2007年12月

てれすこ12/1MOVIX亀有 シアター2監督/平山秀幸脚本/安倍照雄
とても退屈だった。弥次喜多というより、落語ネタをテキトーにくっつけた感じ。しかも、その落語ネタが生ででてくる。あまり加工していない。この映画にはストーリーらしいものはなく、ほとんどがエピソードの積み重ね。なので、物語に落語ネタを上手く埋め込む、ということができなかったのかも知れない。しかし、そんなことをするくらいなら、原作の弥次喜多にもっと依存するとか、新たなストーリーをちゃんとつくるとか、そういうことをしてから落語ネタを利用して欲しいものだ。現状では、どーみても、それはないだろう、というような落語ネタの大盤振る舞いにしか見えない。
2人の登場人物が“弥次さん喜多さん”を名乗る根拠は、ほとんどない。お伊勢参りをするわけじゃない。ただ、凸凹コンビというだけだ。これじゃ、詐称だろう。「真夜中の弥次さん喜多さん」のほうが、よっぽど原作に忠実だ。
脚本なのか演出なのか、通ぶって小難しい言葉をそのまま使っている。りゃんこ(二本差し=侍)、お茶をひく(指命のない花魁)、損料、起請文、玉(ぎょく)、しんこの指…なんて、知識のない人にはさっぱり分からないだろう。想像できる文脈での使い方もしていない。アホである。
1時間を過ぎたあたりから、話がぜんぜん転がっていかないので、眠くなり出した。なんとか寝なかったけれど、これが昼食後だったら危なかったなあ。
“てれすこ”は、そのまま「てれすこ」だ。お茶を涙の代わりにする→「お見立て」の前半部分。甘納豆→「明烏」。将棋で王様を取られている→「浮世床」。骨を釣る、骨に酒をかける→「野ざらし」。男たちを坊主にする→「大山詣り」。狸と博打→「狸賽」。起請文→「三枚起請」。芝居の下りは「淀五郎」を連想させる。それから、指の話は芝全交の黄表紙「大悲千禄本」を思わせる。ほとんど話はパクリだ。
柳家三三がでていた。「しゃべれどもしゃべれども」にもでていたけれど、ここんとこ映画゛いているね。この映画ではちゃんとしたセリフもたくさんあったぞ。
ディセンバー・ボーイズ12/3池袋東急監督/ロッド・ハーディ脚本/マーク・ローゼンバーグ
オーストラリア映画。原題も“December Boys”で、12月生まれの少年たち、という意味らしい。いろんな部分に既視感を覚える。「去年の夏」「思い出の夏」「サイダーハウス・ルール」「マレーナ」・・・。他にも、もっとあるんじゃないのかな、類似の話は。
夏休みに少年4人が海辺の家に行き、人の死(に近いもの)や女を知る、という定番の話。その少年4人は孤児で、養護院(教会)から送り出された。毎月、その月生まれの少年たちがホームステイという形で、信者の家に宿泊する。アメリカ映画ではなく、オーストラリアというお国柄があるのかな。テンポがのろい。ハリウッドなら省略するだろう部分がだらだらとつづいたり、カット割りなんかも丁寧すぎるような印象。個人的には、もうちょっとテンポ良くした方がメリハリが出るのではないかと思う。けれど、その手垢の付いていない素朴な演出方法のせいで、かえって心に残る出来上がりになっているようにも思う。
主人公の1人に、ハリポタのダニエル・ラドクリフ。他の3人が10〜13歳ぐらいなのに、彼だけ青年に近い年齢。18歳になると養護院を出ると言っていたから、17歳ぐらいの設定かも。ちょっと中途半端な年齢で違和感あり。浜辺には、夏休みを過ごしている少女がいて、ラドクリフに迫って童貞を奪う。こんな体験ができたらなあ、と世界中の男たちが願うような設定だ。でも、こんなことはありっこないけどね。それに、冷静に考えれば、この女の子は男あさりばかりしているズベ公ってことになるもんなあ。でも、映画の中では、ひと夏の美しい経験、に近い描き方だけどね。
あの海岸の家は、避暑地用の家なんだろうなあ。4人を受け入れたのは、おそらく海軍の退役軍人と、その妻。妻には乳がんの手術痕がある。隣には、サーカスのバイク乗り夫婦。この夫婦に子供がいなくて、少年たちは養子にもらわれようと健気な努力をする。髪をなでつけたり、お世辞を重ねたり。そのいじらしいところが、ちょっと哀しい。他に、無口な老漁師。管理人みたいな男(少女は、この男の姪らしい)。それから、牧師が登場する。こうした人々も、あまり深く描かれないのだけれど、それもちょうどいい感じ。この映画の、素朴で舌足らずな感じに合っていると思う。
画面には、物語を補完=象徴するような小道具、風景、要素が登場する。ステイ先の主人がクリスマスプレゼントにくれるジャイロ独楽。これは、将来の安定、自律を示唆しているのかも。海の主の大魚。これは「老人と海」を思わせる関係だけれど、老人は大魚を釣ろうとはせず、慈しんでいる。しかも、入江にしか船を出さない。少年の1人は、自分が一人前であることを証明しようと、大魚に挑む。しかし、糸を切られ、逃げられてしまう。その直後、大魚は浜辺に打ち上げられているのが見つかる・・・。これは、何を意味しているのだろう? 誰にも飼われていないような馬も出てくる。自由に生き、海の中にもどんどん入っていく。浜の上にある、波に削られた奇岩。これは、異変が起こることの予兆か? そして、洞窟・・・。洞窟は、まあ、そこでラドクリフと少女が結ばれるのだから、女陰そのものと言えば言えるけどね。とか、映画を読むことを要求するようなつくりも、そういう映画が少ない時代にあって、ちょっと面白かった。
