2008年8月

崖の上のポニョ8/1MOVIX亀有シアター6監督/宮崎駿脚本/宮崎駿
話題の映画だ。結論を言うと、単なるおとぎ話で、それほど深い意味はないと思う。これなら幼児が見ても楽しめるかも。高慢なメッセージもあんまり感じられないし。・・・と片づけてしまってはつまらないので、思いつく寓意、メタファーを考えてみようかね。
あまり積極的ではないけれど、環境問題に対する警告があるのかも。人間が海を汚すので、津波が起きて港が沈んでしまう・・・とかね。水位が上がった海の中に、古代生物のような魚が泳いでいるのは、魚が支配する未来を示唆しているようにも思える。もっとも、普段は高い崖の上の家が、あわや水没・・・! って、水位がどれだけ上がってるんだ? という話だけど。ま、これはマンガだからいいとして。
ポニョは人間(フジモト)と海の精(なのかな?)の間に生まれた魚らしい。すると、かつて「スプラッシュ」だの「浦島太郎」のような、人魚と人間の恋物語があって、その後日談のようにも見える。つまり、ポニョはもともと半漁人だ、ということだな。さらに言うと、かつて人間と海の生物とは共存関係で反映してきた。けれど、人間の横暴が過ぎ、それを諫めるためにポニョが登場した、ともいえる。事が大事(海と人間が戦う、とか)になる前に、半漁人のポニョが人間世界へ、関係改善に出向いた、とも読める。
ポニョは、人間の子供が付けた名前。本当は、なんとかかんとかという、王族のような名前があるらしい。つまり、王女様だ。それがなぜ人間世界に恋いこがれるのか? 理由は分からないけれど、常日頃から父親の姿を見て、その世界を憧れたのかも知れない。この部分(なぜポニョが人間世界に憧れたか、人間の少年がつけた名前「ポニョ」を素直に受け入れ、喜んでいるのか?)は、もっと具体的に説明してもよかったのでは?
保育園の隣に養老院がある。これは、核家族化によって老人と子供が共同生活しなくなった現在への批判が込められているのかも。
フジモトは、何かのエキスを集めている。あれは何だったのだろう? あれを集めて何をしようとしていたのだろう? さらにまた、ポニョが人間世界へ興味をもつのを恐れているようにも見えた。その理由は何なのだろう?
ポニョが人面魚→半漁人(手足の指が3本)→人間、という変化を見せるのが面白かった。ひょっとしたらフジモトは、半漁人であるポニョを何かの力で抑え込み、人面魚として育てていたのかも知れないね。で、ポニョが魔法を使える、というのはどういう意味なのだろう? とまあ、疑問点はいくつも出てくるのだけれど、まあ、単なるおとぎ話であれば突飛な設定もとくに問題なしかな、と思っているのだけどね。
波に目玉があったりする擬人化、波=魚であったりというメタファーは、そんなに違和感がない。というか、こういう表現を思いつくのが凄い気がする。こういう理屈がつかないものには、大人は違和感を感じるだろうけれど、子供は素直に受け入れるのではないかと思う。
でまあ、感想だけど。前半は面白かった。さて、どうなるのかな? という設定や要素がたくさんでてきて、これからの展開が期待された。ところが、中盤以降はそうした伏線があまり活用されず、意外な展開がない。ああ、これはこういう意味だったのか、という発見や驚きもない。なので、ちょっとダレてきた。おとぎ話でも、カタルシスがないとちょっとつらいね。
海水魚が、水道の水の中で平気で泳ぐのは、かなり違和感あり。少年が両親を名前で呼ぶ関係というのは、違和感あり。これも、何か意味があるのかな?
ハプニング8/1MOVIX亀有シアター3監督/M・ナイト・シャマラン脚本/M・ナイト・シャマラン
原題も“The Happening”。
つまらない。よくもこんな脚本に映画会社が金を出したもんだ。マーク・ウォルバーグも、どうしてこんな下らない映画に出たんだろ。
シャマランの映画に「サイン」というのがあるけれど、あれの前半を映画にしたような感じ。“何か恐ろしい物がくる・・・”と思わせて、途中から物体がでてくるのが欧米映画のスタイルだけれど、この映画では物体は出てこない。映画の中では、植物の毒素のようなもの、といっているけれど、それだって定かではない。とまあ、そんなような何かの影響で、人間が突然自殺したくなってしまう、という話。それが北米東北部の数州に発生し、逃げる人を描く。それだけ。ラストも、どんでん返しや強烈なオチがあるわけでもない。
画面に黒い小さな影がときどきチラチラでてくるので、それが原因で、だんだんそれが増殖するのかな? と思っていたら、なーんも関係なかった。単なるゴミだったのかな?
次第に発生していく、ひどくなっていく、という感じがまるで出ていない。地域が拡がっていく、というぐらいしかない。監督はおどろおどろしくやってるつもりかも知れないが、全然つたわってこないし、怖くない。もうシャマランも終わりだ。っていうか、すでに終わっているのに、下らない映画を撮りつづけているだけ。
スカイ・クロラ The Sky Crawlers8/4上野東急監督/押井守脚本/伊藤ちひろ
原作は森博嗣。調べたら、Crawlerというのは「這う動物、へつらい者、幼児のはいはい」の意味らしい。
つまらない。退屈。後半の、大攻撃をかけた空中戦のシーン辺りで、うとうとっとしてしまった。
最初の2〜30分は、何が起きるのかな? という興味でとりあえず引っ張られる。しかし、いつまでたっても核心に迫らない。何となくアバウトに核心の周辺をうろうろしている。さらに、キャラの顔(みんな似ている)と名前がしっかり頭に入らず、人物への関心も深まらない。谷原章介と菊地凛子は声として色が出すぎて良くない、と最初思ったのだけれど、人物を見分ける役には立った。なんか皮肉っぽい。
予告で「キルドレ」という言葉を聞いていたので、そういう存在があるというのは分かっていた。キルドレというからには、チルドレン=子供のことだろう。しかし、その説明が延々出てこない。というか、説明されたのはラスト10分前ぐらい。大半がもやもや隔靴掻痒だぜ。この部分がもうちょい面白くないとなあ。っていうか、登場人物たちはみんな知っている事実を、観客に伝えていない状態で物語が進んでいるだけの話で。こういうのは伏線といえるのだろうか? と思った。ついでに戦争のことも説明された。それでやっと「なーるほど」と思うことがあれこれあった。そーか。キルドレというのは遺伝子操作でつくられた人造人間で、誕生したときから子供で、外見上歳も取らないし、事故ででもなければ死なない。それで戦闘員になることが多い? それは志願なのか、それとも会社が支給しているのか知らないけどね。かといってロボットではなく人間の心はもっている、と。そういう存在に悩み苦しんでいるのが、司令官の草薙水素なのか。・・・でも、キルドレ同士でセックスして子供ができるのか? という疑問はずっとついてまわるけど。
戦争についても、誰も本気で戦っているように見えないのが変だなあ、と思っていた。空中戦ゲームのため、みたいな感じだったし。途中から“会社”に所属している連中が戦っている、というのは理解できたけど、何のために? で、終わって帰りがけにポスターを見たら「ショーとしての戦争」「永遠に生き続ける」とかいう言葉が書かれていた。それを読んで、またまた「おー、なるほど」と思ったのだった。あの空中戦はショーなのか。
こうやって、本編に描かれていない情報が入ってくると、だんだん映画が分かってくる。ついでにWebサイトや解説を読むと、さらに詳しく設定などが分かってくる。・・・って、そんなのよくないじゃん。ちゃんと本編で描けよ、だよね。というわけで、設定や状況が分かりやすく提示されていない映画なので、退屈でつまらないのだよ。
それにしても、恋人だった戦闘機乗りを殺しても司令官でいられる世界というのは、なんなのだ?
