2008年2月

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ2/1MOVIX亀有 シアター2監督/北村拓司脚本/小林弘利
なんなんだ、これは? ぜんぜん物語になっていないではないか。こんな映画を、よくもまあ金を出してつくったりするものだよ。信じられない。というわけで、30分ぐらい経ったところでうとうと。10〜20分ぐらい寝たのかな?
高校生3人組の仲間が1人バイクで事故って死んだ。そんなとき、主人公の高校生が女子高生と出会う。そこに振ってきたのはチェーンソー男。女子高生は、チェーンソー男と戦い続ける運命にあるらしい。女子高生の両親と弟は酔っぱらい運転で殺されている。・・・というのが枠組みで、話はそれ以上に発展しない。最後に、高校生は死んだ仲間の力を借りてチェーンソー男に体当たりしてやっつける。めでたしめでたし?
女子高生はなぜチェーンソー男と戦わなくてはならないか。チェーンソー男は何ものか? なぜ江戸時代のセットの中でいつも戦うか? といった基本的なところに合理的な説明がない。だから、ちっとも話に入れない。
チェーンソー男は、思春期の青年がぶちあたる何らかの壁を象徴しているのか? とも思ったけど、必ずしもそうともいえないようで。よく分からないままだったりする。とにかく無茶苦茶。もうちょっと真面目な内容かと思ったんだけど、単なるバカ映画以下の糞映画だった。こんなんじゃ客が入るはずがないと思う。
エンドロールに原作、というのがあった。漫画か? 小説か? で、映画のWebサイトを見たら「第5回角川学園小説大賞を受賞した瀧本竜彦の同名ライトノベル」とあった。ふーん。ライトノベルはとんでもない世界に突入しているのね。
アース2/1MOVIX亀有 シアター4監督/アラステア・フォザーギル脚本/デヴィッド・アッテンボロー、アラステア・フォザーギル、マーク・リンフィールド
原題も“Earth”で、吹替版。白クマの生態で始まって、像やろんな鳥、ヒマラヤを超える渡り鳥ツル、ヒョウ、クジラ、セイウチなんかを描き、白クマで終わる。ダイナミックで見たこともないような生態が見られるのかと思いきや、案外とフツー。ナショナル・ジオグラフィックに毛が生えたか生えない程度の映像ではないか。それが大きなスクリーンに映し出される程度。ちょっと肩すかし。クジラのところで睡魔に襲われ、クジラの部分まるまる寝てしまった。そのあとは見たけれど、驚きはない。せいぜい象を襲うライオンのシーンと、白クマに噛まれるセイウチが痛そうなのが気になったぐらい。どうやって撮影したのか、には興味があるけれどね。どっかの科学館あたりで、全天周スクリーンに映したら、より迫力がでるとは思うけど。
で、最後は地球環境と温暖化とCO2の話。おいおい、だよなあ。別に人間がCO2を吐き出さなくたって自然に温暖化は進むだろうし、環境も変わっていくはず。それを現状のまま維持しようというのは人間の勝手わがままではないの?
ひとつ隣のオヤジは携帯を見るし! 斜め前列には幼児2人連れの母親がいて、子供たちが「くまさん! ぞーさん!」とうるさいし! 途中でおばさんと婆さん2人連れが入ってきて席がどこだかわからないとぶつぶつ言い、おばさんがいったん外に出て戻ってくると「ちがうちがう、ここじゃないわ、9番だわ」と婆さんにいって引き上げていった。おかげで画面に集中できず。が、クジラのパートで寝て起きたら、前列親子3人はいなくなっていた。うるさくて引き上げた?
レンブラントの夜警2/4テアトルタイムズスクエア監督/ピーター・グリーナウェイ脚本/ピーター・グリーナウェイ
原題は“Nightwatching”。芸術大作+ミステリー・・・とかいう評判だったけれど、肩すかし。退屈なだけの愚作だった。
意図的になんだろうけど、全編が舞台のような雰囲気でつくられている。背景も書き割りのようで、手がかかっていない。もちろん人物は17世紀の衣装をまとっているけれど。
屋外ロケもあるけれど、とくにどうってことのない場所。セットや美術にまったく銭も手間もかけていない。では、「ドッグヴィル」みたいかというと、あそこまで徹底してはいない。時代を考慮したそこそこのセットはあったりする。ただまあ、大きなスタジオにやっつけでつくったみたいなものだけど。これは多分、映画の中で「あの絵は舞台、描かれているのは役者だ」と、市警団の誰かから言われていた(と思う)のと関連してくるんだろうけれど、どういう効果を狙っているのかは分からない。
というわけで、フツーの映画のように立体的なイメージがない。舞台の正面にカメラを据え、舞台を映しているような塩梅だ。だから、ダイナミズムはない。カメラが動き回ることもないし、役者が移動することも少ない。クローズアップはあるけれど、それも静的だ。
ついでに物語にもダイナミズムがない。エピソードとエピソードが有機的に連携することがなく、舞台で暗転するように場面が変化していく。それでもセリフで丁寧な説明があれば何とかなるのだけれど、そういう配慮はない。たくさんの名前や固有名詞が羅列され、それが何だか誰だか観客には分からないままどんどん話が進んでいく。最初の頃なんか、誰がどのセリフを言っているか、わからないようなつなぎ方がされている程だ。つまりこれは、人物を特定するような作業は、観客には必要ないよ、ということなのか? と思っていると、どんどん話から置いてきぼりを食らってしまう。なので、理解しようという意欲は早いうちになくなってしまう。
だから、レンブラントと最初の妻サスキア、その伯父ぐらいは分かる。でも、2番目の元娼婦という妻や、3人目の妻(かつて瞼を舐めてくれたのは覚えていたけど、その後はどこにいた?)なんかは、突然現れるような有様で、何が何やらさっぱりだ。他の、市警団の連中なんか、もう分からない。それだけではない。そもそも市警団のトップが目を撃たれて死んだのは、陰謀が・・・というあたりも、経緯が分かりにくい。なんだか、最初から分からせようという姿勢がないのではないか、と思う程だ。
そんなわけで、繰り広げられる映像は単調というかフラットな感じがして、ちっとも魅力的ではない。しかも、まるで作りかけの映画のラッシュを見ているような気分すらする。映像やセリフがつながっていないので、素材を見せられているような気分になってくるのだ。あとは、勝手に各自補え、ってことかい?
