2008年3月

チーム・バチスタの栄光3/3MOVIX亀有シアター2監督/中村義洋脚本/斎藤ひろし、蒔田光治
小説が売れていて、病院の話だということは知っていたが、内容はよく知らず。「ER」みたいなものかと想像したらさにあらず。これはコメディか? と思うようなところもあってチープな出来。
まず、スピード感がなくテンポが悪い。「ER」と比較して話にならない。カメラは動かないし、とろとろ見せる。なので緊張感も何もない。執刀する助教授が「再鼓動がこなかったときの恐怖は、そこに居た人でないと分からない」というけれど、そういう張りつめた雰囲気は微塵も感じられない。唯一、最後の方で執刀を任された佐野史郎が、手術を終えて鼓動が始まったとき、緊張から解き放たれ、後じさりしてモニタにぶつかるところ、はそこそこ表現されていたけど。
竹内結子が手術のビデオを見ながら、原因は助教授にあるかも、と気づくシーンがある。でも、その手術シーンのどこが問題だったか? ビデオのどこを見て、助教授の視野に異常に気づけたのか、が明らかにされていない。さらに、2段オチとして用意されている麻酔医の件は、助教授の視野異常を発見した後に分かったわけ? ならば、最後の手術でトラップをかける前に助教授に告げるのが筋ではないの? いや、それ以前に、麻酔液を取り替えるなどということを手術中にするなんて、そんな危険な技が厚労省の役人と精神科医の2人の企みでできるの? やっていいの? なんて思ってしまった。真犯人のサイコな面があっさり、なのもつまらない。
それにしても、視野がまともではないのに手術をつづけたり、それをとがめ立てしない医師がいたりというのは、ありなのかい? 犯罪に問われないの? そんなに外科医をつづけたいの? 視野の欠損のせいで義理の弟の腕をメスで切っちゃったのに、義理の弟が義理の兄をかばうのはなぜ? とか、不明確な部分も残したまま終わってしまう。
というわけで、なかなかに杜撰な話であると思う。それと、最終的に厚労省の役人(阿部寛)が手柄をもっていってしまうのも、ちょっとなあ。医者が極悪人で役人が立派にみえるじゃん。「
奈緒子3/1MOVIX亀有シアター2監督/古厩智之脚本/林民夫、古厩智之、長尾洋平
冒頭に難があるが、それ以外はとても素晴らしい。感動的。
幼いとき、溺れた自分を助けてくれた人が死んでしまった・・・という負い目を背負って生きている奈緒子。自分の父親は殺されてしまった、とわだかまりをもちつづけている雄介。その2人が高校生として再会し、溝を埋めていく物語、だな。
多くの下手な監督がストーリーや人物、人物の関係性などをしきりに説明しようとするのに対し、この映画では冒頭の、溺れた奈緒子を助けた男が海に飲まれた部分以外、ほとんどが説明的ではない。ごく自然に見せていく。それでいて、ちゃんとつたわってくるものがある。とても素晴らしい。たとえば島の陸上部の面々は、雄介以外まったく説明されていない。せいぜいが、補欠の吉崎ぐらい。あとの先輩や同級生は、なんとなく登場しているだけ。なのに、それぞれがちゃんと区別がつくし、個性や、心の中まで見えてきたりする。時間をかけて延々と写しながら、人物の深みもなにもつたわってこない映画が多い中で、この自然な表現力は何だ!
走るシーンが多い。でも、走るフリをしているんじゃなくて、ちゃんと走っていることが見える。額や頬にへばりついた油っぽい汗、汗でぬれた上衣、肩で息をする様子。みんな本物だ。本当に走って、へろへろになっている所を写しているから、作為が感じられない。素直に見ることができる。
キャスティングがよい。陸上部の面々の、一人ひとりがなんと個性的なことか。下級生の雄介に嫉妬する上級生や、自分の限界を感じている吉崎。監督の鶴瓶も魅力的だ。ただし、奈緒子の両親や、幼いときの奈緒子は、描き方も含めていまひとつだと思うけどね。
奈緒子が島に着き、監督の家にたどり着き、ゴミ捨てにでるシーンがある。手持ちの長回し。思いがけず風が強い。奈緒子はゴミ袋をひとつ落としてしまい、それを拾って、放り投げる。ついでに落ちていた缶を拾って、これも投げ入れる。それから空き地をゆらゆらと歩き回り、ふと振り返ると雄介と目が合う。このシーンが、印象的。とりあえず鶴瓶の誘いに乗って島へ来たけれど、どうしていいのか迷っている奈緒子の心情、それを冷静に見ている雄介の立場が、よく表現されていると思う。
他にも、雄介に給水しようとして拒絶されるシーンも、ぴりぴりくる。走っているシーンは、本当に嘘がないので、どれも素晴らしい。で、最後。長崎大会で、今度こそ奈緒子は雄介に給水を渡せる。渡すことで理解し合える、ことを表現するのではないかと予想した。そうしたら見事に外れてしまった。その代わりの、雄介とライバルの追いつ追われつが描かれる。ま、ここはリアリズムではなく漫画的だけど、それでも、まあいい。吉崎のがんばりは、がんばれば追いつくかも知れない。それを信じることが大切だ。ということを示唆しているように思えた。
それにしても、上野樹里はいい。22歳ぐらいのはずなのに、まだ高校の制服が似合ってしまったりする。雄介がゴールして、奈緒子が涙を流して喜ぶところなど、上野樹里は本当に泣いているみたい。素では天然らしいが、彼女には儚げで切ない表情ができる。「虹の女神」なんかがその代表だな。この映画も、そっちの口。ひたすら走り、見つめる様子が、ぴたりとハマっていた。服装も、ほんとうの普段着みたいで、質素で、でもそれが色っぽかったりして、なかなかよかった。
俺たちフィギュアスケーター3/4池袋東急監督/ウィル・スペック、ジョシュ・ゴードン脚本/ジェフ・コックス、クレイグ・コックス、ジョン・オルトシュラー、デイヴ・クリンスキー
原題は“Blades of Glory”。男がペアでフィギュアスケートの世界一を目指す、というバカ・コメディ。面白いところ、バカバカしくて笑っちゃうところはあるんだけど、文句なく笑えるレベルまで行かず。もっと下品で下らなくてもいいんじゃないのかな。
