告発のとき | 7/1 | 新宿アカデミー | 監督/ポール・ハギス | 脚本/マーク・ポール、ポール・ハギス |
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原題は“In the Valley of Elah”。「エラの谷」は、映画の中で女刑事の息子に話されるダビデの神話から来ているのだろう。邦題は「告発」というから、訴えてやる! というような場面があるのかと思いきや、さにあらず。結局のところ、息子だけが無罪というわけではなく、単に真相を暴くだけになっている。結局の所、戦争によって人間が変わってしまう、人間性が歪み、何をするか分からなくなる、かもしれない、というようなところから、戦争反対を唱えているのだろう。それは、いい。しかし、基本的な部分があまりにもちゃち。 イラク帰りの息子が、隊に戻らない。父親(トミー・リー・ジョーンズ)が調べを開始する…。が、発見されたのは無惨な焼死体。事件馬場をめぐって、軍警察と警察が縄張り争いをするが…。軍警察は何かを隠している…。 という、ありがちな展開。それにしても、青いクルマは蛍光灯の下では緑に見える、とか。逃走する犯人を追うには路地ではなく表通りを、とか。証言者の数と兵隊の数が合わない、とか。そういう初歩的なことに警察が気がつかない、というのはあまりにもチャチ。犯行現場や死体を引きずった痕跡まで、父親が発見してしまうんだぜ。いくら元は軍警察(?)にいたからって、このスーパーおやじぶりはなんなんだ。ご都合主義も、ひどすぎる。 でも、そういうところを除けば、丁寧なつくりで好もしい。モーテルでズボンの折り目をつくったり、コインランドリーで下着姿でいたら女刑事(シャーリーズ・セロン)が現れたので慌てて生乾きのシャツを着るとか、そういうささいな部分に、キャラの掘り下げが見られる。それから、ドーベルマンを殺した亭主をどうにかしてくれ、と冒頭で警察に訴えてきた妻が、(予想通りだけど)夫に殺されてしまうというサブエピソードなども、話に厚みを増す手伝いをしている。 のではあるが、基本となる話も、戦場で気が立ったままの兵士たちが気軽に仲間を殺したりする…というステレオタイプというか、いわゆる社会派が叫ぶ軽薄な話なのが気になってしまう。ドーベルマンの亭主も兵隊帰りのようだけど、では、ベトナムで死線を生き抜いてきた父親はどうだったのだい? もちろんベトナム帰還兵が数々の事件を起こしているのは知っているけれど、事件を起こさない兵士が大多数なわけで、見方を変えれば“兵隊に向かない人もいる”ということかも知れないではないか。 この辺り、ベトナム帰還兵がイランやボリビア(だっけ?)帰還兵に変わっただけで、同じ様なことを主張しているだけのように見えてしまう。できるなら、もう一歩踏み込むとか、別の視点の導入が欲しいところだ。 女刑事が知的でいい感じだなあ…。誰だろう、なんて見ていたら、途中で「あれ? シャーリーズ・セロンか?」と気づいた。金髪じゃないのと、ちょっと痩せてほお骨がでているので、すぐには気づかなかった。 父親は、隊内にある息子の部屋に行き、引き出しにあった携帯をくすねてくる。おいおい。そんなことをしてバレないはずがないだろ。軍警察が隠蔽を図っているのに、それはないだろう、と思う。息子が、自宅に自分宛の郵便を送ってくる。そけを妻(スーザン・サランドン)が夫(トミー・リー・ジョーンズ)に電話で知らせるのだけれど、夫は「しまっておけ」というだけ。おいおい。何か大事な証拠が入ってるかもしれない、とは思わないのか? フツー、すぐに見に行くだろ。それから、トミー・リー・ジョーンズの長男は訓練中に死んだことになっている。残るは弟1人なのに、その息子を軍がイラクに派兵するか? 免除になるのではないかと思うが、どうだろう。 | ||||
アフタースクール | 7/1 | 新宿ジョイシネマ シネマ1(地下) | 監督/内田けんじ | 脚本/内田けんじ |
期待度に対する満足度は30点ぐらい。ううむ。シナリオのつじつま合わせに溺れてしまったか…。「運命じゃない人」のレベルには達せず。残念。 「運命」では、前半が仕込み(伏線)部分になっていて、後半から絵解きが始まる。しかも、絵解きの連続で、「おお。そうだったのか」「なるほど」と、目からウロコ状態。かなり退屈だった前半の単調でドラマも何にもない部分を補って余りある素晴らしいキレを見せていた。つまり、この監督の脚本は、前半は我慢。後半に期待! ということだと思っていたのだ。 ところが。「アフター」では、仕込みがかなり長い。しかも、場面というか、物語に係わる人々の範囲が拡散していて、「覚えていられるかな…」と不安になるほどなのだ。で、明かな切り返しは、大泉洋が家に戻ると堺雅人がいて、実はこの20人がグルだ、と明かすところ。「おお」。では、ここから切り返しの連続で絵解きがどんどん畳みかけられるのか…と思ったらさにあらず。またぞろ単調なリズムがつづいていく。監督は、明かしているつもり、なのかも知れないけど、「えっ!」って驚くほどのことではないのだよなあ。もしかしたら、頭の中が、仕込まれたネタの整理と再生にあっぷあっぷで、驚くゆとりもなかったのかも知れないけどね。 「運命」で多用されていた、ある出来事を複数の視点から見たら見えてくる別の事実、というのは意外性を発揮していた。でも「アフター」では、この視点の移動という手法は少ない。もっと大枠の設定に対して、観客が勘違いするような方向にもっていっている。それは成功しているのだけれど、偶然も含めて危うい可能性の上に成り立っているみたいで、いまひとつ乗り切れなかった。 あの、大石五郎の代議士は、どういう関係があるのだ? とか、そもそも、あの会社の社長はヤクザとつるんでなにをやっていたのだ? 堺雅人と田畑智子(大泉洋の妹役)は、横浜のホテルで何をしていたんだ? 半年もかけて警察の手伝いをして報酬無し? っていうか、会社を辞める覚悟って、ありか? 警察が人と時間をかけて追っている事件にしては、犯人たちの杜撰さはなんだ! だって、ボーリング場で受け渡しだぜ。そんなんありかよ。など疑問もいくつか。 それと。前作もそうだったけれど、仕込みの部分があまりにも退屈。もうちょっとドラマチックにできるといいんだけどねえ。たんに演出が下手、なのかも知れないけどね。この脚本を、別の監督が演出したらどうなるかな? と思ってしまう。 「運命」では、バラバラだったピースが最後にピタリと合う快感を味わえたけれど、「アフター」では、いくつか嵌らないピースが残ってしまった感じがするなあ。脚本の仕掛けであっぷあっぷ、という感じ。結局、仕掛けだけしか楽しめない、と言われてもおかしくないからね。今後の精進に期待しよう。 | ||||
