2007年10月

夜の上海10/1MOVIX亀有 シアター5監督/チャン・イーバイ脚本/高燕、山村裕二、チャン・イーバイ、高真由子
期待していなかったのだけれど、上出来のラブコメ。たったひと晩+明け方の出来事を、複数の男女を通して、魅力あるものに仕上げている。
ヘア・デザイナーの水島(本木雅弘)は、マネージャーをしている美帆(西田尚美)+アシスタント2人、代理店のオヤジ(竹中直人)の5人連れで上海へ。イベントが終わって散歩に出た水島が、タクシーの女性運転手・林夕(ヴィッキー・チァオ)と出会う。財布も携帯もパスポートももたず迷子になった水島。日本語も英語もできない林夕。思っていた彼が別の女性と明日結婚するというので、消沈している林夕。邪魔な水島を何とかしようとするが上手く行かない。水島と美帆は恋人通しだけれど、最近は上手く行っていない。美帆を思う青年が、上海にやってきている。…ってな背景に、アシスタントの女の子と中国人通訳、代理店オヤジの竹中直人と中国人警官、アシスタントの男性とジャズバーの女性歌手(このエピソードは唐突な感じであまり印象的ではない。もうちょい工夫が必要かも)。という組み合わせの男女がサブ・エピソードを奏でていく。そのひとつひとつはありきたりな設定なのだけれど、織りなし方が絶妙で、笑いも下品にならず、なかなか洒落ている。見ているこっちの心までが和んでくるような塩梅で、とても見ていて心地よい。
ヒロインのヴィッキー・チァオは「少林サッカー」に出ていた彼女。でも、あの映画では顔がよく見えなかったからなあ…。ちょっと菅野美穂をくどくした感じで、気の強い女の子にぴったり。ファニーフェイスだし。ラストは、彼の結婚式へ行く彼女のファッションを…というのは読めてしまうのだけれど、別に問題はない。惜しむらくは、ヴィッキー・チァオが別人のような美しい女性に変身しなかったこと。もうちょっとがんばって美しくして欲しかった。美帆と別れる決心をした水島と、彼に振られた林夕と、どうなるのかな…? というところで終わるのも、よろしい。
問題は、フォーカスが合ってない場面がたくさんあること。被写界深度が浅いのか、後ピンだったり前ピンだっり、ボケまくりだ。こんなカットしかなかったのか? 倹約して、複数テイクを撮らなかったのか? っていうまえに、中国人カメラマンはフォーカスが追えないのか? というぐらいのひどさ。でもまさか、上映館のせいっていうことはないよな。ピントが合っているシーンもちゃんとあったんだから…。
海外の有名作品のリメイクかと思いきや、日本の小説が原作らしい。…が、原作なのかノベライズなのか、よく分からない。上海が素晴らしく描けている。東京に負けない都市群と高速道路と夜景。まるで上海のPR映画のようだ。
映画サービスデーの本日5時近くの回で、1日1回の上映。なのに、観客は俺一人。まるで俺のための試写会みたいで気分はいいが…。本木雅弘では客が呼べないということなんだろうな。
包帯クラブ10/3109シネマズ木場 シアター4監督/堤幸彦脚本/森下佳子
映画というよりTVの延長みたいな感じ。テレビ版があるわけじゃないけどね。監督が監督だから、そんな風になっちゃうんだろう。脚本も、セリフが多くでみんな多弁すぎ。みんな説明してしまう。盛り上がりもイマイチで、やっぱりTVの2時間枠ドラマみたいだったな。
人の痛みをWebサイトに投稿してもらい、高校生の仲間“包帯クラブ”が包帯を巻きに行き、証拠写真をWebに載せるという話。そんなんで人が癒されるか! という疑問が先ずある。人気サイトになったとして、包帯クラブの行動が他人の目に触れないはずがない。そんなに広くない高崎市内の話なんだぜ。一般の目もある。サイトを知っている人が先回りして写真を撮られる、ということもある。ガセネタも投稿されるだろう。荒らしやチクリの投稿もあるはず。なのに、そういうのが一切ないまま話が進み、あるとき急転直下。警察や学校が騒ぎ出す…って、ズレてるだろ。しかも、後から分かってみれば、主人公(石原さとみ)の昔の仲間が腹いせにチクった…って、おまえ。そのなのネットではあり得ないだろう。インターネットの世界を知らないやつが脚本を書き、映画にしているとしか思えない。
男の主人公は柳楽優弥で、その重苦しい過去が暗示されるのだけれど、分かってみれば「?」というような事件。仲良し3人組がいて、1人がもう1人を刺した。たまたま柳楽はその場にいなかったので、自分の代わりに友達が刺された、と思いつづけているというもの。原因のない事件を取り上げ、それで現代社会を問題化しているつもり…? なのかも知れないけど、底が浅い。ぜんぜん「なるほど」と思えるような話ではない。
最後も、チクった仲間の女の子が自殺するかも知れない、と、高層マンションの屋上から包帯を垂らすのだけれど、そのスケールの乏しさといったら…哀しいくらいだった。ホント、盛り上がりのない映画だ。
というわけで、リアリティはゼロ。
主人公の石原さとみは、上戸彩と天海祐希を合わせたみたいで可愛い。おちょぼ口がアクセント? その親友に貫地谷しほり。高校生役としては年食い過ぎだと思う。「スシ王子」でも同じ様なお笑い系の役柄だったけど、飽きる。男の主人公柳楽優弥は、上手いと思う。けど、ちょっと臭すぎる気がする。もっと控えめな演技の方がよかったと思う。
