ディカプリオのどこに惹かれたのか分からない。国連軍なのか米軍なのか、駐留している軍の大佐もピンクダイヤモンドを欲しがる・・・っていうのは、あまりにも唐突でリアリティが足りないのではないだろうか。そもそも、刑務所内で黒人ソロモンが「見つけた」と指摘されただけなのに、ピンクダイヤモンドの噂はあっと言う間に広がっている。では、なぜソロモンは釈放されたのだ? 鍵を握る重要人物なら、逮捕した隣国の軍隊でも血眼になってダイヤを探すんじゃないのか?
で。ディカプリオが何を考えているのかさっぱり分からないのが困りもの。ピンクダイヤで最後にひと山当てて足を洗う? ソロモン一家のことは、本当はどこまで親身に考えていたのか? もともと単に利用しようとしただけ? それが情が移った? の辺りが伝わってこない。それに、隣国の軍隊から釈放され、ソロモンに接近してから、何を目標にしようとして活動しているのか、さっぱりわからず。ジャーナリストと一緒に行動したり、あっちこっちを逃げ回ったりはしているけれど、何をしようとしているのか伝わってこないのでとてもつまらない。で、最後はソロモンの意気込みにほだされてソロモン息子を救出&ピンクダイヤを目指すんだけど、そんなにダイヤが欲しいのならさっさとダイヤへ一直線でもよかったんじゃないの? とかね。いまひとつ考えていることが分からない主人公ディカプリオだった。
それにしても、ソロモンはアホな黒人を演じているよな。難民キャンプで、巡り会った家族に向かって金網越しに「息子は!」と叫びまわり、看守に撃たれそうになっても叫びつづけているって、アホみたい。さらに、反乱軍のトラックに息子らしき少年が乗っていたからと声を出したりする。これね、アフリカ人は自分をコントロールすることができない人種ですと印象づけているように思えてくる。こういうのを見せられると、悪の根源は白人、という表面的なメッセージの他に、「アフリカ人はファナティックで危険な人々です」というのを印象づけようとしているようにも感じられたりする。
で、ソロモンはダイヤを白人に売りつけ、そのシーンを女ジャーナリストが写真に撮って告発した、というオチ。で、ソロモンは白人達の前で講演するらしいのだけれど、では、ソロモンはダイヤと交換に手にしたポンドは、どっかに寄付でもしたのか? それとも、ちゃっかり自分のモノにしたままなのか? 個人的なものにしたまま、偉そうに告発したりできるんだろうか、というのが最後のシーンの疑問だな。
それにしても。いくら麻薬漬けにされるからといって、少年がいとも簡単に殺人マシンに変身し、実の親にも銃口を向けるようにマインドコントロールできるのかな。なんか、ムリがあるというか説得力のない描き方だったように思える。
オール・ザ・キングスメン4/13新宿武蔵野館3監督/スティーヴン・ザイリアン脚本/スティーヴン・ザイリアン
とても退屈だった。なんていうかこう、物語の輪郭が十分に提示されないまま、臓物だけがだらだらと投げ出されていく感じで、つかみどころがない。文章で言うと句読点がちゃんと打たれないまま文字が並んでいる感じ? 人物関係もいまひとつ分かりにくい。調べたら1949年に同名の映画があって、そのリメイクなのね。しかも、旧作はアカデミー賞他獲得。なのに、こっちはどーしてこんなにつまらないの?
地方の小役人(ショーン・ペン)が人々の注目を集め、知事に当選する。・・・という過程は面白いし溜飲が下がる描き方。でも、あまりにもさらりと短くて、ちょっともったいない。この出世譚に比べて、知事になってからの話がまったくダメ。つまりまあ、ショーン・ペンがいかに堕落したかということがほとんど描かれていないからだ。ちょいちょいとセリフだけで済ませている。さらに、知事となって彼は何をしていったか、何をしなかったか、ということも余り描かれていない。こういう、物語の核心部分がちゃらんぽらんだから、以後の転落模様も落差が感じられないのだよ。小役人のときはくそ真面目だったのに、どうやって堕ちていったのか? それを見せなくちゃいかんでしょ。
で、そのショーン・ペンに群がる連中にいまひとつ魅力がないというか、描かれなさすぎ。登場時間は長いのに、人間が描けていないのだよね。とくに元記者のジュード・ローなんか、ずうっと最後までフツーのお坊ちゃんで、ショーン・ペンが悪に染まっているのが分かっていながら応援していくという、葛藤や苦悩はまったく描かれない。しかも、ショーン・ペンにとっての邪魔者がローの育ての親(実は実父・・・というのは、明かされる前に分かってしまう)なのに、その育ての親の弱点を調べ上げて、最後は突きつけるという極悪非道のはずなのに、あまりにも淡々とし過ぎ。もっとしたたかなキャラでないと務まらないのではないの?
