魍魎の匣 | 1/4 | 上野東急2 | 監督/原田眞人 | 脚本/原田眞人 |
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確か原作を読んでいるはずなんだけど、まったく覚えていない。京極夏彦の小説は厚さが凄いせいか、終盤までに冒頭部分を忘れていたりする…ってことはないはずだけど。印象の弱い本だった、ってことだろうな、俺にとっては。でもまあ、よく2時間余りに収めたものだ。っていうか、顴骨奪還すると、こんなものなのかな? 「姑獲鳥の夏」は見た。監督は実相寺だったけれど、あれも見終わって、いったいどんな話だっけ? なーんて気分なったような気がする。個々の要素はそこそこでも、全体を通してみると、いったい原因は何で、どうなっていたの? ってな気分になったような映画だった。いやー。京極夏彦のは、映画も小説も、幻惑されるだけ、なのかな。なんてね。 監督は、アメリカ映画にも詳しい原田眞人。なので、カメラワークなんかはハリウッド張り。画調なんかも、割合とかりっとしていて、気持ちがいい。でもって、原作をざくざくぶった切っている(はず)割には、ムダな会話や遊びの部分など冗長なところもちゃんと入れ込んでいて、出来はそんなに悪くないように思えるんだけれど、見終わってみれば何が原因で誰がどういう犯罪を犯してどう悪かったんだ? というのが、やーっぱりピンとこないのだよね。困ったものだ。 というわけで、個人的に京極堂とは相性がよくないのかも知れない。 でだ。冒頭の中国戦線とそれにつづく占領下の日本の屋外セットはまあまあ。といっても、屋外セットは一杯だけなのか、同じ場所ばかり短時間に何度も映すのはとても貧乏くさい。けどまあ、予算もないのだろうから許そう。 許せないのが、その後の映画撮影所から延々とつづく屋外ロケだ。これ、ひと目で中国大陸と分かってしまうものばかり。たとえば撮影所の建物、街の瓦屋根の形、家が土づくりなところ、石畳や路肩の石、建築物の造作、河岸の様子や橋のつくり、それからエキストラもそう。みんな中国製なんだよ。そーか。あのセットも中国でつくって、ついでに「ちょっと雰囲気が似ているから、屋外でも撮っちゃえ」てな勢いでやっちゃったのかも知れないけど、西洋人は騙せても日本人は騙せないよ。あれは酷い。違和感だらけだ。ま、後半は日本でのロケが主体になってたけどね。 で、この映画での主人公というのが、だれなのかよく分かりづらい。陰陽師の堤真一、探偵の阿部寛、小説家の椎名桔平、刑事の宮迫博之がほぼ平等にでてきていて、かといって群像劇にもなりきっていない。ただ右往左往しているだけ。これは、映画の核心をどこに置くか決まっていないから、こうなったんだろうと思う。要するに中途半端なのだ。 誰が事件を解決していくか、にしても、4人の役割分担が曖昧なまま。誰かが秀でている、というような描き方がされていない。だから、話もアバウトなまま進み、なんとなく次の事件が発生して、でもって、なんとなく解決してしまう…。うーむ。いまひとつビリッとしないよね。 最初の方で阿部寛と弟子(荒川良々)が撮影所に行き、黒木瞳から経緯を聞き出すシーンがあるのだけれど、ここなんか会話で全部やっちゃうものだから、人物関係や因果がさっぱりわからない。で、そのままどんどん話は進み、さらに、どういう効果を狙ったのか知らないけれど、何日か遡ったりするところが何カ所かあったりして、さらに混乱する。でもって、解決部分も箱の家の中で会話で説明されるという、よくある本格探偵小説のようなスタイル(といっても応接室に全員が集まって、ではなくて、壊れかけの建物の中での怒鳴りあいのようなもの)なので、これまた、スリルもサスペンスも驚きもない。いや、そもそも、冒頭の中国戦線のシーンがあるおかげで宮藤官九郎が犯人であることはすっかり分かってしまっているし、少女の父親が、ひょっとしたらいけない人であることも想像がついてしまっているので、意外性もない。というわけで、全体を見るとメリハリもなくてだらだらエピソードをつないだだけのようなシロモノになってしまっている。 ハリウッドスタイルのような、というか、ハードボイルド小説のように、探偵が某所に行って真実をみつけ、さらに次の場所に行って新たな真実をみつけ・・・というような体裁を撮っていないので、いまひとつふたつ弱いのだよね。黒木瞳の父親が狂人博士で、研究のために孫娘を・・・というおどろおどろしい感じもいまひとつだし、宮藤官九郎の食人および屍体愛好癖も、表現的にはインパクトがいまひとつだったし。うーむ、な内容だったなあ。テイストはいいんだけどなあ。 もっと話をシンプルにしてしまうとか、筋立てや因果関係を明瞭にするとか、主人公を中心に組み建て直すとか、そういう作業が必要ではなかったのだろうか。あまりにも原作を尊重しすぎたのではないのかな、という気もしないでもない。 | ||||
