2007年5月

リトル・ミス・サンシャイン5/6ギンレイホール監督/ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス脚本/マイケル・アーント
アカデミー賞にノミネートされていた映画だな。内容がいささか軽い印象はあるけれど、語っている内容は軽くはない。現在のアメリカの状況を、典型的なキャラクターに託して冷ややかに見つめている。老人ホームを追い出された爺さんは女好きでヤク中。父親はノウハウ本のライター(志願)にして合理的な実践者(コンサルタントかな?)。母親は・・・いちばんフツーかな、禁煙できないだけで。哲学かぶれの息子はパイロット志願で、ただいま無言の行を実行中。ちびデブな娘はミスコンに夢中。母親の兄はホモの哲学者だったけれど学校を追われ恋人にも去られ自殺未遂。とまあ、みんなどこか病んでいる状態。でもかろうじて家族の形態は維持していて、共同生活をしている。で、7歳娘がロスで開かれる子供ミスコンの決勝大会に出場が決まり、一家総出ででかけることに。といっても、行きたいのは娘と母親だけ。出版がうまくいくかどうか代理店からの返事待ちの父親は家を動きたくない。でも、マニュアル車しかなくて母親はオートマしか運転できない。母親が行くとなると自殺未遂の兄は置いてきぼりにできない。義父だってひとりにはできない。陰気な息子もひとりにしておけない。というわけでワーゲンのバンででかけるのだけれど、早々にクルマのクラッチがいかれてしまう。挙げ句に爺さんはヘロインで死んでしまう。なんとかミスコンには間に合ったけれど・・・。という、設定だけでもう話が面白くなりそうな具合が見えてくるでしょ? ってな映画だ。むしろ、あまりにも現在のアメリカのアナロジー(精神的病理)が見えすぎるきらいもないではない。でも、役者たちがそこそこいい味を出しているのでドタバタロードムービーとしてもちゃんと楽しめるようになっている。つまりまあ、メッセージがそこそこやさしく表現されている、ということかな。
なんとなくテイストが「イカとクジラ」に似ているけれど、あっちほどは尖っていないし、歪んでもいないし、スノッブでもない。誰でもフツーに分かるようなレベルになっている、と思う。最後のミスコンで、おしゃまな少女たちがぞろぞろ登場するんだけど、一家の娘はちょっとセクシーに迫る。娘が選んだ楽曲はリック・ジェームスの「スーパー・フリーク」で、これをバックに衣装をはぎ取っていく・・・っても限度かあるけど、見ている分にはそんなに不謹慎ではないと思うんだけど、映画の中では主催者は怒り出すし出席者たちもどんどん立ち上がって去っていく。拍手するのは音楽担当と変なオヤジだけだ。まあ、建て前だけで生きている連中を揶揄しているのかも知れない。でも、「スーパー・フリーク」の歌詞って、そんなにワルなの? 知らないんだけど。でまあ、このときの踊りの振り付けが死んだ爺さんだったという落ちもあるのだけれど、既成の枠組みからはやっぱりみなさんはみ出ている、ということだね。
あと、感じたのは死人に対する感情。途中で親が亡くなり、でも、州を超えて遺体を移動できないといわれ、父親は病院に黙って遺体を車に乗せてロスまでやってくる。で、早速に葬儀屋を呼び、遺体を運んでいってもらうんだけど、あまりにもドライすぎないか? 墓はロスにつくっちゃうの? それとも、故郷まで遺体を持って行ってもらったつてことなのかい? よく分からんでした。
そういえば、息子の弱視がひょんなことから分かるんだけど、15、6歳ぐらいになってそれが初めて分かるって、それはちょいと異常な両親すぎないか? まあ、それだけ子供に感心がなかった親だということなのかな? ちょこちょこでてくる哲学者の名前や作家プルーストについては、何を示唆しているのか、こちらが無知ゆえによく分からず。
恋しくて5/7テアトル新宿監督/中江裕司脚本/中江裕司
「ナビィの恋」は面白かったけれど「ホテル・ハイビスカス」はつまらなかった中江裕司が監督しているのだね。なーるほど。デキはどっちかっていうと「ホテル・ハイビスカス」だな。ドラマらしいドラマもなく、中盤はバンド紹介コーナーみたいでだれる。で、毎度のことながら役者が魅力的にフィーチャーされないので(ミドルショットもないぐらいで、顔がよく分からない)、人物に感情移入できない。もうちょっと人物の造形も描き込んでくれよ、と言いたくなってしまう。
