リフテッド | 9/1 | MOVIX亀有シアター9 | 監督/ゲイリー・リドストロム | 脚本/--- |
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「レミーのおいしいレストラン」上映前の小品(5分)。宇宙人が、寝ている男をリモートコントロールで円盤内に取り込もうとするのだが、レバーが多くて上手く行かない。この宇宙人、操作が下手なのだ。なのに、操作したがり。円盤まで墜落させてしまう…。 | ||||
レミーのおいしいレストラン | 9/1 | MOVIX亀有シアター9 | 監督/ブラッド・バード | 脚本/ブラッド・バード |
日本語吹替版。原題は“Ratatouille”で、クライマックスで登場する南仏の料理名。映画の評判がいいようだけれど、内容的にはありふれた展開で、とくに感動的でもないし、意外性もない。3Dアニメのクオリティがもの凄く高くなったな、という印象はあるけれどね。 ネズミが人間の、フランス料理に興味をもち、自己流で技術を磨いていた、という設定。それでレストランに潜り込み、何もできない雑用係を一気にシェフにしてしまう、という、そんなのアリかよというような話。しかも、その雑用係は、そのレストラン創業者(死んでしまっている)の愛人の子なのだ(なんか、とんでもないと思わないか)。それなのに、料理の才能はまったくない。でもって、先代が死んで2年以内に申告すれば、その雑用係がレストランを相続できることになっている。ただし、申告しなければ、先代の右腕だった現在のシェフが相続できることになっている。というわけで、現在のチビシェフが悪者になるのだけれど、そんなに悪いやつか? というぐらいの扱いで、結局、彼は追い出されてしまうのだけど、ちょっと可哀想に思えた。雑用係の方は才能もないのに、ネズミの力を借りて若きシェフの地位を得、レストランまでいただいてしまう。それはないだろう、と思えてしまう。 いくらアニメといえど、リアルに近い描き方をされているネズミ。そいつらが料理をつくるという設定は、どうも受け入れがたい。とくに、主人公のレミー以外はふつーの汚いドブネズミなわけで、それで食欲がでるというのは、あり得ないのではないかと思う。やっぱ、不自然だと思う。 僕は途中から、ネズミをアラブ人として見るようになった。非西欧人で、異なる宗教をもち、群れる人たち。イスラム教徒の中にも西欧化している人はいるだろう。けれど、それは少数。中には西欧人よりも才能があるアラブ人がいるとしても、しょせんはアラブ人。本当に西欧的価値観が身についているわけではない。異端者であり、エトランゼだ。1人のアラブ人を雇っても、しらないうちに仲間がついてくることも多いだろう。知らないうちに店のものを仲間のアラブ人に横流ししているかも知れない。そういう存在として、アラブ人は見られている。受け入れがたい種族だ。そんな風に見ると、ちょっと面白かった。 ラスト。レストランは保健局の報告で閉鎖、閉店。で、愛人の子とレミーは、別のレストランを開いたわけだが、裏ではネズミ向けのレストランもやっている…って、おいおい、それじゃまた保健局に踏み込まれたらやばいだろ。それから、あの評論家は評論家を辞めて、何になったんだ? ただの爺さま? 10時35分の回。後ろの列に、母子6人ぐらいがやってきた。2、3家族いたのかな? こいつらがぺちゃくちゃうるさかった。左隣は4、5席開いていて、女児2人(中学生と小学生?)。こいつら、途中から携帯を見るようになった。1人は映画の途中で出て行ったし。でもって、映画を見ずにずうっと携帯の画面を見ているので、「おまえら、携帯見てんじゃない」と言いに行ってやった。親はいたのかな? | ||||
河童のクゥと夏休み | 9/1 | MOVIX亀有シアター2 | 監督/原恵一 | 脚本/原恵一 |