再会の街で | 1/10 | 新宿武蔵野館1 | 監督/マイク・バインダー | 脚本/マイク・バインダー |
原題は“Reign Over Me”。私を支配してくれ! って、どういう意味なんだろ。よくわからんです。 話は、シンプル。黒人歯科医(ドン・チードル)が大学の同級生(アダム・サンドラー)と出会う。しかし、アダムはドンのことをすっかり忘れている。調べると、アダムは9.11で妻と幼い娘を失い、過去を抑圧しているらしい。こんなアダムをドンが救い出そうとする物語だ。 この映画がいいのは、わざとらしくないこと。クサくないこと。お涙頂戴ではないこと。など、色々あげられるだろうと思う。ある意味では淡々と、ごく自然に描かれているのが好ましい。9.11ばかりが強調されるのではなく、心の傷をどう癒すか、自分をどう表現するか、現実とどう向き合うか、といったことが、説教臭くなく、何気なく描かれているのが、素晴らしい。 登場人物のすべてに魅力があり、人間の本質まで描かれているのも素晴らしい。たとえばドンは黒人ながらビルのフロアを借り、他の医者を集める形で協同で総合クリニックを立ち上げている。かといってえばり散らしていることはない。むしろ、誘った仲間たちの方が偉そうにしていたりする。それに、窓口の黒人女性が気が強い。いいようにあしらわれている。家庭でもえばることなく、家族に尽くしている。ちょっと気が弱い、押しが弱い、ってなところが上手く描かれている。 ドンは患者にもてるらしく、女性患者(サフロン・バロウズ。知的な感じで、なかなかよいなあ!)からフェラしてあげる、なんて言い寄られて困ったりする。このあたふた具合も、ドンの人間性を上手く描くのを手伝っている。 他にも、アダムのマンションの管理人や、アダムの管財人、アダムの亡妻の両親、裁判長(ドナルド・サザーランドがいい!)、ドンの妻と子供、ドンの歯科アシスタント、一瞬だけ登場するアダムの妻・・・。それから精神科医(リブ・タイラー)、女性監察医もよかった。それぞれに役柄を演じていて、映画がすごく引き締まっている。 で。莫大な補償金のせいでか、働くこともしないアダム。過去を抑圧したからといって、とくに引きこもっているわけでもない。バンドでドラムも叩くし、街を電動キックスケーターで走り回っている。家ではゲーム三昧(バーチャルな世界に逃避していることの象徴だろう)。過去のことに触れさえしなければ、まあ、ちょっと子供っぽいけど、つきあえなくはないやつ。・・・という描き方が、なかなかリアルだと思う。フツーなら引きこもるとか、暴力的になるとか、斜に構えて暮らすとか、ステレオタイプに描きがちだけれど、そうなっていないところがよいと思う。 少しずつドンに打ち解けてくるアダム。ドンが過去のことに触れようものなら怒鳴り散らしながらも、「他に友だちいないし・・・」なんてすり寄ってくるところが哀しい。この時点で、アダムはドンのことを思い出しているのだろうか? なんとかリブ・タイラーのセラピーを受けさせ、数回。先に進まない・・・とあきらめ、「誰かに昔のことを話したら」といわれ、無言ででていった待合室。待っていたドンに、妻と子供のことを堰が切ったように話すアダムのシーンは、感動的。で、このあとすぐ終わるのかと思いきや、過去を取り戻したアダムが半ば自殺行為を働き、逮捕・監禁。強制的に病院に入れる・入れないの話になってくる(こういうのを見ると、果たしてアダムが過去と対峙するようになったことは良かったことなのか、疑問に思えてくる。むしろ、抑圧・退行したまま一生を終えた方が、幸せなのではないだろうか。現実と向き合える人は、強い人だ。強くないからアダムは抑圧してしまったのだろう?)。ここはちょっとテンションが途絶えてしまった。最後まで見ると、ここの過程も重要なのが分かるんだけど、亡妻の両親や、その弁護士が法廷で死んだ家族の写真をアダムに見せつけたりして、いったい何が目的なのだ? 病院に入れるためだけで、こんなことをするのか? という疑問が湧く。素人目にも、それって病気に悪いだろ! それと、管財人の目的も、ちょっと気になった。