たとえば、Webで読むとヒロインは、父親がいなくなってから歌が歌えなくなった、とある。あー、それで彼女はバンドでボーカルをしていなかったのか、と思う。そうして、冒頭で、歌えなくなったというようなことをナレーションで言っていたようなことを思い出した。こういう重要な要素は、ちゃんと観客の心に印象づけるような描き方をしなくちゃダメだよな、と思う。そして、父親探しは兄貴がするのだけれど、あまりにも簡単に判明してしまう。なんだよ。苦労も努力もなく分かるのなら、歌手をやってる母親にも、そんな情報はとどくだろ! と、いささかムッとしたりしてしまう。なんか、安易なところがあるのだよね。
そのくれ小ネタは豊富で、つまらない駄洒落やシャレ(「うまかった」に「うしまけた」と答えるとか)、とぼけた爺さんを出すとか、牛やヤギ(だっけ?)がストーリーを説明する狂言廻しとしてしゃべったり、毎度サービス豊富(でも、ひっくり返って笑えるようなものはない)。がしかし、いつまでもヒロインが子供の頃「小便タレで屁コキ」だったということだけを強調してもしょうがないだろう。もうちょい“映画”に仕立ててくれ。
途中でバンド名がビギニングとなり、お、これはビギンの登場ストーリーなのか? と思っていたらテレビのオーディション番組に登場し、司会もイカ天同様の三宅裕司で、最後は凱旋公演するビギニングの向こうから本物のBIGINが登場するんだから、こりゃもうBIGIN物語なのだね? クレジットでも原案BIGINとなっていたし。でも、こんなうまい話が本当にあったのかいな? << Webで見たらストーリーは創作だって。けっ。まぎらわしい。
最後の方になってヒロインの兄貴が突然死んでしまったのは、なんでなの? 沖縄語は字幕がついているからいいようなものの、フツーの会話で聞き取れない部分がたくさんあった。いやまあ、話は明るくて(兄貴の死はあるけど)脳天気でなーんも考えてないみたいで、石垣島の青年たちは楽しそうだなあ、とは思うのだけどね。
神童5/10新宿武蔵野館2監督/萩生田宏治脚本/向井康介
「のだめカンタービレ」の成功を受けてつくられたかのような、クラシックの世界に生きる学生・生徒を描いたもの。最初はオリジナルか、原作は小説? と思いながら見ていたけれど、バカバカしい展開があったりして、これも漫画なのだろうな、と思ったらそうだった。
基本的な設定や環境、状況などがあまり描かれていないまま進行し、いつか解き明かされるのかと思いきや、そんなこともない部分が多い。あえてそうしているのか、かなり疑問。脚本の向井康介という人は見ている映画だけでも「ばかのハコ船」「リアリズムの宿」「リンダ リンダ リンダ」「松ヶ根乱射事件」と、不思議なテイストだけどちゃんと考えられた構成ができる人だと思うので、本質を外しまくっているようなというか、核心に触れないままなんとなく終わってしまっているこの映画のホンを本当に書いたのだろうか? という疑問がぬぐえない。というか、故意に外しているのではないかとしか思えないところがある。
どういうところが変かというと、いろいろある。まずはヒロイン成瀬うた(成海璃子)の家庭が、よく分からない。うたは母親(手塚理美)とはアパート暮らし。で、70数万円の督促状をもらったりしている。なのに「青葉台に元住んでいた家がある」といい、鍵も持っているし室内にピアノもある。最初は他人のものになっているのかと思ったら、あとで母親がピアノを売ったということが分かるのだが、するとあの家の所有者は母親なのか? 死んだ亭主(西島秀俊)のものを相続したのならそういうことになるよな。では、なぜそこに住まないのだ? もっていれば固定資産税も大変だろうに。それに、あの督促状は何だったのだ? 家賃? うーむ、わかんねえよなあ。
その売ったピアノだけれど、あれは うた が5歳ぐらいの時にピアニストである父親がピアノの墓場(?)へ行って、うた のために買ってくれたもの、のようだ。では、それまで父親はピアニストなのに家にピアノを持っていなかったのか?