女性陣に可愛い人がいないのも難点。ライバルのカップルの女は、ババアじゃん。そのアシスタント見たいのをやってる娘も、かなりの年と見た。
ウィル・フェレルとか、出演者がみなスケート上手とは限らないだろうに、なかなか見事に滑っているように見える。どこまで、どうやってCGが使われているのか、知りたいところだね。
ちょっくら寝不足・疲労状態だったので、はじまって10分ぐらいで眠くなり、20分目ぐらいから10分ぐらい寝てしまった。ややや。
ライラの冒険 黄金の羅針盤3/5上野東急監督/クリス・ワイツ脚本/クリス・ワイツ
原題は“The Golden Compass”。本編開始前に日本語で「これは3部作の1作目で・・・」と説明が出る(実はボーッとしていたので内容が読み切れず)。字幕製作者が3人連名で出てくる。
本日はレディースデイ。予告編のときから女性の話し声がときどき聞こえていた。映画が始まってもそれが収まらない。電話でもしているのか? というような口ぶり。とても気になって、冒頭から集中できず。この映画、冒頭からセリフで場面設定などをべらべら話すのだ。それが頭に入らない。なのに話は、とてもスピーディに進む。こんな状態で見ても価値がない。文句を言いに行けば映画が見られない。かといってスタッフに言って再上映しろとも言えない。再入場券をくれとも言いにくい。いらだつ。そのうち男性客が諫めた。しばらく静かになったが、でも、少しぶつぶつはつづいている。どんな女が何を話しているのか知りたい衝動にかられたが、映画と秤にかけると、もったいない、という気分。でも、しだいに静かになった。それでまあ、途中から「もう一度頭だけを見直せばいいや」という気分になっていった。
さて、内容だけれど、荒筋をざっくり紹介されたような気分。人物は類型的で厚みがなくパターン化されていて、場面はどんどん変わる。ダイジェストを見ているみたい。さらに状況設定や、その他あれやこれやは概ねセリフで説明されていく。ドラマで見せる部分が少なく王位を奪われた白クマの一件が、なんとかまともに描かれていた程度。あとはもう、よくわからんです。キャラも突然現れ、いつのまにか味方になっている。そこに「なぜだ?」を挟む余地はない。というわけで最後まで見たけど、よく分からなくて感情移入もできなかった。
最初に出てきたダストはどこへ行った? 学寮ってなんなのだ? あの魔女は何なんだ? 切り離しの効果は? 動物に形を変えて人のそばに寄り添うダイモンは分離した魂らしいが、魂が傷つけられると本人も傷つくの? でも、そうじゃない場面もあったような・・・。どうしてジブシャンの子供だけが掠われるの? なぜダニエル・クレイグは羅針盤を学校に寄贈し、学長はまたその羅針盤をライラに手渡したのだ? なぜライラだけが羅針盤を読めるのだ?
ま、3部作の最初で、ひととおりお披露目、ということなのかも知れないけれど。でも、「ハリ・ポタ」では最初に丁寧に書き込んでいたよなあ。尺が105分程度だったからなのかい? だったら150分ぐらいにすればよかったではないか、とも思ってしまう。
ダニエル・クレイグが南極の雪山にいく直前のつなぎの部分(40分目ぐらい)に、右上に妙な赤いものが一瞬現れる。なんか、関係ないカットがつながれているのではないのかなあ。気になる。
ライラの冒険 黄金の羅針盤3/5上野東急監督/クリス・ワイツ脚本/クリス・ワイツ
引き続いて2度目を見た。木の芽どきの妙な女のせいで冒頭が分からず、以後、内容に入れなかったからね。で、冒頭の日本語メッセージも読んだ。この映画は3部作の1作目で異世界をテーマにし、2作目は現在の人間世界、3作目は・・・」とか書いてあった。この映画を見て、結末も何も分からなくて困惑する人が多く出るだろうから、あらかじめのお断りだな。
字幕は、フツーの字幕と監修者と特別監修者(だったかな?)がクレジットされていた。「ハリ・ポタ」のときのようなゴタゴタをなくすため、かもね。でね、用語が分かりやすくなっているようには思えない。また、原作を尊重したようにも感じられない。「かつてオーソリティに反抗してダストを追究する者たちが登場たので、教権が管理するようになった・・・」なんてニコールが最後の方で説明していたけど、「オーソリティ」って、なんだよ! だよなあ。
字幕を読む余裕ができたので、物語の流れは初回より分かった。けれど、ライラが孤児である(最後の方にニコールが「あなたの母親が死んだというのはウソ」みたいなことを言うけれど、それまでライラの家族については説明されていなかったぞ)ことなんか、ずっと説明されていなかった。なぜあの場所(学寮)にいるのかもわからない。学長が「形而上学の講義は」云々といっていたけれど、ひょっとして学んでいるの? 寄宿舎? (あとからWebで大学らしいこともわかったけど)
セリフでの説明を漏れなく読んでみると分からないことはないみたいだけど、固有名詞や名前をしっかり記憶しなくてはならない。それに、設定や人物関係、因果関係なんかもあまり描かれていないので、ちょっと聞き逃すと置いてきぼりになってしまうこと請け合いだ。断片的にかろうじてつながっていても、やっぱり分かりにくいことには変わらない。これは、事前に情報をインプットしておくか、あるいは、今回の俺みたいに1回ざっと見て、Webのオフィシャルサイトの情報なんかを読み、もう一度見るぐらいがちょうどいいのかも。でも、まっさらな状態で理解不能な映画なんて、そんな不親切なのは映画じゃない、と思っているので、糞に近いと思う。
物語がセリフで説明され、かろうじて理屈は合っているとしても、最初に思った疑問は、ほとんど解決されてなかった。結局、「つづく・・・」だし。つづきが見たいほど、めくるめく冒険譚にも思えなかったしね。
それにしても、ジブシャンたちはあのクレバスをどう渡ったのだろう?