けれど、この辺りはつまびらかにはされない。で、こっからちょっと飛んで、結局、病院には入らなくて済んだみたい。いままで住んでいたアパートを引き払い、ドアマンのいる高級アパートに転居。これはドンの差し金らしい。そして、ドンに迫っていたフェラ女がアダムに興味を示すようになる。というのも、このフェラ女は、亭主が5年も愛人と生活しているのを知らず、心に傷を負っていた、という設定。ともに傷を負った同士、慰め合う、という展開か。終わり方を焦った感じはしないでもない。ハッピーエンドでなくても良かったんじゃないのかなあ。 管財人はかなりドライで、ビジネスライクなやつだ。で、昔はアダムの親友だったらしい。気があったということは、アダムもビジネスライクな性格だったのかも知れない。だから、ショックも大きかった、のかも知れない。 実を言うと、最初の方でかなり戸惑っていた。というのは、字幕を読んでいて、アダムが小学生の頃、両親を失った、みたいに思いこんでいたからだ。そうしたら、どうも、大学在学中に飛行機事故で両親を失った? に変わって。暫くしてから、2001年9月12日に妻と子供を失った、と読めた。なので、9.11を暗示させるドラマかな、とも思った。がしかし、途中からは9.11と出てくる。うーむ。俺の読み違いか? なんか、字幕があんまり良くないのかも、と思ったら、戸田奈津子だった。おやおや。 アダム・サンドラーは、どーみてもボブ・ディランそっくりなんだけど、なんか意味があるのかなあ。 | ||||
ALWAYS 続・三丁目の夕日 | 1/15 | 新宿バルト9 シアター1 | 監督/山崎貴 | 脚本/山崎貴、古沢良太 |
つまらなかった。前作の二番煎じで新しいものは何もない。昭和30年代はこうだった、こんなものがあった、こんなことをしたっけ(扇風機に息を吹きかけるとかね)というのを並べて郷愁を誘うだけだ。こうした昭和30年代の記号を断片的に描写し、その記号の収まっているエピソードが羅列されるだけではどうしても飽きてくる。1作目を見れば、それで済む問題だ。しかも、各エピソードは前作を見ているから分かるようなものばかりだ。 新しい話は、鈴木オートに女の子が預けられること(少女に、いつか薬師丸のことを「おかあさん」と呼ばせるだろう事は、この子に母親がいない、と紹介されたときに分かってしまう)。六ちゃんのかつての同級生が詐欺師になっていることぐらい。しかし、いずれも中味は大したものがない。もうちょっと何とかならんのか、と思う。茶川の芥川賞話と小雪との話は、完全に前作の継承だ。続き物としてみても、中味がなさすぎる。中味がないから昭和30年代の風物を出すのか、昭和30年代を出すために物語が薄っぺらくなるのか。どっちなのか分からないけど、いずれにしても話には引き込まれない。 冒頭いきなりゴジラが東京を襲う。これは茶川の創作の中の話なんだけど、こういうパターンって完全に寅さんシリーズだよな。つまり、三丁目はこれからも続編がつくられ、寅さん化していくということなのかも。でも問題はある。時代設定が東京オリンピック直前の昭和38、9年なんだけど、出演している少年たちは大きくなっていくし、ずっと同じ時代で続編をつくりつづけるというのは、難しい。となると、昭和40年に突入してしまうの? 前作では医者(三浦友和)が亡き妻子の亡霊を見たが、今作では鈴木オート主人(堤真一)が、戦友の亡霊を見る(戦友の服が古いので、違和感で分かってしまう)。まるで同じパターン。芸がなさすぎる。 というわけで、この2作目にはストーリーらしきものがない。茶川と小雪のエピソードなんか、15分ぐらいにまとめて前作にぶら下げれば、それで済んでしまう話だ。あるいは、後日談としてDVDに封入するとか。その程度の話でしかない。 ま、要するに話が練り上げられていない。というか、もともと物語を巧みに織りなすようなことを考えていないのだろうな。世の中にはこういう群像劇を上手く創り上げるライターはいるのだから、そういう脚本家を集めて構成をちゃんと考えればいいのにね。そうすれば、もっと感動的なものができあがるはずなのに。これでは、昭和30年代という時代が主人公になってしまっていて、人間がドラマの映画になっていない。表面的には“懐かしい”で受けるかも知れないけれど、ちょっと時間が経つと埋もれてしまうに違いない。とくに、茶川が詐欺師に丸め込まれるところなんか、マギーと温水がバーで詐欺師に会うところからバレバレ。