うた の行動は漫画が原作だけのことはあって素っ頓狂。お守りの人形(この人形には何かの曰く因縁はないのか?)が池に落ちたからといってボートに乗っていた 菊名和音(松山ケンイチ)を呼び止め、ボートに乗り込んでしまうのだから・・・。さらには大学を受験しようという18歳の和音の家に入り浸りになって、泊まったりもする。13歳の少女がだぜ。いくら和音の家にピアノがあるっていっても、それはないだろ。そんな娘の行動を、母親はあまり追求しない。指を大切にといって手袋はさせるけれど、後に音大生となる和音とのつき合いを半ば認めるような設定は、やっぱり漫画だと思う。
近所から騒音だといわれる和音のピアノ技術。それが、入試のときに急に上手くなって、首席入学というのはどうなんだろ。嘘っぽ過ぎるだろ。
さらにはクライマックスで、リヒテンシュタインというビアニスとの代役に指名され、弾いたことのない曲を楽譜を一回見ただけで弾き上げてしまうところなんか、いかにも漫画だ。
ほかにも突っ込み所はたくさんあって、とてもリアルな感じはしない。とくに漫画に思えたのは、和音の友達の娘が海外留学するっていうので歓送会を開いているところに乗り込んで、そこにいた生意気な少年を小突いたりするところかな。とても漫画チックだ。
練習室で抱き合っていたのは、和音と女友達だったのか? 違っててもいいんだけど。とにかく、和音は音大に入って大人の女とつきあい始める。それについて、うた が何も感じていないようなのも、変だよなあ。
この映画の妙なところは、それぞれの人物の意志が見えないところだ。うた は一体何をしたいのか? うた の母親は娘をどう育てたいのか? うた のレッスン教師(調律師?)は、うた のことをどうしたいのか? 和音は何を目指しているのか? 和音の両親は八百屋だけれど、音楽を目指す息子をどう思っているのか? というところがまったく描写されない。ただ、なんとなく流されるままの人物たちが淡々と描かれていくだけ。これではドラマも発生しようがなく、だんだん飽きてしまう。いったい何を表現したいのか、それがほとんど伝わってこない。
表面的なストーリーが、天才少女の屈折しながらのサクセスストーリーだとすると、裏面的なストーリーはその天才少女の遺伝的な病気=難聴への突入ということになる。だけれども、うた の天才的なピアノの技術はさほど描かれていない。タイトルの「神童」とは誰のことなんだろうかと、しばらく考えてしまったほどだ。幼い頃には注目されたようだけれど、いま、中学生になってヨタヨタしているのは何故なんだろう?(そのくせ、指だけは気にして体育の授業をサボったりしている) 才能があるならもっとコンクールに出て伸びていけばいい。難聴は父親譲りで、耳鳴りがしている? 病院へ行けよ、と思うのだけれど、母親も和音も奨めない。そして、その難聴が今後どうなるのかも、映画では描かない。トイレで吐いていたりするのでメニエール症かと思ったけれど、言及はない。リヒテンシュタインの代演で演奏した後ステージで倒れたのはなぜ? その後、元気に復活したけれど声を発しないのはなぜ? かつてのピアノを探して電車で旅するのはいいけれど、どうやってその場所に和音はやってこられたのだ? という具合で、話を振り返ってみると変なところだらけだ。
それでも何とか見られたのはうた役の成海璃子がよかったからだと思う。ビアノを弾くシーンでも自分で弾いていたし、ちゃんと様になっていた。まあ、13歳にしては大人びていたけれどね。むしろ、同級生で、いつも腹を殴られている男子生徒が幼すぎるのかも知れないけど。
音楽の世界も、そういう世界に子供を引きずり込む親の気持ちも分からない。音大なんかに入ったってオーケストラに就職できる人はほんの僅か。たいていは学校の先生かエレクトーン教師じゃないの? なのに世界的名演奏家を目指して子供をそういう世界に入れようというのは、アホとしか思えないんだけどね。