ミリキタニの猫 | 7/2 | ギンレイホール | 監督/リンダ・ハッテンドーフ | 脚本/--- |
原題は“The Cats of Mirikitani”。ホームレスの日本人老人に、女性映像作家が手をさしのべる。家に住まわせ、社会保障番号を聞き出そうとする。でも、かつて日本人収容所に入れられ、アメリカ市民権放棄を強制された老人ミリキタニは、「アメリカの年金なんか要らない」と拒否。毎日毎日、絵を描いて暮らしていく…。監督が、ミリキタニの出自や過去を知って近づいたのか、たまたま偶然なのか、ちょっと怪しいところもありそう。でも、映画は時系列になっているように見えるので、最初は本当にホームレスだったんだろう。でも、単なる親切心で風呂にも入っていない老人を家に招き、住まわせるか? という疑問がつきまとった。なぜなら、その後の展開が劇的だからだ。 次第に明らかにされる日本人収容所の生活。ミリキタニの従兄弟の娘の存在や、なんと、老人の姉までが見つかる。初めは年金拒否を続けていたが、市民権剥奪は誤り、という米国政府からの書翰を老人自身が見ていなかったことを知ると、どうやら社会保障番号の申告を行なった様子で、監督の家を出て個室を与えられる。 本当に、ミリキタニは清潔な個室に入りたかったのか? 日本だと、ホームレスが住まいを与えられると、様々な制限をいやがって再び路上生活を選択するケースが多いようだが。そんな感じが、ミリキタニには見えない。そして、どこかの学習センターで絵の教師として招聘されると、嬉しそうにする。それに、自分を「偉大な芸術家」と称するのも軽薄に見える。一見、孤高の作家のように見えるミリキタニだけれど、案外とごくフツーの感覚をもった老人なのかも知れない。 アメリカが、日本人収容所が誤りだと認めたのは、何年か前のことだ。自由の国アメリカで、ドイツやイタリアなど、ヨーロッパ人には行わなかった扱いを、アジア人である日本人に行ったのは、あきらかに誤りだと思う。けれど。日本だって戦時中は白人を迫害したわけで、戦時中には致し方のないことも起こるのではないかと思ったりもする。9.11以降、アラブ系の人々への視線が冷たくなったというのも、ある程度は仕方のないところもあると思う。そういう、ゆるいところを狙ってテロリストは忍び込むのだから。アラブ人に疑心暗鬼になるのも、個人的には必要悪として共感してしまう。ある時代には、やむを得ないこともあるのだ、と思う。 過去に遡ってそれを責めても仕方がない。これから、そうならないようにするのが人間の知恵だと思う。のだけれど、昨今の分離独立運動や民族紛争・宗教対立を見ると、そんな長閑な時代は当分やってこないのだろうなあ、と思う。 ミリキタニが普段描いている絵は、そんなに上手くない。世界はあるけれど、テキトーな子供の殴り書きみたいに思える。そして、収容所の絵が多い。収容所を出てから、いったいどういう人生を送ってきたのか、どうしてホームレスになっていったのか、そこにはほとんど触れない。もしかしたら、触れてはいけないことがあるのか? そんなミリキタニの習字の文字は、とても見事。で、日本画、墨絵をやっていたことが分かってきて、その筆遣いは素晴らしいものがあった。ボールペンと絵の具の世界は子供のような純なものだけれど、墨絵の世界は規範を守った伝統的なものだった。この対比が、ミリキタニの人生を表現しているような気もする。いまは自由に生きているミリキタニ。その求める絵は、ああいう子供っぽくてカラフルなものなんだろう。心に曇りはない。 発見され、電話で話していた姉。その再会は…? と思っていたら、エンドクレジット。でも、そのクレジットに、再会の模様が写されていた。それは、ちょっと感動的。 | ||||
君のためなら千回でも | 7/2 | ギンレイホール | 監督/マーク・フォースター | 脚本/デヴィッド・ベニオフ |
原題は“The Kite Runner”。パラマウント映画だが、製作はひょっとしてパキスタンとかイラク? と思ったら、アメリカ映画だった。だからというわけではないけれど、あまりにも西側視点の叙述が多いので、これはちょっと割り引いて見ないといけないかもね。それにしても、アフガニスタンって、江戸時代みたいなところがいまだ続いているのだね。なんか、凄い。 主人公の父親は、アフガンのインテリ。仕事はよく分からないけれど、大学教授か何かなのか? 大邸宅に住み使用人はたくさん。子供の個室もあって、ヒマがあると映画を見に行くのだけれど、これが「荒野の七人」などのハリウッド映画。で、住み込みの使用人は、親の代からの勤めていて、とても献身的。使用人の息子は主人公とほぼ同年齢(10歳ぐらい)で、友だち兼ボディガード。本人も、使用人の息子も、それに何の違和感ももっていない。主人公は作家になりたい夢を持っているが、使用人の息子は読み書きもできない。それが当たり前。すげえな。やっぱ江戸時代だと思う。 そういう環境で、凧合戦でも、使用人の息子は家来のように活躍する。あるとき、使用人の子供が不良にやられているのを目撃しながら助けなかった主人公。使用人の子供は相変わらず忠誠を誓うのだけれど、主人公は内心忸怩たるものがあったのか。その思いが飛躍して、ありもしない罪を使用人の息子になすりつける。使用人はそれを恥じ(真相を知っていたのかも知れないが)て、家を出てしまう。 さて。ソ連の侵攻。主人公の父親は欧米思想に傾倒しているのでソ連が嫌い。なので、なんとかパキスタンに逃げて、結局、アメリカまで逃げ延びる。それから10数年。主人公の父はガソリンスタンドで働き、主人公を大学までやる。主人公の結婚話の後で父親は亡くなり、主人公は念願の作家デビューを果たす。そこに、パキスタンから手紙。かつて、主人公の創作を応援してくれた将軍だかなんだかからの手紙だ。おっとり刀でかけつけると、意外なことを告げられる。使用人の息子がタリバンに殺され、その息子が連れ去られた、と。しかも、使用人の子供は、どうやら血がつながっているらしい…。