2008年5月

スパイダーウィックの謎5/1MOVIX亀有 シアター8監督/マーク・ウォーターズ脚本/キャリー・カークパトリック、デヴィッド・バレンバウム、ジョン・セイルズ
原題は“The Spiderwick Chronicles”。子供だましの杜撰なおとぎ話。ただし基本的な話に突っ込みどころが多くて、いまいち乗れない。
ある一家が遺産相続した田舎の屋敷にやってくる。母親と娘、双子の弟たち。双子の片割れが先祖の大大叔父が書いた妖精の本を見つけ、話が始まる。のだけれど、人間が書いた妖精の本を、悪い妖精たちが欲しがる、という設定自体が変。大大叔父を連れ去った風の精たちもその本を狙っているようなのだけれど、なんでえ? 何のためにあの本を奪い合うのだ? さっぱりわからん。
屋敷を円状にとりまくキノコが、どうやら結界のようになって悪の妖精たちから守っているらしい。けど、人間はフツーに家を出入りしているのだから、そんなの何の役にもたってないだろ。っていうか、結界を超えて街に行かなくちゃ食べ物も手に入らない。・・・という日常生活を送っているときに、どうして悪の妖精たちは人間を襲わないのだ? そして、双子らが妖精を見えるようになってから襲いかかってくる。変だろ。っていうか、転居してきてすぐ、住み着いている妖精ががたがた言わせて存在を示すようなことをするのも変。みーんな変。不自然。
双子の、好奇心の強い方の少年が事件を引き起こし、さらに大事にしているだけなのでイライラする。彼が本の封印を解き、結界の外に持ち出すな、と言われているのに勝手に持ち出したり。まあ、話を転がすにはこういう身勝手野郎を設定するのが手っ取り早いのだろうけど、俺は嫌いだ。脚本家が3人も係わっていてこんないい加減な本しかできないものなのかね。
どうやら両親は離婚したか離婚間近らしい。父親が別の女と暮らしているようだ。この映画では父親が悪い親として描かれているけれど、背景もほとんど描かず、離婚=悪いこと、とパターン化されている。昔のおとぎ話のパターンだね。こういうパターンの押しつけは、古臭いと思う。ま、話のバックグラウンドとして、このような両親の諍いの下にある思春期の少年少女の妄想、というのもあるのかも。ま、あんまり意味づけとしては大きくないかも知れないけどね。
変なところと言えば、もっとある。80年前に45歳の大大叔父が要請に連れ去られ、そのとき6歳半だった大叔母が残された。母親(大大叔母)もいたようだけれど、映画には登場しない。で、妖精に連れ去られた、といいつづけた大叔母は精神病院送りになってしまう。現在86歳半。彼女が屋敷を相続したはずなのに、どういうわけか、双子の母親が相続するのだよね。大叔母と双子の母親の関係はどうなっていたのだろう。それに、双子の母親にとって、彼女は叔母になるはずだけれど、そうなると双子の母親は若すぎないか? というようなことも気になってしまった。
紀元前1万年5/9上野東急監督/ローランド・エメリッヒ脚本/ローランド・エメリッヒ、ハラルド・クローサー
原題は“10,000 BC”。時代考証などは無茶苦茶なんだけどとても面白かった。狩猟民族の白人部落があって。そこに騎馬民族がやってきて人質を連れ去っていく。追う村人。山を越え(スペインのピレネーか?)ると黒人部落(農耕民族)。ここも騎馬民族に襲われたばかりで、ともに追跡。砂漠の民とも合流して砂漠(サハラか?)越え。たどり着いたらピラミッド! おお、ここはエジプト? 騎馬民族は奴隷狩りだったのね。というわけで、ここで騒動を起こして人質を連れ戻してハッピーエンド。スケールがでかすぎるが、テンポ良く話が進む。
そもそもBC1万年に農耕民族がいたのか?(紀元前5〜6000年らしい) マンモスはもっと昔じゃないのか?(紀元前1700年ぐらいまで棲息していたらしい) エジプトのピラミッドはBC1000年もいってないんじゃないの?(と思ったら紀元前2600年ぐらいらしい) ピラミッドづくりにマンモスを使う? ピラミッドは奴隷が造ったわけではないという説も出ていたぞ…。とか、いろんな時代のいろんな要素がBC1万年に集められてしまっていて、とても変。変なんだけど、別にいいか、映画だから、という気分になってくる。
かつてラクウェル・ウェルチがでた「恐竜100万年」てな映画があって、人間が恐竜と戦うなんてあり得ない、なんていわれたけど、あれと似たような映画のウソだと思うけどなあ。テキトーでもいいじゃん。あの時代に英語があったかどうかなんて、そういうのもいいじゃん。