で。主人公は死んで、またまた新しい戦闘機乗りがやってくるのだけれど、草薙水素は男に飽きると新しい戦闘機乗りを募集するみたいにも思えるなあ。
あー、それから。冒頭の空中戦のシーンで、「ティーチャー」という言葉がでてきて、味方の戦闘機が撃墜されるのだけれど、ここで撃墜されていたのは主人公・函南優一だったのかな?
空中戦のシーンは見事な仕上がり(実写CGみたい)なのだけれど、どっちがどっちで、どーなっているのか分かりづらいのが難点。背景やモノが立体アニメで、人物および動物などが平面イラストというのが、なんかちょっと妙な感じがしないでもない。
きみの友だち8/5新宿武蔵野館2監督/廣木隆一脚本/斉藤ひろし
暗くて陰気でマイナーで弱者な青少年たちにだけ焦点を当てた物語。足の悪い女の子(恵美)と、腎臓の悪い女の子(由香)の友情と成長の話なのだな。と思いつつ見ていると、心因性近視の女子(ハナ)の話、サッカーが得意な男子生徒(ブン)の冴えない友だち(三好)の話、サッカー部の先輩(佐藤先輩)の話・・・と、オムニバス風になってくる。足の悪い主人公は、3つのエピソードにからんでくるけど、主人公ではない。ほとんど完全に存在が薄い。
いままで主人公だった女の子が突然、影の薄い脇役になってしまう奇妙さ。なんか素直に受け取りにくい気色悪さがある。生理的に、変だと思う。さらに、この映画が散漫になる原因になっている。いっそのこと完全にパートを分けて、はっきりとオムニバス映画にしてしまえばよかったのではないの?
映画の作り手の鈍感さがここかしこに出てくる。たとえば冒頭。記者(中原)が孤児院で働く現在の恵美を取材する。中原は恵美に「足が悪いの? 不便でしょ。いつから? 生まれつき?」なんてずけずけ質問する。この無神経さは、作り手の無神経さそのものではないかと思う。で、中原の質問に「めちゃめちゃメンドー」と応える女がいるか? さらに撮った写真を中原に見せ、小中高の思い出語りをするなんて・・・。鈍感な女なんじゃないのか? と思ってしまう。こんな中原に恵美が恋をして、結婚も考えるようになる、というのが説得力がない。かなり強引だね。たとえば、恵美が中原をクルマで送り、バレンタインのチョコレートを贈り、ついでに頬にキスをするのには驚いた。時間の経過も、仲が深まる様子も描かれていないので、かなり唐突だよね。
佐藤先輩のエピソードで、恵美が佐藤に「佐藤君、下手そう。性格悪そう。点が入ったとき補欠で喜んでる姿がビデオに映ってたよ」なんて言葉をかけるのだよ。おお。なんて無神経。恵美も中原も無神経だから、ちょうどいいカップルだっていうのか? うえっ。
恵美が写真を撮るようになった理由は、何? 由香のいう「もこもこ雲」の意味するものは何? 由香が簡単に説明していたような気はするけれど、よく覚えてないぞ。なんかもう、テキトーにエピソードを並べているだけで、統一性がない。
ブンちゃんと三好君の話では、ずっと気がつかなかったけれど、ブンちゃんの姓は和泉で、恵美の兄だったんだな。次の、佐藤先輩のエピソードの終わり頃に、やっと気がついたよ。やれやれ。という具合に、いろいろと分かりづらい。セリフも聞きづらいし、映画をどこへ持っていこうとしているのか、よく分からない。個々のエピソードには、そこそこ興味深い話はあるのだけれど、それが生きていないのが残念。
エピソードの合間に、恵美と由香の話が挿入される。のだけれど、この時制が無茶苦茶で、現在から中学生、高校生(なのかな? 佐藤先輩のエピソードの時は?)、現在とひょうひょい変わるので、「?」となってしまうことが多い。
恵美が、中原を車に乗せて家に連れてくる・・・。てっきり実家の両親に会わせるのかと思うと、父親の方が「おじさんが」なんて言っているので妙だなあと思っていたら、なんと連れていったのは由香の両親であった。なんでえ? 恵美と由香は、成長するに連れて何人かで演じているようだけど、3人なのか? 2人なのか? この映画、ほとんどアップがないので、主人公の顔も印象的なシーンがほとんどない。顔が印象に残ってないよー。うーむ。もう、あっちこっちが散漫だらけだ!
