2008年6月

ラスベガスをぶっつぶせ6/3MOVIX亀有シアター4監督/ジム・スタージェス脚本/ピーター・スタインフェルド、アラン・ローブ
原題は“21”。MITの教授と学生がラスベガスに乗り込み、数学的な確率=読み(?)と、残りカードを記憶してカウントする(というところの理屈がよくわからない!)ことで、ブラックジャックに勝ち続ける、という物語。どーも実話が元になっているようで、TBSラジオ「ストリーム」で町山氏が説明していたのを記憶している。なんでも元になったのは本当はアジア系の学生の体験だったのに、映画になると主人公が白人になってしまうのはなんでだ! というようなことがアメリカで騒がれているとかなんとか。ま、集客率を考えたら白人のイケメン男と色っぽい女がヒロインにならないとしょうがないんだろうけど。
基本的には瑕疵はない。学生たちが頭脳を使ってカジノ荒らしをする、っていうのは話としてオモシロイ。しかもテンポがよいので、どんどん話の中に入っていける。といっても、彼らの使っているテクニックには入っていけないけどね。チームの役割というのも、ちょっと分かりにくいし。
物足りないといえば、人間がいまひとつ描かれていないところか。でも、みんなそこそこ描写はされているのだけどね。もうちょっとだけ描かれていると、深みが増したかも。そんな中で、主人公の本来の友だち2人(ロボコンに参加するデブとオタクみたいなやつ)は、キャラがたっていてよかった。この2人、最後のドンデンにも参加しているんだけど、その役割がよく分からないのが物足りない。カジノ仲間の中では、東洋系の男にちょっとした盗み癖がある、というのが面白かった。でも、ストーリーには(コインチョコ以外は)活かされていなかったけど。東洋系の女の子は、いてもいなくてもいいような感じ。
ケビン・スペイシーが、冷徹な悪を演じていてなかなか。最初は“いいやつ”風なんだけどね。一方、カジノの用心棒みたいな役のローレンス・フィッシュバーンは、最初は悪人かと思いきや、最後はまともな人なのね、というような終わり方。なかなかウィットに富んでいる。
というなかで、最も引っかかるのは、いったんはケビン・スペイシーの教授に引導を渡された主人公が、教授を巻き込んでカジノまで連れ出してしまうところ。この展開はかなりムリがあると思う。もう自らはカジノで遊ばない、と決めていた教授がそう簡単に心変わりするものかい? 主人公とヒロインの関係もちょっと都合よすぎるしねえ。
でもまあ、都合よく描かれるのが映画なんだし、最後のドンデンもまあまあ納得だし。合格点かもね。
それにしても、カードをカウントするのは、なんでインチキになるのだ? 予測、読みであれば、問題ないと思うんだけど。どうなんだろう?
僕の彼女はサイボーグ6/5上野東急2監督/クァク・ジェヨン脚本/クァク・ジェヨン
画質も話のテイストもベタなギャグ(ケーキに頭を叩きつける、の繰り返しとか)も、なんだか韓国映画みたいだなあ、と思いつつ見ていた(女が強くて男がへこへこしてるのは「猟奇的な彼女」そっくり)。で、ラストのクレジットを見て、なーるほど、と思った。韓国人の監督じゃん。あ、そういえば、こないだ綾瀬はるかが「笑っていいとも」にでていて、監督は韓国人だといっていたのを思い出した。でもって、Webで調べたらクァク・ジェヨンは、ずばり「猟奇的な彼女」「僕の彼女を紹介します」の監督ではないか!(監督名なんかいちいち覚えてられないからね) というわけで、なーんだ、という次第。
最初に登場したサイボーグは、いったいいつの女だ? 人間の心に気づいたサイボーグがいったん未来に戻り、再び1年前にやってきたってことなのか? と思っていたら、最初の彼女はサイボーグではなく生身の人間だった、というオチ。でも、西暦2070年代につくられたサイボーグが、2010年ぐらいに生きている人間に生き写し、という設定にはかなりムリがある。全然、合理的じゃない。それに、それまでは青年の視点で描かれていたものが、2010年ぐらいの時点から、娘の視点になってしまっている。これも、なんかちょっと変。さらに、自分そっくりのロボットの記憶を読み出したら、100年前の青年が好きになってしまい、とうとう100年前の世界へ行ってしまう・・・というラストときては、もう、説得力はどこにもない。やっぱりある程度は合理的でないと、説得力はないよね。それに、生身の人間がレストランであんなにたらふく食うか? 簡単に無銭飲食するか? どーも、そういうところがいい加減だ。
2008年に大学生の青年が、少年時代に過ごした村に行くというシーンがある。あれは2人でタイムスリップしたということなんだろう。誰にも話しかけてはいけない、というのは、時間旅行者がその時代の人と係わると、問題が起こるので回避する、ということか。でも、未来からの彼女は歴史を変えまくりなんだぜ。なんか、一貫性がないと思うぞ。それに、2070年代ぐらいからは簡単にタイムトラベルできる、という状態らしいが、ということは、もっとたくさんタイムトラベラーがそこら辺にいるってことになるのではないの? それに、青年が懐かしがっている時代は15年ぐらい前なので、2008−15=1993年のはずなのに、描かれるのは1960年代の日本の田舎の情景、というのは、どー考えても変だ。とかね。突っ込み所は満載だ。
それにしても、サイボーグが過去に戻って青年の事故(マシンガンで死ぬ)を防いだせいで時空に歪みが発生し、東京大地震が発生したんだろ? それって、個人的事情が社会的事件になったってわけだろ? ちょっとひどすぎやしないか? それに、犯罪行為(食い逃げ、中国劇団の衣装を棄てる)やグロ(イグアナ鍋、ゲロ)を平気で描くのも、ちょっとなあ…。未来からやってくるシーンは、シュワルツェネッガーの「ターミネーター」そのもの、というのがチャチい。周囲の街角のモブシーンも安っぽい。ただし、CGはなかなかリアルで、どこまでが実写か分からない部分が多かった。
全体に言えるのは、編集の間が悪い、ということ。もっとテンポよくつないでもよかったのではないかな。現状では120分ぐらいだけど、これを90分ぐらいまで縮めてもいいと思う。そうすれば、もっと流れがよくなると思う。ま、辻褄が合わないのは変わらないだろうけど。
綾瀬はるかは、無機的な顔つきでサイボーグにはちょうどいいかも。でも、感情に乏しいので、あまり魅力的ではないかも。人形みたいで頭悪そうな感じもするし。それでも、映画は彼女の胸を以上に強調する撮り方をしているのだよね。ひょっとして、上げ底の胸にしているのかな? 青年役の小出恵介は、「猟奇的〜」の主人公を演じた青年に、なんとなく似ているような気もしないでもない。韓国人監督に、いいようにつくられてしまったのかもね。
アウェイ・フロム・ハー 君を想う6/6銀座テアトルシネマ監督/サラ・ポーリー脚色/サラ・ポーリー
原題は“Away from Her”。ラストシーンに、かなり戸惑った。おいおい、そんなところで終わっていいのかい? フィオーナ(ジュリー・クリスティ)が夫ゴードンを認識したからといって、それは回復したわけじゃないだろ。看護婦が言っていたように、記憶が戻ることはあっても一時的であって、長続きしないんだろ。ゴードンはぬか喜び? いや、フィオーナが元気になるよう同じ痴呆のオーブリーを連れてきたのに、ゴードンの計画は丸つぶれ。しかも、ゴードンの女房といい仲になって同居しよう、ってとこなのに、アテが外れたわけだ。フィオーナは「私を棄てていいのよ」と言っているけれど、できるのか? しばらくできないだろ? 痴呆のオーブリーの立場はどうなっちゃうんだ! …というようなタイミングで終わるなんて。それはあんまりだろう。