ミッドナイト イーグル12/7新宿ミラノ1監督/成島出脚本/長谷川康夫、飯田健三郎
ひどい出来だ。映画の呈を成していない。冒頭のエピソードから見え透いていて空虚。その後の展開は、ド下手の一語。観客の興味を引っ張るような演出もテクニックもなく、だらだら、ばらばらと要素が撒き散らかされるだけ。一本芯が通っていない流れで、いったい何を見せようとしているのか、何を言おうとしているのかも、曖昧模糊。事実が分かってからも(というか、途中でだいたい分かってしまうんだけど)、スリルもサスペンスもない。驚きもない。核弾頭の起爆装置を切る瞬間でさえ、だらーんとしている。もちろん、人間なんかは全然描かれていない。撮影したフィルムを、気の利いた編集者がつなぎ直したら、もうちょっとマシな映画に仕上がるかも知れない。それぐらいひどい。映画の呈を成しているか否かの部分でこれだから、内容もひどい。自衛隊全面協力も、まーったく意味がない。
雪山で、自衛隊員や工作員が白の迷彩服なのに、主人公たち(大沢たかお、玉木宏)は赤や緑の防寒服のまま。それで、弾に当たらないのはなぜだ! 北朝鮮かららしい工作員が完全武装の白い迷彩服で50人から冬山にいるのは、どーしてだ! どっから潜入してきていたのだ! 横田基地に潜入した工作員を、雑誌記者(竹内結子)が簡単に発見してしまうのは、どーして? その工作員が自殺のために使った手榴弾はどこから手に入れた? 無線機のバッテリーを気にしつつ、CCDカメラのスイッチが入るとバッテリーを気にしないで話しはじめるのは、なぜだ? 編集長(石黒賢)が公安警察とつながっているのは、どーしてだ? 起爆装置を切るための設定し直したパスワードを、ICチップに入れるって、そんなのありかよ!? パスワードなんか保存しないだろ、フツー。しかも、チップに直になんて! とかもう、突っ込み所だらけ。こんなひどい映画は久しぶりに見た。退屈で退屈で、目が腐りそうになった。
監督の成島出は「フライ,ダディ,フライ」の人。脚本の長谷川康夫は「地下鉄に乗って」の人。そんなに酷い映画を撮る人ではないと思うのだけど・・・。なぜ? データを見ると、編集がウィリアム・アンダーソンとなっている。ん? この映画がユニバーサル制作なのと関係があるのかな。監督や脚本の意図とは別に、ずたずたにされてしまったのか? うーむ。よく分からないが、映画をよく知らない人たちが、あれこれ口出しをして悪くしていってしまった可能性は、あるかも。
サイドカーに犬12/10ギンレイホール監督/根岸吉太郎脚本/田中晶子、真辺克彦
ところどころ面白いんだけど、全体的には、ちょっとトーンが弱め。それでも、ちゃんとトーンはもっている。クレジットを見て根岸吉太郎の監督だと分かり、おお、根岸もまだまだ若い感覚をもっているのだなあ、と思った。
両親が不仲で、母親が家出。残されたのは、幼い姉と弟。父親(古田新太)が愛人(竹内結子)を家に連れてきて、食事を作らせた。姉の方は、年の近い愛人になついてしまう・・・。その、20年前のことを、30歳になった“姉(ミムラ)”が回想している、という設定。
犬がいいか、飼い主がいいか、という設問がでてきた。愛人が弟に聞いた言葉だ。犬は、人の言うことを聞くような生き方。飼い主は、人に命令するような生き方だ。どっちかを選択せよと言うのだけれど、誰の言うことも聞かない猫という選択もあってしかるべきではないかと思った。ま、この映画の場合は大人=飼い主、子供=犬で、主体性をもたない子供はサイドカーに乗せられて移動させられる、ということを示しているのだろう。その辺りの駆け引きは、実を言うとあまり面白くない。むしろ面白いのは、盗難車を売りさばいている父親やその友達たち。几帳面で病的な、家出した母親。伊豆で出会った親子(樹木希林と温水洋一)。マンションを見に来た客。釣り堀のおやじ。父親のヤクザな友達たち。・・・だったりするのだけれど、そうした周辺の人々のことは、それほど密度が高くは語られない。愛人の実体も、実をいうとあまり具体的には描かれない。それだけに、この人たちは一体どういう人なのか、とても気になったりする。弟が結婚するので、父親と母親が招待されるらしいが、離婚した2人はその後、どういう生活をしたのか、とても気になる。愛人は、いったいどういう人物だったのか。その後、父親と一度でも一緒になったのだろうか? すべて語られないところに、ちょっと惹かれる。
樹木希林の歩き方は、奇っ怪なぐらいおかしい。父親つくった偽コインも、笑える。そういう小ネタはいくつかあるんだけど、ちょっと散発気味。もうちょいパワーがあったらなあ。幼い姉を演じた少女が、抜群に上手い。そこいらにいるフツーの子供をフツーに演じているのだよ。ちょっと驚いた。
眉山 -びざん-12/10ギンレイホール監督/犬童一心脚本/山室有紀子
古臭い。いまどき、こんな映画に感動する人がいるんだろうか。母親(宮本信子)は、かつて妻子ある男(夏八木勲)を愛した。そして生まれた娘(松嶋菜々子)。いま、母は末期がんで逝こうとしている・・・という話。舞台は徳島、阿波踊り。さらに、検体という美談をもってくる。あーやだやだ。話の仕立て方がミエミエではないか。