そういえば、天童荒太の原作だったな。天童の小説は読んだことはない。原作とどのぐらい近くて遠いかは知らない。けれど、本を読んでいるときは説得力があっても、映像化してみると大したことがないこともよくある話で。たとえば宮部みゆきの原作なんか、映像化には堪えられないようなものも多そう。筆力があるとそれなりの小説は書けてしまうからね。この話も、その類のものなのではないのかな。この映画でも話は単純化され、エピソードもよくあるパターンのステレオタイプ、としか見えないものが多かった。たとえば中学の時仲がよかった女の子4人組が別れた理由は、1人が進学を選び、もう1人は貧乏だったから…って、古すぎというかありきたりすぎ。笑えるよなあ。
堤幸彦は、「TRICK」は面白かったけど、こないだの「スシ王子」は全然面白くなかった。ギャグがすべってたもんなあ。フツーの映画を撮ろうとしても、持ち前のテレビ屋としてのサービス精神が出ちゃうのかな。午後1時20分の回だったが、客は7〜8人だった。
パーフェクト・ストレンジャー10/3上野東急2監督/ジェームズ・フォーリー脚本/トッド・コマーニキ
ハル・ベリーが友人の死の真相を追うサスペンス…にしては、サスペンスは足りない。スリルもない。アクションもない。冒頭からせっかちに急ぎ足で話が進み、字幕に登場する人名の多さに「誰だっけ?」なんて思いつつ、インターネットのチャットルームの会話に、「なんか、よく分からん」と言っている間にせかせかと中盤へ。大きな見せ場は最後までなく、要するに犯人は誰だ? なんだけど、本命として追っている広告代理店社長ブルース・ウィリスであるはずはない。とすると、新聞社の元同僚が怪しいけど、そうだったら当たり前すぎる展開だなあ。ひょっとして、死体は顔が変形する程だったからほんとうは死んでいなくて生きていた、とかなるのかな? と思っていたら、なんと真犯人はハル・ベリー本人だった。
それは反則だろう。探偵小説の十戒で、確か探偵自身が犯人であること、は禁じ手になっていたはず。なのでフツーはまず最初に外すだろ。あまりにも古典的でつまらないオチに、なーんだ、ってな気分。意外性もなにもないよなあ、これじゃ。
有名俳優が出ているにしては、B級の内容。じっくり見せるところはないし、人間を掘り下げるところもない。そもそも、ハル・ベリーの犯罪自体に、あまり説得力がない。そんなずいぶん昔のことを、しかも、ハル・ベリーの母親が亭主を殺したという事件を目撃していた友人を、数10年後に殺害する理由がないだろ。あまりにもチープな話だと思うぞ。
ハル・ベリーはとても可愛く見える時もあるのだけれど、とても貧乏くさく見えるときもある。40凸凹のはずだけど、まだまだ美しいのだから、美しく見えるように撮って欲しいものだと思う。
プラネット・テラー in グラインドハウス10/4新宿武蔵野館3監督/ロバート・ロドリゲス脚本/ロバート・ロドリゲス
最初にメキシコ人が復讐の鬼となる"Machete"という架空映画の予告編がつく。
で、本編へ。ノイズやコマ飛び、コマが燃えるといった小細工は「デス・プルーフ」と同様。話は、単純。イラクで使用した毒ガスが米国内の基地から漏れ、ガスを浴びた人の皮膚がどんどんただれ、死んでいく。そして、ゾンビとなって生き返り、周囲の人々を襲っていくというもの。それを、さまざまな人物描写から始め、次第に彼らの因縁が明らかになったり、新たに関係を結んだりしながら村のステーキ屋に追いつめられていく。さらに底から抜け出し、軍施設に行って最後は大アクション大爆発となるというもの。ゾンビものやホラー好きには堪えられないのかも知れないけど、一般客の俺にはゾンビものなんかみんな同じに見える。この映画の予告編で見せた、マシンガンを義足にしたアクションが見たい、と思いつつ、なかなかその場面がやってこない。なので中盤から少し眠くなった。なんとか寝なかったけれど、目を開いたまま寝ているような有様。まあ、最後はちゃんと見たけどね。盛り上がりまで、時間がかかりすぎなんだよな。70分ぐらいの映画にしてくれると、よかったんじゃないのかなあ。悪い映画ではないと思うけれど、大騒ぎする程の内容ではないと思う。でも、マニアは好きなんだろうなあ、こういうの。
義足がマシンガンの姉さんと、女医がなかなかエロっぽくてよかった。
幸せのレシピ10/5上野東急監督/スコット・ヒックス脚本/キャロル・フックス、オリジナル脚本/サンドラ・ネットルベック
サンドラ・ネットルベック監督「マーサの幸せレシピ」(ドイツ映画“Bella Martha”)のリメイク。原題は"No Reservations"。オリジナルはたいへんよい。どうしても比較になるけれど、オリジナルの勝ち。ま、勝とうと思ってつくっていないのは明白だけど。ほとんどオリジナル通りの話運び。ゼタ・ジョーンズが色っぽすぎるというか生臭すぎて、男勝りのシェフにはちょっと向かない。オリジナルの方が、女シェフ、ライバルの男のシェフともに、あんまり色気や優しさを感じさせないところがよかった。リメイク版は、いろんなところがソフトなのだよね。そして、明るい感じ? オリジナルの音楽が「マイ・ソング」(キース・ジャレット、ヤン・ガンバレク)のしみじみとした空気感、ちょっとした気怠さ、やるせなさ、でも優しさもある、ってな雰囲気を表現していてとてもよかったんだけど。こっちは、男性シェルのイタリア狂い(オペラが鳴ったり)が強調されすぎだ。それと、少女がいかに男性シェフに心引かれるようになったか、そして、女シェフも次第に男性シェフに惹かれていく・・・という過程がいまひとつ説得力のある描き方がされていない。最後の方の、男性シェフがレストランを辞めた、という部分もちゃんと描かれていなかったし。なんか、ちょっと、舌足らずかな。
