自虐の詩 | 11/1 | MOVIX亀有シアター6 | 監督/堤幸彦 | 脚本/関えり香、里中静流 |
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原作は読んでいる(細部は忘れているけどね)。映画は、漫画的な部分はそれなりに残存させながら、その上で実写の強みを活かしている。前半はコミカルに、くくくっ、と笑えるシーンが盛りだくさん。現実にはありえねーだろ、というようなところも平気で描いているところなんか、漫画だ。で後半。幸江が入院して過去を想起するあたりからは、べたべたの人情ドラマになりすぎてしまって、ちょっとうっとうしかった。もうちょっと短く、フラッシュバック的に扱った方が効果的だったかも。 イサオと幸江の関係も、もうちょっと微妙な部分が表現されていればなあ…。前半(現在)と後半(出会いの頃)に違いがありすぎて、違和感すら感じてしまった。現在ももちつづけているイサオの幸江への愛情を、もうちょっと上手く入れ込んで欲しかったな。イサオが昔、長髪のヤクザで、幸江に「愛しています」といったり、「幸江さん」と下手に出ていた時代から、なぜ、現在のような距離感を取るようになったのか、それが分からない。 とはいいながら、全体的には笑えて泣ける上出来の映画になっている。ディテールが、おもしろい。隣の部屋のババアが、亭主の仏壇にリポビタンDをあげているとか、警察署のスローガンとか、画面に映っている色々が大阪を表していたり、いろんな意味を持っていそうで興味深い。 中学生時代の熊本さんは、すごい存在感があった。終盤近く、10数年ぶりで再会するのだけれど、現在の熊本さんはアジャ・コングだった。ちょっとがっかり。中学時代の凄みがまったくなくなっている。それなら、顔を出さない方がよかったと思う。 上京するシーンで、いきなり鹿島鉄道(2007年3月廃線)と霞ヶ浦が出てきたり、浅草の花やしきが出てくるのはいかがなものか。だって、気仙沼でも大阪でもないだろ。とまあ、ちょっと知っているから言ってしまうのだけれど、違和感があった。 ときどき、幸江の気持ちを語るナレーションが長々と入る。でも、ほとんど頭に残らなかった。原作にあるのかも知れないが、語るより見せてくれた方がよっぽどいい。 しかしまあ、今年見た日本映画では上の部に入るデキだと思う。 | ||||
スターダスト | 11/1 | MOVIX亀有シアター8 | 監督/マシュー・ヴォーン | 脚本/マシュー・ヴォーン、ジェーン・ゴールドマン |
「自虐の詩」の後でチャーハンを食べ、食後だったこともあって、ちょっと眠い状態で見はじめた。歴史ファンタジーで、好みのジャンル。なんだけど、少しボーッとしたまま見はじめ、デ・ニーロ船長の船上の後半で、5〜10分ぐらい目をつむってしまった。ああ、もったいない。でも、朦朧状態で見つづけるより、瞬間寝で頭が冴えた後の方が、よかったかも。 イギリスの田舎町ウォール。町はずれに石の壁があり、そこには番人がいる。向こう側は、魔法の街(なのかな?)。人間は行くことができない・・・。その壁を超えて、村の青年がでかけ、魔法の街の娘(これが実は王の末娘で、魔法使いの囚われの身となっていた)とひと夜の関係をもつ。9ヵ月後、石壁に、赤ん坊が置かれていた・・・。その子トリスタンが18歳(だっけかな?)になって、村の娘に恋をした。ある日、村に流れ星が落ちた。トリスタンは恋している証に、魔法の村へ行って星を土産にもってくる、と約束。蝋燭のパワーで空間移動し、魔法の街へと入る・・・。というのが、とりあえずの発端。 ということではあるんだけど、実はこの設定をちゃんと理解しているのかどうか、怪しい。同じ様な貴種流離譚は日本にもあるし、それほど大きな違いはないのかも知れないけれど、王様、王子たち、魔女たち、空の海賊、星など魔の国の人々の位相が、アバウトにしか理解できない。ま、歴史と文化が違うんだからしょうがないと言えばしょうがないんだけど。 たとえば、クレア・デインズは、流れ星である。なんで星が人間の恰好をしているの? 王が残したルビーが宇宙に飛んでいき、戻ってきたら星になっていた、っていうのは、何なの? で、ミシェル・ファイファーら3人の老魔女は、その星を手に入れれば若さが戻る、と追いかける。トリスタンの母親は、なぜ魔女の手に落ちていたのか? その魔女は、ファイファーらとは格が違うらしいが、どういうことか? そもそもトリスタンは魔法の国の王女の子供なんだから、特別の才能をもっていないの? とか、基本的な部分ですんなり入ってこないところがある。だから、おおぜいの人間が星とルビーを追い求めて右往左往する、という話の骨格はよくできているのだけれど、バックボーンが理解できていないので、楽しさも中途半端なり、という感じだな。面白いことは面白いんだけどね。 で、ラストは大団円。って、初めから予測できた結末で、トリスタンと星の娘は結婚し、国王と王女になるわけなのだけれど、その式典にウォール村の人間たちも呼ばれている、っていうのはおかしくないのかい? だって、一方で星の娘は、壁を超えると星くず(スターダスト)になって死んじゃうんだろ? なんか、説明不足だと思うがね。 クレア・デインズは、顔は分かるんだけど、主役レベルで他にどんな映画に出ているのか、記憶にない。星の娘、というには歳を取りすぎているし、清純派の美形でもない。なので、ヒロインとしてはいまひとつかな。美女といったらミシェル・ファイファーの方が色っぽい。けど、シワだらけのメイクで乳も垂れ下がり・・・というような役もするようになったのね、という思いが先に立ってしまう。他に、ピーター・オトゥールが王に。ロバート・デ・ニーロが海賊船の船長役ででてくるなど、かなりのオールスターキャスト。スケールも大きくて、テンポもよくて、アクションもあるファンタジー大作。バックボーンへの理解が深くなると、ぐっと楽しめるような気がする。半睡状態で見たのが、とてももったいなかった。愛情がどうたらというメッセージが露骨すぎる気もするけれど、もう一度見たいなあ。 それにしても、トリスタンの父親といいトリスタンといい、好奇心が強く、女性にも積極的ですなあ。ははは。 | ||||
ヘアスプレー | 11/2 | 上野東急2 | 監督/アダム・シャンクマン | 脚本/レスリー・ディクソン |
予告編の印象で、デブでお調子者の女の子がダンスショーに出るような、おバカな話かと思っていた。ところがどっこい、表面はソフト風でも実は硬派な内容。後半になるにつれ、次第に感動が高まってきて、泣けてしまった。でもって、がんばれ、と声援を送っていた。とても素晴らしい。 監督・脚本のデータを調べていたら、1988年にも同名の映画があって、見ると内容が同じ。するとリメイクなのか? よく見ると映画はミュージカルになってトニー賞を受賞している。どうも、この映画はこのミュージカル版をベースにしたリメイクらしい。 映画は、1960年前後が舞台。まだ黒人差別が残っていた街で、差別を助長している地方テレビ局の大人たちと、そんなことは気にしない一部の白人高校生たちとの対立を、ユーモアを交えながら、でも、とても真面目に描いている。ところが、この映画の広告は、デブ娘の恋物語+スターになるシンデレラ物語として売ろうとしている。予告編もそういう方向でつくられたのだろう。黒人問題なんて、ほとんど気がつかなかった。そんな売り方は、誤魔化しではないだろうか。社会問題を扱った映画だ、ということを前面に出すと客が入らない、と思っているのかな。これは間違っていると思う。 さて。映画が始まるやいなやいきなりデブが歌い出し、学校へ行くシーンにはたまげてしまった。ミュージカルは肌に合わないし、デブでブスも嫌いだから。でも、だんだん映画の本質が見えてくる。1960年前後のボルチモア。ボルチモアといえばオリオールズだけど、何州だっけ。南部だよなあ。・・・調べたら東海岸。ワシントンに近い場所だった。おお。で、公民権運動真っ盛りの時代だ。