プライスレス 素敵な恋の見つけ方3/6ゲートシティホール監督/ピエール・サルヴァドーリ脚本/ピエール・サルヴァドーリ、ブノワ・グラファン
原題は“Hors de prix”。チラシには「玉の輿狙いの 小悪魔」となっているけれど、結婚願望があって、というより、男を引っかけてブランド品を買わせ、生活費も出させている遊び好きのお姉ちゃんって感じだなあ。オドレイ・トトゥは、もう小悪魔には見えない。乳も垂れているし、すでに年増。とびきりの美人でもなく、特別な魅力があるようにも見えない。なので、そもそもの色仕掛けからして、ちょっと説得力がないかも。貢ぎ物をくれる男を失って、かつて知り合った男に次々に電話するもなかなか相手にされず・・・というシーンがあるのだけれど、そこそこの金持ちを引っかけるのが得意にしては、手抜かり過ぎるだろ。
こんな彼女にホテルのウェイターが惚れてしまう・・・というのも、「なんかでえ?」だよなあ。しかも、1年たってもまだ未練たっぷりで追いかける。なけなしの貯金をすべてブランド品に注ぎ込まれても、文句も言わない。それほどの魅力が、オドレイにあるようには、見えないよなあ。どっちかというと、庶民顔だろ、彼女は。冒頭の犬の散歩から、バーでの出会い、そしてベッドイン・・・という流れが、あまり印象的ではない。なんか、メリハリがなくて、いつのまにか話が始まってたのね、という気分。なので、なかなか話に引き込まれない。
展開が変わるのは、一文無しになった元ウェイターが、ばあさんのツバメになっちゃうところ。この変わり身は凄いなと思う。ここから、ちょっと面白くなる。のだけれど、やっぱりフランス映画。ドラマチックな展開というより、せせこましいドタバタと思わせぶりな表現でなかなか前へ進まない。ま、そこがフランス映画の面白さなんだろうけど。ちょっとくどいかな、この映画は。
それにしても、こういう話って、なんか昔もあったような気がするんだけど、オリジナルなのかな。舞台なんかですでにある話を翻案したみたいに思える。それぐらい、話としては基本中の基本のような展開だなあ。だから、まったくつまらない、ということはないんだけどね。
しかし、よーく考えると、ほんとうは生々しい話だよね。金のために金持ちジジイをひっかけ、セックスを提供する若い女。本命がいるのに、好奇心で別の金もってそうな男にも色仕掛けで迫る。ウェイター君(ロンパリなんだよなあ)は、そうやってオドレイに引っかけられたんだよねえ。下半身に抑制がなくて、節約のセの字も知らない女だろ。で、オドレイに貢いですっからかんになったウェイター君は、さっそく金持ち婆さんの若いツバメになってしまう。たまたま若い2人に焦点が当たっているからロマンチックコメディに見えるけど、夜の生活を描いたらかなりの下品になっちゃうよなあ、きっと。最後は意気投合する2人だけど、いつまでつづくのか、怪しいものだ。
元ホテルマンの習性で他の客の荷物を思わず持ってしまったり・・・というのは面白いのだけれど、今村昌平が「うなぎ」で使っている手法(刑務所から出てきたばかりの役所広司が、思わずランニングについて行ってしまう・・・というやつ)なので、驚きはない。
婆さんに「本を持ってきて」といわれ取りに行くウェイター君。そこにオドレイが入ってきて・・・。というシーン。左側の入口に、ペアの壺がある。その両脇の壁には、同じサイズの額が飾ってある。そして右端には中国人2人が並んでいる絵がある。2人がペアであることの暗示だ。そこに婆さんがウェイター君を探しにやってくる。若い二人はベランダに移動する。と、中国人の絵の全体が見えて、実は3人描かれていることが分かる! おー。構図的に、小道具的に遊んでいるなあ。1ユーロコインも重要な役割を果たしているけれど、最後に2人がバイクで有料道路に入るときも、役だってくれる。なかなか粋な使い方だ。しかも、コインを壺に投げる(という投入方式なのだね)と、ゲートが開き、2人の乗ったバイクが右にカーブしながら遠ざかっていく。そこに、ゲートのバーが降りてくると、そこに赤丸に白い横棒の進入禁止マーク。2人の恋に、進入禁止というわけだ。なかなかここも、小道具が効いている。ほかにも、あったんだろうか、こういう使い方。どうなんだろうね。
ガチ☆ボーイ3/7テアトルダイヤ監督/小泉徳宏脚本/西田征史
事故で記憶障害になった青年が、大学のプロレス研究会で張り切る物語・・・なんだけど、最終的に障害を克服できているわけでもないし、将来に向けた生き甲斐を見出したわけでもない。なんとなく、がんばった、というだけに終わっている。でも、表面的な印象は、病気を克服した、に見えるのかも知れない。ま、ライバルに根性で立ち向かっていく最後のバトルは印象的だけど、いまどき大学生のプロレスかよ、という気もしないでもない。
