2007年6月

スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい6/1新宿オデヲン座監督/ジョー・カーナハン脚本/ジョー・カーナハン
原題は"Smokin' Aces"。なかなかクールかつ過激なバイオレンスが楽しめる。ストーリーは、実は単純なんだけれど、冒頭の部分がせせこましくて説明不足すぎて、いまひとつ設定が頭に入らない。設定が頭に入らないまま、かなりテンポよすぎるくらいにストーリーが進む。固有名詞も多く出てくるし、登場する殺し屋たちも数多い。それだけじゃなくて、FBIの捜査官たちもうじゃうじゃいて、各々の目的もよく分からないまま進行したりするので、1回見ただけではちょっと苦しいところがあると思う。説明すべきところ、説明すべき人や設定については、もうちょっと丁寧にやってくれた方がよかったと思う。接続詞を端折りすぎなのだ。まあ、そういう説明より、雰囲気とテンポが大切、なのかも知れないけどね。
で、マフィアの対立で相手に1億円の賞金が・・・スウェーデンのなんとかが・・・という話をFBIが盗聴して・・・はいいけど、それをどうして何組もの殺し屋が聞きつけてやってくるのだ? という疑問がぬぐえない。しかも、ラストでは、実は賞金をかけたのではなく、スウェーデン医師に心臓手術の依頼をしたという話をFBIが聞き違えた、というまことにバカバカしい話。
それに、マフィアのボスが実は昔消えたFBI捜査官というのは、前半に想像がついてしまうので(潜入操作でかつて殺されたFBI捜査官がいて、彼は整形を何度もしていた、なんていう話があるのですぐ分かる)、ラストのどんでん返しは、何のインパクトもない。そういういい加減なところがあるのだけれど、全体がアメコミ風でバカバカしくて、映像だけ見ていればそこそこ楽しめるので、細かいところは、ま、いいか、という気分になってくる。女性2人組の殺し屋がいて、東洋人と黒人の設定。その、中国人の方が、殺しに行くときになってなかなかセクシーになったのでびっくり。ファミレスで打ち合わせしているときはぱっぱらぱーに見えたんだけどね。
ベン・アフレックが保釈人保護役ででてくるんだけど、なんとも呆気なく殺されてしまうのにはびっくりした。レイ・リオッタもFBIの重要な役で出てきと、クライマックスで殺られてしまう。アンディ・ガルシアは最後まで登場するけれど、全体の中では目立っていない。なんだか、誰が主人公なんだかよく分からないような集団劇でもある。
もうちょい接続詞の部分をカチッと描いてくれると、うーむ、なるほど、とノレたような気がするのだけれどね。
ザ・シューター/極大射程6/1新宿グランドオデヲン座監督/アントワーン・フークア脚本/ジョナサン・レムキン
“SHOOTER”と、原題には“The”がついていないのに、日本語のタイトルにはついているという不思議。一般的には、原題についているのを取ってしまうのがフツーなんだけど。「シューター」では間が抜けているからかな。
役者がちょっとしょぼい。マーク・ウォールバーグは脇役→準主役とこなし、「ディパーテッド」でアカデミー助演ノミネートと米国では脚光を浴びてているのかも知れないけれど、日本での一枚看板は難しいと思う。ウォールバーグの顔でアクションとなると、プログラムピクチャーってな印象になっちゃうしなあ。なもんで、そこそこの映画だろ、と思ったら大間違い。堂々たる大作だった。でも、ウォールバーグ以外に知ってる役者があまりいない。大佐を演じた黒人は「リーサルウェアポン」と最近の「ER」に出ている、ってのは分かった。あとは上院議員のネッド・ビーティ。古いね、っていうか、古すぎるって。たはは。他にも見ている役者はいるかも知れないけれど、記憶にないのだからしょうがない。やっぱ、役者だけ見たらB級映画だよな。ウォールバーグではなかったら、マット・デイモンなんかかハマるかな。あと、若い頃のハリソン・フォードとか?
狙撃兵の物語で、大企業の手先の上院議員から頼まれて後進国での工作をしているFBIの幹部に、ウォールバーグが利用されるというもの。かつて敵陣に置いてきぼりを食らい、退役後は隠遁生活を送っていたのに、愛国心のためといわれ、のこのこと現役復帰のような仕事をしてしまう。がしかし、すべてはワナ。ウォールバーグは狙撃犯ということにされ、FBIに消されかけるが、なんとかかんとか逃亡して反撃。しかし、理論的には上院議員もFBI幹部も犯罪者として告訴することがかなわず、最後は力ずくでいく、と。まあ、話としてはこれまでにもよくあった展開。美女も出てくるし、派手な爆破やアクションも申し分なし。かなりの精度を維持している。
のだけど、女性の扱いに難点ありだな。怪我をしたウォールバーグは、3年前に死んだ部下の女房(ケイト・マーラ)に助けてもらうのだけれど、もっと彼女を大切にしなくちゃ罰が当たるだろ。いつかは彼女の存在がFBIに知れるのに、ほったらかし。挙げ句に下品な連中に軟禁され、乱暴を受けてしまうのだ・・・。それはひどすぎるだろ。原作がそうだとしても、あんな展開は避けて欲しいと思う。それに、彼女とウォールバーグとの間に、ほのかな愛情が・・・という展開には、何でしないのかな? 彼女の存在をもう少し際立たせてもバチは当たらないと思うんだがね。そこそこの美形なのだから。
もったいない女性はもう1人いる。FBIのお姉さん(ローラ・ミトラ)だ。新米FBIで、ウォールバーグが正しいと思い始める青年(マイケル・ペーニャ)がいるんだけど(この青年がなかなかいい役回りなんだけど、この映画では単なるおとぼけ青年みたいに扱われてしまっている。ちょっと残念だね)、彼の好奇心に応えるように、いくつかの機密事項を教えてくれるのだ。たいていはFBI庁内での登場だけれど、1度だけ自宅で、意味もなく下着姿で登場する。ちょっとわくわくさせてくれたのだけれど、下着姿に何の意味もなく、彼女がその後どうなったかも描かれない。これはもったいない。彼女の人間性をもうちょっと掘り下げて描いたら、映画はもっと面白くなったに違いない。
ウォールバーグを殺し損ねるアホな警官がいるんだけど、昔ならあの役はネッド・ビーティがやっていたな。それが、アフリカの村人40人を抹殺してもなんとも思わない上院議員まで出世した。上院議員の手先で大活躍する悪徳FBI幹部にダニー・グローバー。黒人である。黒人の彼が、アフリカの村人を抹殺するミッションを実行している、というところにこの映画のツボがある。かつてなら、この役は白人がやっていたはず。そうすれば、白人vs黒人の構図は容易に表現できた。しかし、現在では黒人も政府内で重要な位置を占めるようになってきて、黒人が黒人を抹殺するという構図も不思議ではなくなった。というか、そういうケースが描かれないのがおかしい、というような雰囲気になってきていて、この映画では従来のパターンを抜け出した感じ。
映画の4/3はテンポもよく、ぐんぐん引きつけられる。けれど、話の収拾のつけたかが消化不良。実際の狙撃手の告白を録音したICレコーダを燃やしてしまうなど、意味のよく分からない終盤。あれを聞いたからといって、みんなが殺されるとは限らないだろ。マスコミだって、インターネットだって、いくらでも公表の場はある。「ディパーテッド」でも、告白の音声が最後に決め手になっていたりする。なのだから、狙撃手の告白だってコピーしておいて、どこかで公表、という展開にしてもおかしくはないと思う。ICレコーダ→PCにコピーしない方がおかしい。ラストの、力ずくでの悪徳一味抹消というのも、やっぱりいまひとつスッキリこない。殺せばいい、のではなく、ロジックで攻めて欲しかったところだ。
疑問。ケイト・マーラがマイケル・ペーニャに接触するとき、車検番号がどーたらこーたら、といっていたけど、あのクルマの番号というのは、どういう意味があったのだ?