テレビショーでは、白人だけが出演する番組が大半。音楽番組も週一ぐらい(?)でニグロ・デーがあって、その日は黒人しか出ない。たまに一緒の日があっても、スタジオのフロア中央に区切りがあって、こっちは白人、そっちは黒人と分かれている。学校だって、一般の授業は白人と黒人は別の教室。でも、補習の教室は白人と黒人が一緒らしく、主人公のデブ娘トレーシーは黒人に負けないぐらいのダンス好きで、黒人へのこだわりもない。・・・というような背景があって。テレビ局の面々(ミシェル・ファイファーたち)や大半の市民、高校生は現状維持派。トレーシーと友達のペニー(アマンダ・バインズ)は、そんなこだわりがない。というところから、対立が深まっていく。といっても、社会派ドラマにありがちなマジな対立ではなく、「なんで好きなことしちゃいけないの?」「どーして黒人とつきあっちゃダメなの?」的な、単純な疑問をもった、程度の意識として表されている。でも、それこそが本当に大事なことなんだよな。歴史を頭だけで理解し、改革を訴える社会運動家みたいなんじゃないところが、共感を感じられる大きな理由だろうと思う。テレビ局がニグロ・デーを中止すると発表したことで、黒人たちは失望する。そんなとき、トレーシーが、デモをすればいい、とアドバイスをするわけだ。で、トレーシーも先頭にたってデモに参加する。感動的なシーンがつづくのだよ。 デモには参加しなかったけれど、ペニーや、同級生の男子生徒も、最後にはトレーシーの肩をもつ。周囲のことを気にしていたトレーシーの母(ジョン・トラボルタ)も、トレーシーを応援する。それに、なんといっても存在感があるのが、トレーシーの父(クリストファー・ウォーケン)で、自分の趣味を仕事にして、変わったオモチャの店を開いたりしている。だから、好きなように行動しろ、と娘にいう。それに、デブを気にしているトラボルタ女房を、本当に愛しているという態度をとるのも素晴らしいシーン。 敵となるテレビ局のミシェル・ファイファーは、デブでブスとは反対の美女という設定。で、昔、ミス・ボルチモアになったときも、審査員と寝た、なんていうことも口走ったり。手段を選ばぬ自分勝手な権威主義者として描かれる。こういう対比が、効いている。 きっと、いろんな意味があるのだろうな、というような設定やセリフも多く、気になる。たとえば、ペニーの母は「お父さんが出所してきたら・・・」と言ったり、「子孫を繁栄させるには男を押し倒して・・・」というような文章を読んだりしている。どういう意味があるのだろう? ミシェル・ファイファーが「私は性病を伝染されたわ」なんてことも口走る。どういうことだ? テレビ局のショーについて、黒人の若者が「ドリス・デーのショーみたいだ」なんてこともいう。知識があれば、なるほど、と分かるんだろうなあ。くやしいなあ。ずいぶんと深い部分があるみたいだなあ、この映画は。うーむ。でも、そういうことは、日本語の映画のサイトには、でていない。そんなんでいいのだろうか? | ||||
ブレイブ ワン | 11/2 | 上野東急 | 監督/ニール・ジョーダン | 脚本/ロデリック・テイラー、ブルース・A・テイラー、シンシア・モート |
チンピラに恋人を殺された女性が、自らの手で復讐する話。もっとビンビンに激しい緊張感が伝わってくるのかと思いきや、通常のハリウッド映画と変わらないような話運び。いまひとつゾクゾクすることもなかったし、喝采も感じなかった。つまりまあ、描き方が冷淡というか、作り手の感情が入れ込まれていないような、他人事のような描き方なんだよなあ。まあ、この手の話は初めてではないはずだし、結末もなんとなく読める。だから、それ以上の何か、があるべきなんだけど、ないのだよ。 ラジオのDJで、襲われ、生き残る女性を演じるのはジョディ・フォスター。恋人は、どうやらインド人という設定らしい。でも、高齢の恋人同士ってことになるわけで、その時点でどーもなー、と引けてしまう。夜の公園でチンピラに囲まれて、連中は簡単に殴りかかってきて、殺してしまう。あまりにも素っ気なさ過ぎ。そんなに簡単に殺せるものか。殺した後も、平気で生活していられるのか? 異様な犯罪者、どうしようもない連中、というような属性を加えていき、それを描き込む必要はなかったのかね。ジョディがやっつける他の犯罪者にしても、ちょっとしたイタズラの延長、というような連中もいたりするので、ジョディの正当性を最後まで貫くのは、ちょっと辛い。 もちろん、ちょっとしたイタズラが、殺害になることもあるだろうけれど、殺す必要があったか? と考えると、また違ってくる。ま、殺すことで加害者としてはつかまらない、ということになるわけで、足や腕を撃っているだけでは映画にならない、という意見もあるだろうけどね。で。ジョディは、コンビニの店員を殺した男、電車の中で絡んできた男たち、売春婦をクルマに閉じ込めていた男、を殺す。これはまあ、理解できる。でも、刑事が追っている悪徳野郎まで殺すというのは、やりすぎだろう。だって、直接の危害を加えられたわけじゃないんだ。なのに、正義漢ぶりやがって。と思ってしまった。 そして登場するお決まりの刑事。女房に逃げられ、でも、真面目に犯人を追いつつ、犯人であるジョディに惚れてしまう、というありきたりさ。うーん。安っぽい。 | ||||
青空のルーレット | 10/6 | テアトル新宿 | 監督/西谷真一 | 脚本/丑尾健太郎 |
青い。テーマも青ければ、映像テクニックも青い。学生映画の延長のような未熟さだ。10分ぐらいで席を立ちたくなった。…最後まで見たけど。でも、とても辛かった。監督の西谷真一は「花」の監督らしい。あの映画はそんなに下手くそとも思わなかったけれど、どーしたんだろう? 脚本がよくない。いつ、どこで、だれが…の基本がなってない。それを補う演出もない。もしかしたら脚本はしっかりしているのに、演出で省いているのかも知れないけど。そのくせ、不必要なカットがだらだらとつづいたり。そもそもは、人をしっかりと描くべきなのに、描けていないのがいちばんまずい。すべてが上っ面。どこにも共感する部分がない。貫地谷しほりは、聾なのに一人で上京し、いかにして就職し、どんな仕事をしているのか? バイトのリーダー的立場の萩原は、どんな小説を書いているのか?(いまどきバイトしながら苦節何年というのも、ないと思うぞ) おさわりパブのシルビアさん(中島知子)は、ほんとうはどういう女なのか? とか、描くべきことはたくさんあるはず。 バイトをしながら夢を追う生活。それはそれでいい。けれど、描き方が50年前ぐらいの感じなので、白けてしまう。とても古臭く、これでもかというようなステレオタイプ。清掃会社の専務(平田満)を徹底した非人情な悪人に描く手法も、あまりにもありきたり。 不思議なのが、豪華キャストなこと。中島知子、平田満、仲村トオル、石田えり、近藤芳正、遠藤憲一、村田雄浩、鈴木砂羽だぜ。メインはテレビドラマで活躍する若手だとしても、それでも、凄い顔ぶれだ。だれのつてなんだろう。 | ||||
ヒートアイランド | 11/9 | シネセゾン渋谷 | 監督/片山修 | 脚本/サタケミキオ(宅間孝行) |
