ダイ・ハード4.0 | 8/1 | 新宿プラザ | 監督/レン・ワイズマン | 脚本/マーク・ボンバック |
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原題は"Live Free or Die Hard"。2時間15分ノンストップで楽しめた。強い女が登場するのが面白い。サイバーテログループの東洋系美女。それから、マクレーン刑事(ブルース・ウィリス)の娘のルーシーも、生意気で気が強い。何気ない伏線が前半にぱらぱらと埋め込まれていて、後半でちょろちょろと活かされている。大筋には関係なくても、こういう小技が効いているのは、楽しい。脚本が練られているんだろう。 もっとも、そもそもの犯罪の発生自体に「?」がつくんだけどね。ハッカー的才能をもつ男が官僚になり、サイバーテロの可能性を進言するけれど却下され、怒りの退職。数年後に仲間をつのってアタックするというのは、半分遊びでならあり得るだろう。けど、無差別殺人もいとわず、最終的な目的は金融データをいじっての銭儲け・・・っていうのが、あり得ないよな。そもそも国家の枠組みをぶっ壊すようなサイバーテロ攻撃をしながら、国家の枠組みが生み出す金融に依存する発想が、ヘン。人殺しが大好きな殺人集団をどうやって雇ったのか? ヘリをがんがん飛ばしても、軍隊はやってこない。せいぜいやってくるのは、最後の方でF15(だっけ? ジェット戦闘機)。しかも、マクレーンが戦闘機の尾翼に乗っかっちゃうのは、シュワルツェネッガーの「トゥルーライズ」(だっけかな)にあったよなあ。 最初の方は「16ブロック」みたいな展開で、容疑者と一緒に右往左往。結局、知らずにサイバーテロの片棒をかついだハッカーとの凸凹コンビで最後まで。これまでの「ダイ・ハード」みたいに、ある特定の場所や状況に縛り付けられてしまう、というようなものではない。むしろ、マクレーンの自由意志であちこち駆けめぐるパターン。なので、運の悪い男、というイメージは薄く、どっちかっていうと、ヒーローだね。 タイトルが、4.0ってのは、ちょっとソフトなどのバージョンを意識しすぎなのではないのかな。Web2.0なんてのもあるけど、そういうのに影響されすぎだろうなあ。 | ||||
ゴースト・ハウス | 8/1 | 新宿オスカー劇場 | 監督/オキサイド・パン、ダニー・パン | 原案/トッド・ファーマー、脚本/マーク・ホイートン |
原題は"The Messengers"。台南担仔で雲呑麺定食を食べて後の2時ぐらいの回。10分ぐらいしたら眠くなって、10分ぐらい半睡うつらうつら。なので、終わってから次の回の冒頭30分ぐらいを見直した。そうしたら、冒頭のエピソードがすべてを物語っていたのね、というのが良く分かった。っていうか、冒頭をすっかり頭に入れていれば、映画のからくりは全部わかってもおかしくはない。 話は単純で、よくあるパターン。ある一家が古い屋敷に移り住む。亡霊が出る。その亡霊は過去に殺害された人のもの。で、殺害したのは・・・となるわけだ。登場する亡霊は、ジャパンホラーに影響されているのが明白。ってか、監督がタイ人の双子で、タイのホラーって言ったら、ほら、去年だったか何部作かで公開されたよなあ・・・と思ってみてみたら、それだった。「the EYE」のシリーズ。なーんだ、やっぱり、である。白塗りに近い亡霊が壁や天井をカクカク這ったり、少年の亡霊が納屋の隅にうずくまっていたり、清水崇の開発したホラーのまるきりパクリ。でもって、この映画のプロデューサーがサム・ライミだというんだから、バカにしているよね。サム・ライミは日本やタイの監督を引っ張り込んで映画をどんどん撮らせているのだな。つまり、ジャパンホラーだけが注目されているっていうわけではなく、ハリウッドスタイルになかったものを一本釣りし、試させているんだろう。清水崇もそういう中のひとり、ってことだ。 で、ここに登場する亡霊は、清水崇の亡霊よりも生っぽく、現実に近い。そのせいか怖さのボルテージが下がっている。そのせいか、この映画は音で怖がらせようとする。なので、かなりうるさいホラーになっている。もちろんホラー嫌いの俺はそこそこぴりぴり来ていたけどね。 それにしても、いくら亡霊になったからって、関係のない人に襲いかかるのはどんなものかね。引っ越してきた家族に何かメッセージを伝えたいのなら、もっとやさしいやり方があるはず。いや、むしろ、礼をいってもいいぐらいだ。なのに、意味なく登場して新しい住人を怖がらせる。最後には、犯人である元亭主に恨みを果たした後で、新たな居住者である娘の足を引っ張ってあの世へと連れていこうとする。それは理屈に合わないよな。しかも、本当に恨むべき犯人が、流れ者として納屋に住んでいるにもかかわらず、そっちには近寄らない。それってヘンだよなあ。 亡霊を見るのが幼児の弟と高校生ぐらいの娘で、その両親にはほとんど見えないという設定もムリがあると思う。それから、家を売値に15%プラスして買い戻そうとする、というのも分からない。これは、誰が買おうとしているのだろう? なんか意味があるのか? カラスの存在も、意味不明。まるでヒチコックの「鳥」のようなカラスの使い方をしているのに、物語の本質には無関係。いや、そもそも、事件を起こした元の亭主が、どーして犯行現場へ戻ってきたのだ? という疑問もある。とにかく、いろいろと突っ込みどころの多い映画だと思うぞ。 | ||||