(えーと。ここで主人公と使用人一家との関係が説明されたのだけれど、固有名詞があれこれでてきて、オタオタしている間に終わってしまい、よく分からないまま見つづけることになった。人物の名前なんて、そんなに覚えてられないものなあ) で、主人公は運転手を雇ってアフガンへ…。…と、荒筋を書いているだけだなあ。でも実際この映画、ドラマチックはあんまりなくて、どちらかというと淡々と流れを追っているだけのような感じなのだよ。主人公の思いや感情には、あまり突っ込まない。出来事だけをだらだらと描写するだけなのだ。で。アフガンに乗り込んで、タリバンから使用人の息子の息子を助け出すんだけど、ここはマンガ的で笑っちゃうぐらい。あまりにも都合が良すぎる展開だ。 というわけで、何とか連れ出してアメリカへ連れていき、一緒の生活が始まる。(ここで、主人公が妻の両親に、人間関係を説明してくれたので、なるほどと理解したのだが)のだけれど、主人公はかつて使用人の息子にした仕打ちを、ぜーんぜん反省していないように見えるのだよね。日本人的に言うと、オトシマエをつけていない。せいぜいが、最後のシーンで主人公が使用人の息子の息子とたこ揚げをするぐらい? 昔は糸を操るのは主人公で、アドバイスするのが使用人の息子。その立場を、現在ではちょっとの間だけ代わってやっているだけ。罪を償うとか恩を返す、というような感じもあるのだろうけれど、それも、使用人の息子の出自に関係するわけで、実は、父親が使用人の妻を妊娠させて生まれた異母兄弟だったのだ。…それで、使用人の息子や、その息子に対する感情が変わったと見るべきだろうなあ。やっぱ、人種や身分の違いを超えた感情ではないと思う。 それにしても、ここらへんは違和感ありすぎ。主人に妻を妊娠させられ、妻は田舎で主人の子を生む。その子供を主人の家で育て、主人の子の世話係にする…。しかも、使用人は文句もいわず黙々と謙虚に主人に従っている。そういうのは当たり前にあることだったのか。それを大事にしないのが決まり事だったのか。うーむ。日本人の感覚では計り知れないものがありすぎで、わからん。 主人公は長じて、使用人の息子との関係を知るわけだけれど、使用人の息子はそれをいつか知ったのだろうか? 知った上でも献身的に勤めようという気持ちがあったのだろうか? などと、いろいろと考えてしまう。 あのあたり。宗教はイスラムだろうけれど、民族差別が根強いのだね。使用人一家のなんとかいう種族は、温厚で芸達者で、あちこちで使用人になっている模様。で、それをいじめる連中もいて、年長の3人の不良がいつも追いかけてくる。この不良連中がコトの原因をつくるのだけれど、なんと、タリバンの親分がこの不良だった(たぶんそうだと思う)。なんと、因果はめぐるで、使用人の息子の息子は、タリバンによって孤児院から連れ去られ、不良の夜とぎならぬ朝の一発の相手をさせられていた、らしい。タリバンは孤児院から男女の子供を適宜つれだし、そういうことをさせていたらしい。うーむ。アフガンから出国しようとしているアフガン人に、ロシア兵が「その女を30分ばかり借りたい」「殺すのは、女とやるのと同じぐらい気持ちがいい」なんていうのだけれど、まあ、西側視点からの描写とはいえ、ロシア人は第二次大戦終盤に日本に宣戦布告して侵入してきた歴史もあり、十分にあり得ると思える言動。 いやはや。日本人が中国・朝鮮から鬼扱いされているけれど、こういう連中はどうなんだ? と言いたくなる気分だなあ。うーむ。アフガンでも、一般大衆からすると、イスラム原理主義のタリバンは忌み嫌われる存在なのかも。 そんなことばかりを考えてしまう。あえてドラマチックにしていないのは(せいぜいアフガンに潜入して使用人の息子の息子を助け出す場面だけにして、思い出のパチンコが大切な役割を果たすというのが、ドラマチック?)、僕が感じたようなことを観客に思わせるのが目的だったのかな? であれは、それは成功していると思うが、かといって、アフガン大衆の民族差別的部分や、その上に立つ主人と使用人との関係などへの反省は非難めいたことには触れられていない。それはそれ、ご当地の文化であるという認識なのかな。 主人公が将軍の娘に接近するところも、文化の違いを感じてしまった。バザーで店番をしている娘のところへ主人公が近づいていって、世間話からアプローチしようとする。すると将軍がやってきて「ひと目があるんだ!」と脅す。これは、男女間のオープンな交際が認められていないからなのかな? さらに、プロポーズは自分がするのではなく、主人公の父親が、娘の父親である将軍のところにいってする。親同士でまとめるわけだ。日本でも50年ぐらい前までは、そんなことをしていたけど…。さらに、将軍がオーケーを出した後で主人公が呼ばれ、主人公と娘が話をするのだけれど、その近くで娘の母親が監視しているのだ! うわ。すごっ。これは、イスラムの風習なのかアフガンのものなのか。そんなことを考えてしまった。アメリカに渡ってもアフガン人だけでまとまり、結婚相手も同国人、というのは、あるのだねえ。 などと、本来なら主人公と使用人の息子との交流がテーマになるべきなのだろうけれど、そういうことよりアフガンの文化風習ばかりが気になってしまう映画であった。 タリバンによる姦通した男女の処刑がサッカーのハーフタイムにあるのだけれど(イラクでもそんな話があったなあ)、これが石を投げて殺すのだよ。うわ。で、おもったのだけれど、主人公の父親と、使用人の妻との関係も、姦通になるわけで。時代が時代なら、こうやって罪を問われる関係なのだよなあ…。 | ||||
幸せになるための27のドレス | 7/4 | 新宿武蔵野館2 | 監督/アン・フレッチャー | 脚本/アライン・ブロッシュ・マッケンナ |