渋谷を舞台にした群像劇。青少年(現代的なチンピラ集団)、現代の鼠小僧的な犯罪グループ、渋谷を根城にするヤクザ、大阪を根城としているが青山でカジノを開いているヤクザ、ブラジル人ヤクザ、が主な登場団体。犯罪グループがカジノの上がりを強奪し、その金の一部を青少年が間違ってかっぱらう。それを大阪ヤクザと犯罪グループが追う。そこに渋谷のヤクザがからみ、ブラジル人が偶然かっさらう。お金は点々とめぐりめぐって、元の鞘に、というオチ。よくある話の展開だ。「運命じゃない人」や「オーシャンズ11」を意識したようなところが感じられる。けれど、時間を遡ったり、実はその裏でこんな事が…というような凝り方はしていない。時間は一方方向だけに進む。けれど、なんとなく先が読めてしまうようなつくりになっていて、意外性がない。 セリフの半分を言ったところで場面転換し、別のシーンにつながるなど、カットつなぎを小気味よくしようとしている。渋谷のヤクザのしゃべり方は、最初はこわもてで語尾はソフト、といった塩梅。けれど、多用されると読めてしまうので面白くない。他にも、セリフには「みのもんた」だの、いまどきの固有名詞がぞろぞろでてくるけれど、10年後には註釈なしでは誰も分からないようなものばかり。しかも、現在でも笑いが取れないようなつまらないムダぜりふが多い。表面的に遊んでいるだけで、脚本の練り方が足りないのだ。全体のトーンはコミカルなのに笑えないのは、多くは脚本のせいであり、さらには上っ面だけの見栄えを意識した既訳本のせいだろう。木訥でも、きちんとした演出の方がよかったんじゃないのかな。 大半が知らない役者。犯罪集団の伊原剛志、松尾スズキ、関西ヤクザの近藤芳正、ブラジル人のパパイヤ鈴木ぐらいしか知っている人がいない…(渋谷のヤクザは見た顔だけど)。で、主にメインで動く青少年たちに魅力的な役者がいいないのだよなあ。うーむ。群像劇ゆえ、個人を深く描くのは難しいだろう。けれど、話の面白さがいまひとつなので、それで人間が描けていないと、どーしようもないものになってしまうかも。 で。話は中盤辺りから分かりづらくなっていく。青少年グループのボス、アキが渋谷のヤクザを呼びつけたとき、黒いカバンの中を見せるのだけれど、あれは何を見せたのだ? あのカバンの中には札はすでに入っていなかったはず…。渋谷のヤクザ事務所で銃撃戦があったとき、犯罪グループの伊原剛志は、アキがつけた出納帳のようなものを持って逃げてきている。そんなことがフツーできるか? アキがヤクザや伊原たちをヤクザ事務所に来るように仕組んだらしいが、どこが仕組んだ部分なのかよく分からない…といった、細かい突っ込みも入れたくなってしまう。話の骨格はそんなに悪いわけではないのだから、もっと先が見えないような脚本にして、ぐいぐい引っ張っていくような映画にしてもらいたいものだ、と思った。 | ||||
ロンリーハート | 11/13 | 新宿武蔵野館2 | 監督/トッド・ロビンソン | 脚本/トッド・ロビンソン |
原題は“Lonely Hearts”。第二次大戦直後。戦争で夫を失った寡婦が文通→交際を求める専門誌(?)があったんだね。それに目をつけた詐欺師と、その詐欺師を手玉に取るやり手女のクライムムービー。テイストというかタッチは「L.A.コンフィデンシャル」に似ている。電気椅子のシーンは、これまでもよく登場しているので、とくに目新しさはない。けれど、奇を衒わず、ちょっと引いた感じで重厚な映像を積み重ねていく感じがいい。とくに冒頭近辺では、白黒に近い画質を使っていて、浴室で自殺した若い女を俯瞰撮りしたシーンなんか、絵のようなイメージに仕立て上げている。もっとも、こうした凝りまくった映像は、その後、どんどんなくなっていくんだけど。でも、時代の空気感をよく表現していると思う。1940年代の後半の、まだビバップが始まらない頃のジャズ、クラシックなクルマ、ソフト帽、厚手のコートとか、小道具も決まっている。 事実に基づいた話かな、と思ったら、その通り。以前にも映画化されている話らしい。男に飢えた女をスケコマシが軽くいただいて、金をせしめてポイ。女は妊娠に気づいて、前途を悲観・・・、というケチな詐欺師(ジャレッド・レトー)だ。この男に接近して、離れられなくしてしまうエロっぽい女を、サルマ・ハエック。白人ではないなと思っていたら、なんとメキシコ系だった。レトーとハエックは兄妹という設定で行動する。レトーは、文通相手の寡婦と会い、結婚詐欺。でも、ハエックはもの凄く嫉妬深くて、レトーが寡婦を手玉にとる芝居を見ても嫉妬する。ましてレトーが寡婦とセックスしている同じ屋根の下にいたら・・・というわけで殺人が始まり、どんどんエスカレートする。ただし、レトーがハエックをどう思っているのか、というのがよく描けていない。心底好きなのか? それとも、離れられなくなってしまったのか。または、本当は恐怖におののいているのか? そのどれにも合致しそうだけれど、でも、よく分からない。その辺りが、ちょっと不満。 この2人を追う刑事が、ジョン・トラボルタ。妻が自殺した後、やる気を失ってずっとデスクワーク。それが、たまたま出くわした女の自殺現場を見て、昔の刑事魂が甦る。ところが、この物語にはあまり合理性がない。どうやって犯人を特定したか? なんていうのは、かなり大雑把。たとえば、レトーとハエックが乗ったクルマを止め、免許証をチェックしようとした警官がいた。この危機から逃れるためハエックは警官のナニをしゃぶるんだけど、後になってトラボルタが他の警察署で話をしているとき、ひと目でこの警官に目をつけ、証言を引き出しているんだけど、おまえは神懸かりの超能力者か! といった具合で、トラボルタが頭を使ってレトーとハエックを追いつめていく、という描き方ではない。なので、意外性だとか展開の妙を楽しむにはいまひとつ。ま、雰囲気を味わえばいい、のかも。 オープニングタイトルの、殺された男女の写真の数々、すでに書いたけどジャージーな音楽、淡々とした映像筆致が、そこそこ見せる。疑問なのが、映画はトラボルタの相棒の刑事のナレーションで始まり、その刑事のナレーションで終わること。その必要性は、どこにあるのだ? この相棒刑事、出番の割にほとんど個人が描かれていないのだよなあ。 妻を失ったトラボルタが、夜の相手に選んだのがローラ・ダーン。ちっとも美人ではない。けど、その、美人でないところにリアリティがあったりする。レトーが最初に殺す女も、相当なオバサンで、発達した筋肉と貧困な乳房を露わにして騎乗位シーンを見せてくれるのだけれど、やつぱり生っぽい。ハエックは美しいことは美しいけれど、粘着性がでてるしなあ。最後に殺される幼女の母親が、ちょっと美形? ってなぐらいで、可愛い女性が出てこない。ま、しょうがないか、犯罪映画だから。トラボルタの息子との関係はよく描けていて、レトーとハエックの関係との対比が上手くとれている感じ、かな。 | ||||
輝ける女たち | 11/14 | ギンレイホール | 監督/ティエリー・クリファ | 脚本/クリストファー・トンプソン、ティエリー・クリファ |
原題は“Heros de la famille, Le”。最初の10分ぐらい、人の名前ががんがんでてきて(その当人はあとからでてくる)、しかも、人物関係がさっぱり分からない。「おじいちゃんが死んだ」と言ったと思ったら「おばあちゃんが死んだ」という。全然別の家族の話かなと思ったぐらいだ。人間関係が分からないから、話に入っていけない。なので、余計に物語を受け止めよう、物語を理解しようという気持ちが萎えてしまった。 人間関係は次第に分かっては来るのだけれど、ビタッと明瞭に分かるわけではなく、想像・推測させるセリフが、これまた多い。なので、そこそこちやんと理解するまで、かなり時間がかかってしまった。で。理解する以前に映画に入っていけなかったので、「つまらない」という思いが拡大し、ずっと欠伸ばかりしていた。もうちょっとで寝そうにもなった。少し寝ていたかも知れない。それでもまあ、ひと通り見通して、冒頭だけをもう一度見てみた。人物関係が分かっていると、うまく構成されているな、と思える。だけど、まっさらな状態では、ちょっと難しすぎると思う。 変な話だ。レビュー芝居小屋のボスが死んだ。けど、彼は女装を得意としていたので、「おばあちゃん」とも呼ばれていたみたい。実子はいない、ようだ。弟子の手品師が、子供のような存在だったらしい。手品師は、アシスタントの女との間に娘(編集者)を設けた。正式な結婚かどうかは分からない。手品師は、高級娼婦(カトリーヌ・ドヌーヴ)と浮気して、男の子(会計士)を設けた(以上の理解は、Web上の解説とは違っていた。ま、どーでもいいけど)。さて。どういうわけか知らないが、70歳になったボスは、3月の海に入水する。遺言で、手品師には男物の衣装を。元アシスタントの女には、女物の衣装と宝石を。そして、編集者と会計士の2人に、店を含む不動産を残した。店は、赤字状態。さて、店を潰して売るか・・・? という顛末が繰り広げられるのだけれど、どーでもいいような話があれこれ延々とつづき、どういう理由でか編集者の女は昔舞台に上がった記憶に惹かれ、歌い始める。会計士も、店を管理しようと決意する。元アシスタントは、現在の亭主に・・・逃げられたんだっけ? 一緒に円満なんだっけ?忘れた。ドヌーヴは、ひとり去っていく、んだっけ? で、手品師は、ひとり寂しく職探し・・・。手品師がつき合っていた歌手(エマニュエル・ベアール)は、アメリカ興行界から声がかかって渡米・・・。という話。2人の孫(編集者と会計士)が店を引き継ぐのは、最初から見えるよなあ。あとは、どーでもいいようなあれこれで、本当に眠かったよ。2回目は、冒頭を15分ぐらい見ただけだけれど、あのまま見つづければ、もう少し楽しめた、かな? どーだろ。 タイトルは「輝ける女たち」だけど、女優としては目立っているけれど、役柄ではそれほどギンギンに輝いているようには見えなかったけどね。レビューの踊り子たちが、上半身裸で踊るのは、いい眺めだった。 | ||||