江戸時代。地震で地面に閉じ込められた河童の子供が、現代に甦る話。ストーリーの大筋はシンプルで、よくあるパターン。けれど、ディテールが「なるほど」というものや、泣かせるものになっていて、話に厚みと説得力を持たせている。これがなかなか。 たとえば、河童のクゥを養う家族の娘(保育園)の行動や反応など、現実にもよくあるもので、「そうそう」なんて思ってしまう。クゥにもらったガラスの破片(子供には宝物)を、ソファの割れ目に挟んで隠しておいたりね。ああいうところが、かなりリアル。 もし、家に河童が現れたら? この映画の一家は、飼ってしまう。誰にも内緒で。ファンタジーなんだから、それでもいいんだろうけれど、自分だったらどうするだろうか、と思ってしまう。ま、そう思わせてしまうところで、映画に嵌められているといっていいのかも知れないけどね。で、前半はクゥと家族のほのぼの生活がつづく。いつかは大変な事態に…と、誰もが思っているはず。そうして、それは、その通りにやってくる。マスコミに気づかれ、テレビ出演。平穏な日々はどこかに行ってしまう。ここで、観客はマスコミの取材合戦、カメラマンの傍若無人ぶりに憤るわけだ。しかし、じゃあ「河童発見」とワイドショーが伝えたら、見ないか? 見るだろ、お前だって。と映画は観客を問いつめる。クゥのことを「そっとしてやろうよ」と一瞬でも思うのならば、ワイドショーや週刊誌のバカ記事は見なきゃいいのだ。いま、横綱朝青龍問題で、カメラは朝青龍のマンション前からモンゴルへと大挙して向かっている。その報道ぶりをバカみたい、と思うならば、見なければいいのだ。けれど、カメラマンたちはいい絵を撮りたいために競う。それは、芸能ネタが相変わらずワイドショーの視聴率を左右するからだ。きっと、この映画を見て涙を流した人たちも、キオスクで週刊誌を買い、家に帰ればテレビの芸能ニュースを見るのだろう。そういうものだ、人間は。そういう好奇心を失ったら、人間の成長も発展もないのだろうから。 最後に、どう収拾をつけるのだろう。そう思っていた。きっとどこかの山の中の、人間の手の届かないところに行ってしまうのかも。と思っていた。ところが、人間に化けて人間の近くに住む、というのが答えだった。なーるほど。それが妖怪たちの知恵だったか。ひょっとしたら、そうやって人間のフリをしている妖怪が、いるのかも知れないぞ、と思わせるような終わり方。見事。 もうひとつ、大きなテーマがある。いじめだ。同級生の女の子が、いじめられている。主人公の少年も、河童を見せなかったから、という理由で仲間はずれになる。いじめはずるい。でも、簡単に誰でもいじめる側になる、と、この映画は見せている。このメッセージを、映画を見に来た少年少女は、ちゃんと覚えていてくれるだろうか。ま、たぶん、映画館を出たらコロッと忘れるのだろうな。 でも、絵がちょっと気に入らない。最初の頃の絵は、キャラがよく決まっていない。そして、顔に皺が多い。そして、アニメ的ではなく、書き漫画的な、妙なリアルがある。単純な線なのにね。なんか、下手な人が一所懸命に描いた線画、みたい。どーも、それが魅力を減じているような気がする。もっとも、絵は次第にこなれてきて、もしかしたら、順序よく描いていったのかな、と思わせるようなところもあった。それから、東京タワーのシーン辺りでは、「クレヨンしんちゃん」のタッチが出てきていたり、ちょっとバラバラなところもある。うーむ、だな。 15時10分の回。左側はガキ連れの親子(子供たちは概ね静かだったけれど、後半になってぶつぶつ言い始めた)。右側はカップル。あとからきた母子3人の、男の子が前に座って、ポップコーンと飲み物を載せたトレイをひっくり返してしまう。ボーゼンとして何もできず、30つ程離れたところに座った母親を呼ぶだけ。母親はポップコーンを手ですくい、カップを元に戻したまま、手も洗わず元の席に着いた。まだ予告なんだから、トイレに行けばいいのにね。もう1人の子供は、カップルの横に座った。この子は大人しかった。トレイをひっくり返した上の男の子が、ほんとうはカップルの横に行くように、と言われていたのだけれど、男の子はそこでは心細かったようで、妹を母親から離れた場所に追いやったのだった。 | ||||
トランスフォーマー | 9/3 | 109シネマズ木場 シアター5 | 監督/マイケル・ベイ | 脚本/アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー |
CGだけでつまらないかと思っていた。半分は当たっていたけれど、骨格はしっかりしていたし、人物の造形もちゃんとしていて、見られた。 最初の方をいい加減に見ていたので、悪のロボットと善のロボットがいるのは分かったけど、なぜ対立しているのかは良く分からなかった。かしゃかしゃとクルマやラジカセに変身するのは、最初に見てしまうと以後は飽きる。ロボット同士の戦いも、CGだと思うと興味が薄れる。なので、クライマックスのボスキャラ同士の戦いは、つまらなかった。CG技術が上がったせいか、ロボットは出放題、バトルも盛りだくさん過ぎて、もういいよ、ってな気分。しかも、敵味方のロボットの区別が(変身しているときにとくに)わかりづらい。