カンバセーションズ | 8/7 | ギンレイホール | 監督/ハンス・カノーザ | 脚本/ガブリエル・ゼヴィン |
原題は"Conversations with Other Women"。冒頭のタイトルから、画面は1/2。タイトルが終わると画面が2つに分かれる。そのうち一緒になるのかなと思ったら、ずっと分かれたまま。同じシーンを別のカメラで別の角度で撮ったものが映ったり、過去のイメージが混じったり、現在のシーンをタイムラグを与えて映したりと、忙しない。これでは見る方はたまらない。だって、見るべき要素が2倍になるのだから。なんか疲れそうだなあ、と思った。 最初は赤の他人の2人かと思っていた。で、女の元の亭主が弁護士で、話しかけた(ナンパしてるのかと思った)男の職業が弁護士と分かって「?」で、さらに2人は昔知り合いだったという展開になる。映像では仲がよさそう。それを女が忘れるわけがないよなあ…と思いつつ、あー、これは互いに知っているのに他人のような話し方をしているだけなのか…。で、セックスの前に女が男に言う「あなた太ったわね」が決定的。分かったら、一気にストーリーへの興味が失せた。案外と2人の会話は中味がなく、とんでもないどんでん返しも待っていそうに思えない。男は、女の部屋の留守電を勝手に聞いたり、なんか態度が失礼だしみっともない。それがどうした、の展開。なので眠くなってきて、はっと気がついたら2人でクルマの後部座席に乗っていた。なんと画面が1つになっている。と思ったら暗転して終わり。20分ぐらい完全に寝て、あとはラストシーンを数秒間見ただけ、かな。 | ||||
善き人のためのソナタ | 8/7 | ギンレイホール | 監督/フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク | 脚本/フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク |
ドイツ映画。原題は"Leben der Anderen, Das"。実を言うとナチス政権下のレジスタンス物語かと思いこんでいたので、冒頭に1984年(だっけかな?)とでたときは、あれれれれ、だった。たしか、アカデミー外国語映画賞に選ばれたんだよな。 ドイツが東西に分かれていた頃の話。芸術家たちは自由に憧れ、反政府的な思想や行動をしがち。それを秘密警察が監視・盗聴する。監視されるのは劇作家のドライマン。大して反動的ではないのに、大臣に目をつけられてしまうのだよね。っていうのも、この大臣が好色で、ドライマンの彼女に手を出そうとするのだけれど、抵抗されて、その腹いせ。体制側は、好色大臣---部長---大尉---軍曹という構成。大臣が指示を出し、実際の盗聴活動は大尉と軍曹の2人が昼夜2交代で行なう。へー。大尉クラスの幹部が自ら盗聴するのかよ。ちょっと驚き。この映画の核心はこの大尉で、彼は幹部養成学校の教師でもあり、極めて従順な共産党員だ。上官の命令には従順。反動分子を長時間尋問して落とす術にも長けている。感情もほとんど示さず、淡々と任務をこなす。冷徹というほどではないけれど、自分の考えや判断もなく、あまり人間味の感じられない、とてもつまらない男に見える。この男が、盗聴を通じて揺れてくるのだ。 上官である部長(中佐)は、昔の同級生。人の足を引っ張ったり上司に取り入ったりして出世したのだろう。一方の大尉は真面目一本槍なのに、だいぶ差ができてしまっている。そういうことにも、多少の違和感を抱いているはず。部長は、盗聴を通じて「大臣の弱点をみつけろ」なんていったりして、さらに上をめざしていることをあからさまに大尉に告げる。社会主義国家の正当性に疑問を感じたこともなく、ひたすら忠実に生きてきた自分。いっぽう、大臣は好色で部長は狡猾。そんな状況に、社会主義国家としての東独が曲がり角に来ていることを感じ取っていたのだろう。 大尉と部長が食事をしていると、隣で若い政府関係者がジョークを言うシーンがある。ホーネッカーをおちょくる冗談だ。若い連中は部長がいることに気づいて固まるんだけど、部長もまたジョークを言ったりする。こういうところに、すでに東独の体制が崩壊しつつあることが感じられた。 心の赴くまま生き、主張するドライマンと仲間たち。心のつながるセックスをしているドライマンと恋人。一方の大尉は結婚もしていなくて、肉体的満足のために娼婦を買う。そういう立場の違いを、巧みに描写していく。しかし、この大尉を主人公としてはフィーチャーしない。それでよかったのか、ちょっと疑問。個人的には、この大尉をもっと大きく取り上げた方がよかったのではないのかな、と思ったりする。 