2007年7月

図鑑に載ってない虫7/2テアトル新宿監督/三木聡脚本/三木聡
テアトル新宿は最近、指定席制度になったんだよな。前に座高のある奴とか隣にクチの臭い奴、屁をする奴(こないだの「武士の一分」では、たぶん前の席のおやじだと思うんだけど、20分ぐらいおきに臭いのをやらかしてくれて難儀した)、カソコソ弁当を食う奴(こないだの「大日本人」では、ひとつおいて隣の姉ちゃんがフライドポテトとハンバーガーを食いやがって臭うの音がするのってイライラした)なんかかいたら、困るよなあと思うのだけれど、本日の劇場内はたいへんに空いていてよい状態だった。
ストーリーは単純。ルポライターの伊勢谷友介が編集長(水野美紀)に“死にもどき”を探し出して記事を書け、といわれる。“死にもどき”は、いったん死んでもまた生き返ることができる代物らしい。伊勢屋は松尾スズキと探しに行き、カメラマンが鍵を握っているとつきとめる(といっても全然論理的ではない)。その過程で自殺マニアの菊地凛子が加わり、あちこち寄り道しながら乞食の集団と出会い、見事、“死にもどき”を探し出す、と、それだけの話。
探し出す道筋で、小ネタのバカギャグがちょろちょろはいる。というか、小ネタの集積によって話がつながっていく感じ。しかも、うんこ。ゲロ。痰。血。塩辛。蟹。片輪・・・というような汚いもの、表に出せないようなものばかり並べ立てる。もっとも、そんなに気持ち悪くはないけど。で、そのギャグが凄くいい、というものではなく、苦笑するようなものばかりなので、途中でいささか飽きてくる。40分ぐらい過ぎたら眠くなってきて、欠伸をこらえていたけれど、ふっと眠りの世界に陥り、気がついたら松尾スズキが青ざめたまま救急車で運ばれるところだった。“死にもどき”が虫だっていうところは、見逃しているのかも知れない。
物語に起伏がなく、だらだらとつづく。起承転結もなく、謎が明らかになるとか、思いがけない展開になるというのでもない。小ネタも、つまらないものがたくさんある。なので、見る緊張感が保てなかった。それに、セリフがとても聞き取りにくくて、何をいっているか分からないことが多かった。こうなると、セリフなんか聞こうと思わなくなるし、さらに映画の流れに入り込めなくなる。そうやって睡魔に絡め取られたんだと思う。
監督を調べたら、「亀は意外と速く泳ぐ」「イン・ザ・プール」「時効警察」の人なのね。そーか。「亀」では寝たよ。「プール」はそこそこ面白かった。「時効警察」はTVだけど案外と奥が深くないドラマだと思っている。表面的なあちゃらかかをやっているだけで、何かを示唆しているような気配もない。あとから、なーるほど、と思うようなこともない。やっぱ、TVの演出家だからなのかな。
そういえば、と後から気づいた。ギリアムの「ラスベガスをやっつけろ」になんかちょっと似ているなあ。あっちは意味ありげなところが多かったけど、この映画は意味なさげなギャグばかりだったからなあ。やっぱり、疲れるよ。
モーツァルトとクジラ7/9ギンレイホール監督/ペッター・ネス脚本/ロナルド・バス
原題は"Mozart and the Whale"。モーツァルトは女(ラダ・ミッチェル)で、クジラは男(ジョシュ・ハーネット)のこと。 嘘くさいというか、あざといというか。本質をぬけぬけとかわしながら、障害者のロマンスをつくりあげてしまっている。なんかなあ。現実は違うだろ、と言いたくなってくる。