最初のうちはショーン・ペンが主人公のように進んでいくのに、途中からジュード・ローが主人公のようになっていく。これも生理的に受け入れられなかった部分だ。しかも、ロート育ての親をめぐる話と、さらに、その次には元知事の兄妹との関係(とくに妹との恋愛感情なんだけど、女が身体を差しだしているのに寝なかったという奇妙な関係が描かれていて、いまの感覚ではとても異常に思える。お前は同性愛者か?)になっていく。おいおい。ショーン・ペンの話じゃなかったのか? と、戸惑ってしまう。さらには、ジュード・ローの昔の恋人(みたいな)ケイト・ウィンスレットが、どーいうわけかショーン・ペンに身を委ねるという、なんで? ということも起こって、まるで戸惑ってしまう。要するに、その寄って来る原因がちゃんと描かれず、臓物だけが因果関係も薄く放り出されているからだと思う。
というわけで、英文タイトルの“All the King's Men”の意味も正確には分からないし、話の内容もいまひとつふたつみっつぐらいピンとこなかった。ラストにしたって、だからどーした、の部類だよなあ。物語にダイナミズムが感じられず、臨場感も切迫感もない、焦点ボケのだらんと間延びした映画だと思う。
4/16ギンレイホール監督/キム・ギドク脚本/キム・ギドク
韓国映画。いい年をしたジジイが6歳の幼女を誘拐し、10年後に16歳の誕生日になったら船上で結婚式を挙げるのを楽しみに生きてきた。ジジイは釣り船経営者。小型の舟で客を陸から連れてきて、釣り船に移して商売をしている。娘はずっと陸に上がったことがない。ジジイと2人の生活に違和感を感じてこなかった娘だが、ある日、若い男が客としてやってきてほのかな恋心を抱いてしまい、ジジイは嫉妬に狂いはじめる・・・。とという話で、色気づく思春期の少女、老人の少女耽溺、誘拐なんていうのはよくあるテーマおよび設定。似たような映画はたくさんある。
誘拐ジジイによる変態趣味なんて、本来は犯罪話。でも映画だから、哀れなジジイの深情けに同情するような描き方をしている。まあ、こういう描き方も、とくに珍しいねのではない。老人だって若い女が欲しい、未来を見たい、まだまだ現役だという意志だろう。
娘が青年に惹かれ始めるにしたがって、ジジイに嫌悪感を抱き始める過程が、なかなか微に入り細にわたって描かれている。嫉妬に狂いながらもさほど逆上せず、みっともない姿を見せないのは、このジジイが弓を使った楽器の奏者であり、占い師であるのと関係があるのかな。ただのエロジジイではなく、知性と教養があることを占めそうとしているのだろうか。
娘が青年に連れられて帰る舟にロープを縛り付け、その端を自分の首に巻いて死のうとするのは、娘に存在を否定されたことへの意趣返しだろうな。俺を殺したのはお前だ、俺を殺した負い目を背負い込め、ということだろう。でも、死にきれないのが哀れを誘う。で、死のうとしたジジイを発見した娘は、一転してジジイを捨てようとしたことを悔いるのだよ。そしてジジイが楽しみにしていた結婚式を挙げるのだよね。まあ、娘の最後の慈悲といえばいえるのだろうけど、この展開はちょっと理解できない。かなりムリがある。
で、式を挙げ、船上で2人は肌を交わしたのかと思いきや、娘は横たわったまま深い眠りに落ちる。そして、ジジイは弓で弦を空高く射って入水する。娘を乗せたままたゆたう舟。まあ、ここまではフツーなんだけど、その後に面白い展開が待っていた。娘が、まるで男に抱かれているかのように両足を広げ、腰を動かし始めるのだ。夢の中で性交しているみたいに。そして、スコンと矢が落ちてきて、娘の股間近くに刺さる。おー。ジジイの想いが矢に乗り移ったか。そして、身もだえが終わった娘の股間が、処女の血で赤く染まるのだよ。ここはなかなかエロチック。でまた、何かの伝承のような向きもあって興味深い。
このラストに持って行くまでが、ちょいとありきたり。というか、色んな映画や物語からの引用が気になってしまい、ちょいと安っぽく見えてしまう。もっと前半から幻想的な世界をかもし出していた方がいいような気もする。