あの日の指輪を待つきみへ8/8テアトルタイムズスクエア監督/リチャード・アッテンボロー脚本/ピーター・ウッドワード
原題は“Closing the Ring”。エンド・クレジットを見て、おっ、となった。監督がアッテンボローなのだね。ふーん。
文芸大作風だけど、いまいちピンとこない結末。なんか話がご都合主義的だったり、IRAの話もとってつけたような塩梅で、別になくたっていいんじゃねえの、っていうような感じ。
1991年のアメリカのブラナガンという町が出てくる。と思ったらブラナガンの1941年へと舞台が移る。と思ったら、1991年のアイルランドが登場する。そして1941年のアイルランドも登場するに至って、ちっょと動揺した。(こりゃ、人物が錯綜して名前をちゃんと覚えてないとついていけなくなるかも・・・)と。でも、それは杞憂だった。主要な人物は限られていて、見ていくうちに自然と分かるようになっている。これでだいぶほっとした。
第二次大戦直前のアメリカ。女1人に兵隊3人という仲好しグループがあり、その中でカップルが誕生する。戦争に突入し、女と結ばれた兵隊はアイルランドで戦死。残った2人のうち、片割れが女と結婚する。そして1991年。亭主は死に、女と、残った男との物語となる。・・・2人ともジジイとババアなんだけどね。で、アイルランドではマヌケな青年がかつての墜落現場から指輪を掘り出す。50年も掘り続けて探していたオッサンをさしおいて・・・。都合よすぎる展開だ。で、その指輪を持ち主に返そうと青年がアメリカにやってきて、いろいろ事実が分かってくる。というか、分かっていなかったのは娘だけだったんだけど。つまりまあ、彼氏が死んでも女は思いつづけ、仲間の1人と結婚しても心は死んだ彼氏のもの・・・という態度で生きてきた、のだ。なんて失礼な女だよ。
要するに、兵隊は3人とも女が好きだった。女が選んだのは1人だけだった。女はずっと男を思いつづけた。という話だ。そんな長い間思いつづけることができるのか? という疑問がついてまわるので、どっかリアリティがない。男だってそうだ。自分のことを本当は愛していない、と知りつつ、仲間同士の約束だからと彼女の面倒を見る・・・って、封建時代でもそんなことしないんじゃないのかい? なぜ女はもっと別の、自分の本当に愛せる男を探そうとしなかったのか?  アメリカ人なら、そのぐらいするだろ。ねえ。
で、女は娘にも、本当に好きだった人は死んでしまっていて、あんたの父親とは好きで一緒になったわけじやないのよ、てな態度を取る。そりゃないだろ。やな女だねえ。というわけで、アメリカ編は後味がよくない。それでも見どころはあって、若き日の女を演ずるミーシャ・バートン。凄い美人ではなく、そこらへんにいそうな可愛い娘、なんだけど、それがいい。それと、スタイルが抜群にいい。後ろ向きのヌードはとても美しい。上半身ヌードもあって、とても形のいいオッパイが見られるのも特筆ものだ。
で、アイルランド編なんだけど、IRAのことを知ってないと分かりづらいね。ってか、あの場所は北アイルランドだったの? で、うろうろしている軍隊は、あれは英国軍? 青年を捕まえ殴ったのは、英国の刑事たちなのか? よく分からん。もっとはっきり分かるとよかったんだけどね。で、IRAの活動は本筋とはまるっきり関係なし。おいおい、だよなあ。もうちょい本筋にからんでこないと、登場させた意味がないんじゃないの? とってつけたみたいだったぞ。で、IRAの、爆弾オヤジは、あの、防空壕で威勢を這っていた青年のなれの果て、なのか? そこんところがよく分からなかったが。
で、最後はジジイとババアが仲よく抱き合うのだけれど、このジジイにしたって女からすれば結婚相手とは考えられなかったただの友だちなのではないの? と思ったりすると、どーも素直に「なるほど」とは言えないのだよ。
気になったこと。女と、彼女が選んだ男とは出征前に仮の結婚式を関係者だけで済ませるのだが、どうも男の身分が低いらしいのだ。それで、結婚を申し込んでも両親に断られる、と気にしている。これはどういう意味だったのだろう? 男が移民のなれの果て、かなんかだったのかな?
街角でいきなり爆発するシーンがなかなかリアルだった。画質が全体によくない。かなり粗い。
※飛行機が落ちたベルファストは北アイルランドの首都で、1990年前後はIRAの爆弾闘争が盛んだったらしい。そういう歴史を知らないと、すっ、とは分からないのである。ははは。
敵こそ、我が友 〜戦犯クラウス・バルビーの3つの人生〜8/8銀座テアトルシネマ監督/ケヴィン・マクドナルド脚本/---
原題は“My Enemy's Enemy”。バルビーについてはほとんど知らなかった。けれど予告編を見て、面白そう、と思っていた映画だ。冒頭にバルビーの悪業が畳みかけるように現れる。それはほとんどスチールで、ちょっと残酷な画像もあったりする。字幕を読んでいると画像に追いつけないくらい短く畳みかける。字幕より日本語ナレーションの方が分かりやすいんじゃない? なんて思っていると、関係者の話になって、そうなると話が8割でスチルが2割ぐらいになってくる。で、正直言って過激な部分もないし驚きの映像もない。果たして映像はバルビーに関係あるものか、それとも資料映像かも分からない。さらに、年代もあまり表示されない。字幕を読むのがだんだん面倒になり、眠気が襲ってきた。寝ちゃいけない、寝るな、と思いつつ、少しずつ瞼が重くなり、熟睡。ボリビアに行ったという辺りでいったん目は覚めたけど頭が寝ていて、再度熟睡。最後の30分はちゃんと見た。予告にあったゲバラ関連の部分は見逃してしまったらしい。残念。しかし、バルビーを知らない僕には、とっつきにくいものだった。ナチ時代の動く映像はほとんどなく、衝撃の映像もない。ほとんどスチルと証言ばかりで、動く映像はボリビアで逮捕されて後のものばかり。フランスでの裁判も、ちっとも劇的ではない。歴史を知っていれば興味が持てるのかも知れないけれど、無知な人間にはちょっと入り込むのはムリだった。それと字幕がわかりづらかった。これはやっぱり、日本語ナレーションでテレビで見れば十分な作品だと思う。
地上5センチの恋心8/11ギンレイホール監督/エリック・=エマニュエル・シュミット脚本/エリック・=エマニュエル・シュミット
原題は“Odette Toulemonde”。主人公のオバサンの名前だ。名字がどーのこーのというセリフがあったけど、忘れた。
ハーレクインみたいな恋愛小説で人気の小説家。読者は美容師、レジ係、アパートの管理人・・・。そういう教養のない大衆オバサンで、サイン会にはぞろぞろと中年女が並ぶ・・・。で、本作の主人公オデットもそんなひとりで、職業はデパートの売り子。19歳の息子はホモで、娘は跳ねっ返り。亭主に先立たれ、楽しみはロマンス小説だもんねオバサンなのだ。この辺りの設定がいろいろ紹介されていく部分はとても面白い。ディテールやちょっとしたエピソード、小道具なんかも凝っているし、エキセントリックな仕上がりはとてもよい。
フランスやベルギーでも、教養程度の低い女性たちが読むのはロマンス小説で、壁には夕焼けの写真が貼ってある・・・という定型パターンがあるのだね。階級制度がまだまだ残っているのだろう。デパートで、下着売り場は誰もやりたがらない売り場だ、というのはどういう理由なのだろう。営業センスがなくても売れるから、なのかな?