映画の絵になる部分はドライマンと恋人、その仲間の抵抗活動が占めている。こっちの方がドラマチックに見えるし、まあ、仕方がないのかも知れない。けど、こっちは演劇関係や活動家の名前がたくさんでてきて、しかも会話の中で紹介されることが多く、途中でちょっと混乱する。活動といっても大したことはなく、政府転覆なんかを狙っているわけじゃない。ちょっと政府に批判的なことを言ったりする程度のことだ。それでも秘密警察に引っ張られ、尋問され、2〜3年ぶち込まれたりするらしい。そういうのは日常的だったのだろう。実を言うと、反政府活動で数10年ぶち込まれるとか殺されるとか、そういうスターリン時代と比べれば軽いものだな、という風に思わなかったわけではない。しかし、ベルリンの壁崩壊の5年前で、20年ちょっと前のこの現代に、自由のない社会があったということを考えると、社会主義なんてまったくしょうがない体制だなと思う。 かつて政府に批判的で、現在は職業停止処分になっている演出家が自殺した。その彼が、死ぬ前にドライマンに渡したのが、「善き人のためのソナタ」の楽譜。訃報を聞いてドライマンはピアノに向かう。その音を聞いて、大尉は心を揺さぶられる。自分はこんなことをしていていいのかと。以後、大尉は報告書に作為を加えるようになる。このあたりの描写は、大げさではなくかなり抑えているんだけど、大尉がつねひごろ部長にいいように使われていたり、大臣のアホぶりが描かれるので違和感なく受け入れられる。そうやって、まったく接触もないのに、大尉はドライマンと恋人に感情移入。2人が摘発されるのを回避してやるのだ。その心の動きを追っていく様子が、スリリング。派手なアクションはないけれど、こっちの心につたわってくる。 壁が崩壊して、ドライマンは盗聴記録を閲覧する。しかし、元社会主義体制でもこういう記録が残され、公開されているところに感動する。自分の盗聴記録、盗聴した人物まで確定できるのだ。数年後、大臣は権力の座から堕ちていないのだろうか、劇場でドライマンと出会っても偉そうだった。一方の大尉は、手心を加えたことが発覚して冷や飯を食わされていたが、解放後は地味に暮らしている。書店の前を通ると、ドライマンの新刊の紹介。その扉に、大尉の向けて書かれたとある。店員が「贈りものですか?」と聞く。「いいや、私のための本だ」というセリフがいい。決まってる。 それにしても、社会主義体制なんていうものは、国家の活力を奪うだけだな。才能があり、新しいものを想像しようとする人材はみな抑圧される。一握りの権力者が、独裁的になっていく。下の者は上の人間のご機嫌をうかがうだけの関係になる。批判が許されないから、体制や権力者は腐敗する。まったく嫌な世の中だ。まあ、右でも左でも、独裁国家はいいことがない、と分からせてくれる映画だった。 | ||||
カンバセーションズ | 8/7 | ギンレイホール | 監督/ハンス・カノーザ | 脚本/ガブリエル・ゼヴィン |
ひきつづいて2度目。なんか集中できない。だって中味がない映画だから。それでも最初の方の“過去の映像”を見ていると、もっと早く2人は元夫婦(恋人?)だと気づいても良かったかも。でも、粗筋のひとつも知らずに見れば、なかなか気づくのは難しいと思うぞ。で、眠ってしまった部分では、男のみっともないところだけがあった。女の亭主の写真を黙ってみたり、挙げ句は「帰るな。やり直そう」なんて叫んだりする。やれやれだよなあ。だって、学生時代に半年だけ一緒に暮らし、女が一方的に出奔してしまったのだから、男は捨てられたということ。で、久しぶり(10年ぶりというセリフもあったけれど、現在は38歳なのだから、分かれてから16年ぐらいになるんだろ?)に再会し、復縁を迫るって情けなくないか? っていうか、38歳の女の裸はかなり崩れていたし、その時点で幻滅してもいいんじゃないのかな。 それにしても、男女が再会したのは、男の妹の結婚式。そこに、どうして遙か昔に縁のなくなった兄の元妻が招待されるのだ? 招待したということは住所が分かっていて、少しはつき合いがあったってことだよなあ。だったら、兄である男も、女の現在を知っていてもおかしくないだろ。イギリスへ飛ぶのだって、簡単にできるだろうに。 女も女で、一度捨てた男と巡り会ったからって、簡単に寝るなよな。なんか、2人とも薄っぺらいやつらだなあ。つまんねえよ。 女の若い頃を演じていた女優が可愛かった。画面を2つに割るという手法を使ったというだけで、中味はなーんもない。で。ラストシーンが1画面の理由だけれど、別々にタクシーに乗った映像が、すーっと一緒になってしまうというテクニックだった。それで何を言おうとしているのか、まったく分からず。奇を衒っただけじゃないかね。 | ||||
ルネッサンス | 8/9 | シネセゾン渋谷 | 監督/クリスチャン・ヴォルクマン | 脚本/アレクサンドル・ド・ラ・パトリエール、マチュー・デラポルト |