主人公の娘は、言葉を発しない。耳も聞こえているかどうか怪しい。ジジイが弓占いをしたあと、その結果をジジイに耳打ちするシーンがあるのだけれど、声は聞こえない。ほんとうに喋っているかどうかはわからない。画面に映っているとき以外で喋っているのかも知れない。けれど、画面ではしゃべらない。その意味は不明だ。彼女はそこそこ可愛いく、前半は垢抜けない少女のような描き方。青年に恋すると娘盛りのようなメイクで、最後は成人に近いような顔立ちになる。このあたりは気を使っているね。それから、ラストで主を失った漁船が海に沈んでいくシーンがあるのだけれど、本物を沈めたように見える。引き上げるのは大変なはずだから、原寸大模型でもつくってやっているのかな。ちょっと気になったぞ。
トンマッコルへようこそ4/16ギンレイホール監督/パク・クァンヒョン脚本/チャン・ジン、パク・クァンヒョン、キム・ジュン
朝鮮戦争における人民軍(北)兵士3人とアメリカ軍パイロット1人、南の兵士2人が山村で遭遇し、いっときのユートピアを体験するというお話。概略は分かっていたけれど、冒頭とラストに激しい戦闘シーンもあったりして、単なるファンタジーとはちょっと違うような気がする。すぐ連想したのは「まぼろしの市街戦」で、人々が逃げ去ってしまった街に精神病患者が出かけていき、そこに兵隊がやってくるという話だった。話の展開はちょっと違うけれど、テーマは似ている。驚いたのは戦闘機の描き方で、のんびり飛んでいるのではなくビュンともの凄く早く飛び、落ちる。このスピード感は、割とリアルな感じがした。
相対する兵士が遭遇し、はじめは敵意をもっていたのが緩和され、親近感を抱き合う・・・という設定は昔からあって、とくに珍しい物ではない。韓国の太陽政策はまだつづいているはずだけど、以前のような北礼賛的な状況ではなくなってきているはず。なんでいま? と思って制作年を見ると2005年。まだ南の青少年が北のヨロコビ組を追っかけていた頃の映画なんだろう。
いろんなところに配慮がめだつ。たとえば兵士の人数。北3対南3なんだけど、南にはアメリカ兵が1人いる。北にはロシア人はいない。
人民軍の少年兵が「南が攻めてきた」というと、南の兵隊が「北が攻めてきたんだ」といい、少年兵が怒り出す。それを上官が「北が攻めたんだ」と少し哀しそうにいう。少年兵が「知らなかったんだ」とちょっと不満そうに言う。北側が、自分から攻めた、なんていうか?
ラストでは、アメリカ軍に向かって南北の5人が戦いを挑む。1人いたアメリカ兵は、ここでちゃんと抜けている。でも、南の兵士がアメリカ軍に攻撃してもいいのか? このあたりのバランスは南北関係の微妙さが滲み出ているようなところかも。
南北米の兵隊が遭遇する山村トンマッコルは、幻想の村ではないようだ。村人の誰かが「外に行きたがる若い者もいる」なんてことを言っていた。アメリカのアーミッシュの村みたいに、世間と交流を断つことを是とする人たちの集まりということなのだろう。でも、銃を棒と呼んだり、あまりにも無知なところがあって、ちょっと違和感もある。
この映画には、ちょっと頭がゆるくて、トリックスター的な位置づけの娘が登場する。利害や打算なく、心のおもむくままに生きている女で、昔はどんな村にもキチガイや乞食がいたものだ。とくに阻害や迫害もされず、そういう存在として受け入れられていた。しかし、この映画では、たんに画面の中をうろうろするだけであまり威力を発揮していない。彼女にはなにかもっと鍵になるようなことをさせるべきだろう。たんに北の少年兵が心ときめかす相手だけで終わってはしょうがないと思う。それと、ちょっと頭がパーだけど魅力的な小娘、というにしてはあまり可愛くない、っていうか、歳を食っているような顔立ちなのが残念。「弓」のヒロインと比較すると、間の抜けた顔立ちが、そのままなのだ。ああいう設定の娘なら、もっと輝かないと。
他にも、亭主を亡くした女と兵士の交流とかあるんだけど、描き方が弱いのだよね。村には長老の他にもユニークなキャラがいたのに、あまり活かされていない。これはもったいない。
ラストは「七人の侍」のような塩梅で、村の位置を知られないように5人が無謀にもアメリカ空軍に挑むのだけれど、ここも、自分たちを犠牲にして村を守る、という色づけがもっと欲しかった。あ、それから、アメリカ兵が見つけた武器弾薬は、あれは何だったんだ? 第一次攻撃隊が落下傘で落としたもの?