エンドクレジットを見たら、原作がさだまさし、監督が犬童一心となっていた。そういえば、さだ原作の「解夏」も悟ったような内容の話で、大沢たかおがでていたっけなあ。
こういう、傍から見たら可哀想な境遇。でも、当人たちはそんな風には思っていない。という設定は、おばさん連中の涙を誘うのだろうか。「かわいそうにねえ。たいへんねえ」なんて一瞬思っても、映画館をでればすっかり忘れてしまうに違いない。
松嶋菜々子は、ぶさいくだと思う。顔は扁平だし、鼻はつり上がっている。頬もでている。下ぶくれだ。すらりとしているけれど、出ているところが出ていないから、針金のよう。しかも、胴長だ。ちっとも魅力的じゃない。
そして、いつも大沢たかおは気のいい男で登場する。おい。悪意のある連中をちょっとは出したらどうなんだ。世の中は、善意の人だけではないと思うぞ。
徳島や阿波踊りには意味はない。クライマックスを盛り上げたかっただけだろう(「風の恋盆歌」と同じ様なものじゃないかね)。その証拠に、タイトルにもなっている眉山の意味は、どこにも出てこない。たんに故郷の山、というだけ。で。故郷といえば、この徳島が故郷なのは、いったい誰なんだ? 過去を思わせるイメージで、妻子ある男が「僕の故郷」と言っていたような気がするんだけど、現在住んでいるのは宮本と松嶋。それに、宮本の弟も居酒屋を経営して住んでいる。じゃあ、宮本たちの故郷が徳島なのか? では、あの宮本の江戸べらんめえ口調はなんなんだ? よく分からんなあ。
気っぷのいい女として描かれる宮本信子だけれど、医者や看護婦に啖呵を切ったり、ちょっとクサイ。で、この気丈な女が献体を申し込んでいる、という社会貢献を背景にしているのだけれど、これなんか情報が生ででてきいいるので、とてもわざとらしい。そんなの教育映画でやってくれ、だ。
阿波踊りの最中、松嶋は父が来ているか、探しに出る。戻ってきたとき、観客席に現れた父を認める・・・。って、偶然にしてはできすぎ。そんなに上手く視界にはいるはずがない。さらに、踊り方を挟んだ向こう側なので、松嶋は踊り手の流れを突っ切っていき、ちょうど道の真ん中でつつたったままになるのだよ。そんなの、警備員がきて排除されるだろ、そんなの。なのに、延々と踊り方の中にいて、泣いたりしているのだ。変だろ、それって。
ダーウィン・アワード12/14シネセゾン渋谷監督/フィン・タイラー脚本/フィン・タイラー
ダーウィン賞というのは、ほんとうにあるらしい。最初の方で紹介されるエピソードは、その実例なのだろう。バカと言うより、無謀といった方がいいかも知れない。むしろ、真面目すぎるというか、疑いを知らない連中のような気もする。
主人公(ジョセフ・ファインズ)は、元警察のプロファイラー。才能はあるけれど、血を見ると失神するせいで、殺人現場もまともに見られない。おまけに、連続殺人犯を取り逃がしてしまう。で、クビ。なので彼は、保険会社に自分を売り込みに行く。彼はダーウィン賞に選ばれるほどバカな死に方をしたした連中に興味をもっていて、データもある。で、そういうバカな死に方をした連中に保険金を払うのはバカげている。死因を証明すれば、保険金を払わなくて良くなる、というわけだ。で、3週間(だったかな)、試用期間を与えられるというわけだ。彼が組むことになったのが、女性の調査員(ウィノナ・ライダー)。凸凹コンビで、事件の真相を暴いていく・・・という話。
自販機の下敷きになる男。投げたダイナマイトを、犬が拾って戻ってくる話。トレーラーを自動運転にし、亭主のフェラチオしていた奥さん。クルマにジェットエンジンを積んだ男。メガデスのコンサートに潜入しようとして崖から落ちた男。それそれにハッとするシーンもあって、ゾクッとする。たとえば、歯科治療中にトレーラーが激突してきて、口の中をずたずたにされるシーンなんか、たまらなくゾクッとする。でも、笑える。不思議な気持ちになるね。
バカげたことをしたら、保険金が支払われなくなるの? という根本的な疑問はあるが、まあ、それはいいとしよう。事件のケースはいろいろだけれど、思わず笑ってしまうものもあって、楽しい。あまり真剣に突っ込みを入れなければ、充分に楽しめる。ちょっと軽すぎる嫌いはあるけれどね。
ウィノナ・ライダー。名前は知っていたけれど、顔が結びついていなかった人。この映画で、やっと認識できた。とても可愛い。可愛い人が、おっちょこちょい的な役を演ずるから、また可愛い。ジョセフ・ファインズは、ちょっと考えすぎのプロファイラーに似合っていた。二枚目だから、その変人ぶりにリアリティもある。とくに、石鹸で滑って転んで死ぬのを回避するため、工夫して浴槽に入るところは、バカげていておかしい。過剰なバカバカしさは、保険会社の調査員も同じだ、ということだね。彼は、ホテルの受付やレストランのレジの女性に、必ず色目を使う。まあ、女性として値踏みしているのか、それとも職業柄から読んでしまうのか分からないけれど、一緒に行動するウィノナには関心を示さず、知性のある女性ではなく、品のない田舎娘に興味をもつ、という設定が興味深い。男としての自信のなさ、なのかも。これぐらいの女なら、相手にしてもらえる、とでも思っているのだろうか。彼の臆病さ、おくてさ、オタクさを表しているのかも知れない。