肝心なところだけピシッと決めてくれた方が、目が覚めるかも。 変身ロボット自体に興味はない。遊んだこともない。なので、オモチャのロボットが格闘しているという、妙な感覚がある。とても知能のある半生物には思えない。ま、アニメを元にしているのだから、しょうがないんだろうけど。 主人公の曾祖父が北極(だっけか?)で発見した大変なもの。中でも、キューブのありかを知る手がかりとなる曾祖父のメガネの争奪戦が、前半。ただし、キューブがいかに大変なものか、メガネがどれだけ重要か、というところが少し薄いかな。小道具を上手く使う方法もあったのではないのかな。しかも、後半になると、そのメガネの重要性が一気に失せてしまうのだよね。これは、肩すかし。人間の方が一枚上手だった、という展開はいいと思うんだけど、CGにウェイトが置かれすぎて、ちょっと物足りない。 主人公の青年、および、セクシーな同級生が、どっちも役者としてはB級。もうちょい魅力的な役者にできなかったのかな。他の俳優たちも、どーも安っぽい。ジョン・ヴォイトだけだよなあ、一流どころは。それでも、ひ弱でダメ青年が事件に巻き込まれ、フツーなら相手にされないような美人の同級生と仲良くなる、という展開は青春ドラマとしては合格。もう一組の、尉官とその妻および赤ん坊の話は、途中でなくなってしまったね。 コメディタッチがそこここに見られる。実写ながら、あまり軽すぎない程度の笑いがあって、これも良いと思う。ただし、あのロボット人間たちだけど、人口が数体しかないような状況というのが、とても変。しかも、地球人を「遅れている」なんていうくせに、自分たちは星をダメにするほど闘っているんだろ。偉そうなことが言えるか、と思ってしまった。 最後。キューブをヘリに渡すため、ビルの屋上を目指す青年。周囲ではロボットがバトルし放題。なのに、あえて遠くのビルの屋上に行く必要が、あったの? つーか、危うくなったら善ロボットの親玉の胸につっこめ、っていわれているんだから、そんな危険を冒す必要があったの? つーか、善ロボットは、キューブを破壊するか、できなかったら無念つっこめ自爆する、といっていたのだから、さっさと破壊しろよ、と思っていたのだけどね。 やっぱり、ヒーローもヒロインも、魅力的な方がいいよなあ、と再度いっておく。 | ||||
デス・プルーフ in グラインドハウス | 9/6 | 新宿武蔵野館1 | 監督/クエンティン・タランティーノ | 脚本/クエンティン・タランティーノ |
B級映画を数本立てで上映する映画館を、アメリカではグラインドハウスっていったんだと。で、タランティーノはそれを再現するため、ロバート・ロドリゲスに1本撮らせ、自分でも1本撮った。で、架空映画の予告編3つをつくって、まとめて3時間余りで上映したんだと。古いものを復活させる、という意味では「パルプフィクション」と同じだね。さて、日本でも同じ形式で上映しているらしいけど、別途、映画を分割して1本ずつ上映しているらしい。これは、そのタランティーノ監督の作品。 いかにもB級という仕立てで、画面にノイズや雨が降る。ダーマトみたいなマークが映る。コマが数カットすっ飛ぶ。しかも、ざらついた画面。なんとも時代かがった雰囲気。でも、時代は現代なんだよね。冒頭には2本立ての片割れのもう一本「プラネット・テラー」の予告編がくっついていた。で、「デス・プルーフ」の内容は大きく2部に分かれていて、前半は殺人鬼が女の子たちを事故死させる。後半は、その殺人鬼が女の子たちに半殺しに会う。内容は、ほとんどなし。 相変わらずのタランティーノ節というのか、女の子たちのクルマの中での日常的な会話を延々と撮っていく。その大半は筋とは無関係。若い女たちの生態が分かる? うーむ。でも、あまりにもどうでもいい会話なので、ちょっと飽きるね。前半なんか、バーに行ってからもあれこれ会話が進むのだけれど、映画の内容にはまったく関係なし。殺人鬼が一瞬にして女の子たちをクルマで体当たりして殺してしまう。いままでの彼女たちのあれやこれやは何だったんだ! こういう、中味のないのもB級でござんす、といわれれば、あーそうですか、なんだけど。バタフライという、可愛い設定のでもちんけな女の子が途中で踊るんだけど、こいつ、かなり腹がでてやがんの。これもB級? 前半と後半の間に、田舎の警察官の親子が「ケガを負ったやつ(殺人鬼=カート・ラッセル)が、あやしい」なんて話すんだけど、以後は出てこない。こういういい加減さもそのままB級? 