自閉症の人々の話。タクシードライバーぐらいはできる軽症のジョシュが、出たがらない自閉症の連中のリーダーになって、集会=野外活動を行なっている。そこに新入りが加わった。美形のラダ。男たちはちょっと動揺するけれど、ラダはジョシュに目をつける。ラダがジョシュが気に入ったのは、ジョシュが「言葉で表現するのは苦手だ」というようなことを言ったから。それ以外の要因は、まあ、他にいい男がいなかったから、としか思えない。
ラダは、美容室で働けるほどの軽症。ときどき自分を抑えられなくなることがあるぐらいで、映画の中でもちょっと性格がきつい、感情の抑揚が激しい女、ぐらいにしか見えない。アスペルガー症候群と言っていたけれど、Wikipediaで調べた症状は、ちょっとラダの行動には当てはまらないような気もする。かかりつけの精神科医はいるけれど、少しエキセントリックなだけで、どこが障害者なのか首をひねってしまうほどだ。2人が喧嘩をするきっかけも、よく分からない。そんなささいなことが?(ジョシュが上司を家に連れてくるから、うまくやってくれ」といったことの、どこが気に障ったのか?)と思うようなことが原因だったりする。うーむ。わからん。
ジョシュは、初対面の人を正視できないらしい。でも、大学は卒業していて、IBMの面接を受けたと言っていたから、彼も社会生活が営めないほどではない、ようだ。数字に異常に強いのは、自閉症の得意技? ゴミのように雑然とした部屋でしか暮らせないというのは、強迫神経症のようにも見える。
とまあ、症状の軽い、しかも美男美女がくっついたり別れたりする話で、なんだかなー。現実は、不細工な女と陰気な男が好き合って・・・というようなケースが多いわけで。しかも、互いに若く美しい時代はすぐに終わってしまい、さっさとオヤジとオバサンになってしまうわけで、こんな風に自閉症患者を美化してもいいことがないんじゃないのか、としか思えない。
集会にやってくる他の患者たちの方が、よっぽど病人だ。ラダとジョシュは、そういう他の患者たちとあまりにも違いすぎる。「あ、こういう自閉症の患者なら、相手をしてもいいかも」と思わせるような軽症だ。だから、この映画は自閉症患者のロマンス、というにはムリがありすぎると思う。というわけで、あまり共感できなかったんだけど、ラダが知的な顔立ちで美しかったので、許してやろう。個人的には、「両親と駅で待ち合わせしなくちゃ」といいつづけている娘に感心があったんだけどね。
ハロウィンで、ラダはモーツァルトの恰好をする。ジョシュは、クジラ。だからなんだ、という気もしないでもないが、なんか意味があるんだろうか。
シュレック37/9上野東急2監督/クリス・ミラー脚本/ピーター・S・シーマン、ジェフリー・プライス、クリス・ミラー、アーロン・ワーナー
1も2も見ていない。それで3を見るのは無謀だったのかも知れない。シュレックたちが高校に行った後あたりから眠くなりはじめ、気がついたら婆さんが頭突きで壁を破っているところだった。
どーも人物や設定の説明がなく、どんどん話が進んでいくなと思っていたのだけれど、これは1と2の展開で紹介済み、または、知っているものとして扱っているのだね。こっちは、なんでシュレックが王様で、取り巻きには白雪姫、シンデレラ、眠り姫(?)、おかま、なんていうのが、なぜいるのか分からない。義父がカエルの理由がわからない。他にも分からないことがたくさんあって、話しについて行けない。
物語や設定には、いろいろとパロディやら細かなギャグがあったりして、興味深い。のだけれど、ストーリーについて行けないのでは、つらい。なので寝てしまった、という次第。エンドクレジットもオマケがなくて、いまひとつだったね。