老夫婦の物語だ。妻がアルツハイマー。呆ける前に「施設に行く」と自分で決めてしまう。ところが、入居1ヵ月後に面会に行くと、妻は夫を忘れかけている。それどころではない。入居仲間のジジイの世話を焼くようになっていた。つまり、フィオーナはオーブリーに恋してしまっていた、というわけだ。それを見守る夫ゴードン。ホントにやるせない。
ゴードンは、自分が忘れ去られても、それは妻の自分に対する仕打ちだと解釈する。ま、大学教授だったから女学生とやり放題で、きっと昔は女房を泣かせた、のだろう。その結果が、女房のアルツと受け止め、甘んじている。
ところがオーブリーの女房マリアンは、亭主が他のババアにいちゃいちゃされるのがたまらず、施設から引き取ってしまう。金がないという理由もあったんだろうけど、愛した亭主が他の女と仲よくしているのを見るに忍びなかったのかもね。
恋人オーブリーに去られたフィオーナは、落ち込んで泣いて暮らす。その姿を見るに忍びないゴードンは、ゴードンの家に行って、ゴードンの妻のマリアンに、亭主を施設に戻すよう頼み込む。フィオーナの痴呆が進むより、他の男に献身的になることでイキイキとしているフィオーナの方がマシ、と判断したのだろう。その企てはマリアンの抵抗にあって成功しなかったけれど、マリアンと話したことで残された配偶者同士が惹かれ合っていく、っていうのがオモシロイ。70歳のジジイとババアのセックス。まだまだ男も女も肉欲たっぷりなのだね。
というわけで、マリアンはゴードンの家に転がり込み(という風に見えた)、いまや邪魔になったオーブリーを施設に連れていくのだけれど…というところで冒頭のラストシーンにつながるのだけれど、なんと、回復の見込みがない、と施設が判断したフィオーナの記憶が鮮明に戻ってしまったのだ! 車椅子のオーブリーを廊下に待たせ、ゴードンはフィオーナの部屋に入っていく。すると、本を読んでいるフィオーナがいた。記憶が戻っているではないか! ゴードンは喜んでフィオーナを抱きしめる。フィオーナは「私を棄ててもいいのよ」という。感動的なシーンのはずなんだろうけど、俺は、廊下で待っているオーブリーのことが気になって気になってしょうがなかった。それに、いっときだけ正常に戻ったフィオーナだけれど、数日経ったらまたもとの痴呆状態になるわけだ。期待を持たせつつ、そんなことになったら、ゴードンはまたしても失意のどん底ではないか。っていうか、フィオーナの記憶が薄れるまで、ゴードンはどう対したらいいんだ? マリアンはまた自分の家に戻るのか? オーブリーも一緒? なんかなあ、ラストは変だよなあ。
最初の1/3はとても退屈だった。フィオーナのアルツ以外に事件が起こらない。ドラマがない。淡々としていて、驚きも何もない。それが、フィオーナの施設入居30日目から、いささか面白くなってくる。もっと入居までの描写が短くてもよかったんじゃないのかね。そして、あのライトシーン以後の数日を描いてくれた方が、残酷度が高まったんじゃなかろうか知らん。
痴呆老人の話は「アイリス」という映画があったけれど、あっちの方がシリアスな描写が多かったような気がする。ま、振り回される家族の視点があった、ということだろう。こちらは、早々と施設に入れてしまうのだから、振り回されることはない。もっと個人の心の部分に迫ったものなのかも知れない。他人を恋する妻を見せつけられるゴードンにとって、棄てられたのは自分だ、と思うしかないわけで。寂しさを感じずにはいられない、というところだろう。時々、若く美しい妻のイメージがインサートされるが、そういう歴史までもが崩れ去っていく、のだろうから。
それにしても、年寄りになってもがんばって一緒のベッドで寝たり、セックスしたり、西欧人はちゃんとできるものなのだね。素晴らしいというより、みんなかなりの努力をしているのだろうな、と思った。
山桜6/9テアトルタイムズスクエア監督/篠原哲雄脚本/飯田健三郎、長谷川康夫
退屈。つまらない。藤沢周平原作らしいが、緻密さがまったくない。ひょっとしたら短編を水増ししているのかも。
ロマンスを縦軸にして、私腹を肥やす郡代の悪政問題が描かれるのだけれど、どっちも中途半端。ロマンスは合理性に欠けるし、悪政は古典的過ぎるもの。面白みが全然ない。田中麗奈のヅラ姿はあまり可愛くないし、殺陣の見どころも少ない。こういうのを見ると、山田洋次の時代劇が立派に見えてくるねえ。
ではまずロマンス。田中麗奈は、いちど嫁に行き亭主と死別。いったん家に戻り2度目に嫁した家が欲深一家という設定。嫁ぎ先の舅は強欲な金貸し、姑は意地悪、亭主は上司にへつらい父にはへいこら母にはマザコンという、これでもかこれでもかの悪い人間としてあまりにも類型的に描かれすぎだろ。最初の結婚でも子供はなく、このたびの結婚では夫を拒んでいる、らしい。なんなんだ、この女は、と思ったりする。だって、嫁ぐからには田中麗奈の両親も自分も納得ずくではないの? 狭い藩内での噂ぐらいリサーチできるはず。それを、嫁いでみたら…みたいな描き方をしているのは、とっても変。故意に嫁ぎ先が悪くて田中麗奈には落ち度はない、というようにもっていこうとしているように見えてとても不自然だね。
という田中麗奈を思いつづける師範代に東山紀之。外見は凛々しい雰囲気なのだけれど、実体は女に奥手な情けないやつ、みたいに思えてくる。だって、東山が田中を好きだったのを、道場の連中はみんな知っている、のだよ。ってことは、田中の弟だって知っていたはずだろ。だったら、弟が姉に東山の人となりを伝えるなりしてとりもてばいい。実際、東山は田中麗奈を嫁に、と申し込んでいたのに、麗奈が「剣術使いは合わないと思った」といって袖にしているのだ。しかも、最初の方で山桜の枝を折ろうとしていた麗奈に東山が近づいて、「手折って進ぜよう」といったとき(しかし、現代の日本人にとって桜の枝を折るのは、いけないことをしているような印象しか受けないね)、麗奈は(この人だれ?)という顔をしていたのだぜ。つまり、麗奈の心の中にはこれっぽっちも残っていない男だったわけだ。それが、現在の亭主が嫌だから、嫁ぎ先が気に入らないからといって、隣の芝生は緑、みたいに別の男に心を寄せるというのは、虫がよすぎないかい? と、そんな風に読めてしまうので、麗奈はいい加減で身勝手な自分中心の女に思えてくる。これでは共感なんかできっこない。脚本がロクでもないとしかいいようがない。
郡代が新たに土地を開墾して石高を上げようと画策する…。のだけれど、昔の水戸黄門じゃあるまいし、あまりにも古い描き方。3年前の飢饉の痛手から立ち直っておらず、今年は長雨でまた不作。なのに年貢を高くして、さらに百姓を新田開発に借り出す。そんなことをしたら立ちゆかないことぐらい誰か分かるだろ。いくら郡代が譜代の家柄でも、藩には重臣もいるだろうから、そのぐらいのことはコントロールしなくちゃおかしいよな。あまりにも話が陳腐だぜ。
で、この藩政に憤った(ようには外見上見えないのだけれど)東山が、郡代を切る。フツーなら即刻切腹だろうに、半年も牢の中って、それはないだろ。しかも、半年も月代もヒゲも生えないのは変だろ! 映画のラストでは藩主が参勤交代でもどってきて、無罪放免…を予感させる終わり方をしているけれど、譜代の家柄の郡代が切られたのだから、本来なら藩主にも咎めがあってしかるべきのはず。なんか、いい加減なところで解決しちゃってないか?
舞台となっているのは、例の海坂藩なのかな? 1〜3万石ぐらいの小藩だろ? 侍だって100家ぐらいだろ? 武家屋敷は固まってあるはずだから、城下町といっても1キロ四方で収まってしまう程度だろ? ご近所の様子は筒抜けのはず。なのに、そんな風には描かれない。なんか、変な感じ。
60石の武家の妻が1人でうろうろするか? 中間か下女を連れていくのではないのか?
