2008年4月

犬と私の10の約束4/1MOVIX亀有シアター8監督/本木克英脚本/川口晴、澤本嘉光
毒にも薬にもなりそうもない平凡かつ淡々とし過ぎな映画。事件らしい事件もなく、ほとんどドラマもない。エピソード(友だちに預けた犬が逃げるとか)なんかもありきたりで新鮮味はない。感動もほとんどない。鼻水をすすっている音も少しは聞こえたけれど、どこでグッと来ているのか、よく分からない。順撮りしたのだろうか。最初の30分ぐらいがとんでもなくひどい。昼メロの脚本と演出のようで、見ていられない。くどくど説明するセリフをみなが棒読み。トヨエツが髪をいじる(嘘をついているときにする癖らしい)様子も、とてもわざとらしくて鳥肌が立つ。
とまあ、ひでえ映画に1000円も払っちまったよなあと思っていたのだけれど、途中からそういうのが気にならなくなってきた。よくなったわけではない。フツーになったレベル。あとはもう教育映画か文化映画のように話が進む。テレビで十分だよなあ、この内容なら。ま、いいけど。
では、疑問のコーナー。娘が犬を飼うと決めたとき、母は10の約束をすらすら言う。母親(高島礼子)は昔、犬を飼っていたのかい? すらすら言える理由に興味が湧いてしまうぞ。父親(豊川悦司)が札幌の大学の助教授に栄転。で、家を売って大学の寮に・・・はいるかフツー。っていうか、転勤覚悟なら最初から家なんか買わないだろ。売るぐらいなら貸すだろう。売るにしても、札幌に家が見つかってからのことではないの。しかも、札幌の大学を辞めて函館に戻るとなったら前の家を買い戻すって、そんな・・・。
トヨエツは、大事な患者の簡単なオペに呼び出され、怒りの果てに辞表を出す。おい、いつ書いたんだその辞表は? 手術室で書いていたのかい? そのトヨエツの日焼け顔はどう見ても変だよなあ。
犬が死んで犬小屋を掃除していたら母親の手紙が出てきた・・・って、おい、それはどういうことなんだよ。死んだ母親が犬小屋に入れておいたってことかい? あり得ないだろ、そんなの。
母親の好きだった曲「タイム・アフター・タイム」が何度も歌ったり演奏されるのだけれど、話との関係はまるでなし。唐突なままだ。なんか意味のあるものにすべきだよなあ。で、最後は娘と幼友達の結婚式まで描いてしまうのだけれど、そこまでやるか? だよなあ。そんなのは匂わせればいいではないか。
田中麗奈は相変わらずかわいいね。少女時代を演じた女の子も、ときどき田中麗奈風な顔に見えることがあって、それなりに選んでいるのだなと思った。
ジャンパー4/1MOVIX亀有シアター7監督/ダグ・リーマン脚本/デヴィッド・S・ゴイヤー、サイモン・キンバーグ、ジム・ウールス
B級娯楽映画だけれど、日本の場合と金のかけ方が違う。さすがはハリウッド? 
高校生の主人公は突然、時空移動ができるようになってしまう。で、銀行の金庫から金をせしめてきて遊び放題。ところが、時空移動できる人間は他にもいて、ジャンパーと呼ばれている。そのジャンパーを忌み嫌い、中世の時代からジャンパー狩りをしている集団があった・・・という話なのだけれど、なぜジャンパーという存在がいるのか、その目的というか意味は何なのか、にはまったく触れられていない。「HEROES」のように、意味のある超能力者ではないのだよね。しかも、犯罪のしほうだい。そんなことをしていていいのかよ! とちょっと主人公に意見したくなってしまった。
ジャンパーとジャンパー狩りという設定はフリーメーソンやテンプル騎士団を連想させて面白いのだけれど、そういう背景が何も描かれないのがつまらない。宗教的な匂いとか財宝をめぐる戦いだとか、そういう色をつければもっと興味深くなったはず。しかも、主人公がジャンパーで母親がジャンパー狩りの信奉者って設定なのだから、その辺りでも肉付けできるだろうに。まったくもったいない話だ。
主人公の自分勝手さ強引さワガママ勝手し放題にはうんざりする。もっと謙虚になれよ、とみんな思うのではないのかね。しかも、ラストはハッピーエンドだなんて、それはないだろ。せめて、次の追っ手が及んでいる・・・ぐらいは感じさせて終わって欲しかった。
主人公が好きになる女の子。その少女時代は、「テラビシアにかける道」に出ていた子だ。眉毛で分かったぞ。で、大人になってからの彼女は、それほど可愛くない。ちょっと残念。
ジャンパー仲間が登場する。彼はジャンパー狩りの連中を研究し、いろいろ行動している。なのに、主人公は自分が大事いまが大事彼女が大事で邪魔ばかり。こんなのが主人公なのかい? むしろ、個人的には仲間のジャンパーの方にシンパシーを感じてしまうね。その彼は、主人公といさかいを起こし、塔に挟まったまま・・・の状態でその後が描かれていないけど、大丈夫だったのかね。主人公より、あっちの彼の方がこの映画の主人公として相応しいのではないのかな、と思ったりした。だって、主人公はホント、バカなんだもん。
とはいいつつも、展開は速いしめまぐるしいので、飽きない。転送する場所として東京も出てくる。もっとも、銀座と渋谷と秋葉原を同じ場所のように編集しているのでとっても変だけどね。
疑問。最後、母親(ダイアン・レイン)と話しているとき、「5歳で云々」というセリフがあるけれど、主人公が5歳の時に母親は家出している。ということは、主人公が最初にジャンプしたのは5歳の時なの? はっきりそう描かれてないけど。それにしても、主人公の父親はどーしようもない男だけど、妻は知的な秘密結社のメンバーって、バランスがとれてなさすぎだぜ。
ウェイトレス 〜 おいしい人生のつくりかた4/3ギンレイホール監督/エイドリアン・シェリー脚本/エイドリアン・シェリー
原題は“Waitress”。場末のウェイトレスが都会に出て立派なシェフになる・・・ような、「幸せのレシピ」を思わせるような映画なんだろう、と勝手に思いこんでいた。ところがパイコンテストには出られないし、不倫の喜びに狂ってしまったりと、いつまでたっても田舎から出て行けない。どうも大きな勘違いだったということが分かってきた。でも、それはいい意味での裏切られであって、なるほどなあ、という展開に十分満足している。
アメリカでは勉強もロクにできない女の子がウェイトレスになって、そのまま地元から出て行かないで一生を終える、というようなことを読んだことがある。そういう意味で、登場する3人のウェイトレスは社会的な成功とは無縁な存在なんだろう。