ブラックブック4/20テアトルタイムズスクエア監督/ポール・ヴァーホーヴェン脚本/ジェラルド・ソエトマン、ポール・ヴァーホーヴェン
オランダ/ドイツ/イギリス/ベルギー映画。文句なく面白い。だらだら撮り流さないスピーディなテンポ、畳みかける危機、運命の流転・・・。冒頭からの2/3は波瀾万丈大活劇のようで、映画の世界に没頭、というか、引き込まれてしまう。でもって、一気呵成に見せられてしまう。しかも、構成がしっかりしているので「?」や突っ込み所がない。素晴らしい。でも、終戦後の謎解き部分はいささか重く暗く、テンポもにぶる。まあ、内容からいってしょうがないところもあるけれど、それでもウンコあびせやあれやこれやサービス満点。飽きさせないようになっている。ほんとうに素晴らしい。
ドイツが降伏する直前のオランダが舞台。隠れ住んでいたユダヤ人を“逃がす”グループと、それをサポートするレジスタンス組織、家族を殺されレジスタンスで働くようになったヤダや女(エリス)、エリスが接近するドイツ大尉ムンツェ・・・。要素が多いにもかかわらず、上手く整理されていると思う。レジスタンスからは、ムンツェはユダヤ人を殺害した張本人のように言われている。けれど、一方ではレジスタンスと接近して交渉したり、接近してきたエリスの助けになろうとする。この変な対応にちょっと疑問を抱いたのだけれど、ドイツ軍が敗北寸前だったことを考えると、納得がいく。たぶんムンツェは戦後のことを考えていたんだろう。レジスタンスに協力することで、生き延びようと・・・。もうひとりフランケンという悪徳中尉がでてくる。こっちは、あるレジスタンス(これが映画の中の謎)からの情報で、富裕ユダヤ人を団体殺戮。宝石などを溜め込んでいるやつだ。こっちも戦後の生き延び方を考えていたんだろう。もうひとり、ドイツの将軍がいるんだけど、こいつは敗戦後に連合軍に全面協力し、ムンツェを銃殺に追い込んだりするのだけれど、これも自分が生き延びる手段。ハイルヒトラーといいながら、みな戦後の自分を考えているのだった。
一方のユダヤ人支援者側にも、裏切り者はいる。しかも、ドイツ人と取引して利を図る。そういう裏側のあれやこれやが入り混じっているところが、この映画の見どころではないかと思う。終戦後、ナチ協力者がリンチされるのはよくある描写。しかし、エリスのようにスパイとして協力していた場合、その真相を知る人がいなくなると、疑いを晴らすことができなくなるわけで、たまんないね。
テンポが速い大活劇のせいで、人が殺されるところに哀しさや想いの深さはあまりない。チラシには「シンドラーのリスト」「戦場のピアニスト」と並べてこの映画を紹介していたけれど、そういう人間の生の重みといった部分に焦点は当たっていない。ひたすら娯楽活劇だ。軽すぎるという意見もあるだろうけれど、これはそういう視点で造られていないと思う。設定をユダヤ、ドイツ、レジスタンスにとっただけで、目指しているのは娯楽映画だと思う。
ラスト。エリスはイスラエルのキブツにいる。平和なのかと思いきや、突如、爆撃の音で映画は終わる。中東戦争でも始まったのだろうか。以後、ユダヤ人は加害者になっていく。それを暗示して映画は終わる。
ドイツ軍で同僚だったロニーという娘がいる。フランケンの彼女になっていたりするし、たんなるドイツ軍協力者かと思わせておいて、実は彼女もスパイだったの? と思わせるシーンがある。エリスがドイツ軍に逮捕され、牢獄に入れられたとき、ドイツ軍の軍服を着た仲間に助け出させるのだ! これは、たんに個人的な行動なのか? それともロニーは組織と関係あるのか? 助け出したドイツ兵は、ドイツ人? 彼も連合軍側のスパイ? ロニーは冒頭でイスラエルに観光客でやってくる。そして、エリスと偶然再会する。しかも、昔のままのお調子者みたいにね。でも、本当に彼女はただのドイツ軍協力者で、戦後はイタリア兵と仲よくなっただけなのかな。なんか、違うような気もするんだけどね。