この映画では、FBLの兵士(?)がどんどん死ぬ。というか、ウォールバーグに殺される。で、殺される彼らは、自分たちが悪に加担していると言うことも知らず、ウォールバーグが犯人だと信じ込んで行動しているのだよなあ。彼らにも妻も子も家族もあるのだよなあ、と思ってしまった。それにしても、「愛国心」といわれると心が動いてしまうという軍人ウォールバーグのセリフが、鋭く迫っていたね。
パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド6/5上野東急監督/ゴア・ヴァービンスキー脚本/テッド・エリオット、テリー・ロッシオ
原題は“Pirates of the Caribbean:At World's End”。つまらなかった。第2作は見ているんだけど、もう大半は忘れている。できれば、前回のサマリーを頭に5分くらいつけてもらって、おさらいをしてから見たかった。でも、つまらないのはそれだけではない。話自体があんまり面白くない。それぞれの海賊や登場人物たちの行動は、何が目的なのか「?」なところが多いと思う。これは、前作を知っていれば分かることかな? 今回は、オーランド・ブルームがあっち側についたり、こっち側にもどったり。ジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)も、こっち側からあっち側の牢屋へ。何が何だかよく分からない。サカナ人間も、強いんだか弱いんだか分からないし。どーも、心理戦というか知能戦をしているみたいな部分もあったりして、歯がゆかったりする。
死んだはずのスパロウを連れ戻しに世界の果てへ? そもそも、なんでスパロウを生き返らせる必要があったの? よく分からない。でも、死んだ人間を生き返らせられるなら、キーラ・ナイトレイの父親やオーランドも、生き返るのかい? なんでスパロウだけはあんな砂漠でうろうろしていたんだ? あれは、世界規模の三途の川だとか? うーむ、よく分からない。でも、砂漠での、ちょっとサイコなシーン(多重人格みたいなところ)は、ちょっと面白かった。前作までとちょっと毛色が違っていてね。でも、そういう部分はちょっとだけで、全体としてはCGアクションばっかり。船の上で作戦を練ったりするところが多くて、いまひとつ面白みに欠けた。
チョウ・ユンファは大物扱いかと思ったら、そうでもなかった。さっさと死んじゃって退場するし。せめて最後の大合戦までは活躍して欲しかったね。黒人の占い師は、カリプソが乗り移っている状態だというから、そのカリプソが抜け出したら正常に戻るのかと思いきや、たんに巨大になってカニになってしまっただけ。じゃ、カリプソって何だったの? で、エンドロールの後のシーン。キーラに子供がいるのは、オーランドと10年前になにした結果だろうけれど、死人とのセックスでも子供ができるということなのかい?
うーむ。今回は、どーもメリハリのはっきりしない、とても分かりにくくて、さらに、突っ込みどころばっかりのお話しだったような気がするぞ。それに、字幕がやたら長くて漢字が多くて、さっと意味が取れないことが多かった。戸田奈津子だったけど、非難を恐れて逐語訳になっちゃったのかな?
主人公は僕だった6/8新宿武蔵野館2監督/マーク・フォースター脚本/ザック・ヘルム
原題は"Stranger Than Fiction"。「小説よりも奇なり」とでもいうところかな。タイトル、および、テレビコマーシャルの印象から、バカコメディかとばっかり思っていた。ところがどっこい。見はじめると「エターナル・サンシャイン」「ハッカビーズ」みたいなテイストなのだよね。で、この2作とも実は寝ているのだ。これは、寝てしまうかも・・・と思っていた通り、10分を過ぎると少しだらけてきた。でも、それ以上からだがとろけたり瞼が落ちてくることはなかった。結果としていえば、かなり面白かった。そして、内容は哲学的で、いろんな見方、切り方ができる物語。よくもまあこんな変な映画をハリウッド大手がつくったよなあ、と感心してしまう。いつもアクション映画ばかりつくっていると、たまにはこういう“考える”映画もつくらないと申し訳ないと思ったりするのかな。
石部金吉+数字好き(というかつねに数字を意識する日常)+分裂症気味、の性格を持つ国税局の男(ウィル・フェレル)が主人公。あるとき幻聴が聞こえる。その声は、彼の行動を地の文で説明していた。まるで小説のように! で、すっかりノイローゼになってしまう。一方で、国家に抵抗する気持ちをもつパン屋の女主人(マギー・ギレンホール)と仕事上で出会い、なんとなく惹かれていく。幻聴の正体を知りたくて精神科へいくも分からない。大学の文学専攻の教授(ダスティン・ホフマン)のところにも行く。しかし、分からず。たまたまテレビに出ていた女性作家(エマ・トンプソン)の声を聞いて、幻聴の声はこの女だ、と分かる。作家は、主人公を最終的に殺すような物語しか書いたことがない。自分は死んでしまうのか? ウィルはエマを訪れ懇願する。エマはフェレルが死ぬ想定で書いていたが、結局、事故にあったけれど助かるストーリーにする。
と、ストーリーを書いておかないと忘れてしまうので、記録しておく。設定としては、ウィルが分裂病にかかっていると考えるのが常識的だと思う。几帳面で冗談もいわず女っ気もない国税局の男なんて、典型的な分裂気質だと思うし。それが、自由奔放に生きるマギーに出会って、溶けていく話だろう。でも、それでは単純すぎる。というわけで、小説家の紡ぎ出すフィクションが、現実をなぞっていたらどうなる? という話をくっつけたような物語だ。現実には、小説家の創造力が現実をなぞったりすることもないし、創り出したフィクションが現実を先んじるようなこともあり得ない。だから、小説家の話はファンタジー的な要素が大きいだろう。たまたま分裂病患者が見た妄想が、小説家の創造力に近かった、ってなところではないかと思う。それを誇張すると、この映画のようになるということだろう。