予告編を見たときからつまらなそうだと思っていたのだけれど、やっぱりつまらなかった。 去年だったか「スキャナーダークリー」という映画があった。あっちは有名役者の実写を加工したアニメで、カラー。こっちは、無名(?)俳優の実写をもとにモノクロ、ハイコントラストにしたアニメ。「スキャナーダークリー」は見なかったんだけど、その理由はつまらなそうだったから。で、いま思うと「ルネッサンス」よりはマシだったかも。だってあっちはカラーだし、役者の表情も分かるし。「ルネッサンス」では、誰が誰だか分からないようなところもあって、登場人物に感情移入がぜんぜんできなかった。アニメでも質感というのかな、肉感的なところは大事だと思うんだけど、この白黒ハイキーアニメには、そもそも質感がない。平板すぎるのだよね。 そもそも話がよく分からないというか、冒頭からほとんど引っ張り込まれない。っていうのもキャラが立っていないから、誰が大事な人物か、というのが分かりづらい。これが実写のカラーなら、ピントや質感でどこに注意すればいいのか教えてくれる。けれど、この映画にそういう力は足りないと思う。なので、早々に(10分過ぎぐらい)眠くなり、眠気と闘うこともしないで寝た。 起きたら、老人病がどーたらこーたら、という話をしていた。話の展開は分からなくもないのだけれど、一介の警官がアヴァロンとかいうところと闘うような話で、老人病の話かと思っていたら不死の薬がどーたらこーたらと広がっていって、なんかよく分からんでした。なんか、大友の「AKIRA」みたいな感じだなあと思ったりもした。体が透明なコマンドたちは「プレテダー」みたい。それにしても、わざわざアニメにする必要のある話なのかな。 もしこのストーリーを実写+CGで完成させたら、チープなB級映画になるんだろうなあ。でも、荒唐無稽でも話は分かりやすいかも。でも、その映画をこうやって加工して白黒アニメにすると、アニメオタクや映画評論家からの評価が高くなるのかも。俺はむしろ、実写+CGのB級映画の方がマシだと思う。そのB級映画から色彩と質感(肉感)というエキスを取り払った、カスのような映画にしか思えなかった。 「ダークシティ」「ブレードランナー」のようなレトロな雰囲気をもつ近未来の都市が舞台。でも、そういう臭いは白黒ではまったく伝わってこない。ま、チープな企画もアニメの体裁をとれば注目を集めるかも、というような安易な気持ちでつくってしまった映画。本当に底が浅いと思う。 | ||||
あかね空 | 8/11 | ギンレイホール | 監督/浜本正機 | 脚本/浜本正機、篠田正浩 |
時代錯誤な内容。っていうか、すべて善意で解決するという脳天気な話。でもって、注意不足で子供を不幸にする親がでてきて、さらにまた子供をスポイルする親になる。そういう要素がぶっきらぼうに登場して、ぎくしゃくと話が進む。で、いったい何が言いたいの? と問いたい、長ったらしい120分。ひたすら退屈。っていうか、バカバカしくなってくる2時間だった。 なんか、冒頭から話がご都合主義的に進む。橋の上で立ち話していて、幼い子供の行方を見失う父母って、おかしいだろ。井戸水飲んでた青年を見て、女がはしゃいだり惚れたりするものか? いろいろお節介までして。と思ってしまった時点で、この映画は観客を話に引きずり込む力を失っている。2人は夫婦になり、子供も成長する。けれど、長男は甘やかされて育ったせいで遊び人になる。・・・なんたるステレオタイプ。長男のことになるとムキになってかばう母親(中谷美紀)が異常に変(子供に火傷を負わせた責任を感じているとしても)。外交を長男に任せっきりで、寄り合いにも顔を出さないオヤジ(内野聖陽)ってのも変。いろいろ変なところばっかりで、説得力はない。それに、最初に店を開くときも自分勝手なことばかりしていて、どうやっても感情移入はできない。ライバルの豆腐屋(勝村政信)も、とりあえず喧嘩は売るけれど、やっぱり善意の人だったりするのも、ご都合主義。極悪人かと思っていた親分が、理由もなくいい人になってしまうのも変。この親分が38年前に行方不明になった幼児、とは思わせるけれど、この親分が優しくなる理由がない。そんなわけで、はらはらどきどきのドラマもなく、ほーら、人間って言うのはいい人なんだよ、本来は。なーんて思わせて終わる。アホか。つまんねー。 | ||||
天然コケッコー | 8/13 | 新宿武蔵野館2 | 監督/山下敦弘 | 脚本/渡辺あやと |