傷だらけの男たち7/10新宿武蔵野館1監督/アンドリュー・ラウ、アラン・マック脚本/フェリックス・チョン、アラン・マック
いつになったら面白くなるのかと思いつつ見ていたのだけれど、いつになっても面白くならない。まず、テンポがぬるい。最初にトニー・レオンと金城武がバーで出会う…って、これは張り込みの最中なんだけど、くだらんジョークをかます。で、犯人をチェイス。途中に、いかにも伏線というのが明白な自動車事故があって、犯人を取り押さえ。ここでも明白に伏線。トニー・レオンが犯人をオブジェか何かでボコボコに殴るのだ。…で、この事件はご挨拶、というのはもうハリウッドではシナリオの構成としては手垢が付いたもの。本筋は、これ以降、ということになるのだけれど、まだまだぬるい。フツーなら何かどかん!と大きなアクションがあって、黒幕が出るまたは秘密にしておく、というチラ見せがあって、それを追いつめる刑事…という流れなのに、まず金城の失恋物語がベタで入ってくる。なんかなー。いつになったらエンジンがかかるんだよ、と思っていたんだけど、いつにになってもだらだらだら…。
この映画の最初のきっかけ、ともいえる事件が起きる。社長(?)と執事が殺される事件だ。がしかし、いかにもあっさりとしている。ちょっと前に、トニー・レオンが妻とともに訪ねた“妻の父親”だ、とはすぐに気づかなかった。フツーならここで、嘆き悲しむ妻、なぐさめるトニー、といった絵が入っていいはず。なのに、淡々としすぎているのだよ。
このあたりで、犯人はトニーであるとバラされていって、スタイルとしては「刑事コロンボ」のように犯人が分かっていて追いつめる形式になるのだけれど、金城の追いつめ方がどーもトロい。ビジュアル的には、犯行時の様子がモノクロで下地になり、そこに現在の金城が重なって表現されるなど、目新しい表現はなされているけれど、逆にちょっとややこしい印象を強めていはしないか。
その後の金城とトニーの関係は、ヨロヨロと進む。金城も何かを追いつめる、といった感じではなく、現場を何度も行ったり来たりしているだけ。その現場への移動だけれど、金城がガールフレンドとマカオに行っている場面など、移動の様子が絵で表現されていないので、なんだか隣の町へ行っているみたいな印象しか受けない。もうちょっとやりようがあったんじゃないか。
話をややこしくしているのが、そのマカオで発見された、犯人と目される男2人の死体発見現場。こいつらがトニーの父親を殺害して、のちに仲間割れしたのだろう、と警察は判断しているらしいのだけれど、このあたりの経緯がとても分かりづらい。セリフで名前を挙げて解説されたりしても、何のこっちゃ、である。ちゃんと名前が観客の頭に入っていないと、もうついて行けなくなる。実は、途中でついて行けなくなった。そんな状態のまま、トニーの妻の父親は、過去にヤバイことをしていて、その生き残りがトニーで、トニーは復讐のため…といった背景が分かっては来るのだけれど、とても頭が話に追いつかない。結局、ラストで金城がトニーを前にして説明してから、細かなところまでそこそこ合点がいった。でも、こっちはもう話についていくのはよそう、と思いはじめていたあとなので、遅いよ。
それから。最後に、金城の元カノが死んだのは、別に男がいたからだ…ということがつけたしのように説明されるけれど、なんか、扱いが軽すぎないか? あー、それから、ちょこちょこでていたサングラスの謎の男は、誰だったんだ?