意外性も何もない。 CGは凄い。冒頭のゴジラのシーンや羽田空港、特急こだまの合成なんかを見ると、どこが合成なのかとうろたえそうだ。しかも、単にCGしましたよ、というレベルから脱却し、表現に使えるようになってきていると思う。だからこそ、なんだけれど、やっぱりもったいないと思う。もっと物語と構成をしっかりしてくれい。 鈴木オートの主人が戦友会に行く話があるけれど、昭和30年代の後半に、やっと戦友会に顔を出すというのが、どーも不自然なような気がしたが。どうだろう。10年ずれていないか? 高速道路の通っていない日本橋は、なかなかよい。橋のたもとから西を見ると、大きな建物が見えた。あれは、何というビルなのかなあ、と気になってしまった。 とけなしたところで、ちょっとだけ心を打たれたシーンをいうと、ひとつある。芥川賞落選が決まり、小日向が子供を返せ、と迫るところ。ここで、町内のみんなが「俺、本を読んだ」と言いだすところ。ここだけは、ちょっと涙うるうるした。けど、それだけ。 小雪は、ふけたなあ。 | ||||
グミ・チョコレート・パイン | 1/18 | テアトル新宿 | 監督/ケラリーノ・サンドロヴィッチ | 脚本/ケラリーノ・サンドロヴィッチ |
もしかして「1980」みたいにエピソードとギャグと役者の顔見せで、表現の一歩手前で失速してしまうような映画かな? と思いつつ見たんだけど、そんなことはなかった。表現のテイストは相変わらずだし、小ネタや役者の顔見せもあったけど、1本しっかり芯が通っていた。ブレがないから、しっかりとつたわってきた。といっても、フツーの青春映画のように明るく爽やかで美しく輝いて・・・のポジティブなものではなく、一般的にはあまり見せない地味でネガティブな青春ドラマだね。そういえきば、雰囲気は田口トモロヲ監督宮藤官九郎脚本の「アイデン&ティティ」にも似てるかも。 きれいごとではない分だけリアルな部分が多いわけで、生理的に嫌なシーンもいくつかあった。万引きを咎めるところで2人のロックンローラーがレコード店員をからかうところなんか、とても嫌だ。強盗に入られ、警官が質問するところも、嫌いだ。でも、ああいうシーンを面白いという人もいるはず。個人的な体験や判断基準が違えば、反応はいろいろだろうな。そういう、不愉快に思えるシーンは多少あった。 で。やっぱり気になるのが知らない役者ばかりでてくること。1986年の主人公も、その仲間も、彼女も。そして、現在の彼らも。せいぜいマギーぐらいがはっきり分かる程度。あとからWebでプロフィールを見たら、見た映画も多少あるけれど、そのときの印象なんて覚えてないし。顔だって変わってるだろうし。あと数年して顔かたちが分かるようになって、それから過去の作品を見ると、ああ、昔はこういう顔だったんだな、って分かるような、そんな感じ。で。思うにみんな、まだ華がない。登場してくるだけでパッと輝くとか、二度と忘れられない顔だとかいうことがない。なので、映画としては弱いかもね。もっとも、有名どころがでてしまうと、映画の質も変わってきてしまうだろうけど。こんな、売り出し中の役者の群像劇が、ちょうどいいところなのかも。 それで、ストーリーに文句をつけるとしたら、ヒロインがなぜ自殺してしまったか、が定かではないところかな。ガンだったと言っていたけれど、そんなことで殺してしまうというのは、ちょっと浅薄だよな。もうちょっと意味づけして欲しいと思うところだ。それから、8mm映画(フィルム)が重要な小道具として使われているのだけれど、1986年という年にまだそんなもの使っているというのは、どうなんだ? もう8mmビデオが登場していたんじゃないのか? 音楽に関しては、よく分からないグループ、楽曲がでてきていた。ま、サブカルも分野が違うと、分かりませんです。 ちなみに、私はグミ・チョコレート・パインではなく、グリコ・チョコレート・パイナップルだった。 | ||||
題名のない子守唄 | 1/20 | ギンレイホール | 監督/ジュゼッペ・トルナトーレ | 脚本/ジュゼッペ・トルナトーレ、マッシモ・デ・リタ |