リトル・チルドレン | 11/14 | ギンレイホール | 監督/トッド・フィールド | 脚本/トッド・フィールド、トム・ペロッタ |
原題は“Little Children”。アメリカのどこかの街の中流住宅地。ここに住む何組かの家庭の人々が主人公だ。ケイト・ブランシェットは文学部の修士課程を卒業したインテリ。でも、現在は専業主婦で幼い息子を育てている。亭主は、マーケティング戦略屋みたいだ。近所の公園にデビューしたけれど、同世代の奥様方(良識派)。とは深い交流をしようとしない。しかも、息子のおやつを忘れてくるようなダメ母でもある。そこに、幼い娘を連れた父親がやってくる。あだ名はプロム・キング(まだ高校生の気分ってことかな? 学園でもてるタイプ、だそうである)。何をしているのか、良識派は知らない・・・。良識派はケイトに、電話番号を聞き出したら、5ドルあげるわと言われる。ケイトが接近して尋ねる。司法試験に落ち続けているのだという。「電話番号だけじゃつまらない。もっと過激なところをみせてやりましょう」と、プロム・キング氏とキスをする! とまあ、単なる欲求不満な主婦なんだけど、結局、ケイトはプロム・キングに接近して深い仲になる。プロム・キングには編集者(だっけ?)の働く奥さんがいて、ケイトみたいな女はタイプじゃない、といいつつ、ずるずるになっていく・・・。 ケイトの亭主は、ネットでアダルト映像に興奮。通販で買った水着をかぶってマスかいているところを、ケイトに見られてしまう…。 ご近所に、性犯罪者が住むようになった。母親と2人暮らし。ご近所は緊張する。数年前に間違って少年を射殺し、警官を辞めた男が、元性犯罪者駆除に乗り出す。ポスターを貼りまくり、スピーカーで怒鳴り散らすのだ。歪んだ正義漢。実は、女房に逃げられている・・・。 性犯罪者は、やっぱり変だった。老いた母親は中年息子を心配して、新聞で交際相手を探してやる。デートで現れたのは、精神病を患ったことのある陰気な女。その女に手を出すかと思いきや、分かれのキスの代わりに興奮してマスをかく・・・。 といったように、みなさん心に傷をもっていたり、変だったり、現状に満足していなかったりする。でも、性犯罪者を除くと、それほど異常な連中とも思えない。案外とどこにでもいそうな、というか、誰でも多かれ少なかれ同じ様な環境にいたり、似たような過去をもっていたりするのではないのかな、というような人々ばかりだ。だから、変な連中、という視線では見ていられない。共感してみたり、納得してみたり、距離をとって眺めてみたり。そんなことができそうな連中ばかりだ。その意味で、ぐいぐいと物語の中へと引っ張っていってくれる。 「マグノリア」とか「アメリカン・ビューティ」なんかのつくり方を連想してしまった。この手の、現代のアメリカ国民は、自分たちはどういう国民なのだ、実はこんな感じなのだよ、というようなテーゼの建て方というのは、アメリカ人に共通しているのだろうか。もっとも、アメリカ人といっても黒人でもプエルトリカンでもなく、中上流階級の白人限定だけど。 ケイトには、ウォーキングの年上の友人がいて、彼女に誘われて読書会に加入する。そこで読まれているのは「罪と罰」とか「ボヴァリー夫人」なんかの古典で、ケイトが参加したときは「ボヴァリー夫人」。会のほとんどを占めるインテリ年寄りたちはボヴァリー夫人の行動に理解を示すが、良識派の若い母親は嫌悪感を示す。で、ケイトは文学的な解釈を披露する。このあたり、自分の浮気を正当化する根拠にしていたりするところが、少し笑える。 駆け落ちしようと約束したケイトとプロム・キング。ケイトは約束の公園へ。でも、プロム・キングは決めきれない。母親を失った性犯罪者は、自ら去勢する・・・というラストは、結局のところ逸脱できない人々を象徴しているのかもね。 ケイトとプロム・キングとのセックス描写は2人とも全裸で生々しい。おお。ケイト・ブランシェットがここまでやるの? というようなもの。相変わらず肉感的だったけれど、それほどデブではなくなっていた。 ケイトがプロム・キングとの浮気旅行から戻り、ウォーキングの友人に預けていた娘と再会する。そのシーンで、友人はとても不愉快そうな表情をするのだけれど、まるで浮気しているのを知っているような態度だったなあ。でも、知っているという描写はなかったはずだぞ。 それにしても、ケイトとプロム・キングが毎日のようにプールで会っているのが、ご近所の方々に知られない、見つからないというのは、変だよな。それに、子供たち同士も仲良くなるのだから、家に戻ってそれぞれの父親、母親に今日あったことを話すだろ。そういうのが省略されているのは、変だな。ケイトの旦那も、家にいるんだかいないんだか、マスのシーンとプロム・キングを招待した食事のシーンを除くと登場しないというのも、不自然。そんな、物語を成立させるための不自然なところが、ときどき目立ってしまうのが、ちょっと残念。 | ||||
グッド・シェパード | 11/16 | シネセゾン渋谷 | 監督/ロバート・デ・ニーロ | 脚本/エリック・ロス |
原題は“The Good Shepherd”。忠実な羊飼い、とかいう意味かな? マット・デイモンとアンジェリーナ・ジョリーが出ることは知っていたんだけど、予告編も見ていなくて、内容についてはまっさらな状態で見た。感想をひと言でいえば、サラリーマンCIA物語、かな? 時期的には第二次大戦前夜からキューバ危機まで。そして、合衆国の諜報部門から独立してCIAができるまでの話だ。といってもアクション映画ではなく、いかにも現実はこんなものですよ、というような地味なテイストで描かれる。主人公のデイモンも、軍人の子供だけれどフツーにイェール大学をでて、家柄で選ばれたのか諜報部員としてリクルートされて英国へ。でも、派手な活動というより、本当に情報収集ばかりに明け暮れたような感じで、日陰の仕事という感じだ。大学出でエリートだから、直接手は出さないのだろうけれど、まあ、指示を出しているからにはどこかで殺戮や拷問には関与しているはずだけど。でも、本人はどこかのサラリーマンのように仕事場に通勤している。なるほどねえ、という感じがした。 大まかなストーリーは理解できるのだけれど、登場人物が多くて名前は覚えていられないし、さらにまた似たような顔立ちというかメイクで、こいつは誰だっけ? の連続。合衆国側かソ連側か、はたまた階級や役職なんかをあやふやにしか記憶していないので、かなりの部分で何が何だか分からないまま話は進んでいった。それでもまあ、芯になる話は大きくぶれないので、なんとかついていけたという具合だ。もし、人物のことがよく分かっていたら、もっと楽しめたに違いない。 それと。第二次大戦後の合衆国とソ連の駆け引き、キューバ危機に詳しければ、さらに緊迫の度合いを楽しめたかも。歴史は知っておかないと、いけないね、うーむ。 