家族を飢えで亡くした百姓が、田んぼの近くに墓をつくり、木の墓標を建てるって…そんなのありか? しかも、書かれている名前のひらがなが、江戸の字体ではないよ。
田中麗奈は、下からの正面に近いアングルでは可愛く見えるけれど、横顔はちょっと見られない。俯瞰ショットで映されると、額から鼻筋が美しくなく、ネズミのように見えたりする。ヅラが似合わないだけでなく、キレイに見えるアングルを選んでないのは、ちょっとなあ…。というわけで、がっかりの1本であったぞ。
シューテム・アップ6/9新宿ミラノ3監督/マイケル・デイヴィス脚本/マイケル・デイヴィス
原題は“Shoot 'Em Up”。正義感(ウィンカーを出さずに追い抜いたり窓からゴミを捨てるクルマに体当たり、という社会正義派なれど若干直情気味)に溢れた拳銃使いが事件に巻き込まれ、撃ちまくって解決する、ノンストップ・アクションなのだけれど、半ば過ぎから眠くなって、最後の1/3は朦朧としつつ何とか寝入らない状態で、でも時々ふっと気を失いつつ見終えた。最初の20分ぐらいは「おっ。凄っ」ってな印象。リアリティは細部に宿るとでもいうような、ディテールの描写がたまらない。撃ったばかりの銃口を娼婦の太腿にあてて火傷させたり。その娼婦が、赤ちゃんのため…といって、ちょっとのスキに路地裏でフェラチオして金を稼いだり、新聞紙をおしめ代わりにしたり、中年のポニーテールは気に入らない、なんて言ったり…と、気の利いたエピソードが妙にリアルなのだ。しかも、全編が汚らしくて汗くさくて精子クサイ。劇画タッチのザラッとした画調に、荒唐無稽の逃亡劇(主人公は何かの集団に追われつづける)が似合っている。出産させながら、セックスしながらの銃撃戦とか、笑っちゃうようなシーンも多々あり。
のだけれど、新たな展開があるわけでもなく、追われている赤ん坊の正体が分かっても、とくに衝撃的でもなく。さらに、新たな曲面に突入しても、インパクトが少ない。というか、最初の展開および表現テイストが延々とつづくだけで、エスカレートしていかない。「おお。なるほど。ええっ?」という驚きがないのだ。よって、知的好奇心を刺戟されないので、だんだん飽きてきたんだと思う。あの、精子バンクに突入した辺りから、興奮もすっかりなくなってしまった。それに、背景にある物語がちょっと分かりにくいところもあるからかも知れない。
以下、記憶にある物語。議員が肝機能障害(だっけ?)で移植手術が必要。合致する固体をつくるため、議員の精子を使って大量に子供を生産。子供を妊娠した女が逃亡。議員に雇われたギャングが追跡。主人公がそこに出くわして、女とともに逃げるが途次出産。女は撃たれて死亡。おっぱい専門の娼婦(モニカ・ベルッチが艶めかしい)とともに、逃亡が続く。で、背後に議員がいるのを知って…。議員を殺したのにギャングが追ってくる。この経緯は何だったかなあ。寝ていて忘れたのかも知れない。あやふや。
バイオレンスな、ユニークなディテールはあっても、人間のディテールがない。薄っぺら。ま、劇画だからそれでいい、という向きもあろうが、俺はアクションを享受するだけの映画には心を動かされない。何か考えさせられる部分がないと、眠ってしまう傾向にある。ま、この時は昼食のすぐ後だったからいけなかったというのもあるんだけどね。食事の後でなければ、もうちょっと楽しめたかも。
ハンティング・パーティ6/9新宿武蔵野館2監督/リチャード・シェパード脚本/リチャード・シェパード
原題は“The Hunting Party”。ノリのいいテーマ音楽が気になっていたのだけれど、映画の方のノリは、冒頭の10分ぐらいとラストの10分ぐらいがイキイキしていただけで、中味は期待外れ。プロットもテキトーで、主人公たちは行き当たりばったりに行動する。見せ場もほとんどない。だから、ニュースキャスターとカメラマンの2人が歴戦の強者に見えない。ただのおバカな軽薄野郎にしか見えない。しかも、途中で分かるのは、キャスターの私怨が、大物を捕まえる原動力になっている、ってことが分かる。なんか、ありきたりで陳腐だなと思う。
ほとんどコメディタッチなんだけど、ヌケが悪いというか、あまり笑いにつながらない。もうちょっとやりようがあったんではないのかな。
ボスニア、セルビア辺りに乗り込んで、戦争犯罪人として逃亡中の大物を追う話なんだけど、こちらは、あの内戦についてはほとんど分かっていない。どっちがどっちだかも、どっちの方が悪いのかも分からない(セルビア人が悪者のように描かれているけど、それでよいの?)。そういうところも、話にずぼずぼ入り込めない理由の一つだったかも知れない。国際問題も分かっていないと、映画も楽しめない、ということなのかも。…で、映画で登場する大物は、実在の人間なの?
ちょっとだけ出てきたダイアン・クルーガーが美しかった。ま、それぐらいかな。
やわらかい手6/10ギンレイシネマ監督/サム・ガルバルスキ脚本/フィリップ・ブラスバン、マーティン・ヘロン
原題は“Irina Palm”。鋭い映画だ。去年見ていたらベスト10に入れていたのは間違いない。
不治の病の子供を持った家族。その負担をどうするか? という課題が突きつけられる。放っておけば死ぬ。治療には莫大な金がかかる。とても貧乏な一家では払えない。どころではなく家まで売り払ってしまった…。国は補償してくれない。カンパも頼り切った。何が何でも助けるべきか。でも、そうすると家族は疲弊してしまう。次の子供なんか産むゆとりもない。家族間に対立が生まれる…。では、生きている人を優先するか。そんなことをすれば、一生涯後悔の念に晒されることになる。周囲の視線も変わって来るに違いない。それに耐えられるか? この映画だけでなく、ずっと存在しているテーマ(ありきたりといえばありきたり)なのだけれど、そういうしばりを設定したことが、この映画に深さを生み出していると思う。
個人的には、医療技術の進化が、最大の原因だと思う。昔は、難病ということで諦められた。しかし、「治療の道がある。可能性がある」といわれればすがりつきたいし、そうしないことは罪であるという意識も生まれてくるわけだ。もちろん医学の進化で健康を維持できる可能性は驚異的に増えたけれど、そうではないケースもあるということだ。もっと言ってしまえば、日本の高齢化問題も国民健康保険の問題も、すべては医療技術の進化が原因だ。
医学の進化を肯定しつづけるのなら、難病治療にかかる負担をゼロにするよう、国家が制度を完備しなくてはならないのではないだろうか。
というわけで、若い両親には金の手だてがない。そこで婆さんが立ちあがって6000ポンド(治療費は無料で、旅費や滞在費のみ)をつくろうとするのだ。入り込んだのはフーゾク店。ヌードダンサーがポールダンスを踊るフロアの横にラッキーホールがある、という設定。店主のミキがマギーの手を触り、そのスムーズさに惚れて雇ってくれたのだ。顔が見えないので婆さんでもオッケーという次第。ミキが「ジャパンで見てきた日本式だ。うちしかやってない」と自慢するのがおかしい。日本で流行ったのは25年ぐらい前のことだよなあ。いまでもあるのかなあ、日本のどこかにラッキーホール…。それがいま、イギリスで大流行なのかい? ホントだとしたら、カラオケに次ぐヒットではないのか? なんてね。1ポンド=200円ぐらいのようだから、120万円ということか。ちなみに、主人公のマギーが稼ぐのは1日70ポンドなので14000円か。安いんだなあ。
始めはおそるおそるだったのが、マギーは次第になれてくる。店主が見込んだだけあって、マギーの魔法の手の感触は大流行。抜いてもらうのに男どもが列をなす始末だ。これで割を食ったのは、同僚の女(なかなか雰囲気のよい女優だ)。最初マギーに手ほどきしたのに、あっという間に客をマギーに取られ、客がつかない。で、首になってしまう…。可哀想。でも、マギーは彼女に同情しても、助けようとはしない。稼がなくてはならないからだ。人間、いざとなれば自分のことしか考えないものだ、ということを上手く表現していると思う。