とはいうものの、意図は分からないでもない。察してやるとすれば、演劇的な表現手法で、場面転換をドラマチックにしていこう、とでもいうようなことなんだろう。けど、その思いは映像としてうまく表現=構成されているとは到底思えない。的を外した意欲作、とでも言うのかな。
で、「夜警」という絵の秘密だけれど、なんとなくは分かったけど、ちっとも驚きがない。なるほど、とも、凄い! とも思えなかった。ま、そういう構成も演出もとられていないから仕方がないとは思うんだけど。しかも、秘密の説明がドラマチックに見せられるのではなく、セリフで説明されていく。そりゃないだろう。映画なんだから、見せろよ、と思った。ごくフツーの映画として撮った方が、面白い映画になったんじゃないのかなあ。
性描写が露骨。冒頭からレンブラントのチンポコがだらり。2番目の妻に後背位で行ない、ペニスを抜くところなんか、ちゃん勃起していたし、その後もいちゃいちゃするシーンがあったりする。3番目の妻の股間にレンブラントが首を突っ込むシーンもあったけれど、女性の陰毛はちゃんと見えていたからなあ。なので、そういうシーンを見ている分には楽しい。けど、チンポコだの陰毛を見せなくてはならない程の必然性は、まったく感じなかった。
興味深かったのは、ああいう集団肖像画の描き方が紹介されていたこと。描かれる人物が増えると、画家の売上げが上がるのだね。なーるほど。
映画が始まる前にいくつものビジュアルロゴが登場。制作会社や資本投入会社なんだろうけど、凄い数だ。エンドロールにも同様にたくさんのバナー(のようなの)が貼り付けてあった。なんかどーも、興を削がれる気分。しかも、エンドロールが無音で、音楽がないのだよ。あまりにも素っ気なさ過ぎ。気を使うということのない監督なのだろうか。
ウォーター・ホース2/7新宿ミラノ2監督/ジェイ・ラッセル脚本/ロバート・ネルソン・ジェイコブス
原題は“The Water Horse”。ファンタジーではあるが、話のつくりが安っぽい。内容は子供向けにちょうどいい程度。日本の「REX 恐竜物語」と似たり寄ったりのレベルかも。
人物の描き方が薄っぺらで、キャラクターに魅力を感じない。たとえば、冒頭のカップルがさっさとレストランのジジイの話に聞き入ってしまう。おい。もうちょっとタメをつくってから、そうした方がリアリティあるだろ。いきなり過ぎるぞ。それから下働きにやってくる男。最初に酒場に入ってきて、「何者?」と思わせる。それはいい。つぎに屋敷にやってきて、夫人に自己紹介する・・・。このとき、ちょっと言いよどんで、何かありそうな予感を感じさせる。もしかしたら、夫人の夫の戦友で、その死を告げにやってきたけれど、言いだしかねている・・・? とかなんとか想像した。がしかし、影もなにもなかった。屋敷に駐屯した大尉に反抗的な態度(大尉に「田舎へ帰れ」というのは、スコットランド人として他国(イングランド?)人に向かって言っているのかな?)をとったのも、何か意味があるのかなと思ったら、なーんもなし。あとから分かる履歴も、戦場で負傷した英雄、というものだけ。なんだよ、底が浅すぎだろ。
夫人に感心がある、ような気配の大尉なんだけど、その気配を映像化しない。夫人は、下働きの男に惹かれそう・・・な気配なんだけど、その気配もほとんど映像化しない。主人公の少年の姉は、やってきた兵隊に興味がありそう・・・なんだけど、彼女の人となりはほとんど映像化されない。とても中途半端。もうちょっと掘り下げれば、人物に厚みを持たせれば少しは面白くなっただろうに、そういうところができていない。で、水竜は生きているような見事なCGで描かれるけれど、どうみてもちゃちい姿にしか見えない。全体にとても安っぽいのだ。
でもって、最後は大尉も下働きの男も一緒の船に乗船して、水竜を助けてバンザイ。あほか。清々しい思い出とか、美しいファンタジーとか、そんなのとは縁がない。子供だましのちんけな映画だと思う。
それにしても、飼っているブルドックが不始末をしでかしているのに、なんで料理長の軍曹は罰を受けず、犬もそのままなんだ?