原題は“27 Dresses”。ラブコメではあるんだけど、性格の違う姉妹の話、ととらえた方がいいかも。主人公ジェーンの仕事はプライドメイト…って、何なんだ? 結婚式のセッティングやパーティの仕切、そして、花嫁と似たような衣装を着て一緒に写真に写るところまでするのが仕事? そんなのがあるのかな、本当に。で、これまで手がけた結婚式が27で、その分のドレスが保存してある…ということらしい。ジェーンは上司のジョージが好きなんだけど、ジョージはそれに気づかない。そこに、男遊びに長けたジェーンの妹テスが現れ、社長に気に入られてしまう。というところに、結婚式専門の新聞記者ケビンがからんで…という、珍しくもないパターン。 それにしても、結婚式専門の別冊があって、NYで式を挙げる多くのカップルを紹介するなんて、そんな新聞があめのかい、本当に。なんか、女性週刊誌の世界だなあ。で。ケビンはありきたりの紹介記事に飽き飽きして、結婚ビジネスの裏側を紹介した記事を書こうとジェーンに接近。ついでに、結婚が決まったジョージとテスのことも取材し始める。片思いの相手を妹に掠われ、妹たちの結婚式のセッティングをするハメになったジェーンは、ラストでいったい誰と結ばれるのか? 1 妹と上司はそのまま。ジェーンはケビンと結ばれる 2 ジェーンとジョージが結ばれ、テスはケビンと結ばれる さて、どっちかなと思ったら、妹と上司は婚約解消で、ジェーンはケビンと結ばれるのだった。でも、後半の展開は無茶苦茶。何でも気がつき献身的で、でも奥手で謙虚なジェーンがぶち切れて、ジョージとテスの婚約発表会でテスへの復讐を遂げるのだ。テスの本性を人前でバラし、ジョージが心変わりすることを狙ったわけだが…。いくら姉妹だとしても、やりすぎではないの? で、2人は破談。それでも何も気づかないジョージにジェーンが一方的に告白し、キスをして「あんなに憧れていたのに何も感じない」とぬかすのだよ。で、初めは嫌いだったけど、少しずつ気が合ってきていたケビンと結婚することになるのだけれど、なんか強引すぎる気がする。果たして、ジェーンは上手くいくのかな? で、ラストはジェーンとケビンの結婚式のシーンなんだけど、たいていの映画がそうであるように、ジョージもテスも出席している。ジェーンは会社を辞めたはずだし、ジョージとテスが鉢合わせするシチュエーションなんかフツーは避けるはずなのに、ね。でも、映画だから仕方ないか。ちょっと期待したのは、心を入れ替えた(みたいな)テスとジョージがよりをもどす…という展開だったけど、そうはならないみたい。ちょっと残念。 この手の映画の弱点は、モテない結婚できない・・・という設定の主人公が、いつも美人で魅力的なこと。映画だからしょうがないけど、いくらなんでもねえ。で、姉のジューンは奥手みたいな性格づけがされているけれど、まったくそうは見えないところがつらい。フツーに見れば有能なやり手で、外向的で積極的にしか見えない。男に奥手なんて風には、とても見えない。では妹のテスは色っぽくて可愛いかっていうと、そんなことはなくて、軽薄そうには見えるけど、そんなに悪人には見えない。さらに、ジョージが鈍感らしいキャラにはなっているが、女に惚れられるタイプにはどうやっても見えない。ケビンも、いまいち格好良くなくて、そこいらのアンちゃんみたいに見える。 最初から思ったんだけど、みんないまいち映画俳優面をしていなくて、テレビっぽいのだ。あとでWebでみたら、その通り。人気テレビドラマを踏み台にして映画にやってきた俳優が多いみたい。ジェーン役のキャサリン・ハイグルも、一瞬かわいく見える時もあるけれど、よく見ればそんな整った顔立ちではないし上唇はタラコだしね。 音楽が、かなり懐メロしていたんだけど、そういう客層を狙っているのかな? 事故を起こしたジェーンとケビンがパブに入り、Benny And The Jetsで盛り上がるシーンはとても良かったけど、あの歌詞は本物なのか? 字幕は戸田奈津子。なんだけど、最初の頃はやけに言い回しが丁寧すぎるというか、くどくて読みにくかった。名前だけ貸して下請けが翻訳しているのではないのかなあ? | ||||
スピード・レーサー | 7/7 | 上野東急2 | 監督/アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー | 脚本/アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー |
原題は“Speed Racer”。昼を食べてすぐだったので、寝ちゃうなあ、と思っていたら案の定。スカウトのために人がやってくる部分と、ラリーに出るハメになるくだりの2箇所で失神してしまった。CG駆使で受け身でいい部分は、ダメだね。どんな映画でも必ず寝てしまう。 全体のテイストは「スパイ・キッズ」みたいで、それをもっとCGだらけにしたみたいな感じ。リアルな部分がないところは「トロン」みたいにも見える。ま、アニメを見ているつもりになればいいんだろうけど、そうもいかず。 クリスティナ・リッチの激やせは、気味が悪い。「バッファロー66」の頃のブタ状態はちょっと困るけど、ここ何年かはフツーに小太りがよかったような気がするんだけどなあ。しかし、どうやったらあんなに体重が変わるんだ? 「マッハGO GO GO」のテーマソングがそのまま使われているのだね。ってことは、アメリカ風に変えてオン・エアしていたわけではないのか…。 | ||||
西の魔女が死んだ | 7/8 | 新宿武蔵野館3 | 監督/長崎俊一 | 脚本/矢沢由美、長崎俊一 |
何かドラマがあるのかと思いきや、結局何もなかった。最初の頃は、テンポが緩やかすぎて、ちょっといらいら。冒頭には説明的すぎるセリフがぞろぞろでてきて、どうなるのかと思っていたが。いつの間にか、ゆるいテンポに慣れてきてしまった。何か起こりそうで何も起こらない展開にも。メッセージ性という意味でも、ほとんど何も言っていないに等しいのだけれど、それはそれでありだし、ゆるやかな気分になれたから、それでいいかな。 中学校の人間関係に疲れた少女が、外国人である祖母の家で1ヵ月(?)ほど過ごす話。女子の人間関係は激しいらしく、グループに入らないと、つまはじきにされてしまう、というのは恐ろしい。孤高の人になるのは、難しいのだね。いじめまでは行かないけど、そういうのが鬱陶しくなって、登校拒否。親は「扱いにくい子供」と、ひとくくりにしてしまう。ま、そんなもんだろ。学校では集団生活を学ぶのだ。それができなくてプレッシャーになり、つぶされてしまうようでは、どの社会に入ってもストレスを感じるに違いない。もっとも、大学生ぐらいになると、他者はもうからかってもくれなくなるからラクになるけどね。中学生時分は大変だろうとは思う。 それにしても、おばあちゃんの家にはテレビもラジオもステレオもなくて、それはストレスにはならなかったのか? 主人公の少女は、とくにとんがっているようには見えず、顔立ちもこの手の映画には珍しくブスの部類にはいるほどごくフツーの顔立ち。