パイを売り物にするレストラン。店長は無愛想で「仕事しろ」しかいわない。店のパイの味は、主人公ジェンナでもっている。パイコンテストに出場して、田舎から出て行きたいと思っているけれど、嫉妬深く独占欲の強い暴力亭主が足かせになっている・・・という設定。ごくフツーに思うのは、どうしてあんな亭主と結婚したのかね、ということ。きっと高校時代の美男美女カップルがそのまま結婚したんだろうけど、ちょっとは結婚前に気づけよ、と思う。または、さっさと別れちまえと思うのだけれど、南部の田舎っぽいところではそうも行かないんだろうな。ジェンナの両親は登場しないけど、どういう思いで娘を見ているのか、そこがちょっと知りたいところだ。バカ亭主と言っても、自律したいジェンナにとって毛嫌いするほど嫌な存在であって、もしあの亭主のことが好きな、あまり物事を考えない女だったりしたら、いい亭主と評価されるかも知れないような程度のバカさ何だけどね。
ジェンナの同僚のベッキーは、日本で活躍するエジプト人奥さまタレントのフィフィみたいなガイコツ顔。亭主が耄碌ジジイで寝たきりらしいが、こっちもどんな結婚でそうなったのか、いろいろドラマがありそうなキャラだ。彼女は左右のオッパイの垂れ具合が違うとコンプレックスをもっている。もうひとりの同僚はメガネ女のドーン(この役を演じているエイドリアン・シェリーが監督で、しかも、彼女は映画の完成後に死んでいるのだと。最後のシーンでジェンナに抱かれている娘は、彼女の遺児らしい。凄っ)。不細工なのと顔色が悪いのがコンプレックス。でも、いつか王子さまが・・・と思っているフシがあって、最終的には王子というより出来損ないの詩人みたいな馬面男とカップルになる。さらに店のオーナーの老人が登場するのだけれど、このじいさんがまた味があって鋭いことをいうのだよね・・・という、このあたりの人物造形がとても上手い。アメリカのどん詰まりの田舎のどん詰まりの生活水準の人々の息苦しい感じが、じわじわと漂ってくる。こういうところで働いていたら、ストレスもたまるだろうなあ。ほら、「テルマ&ルイーズ」も田舎のウェイトレスが主人公だったけど、出口のない場所で地べたを這うような生活をしている連中って、まだアメリカには少なくないのだね。
せめてパイコンテストぐらいだしてやればいいのに、バカ亭主は妻が逃げないよう包囲網を敷いている。クルマも与えない給料も取り上げる、自分を好きだといわせる・・・。こういう、力でしか女を支配できない野郎というのも、いるんだろうなあ。これじゃジェンナも反抗したくなるってもんだ。
で、亭主に飲まされてセックスした夜に受胎。診察してくれた若い医者とただならぬことに・・・。なんだけど、この過程の描写が見事。映像ではジェンナがいきなり医師にキスするんだけど、その前にちゃんと伏線があって。医師が何か言いたそうにもじもじしているのをジェンナが感じて、ああじれったい、っていう気持ちが噴出したような描き方なのだよね。だから、いきなりキスしたように見えない。自然にそうなったような描き方なのだよ。これが上手い。
嫌な亭主の子供なので喜びは感じていないとはいえ、妊娠した身で不倫・・・っていうのは、かなりの冒険だよなあ。あんな田舎町で、すぐ噂になってしまうだろうに。でも、映画ではそんなことにはならないんだけどね。あとはお決まりの展開で、結局、医者の方は遊び。というか妻も医者なので、昔ウェイトレスに憧れた思いがそうさせた程度なんだろうな。ジェンナもそれが分かっているから、子供が生まれると同時に亭主にも医者にも決別する。このいさぎよさがカッコイイ! ジェンナ役のケリー・ラッセルが飾らない女、質素だけれど凛とした女性を上手く演じていて、素晴らしい。
家を出たい、と思っていたジェンナに、店のオーナーから小切手が送られていた(オーナーも入院中で、手術前に手紙を渡されていて、その中に入っていた)ところで終わってもよかったと思うんだけど。後日談も付いている。それによるとジェンナは働いていた店を買い取るかして自分の店にして、仲間をそこで雇っている模様。幼い娘と歩いて帰るからにはバスで通っているのか。近くに家を借りたのか。で、思う。亭主から自由になれても、全米パイコンテストで優勝しても、村は出られなかったのか・・・と。それはちょっと哀しい現実かも知れない。
シリアスな感じのする内容だけど、笑いどころはたくさんある。下手なコメディよりよっぽどたくさん笑えた。いろんなパイが登場する。ジェンナが、自分のその時々の気持ちをパイで表現するのだ。これが楽しい。といっても、パイ生地にベリーだのなんだのどくどく注ぐのは見ているだけで血糖値が上がっていきそうだけど。
タロットカード殺人事件4/3ギンレイホール監督/ウディ・アレン脚本/ウディ・アレン
原題は“Scoop”。尻軽なジャーナリスト専攻の女子学生としがない手品師が連続殺人犯を追う、というミステリー仕立て。でも、物語自体に新鮮味はなく、トリックがあるわけでもない。だからミステリーとしての楽しみはほとんどない。一方でこの事件を追っていた記者の亡霊が登場する。あと一歩まで追いつめたが、あとを尻軽女子学生に託す、という仕立て。でも、どーしてわざわざ女子学生にヒントを与えたのか、その理由はよくわからない。その辺りがかなりテキトーかつ場当たり的なので、映画全体としての仕掛けも見えない。
なんか、設定を変えて映画をつくりました、ってな感じかな。いつも通り、ちょっとマヌケなオヤジ=ウディ・アレンが登場して笑わせようとする、のだが。かつてのようなアイロニーや文明批評があるわけではない。「女房に逃げられた。あんたは少年趣味があるから、っていわれた」というようなセリフがあったけど、それってミア・ファローのことを言ってるんだろ? 自虐ネタで笑わせるのかよ。さらに、相も変わらずの「ユダヤ系アメリカ人」も頻出。舞台はアメリカではなくイギリスになっているけれど、シニカルネタをセリフに織り交ぜていた才気煥発な時代ははるか昔に終わってしまったと言わざるを得ない。
このところスカーレット・ヨハンソンがお気に入りのようだけれど、今回はせいぜい腕をつかむ程度。キスしたりはしなかった。「スコルピオンの恋まじない」ではシャーリーズ・セロンを起用してキスしちゃったりしていたけれど、もうそんなことはできないのかな? あのスケベおやじ。なーんて視点で見てしまう。
相変わらずのせっかちなカットつなぎ。間をとるとか余韻を残すとかタメをつくるとか、そういうのは一切ない。必要なセリフを言ったらどんどん先に進んでいく。ちょっとせせこましいよなあ。もうちょい遊びの部分をとるなりして人物を描けばいいのにと思うけれど、ま、これはウディ・アレンのスタイルだから仕方がない。仕方がない分、いささか古くささを感じてしまうのは致し方ないところ。なので、後半になったらちょっと飽きてきた。
金持ちという設定で犯人に迫っているのに、根っからの芸人らしくパーティでも手品を披露してしまうウディ・アレン。こういうところも、なんか自虐的に見えてしまう。もうアイディアの引き出しはすっからかんなのかも。彼が得意としていた、内向的で自己表現が下手で、失敗ばかりのユダヤ系アメリカ人というキャラは、現在では大して面白みを持たなくなってしまったのかもね。