彼が、たまたま近くを歩いていた連続殺人犯を見つけてしまう、というエピソードはあまりにも唐突。もうちょっと現実味がないと、単なる妄想のように見えてしまいかねない。で、ラストではその犯人をつかまえるのだけれど、その成果がそれほど大きなものに感じられなくなっているのも、そのせいかも。
映画は、警察のプロファイラー(ジョセフ)にドキュメンタリー映画作家が24時間つきそうというスタイルを取っている。プロファイラーが、分析される、という設定は、この映画の構造を、より理解しやすくしていると思う。
恋とスフレと娘とわたし12/17ギンレイホール監督/マイケル・レーマン脚本/カレン・リー・ホプキンス、ジェシー・ネルソン
原題は“Because I Said So”。子離れできないバカ母と、セックスのことしか頭にない3姉妹。いや、セックスのことで頭がいっぱいなのは、母親も同じだった・・・。てな内容で、どっちかっていうと、バカ映画に近い。ダイアン・キートンなので、ちょっとは知性的&ハートウォーミング? と思っていたら、大違いだった。
上の2人は送り出した。末娘(マンディ・ムーア)の行く末が心配・・・というわけで、インターネットの出会い系でつき合う相手を探してやるバカ母。男をとっかえひっかえしつつ、本命に出会えない末娘。というと、ソフトな感じがするかも知れないけど、母親ダイアンは、上の2人とも末娘ともべったり。ファッションからセックスのことまで、あけすけに話したりしている。こんな母親も、アメリカにはいるのかね。成人した子供は、さっさと外に出す、とは限らないのだね。自分の子供だけはちゃんとした家庭を築いて欲しい、と願うのはいずこも同じということか。たとえ、娘が男とやり放題でも・・・。
マンディの設定も変といえば、変。ずぼらでおっちょこちょいで、笑うと鼻を鳴らすし、いいところがない。彼氏を友達にとられたり、それ程魅力的な存在には描かれていない。なのだけれど、母親が選んだ神経質な建築家は、マンディにぞっこんになる。もうひとり、母親が「あんたはダメ」と拒否したギター弾きも、マンディに夢中になってしまう。いったいマンディはもてるのかもてないのか、はっきりしてくれい!
で、マンディは両方とつき合い、セックスしまくりという、おいおい、そんなんでいいのかよ状態だ。建築家ともつき合っているのがギター弾きにバレると、言い訳をする。さらに、建築家のことは「母親がインターネットで選んだから」と途端に拒否する。物語に一貫性もなければ説得力もない。脚本家は「グッドナイト・ムーン」や「I am Sam アイ・アム・サム」の女性たちらしいが、それに比べると格段に質が落ちる。っていうか、あまりにもいい加減すぎる。こんなふしだらな女に、子離れできない母親に、だれが共感するものか!
「ウォーク・トゥ・リメンバー」から5年。マンディ・ムーアは確実に肉体が逞しくなっている。顔つきも、アゴが張っていかつくなった。あの、清楚とした初々しさはいまいずこ、だな。
アイ・アム・レジェンド12/17上野東急監督/フランシス・ローレンス脚本/マーク・プロトセヴィッチ、アキヴァ・ゴールズマン
なんかなあ。またかよ、という展開。アメリカ人は、こういう地底人のような存在というのが好きなのかな。というか、悪役に設定すると観客は驚くと思っているのかね。人類が滅亡した後は善人と悪人に分かれる、というのはキリスト教的なんだろうね。悪魔=デビルなんかの存在と、どっかでつながっているのかもしれない。しかも、得体が知れないものではなく、この映画のように実体が搭乗しないと怖がらないのだね。で、その凶暴化した人間だけれど、ウィルスに冒されて日光に当たれなくなり、人間性を失う・・・という設定はいつも同じ。「ディセント」なんていうのもあったけれど、敵に関してはほとんど類似だ。
ガンの特効薬が狂犬病を発生させることになり、そのウィルスが人間にも伝染し、人類滅亡、というような話らしい。人間ドラマを描くというより、話の骨格だけを残し、ほとんどホラー状態なので、ドラマの厚みはない。ストーリー展開も一本調子で、ひねりがなさすぎ。敵の連中に、人間性が残っているとか、どういう生活をしているかとか、そういう哀れみや情感の発生する余地もない。非人間的になってしまった異種としか描かれない。こういうところが、ちょっと冷徹。もうちょっと、動物化してしまった連中にも、人間性のかけらぐらいは残っている、というような描写があってもいいんじゃなかろうか。
たとえば、主人公が最近生け捕りにしたのは女で、敵のボスみたいなのが猛烈に反逆してくる。これは、生け捕ったのがボスの女房だった、ということではないのかな? 言及されていないけれど、そんな風に見えた。それから、そのボスが知恵を使って主人公を逆さづりにしてしまうのだけれど、凶暴化しても知性は残っているということだ。そのあたりで、心を通わせる可能性ぐらい、残しておいてもいいんじゃなかろうかしら。
中盤から、ブラジル人らしい母子が合流する。某所に生存者の村があるから、というのに、主人公は聞き入れない。このあたり、説得力がないよね。一緒に行けよ、と思ってしまう。なんとしても治療薬を見つけたいから、というのなら、そう描くべきだ。
それにしても思うこと。人類がいなくなったのに、なぜ電気が使えるのだ? 敵は、なぜ人間の肉しか食べなくなってしまったのだ?