絵を描くのが好きとか小説世界が好きとか、そういう設定をしがちなんだけど、あえて(?)フツーの子供にしたのは評価できる。だって、大概のこの手の映画の主人公は、才能や美貌に恵まれすぎている設定だものなあ。 しかし、13、4歳になって、魔女を信じてしまうというのは、ちょっと幼いところもあるのかな? それはそれで純真ということだから、悪くはないけどね。それから。割と山の中なのに、本人はクルマにも乗っていない様子。食い物やなにかは、どうやって調達しているんだ? と、横やりを入れたい気分になってしまったけれど、まあ、そこはそれ、映画だからね。ま、いいか。この日本で、自給自足+オーガニックで、文明の利器をなるだけ使わない生活を送っている、得体の知れない婆さん、なのだから。 サチ・パーカーは50歳ちょっとのはずだけど、いやもう、下半身に肉の付いた婆さんを上手く演じていると思う。最初の頃は、子供や孫への丁寧語に違和感を覚えていたけど、次第にそうでもなくなっていった。日本みたいにべたべたした関係で子育てをしない、子供とも対等につき合う、という姿勢をもっている、ということかもね。 死んだら、魂が身体から離れる。その証拠を見せる、といっていたおばあさんは、ちゃんとその証拠を見せてくれての死なのだった。子供だましではあるけれど、それはそれでよいと思う。こういう姿勢が、親から子へ、孫へと受け継がれていくのだろうと思う。 | ||||
純喫茶磯辺 | 7/11 | テアトル新宿 | 監督/吉田恵輔 | 脚本/吉田恵輔 |
仲里依紗の映画だな、こりゃ。それにしても、いい女=役者だ、仲里依紗。で、彼女は磯辺家の娘役。Webで見たら「ハチワンダイバー」にでていたって、ああ、あの眼鏡をかけて胸を強調されて写されていたメイドか・・・。と、すぐわかった。かなりエロっぽく描かれていたっけ。この映画ではエロい服装はなくてフツーの女子高生で私服なんかダサイんだけど、顔つきがエロいのだよなあ。って、ちょっと頭悪そーで、でも可愛いってあるではないか。あのジャンルなんだよなあ。と思っていたら、スカーレット・ヨハンソン似だ、とWebにあって、ああ、そうかと思った。口元がちょっとだらしない感じなんかヨハンソンに似ている。さらに、祖父がスウェーデン人のクオーターって、まさにそうじゃん。 いまどきの16〜7歳の、どこにでもいるような女子高生が見事に描かれていて、素晴らしい。演技じゃなくて地なのかも知れないけど。しかも、イモっぽい格好をしてもエロいところもよいし。何気ない動作や表情も、スグレ者の雰囲気。これはもう彼女の魅力を発揮させるための映画みたいなもんだな。 話はたわいない。ぐうたらオヤジに遺産が転がり込み、思いつきで始めた喫茶店を潰すまでの話。ストーリーというようなものもたいしてなく、エピソードで綴っていく。しかも、フツーならそんなこと描かないだろう、というような些末なことを丁寧にしつこく積み重ねていく。セリフも「あれ」が多く、いかにもそこらへんの日常を切り取ってきてつなげたみたいな感じになっている。でも、だらだらしてはいない。「あるある、こういうの」「そうそう、そうなんだよね」というようなエピソードが選び抜かれているからだろうと思う。 父親は、テキトーでいい加減で計画性のない男。娘も、ごくフツー。別れた女房は、ちょっと几帳面。でも、人生の成功者にはほど遠い。アルバイトの女の子(麻生久美子)は、尻軽で嘘つき。そう。素敵な人、カッコいい人はでてこない。ある意味ありふれているのだけれど、でも、ありふれている面白さ、魅力を描こうとしたのかも知れない。ITだ、グローバルだ、スピーディだ・・・というようないまの世の中からは、完全に逸脱した社会に暮らす人たちの世界が、なんともまた面白く可笑しく、不思議な魅力を持っている。 あまり象徴性のあるものが登場しない映画の中で、ラスト近く。郷里北海道へ帰る、といって姿をくらました麻生久美子がパチンコ屋からでてくる。その姿を娘が発見する。麻生は妊娠していて、巨大などら焼きを2つに割って娘に勧めるのだけれど、このどら焼きが巨大な理由は何なんだろう? 何をシンボライズしているのだろう? と、気になってしまった。 | ||||
マイ・ブルーベリー・ナイツ | 7/15 | ギンレイホール | 監督/ウォン・カーウァイ | 脚本/ローレンス・ブロック、ウォン・カーウァイ |
原題もそのまま“My Blueberry Nights”。ウォン・カーウァイらしい流れ、雰囲気、スタイルの映画。でも、割とありきたりな設定で、いまひとつ迫ってくるものがなかった。「あ、そ」てなもんだ。 恋人に棄てられたノラ・ジョーンズと、冴えないカフェの店主ジュード・ロウの出会いに始まって、レイチェル・ワイズ、ナタリー・ポートマンという大物スターを迎えた2つのストーリーを挟み、ラストはノラとジュードの再会という流れ。ノラは、ジュードとの絡みだけならそこそこ魅力的な感じもするのだけれど、レイチェルやナタリーが横に来ると、もう存在感でかなわない。美しさ、そもそもの魅力の質が違う。見方によっては、ノラには1/4ぐらい黒人の血が入っているのかな? とか、中南米的な顔立ちだなあ、と見えてきてしまう(調べたら、父親はラヴィ・シャンカールなんだって! 知らなかった。インド人とのハーフか。ううむ)。大物女優に太刀打ちできないのも、そういうことが理由なのかな? ノラ・ジョーンズは、サンドラ・ブロックのでた何とかいう映画で、船上のピアノの弾き語りって役でちょっと見たことがあったけれど、ちゃんと顔を見たのはこれが初めて。主演クラスの顔はしていないけれど、ブスではない。美形というか、チャーミングな部類の顔立ちではあるけれど、ロマンスで主役を張るだけの美しさはないと思う。どっちかっていったら、性格俳優の顔立ちかも。それも、シリアスな映画の。 レイチェルの登場する話は、ちょっとリアリティが足りないかも。別れた亭主が未練たらしく元の女房(レイチェル)にすがる話なんだけど、見ていて気持ちよくない。後半でちょっと飽きてきたし、ノラがくだくだ理屈っぽいナレーションで語るのも、頭に入らなかった。すれっからしな賭博趣味女ナタリーの登場する話の方が、まだ面白い。 「恋する惑星」みたいな感じを狙ったんじゃないかと思うんだけど、いまひとつキレがないし、話に魅力がない。人物の描き方に深みがないというのはあるんだけど、それは「恋する惑星」でも同じなんだから、もうちょっと何とかならなかったのかな、という失望感が先に立ってしまう。 切なさ、やりきれなさ、みたいなのがもう少し描かれたら良かったのかな。ノラも、男に棄てられた女、ってだけの軽い女ではなく、もっと魅力的であって欲しいような気がした。1年近く遠回りしてきて、それまでと違う女になった、とジュードに言わせるだけの成長の跡も見えないしね。 ラスト。ブルーベリーパイを食べ終わってカウンターにつっぷしたノラ。口元には、ブルーベリーとアイスクリームのカスがくっついたままだ。「ん?」。あのカスの付き具合は、ノラが街を出る前のときと同じではないのか? ちょっと時制が混同して困惑した。どういう意味なのだろう? まさかここで1年前のシーンを挟んでいるわけもなし。 | ||||