テラビシアにかける橋2/7新宿ミラノ3監督/ガボア・クスポ脚本/ジェフ・ストックウェル、デヴィッド・パターソン
原題は“Bridge to Terabithia”。小品だけれど、なかなかデキがよい。少年と少女の出会いと別れ、そして教訓など、少年少女向けファンタジーとして必要十分な条件を満たしつつ、とても魅力的につくられている。
まず、人物が手際よく、上手く表現されている。意地悪な生徒たち、気むずかしい先生に、陽気な音楽の先生。貧乏だけどやさしい両親。怠惰な2人の姉に、好奇心の強い妹。自由主義なレスリーの両親。無愛想なスクールバスの運転手。それぞれにみな、魅力的に描かれている。見事。
主人公ジェスの、夢も希望もないよ的儚げな顔立ちが、しみる。学校では同級生にいじめられ、上級生の女子にもつまはじきにされている。貧乏だからいじめられている、っていうところがあるんだろう。特技は、空想力豊かな絵。子供は本当に、標的を探すのが上手い。そこに、少女レスリーが転校してくる。彼女は神も聖書も信じない自由主義者。レトリックを駆使して作文を書いたり、かなり生意気。いじめの標的にされるか、無視されるか、どっちかだ。そんな2人の空想力が、森の中で開花する。木の上の小屋を見つけ、修理。あとは、ファンタジー“ごっこ”が始まる。そこは、絵が上手なジェスと話づくりの上手いレスリーの独壇場。・・・で、その空想部分が、映画的にも過剰にならず、うまく映像化されている。
フツーのファンタジーなら穴に落ちたりクローゼットの奥にもぐったり、通用口を見つけて全くの異世界に入り込んでしまうのだけれど、この映画ではあくまでも2人の想像の世界だ、という法を超えない。それがいい。なぜなら、それによってこの話は嘘ではなく、誰でもテラビシアに行ける、という可能性を残すことができるからだ。観客は、チャンバラごっこや小屋をつくって篭もったりした子供の頃の記憶までが、よみがえらせることができるというわけだ。だからこそ、ラストでジェスは、好奇心の強い妹のために橋をつくり、“ごっこ”つまりファンタジーの世界へと誘うのだ。
つまはじき的存在のジェスとレスリーが同士的気持ちで心を通わせ、森へと入っていく過程が素晴らしい。単発でボーイッシュなレスリーが、とても魅力的。田舎にはエキセントリックすぎて受け入れられないような子供で、いじめも受けているのに、とても活き活きと描かれている。実際にはこんな交流ムリだと思うけれど、それでも、いいなあ、可愛いなあ、と思わせてくれる映画は、だからこそ素晴らしいと言うべきか。
しかし、突然、レスリーを殺してしまうのには驚いた。ジェスが、先生に誘われて美術展に行っている間の出来事・・・という設定は、したたか。もしジェスがレスリーも誘っていれば、事故を回避できたかも知れない・・・という重荷を、これから一生背負っていくことになるジェス。たった一度の“裏切り”に似た行為が、最愛の人を失うきっかけにもなる、と学んだわけだ。こういう仕掛けをしている脚本も、見事だ。
脇役も、2度オイシイ。いじめっ子の8年生の女子が、中盤でいじめられる立場になってしまい、ジェスとレスリーを救う側にまわってくることになる。その彼女の嘘を真に受けた運転手によってスクールバスを降りさせられたジェスだったけれど、レスリーがなくなったことを知った運転手がやさしい言葉をかけてくるところも、いい。レスリーの死後、授業中にからかってきたいじめっ子を殴ってしまうジェスだったけれど、気むずかしい先生は怒るどころか、これまたやさしい言葉をかけてくる。いや、このあたりは泣ける。見ていないようで、大人や先生たちは、ちゃーんと子供たちの心まで見ているんだぜ、っていっているみたいではないか。脚本が練られていることがよく分かる。
レスリー役のアンナソフィア・ロブが、とても可愛い。美しい、ではなく、愛らしい。男の子的なファッションと、生意気そうな態度もまた、可愛い。ジェス役のジョシュ・ハッチャーソンも、危うい年頃を上手く表現する顔立ちをしている。好奇心の強い妹は、かなり不細工な顔立ちなんだけど、とても愛らしい。
話もスケールも、90分のテレビドラマで十分というような小粒な作品なんだけど、とても心に滲みるいい映画だった。もっとも、後半にレスリーを事故死させてしまい、出てこなくしてしまうのは、かなり不満。少年の成長ドラマには必要なのかも知れないけれど、レスリーのエキセントリックさが楽しくて見ていたこちらにとっては、「えー!」以外の何物でもない。せめて、事故後に森の中に入っていったときか、または、ラストにでてくるテラビシア国のイメージの中に、登場させるべきだったろう。だって、レスリーの笑顔をもっと見たかったんだもの。
ジプシー・キャラバン2/8シネ・アミューズ EAST監督/ジャスミン・デラル脚本/-
原題は、“When the Road Bends: Tales of a Gypsy Caravan”。詳細は良く分からないのだけれど、Taraf de Haidouks、Fanfare Ciocarlia、Esma、フラメンコのAntonio El Pipa、インドのMaharajaの5組がアメリカツアーを行なったときのドキュメントらしい。公式サイトには「最初の撮影が始まったのは2001年の9月下旬」とあるが、ツアーがいつ行われたのかは書かれていない。しょーもないサイトである。ある記事には2006年と書いてあった。
ツアーを軸にして、各バンドの地元の映像がインサートされる。各バンドの何人かをフィーチャーしての映像だけれど、とくに印象的にも思えない。むしろ、時制と場所がごちゃごちゃになっているだけで、混乱の元になっているような気がする。
目当ては、Taraf de Haidouks、Fanfare Ciocarlia。CDはもってるし、Taraf de Haidouksは去年、東京フォーラム広場で演奏したのを見ている。この2つのグループが満喫できればいい、と思っていた。が、演奏時間がとても少なく、音楽以外のだらだらしゃべっている部分が案外と多くて、ちょっと退屈。めずらしく1500円の前売券を買い、期待して行ったのに、なんと途中で20分ぐらい寝てしまったのである!!! なんということ。まったく。