予告編から、北村薫の「ターン」のような展開になるのかな? と思っていたのだけれど、そうはならなかった。ま、そうだよな。ウィル・スミスだもん、アクションだよなあ。
エンジェル12/21新宿武蔵野館1監督/フランソワ・オゾン脚本/フランソワ・オゾン
冒頭で監督名が出た。おお。オゾンか。って、何の監督だっけ? アバウトにしか覚えていない俺。ま、いいか。でも、フランス人だよな。予告編は見ていたんだけど、アバウトに見ていたせいか記憶に入っていなかった。で、小説家を志す純真な娘の情熱的な恋物語、その成功譚なのかと思って見ていると、あらま、かなり違うぞ。主人公のエンジェル(ロモーラ・ガライ)は、負けず嫌い+他者を見下す傲慢不遜な娘で、自分が片田舎の雑貨屋の娘であることを恥じ、本当は高貴なところの生まれ…と信じ込むファミリー・ロマンスなバカ娘でもあった。そのうち挫折を味わって、真実の愛に目覚めるのかな、と思っていたら、なんと、あれよあれよで処女作が出版され、2作3作と大成功。あっと言う間に流行作家として大成功してしまう。ここまで20分ぐらいしかかかっていない。ってーことは、これから挫折を味わって、そして、真実の愛に目覚めるのか、と思っていたら大違い。幼い頃から憧れていた豪邸(パラダイスという名前には笑ってしまう)を買い取り、自分を慕う誌も書く年上の女性ノラ(ルーシー・ラッセル)を秘書に雇い、売れない画家エスメ(マイケル・ファスベンダー)に一方的に恋をして結婚を申し込んでしまう! 何という展開! しかも、せっせとベッドの中でも原稿を書き続ける。何でも思い通りになるとしか思ってないのか、この女は! という、とんでもなく嫌な女の成功話+傲慢さを延々と描いていく。こうなると、今度は「どういう堕ち方をさせるのか?」というのが興味の的なんだけれど、傲慢さにも係わらず、依然としてノラは献身的に支えるし、出版社の社長(サム・ニール)は暖かく見守る。子供のときから「何を考えているんだか」といいつづけてきた母親も、豪邸に住まう。母の見方をしていた叔母は、成功した姪に会わせる顔がないと、寄りつかない。うーむ。誰かに嫌われたり、大失敗したりしないのか! と思っていた頃にやっと少し陰りが見えてくる。第一次大戦が始まり、エスメは志願する。それに怒り狂うエンジェル。戦争なんて! というのは平和主義からじゃなくて、夫を奪われたから。それだけの話。その憤りが作品にも反映され、平和主義を持ち込んでさっぱり売れなくなる。召使いも愛想を尽かして出て行く。…というぐらいの描写で、経済的に破綻するわけでもない。華やかさは失ったけれど、それは自分を曲げたりしたからじゃない。自分を貫き通し、処女作のときからそうだけれど、誰のアドバイスも聞かないし、取材もしない、すべて自分の頭の中で構築して紡ぎ出す、ということを貫徹したからだ。こんな我が儘で、成功するか?だけど、映画ではちゃんと成功して、読者もつくし、ノラにも社長にも愛されるのだよなあ。そんなのあり得ないだろう、という設定が、凄い。
母が死に、夫が自殺する。夫に別の女がいたことを知り、エンジェルは自分を失う。精神を病んで、最後は廃人のようになって死ぬ。せいぜい40数歳というところかな。しかし、最後までノラは尽くした。社長は、妻に「エンジェルを愛していたでしょ」と言われる。田舎者で常識を知らず傲慢で自信家。なのに人から愛された女性だった。しかし、自分を本当に愛している人たちの眼差しに気がつくことなく、エスメとの空虚な愛を信じ込み、自分で自分の首を絞めるように破滅していったエンジェル。うーむ。なんか、面白い。
人間関係の構図が面白い。出版社の社長は、16歳の小娘の傲慢さに惚れてしまう。作家として以上に、女としての魅力に惹かれていく。もっとも、妻以外には悟られなかったようだけど。でも、社長の直感は「この娘は大衆に受ける本が書ける」という直感でもあったわけだ。むろん、ハーレクインのようなくだらない恋愛小説だとしても、だ。自分でも詩を書くノラは、ひと目会ってエンジェルに恋をする。それは、同性愛的な恋だ。年上なのにエンジェルを慕い、陰となって支えつづける。この2人の愛に、エンジェルは気づくことがない。気づくほど他人に対して繊細な女ではないのだけれどね。でも、愛される人って、案外とそういうものではないのかな。そして、愛するということは、そういうもの。その行き違いの儚さと空しさが象徴されているような気がする。
ノラはイプセン「人形の家」の主人公の名前だ。新しい女の象徴。彼女が同性愛者であるのと、無縁ではないだろう。ノラの叔父は貴族だ。ノラの両親も貴族かも知れない。その彼女が、田舎者の秘書になる。すでに19世紀の終盤から20世紀にかけて、もう貴族だからといって贅沢がで切るような時代ではなかったんだろう。この映画で本当に監督が本当に描きたかったのは、ノラなのかも知れない。ノラを主人公とする視点で映画を見ていくと、なかなか面白い話になるのではないだろうか。