音楽の演奏は、みんなあんまりよくなかったと思う。震えるほどの名演奏でも聴けるかと思いきや、音程が変だったりテンポが乱れていたりミスタッチがあったり(のように俺には聞こえた)、ごくフツーのレベルの演奏だった。このせいもあって、うた の天才=神童さが深に迫ってこなかったのかも知れない。
真救世主伝説 北斗の拳 ラオウ伝 激闘の章5/10新宿ミラノ3監督/平野俊貴脚本/堀江信彦、鴨義信、真辺克彦
「北斗の拳」といっても、「お前はもう死んでいる」しか知らない。漫画は読んでいない。それでも、劇画調の粗っぽい絵で1ページにコマ数も少なく動きもなくセリフが重たそうというぐらいは知っていた。いったいアニメになるのだろうか? と思っていたのだけれど、やっぱり紙芝居のままだった。ほとんど動いていない。動くのは唇だけ。あとは画像処理的なイメージ処理で済ませている。でもってセリフがよく分からない。というか、ストーリーがよく分からない。少し分かったとしてもあまりにもバカバカしくて説得力がなく、なんで兄弟で戦う必要があるのかとか、それ以外の部分でもアホらしくて見ていられないところが多数。なので中盤に30分ほど寝てしまった。
戦いでも人物は動かず、どういう技で殴ったりしているのか表現しない。で、直後にセリフで説明する。ケンシロウの彼女が死んだり生き返ったり、兄ラオウの考えていたことなども、他人がセリフで解説するように話したりする。それじゃドラマにならないだろと思う。やっぱり紙芝居に解説者がいる、ってなアニメだな。ってか、漫画を読んでストーリーを知っている人が、少しでも動く「北斗の拳」を見たい、といってやってくる映画なんだろうな。
スパイダーマン35/18新宿武蔵野館3監督/サム・ライミ脚本/サム・ライミ、アイヴァン・ライミ、アルヴィン・サージェント
10時10分からの日本語吹き替え版を見た。80人超の小屋に客が8人だった。「1」は見てるんだけど、「2」は見たんだっけかな。見たとしても寝ちまったと思うんだけど。寝たのは「1」だったっけかな? てなわけでこれまでのエピソードは覚えていない。なので、元親友のハリーとその父親とのあれこれは記憶にない。という状態で見なければならなかった。
全体に1本筋が通ってない感じ。ピーター(スパイダーマン=トビー・マグワイア)の叔父を殺した犯人とのストーリー。元親友ハリーとのストーリー。カメラマンのエディとのストーリー。宇宙からの寄生物体に関するストーリー。でもって、もっとも基底にあるのがピーターと恋人MJ(キルステン・ダンスト)とのストーリー(なのかな。でも、これは弱すぎると思うぞ)。というわけで、それぞれがほとんど別個の話として進行し、途中で、またはラストにかけて関係をもちはするのだけれど、「なるほどスッキリ」ってな感じには統合されないのだ。なんか、無理矢理こじつけみたいなところも多くて、ちょっと平板な感はぬぐえない。
最初の見せ場はピーターとハリーの戦いだけど、これがもう「スターウォーズ」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」そのもの。次にクレーンがビルを壊すシーンでは、女性がビルから出た柱にぶら下がるって・・・キートンか、お前! てな具合で、どーも既視感のある映像が多い。それに、アクションはみなCGなので、ぜーんぜんハラハラもドキドキもしない。
善と悪の対立が弱くて、ヒーロー物としては入れ込めないのも残念。まあ、それこそが今回のテーマ、なんていわれるかも知れないけれど、それにしても悪人が悪人らしくない。だからなんだけれど、正義の味方のヒーローもいない。ピーターの個人的事情にまつわるトラブルばかりが周囲に巻き起こるのだ。