ゼタ・ジョーンズは肉が付きすぎてむっちり体型。ううむ、だなあ。それにしても、人気のシェフが2人とも辞めてしまった元のレストランは、どうなっちゃったんだろう? と、少し心配になるね。
サッド ヴァケイション10/12新宿武蔵野館3監督/青山真治脚本/青山真治
青山真治は「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」だけで、それ以前の「ユリイカ」も「Helpless」も見ていない。たまたま見る機会がなかったからっていうだけなんだけどね。なので青山真治のスタイルもよく分からないんだけど、この作品についていえば、思わせぶりな部分が多すぎて中味がない、または、物語の練り込みが足りないので、フツーに面白くなりそうなストーリーをあえてつまらなくしているようにも思える。そういう行為を通じて、この映画は深い、と思わせるとか、少し難解だ、という印象を与えようとしているのではないのかな。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」もつまらなかったけれど、あれは割とストレートというか、単純すぎるような話で引っ張っていた。この映画は、いろいろ“読み”ができそうなんだけど、読んだからといって理解が深まるとか、現代社会があぶり出されてくるとかいうようなことはない、と思う。きっと青山真治スタイルであり、フツーの物語進行やカット割りができないか、することを拒んでいるだけの偏屈だけなのではないのかな。
この映画には断片や断章がいろいろインサートされていて、それが何なのかよく分からなかったりする。いやそもそも、最初の説明文をよく読んでいなかった。っていうか、あれは別の映画の予告編か何かかと勘違いして、よく読まなかったのだ。そのせいで、安男とか片手のない男についての印象があやふや状態。ま、本筋にどれだけ関係があるのか知らないけど・・・。ああいう、浅野忠信の凶暴性は、遺伝だ、とでもいいたかったの? って、安男とどういう関係なのか、よく分からないのだけどね。いや、登場人物の関係性が、とてもわかりにくい。セリフも聞きにくいので、肝心のところが聞こえなかったり。そんなイライラのまま見はじめる。
東京の居酒屋で、東横線がどーのこーので、その沿線にいる青年のところに中年オヤジが訪ねる。この2人の関係がよく分からないまま、だらだらとどーでもいいような会話がつづく。タランティーノの真似か? で、この2人は映画の後半に登場するのだけれど、またまた、宮崎あおいとの関係がよく分からなかったりする。映画を見終えた後でパンフレットを買わせようという魂胆か?
その宮崎あおいはバスジャックの被害者って、「ユリイカ」のこれは続編なのか? なんかなあ。よく分からんよなあ。この映画。最初は密航+クライムムービーかと思っていたら、社会のはぐれものを従業員として雇っている運送屋が登場したりして、なんか、ファンタジーみたいな雰囲気になってくる。では、ちょっとユーモアの漂うファンタジーかと思っていたら、やっぱり犯罪色が濃くなってきたり。どーも、エレメントをとっちらかして整理しないまま放り投げている感じ。
まあ、いいや。きっとパンフレットの解説を読むと、映画に描かれていないあれやこれやが分かって、それで映画の理解も深まるのかも知れないけれど、画面に描かれていない情報を知らないと理解できないような映画はクソなので、どーでもいい。そんなことまでして理解したくもない。
それにしても、5歳の時に別れた母親を一瞬遠くから見て判別・確信できるか? 浅野忠信の彼女という役回りの板谷由夏が、浅野の異母兄弟の葬式に現れるって、変だろ。だって、浅野が殺したってみんな知ってるわけだろ。運送屋のオヤジ、中村嘉葎雄も変なやつだよなあ。石田えりみたいな女を後妻にして。その連れ子が突然現れても、なんの戸惑いもなく家に入れてしまう。しかも、運送業の後継者のような仕事もさせる。許容力がありすぎだ。それから、いつの間にか浅野は妹をこの運送屋に連れてきていたのだけれど、彼女の存在もよくわからんね。浅野の行動も不可思議。平気で暴力を振るうかと思えば、中国人の子供に情けをかけて引き取ったり。自分を捨てた母親の今の住まい、間宮運送にのこのこと同居したり。フツーの常識では納得できない行動をする連中ばかりが登場する。これじゃ、現代社会の何ものをも反映していないよなあ。
見られる要素はあるのだけれど、練り込みが足りないし、整理しようとしていない態度も、どーもなあ。
めがね10/16シネセゾン渋谷監督/荻上直子脚本/荻上直子
登場人物がどこの誰で、何をしていて、何を考えているか、というようなことをほとんど説明しない。そして、事件らしい事件もドラマも起こらない。ひたすら、のんびりと“たそがれ”ていく快感をじわりじわりと見せていく。市川実日子が、就業時間内にかき氷を食べにきて言う。「忙しいけど、休憩が必要」と。もたいまさこが大豆を煮ながら言う。「大事なのは、あせらないこと」と。ま、言葉としてはこの2つに集約できるかな。都会の忙しさ、情報過多の社会。そういう俗世から離れて南の島(与論島みたい)で、のんびり海を眺めるだけの何日間をもつことって、あなたにも必要ですよ、と言われているわけだ。地図なんか、細かく正確な必要はない。アバウトでも通じるのだ。そんな、天国のような島へ、ようこそ、ってか?