前借りして6000ポンドつくって、息子夫婦に差し出す。息子は「どうやってつくった」と追求し、予想通り、母親を尾行して突き止める。そして、「そんなことをしてつくった金なんか受け取れない」と怒り狂う。ああ、純潔な男なのだなあ、と思ってしまった。母親がどんな思いをして仕事をしているか、それほど孫息子のことを思っているのだ、ということが頭に入らない。やっぱり、フーゾク業に対する偏見は、イギリスの中産階級にもあるのかね(でも、嫁は義母の行為に理解を示す。こういうのって、女の方が度胸が据わっているのかも)。そういえば、マギーにはカードをする女友達が3人いて、その彼女たちとも最近はご無沙汰。ある日、追求されて仕事内容を告白すると…婆さんたち目を丸くする。というところで、このギンレイで「私は文化的映画を見ているインテリ」なんて思っているだろうカルチャーババアの顔が浮かんできた。きっと日活ロマンポルノなんか見たことはないはずだし、フーゾク業やフーゾク嬢を軽蔑しているというか無関心というか知らないフリしているような連中だ。そういうババアたちは、客観的に冷笑しながら見ているのかな。マギーの気持ちに近づけているのだろうか? まあ、平日の昼間に映画を見ているような連中だ(って、俺もだけど)、生活に苦労しているとは思えない(俺は苦労しているが)。そういうババア連中にこそ深く考えて欲しい、と強く思ったのだった。
マギーの息子は、背に腹は代えられず、か。結局、マギーの金で妻と息子を連れてね治療のできる豪州へ旅立つ。このあたりはアバウトな解決策だ。一緒に行くはずだったマギーが、突然「私は行かない」といっても、息子は「ああ、そう」でおしまい。これもちょっと変かな。「フーゾクなんかやめろ」と憤っていたのに、どういう変化だ? まあといい。というわけで、マギーは再び職場復帰。というか、そこで知り合ったミキのところに戻ってきた、といった方がいいのかも知れない。天性の手の感触に目覚めたマギーが、偏見のない世界へと降りていった瞬間だ。美しい。店長ミキが次第にマギーに心を寄せていく様子が、よく描かれている。男と女としての惹かれ方なのかどうかは分からないけどね。でも、ラストで唇でキスしていたから、よきパートナーとなっていくのかも。婆さんの自立の物語、でありました。みな、人間がよく描かれている。とっても素晴らしい。
ミスト6/13新宿武蔵野館3監督/フランク・ダラボン脚本/フランク・ダラボン
極めて後味の悪い映画ではあるが、一定の緊張感を最後まで保っていて、標準以上のデキ。それにしても、スティーブン・キングは最近とみにペシミスティックになってないかい? こんな救いようのない話じゃ、映画館に行って楽しむ、なんて雰囲気じゃないよなあ。やっぱりラストには希望が見えていて欲しいよなあ。
物語の中で最も興味深かったのは、ユダヤ教原理主義っぽいオバサン(マーシャ・ゲイ・ハーデンにぴったりの役だ)。アメリカ人にはかなりの割合で「地球は丸い」というのを信じていない人がいる、ということを聞いたことがある。そういう非科学的な連中の姿を、この映画はよく描いていると思う。本当に、ああいうオカルトみたいな連中が、まだいるんだろうなあ。恐ろしい。
町が得体の知れない霧に包まれ、スーパーに買い物に来ていた数10人が店内に閉じ込められる、という設定。霧の中には何か恐ろしい物がいる、と告げるオヤジがあとからやってくる。そのオヤジの言う通り、牙を持った触手が襲ってきて、まずは青年が餌食になる。その事実を話しても信じない連中がいる・・・という展開にはちょっとムリがあるんじゃないかな、とは思う。だって発動機のある部屋は血だらけで、触手の切れ端も残されているのだから・・・。
というような、ぎくしゃくした部分は案外と多い。10発撃ちつくしたはずの拳銃に、6発(?)ぐらい弾が残っていたのは、なんで? とか。夜になったら昆虫は灯火に寄ってくるのは当たり前だろ! とか。たいがいの人物が、襲ってくださいとでも言わんばかりの緩慢な動作だったり。襲われている後方で立ちすくむだけで触手に攻撃しようともしない人物がいたり。店を昆虫が襲ったり隣の薬局へ行くシーンでも「早く逃げろ」「戦え」とかね、言いたくなってイライラするところも多い。スピーディなアクション映画と言うより、群衆劇としての性格が強いからかも知れない。でも、ちょっとなあ、と思う。
残された人々が、マーシャの説法にすがる一団と、主人公についていこうという一団に別れる、というのは「蠅の王」でもでてくる定番の内部分裂。なので手垢は付いているけれど、そこに宗教が絡んで狂気の世界をつくってしまうのが、コワイ。しかも、それが先進国アメリカなんだから、なおさらだ。
最後、主人公を信じる10人ぐらいがクルマで脱出しようとするのだけれど、この判断にも首をひねってしまった。だって中盤にさしかかった辺りで黒人弁護士を信じる一団が外に出たのと全く変わらない愚行。だから、この主人公はそれほど頭がいいともカリスマ性があるとも思えない。駐車場で4人ぐらいが化け物の餌食になり、クルマのガソリンが切れたところで最後の選択を迫られる。・・・のだけど、ここでの行動にも「?」がつく。ここでもう戦うことをあきらめ、化け物の餌食になるより死を選ぶ、っていうのはちょっとなあ・・・。それまでの主人公の決意と行動からは納得できないよなあ。ガソリンがないなら、停まってるクルマの近くによって、なんとかせしめればいい。そのぐらいのガッツは、あるだろ。それまで戦いを繰り返してきたんだから。というわけで、こういう選択の後には霧が消えて助けがくる・・・となるのはミエミエのオチ。H.G.ウェルズの「宇宙戦争」の昔から、お決まりだ。だから意外性はまったくない。むしろ、嫌な感じだけが残る。
こういう終わり方を、いまのアメリカ人は求めているのだろうか? いいや、そんなことはないと思う。それほど世界は閉塞感に襲われていないし、まだまだ希望を捨て去ってはいないと思う。
それはさておき、ああいう展開にするなら、もっと畳みかければいいじゃないか、と思った。つまり、後悔の念で苦しむ主人公の横を、マーシャを信じた一団の乗ったトラックが駆け抜けていく・・・。という皮肉を、どうせなら見せて欲しいと思った。正しい選択をする人々が必ずしも救われず、狂った連中が地獄に堕ちるわけでもない、というブラックで終わって欲しいものだと思った。
あの霧は、異次元との裂け目に生じたものらしいが、詳細はほとんど描かれない。スティーブン・キングの毎度の手法だね。いまいち腑に落ちないけど、まあいいか。それから。霧が次第に広がっていくシーンを、最初の方に1〜2カット入れておくべきだよなあ。なんか、いきなり霧に包み込まれている感じがして、どーもなあ。ついでに。レジの若い娘は最後近くまで残ると思っていたのに、早々に餌食になってしまったのは、おいおい、だよなあ。
●Webで見たら原作(20年前の発表らしい)にはオチがなく、ラストの展開は監督が考えたらしい。つまり、キングがペシミスティックになったわけではないようだ。
ザ・マジックアワー6/16MOVIX亀有 シアター10監督/三谷幸喜脚本/三谷幸喜
とうとうMOVIX亀有の会員になってしまった・・・。入会金500円で会費は無料、6月一杯は平日の会員価格は1300円。毎月20日は1000円というのがそそった。1800円出してまで見るかどうかは、これからのこと。というわけで、ネットで座席指定して1300円だして初めて見たのがこの映画だ。
この1ヵ月ほど、やたらテレビに三谷幸喜と佐藤浩市がでていたが、番宣だ。ここまで露出すれば、フツーの人も「見てみようかな」と思うかも知れない、と思った。でも、見た感想を言うと、いまいちだなあ〜。いままでの三谷作品の中で一番面白くない。演劇的に創り上げられ過ぎているせいで、映画にするとそぐわない部分が多く出すぎなのだよ。その最大の部分が、佐藤浩市が“映画の撮影だとだまされる”こと。こんなの、どー見たってあり得ない。芝居なら納得できる虚構も、映画では許せない、というものがあるのだと思う。その虚構を納得させるだけの過剰さが、足りないと思う。そこそこ戯画化されてはいるけれど、もっとナンセンスにしてしまう必要があったかも知れない。街の中心分を一杯だけのセットで創り上げているようだけれど、そのセットを利用して、もっと芝居を見ているような気にさせる演出もあったかも知れない。どういうのがいい、とは自信がないから言えないけど、いまのままでは映画の世界に引きずり込むだけの力は足りない、と思う。観客が、ウソをウソと知りつつ物語世界に入り込めるだけの虚構性が構築されていないと思う。
あり得ない街、あり得ない人々、あり得ない設定と展開。それはいい。そういう中で面白くしてくれさえすれば、それでいい。でも、話に入り込めなかった。