小道具もいろいろでてくるけれど、それが効果的に使われる。棺桶。イギリス軍からのチョコレート。期限切れのクロロホルム。切手。さりげなく登場するけれど、みな深い意味があったりして、上手い。キャラクターも描き分けがされていて、ガチガチの共産主義者のレジスタンスとか、悪いが笑ってしまったりするところもある。それから、エリスが惜しげもなく裸体を、しかも、いかにも生っぽい裸を見せてくれる。とくに陰毛を染めるシーンはアップだった。おお。さあ裸だよ、というような見せ方ではなく、ごくフツーに裸が出てくる。この見せ方が素晴らしい。フランケンのチンポコはぼかしが入っていたけれど、あれはなんでかな。ペニスぐらいいまどき映しても問題ないと思うんだけどね。主人公のエリスを演じるカリス・ファン・ハウテンはとくに美人ではない。けれど、凛とした気配があって思いっきりもいい女を演じて素晴らしい。
幸福な食卓4/23ギンレイホール監督/小松隆志脚本/長谷川康夫
いささか淡泊すぎるかな、と最初のうちは思っていた。だって、主人公の佐和子(北乃きい)と転校生の勉学(勝地涼)しか学校にはいないような描写がつづくからね。もっと同級生たちを登場させて、人物を描いて欲しいな、と。過程の描写でも、なんか中途半端なところがあって、たとえば母(石田ゆり子)がなぜ別居しているのか、その理由が分からなかったりする。だから、なんか落ち着かない。兄(平岡祐太)がなぜ高校をやめたのか、その理由も分からない。隔靴掻痒だ。
でも、ここに登場する家族というか人物はみんなヘンな奴ばかりで、たぶん瀬尾まいこの小説そのままなのではなかろうか。つまりまあ、原作を大切にしたかったから、あまりいじらなかったんじゃないのかな。そのせいで、妙な不思議感ができているのかも知れない。その不思議感は、最初は取っつきにくいものだったけれど、だんだん肌合いが合ってくるようになってきた、のかも知れない。
登場人物はみな何かを欠いている。父親は自殺未遂経験者(現実から逃げた)。それを見た母親は別居を決意して実行中(家庭から逃げた)。兄は高校中退の農業従事者(世間の評価から逃げた)。で、主人公の佐和子は生真面目一本槍。ま、一家そろって真面目なのだな。だから、どっかで壊れる。ついでに家庭まで壊れそうになる。大浦勉学くんの家は超富裕層でクルマはベンツ。フツーの家庭の生活レベルを知らないお坊ちゃま(下層階級の現実を知らない)。そして、つねに死を背負いながら生きているような気配が見えたりする。みなが鬱病のイメージの中で、兄の恋人だけが躁病のタイプ。実際彼女は複数の男とつき合うのが平気で、主人公の佐和子にもずけずけものを言う。きっと彼女は本音を口に出すことで、鬱に引き込まれるのを防いでいるのかも知れない。登場人物たちが、何が原因で何かが欠けているのか、そのことには触れられていない。でも、その中途半端で隔靴掻痒のところが、見ていくうちに不思議に面白く読めそうな気がしてくるから不思議。言い切らないこと、説明しすぎないところ、そういうところがいいのかも知れない。
大浦勉学というふざけた名前の少年が死ぬであろうことは、あるシーンで分かってしまう。それは駅のシーン。勉学が、クリスマスのプレゼントを贈る、と告白。いったん2人は電車に乗り込むが、佐和子がベンチに忘れ物をして駆け下りる。ドアが閉まる。勉学がガラス越しに佐和子へしゃべりかける。その声は聞こえない・・・。このシーンを見たとき、勉学は死ぬな、と連想させてくれる。勉学が話の中で死ぬ必要性があったかというと、そんなことはないと思う。下層階級の人々の生活を身を以て知ろうとする勉学を殺すことはないじゃない、という気さえする。むしろ、勉学と佐和子がささやかなクリスマスプレゼントを交換することで、未来への希望も見えてきそうな気もする。でも、この映画はそう簡単にハッピーエンドに終わらせようとはしていない。自殺未遂の父親は、急に大学にまた行きたいと受験勉強を始めるけれど、試験に落ちてしまう。で、再挑戦するかと思うと、さっさとあきらめて塾の教師に傾注することを決意してしまう。この映画の話で行くと、自分の身の丈を知り、その役割を全うしようという姿勢なのかも知れない。でも、なんか夢がなさ過ぎないかも、とも思う。