CIAの活躍の話以外に、串となっているのが女性関係。デイモンは最初、つんぼの娘と知り合う。けれど、彼女はセックスさせてくれない。同時期にデイモンは、学友の妹(ジョリー姉さん)と遭遇し、一目惚れされるような感じで野外セックス。ところがジョリーが妊娠してしまい、結婚の運びとなる。がしかし、なんとも展開が強引。思うにこれは、ジョリーの策略だったのではないのかな。だって誕生した子供はひ弱で臆病で顔つきも似ていないし頭もよさそうに見えないのだ。たぶん尻軽ジョリーは妊娠を気づいていて、デイモンを亭主に選択したんだろう(深読みしすぎか?)。これは、後にキューバ危機のとき、米軍が突入した場所が筒抜けで、作戦が失敗したのが、実は息子のせいだった、というのとつながっているのではないのかな。 ジョリーとデイモンの関係で言えば、ジョリーは仕事のことやもろもろ何も教えてくれない亭主に不満たらたらだった。しかし、秘密を守り通したのは、妻の方だった、といえないか? 同じ様な諜報部員の妻はたくさんいて、それほどノイローゼになっていないのに、ジョリーだけがおかしくなっているようにも見えるし。尻軽で、夫デイモンが英国にいる間にも浮気をしていたことを告白し、しかも、戻ってきた亭主としとねをともにしない、と宣言するような女は、ちょっとよく分からない。 分からないといえば、映画の大きなミステリーである、テープと写真。あれは息子と黒人女のもので、それをソ連のスパイが撮影していた、のだ。で、黒人女はソ連のスパイ。彼女が、息子から秘密を聞き出したわけだ。で、そのことを、どうしてソ連のスパイがデイモンに伝える必要があったんだろう? それと、その以前に息子はCIAになる、とっていたので、てっきりCIAにいるものかと思っていたのだけれど、アフリカで何をしていたんだろう? というような、分からないことがたくさんあり過ぎるので、もういいや。さてと。秘密結社がでてきたのが面白かった。大学を卒業し、選ばれた(その基準は分からないけれど)人間だけが、儀式を経て団員となる。フリーメーソンは有名だけど、ああいうのが本当にあるのかね。 | ||||
呉清源 極みの棋譜 | 11/19 | 新宿武蔵野館1 | 監督/ティエン・チュアンチュアン | 脚本/アー・チョン |
日本映画ではなく、中国映画なのだね。結論をいうと、とてもつまらなかった。物語としておもしろくなりそうな部分を、あえて避けるというか、描かないのだよ、この監督。で、どうでもいいような平凡な部分だけをつないでいる。とりあげられるエピソードも断片的で、まるで年表のよう。ドラマも、流れやダイナミズムもない。帰化を勧められたけれど一度はやめて・・・結婚した後に徴兵検査を受ける・・・って、日本人になっちゃったのか? ってな具合。結婚にしても、日中戦争最中に、花嫁の両親は反対しなかったのか? 対局でもそう。相手が何段でどれぐらいの力で名前は何か、とかをあまり説明しない。「呉さんどうしたんでしょう。遅刻すると棄権になってしまいます・・・」「まあ(交通)事情もあるだろう。2時間待とう」なんていう会話があり、呉清源はバスの中・・・でも、バスを降りてしまう。おいおい。その対局はどうなったんだ? 棄権になったのか? でも、一方で「不敗を守っていた」なんてスーパーが入ったり。あまりにも淡々としすぎているので、呉清源の心の変化はまったくつたわってこない。 人物の説明も、ほとんどない。野村宏伸は作家か記者のようだが、誰なんだ? (ネットで見たら川端康成だと!)米倉斉加年の演じていた西園寺って、誰? 松坂慶子は柄本明の女房かと思っていたが、違う様子・・・。なんとか教にいた体躯のでかい男は相撲取り? といった具合。なぜ説明しないのだろう。わけが分からん。 もっとも描かれていたのは木谷実(仁科貴)で、呉清源の親友だったのね。囲碁の世界では木谷道場、木谷門下として知られているので、どういう存在か気になっていた。それから、呉清源の師である瀬越憲作(柄本明)だけど、こちらは全く知らない存在。もうちょっと人となりとか、描けばいいのにね。 場所の説明も、あまりされない。中国へ渡ったのは分かったけれど、次にベッドに寝ていて、松坂慶子がいたりする。松坂慶子が中国へ行ったのか? と思ったら、帰国して療養中だったと分かってくる。基本的なつなぎが、なってないと思う。 淡泊に、日本人俳優のセリフもとてもゆっくり、間延びしたように話されながら、物語は進む。まるで呉清源が日常的に思索の人であるかのように・・・。でも、それは呉清源を演じるチャン・チェンが日本語をまともに発音できないからではないのかな。シナリオも、できるだけセリフを減らそうとしているように思える。では、呉清源は寡黙で静謐な人かというと、実際のはおしゃべりでお茶目な感じで、おっちょこちょいみたいな気がする。というのは、冒頭で本人の映像が出てくるのと、NHKの囲碁の番組に出ているのを見たことがあるからだ。そして、やたらと宗教に入りたがるというのは、まともではない、と思うからだ。 フィルムに入っている正体の字幕以外に、斜体の字幕が入る。これは、呉清源の心の声だけれど、中国版にはナレーションがかぶるのだろうか? また、中国版は日本の正体のスーパーではなく、中国語のスーパーが入るのだろうか。まあ、枝葉末節だけれど、ちょっと気になった。 たとえば、囲碁の勝負に焦点を当てて、ドラマチックに仕上げるとか。または、人間的なドラマを掘り下げて、様々な苦労に対峙していくとか。他にも面白くしていけるだろうに、もっともつまらないやり方を選択したといえるかも。単に翻弄されるだけで、自分からは囲碁と宗教以外、何もしなかったように見える。 | ||||
転々 | 11/19 | テアトル新宿 | 監督/三木聡 | 脚本/三木聡 |
ノリは「時効警察」。前半はいつもの小ネタの連続で笑えることは笑えるんだけど、本筋とは関係ないネタばかりで物語がないじゃないか、というわけでこのままバカ映画で終わるのか? と思っていたのだけれど、後半になって他人の結婚式でバーチャル夫婦を演じた小泉今日子とその姪が登場する辺りから、家族の再生のような雰囲気が出てくる。ちょっとじわっとくるところもあったりして、ただの小ネタバカ映画では終わらなかった。多分これは原作があって、そこで描かれるいる物語が下地となって存在しているからだろうな。 東京を歩くといいつつ、一直線ではない。阿佐ヶ谷当たりから谷中に飛んだり新宿に戻ったり、実際の地理とは関係ないところもある。それがちょっと不満かな。 「正確度計店」とか、面白い店名の店が登場する。本物の店のようだけれど、探したのかな。あの、ババアがつくるのが遅いので行列ができるラーメン屋というのは、本物? | ||||
ブッダは恥辱のあまり崩れ落ちた | 11/21 | 有楽町朝日ホール | 監督/ハナ・マフマルバフ | 脚本/Marzieh Meshkini |