あり得ない話を、最後に無理矢理こじつけて現実的にしてしまうようなあくどいことはしていない。あり得ない話のまま、終わらせている。それでも、ウィルはマギーと蜜月になるし、エマは、最高傑作は逃したけれどそこそこの評価を得る小説を仕上げる。両者痛み分けのような終わり方だ。でも、ウィルの方は多くを獲得していて、エマは少しだけ失っている。
たとえば、こんな見方もできる。小説家は簡単に人を殺したりするけれど、同じ様な境遇の人間は世の中にもいる。そういう人を救うことなく、簡単に殺してもいいのか? たとえフィクションの中だとしても、身勝手すぎるだろう! 現実に危機に陥っている人を救う義務が、小説家にもあるんじゃないのか? とかね。
あるいは、ウィルのように杓子行儀に生きる毎日のつまらなさを捨てて、もっと奔放に生きよう。防衛費に払う税金は払いたくない、と声を上げよう。というようなメッセージも、生っぽすぎるけれど、あった。また、この映画で最後に言っているように、ささいなことでも人の役に立つようなこと、支えになるようなことをしよう。そうすれば、世の中はもっと素敵になる、というのでもいいのかも知れない。でも、かなり生っぽすぎるけれどね。
バカ映画のつもりで見ていて、ついうるうるしてしまったシーンが2つほどあった。もっとも感動的だったのが、マギーの家でウィルがギターを語り弾きするところだ。ほんとうに、本心しか言えない無骨で正直すぎる男の歌は、感動的であった。ところが、ラスト近くでエマの小説を読み終えたウィルが「ギターの場面はよかった」と言ってしまうのだよね。そうか、監督は分かっていたのか。なんか、監督の思惑にひっかかったみたいで、ちょっと悔しい。くやしいけれど、マギーとウィルの恋物語は十分に心にくる話だった。
そのときは彼によろしく6/11テアトルダイヤ監督/平川雄一朗脚本/いずみ吉紘、石井薫
長い。つまらない。眠かったけれど何とか寝なかった。長澤まさみが眠りについたあたりから、いつ終わるんだいつ終わるんだ、速く目覚めろ花梨(長澤まさみ)と思っていたりした。ストーリーは知らないけれど、最後に起き出すだろう白雪姫物語であることは明々白々なので、いらいらした。不必要な登場人物が不必要なシーンで不必要なセリフをくっちゃべっているだけで、物語はなかなか転がっていかない。で、何が言いたいんだ? と思いつつ見ていた。で、最後に、花梨が眠りに入る前に祐司(塚本高史)に書いたメッセージの中に「目覚めたらそのときは彼によろしく」という言葉があること。そして、花梨が眠っていた間に死んでいった智史の父(小日向文世)とが夢の中で出会い「目覚めたらそのときは智史によろしく」と言われたということ。この言い回しの妙で泣かせたかったのね。それだけかよ、と思う。ほんと、中身はからっぽの映画だった。
で、映画のWebページを見たら、原作は「いま、会いにゆきます」を書いた人なのだね。ふーん。なんとなくタッチは似ておねな。それにしても、設定があり得ねー、という感じ。わずか13年前にたった1年を同級生となった少女花梨と、少年智史、少年祐司の3人が信じられないような絆で結ばれている、というもの。それにしては智史は再会した花梨に気がつかずに何日も過ごす。しかも、自宅に着の身着のままの花梨を住まわせるというスキャンダラスな設定。しかも、花梨は日本国民の8割が知っている有名モデルだっていう。なんでマスコミは騒がないんだ、ネットで話題にならないんだ?
さらにこの映画の変なところは、生活感がまったくないこと。客の入らない海草ショップでバイトを雇えるほどの売上げはあるのか? 智史の母は何で死んだんだ? 父親は何で死んだんだ?(あまりにも簡単に人を殺しすぎではないのかな) 親戚はいないのか? あの山村に1年しか住まなかったのは、母親の何のせいなんだ? 花梨と祐司は孤児院育ち? では、その孤児院に連絡すればいつだって2人は会えたはず。たとえ騙されたにしろ、祐司は母親に会えたんだろ? といったところが、あやふや。さらに、大衆や群衆をあまり画面に入れない撮り方も奇妙。たとえば祐司が旅立つ電車の中、祐司が花梨と別れる電車の中なんかに、他の乗客が乗っていない。なーんかな。リアリティがない。あえてそういう撮り方をしているんだろうけれど、どーも不自然。その割に、カメラは饒舌でフィックスではなく、ゆるやかに動き静かにズームインしたりしている。別に悪いことではないけれど、これってハリウッド映画の真似か? といったように突っ込み所がたくさんある。
中盤から後の展開は、たんに引っ張っているだけに見える。いや、その。花梨が眠ってしまって、そのまま話が終わってしまっても別にいいじゃん、というような気がした。その大きな要因のひとつは、花梨が智史が好き、という気持ちがつたわってこなかったからだ。好きだったら、智史の動向から目を離すはずがない。いやむしろ、たった1年の接点で、恋心が持続するはずがない、という気持ちになる。まして13年も経っていればいろいろと人間は変化する。再会すれば、なーんだ、こんな奴だったのか、と思う方がフツーだろう。なので、花梨の智史への想いに切実感を感じられなかった。だから、花梨が眠りに入り、智史と祐司が花梨を見守っていても、見ている側としては何の感情移入もできなかったというわけだ。
むしろ、智史と花梨が再会して、なんとなく一夜を過ごしてしまう方が自然な気がする。そのあとで、あ、あのときの花梨だったのか! と気づく方が、話としては面白そう。純血にこだわりすぎて、バカバカしくもあり得ない展開になってしまっているような気がする。
3年後か5年後なのか、突然に花梨は眼を覚ます。智史には過ぎ去っていった数年間の記憶があるけれど、花梨は眠りに入ったときの記憶のままのはず。そのズレは上手く利用できるような気がするのだけれど、そういうこともしていない。なんか、もったいない。もしかして花梨が新聞を見て、3年立ってしまった、と知ったとする。すると、智史はあのパン屋の娘(国仲涼子)と結婚しているかも知れない・・・と思うはずではないか。そういうのもなく、最初のシーンと同じように店の前で、待つか? フツー。なーんかな。いろいろと妙な生理感覚で満たされた映画だと思った。で、あの、眠り病というのはほんとうにあるものなのか?