でぶっちょ歌手のEsmaは、聞いた記憶があった。っていうか、iPodに入っていた。ははは。それにしても、これは買ったんだっけか? それとも、図書館で借りた? どっちだっけ。まあいいけど。
で。フラメンコの人は知らなかった。しかも、フラメンコには興味がなかったので退屈。Maharajaも、インド音楽に近いので、こちらのターゲットとはズレている。でも、Taraf de HaidouksとFanfare Ciocarliaをがんがんやってくれるわけでもなく、ルーマニアの村の様子を見せられても、そんなに興味はもてない。もっとキャラバンの様子を見せてくれればいいのに、とおもいつつ、睡魔に襲われていったのだな。きっと。
分かりにくいと言えば、タラフの長老ニコラエ爺さんが死んだのは2002年に亡くなっているらしいので、このツアーには参加していないはず。が、しかし、この映画にはニコラエ爺さんが糸弾きしているところとか、爺さんの葬式まで出てくるので。こんなところも、分かりにくさに拍車をかけていると思う。
悪い映画ではないけれど、DVDを買って何度も見たい映画ではなかった。音楽だけならCDで十分だし、Taraf de HaidouksにはDVD付きのCDもあった。あっちの方が、数段ましだと思う。というわけで、ちょっと残念な結果になりました。
ミス・ポター2/14ギンレイホール監督/クリス・ヌーナン脚本/リチャード・マルトビー・Jr
原題は“Miss Potter”。見終わってみれば、ほとんど劇的なドラマのない映画。せいぜい恋人である編集者の病死ぐらい。あとは平穏無事どころか順風満帆。最後には結婚もできたし広大な土地を手に入れたし、金に不自由することもなかったし。しかも、もともと成り上がりとはいえ貴族階級の娘で召使いにかしずかれ、何不自由ない生活を送っていたわけで、所詮、上流階級のお嬢様だなあ・・・と思わないこともなかった。とくに、出版が決まって、その勢いで公園内を馬車で疾駆するところなんか、降りろ。そして、走って空気を感じろ! なんて思ってしまった。
女性が自意識に目覚めつつある時代だったのかも知れない。でも、それだって所詮は金があってヒマがあって才能があってっていう、ひと握りだけで、あとの下層階級の人々にはムリな話。そういう視点で見ると、あーそーですか、としか思えないところもある。
まあ、そういうひがみ根性だけで見ると、冷ややかになっちゃうんだけどね。でも、全体を通して見れば、清々しい映画になっていると思う。だらだらと長くないし、ちょうどいい。描かれた動物たちがときどきアニメとなって動き出すのも、ご愛敬。ほのぼのとして楽しい。それと、ポター嬢の母親は厳しいのに、父親が案外と寛容なのがうれしい。娘の本を「書店で買ってきたよ」と差し出すところなんか、可愛いところがある。
欲しかったシーンとしては、出版者の反応。上の兄弟2人がどうせ売れないと踏んだのに、意に反して大当たり。おかげで出版社も大成功したのだから、その様子なども見たかった。それから、婚約者ユアン・マクレガーの最後または回想シーン。いきなり消えてしまうのは、どーかと思う。ラストは端折り気味だったけど、ま、しょうがないか。そして、一般人と駆け落ちした弟の現在の様子も見たかった。
エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜2/14ギンレイホール監督/オリヴィエ・ダアン脚本/オリヴィエ・ダアン、イザベル・ソベルマン
原題は“La Mome”。ミス・ポターに比べると波瀾万丈ドラマがありすぎて尺に収まらない感じ。なので、ということなのか、一生を接続詞および形容詞をつかわず、名詞でつないでいく感じ。「アリ」と似ている。ただし、「アリ」では時間の流れがよく分からなかったけれど、こちらは1935年とか1963年とか字幕が入る。字幕が入るのだけれど、過去現在と4つぐらいの時制が交互に出てくるので、ちょっとめまぐるしい。現在から入って遠い過去に行き、その時制で順にたどっていくのではなく、ひょんひょんと行き来する。これがやっかい。さらに、形容詞がないというのは、脇役への配慮がほとんどない、ということ。たんに描写が足りない、どころではない。時制が飛んである時代になると、いきなり周囲の取り巻きが違っているとか、突然、恋人がいたりとか、旦那がいたりとか、あれあれあれ・・・なのだ。ま、そんなこと説明している余裕がない、のかも知れないが、ちょっと戸惑う。とはいうものの、これはピアフの話なんだから周囲に誰がいようとピアフだけ見ていればいいや、と割り切ってしまえばそんなに腹は立たない(かも知れない)。
ピアフの生い立ちからその後にかけて、これでもかこれでもかと悲惨な環境で育っていったことが描かれる。でも、展開が速いから同情している余裕がない。っていうか、感情移入できるようにつくられていない。だって、幼児期は可愛く描かれていても、思春期からもうズベ公みたいなんだもん。街頭で歌ってお金をもらうのは、父親の大道芸ゆずり。でも、バックにヤクザがいるようなんだけど、それがどんなやつでどういう影響を及ぼしていたのかは、描かれない。最初に発掘してくれたパブの経営者(ジェラール・ドパルデュー)はこのヤクザに殺されてしまったようなんだけど、なんで殺されたのか? ヤクザはどーなったのか? なんてことには、この映画は目もくれない。ひたすら、よれよれよぼよぼぼろぼになっていくピアフだけを追う。ま、いさぎよいといえばそうなんだけど、見ていて楽しくない。
だって、店に出て歌えば金になると分かると、急に偉そうな態度になって、周囲がちやほやするともうワガママ傲慢し放題。いつもアル中でへろへろ肝臓病。あげくはヤク中で廃人のよう。それも40歳半ばでた。しかも、背中が曲がりよたよたとしか歩けない。こんな女は遠慮仕りたいというような有様だ。それでもボクサーの恋人ができたりするのだから、わからない。どこが良かったんだろう。