第8回東京フィルメックス/ハナ・マフマルバフって誰だっけ、とWeb検索したら「ハナのアフガンノート」のハナ・マフマルバフなんだと。おお。知らずに見ていたよ。ケーブルでやったのを録画して、それを見たんだっけかな。まあいい。 パンフレットには原題が“Buddha Collapsed Out of Shame”となっていて、IMDbでは“Buda as sharm foru rikht”となっている。バクタイという少女は、何歳だろう。隣家の少年は1年生? 同年なのか、下なのか? 6歳か7歳ぐらいだろう。母親に妹か弟の子守を言いつけられている。隣家の少年が、親から勉強しろといわれ、教科書を読み始める。赤ん坊が起きるから声をだすな、とバクタイが隣家の少年に言う。少年がバクタイに教科書を見せつけ、「読めないだろう」という。悔しい思いのバクタイは、赤ん坊の足を縛り付け(少年も、足を縛られているのが可笑しい。遊ばないように、なのかな)、街へノートを買いに行く。何でも屋の兄ちゃんは金を要求する。ノートが10ルピー。鉛筆が10ルピー。お金がないというと、市場へ行って卵を売れといわれ、生み立ての卵を家から持ち出すが、2個割ってしまう。「卵は要らない。ナンなら買う」と爺さんに言われ、残りの2個を担保にナンを手に入れ、爺さんに売り、10ルピーつくる。それでノートを手に入れる。隣の少年と一緒に学校へ行くが、「ここは男の学校。女学校は対岸にある」といわれるが、途中で少年たちの戦争ごっこに巻き込まれ、捕虜に。ノートも破かれてしまう。隣家の少年はイタズラをしたせいで、退去させられたと、よろよろ来る。少年たちの落とし穴に落ちで泥だらけ。少年たちは他にも3人の少女を洞穴に閉じ込めている(紙袋を目出し帽のようにして被せているのが興味深い)。バクタイは、戦争ごっこ中の少年たちの間を抜けて逃げる。交通巡査(手で赤信号を挙げている!)に捕虜になった少女たちのことを話すが、「私は交通の係だから」とすげなくされる。何とか川を渡って、青空学校の中を通過して、女学校へもぐりこむ。が、席もあるはずもない。破れたノートのページをさらに破られ、半分だけ座らせてもらうが、口紅でイタズラしていて教師に見つかり(っていうか、若い女教師は生徒が騒いでいるのにまったく気がつかない。変だろ)、追い出される。農作業をしているしている人の中を通っていると、またもや戦争ごっこの少年たちが来て、枯れ枝の銃で撃ち始める。「お母さんが探しているよ」と言いに来た隣家の少年は、さっさと撃たれた真似。そうして、「死んだふりをすれば、やつらはもう構わない。バクタイ! 自由になりたかったら、死ね!」という。バクタイは地面に崩れ落ちる。エンド。 2度と見られるか分からないので粗筋を書いておいた。とりあえず映画の呈はなしている。監督が19歳であることを考えれば上出来の部類。でも、ごくフツーの観点から見ると、いまいちタルイ。各エピソードの展開がゆっくりすぎたり繰り返しが多かったりしつこすぎて、テンポがのろい。そこまで見せなくても・・・省略すれば? というところもあったりする。ま、実直で丁寧なつくり、といえばいえるんだけどね。 「運動靴と赤い金魚」を連想した。あれは、靴が欲しい少女。この映画は、教育(ノートと鉛筆)が欲しい少女。先進国では考えられないようなことがテーマになるのだ、中東は。その意味で、映画もまだ発展途上なのだろう。中国映画の「あの子を探して」も連想した。 で。あの爆破された巨大な石仏が冒頭と最後に出てくるのだけれど、あれってアフガニスタンじゃなかったっけ? で、イスラム教の教えに従ってタリバンが爆破したんじゃなかったっけ? で、少年たちは自分たちをタリバン兵に模して戦争ごっこをしている。敵はアメリカだったりする。アフガンには親アメリカの暫定政権ができてたんじゃなかったっけ? うーむ。少年たちのヒーローは、タリバンなのか? というわけで、実を言うとアフガンの歴史も現状も詳しくなくアバウトにしか知らなくて、きっと間違った解釈もしている自分としては、解釈に苦労する映画だ。いったい何を言いたいのだろう? 監督のハナはイラン人だよなあ。で、アフガンを舞台にした映画なの? うーむ。深く考えずに感想を書いていこう。まず、ひとつは貧困層はまともに学校にも行けていない、ということだよな。しかも、一方ではアフガン人の学習意欲が凄く高いのが表現されている。貧困層の中でも、バクタイのような子供は少なくて、バカな少年たちはタリバンごっこで暇を潰している。ああいう連中が、将来、本当にタリバンになるんじゃなかろうか。と思ってしまった。 で、ネットをうろうろしていたら、ハナの父親のモフセン・マフマルバフという監督が、「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」という本を出していると分かった。なーるほど。ここから取ったのか。・・・のはいいけれど、どういう主張なのかは分からないけどね(本の紹介ページには、「干渉よりも世界の無関心がアフガニスタンを苦しめた。バーミヤンの石仏は、世界の無知の前に自らの無力を恥じて倒れたのだ。映画監督の静かな視線が「悲劇」を分析する。」という紹介文が載っていたが・・・)。というわけで、やっぱりよく分からないや。 バクタイを演じた少女は、もの凄く演技が上手い。卵をもって市場に行き、そこいらの大人に「卵を買って」というところの媚びの売り方なんて、驚くほどだ。あまり上手すぎて、初めて市場に行ったのにこんなに馴れ馴れしくしゃべれるなんて、生意気すぎる、と思える程だ。捕虜になっていたのを逃げるときも、度胸が据わりすぎているように見えて、とても可愛いのだけれど、初々しさは感じられず。後半に潜り込んだ小学校の教室で、教師が教室の中で行なわれていることに気づかないのは、あまりにも不自然だよなあ。それから、捕虜になったりなんだりと、危機に陥ると音楽も哀しい音楽になるのが、あまりにもワンパターンだと思う。 何でも屋が店をだしているのは、爆破された石仏の前なのか? その後、川を渡ろうとした場面にも、石仏の空洞が見えたけれど、同じ場所なのか? それとも、同じように爆破された石仏の跡がたくさんあるのか? ちょっと不思議な感じがした。 でもって、やっぱり、大きなテーマは「自由になりたかったら、死ね!」に凝縮されるのかなあ。したいこと、やりたいことには、障害が多い。タリバンが、邪魔をする。そんな中で、自由になるためには“死んだふり”をしなくてはならないという矛盾。その矛盾を抱えたままのアフガニスタンについて訴えているのだろう、と思う。で、間違ってるかな? 観客は7〜80人。 | ||||
13歳、スア | 11/21 | 有楽町朝日ホール | 監督/キム・ヒジョン | 脚本/● |
第8回東京フィルメックス/英語題名は“The Wonder Years”。この英題名の方が、内容としっくりくるね。日本題名は曖昧なだけ。内容を表していない。 小学校を卒業し、中学に入学したスア、13歳。どーも集中力がない。歩くときは、歩数を数えているのか、ぶつぶつ言いながらだ。市場で、屋台のオバサンに声をかけられ、サンドイッチをもらう。家は、料理店。母親ひとりで切り盛りしている。戻ると、いつもの廃品業のオヤジが居座っていた。興味があるのは、テレビに登場する歌手。そのビデオを繰り返し見ている。翌日、登校途中にカツアゲの現場に遭遇。カツアゲされていたのは小学校の時の友達だった。スアは、中学の優等生と一緒に遊ぶようになる。家のビデオが壊れて、歌手のビデオが見られなくなった。食堂に来ていた電気屋のオヤジは「古いからなあ。でも、廃品業なら直せるかも」と、一緒にいた息子に、ビデオを持って行かせる。スアも一緒に行く。そんなとき事件。講の親をしていた市場のオバサンが持ち逃げ。スアの母は、店も取り上げられるハメに。スアと母は、廃品業の敷地にある一部屋を借りることになった。優等生が、好きな子がいるので一緒に行ってくれ、という。行ってみたら、電気屋の息子。「なんだ、お前」と息子がいい、「なんだ、あんたか」という表情のスア。取り残された優等生は怒って帰ってしまう。スアは、亡くなった父親のことを思う(ここで初めて、父親が3年前ぐらいに他界したことが分かる)。実の母は、テレビに出ている人気歌手で、今の母親は別人…と。その人気歌手がソウルでコンサートを開くという。スアは、母に黙ってひとり出かける。その車中、電気屋の息子と遭遇。サッカーの試合に出かける途中だった。ソウルについてもチケットもなく、楽屋の裏口に並ぶスア。父親の写真を見せて「知りませんか?」と問うが…。スアを探して母親と廃品業者がソウルにやってきて、連れ帰る。廃品業者は、スクラップになっていたバスを塗装して、店に仕立て上げる。そのオープンの日、母親は珍しく歌う。「スアのお母さんは歌が上手なので、亡くなったお父さんは、○○(人気歌手の名前)と呼んでいたんだよ」と誰かが言う。翌朝、廃品バスの食堂で、新しい生活が始まるのを、母親は慈しむようにしている。…というのが粗筋。 思春期の少女のファミリー・ロマンスをテーマにした作品だ。