そういうのより、捕虜として捕まえた若い女を、さっそく皆の衆でいただかないというのが、あり得ないんじゃないの? と思ってしまった。それに、騎馬民族=エジプト人のボスが、捕虜の彼女に惚れてしまって道を踏み外すという方が違和感ありすぎだと思う。まあ、ロマンスとう面を加えるためには必要だったんだろうけど。
スペイン南部かモロッコ辺りで遭遇したダチョウの化け物みたいなのは、なにが元になっているんだろうね。そうそう。エジプト人が騎馬民族っていうのはありなのか? ラクダにしろよ、という思いもあった。最後にヒロインが背中か射られているのに復活してしまうインチキさは、凄い。だったら致命傷的なところじゃなく、当たるのは肩あたりにしてくれい。
その捕虜になるヒロインだけど、「クレオパトラ」のリズ・テーラーにそっくりなんだよね。なので、エジプトの大神を倒した後で、彼女が神に祀られて女王にでもなるのかと思いきや、そうはならなかった。ヒーローはヒロインを連れて山を登り、故郷へと穀物の種を持ち帰るのだった。ここらへんは、マジメすぎる展開でちょっと不満。あれだけいい加減をやり尽くしているのだから、ラストも無茶苦茶はじけてくれよ、という感じ。でもま、正しい歴史との違いを考えているだけでも面白くて、飽きなかった。
最高の人生の見つけ方5/13上野東急2監督/ロブ・ライナー脚本/ジャスティン・ザッカム
原題は“The Bucket List”で、劇中にでてきた、モーガン・フリーマンがメモしていた「死ぬまでにしたいことのリスト(棺桶リスト)」。自動車修理工の黒人と病院経営者の大富豪が末期がんで同室に。意気投合して死ぬ前にパーッと、したいことをして死のう! と決意する話。案外と中味が軽く、しかもモーガン・フリーマンとジャック・ニコルソンのビッグ2が主演なので、押しが強いというか繊細さに欠けるところもある。死を扱っているのにコメディタッチで、死を扱っているのに2人とも元気で、結局することは世界旅行。やっぱりお金がないとできないことばかりじゃないか、なんていうところは社長漫遊記みたいな感じがしないでもない。つまりまあ、心の満足というより、豪遊して死んでいったという印象の方が強い。あまり、しみじみい〜ってところはない。ま、明るくていいじゃないかともいえるけれど、バカバカしいともいえるわけで。
まあ、それでもジャックはずっと会っていなかった娘に再会し、孫娘にあってキスをする。なのでリストの「世界一美しい女とキスをする」という目的を達したとチェックマークをつけたりする。さらにジャックはモーガンの葬式に出てスピーチをして、「人々のためにいいことをする」というリストにチェックを入れる。このところは、ちょっとばかり心には来るのだけれど…。でも、ひどいことをしたから娘には会えない…と言っていたくせに、ひとりで会いに行ってしまう下りはイメージ的に描写されていてかなり説得力がない。あそこは、ひと悶着有りでもいいから、ちゃんと描いて欲しいところだ。
ジャックは4回(だっけか?)も結婚し、いまは1人だけどつねに女を侍らせ、自家用飛行機のスチュワーデスとフライト中にエッチしたりする無信心なオヤジなわけで、資産家になるにはかなりの悪事を働いたのだろう。でも、その懺悔があるわけではない。死は、平等に訪れる。そして、いままでしなかったささやかな“いいこと”をして死んでいった、という程度だ。リアルに描いたら、とても共感できるようなキャラにはならないだろう。一方のモーガンは浮気もせず一穴主義で通した信心深い男。これもまあ、リアリティがない。でも、コメディタッチだから何とか許容範囲に入っているのだろうな。
モーガンのナレーションで始まり、エベレストを登頂している人物の絵がかぶる。なのでジャックが先になくなり、モーガンはまだ生きているのかな…と思っていたら、最後でモーガンが先に逝ってしまう。え? では…秘書が登ってるの? と思ったらそうだった。秘書がエベレストに骨壺を(缶入りのを運んでいるところで、それは「違法なのだけれど」というコメント付き。棺桶リストの死後の処理を行なっていたというわけだ。ああいう処理をモーガンの奥さんは許さないと思うんだけど、まあ、それはいいか。それにしても、先に死んだモーガンのナレーションというのは、引っかけだよね。きっと天国の入口辺りで、後からやってくるジャックの骨を待ち受けていたのかな?