クライマーズ・ハイ | 7/20 | MOVIX亀有シアター7 | 監督/ 原田眞人 | 脚本/加藤正人、成島出、原田眞人 |
緊張感のある2時間余。ぐいぐいと引っ張られていく。いやー。面白かった。けど、いろんな部分で不愉快な気分も感じてしまった。ま、不愉快さを感じたのは、映画がよくできていたから、なんだろうと思うんだけどね。 御巣鷹山に日航機が墜落。その取材をする北関東新聞(群馬県の設定)の社員たちの物語。編集と販売局の対立、いかにも新聞社の社主らしいジジイ(山崎努)の傲慢ぶりなんかが、かなりリアル。インテリがつくってヤクザが売る。社主は右翼だけど、書くことは左翼みたいなところも、いかにもな感じ。編集局の局長、局次長、部長の3人と、若手との対立(3人は大久保清事件の経験者で、昔はなあ〜と言ってる古い連中。それにしても、「無線機を使うな、足で書け」と若手に言い、それでニュースを落とすと嫌みを言うような先輩なんて・・・と思うわなあ。セリフにも、男ほど嫉妬深い者はない、なんてあったけど)。自分の調べたネタにしがみつく女性記者。記事が一面にならなかったことで、刃向かう記者だのを見ていると、新聞社の連中というのは、しょうがない人ばかりだなあ、と思ってしまう。これまでの同種の話では新聞記者はヒーロー扱いなんだけど、この映画では違うのだよね。 なことを思いつつ、新聞は発行されていく。で、細かいけれど、いくつかツッコミを入れておこう。 事件の一報が入って、堤真一が全権となっていく過程は面白いのだけれど、全権といっても、あまり権力はないのだな(だって、局長以下3人がどんどん勝手なことをしていく)という感想が先に立ってしまった。2日目3日目にしても、実を言うとあまり緊張感、緊迫感がない。多分、時間の流れを上手く表現できていないせいだと思う。たとえば、女性記者が隔壁の可能性を言いだしてから、彼女が取材に行くまでの時間が、ひどく長いように感じられる。実際には短時間で取材に行っているのかも知れないけど、その間に別のエピソードを挟んでしまうので、遅いように見えてしまうのだ。複数エピソードを並行して描写するとかして、切迫感を煽るような編集ができなかったのかな。堤も、ベッタリ仕事ではなく、同僚の高嶋政宏の見舞に行ったり、同僚の葬式に行ったり、案外とのんびりした描写がつづく。つまりまあ、全権の堤真一が締切に追われている、せっぱ詰まっている、というような印象は、案外と薄い。いくら忙しくったって、それぐらいの時間はある! と言われそうだけど、映画なんだからさ。ケツに火がついたような感じが(冒頭ではあったけど)、つづかなかったのかなあ。 編集部には、共同通信のニュース速報が延々と流れてくる。まあ、記事を買っているのだろうから当然だろうけど、よーく考えると大半の記事は、とくに中央の記事はこういう配信をベースにしているのだよな、地方紙って。なので、強みは地元の出来事、ってことになるわけで。考えてみれば取材力といっても中央紙と差があるのは当たり前だよなあ。そういうところが、屈折したプライドにつながっているのかもね。それにしても、あの当時でも無線機を持たないって・・・。精神力だけでは新聞はできない、だろうに。いまじゃ一般人も携帯+デジカメを持っている時代になっちゃって、まったく様変わりだ。こういうドラマがつくれるのも、通信手段のあまりなかった昔だからだよね。 新聞記者たちの興奮状態と、現在の堤、高嶋の息子(小澤征悦)が登山で感じる興奮状態をひっかけたタイトルだけど、なんか、あんまり意味がないように思う。そもそも後から 明らかになるんだけど、販売局の高嶋はかなりダーティな仕事をしていた様子。社主のお気に入りの秘書がやめたので、もどってくるよう頼んだりする仕事をしていたり。あんなのを見ると、当時、バブルなんだから勤め先くらい幾らでもあるだろうに、なんであんな新聞社であんな仕事をしているんだ? バカじゃねえの? と思ってしまう。他の社員、編集局員だってそうだ。社主が来たら平身低頭で、社主に認められることを生き甲斐にしているみたいにも見える。ああいう場面を見ると、なんだい、編集といってもただのサラリーマンだな。けっ。と思えてしまう。そう。カッコのいいヒーローのような新聞記者なんて、出てこないのだよ。 というわけで、社会正義よりも社内の駆け引きの方が目立って面白く、新聞製作の部分は二の次みたいになっている。人間くさいと言えばそうなんだけど、どうもなあ。編集会議で「お涙頂戴でいこう」とか、もう、新聞の使命なんかより、下世話なウケ狙いの紙面づくりが議論されるのも、生っぽい。ま、その生っぽいところにイライラしている私は、監督の思惑にまんまと乗せられている、ということなのかも知れないけどね。 。そして、女性記者がつかんだ圧力隔壁が原因・・・というスクープを、掲載するかしないかの決断で、堤が揺れる。慎重居士すぎるよなあ。行け。行っちまえ! と思っていたけれど、昔の映画の、ベルトをしていながらサスペンダーもする地方紙のデスクの“ダブルチェック”を思いだし、結局、決断できない。そして、他紙に抜かれる。なんだよ! そんな展開なのかよ。スカッとしないなあ・・・。しかも、それに対して、記事を追ってきた女性記者は全然責めない。おい。それはおかしいだろ。もっと「あんたは臆病者だ」とかいって突き上げられて当然ではないのか? まったくもって、前半からのテンションの高い流れを打ち消すような、肩すかし。ここでも、それはないだろう。だよね。 堤は、意見の対立する上司をののしったり、あげくは酒を掛けられたりと、乱闘直前まで行く。