けれど、父親が亡くなっていることが、映画の中盤にやっと分かるというのは、困る。人気歌手を母親だと思いこんでいる、という描写も特にない。たんに、ビデオを何回も見ているというだけ。これでは、話をちゃんと理解するのに時間がかかってしまう。フレームワークとなる情報は、さっさと提供してくれなくては困る。だって、ファミリー・ロマンスを扱った映画だ、と分かったのは後半なのだから。 歩数を数える、母親に反抗的、歌手のビデオを見る、その他、ヒントはあるというかも知れない。けれど、いずれもちょっと弱い。何とでも解釈しうるようなものばかり。もっと上手に見せてくれないとね。 「気まぐれな唇」で大学教授の妻を演じていたチュ・サンミがスアの母親役で登場。なかなか可愛い役者なんだけど、もう母親役の年頃か? IMDbで見ると1973年生まれの34歳ではないか。まあ、21歳で娘を生んだと考えればおかしくはないけどね。◆上映終了後に質疑応答。でも、あまり有益な質問は出なかった。そういう中から、いくつか。「小津が好き。その小津の住んだ東京に来られてうれしい。自分は、この映画の主人公と違って、自分の母親を本当の母親だと信じている(と笑わせる)。父が2003年に他界した。このことがなければ、この映画はつくらなかったかも。映画には家族も登場する。ソウルへの列車で、スアの横に座っていたオバサンは、私の母親。サッカーチームのコーチは、弟。体型でわかるでしょ(監督本人は、小柄で太っている)。スア役の俳優は、「チャングム」にも出ていて、子役からやってきた人。経験は豊富。彼女は、いままでのは演技ではなかった、この映画で初めて演技をしたような気がする、と言っている。母親役の俳優は、歌も上手い。映画で歌っているのは、本人」というようなことを話した。 観客は7〜80人。 | ||||
ヘルプ・ミー・エロス | 11/22 | 有楽町朝日ホール | 監督/リー・カンション | 脚本/リー・カンション |
第8回東京フィルメックス/よく分からん。ちんぷんかんぷん。 どういう理由か分からないけれど、住居もクルマも何もかも差し押さえられてしまった青年。大麻を栽培しているが、売れない。彼女にも逃げられた。死にたくなって命の電話にすがったが・・・のあとは人間関係が不明瞭。質屋通いで当座の金をつくりつつ、路上のケバケバしい店の娘と仲良くなってセックスしまくったりしたけど、最後は飛び降り自殺した(んだと思うが)という話。 テレビに出ている料理人がどういう関係なのか、よく分からない。料理人の同居人はデブだけど、彼女が命の電話の担当者なのか? その料理人の男色友達は、だれ? 女性は何人か出てくるけれど、誰がどれだか区別がつかず。死にたいと言いつつ遊びまくっている意味も分からない。セリフもほとんど意味をなしていなくて、ほんと、つまらないというより、くだらない映画といった方がいいと思う。 唯一興味を引いたのが、路上店。「夢遊ハワイ」にも登場していたけど、交通量の激しい道路の横にガラス張りの小屋があって、半裸の娘がいる。煙草や簡単な日用品を売っていて、要望に応じてヘルス的なことまでサービスしたりする。ああいうのは、台湾に本当にあるの? それだけが気になってしまった。 観客は7〜80人。 ◆この映画の上映は12時30分。俺は3回券というのを買ったんだけど、それには「上映30分前に指定券と交換する」と書いてあった。で、本日、12時前に行くと、入口に「開場10分前から指定券と交換」と書いてある。「ん?」となってしまった。変わったのか? で、3回券を見たら、30分前とある。「上映? 開場?」。一応、スタッフに聞いてみよう。というわけで、青年スタッフA君に、「開場10分前とはどういう意味か?」と聞いた。すると、場内には入れる時間が開場、と当たり前の返事。なので、3回券を見せて文面を読んでもらった。「ああ、これは上映になってますね。上映30分前ですね」と、これまた当たり前のように言う。なので「上映30分前と開場10分前の違いは何ですか?」と尋ねたところ、「上映というのは映画を上映することで、開場というのは場内へ・・・」と当たり前のことを説明しようとするので、止めた。A君は、問題が分かっていないし、10分と30分という言葉が使われていることに、違和感を感じていないのか? 「そういうことが聞きたいんじゃなくてね。開場10分前という言葉と上映30分前という言葉が使われていることで、客が分かりにくくなっているとは思わないのですか、ということを聞いているんだけど」「え? うーん」と考えるA君。「チケットには上映30分前と書いてあるのに、この入口に開場10分前と書く理由は何でしょう? なぜ、この入口にも上映という言葉を使わないんだろう? 2つの時間が使われていることで、客が分かりにくくなっている、混乱する可能性があると、思いませんか?」としつこく言ってあげる。「うーん・・・そうですね、混乱するかも知れませんね」とやっとこちらの土俵に乗ってくれた。さて、A君の隣に同様の若いスタッフB君がいた。彼にも、「どうです? 2つの言葉、2つの時間が書かれていることで、混乱すると思いませんか?」と聞いたら「うーん。僕は大丈夫・・・だと思いますが」という。へー。こういう人もいるのだな。3回券を指定券に交換する時間について、2通りの言い方、2通りの定義が混在していても、大丈夫と自信を持って言える人がいるのだな。なので「これで混乱しないと思うんですね。そういう人はもう結構です。私は、混乱の元だと思いますから。だから、入口の開場10分前の下か後ろにカッコして(上映30分前と書けばいいんだよ。あるいは、入口の表示も上映30分前にすればいい。2つの言い方を混在させるからややこしくなるんだよ」とA君に言ったら「はい」と返事。「最初に私がは、上映30分前と開場10分前の違いは何ですか? と聞いたけど、あなたはそれぞれの説明をしようとした。そうじゃない。上映30分前と開場10分前は、同じことを言ってるんだよ。その同じことというのが分かっていれば、同じことです、と返事できたはずだ。でも、あなたはできなかった。同じことを言っていると、理解できていなかったからだ」てなことをくどくど言ってやった。 さて12時になってチケットの交換が始まろうとしていた。テーブルの前には、列。といっても6〜7人だけど。昨日は、テーブルに女性が2人座り、左が「3回券の交換」で右が「招待券等の交換」となっていた。僕が到着したときは列が1本だったけれど、どうもみんな招待券の交換をしている様子。しかも、左側の女性は所在なげ。なので、左の女性に3回券を差し出した。だって、彼女の横には「3回券の交換」と書かれた紙が立っていたから。交換はスムーズに進んだ。なので、本日も2列かなと思っていたら、そうでもなさそう。疑問に思ったので、テーブルの女性に「列は1列ですか2列ですか?」と聞いたら「3回券と招待券がなんたらかんだ・・・」と言い始めたので、そんなことはいい、「列は1列か2列かを聞いているんだ」といったら「1列です」という。ふーん。1列ね。で、本日は不思議なことに左側が「招待券等の交換」で右側が「3回券の交換」になっていたけれど、列に並んでいたひとはみな3回券だったようで、1列でも問題はなかったようだ。ここに招待券の人がやってきてうろうろしたら面白いことになったんだけど。残念。 | ||||
ラブソングができるまで | 11/26 | ギンレイホール | 監督/マーク・ローレンス | 脚本/マーク・ローレンス |