弟のエスメが仕事に就かず画家を志したのも、貴族にできるのはその程度、と思ってのことかも知れない。結局できたのは、スケコマシと博打だけだった。そんな暗い背景が、エスメに色彩のない灰色の絵ばかりを描かせたのだろう。絵画が肖像画の時代は終わり、心象風景を描く時代になっていた、ということだ。しかし、エコール・ド・パリには早すぎた。エスメは売れないままの人生を送る。エンジェルはエスメをパラダイスに住まわせ、バカみたいなアトリエを提供する。そんなところで絵が描けるはずがないような日当たりの良いところを…。勘違い女エンジェルは、他人の心理も、芸術家の心も読めないというわけだ。
一方のエンジェルが生み出したのは、時代が求めた流行小説。その時代に爆発的に売れて収入は得たけれど、時が過ぎると忘れ去られていく。時代のあだ花だ。その対比が凝らされている。
貧乏な田舎者エンジェルは、過去を消そうとする。虚構のプロフィールをつくりだし、現実の生活も過剰な程に飾り立てる。パラダイスという、お世辞にも上品といえない名の豪邸を手に入れ、犬や猫をたくさん飼い、大勢の召使いに傅かれる生活を実行するのは、下品そのものだ。しかし、成り上がりはその出自を隠せない。どうやったったって氏素性は透けて見える、ということだろう。エスメが描いたエンジェルの肖像画に、すでにそれは現れていた。でも、エスメが描いた見にくい肖像画にも、エンジェルは気がつかない。エスメの気持ちも理解できず、皮肉も感じ取れない。傲慢な人というのは、そういうものなんだろう。迷惑をまき散らす馬鹿者はこういう死に方をする、という監督のメッセージかも知れない。
エスメには、思う人がいた。最後に分かるのだけれど、彼女はパラダイスの元の住人(彼女の没落も、貴族の没落のひとつなのだろう)で、エスメの幼なじみ。貴婦人をだまして自堕落な生活を送っていたエスメにも、本当に心を通わせていた女性がいた、ということだ。その、愛人がエスメを捨てて結婚したことを知ると、エスメは首をつってしまう。エンジェルも、金目当てでつき合ってもらっていただけの話なのだ。所詮、貧乏人には分からない世界。没落貴族同士の恋の方が、深かったってことだね。
もし、エスメと愛人を主人公にして物語をつくったら、美しくも哀しい悲恋になったはず。でも、物語は、色男の餌食にされるバカ成金女を主人公にした。そこが、この映画の面白さではないかと思う。
この映画、最新技術が発達している現在にしては、とてもチープな映像がいくつかでてくる。社長とエンジェルがロンドンを馬車で走るシーン。エンジェルとエスメが新婚旅行で世界各地を旅行するシーン。ここに、安っぽい合成(昔でいうスクリーンプロセス)が使われている。まるでエンジェルの感じている世界は書き割りで、嘘っぱちで、絵はがきみたいなシロモノだ、とでもいうように。これも、監督の意図ではないかと思う。
スマイル 聖夜の奇跡12/25新宿武蔵野館3監督/陣内孝則陣内孝則、金子茂樹
「シムソンズ」の二番煎じみたいな映画なんだろう、と思っていた。80%は当たっていた。予告編に病気の少女が出てきていたので、その手のお涙頂戴も盛り込んでいるのだろう、と思っていた。90%は当たっていた。ケチをつける部分は、かなり多い。オリジナリティがないとか、どこかで見たような話だとか、いくらでも足は引っ張れる。のだけれど、そういった類の映画は世の中にごまんとある。そのごまんとある中では、かなり上位に入るのではないだろうか。デキはそんなに悪くないと思う。
意外とたくさんのギャグが埋め込まれている。面白いのもあるんだけど、どーもタイミングが悪いというか、間を外しているようなもの、見せ方が悪くて笑えないものなんかも随分あった。もうちょっと工夫が必要だろう。
注文をつけるとすれば、もっと人に焦点を当てて欲しかったということだな。チームのメンバーの設定もいろいろ考えている割に、描けていない。あともうちょっと描き込めば、さらに魅力的な映画に仕上がったに違いない。通り一遍の、言葉による説明だけでは、やっぱり人間は描けないのだよ。というと、尺が長くなってしまう…なんて言われそうだけれど、尺の問題ではない。ホンの問題だ。
それにしても、メンバーの設定にフツーがほとんどいないというのは、奇を衒いすぎではないかな。孤児、父子家庭、妹が下半身不随、ロシア人、元相撲部…。こういうのを強調するのではなく、もっとさらりと、押しつけがましくない設定を考慮してもらいたいものだ。
女の子の病気がまたしても白血病というのは…やめて欲しかった。薄幸の娘というと定番の白血病。ほんとうの白血病の人にとって、不治の病を印象づけるだけで、どーもなあ…。それに、ヒロインが死ぬ必要性はどこにある? 骨髄移植で生還! でもいいじゃないか。殺せば泣くだろうという安易な考えがあるのではないだろうか。
森山未來は全然ハンサムではないので、好きではない。目が嫌い。それと、加藤ローサとは東京に居る時分に同棲していた、という設定はどーもねえ…。だったら結婚するのもおかしくはないだろうし、第一、加藤も森山が好きなら駆け落ちでもなんでもすればいい、ということになってしまう。なんとしても試合に勝たなくては、という切迫感がちと足りない。