ペチュニアピックだのユリイカだのと、いきなり出てきても意味の取れない言葉をカッコ書きもなく字幕で出されても困るよなあ。そんなに知識があるわけではないのだから。
明日への遺言4/10新宿シネマ3監督/小泉堯史脚本/小泉堯史、ロジャー・パルヴァース
冒頭に白黒画像で、戦争をする場合のルールについて解説がある。つまり、軍事施設以外を爆撃してはならない、ということだ。ルールが決められたのにもかかわらず、無差別爆撃は止まらなかった。イギリスもドイツも日本も、そして、アメリカも・・・。という前提で映画を見ることになるのだが、感想を言ってしまえば、メッセージは冒頭の白黒記録映画に尽きていて、以下の物語はつけ足しにしか見えなかった。淡々とした軍事法廷の場面ばかりがつづいて退屈=字幕を読むのが難儀、字幕の意味を理解するのが難儀という塩梅。とくに共感することもなかった。
映画ではアメリカの名古屋における無差別爆撃が違法だといいたいんだろう。しかし、かつて日本も無差別爆撃をしたと冒頭にあるからには、お互い様じゃないか、としか見えなくなる。しかも、日本が中国に進出した大東亜戦争が前提になっているわけだからね。もちろん、それ以前に欧米が日本に包囲網を敷いていただとか故意に追いつめただとか、そういう議論もあるだろう。でも、世の中が民主主義世界に変わっているにも係わらず、大東亜共栄圏などと妄想を抱いて帝国主義まっしぐらだった日本に大いに問題があったことは否めない。大半の日本人だって、勝った勝ったと浮かれていたのだ。軍部の独裁を許したのは、多くの国民なのだ。
もちろん、無差別爆撃はルール違反なのだろう。東京でもあった。しかし、戦争では概ねそういうことになりやすい、と冒頭で見せてしまっている。見せておいて、アメリカの無差別爆撃があったから、撃墜されたB29からパラシュート降下してきた兵隊を斬首していいかとなると、そりゃやりすぎだろう、と思えてしまったりする。本当に「無差別爆撃をしたから犯罪者として斬首した」のか? 思うに、「こいつらが爆撃しやがった」「やっちまえ」「この野郎」なんてボコボコにされ、挙げ句の果てに「捕虜なんて面倒くさい。殺しちまえ」ではなかったのか。そんな風に思えてしまって、どーも、藤田まこと演ずる岡田資にシンパシーを感じられない。略式の軍法会議にかけたといっていたけれど、即斬首処刑する必要はあったのだろうか。岡田は、処刑命令を出したのは自分だといって、実際に処刑した部下たちの責任を回避するような行動をとっている。では。米兵だって、上官に命令されただけなのだからと、彼らの責任を回避するような考え方だってできるわけで、どーもバランスが取れない。
証人として蒼井ゆうや西村雅彦、田中好子なんかがでるけれど、彼らの人となりは一切描写しない。岡田の家族にしても同様。人間描写はほとんどなく、裁判の場面ばかり。ちょっとなあ。
それから。「座禅で法戦を乗り切ろう!」なんて突然言う場面があって、ちょっと笑ってしまった。仏教を頼りにしているのはいいけど、いきなりなのでギャップがあり過ぎだったのだ。なんだかどーも、監督は本当に岡田資の姿を正当に伝えたかったのか、疑問を感じてしまう。本音は違うんじゃないのかな。
ポストマン4/11シネマスクエアとうきゅう監督/今井和久脚本/鴨義信
日本郵便のPR映画。現実には絶対にあり得ないような親切な(ひどくお節介な)人々ばかりでてくる。主人公はバカがつくほど愚直なマジメ人間。その周囲に、ちょっとひねくれたけど最後には真人間になりましたという脇役が何人か。まったく悪人は出てこない。当然ながら新鮮味はないし面白くもない。泣かせようとしているところはあるのだけれど、泣けない。こういう映画って、毎年何本があるんだよね、善意でつくられていながら糞面白くない映画って。随所で笑えて(笑える映画ということではなく、ツッコミを入れたり、ありえねー!とつぶやいたり)ところもあって退屈ではないが、二度と見たくはない。まあ、60年ぐらい前なら“いい映画”になったんだろうけど、いまどきこんな話で誰が感動するっていうのだ。この映画に登場するような連中が現実にいたら、オチコボレ、落伍者、変人、お調子者、アホでしかないと思うのだがね。
クワイエットルームにようこそ4/12ギンレイホール監督/松尾スズキ脚本/松尾スズキ
精神病院の拘束部屋に入れられた女の話。素材は面白いんだけど、テンポが悪い。構成も、いまいち。最初、内田有紀のインタビューシーンがあり、ちょっと原稿で悩んでいるシーンがあったかと思ったら、ちょっとイメージ的なシーン(仏壇がどーのこーの。ゲロでうがいした)があって、いきなり拘束。うーん。なんでそうなったの? まあ、後から徐々に判ってくるんだけど、導入はいまいち引っ張りが弱いというかインパクトがない。
その後に次第に判っていくこと。内田の過去や原稿に追われていたことなどがあるけれど、いまひとつ説得力がない。前の亭主が自殺したとか、原稿が書けない、ってなことで不眠になって睡眠薬と酒を大量に飲んだりするものか? だいいち、何で原稿が書けないのだよ。800字程度の原稿が書けなくてどーする! だよなあ。で、中盤では、内田は本当は正常でたまたまそうなった、みたいな話だったのに、後半では内田の堕胎歴や父親が死んだから仏壇を送ったら実家が送り返してきたとか、それで悩んで薬を飲んでいて、亭主に「殺して」とつぶやいたと言うことになっていて、なんだそれじゃ自殺願望があったってことじゃないか、という感じ。感じだけであって、そうだ、という断定はしてないんだけどね。いまひとつよく判らない内田が睡眠薬と酒を飲んだ理由、だよなあ。
脇のキャラも、りょうが演ずる看護婦と、もう1人の愛想のいい看護婦、大竹しのぶ、蒼井優を除けば記号的にしか描かれていない。もっとつくり込めるのにもったいない。エンドロールで気がついたんだけど、俵万智、しまおまほ、しりあがり寿の名前が・・・。気がつかなかった。どこに出てたんだ。うーむ。いろんな人が出ているようで、後でWebでみたら庵野秀明もいたのね。顔をよく知らないから気がつきもしなかった。もったいない。
宮藤官九郎の構成作家は、ちょっと濃すぎかも。演劇的誇張が過ぎると、ちょっとうっとうしい気もしないでもない。それから、一般には分かりにくい言葉、表現が多すぎるかも。リスカ=リストカットって、たまたま判ったけど、年寄りにはつらい略語だよな。それから、葉っぱは計っても、ガンジャがさっと判る人は、そう多くないかも。他にもいろいろあったんだろうけど、耳には入っていても頭に入ってこなかった言葉が多かったはず。または、聞き取れないセリフのせい、ってのもあるかも。話はつまらなくなかったんだけどね。もったいない。