同じ様な短期記憶障害は「メメント」「博士の愛した数式」といろいろあるけど、似た感じなのは「50回目のファースト・キス」かなあ。どっちも、病気を楽天的に捉えているところがあるような気がする。
主演の佐藤隆太が、登場シーンから落ち込んでいない。元気そのもの。だから、病気の深刻さがほとんどつたわってこない。しかも、予告編を見てしまっているので、主人公に記憶障害があり、そのせいでプロレスも上手くならないことを知ってしまっている。もし、知らないで見ていたら、意外な展開、と評価できたかも知れない。予告が語りすぎると、映画の面白さ、意外な展開も、あまり意味を成さなくなってしまうのかも知れない。なので、最初の30分ぐらいはちょっと退屈。
病気を説明するちょっと深刻なシーンがあって、あとは、佐藤の病気を知ってしまった2人の仲間と、それ以外の知らない仲間とのズレで物語が進む。このあたりは、ちょっとムリに話をつくっている感じ。毎日、起きたら日記を読んで自分の今を確認する作業から入らなくてはならないのに、合宿に参加したり、仲間とフツーの会話が成立している、ということの方が驚き。後半に、一晩中寝なかったら記憶が保持されていて、バスに乗っている間にうたた寝して記憶が飛んでしまう、というシーンがあったけれど、ああいう深刻さをもっと前に見せていてもよかったんじゃないのかな。そうすると、佐藤がつねに不安を抱えながら生きている、ということがつたわったかも。
途中から、ライバルが登場する。佐藤が所属する大学は「安全第一」で、ガチンコ勝負はしない主義。連盟にも加入させてもらえない。一方のライバルは連盟の名手で実力者・・・という、このライバル争いが大雑把にしか描かれていないのが物足りない。だから、ラストのライバルとのダッグマッチも、なんでこういう展開になるの? と思ってしまう。そもそも佐藤の夢中のパフォーマンス(映像ではでてこない)を見て、これなら客が呼べるとライバルが誘って試合を組み、佐藤に勝たせてきた。おかげで佐藤は実力があると勘違いしているわけだけれど、5試合目になってライバルが、佐藤とガチンコでやって叩きのめす、と佐藤の仲間に宣言したわけ。けれど、安全第一を標榜しているのにそんなマッチを受けるのも「?」だし、そのことを佐藤に告げてもいない。いったいどういう思惑で試合を受けたのか? ここまでの経緯が、なんとなくしか描かれていない。これは問題ではないのかな。
仲間に「いつまでたってもプロレスを覚えないな」と嘆かれるところがあるけれど、受け身なんか記憶するというより体で覚えるものなのではないの? それから、実家が風呂屋なんだけど、いまどき、しかも北海道だろ。冬なんか客は来ないのではないの? なんか、あり得ない気がするけどなあ。
たかが大学のプロレス研究会が、あんなマットを所持し、移動・設置するのはムリだ。最後の試合でも立派なポスターや招待券も印刷している。そんな資金はどこからでた? 試合だって無料で見せているし・・・と、冷静に見れば変なところばかり。さらに、最後のライバルとの試合も、あれがガチンコ? いまどきプロレスにガチンコなんかないのは百も承知の話ではないか。しかも、学生なんだからね。ここは、まるきり嘘くさい。
というような突っ込み所はたくさんあるのだけれど、プロレスシーンは本人たちがやっているように見えて、いろいろ技もかけられているんだけど、どこまで本人たちがやっているのか、ちょっと気になった。まあ、そこそこ楽しめるかな。※障害者を考慮した字幕付きだった。気にならないだろう、と思っていたのだけれど、やっぱり気になった。。
ホテル・シュヴァリエ3/11新宿武蔵野館1監督/ウェス・アンダーソン脚本/ウェス・アンダーソン
「ダージリン急行」に先だって同時上映された13分の短編。三男がパリのホテルにいる。彼を追いかけてきた女から電話がかかってくる。「パリにいる」と。「30分ぐらいで行く」と。三男は風呂にお湯を張り、iPodで音楽を流す。やってきたのは、なんとナタリー・ポートマン。彼女はルームサービスにブラッディマリーを頼む(なんか意味がありそう?)。2人は濃厚なキスをして、三男は彼女の下半身を裸にする。彼女の体は痣でいっぱい。2人がセックスしたかどうかは分からない。2人はベランダに出て、「ぼくのパリ」の風景を見る。という、それだけの話。これだけでは何だか分からない話だけれど、「ダージリン急行」を見ると、つながっていることが分かる仕組み。もっとも、だからどーだというような意味はないように思うけどね。でも、ナタリー・ポートマンの尻が見られるのだよ!