街の中心部がセットの中でも接近していて、それはそれで舞台の上的な空間構成を目論んでいるのだろうけれど、あまりに近すぎては、登場人物が逃げたり捕まったり策を凝らしたり・・・という展開には不向きだろう。もっと距離の必要な場所というのもあったと思う。冒頭がセットで、ちょっと息苦しいなと思っていたころに佐藤浩市が夕焼け空をバックに登場する。その背景が書き割りなのはミエミエなんだけど、カメラが引いてスタジオの風景が広がったとき、とても開放感を感じた。ああ、映画にはやっぱり空間の広がりが必要なんだなあ、と思った。あのセットは、やっぱりちょっと作り込まれすぎていて、息苦しい。洋画だと、セットらしくないリアリティがあるんだけど、この映画の場合はいかにもセット、に見えるので安っぽいところもある。ま、番宣でセットの様子などを見すぎていて先入観もあるのかも知れないけどね。
セットが悪いというわけではない。セットを、結局のところ使いこなせていないような気がするのだ。引きの画面があまりなかったのは、セットのせいなのかな。それから、ピン送りに何度か違和感を感じた。
ラストの波止場でのあれやこれや、最後に映画スタッフも面目躍如の大爆発、という展開は楽しかった。ビリー・ワイルダーの映画ならこうなるだろうというような流れは、定番だけどとても楽しめた。しかし、全体を見ると長〜い中だるみが中間にどーんとある感じがする。演出のくどすぎるところ(佐藤が西田敏行の事務所に乗り込み、何度もペーパーナイフを舐める=つまり、何テイクか撮影していると思いこんでいるところなんか、とても落語的だなあ)もあるし、人物が右往左往しているだけで一体話は進んでいるのか、よく分からない、というところもある。ま、早い話がテンポがのろくてくどい。三谷の演出には、これまでもそういうところがあった。けれど、この作品はこれまでにも増してのろい。お陰で中盤では眠くなってしまい、なんとか寝なかったけれど、ついていけないと思ったのも確かだ。
映画の裏の部分が見られるのは楽しい。けど、実はその大半は本筋とは関係ない。でも、その関係ない部分の方が楽しいのだから、ね。爆発の仕掛けをするのが榎木兵衛というのがいいね。「THE有頂天ホテル」にもでていたけど、いやあ、お元気でなにより。柳沢慎一が落ちぶれたかつての俳優で出るのも、お懐かしい。
ドタバタになりきれていなくて、あまり笑えないのも残念。そんなに洗練されていなくてもいいから、もうちょっとおバカなところもつくって、もっと苦笑させて貰いたいものであるよ。
潜水服は蝶の夢を見る6/18ギンレイホール監督/ジュリアン・シュナーベル脚本/ロナルド・ハーウッド
原題は“Scaphandre et le papillon, Le”。仏/米合作のようだ。Webには原作ジャン=ドミニク・ボビー「潜水服は蝶の夢を見る」とあるが、映画の構成と関係あるのかは分からない。読んでないから。
ポスターの印象から、筋ジストロフィー患者の何か・・・かと思っていたら、脳出血で脳幹がやられた患者の話だった。正直いって、それほどインパクトはなかった。あ、そう。というような感じ。同じ内容ならドキュメンタリーの方が余程インパクトはあるし、感動的だろうと思う。
この映画には、主人公が脳出血に襲われ、身体の自由を失ったということ以外、ドラマがない。まばたきで文字を伝えるというのは、こうした患者の場合には一般的なことだし、本を書くというのもそこそこの才能が有りさえすればできることだろう。だから、別段すごい、とは思えなかった。絶望の底からはい出て生き甲斐を見出す、というような描写もとくにない。一度は「死にたい」とまばたきで伝えていながら、なんとなくいつのまにか、執筆する意欲が湧いてきてしまっている。ちょっと感動が薄いよなあ。全編、淡々とし過ぎて、あ、そう、という感じなのだよ。
主人公をとりまく女が何人か登場するのだけれど、これがまたみんな似たような顔立ちと髪型で、途中からわけがわからなくなった。最初に登場する臨床訓練士のような2人は、どっちがどっちで、どのシーンがどっちか、いまだによく分からない。別れた妻のような人物がでてくるけれど、ほんとうに前妻なのか離婚はまだなのか、よく分からない。それに、前妻だとしたら何であんなに尽くすのかが理解不能。出版社から派遣された聞き取り役の女性もいたはずだけど、彼女もどこに登場していたのか、よく分からない。臨床訓練士とごっちゃになってしまったのかも知れない。さらに、現在の恋人らしい女も登場するのだけれど、彼女は回想シーンだけの登場なのかな? よく分からない。この、女性の区別がパッとつかないというのが、映画に入り込むハードルを高くしていると思う。それと、人間関係だな。いろいろありそうに見えて、実は割と浅くしか描かれていない。主人公の葛藤だとか失望だとか、そういうのまではつたわってこなかった。結局のところ、主人公の意思はナレーションでしか表されていなくて、映画的に表現し尽くされていないからだと思う。
で、ラストで、主人公が亡くなったことが告げられているが、この映画の原作は完成したということだろう。でも、劇中さんざっぱらでてきた現代版「モンテクリスト伯」はできなかった、と。で、その「モンテクリスト伯」は読んだことがないのだが、どの程度の関係があるのだろう。ちょっと気になるね。
この映画で唯一、なるほど、と思えたこと。それは、脳出血になったら、周囲があんな感じに見えるのか、ということだ。つまり、こっちがしゃべってるつもり、意志を伝えているつもりでも、実際は手も口も動いていないのだ、ということ。ほれ。手や足を手術で切断された人が、それに気づかずに動かそうとしてしまったり、無いはずの足のかゆみでイライラしたりということもあるようた。だから、人間が手足を動かし、言葉をしゃべっている行為も、能で考えていることと物理的に動かしていることに因果関係はあったとしても、実際にはつながっていないかもしれない、ということだよな。
それにしても、まばたきでローマ字を指定するのに、もっと効率的で短時間でできるものはないのだろうか・・・と、ずっと思っていた。どこを見ているか、視線を追えるシステムもあるのだから、あんなことをしなくてもよいのでは? などと思ったりしていた。
タイトルの潜水服は、主人公の状態を表していて、水中で思うように動けず意志を伝えられず、空気だけは送られてくる隔靴掻痒の様子を表している。が、しかし、映像でも潜水服が何度も出てくるのは、ちょっとくど過ぎるのではないかと思う。
築地魚河岸三代目6/20MOVIX亀有 シアター8監督/松原信吾脚本/安倍照雄、成島出
なかなかよくできた脚本で破綻がない。のだけれど、小さくまとまってしまって、NHKの朝ドラみたいになってしまっている。ずうっと、テレビを見ているような感覚に襲われた。別に映画館で見る必要はないかも。
田中麗奈は、ふだんあまり下半身を見せない人だと思うんだけど、この映画ではスリムパンツまたはジーンズ姿が見られる。でも、ちらっとだけね。そんなスタイルが悪いわけではないのだから、じっくり見せて欲しかったね。それでも、可愛く写されていて、なかなかよろしい。もっとも、演技が下手なのが分かってしまうシーンが多いけどね。映画的(監督がカット割りする)ではなくテレビ的(役者に演技させる)なので、個々人の演技力の差が見えちゃうんだな、きっと。
魚辰の主人が伊東四朗。娘が田中麗奈。その恋人が大沢たかお。伊原剛志は魚辰の使用人。魚河岸の娘と知らないままつき合っていた大沢が、偶然、河岸で働く麗奈を目撃。大沢が強引に魚辰で働くようになる・・・という前半。だけど、その裏には伊東・麗奈・伊原の家庭の問題が隠されていて、後半はそっちが大きなモチーフになっていく。実は伊原は伊東が芸者に生ませた子。伊東は麗奈がそのことを知らないと思っている。伊原も麗奈が知らないと思っている。しかし、麗奈はずっと前から知っていた・・・。で、伊原が麗奈と結婚して跡を継げば・・・と考えている周囲が入らぬお節介・・・。そのあおりで、実は相思相愛の伊原と森口瑤子の仲が危なくなってくる・・・。と、まさにもう朝ドラの世界。でも、麗奈が伊原に「お兄ちゃん」と呼びかけるシーンは、ちゃんと泣けたのだった。
本日の客層も年寄りが多かったけれど、ま、そういう人たちには納得してもらえる内容なんだろう。大沢が、冷酷にリストラを進める上司に反発して会社を辞める・・・というのも、冷徹な会社勤めへの反発と、人情の世界への共感がみえて、いかにも「男はつらいよ」の後のシリーズを狙っているようなつくりだね。
築地場内のシーンが豊富なのだけれど、まるで営業時間内のように自然に撮れているのに感心。周囲で働く人々も、エキストラなのか本当の店の人たちなのか知らないけど、とても自然に見える。これは特筆すべきかも知れない。