クローバーフィールド/HAKAISHA4/14109シネマズ木場シアター8監督/マット・リーヴス脚本/ドリュー・ゴダード
原題は“Cloverfield”。意味はよく分からない。映画は「ゴジラ」を「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の手法でつくったもの。宣伝ではまったく新しい手法と謳っているけれど、あれは嘘だ。
だいぶ前にAppleのMovie Trailersで予告編を見ているので、パニック映画の類というのは判っていた。しかし、ずっと手持ちカメラでブレブレだとは思っていなかった。「酔う人もいる」とのことだったけれど、とくにそういうことはなかった。あれで椅子が振動したら堪えたかも知れないけどね。最初の1/3はカップルの寝起きシーンとパーティシーンで、正直言って長すぎる。それに、人間関係がよく判りづらい。日本に転勤になる青年がある女性と一夜をともにし、それが友だちの間で話題になっている・・・って、どういう意味なのだ? たかがひと晩のセックスが、どういう意味を持つのだ? なんて思いつつ、いつパニックが始まるのかといらいらしながら待っていたのだった。で、ドカンドカンが始まって、その青年とカメラ担当のあまり頭のよさそうに見えなかった青年と、その青年が心を寄せている白人女性と、ちょっと可愛い黒人女性の4人が一緒に行動し始める。そして、アパートで動けなくなった女性(つまり、青年が寝た女ね)を助けに行くことになるのだけれど、なぜあの4人+1人が主人公(たち)になったのかよく判らない。たまたま、といわれれば、あっそう、としか言えないのだけれど。
青年が「助けに行こう」と無理難題をいい、他の3人が止めるのだけれど、結局ついていく・・・というのはパターンだ。理性を失ったヒーローに振り回され、周囲の人間が迷惑を蒙るのだ。この映画では、青年と彼女と黒人女性は助かるけれど、カメラ男と彼が好きな女の子は死んでしまう。ほら。だから言うことなんか聞かずに逃げればよかったんだよ! ということになる。ほんと、よくあるパターンだ。なので、青年がファナティックに「助けに行く」と怒鳴り始めた辺りから飽きてきた。ま、この手の映画は主人公以外をどう死なせるか、主人公以外で誰が助かるか、を予想するのが楽しみのひとつだからね。
巨大怪獣は米国版ゴジラを変形させたような異物で、子供か兵隊みたいなのをばらまく。このことからすると、宇宙からの訪問者かも知れない。ロボットなのかも知れない。でも、そういうことはまったく説明はない(説明なんかなくてもいいんだけどね)。そもそもこの映画は、事件の関連資料保存ファイルのひとつから映像資料を再生している、という設定だ。もしかしたら騒動は収まってしまったのかも知れない。または、継続中なのかも知れない。不明なところは多いけれど、もし続編をつくろうと思えば簡単につくれるような状態にしている。もっとも、謎は謎のままであったほうがいいと思うけどね。簡単に明かさない方がいいと思う。
むしろ、2時間ぐらいの尺にして、視点の違う映像をオムニバス的に構成してもよかったんじゃないのかな、と思った。1本はこの映画のもの。あとは例えば、テレビクルーの撮ったもの。それから、軍隊が撮ったものとかね。1素人がずっとカメラを回しっぱなしにしていた、っていう設定は、どーもムリがあるし。だって、あんなにバッテリーはもたないんじゃないのか?
Sweet Rain 死神の精度4/14109シネマズ木場シアター5監督/筧昌也脚本/筧昌也、小林弘利
とても退屈な時間を過ごしてしまった。内容を映画的に消化・再構築できていないまま創っちゃいました、ってな1本。あちこちにツメが甘く、メッセージもたいして伝わらない。だからどーした的な中味の薄い映画になってしまった。金城武扮する死神の行動と、死の判定を待つ人間(本人は自覚していない)の様子をスケッチしたもので、設定は洒落ていても話がイモではどうしようもない。
3つの話で構成されていて、第1話はコールセンターで働く小西真奈美がターゲット。でも、彼女が見られない女(不細工という意味)、っていう設定自体があり得ない。彼女にかかってくるストーカー的クレームの電話・・・って、結局どうなったの? しかも、ラストで突然彼女は歌手にスカウトされるのだけど、伏線なんか一切なし。おいおい。死神の直接触れると人間は気絶してしまうらしいが、金城の仲間の死神が、ターゲットの女と親しくなってキスしている写真があったけど、あれはどーなってるんだ? おかしいだろ。でもって、歌手への可能性が拓けた小西を、死神は結局殺さない。うーむ。死神は人情家なのですなあ。はははは。
第2話は、兄貴分の復讐に燃えるヤクザ(光石研)の話。けど、光石の演技が軽すぎて、どーみてもヤクザに見えない。そういう演出なんだろうけど、コメディにもなっていないし。とても中途半端。
第3話は、田舎で床屋をしている70歳の老婆(冨司純子)が対象。歌手になった小西がどういう形でチラッと再登場するのかな、と思っていたら、なんと老婆が彼女自身だった。なるほど。43年後の世界はお手伝いさんロボットもフツーに使われている世界なのか。・・・っていうか、金城も、少し見ていればあの小西だってことぐらい判るんじゃないのか? 死神がターゲットにする相手だったら、過去のファイルぐらい見てるんじゃないのか? 
死神が、言葉を知らないのにも疑問符。長い間生きてきて人の死に際を見てきているのだから、流行語だって知っていていいはず。なのに、ごくフツーの言い回しにも、「どういう意味ですか?」状態というのは、あり得ねえだろう。
という具合に突っ込み所が満載である。とくに意外性もなく、だらだらと進行する面白さのほとんどない話に、欠伸と伸びばっかりしていたぞ。
それにしても、この映画のテイストは古臭く、垢抜けない。人物の服装なんか、1980年代みたいに古色蒼然。そこいらの商店街で買い集めてきたような、センスのない衣装ばかりで辟易してしまった。3話のお手伝いロボットの奥田恵梨華も、そこいらのイモ姉ちゃんにしか見えなかったぞ。・・・と書いてWebを見たら1985、2007、2028年の3つの時代を描いているのだと。えっ? そんなこと、どっかに示されていたか? 気がつかなかったぞ。第1話が古臭い理由は分かったけど、それ以外の時代も古臭い理由の説明にはならんわな。ははは。
セットの様子や色づかいなんかも、とても古臭くて、がっかりしてしまうほど。
それにしても、金城といつも一緒の犬には、どういう意味があるのだ?