ま、実際にはそんな場所は日本にもないわけで。光石研の営む宿泊所も、ほんとうにあんなだったら売上げがなくてつぶれてしまう。映画にはスーパーの店内しか出てこなかったけれど、市街地だってある。市川実日子が教師をしている高校も近くにある。みんなクルマに乗って排気ガスをまき散らしているし、電気だって使い放題。特別にエコな生活でもない。携帯がつながらない、といっていたけれど、それは設定上のことだけだろう。一応は文化的な生活をしているにもかかわらず、都会との対比で田舎の島が天国のように描かれるというのは、あまりにもステレオタイプだと思う。だと思うけれど、それなりにそこそこ説得力があったりする。これは、演出の力量だろうと思う。
近所には、光石の宿の他に、マリン・パレスという宿もある。けれど、ここは政治的、思想的あるいは宗教的な臭いのする団体生活合宿所みたいに描かれる。まあ、都会を離れた島の生活、なんというと、その手の団体がイニシアチブをとって青年たちのマインド・コントロールをしていたりするので、それを念頭に置いての設定だろう。観光に訪れたつもりの小林聡美が、光石の宿の奇妙さにあきれてマリン・パレスに行き、あきれて戻ってくるというのも、他者へのそこそこの干渉はあるものの、過剰な干渉のない光石たちの生活の方を選択した、というようなことだろう。
ふつーの映画なら、観光にきたつもりであんな扱いを受けたら、小林は怒り狂ってさっさと市街地のホテルに行くといいだすか、宿を紹介した旅行代理店に電話するはずだ。しかし、少し違和感をもつぐらいで、とくに驚いてはいない。そうして、何日間かを、島の流儀に近い感覚で過ごしてしまう。このあたり、故意にドラマをつくらないようにしているのだろうけれど、荻上監督の映画なんだから、こんなものなんだろうな、という分、差し引いてみてしまうところもあるかも。
光石・もたい・市川らのグループは、共同で事を行うけれど、強制はしない。そして、協同生活もしていない。そこが、コミューンとかコロニーとは違うところだろう。門はいつも開いている。入りたくない者に、入れと強制はしない。興味をもったら、どうぞ、と招き入れる。そうして門戸は開く。出て行くのも自由。そんな、こころの共同生活を描いているような気がした。ま、それで生活が成り立つのか? と問われれば、そんなことは分からない、と応えるだろうけどね。
テンポは、のろい。最初に時計を見たのは、始まって50分ぐらい。少し眠くなってきて、眠気を追い払うのにしばし苦労した。ちょっと睡眠不足だったからね。それでも結局、寝なかった。何も起こらない映画だけれど、描かれているシーンは、手垢のついた設定でありながら、それなりにほのぼのと、やさしく響いてくるものだったからだろう。「先生」と、後からやってきた加瀬亮に呼ばれる小林が、都会ではどんな生活をしているのか。毎年、春になると島にやってくる、もたいまさこ、と何者なのか? 想像するのも楽しい。・・・で。小林は、結局、都会には戻らず島に居着いてしまったわけだけれど、何をして生活しているのかね。先立つものがあるなら、ああいう生活をしてみたい、と思わないこともないけどね。
11時35分からの回だったんだけど、食事のシーンがたくさんでてきて、とても食欲を刺激した。梅干しを食べるシーンでは、こっちの口の中もすっぱくなった。ほんとうに、おいしそうなご飯、食べ物がたくさんでてきた。あ、それから、犬がなかなかよい演技をしていた。
サン・ジャックへの道10/18ギンレイホール監督/コリーヌ・セロー脚本/コリーヌ・セロー
原題は"Saint-Jacques... La Mecque"。仲の悪い3兄弟の母が死んだ。3人で巡礼の旅にでかけ、歩き通したら遺産をやる、といわれて巡礼ツアーにでかける話。のっぴきならない状況に追い込む、という手はよくあるパターン。でも、長兄が会社社長で、参加したくないといっていたのに、いつのまにか参加しているのがちょっと解せなかった。見落としがあったのかな? その妹は高校教師で、宗教は害悪だと思っている。・・・そういう人もフランス人にはいるのだね。けど、ある聖地で神様にお願いの文章を書いてしまうところなんか、日本人と同じだなあと思ったりした。下の弟は酒と女に生きたアル中男。働いたことがない、というのだから、よっぽど女にもてるのだね。で、3人は他のツアー客と一緒に歩きはじめる。フランス生まれのイスラム教徒の(アルジェリア人かなんか?)高校生2人組。その同級生の女の子2人組。頭髪のない中年女。と、3兄弟が濃すぎるので、その他のメンバーはあまり出しゃばらないキャラ設定だね。