「行って帰ります」・・・この映画に出てくる人々が出かけるときにいう言葉だ。出かけたら、ちゃんと帰ってくるよ、という言い方には、人を安心させる響きがある。律儀すぎるぐらいの正直さ。それが、この映画には満ちあふれている。もしかしたら「行って帰ります」というのは、映画の舞台となっている島根県の岡見〜浜田辺りの言い方なのかも知れない。創作なのかも知れない。でも、どっちでもいい。「行って帰ります」という言い方には、故郷を慈しむ人の心が滲み出ている。 時代から取り残されたような山村の物語だ。島根県の、日本海側に面した小さな学校。小学校と中学校が一緒で、中学生が3人。小学生が3人。そんな学校に東京から中2男子の転校生が来る。けれど、男は小学6年生一人で、あとはみんな女の子。いじめるようなやつなんかいやしない。転校生は田舎の町をうっとーしがってはいるけれど、でも、田舎の子供たちをバカにしたりはしていない。遊ぶのも一緒だったりする。で、同じ中2の少女と相思相愛に(コミカルにだけど)なっていく。まるでお伽噺だ。こんなことがあるはずがない。あるはずがないけれど、あったらいいな、という気分になってくる。心がゆっくりとほぐれてくるような、のんびりした幸せな時間が流れてくる。 事件らしい事件はなにも起こらない。せいぜい、転校生の母の問題ぐらいだ。かつて、男と駆け落ちして都会へ。でも、男に捨てられて戻ってきた。しかも、ずっと昔に、中2の少女の父親を振って駆け落ちしたらしい・・・。この手の田舎の話には必ず出てくる設定だ。しかも、都会では床屋に勤めていて、舞い戻ってきても、村の床屋で働くことになった。これも、よくあるパターン。みんなこれまでよく見かけた設定なんだけれど、それでも見飽きた感じがしない演出になっていて、面白い。 中2の少女は、人のことを傷つけてしまうことに敏感になっている。中1の少女2人のためを思ったりしつつ、結果的に逆の効果を発揮して、傷つけてしまったりする。もう1人、郵便局員の青年も、悪意はないのだけれど事実をあからさまに言ってしまったりして(転校生に向かって両親が離婚したんだってね)、傷つけたりする。なぜそういう設定にしているのか、よくは分からない。人は知らず知らずのうちに相手を傷つけてしまっている、ということを示唆しているのかもね。 何でもないシーンがほのぼのとやさしい。この多くのシーンで活躍するのが、小学1年生と2年生の姉妹。机をえっちら運びながら転校生の名前を連呼したり。食べ終わったスイカの皮で中2の少女の頬をすりすりしたり。バレンタインチョコレートに「愛がないの?」と言ったり。身投げした橋の上で「人が見える」といったり。ふきのとうを見つけたり。それに、飼い猫がたびたび登場するのだけれど、これがなんとも自然に映っている。貼り出された周次の文字の、姉の方は漢字で、妹の方は漢字かな交じりだっりするところも、ディテールが細かい。この細かさが、ほんとうはあり得ない設定の中で強力なリアリティを見せていて、「ああ、こういうこと、あったよなあ」と思わせてくれる。 各エピソードはフェイドアウトして終わるんだけど、その暗転の時間がそれぞれ少しずつ違う。余韻を引くもの、すっと終わるもの。それぞれに配慮されていて、なかなか神経が細かい。 修学旅行は東京で、先生3人、生徒が中2の男女2人というのがおかしい。東京から転向してきた男の子の元の同級生がついてきたり、東京の喧噪について行けない中2の女の子が貧血で倒れたり。田舎の人はこんなもの、というような描き方をする。本当はそんなことはないだろうけれど、この映画でそう描かれると、そういうものかな、という気がしてきてしまう。または、そうであって欲しい、という気持ちがあるのかも知れない。とくに、地方経済は壊滅的でどうしようもない、というようなことが報じられている昨今、田舎は理想郷のようにずっといつまでもありつづけて欲しい、と思っている観客の心に届くものがあるのではないだろうか。 中に少女が登場のモノに翻弄される場面に、切り抜かれたような建物、モノが空を流れていくシーンがあった。なんか「茶の味」に似ているなあ、と思った。あっちは、少年が転校生の少女に初恋、だった。それに、祖父や母親の存在なんかが、なんか似ている。ちびまる子のような幼女がトリックスターのように効いているところも似ている。電車が登場するところも似ている。同じ監督? と思っていたら、山下敦弘なのね。へー。こういう“ほのぼのと幸せ”風な映画も撮るのだね。どこかに何だか分からない不思議を抱えたような話ばかりかと思っていたのに。ふーん。 と、とても面白く、くすくす笑える映画だったのだけれど、注文もある。中1の少女2人がうまく描かれていなかったこと。1人は床屋の娘で漫画家をめざしているらしい、のは分かった。それでも、どーも顔が一致しない。もう1人は、家庭も顔も一致しない。それから、小3の少女がやや中途半端かな。 | ||||
オーシャンズ13 | 8/14 | 上野東急2 | 監督/スティーヴン・ソダーバーグ | 脚本/ブライアン・コッペルマン、デヴィッド・レヴィーン |