日本語タイトルは、サイン会にでかけるときは気がそぞろで、画面でもオデットは5cmどころか何メートルも浮き上がってしまうところからだ。でも、そういうトキメキは最初だけで、しだいに覚めてしまうのがちょっともったいない。最初のサイン会では自分の名前も言えないぐらいあがってしまうのに、2度目はかなり落ち着いているし、手紙まで渡してしまうのだからね。
で、当の作家は評論家から酷評されて落ち込んでしまうし、妻はその評論家と浮気中。そんなときにファンであるオデットの手紙を見つけ、オデットに会いに来るのだ。そんなことはあり得ないけど、映画だからまあいいだろう。でも、オデットはもう慌てないし落ち着いているし、全然もうそわそわしない。この辺りの描写がイマイチかなあ。もっとウキウキさせてもよかったんじやないの?
作家はオデットの家に住み着き、素直なオデットに惹かれていく。ノーベル賞が何かも知らない教養のないオバサンのどこがどういいのかまでは伝わってこないけれど、このあたりはもっとひねってもよかったかも。冒頭のファンタジックなテイストがどんどん削がれていき、ごく当たり前のつまらない、ひねりのない展開になっていくのがとてももったいない。
亭主もおらず、好きな作家が近くにいて肉体関係を迫ってきても、「いずれ去っていく人とは嫌。この人なら、という男でなくちゃ」みたいに、オデットの信念は固いのだけれど、亭主に気兼ねしているわけでもなさそう。それに、息子はゲイの恋人を連れ込むは、娘も恋人を同居させるなど、かなりオープンな家庭環境からは考えられないほど貞操観念が強いのが不思議だね。
で、作家は妻とよりを戻したのかな、と思っていたら、そういうわけでもなく、なんとラストは作家とオデットが結ばれるというトンデモファンタジー(しかも、ビジュアルはペーパームーン!)。前半の素晴らしさに比べ、作家が同居した後がつまらなくなってしまうのだけれど、それでもそこそこ不思議感が漂っていて、いかにもフランス映画…と思ったら、これってベルギーが舞台だったよなあ。(フランス/ベルギー合作らしい)
旧約聖書のキリストの場面が、隣人の痩せたオヤジをつかって所々に挿入されるのも面白い。これは何を意味しているのだろう。オデットが熱心なキリスト教信者であることを示唆していると言うことか? それとも、神の意志に従っている、というようなことなのかい? それから、ときどきプチミュージカルになるのが愉快。オデットの気持ちを表現しているのだろうけれど、これが1920〜30年代風の流行歌みたいで、ジョセフィン・べーカーの歌唱もあったぞ。(っていうか、Webで見たらみんなジョセフィン・べーカーの歌のようだ)
ジェイン・オースティンの読書会8/11ギンレイホール監督/ロビン・スウィコード脚本/ロビン・スウィコード
原題は“The Jane Austen Book Club”。オースチンは読んだことがない。「高慢と偏見」「エマ」なんかの題名は知ってるけど、読書会を開くほどのものなのかい? うーむ。英米文学は不案内なのでねえ。
群像劇なんだけど、最初のうち人物関係が分かりにくい。冒頭の犬の葬式には誰が出席していたか、というのはほとんど覚えていない。ブリーダーの彼女ではないかと思うが。その友人で亭主が浮気した奥さんは3人の子持ちらしいが、画面に出てくるのは娘だけで、彼女も読書会に参加しているみたい。みたい、と書くのは、最初どういう感じで登場したか、覚えていないからだ。彼女は子持ちにしてはキレイなんだけど、眼鏡をかけてたりいなかったり、年寄りも若く見えたりで判別しにくいときがあった。彼女の娘も読書会に参加していたけれど、もうひとり若い娘がいなかったかなあ。娘のレズみたいな友人の女の子を勘違いしたのかな? くそ真面目な女教師と、読書会のリーダーみたいなオバサンとの出会いは、分かりやすい。ブリーダーがエレベーターで出会った青年を誘う下りも分かりやすい。でも、もうちょい人物を分かりやすく描き分けてくれるとよかったんだけどね。
オースチンの代表的長編6作品をテーマに1ヵ月ごとに集まり、読書会を開くという設定。その過程で亭主に若い女ができて逃げられた奥さんや、離婚の危機を迎える女教師や、男に興味のない生活をしていたブリーダーの中年女にドラマが起きるという寸法。若い女のところへ行ってしまった亭主が、その若い女に逃げられて復縁を願いに来たりするのはよくあるパターン。女教師が生徒に恋する話もしかり。でも、テンポが速くカット割りも短いので舌足らずなところもあるけれど、でも、そこそこ興味深く話が展開する。それは、登場する人物のキャラがそれぞれに立っているからだと思う。詳しく説明はないけれど、ブリーダーの中年女は、かつて友人(亭主に逃げられた奥さん)に男を紹介した。そして、2人は結婚した。ブリーダー女は謙虚で、自分から言いだすことが苦手。なので、紹介した男のことが好きだったような気配がある。それ以来、男には奥手になり、犬を相手にしてきたみたい。そこに、たまたま出会ったのがSF好きのIT青年。ブリーダー女はSF男を亭主に逃げられて落ち込んでいる奥さんに紹介する・・・という、かつてと同じことを繰り返すのだけれど、SF青年はブリーダー女の方に興味津々・・・とかね。この関係が一番面白かった。亭主に逃げられた奥さんの娘の話は、ちょっと分かりづらかった。レズなのに、親は平気なのか? とかね。どういう親子関係なんだ? と疑問を感じながら見ていた。それから、年長のオバサンは、フレッド・アステアの映画を製作したことのある男が夫だったことがある、というような人で、すでに5回だったかの結婚歴あり、という人物。ま、彼女辺りはバックグラウンドが薄っぺらで、もうちょっと描き込んで欲しいところだけど。
最後、亭主は戻ってきて一件落着。ブリーダー女はSF青年と結ばれる。こういうハッピーエンドは心が落ち着くけれど、女教師の生徒への恋は思いとどまることになり、バスケしか興味がなくてオースチンといえば「州都」と思っていた亭主が、女教師の無理矢理教育であっという間に読書家に変身しているラストは「ありえねー!」だよね。
読書会ごとの会話が小説の内容に沿って展開されるので、小説を読んでない俺にはちょっとハンデがあったかも。どうやら昨今のアメリカではこういう読書会が流行っているらしいが、だからといってオースティンを読むようなインテリばあさんが急激に増えている、というようなことはないと思うんだけどね、アメリカで。それにしても、こういう映画がつくられるのだから一般大衆が教養に興味を持ち始めたということなんだろうか。アメリカ人がインテリに憧れるようになったのかな。といっても日本のカルチャーババアよりも程度が低いような気もするし、教養の大衆化=低次元化につながっているような気がしないでもない。無知なオバサンが「私にも教養があるのよ」なんつって参加して、思いつきの感想しか述べないとか・・・。ま、それでもいいんだろうけど。会の中に1人2人教養程度の高い人がいないと、感想文の読み合いになっちゃうだろうなあ、と思ったりした。それでも、アメリカ人が知性と教養を身につけようというよう志をもつようになったのは、悪いことではないのかも知れない。