でまあ、いくつかツッコミ。ひとつは、大沢の元の上司(大杉蓮)が病気の妻と信州の親戚の家に行くのだけれど、妻(森下愛子)が食べたがっていた、なんとかいう魚をみつけて持っていき食べさせるのだけれど、あれは大杉の実家なのか? それとも森下の実家なのか? 信州じゃ魚なんか獲れないのに「昔はよく釣ってきた」なんて言ってるのか、よく理解できなかった。
ラスト、伊原と小料理屋の千秋(森口瑤子)の結婚式? 発表会? で、伊東が「英二(伊原)と千秋のために集まってくれて云々」とスピーチするのだけれど、千秋の両親も来ているところで新婦の名前を呼び捨てにするのは変だろう。
麗奈はスタイリストかファッションデザイナーみたい。三越のショーウィンドーのディスプレイをしているシーンがあって、森口瑤子が「こんな銀座の真ん中で働いて」みたいなことを言うのだけれど、画面に出ている三越は銀座三越ではなく日本橋三越新館だぜ。背後に八木長ビルや高速が見えるから、すぐ分かっちゃう。大沢は、出社前の数時間(築地市場の営業時間)に魚辰を手伝い、魚の試食をしたりするのだけれど、試食なんかしてる時間などないだろ。
伊東四朗の幼なじみの寿司屋主人に、柄本明。この2人、意地の張り合いで喧嘩したりするのだけれど、将棋が取り持つ縁で仲直りする・・・って、落語の「笠碁」のパクリだね。
エリザベス:ゴールデン・エイジ6/23新文芸坐監督/シェカール・カプール脚本/マイケル・ハースト
原題は“Elizabeth: The Golden Age”。ケーブルTVで前作「エリザベス」をやっていたので録画。分からないところは何度か繰り返して見るようにして、なんとか予習しておいた。実は前作も映画館で見てはいるのだけれど、あまり印象に残っていなかった。物語が大雑把な感じで、人間ドラマというか、人物が立ってないような気がしたのだよね。それに、前提として知っておくべき歴史的事実を知らないでいると、理解ができない気もしていたのだ。で、丁寧に見ていったら「エリザベス」はなんとか理解できた。もっとも、ウォルシンガムという人物がなぜエリザベスを支えるようになるのか、というのはよく分からなかったんだけど。エリザベスはアン・ブーリン(「1000日のアン」だなあ・・・)の娘なのか。とか、英国国教会ってどんなだっけかな? とか、女王が家臣と恋愛関係にあっていいの? とか、暗殺者の拳銃は、なぜ空砲だったのか? とか基本的な疑問は数々あったけどね。
というわけで、予習をしたせいか、「ゴールデン・エイジ」は理解しやすかった。とはいっても、テイストは前作と同じ。人間ドラマを掘り下げることなく、表面的な事象を連綿と連ねていくようなスタイルだ。だから、エリザベスだけは人物が表現されていて、それ以外の人物はみな書き割りのよう。あまり人間味がない。せいぜい海賊ウォルター・ローリー(クライヴ・オーウェン)と、侍女(アビー・コーニッシュ=ニコール・キッドマンに似ているね)ぐらいかな。でも、侍女は従兄弟が謀反を企てていることを密告し、一族を売る。ウォルシンガムも、自分の暗殺を企んだ弟を牢に入れてしまう。こういうところの奥底までは描かれない。もうちょい突っ込んでもよかったんじゃないの? と思いつつ見ていた。
それにしても、時代は16世紀だから、日本の戦国時代と同じ頃。兄弟や一族で殺し合うのも、とくに倫理に反しない時代だったのだろうね。そういうことより、宗教に殉じているというのが凄まじい。カソリックとプロテスタントは、そんなに憎み合っていたのか・・・。なんか、イスラム教徒が他の宗教を受け入れないというのも、分かるような気がしてきた。宗教なんて関係ない、といっている日本人の方が例外なんだろうね。世界的な宗教観から見ると。
スペイン無敵艦隊との戦いも、嵐が来てスペイン艦隊がやられる・・・って、日本の蒙古襲来のときの神風と同じなのにも驚いた。同じ様なことが、中世には起こっているのだねえ。
で。子供のなかったエリザベスのイングランドは、その後、どうやって王政を維持していったんだ? という疑問を感じつつ、見終えたのであった。エリザベスを演じるケイト・ブランシェットは、似合ってるね。嫉妬や恐れ、不安などに翻弄されるエリザベスの心は、よく表現されていたと思う。ま、他に人間が描けていないのは、やっぱり困ったものなんだけど。
ヒトラーの贋札6/23新文芸坐監督/ステファン・ルツォヴィツキー脚本/ステファン・ルツォヴィツキー
原題は“Fascher, Die”。ユダヤ人収容所モノだ。ヒムラーだったかが、偽ポンドや偽ドルをばらまき、英国や米国の経済を混乱させようとした。その偽札工房が収容所にあり、ユダヤ人が偽札を造っていたらしい。これは事実のようだ。
主人公は、バーの経営もしていたような絵描き。でも、金になる絵描きではなく、札を得意としていた。それがとっつかまって収容所送り。さっそく偽札工房に入れられたという次第。
他の収容所モノ同様、ドイツ兵の冷酷さが描かれる。本当にドイツ人はあんなに冷酷で意地悪で簡単に人を殺し段だろうか? という疑問がちょっと浮かぶ。みんな、ユダヤ人は犬畜生同様的な意識が入り込まれていたの? それとも、中には本意ではなく嫌々痛がっていた、というようなドイツ兵はいなかったの? というような思いだ。なぜって、収容所モノに描かれるドイツ兵は、いつも判で押したように同じでステレオタイプだから。
まあ、それはいい。収容所仲間には、故意に作業を送らせようとする跳ね返り者もいる。絵描きを志している若者もいる。なかなかキャラが立っていて、それぞれにユニーク。こういう設定が、話に厚みを増していく要因だと思う。ま、それぞれもう少しずつ掘り下げてくれるといいな、とは思った。けれど、これは群像劇ではないから、いいか。でまあ、主人公は名うての偽札造りで、ドイツ人も一目置いている。というわけで、ユダヤ人とドイツ兵の橋渡しなどもするような位置につくようになる。いつの時代も、巧みに生きるやつはいるのだよね。
この主人公、べつにハンサムでもないし格好良くもない。どっちかっていうと惨めったらしい感じで、こわもてでもない。どっちかっていったら、ずる賢い風貌。でも、これがなんかリアリティもあって、映画の魅力を増しているような気がする。
サスペンス性は少ない。偽札造りの過程なので見せ場が少なく、重要な人物が死ぬとか、脱出劇があるとか、ドラマ性はほとんどない。なので、ちょっと中盤はタルイ気がするものの、なんとかテンション維持。
主人公を買ってくれているドイツ将校一家が出てくるのだけれど、この将校は敗戦が近いことを知ると家族のパスポートを造らせるようなことセする。それを使って逃げるシーンは出てこないけれど、そうしたろうという雰囲気は匂わせている。
「札なんていくらでも刷れる」と豪語する主人公。そうだろう。英国の銀行もお墨付きを出すほど精巧な偽札を造るのだから。で、敗戦。偽札をもってフランスのホテルに投宿し、もっていた偽札をすべてカジノでスッてしまう主人公。金なんて稼ぐものじゃない。刷ればいいんだ、っていう姿が、何か格好良く映る。
個人的には、ドイツ兵の存在をワンパターンにしないで、何か工夫できなかったのかなあ、という思いが少しだけある。
インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国6/25MOVIX亀有 シアター6監督/スティーヴン・スピルバーグ脚本/デヴィッド・コープ
画面は1950年代のテイスト。青年男女が乗ったスポーツカーと、軍隊のクルマが並行して走り、青年たちが「レースしよう」と挑発する。なんだよ。いきなり「アメグラ」か。と思っていたら、青年たちは話には関係ないのだった。軍の一行はネバダ州のエリア51へ。指揮するのはロシア人のケイト・ブランシェット(ロシア訛りの英語らしいしゃべり方が上手)。どうやら超能力担当の幹部らしい。これが、ロズウェルで墜落したときに発見された宇宙人の死骸を奪いに来たらしい。死骸がエリア51のどこにあるかは、ジョーンズにさせようというのだ。ジョーンズは、メキシコで発掘中に誘拐されたらしい。なんとマヌケなインディ・ジョーンズ。でもま、なんとかそこから脱出して…。たどり着いたところが水爆実験地のどまんなかで、ジョーンズは冷蔵庫の中に入って一命を取り留める…。でも、完全に被ばくしてる! というオープニングエピソードは破天荒だけどテンポもよくて楽しい。まあ、空調もない巨大な倉庫に強力な磁力を発生させる宇宙人の死体がしまわれていたり、あの失われたアークがあったりするのは、ご愛敬?