原題は“Music and Lyrics”。20年前にロックグループで売れたけれど、今じゃ遊園地やディナーパーティで糊口をしのぐ元スター(ヒュー・グラント)と、講師に捨てられた作詞の才能をもつ女(ドリュー・バリモア)のラブコメ。世間に捨てられた歌手と、男に使い捨てられた女が、再起するという設定がユニークで、フツーのラブコメ以上のデキになっている。オープニングとエンディングに流れる、かつてのビデオクリップも、昔を思わせるちゃちなつくりで、リアリティがある。 売り出し中の若手女性歌手から、ヒューに作曲依頼が来る。といっても6者コンペ。たまたま植物の水やりの仕事に来ていたドリューに作詞の才能を見出してコンビを組む、という流れ。ドリューは、捨てられた相手にトラウマがあって作詞が進まずドタバタ。ヒューは、なんとかおだてて書かせようとする。なんとかバラードっぽい曲が仕上がって(この曲って聞いたことがあると思うんだけど、この映画のためにつくられたのか? それとも、誰かのヒット曲? 聞いたことがあると思っているのは、空耳?)、コンペに勝利。がしかし、女性歌手は仏教に凝っていて妙なアレンジをされそうになるというのが、不思議にリアリティがあっておかしい。いまどきのポップ歌手にいそうだよな、この手のアジア&宗教かぶれを演じている連中って。ダライ・ラマを馬のラマと思っていた程度の知識で、ちょっと売れたからってエラソーなのも、ありそう。売れてるタレントと過去のタレントの格差、悲哀が滲み出ていてしみじみとしてしまうところかも。 ドリューは、単なるクソ真面目女的なところがあって、なんか扱いにくい感じ。だって、姉がかつてヒューの熱狂的ファンだったことを分かっていながらねさっさとヒューと寝てしまうし、寝たことを姉にしゃべっちゃうんだぜ。少しは秘密にしとけよ、と思うけどなあ。というわけで、ドリューの役柄はいまひとつ傑出していないのが残念。これまでのパターンを抜け出せていないと思う。 この姉を演じているのが、ERにでてきたもの知りで意地悪な看護婦役の大女なんだけど、亭主のいるところにヒューが訪ねていって、立場がないといった有様も効果的。 最後は、オリエンタルなアレンジもなくなって、女性歌手とヒューがデュエット。今後の活躍が期待される…という終わり方なんだけど、この売り出し方はどうなんだろ。ちょっと唐突すぎないか? ちょっととんがった若手女性歌手だぜ。40過ぎの元アイドル今オヤジとのコンビより、もっと効果的な売り出し方をするだろ、フツー。作曲家、として裏に回る、でも良かったような気がするんだけどね。それと、ドリューを振った講師は、ドリューをモデルにした原作での映画がぽしゃったというだけで、ちょっと復讐の度合いが弱すぎるような気がする。もうちょいお灸をすえてやりたい気分だね。 | ||||
イタリア的、恋愛マニュアル | 11/26 | ギンレイホール | 監督/ジョヴァンニ・ヴェロネージ | 脚本/ジョヴァンニ・ヴェロネージ、ウーゴ・キーティ |
原題は“Manuale d'amore”。4つのエピソードが連鎖しながらオムニバス風に描かれる。1つめは、若い2人の恋物語。といっても、貧乏な青年が女の子(ジャスミン・トリンカ。とても美しい)に一目惚れ。一方的にしつこくまとわりつき、電話番号を聞き出し、デートに誘い…と進み陥落させる物語。イタリアの男はみんなああなのか? と思うようなストーカーばりの押せ押せで美人が手に入っちゃう話なので、おいおい、という気分。始めのうち、青年があまりにしつこいので嫌悪感を覚える程だったけれど、最後の頃になるとほのぼのとした雰囲気になってくるから不思議。この青年の姉がレストラン経営の傍ら恋愛マニュアルCDのナレーターをしているという設定で、4つ目のエピソードとつながってくる。でも、いまどき、イタリアではスクーター生活が当たり前なの? という思いがある。30年ぐらい前と変わらないじゃないか! 2つめは、倦怠期を迎えた夫婦の話。友達はみな子供をもち、家族をつくっている。なのに、情熱の冷めてしまった2人。別れようか、どうしようか、という危うい感じがよく出ている。それにしても、亭主が駐車違反でレッカーされそうになったシーンで、警官に言い訳するシーンを見て、なるほどイタリアの男はみんなこんな感じなのかな、と思ってしまう程まくしたてるのがおかしい。 3つめは、そのレッカー移動を指示していた女性警官にまつわる話。さえない亭主を見るにつけ、同じアパートにすむテレビキャスターが格好良く見える。と思っていたら、何と亭主は子供の幼稚園の先生と不倫していた! 嫉妬に狂った女警官のもの凄いこと。亭主をボコボコにして出て行ってしまう。以後、違反した男たちに冷たくあたるのが、おかしい。なんか、ありそうな気がするし。何日かして酔っぱらったキャスターを街で見かけ、家に送っていったついでに寝てしまう…。寄った勢いってやつ? 彼女、ブスなんだけどね。で、上の階で不倫して階段を降りると自分の家があって、でもって、出てきた亭主に「許す」と言うのだからもの凄い。イタリアの女というのは、こういうものなのか! 4つめは、女性警官に因縁をつけられた二列駐車の小児科医の物語。医師は、9年間つれそった女房に逃げられてしまった。思い当たるふしもないのに、出て行ってしまったのだ。帰ってきて欲しいと思っているんだけど、連絡もつかない…という有様。そこで、書店へ行って恋愛マニュアルのCDを買うわけだ。で、ちょっと看護婦に色目を使ったら、逆にナンパされてしまうというもの凄さ。亭主がいながら男漁りも欠かさない? そういえば、イタリアの男は85%が、女は65%が浮気している、とか(数字は曖昧)いうセリフもあったねえ。結婚してからも、浮気の虫がやまない国民なのかしら。で、いざやるぞ、というとき看護婦の亭主が戻ってきて…というのが、定番だけど笑わせる。不運を嘆くように海岸へ行き、レストランに入ると、これが1つめのエピソードの店で、青年の姉と小児科医がいい気分になっていきそうなところで終わる。 それにしても楽天的というか。結婚しても異性には目がない国民なのか。1つめのエピソードのカップルも、3年ぐらいしたら、浮気したしないでもめるのだろうかね。浮気に寛容かというと、そうでもあり、そうでもなさそうでもあり、よく分からない。配偶者には浮気して欲しくないけれど、自分はしたい、と思っているのかな。アメリカ映画みたいに皮肉や悲しい終わり方がなくて、みんなそこそこパートナーを維持、または、見つけるのがイタリア映画らしいというべきか。それにしても、イタリア語はうるさい! | ||||
ナンバー23 | 11/23 | 上野東急2 | 監督/ジョエル・シューマカー | 脚本/ファーンリー・フィリップス |
原題は“The Number 23”。なかなか面白くならないので眠くなってきて、始まって30分ぐらいからうとうと。気がついたら四角い段ボール箱を23個、私書箱に送りつけるところだった。以後の展開を見ていて、あー、これは犯人(本の書き手)はジム・キャリー本人で吉外(映画では記憶喪失)なのだな、と分かってしまった。最近のハリウッドって、この手の、犯人は実は本人で吉外(ビョーキ)、というパターンが多いよなあ。推理させる、考えさせるというより意外性で驚かそうというのか。でも、こう乱造されると、またか、という気がしてしまって興ざめだ。 作り方が何だか「エターナル・サンシャイン」(この映画でも寝た)っぽいところがあって、核心の周辺をうろうろしている。犬だとか墓場だとかパーティだとか、最初の方の描写は意味があるのか? そんなわけで前半に引きが足りず、物語に入っていけず。なにをぐたぐたやってるんだ! という感じかな。それで寝てしまったのだ。もっとフツーに具体的なドラマの方が話に入れたのではないのかなあ。 23にこだわるというのも、ちょっと強引。足したり引いたりひっくり返したり、こじつけで23にしている。アホか、と思ってしまう。だから、23に取り付かれた連中に真実みがない。見る前は、歴史+オカルト的な内容かと思っていたのだけれど、ぜーんぜん内容は違っていて、あらま。 妻が古書店で本をみつけるのは、偶然? それとも、意図的なのか? なんか、なるほど、とストンと落ちない。で、後半でネタバラシがあるんだけど、これが延々と丁寧に説明してくれる。この辺りは、ハリウッドの親切さなのかな? 親切すぎて、ちょっとうっとーしかった。ラストはフツー過ぎてつまらなかった。しかし、寝ている間の情報があると、腑に落ちる終わり方をしている、と思えるようになるのかな? |