このボクサーが、アメリカで場末の店に連れていくと、出されたパストラミを胡散臭そうに見て、「こんな店は嫌だ」と抜かす。やっぱりね。貧乏人の成り上がりは見かけから贅沢な店ではないと満足しないのね、と思った。いくら歌が上手くても、所詮はそんなものなのだなあ、と思った。
驚いたのは、作曲家がどんどん曲をもってくるところ。そんなに人気があった、ピアフに歌って欲しかった、というところがあるのだね。戦場に行くという素人が曲を持ってきたときなどもちゃんと聞いてやり、聞くなり「気に入った。歌う」といったりする。いつもこうではないだろうけれど、自分の人生を歌ったような歌詞に入れ込んでしまうのが興味深い。辛い人生など思い出したくもないと思うのだけれど、ピアフという人は辛い人生を抱え込みながら若くして死に急いだのかもね。短くてもいい、好き勝手に、ワガママに生ききるのだ、って思っていたのかも。
映画の構成は難ありでも、マリオン・コティヤールの演技が救っている。とくにメイクが素晴らしい。まだ30歳そこそこなのに、まるで老婆。猫背でか細くよたよた歩く姿を、見事に写し取ったように演じている。「母べえ」での吉永小百合の違和感あり過ぎの老け役とは段違い。やっぱ、映画にかける意気込みが違うのかもね。
人のセックスを笑うな2/18シネセゾン渋谷監督/井口奈己脚本/本調有香、井口奈己
画面構成がとても素晴らしい。まるで選び抜いた写真の構図のような端正さで、画角の中にある要素も、出て行ったり入ってくる要素も、かなり考えられているはず。ほとんど偶然はないだろう。エンドタイトルの美術・木村威夫にはたまげた。なるほどだ。まあ、構図にまでは関与していないだろうけど、監督の意図をくみ取ったあれこれをしているんだろうな。たとえば、ユリの部屋やみるめの部屋でも、カメラは1方向からだけではなく逆方向からも映したりする。全方位的だ。セットじゃなくてロケかも知れないけど、いちいち大変な作業が必要になるはず。そういうところ、気を使っているんだろうなあ。
話は単純。美大の同級生3人組みるめ(松山ケンイチ)、えんちゃん(蒼井優)、堂本(忍成修吾)がいて。そこに39歳には見えない浮気性の講師ユリ(永作博美)がやってくる。ユリがみるめを誘って関係をもつ。みるめに気のあるえんちゃんはちょっとふて腐れて学校を辞めてしまう。ユリから離れなくなったみるめは、ユリの家にも押しかける。そこで、亭主持ちであることを知る。しばらくしてユリは亭主(あがた森魚)と一緒にインドに行ってしまう(でも、それで終わったわけではないよ、というような示唆の言葉もあるけどね。ラストに)・・・という、それだけの話。この骨格から惨劇も悲劇も喜劇もできるだろうけれど、この映画はのんびり淡々と時間をかけ、何の事件を発生させずになんとなく終わらせる。137分。つまめば30分は簡単に短くできる。だから長いと言えば長いのだけれど、わざと無意味に長くしているのだろう。それは必ずしも成功しているとは言えないけれど、大失敗というほどでもない。心なごむかというと、そんなこともなく、どーでもいいような感じで流れていく。それだけ。
ストーリーはどうでもいいや。いくらでも、どーとでも読めるような表現だし、亭主さておいて若い男に手を出す中年にさしかかった女、の評価も人様々だろうし。あれこれ話し合う素材にはちょうどいいかも。個人的には、そういうのにはあまり興味がなくって、つまらなくはないけれど、面白くもない、というところかな。むしろきりっとした構図と、ながーい間の中に身をまかせて、それでそこそこのテンションが保てるのだから、ま、いいか。だね。ときどき、くくって軽く笑えるところもあるし、ね。
でもま、欲をいえば、137分もあるのだから、脇の描写・造形をもっと楽しめばいいのに、だね。えんちゃんはまだしも、堂本なんてつけ足し扱い。市川実和子なんて、何のために出てきているのか分からない始末。なんとかならなかったのかねえ。ちまちまと描き込むことをあえて避けたのかな? どーなんでしょ。
サブタイトルが、Don’t laugh at my romance. となっていた。セックスとロマンスじゃ大違いだろ。なんで? 映画を見終えての印象は、ロマンスの方が合ってるな。
リアル鬼ごっこ2/22テアトル新宿監督/柴田一成脚本/柴田一成
最初のうちはテンポがいいな、と思って見てたけど、それも5分ぐらい。雑然とした画面、スムーズではないつなぎ、見たことのない役者ばかりで顔の区別がつきにくい・・・なんてことが気になって、うーむ、な状態。さらに、リアルな鬼ごっこの意味が少し分かってきて、でもこの映画がパラレルワールドの話だと明かされると俄然面白くなくなってしまった。そして、奇妙な塔に王様が住んでいる日本社会、というのを考えただけで、「この映画は設定にムリがある」と思えてしまうようになった。それに、テイストがチープだしね。
あっちの世界とこっちの世界。同じ人物が生きていて、たまたま主人公の母親がこっちからあっちへ行ってしまい・・・というところで、もう説得力がない。なぜ行けるようになってしまったのだ? 1つの世界に同じ人物が2人いてもいいのか? 主人公だけはパラレルに存在せず、1人しかいないというのもなあ・・・。あー、そうですか、と見ている他はない。
あっちの世界で死ねば、こっちの世界でも死んでしまう。なので、両方の世界で危機に遭遇していた場合、こっちの世界の人物を救うとあっちの世界の人物も危機から逃れられる。それはいい。しかし、だ。あっちの世界で妹がレーザー光線で輪切りにされようとしているのを救うため、こっちの世界にやってくるシーンがあった。こっちの世界では、妹は病院の屋上で医師(柄本明)に殺されようとしていた。そこで、こっちの世界の妹を救う。すると、あっちの世界ではレーザー光線がストップして、拘束具も解除する・・・って変じゃないか? こっちの世界を基準とすればそれでいいけれど、あっちの世界を基準にすれは、あっちの世界の妹がレーザー光線で輪切りになれば、こっちの世界の妹も自動的に死ぬんじゃないのかい?