よく分からなかったのが、図書館の晩餐会ってやつ。あれは図書館が主催で開催するのか? 誰でも参加できるの? 図書館に人を集めようとする戦略なのか? よく分からなかった。
ギンレイは、大妻か共立の英文科でましたでもオースチンは言語じゃなくて翻訳で読みましただからとても興味があるんです若い頃のことも思い出させてくれるし私にぴったりの映画ですことうほほほほほ・・・なんて感じのオバサンがうじゃうじゃ。こういう婆さんたちには、ピンク映画でも見せてやりたいなあ。「ラスト・コーション」は芸術性が高いのよ、なんていって喜んでみるだろうけれど、ピンク映画は「虫ずが走るわ」なんていいそうな連中だからなあ。しょうがないなあ。
ダークナイト上野東急28/11監督/クリストファー・ノーラン脚本/ジョナサン・ノーラン、クリストファー・ノーラン
原題は“The Dark Knight”。つまらなかった。20分過ぎぐらいに眠くなって、20分近く寝た。目が覚めてからつづきを見たのだけれど、相変わらず話がよくわからない。だから、なかなか時間が過ぎていかない。なんだ、まだ半分もいってないのかよ、てな感じ。それでも最後まで起きていられるだろうと思ったのだけれど、なんと1時間40分ぐらいからまた眠くなって、2度目の居眠り。最初に寝て起きたときには、もう一回、最初の40分ぐらいを見直そう、と思っていたのだけれど、要するに俺には合わない映画、つまらない映画、と分かったので、見直すことはなかった。
ゴッサムシティがやけに明るい。アメリカのどこかの都市そのままで、暗黒感がでていない。これまでのつくりもの然としたアメコミ世界のバットマンの方が、バットマンらしいと思う。この映画では多くに“リアル”“現実世界との共通性”が見られ、それが嘘っぽさを増幅させているように思う。たとえばバットマンがからきし弱いのも、そのせいかも知れない。「バットマンスーツが重くてうまく動けない」なんて漏らすのは、なんか情けないではないか。ジョーカーの手下なんて、ごくフツーのチンピラかギャング風情なのに、いつも手こずっている。ジョーカーが落下するのを助けたり、その次にはジョーカーをひき殺せずに自分がバイクで転んで気絶し、警官に助けられてる・・・って、情けないではないか。バットマンカーも、ジョーカー相手に呆気なく壊れちゃうし。おいおい。ちゃっちいなあ。
眠ってしまったから文句の言えないところもあるんだけど、あの中国人はどういう役回りででてきたんだ? モーガン・フリーマンとマイケル・ケインは連絡を取りあう関係なのか?
それと、なんかバットマンおよびその周囲のこと、というか、これまでの過程は周知のこと、という流れで話が動いていくのだよね。たとえば。マギー・ギレンホールとの関係なんかほとんど説明されずに進んでいき、実は彼女はバットマンの正体を知っているどころか恋人関係にあるとか、そんなことがあとからチラチラでてくる。なんか変なの。
ほかにも、話が断片的で大きなうねり、流れが見えない、とか。クライマックスらしい部分がない、とか。見せ場がちっとも盛り上がらない、とか。どーも観客を物語に引っ張り込んでいく力がないように思う。ジョーカーのがさつなメイクも“リアル”の追求の一つなのだろうか。きっちりメイクしているよりよっぽどいいとは思うけど、で、ジョーカーは何が目的なの? コミックの世界なら破天荒も許せるのだけれど、これだけ“リアル”が出てくる中で荒唐無稽は、どーもすんなり受け止められないよ。
●と思ったら、「バットマン・ビギンズ」と同じ監督だから、そのつづきなのだね。ははは。
インクレディブル・ハルク8/14テアトルダイヤ監督/ルイ・レテリエ脚本/ザック・ペン
原題は“The Incredible Hulk”。軍の実験で怪物化してしまった主人公ブルース(エドワード・ノートン)。その苦悩がよく表現されている。ブルース(ハルク)が善の怪物とするなら、悪の怪物はブロンスキー(ディム・ロス)だ。ブロンスキーは階級が上がったり管理職になることに興味がなく、特殊部隊での実践を望む殺し屋みたいな軍人(こういう役にティム・ロスはは合わない気がする)。戦いのためなら肉体改造もいとわず、自らハルク化することを希望する。ブルースがバケモノからフツーの人間に戻りたいと思っているのに、全く逆の考えに取り付かれてしまう。この対比がよく表現されている。そして、ロス将軍は、ブルースを武器化するためなら何でもするという非人間的なキャラとして登場する。このロス将軍の娘ベティ(リヴ・タイラー)は、父親とは全く逆で、ブルースに恋し、ブルースが人間になるのを手助けするという設定。ここでも対比が使われている。こういう対比が重層的に入れ込まれていて、話の中身を濃くしていると思う。
ブルースがハルクになってしまった経緯を冒頭でパパッと済ましてしまったのは大正解。で、潜伏中のリオからアクションが始まるのも素晴らしい。傾斜地にうじゃうじゃ建てられて家々を使っての逃亡劇はとても新鮮だしスリリング。
ハルクはCGで表現される。これはまあ致し方ないかもしれないけど、やっぱりつくりものめいたところ(実写にアニメが挿入される感)があって、ちょっとなあ…。もうちょいCGに工夫があるといいのかも知れない。超人化したブロンスキーとハルクとの対決では、最後に“ハルク・スマッシュ!”と、マンガみたいな(コミックだけどね)ひと声と技一発で勝ってしまうのは笑える。実力的にはブロンスキーの方が強いと思うんだけど、ここはもう正義の味方が勝利するという方程式にのっとっての結果かな。
主人公は中年オヤジ(エドワード・ノートン)でヒロインも成熟した女(リヴ・タイラー)。どうみても子供が喜びそうな役者は使われていない。でもそ映画としての完成度も高く、メッセージも的確に表現されていて、なかなかの映画だと思う。リヴ・タイラーは幼児性が残った顔をしているんだけど、肩から下がたくましいので、その辺を考慮した撮り方をしてくれるといいと思ったぞ。
つっこみどころもいくつかある。ブラジルからアメリカまで、徒歩とヒッチハイク(?)で来てしまったり、大学のキャンパスを戦車が走り回ったり。いくらなんでも、それはムリなんじゃないの? と思った。NYの大学での戦いの後、30日後に山小屋かなんかに潜んでいるのだけれど、金もない信用もなくてどうやって住まいや衣服を手に入れたのか? 