後半は、レバノン、なんてタイトルが出るから中東かと思ったら、アメリカ国内のレバノンだって。「パリ、テキサス」を思い出しちゃったよ。途中までモノクロで、突然フルカラーに。おお。パートカラーの雰囲気だな。殺人鬼がターゲットにしたのが、女の子の映画スタッフ4人連れ。俳優、ヘアメイク、スタントウーマン2人。俳優を除く3人が乗ったクルマに体当たりするんだけど、思わぬところから逆襲されてしまうというもの。こちらも、最初の半分ぐらいはたわいない会話がつづくんだけど、これも筋とは関係なし。でも、映画の話が多かったので、前半よりは聞けたぞ。 前半と後半の女の子たちが挙げていたのが「バニシング・ポイント」と「ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー」。前半のバーにも、なんかB級映画のポスターが貼りまくりだったけど、臭い臭い。ま、その臭さがいいところなのかも知れないけど。 前半は退屈で、後半に入っても相変わらず退屈、だったんだけど、後半の途中から眠気が吹っ飛んだ。スタントウーマンの1人が個人的なスピード狂で、クルマのボンネットに乗って飛ばしたい、という。しかも、クルマは「バニシング・ポイント」に登場したやつと同じやつ。それを、たまたま「売りたい」と新聞に載せていたたやつの所に行って、試乗したい、という。でもって、その曲乗りを始めるのだけれど、これが本当にやっているのだよ。しばらくして殺人鬼が体当たりしてくると、片手を話したり、ボンネット上で転がったり、いやもう手に汗握るだよ。これはもう、ぶっとび。まさか、CGじゃないだろな。このシーンを見るだけでも価値があると思う。 そういえば、映画スタッフ3人は、試乗しても乗り逃げはしない、という証に、俳優の女の子を売り手のオヤジの所に残してきたんだけど、この俳優がどーなったか・・・なんていうことを、全然フォローしないところも、さすがB級? それにしても、後半ではあの殺人鬼は肩に銃弾を受け、殴られ蹴られするんだけど、前半にやっていることが凄すぎるので、仕返しとしても、それだけじゃ手ぬるいのではないのか? なんて思ったのだった。 カート・ラッセルの他には、有名どころはいなかったんだけど、若手の女優陣がみなそれぞれに魅力的でよかった。 | ||||
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 | 9/10 | 新宿ミラノ1 | 総監督/庵野秀明、監督/摩砂雪、鶴巻和哉 | 脚本/庵野秀明 |
話題のアニメである。それだけではなく、哲学者や社会学者までもがエヴァエヴァと語っている。何かといえばエヴァである。けれど、テレビ版も劇場版もこれまで見たことがなかった。初めてのエヴァである。 結果を言えばつまらなかった。30分程で眠くなり、2〜30分寝た。まず話が良く分からない。いろんな固有名詞が出てくるけれど、ほとんど理解できない。設定も分からない。なぜ地球(あるいは日本)はああいう状態になっているのか。なぜ妙な怪物が続々と登場するのか。なぜ戦わねばならぬのか。なぜ戦いは静的(スタティック)に行なわれるのか。みーんなよく分からない。もしかしたら、寝ている間に少し説明されていたのかも知れないけど、別にいいや。なので、もう一度は見なかった。 ノワールである。暗く夜ばかりが登場する。怪獣も形がよく分からないし、エヴァンゲリオン0号や初号も、よく見えない。なんかストレスがたまるアニメだね。 最初に登場した怪獣を見たとき「もののけ姫」のだいだらぼっち、を思い出した。でも、エヴァの方がつくられたのは早いのだよね。ビルがにょきにょき生えるのを見て、「ダークシティ」を思い出した。これも、エヴァの方が先なんだよね。ま、以前のアニメに同じ表現があったのかどうか、知らないんだけど。 松本人志の「大日本人」は、これか、と分かったような気がした。怪獣が一体ずつ登場するスタイルが、同じだ。変身する大日本人が悩んでいる姿は、この映画の主人公碇シンジと似ている。なるほど。松本はエヴァをゃっていたのか。と。 | ||||
バベル | 9/11 | ギンレイシネマ | 監督/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ | 脚本/ギジェルモ・アリアガ |