ダージリン急行3/11新宿武蔵野館1監督/ウェス・アンダーソン脚本/ウェス・アンダーソン、ロマン・コッポラ、ジェイソン・シュワルツマン
原題は“The Darjeeling Limited”。字幕と字幕監修というのがでていた。日本語の字幕を英訳し、それを監督に見せたってことなね。
父が事故死。これまで仲違いしてきた3人の息子が、インドへ心の旅に行でかける。そこで起きるドタバタとあれこれ。たいして奥深い感じはしないのだけれど、もしかしたら何か示唆しているのかな、と思ったりしてしまう。なにせ「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」「ライフ・アクアティック」のウェス・アンダーソン監督だからね。でね、わけの分からなかった「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」、ほぼ全編寝てしまった「ライフ・アクアティック」と比べると、深読みしなくてもフツーに分かりやすい映画だと思う。長兄はバイク事故で顔面傷だらけ。次男(エイドリアン・ブロディ)はあまり印象深くない。三男は色事師。ささいなことで言い合うけれど、それほど仲が悪いようにも見えない。それがなぜ心の旅に? というところから説得力がないので、全編にわたってどーでもいい話だと思う。
長兄は旅の予定表などを作成するためのアシスタントを同行させている。金があるから? 3人の荷物はネーム入りの高級カバン3〜4分ある。昔からの金持ちということだよね。ときにそれを抱え、ポーターに運ばせ、列車は3人部屋でと、大名旅行。いまどきの若者ならリュックを背負うところだろうに、なんだこれはという身支度だ。この荷物を、最後には全て棄ててしまう。このあたりに、映画の言いたいことがあるのかも知れない。階級制なんか、関係あるのかなあ? でも、多すぎる手荷物を棄てた理由は、とくに描かれていないよね。
三男は、パリで恋人と会ってきたにもかかわらず、さっそく列車のウェイトレスを誘ってセックスしてしまう。ありえねー。けどま、どんな女でももてなそうという細かな気配りがあるのがおかしい。女を迎えたら、iPodで音楽、だからね。
子供の頃に自分たちを棄ててでていった母親を、3人は訪ねる。どういうわけかインドのキリスト教の修道院にいる。しかも、3人がやってきたら表面的には歓迎しているものの、本音は会いたくないであって、翌日には修道院を出て行ってしまっている。子供は煩わしいだけ、ということなのだろうか。
次男には、アメリカで子供が誕生する。はたして、次男夫婦は上手くいっているの? よく分からないも。
冒頭にビル・マーレイが登場する。ほとんど意味がないちょい役。ナタリー・ポートマンは1カットだけ。すでに「ホテル・シュヴァリエ」で登場しているから、それでいいんだろうけど。彼女もたいした意味はない。
とまあ、とりとめにしか感想が書けない。のだけれど、全体を通したのんびりした感じは、悠久の大地インドであることも大いに関係しているだろうけれど、なかなか面白い。それにしても、インドはバイクがふえたね。リキシャよりオートリキシャが幅を利かせているし。ずいぶん発達したということなのかな。
バンテージ・ポイント3/11上野東急2監督/ピート・トラヴィス脚本/バリー・L・レヴィ
原題は“Vantage Point”。予告編では、大統領の狙撃が8つの視点から描かれる、というようなことがいわれていた。なので「藪の中」のような話かと思っていた。全然違う。異なる視点からの描写から次第に明らかになっていく事件の全貌が、めくるめく展開。意外性たっぷりでスピーディで、とても面白かった。
テレビクルーの視点、シークレット・サービスの視点、地元の警察官の視点、黒人観光客の視点あたりまでは、「なんだ、同じことの繰り返しか」と甘く見ていた。ところが大統領が替え玉だった、というあたりから、それまである人に“見えていたこと”が、本当は別の意味を持っていることが明らかにされていく。たとえば、地元の警官が自分の恋人と知らない男の会話を目撃するのだけれど、それは浮気などではなく反目し合っていたのだった、ということが分かってくる。こういうような、観客の予想を裏切る描写がたくさんでてきて、「おっ」「なるほど」と目からウロコ状態になる。そして、実はバラバラにしか見えていなかった人物たちが、実は深くつながっていたことも見えてくる。とてもよくできた脚本だと思う。もっとも、テログループの全貌はよく分からないのだけどね。でも、分からない程度のつながりでも、十分によいと思わせるものがある。
2年ぐらい前に見た「セルラー」のときのような、息つく暇もない疾走感がある。
パンズ・ラビリンス3/18ギンレイホール監督/ギレルモ・デル・トロ脚本/ギレルモ・デル・トロ
原題は“Laberinto del fauno, El ”。メキシコ、スペイン、アメリカ合作らしいが、舞台はスペイン。評判がいいので期待したが、ちょっと残念。期待値の半分ぐらいしか満足できなかった。
ファンタジーだけれど、いま流行の陽気で脳天気なお伽の国的要素はほとんどない。つまりまあ、人間が異世界へ行く、というのではなく、異世界から人間界へやってきた姫が、もとの世界に戻るために苦労するという話なので、異世界が出てこないのだ。出てくるのは80%フランコ政権下のスペインで、異世界への入口的なエリアが20%ぐらいだ。とっても暗い「不思議の国のアリス」みたいな感じ。
そういう設定が悪いわけではない。それなりの妖しさが足りないのだ。なんだか全体に素っ気なくて味気ない。おどろおどろしい所が足りない。奥深さ、神秘性、驚愕、畏怖…といった雰囲気が希薄すぎる。なんとなく迷宮の入口まで誘われ、簡単にパンの要求に応えてしまう。っていうか、なんでパンは少女オフェリアにカエルの腹の中から鍵を取り出せとか命令するのだ? あの冒険(ともいえないようなことだけど)の意味は何なのだ?