300<スリーハンドレッド>6/13上野東急2監督/ザック・スナイダー脚本/ザック・スナイダー、マイケル・B・ゴードン、カート・ジョンスタッド
スパルタの精鋭300人が、数万(Webで確かめたら100万だって・・・。)のペルシア軍相手に戦う話。画面はザラッとしていて、色彩もセピアやブルーなど、モノトーンに近い処理がされている。ま、よくある画面処理だな。でも、これが全編なのでアメコミっぽいつくり。話も単純で、たいして仕掛けもない。というか、類型的。全体もエピソードもほとんどが様式化されていている。画像もストーリーも様式化しているので、リアリティはない。ファンタジー映画というつもりで見れば、まあ、腹は立たない。
レオニダス王が矢を受けて死んでいるシーンは、王のアップからカメラが引いていくと、周囲に部下の死体が囲んでいる。で、画像のタッチがまるでフレスコ画で、寺院の天井画(聖画)を見ているような気分にさせられる。キリスト、に近い存在になった、とでもいうように。レオニダス王=キリストを連想させるエピソードがもうひとつある。せむし男の裏切りだ。スパルタの民として生まれたのに武人になれない。レオニダス王に頼み込んだけれど、断られてしまった。それでペルシアに通じてしまうのだ。これは、ユダを思わせる。戦いの結果、スパルタ300人の勇士は伝説化して、翌年スパルタはギリシアを代表する国家としてペルシアと戦うことになる。まさに、レオニダスは神になったのだ。
いっぽうのペルシア王は、あからさまにオカマ野郎だ。スパルタのムキムキ筋肉と比べたら、真逆。なんかこれは、アラブのテロ、イスラムは悪に対して欧米は正義、民主主義という現在の単純な分類と通底しているんじゃないのかな。そんな気もしてしまう。
殺戮シーンが多いけれど、ほとんど漫画。切断された首の断面なんか生々しく映るけれど、画像処理のせいか気味悪さはない。血もほとばしるけれど、ほとんど黒っぽい。残酷さはあまり感じない。でもってペルシア人は何の抵抗もなくスパルタ戦士に切り裂かれていく。矢が降り注いでも300人はひとりも死なない。まあ、次第に減っては行くんだけどね。それにしても、海岸側を通れなくして、通路を狭めただけでスパルタがペルシアに互して戦えるなんて・・・あり得ないよな。
気になるのは、王妃の態度。王が不在のスパルタで、正式の軍隊を送れるよう議会で工作する。で、ある議員に接近して身体を許し、多数派になるよう約束させるのだけれど、議会が開いたらこの男、王妃の反対の立場を取るのだよね。それで王妃は怒り、男を刺殺するのだけれど、この王妃の行動はなんとも合点がいかない。いくら亭主を救いたいからといって、やすやすと身体を許すか? あーうーむ。で、この話は真実なの? 何かの神話に描かれている伝説なの? それとも、創作?
あなたになら言える秘密のこと6/14ギンレイホール監督/イザベル・コイシェ脚本/イザベル・コイシェ
原題は"The Secret Life of Words"。映画の約3/4はなんだかよく分からないままにだらだらと弱い緊張感でつづき、突然、ががっと激しい緊張感が訪れる。主人公のハンナ(サラ・ポーリー)がクロアチアでの体験を怪我治療中のジョゼフ(ティム・ロビンス)に打ち明けることで、観客の受ける印象はがらりと変わる。ほんとうに突然のことで、見ていて「ええっ?」と戸惑ってしまうほどだ。凄まじい告白なのだけれど、なぜ突然? という印象が否めない。そこがこの映画の弱点でもあるかも知れない。
なぜハンナはジョゼフに打ち明けようとしたのか。堰を切ったように。実を言うと、その過程のセリフをまともに聞いていなかった。どのセリフがきっかけでハンナが壊れてしまったのか分からない。クロアチアの兵士のひとりが「すまない、すまない」と、あなたみたいな声で言いながら私を犯すの・・・というようなことを言っていたけれど、ジョゼフの口調がきっかけだったのか? よく分からん。
セリフに集中できなかったのには理由がある。右翼最後列に座っていたのだけれど、後ろで立って見ていた客の方から、ひっきりなしにカサカサ音が聞こえてきていたのだ。紙袋のこすれるような音、ビニールのカサカサ音、人の動く音。映画の間、ほんとうにいらいらし通しだった。あとから思うに、この日は雨だったので、傘を入れるビニールの袋の音がすれていたのかも知れない。それにしても、音に鈍感なやつが昨今は多い。音を立てるな! と、いいたい。
人間との関係性を立ちきり、工場でも余計なことを考えることを拒否し、ひたすら単純作業に没頭していたハンナ。そうすることで過去を考えないようにしていたのだろう。同じクロアチア人の兵士が、ハンナたちを犯し続けたことも、トラウマになっているだろう。極度の人間不信だ。余り働き過ぎで1ヵ月の休暇をもらうのだけれど、彼女はたまたま出会った男のつてで、海上コンビナートへ。そこで怪我人の手当に当たることになる。というところで、ハンナは人と接触したくないのではないかと思っていたので、まず最初の「?」が起こった。コンビナートへ行っても、あまり人と話さない。それは、設定としていい。けれど、コンビナートで働く人々と少しずつ打ち解けては行くものの、そうした過程がとくに意味のあるエピソードになっていないように思う。印象に残るのは波の数を数えている技師と、料理人だけれど、その存在は別段、この物語の告白以後に関係しているとは思えない。伏線やアナロジーにもなっていないように思えた。なので、ハンナの告白がとても唐突に思えてしまうのだ。
ジョゼフは、同僚の妻と不倫していて、その同僚がコンビナートでも事故で自殺していたかも知れない、という重荷を背負っている。のだけれど、そんな風には見えないほど饒舌。だから、そういう、ちょっと軽いジョゼフに、なぜハンナが心を開いたのか。解せない。
治療がほぼ終わり、ハンナは元の仕事場へ。ジョゼフはハンナを探すためにデンマークの精神科のところへ行く。デンマークかよ。スペインかと思っていたら、違うのね。スペインはどういう関わり合いがあるのだろう。まあいい。なんとかジョゼフがハンナの工場を突き止め、出会う。このシーンが映画の中でもっとも感動的なところ。陸の上なのに、背景には廃船が横たわっている。まるで、涙の海が枯れ果てて座礁したように見える。ジョゼフは、一生君と暮らしたいという。ハンナは、ときどき私は押さえきれなくなって涙の洪水になるので溺れて死ぬかも、という。ジョゼフは、泳ぎを覚えるから大丈夫という。ここのやりとりは、看護の過程でジョゼフが金槌だというのが伏線になっているけれど、この映画の唯一とも言えるような伏線とオチだな。このセリフを言わせたいがために、映画を撮ったと言えるような場面だ。とはいうものの、軽率に浮気をしていたような男が、ハンナの重みを受け止められるのか? という気もしないではない。