日本人ビジネスマンがモロッコで狩猟をして、ガイドにライフルをやった。ガイドはそのライフルを羊飼いに売った。羊飼いの子供がいたずらして観光バスを撃った。観光客のアメリカ婦人に当たった。アメリカの家には、メキシコ人の家政婦に2人の子供を託していた。家政婦の子供の結婚式があったのだが、婦人がケガをしたお陰で結婚式に出席できなくなるハメに・・・。家政婦は子供を連れてメキシコへ。帰路、運転する家政婦の甥が飲酒運転で国境検問にひっかかり、子供は誘拐した? という嫌疑をかけられる。で、検問突破。家政婦と子供は砂漠に放り出されて迷う・・・が、なんとか助かる。日本人ビジネスマンの娘は聾唖者のひねくれ者。 というような話。日本人とモロッコ人とメキシコ人はバカで愚かでいい加減な連中みたいに描かれている。とても不愉快。まるでアメリカ人が被害者だ、とでも言ってるようなんだもん。運命の連鎖に、なぜ日本人とモロッコ人とメキシコ人なんだ? その理由が分からない。そういう国民性だとでもいいたいのかい? とくにモロッコ人なんかひどい扱い。メキシコ人もアウトローのように描かれる。あまりにもステレオタイプに描かれすぎだと思う。 アメリカ人の夫婦(ブラッド・ピットとケイト・ブランシェット)は、横柄で我が儘な態度があるようにも描かれるけれど、被害者なんだからしょうがないかも。一緒の観光客たちは、なかなか救出されないのでイライラしはじめる。夫婦をおいて、バスを出せ、といいはじめる。これも我が儘ではあるのだけれど、さらなる被害を考えたらそういう行動に出ても仕方がないかもね、と思えたりする。 日本の連鎖は、ライフルの出所だけ。このビジネスマン(役所広司)についてはあまり描かれず、娘(菊地凛子。どう見ても高校生には思えない。演技もとくに優れているとも見えなかった)ばかりが描かれる。娘は反抗期? やたらつっかかって不満ばかり。それを他人のせいにするばかり。でも、公共の場でノーパンでオメコをチラ見せしたり、路上でクスリをやったり、警官を自室に呼び込んで裸で迫ったりする。なんで警官を裸で誘う必要があるんだ?(警官も挑発にのっちゃって。おい。しっかりせいよ)。行動が理解できない。それから、母親(役所の妻)はベランダから飛び降りた、と嘘をついたりする。わけ分からん。役所曰く「妻は銃で頭を撃った」って、どっから銃をもってくんだよ。それとも、例のモロッコ人にやったライフルのことか? そんな、妻が自殺に使ったライフルもってモロッコへ猟に行くって言うのか? それって変だろ。超高層のすごいマンションに住んでいるっていうのも、なんか違和感。 この映画にでてくる連中は、みな自分で責任を取らず、何か問題が生じると言い訳をして、誰かのせいにするような人間に描かれている。なんか、それって設定にムリがありすぎないか? 要するに、だから何? と言いたいような、思わせぶりな脚本が、いやらしい。しかも、冒頭から、それぞれの国で何かある、何かある、と思わせるような、物語運び。逆なでされるような、ざらりとした嫌らしさがつきまとう映画だ。アカデミー賞で騒がれるような映画ではないと思う。 | ||||
22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語 | 9/14 | テアトル新宿 | 監督/大林宣彦 | 脚本/南柱根、大林宣彦 |
70年代回顧の軟弱映画、そのものだった。とてもアナクロでくだらなく、こそばゆい展開だった。 高校の同級生同士が東京の大学に。しかし、彼女は「東京に疲れた。人が多すぎる」と大分に帰郷。見合い結婚する。が、娘を生むときに死んでしまう。彼(筧利夫)は、東京で就職。のち、九州支社に転勤。独身。そこで、ある娘と会う。それが、かつての恋人の娘だった、という話。 1973年に22才で、東京に住んでいながら同棲していない、というか、性的関係をもっていない、ということに疑問。いつの時代の話なんだ! 東京に疲れた? 集団就職の時代じゃあるまいし。ありえねー! この娘がまた変なやつで。大分から都会に出てきているんだけど、おそらく福岡だろう。そこで高校の同級生と同棲しているんだけど、これまた性的関係のないルームシェアだっていうんだけど、4.5畳ぐらいの男女共同生活でそんなの、ありえねー! だよな。しかも、彼氏はフリーターで年収100万もなく食うものも食えず、たかが焼き鳥に「こんな美味いものを初めて食った」って、いつのじだいの話だよ。娘の方も、社会不適応でバイトもままならず。やれやれだよな。 昨今のフリーター現象、格差社会、若者の低収入、キャリア不足なんかを盛り込んでいるんだけど、あざとすぎる、というか、変に歪んだ恰好で強調しすぎ。