それに、オフェリアが挑む冒険も、少なく大したことがない。1つめはカエルで、2つめはその鍵を使って黄金の短剣を取ってくるというもの。その短剣のシーンでは、あれほど「食うな」と言われているのにテーブルのぶどうをつまんで、手に目のある化け物に追われ、妖精たちを失ってしまう。オフェリアがおっちょこちょいだと最初に説明されているならまだしも、そんなことはない。なのに、後半で赤ん坊を奪うときも、壁にドアをつくれるチョークをテーブルの上に置き忘れる。この娘はバカか、と思ってしまった。母親の体調不良を治すためベッドの下に人間の形をしたマンドレイクを置くのもそうだ。不用意にベッドの下に潜り込み、見つかってしまう。そのマンドレイクを母親が暖炉に棄てて焼いたから、母親は死んでしまうのだぜ。オフェリアが殺したも同然ではないの? 思慮が足りなさすぎないか、オフェリアは。というように、オフェリアへの感情移入がしにくい状態になっている。端的に言えば、彼女には妖しい魅力がない。あんな娘が最後には地底の国にもどり、国を平穏に治めたなんて信じられないね。
バカと言えば、オフェリアの母親もバカだよね。あんな残虐で人と人とも思わないような男=大尉といい仲になっちゃうんだから。信じられないよね。その大尉は、妻よりも男の子供が欲しいらしい。なんか、あまりにも露骨なステレオタイプ。なぜにあそこまで類型的に人物を造形しちゃうかなあ。もうちょい神秘的に描けよ。
そもそもの設定にも説得力が足りない。たとえば主人公のオフェリアが地底の姫だった、という根拠がどこにも示されていない。たまたま路傍の石をはめ込んだから、なのかい? それとも出自からしてそうなのか。人間界にやってきて死んでしまった姫の霊が乗り移ったのか。その辺りが描かれていない。さらに、パンという羊男に「お前は姫だ。言う通りにすれば地底に戻れる」と言われて鍵や剣を探しに行くのだけれど、なんで素直に信じてしまうの? そんなに現実から逃避したいのか? 母親を棄ててまでも…。理解できない。なぜ彼女は地底世界に行きたいと思ったのか。そこが分からない。なので、いくら妖しそうな雰囲気が表現されていたとしても、素直に信じることができないのだよね。
独裁政権下の暗い現実。これは、「愛の嵐」なんかで、妖しい魅力の満ちた時代に描かれたりしている(あっちはドイツだけど)。この映画でも暗い時代背景でそういう空気感を出そうとしているのかも知れないけれど、この現実世界もいまひとつ妖しさが足りないと思う。そもそも悪役が血も涙もない残虐な大尉ひとり。大尉が残虐なのは父親である将軍がなんとかかんとかで、将軍の時計が関係しているようなのだけれど、これも表現が表面的すぎると思う。もう少しドラマをつくれよ。戦争が狂気をつくるとか残虐さを加速させるとか言うのではなく、ただの拷問好き殺し好き血が大好き男ってだけじゃん。それじゃつまらないよなあ。何も読み取れないよ。
伏線がミエミエ。たとえば女中がナイフを前掛けに折り込んで持ち歩いているのを2度もしっかり見せている。あれじゃ、バカでもわかるよ。もっとさりげなく表現しないとね。それから痛いシーンが多い。拷問シーンや、大尉が口を切り裂かれるところ。その口を大尉が自ら縫うところ。あんまり必然性のない話で、わざわざ見せなくてもいいような部分だね。そんなところで怖がらせないで、もっと基本的なところでおどろおどろしさを出して欲しかったね。
で、ラスト。パンに赤ん坊の弟を殺せ、といわれて殺せず、オフェリアは大尉の銃弾をうけて死ぬのだけれど、実は弟を差し出さなかったのが正解で、この世では死んでも魂はちゃんと地底世界に戻った、という説明。門番がひねくれた課題を出して、それに素直に従わないのが正解、というのは、よくあるパターンだよね。でも、そのままハッピーエンドにしないで、現実世界での死を見せつけて終わるのがこの映画のひねくれたところかも。フツーなら殺さずに済ますものをあえて殺しているのだから、人間の住むこの世は非道いところ、とでも言いたいのだろう。悲観的な人間観、世界観が現れていると思う。まあ、この世で幸せでなくても、あの世では幸せになるかもよ、といっているのかも知れない。その意味では宗教色が強い監督なのかも。でも、そういうパラドックスを強調するのなら、大尉の本性は悪魔であるとでもした方が納得しやすいかもね。
もっとも、異世界の話すべては現実から逃避したいオフェリアの空想なのかも知れないんだけどね。
この道は母へとつづく3/21ギンレイホール監督/アンドレイ・クラフチューク脚本/アンドレイ・ロマーノフ
原題は“Italianetz”。英語タイトルは“Italian”。ロシア映画。
孤児の話。「サイダーハウスルール」のように、もらわれていく子ともらわれない子が冒頭で紹介される。主人公の少年ワーニャはイタリア人にもらわれることになったので、イタリアン、というあだ名が付いた。もらい手が付いただけで幸せなのに、ワーニャは生みの親を捜そうとする。すでにもらわれていった少年の母親が突然孤児院を訪ねてきたからだ。なので、ワーニャの実の親捜しの逃避行が始まる。日本なら昭和20〜30年代に扱っていただろう題材。ロシアも、日本の戦後と同じ様な動乱の時代にいるのだろう。その事実をそのまま映画にできるような時代になったのだね。
ずうっと、何が不満で母親探しなんかするんだ? と思ってみていた。実の親よりイタリアの方がいいじゃないか。自分を棄てた親だろ? どんな親か分からないじゃないか。と。ところが、後半も後になって、ワーニャが以前にいた孤児院にたどり着き、そこの院長の話を聞いて、そういうことかと初めてわかった。いまの孤児院は、院長とコーディネーターが孤児を外国に売り飛ばしていたのだ。そんな風には見えなかったので、映画の主旨と理屈が分かったのだ。でも、それでも、自分を棄てた親よりイタリアの方がいいかも知れないという考えはあまり変わらなかったけどね。ま、自分が既に大人で、子供の気持ちが分からないというのもあるんだろうけど。