タップで指示、というのは、あまり活かされていないのね。むしろ、テキトーに考案した作戦の方が、面白いではないか。ちょっと「少林サッカー」みたいで。というわけで、アイスホッケーのシーンのいくつかは、迫力があった。弱小チームがどんどん勝ち進んでいくご都合主義は、まあ、ご愛敬。でも、最初の方の試合シーンは、長すぎるだけ。それに、アップがないから、どれが誰だか分からない。リアリズムや臨場感も大切かも知れないが、役者を見せるのも大事だよ。
決勝戦の応援団。その面々に厚みがないのは、やっぱり人を描いてないからだろうなあ。もったいない。
厨房で逢いましょう12/29ギンレイホール監督/ミヒャエル・ホーフマン脚本/ミヒャエル・ホーフマン
原題は“Eden”で、主人公の女性の名前。ドイツ/スイス映画。楽園のような味わいを創り出す料理人グレゴアがいる。独身。でぶ。店はテーブル3席でずっと先まで予約でいっぱい・・・。料理以外に興味なし。たまたま知り合ったのが、レストランで給仕をしている女性エデン。店は亭主と亭主の父親のもの。幼い娘がいる。では、甘いロマンスかというと、そうではない。前半はミステリアスで妖しく、得体が知れない展開となる。グレゴアのつくる料理の味を知ったエデンは、娘を連れて夜な夜な日参して残り物や非完成品の料理を食べたがる。この過程は、フツーに考えればかなり異常。何か思惑があるのか? エデンはグレゴアに弟子入りして、グレゴアの店で働くようになるのかな? がしかし、そうはならない。断られても、嫌われても押しかけて、何でもいいから食べさせてくれ、と迫る。この異常な怪しさはかなりスリリング。男なら、女の気に入るようなことをして・・・と思うはずだけど、グレゴアはそういうことはしない。女に興味がないみたいにも見える。レストランで女給仕を観察しているのだから、興味はあるのかも知れないけれど、とくに変態というわけでもなさそう。はっきりとは分からない。エデンの目的は? グレゴアの思い/感情は?
というのが前半。ここまではかなりよかった。ところが、この後どんどんフツーになっていく。亭主は、エデンが浮気をしていると勘違いする。さらに、エデンが妊娠すると錯乱し、グレゴアの資産であるワインを破壊してしまう。挙げ句、グレゴアは破産。店をたたむことになってしまう・・・。おいおい。こんな下世話な話になっていくなんて。ちょっとよしてくれよ。といいつつも、前半の緊張感はどんどん薄れていく。ちょっと失望した。
どうもエデンは、口唇的なエロスを感じる質のようで、美味しいモノを食べながら亭主とセックスしたい、という欲望を達成するためにグレゴアの所にやってきていたようだ。だから、グレゴアの所で食事をした後は、亭主と積極的に交わっていたはず。それで子供もできた。倦怠期を迎えつつあった2人は、長女が障害を持って生まれたこともあって、次の子供をもうけることをためらっていたふしがある。「欲しい」ができない、と言っていたけれど、セックスも淡泊になっていたんだろう。それが、美味しい食べ物という媚薬を得ることで、官能的な喜びを得ることができたわけだ。本来なら亭主は喜んでいいはずだけれど、まあ、亭主が思い違いしてもしょうがないかも。
女に興味がなかったはずのグレゴアも、次第にほどけていくのが見て取れる。エデンのために美味しいものをつくり、満足させたい、と思うようになったようだ。ところが、そうなってくると、今度は商品としての料理から楽園の味が失われていく、という描き方をしているのが面白かった。料理人が恋をすると、味がかすむと言うことなのかな。
グレゴアも、思い違いを正すとか、エデンの亭主を訴えるとかすればいいのに、そういうこともせず、店をたたみ、街を出ていこうとするのが、ちょっと物足りない。最後は、なんとなくエデンと結ばれそうな描き方をしているのだけれど、ちょっとフツー過ぎて物足りない。前半は星4つでも、後半は星3つのできだな。
プロヴァンスの贈りもの12/29ギンレイホール監督/リドリー・スコット脚本/マーク・クライン
原題は“A Good Year”。ドライで冷徹な思考をもつトレーダーのマックス(ラッセル・クロウ)が、フランスに住んでいる伯父の遺産を受け継ぐ。それは、ぶどう畑とシャトーだ。でも興味がないマックスは、さっさと売り払おうとするが、結局、そこに住み着いてしまう=トレーダーをやめ、美しい女房も手に入れる、というよくあるパターンの映画で結末はハナから読めてしまう。けれど、後半の展開と美女2人が楽しめるので、飽きない。
ラッセル・クロウがやり手のトレーダーと言うことで、本拠地のイギリスでの活躍や、嫌々フランスに乗り込んで行く辺りは、ちゃらちゃらし過ぎな演出。もうちょい落ち着いた渋い流れでもよかったんじゃないのかな。個人的には最初の20分ぐらいは、いらいらした。