これって、世間の論調に安易に迎合しすぎだろう。たいして取材もせず、こんなもんだろう、てなところで話をつくりあげ、社会的に意味があると悦に入っているアナクロじじいの発想だと思う。 娘が実は、彼の子供だった・・・という展開になるのかな? と思いながら見ていた。それじゃあ長澤雅彦監督の「卒業」と同じになっちゃうよなあ。でも、最初に彼は医者に無精子病だ、と告げられている。きっと若い頃は精子があったけれど、何かの熱病でそうなってしまった、ということかな? と思ってみていた。しかし、そんなことはなく、本当に彼と彼女は清い関係で、東京で4年間、肌を触れあわせることはなかった、という。その時点で、あほか、だよね。 最初から最後まで、画面は斜めに曲がっている。だから、精神的にどーも不安になってしまう。特別なシーンにだけそうするのなら意味があろうが、のべつまくなし傾いているってのは、何なんだ? 筧利夫の、妙な演出も変。人間らしくなく、機械的でロボットのような歩き方、話し方。感情を出さないような演出をしている理由は、いったい何なのだろう? 娘をつれて津久見に行くシーンで、野焼きの場面が出てくる。これがもう、火事の如しだ。大林らしいといえばそうなんだけど、限度があるだろ。それから、筧の現在の恋人清水美砂が若い男とクルマに乗って福岡市内を走る場面が、スクリーンプロセスみたいな合成なんだよなあ。なんなんだ、と思うけれど、大林らしいといえば、そうなのかも、うーむ。 かつての恋人の娘を演じるのが鈴木聖奈という新人。これが、ブスなのだよ。とっくりセーターで顎まで隠し、眉毛のところまで毛糸の帽子をおろしている。しかも、眼鏡をかけ、だぶだぶのパンツをはいている。現代風ではあるけれど、これじゃ顔がよく見えない。ラストでやっと着物姿でまともの顔が見えるのだけれど、憧れの彼女の子供であるなら、もうちょっと可愛く撮れよ、といいたい。 種なし花の彼岸花が大量に出てくる。CGかな。この出し方は、さすがに大林。しかし、臼杵市の竹蝋燭の様子は、ちょっと感動的だった。ま、あれは現実を撮ったんだろうけど。 | ||||
スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ | 9/18 | 新宿ミラノ2 | 監督/三池崇史 | 脚本/三池崇史、NAKA雅MURA |
寝てしまった。睡眠不足部はあったんだけど、途中からつまらなくなってしまって、興味を引っ張っていってくれなかった。 黒沢の「用心棒」を下敷きにした設定。物語らしいものはあまりない。埋蔵金があると噂される村に平家の末裔と源氏の末裔がやってきて対立。伊藤英明扮する用心棒が間に入って殺し合い、ほとんどみんな死んでいくというだけ。枠組みがあって、そのなかでエピソードが積み重ねられていく。それでも大きな流れが見えれば救いようがあるんだけど、それがない。だから、散発するエピソードも退屈で、開始30分ぐらいで眠くなって、1時間目当たりに寝てしまったというわけだ。 和風とアメリカ風+マカロニみたいな感じで、映像はちょっとスタイリッシュ。でも全然意味がなくて見かけだけ。みんな英語を話すのだけれど、日本語読みの棒読み英語をゆっくりたどたどしく話すから、間延びしてしまう。伊勢谷友介と桃井かおりが、ちょっと発音がよかったかな。あとはみーんな下手くそ。聞いているのが辛かった。 というわけで、中味空っぽ。でも、クエンティン・タランティーノは真面目に演技していたねえ。ジジイのメイクはちょっと難ありみたいに思えたけど・・・。 | ||||
酔いどれ詩人になるまえに | 9/20 | 銀座テアトルシネマ | 監督/ベント・ハーメル | 脚本/ベント・ハーメル、ジム・スターク |
原題は"Factotum"で、“雑役夫”。ブコウスキー。名前は知ってたけど、どういうことをした人物かよく知らない。本編前に、本人がでてくるドキュメンタリー映画「ブコウスキー:オールドパンク」の予告編があった。酔っぱらいの女好きの詩人? 映画の方も、アル中の自称“作家”を描きつづける。女にだらしないかというと、そんなひどくも見えない。生活費を稼ぐために働いても、就業時間に飲酒したりするから数日で首になる。金が入れば酒を飲む。酒場で会った女の家に転がり込む。でも、ほとばしる文字はこまめに書き留め、作品に仕上げて編集者へと定期的に送っている。ここだけは律儀。酒も飲むけれど、破綻者のようには見えない。とんでもなく汚くひどい人間には見えない程度の描き方。なんか、ちょっときれいごとに思える。 