「インファナル・アフェア」のチームが作ったらしく、その匂いはするけれど、話の骨格ももって行き方(演出ね)ももったりとしていてリズム感はないし分かりにくいしつまらないわで、眠るのをどうにか避けられたけれど、見ていのが辛かった。物語の背景や人物関係などは、もっと直接的にかっちり描いた方がいいと思うぞ。それに、がつんとかますところも適宜入れていかないと、飽きてしまう。ほんつ、途中で見るのが辛くなったぞ。これは、シナリオが悪いのと、主には演出がくどすぎるからなのかも知れない。あー、それと。トニー・レオンの風体は冴えなさすぎ。もちょっと格好よく描いてくれよ。
華麗なる恋の舞台で7/18ギンレイホール監督/イシュトヴァン・サボー脚本/ロナルド・ハーウッド
原題は"Being Julia"。ジュリアはジュリア、ってな意味かな。で、結果的に、実に面白かった。最初は、いったいどういう映画なのだ、どういう展開になるのだ? と、いささか退屈で、その行く先もあやふやに見えた。なんてったって、知識ゼロで見はじめたから、見当がつかなかった。なんとなく事件が起こり始めたのは、主人公ジュリア(アネット・ベニング)がトムという青年と不倫関係を結び始めてから。ここまでちょっと長いというか、面白くない。で、しかも、不倫に陥ると母親の年齢のジュリアの方が夢中になってしまい、よくある古典的なパターンか、と甘く見てしまった。ところがどっこい、この映画にはいろいろ仕掛けがされていて、時が経つに連れて深くなっていくのがわかってくる。ま、俺の気のつくのが遅かった、とも言えるんだけど。
年上の女優が恋に溺れた、と見せかけて実は、芝居の稽古に利用していた、らしいことが分かってくる。のだけれど、話が進んで最後の方になると、トムを利用していたように見えて、でも実は夢中になっていた節もあるな、とか、夫マイケル(ジェレミー・アイアンズ)が若い女優と不倫していたことに嫉妬したりと、話が錯綜していくのが面白くなってくる。で、ときどき登場する老人は誰なんだろうと思っていたら、彼女の昔の先生のようだというのが途中で分かってくる。冒頭でもでてくるんだけど、ちょっと分かりにくい。最初は現実の人間かと思っていたんだけど、額縁の中に入っていたので故人なのだろう。その彼が、ジュリアに女優としての行き方を耳元で囁いているのだ。これは、ジュリアが意識して思い出そうとしているかつての“教え”なのか、そう仕込まれて“身についているもの”なのか、その区別はつかない。彼の存在の意味がもっと早くに分かっていたら、最初の方ももう少し興味深く見られたかも知れない。
というわけで、これはジュリアは50歳を目前にした舞台女優。もう30代の役はできなくなる。あとは老人の役ばかりになる・・・と、行く末に不安を抱いている。その彼女が青年との火遊びで俄然甦ってしまう話だ。しかも、現実と舞台との区別もつきにくい行動をしている。青年との関係は本気なのか、利用しているのか。現実の中でも演技をしているのか? いや、ラストでは舞台の上に現実(夫の不倫相手の若い女優を本番中にいたぶる)を引っ張り込む。このぐじゃぐじゃな様子が、一筋縄ではいかない大女優のしたたかさを見せつけてくれて楽しい。ジュリアの息子も、小さい頃に袖で見ていて、お母さんは演技している、と見抜いていた。だから、本当に心を許すまでにはなかなかなれなかったということを言っている。本当に、役者っていうのはそういうところがあるんだろうね。
で、最大の見せ場は、夫と関係をもつことで役を得た若い女優を、本番初日の舞台上でいいようにあしらうところだ。台本通りにやらず、アドリブでがんがん翻弄する。ここは笑える。でも、自分の不倫はさておいて、夫の不倫相手を責めまくるというのは、ちょっと勝手かな、とも思った。でも、夫婦の間には全然亀裂が入らないのだから、これはこれでいいのかな。
脇の役者もみんないい。ただし、チャールズ卿(ブルース・グリーンウッド)の存在が、どういう関係なのか描かれていない。単なる友達? どこで知り合ったのだろう? とか、もう少し説明があっても良かったと思う。それから、1930年代の、のんびりしたジャージーな音楽がとてもいい。チャールストンの、もうちょっと後の時代かな。アンドリュー・シスターズも使われていたっけ。