つぐない4/16テアトルダイヤ監督/ジョー・ライト脚本/クリストファー・ハンプトン
原題は“Atonement”。「償い」「贖罪」の意味らしい。
一切の予断なく見た。あー、キーラ・ナイトレイがでてるんだっけなあ、ぐらい。で、キーラも大人になって、下顎がかなり頑丈に発達してきたなあ、と思った。相変わらず胸はまったくないけどね。
発端部分が長いのだけれど、このまま1935年で行くのかと思いきや、1940年にとんでダンケルクへの逃避行になるとは思わなかった。でも、がらりとテイストが変わって、さて、どう展開するかがとても興味深い。とくに前半部分が濃密だっただけに期待が膨らんだ。がしかし、ダンケルクに着いた後あたりから腰砕けになってしまい、肝心な部分が抜けているような感じになってしまう。果ては一気に現在まで飛んでしまう終わり方で、ちょっと拍子抜け。現代までもってこず、あの時代で終わらせてもよかったんじゃないのかなあ。もっとも、現実の終わり方と小説の終わり方の違いを見せることはできなくなるけどね。
前半は、思春期の少女の屈折した心理が上手く表現されている。ブライオニー13歳。小説や戯曲まで書くませた、というか、想像力豊かな少女。使用人の息子に、憧れからくる恋心を抱いているがゆえについてしまった嘘。その心理が、同じ場面をブライオニーの視点と、客観的な視点を繰り返すことで上手く表現されている。
ブライオニーの嘘のお陰で刑務所に入り、戦場に赴いた使用人の息子ロビー。ドイツ軍に追われ、仲間2人とダンケルクを目指す。その過程で遭遇する折り重なった少女たちの遺体。あれは、幻想なのだろうか、それとも、集団自決の有名な事実でもあるのだろうか。仲間の1人は敗残兵の自分に嫌気を感じたかのように靴を脱ぎ捨ててしまう。あれは、どういう意味を持たせたのだろう。それから、ロビーの胸ポケットに入っていた手紙はいいんだけど、胸に着いていた血痕はどういう意味だ? あの手紙の束に銃弾が当たり、命が助かったとかいう話かな、と思ったのだけれど、どうもそういうことでもないらしい。というような、よく判らないシーンが出てくるようになる。
3人がダンケルクの海岸に到着したときの1シーン長まわしはもの凄く素晴らしい。打ち上げられた船、東屋、喧嘩する兵隊なんかを店ながら、カメラが3人を追っていく。本当にお見事だ。で、船に乗れずねぐらを探すところから「?」になってくる。今度はロビーが靴を脱ぎ捨てるのだ。そうしてどこかの地下室で横になると、どーもロビーの具合が悪そう。ん? そんな予兆は見せていなかったのに、突然病気? ま、ここでロビーは死ぬのかな、と感じ取れるのだけれど、靴を脱ぎ捨てる行為は“死”と関連づけられているのだろうか?
で、姉のセシーリア(キーラ・ナイトレイ)はどうやら看護婦になっている模様。妹のブライオニーも看護婦らしい。それにしても、豪邸に住んでいた娘2人が何で看護婦なの? という疑問。セシーリアは親に反発して家を出たようだけれど、妹はなんで? だよね。戦時下のイギリス、若い女はみな看護婦なのかい? それに、両親や兄貴がいただろ。どうしているんだ、彼らは? この辺りのツメはかなり甘いと言わざるを得ない。
さらに違和感を募らせるのが、ブライオニーがセシーリアに会いにいくシーン。2人が話していると奥の部屋から男が出てくるのだけれど、あれは誰だったのだ? 最初に思ったのは、ロビーの帰りを待ちきれず、男をつくったのか、ということだった。だって男はブライオニーに気づかず出て行ってしまったから。ところが、しばらくするとロビーが訪れてくるのだ。あららら。入れ替わりでロビーがやってきたのか、それとも、最初に出て行ったのがロビーだっのか? 戸惑ってしまった。でも、ロビーがいるっていうことは、ダンケルクから無事生還したっていうことか。と思っていたら、突然、現在のブライオニーが登場する。おおお。作家となり、脳血管性痴呆を宣言されたので、ロビーへのつぐないのために最後の小説を書いた、という設定だ。で、ここで明かされるのは、ロビーがダンケルクで死んだこと。セシーリアも、戦時下で地下鉄に水が流れ込んで溺死したこと。つまり、3人が再会したシーンはブライオニーの創造だったことが明かされる。なるほど。それで違和感があったのか・・・。だけど、それが説明になっているか? なってないだろ。表現精度は確実にぐちゃぐちゃになっていると思うぞ。すべてがブライオニーの主観で書かれた話を見せられていた、とも言えるけれど、ラストだけは変えた、というようにも受け取れる。ま、藪の中なのかもしれないけど、僕は2人は死んだけど小説では生きていることにした、ぐらいに受け取った。
というわけで、後半にかなり不満あり、だ。他にもある。看護婦のブライオニーが、上司に「あなたはタリス。ブライオニーではありません」とたしなめられている。ここで、あれ? 名字が変わったのか? と思ってしまった。Webで見たら、もともと名字がタリスだったのね。全然知らなかったよ。お嬢ちゃんが自分を名前で呼んでいたのを、大人なんだから名字で呼びなさい、と言われたってことかい。まったく分かりにくい。最初にチョコレート屋がでてきて、こいつは怪しい、って誰でも判るんだけど、つぎにどういう形ででてくるかに興味をもってみていた。そうしたらニュース映像だった。ロビーがイタズラした相手、と誤解された女(セシーリアやブライオニーの従姉妹)と一緒だった。おお。そうきたか。だけど、彼女は、イタズラした相手がチョコレート屋だったって知っていたのだろうか? 知っていて一緒になったのか、知らずに結婚するのか。大きな違いがある。それに、あの従姉妹はかなり不細工でデブ。チョコレート屋が結婚する価値はあったのかな。両親が離婚しても遺産はたっぷり、だっんだろうか?