彼の地にも日本の八十八か所みたいな巡礼があるのだね。初めて知った。しかも、日本みたいに四国だけなんてもんじゃなくて、フランスから国境を越えてスペインまで、2ヵ月・1500kmも歩くっていうのだから、また驚き。日本とは桁違いだ。こういうのは万国共通なのだね。
あれやこれやドタバタに近いコメディで話は進む。ときどきインサートされる、ツアー参加メンバーの夢が、シュールに出てくるのだけれど、ドタバタ臭を薄める効果を発揮していてよかったんじゃないかと思う。それにしても、みんなアホばっかり。真剣に聖地を拝もうと思っているのは、イスラムの聖地メッカに行けると勘違いしてやってきたイララム教徒の片割れで、親思いなんだけど失読症という、あまり聞き慣れない病気もち。字が読めないらしい。この少年が、その他のメンバーではもっとも重要な存在感を示している。彼は、3兄弟の中の高校教師に、巡礼中に読み方を習う。少しずつ覚え、町の看板なんかを読んでいく様子は、ちょっと感動。破壊しに刻まれた「わが息子よ」なんていう字を読んで、「この人は3人(だっけかな)の子供に先立たれたんだ・・・」と、ため息をつきながらつぶやくところとか、新しい世界を獲得していく姿が訴えてくる。しかし、イスラム教徒がキリスト教の聖地を巡礼するってこと自体、どうなんだろうと思うけどね。
3兄弟はそれに比べると、くだらないエピソードばかりで、それほど訴えてこない。一行は、これも非ヨーロッパ人みたいなガイドが引率して行くんだけど、彼の子供が熱を出して困惑したり、自分の留守に友達が女房のところに来ていることを心配する。そういえば、3兄弟の長兄・社長の妻はアル中で病院に入院したり、メンバーの家ではあれこれ事件も発生する。それをつなぐのが携帯電話で、歩いている間はつながらず、宿であたふたする姿が滑稽。情報を断ちきることは難しいのだね。
というわけで、全体的にはドタバタしたコメディで、話もよくあるパターンで類型的。でも、そこそこ面白く見られた。いちばんよかったのは、ラストの“その後”で、最初は「歩くのなんかやだ」と言っていた長兄社長がアル中妻を誘って山歩きを始めていた。巡礼中に母を失った失読症の青年は、高校教師の家に迎えられ、住むことになった。これは、感動的。末弟のアル中男は、相変わらず・・・。高校の同級生同士でカップルもできた。巡礼の時に、会社の幹部といっていた男は、カウンター業務でしかなかった・・・。ガイドと中年女(彼女は病気で髪がなかったのか? よく分からない)は結ばれる。とまあ、この部分を見るために、長いコメディ部分を見せられた、というような印象もある。しかし、あの巡礼がどういう聖地をどういうルートで廻ったのか、それはちょっと興味がある。
そうそう。遺産をもらうことになった3人は、幼いときに住んでいた家を、財産管理人とともに訪れるのだけれど、3人が戻るときに窓に母親らしき人影が・・・。ん? 実はまだ生きていたのか? それとも、幻影? それと、タイトル。サン・ジャックっていうのは、サンチャゴであり、セント・ジェームスなんだってね。そんなこと、分かんないよなあ。ま、彼の地ではそんな説明は不用なんだろうけど。
ボルベール<帰郷>10/18ギンレイホール監督/ペドロ・アルモドバル脚本/ペドロ・アルモドバル
原題は"Volver"。なんとも凄まじい物語だ。なーんも先入観なし(ペネロペ・クルスが出るということだけは知っていた)で見たんだけど、どんどん意外な展開にずぶずぶとはまり込んでいき、とんでもない話になっていく。で、結局は、女っていうのは凄まじい。したたかすぎる。恐ろしい。ということになるのだが・・・。
冒頭、墓掃除のシーンが出てくる。ヨーロッパ人はめったに墓参りなんかしないのかと思っていたのだけれど、スペインでは決まったときに墓掃除にいく習慣があるのだね。しかも、生前に墓を買い、自分の墓を掃除する風習もあるようだ。日本の田舎の土着性、因習を思わせて興味深い。
3人の女が、故郷の墓を掃除に来ているという設定。故郷に両親はおらず、ただ足腰の弱った叔母がいる。その叔母の世話を、向かいの家の女がしてくれている。・・・のだけど、このあたりの人物関係は分かりづらい。のだけど、分かりづらい親子・親戚関係は話が進むにしたがって次第に氷解していく。この分かっていく過程が、この映画の仕組まれた驚きにも通じていて、なかなか用意周到なシナリオづくりがされていることが分かる。
3人の女は、姉(ペネロペ・クルス)妹と、妹の娘。母娘にはぐうたら夫がいて、失業したといいビールを飲んでいる。亭主は、娘の股間や裸体を覗こうとしたりする。この辺り、露骨な布石だけれど、じわっと土俗的な臭いが滲みてきて、スリリング。なにげなくもっていく話運びが上手い。妹は1人暮らし。密かに自室で美容院を営んでいる。本当はいけないこと、なのかな?