登場する悪人がみんな可哀想すぎ。ハリーなんか勘違いと思い込みでピーターを憎み、争う。挙げ句は顔面火傷で傷を残す。で、そうなっちゃってから執事が「実はお坊ちゃま、お父上の身体には自分でつけた傷しか・・・」なんて言うんだぜ。もっと早く言え! だよな。なにも、殺すことはないだろ、最後になって、だよね。サンドマンは娘が難病で、金がないから強盗というチンピラ野郎。間違ってピーターの叔父を殺したけれど、根っからの悪人ではない。どうみたってスパイダーマンが戦うような相手ではない(そのせいか、サンドマンはどこかへ逃げ去ったことになっている)。エディは、自分に仕事が来るように合成写真をつくっちゃったという、これまた悪行がチンピラ。なのに、たまたま寄生体に取り込まれただけで、あんな悪人になってしまう。しかも、最後は死んでしまうなんて、可哀想すぎ。というわけで、それほど悪い奴ではないのに悪くなってしまって非業の死を遂げる、というような悪役ばかりで、どーも見ていてスッキリしない。それに、悪行ならピーターだって負けず劣らずしているんだぜ。市長からの表彰式で、同級生の女の子に「キスしてもいいよ」なんていっちゃって、恋人MJの見ている前で、それはないだろ、だよね。あの浮気心も、寄生体のせいなのか? たまたまピーターの場合、寄生体が嫌う鐘の音を聞いたせいで、寄生体(麻薬のような存在という設定だ)から離脱できた。そうでなかったら、スパイダーマンだって悪の道に堕ちていたかも知れないのだぞ。
で、MJは、ピーターの変化(悪行)が寄生体のせいだ、って分かっていないはずなのだけれど、ラストではピーターを許してしまうのだよね。ピーター自身も、寄生されていた、という風に理解していたかも、疑問だし。どーも、ラストの収拾の付け方も曖昧だったりする。それにしても、みんな傷心だよなあ、今回は。MJは「お前は舞台にむいていない」と言われたまま放り出されていて、その解決はされていない。こんな中途半端でいいんだろうか。どーもスッキリしないね。
それにしてもキルステン・ダンストは可愛くない。悪人面だ。ヒロインはもっとか弱くて繊細で美しくなくちゃあなあ。
リーピング5/22新宿ミラノ1監督/スティーヴン・ホプキンス脚本/ケイリー・W・ヘイズ、チャド・ヘイズ
内容を知らずに見たんだけど、冒頭に“Dark Castle Entertainment”のマークが出て、おお、これはホラーか、と分かった。主演している女は見たことあるよなあ、と思いつつ、しばらくして「ミリオンダラー・ベイビー」の、何ていったっけ、あの人、とずっと考えていて、とうとう名前がでてこなかった。困ったもんだ。で、彼女しか名前の分かる役者は出ていなかった。それにしても、アメリカではいまだにこの手のキリスト教に基づいた天使だのサタンだのっていう話がつくられているんだね。
最初のうちは「やっぱり科学的に説明できる話」で終わるのかと思いきや、結局そんなことはなかった。この世にはキリスト教の教えに則った悲劇が起こり、それは必然的なのだ、なんて言われても、アホかと思ってしまう。全然怖くないしね。羽が生えて尻尾のあるサタンは出てこなかったけれど、日本人の俺にはバカ映画にしか見えないんだが・・・。
ストーリー運びも単調で、何かかあると思わせつつ、大したことも起きずに進むのだよね。唯一の見せ場はイナゴの大群だけど、それだって、だからどーしたの類。ヒラリー・スワンクの頭に浮かぶすメージがときどき描かれる。かつてスーダンで自分の娘を生け贄にされたときの記憶だ。これが、現在の事件に重なって、フラッシュバックされる。けれど、これもヒートアップすることなく、同じ様なテイストで延々と描かれる。しかも、何らかのメタファーになっているわけでもなく、ストレートにでてくる。だから、観客がそこから何かを探るとか類推するとかもなくて、面白くも何ともない。ほんと、つまらない。
ヘブンという町の住民たちも、人間がまったく描かれることがない。何か邪悪なことを考えているのかと思いきや、せいぜいが元凶となっている少女を生け贄またはリンチにしてしまおうというような、単純なもの。誰かに操られているわけでもなく、個人の意志があるようにも思えず、まったくもってもったいない描き方。ま、監督がなーんも考えていないから、こうなっちゃうんだろうけどね。新宿ミラノ1は平日とはいえがらがらで、いっちゃあなんだが、とてもミラノ1でかけるようなシャシンではない。ミラノ3がちょうどよくて、せいぜいミラノ2だな。