脚本はテンポよく、キレがいい。・・・のだけれど、テンポが速すぎて省略も多く、固有名詞の会話が機関銃のように次々と繰り出されるので、次第に置いてきぼりになる。なんとなく話は分かるけれど、仕掛けられた伏線や、誰が何をどうしたという「なるほど」感は、本来の半分も味わっていないと思う。 それにしても、あんなに多くの部外者がぞろぞろホテルに入り込んであれこれ工作し、気がつかれないのが不思議すぎ。顔だって隠さずにホテルマンに会い、抱き込んだりする。そんなの、ひとつ間近ったらみんなオジャンだろ、と思うのだけれど。そういう側面から見ると、あまり作戦は緻密に見えない。スペシャリストが知恵を使っている、っていうより、どっかアナログでトンマなところがあるんだよね。今回は、サイコロ工場に乗り込んだのに、工作しないで賃上げストに夢中になっちゃう仲間が笑いどころなんだろうけど、それほど可笑しくもない。っていうか、メインの何人かは13人のうちの誰か、ってのが分かるんだけど、それ以外の仲間の顔が分からん! っていうのがあったりする。これは、いままでのシリーズも同じなんだけどね。 っていうか、そもそも冒頭でエリオット・グールドがアル・パチーノに嵌められた時点で意外性というか、成り行きに凄さを感じられないんだけどね。難攻不落のダイヤ強奪の手口も、ほとんど驚きがないし。うーむ。 | ||||
ドッグ・バイト・ドッグ | 8/17 | 新宿武蔵野館3 | 監督/ソイ・チェン | 脚本/セット・カムイェン、メルヴィン・リー、マット・チョウ |
プロデューサーが日本人の香港映画。暴力的な刑事vs暴力的な殺し屋の物語で、おぞましさとか生い立ちの哀しさなんかを訴えようとしたのかも知れないけれど、まったく成功していない。途中で俺は、本気で何度も笑ってしまった。刑事が間違って被害者を撃ち殺したり、とにかくワンパターンに暴力を振るったり、刑事の呆気顔がおかしかったり、真面目にやっているんだろうけれど、笑えてしまうところが盛りだくさんだった。 徹底的に暴力的、を狙ったはず。けれど、殴ったり蹴ったりはしているのに、あまり痛く感じられない。一番痛いと思ったのは、女が踏み抜いた長い釘を、踵から引き抜くところ。でも、これは暴力ではないよね。刑事も殺し屋も、あまりにも不死身すぎるから、バカバカしくて痛くないのかも知れないなあ。 捨て子を殺し屋に育て上げる集団がでてくるけれど、そこに出てくる少年たちに同情できるようにも描かれていない。一方、刑事が暴力的になった原因が、オヤジ(彼も刑事)の不正にあった、というような描き方だけど、これにもシンパシーは感じられない。ゴミの山で暮らしていた女も、不法入国者として設定されているけれど、彼女のことも可哀想、とも感じられない。要するに、人物に感情移入できるように描かれていないのだよね。全然ハードボイルドじゃない。貧乏くさくて後進国で、バカばっかりがでてくるみたいにしか見えない。 なんでこんな行動をするのだ? とか、なんでこんな反応をするんだ? ってな具合にしか思えないのだよ。人間の心理が分かっていないまま脚本を創り上げたからではないのかな。共感が得られなければ、やっぱりコメディだよな。 ラスト。暴力刑事は、殺し屋軍団に参加してまで、件の殺し屋を叩きのめしたい、という展開らしい。なんで、そんなにしてまで? どこまでも説得力がないのだった。 | ||||
怪談 | 8/21 | 新宿ジョイシネマ3 | 監督/中田秀夫 | 脚本/奥寺佐渡子 |
三遊亭円朝の「真景累ヶ淵」がベース。「宗悦殺し」(18日に、鈴々舎馬桜の「宗悦殺し」をねぎし三平堂で聞いたところなのだ)を発端として簡単に紹介し、豊志賀、お久、お累、お賎、お園(豊志賀の妹)という女たちを次々と登場させながら、遺恨の連鎖を見せる。けれども、原作のアウトラインを急ぎ足で紹介する、という印象は否めない。 もっとも、原作の内容をWebでちょっと調べたら、人物関係が省略、整理、変更もされている様子。あまりに入り組みすぎた原作なので、それはしょうがないとしても、やっぱり映画はダイジェストになってしまっている。いや、べつに省略したり改変したりするのが悪いのではない。ただ漫然とこーなりましたあーなりました、と紹介しているだけのように見えるということで、それでは映画としての芯が見えないよ、ということだ。 そもそも、納得できない部分が多分にある。金貸し宗悦が、深見新左衛門に殺される。宗悦の娘・豊志賀と新左衛門の息子・新吉が恋仲になる。新吉が豊志賀を捨てる。豊志賀が祟る・・・のだけど、新吉本人に祟るのではなく、新吉の連れ合いとなる女に祟るのだ。それって理不尽じゃないのかい? 罪のないお久、お累、その他、祟られる人たちは不憫ではないか。おい、豊志賀、お前のやっていることは間違っているぞ、と強く言いたい。 新吉(尾上菊之助)は、女に惚れられるいい男らしい。けど、菊之助はそれほどの顔立ちをしていない(と思う)。新吉と豊志賀の道ならぬ恋は、誰の怒りを買ったのか。その後の新吉の惚れた惚れられたの関係を、豊志賀は何故に恨むのか、そして祟りの連鎖は何故に? を説得力あるように描かないと、この物語は腑に落ちないのではないだろうか。 真景は神経につながるのだと円朝はいっているらしい。そういう視点で見ると、新吉は新左衛門の分裂症的気質を受け継いだ、と思える。ノイローゼが高じて幻覚を見、相手を幽霊だと思いこんで殺してしまうパターンがよく登場する。でも、この映画ではそういう点を押し出してはいない。あくまでも怪談にこだわっていると思える。でも、ホラーとしてみたら、ほとんど怖くないのだけどね。ま、恐がりの僕にはドキッとするところは何カ所かあったけど。 それにしても、お累の生んだ子供は笑わない子供という設定だけれど、登場した赤ちゃんはなんとも嫌な役を押しつけられたもんだと思う。 お賎の役は瀬戸朝香なんだけど、セリフが全然ダメ。江戸っぽい言い回しだけではなく、フツーに話しても素っ気なく、やる気がなさそうにしか見えない。ミスキャストだな。講釈師一龍斎貞水の語りで始まり、ときどき貞水のナレーションも入るのだけれど、アクセントが変なのでおどろおどろしさが半減する。 | ||||