その従姉妹の女の他に双子の従兄弟もいたけど、彼らはどうしたのだろう。なんか、前半出ていても後半消えているキャラが多くて、ちょっとなあ。
映画がでてくる。ダンケルク(だっけ?)でロビーが迷い込む映画館では、ジャン・ギャバンのキスシーンがアップになる。ブライオニーはニュース映画でチョコレート屋と従姉妹の結婚を知る。なんか意味がありそうで、よく判らない。水中シーンがでてくる。最初は、屋敷の池。ロビーとセシーリアがちょっとしたいざこざで、陶器の一部が欠けて水中に。それをセシーリアが潜って取る。次は、ロビーとプライオニー。ブライオニーが冗談で川に落ち、それをロビーが救う。ブライオニーがロビーを試す、というか、甘えを行為として表現するシーンだ。最後は、地下鉄に流れ込んできた水の中で、印象的に漂うセシーリア。水を挟んで、男女は諍いを起こし、姉だけが死んでいった。水にどういう意味を込めようとしたのか、よく判らないけれど、印象的なシーン。ラストで、ブライオニーの想像の世界で、ロビーとセシーリアは海岸にいる。セシーリアが誘った海岸の青い屋根(だっけか?)の保養所(だっけか?)に訪れ、浪と戯れている。もし、自分が嘘をつかなかったら、2人は幸せになったかも知れない、という小説の世界の2人だ。ひょっとして2人は浪を浴びるのだろうか? それが最後の水中シーンか? と思ったのだけれど、そうはならなかった。だから、水中シーンの意味するものはよく判らない。うーむ。ここら辺も、表現の一貫性に欠けるのではないのかな。前半の緊張感を後半も保てれば、もっと印象的になったのではないかと、残念に思うぞ。
ブラックサイト4/16新宿ミラノ2監督/グレゴリー・ホブリット脚本/ロバート・フィヴォレント、マーク・R・ブリンカー、アリソン・バーネット
原題は“Untraceable”。「追跡不能」っていうような意味かな。不特定な対象を拘束し、Webサイトにリアル映像をアップ。犯人はアクセス数が増えると薬が増えて対象が死に至る、という仕掛けをしているのだけれど、興味本位のアクセスが増えて死んでいく・・・という話。拘束と仕掛けは、ちょっと「ソウ」を思わせるけれど、この映画の本質はそっちではなく、野次馬がサイトを覗きに来ることによって被害者の死が早まることをいいたいのだろう。気持ちは分かる。しかし、そんなのあり得ない、と思えてしまうから、リアリティがちっともない。IPアドレスを動かしているからとかサーバーがロシアにあるからとか言っていたけれど、そんなのロシアに連絡して調べてもらえばすむ問題じゃないか。それに、スパコンを使って調べるというのもあったはず。これには、スパコンの性能がロシアに(だっけか?)判ってしまうからダメだ、というアホな理由がついて、使わせてもらえないことになっていた。そんなアホな。
この映画のつまらないところは、さっさと犯人が登場してしまうところにある。しかも、フツーのあんちゃんで、ちっとも恐ろしくない。このあんちゃんが、いくらスタンガンを使ったからといって何人もの大人を拘束し、後処理の面倒な死体にして殺すのかと思うと、これまたリアリティがない。そんなに大きな街ではないようなのだから、死体を棄てに行ったりしたらすぐにバレるだろ。監視カメラにクルマや顔が映るだろ。などとアラ探しをしていくと、どうみてもサスペンスがなくなってくる。
果ては、不特定かと思われた被害者に共通点が見つかるのだけれど、そんな共通点ぐらいフツーならすぐに見つかるだろ。いや、その前に、挙動不審なあんちゃんの隣近所から「あいつが怪しい」って電話がくるんではないのかな。モールス信号もありきたりだし。それにしても、ダイアン・レインの乗ったクルマが制御不能になり、携帯まで使えなくなってしまうのも、コンピュータで制御できるわけ? うっそー!?
最後。捕まったダイアン・レインがなんとか逃げ延び、犯人を射殺した後に画面のカウンターが映される。3万いくつかだった。あれはアクセス数が少なかった、ということ? でも、あれはアクセス数とは違うのかな? よく判らない。
字幕では、インターネットのことが判りづらい。あまりネットのことを知らないで書いているのではないかと思った。ダイアン・レインは、40そこそこなのに顔はもうかなりの婆さんになっちゃったなあ。
ベティ・ペイジ4/19ギンレイシネマ監督/メアリー・ハロン脚本/メアリー・ハロン、グィネヴィア・ターナー
原題は“The Notorious Bettie Page”。実をいうとひどい勘違いをしていた。ロック・ミュージシャンの映画かと思っていたのだ。しかし、それは「パティ・ペイジ」かと思っていてそう勘違いしたのだけれど、パティ・ペイジはポップスで、ロックはパティ・スミスだったのだった。ああ。知識がないからあれこれこんぐらがって勘違いも甚だしい。
冒頭で、ボンデージ本屋のガサ入れがあって、ベティが裁判所に呼び出されているシーン。一気に幼年期に逆戻りし、次第に成長していく過程を追っていくというもの。ところどころがカラーなんだけど、ベティの作品がカラーで紹介されたりフツーのシーンがカラーだったり、とくに法則性はないみたい。人生を追うといっても表面的で、人間ドラマはまったくといっていいほどない。せいぜいベティのボンデージ写真を一手に撮影販売していた兄妹の写真屋が面白かったかな。あとは、全然キャラがたっていない。印象も薄い。ベティ自身はなーんも考えていないぱっぱらぱあだと思う。だって親は厳しく育てていたのに大学生になったら簡単に男によろめくし(あのフットボールの男とは同棲していたのか? Webには結婚したと書かれていた。ふーん)、かと思ったら街で誘われてレイプされちゃうし、簡単にモデル撮影に応じてしまうし。バカじゃねえ? 芝居を習いながら全然成長しないし、かといってセックスが好きというわけでもなさそうだし。映画は田舎の妹に出す手紙という形でベティのナレーションが入るのだけれど、だからどーした的な話ばかり。途中から飽きてきて眠くなった。ラストはどんな風に終わったんだっけ。もう覚えてないよ。やれやれだな。
銀幕版 スシ王子! 〜ニューヨークへ行く〜4/21上野東急2監督/堤幸彦脚本/河原雅彦
堤幸彦。「ケイゾク」「TRICK」「自虐の詩」その他のキレはまったく感じられない退屈映画。去年放映されたテレビ版も期待して見ていたのだけど、途中から苦痛ばかり感じつつ見ていて、最後までカタルシスは得られなかった。どこが面白くてつくっているのか? 堤幸彦。ボケたか。なぜこんなのをつくらせているのか? ぜんぜん分からない。
予告編で上戸彩? と思っていたのは太田莉菜という女優だった。よーく見てやろうと思って見ていたけれど、ほとんどアップがない。おいおい。ひょっとしてアップに耐えられない顔なのか? うーむ。もっとちゃんと見せてくれよ。以上終わり。
パラノイドパーク4/23シネセゾン渋谷監督/ガス・ヴァン・サント脚本/ガス・ヴァン・サント
原題は“Paranoid Park”で、偏執狂の場所、とかいうようなことかな。オープニングのガス・ヴァン・サントという名前に気がついた。けど、どういう人物か思い出せない。そのまま見はじめて、タッチが「エレファント」に似ていると思っていたのだけれど、後から調べたら、まんま「エレファント」の監督だった。「グッド・ウィル・ハンティング〜旅立ち」も撮ってたのね。なるほど。