最初の30分ぐらいは、ものすごく引き込まれた。ちらちらと断片的に提示される過去・原因らしきもの。次第に明かされる主人公の行動。音楽もダイナミックで、サスペンスを盛り上げる。・・・なのだけれど、いつまでたっても断片的なままで、薄皮はなかなか剥がされない。そんな中盤に、ちょっと退屈しつつ、いつかは全貌が・・・と思っていたのだけれど、ものすごい肩すかし。ピースがびたりと嵌らないジグソーパズルのようで、あちこちに疑問を残しながらの結末。この結末も、冒頭のメッセージで“結末は話さないで”と念押しする程の意外性もどんでん返しもなくて拍子抜け。最初のテンションはどこにいっちまったんだよー、というような尻すぼみだった。 そもそも主人公はどういう女なのだ? たぶん売春婦だろう。それがなぜ冒頭のひみつの部屋のようなところへ行ったのだ? 特別な客の依頼で、オーディション?(それとも、最初はフツーの女で、オーディションの結果、売春婦にさせられた? っていうのは、変な解釈だよなあ) その後の乱暴なセックス描写をみて、これは、その暴力的に犯した連中への仕返しかとばっかり思ってみていた。彼女が狙った金属加工夫婦の家、あそこが冒頭の秘密部屋で、靴箱の裏には除き穴があって・・・かと思っていた。が、大外れ。なんだよー、の結末なのだった。 するってーと、あの黒カビってマッチョが最初の依頼主なわけ? では、あの暴力的な性交場面にどんな意味があるんだ? ほとんどないではないか。だって、暴力=黒カビと一蓮托生で、地下ビジネスをはじめるわけなんだから。もっとも、黒カビと一緒にいる間、彼女に自由があったかどうか、分からないけど。仕事で生んだ(なのか? それとも、黒カビとの子供もいるのではないか?)子供を養子として売りさばく、という商売をしていたわけだけれど、7年間に7人産んだんだっけ? 忘れたけど、その間に逃げ出せなかったのか? それとも、その間にも自由があって、あのイチゴ売りと仲良くなったのか? うーむ、よく分からん。 で、あのイチゴ売りはなぜ黒カビに殺されなくてはならなかったの? 彼女が足を洗おうとしたから? うーむ。わからん。 で。最後に産んだ子供だけ取り戻そう、とするのも変だよな。そのために、すでに入っていた女中に危害を加えるんだぜ。酷すぎないか? あの金属加工の夫婦は、ひょっとして秘密をもった悪人? と思いつつ見ていたので、結果的になんでもないフツーの人たち、と分かって拍子抜けした。だって、妻の方は黒カビに殺されてしまうんだけど、いったい何のために殺したのか? 分からん。 そういえば。主人公のアパートの内部がこわされていたり、サンタクロース姿の男たちに殴られたり、主人公は狙われているのは分かっていたはず。なのに、ほとんど手を打っていない。っていうか、公園で新聞を読んでいる黒カビをみて、ひぇーっててな声を上げる。それって、おかしくないか? もっとはやく気づけよ。 というわけで、自分の子かと思って潜入したのに、たまたま黒カビがしていたペンダントが金属加工業夫婦の作品で、その名字をつぶやいたから勘違いして潜入したっていうトンマなオチ。うーむ。なんかなあ。もうちょっと話を巧妙に創り上げてくれないと、たんなるこけおどしだよなあ。 | ||||
スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 | 1/21 | 上野東急 | 監督/ティム・バートン | 脚本/ジョン・ローガン |
完璧。素晴らしい。これって多分、有名なブロードウェー・ミュージカルをベースにしているんだよな。だからなのか、脚本がとてもしっかりしている。しかも、絶妙のキャスティング。それぞれの役柄に合った役者が、それぞれ個性的に最適な仕事をこなしている。近頃の映画によくある、似たような顔の役者がどんどんでてくるようなことがないのもよい。 個人的にはミュージカルは嫌いなんだけど、語るような歌い方が、それほど奇妙に感じさせなかったからかも。文句なし。 事実を基にしているのかと思ったら、Webによると伝説だという。ふーん。それは知らなかった。しかし、作劇としてはとても良くできている。古典的な構成なのでシンプルなんだけど、それで物足りないということもない。しかも、舞台の雰囲気をちゃんと残しながら、19世紀ロンドンの暗く陰湿な感じもちゃんとでている。CGでつくられた背景が、とてもよく合っていた。 のどぶえをかっ切るシーンも多く、血もドバドバ出る。けれど、サスペンスとかホラーというより、ファンタジーって感じに仕上がっているのが、面白い。すべてが様式化され、しかも、洗練されているからそう感じるのかも。ときどき生っぽさも感じたけど、さほどではなかった。しかし、ほんとうに美しい物語に仕上がっていた。拍手。 ヘレナ・ボナム=カーターだけど、よく知らない。実は、予告編を見て、彼女のことをリース・ウィザースプーンだとばっかり思っていた。なのでオープニングタイトルにウィザースプーンの名前がないなあ? と思っていたぐらいなのだ。で、エンドロールで、「あ、違うのか」と気づいたほど。ははは。ティム・バートンの奥さんなんだって? うーむ。印象に残っていない顔だ。っていうか、この映画の、化粧をした顔だけは印象的、ってことだけど。 | ||||