主人公の幼なじみの少年が、あっちの世界で墜落死する。主人公がこっちの世界に戻ると、やはり少年は死んでいた。ところが、ラストで3つめの世界に行くと、なんと生きている。「あのとき、死ななかったのか・・・」って、変じゃない? あっちの世界で死んでいなかったんなら、こっちの世界でも死んでいないはず。・・・というような、辻褄の合わないところもあったりして、うーむ、だね。
妹と、テレビ局のキャスターの女と、母親がでてくるけど、みなあまり魅力的ではなかった。あっちとこっちの世界を行き来して、自分に都合の悪い人物を殺していくと、いつのまにか王様になっていた、っていう設定も、なんかなー。納得より、疑問符ばかりがでてくるね。
アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生2/25新宿ミラノ2監督/バーバラ・リーボヴィッツ脚本/---
原題は"American Masters"(Annie Leibovitz: Life Through a Lens)というものらしい。監督は妹なのね。ふーん。この映画に登場してた人? それにしても、アニー・リーボヴィッツという名前をうかつにも知らなかった。写真を見ると、知っているのもあったんだけど。でもま、もともとが「ローリング・ストーンズ」誌の専属で、それから「ヴァニティ・フェア」でファッションを撮り、そして、コンセプチュアルな写真や、大仕掛けの写真、ポートレートも撮る。なんでもござれ、なのね。
最初の頃はロバート・フランクとカルチェ=ブレッソンに影響され、スタイケンのような写真も撮る。でも、彼女自身も「表紙は広告。本当の写真は中を見て」と言ってたけど、最近のタッチはコマーシャルだよなあ、ファインアートというより。ジャーナリスティックな視線ももった、ファッション写真家、ってところかなあ。最近の、大がかりな仕掛けの写真なんか、それほど新鮮味はないよなあ。色調とか世界観は、よくもまあ短い時間に仕上げちゃうよなあ、というようなデキだけど。被写体と真剣に向き合う、対峙する、というより、これまでの蓄積で、見せ場を心得ていて、ちょいちょい、って創り上げちゃう感じ。それはそれで悪くはないと思うんだけど、やっぱりそれは、コマーシャルに近い感じだよなあ。ロバート・フランクの、にじみでるやるせなさとか、決定的瞬間のブレッソンとは、かなり違うと思う。写真の種類がね。
映画は、生い立ちから追っていく。生まれつき写真的感性を身につけていたんだろうな。そして、「被写体と一体になる」と言っているように、一緒に生活して空気のようになって、相手をリラックスさせて撮る。そういうことが自然にできる人だったんだろう。それってもう、天性のものだ。
それでも麻薬に溺れたり、失敗写真を撮ったり、学びながら成長していく姿が描かれる。ま、他人の素顔を暴く職業なのだから、自分が暴かれても文句は言えまい。スーザン・ソンダクの恋人で、最後を看取った人だとは知らなかった。なーるほどね。でも、ソンダクはアーニーの写真について言いたい放題だったらしい。いったい、どう評価したのか、聞いてみたいところだ。
テンポがある。冒頭から短いカットで撮影現場や、撮影された写真がめまぐるしく登場する。のだけれど、右にタテにフツーの字幕、左下には人物名(でたりでなかったりする)の字幕で、読んでいるうちに絵が変わってしまう。とても忙しい。そのうえこちらは健忘症気味なので、顔は分かるんだけど名前が思い出せない、ということがしょっちゅう。そうすると気になって気になって・・・。集中力が欠けてしまうのだ。どうせなら、すべての人の名前を字幕で出して欲しかった。
面白かったけれど、その最高潮の部分はジョンとヨーコのところで終わってしまい、以後の部分はどうでもいいような気もしないでもない。あれこれすべてを詰め込みすぎているのかも。
それにしても、どうしてミラノ2で上映したんだろう。これは単館系の写真だろうに。東急なら、シネマスクエアとうきゅうでの上映だろうし、でも、それでも東急には似合わない映画だと思う。でも、大きなスクリーンで見られたから良かったけど。そうそう。映された人の中に、ヨーコ以外に日本人がひとりいたけど、どういう人なんだ?
いつか眠りにつく前に2/26新宿武蔵野館3監督/ラホス・コルタイ脚本/スーザン・マイノット、マイケル・カニンガム
原題は“Evening”。死に際の老女が友人の結婚式の一夜を思い出し、かつての恋人の名を口にする。娘たちには誰だか分からない。老女は幻覚の中に、若くして犯したミス(最後にはミスはなかったと満足して逝くんだけどね)と、選んできた人生を見る…。なんか、「めぐりあう時間たち」に似たような構成だなあ、と思っていたら、脚本のマイケル・カニンガムはその「めぐりあう時間たち」の原作者であった。でもって、もうひとりの脚本家スーザン・マイノットは、この映画の原作者。なんか、こだわりが強そう。監督が「海の上のピアニスト」「マレーナ」「アドルフの画集」「華麗なる恋の舞台で」の人なのに、話が中途半端にややこしくて分かりづらいのは、きっと脚本のせいだと思う。
終わってみれば話は単純なのに、とても分かりづらい。というか、ずいぶん勘違いしながら見ていた。
1955年ぐらいの過去。アン(クレア・デインズ)が海岸の屋敷にやってくる。親友ライラの結婚式だ。迎えるのはライラの弟バディ。屋敷に着くと、バディは海岸にいるハリスを「兄貴だ(多分こうだったと思う)」と紹介する。ハリスは「いや、使用人だ」と応える。このやりとりで、僕はライラの結婚相手がハリスだと思いこんだ。つまり、ライラとハリスが結婚するので、ハリスはバディの義理の兄貴になるからね。でも、なんであんな風に紹介したんだろう。それに、使用人の子供が、どうして結婚式に招待されたのだろう。不思議。