マリー・アントワネット7/18ギンレイホール監督/ソフィア・コッポラ脚本/イシュトヴァン・サボー
話題の映画をやっと見た。ぎんぎらぎんのぱっぱら映画かと思ったら、まったく違った。橋本治の「現代語訳枕草子」みたいな感じで、人格はみな現代風。でも、これまでも時代劇的様式さからすると、なかなかにリアルで、本当はこんなもんじゃなかったのかなあ、と思わせてくれる。
オーストリア皇帝の娘だったんだね。って、「ベルバラ」知らないから詳しくないのだ。で、輿入れの時の儀式が興味深かった。国境で、オーストリアのものはすべて脱ぎ捨て、新しいものに着替えるのだ。へー。さらに、初夜のベッドの用意を王族や高位の貴族、神官、従者なんかが行ない、その何10人も見守る中で寝室の扉が閉められる。見られているわけではないけれど、きっと聞き耳を立てられているに違いない。で、翌朝はまたみんなに見守られて起きる。もっとも、夫(16世になる前のルイ)はすでにベッドから抜け出しているんだけど。映画によると、ルイ16世はインポテンツ? 女に 興味がない? 他にもギャンブルに凝ったり仮面舞踏会にお忍びで出かけたり。これは映画のための脚色か? と思ってWikipediaを見たら、ほとんど事実だと書いてあった。おー。スタンスはまじめだったのね。
で、面白いのはこの映画、宮廷の中しか出てこなくて(パリ市内の舞踏会と劇場を除く)、民衆がまったく出てこない(ラストに近い部分に、ベルサイユに押しかけた民衆が少しあり)のだ。あえてフランス革命、ルイ16世の無策、アントワネットのいい加減さ、王宮の崩壊なんかを排除したんだろう。アントワネットはいまから考えれば10代のフツーの娘として結婚して、亭主のインポテンツに悩まされた哀しい女王だった、という視点を強調するためには、致し方ないかも知れない。それでも、王宮の外には飢えた民衆がいたはずなんだけど、それを出せば話は複雑になってしまうし。ま、ひとつの視点を強調するためには仕方なかったかも知れない。
それと、アントワネット以外のキャラクターがほとんど掘り下げられていなくて、ルイ16世なんか書き割りみたいに見える。アントワネットだけに焦点を当てるには、これしかなかったのか? いささか不満はあるけれど、視点に揺れがないという意味ではちゃんとしているといえばいえる。不満はあるけれど、監督ソフィア・コッポラが描きたかったことは十分に描けているのだろうと思う。ドラマチックでもなければダイナミズムもないけれど、まあ、仕方がない。アクション映画じゃないのだからね。
後半、アントワネットが生んだ長女、長男以外の子供(2人の実子より年上に見えたが)が死んだシーンがあった。あれはいったい誰の棺だったんだろう?●
ファウンテン 永遠につづく愛7/20銀座テアトルシネマ監督/ダーレン・アロノフスキー脚本/ダーレン・アロノフスキー
ちょっと不気味な映画。といってもホラーという意味ではない。トンデモ映画に近くて、なんだかどっかの新興宗教が金を出してつくらせた、布教PRみたいな感じなのだ。たとえばタイトルになっている“永遠につづく愛”というのも、それが純愛だったら、あーそーですか、となるんだけど、この映画では不死の肉体とか生命の再生とか驚異の回復力だとか、いささかオカルトじみて登場する。主人公の医師(ヒュー・ジャックマン)は、どこか宇宙の彼方に座禅を組んで浮かんでいて、まるでもう釈迦。それが曼荼羅のように輝くのだ。さらに、この医師は空中浮遊までしてしまう。って、話が複数構造になっているので、あのシーンこのシーンといっても伝わらないかも知れないんだけどね。
ひとつは現実の世界。もうひとつは医師の妻(レイチェル・ワイズ)が書き、エピローグは夫の医師が書いたファンタジー世界。さらに、得体の知れない精神世界がからんでくる。現実世界で、レイチェルはがんで余命幾ばくもない。その思いを書いたファンタジー世界では、女王レイチェルの家臣ヒューが、マヤ国まで不老長寿の植物を求めて侵略する。でもって宇宙みたいな精神世界で、ヒューは古木となったレイチェルとともにカプセルの中で暮らしている。この精神世界がよく分からなくて、時制としてもどこに置いたらいいのかよく分からない。でも、理解しようとしてもドツボにハマルだけだし、話も決して面白いものではないので、理解しようという気力は早々に消え果てた。なんたってトンデモ映画だもん。