ラッキーナンバー75/24ギンレイホール監督/ポール・マクギガン脚本/ジェイソン・スマイロヴィック
原題は“LUCKY NUMBER SLEVIN”。SEVENではなくSLEVIN。7がひっくり返ってLになっている、のがミソらしい。・・・が、実をいうとまともに感想が書けない。なぜなら、最初の30分ぐらいが抜群に面白くて「これはいいぞ」と思いつつ、本筋とは関係ないヨタ話の多いセリフを楽しんだり、主人公(ジョシュ・ハーネット)のとぼけた味わいをニタニタしながら見ていたんだけど、2人の悪党が向かい合っているビルに立て籠もっていて、両方から仕事を依頼される・・・というところを過ぎたあたりから、俄然、眠くなってきてしまったのだ。疲れてはいた。昼食後の2時の回でもあった。でも、面白ければ眠くなりはしないはず。なのに欠伸が出てくる始末。どーもストーリーも緩くなってきて、出だしの30分のテンションは保てていない、ということなのかも知れない。
眠い目をこすりながら見ていて、でも、次第に目をつむることが多くなり、1時間を過ぎたあたりで沈没。法度目が覚めると、あれこれドンデン返しと、そもそもの事件とジョシュとブルース・ウィリスの殺し屋のつながりなどを説明しているところ。あれあれ。こんなところに目覚めちゃって、困ったもんだ。
で、からくりが分かっても、別段、驚くようなこともなかった。というのは、多分きっと、最初の30分ぐらいでこの映画の仕掛けというか仕組みが、なんとなく分かってしまったからではないかと思ったりしている。いや、具体的なことは分からなかったよ。でも、なんか、見え透いている部分が感じられたのではないのかな。
映画の構造が、「用心棒」に似ているんだよね。で、どっちにも話を持ちかけて双方をハメるっていう役割を演じているのが、ブルース・ウィリス。で、彼は冒頭で登場していて、あるところで死体を調達、というか、生体を死体に変えている。この仕込みがどこかで効いてくるのかな? と、思ったりしてた。それから、1979年だったかの競馬で、あの少年は殺されていなかったかも知れない・・・というようなもって行き方をしていた。となると、あれから四半世紀すぎてあの少年はてま・・・と考えると、当てはまるのは1人。というような、伏線がちょっと荒っぽいというか、ミエミエのところがあったりする。こういうところが、こちらの神経を緩ませて、ひいては眠りへと誘い込んでしまったのかも知れない。実際、中盤は緊張感少なかったしね。
でも、後半のあれやこれやはまともに見ていないわけで、よーし、もう一回見に行こうっと。
この映画は、会話にも凝っているけれど、映像にも凝っていたりする。ジョシュが最初に転がり込む家の壁紙が、大胆なデザイン。とても様式的で、何かのパターンを連想させる。
時制が変わるのはいけれ度、ちょっと分かりにくかったりした。ブルースの髪のかたちが手がかりなんだけど、ふさふさしているのに気を取られてしまって、現在なのか1979年なのか、分かりにくいところもあったりした。ルーシー・リューが、ジョシュの彼女になる検死官。だけど、中華飯店のおかみさんみたいな貧相な顔で、どーしてヒロインになれるのか、どーも疑問だな。ああいう純然たる吊り目、ほお骨の出た中国人顔が、西洋人は好きなのかねえ。
GOAL! 25/29新宿ミラノ2監督/ジャウム・コレット=セラ脚本/エイドリアン・ブッチャート、マイク・ジェフリーズ、テリー・ローン