この辺り、1950年代の社会的、オカルト的エピソードを詰め込んでいて、少し興味深い。
ところが、それからの展開がつまらない。このシリーズのヒットのせいで「ハムナプトラ」だの何だのかんだの同工異曲の映画がたくさんつくられ、CGも進化した。だから、この映画のために発揮された最新CGというのもなさそう。無数の軍隊蟻が人間を食い尽くすシーンなど、どこかで見た映像としか思えない。クルマで崖際をチェイスするシーンも、CGが露骨すぎ。ぜんぜんハラハラできない。
インディの息子が出てくるのだけれど、第1作から18年ぐらい経っているという設定なのかな? ヒロインは1作目のカレン・アレン(57歳)なので、つまりはハリソン・フォード(66歳)という老人カップルで、他に色気はなし。ハリソンは見るからによぼよぼで、かなりつらそう。若い息子にプラスして、その恋人ぐらいいてもよかったかも。
で、クリスタル・スカルというのは宇宙人(または、異次元人)の頭蓋骨ということなんだけど、どうみても軟化プラスチックにしか見えない。さらに、ペルーのあれこれと合わせても、話がよく分からないのがちょっと残念。ビデオでゆっくり見れば話の辻褄は合うのかも知れないけれど、ケイト・ブランシェットも、超能力が身につくからと行ってあんなものを追い求める理由もよく分からず。最後は、巨大な宇宙船状のものが登場するなど、やりたいことをやっている。いまさら宇宙人や円盤はないだろ。陳腐。
それにしても、レッドパージの嵐が吹き荒れるアメリカで、ケイトらのロシア人が傍若無人に振る舞える理由も、よくわからない。あちこち杜撰で、それを知りつつテキトーにつくってしまった感じ。こんなんでも、インディ・ジョーンズの名前を冠すれば、客は入るだろ、という人をバカにしたようなところが見える。
天国はまだ遠く6/26ル テアトル銀座監督/長澤雅彦脚本/三澤慶子
今秋公開予定作。原作は瀬尾まいこ。自殺志願の女性が、山奥の民宿で癒される話。
加藤ローサが深夜、田舎町の駅に降り立ち、タクシーの運転手に「北の方。人のいないところまでやって」と告げ、クルマで30分ぐらいの民宿まで連れていかれる。…と、この時点でもうリアリティがない。もともと自殺の名所が近くにあるっていうんだから、自殺覚悟でやってきたのはミエミエ。タクシー運転手としては警察に通報するのが筋だろう。連れていく民宿も、なぜあそこなのだ? 客なんかほとんどやってこなくて、若い男が経営しているような所に、若い女を連れていくこと自体が変。睡眠薬を大量に飲んだのに、24時間寝つづけただけというのも変だけど、それを放っておく宿の主人(徳井義実=チュートリアル)も変。という具合に、あちこち変なまま物語に入っていく。しかも、テンポがとてものろい。
結局、何日かは知らないが、加藤は民宿にかなり長逗留してしまう。徳井の存在が大きいはずなのだけれど、画面からはそれがつたわってこない。死のうとした原因が解決されたわけでもなかろうが、加藤はひょうひょうと毎日を過ごし出す。それにしても、いったい何をして時間を過ごしていたのだろう? さらに、加藤は何かに癒されたことになっているのだけれど、何に癒されたのかも、よく分からない。近くの中年夫婦に? 町の飲み仲間に? でも、具体的な交流なんてほとんど描かれていない。なんとなく曖昧に、癒されていったかのように描かれていく。で、一方の徳井が、実は何年か前に両親を交通事故で失い、3年前には結婚を約束していた女性が自殺していた(原因は伝えられない)ことが分かる。それまで徳井はデパートで働いていたようだけれど、いつ地元に戻り、百姓生活に戻ったのかも、というようなことは具体的には伝えられない。すべてがこの調子で、みんなアバウトなのだよね。
この、具体性のなさ、アバウトさというのは、小説世界なら納得できるように表現できても、実写の世界になると違和感がでてくる。やっぱり、加藤が何を克服したかが描かれないと、どうせまた同じ様なことをしでかすんだろう、としか思えなかったりするのだ。
徳井の心は、恋人の死で時間が停まっている。徳井がそばを打つとき、停まった時計をしているのを加藤が気づく。加藤は、時計の電池を取り替えよう、と勧める…。こうやって、停止していた徳井の心が少しずつ動きはじめる。自殺しようとした娘が、他人の生命館を呼び覚ます手伝いもできる、というのを表現しているわけだが、こんな脳天気な女が何で自殺しようとしたんだ、という疑問が逆に大きくなっていったりするのだよなあ。加藤がそば切りに挑むと、もの凄い切り方になる。いくらなんでも、それはないだろうという切り方が嘘くさい。で、あのそばは徳井が育てたものなのか? その説明がなかったのが残念。それから、蕎麦打ちするときには時計は外すだろう? という疑問。のし棒が太すぎるのではないの? あの地方特有な綿棒なのか? という疑問などが邪魔をして、素直に見られなかったりした。
そばを打てば下手、ピアノ(しかし、なんで廃墟にピアノが置いてあるのだ?)も適当、酒を飲めばすぐ酔いつぶれる。絵もいい加減。こんな、どこに神経があるか分からないような女は、自殺なんかするはずがない、と思えてしまうのもマイナスかな。
ラスト。徳井が、壁に開いたままだった凹みの前に、加藤の描いた下手に絵を立てかける。徳井の心の閉塞状態が開放された、ということの象徴なんだろうけど、もともと徳井は落ち込んでいるようにも見えなかったしなあ。というわけで、すべてが中途半端なままの、映画。だらだらとムダに長く、間も多すぎる。2〜30分つまんで、90〜100分ぐらいにするのがテキトーだと思う。
ゼア・ウィル・ビー・ブラッド6/27新宿武蔵野館2監督/ポール・トーマス・アンダーソン脚本/ポール・トーマス・アンダーソン
原題は“There Will Be Blood”。「いずれ血を見る…」っていう意味かな? 血筋もあるのかい? よく分からんが。それにしても圧巻であった。いやあ。アメリカだねえ。それに尽きると思う。
金鉱掘りのダニエルが原油で当てて成金になる話なのだけれど、成り上がり話として不愉快な気分しか味合わせてくれない。主人公のダニエルは、金鉱や油井だけに心が向いていて、他のことには無関心。この映画には、ほとんど女も出てこない。ダニエルは人をだましてまで自分の利益を上げようとする。この強欲。そして、同じ様な目的をもつ連中とつるんで、ある程度組織的に事を行っている。無知な農民から二束三文で土地を買い上げ(それでも農民は喜ぶ)、そこに油井を掘って、大手企業に売っていく。最初の金の採掘穴から、油井になり、次第に規模が大きくなって装置も大がかりになっていく様子がとてもリアリティに満ちている。農民の大半は移民だろうな。農業をには向いていない土地で、みんな貧乏。すがるのは、第3啓示とか言っていたけれど、キリスト教の一派だな。で、この牧師サンデーがまた山師で、自分の出世や知名度アップに興味津々。どいつもこいつも欲望に絡め取られていて、どろどろした部分しか見えないのが凄まじい。
ダニエルって男は、女に興味がないのかい? っていうのが気になるところ。女の姿も見えないのに幼児と一緒にいるのはなぜ? とという疑問にはラストで応えてくれる。まあ、予想できる範囲なので驚きはない。息子が自立して自分で油田探しをするというのに怒ってのことだけど、でも、ダニエルは捨て子でも何でも、息子を愛していたはずだ。なのに、なんで自立を喜ばないのか? 次第に人が自分から離れていくのが怖かったのか? 愛情を受けたい、と思うなら、妻を娶る方法もあったろうに。ひょっとして、女には興味のない体質なのか? と疑ってしまうほど。
ダニエルは早くに両親と別れたようだ。それで、捨て子を自分の子供のように育てたのかも知れない。家庭への憧れは、あったのだろう。弟がいたことも知らなかったらしい。「弟だ」と称する男がやってくると、コロッと騙されてしまう。血縁、そして、家族への希求は、欲望だらけの男の、もう一方の真実の姿でもある。それだけに、この偽弟が自分を騙していることを知ったり、血の通っていない息子が自分から離れようとすると、態度が一変するのかも知れない。
ダニエルとサンデーの対立(かけひき)が面白い。どつらもつねに優位に立とうとして、つっかかっていく。それでも、パイプラインを通すためにサンデーの言いなりになって教会で人々の前で告白するハメになる(といっても本意ではさらさらないが)が、ラストでは立場が逆転する。株投資に失敗して金が欲しいサンデーが、ある土地の売買話をもってきたのだけれど、ここでダニエルが「自分の宗教はインチキだと言え」と強制し、言わせる。これでお互い様かと思ったら、なんと、その土地の石油は隣の土地からパイプを伸ばして吸い尽くしていたよ、というオチ。しかも、ダニエルはサンデーを殴り殺してしまう。うーむ。なんで殺しちゃうの? よく分からんぞ。で、最後に“I'm Finished”という。「これで終わった」ということだろうけど、“It's Over”ではない。人殺しをしたことで人生が終わった、ということ? 復讐が済んだ、ということ? 石油掘りとしての自分が終わった、というこ? どういう意味なんだろうねえ。
ダニエルがサンデーに、隣の土地の石油はストローのように吸った、という直前に、「お前の飲んでいる水だ」「羊の群れが」とかなんとかいうセリフがあって、それを聞いたサンデーが、事実を知ってしまう場面があるんだけど、ちょっと意味が分からず。
1800年代の終わりから1930年ぐらいまでの話なのだけれど、西部劇の時代が終わって、移動手段は馬からクルマになりかけているところが描写されていた。拳銃ももっていて、ダニエルは、弟と偽って近寄ってきた来た男を殺害もしている。あの時代は、まだまだ開拓時代の雰囲気を残した時代なんだろうな。そして、巨大資本も登場し、次第に中小が飲み込まれていく過程も見えていた。勝ち上がる者の裏に、敗者がいる。そのまた下には、何もできない多くの移民たちがいたわけで、兵隊のように使い捨てされていく最下層の労働者の生き残りはさぞかし大変だったろうね。