この映画には、冒頭と最後に、幼い子供の声でナレーションが入る。あの声は誰の物なのだろう。ハンナの、死んでしまった女友達か? ハンナの心にときどき落ちてくるヒステリー(いわばハンナ自身の声?)なんだろうか。よく分からない。
クロアチアの戦争というと「ER」の医師コバッチュが妻と子供たちを亡くした、というのが先ず浮かぶ。実を言うと、詳しくは知らない。けれど、西欧ではクロアチアの戦争、というだけでそれなりのメッセージが伝わるのだね。よし。少し調べてみよう。
ボビー6/14ギンレイホール監督/エミリオ・エステヴェス脚本/エミリオ・エステヴェス
なかなか力の入った映画で、とても面白かった。ボビーを誰が演じるんだろうと思っていたら、そういう映画ではなかった。その周辺にいる人々を描くことで、ボビーを浮かび上がらせようとする映画だった。アンバサダーホテル。暗殺があったホテルを舞台に、グランドホテル形式で話は綴られる。映画の中でも、グランドホテルという映画を知っているか? なんていうセリフがあったけれど、いろいろ説明が過剰な部分はある。けれど、過去のこと、当時のことを生で知っている人たちが40歳以上になってしまえば、仕方のないことだろう。
実を言うと、最初の頃は、周囲の人々のこんな切れ切れのエピソードを綴っていって、ボビーが語れるのか? 途中でへたるんじゃないのか? ボビーとは関係ない人やエピソードも多いじゃないか? なんて思っていた。けれど、横道には大きく逸れなかったし、ちゃんと様になっている。だんだんと引き込まれていった。ニュース映像でしか登場しないボビーの輪郭が、次第に見えてくるのだ。
ドジャースの投手が6連続完投勝利を挙げられるか? というニュースが、もう1本の串になっているのだけれど、このエピソードがとても生きている。他にも、「卒業」のアン・バンクロフトのヌード・シーンは本物か? キャンベル缶を描いた作家が昨日撃たれた・・・ウォーホールっていう。ミリアム・マケバの「パタパタ」、キング牧師暗殺とか、当時の世相と社会状況をありありと浮かび上がられる話題=小道具もたくさん仕込まれていて、とてもリアルに感じられた。各エピソードでは、メキシコ移民のウェイトが高まっているとか、徴兵拒否のための偽装結婚とか、LSD体験なんていうのが、世相を感じさせる。
調理場がよく出てくるな、と思っていたのだけれど、途中で、そうだ。銃撃は調理場を抜ける途中で発生したのだった、と思い出した。
ボビーがホテルに戻り、会見する。ここでの「サウンド・オブ・サイレンス」はぴりぴりきた。感動的。あのとき、あの会場では、アメリカでは、時代が変わる予感をみなが感じていた。その期待で、ボビーに注目が集まっていた。その様子がひしひしとつたわってくる。そして犯行。そのどさくさの場面に、ボビーの演説がかぶる。読むのが大変だったけれど、これも効いている。理想と、この、暗い現実と。そのギャップが見事に表現されていた。
ぞろぞろと有名どころが登場するのにもたまげた。A.ホプキンスと話す黒人はシドニー・ポワチエかと思ったら、ハリー・ベラフォンテだった。あらら。支配人の奥さんは、シャロン・ストーンだったのね。デミ・ムーアは「チャーリーズ・エンジェル」のときより若くきれいに見えた。ウェイトレスの女の子が可愛かったね。
史実を映画化してしているのだけれど、実際に巻き添えをくらった人々も描かれていた。どころではなく、エピソードの登場人物として物語に大いに関係していた。どこまでが事実で、どこからが創作なのか。ちょっと気になってしまった。
★ひとつ空席をおいた隣の若い男が落ち着きのないやつで。ひっきりなしに足を組み替える。腰をずり落として座っているから、大仰に組み替える。ときには片足を上げたままにしたり。しかも、レインウエアなのか擦れる音がはなはだしい。もー。すごくイライラした。その若いアンちゃんの、通路を挟んだ向こう側の女は、袋に入った傘を前の椅子に立てかけようとして何度も倒す。しばらくして立てかけた傘を倒す。立たないんだから、もってろ! とイライラした。
素晴らしき休日6/19銀座テアトルシネマ監督/北野武脚本/北野武
カンヌ映画祭60回記念企画「To Each His Own Cinema」で上映された3分ほどの短編。寂れた映画館に百姓が「キッズ・リターン」を見に来る。映写機の回転がおかしくなりストップ。次はフィルムが燃える。客の百姓が帰ろうとすると自転車が盗まれている。「ニューシネマ・パラダイス」に影響された(と本人は言わなくても)ストーリー。もっとたくさんトラブルがあるのかと思ったら、あっさりし過ぎ。もぎりのところから初めて、「終」までにして、もっとギャグを増やした方がいいと思う。
監督・ばんざい!6/19銀座テアトルシネマ監督/北野武脚本/北野武
映画化が企画され撮影してみたけれど、途中で疑問が生じて最後まで撮影しなかった映画を次々と見せていく、というスタイル。ヤクザ映画→小津のパロディ→昭和30年代→ラブストーリー→時代劇→SFとつづくが、冒頭のシーンおよび途中にいくつか挟まる北野武&人形たけし(自虐的で自己分析的な部分)が、いつのまにかSFの中に入り込んでくる。でもって、地球に接近してきた小惑星が激突し、すべての映画の企画も破壊されていく。最後は地上に「監督・ばんざい」と英語のモニュメントがでてくるというバカ映画だ。昭和30年代の話(この物語だけやけにシリアス)を除いてみなつまらない。SFの、蝶野が経営するラーメン屋の騒動まではなんとか見ていられたけれど、その後がもう破綻している。っていうか、思いつきでどんどん撮ってつないでいった感じ。意図して本人(北野武)が壊れたフリをしているのか、ほんとうに壊れてしまったのかは分からない。でも、観客にとって見て面白いように壊れてくれればいいけれど、そうはなっていない。何かを示唆しているとか、深読みできる、といった話ではなく、もうくだらない浅草ストリップ小屋のギャグや「マトリックス」のパロディだったりして、とても下らない。下らないのを覚悟でやっているのかも知れないけれど、意味不明でつまらない展開は飽きてくる。なので、2度ほど、それぞれ1分ぐらい寝てしまった。
昭和30年代の物語だけが、輝いていた。画調もいい。ビートたけしと藤田弓子の喧嘩も迫力があった。プロレスごっこや果たし状、ナイフで指を切って泣いてしまう子供とか、エピソードもいい。この話をふくらませれば、「菊次郎の夏」よりいい映画が1本撮れるかも。
冒頭で健診を受けるのは人形たけし(でも、患者データは「YASUZIRO OZU」となっていた)。自分は巨匠の域に達している、という自負なんだろうか。医者には「今度は本人を連れてきてください」と言われてしまう。この人形たけしが、SF物語の中に紛れ込み、北野武と入れ替わったりする。たとえば、殴られるときは人形たけしになったりする。で、最後は北野武本人の脳を撮影するのだけれど、壊れてしまっている。壊れているから、こういう映画しか撮れない、と言い訳しているのだろうか。そこまで分かっているのなら、観客を楽しませる映画をつくってくれ。