ジャックの秘書役のキャラがいい。素直な口調で皮肉を言ったり、冗談をマジ顔で言ったりする。なかなかイケてるキャラでよろしい。
夢は大学教授だったけど金もないので自動車修理工になった黒人モーガン。金と色気に生きた奔放な白人ジャック…というのは、人種的にもちょっとパターンにはまりすぎかなとは思うけれど、まあ、仕方がないのかも知れない。逆にしたらムリがありすぎるかも知れないし。でもなあ、モーガンは大統領役までやった黒人俳優で、ジャックはどうひっくり返っても悪役面からは逃れられない俳優なんだけどなあ。やっぱり、やんちゃなジャックが金持ちでよかったのかなあ。
あの、コーヒー豆のエピソード。種明かしされる途中で、聞いたことがある、と分かった。なので、案外知っている人は多いかもね。
それにしても、あのスカイダイビングのシーン。本人たちがやっているように見えたが、本当にやっていたとしたら、すごいねえ。あ、それから。モーガンは66歳、ジャックは80歳の役どころ、らしいが(違ったかな?)。ジャックの80歳というのはなんだかなあ。
ONCE ダブリンの街角で5/14ギンレイホール監督/ジョン・カーニー脚本/ジョン・カーニー
原題は“ONCE”。冒頭から引きつける。路上で歌う男。とうに30を過ぎている感じ。こんなことしてる場合か、ちゃんと働け、というような男。そこにヘラヘラした男が近づいてきて、投げ銭をギターケースごとかっぱらって逃げる。追う男…。笑っちゃうけど、アイルランドの底辺はこんな感じ、っていうのがよくつたわってくる。別の日の夜、男(最後に気づいたんだけど、ロールにはguyとgirlとしか出てこない。そーか。ほとんど名前で呼ばれていない映画だったんだ!)が歌ってると、1人だけの女の客が拍手する。いつも聞いているらしく、なぜ昼間はコピーばかりで今みたいなオリジナルを歌わないのか?」と突っ込んでくる。この辺り、女が積極的すぎて嫌な感じがしないでもないのだけれど、後から、別に彼女は関係をつくろうとして話しかけたのではないことが分かる。要するに、社会の下層部にいる人間同士の嗅覚でそうさせたのだろう。そうして、オリジナル曲が魅力的だったので、それを訴えたかったのだと分かる。ここは、同じ音楽をする人間同士の勘定なのかも知れない。
たまたま父親がフーバー掃除機の修理業を営んでいて、男もそれを手伝っていることを女に告げると、うちのが壊れてるから直して欲しい、と言われてしまう。いいよ、と軽々しく言ったら、女は本当に掃除機をもって、直してくれと、歌っている男の所に来る。「マジかよ」という表情の男がいい。見ている方も、これは女の方がカマをかけているのかもな、と見えるところがこの映画の上手いところ。本当はそうではなく、女の純真すぎる部分がそうさせるんだろうけど。
それにしても掃除機のホースをもって本体を引きずり歩く(街中をだ!)という発想というか行為は、日本人には理解しかねるところ。で、ときどき楽器屋でピアノを弾かせてもらっている、という彼女の音楽が聴きたくなって、一緒に楽器屋へ入る。クラシックを弾く女。ギターを取り出し、女に自分の歌のコードを教え、即興でデュエットしてしまう2人。心が、音楽が通じ合うところで、なかなかよい。でまあ、掃除機をもって男の家に行き、修理が終わった、というところで「泊まっていかないか」と誘ってしまう男。お。どうなるんだ、と思っていると、女は汚らわしい物を見るような表情になる。女は決してパートナーを探そうと男に話しかけたのではなかったのだ…。
女は実はチェコの移民で、実の母親と娘と暮らしていた。娘の父親はチェコにいるらしい。唖然の男(のはずなんだけど、その後で2人でバイクで遠乗りに行ったとき、女が「結婚している」といったことに男が驚くんだけど、それってズレてるような気がするんだけどなあ。もうすでに知っていたのではないの?)。時間になると隣室から何人か知らないけれど3人の男がやってきてテレビを見はじめる。住んでいるアパートでテレビを持っているのは女の家しかない? とかいっている。アイルランドにも英語を話せない移民がずいぶんとやってきているのだね。イギリスからは格下に見られているエール。イギリスからの独立運動はまだつづいているはず。チェコとエールという、ヨーロッパの主流になれないでいる国の、その中でも貧困層に位置する2人の心の交流というのが、じわりとしみてくる。