遠くの空に消えた | 8/28 | 新宿ミラノ3 | 監督/行定勲 | 脚本/行定勲、協力:青木豪、伊藤ちひろ |
2時間25分は長い。しかも中味が薄い。つまらない。何を言おうとしているのか意味不明。なので、冒頭からずうっと退屈で退屈でたまらなかった。 空港反対の砦のシーンがでた瞬間に、クストリッツァの下手な模倣だと分かる。だって、ジプシー音楽なんだぜ。酒場の殴り合い。豚。牛。知恵遅れの青年。結婚式。…素材までクストリッツァ。露骨すぎるだろ。クストリッツァの真似は次第に薄まっては行くけれど、最後までつづく。どうせならクストリッツァのテイストで全編通せばいいのに、ファンタジーが入ったり少年冒険譚風になったり、なんか、とても中途半端。 なかなか物語が展開していかない。大きな串として、空港反対闘争があるのだけれど、その軸がかなり弱い。では、いろんなエピソードを積み重ねた群像劇かというと、それにしてはそれぞれのエピソードが薄いし掘り下げも甘い。ちょっと拡散しすぎていると思う。「GO」や「世界の中心で、愛をさけぶ」のように話がはっきりしているタイプではなく、「ロックンロールミシン」「きょうのできごと」の方なんだろうけど、それにしてはデキがよくないね。 不自然な部分が多いのも、共感できなかった大きな理由のひとつだ。わざわざ人が小便している近くに自転車を停めて自分も小便をするか? 荷台から勝手に牛乳を取り出して、飲むか? 検便は、フツー、見せ合わないだろう。トイレに入っていて、ドアを開けて話したりしないだろ。建設推進派のボスが反対派のところに行くのに、子供を連れていくか? 誰もいそうもないような場所に、女教師がたまたま通りかかるか? というような、変なところが盛りだくさん。リアリティがないよね。こういうのがあると、萎える。 成田空港の反対運動をスケールダウンしたような設定で、でも、最後はなあなあで終わらせてしまう。結局、空港はつくられてしまう。でもって、主人公の一人は飛行機に乗って、かつて過ごした村へとやってくる。その矛盾について触れられているけれど、結論は曖昧に放り出すだけ。それじゃ何も問題は解決されていないし、これからも同じ様なことは起こるということだろ? きっと、空港に賛成も反対もなくて、設定として利用しているだけなんだろうな、行定勲は。 不思議なことはまだある。あの、鳥人みたいなのは、何だったんだ? で、美人先生はアホ男と結婚してしまうのか? それと、クライマックスで子供たちが畑にミステリーサークルをつくりだす。で、それは何のためにやっているのだ? どんな効果を狙ったのだ? で、開発派のボスの首を飛ばすほどのことになった、らしいが、それはどーして? 分からんねえ。さらに、田んぼに残った靴が、どーして舗装された滑走路に残っているのだ? 意味わかんねえ。でもって、かつての少年がスチュワーデスに「いわれが知りたい?」って話しはじめて、おいおい、何時間話しているのだね? そんなのありえねーよ。 | ||||
TAXi 4 | 8/29 | シネセゾン渋谷 | 監督/ジェラール・クラヴジック | 脚本/リュック・ベッソン |
タイトルは“T4Xi”と表示されておった。いつもながらのバカ映画なんだけど、むちゃくちゃいい加減なところがなくて、話がちゃんとまとまっているので驚いた。あれ? と思ったのは、護送犯を解放してしまい刑事を首になった、というところ。ここでは、「あれは真犯人だったんだ! 首だ!」という警部の怒りの形相が入るべき何じゃないのかな。そのあとで、ベルギー銀行の担当者が、護送犯とそっくりな理由が分からなかったけれど、あとから双子だとわかる。でも、ここも、もうちょっと先に説明しておくべきだったかも。刑事の彼女(こっちも警官)が別の潜入捜査で…というので、バカ刑事たちの動きをあらかじめ考慮に入れ、悪人どもを一網打尽にする秘密の計画か? と深読みしていたんだけど、違った。警察では開けられない貸金庫があって、それを犯罪集団の技術を使って開けるため、という、なんかしまらないオチがついただけ。これを何とかすれば、もっと高評価をあげられたんだけどね。 今回は、主人公、タクシー運転手の奥さんが出てこなかった。彼女はなかなか可愛いかったので、期待していたんだけどねえ。今回は、部長さんの見せ場がたくさんあって、暴走ぶりもなかなか見事。むしろ、破綻がなさすぎるのが、残念なところ? | ||||
ステップ・アップ | 8/31 | ギンレイホール | 監督/アン・フレッチャー | 脚本/デュエイン・アドラー、メリッサ・ローゼンバーグ |