転がり込んだ女の所からは、とくに不満があるわけでもないのに出て行ってしまう。そうしてまた、酒場で別の女とめぐり会う。ヒモだ。…でも、そんなに簡単に女といい仲になれちゃうの? という疑問がないわけではないけどね。 食いつめて年老いた両親の所に行っても、父親に「まともに働きもせんで」と罵倒され、追い出される。かつての女と再会するが、しばらくすると女は別の男と暮らし始める。日雇いの職を探すが上手く行かない。今度はストリップ小屋へ行って女を見つくろう…。送ったことも忘れていたような作品が、掲載されることに決まったけれど、本人はそんなことも知らない…。 なんていうストーリー。2人目の女とめぐり会う辺りまでは緊張感が維持されていたが、以後はそれまでと同じことの繰り返し。ちょっと単調で飽きる。後半の展開に、もうちょっと意外性というか、盛り上がりが欲しかったね。 それから、編集社に送っているのがどういう作品なのか、気になった。詩なのか、短編小説なのか? 暮らしている毎日のあれこれは作品に反映されているのか? とかね。でもま、そういうことを説明しない、という選択をしたのだろう。淡々と、主人公の堕落ぶりを描きつづける。だから、この酔っぱらいの自称作家が魅力的な男かというと、そんな風にはまったく見えない。雇用主からすれば、要らない人材。親からすれば、できそこない。女からしても、自分勝手なやつ。ま、酔っぱらって暴力を振るうわけではないのが救い、かも。 別に立派な生活をしろとはいわないけど、お友達にはなりたくない人だ。たまたま文学的なことも書くことのできる酔っぱらい、にしか見えない。あ、そう、こういう人がいたの、へー。という感じ。それ以上の感想はない。ま、それでいいと思うけれど。政治的、社会的信条は、どんなだった人なんだろうね。 | ||||
サイボーグでも大丈夫 | 9/21 | 新宿武蔵野館1 | 監督/パク・チャヌク | 脚本/パク・チャヌク、チョン・ソギョン |
睡眠不足+疲労なので、昼食後の2時40分の回では寝るな、と思っていたが、その通りだった。開始5分で眠くなり、うつらうつら。いったん目が覚めたが、また寝た。都合3〜40分寝てしまった。残りの1時間ぐらいは、ちゃんと見た。 というだけの知識でいう。場所は精神病棟。自分をサイボーグだと思いこんでいる娘が主人公。サイボーグなので彼女は食事をしない(拒食症)。それで点滴を受けたりするのだけれど、それも拒否しようとする。同じく病棟にいる青年が、あれこれ苦労して食事をさせようとする。その治療というか、緩解の過程が描かれている、のかな? …で、彼女の祖母も気違い(ではなく、認知症らしいが、そうは見えなかった)で、隔離されていたことがあるみたい。 読み込めば何か意図があるのかも知れない(たとえば、娘の指が機関銃になって病院関係者を皆殺しにするシーンは、今年の4月に米国で発生した韓国人学生のバージニア工科大学乱射事件を連想させた。のだけれど、映画は2006年の製作らしいので、事件にインスパイアされたわけではないようだ)。でも、もう一度最初から見ようにも、入れ替え制だからできない。といって。金を払ってもう一度見る気にもならない。その程度の映画。 話が面白くない。引っ張っていく力もない。なので寝てしまったのだと思う。後半で意外な展開があるのかと思ったけれど、そんなこともなかった。うーむ。 | ||||
アーサーとミニモイの不思議な国 | 9/28 | 上野東急2 | 監督/リュック・ベッソン | 脚本/リュック・ベッソン、セリーヌ・ガルシア |
吹替版を見た。 おもしろいかというと、それ程ではない。つまらないかというと、なんとか見られる程度。ドキドキもワクワクもしない。スリルもサスペンスもスピード感もない。もちろん盛り上がりもない。いまいちの感じだね。純然たる子供向け、なのかな。 そもそもの発端がよく分からず、終わってから冒頭を見直した。なるほど、と思うところもあったけれど、依然分からない部分も残る。ちょっと隔靴掻痒。 ルビーは爺さんが隠したんだろ? それなのに、どーして爺さんは小さくなってミニモイの世界へ入り込む必要があったのだ? ミニモイは爺さんがアフリカから連れてきて庭に住まわせたんだよな。なんでそんなことをしたのだ? ミニモイの世界に入り込むための、もろもろの暗号および秘密がよく分からん! アーサーがミニモイの世界に行くとき、突如現れたアフリカ人たちは、どっからやってきた? 