ひと晩の添い寝を誘った失礼もなんとか乗り越え、2人はまた音楽を通じて交流を始める。男は、未練のある彼女がいて、ちょっとしたウソをついて別の男と出て行ってしまったということを女に言う。女は、会いたいんでしょ、というようなことを言う。背中を押されたように、男はロンドンに行くことを決断する。女に歌を誉められたことも手伝っているのだろう。ロンドンに行くのは、音楽デビューをめざして、だから。母親が死んで父親が1人暮らしするまで、きっとロンドンでデビューを目指していたんだろう。で、いろいろあって、その経験が音楽を深くしていたのだろう。ちょっと贅沢をして録音スタジオを借り、デモCDをつくる決意をする。銀行に金を借りに行ったら融資課のオヤジが「俺のも聞いてくれ」とギターをかき鳴らし始めるのが愉快。で、路上パフォーマーからドラム他3人を頼み込んでいざ録音。ここが、この映画の最高にいいところ。最初はバカにしていたミキサーが、なかなかいいじゃん、という表情になってマジになるところや、女の娘がスタジオに来たり、録音を終えてミキサーが、カーテスト(カーステレオで聞くこと)をしたいといい、みんなで海岸に行くところなんかもいい。爽快感を感じさせてくれる。
そして、CDを手にロンドンに向かおうとする男。男は女の家によるが、彼女には会えない。彼は、中古のピアノを、どう工面したかしらないけれど、楽器店から女の家に運ばせる。女の家にピアノがとどく。が、その女の家にはチェコから夫が来ていて、再び家族が形成されていくことが観客には知らされる。窓辺でピアノを弾く女。カメラが引いていく。女がピアノの手を止める。籠のなかの鳥が自由に飛べる空を羨ましそうに見るように、女は窓の外を見ている。歌詞が(詳しく覚えていないのだけれど)、彼女の境遇を歌っているようで、哀しくもあり、希望があるようでもあり、ちょっと複雑な気持ちになる。
音楽、とくに、歌詞がよい。過去の体験や現在の境遇などを切々と歌い上げていたりする。CDが欲しくなった。
女が部屋の掃除、花売りの他に「ビッグ・イシュー」を売っているのが興味深かった。日本ではホームレスが売っているけれど、あの国でも低所得者層が販売しているのだね。
ヒロインはちんちくりんでとくに可愛いわけではない。素直で真面目そうな顔立ちだ。で、ホームページを見たら、2人ともミュージシャンだという。なるほどね。でも、2人ともいい味を出していたと思う。うん。なかなかよい。去年見ていたら、去年のベスト10に入れていたと思う。
砂時計5/16テアトルダイヤ監督/佐藤信介脚本/佐藤信介
とても退屈。つまらない。何度あくびをし、時計を見たことか。結局あれかい、うつ病母娘の記録、ってことかい。ううう。
この映画、いつ誰が何を…という基本的なことが描かれない。主人公の2人と、周辺の2人。彼らがいかに好意をもつに至ったか、それがすっぽり抜けている。だから、以後の交流にもまるっきり説得力がない。その他、母親がどこで働いていたか、父親との関係は、など、人間を掘り下げるような部分は一切排除。これでは面白くなりようはずがない。
もしかしたら、そういう部分をあえて描かなかったのかも知れない。そして、イメージビデオみたいな現象的なことだけをデッサンするように描こうとしたのかも知れない。でも、もしそうなら、それはまったく成功していないし間違っていると言わざるを得ない。もっと人間を描いてくれ。中味がすかすかだぞ。
でもって、恋愛物語かと思いきや、思いっきり“うつ”の話ではないか。母親は、祖母に「ちゃんとしろ、がんばれ」と言われたのがプレッシャーになって自殺。主人公の女も、婚約破棄されてリストカット。おいおい。うつ病患者に励ましは禁物、とでもいうようなキャンペーン映画かい? これじゃ人間ドラマじゃないだろ。
幼い日の2人と、成長してからの2人のイメージが違いすぎ。少年少女はまだいいとして。大人のキャスティングは間違ってるね。面影もなにもない。話がぶちこわしだと思う。で、砂時計にはどんな意味があったのだ? とってつけたようなタイトル、としか思えないぞ。
王妃の紋章5/20新宿武蔵野館3監督/チャン・イーモウ脚本/チャン・イーモウ、ウー・ナン、ビエン・ジーホン
原題は「満城尽帯黄金甲」、英題は“Curse of the Golden Flower”。中国。唐のあとの群雄割拠の時代らしいけど、あんな金ぴか絢爛豪華な王宮なんかあり得ないだろ。それだけで、アホみたいに見えてくる。実をいうと予告編がもう金ぴか一辺倒で、なんかつまらなそうな話だなあ、とは思っていたのだけれど。やっぱりつまらなかった。