こういうファンタジーはアメリカで人気なのかね。IMDbでのスコアは7.7と高得点。しかも、3人に1人が10点満点をつけている。ああいう仏教的な世界に、あこがれでもあるのかも知れない。それにしても、不老長寿の植物を求めてマヤに攻め入るスペイン人という設定のファンタジーでは、マヤ人をがんがん殺戮していく。そういう侵略行為はいいのでしょうかね、と思ってしまった。いちばん笑ったのは、ファンタジーのラストシーン。マヤの神官を殺して巨木にたどりつき、その巨木の樹液をたらすと枯葉の中から新芽がうじゃうじゃ生えてくるんだけど、それを“再生力”と勘違いしたヒューが腹の傷に塗る。回復するかと思いきや、その樹液は回復力ではなく、新芽をうじゃうじゃ生やす力があるだけで、ヒューはあっと言う間に植物に埋め尽くされてしまうのだ。まあ、樹液はがんを活性化させる、と読めなくもないけれど、こちらは別の意味でとても可笑しすぎで笑ってしまった。だって、「そば清」と同じじゃん。清兵衛は山中でウワバミが人間を飲み込んだ後である植物を舐めるのを目撃した。みるみる腹が小さくなっていくのを見て、清兵衛はその植物を、強力な消化剤と思いこんだ。しかしそれは、人間を溶かす植物だった・・・というものだ。それを連想して、がははは笑いをしてしまった。
というわけで、バカ映画、トンデモオカルト映画なので、だからどーしたとも言えない。言えるのは、つまらなかったということだ。こんな内容で喜ぶアメリカ人という奴は・・・。
ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団7/23新宿ミラノ1監督/デヴィッド・イェーツ脚本/マイケル・ゴールデンバーグ
つまらない。「賢者の石」「秘密の部屋」までは1話完結で楽しめた。ところが「アズカバンの囚人」あたりから踏ん切りの悪い終わり方になった。全体の中の流れの一部になってしまって、見終わってもスッキリしなくなってしまった。そして「アズカバンの囚人」のことを覚えていないと、次の「炎のゴブレット」が分からないし「炎のゴブレット」が分かっていないと、この「不死鳥の騎士団」も分からなくなってしまった。で。「アズカバンの囚人」から、あまり面白くないなと思い始めていたので、物語もよく覚えていない。人物の名前も、ちゃんと記憶しているわけではない。これではもう、映画が楽しめない。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」もそうだけれど、話を広げすぎて求心力を失ってしまったように思う。「不死鳥の騎士団」も、見ていて、いったい何の話なのだ? と首をひねりながら見ていた。首をひねっても分からない。分からないから面白くない。なので眠くなる。というわけで、とうとう最後の最後の戦いの部分で数分間寝てしまった。つまんないんだもん。
だいたい、なんで変なオバサンが学校にやってきて横暴の限りを尽くすのだ? 魔法省だっけ? そっから派遣されたっていうけど、何の目的で? それは、ラストでちゃんと説明されたのか? ていうか、あのオバサンの登場時間が長すぎる。なんでオバサンの横暴ばかりを延々と描くんだよ? 新登場の金髪の娘がいたけど、ほとんど活かされていない。ハリーがキスするチャンも、自白させられた後は全然でてこない。他にも脇のキャラクターで、顔は見せたけれどあんまり意味ありません、っていうのが多すぎる。でもって「不死鳥の騎士団」というサブタイトルは、ちゃんと活かされているのだろうか? なーんかな。中途半端につまらない方に転がっていってしまって、わけの分からん方向に拡散してしまっただけじゃないのかなあ。
キサラギ7/23新宿武蔵野館3監督/佐藤祐市脚本/古沢良太