登場人物のその後、が語られないのもちょっと不満。リオで働いていた工場の社長がいいやつだったんだけど、工場がめちゃめちゃになって後どうしたのか? ブルースに好意を抱いていた色っぽい娘のことも気になる。ブルースを知るレストランのオヤジとか、ブルースとメールのやりとりをしていたブルー、という大学教授はどうなった? とかね。みんなかなりひどい目に遭ってるんじゃないのかなあ、と心配になってしまう。
で、問題はラストだ。「変化しなかった日の31日目」が突如「0日」になり、目が緑になる。一方、ロス将軍のところに人がやってきて「新しいプロジェクトを始めることになった」…というところで映画が終わっているので、ちょっと面食らった。何のことだ?
しばらく考えたのだけれど、これは次回につづく、ということなのかな? ロス将軍の新たなる陰謀を察知して、ブルースがハルク化した、ということでいいのだろうか?
歩いても 歩いても8/15新宿武蔵野館2監督/是枝裕和脚本/是枝裕和
普通のドラマなら不要物として捨てられてしまうような日常的な些細な出来事や心理を紡ぎあわせ、人間と家とが時間の中を流れていく様子をかなり鋭く切り取って表現していて、お見事。とくに、お盆の季節に見ると、日本人ならではの墓参や帰郷が重ね合わされるので、誰しも思い当たるようなことがたくさんでてくる。重ならなくても、「うちのばあいは…」と敷衍して考えることもできるので、誰でも胸に染みるような部分があるんじゃなかろうか。
三浦半島辺りの実家に次男と長女の一家が墓参に訪れる。仏は長男で、10年ほど前に溺れる少年を助け、自身は亡くなった模様。実家は個人病院で、年老いた父は緑内障で引退。母は健在。出来のよかった長男と比較され、早くに家を出て行った次男は失業中。子持ちの女と再婚したので、実家には評判がよくない。長女はクルマのディーラーをやっている亭主と子供2人。どうやら実家を二世帯住宅にして家賃を浮かせたい思惑があるみたい。なさそうでありそうな家庭環境、何か起きそうで起きない人物設定。この配置が上手く行っていると思う。
大きな出来事は起こらない。父親の次男への不満は現在でも続いていて、次男はあまり実家に戻りたくなかったらしい。でも、本日はお泊まりのつもりでやってきた。義理の息子とは悪くない関係だけど、「お父さん」とはまだ呼んでもらっていない。失業中というのも隠している。母親は、新しい嫁が子持ちなので、子供は作らない方がいいかも、なんて口走る。どうせ別れるだろうから、と思っているようだ。嫁は、次男のパジャマが用意してあるのに、自分のパジャマが用意されていないことに不満顔。この辺りの嫁姑の本音がぽろっと出るとこいらは、ちょっとしたホラーでコワイ。
年老いてなお、先生と呼ばれたい父。長男が生きていたら医業もつづけられたのに…と、いまなお思っている。それは母親も同じで、子を失った親の気持ちとしては当然だろう。みなが集まったのは長男の命日らしく、かつて助けられた子供が25歳になって線香をあげにきている。しかし青年は肥満でフリーターで無神経で、と、どうしても死んだ長男と比較してしまう。・・・という辺りは、鋭い。フツーなら人間の命は平等、人間に差はない、なんて建て前で言うところだけれど、本音を語らせてしまう。そう。この映画はかなりの部分が本音であり、一般的にはタブーとされる部分を前に出すように描かれている。といっても小汚く表すのではなく、何気ない日常の会話や仕草の積み重ねで表現していく。その辺りが上手いと思う。そんな風には言わないだろう、というような作為のある部分もあるけれど、まあ、それは映画だからね。しょうがないと思う。全般的には、さりげなさが上手く表現されていると思う。
で。墓参りに行くか、というところで長女が「お盆に行ったからいいや」とパスするのだけれど、命日は8月の終わりぐらいか。するとお盆と秋の彼岸の中間だから、ちょっと中途半端な感じがするなあ。お盆と一緒にやっちゃったりするとか、しないのかなあ。それと、寿司屋の息子が香典を、ともってきたのは、あれは13回忌の供養かなんかなのか? 香典をもってくるなんてかなりの深いつき合いということになると思うけれど…。といって、法要のシーンはない。なんか、その辺りのツメがちょっと甘かったような気がするのだがね。
子供たちが帰って、老父母が残される。そこで終わるかと思いきや、つづきがあった。老父母がいなくなった風景に次男のナレーションがかぶり、父が3年後に亡くなり、後を追うようにして母も死んだ、というのだ。うーむ。これは余計ではなかったのかな。と思っていたら、さらにつづきがあった。数年後に次男一家が墓参に来ているのだ(映っている卒塔婆が、あの夏と同じだったように見えたんだけどなあ)。義理の子は高校生ぐらいで、妹ができている。坂の途中にクルマが停めてあり、一家がそれに乗り込むところで終わっている。
免許を持っていなかった次男は運転をするようになった。ってことは、絵画修復ではない、何かの営業職にでもなったのかも知れない。実家には長女一家が住んでいるのだろうか? いや、クルマを実家におかずに来ているところを見ると、売り払って次男と長女で分けたのかも知れない…。などと、いろいろ考えられるのだけれど、やっぱり、あの夏の日の、みんなが帰った時間で終わらせた方が余韻が残ったような気がするのだけどなあ。
俺たちダンクシューター8/15新宿ミラノ2監督/ケント・オルターマン脚本/スコット・アームストロング