基本は王一家の跡目争いで、王は政略結婚した妻(王妃)に飽きちゃって毒殺しようとしている。王妃は次男坊と一緒に王を殺そうとする。その王妃は前妃の息子(つまり長男)と肉体関係に。三男は自分が疎まれていると思いこんでいる。そこに、前妃とその夫(御殿医)と娘がからんでくるのだけれど、この娘が王の長男を異父兄妹と知らずただならぬ仲に…。という、ギリシア悲劇かシェークスピアかといういうような古典的な複雑関係を設定している。これは悪くないと思うんだけど、このドロドロ関係は単に背景になっているだけで、画面には王宮の金ピカがこれでもかこれでもかと映される。中国といえど戦国時代にこんな贅沢三昧ができるわけがないだろ。胸の谷間を露わにした何10人もの侍女たちや、CGで大量に登場する兵士たちなんかも、それはあり得ないだろうというような有様で、とてもリアリティがない。そんな表面的な豪華さ、くだらないスケール感などにとらわれず、人間関係にターゲットして人物を掘り下げた方がよっぽど面白くなったはず。
だいたいCGがちゃちでとても見られない。王はチョウ・ユンファと大物をもってきているけど、王妃のコン・リーは田舎のオバサンにしか見えない。息子たちも長男次男は貧相な顔立ちで、せいぜい三男が見られる程度。そこそこ魅力的なのは棄てられた前妃で、忍者まがいの行動もする。その亭主で御殿医役もいい味を出しているけど、結局この2人はメインじゃないからなあ。
で、結局は王の方が一枚上手。兄弟がみんな死んで、毒杯を叩き落とした王妃の結末は…どうなるの? 描かれてないけど。殺されちまうってことなのかな? で、タイトルの「紋章」という意味はなんなのかねえ。うーむ。
痛いほどきみが好きなのに5/20新宿武蔵野館1監督/イーサン・ホーク脚本/イーサン・ホーク
原題は“The Hottest State”。主人公の故郷テキサスがThe Hottest Stateと呼ばれるとかいう話が会話に出てきていたような…。
イーサン・ホークが監督かあ…。前になんとかホテルとかいう映画でほとんど全編寝てしまったが、その二の舞のような気がする…。だってグレートインディアでお昼を食べたばかりなんだし…。と思いつつ見はじめて、まあ、当初はそこそこ見ていられたのだけれど、2人がメキシコに行って初セックスした直後から5〜10分ほどウトウトしてしまった。だって、中味がからっぽなんだもん。20歳の白人青年が、スペインかメキシコかウルグアイ辺りの出身みたいな黒髪の娘に恋をして、ひっついて離れてというだらだらな様子をスケッチするだけ。底がとても浅い。
バーで話して意気投合して、早速、男の家に転がり込んでくる娘。でもフェラはしてもセックスは嫌だという。かつての恋人に棄てられたトラウマがあるようだけど、おいおい、って感じだなあ。青年はやりたいやりたいと言い、メキシコに行ってやっと身体を許してもらえる。このとき、娘は高揚して「結婚しよう」といいだす。でも、母親に電話したら賛成してもらえず、やめてしまう。で、米国に戻ると「自律したい」と娘の方から離れていく。なんなんだ。同棲していたって(娘が)音楽をしていたって自律ぐらいできるだろ。なのに何で青年から離れていくのかさっぱり分からない。
青年も青年で、それまで多くの女の子とやりまくっていたのに、なぜ彼女にぞっこんになったか、その理由がわからない。で、彼女の心が離れているというのに、叫んだり毀したり電話を延々かけたりストーカーまがいにまとわりつく。ちょっと感情のすれ違いがあると、すぐ暴れる。バカじゃねえの、としか思えない。
青年の両親は離婚していて、それぞれにパートナーをもっている。成長期に父親のいなかった青年の過去が示されるけど、原因をそれだけに求めてもしょうがないだろう。娘の両親も離婚(だっけかな?)していて、という環境。でもなあ、アメリカの離婚率は確か50%ぐらいになっていて、そんなのありふれているだろ。
でまあ、彼女に棄てられ困った青年は、ずっと会ってなかった父親のところに相談に行くんだけど、こいつ、友だちがいないのか? で、オヤジに「じっと待ってるしかない」なんて言われて、その気になってしまうみたいな終わり方。あれほど自暴自棄になっていたのが、あっさり別れる、というか、彼女が歌に夢中になっているのを、やさしく遠くから見つめるゆとりがでてくる、というような終わり方だ。なんだかなあ。結局のところ、雰囲気だけでだらだら見せているだけで、えぐり方がぬるい。こっちの心にとどいてこないんだよー。こんな映画を見て共感するやつはいるのかねえ。
クレジットを見たら日本人がプロデュースしているのだな。こんな映画に金を出してもしょうがないと思うけどねえ。
青年の母親が青年を身ごもったのはどーみても18、9のときみたいなんだけど、青年が少年だった頃の母親は別の役者が演じていて一気に老けているのが、どーもなあ。変だよ。それから、日本版のみらしい日本語のエンドミュージックが流れるんだけど、アホじゃないかと思ったぞ。
4分間のピアニスト5/21ギンレイホール監督/クリス・クラウス脚本/クリス・クラウス