オリヲン座からの招待状 | 1/26 | ギンレイホール | 監督/三枝健起 | 脚本/いながききよたか |
なんかちょっとぬるい。途中で何度もあくびをした。中味が薄く、薄〜くのばしている感じ。しかも、それは間延びしているように感じる。 演出のせいか編集のせいか分からないのだけれど「間」がどーもおかしい。オープニングタイトルがでるときもそうだったし、ラストシーンもタメがない。この後にまだ1シーンぐらいあるんじゃないのか? と思ったのに、終わっちゃったよ! ってな感じ。何気なくインサートされる風物も、心を癒すにはほど遠い。とりあえず、何か思いつきましたからつないでおきます、みたいに思えてしまう。意味のない「間」なら取っ払ってしまった方がいい。テレビの1時間番組、たとえば昔の東芝日曜劇場なんかの感覚で実質45分でつくったりすると、締まった感じになるかも。 最初の方にフィルム運びのエピソードがでる。日活ロマンポルノの何とか言う映画でもほとんど同じ様に使われていたし、他の映画でも見たことがある。見慣れた話で、またか、と思ってしまった。 昭和25年に働き始め、10年後の昭和35年になっても(このとき主人公留吉・加瀬亮は27歳!)、まだ映写機を任されていない・・・っていうか、フィルムをセットする方法を知らず、独学で勉強している・・・っていう設定が、変じゃないのか? あんなもの、すぐ覚えられるだろ。主人(宇崎竜童)だって、その方がずいぶん楽なはずなのに、なんで? 「あいつはよくやる」と信頼されていたのに、映写は任されていない、というのが不思議。 昭和39年に宇崎が死んで、加瀬は31歳。宇崎と宮沢りえは何歳の設定だったのだろう? 加瀬より宇崎が15歳ぐらい、宮沢は10歳ぐらい上なのかな? それにしても、宇崎の死語も延々と宮沢に手を出さないというのは、妙な感じ。ほどほどのところでごく自然に、というのがフツーではないのかなあ。で。そういう流れに、周囲の連中があれこれ噂したり嫌ったりするのも、これも変な感じがした。それはそれとして受け入れてあげるというのが、隣近所というものだろう。ドラマ故の不可思議な対立を、無理矢理つくっている感じがした。 現在の留吉(原田芳雄)が、最後の上映前に挨拶する。そのときは「つれあい」と表現していた。ま、蛍の夜以来男女関係を結び、後に籍を入れたのかな? であれば、周囲の連中のあれこれに反発したことも、ほーれみろ、やっぱり、っていうことになっちゃうよなあ。 テレビが登場して観客も激減したオリヲン座。なのに、子供たちを無料で館に入れてやったりお菓子をあげたり。それどころではない、家財道具も年々立派に(テレビもある)なっていく・・・っていうのが、悲惨さを感じさせない。うーむ。ポルノもかけず頑張ってきた、といっていたけれど、そんなのムリだろ。と、思ってしまった。 子供が、でてこないのが奇妙な感じ。いや、客としてやってくる幼い2人(後の田口トモロヲと樋口可南子)は登場するのだけれど。宇崎と宮沢、のちの加瀬と宮沢には子供がないという設定だ。宮沢が石女なのか? で、2人の両親役を加瀬と宮沢が行なっていた、ということになっている。すべて他人の家族ごっこ。これが唯一の家族的な結びつきなんだけど、あっさりと描かれすぎで、もの足りない。加瀬は戦争で父を失い、母もすぐ亡くなったと説明されていたけれど、宇崎や宮沢の家族環境については語られていなかった。そういえば田口と樋口にも子がない。この映画は、実は家族の映画ということもできるのだけれど、その部分が強調されなさすぎるのではないのかなあ。意味のない「間」にこだわったりしないで、もっと家族を描けばよかったのに、と思ったりもする。 無料で映画を見せててもらっていた2人は後に結婚し、現在は別居中で離婚を検討中なのかな? 2人も招待されて最後の上映にやってくるのだけれど、2人の生い立ちがあまりにもいい加減。両親が喧嘩しているシーンと、「家には帰りたくない」と漏らす幼い日が紹介される程度。それなのに2人とも、家を出て上京した後は一度も実家に戻らず、親がどうなったかも知らない、という有様。おいおい。そんなのあり得るかよ? というわけで、いろいろと細かな突っ込み所があって、残念ながら話に引き込まれることはなかった。 右上にでる、フィルム交換の目印の丸が、フツーの映画よりでかいような気がしたが、映画館の映画、ということで意図的にやっていたのかな? | ||||