北野武には、自分をモチーフにした映画が少なくない。自分がスターになりたいのか、自分が出ていれば客が入ると思っているのか。ほとんどの映画に出演しているのも、自己顕示欲があるからだろう。でも、憧れの対象が銀幕に映されているのはいいけれど、ビートたけしを見たい、という客はそんなにいないと思う。ましてや観客は、バラエティでバカをやってる“たけし”が、映画でどれだけ楽しませてくれるのか、って期待してやってくるわけなのだから。なのに、中途半端な自己顕示欲と、映画が撮れないというジレンマ、うじうじした告白…なんていう自虐的な話を見せられては、たまったもんではない。金をかけて他人に見せるような映画じゃないだろう、と思う。金をかけて個人映画をつくっても、評価はされにくい。しかも、生で本人がでてくるのだから始末に負えない。映画は、俳優なりに自分の思いを託したりして表現するはずだろう。もう、ビートたけしが役者として出演する必要はないと、ずっと前から思っていた。だって、「あの夏、いちばん静かな海」「キッズ・リターン」という、ビートたけしが登場していない映画は、まともな映画になっているんだからね。北野武のグチは、見たかないよね。ちゃんと表現してくれ。
平日の2時5分からの回とはいえ、20人ぐらいしか入っていない。中盤に2人、後半に入って2人、オバサン客が帰っていった。気持ちは分かる。ストーリーが無茶苦茶でも、面白ければまだ楽しめる。無茶苦茶でつまらないのだから、どうしようもない。こんな映画を系列で公開している東京テアトルはどうかしている。
しゃべれども しゃべれども6/21新宿武蔵野館1監督/平山秀幸脚本/奥寺佐渡子
いくらか期待していたのだけれど、結果は期待に及ばなかった。ちょっとばかり落語を見つけている自分としては、素直に納得はできない。
佐藤多佳子の原作は、出たときに読んでいる。10年前だから大筋しか記憶にないけどね。読んだ当時はこちらも上野鈴本の早朝寄席に行き始めたところで、二ツ目という存在に興味をもっていた。それから10年。噺家の知り合いはいないけれど、少しだけ雰囲気を感じてきた俺としては、この映画はとても中途半端に思えた。主人公の三つ葉(国分太一)は入目して10年目ぐらい? だとすると二ツ目は6年目ぐらいか。真打ちまではあと3年ぐらい。もう、何となくカタチが見えてきてもいい頃だ。設定は、この三つ葉が“行き詰まりを感じている”らしいのだけれど、その行き詰まりの具合がとんとつたわってこない。何に悩んでいるのか、どうしたいのか、どこがダメだと思っているのか、それが表現されていない。感じられるのは、三つ葉が生真面目だけど気が短くてつっけんどんで偉そうな口ぶりで他人に対する寛容度が低く嫌なやつ、というぐらい。とても、現状に行き詰まりを感じている二ツ目には見えない。前座は卒業したけれど、一人前といわれる真打ちまではあと何年かある、そんな宙ぶらりんな立場の二ツ目、というのが全然表現されていないと思う。これはきっと、原作にはわりと忠実な脚本なのに、監督があまり落語の世界を知らないことによるものなのではないかと思ったりした。全体になんか、堅いのだ。この映画にはゆるいところ、遊び心、空虚さ、気怠さ、なんていうところが見えないのだよね。シャレのひとつもないような二ツ目なんて、面白くもおかしくもないだろ。たとえば、話し方教室から途中退室する五月(香里奈)を追いかけ、言いがかりをつけるなんて、噺家じゃなくてもフツーはしないだろう。国分太一は、任にあっていないと思う。こんなガチガチの噺家なんか、仲間からからかわれるのがオチだと思うけどね。
五月の気持ちも、いまひとつ理解不能。なぜ話し方教室にやってきたのか。その理由がピンとこない。失恋したのが自分の態度にあったからって、話し方教室に来ても直りはしないだろう。これは、元野球選手で解説下手な湯河原(松重豊)も同じこと。話し方ではなくて、そりゃあんた、性格だろ。大阪から転向してきた小学生・村林は、性格は楽天的だしおしゃべりだし、話し方なんか習う必要なんかないだろ。学校でのいじめは、また別の問題だろうに。…という3人がなんとなく三つ葉に落語を習い始める過程が、いささか強引。小説なら強引に引きずり込むこともできようが、映画ではそんな簡単に観客を納得させることはできないぞ。
生徒の中で、というより、映画の中で最も輝いていたのは、村林優役の森永悠希だろうな。いじめてくる同級生の前で落語をやるところも、それはそれで合格点。もっとも、途中退席する同級生に「最後まで聞いていけ」と言えないところはマイナスだけど。五月は、課題の「まんじゅうこわい」でなく、「火焔太鼓」を勝手に覚えてきて人前で演じてしまうのだけれど、それは成長ということになるのかい? っていうか、自分の口の悪さや性格の悪さを改善したこととつながっていないと思うんだけどなあ。湯河原は、結局、落語は覚えない。最後に、選手をバカ呼ばわりする独特の解説をするシーン、または、その解説を聞いている主人公たちを登場させるとかして、壁を乗り越えたところを示さないと意味がないと思う。
中途半端な人物が多い。一緒に踊りを習っている大学院生(?)の女なんか、どういう設定で登場させているのか意味不明。あんななら、登場させる意味がないと思う。三つ葉の師匠(伊東四朗)や兄弟弟子も、とってつけたような描き方。どーも物足りない。
ラスト。隅田川遊覧船の上で五月が三つ葉の胸に飛び込んでいったのには、ちょっとたまげた。それはあまりにも唐突だろう。恋愛感情を抱く過程がほとんど描かれていないのに、一気に同棲または結婚話まで行っちゃう(俺の家に来いっていうのは、そういうことだろ)し。とってつけたような恋愛ドラマに仕立ててもしょうがないだろ。
三つ葉が3人の生徒たちに稽古をつける部分をもっと描いた方が良かったと思う。手拭いや扇子の使い方。上下の切り方。単調な口調だったのが、抑揚をつけて演技するようになるまで、簡単にでも表現しておくべきだったのではないかな。中盤に入る伊東四朗の「火焔太鼓」は、あんなに長く演る意味がないと思う。…というわけで、いまひとつ焦点が絞れていないのが残念。表面のいい加減さとは裏腹の、悩める二ツ目を描いて欲しかったね。
上野鈴本、末広亭、浅草演芸ホールなんかはもちろん、室町砂場、深川江戸資料館、雑司ヶ谷鬼子母神、根津神社(だと思う)、神楽坂の毘沙門天(善国寺)、深川図書館とか、知っているところがたくさん出てきて、それはそれで楽しめた。香里奈は、ちょっと暗すぎやしないかな?