のだけれど、翌日ぐらいにはフツーに対していて、そのまた翌日ぐらいには頼み事(締切を遅らせて、後刷りでスクープを掲載しようと目論む)をしに行ったりする。ああいうのが、ちょっと理解できない。やなやつは徹底してやなやつ、ではないの? 嫌っているのに互いに利用するだけはする、なのかい? なんか、得体の知れない新聞社の人間関係だね。 とまあ、いろいろ突っ込み所は数多いけれど、それでも上質な緊張感が保たれた、近頃にしては上質の映画。しかも、新聞記者なんてロクでもないやつらばかり、ということを前面に出したという意味で、記憶されるべき映画ではないかと思う。 事故の発表の後で、堤が乗員名簿らしきものをめくる。そこに、少年の名前(忘れた。息子の名前だったのか?)と9歳という年齢。そして、少年がくれた石・・・。とくれば、息子が乗っていたのか? と思っちゃうよなあ。でも、どうやらそうではないらしい。どういう意味があったんだろう、あのシーンは。もう一度見れば、確かめられるのだけどねえ・・・。 | ||||
百万円と苦虫女 | 7/24 | シネセゾン渋谷 | 監督/タナダユキ | 脚本/タナダユキ |
暗い。重苦しい。むかむかする。感情移入できる人物もいない。つまんない。 蒼井優は、前科者。っても、罰金20万円。最初に刑務所から出てくるシーンがあったけど、あれは結審までの拘置所だったのね。しかし、その拘置所内からのシーンでは大通りに通行量が多いのに、その後のシーンでは寂しげな屏ぎわを歩く。明らかに、あちこちで撮った絵をつないでるのが分かって興ざめ。それと、この冒頭のシーンでの時制がちょっと分かりづらいと思う。 冒頭のエピソードは、蒼井の優柔不断と切れやすい性格を表現しているのかな。バイト仲間の女子とルームシェアしようといわれ、部屋を決めた途端、その女子に「私たち2人で住むから」と彼氏の存在を打ち明けられる。入居してみれば、やってきたのは彼1人。2人は別れたのだという。それでも蒼井は文句もいわず、出て行くこともしない。見ていてじれったい。こんな主体性のない女はイライラする。で。蒼井の拾ってきた子猫を男が捨てたからといって、男の荷物を捨ててしまう。・・・それで、刑事訴訟となった次第。しかし。荷物を捨てるパワーがあるなら、自分で出て行けばいいだろ。なんか、パッかじゃねえのか、としか思えない。こんな女は嫌いだ。 蒼井は、ベンキョーもできないフツーの21歳。就職できずにバイト生活。友だちも少ない様子。それで、どうやって自前で20万の罰金を払えたのか、ちょっと疑問だ。それはいいとして、中途半端で終わった1人暮らしの延長で家を出る決心をする。しかも、バイト生活での放浪者となる。最初に行ったのは海の家。ここでの話は中身がない。で、蒼井は100万円たまったら別の場所へ行く、と決めているので、そうするのだけれど、海の家で働いて100万円ためるって、ムリだろ? 1日1万円としても100日。生活費をさっ引いたら、1年はかかると思う。なのに、映画ではひと夏でためてしまった感じで、あり得ねえだろ!? だよな。 次に行ったのが、桃の里。海の家ではかき氷の腕を誉められたが、ここでは桃のもぎ方を誉められる。取り柄のない蒼井が、こういうことで誉められるのはいいことだと思うんだけど、自分じゃなにも感じていないのが不思議。で。ここでの話のポイントは、集団の圧力だ。地元の桃のイメージを高めようと、周囲が蒼井を桃娘に仕立てようとする。それを拒絶する蒼井。他人の自由意思を無視し、脅迫する周囲。蒼井は「前科者だから」と逃げる。うーむ。前科者といったって、たかが罰金。そんな気にすることないと思うんだが。または、もともと人前に出るのが嫌いなのか? よく分からん蒼井の性格づけだ。で。ここでも蒼井は100万円ためたのか? そこはよく分からない。 最後に行ったのが、地方都市のDIYショップ(このエピソードでは、蒼井は何の特技も認められない・・・)。同僚の大学生バイト森山未来とつき合うようになるんだけど、どこに惹かれ合ったのか分からないので説得力がない。とくに、ずっと他人に対して懐疑的、人嫌いできたのに、どーして? だよなあ。で、次第に森山が蒼井に金を借りるようになり、それが嫌で蒼井は別れることを決意する。がしかし、実は、蒼井の貯金が100万円にならないよう、森山が故意に金を借りていた、というオチがつくのだけれど、陳腐すぎる。そんな回りくどいことをせず、「100万円たまったら出て行くのか? 僕と別れるのか?」と聞けばいい。去っていく蒼井、それを追いかける森山。駅で再会なるかと思わせて、互いに気づかないまま・・・というところで終わる。なんかなあ。だから何? というような内容だ。 サブエピソードは、蒼井の弟。小学生6年生ぐらいで、悪ガキ3人にいじめられている。が、いまどきのいじめって、もっと陰湿ではないの? 大っぴらないじめなのに、教師は気づかない。それって変だろ。同級生もたくさん目撃しているのに。なんか、こっちも得体の知れない話で、いまいち説得力がない。 だらだら長い割に、中味がなくてつまらない。冒頭のエピソード、それから森山との話から、たかられる女というのはこんな感じ、という話かと思いきや、そうではなかった。何の意思もつたわってこず、ただ漠然としたものが残るだけ。とても中途半端。 季節の流れが感じられない。海の家の次の桃の里は、夏の終わりか? では、海の家に1ヵ月、桃の里に1ヵ月ってこと? で、地方都市は秋? それぞれに100万円たまったのではなく、100万円たまらないまま別の場所に移動して、地方都市でやっと100万円たまりそうになった・・・ということなのか? うーむ。それにしたって3ヵ月ぐらいしか経ってないわけで、そんなのムリだろ。 | ||||
カンフー・パンダ | 7/28 | 上野東急 | 監督/マーク・オズボーン、ジョン・スティーヴンソン | 脚本/ジョナサン・エイベル、グレン・バーガー |