でまあ、シャトーとぶどう園を守ろうとする人(園で働いている夫婦)との感情的対立や、街のレストランで働く美女(マリオン・コティヤールが可愛い)、突然現れた伯父の隠し子(アビー・コーニッシュも可愛い)なんかが絡んできて、遺産はどうなるの? さらに謎の地ワインは? 伯父の私生活は? なんていう話も混じってきて、話自体はなかなか面白いんだけどね。
いろいろ伏線が何気なく描き込まれていて、マックスが伯父の代筆が得意だったとか、まずいワインに対する地ワインの存在だとか、そういうのが後半になって効いてくる。といってもドラマチックではなく、さほどミステリアスでもない。もっと伯父のミステリアスな部分を強調するのも、よかったかも。意外に遊び好きで、幻のワインを創っていたことを、ドラマチックに描いた方が、くぐっと引っ張られるような気がした。とはいえ、ラッセルとマリオンがほぼ同年齢で昔、会ったことがある・・・という設定は、どう見てもムリだろ。
ラッセルは伯父の遺書を偽造して、隠し子の従姉妹にシャトーとぶどう園を継がせるのだけれど、自分は一切なにも相続しなかったのかなあ? あのシャトーには住まず、マリオンと街場に住んでるってことか? しかも、ワインとは無関係にレストランの給仕をして・・・? という終わり方が、ちょっと曖昧。もうちょいはっきりさせて終わって欲しかった。
あ、それから。自転車レースの人に対してマックスが手を掲げるシーンが何度かあったけど、あれは応援しているのかバカにしているのか、どっちなのだ? そして、どういう意味があるのだろう?
ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記12/31MOVIX亀有 シアター10監督/ジョン・タートルトーブ脚本/コーマック・ウィバーリー、マリアンヌ・ウィバーリー
うーむ。話題作だけど、途中(議会図書館に忍び込む辺り)からだんだん眠くなってきた。眠りはしなかったけれど、以降のラシュモア山とその地下のあれやこれやはとてもつまらなかった。終わってみて思うのは、なんであんな犯罪じみたことを繰り返して先住民の宝を探さなくちゃならなかったのだ? ということ。そして、ウィルキンソン(エド・ハリス)の目的は、先祖の汚名を晴らすこと、だったの? それとも、黄金だったの? よく分からんなあ。結局のところ、しなくてもいいようなムダな冒険をしているだけのような気がしてならないのだけどねえ。
そもそも冒頭からしてよく分からなかった。あの暗号解きのオヤジがニコラスの先祖なのね、って暫くしてから気づいた。で。エド・ハリスの先祖は、どいつだったの? 2人いて残った方? で、どうしてエド・ハリスの家には手帳の断片が残っていたの? とかね。考えていくと、よく分からなくなっていく。なので、途中で考えるのをあきらめたけど。
でもって、最終的に宝があったからニコラスの方が正しくて、エド・ハリスの方がやっぱり悪人だった、とかいう話だけれど、それがまたピンとこなかった。ま、前提としての話が頭に入っていなかったから、しようがないと思うんだけど。
ニコラスが彼女(ダイアン・クルーガー)とうまくいってなくて、別居しているっていうくだりも、ちょっと意味不明だったなあ。おやじ(ジョン・ヴォイト)のカミサン(ヘレン・ミレン)の存在は面白かったけど、あの2人は離婚しているの? よく分からんなあ。
ラシュモア山に行って、岩の上にペットボトルの水をかけたら、なんとタイミングよく鷲の絵柄がでてくるって、おいおい、偶然も甚だしいだろ。なんとかしてくれよ。
っていうか、そもそも、先住民の宝=アメリカの宝であるなら、バッキンガム宮殿に忍び込んだり大統領を誘拐したり議会図書館に潜入したり、そんなバカげたことをしなくても、正規のルートで調査したらいいじゃん。いや、それだけじゃない。大統領の執務デスクに隠されていた暗号は、何代か前の大統領が発見しているんだろ? だったら、なんでその大統領はそれが先住民の宝だと気づかなかったんだよ!
それから。アメリカインディアンの先祖が、あんな仕掛けを岩山の地下に築いていた・・・って、それはないんじゃないの? というような、なんでかアステカみたいな意匠の遺跡があるっていうのが、変だよなあ。
大統領のノートに、ケネディ暗殺なんかに混じって、エリア51がでてきた。なにそれ? イチローの守備範囲? そんなわけないよなあ。バミューダ・トライアングルみたいなやつ? うーむ。と思って、後で調べてみたら、米軍基地のようだ。そんなの、エリア51だけで分かるやつなんて、「ムー」かなんか読んでるようなやつだけだろ。もうちょい字幕に気を遣って欲しいよな。
エド・ハリスも、いったい何が目的だったのか。先祖の汚名(先祖がリンカーンを殺したの? よくわからん)を晴らすだけのために、何とも派手な銃撃戦はするは、カーチェイスはするわで、なんか、説得力がない。というわけで、眠くなったのでござるよ。

 
 

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