原題は"GOAL II: LIVING THE DREAM"。貧乏なサッカー小僧が不法入国して成り上がっていった前作には、類型的ではあるがそれなりのサクセス物語があった。ところが、ニューカッスルからレアル・マドリードへと移籍話が舞い込んでくるほどのトップ・アスリートになってしまった主人公サンティアゴに、もう魅力はない。なので、今回はサンチャゴに苦難を叩きつける作戦に出た。パパラッチとの諍い、恋人との別離、生みの親および父親違いの弟との遭遇、怪我による戦線離脱・・・。悪条件のてんこ盛りである。では、サンティアゴが気の毒に思えるかというと、ぜーんぜんそんなことはない。バーカ、ざまあみろ、というような感情しか抱けない。だって、本当にバカなんだもん。
FIFA公認の映画なのに、サッカー選手は頭が悪いことを認めるような内容だ。ニューカッスルに入団して豪邸とクルマを買い、恋人とももうすぐ結婚・・・。まったくもう、サッカー選手は女とクルマにしか関心がないのか! そうでーす。ってな内容だ。それがレアル・マドリードから誘われると、今度はスペインに豪邸とスーパーカーと、夜ごとの酒と女・・・。それしか頭にないんかい! しょーがねーなー。だから、色んな悪条件もみーんな、お前が悪いんだろ、と思うと同情もできない。生みの親との邂逅も、ありきたりのパターンで感動もなにもない。ってか、父親違いの弟がどーしようもない(と、思わない人もいるんだろうが)ワルで、躾もなにもできてない。かっぱらい、無免許運転だぜ、10歳ぐらいで。で、それは貧乏だから、っていってみんなが認めることかい? 兄サンティアゴに近づいて「あんたはいい生活しているのに、俺たちには一銭もくれない」なーんて、ゆすりまがいのことをいう。こんな子供に誰がした、っていうか、日本では先ず考えられない子供の描き方だな。諸外国の低所得者層の子供は、みんなこんなものなんでしょうかね。
で、サンティアゴも、契約金が入ると物質的な個人的贅沢まっしぐらで、慈善事業にいくらかでも、なーんてそぶりはみせない。みんな、そういうものなのかい? 上り詰めようとするときは貧乏から抜け出す思いで、抜け出したら世間を顧みない生活。それが、スポーツマンがよく言う「子供たちに夢を与える仕事」なのかね。
というわけで、ジダンやベッカム様、ロナウジーニョなんていうスーパースターはばしばしでてくるんだけれど、それはサッカーのシーンだけで、あまりドラマには絡まない。そういえは、「2」で出るとか言われていた中田は見えなかったね。で、「3」はワールドカップらしいけど、妊娠していた恋人との仲直りが鍵になるのかな?
ラッキーナンバー75/24ギンレイホール監督/ポール・マクギガン脚本/ジェイソン・スマイロヴィック
2度目。朝9時45分からの回だったのに、前回と同じ様な辺りから眠くなる。眠い眠いと思いつつ、でも、なんとか寝ないで中盤を通り越し、前回は寝てしまった部分(2〜30分)もクリアした。やっぱり中盤は面白くないや。ドラマチックもないし、伏線めいたこともとくにない。前半の、黒人チンピラ2人組のちゃらちゃらして無駄口といった冗長な表現も、中盤にはない。なので、2つの組織のボスがとっつかまって椅子に縛られ、そうなった下りを説明される部分が、かなり唐突だ。
それと、両親の復讐、のはずなのに、関係のない人たちがかなり殺されていることが解せない。復讐にしては、ちーと洒落ていないというか、生っぽすぎるのではないのかな。それと、殺し屋のプロのブルース・ウィリスが、どうして1979年のときに子供を殺せなかったのか、その理由が分からない。さらに、ジョシュ・ハーネットが某青年の家に潜り込んで、2つの組織からの誘いを待つ、という設定だけれど、必ずしも誘いが来るとは限らないし、誘いには誰が来るかも分からない。いろいろと偶然に左右されるような計画で、ルーシー・リューの存在だって計算外のはず。なのに、まるで計算済みみたいに展開する前半は、あとから考えるとずいぶん嘘っぽいと思う。もうちょい、話を煮詰める必要があったのではないのかな、と思ったりした。

 
 

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