アイドルサイトに書き込んでいるオタクたちが、アイドルの死後1年目にオフ会を開くというというもの。集まったオタクは5人。アイドルの死の真相をめぐって攻守入れ替わりながら追求され、次第にオタクたちの正体がバレていく。場面は、高層ビルの中のペントハウス。一幕ものの芝居のように進んでいく。真相究明もあわせて、「十二人の怒れる男」のような趣がある。
脚本は緻密につくられていて、どんでん返しに次ぐどんでん返し。アイドルオタクという設定も功を奏して笑える映画になっている。もっとも構成や展開は似たようなのがないわけではないので、新鮮味はない。それでも沢山の意外性が観客をぐぐっと引っ張っていく。小ネタの笑いがいっぱい仕掛けられていて、飽きない。
もっとも、冒頭がちょっとタルイのと、ラストに余計なものがぶら下がっているのが気になる。ラストは、ショーのビデオを上映しながら、如月ミキの顔も見せずに(手ぶれで見えない)終わるのがいいと思う。ショーの司会の宍戸錠が2008年、つまり、来年の2周忌に現れて他殺説を説くというのは、要らないでしょ。ちなみに、このぶら下がりを見ずに帰って行った客が何人かいたなあ。
それから、家元役の小栗旬とスネーク役の小出恵介、顔が同系列なので区別がつきにくい。もうちょっと違う顔の役者にすべきだったと思うぞ。
ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団7/23上野東急2監督/デヴィッド・イェーツ脚本/マイケル・ゴールデンバーグ
吹替版。1回目はよく分からなかったので、あえて吹替版にしてみた。さらに、前回までの流れや、今回の粗筋なども、映画雑誌でちらっと読んでみた。その成果があってか、最初の方はすらすら分かる。ハリーは18歳未満なのに、学校の外で魔法を使ったのが問題になった、ということだけのことなのね。たいして内容は深くなかったのだな。っというか、それしきのことで裁判沙汰になったり新聞が騒ぎ立てることの方が、異常ではないのか?
で、ヴォルデモート卿の復活を信じない、信じようとしない魔法省大臣ってのも、変じゃないか。省の人間はみーんなバカなのかい? 誰か1人でも確かめようという人物はいないのか? ダンブルドア校長が大臣の座を狙っていると思いこんで、オバサン先生を学校に送り込むっていうのも、お伽噺のような設定過ぎて、ばかばかしい。だいたい、吸魂鬼ディメンターがハリーの家の近所をうろついている(たまたま?)っていうのに、他の場所には出没しないのかい? あっちこっちでうろうろしていれば、世間の話題になるはずだろ。いや、魔法省たるものがヴォルデモート卿の状況に無関心だったり、ディメンターの動向を把握していない方がおかしいだろ。・・・というような疑問がどんどん湧いてきて、話自体がばかばかしくもつまらないものに思えてくる。そうして、1時間目ぐらいから欠伸が出てくるようになった。だってつまらないのだもの。
眠気は、双子の兄弟が花火でオバサン先生に反逆するあたりからひどくなった。まったく前回と同じだよ。あれれれ。なんとか寝なかったけれど、やっぱり最後の格闘・決闘シーンでも眠かった。ハリーを襲うアズカバンの女は、シリウス・ブラックの親戚らしいが、どうして親戚なのにそういう関係になっているのだ? とか、その女と一緒にハリーを攻撃する男は何者? ハリーが手にした予告のガラス玉みたいなのは、何? とか、疑問のオンパレード。そしてやはり、登場人物が単なる顔見せになってしまっていて、機能していないのがつまらない。不死鳥の騎士団のメンバーなんか、とくにそう。短い時間でも描き方次第で魅力的になるはずなのに、ただ出てるだけ、ってキャラばかり。そうしてあとは、次回に続くの思わせぶり。つまんないだろ、それじゃ。
たとえばラストで、魂の抜かれた従兄弟のラドリーがどこまで治癒したのか、とか。疑いの晴れたチャンとハリーは仲直りできたのか? ケンタウロスに連行されたオバサン先生は何をされたのか? ハグリッドと巨人はどうなったのか? とか、話を収束する意味でもエピソードとして入れておくべきだと俺は思うぞ。

 
 

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