原題は“Semi-Pro”。NBAの下部リーグにABAというのがあって、ABAの上位4チームがNBAに吸収され、他のチームは解散、ということになったという設定。これは映画だけのことかと思いきや、実際にあったことを下敷きにしているらしい。で、そのABAのトロピックスというチームの最後のシーズンの話。オーナーがウィル・ファレルで、全米No.1ヒット曲を生み出して大もうけし、チームを買ってオーナーになったらしい。以後、チームは不振状態。チアリーダーはいるし地元テレビが専門番組を放送するぐらいだから、そんなにマイナーではないと思うんだが。でもま、リーグ4位になったらNBA昇格、と目標に次第に強くなっていく姿を描くバカコメディ。これまでに見た「俺たち」を名乗る映画の中では一番面白かったかも。バカオーナーぶりが徹底している。勝つことより、お客を喜ばせるために扮装したりイベントをしたりする方に一生懸命なのがアホらしい。そのくせ渋ちんで、お金のかかることには腰が引けている。って、オーナーはもう資金不足なのかい? あんな色っぽいチアリーディングがいるってーのに。チアリーディングといえば、可愛い娘がいたのにあまりフィーチャーされなかったのがもったいない。女性は、かつてNBAの補欠で優勝経験もある選手の昔の彼女(「ER」のアビー・ロックハート役の女優)ぐらい。しかし、その彼女にはつき合っている男がいるのに、彼は元補欠に彼女を寝取られてもニコニコしているのがいささか不気味だった。
ひゃくはち8/18テアトル新宿監督/森義隆脚本/森義隆
素晴らしい。今年見た映画の、とりあえずNo.1だ。笑わせ、泣かせ、感動させる。ぐいぐいと物語に引きずり込んでくれる。こんなに夢中になって映画にのめり込めたのは久しぶりだ。
神奈川県の、野球学校。部員は100人を超えるが、ベンチに入れるのは地方大会で20人、甲子園で18人。その、ベンチ入り当落線上の選手の1年を描いた映画。甲子園の夢を断たれた2年の夏は観客席で応援、春の甲子園は出場するもベンチ入りできず、再びやってきた3年の夏の地方大会でもらった背番号は19番。しかし、仲のよかった友だちは落選…。という話。しかし、これを豊穣な内容の青春野球映画に仕立ててしまった。
マンガみたいに大げさな部分もあるんだけど、サインを見破る・見破られまいとするチーム同士の知略、毎日の練習、寮生活など、とてもリアルに思える描写がとてもいい。新米女性記者に、2年生補欠の雅人が偉そうな口調で話していたり、「煙草はサプリみたいなもんだ」という男性記者のセリフ、「ビール、少しぐらいいいだろ」という父親、ベンチ入り選手の発表前に、緊張から吐いてしまう選手…。補欠にでも入れた、と聞いて泣き出す父親…。こういうのも、ちゃんと取材して書いているのだろうなあ。で、こういうリアルに、ちょっと過剰な表現を挟んでいるというのが、絶妙のバランス。とても上手い。
この監督は脚本・編集もやっているようだ。脚本もいいが、編集もとてもよい。最近の日本映画はムダに長い。不必要なシーンがあったり、カット尻が不必要に長かったりすることが多い。でも、この映画はそんなことをまったく感じさせなかった。
野球部員というか、いまどきの青年はみんな同じ様な顔に見えるので、それが難点。主演の雅人役の少年(素朴そうな感じなのに、いろいろハメを外す。なかなか適役?)はじゃがいもみたいで分かりやすいのだけど、その友だちのノブと他の部員の区別がパッと分からず、少しまごついた。もうちょい見た目の違う役者を配した方がよかったんじゃないのかなあ。そういう意味では、法律を学ぶために野球を辞める、と宣言した眼鏡の少年は分かりやすかった。
女性記者はともかく、雅人が合コンで知り合った女子大生と、ノブのつき合っている女子高生が登場するぐらいで、女の子があまり目立っていなかった。野球部なんだから女子マネージャーぐらいいないのか? と思ったのだけれど、ムリに入れて軟弱になるより、いまのままのほうがいいかもね。でも、雅人が「女子大生とやった」というのは、ホント? あまり突っ込んで描かれていなかったけどね。
それにしても、煙草やビールは当たり前。女子大生と合コンでカラオケし、セックスまで…? これが高校野球の裏側? というのは、どこまでホントなんだろうね。映画のラストに「未成年者の喫煙・飲酒は禁じられています、とあったけど、あんなの意味ないわなあ。
この映画を見たら、「けっ、補欠か」なんて、もう言えなくなってしまうだろう。補欠でもベンチ入りできれば御の字。家族まで大喜びなのだ、ということがよく分かる。それに、映画としては泣かせどころになっているのだ。うーむ。面白いところに着目したなあ。
セリフが聞き取りにくいところが多いのが残念。それから、なんで監督が“サンダー”という名前なのかは、説明してくれた方がいいと思う。女性記者のアップのシーンで、フィルムにかなり傷があった。あれはないだろうと思うが、どうしたのだろう。すべてのフィルムに傷があるのかな。
後半、ベンチ入りできたことを電話で父に告げた雅人が雨中歩いていると、女性記者と出会う。このシーンで、背後の暗闇に歩く人物の影が映っていた。その後のシーンも、クルマの動きやライトが無神経に映っている。あれは撮り直すべきだと思うなあ。
タイトルは、ボールの縫い目が108あることから来ているのだが、中味が連想しにくいと思う。これはソンだ。せめてサブタイトルをつけたらと思うが。
ダークナイト上野東急28/25監督/クリストファー・ノーラン脚本/ジョナサン・ノーラン、クリストファー・ノーラン
2度目。IMDbでも高得点を叩きだしているし、あちこちで高評価。正義の味方といいつつ無法者のバットマンの苦しみが描けているとか、究極の選択を迫られた時にどうするかを訴えているとか、光の騎士から暗黒の騎士への転落が表現されている、とか、いろいろいわれている。前に見たとき、俺が寝ていた間にとんでもない物語があったのか? それを確かめるべく行ったのだけれど、1回目と同じ感想だ。つまんない。
前回、2度寝たのだけれど、最初の睡眠はそんなに長くはなかったみたい。2度目の睡眠は、病院とフェリーの部分の大半だから、ちょっと長かったかも。で、今回も後半の、フェリーの辺りから眠くなって弱った。だってつまんないんだもん。