姉妹の両親は、4年前、故郷の火事で焼死している(そして、幽霊になって現れると噂になる)。向かいの家の女の母親も、むかし失踪している。これらもも何気なく知らされるのだけれど、しっかり布石になっている。そして事件は起こる。突然襲ってきた父親を刺殺する娘。死体を隣のレストランの冷凍庫に隠す母親。・・・ときて、これは犯罪映画なのか、と思ったのだけれど、こんなのはまだまだ布石に過ぎないことが後から分かってくる。いやもう、前半のストーリーのほとんどすべてが、重厚な布石になっているのだ。
火事で死んだと思っていた両親。その父親は向かいの家の母親と不倫関係で、それを憎んだ母親が火をつけた・・・。自分は逃れて妹(ペネロペの叔母)のところに隠れた・・・。そうして、村の人にもほとんど気づかれずに暮らしていた・・・。しかし、妹が死んだので家を抜け出し、ペネロペの妹のところへ転がり込む・・・。ここで疑問が生じる。どうしてペネロペのところに転がり込まなかったのか・・・。実はペネロペは実父に犯され、いまの娘を・・・とまあ、どんどんとドロドロの世界へずぶずぶ入っていくこの凄まじさ。まさに因果はめぐるおぞましさ。そして、ペネロペ親子3人の関係が、ペネロペの両親たちの関係に、見事に重なるという構図。さらに、ペネロペが夫を失ったのと入れ替わるように、死んだはずの母親を得るという補完関係。過去を燃やした母親。過去を湖近くの地面の下に埋めるペネロペ。見事な関係性が、物語の中に綿密に折り込まれている凄さ。じっとり、充実の映画だった。
でもって監督の名を見たら、ペドロ・アルモドバル(そんなことを気にしないで見ている俺も俺だが)。おお。「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥ・ハー」の人か。うーむ。そういわれれば、この濃密さは・・・。でも、3作品の中では、この「ボルベール」がいちばん完成度が高くて、しかも、話の濃密さ、納得できる度合いも高くて、好きだな。「マザー」は理解したいとも思わない話だし、「トーク」の方も美しいとはいえない話。それに比べれば、この映画の女たちは、生きることに美しく立ち向かっている。生理のままに生きている。そのたくましさ、素晴らしさが感じられる。
では、じっとり陰湿な話かというと、そんなことはなくて、ときどきコミカルなタッチも見えたりして、どろどろさは随分と緩和されている。そのあたりのバランス感覚は、ちゃんと計算しているのだろうと思う。殺人、遺体遺棄、浮気、偽装殺人、近親相姦と言葉は重いけれど、なんなく1本の映画に仕立ててしまった手腕に、敬服だ。
大統領暗殺10/19テアトルダイヤ監督/ガブリエル・レンジ脚本/ガブリエル・レンジ、サイモン・フィンチ
原題は"Death of a President"。ブッシュ大統領が暗殺された、という設定で、その犯人がいかに仕立てられ逮捕され、嫌疑が薄いにもかかわらず拘留されつづけるのか、というようなことをドキュメンタリータッチで描く。前半の30分ぐらい、ブッシュ暗殺までの過程は、それほどインパクトはないけれど、まあまあ見せる。が、その後がちょっとゆるくなる。犯人捜しというか、容疑者を何人かリストアップし、過去や当日の動きを見せていく。これが、つまらない。だんだん眠くなり、1時間目ぐらいで、瞬間的に何度か寝てしまった。
最初のうち、引っ張ってくれたのは映像だ。捜査官や補佐官だった人のインタビューがあり、これは本物なのかな? と思わせる。さらに、ブッシュのシカゴ訪問時のデモ映像も、本物かな? と思わせる。ブッシュが登場するシーンは、どう見ても本物だ。でも、どれかはフィクションだろうな。でも、どれが後から撮影したフィクションで、どれが本物だろうか? なんて考えているだけで、そこそこもった。しかし、大統領が狙撃された後も、捜査官や補佐官の話はつづく。ってーことは、こいつらも役者か。では、狙撃以後の容疑者なんかも嘘で、テレビのキャスターも演技だな。・・・と分かってしまうと、途端に面白くなくなった。ドキュメンタリーっぽくやってるのが、バカみたいに見えてきたのだ。
なにもドキュメンタリータッチの必要はなかったよな。フツーに、大統領が暗殺され、その犯人を追う過程でいろいろある、ということをドラマで見せた方が、もっと引っ張ってくれたんではないかと思う。だって、この映画、最初の頃は飽きずに見られたのは、内容が面白かったんじゃなくて、どのフィルムが本物か、という興味だけだったんだから。というわけで、後半、本当の犯人らしき人物が特定されても、犯人に仕立てられた人物が牢から出られなくなっていても、権力の怖さというのは伝わりづらかったと思う。むしろ、「どーせ作り話なんだろ」と思うと、急に説得力が薄れていってしまった。やっぱ、ドラマにした方がよかったと思うよ。
インベージョン10/22新宿ミラノ2監督/オリヴァー・ヒルシュビーゲル脚本/デヴィッド・カイガニック
原題は“The Invasion”。侵入、侵略、蔓延っていうような意味だ。主演はニコール・キッドマンとダニエル・クレイグ。監督のオリヴァー・ヒルシュビーゲルは、いま調べたら「es エス」「ヒトラー 〜最期の12日間〜」の人なのだね。ふーむ。
墜落したスペースシャトルに宇宙生物(ウィルスみたいなもの)が付着していて、それが人間の脳を侵し、支配していくという、昔からよくあるパターンの物語。新鮮味はまったくない。