僕のピアノコンチェルト6/26ル テアトル銀座 by PARCO監督/不レディ・M・ムーラー脚本/●
生まれついての天才少年の、12歳までの波瀾万丈の物語。タイトルと、“天才ピアノ少年”という言葉から、このあいだ見た「神童」の外国版なのかな? と思っていたら、途中からどんどん話が大きく展開していって、天才ともビアノとも関係のない物語になっていく。果てはデイトレーダー(12歳の少年が、だ)から企業買収、フライトシュミレーターまで、先が読めない。ほどほどのユーモアも巧みで、引き込まれてしまった。
主人公ヴィストは、赤ん坊→幼児→少年と3人の役者が演じる。赤ん坊はさておいて、幼児の役の子が、目玉が大きくてとっても可愛い。少年になると、ちょっと間の抜けた感じなんだけど、それはそれで抜け目のなさそうな顔立ち。しかも、この役を演じたテオ・ゲオルギューは本物の“ピアノの天才”らしい。なーるほど。それで映画の中でもちゃんと自分でピアノを弾いていたのか。それにしても、役者としても大したもの。こういう、ピアノも弾けてそこそこの顔立ちで演技も達者な子役は、日本にはいないのかね。
天才をもった母親の期待、そして、その才能が事故によって失われたときの戸惑いが、少しだけ皮肉っぽく描かれている。けれど、揶揄まではしていない。これは、主人公が本物の天才で、その両親も存在しているから、なのかな。でも、この天才を持った母親の行動には焦点は当たっていない。ごくごく一般的な反応として描写されているだけだ。あくまでも主は天才少年の方。天才扱い、自分の好きなことをさせてくれない苛立ちから、逃げようとするわけだ。この辺りは、世の天才少年少女が母親の言うことを真面目に聞いて、ピアノバカになっていくのと、ちょっと違う。これはきっとヴィストがビアノの天才だけじゃなくて、数学も経済学も、すべてに天才児だからなのかも知れない。身体は小さいけれど、思考回路はまるっきり大人なのだ、12歳にしてすでに!
天才扱いしない祖父との交流や、自分のことしか頭にない父親など、キャラクターの描き分けも見事。ベビーシッターへの恋心の描写もいい。こういう描き込みを丁寧にしているから、物語の厚みが自然と出てくるのだよな。でも、天才過ぎて可愛げがない、というのも確かだろうけど。でも、こういう子供がいたら、親は左うちわ?
父親の会社がアメリカの会社に乗っ取られるのを阻止? という経緯がよく分からなかった。あの会社は創業者の息子が社長になり、ヴィストの父親はクビ。でもって、社長の息子は会社を売る方に傾いていたんだよな。そこに、ヴィストが割って入って高値で落札したってことか? では、社長の息子が、ヴィストの父親に書いた退職願は、どういうことだ? 字幕が速すぎてよく分からなかったよ。
というわけで、ヴィストは祖父には大金と飛行機、父親には会社をプレゼントしたわけだけど、そっから一気にピアノコンサートのシーンに飛んでしまっている。ヴィストの父親は、会社をプレゼントされて嬉しかったのか? 母親の方は、天才の母親という勲章が戻ってきて、ハナ高々なのかな? そのあたりの様子を上手く省いてしまっているのは、ちょっとずるいと思うけど。でもまあ、ハッピーエンドにするにはああするしかなかったろうから、仕方ないのかな。
武士の一分6/26ギンレイホール監督/山田洋次脚本/山田洋次、平松恵美子、山本一郎
話も展開も、古い。意外性はなく、ごく当たり前のように当たり前の、そうなるだろうなと言うような流れで話が展開していく。とくに21世紀ならではの解釈もなく、日本人なら分かっているだろうなと言うような事柄を描いていく。挟まれているギャグはステレオタイプで古典的で手垢が付きすぎ。オーソドックスが悪いとは言わないけれど、迫ってこないオーソドックスなのだ。もう「たそがれ清兵衛」の亜流はいいよ、だ。
木村拓哉のルーズなセリフは品がない。もともとかっちりしゃべれない人だからしょうがないけれど、映画の品位を下げているのではないかと思う。嫁を演じた壇れいは、あんまり可愛くない。印象に残らない顔だ。それに、簡単に虚言にひっかかり、手込めにされ、逢瀬を重ねたというのも、単なるバカ女としか思えない。とても同情の対象とならない。
妻の不貞を知る辺りから、まるで怪談話みたいになってくる。ちょっとメイクもひどいし、誇張しすぎではないかと思った。それから、30石を維持したのがたいへんラッキーで、実は20俵で飼い殺し、という比較が出てくるけれど、20俵はそんなに悪い扶持ではないのではないのかな。たぶん7石取りぐらいになるはずで、下級武士の上クラス。妻と2人暮らして行くには不服はないと思う。なので、余計に妻の行為が「?」に思えてくる。それと、キムタクが冒頭で「早く隠居したい」と言っているけれど、子供もいないのに隠居もないのではないのか、と思った。跡継ぎがなければ家は断絶が絶対の江戸時代。養子をとる様子もないし、子がないことで妻が肩身を狭くもしていない。そっちの方が不自然だろ、と思って見ていた。
めくら侍が、剣の達人の片腕を切ってしまうという、ありえない決闘だ。小説なら納得できても、絵が動いてはそうはいかない。裏をかいて、やっぱりキムタクがやられる、ということになるかな? と思ったけれど、そうはならなかった。といっても、裏の裏をかいたわけではないだろう。たんに、原作通りなのかもね。とても、リアリティがない。下男の笹野高史が手助けするとか、あり得る展開にして欲しかったな。せめて。
“めくら”という言葉を使わないようにしているようだけれど、とても違和感がある。これなんか、歴史の歪曲だろう。なんか、いろいろ粗が見える映画だったな。そうそう。この映画で笹野高史は日本アカデミー最優秀助演男優賞を得ていたはずだけど、人物の掘り下げ方は足りないように思う。それは、役者がではなく、監督が、ということだけど。
いつもながらの東北・海坂藩の“がんす”言葉なんだけど、「あほ」という関西弁を自然に交ぜてしゃべっているのは、どんなもんなんだろう。違和感を感じたぞ。
あるスキャンダルの覚え書き6/28新宿武蔵野館1監督/リチャード・エアー脚本/パトリック・マーバー
原題は"Notes on a Scandal"。女教師が生徒と性関係をもち、それを知った同僚が脅す(とは言えないかも知れないけれど…)というのは、よくある設定。けれど、社会的側面なんかそっちのけで、個人の葛藤なんていう文学性も排除して、ひたすら欲望の視点からのみ描いているのがいい。若い、といっても40凸凹の女教師にケイト・ブランシェット。同僚の老女教師にジュディ・デンチ。ケイトが主役でジュディが脇かと思ったら、逆だった。
ケイトは、自身が学生だったとき教師と関係をもち、離婚させてしまった経験をもつという設定。できた子供のひとりはダウン症で、介護も楽になって久しぶりに社会復帰した。かつて寝取った亭主はすでに老人。介護疲れで解放された下半身…。そこに紅顔の美少年が…というわけで、呆気なく15歳の少年をからめとってしまうのだけれど、おいおい、そんな展開でいいのか? ちゃちすぎないか? と思っていたら、横からすうっと主役の座についたのがジュディだった。なんと、彼女はレズ(クリスマスに妹の家に行ったときに分かる)だったのだ。おお。で、ケイトの不貞を知ったジュディは、彼女を支配下に置こうと着々と地固めをするのだ。なかなかに陰湿、かなり強烈な悪。これがまたいい。
ケイトは、自分の間違いを恥じたり反省したいないのが、凄い。あのぐらい仕方なかった、と言い訳までする。かつて自由を求めて奔放だった20歳の娘はダウン症の息子を与えられ、十分に責め苦を味わったんだから、これぐらいなによ、というところかな。家庭は大事だし守っていく。それと下半身のうずきは別問題、と割り切っているし。それとも、映画が描く上流社会の家庭の通念につながるのだろうか。そういえば、家族で会食をするというときに、先妻も来ると行っていたけれど、それは寝取った亭主の元の女房ということだろ? だったとすると、その上流階級のつきあいというのは、なんか虚飾みたいな感じがするね。
ジュディは中産階級? 一緒に暮らせる女を捜して60年(もっとかな?)、手当たり次第に声をかけては失望を味わってきたんだろう。凄まじいな。オールドミスの教師として同僚からは信任が厚いらしく、いろいろと相談を受けることが多い、っていうのは、人畜無害ないい人、と思われていたからだろう。ところが実体は、狡猾で計算高いレズばばあだったというのが凄い。
スキャンダルが発生し、ダウン症の子供やその妹(姉?)の感情なんかは置き去りにされてしまう。つまり、描かれない。ジュディが主人公でケイトが脇なんだから当然なんだろうけど。とりあえずケイトは元の家に戻ったことになっているけれど、10ヵ月の実刑の後、子供たちからは無視されるのだろうな…。亭主とは同居しても、無言の家庭になるのかな。その後が知りたくなる映画だ。ジュディは相変わらず新しい女漁りに懸命だけどね。
大日本人6/28新宿ミラノ3監督/松本人志脚本/松本人志、高須光聖
予告編に神主姿の松本がいたので、右翼っぽいところ、新興宗教的なところがあるのかな、と思っていた。神懸かりのところはあるけれど、とくべつ右翼っぽいところはなかった。
最初は、新興宗教の教祖? と思っていたのだけれど、そーゆーわけでもなさそう。っていうかバカ話になっていく。電気を流すと巨人になり、怪獣と戦うのが松本の役割だった。なんだよこの展開は。支離滅裂で、最後はウルトラマンみたいな家族が出てきて、そのドラマでおしまい。うーむ。だから何なんだ?