人身売買もどき、であることがあまり描かれていないのだよね。なぜ子供たちはこの孤児院にくるようになったのか。もらわれていった子供たちは幸せか? といった、不届き者が孤児を商売にしているというところをもっと強調すれば、印象は変わってくるかも知れないけど。
なので、養子縁組を斡旋しているマダムと運転手の2人組は、ロシアにすれば国辱なのかも知れないけど、孤児にとっては福音だろうなあ。そもそも社会が乱れていて経済が安定していないから孤児が誕生する。その孤児を国がちゃんと面倒見ないから、斡旋業も幅を利かす。しかも、犯罪ではないんだろ。
ワーニャが昔いた孤児院の院長は「嫌な世の中になったもんだ」的なことを漏らしていたけど、では、ソ連時代はよかったってことなのかねえ。よく分からん。
というわけで、4〜50年前につくられた映画という観点で見ると、面白い視点の映画かも知れないけれど、いまの日本にとってはどっかの後進国のお話しのように見えてしまう。こんな状態の国がまだあるのね、と。でも、こんな状態というのは養子のことより、社会状況のことに目が行っている。チンピラ青少年。少女の売春・盗み・嘘。子供たちも青年も、よそ者と見たらいちゃもんをいけ殴る、奪う。大人はみんな酔っぱらい。ステレオタイプ過ぎるけれど、そう描かれていると、いまのロシアは戦後すぐの日本と同じだと見えてくる。経済が発展し、豊かになってきてからのテーマというのは、まだまだなのかもね。
ワーニャはなんとか住所をたどって実の母親とめぐりあう、というところで話は終わっている。最後にワーニャの手紙が朗読されているので、邪魔者扱いされずに生活しているようだ。がしかし、ちょっと話がうますぎる。母親に巡り会えるなんて、フツーはあり得ないだろう。巡り会ったとしても、棄てた理由があるわけで、そうすんなり受け入れられるとは限らない。しかも母親に男ができればこぶつきではまずいだろうし、試練はこれからもつづく、としか思えない。たぶん母親は、あの運転手が治療を受けていた病院の看護婦? なのかな? 違うかな。とりあえず映画はハッピーエンドで終わっているけれど、現実はそう甘くはないのではないだろうか。
パンズ・ラビリンス3/18ギンレイホール監督/ギレルモ・デル・トロ脚本/ギレルモ・デル・トロ
2度目。ムダのない脚本だけれど、やっぱり説得力はない。ウサギ狩りの親子を詰問するシーン。殺した後にカバンからウサギが出てくるのだが、殺される前に「獲物のウサギはカバンの中」と言えばいいだろうに、もたもたしていて殺されてしまう不思議。しかも、ウサギはカバンの底にしまっていて、上には書類がたくさんって、変だよなあ。
大蝦蟇に飲ませた魔法の石はどこから調達してきたのだ?
配給で配るパンは、紙袋だけ? パンはないの? あれは、どういう意味なんだ? フランコ政権のパンは中味がないという象徴?
なぜ女中は大尉の息の根を止めなかったのだろう?
羊男=パンは最後に、純潔な者を捧げるために弟の血を2〜3滴といっていた。そのぐらいなら構わないんじゃないのか? たとえ赤ん坊でも、と思った。
地底の国王たちが座っている椅子。あれは何だ。30メートルぐらい高いぞ。どうやって座ったんだ。意味ないだろ、あの高さは。
ラストのナレーションで「オフェリアは国王の跡を継いで何世紀も国を治めた。オフェリアが残した印は見つけることができる」とか言っていたけど、それは蝦蟇が居座っていた大木から出てきた新芽のようなもののことなのか? まさか地底に降りてから再度、地上に現れて印をつけたのではあるまいな。
最後のナレーションだけが、オフェリアの魂が地底で甦った、といっている。あのナレーションがなかったら、ラストの地底の謁見シーンはオフェリアの妄想、と片づけてもいいような感じなんだけどなあ。あのナレーションは余計ではなかろうかしらん。
大尉の父親の将軍は、死ぬときに時計を割って「死の時刻をつたえた」らしいが、なんの意味があるのだろう? わからん
というわけで、相変わらずいまひとつ、の映画だった。最初に迷宮に降りていくところ辺りから、やっぱり同じように眠くなったし。あまり刺激されなかったな。
燃えよ!ピンポン3/25新宿武蔵野館3監督/ロバート・ベン・ガラント脚本/トーマス・レノン、ロバート・ベン・ガラント
原題は“Balls of Fury”。furyは憤激、激情という意味だから、「怒りの金球」とでもいうような意味なのかな? 
バカ映画に属するのだろうけれど、日本人でも笑えるようなオーソドックスで世界普遍のギャグに満ちていた。最初のうちは笑っていたんだけど、30分を過ぎると眠くなってきた。1時間目ぐらい、南米に乗り込んで卓球大会が開かれる、というところ辺りから、かなり眠くなってきて、寝入る寸前。でもなんとか寝なかった。なので、クライマックスはよく覚えていない。
映画の骨格は、「燃えよ、ドラゴン」そっくり。それで邦題に「燃えよ」をつけたのかな。もっとも、こっちはコメディだからスリルやサスペンスはないけどね。中国人のドラゴンという少女は福原愛を思わせる気の強さ。大会に参加する日本人は相撲のまわし姿というのは、ううむ、だなあ。
4ヶ月、3週と2日3/27銀座テアトルシネマ監督/クリスティアン・ムンジウ脚本/クリスティアン・ムンジウ
原題は“4 luni, 3 saptamani si 2 zile。”中味についての知識はまったくなかった。そのせいか、冒頭から「?」のシーンが延々とつづくのが少しいらついたし、また興味をそそった。最初、彼女たちは囚人か? と思った。部屋がそんな風だったから。逃げようとしてイネのかな? と。でも、物資調達係が男なので、いくら刑務所といっても…。それに1987年のルーマニアなら解放前だし、こんな自由はないだろう。なんて思っていたら、なんと大学の寮らしいことが分かった。凄いな。いくら共同部屋でも、物置みたいな所に住んでたのね。
何人かが画面に入ってくると、誰がしゃべっているのか分からなくなるのが弱った。しゃべり方がそうなのか。誰がしゃべっていようと本筋に関係ないからそうなのか。こういうシーンは2つあって、1つは最初の寮のなかのシーン。2つめは主人公の恋人の家でのシーン。後者は、雰囲気さえ分かればいいよ、みたいな感じだった。