一般の人間がどんどんウイルスに感染し、感染した人々は一様に無表情で感情の起伏がなくなる。しかし、画面に映る大半の人々は感染者で、感染していない人の方が少なく見える。ニコール・キッドマンとその周辺の人々だけ、みたいだ。でも、会話ではアメリカ国内で感染者は3000万人ぐらい、なんていっていた。するってーと感染者は7人に1人ぐらいで、そんなに多いわけじゃない。電気やテレビ、鉄道もフツーに営業しているということは、非感染者の方が支配的だということだよな。なのに、多数派の非感染者が出てこない。とくに、政治権力者や軍隊、医療関係者なんかが、何らかの対策を取っているところがでてこない。せいぜい、冒頭でちょっと出ただけだ。この映画の面白いところ、または不思議なところは、こうした偏った描き方だと思う。故意に偏ることで、ニコールたちが少数派に見え、終われているように見える。個人の視点で描くことで、サスペンス性を高めようとしたのだろう。そういう選択肢は間違っていないように思うけれど、ふと疑問をもってながめると、とても奇妙なものに見えてきたりする。その危うさの上に立った演出だと思う。SFだけど、どちらかというと人間ドラマに比重を置いた展開は、そういう意図のもとにつくられたのだろう。多分。
感染しない人物=ニコールの息子(ほかに患者のオバサンもいたはずだけど、いつのまにか無視されてしまった・・・)からワクチンをつくり、感染者も正常に戻ったみたい。子供一人から、全世界の人々に、そんなに簡単にできるの? という疑問はさておいて。ニコールは感染者を何人も撃ち殺しているわけで、しかも、恋人のダニエル・クレイグも殺そうとして撃てなくて足を撃っただけなんだけど、事が収まったあとでダニエル・クレイグと一緒に生活している・・・っていうラストが、いまいちしっくりこなかった。むしろ、ラストにもうひとひねりのどんでん返し、あるいは、思わせぶりなアイロニーがあるかな? と思ったら何もなかったので、ちょっと拍子抜けしてしまった。
それにしても、ゲロで感染するってのはなあ・・・。気持ち悪いよ。走るニコールのオッパイが揺れるのは、まあ、よかったけど。あ、それから、タイトルはもっと何とかならなかったのかね。
ウォー・ダンス10/24TOHOシネマズ六本木ヒルズ スクリーン5監督/ショーン・ファイン、アンドレア・ニックス・ファイン脚本/---
第20回東京国際映画祭ワールド・シネマ部門/原題は"War Dance"。内容をまったく知らないまま見た。ドラマではなく、ドキュメンタリー。あらま。TIFFにはドキュメンタリー部門ができたのか? と思ったら、後からパンフレットを見たらワールド・シネマ部門という、新部門の1本らしい。ふーん。
いまも内戦がつづくアフリカ、ウガンダ。この国では毎年、全国の小学校が参加する、音楽&ダンスコンテストがある。で。反政府軍に家族を殺されたりした子供たちは、ウガンダ北部のキャンプで暮らし、小学校に通っている。そして、初めてコンテストに参加することになった。カメラは、その過程を追う。
のだけど、前半の大半は、数人の子供をフィーチャーして、家族を失った話なんかを紹介する。両親の死骸、しかも、首を切り離して煮ているのを見せられた、とか、反政府軍に強制されて無実の人を殴り殺した話なんかを、本人が話していくのだけれど、淡々としていて衝撃的、という程ではない。むしろ、外国人相手にしゃべれてしまうのだね、そういうことも、という驚きがある。それと、この手の被害者をフィーチャーして紹介する、というパターンはいままでもよくあるので、それ程のインパクトもない。いや、衝撃もインパクトもないから悪い、といっているわけではないのだ。こういう事実を紹介するのは異議があることだろうけれど、それだけでいいのか? と思ってしまうわけだ。アフリカではそっちこっちの国で同じ様な内戦が続いていて、大量の人々が狂気の沙汰のように殺され犯されつづけている。政府軍が正しいのか反政府軍が正しいのか、そんなこと、日本人には分かりはしない。それで、こういうことがおきていますよ、と紹介されても、じゃあどうすればいいのだ? と逆に問い返したい気分になるのだよね。映画の最後には募金はこのサイトから、という案内も出た。でも、そこから募金をして、集まったお金は誰の手にはいるのだ? という疑問が湧く。ほんとうに子供たちのために使われるのか? どっかで為政者の懐に入ってしまうのではないのか? という疑問が浮かんできてしまう。
そういうのは些末なことかも知れない。もっと不安なのは、画面に出てくる小学生たち。彼らは、あと4、5年したら政府軍か反政府軍に入って、無造作に人を殺す立場になったりするのではないの? と、思ってしまう。「ブラッド・ダイヤモンド」だっけ? 少年が誘拐され、反政府軍に入れられ、麻薬漬けされて人殺しをするようになる、というのは。ああいう映画の素材になるような話が、このドキュメンタリーにはあるわけだ。で、こういうアフリカの事実を取り上げれば、いまの映画界は単純に賞賛したりする、傾向がある、ようだ。でも、紹介したり募金を募ったり、それだけでいいのか? 人殺しの連鎖を断ちきるために、するべきことはあるのではないかと、思ってしまうのだよね。
アフリカの内戦の理由は、かつての植民地政策があったのは疑いない。けれど、それをいつまでも引きずっているアフリカ人たちにも問題はないのかな? 譲ることをしないで主張し、譲らない相手を殺していく。その殺し方、暴力は、尋常じゃない。旧ユーゴスラビア周辺の人々の殺し合いも、凄まじいが、似たようなところがあるんじゃないのかな。民族間の争いは、ほんとうに凄まじい。日本人には、想像もできない。
アフリカの人って、激昂しやすいのだろうか。父親を殺された娘が、かつての現場を訪れるシーンがあった。彼女は突然地面に倒れて泣き始めるのだよなあ。ああいう反応っていうのは、日本人にはないよなあ。純粋といえばそうなのかも知れないけど、ああいう体質(?)が、復讐の連鎖を生む原因になっていることはないのだろうか? とか、思ってしまう。