ドイツ映画。原題は“Vier Minuten”で、英題は“Four Minutes”のようだ。なかなか含蓄がありそうな雰囲気をもっているんだけど、要素が多すぎて収拾がついてないような気もする。それでもずっと緊張感はそこそこ保っていたし、特にラストの演奏場面だけは、それまでと違ってスコーンとはじける素晴らしさ。映画の大半は、このラストの演奏を見せるためにあるといってもいいかも知れない。
20歳過ぎぐらいの女囚と、刑務所に勤める老音楽教師の話。でも、だんだん女囚は教師の引き立て役かもな、と思えてくる。この女教師はドイツ人。将来を嘱望されたピアニストだったが、第二次大戦が始まって看護婦として働いていた、らしい。で、彼女には女性の恋人がいた…が、その恋人は共産党員であることが発覚し、死刑になる。…という過去をもっているようだが、レズビアンであったことを隠さなければならない理由とか、ピアニストを諦めてピアノ教師になった理由、刑務所に勤めている理由などが、実はよく分からない。なので、要素は多いけれど帳尻が合っていないような気がするのだ。
女囚の方も、アウトラインがアバウトな部分が多い。分かっているのは、小さい頃からコンテストに出ていたけれど、父親(義父?)に犯されることに。その後、殺人罪で刑務所に。でも、父親が言うには、彼女の恋人が殺めた相手(どういう人物だったか忘れた)をバラバラにして棄てただけで、恋人をかばっているらしい。逮捕された後で恋人の子を出産することになったが、刑務所外の病院に行かせてもらえず、子は死んでしまう。…とまあ、つらい来歴が披露されるのだけれど、だからといって刑務所内でのふてぶてしい態度は過剰すぎるし、看守への暴行なんか異常者のそれだ。それに、同室の女囚が首つり自殺しても平気の平左。ああいうのを見てしまうと、どうしたって同情も共感も出来ないし、たぶん先天的な気質的異常があるんだろうな、と思えてしまう。
という2人の関係なんだけど、教師は「あなた個人には関心がない。ピアノの才能を伸ばすのは義務よ」といってレッスンを始め、コンテストに出すことにする。だけれど、教師が女囚を性的対象として惚れてしまったのは明白。その上で、天賦の才を世に示したいという欲望もあるんだろう。でも、教師が教えることなんか、あるのかい? というようなテクをもっているのだよね、女囚は。だから、教師は女囚を利用しているように見えるのだが、どうだろう。だって、女囚が忌み嫌っている女囚の父親と会って、ビアノコンテストでのあれこれを話したりしているのだ。女教師はなかなかにしたたかだと思う。
映画では、教師の頭は過去に縛り付けられているように描かれる。でも、先に述べたように彼女にとっての過去の重荷がほとんどつたわってこない。むしろ過去へのこだわりは、女囚がジャズ風の弾き方をするのを「下品だ」とけなすぐらいかもね。前衛的な演奏方法を理解できず、クラシック一辺倒なのだ。これじゃ単なる頑固ババアじゃん。
なので、コンテストの決勝で女囚が前衛的な弾き方をするのを見て血の気が失せていくわけだ。いや、見ているこちらも、フツーにクラシックを弾いて1位になって、でも逮捕されて(女囚の暴力が収まらないので、刑務所側は彼女の決勝出場を許可しなかった。なので、女教師が看守を使って脱獄させている)刑務所は終わるんだろうと思っていたので、とてもビックリした。ほんとうに、素晴らしい裏切り。見ている方は、ざまあ見ろ、という気持ちになった。
というわけで、ディテールの整合性をもうちょっと正確にして、説得力のある物語にして欲しかった。そして、女看守の過去を、単に思わせぶりに描くのではなく、もうちょっと納得できる内容で描いて欲しかった。あー、それから。クラシックと前衛音楽の他に、アラブっぽい旋律を基調にしたロックぽいのが流れるんだけど、なんか意味があるのかなあ。
ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛5/23上野東急監督/アンドリュー・アダムソン脚本/アンドリュー・アダムソン、クリストファー・マルクス、スティーヴン・マクフィーリー
原題は“The Chronicles of Narnia: Prince Caspian”。前作に比べて話がしっかりしているし、苦渋の選択や失敗譚なども含め、少年少女の成長物語として良くできていると思う。これは、前作で幅を効かせていたライオンが後半も後半にならないと登場しないこと、そして、ライオンの力を借りた力(CGによる映像がほとんど)も最後にしかでてこないので、人間ドラマに厚みが出たせいかもしれない。なので、ライオンが登場してからの展開はかなりつまらなくなってしまう。ま、ああいうのが見たいという人も世の中にはいるんだろうけど。