庭にある小人の人形の位置ぐらい、わざわざクルマのライトをつけなくても分かるだろ! アーサーはイギリスの寄宿舎のある学校に入れられているくせに、どーして実家は貧乏なんだ? そもそも両親はどんな仕事をしているのだ? ミニモイの住んでいる世界の7つの王国はどれとどれなんだ? 2つしか出てこなかったのではないか? 悪の支配者マルタザールってのも、爺さんがアフリカから連れてきたのか? でも、アフリカからアメリカにやってきて数10年で、あんな世界を築けるのか? ミニモイの国には兵隊はいないのか? とか、突っ込み所が満載。つじつまを考えていると、バカバカしくなってくる。なので、あんまり考えない方がいいのかも知れない。しかし、もうちょっと理屈が合っていると、よかったのにねえ、と思う。 アニメで表されるミニモイの世界。王女のセレニアはエロかわいいけど、アーサーは見にくい顔だ。ああいう顔をフランス人は好きなのかい? 実写の現実世界で、アーサーの祖母をミア・ファーローが演じている。でも、まだ婆さんの顔立ちではないよなあ。お母さんでも通りそうな生っぽさを感じるぞ。セレニアの声は、戸田恵梨香なのだけれど、もともとの発音が悪いんだろう。品がなく蓮っ葉な感じだった。 あー。そういえば、リュック・ベッソンは「撮りたい映画はすべて撮った。もう監督業はしない」と言っていたのではなかったのかな? | ||||
東京タワー オカンとボクと、時々、オトン | 9/30 | ギンレイホール | 監督/松岡錠司 | 脚本/松尾スズキ |
原作は読んでいない。読む気もない。 映画はその原作の表面をなぞった感じ。深見も重みもない。前半は現在に至るまでを流すように描き、後半はオカンの闘病と葬儀でしつこくひっぱる。どちらにも感動的なシーンもなく、まったく泣けない。原作は「必ず泣ける」という評判だったけどね。 ボクは、なんにも努力をしない。だれとも対立せず、いつのまにか大学に入り、遊びまくって借金生活。で、一念発起して生活を変える。彼女もできてしまう。どんな努力をしたのか、まったく描かれない。あまりにもドラマがなさすぎて、つまらない。 闘病シーンは長いだけでなく、非常に重苦しい。ガンの末期が大変なこと、抗がん剤が辛いこと、スキルス性ガンが命取りなことを強調するだけでしかないと思う。もっと効率よく描けなかったものかね。 どーも、感情移入できないところ、理解できないところが多い。祖母の家に間借りしていたオカンとボク。それが、なぜ別居する必要があったのだ? 祖母を孤独にするより、一緒に住むべきだろ! セリフでは「いつまでも間借りしているわけにはいかんでしょ」てなことだけで済ませている。とうてい納得できるわけはない。田舎の、ちょっと絵に興味のある少年が、簡単に武蔵美に入れるか? デッサン教室にでも通わないと無理ではないの? 田舎の小料理屋だけで美大に進学させるだけのお金が工面できるものか? 金がなくてアパートを追い出されながら、どーして表参道のあんな立派な住まいに転居できるのだ? ラジオやイラストやと、どうやって仕事が入るようになったのだ? まったく理解できない。そういう部分を端折ることで、いかがわしささえ見えてくるのだがね。この映画。 オカンとオトンの関係も、理解ではないもののひとつ。単に別居しているだけ? なぜ離婚しなかった。このあたりも説得力に欠ける。オトンがどうして東京で挫折したのか、オカンはどうしていい加減なオトンと離れられないのか。ボクはどうして東京へ出たいと思った(あるいは田舎のどこが嫌い)のか・・・。というところが描かれていないので、話としても面白くない。薄っぺらなのだ。 他人の母子関係を見ていれば、少しは自分の母親との関係なども想起される。俺だって見ながら考えた。けど、それで泣けることはなかった。脚本も演出も、甘いのではないかと思う。もうちょっとエピソードに深みを加える必要があったと思う。セリフの表現も、なんか変、ってなところがあって気になったし。完成度は高くない、っていうか、雑につくっちゃった、って感じだな。役者のサプライズは多くて、千石規子には驚いた。クレジットを見て、結城美栄子と渡辺美佐子がでていたのに驚いた。あの、上京してきた田舎のババアたちかな? と思ったら、結城はそのようだが、渡辺は祖母だったのね。驚いた。まったく気がつかなかったよ。 幼少時と中高生時、大学以後のボクを3人が演じる。その中高生時のボクの声が、妙に色っぽいのだけれど、その声は長じたボクのオカマの友達と似ているのだ。そして、長じたボクはオダギリジョーなわけで、なんか違和感があったね。 |