勝地涼は、最初のうち演技やセリフが大仰というかわざとらしくて、うっとーしかった。でも、そういう、なんというか、世間とは関係ないレベルに暮らすヘンなやつことなのかも知れない、と思えるようになっていった。ただし、TOKIO山口達也というか噺家の林家いっ平に似て濃いのだよな、顔が。それは最後まで気になっていた。北乃きいは全然美形ではないけれど、ごくフツーにいい子、というキャラとしてはオーケーかな。
涙そうそう4/23ギンレイホール監督/土井裕泰脚本/吉田紀子
見てるのが苦痛だった。つまらない、だけではない。中身が古臭くて下らないのだ。妻夫木はまるで無粋な寅さんだ。でも、50年ぐらい前ならまだしも、現在では通用しない。
女の子を持つ男と、男の子を持つ母親が結婚した。ラッパ吹きの男はふらりと家を出て行く。母親は若くして死ぬ。幼い、血のつながらない兄妹は母親の家系の祖母に育てられた。兄は高校を中退して那覇で暮らしている。夢は店を持つこと。妹が那覇の高校に通うことになって、一緒に住むことになった・・・。というのが設定。でも、それ以上に何もドラマが起こらないのだ。せいぜい、兄・妻夫木が詐欺にあって店の準備資金を無くし、さらに200万円ばかり借金をつくる、っていうぐらいなこと。でも、これってドラマではなく、設定だよな。
学歴のない兄が、妹・長澤まさみには学歴を・・・って「若者たち」かよ。古臭い。妹が差し出す貯金には手をつけず、肉体労働で借金を返す・・・って、いまどきこんなバカはいないって。医学部にいる恋人・麻生久美子とは「つりあわないから」と身を引くって、いつの時代の話だよ。体調がちょっとぐらい悪くても医者にはかからない・・・。そういうすべてが薄気味悪い。そういう人物がいたからって、共感なんかしない。そんなやつはいない。いたらただのバカだ。
妹・長澤が大学に受かり、ひとり暮らしをしたいという。それでまた大騒ぎする。いまどき男も女も、ひとりで暮らしたいに決まってるだろ。しかも、同じ那覇市内に住んでいるっていうのに、涙の別れって、ありかよ。でもって、1年半も連絡を取らない? ありえねえ。電話かけて洗濯しに行くとか夕食食べに行くとか、いくらでもできるだろうに、いまどき手紙だって。おいおい。ケータイも持ってないのか? と思ったら、台風の日に妻夫木が熱を出したときに、長澤がやっととりだした。ありえねえ。
なるだけ携帯を登場させず、手紙を書かせ、別れを過剰に見せようとする。その意図がすべて裏目に出ているとしか思えない。観客を泣かせようとしながら、まったく外している下手な演出。しかも、長い。もっと短くすべきだろ。ただでさえつまらないんだから。
さくらん4/24シネマスクエアとうきゅう監督/蜷川実花脚本/タナダユキ
カラフルな色づかいは目立つけれど、中身がない。からっぽ。つまらないので中盤から眠くなってきた。
まずは色が多すぎる。なんでもかんでもカラフル&ポップにすればいいってもんじゃないだろ。のべつ赤ばかりなので、次第にインパクトがなくなってくる。さらに、音楽。個々の音楽はいいかも知れないけど、絵と合っていない、または、音楽だけが浮いている部分が目立つ。ただの不協和音にしか思えないところがある。
画面の構図がつまらない。つなぎがぶつ切りで編集効果があまりない。っていうか、シナリオがそうなってるのかも知れないけど、接続詞がなくて名詞と動詞がぼろぼろとつながれている感じ。流れるようなリズムがまるでない。セリフも磨き込まれていない。しゃべる役者が、なんともたどたどしく話す。とくに土屋アンナの、ドスの利いた声で“ありんす”って言われたって色気も何もありゃしない。ありんす+江戸言葉を引きずるのか、それともまったく現代風にしてしまうのか中途半端。だから、聞いていてざわざわと耳を逆なでする。