Mr.ビーン カンヌで大迷惑?! | 1/28 | テアトルダイヤ | 監督/スティーヴ・ベンデラック | 脚本/ロビン・ドリスコル、ハーミッシュ・マッコール |
英文タイトルは“Mr. Bean's Holiday”。Mr.ビーンのギャグって、素直に笑えないのが多いんだよなあ。「なんであんなことをするかなあ」と、見ていられないようなのだったり、「ほらほら、そんなところに置くと忘れちゃうだろ」と、先が読めてしまうものだったりして。見ているのが辛いことが多い。しかも、他人のものを拝借したりこわしたり違反行為をしたり。それはないだろう、ってなことを平気でする。見るに堪えないもの、まったく笑えないものがある。今回も、カンヌへ行くまでの過程というのは、相変わらずエグイ。そして、くどい。 なんとか見られるようになったのは、エマ・ドゥ・コーヌのミニに同乗したあたりから以降。ごくフツーのドタバタになって、ところどころで笑えるようになった。エマ・ドゥ・コーヌがそこそこ可愛いのも幸いしたかも。それにしても、こういうのが英国では受ける=笑えるのだねえ。ドジやバカを見て笑う・・・。日本じゃいまや、そういうのは差別だから、できないでしょ。10年ちょっと前の、初めて日本にテレビ版が登場した頃の方が、まだマシだったかなあ。 | ||||
母べえ | 1/28 | 上野東急2 | 監督/山田洋次 | 脚本/山田洋次、平松恵美子 |
吉永小百合62歳がワンピースのまま海に入り、泳ぐ。このシーンだけで、この映画は評価される! わけないか。 どーも野上照代の伝記を基にしているらしい。父親は帝大出のドイツ文学者で思想犯で獄死。なかなかインテリの家系だったんですね、というのが最初の印象。 つくりは正統派で堂々としていて、斜に構えたりしていない。けれど、いかんせんドラマチックじゃないのだ。野上の父母に、全面的に感情移入できるようにつくられていないような気がする。 特高に検挙されるところとか、信頼していた恩師に本を借りに行ってひどい扱いをされるところとか、いろいろドラマになる要素はあるのだけれど、「可哀想」と口に出して同情できないようなところがある。たとえば警官だって恩師だって、本音を言えば自分の立場があぶない。そういう情勢で何ができるか? と思いつつ毎日を暮らしていたのだよなあ、というように思えてくる。野上の父が反省書を検事に突き返されるところでもそうだ。検事は教え子。だからといって、そこで主義主張を言ったからった覆るはずもない。そんなことは分かっているはずなのに・・・。 なのに、野上の父が最初に房に入ったとき、房の長老に思想犯だと告げると毛布を分けて貰う。他に寒がっている囚人がいるのに、そういう一般人を差し置いて特別扱いを受けてもいい、と思っているみたいに思える。野上の母も、父親が警察官であるのを知っていながら、無謀なことばかり。ご時世なのだから本音は控えて平穏無事にと思えば、そうできないことはなかったろうに。なのに、父親が仕事を辞めざるを得ないような状況になってしまう。そういう描写をみると、監督が本当に野上の父に共感しているかどうか、ちょっと疑問だ。 そんなわけでか、感動がぐぐっと押し寄せてくるところ(泣けるところ)もないし、はかなさや張りつめた緊張感もほとんど感じられない。獄死した遺体を家に運んでくるところなんか、あまりにも呆気なさ過ぎる。なんだか淡々とし過ぎていているような気がするのだ。役人を極悪人というか、根っからの悪党にしていないから、憎しみや怒りの対象が見えるようになっていないのだろうか。 こういう抑えた演出を選択したのは、どういうことだろう。ドラマチックにせず、そこから、時代の波を感じ取ってもらおうとしたのだろうか? 山田監督らしくないよな。戦時下だったから仕方のない部分もあった、みんな時代の犠牲者なのだ、と言おうとしているのだろうか? よく分からない。 幼い姉妹は、なかなか良い演技。とくに、妹役の少女が良かった。で。62歳の吉永小百合(1945年生)が30代の後半を演ずるのはちょっと辛いかな、と思ってみていたのだけれど、80いくつで病院に担ぎ込まれた老婆に扮した吉永小百合は、あまりにも若くて美しいので、こっちのメイクの方がムリだと思えた。そのときの妹を戸田恵子というのはいいけれど、3つ違いの姉を倍賞千恵子(1941年生)が演じるのは、あまりにも無謀だろう。浅野忠信が、エキセントリックな青年を演じていて、お見事。はまり役。 気になったこと。それは、表札がずっとNOGAMIとローマ字だったこと。戦時下でバター、プレゼント、ガーター(だっけかな?)なんていう英語を使って問題はないのかい? | ||||