女学生が2人。1人は妊娠女。もう1人はルームメイト。どうやら堕胎は犯罪らしく、とても恐れている。でも、その背景が分からないから、あんまり意外性はなかった。この映画の核心が堕胎、というのが分かったのは、ルームメイトが男をホテルの部屋に連れていってから。最初に思ったのは「なーんだ」という思い(それと、題名はそういうことだったのか、と)。だって、堕胎がもの凄い犯罪だなんて想像できないからね。どうなるんだろう、と思ってみていたら、男は闇の堕胎医。しかし、それだけで話がもつのか? と思ったら、持たせてしまった。それぐらい、昔のワルシャワでは大変なことだったのね。しかし、いまさら旧体制化の管理国家の状態を描いて何になるのだろう? むしろ、人間ドラマとしてみた方が面白いかも。
妊娠女はずぼらでいい加減で言い訳ばかりしてワガママ。自分中心にしか考えない。ルームメイトは親身になって妊娠女のためを思い尽くすが、まったく通じていない。人がいいったらありゃしない。そういう性格の違う2人の物語、と見ることもできるわけで。話が深刻なだけ迫ってくるけれど、設定を変えればコメディにもなりそうな気もする。
金が足りないからと医者は2人の体を要求する。そうしたら、ルームメイトの方からさっさと服を脱いで相手をしちゃうのには驚いた。たかが友だちが妊娠しただけだろ。なのに、どーしてルームメイトが貞操を提供しなくちゃならないの? 「やだよ、そんなの」と言えないの? それぐらいルーマニアでは堕胎がヤバイことなの? 医師は10年刑務所だと言ってたけど。いやまて。未婚の母も犯罪なの? うーむ。そういうところが分からないので、何とも言いがたい。ま、あの当時のルーマニアでは大変だったんだろうね。
ペネロピ3/31テアトルタイムズスクエア監督/マーク・パランスキー脚本/レスリー・ケイヴニー
原題は“Penelope”。クレジットで分かったのだけれど、リース・ウィザースプーンが製作者なのね。アカデミー賞をもらうと、違うね。金にならない映画もつくろうとする。ジョージ・クルーニーもそうだけど、儲けた金でプロデュースするなんて、日本人にはできない相談だよね。ギャラも安いし。
5代前の先祖が女中を孕ませて死に追いやり、それを怒った母親で魔女が「次に生まれる女は豚面。呪いを解くに真に愛されること」という呪いをかけた…。カエルにされた王子だの眠れる美女だの、この手の話はよくある。で、設定を現代に置き換えての寓話だ。単なる昔話なら豚面はいじめ倒されるのだろうけれど、現代ではそうはいかない。名家の娘が豚面と来てはパパラッチも見逃さない。記者は何とか写真を撮ろうとし、両親は何とか守ろうとする。家出したペネロピは金に困って(?)自分から写真を記者に売るのだけれど、両親が心配した程のスキャンダルにはならず、かえって人気者になってしまうというところがワイドショー好きな現代への風刺なのかも。または、少しぐらいの醜さなんて気にしなくてもいいんだよ、という応援歌でもあるのだろう。
このワイドショーネタを追っている記者が侏儒であるというのも皮肉が効いている。差別の対象である小人が、同じ被差別的存在のペネロピを追うのだからね。
両親は、名家の子息たちとの結婚をめざし、専門のコンサルタントまで雇っている。結婚して真の愛を得れば呪いが解け、鼻がもとに戻ると信じているからだ。ところが面接でみんな逃げてしまう。でも、とっつかまえて口外無用の署名をさせているらしい。この踏み絵のような描写は、コミカルで面白い。けど、「男は女を顔で選ぶ」ということへの皮肉なんだろうね。
で、当のペネロピはてんで明るい。自分が醜いことも承知で、男が逃げていくのも意に介さない。「またか」ってな調子だ。だから、たまたま残った男マックスにも大きな期待を抱いていない。のだけれど、とうとう顔を見せてしまうと、マックスも恐れをなしてしまう。「やっぱりな」と思うペネロピ。でも、「またか」なんだよね。この辺りの性格づけは、かなりあっさり。悲観して自殺させてもいいような展開なんだけど、楽天的なペネロピはほとんど堪えない。とてもこれでは悲劇じゃない。
でもって、鼻を隠しながらの家出がまんまと成功して。どんどん世間に友達をつくっていく。で、たまたま失神して素顔を見られるのだけれど、友だちのアニーは大して驚きもしない。いや、顔写真を求めていた小人の記者さえも、「なんだ、こんな程度か」てな反応。やっぱり、素顔を見て逃げるのは名家のお坊ちゃまだけなんだよね。ステレオタイプではあるけれど、資産家にはペネロピがフリーク(怪獣)に見えて、貧乏人には不細工な女程度にしか見えないところが、この映画の本質なのかも知れない。ま、あまりにもよくあるパターンなんだけどね。
でまあ、枠組みというか設定はいいんだけれど、ペネロピとマックスのロマンスがあまりにも薄いというか足りないと思う。最後に結ばれるにしてはペネロピはそんなにマックスに惹かれていたか? マックスにしても、あのままの鼻のペネロピに恋をしていたか? が、ほとんど見えない。そんな具合でハッピーエンドじゃ、ちょっと説得力がなさ過ぎだろう。
話の展開というか設定もそうなんだけど、色彩が「アメリ」そのもの。濃い赤と緑は、どうしても連想してしまう。
分からなかったところというと、最初にマックスが盗んだ本に書いてあったこと。速すぎて分からなかった。それから、マックスが実は上流階級の出ではないと分かったときの、母とコンサルタントの狼狽は何なのだ? 本当はマックスはペネロピを愛している、と伝えた方がいいかどうか結婚前に迷っていたけれど、あの経緯が意味不明だ。それから、ペネロピがマックスの履歴書を見るシーンがあるのだけれど、あれだけでマックスを恋い慕うようになるの? などと、よく分からない部分がちょこちょこあった。

 
 

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