地下鉄の駅からナルニア国へというのは「ハリー・ポッター」みたいだし、木が動き出すのは「ロード・オブ・ザ・リング」みたい。ファンタジーなので似てしまうところはあるんだろうが、ちょっと目立ちすぎ。
4兄弟が舞い戻ったナルニアは、隣国テルマールによって滅ぼされていた、という設定。そのテルマールの後継者であるカスピアン王子は、王位をめぐって叔父に殺されかけ、ナルニアに逃げ込む。このカスピアンをリーダーに、ナルニアの残党がテルマールを攻めようか…というところに、4人がやってくる。そのきっかけはカスピアンが偶然吹いた角笛なんだけど、このあたりはいささか強引。カスピアンに角笛を渡した教授は、実はナルニアの人、ということらしいが、カスピアンが笛を吹いて伝説の王たちを呼び寄せることまでは考えていなかったはず。偶然性ではなく、必然的な仕掛けを考えて欲しいところだ。
で、カスピアンと長兄ピーターの2人をリーダーに、ナルニア残党がテルマールの城に向かうのだけれど、先遣隊がドジる。カスピアンは叔父の陰謀を暴くのだけれど、叔父を殺すまでの度胸はない(息子を生んだばかりの叔母が、夫の陰謀に気づいて戸惑うところがなかなかよい。話の奥行きを深くしていると思う)。おたおたしている間に次男エドマンドが見つかってしまい、門の城を開けるのに手間取る。門がロクに開いていないのに、ピーターは仲間を呼び込むが…多勢に無勢で退却。しかし、逃げ遅れた仲間はテルマール人に殺される…。カスピアンは興奮すると周囲も状況も読めなくなってしまう。ピーターは先が読めない強引さと無計画さを露呈する。見ている方はイライラするのだけれど、イライラさせているということは、術中にはまっているわけで、物語は成功しているといってもよいのだろう。
この失敗を盛り返すため、ピーターはテルマールの暫定王(カスピアンの叔父)と一騎打ちをするのだけれど、まあ、これはこの手の映画の定番だ。で、暫定王は死ぬのだけれど、これをきっかけに交戦がはじまる。でも、テルマールの方が頭数にまさるわけで。…というところに、ルーシーが呼んできたライオン=アスランがやってきて、木を動かしたり水の巨人を登場させたりして、またしてもナルニアが勝利を治めるという都合のいい話。ま、これも定番だからしょうがないけどね。
前回もそうだけど、伝説の王といいつつ作戦はないし強くないし、結局のところライオンの力を借りないと何も出来ない連中なのだよね。それでもピーターは一対一の戦いで見せ場を作るし、エドマンドも前回の汚名を晴らすような知的で落ち着いた働きをする。だんだんマヌケ顔になってきた長女スーザンも、弓を射る姿はなかなか凛々しい。カスピアンとの恋物語もちょっとあったりして。で、今回の要は末妹のルーシーだね。他の3人は成長しすぎてライオンが見られなくなってしまっている。そんななかで、虚心坦懐素直な心を持っているルーシーだけが、ライオンの姿を見出し得ていたのだ。やっぱ、こういうファンタジーは少年少女のもので、色気づくとダメになっちゃうっていうことなのかもね。でも、前作ではこの4人、20歳前後まで成長するまでナルニアにいたんだから、今作で“成長”が問われてもなあ、という気がする。前作での成長した4人も、ライオンが見えない状態になっていたんだろうか? とね。
という細かな突っ込み所はあるんだけど、冒頭に述べたようによくできている方だと思う。これは、続編とはいいながら独立した話になっているからできたことなのかも知れない。つじつま合わせを考えなくてもいいからね。次回作も作られているようだけど、成長しすぎた彼らがどうなるのか、ちょっと興味があるところ。
山のあなた 徳市の恋5/27テアトルダイヤ監督/石井克人脚本/清水宏
リメイクらしいが、セリフがとても古風。シーンはFOで終わるし、演出もシンプル。もしかして昔のシナリオそのままで“めくら”を言い換えている程度かも。と思って調べたら、ほとんどそのまま清水宏「按摩と女」の脚本を使っているとあった。いちばん引っかかったのは、東京の女の口調で、小津の戦前の映画なんかと似たような話し方なのだよね。なので、実は30前の若い女なのだけれど、現在の感覚からはかなりの年増のように見えてしまう。しかも堂に入ってないんだよね。これは東京の女だけではなく、ほとんどすべての役者にいえること。そこそこハマっていたのは、徳市の相棒役をやっていた加瀬亮ぐらいではないのかな。