そうやって見てきて、結婚式の前夜のパーティ。新郎の父親が挨拶をする。「わが家に彼女を迎え入れるのは・・・」とかいって。ここで「ん?」となった。使用人の父親がこんなことをいうのか? それとも、ハリスが医者になったから、それなりの待遇を受けているのか? と。で、その夜のアンとハリスのキス。これは、結婚前にちょっと羽を伸ばすハリスの勇み足? という理解だった。さて、結婚式の当日。朝、アンはライラの部屋に行き、本当は結婚したくない、と打ち明けられる。マリッジ・ブルーか。と思いつつ聞き流していたのだけれど、彼のことが好きではないし、彼からも好きではないと言われた、と泣くのだ。ここで、こちらは結婚相手がハリスだと思っているので、ライラの口からハリスの名前がでてきても、本当はハリスのことが好きで・・・とは思えなかった。もう一度確認したいセリフだな、あのベッドの上のライラの告白は。この後、アンは海岸でバディと話すのだけれど、突然のようにカールという名前がでてくる。「誰?」だよなあ。で、結婚式の当日、付き添いの様子を見ていて、「あれ?」と気がついた。ライラの結婚相手はハリスじゃないのか! カールが結婚相手なのか。ハリスはフツーの背広姿ではないか。あらら。ここで軌道修正して見ることになったわけだ。でもって、式の夜に、バディがアンに、学生の頃から好きだった、と打ち明ける。この、学生の頃からというのは、もっと前にも出ていたかも知れないけれど、親友の弟が大学時代に同じ授業をとっていたようなことが語られる。「ん?」だよな。バディが同級生で、ライラはその姉という位置づけなのか? ライラが同級生なのか? 困惑。
というわけで、最後に近いところにきても、人物関係がカチッと収まらない。収まらないまま、現在のドラマも進んでいく。アンがピアノの伴奏で歌っているとき、横にいる金髪の娘。この子は、アンが最初に結婚したハリスの子供なんだろう、と思っていた。で、アンはその後に離婚して、別の亭主を貰い、黒髪の妹が生まれたんだろう、と。ところがどっこい。アンはハリスと結婚していなかったのだった。ラストに近いところで、雨の街角でアンとハリスが邂逅するシーンでも、離婚した2人が再開した、と思いこんでいた。でも、後から語られたところによると、ハリスとは結婚せず、別の男と結婚し、離婚して、もう一度結婚したらしい。
以上のように、膨大な勘違いを繰り返しつつ、見終えた。話自体はそんなに悪いとは思わないのだけれど、説明不足が大量にあって、どうしても誤解するような展開になっている(と思う)。それがなければ、もう少し味わい深い話になったかも。でもまあ、カルチャーばばあが好きそうなモチーフとテーマではあるよな。結婚相手の選択のミス、自分を思ってくれた男への対応のミス、その後の男選びのミス・・・。理想は高く、有名な歌手になろうとしつつ、できなかった人生。ああ、あのときあの男と結婚していれば・・・と思ったところで、それは無意味だと思うがなあ。アンがハリスと結婚したところで、料理も育児も満足にできない女なんだから、さっさと離婚されているに違いないと思うぞ。
現在のアンの2人の娘も、姉はライラに当てはまり、妹はアンに当てはまる。妹は姉を「つまらない人生」と思い、姉は妹を「もっと落ち着いた人生を」と思う。ま、結局、同じ様なことが繰り返されるというわけだな。好きでもない相手と結婚したライラは子供を3人もうけ、離婚もせず、夫を見送っている。一方のアンは、2度の離婚の果てに、ちょっと寂しい最後を迎えようとしている。何が幸せかなんて、分からないよね。
ちなみに、観客のおばさん率80%ぐらいだった。
裏切りの闇で眠れ2/26新宿武蔵野館2監督/フレデリック・シェンデルフェール脚本/フレデリック・シェンデルフェール、ヤン・ブリオン
原題は“Truands”で、ギャングという意味らしい。5分ぐらいで付いていけなくなった。登場人物が多いうえ若いあんちゃんひげ面もろもろ区別がつかなく、いったい何が何やら誰が誰やら誰が何をしようとしているのか、皆目見当が付かない。しばらくすると1人だけ親分らしいのが分かってくるんだけど、そのグループと、最初に出てきた2人組が対立しているんだか仲間なんだかも分からない。「アラブ人の従兄弟」という字幕から、親分の従兄弟なのかと思っていたら、そうではなく、ギャングの部下にアラブ人の従兄弟同士がいるっていうことだと分かってくる。もちろん、その片割れは刑務所から出たばっかりってのは分かってたけどね。で、もう1人の方の従兄弟と、最初に出てきた2人組の片割れが何となく雰囲気が似ていて、混乱。さらに、女性陣もいろいろ登場してくるんだけど、断片的でよく分からず。
それでも、撃ち合い殺戮爆破拷問セックスいたぶりと、過激なシーンがあるので何となく見ていられたけれど、1時間30分ぐらい(かな? たぶん)したところで、退屈してきて、眠くなる。眠る一歩手前までいったけれど、最初に出てきた2人組のヒゲの方が女房の浮気に怒っていたぶりセックスするシーンになって、かろうじて目が覚めた。あとはもう、あいかわらずわけが分からず、いったい何だったんだろう? この映画は。DVDだったら、5分おきぐらいにSTOPして前のシーンを確認して・・・てな見方になるのかも知れない。しかも、メモでもとりながら・・・って、たまんないですなあ、こんなんじゃ。
親分が警察に逮捕されるシーン。全裸で女たちと寝ていて、親分は裸でヨタヨタするんだけど、ここではチンポコがちゃんと見えていた。なのに、ヒゲ男がシャワーを浴びるところでは、チンポコの先っちょ部分のフィルムが削られてボカシになっていた。猥褻か猥褻でないかの判断によっているわけなのか? うーむ。よく分からない。こないだの「レンブラントの夜警」や「アレックス」なんかじゃ、モロにチンポコが見えていたのにね。