極論しよう。自治能力はない、と考えて、先進国がしばらくの間、統治する。教育、産業が根づいたら、自治を任せる。なーなんていうと、新たな植民地政策だ、なんていわれそうだな。でも、中途半端な支援なら、しないほうがいい。関与せず、内乱に任せておけばいい。そうすれば、滅びる国は勝手に滅びるだろう、としかいいようがない。
・・・というようなことを考えてしまうのだ、この手の話を見たりするとね。さて、コンテストの場面になると、話はあまり面白くなくなってしまった。フツーのドキュメンタリー以下。なぜなら、当該小学校の生徒の芸が上手いとは、とても思えないからだ。他の小学校の芸も、驚く程ではない。とくに、なになにに入れ込んで練習した、だとかの映像もない。なのに、木琴では優秀技術賞をもらい、民族舞踏でも優秀賞を獲得してしまう。総合チャンピオンになれなかったけれど、予想以上の成果だ。・・・でも、この終わり方って、まるでシナリオで書かれたみたいな終わり方だよなあ。やらせはなかったのか? と、またまた突っ込んでしまいたくなった。
10時50分からの回だったけれど、30人ぐらいしか入っていなかった。
ボンボン10/25ギンレイホール監督/カルロス・ソリン脚本/カルロス・ソリン、サルバドール・ロセッリ、サンティアゴ・カロリ
アルゼンチン映画。英語題名は"BOMBO'N"。原題は"Perro, El "。ほのぼの映画の傑作だな。善人しか出てこないので、とても安心して見ていられる。
主人公は52歳。ガソリンスタンドを首になって、職探し中。エンストしていたクルマを修理してやったお礼に、血統書付きの白犬をもらったのだけれど、それが大変な代物で。周囲の知らない他人に奨められるままにコンテストに出場し、種付けの話が舞い込んでくる・・・。とまあ、わらしべ長者のような塩梅。まあ、最後までそう調子よくはいかないけれど、ラストで逆転のホームラン、というまではいかなくても、2ベースヒットぐらいは打っているので、気持ちよく映画館を出られると思う。
どういう話か知らないまま見たんだけど、最初は単なる失業者の話かと思いきや、あれよあれよで犬の物語になっていく展開が素晴らしい。犬も出しゃばっていないし。犬の調教師や主人公の娘が最後に出てこなくなってしまうっていうのが、ちょっともったいない。だって、調教師は預かった犬に逃げられた→主人公が山の村に行って見つける、というあまりにも単純な終わり方ってのは、ないだろ。もうちょっと考えたものにしろよ、という気がする。それから、居候していた娘の家には、わずかでもいいから仕送りしてやれ、という気分になった。そこのところを除けば、おおむね気分のよくなる映画に間違いはない。
ただし、あの犬がそんなに素晴らしい種類の犬なのか、犬のことを知らない俺にはさっぱりわからなかった。
フランシスコの2人の息子10/25ギンレイホール監督/ブレノ・シウヴェイラ脚本/パトリシア・アンドラージ、カロリーナ・コトショ
ブラジル映画。英語題名は“Two Sons of Francisco”。前半と後半がまったくテイストの違う映画になっている。とても変な気分になる。
最初に「事実に基づく映画」とクレジットが出る。ふーん、という気分で見ていたのだけれど、後半も最後になると、どーやらブラジルのスター歌手の伝記らしいことが分かってくる。だって、最後は本人や兄弟、両親まで登場してしまうのだから。急に眉唾臭くなってきた。ひょっとしたら、前半にもヤラセや誇張があるのではないのかな? とかね。
前半は、地道な感じの物語。小作人で、子供を歌手にしたいという妄想をもった百姓がいた。長男にはアコーディオン、次男にはギターを買ってやり、練習しろという。その間に、自分は子作り。なんと計7人の子供の親になる。楽器に金を使いすぎて地代が払えない。都会に出たが、食うものも食えない。長男と次男が路上ライブで稼いでいると、怪しい音楽プロデューサーが寄ってきて、ツアーに出ようという。父親は大喜び。母親は不安。長男はノリノリ。次男は不安。で、2週間の約束が4ヵ月になってやっと戻ってくる!(父親が重い腰を上げて探しに行くが、ラジオ局で歌っているシーンがインサートされる。あのシーンは、何だったんだ? ゆく分からん) しかし、4ヵ月も放っておく親がどこにいる? ボロいワーゲンのトラックで出かけた音楽Pは、4ヵ月後高級乗用車で戻ってくるのが笑える。すったもんだあったけれど、再びツアーに。音楽Pも、今度は子供たちの機嫌を取りながらのツアーだったが、交通事故で弟が死ぬ・・・。というのが、前半部になるかな。後半は、10年後ぐらい。長じた長男は、街のクラブで歌ってる。以後、早回しのようにというか、ダイジェストのように物語はマキの状態でびゅんびゅん進み、長男は結婚。なんとかコンテスト(言葉だけで紹介される)に優勝し、レコーディングするも売れず。靴磨きをしていた3男らしいのが、夜遊びの言い訳に「音楽をやってる」とオヤジに言ったらギターを買ってくれて、それをもって都会の兄のところへ。でも、ギターは弾けないんだけどね。で、起死回生の楽曲をレコーディングしたが、発売まで至らず。ではと、オヤジが給料をコインに換えて知り合いに「ラジオ局にリクエストしてくれ」と頼み込み、それが幸いして大ヒット! という大団円ハッピーエンド。
・・・なんだけど、前半は映画になっていたものが、後半は粗筋紹介みたいで中味からっぽ。終わってみればタレント映画ってわけで、アホらしい。この落差は何なんだ?
監督/●脚本/●
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