石油が吹き上げるシーン、原油に火がついて燃え上がるシーンは凄かった。でも、環境に悪そうな映画だなあ。それから、音楽がいい。精神状態や状況を表すようなNoisyな所があったり、巧みに使われている。
靖国 YASUKUNI6/28キネカ大森3監督/李纓(リ・イン)脚本/---
話題の映画だ。右翼が上映反対に走ると危惧され、上映を撤回する小屋も何軒か出た。どうやら文化庁あたりが援助しているのに、なんだこの内容は、ということらしい。なんとかいう自民党の女性国会議員が言いだしたらしいが、アホではないかと思った。この映画に、思想性はほとんど感じられない。監督は中国人だが、信じられないぐらいプロパガンダが排除されていて驚いた。
単純に言ってしまえば、靖国に詣る人々を延々と映し出している映画だ。間に、靖国神社に奉納する日本刀を造る刀鍛冶の描写が挟まる。
靖国のご神体は刀だ、と紹介があって、映画はその視点で語られていくことになる。ご神体が刀というのは初めて知ったので、そうなのかと思った。しかし、映画のホームページを見ると、靖国神社から「神剣および神鏡なので訂正して欲しい」と申し入れがあったらしい。ふーん。
靖国に集まる人々がこんなに奇妙で多彩とは知らなかった。8月15日なんかに行ったことがなかったからかも知れない。軍服を着てラッパを鳴らし、行進しながら参拝する姿は滑稽でもある。こういう人たちを描写することだけで、靖国を信奉する人々は、ちょっと変、という印象をもってしまう。しかも、彼らはほとんどしゃべらないし、しゃべったとしても観念的抽象的で、あとは怒鳴るを繰り返すだけ。論理もへったくれもない世界だ。反対派は、そんなに出てこない。一方的に祀られているのは嫌だから、名前を削除しろ、という台湾人と日本の僧侶、それから最後の方で式典に飛び込んできて反対を叫ぶ青年ぐらい。彼らは一様によくしゃべる。一応の理論を持っている。まあ、最後の青年は右翼と同レベルのファナティックな感じだったけどね。…というわけで、靖国信奉者が登場するシーンが圧倒的に多いにもかかわらず、彼らはコミカルで笑いを誘い、反対派のメッセージの方が残ってしまうという不可思議な状態が生まれてしまう。その不公平を整えるのが、刀鍛冶のような気がする。刀鍛冶は老齢で、自分の意見はほとんどしゃべらない。黙々と仕事をするだけ。それだけに、靖国の存在意義に対して説得力が出てくるような仕組みになっている。
外国人が星条旗を掲げ、「小泉首相を支持します」と訴える場面があった。靖国を支持する人の一部が「外国人でも分かってくれるか」と共感を示しているところに「星条旗はまずい」と注文をつける人が現れ、さらに、罵声を浴びせる人も登場する。この辺りが興味深かった。米国人が靖国を認めているということに理解を示す人。彼らは、星条旗に違和感を感じていない。それどころか、つたない英語で語りかけようする。凄いじゃないかねと思ってしまった。ところが、罵声を浴びせる人は、理屈は関係なく“靖国で星条旗を掲げるな”と怒鳴るだけ。ここに理屈は介在しない。もう、感情の世界なのだよね。
結局の所、靖国支持派は感情的、ファナティック。反対派は論理的。…というのかせ見えてしまう。支持派の知識人がこういうのを見ると、バカにされている、と思っちゃうのかもね。支持派にも、ちゃんとしたロジックが必要なのかも知れないと思った。
ニュース映像も挟まる。問題の斬首写真も。日本人からすれば、斬首は、相手に対して尊敬の思いが入った刑、という主張もあるようだけど、一般的には残酷に思えてもしょうがないだろうね。自分たちの論理を相手に押しつけるだけじゃ、相手は納得してくれない。
捕虜の殺戮などは、どの戦争にもあったはず。どの国の軍隊だって行なっていたと思う。でも、斬首は日本だけが残虐という印象を受けやすいとは思う。これは損だ。でも、事実なんだからしょうがないとも思う。怒鳴り散らす前に、言葉で話すようにならないと、靖国擁護派は「感情的でコワイ」という印象から逃れられないと思う。
それにしても、あれだけ賛否両論ある靖国神社だけれど、いまだに誰でも入ることができるし、反対派もメッセージを主張することができる。反対派が式典に飛び込んで来たりもできる。それだけ日本には自由があるということもできるわけで、境内にはいるのに持ち物検査もされないというのは、まだ平和だと言えるのではないかと思う。
それにしても、式典に飛び込んで「反対」を叫ぶ青年は、仕込みなのか? なんだかそんな風に見えなくもないのだけれど…。
REC/レック6/30新宿ミラノ3監督/ジャウマ・バラゲロ脚本/ジャウマ・バラゲロ、パコ・プラサ、ルイス・A・ベルデホ
原題は“[Rec]”。スペイン映画。「ブレアビッチ…」と同じ様な手法で、スタイルは、この春公開された「クローバーフィールド」(2008年1月17日全米公開)に似ている。調べたら、スペイン本国での公開は2007年10月5日なので、こっちの方が「クローバーフィールド」よりは早い。しかしなあ、新鮮味はないよね。
だが、しかし。尺が短いのと、主人公のキャスターの女の子が可愛かったのと、設定は面白かった。ホラーとしても、そこそこで、後半にはちょっとぴりぴりくるところもあって、細かいところに文句をつけなければ、上出来だと思う。で、細かいところをあげつらっていくと…。
カメラマンとキャスターが、深夜の消防署を生取材。家に閉じ込められた人がいる、と呼ばれて行ったアパートで、警官や消防士、住人たちとともに隔離されてしまう、という話。感染者がいるので、当局がアパートを封鎖し、閉じ込められるわけなのだけれど、いきなりそれは現実的ではないよね。当局に、助けようという姿勢がこれっぽっちもない。だって、噛まれなきゃ感染しないんだろ? 感染していない人は助けるのが筋だろう、と思ってしまう。
最初の異常者はデブ女で、彼女が消防士の首筋に噛みついた時点でバレてしまう。なーんだ、吸血鬼か。で、みんなゾンビ状態で生き返ってパニックね、と。で、キャスターとカメラマンが最上階に行くと、そういう状態になった少女がいたという新聞記事や、ワクチンができたという声が録音されたテープも…。なんだい、そんな有名な話=事件なら、当局もこんな事件になる前に何とかすればいいじゃないか(ただし、この部分ではあまり詳しく説明されないので、なんか、そういう背景があるのね、という程度しか分からない。もうちょい説明してくれた方が、嬉しいけどね)。アパートの中で感染者が出た、らしい、というだけで警官や軍隊(もいたのか?)が大挙してやってきて包囲してしまうなんて、手はずが良すぎません?
で、西洋のホラーって、やっぱり結局のところ、いつも宗教がらみ。吸血鬼、ゾンビ路線で、笑ってしまう。いまさらないんじゃないの? いまやゾンビなんて、パロディの対象ならなんじゃないの? ここまで大まじめにやられると、笑ってしまう。…実際に、笑ったし。
キャスター女性は、途中からランニングみたいなタンクトップ。これで胸のボリュームも見えてきて、ちょっとエロっぽくなってきた…のだけど、ちょっとサービスが少ないと思う。「エイリアン」のシガニー・ウィーバーと同じ立場なんだから、もうちょい見せてくれてもいいんじゃないの?(と、スケベおやじがいってます)
それにしても、スペイン人って、ああいう状態になるとみんな怒鳴りまくってばかりなのだね。演出だとしても、騒々しすぎる。もうちょっと理性的に考える人は、キャラとして設定できなかったのかねえ。
住人に日本人一家がいた。でも、他の住人に「あの中国人は生臭くていかん」とか、露骨に人種差別を言いだすのだよね。なんかなあ。スペイン人の印象が悪くなったぞ。
で、アパートの住人や消防士のキャラは、あまり描き分けられない。尺が短いからしょうがないとは思うけど、あの日本人一家も、どうやって殺されたかは描かれずに棄てられてしまう…。後から、誰それはどういう殺され方をした、と分かるようにしてくれた方が嬉しい気がするなあ。
というような突っ込み所があった。
で、思ったことを言うと、先だっての秋葉原無差別殺人事件で、被害者を一般人が携帯で写真に撮り、Webにアップしたり、はてはテレビや新聞に採用されたことで、一部に非難が起こったことを連想した。この映画では、テレビクルーが閉じ込められ、建物内を採りつづけようとするのだけれど、それを警官が執拗に止めようとする。あの態度がよく分からなかった。何を撮られたくないのだろう? 被害者の様子などは、記録として撮ることに問題はないはず。それとも、警官は自分の行動について後から非難されるのが嫌だから、証拠となる映像を撮らせないのか?
警官に記録能力は無いのだから、テレビクルーを利用して出来事を記録する、という考えに至っても良かったんではないのかな、と思った。で、同じ“記録”という意味で、秋葉原の事件で「人が死のうとしているのに、撮るなよ」という声も上がっていた。でも、大半の人は、何が起こっているのか分からないまま、最初は撮影したのではないのかな。ことの重大さが分かったのは、だいぶ後からではないかと思うのだが・・・。もちろん、ことの重大さが分かってからも執りつづけた人もいるだろう。けど、報道カメラマンよりは控えめで、遠巻きにして、ではないのかな。いうならば、野次馬の距離をとりつつ、手にはカメラがあるので撮った、という程度。でも、ああして撮影された写真は、捜査の役にも立ったはず。未だ何が起きるか分からない状態でも写真を撮りつづけた野次馬根性こそ、希少価値のある記録を残せた原動力であると思うのだが・・・。
そりゃあまあ、死につつある人、助けを求める人を、遠慮会釈なく撮るのは失礼だとは思うけれどね。では、誰も撮らなかったら、それで良かったのか? ということにもつながるわけで…。とういようなことを、このテレビクルーの奮闘を見ながら思ったりした。敵=警官の裏をかきながら撮りつづけるるのは、見上げた根性だと思う。それにしても、ラストは「クローバーフィールド」と似ていて、救われないと思った。いまの世の中、ハッピーエンドでは終わらせてくれないのだね、世界のどこでも。

 
 

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