原題も“Step Up”と、そのまんま。ラッパーのチンピラ高校生が登場。主人公は白人で相方が黒人の兄弟。むむ。「8Mile」みたい。この3人が深夜の芸術高校に潜り込み、白人君だけがつかまる。で、ボランティアの罰が下る。音楽や絵画、踊りの生徒がたくさんいる学校…。「フェーム」みたい。白人君は清掃員のボランティア。そこで、ダンサーの女の子とめぐりあう。「グッド・ウィル・ハンティング」みたい。 というわけで、ちょっと心がわくわく。タイトル通りなら、精神的にも技術的にも成長し、バスケとラップと喧嘩の日々から抜け出せる? こういう自己成長ものは好きだし。…なのだけれど、結局のところ、単なる青春ロマンに終わってしまっていた。ちょっと残念。 抜け出していくやつが、仲間を切り捨てる、という設定がでてくる。ひとつは、芸術学校の音楽仲間で。もうひとつは、白人君と、彼をパートナーに選びながら、元のパートナーの怪我が治ったらそっちを選んだダンサーとの間で。で、ラストに卒業発表があり、パートナーが怪我をして彼女は1人で踊る振り付けにしていて、開演前。白人君がやってきて、元の振り付けで見事に踊りきる。彼女は、舞踏団から声がかかるのを期待していて、実際その通りになるのだけれど、もし、白人君に声がかかって彼女が落選したら…という展開をちょっと思った。そういう状況をもってきてこそ、この映画のテーマに一貫性がでるかと思ったのだ。でも、そんなことはなく、彼女は舞踏団にスカウトされ、白人君は普通校から芸術学校に転校がかなう、というエンディング。ちょっとつまんないよなあ、それじゃ。でも、青春映画だからな、しょうがないか。 白人君はラッパーらしいダンスは得意だったらしいけど、ほんの数日でクラシックダンスをマスターしてしまうという、ありえねえ! を連発。しかも、ぷい、と辞めてしまったりの繰り返し。あんまり、才能の発露、または、ステップアップに見えないのが辛いところかも。ラストも、いったん白人君が外れた振り付けをして本番直前なのに元に戻す、なんていう、ありえねー! をやってしまう。おいおい。こういうところは、安直だよな。それと、なんだ、黒人とヒップホップは低く見られているのだね、というのが露骨すぎ。そこは、抜け出すべき環境として見られている。ほんとうに、それでいいのだろうか? という疑問が残ってしまうよね。 | ||||
今宵、フィッツジェラルド劇場で | 8/31 | ギンレイホール | 監督/ロバート・アルトマン | 脚本/ギャリソン・キーラー |
原題は“A Prairie Home Companion”。自動翻訳によると「草原の家の友達」だそーな。なーるほど。 「ステップ・アップ」でいろいろ考え、頭を使ったせいか、この映画になったら急に疲労が前面に出てしまった。10分ぐらいで眠くなり、思い切って寝た。10分ぐらい寝たろうか。目覚めてからは、ごくフツーに見られた。 寝た理由としては、刺激が少なかったこと。見ていれば、聞いていればいいような内容だったからだ。もっとも、背景への理解が足らず、また、たぶんネイティブでないと分からない会話なんかが多かったこともあるに違いない。 時は現代。奇跡的に公開生放送がつづいてきてしまった、という設定。なので、ほとんど1970年代風なテイストで包まれている。司会がいて、歌手たちを紹介し、歌が始まって…ときどき楽屋が映って…の繰り返し。もうひとつの流れてとして、白いコートの女がうろうろすること。亡霊で誰にも見えないのかと思っていたら、そうではないらしい。亡霊には違いないけれど、みんなに見えるらしい。なのに、誰も違和感を覚えない。そして、途中から登場するのが、ラジオ局を買収し、劇場の取り毀しを決めた新社長。つまり、フィッツジェラルド劇場での公開生放送は、今夜が最後というわけだ。 というわけで、なにかとんでもない事件が起こるわけでもなく、淡々と進んでいく。意外な展開もなく、興味をそそる謎もない。なので、眠りに落ちてしまったというわけだ。ははは。 フィッツジェラルド劇場。あの、グレート・ギャッツビーの? 作家の銅像が出てきたけど、因果関係はあるのか? 放送中の下手なギャグを聞いていて事故死したという白いドレスの女…。だから、なに? うーん。群像劇を上手く処理しているのは確かだけれど、いまひとつぐいっと引っ張るものがないなあ…。 あの、司会をしていたジジイ。コマーシャルもアドリブで上手くやるんだけど、歌も歌っちゃったりして、手練れ。castにhimselfと出ている人も何人かいたけれど、ラジオの有名人、本人が出ている模様。だれがそれかは分からないけれどね。というわけで、解説でも読んで背景を頭に入れてから音楽を聴くために見る、というぐらいがいいところかな、日本人の俺には。 それにしても、公開放送がなくなったら途端に司会者も歌手たちも仕事がなくなってしまう、ってあり? それ以外の仕事がないなんて、そういうことがあるのかい? うーむ。解せない。 |