親分がトイレで背後からするセックスシーン。なんか、リアルな接触の仕方だったぞ。それに、ヒゲが女房をいたぶりセックスするところでも、女優も男優も前張りなし、ヒゲのふぐりが見えていたけどなあ。あれ、前張りだったのかなあ? 気になってしょうがない。
明るい昼間のシーンが多いので、犯罪=ノワールって感じがしないね。
2時10分からの2回目だったけれど、90席ぐらいの小屋でほぼ満席。オヤジ率が90%かな。となりの「人のセックスを笑うな」より入っていたかも。ここでしか上映していないからなのかな、こんなに男性客が集まるって言うのも。
ある愛の風景2/28ギンレイホール監督/スザンネ・ビア脚本/アナス・トーマス・イェンセン
原題は“Brodre”。デンマーク映画。
何の先入観もないまま見はじめた。最初どこの国の映画か分からなかった。言葉はドイツ語に似ている。東欧か? 旧ソ連から独立した国の言葉でいない。ポーランド? ハンガリー? アフガニスタンに多国籍軍を投入した国、だよなあ。西側? と思っていたら、自転車をプレゼントするシーンで、赤字に十字の旗。おお。北欧か。ノルウェー、フィンランドは白地とか青地だったよなあ。あとはスウェーデンとデンマークか。なんて見ていたら、捕虜になった場面でイギリス将校に国籍を訊かれ、デンマークと応えるシーンがあって、やっと確定できた。やれやれ。そういえば「幸せになるためのイタリア語講座」とか、いくつか見ているのになあ。
刑務所で始まって刑務所で終わる。最初は、銀行強盗をした弟の出所。迎えに行くのは兄らしいんだけど、両親と兄の家族で出所祝いをしてやるという感覚が、脳天気に思えた。外国では、家族から強盗がでても、そんなに引け目を感じずに生活できるのかなあ。最後の場面は、アフガニスタンでの捕虜生活からもどってきた兄が収監され、そこに妻が面会に行くシーン。兄は、ここでやっと“告白”することになる。
兄と弟は、対比的に描かれる。成績がよくてスポーツマン、軍隊で出世して少佐になっているのだから、父親は誇りにしている。一方の弟は、勉強もスポーツも苦手。遊びまくって酒浸りで、銀行強盗をしてとっつかまる。しかし、この兄弟の安定度は、映画が終わったときには逆転している。人間は、いつ転落するかも分からないし、心がけ次第で上昇だってできる、ということかも。
デンマークは、アフガニスタンに出兵していたんだね。最初の方で、兄の少佐が部下に「予想外のリスクは起こらない」と言うセリフが、辛い。だって兄は予想外の状態に陥り、とんでもないことをして生き延びるのだから。アフガンで、行方不明の部下を捜しに行く途中のヘリが撃墜され、乗っていた兄が死んでしまう。これにはたまげた。だって、主人公のような扱いの人間が冒頭で死んでしまうのだから。では、弟が主人公で、兄嫁との恋物語が始まるのか? と思っていたら、そういうことにはならない。日本題のような軟弱な内容ではなかった。偶然にも命拾いした、という設定で兄がタリバンの捕虜になり、閉じ込められていたのだ。おお。やっぱり死んでなかったのね。
でも、故国へは戦死の悲報。愛する人を失って兄嫁はうろたえるが、それを支えたのは弟だった・・・。というところで、実を言うとうんざりした気分になった。兄嫁と弟がデキちゃって。そこに兄が生還してくる。さて、兄嫁は苦悩に陥る・・・。よくある展開だよなあ。見たくないよ、そんな話は。手垢が付いているじゃないか・・・と。ところがどっこい、そうは問屋が卸さなかった。どころか、捕虜の兄には過酷な選択が待ち受けていて、タリバンの命令で「生きたかったら仲間を殺せ」といわれ、撲殺してしまうのだ。ああ。こんな選択はいやだあ。
ここで、兄は仲間を殺さないのではないか、と少しだけ思った。そうして、タリバンにボコボコにされるとか、タリバンが捕虜仲間を殺してしまうとか、そういう話になるのかも・・・とも思った。ところが、冷酷非情にも兄は鉄棒を振り下ろしてしまうのだ・・・。おお。
こういうとき、日本兵ならどうしただろう。仲間を殺すやつもいただろうけれど、これまで映画などで描かれたり、話に書かれだものを思い返すと、潔く殺された人が多かったんじゃないのかなあ、と想像した。仲間を殺すぐらいなら、ころされてやる、と。たとえば「硫黄島からの手紙」でも、一兵卒が自爆して果てている様子が描かれていた。このあたりは、死に対する考え方が少しばかり違うような気もしないでもなかった。ま、印象だけで根拠があるわけではないんだけどね。
でまあ、その後の展開はPTSDで家庭内暴力男になってしまうのだけれど、弟が強盗に入った銀行員の女性も、3年ぐらい精神的ストレスで病院がよいしていたといっていたので、この映画では登場する要素が重複していたり対照的に登場していたりと、巧みな構成がさりげなく取られている。PTSDから回復する人、PTSDに陥る人・・・。加害者だった人が、人を癒す存在になったりする。両親の誇りだった息子が、落ちた偶像になる・・・。人生は流転。いつ、どんなきっかけで、どう転ぶか分からない。
妻は夫(兄)に、告白してくれなければ分かれる、という。どうしても事実を言えなかった兄だけれど、ラストシーンでは妻の胸に顔を埋めて話しはじめる・・・。という終わり方だ。兄のしたことを、両親や妻、子供たちは受け止めることができるのだろうか。いや、本人すら、告白したからといって肩の荷が軽くなるわけではないだろう。ああいう状況を、「いたしかたなかった」と、彼の国の人たちは、許してくれるのだろうか。この映画にはキリスト教の許し、のようなものは登場しなかったけれど、どうなんだろうね。

 
 

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