話は単純すぎるぐらいシンプル。山の温泉宿での数日間をのんびりと描く。事件らしい事件も起きない。せいぜい置あちこちの宿で置き引きが発生している程度で、面白みはほとんどない。では、徳市の恋が描けているかというと、これもいまいち。人間の掘り下げ方が、甘いのだよね。謎の東京の女…一時は置き引きの犯人と疑われるが、実は囲い者で旦那から逃げてきた…なので、追っての気配を気にしてびくびくしていた…らしいが、びくびくしていた様子なんて見えなかったぞ。甥っ子と投宿している中年オヤジも、その役回りはよくわからない。そのオヤジと甥が泊まっている宿の女中を洞口依子が演じているんだけど、今にも自殺しそうなぐらい陰気にぼそぼそしゃべるだけ。こんなつまらない映画になるんだったら、昔のシナリオに手を加えたらいいだろうに。先が容易に読めてしまうシナリオでは、とても今の客はついて来ないよ。
オリジナルは昭和13年(1938)らしいが、当時とは映像表現力も観客の映像リテラシーも違う。なにもかも昔のままで色がついただけでは、とても満足はできないよ。オリジナルは、モノクロでスタンダードで1938年ということが分かっているから楽しめるはず。それがカラーのビスタサイズになったら、欠点が目立ちすぎるのは自明のことだろう。オリジナルは66分、本作品は94分。ほとんど同じ脚本なら、まあ、間延びしてしまうのか仕方ないかも。
前半に登場する女学生と男子学生たち。ああいう“遊び”の部分がもっとあってもよかったかもね。そして、しゃべり口調も変えた方が良かったと思う。そして、最後にやっと登場する置き引き犯人も、途中で登場させるべきだろう。宿・鯨屋の主はともかく、番頭を演じるのは津田寛治なんだけど、ひと言も発しない。田中要次も按摩で登場するがセリフなし。そりゃあないだろう。
それでも、めくらを笑いの対象にするスタンスを崩さなかったのは、賞賛に値する、かな。落語にも「麻のれん」「影清」なんていう、目蔵が登場する噺があるけど、手加減しては面白くなくなる。弱者が笑いの対象になっていた時代があったのだ。それを誰も気にしない時代があったのだ。今みたいに差別だ何だと気を使いすぎて、毒気を失ってしまっては、本来の面白さも半減する。子供が按摩の鼻にこよりを突っ込んでからかったり、按摩たちが腰をつかみながら数珠繋ぎになって歩いていたり、と、昔の演出を継承していることの良い部分もあったことはあったんだけどね。
それにしても、徳市が東京の女に憧れ=惚れるのは分かるけれど、東京の女は徳市をどう思っていたのだろう。親近感を抱くようになる何かの出来事を、やっぱり描くべきだろうなあ。そして、結局、歯牙にも掛けられていないことを知る残酷さも描いて欲しかったような気がする。
隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS5/30キネカ大森1監督/樋口真嗣脚色/中島かずき、脚本/黒沢明、菊島隆三、小国英雄、橋本忍
世間の評判はイマイチのようだけれど、ごくフツーに見ればそこそこ良くできているといっていいと思う。もちろん原作がいいからで、イマイチというのはオリジナルと比較してのことだろう。でそのオリジナル、見てはいるけど大分前なので大筋は分かっているだけ。具体的な部分までは覚えていない。だから客観的な評価ができたのかも知れない。
オリジナルの足軽2人は千秋実と藤原鎌足で、姫とのロマンスなんかなかったと思うんだけど、リメイクは松本潤と宮川大輔。2人のことはよく知らないが、松本潤が姫と淡い恋愛関係に至る。これには、ちょっとムリがある、と思うのだけれど、まあ、昨今のケータイ小説時代の客層にはこれぐらいやってもイイという判断なのかも知れない。これもオリジナルと比べると違和感があるけれど、許容範囲ではないのかな。松本潤のひげ面はどーみてもサルで、いい男には見えない。一方の宮川大輔のひょうきんキャラはよかったと思う。
で。もっとも違和感があったのは、山名の国が進めている城塞の建設だな。断崖絶壁の要塞みたいだけど、あんな城を築く理由が分からない。でもって、数メートルの地下を掘ったらガスがでてきて、それで簡単に爆発・崩壊してしまうというのはチャチ過ぎるだろ。オリジナルもあんなだったのか?
それから、椎名桔平の顔の傷のメイクがちんけ。もっとリアルな形状で上手につくってくれよ、と言いたかった。特撮はおしなべてチャチ。ま、時間と金をかけられなかったのかも知れないが、ま、こんなもんだろう、と思ってみれば許せる範囲かも。
長澤まさみは、ヅラをつけるとオバサン顔で、可憐なところがなくなっちゃうのが難点。阿部寛は三船敏郎風な仕上がりで、オリジナリティはないけど、ま、いいか。
要所でピンが合っていないのが気になった。カメラがトンマなんだろう。っていうか、役者の時間拘束ができずに、撮り直しが効かないような状況で撮っているのかも知れない。でも、こういうのって仕上がりの精度に直結することだと思うがなあ。

 
 

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