場内では、ときどき若い人の笑い声が響く。けれど、俺にはどこが面白いのか分からない。もともとダウンタウンの芸は好きではないし分からないのだけれど、いまどきの若い人に受ける芸も分からない、のだろう。古典的なギャグには仕掛けがあって(たとえば地口とか)、オチがあって、そのズレや意外性が笑いにつながるんだけれど、この映画(つまり松本人志の)には、そういう仕掛けはあまりないのだよね。なので、どこで笑っていいのかわからない。っていうか、なんでそこで笑えるのだ? と思えるようなところで笑っている。人はこれを、ついていけない、というのかも知れない。けれど、そうではない、と俺は思っている。やつらは、面白がっているだけ、だと。まあいい。
思ったのは、変身モノをやりたかったのかな、ということ。それも、宇宙からやってきて日本を救うのではなく、地球人=日本人が巨大化して、様々な怪獣と戦ったらどうなるか、というのをやってみたということかな。その意味では、これまでのヒーロー物のパロディなんだろう。けれど、松本人志なので正統派ヒーローではなく、笑われる素質をもったヒーローということなのか。もちろん、戦う相手の怪獣も、極悪ではなく笑える怪獣だ。笑えるヒーローvs笑える怪獣という、映画の中のコントなのかも知れない。けれど、俺には笑えなかったけどね。退屈。なので中盤で2度ほど寝てしまう。眠りと眠りの間は、ボーッとした記憶しかない。
この映画の変なところは、一般大衆の存在が希薄なこと。松本が変身ヒーローだということを大衆が知っているのなら、あんなに冷たい対応をされることはないだろう。怪獣が登場するたびにマスコミは騒ぐだろうし、大衆も話題にするはず。勝てば賞賛されるだろうし、ファンクラブだってできるだろう。なのに、ひとり街を歩いていても注目されないし、気づかれても毛嫌いされるだけ。それはないだろうと思う。現実のリアクションを想定できていないのではないかと思う。代々巨人化する家に生まれ、四代目はちやほやされたけれど、現六代目は人気がない、という設定だけれど、素直に“そうですか”と納得しがたいものがある。代々その家系という意味では、天皇制を連想する。実は、現六代目はその器ではないのだけれど、義務のようにして怪獣と戦っている。その苦渋は分からないでもないけれど、描き方によってはモテモテのヒーローにしてもいいわけで、どーうしても悲哀感は感じられない。現実は辛いものがある、というのなら、そういう描き方をしなくちゃな。たとえば、この映画のエンドクレジットに流れる宇宙ヒーローの反省会なんかは、ヒーローとその内実のような落差があって、笑いにつながるような気がしたけれどな。
それから、壊したビルや家や高速道路なんかを、誰が補償するのかといった問題だって、あるだろう。俺は、そういうリアリティの方が笑いにつながると思うのだけれど、この映画ではそういうことには関心がないようだ。
松本は「フツーに笑える映画をつくりたかった」といっているようだけれど、これでは笑えないよなあ。それに、何をいいたいのかも、わからないしね。
7/13追記/松本は、変身ヒーローの影の部分を表現したかったのだろう。観客は、ヒーローに変身しているときの姿を強く印象に残す。もちろん初期の変身ものでは、変身前後の、人間の姿のヒーローも描写しているが、悲哀まで表現したものは少ない。なので、ヒーローに変身していない日常を徹底してリアルに描いてみたかったんだろう。でその、ヒーローというのをテレビに出ているときの松本として、出ていないときの素の松本はこうですよ、というのも示しているのかも知れない。きっと松本は、テレビに出たりマスコミに曝されているとき、意識的に自分を変えている。つまり、変身。変身することで、周囲の人の目は冷たくなる。ときには嫌われる。そんなことで、テレビに出るのが嫌になるときがあるのかも知れない。変身すれば、他の芸人と戦うときもある。映画でも、大日本人になって他の芸人たちと戦ったりする。その自分のテレビに出ている姿を、大日本人に託して表現したのかも知れない。けれど、自分の生身が出すぎているせいもあって、全体のトーンが暗すぎるのだ。その生っぽさが、笑えなくしている原因かも知れない。松本の日頃の芸も、そういう感じなのだろうか。まともに見たことがないから分からないのだけれど。そういう意味で、ラストにぶら下がっていた宇宙からのヒーローたちが家庭に戻って反省会を開いているところなどは、客観性が高く物語として成立しているので、笑えるのかも。あの、ラストを描いたようなスタンスで全体を作り込めば良かったのではないかな。たとえば、映画の中に出てくる、レトロな図鑑のような怪獣紹介など、要らないと思う。ああいうのを入れてしまうというのは、松本の妙な真面目さ、律儀さの現れだろう。徹底してバカになれないところかも。そして、お笑い芸人でありながら、笑われたくない、という気持ちも強いのかも知れない。自分はバカではない、頭がいい、クレバーである、ということから離れられない芸人、という雰囲気がどうしても見えてしまう。これでは、大衆が見て笑えるものは生み出せないのではないかと思う。

 
 

|back|

|ホームページへ戻る|