原題はそのまま“Kung Fu Panda”。見たのは吹き替え版。いま公開中の「崖の上のポニョ」と比べて、見たい! という意欲はあまり沸かない映画。でも、話題作ではあるからなあ…。 まず、ストーリーが単純すぎてつまらない。主人公はデブで大食いのパンダ。たまたま亀仙人に“龍の戦士”に指名される。虎、猿、鶴、蛇、カマキリの5戦士すでにいるのに、それをさしおいて・・・。で、イタチみたいな老師+5戦士は「こんなのが〜」と思いつつ、次第に打ち解けてくる。その間に悪漢虎が脱獄し、復讐しにやってくる。亀曰く、悪漢虎と戦えるのはパンダだけ。老師+5戦士は「うっそ〜」。でも、パンダは食い意地が張ると威力を発揮するのを老師が発見し、短期集中特訓。その甲斐あってパンダが悪漢虎をやっつける・・・。ひねりも何にもない。 そもそも、このパンダは強いのか? 食い意地が張ったとき、というなら、戦い中も食い物に釣られてなくちゃいけないのに、そういうわけではない。たった1日ぐらいの修行で強くなられちゃたまらんよな。 悪漢虎も、パターンで悪者にされているだけで、もうちょっと同情の余地があっていいんじゃないの? 導師が拾って育てたのに、たかが亀仙人に「邪悪な影があるから龍の戦士にはできない」といわれただけでグレるなんて。悪を悪として単純に切り捨てるのは、どーかと思う。 それから、亀仙人が、突然いなくなる=死んだんだと思うけど、って、変だよなあ。唐突すぎるだろ。いなくなる必然性も全然ない。 ついでに言っておくと、主人公のパンダは可愛くない。ギャグも先が読めるようなものばかり。アメリカの単純な子供向けシンプルストーリーアニメだな。それから、5戦士に名前がなく、吹き替えだと「つる!」なんて動物名で呼ぶんだけど、なんか違和感ありすぎだ。 | ||||
ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発 | 7/30 | キネカ大森1 | 監督/河崎実 | 脚本/右田昌万 |
おなじみ河崎実のバカ映画。ギララというのは、この映画のための新怪獣かと思ったら、1967年に松竹がつくった怪獣の名前らしい。ふーん。最初の頃、ギララが登場したときの映像がザラついているのて「?」と思っていたのだけれど、当時のフィルムを使っているようだ。 内容は、もうどうでもいいや。しかし、ここまで下手に撮ることができるっていうのも、それはそれで才能だわな。 大泉首相(小泉純一郎のパロディ)が北の将軍に変身するのは、ちょっと意外性があった。あとは、ビートたけしがどう登場するかだったけれど、こっちは「なーんだ」という登場ぶり。っていうか、本人は声だけ。それもたいしたものじゃない。アリモノから抜いた感じ。あとは、似顔絵なんかでの登場。これで出演は詐欺だろ。 | ||||
接吻 | 7/31 | ギンレイホール | 監督/万田邦敏 | 脚本/万田珠実、万田邦敏 |
長い時間をかけた計画的犯行をゆっくりと見せる。大半が仕込みなので、前半は単調でつまらない。あくびが出る。いったい何を言おうとしているのか、よく分からなかった。仕方がないので小池栄子のオッパイばかり見ていた。 1時間を過ぎた頃から話が動きはじめる。小池栄子が囚人の豊川悦司と結婚すると言いだし、それまでしゃべらなかった豊川が口を開く。で、壁のないところでの謁見が許可されて・・・。面会室で小池が弁護士・仲村トオルのカバンから仲村に与えたプレゼントを取り出した時点で、おおおお! となった。そうか。そういうことか。 ある日突然、小池はテレビで見た殺人犯のデータを集め始める。そして、犯人の気持ちが分かる、と接近する。公判を傍聴し、弁護士に接近し、ついには豊川と面会する。そして、婚姻届まで出すに至る・・・。実を言うと、こうなる動機が理解できず、説得力のない話だなあと見ていた。いくら「自分も豊川も人から相手にされず、無視される存在だから」と共感したといっても、なぜ急にそんな行動に出るのか。いい加減な話だなあ、と思っていた。それが、最後の5分ぐらいにすべて氷解する。 小池は、常日頃からターゲットを探していたのだ。ターゲットは、殺されてもいいような人間。人に迷惑をかけないような人である必要があった。で、とうとう見つけた。それが豊川だ。親戚知人もほとんどおらず、死刑が確定し、本人も死にたいといっている人間。これなら堂々と殺せる。人を殺して、自分も死刑判決が得られる! と。それで豊川のデータを集め、戦略的に接近し、琴に及んだのだ、と。 がしかし、豊川を指した後、同席していた仲村に矛先を向ける。「ひとりじゃ死刑にならないんでしょ!」と叫びながら。で、刃を向けながら、小池は仲村に“接吻”する。これが、よく分からない。単純に考えれば、いつの間にか小池は仲村が好きになっていた、なんだけど、それでいいのか? 気になる。 そうだとすれば、自分が死刑になるために仕組んだ芝居の過程で、積極的に愛することができる人と出会えた、ということになる。この皮肉は二重になっていて、豊川にとっても、もっと前に小池に出会っていれば無差別殺人など犯さずに済んだのに・・・ということになるわけだ。構成はなかなか凝っている。 法廷シーンがちゃちい。陽の射し込む、窓の開いた法廷というのもあるのか? 傍聴席の椅子が簡易椅子じゃないか・・・。 前半に目立つのだけれど、小池が歩くカットが、あまり意味なく挿入されていると思う。他にも、なくてもいいようなカットが多い。何か象徴性のあるを撮るとか、手法はあると思うんだけど。どちらかというと芸のない絵がつづいて退屈する。前半の仕込みの部分で、それなりに説得力のある展開がつくれれば、ラストの意外性はもっと強調されたのではないだろうか。 それにしても、小池栄子はキチガイ女を演らせたらピカイチだね。「恋愛写真」だっけかな、のときも凄まじかったけど、この映画もまた凄い。それと、豊川がうなされる部分でホラーっぽい感じになるのも、ちょうどいい加減でよかった。そのままホラーになっちゃっても、悪くはないかもと思いながら見ていたんだけど。ははは。 それからやっぱり、タイトルにもなっている“接吻”の意味を、もうちょい分かりやすく、映像で見せて欲しかった。あれじゃ、みんな「?」のままでスッキリしないんじゃないのかなあ。さらに、ラストのシーンで小池が仲村のカバンを開け、プレゼントの包みを破ってナイフを取り出し,刺す・・・の過程がゆっくりすぎる。フツーなら仲村も気づくだろうし看守も気づくはず。プレゼントを取り出してからの流れをもっとスピーディに、仲村や看守に背後から静止されつつ胸にプスリ、でも良かったんではなかろうか。でも、そうすると“接吻”が表現できなくなる? プロデューサーが仙頭武則で、2006年に製作されながら公開が今年というのも、何かあるのかな? と思わせてくれるね。 |