「エレファント」と違って、得体の知れない何かに迫る、知ろう、というような内容ではない。どちらかというと少年の心の中へと内向的に入り込んでいってしまうような話。最終的に導かれる「道」も示されないし、主人公の少年のたどる未来も提示されていない。かといって閉塞的な感じはないけれど、主人公の少年も観客もまったく開放されないまま映画は終わってしまう。そこに何らかの問題提起があるようにも見えない。だからどうした、なのだ。主人公の少年はあまりにも淡々としているし、何かから逃げるそぶりも見せない。焦りまくる様子もない。ただ、静かに締め付けられつつあるだけだ。でも、それで苦悩しているようにも見えない。こういう人物の描写は「エレファント」と似ているのかも知れない。ただし、「エレファント」では狂気が内包されている静寂さが見えていたような気がするのだけれど、ここに、そんな狂気は見えない。ごくフツーの少年のままだ。その意味でメッセージ性は少し薄いのかも知れない。
話は単純。スケボー好きが集まるパラノイドパーク。そこに顔を出した少年が、年かさの連中に誘われて貨車に飛び乗って遊んでいたら警備員にとがめられ、少年がスケボーで追い払う。警備員が倒れ、反対側の線路を走っていた貨車に轢かれてしまう・・・。で、その後の話から始まり、時制が過去に戻ったりしながら少しずつ進んでいく、というもの。ただそれだけ。時制の行きつ戻りつがかなり分かりにくい。フツーの映画なら、ここは現在ここは過去、と分かるような工夫をするものだけれど、あえてしていないようだ。もう一度見れば、または、ビデオでREWしながら見れば「なるほど」なのかも知れないけど、ちょっとね。わかりにくい。でも、あえてそうしているのだろうと思う。
少年の両親が離婚間近、という背景は描かれているけれど、それ以外、ほとんど何も人間が語られない。少年のことが好きな少女がいて、彼女はセックスしたくてたまらないんだけど、少年が避けているとか、どういう意味なのだろうと思ってしまうぐらい。少年に「悩みがあったら書けばいい」とアドバイスする少女もいるのだけれど、彼女の存在が少年にとってどれほどのものなのか、それも分からない。父親や母親、弟など、いるにはいるがほとんど描かれない。主人公の少年の心象風景は多少描かれるけれど、ツッコミがない。ううむ。
少年は、アドバイスされた通り、出来事を書き始める。けれど、誰にも見せることなく焼いてしまう。果たして少年は正直に告げようと決心したのか。書いたことで悩みが解消されたのか。それも分からない。分からないまま終わってしまう。
とくに重みも感じられない。手がかりのなさだけが残される。スケボーに意味はあるのか? それもよく分からない。分からないことだけが、分かる。
音楽がよかった。どういう意味合いがあるのか分からないけれど、感じのよい音楽ばかりが選ばれているような気がする。
ラスト、コーション4/24新宿武蔵野館2監督/アン・リー脚本/ワン・フイリン、ジェームズ・シェイマス
原題は“色、戒”“Se, jie”。“Lust, Caution”は英文タイトル。濃厚な性交シーンがある、日本軍政下の中国の話、としか知らずに見た。性交シーンはなるほどだけど、話の方は特別に変わっているとか意表をつくとか面白いといったことはない。シンプルかつよくある話。尺が2時間38分もあるのだけれど、そこそこ見せるとはいえ長い。2時間にしてしまってもいいぐらいだ。
抗日劇で味をしめた学生たちが、本気で日本傀儡政権とつながる中国人イー(トニー・レオン)暗殺を試みようとする前半。それが失敗し、3年後に本格的抗日組織工作員として再びイー暗殺に挑む後半。好みでいうと、前半が面白かった。勢いで盛り上がり、なんとなく始めた抗日ごっこにずるずるハマっていく学生たちの様子が滑稽でもあり残酷にも見える。日本の左翼運動、連合赤軍なんかもこんな感じで深みにはまっていったんだろうな、と思わせる。イーに色仕掛けで接近する役割は、チアチー=マイ夫人(タン・ウェイ)。本来は演劇部ではないのにたまたま引っ張り込まれ、挙げ句の果ては劇でも現実でも主役を演じるハメになる。抗日ごっこも工作員も、本来ならしたくなかった、という表情がつねに滲み出ていて哀しい。それにしても、学生が暗殺を企み、チアチーにイーと寝ることを半ば強制する無言のシーンは痛々しい。そして、処女だったチアチーと、売春婦と一度だけ経験があるという演劇仲間の男が(合意の上だけど)寝る。痛々しいことこの上ない。時代背景もあるのだろうが、仲間=同胞=抗日からくる圧力が、女性の権利までをも奪い去っていくことにうんざりしてしまう。もともと男が好きで目的のためなら何でもする筋金入りの工作員ってことなら007の相手をする美女みたいに思えても、チアチーのようなフツーの娘にこんなことをさせてはいかんよ、と思ってしまう。がしかし、暗殺前にイーは南京(だっけか?)に移ってしまい、資金も尽きて計画失敗。イーに接近できたのは演劇仲間の1人の兄のつながりだった(と思う)が、その兄に感づかれ、一同は最初の人殺しをしてしまう。しかも、弟が兄を刺す(だよね、あれは?)という痛々しさ。さらに後から分かるのは、学生たちがイーを狙っているのを、本職の工作員たちがずっと監視していたということ。なんとまあ、マヌケなことよ。と思ってもあとの祭り。・・・という前半が、要素も色々あってまずまず面白かった。
で、3年後。仲間と再会したチアチーが本格的工作員となってイーと深い仲になり・・・。なんだけど、こっちはドラマがない。あるのはただ、サドだったイーとの色恋三昧で身体がすっかり開発されてしまい、イーを暗殺する当日のその直前に「逃げて」とつぶやいて裏切ってしまうという話だけ。しかも、その暗殺計画もイーの部下がずいぶん前から工作員たちの動きを把握していて、いわば泳がしていた状態。「なぜ知らせなかった」というイーに部下が「この女(チアチー)との関係がありましたので・・・」と言い訳するのは笑えた。知らぬは上司ばかりかな、なんていうことが本当にあるものなのかいな。ちょっと疑問。
チアチーを演ずるタン・ウェイは男装の麗人川島芳子を思わせるような幼顔。いわゆる美人顔ではない。なので、イーがそこまでぞっこんになるものかいな、という部分が残るのだけれど、サド的セックスがお好みのイーには、なかなかの女なのかも知れない。セックスシーンはボカシもあっていまいちなんだけど、チアチーの広げた腕のつけ根に脇毛が生えているのが色っぽい。戦後アメリカの影響で日本人も剃るようになったけど、昔はどの国もああだったんだよね。多分。トニー・レオンは、ちょっと老けたかな。演劇仲間のリーダー格の青年が、後半になってチアチーに告白するようにキスする。するとチアチーに「3年前にしてよね」なんて言われてしまう。そういう展開なら、もっとこの2人の秘めた思いを強調してもよかったんではないの?
それと。日本占領下の上海、香港が舞台なんだけど、中国人が抑圧されている、という感じが余り出ていない。というか、日本人の傍若無人さが見えない。さらに、イーが日本人や、その日本人と手を組んでいる中国人の下で何をしているか、それが見えないのがつまらない。ラストでイーは助かり、チアチーを含む工作員たちの処分命令を下すのだけど、観客の怒りをどこにもっていっていいのか分からない。ここは本来、にっくき日本人! ではないの?