ジェシー・ジェームズの暗殺 | 1/29 | 新宿武蔵野館3 | 監督/アンドリュー・ドミニク | 脚本/アンドリュー・ドミニク |
原題は“The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford”。 長い。人物関係が少し分かりにくい(予習しておいた方が良かったかも)。暗い。主人公が誰なのか、中途半端。 ムダに長いと思う。タランティーノの映画みたいに長い部分に面白みがあればいいんだけど、それ程でもない。ジェシーの従兄弟ウッドがらみのエピソードなんか、あんまり本筋に関係ない。それでも、ウッドの家に泊まった仲間ディックが従兄弟の親父の後妻とできて、それで撃ち合いになり、その結果ロバートがウッドを後ろから撃つ・・・というのが、ロバートが最後にジェシーを背後から撃つ伏線にはなっているけれどね。あ、それと、至近距離でがんがん撃ち合ってもほとんど当たらないのが、実際の撃ち合いつてこんなものなのかも、と思わせるところはあったけどね。それ以外は、ほとんど関係ない。ざっくりカットしても何も問題は発生しないと思う。 ディックとかエドとか、彼らの存在が全体の中でどういう位置を占めるのか、わかりにくい。だらだらムダに長いより、こういう脇役をちゃんと描いた方が何倍かマシだろうと思う。 ジェシー・ジェームスといえば、列車強盗。やたら暗い描写で、実際はこんなものなのだよ、と強調しているように見える。けど、そういう“実話”に近いですよ、という伝記物語って、もう、ちょっと旧いのではないのかな。別に虚像を描けと言うわけではないけれど、明るい部分をもうちょい取り込むと、別の印象がでてくるんじゃなかろうか。たとえば、ジェシーの妻子や、ボブの姉(だっけ?)なんかにスポットを当てる手もあるはず。 いちばん問題なのは、この映画がジェシーの話なのか、ロバート&チャーリー兄弟の話なのか、中途半端なところだ。全編を見渡せば、どーみてもジェシーが主役だよなあ。でも、視点はロバートだ。題名だって、暗殺者にウェイトが置かれているように見えるぞ。なのに、ロバートのことをあまり描いていない(登場している時間は長いけれど、実質があまりない)。描かれるのはジェシーを殺した後の転落人生の下りで、それも端折りながらの簡潔に、ってな有様だ。 実を言うと、僕は暗殺後のロバートの下りがいちばん興味深かった。それまで欠伸のし通しだったけれど、ここで目が覚めた。「なんだ。こんなエピソードがあるなら、ここを膨らませればいいじゃないか。ジェシーは脇役で良かったじゃないか」とまで思ったほどだ。 ジェシーの性格は、よく分からないね。急に凶暴になったり、やさしくなったり。ちょっと躁鬱病的なところがあったんじゃなかろうか。そういうところを、もっと描けばよかったんだよ。現象として変なやつ、というエピソードではなく、もっと突っ込んで描くべきだ。いかにして二重生活ができたのか、子供に対してはどうだったのか、殺しをどう思っていたのか? 本当に南軍を支持する人々のヒーローだったのか? そんなことを描いて欲しかった。 ロバートとチャーリーも、そう。単に憧れていただけなのか? 本当に尊敬していたのか? なのになぜ暗殺したのか(っていうか、警察に駆け込むようなことをしたのか?)というようなことを、突っ込んで描くべきだろう。心の中が、ほとんど見えない。すべてが、薄っぺらいんだよね。思わせぶりな長尺なのに、ムダに長いだけではしょうがないだろう、と思った。 で。最後の最後にロバートを殺した男は、いったい何者なのだ? ナレーションが邪魔だった。最初の頃のナレーションでは、そのうち暗殺される、というような将来のことまで話してしまっている。時制が混乱するだけではないか。それにしても、あのナレーションは、誰の視点なんだろう? ロバートが殺される下りにもナレーションはあったと思うから、ロバートの声ではないよね? 違うかな? よくわからんです。 |