それになんといっても、ストーリーがたわいなさ過ぎ。どこにもドラマらしきものがなくて、面白くも何ともない。エピソードがぶつ切りになって出てきて、あるときそのエピソードは突然終わってしまう。たとえば木村佳乃と永瀬正敏のあれやこれやは何だったのだ? とかね。なんだか、中途半端に放り投げているみたい。っていうか、この監督はストーリーにはほとんど興味がないんじゃないのかな、って思わせる。当然ながら、人物の造形や掘り下げ方も甘い。ではたとえば、この映画は色彩を中心に据えた様式的な美学を追究しているかというと、様式的にも一貫性がなくて、ほんの思いつきで色を放り投げているみたいなところがあって、いらいらする。たとえば張り店を外から移している場面など、並行でなく右に傾きすぎている。菅野美穂の花魁姿で畳の上をうろうろする場面では素足が見えすぎている。女性上位で交接している背中の見せ方も美しくない。とにかく、ほとんどのシーンが美しくない。きめ細かさ、配慮が感じられないのだよね。
遊女を示唆する小道具として金魚がやたろでてくるけど、分かりすぎるくらい露骨なメタファで面白くも何ともない。ぜんぜん活かされていない。吉原大門の上に水槽があったり、やりすぎだろ、それは、というようなのばっかり。
禿だの新造だの手管だのと、吉原言葉が直接出てくるけれど、フツーの人にはすっと理解できないのではないのかな。むりやり専門用語を投げ込むより、分かりやすく砕いてセリフに直していく方がいいんじゃないのかね。
クレジットを見たら、意外な人も顔を出していた模様。監督の父親の蜷川幸雄の力かな。まあいい。でも、どこに出ていたのか分からなかった人もいたぞ。もったいない。あー、それから、「さくらん」というからには“桜”と“錯乱”のダブルミーニングなのかな、と思ったけれど、土屋アンナは全然錯乱していないし、桜の花もそんなに重要なウェイトを占めていない。タイトルは「金魚」とでもしたほうがよかったんじゃないの?
ゲゲゲの鬼太郎4/30上野東急2監督/本木克英脚本/羽原大介
妖怪の話を実写でするのだから、話にはムリがある。だから、漫画のように妖怪が人間社会をうろついたり、人間が妖怪エリアに入り込めたり、そこで携帯が使えたり、というようなことへの野暮な突っ込みはしない。それは仕方がない。けれど、話そのものの設定が、ちょっと「?」というところがある。
骨董屋の店頭から石を盗んだのは人間のお父さんで、その石をどういう理由だか知らないが、幼い息子に託す。そのせいで鬼太郎その他は危機に陥る。だったら、鬼太郎は人間の子供に与するのではなく、子供から石を取り戻し「泥棒をしてはいけないよ」と諭せばいい。どう見たって石を奪い返そうという狐たちに正義があり、人間たちに非がある。だから、素直に映画に入り込めなかった。きっと、石の力でお父さんは我を忘れ、思わず奪ってしまった・・・のだろう。そこのところをもっと描くべきだったと思うぞ。石のもつ神秘的な力、それに惑わされる人間や妖怪などを描き、魔力があることを示すべきだったと思う。で、石を手放すと夢から覚めたように我に帰る、とかね。もともとたわいのない話なのだから、もっとシンプルかつ分かりやすくするべきだったんじゃないのかな。それに、森の開発によって狐や妖怪の棲む場所がなくなることに対して、狐の親玉の小雪は「折り合いをつければいい。棲む場所がなくなったら、別のところを探せばいい」などと脳天気なことをいっている。それで妖怪はいいのか? よくないだろ。人間優先で話がつくられすぎてると思うぞ。
CGはチャチいし合成も下手。つくりものは明らかに張りぼて。なので、見るからにみすぼらしく、昔風の怪獣・妖怪映画をひきずっている。でも、そういうことを突っ込むのはよしておこう。鬼太郎映画を実写でやれば、こんな具合になってしまうのは仕方のないことだからね。というように欠点はてんこ盛りだけど、猫娘の田中麗奈は10代に見える可愛らしさだし、大泉洋のネズミ男は秀逸。あとは砂かけ婆と一反木綿がよかった。間寛平の子泣きジジイは、いまひとつふたつみっつぐらいかな。

 
 

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