で、巷間いわれているメッセージetcについては、確かに描写されてはいる。がしかし。大半はジョーカーがセリフで語ってしまっているのだよなあ。バットマンに対する市民からの批判なんか、あまり描かれていない。バットマンの素顔を見せないと市民が死ぬ、といいつつ、そんなに犠牲者はでていないし。それに、本来ならジョーカーに向けるべき批判をバットマンに向ける市民、という設定も、ちょっと変だよな。いや、そもそも、ジョーカーがバットマンに対して恨みをもつ理由が、そんなに描かれていない。わざわざ「素顔を見せろ」といっている理由も分からない。バットマンにしても、それじゃあちょっと鳴りを潜めていよう、と思えばいいだけの話。法律に則らない正義の活動といっても、市民からの非難がない時代は、むしろ歓迎されていたんだろ? なんか、無理矢理テーマ性を持たせているみたいで、すんなり入って来ないよね。
ジョーカーは、仲間を殺すことで有名…なのに、次々と子分になるやつがでてくるのはなぜなんだ? 警察内部にも子分がいるほどのメリットは、なんなんだ? と思ってしまうと、もう話がバカバカしくなってくる。
ゴッサムシティのマフィアと中国企業の関係が、やっぱりよく分からん。マフィアの金を、マネーロンダリングしているってことか? 冒頭のシーンは、マフィアがマネーロンダリングのために銀行に入れていた金を、ジョーカーが盗んだ、みたいにも見えたんだけど。なんか、よくわからんねえ。
ゴッサムシティは、アニメのように世間から隔離されている町だから、悪人もぞろぞろでてくる。そして、退治しようとするやつもでてきたはず。ところがクルマや飛行機で行き来が可能、と思ってしまうと、話が不自然になってくる。あんな悪党、FBIやら州兵を動員すれば、簡単に捕まえられるだろ、とか思えてしまう。バットマンに「うちの街にも来て!」と全米からの声が殺到するに違いない。と、見えてしまう。そうなってはいけないから、あくまでもゴッサムシティは閉じられた町であるべきなのだ。あんなスーツを着て町をうろうろしてても不自然に思わないようにするには、架空の閉じられた町である必要があるのだよ。…と、強く思う。
他にもブルース(=バットマン)は、中国へ行くのに、自家用飛行機で飛んでいけないの? わざわざクルーザーから海に飛び込み、韓国人が用意した飛行機に乗っていくなんて…。素手で銃口をひねり曲げてしまうバットマンなのに、チンピラ相手に手間取るのはなぜなんだ? 転倒して気絶したバットマンは、どうやって回復したのだ? とか、意味不明な部分が多すぎる。この映画は不自然に過大評価されているとしか思えんね。
それから。この映画を「テンポがいい」なんていってた人がいたけど、俺にはだらだら間延びしているようにしか見えないね。もうちょいつまんで、接続詞になるような映像を挟んでいった方が、分かりやすくなると思う。いきなり飛んでしまって、なんで? と思うこともしばしばだったぞ。
さよなら。いつかわかること8/29ギンレイホール監督/ジェームズ・C・ストラウス脚本/ジェームズ・C・ストラウス
原題は“Grace Is Gone”。グレースというのは、奥さんの名前。
イラクに派兵された妻が戦死。夫は娘たち(13歳と8歳)にすぐ言えず、数日間、一緒に旅に出るというだけの話。意図は分かるのだけれど、ちょっと引っ張りが弱いというか、ミエミエなところがありすぎかも。主演のジョン・キューザック自身が製作者で、音楽にイーストウッドが参加しているなんて、現政権への批判がモロでているのではないの?
父親は40歳ぐらい。ホームセンターの店長だから、大学もたいしたところを出ていないのかも。高卒かも知れない。近眼なのに視力表を暗記してまで軍隊に入りたがった、という、南部辺りにいそうなアメリカは正しい世界を救うのはアメリカだ、と思っていそうな共和党支持者かな。そのうち近視がばれて除隊。その前にブートキャンプで、これまて高卒で軍隊に入った女性と知り合って結婚。愛国者の夫婦ってワケだ。で、妻の方にイラク派兵命令。で、戦死の報告が届く。事実を娘たちに告げられない父は、妹の「遊園地へ行きたい」をそのまま実行に移す。
なんだかちょっと情けない父親だ。愛国者なら堂々と「おまえたちの母は、正義のために殉じた」といえばよさそうなのに、そうできない。ひょっとしたら、心の片隅でイラク派兵への「?」があるのかも知れない。とくに、姉の方がテレビのニュースを見て「イラクは間違ってたっていってるよ」なんてぬかすと、「テレビのいってることを信じるな。自分で考えて判断しろ」なんていう。なんか、説得力がない。遊園地への途中で立ち寄る実家でも、共和党も民主党も信じていないような、リベラルな考えの弟がいて、「子供たちにちやんと言え」とキューザックが言われたりする。それにも、「何が分かる!」と反論はするけれど、その反論に力のないことがはっきり分かる。
とまあ、これまでアメリカを支持してきた層にも、ブッシュ離れ、共和党離れがでてきているよ、というようなことを示唆していく。なんかもう、アメリカの大統領選における反共和党運動のためにつくられたみたいな感じがする。それでも、こういう映画がつくれるというところに、アメリカの自由主義の懐の広さがあるのは事実だろうね。
それにしても、事実を言い出せずに延々とクルマで旅する父娘は、なんかやっぱり情けない。現実逃避しているだけではないか。しかしまあ、表だって反ブッシュを言い出せない人たちにとっては、こういう後ろ向きの表現しかできないのかも知れないけどね。でも、こうやって自分の家族を失われないと、自分の問題としてアメリカの行動を客観視できない人も、たくさんいるんだろう。強かったアメリカへの幻想が、いまだに強いって言うことかも。そういう環境から、キューザックの弟のような考えの人も出てくるんだろう。それが、多少の救いなのかな? でも、結局そういう人たちは田舎を捨て、教養人として都会で生きていくわけで、田舎の人たちの考えは基本的には変わらないんだろうなあ。…変わっていくのかなあ。変わっている、と映画はいいたいんだろうけど。
ロードムービーの中でのエピソードがちょっとつまらなくて、あってもなくてもいいようなものが多かったりする。もうちよい脚本を練って、つたわってくるようなエピソードにして欲しかったかも。

 
 

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