そうそう。後半のみどころがひとつあった。家族を日本人に殺された、という工作員のボスが、さっさとイーを始末せずにいるので、チアチーが食ってかかるのだ。自分が心ならずも身体を任せているっていうのに! と。すると、ボスは慌てて、工作員なんだから勝手な行動はするな。自分だってイーは殺したいほど憎い。しかしろ、情報を得る目的があるのだから、それに従え。とかなんとか言いくるめるのだ。あそこは、「このままでいたら、私の身体はイーに言いなりになってしまう」と訴えているのだよね。でも、映画的には盛り上がりが少なくて、ちょっと残念なシーンでもあった。
ハリウッドで撮り慣れているせいか画面はとてもキレイ。上海も、セットではないんだろう。そのまま1940年代が撮れるほど昔の建物が残っているに違いない(と思ったらセットらしい。ひぇー!)。がしかし、キレイ過ぎて猥雑さ、リアルさが足りないようにも感じられた。
ラフマニノフ ある愛の調べ4/25銀座テアトルシネマ監督/パーヴェル・ルンギン脚本/マイケル・ドゥナエフ、ルシンダ・コクソン、パーヴェル・フィン
“Lilacs”というのは英文タイトルかな? ライラックの花のことだな。
映画の法則=文法を知らないボンクラがつくった糞映画って気がする。時制が無茶苦茶だし(1900年、1920年なんて字幕が出る場合もあるけれど、でないで時制が変化する場合もあったりする)、20数年の時間の経過の中で、登場人物が全然老けない! 人間関係もよくわからない! つなぎも大雑把。なんかなあ。映画の呈を成していないと思うぞ。・・・とはいうものの、実を言うと10分目ぐらいから20〜30分寝てしまったのだけどね。だから分からないのだ! ということかも知れないのだがね。
最初の頃は、アメリカツアーの様子で。ソ連大使の臨席を拒んだりするところは興味深かった。それから、スタインウェイの支援を受けていたのか、広報に一役買っていた様子もある。けど、眠りから覚めるとスタインウェイはどこかに消えてしまっていた。どういう関係か分からなかった支援の女は従姉妹で、妻でもあったことも分かる。けど、もうそれから先は断片的なエピソードの羅列で、昔の教え子で関係をもった女が共産党幹部になっていたなんていう因果関係はあっても、ぜんぜんドラマになっていない。作曲できない苦悩も中途半端。従姉妹との幼い日々のイメージはなんだったのだ? ライラックの意味はなんなのだ? わからんよ。すべてに消化不良だわい。といって、もう一度見ようとも思わない。
画質がとても悪い。当時のニュース映像に色を付けてブローアップしたのが挟まっていたり。挿入音楽といえば1920年代のラグタイムやチャールストン、ガーシュイン(?)とか、クラシックの映画らしからぬものが目立つし。なんか変な映画。
フィクサー4/28新宿武蔵野館1監督/トニー・ギルロイ脚本/トニー・ギルロイ
オープニングに“Michael Clayton”という文字がでる。お。この映画は「ER」や「ジュラシック・パーク」のマイケル・クライトンが原作か。なんて思いつつ見ていたが、“Michael Clayton”はなかなか消えない。次ぎに出てくるであろう監督名やジョージ・クルーニーの名前がでてこない。と思っていたら、セリフから“Michael Clayton”は登場人物の名前らしいことが分かった。するってーとなにかい、“Michael Clayton”が題名なのかい? あとで調べたら、あのマイケル・クライトンはMichael Crichtonでスペルが違うようだ。でも、あのクレイトンは映画の仕掛け人で、このクレイトンは事件のもみ消し屋。暗示しているのかも。だって、ジョージ・クルーニーは「ER」の主役の1人だったしね。
渋い、というより、地味って感じだ。テンションは低空飛行。緊張も高まる寸前のはるか下のレベルでだらだらと引きずるように進行する。ぜんぜん派手さがない。つまりまあ、ぐいぐい引っ張っていく力がないし、はじけるところもない。なので、実を言うと10分目ぐらいから飽きてきて、眠りはしなかったが眠りそうになった。いったん現実に戻ったけれど、やっぱり30分過ぎにまた眠気に誘われて5〜10分ぐらい、ふっと目をつぶってしまった。あとはちゃんと見たぞ。消化不良というか、ずうっと勃起しそうになる程度にいじられて終わってしまった感じ。うーむ。すっきりしない。
派手さを押さえているのは意図的だろうな。こういうのが粋だと思っているのだと思う。玄人好みのスタイリッシュな映画ってのは、こういうのだぜ、という思惑でつくっているのかも知れない。でも、音楽もそうだけど、盛り上げようという意図が感じられない展開で、切れ味よくつたわってこないのだよねえ。かなり欲求不満。
法律事務所にいながら出世に縁遠いもみ消し屋で満足している男マイケル・クレイトンという男のキャラが描き切れていない。どういう過去を持ち、何を考えているのか? 単なるギャンブル中毒? 息子がいるようだけど、母親は? 従兄弟のせいで借金を背負ってしまった、という設定なのに、その従兄弟と喧嘩もせず会っているのはなぜ? 女弁護士はマイケル・クレイトンとどういう関係なの? 彼女はなぜ殺人を行なってまで勝ちたいの? クレイトンの同僚弁護士は、なぜ企業の弁護活動をやめて被害者の味方をするようになったのだ? 薬を飲まなかったから裸になった云々の意味はなんなのだ? 金で動くクレイトンが最後は正義のために行動する(半分は弟の警官への恩返しもあるだろうけど)のは、なぜ? 爆破したクルマの中に時計や財布を投げ込むのはなぜなんだ?(死体はみつからないだろうに) というような基本的なことがよく分からない(寝ている間に説明があったのかも知れないけどね)。いずれにしても、人間があまり描き込まれていなくて、つまらない。
マイケル・クレイトンと息子、クレイトンの弟で警察官、クレイトンの従兄弟、クレイトンの所属する事務所の人々・・・とか、重層的な人間関係を見せようとしているのに、人間が描けてなくてはつまらない。
最初に、ポーカーをしているクレイトン。得意先から電話で呼び出され、轢き逃げしてしまったという男の所へ。さらに郊外を走り、クルマを降りて馬3頭に近づく・・・。で、どっかーん! とクルマが爆破される。で、4日前・・・という流れなのだけれど、最初に爆破シーンを見せてしまっているので、4日前からの経過をたどり、爆破の直前へと迫る部分にほとんど緊張感がない。爆破シーンを見せるべきではなかったんじゃないのかい? または、爆破を裏切るもっと凄いことが隠されていなけりゃ、つまらないよね。
殺し屋たちはクレイトンのクルマに爆薬とGPSに反応するセンサかなんかを設置したのだろうけれど、クルマの爆発はどうやって行なったんだ? 爆発前に殺し屋が「携帯を貸せ」なんて言ってたけど、携帯をかけると爆発するのか? そうだとしたら、もっと早く起爆すればよかったのにね。携帯を使って爆発させたのではなく、スイッチを入れて何分後というのなら、殺し屋たちがクレイトンを追いかけていく必要はないよなあ。あそこ、よく分からない。
で。あの馬3頭は何だったのだろう? 俺は、轢き逃げしたと思っていた男が轢いたのは人間ではなく馬だった、んだろうと思い、カメラが馬の胴体の傷を写すのかな? と思っていたのだけれど、そうはしなかった。うーむ。よく分からんな。
というわけで、全編いまいち物足りないというか、テンションの低いサスペンスなんて方向性が間違っているような気がする。もっと人間を描いてくれえ! いっそのこと、コメディタッチにでもした方がよかったんじゃないか、とも思ったりするのだがね。
ところで弁護士事務所の社長マーティを演じているシドニー・ポラックは、あの映画監督のシドニー・ポラックなのかい?(どうやらそうらしい)

 
 

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