2008年9月

ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝9/1MOVIX亀有シアター3監督/ロブ・コーエン脚本/アルフレッド・ガフ、マイルズ・ミラー
原題は“The Mummy: Tomb of the Dragon Emperor”。なんかちょっと、つくりが雑な感じがしたんだけど。CG合成やアクションシーンも、ちょっとタイミングが変、みたいに感じるところがいくつかあった。もしかして、やっつけ仕事?
ヒロインは、レイチェル・ワイズから、かなり年季の入った顔立ちのマリア・ベロへ。なんで? と思っていたら、なんとブレンダン・フレイザーは50歳以上で、20歳ぐらいの息子がいる設定だった。そんなババアの役は、レイチェルではできない? そんなことはないだろうけど、若すぎるブレンダンにババア顔のマリア・ベロのカップルは違和感あり過ぎだ。それにしても、冒険家の息子がまた冒険家…って、「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」と同じじゃないの。どっちが先か知らないけど、なんか安直だね。
話はとてもいい加減。突っ込み所が多すぎて、なにもいうことはない。なんでか知らないけれど、一行がシャングリラへ入った辺りから眠くなり、ここでの闘いのシーンは朦朧としつつ、ふっと少し居眠り。ま、大勢に影響ないからいいけど。
2000年前の中国の皇帝って、何の国だった時代か知らないけど、なんでああいう皇帝が甦ってくるのかよく分からん。で、その皇帝が惚れる相手というのが、魔術使いの女なんだけど、これがまたただのババアで、部下の将軍と争うようないい女じゃないのだ。これが大きな欠点だね。さらに、将軍と魔術使いの女の間にできた娘というのが、これまた可愛くない。つまり、いい女が全然でてこないのだ。これじゃ萎えるよね。
話がおさまっても、全然腑に落ちない。やっぱ、前提となる設定がちゃんとしてなくて、なんかテキトーにミイラをだして、あとは冒険活劇でイケイケやっても、合理性に欠けていては説得力はないよね。もう、このシリーズもこれで終わりに違いない。登場する息子も目つきが悪く、とうていヒーローにはなれそうにない顔立ちだったしね。
セックス・アンド・ザ・シティ9/1MOVIX亀有シアター4監督/マイケル・パトリック・キング脚本/マイケル・パトリック・キング
原題もそのまま“Sex and the City”。「ハムナプトラ」のあと遅めの昼食を摂ったので、これはもう寝るに違いないと思っていたら、まったく寝なかった。いろいろと興味深かった内容だったからではないのかな。
人気テレビドラマの映画版らしい。映画の冒頭に登場人物のその後がフラッシュで紹介されるのだけれど、テレビ板を見ていないので何が何だかわからない。加えて隣のバカップルが気になって…。でも、テレビを見ていなくても、関係なく映画は楽しめる。たぶん、テレビ続編とはいいながら、違う生き方を見つける女たちの話になっているからだと思う。
登場する仲好し女4人組は、ブランドものといい男を求めて青春→30代を謳歌したみたい。10年も同棲をつづけているキャリー。ロスで若いツバメと同棲するサマンサ。結婚して中国人の養女をやしなっているシャーロット。結婚生活にマンネリ気味のミランダ。でも、この4人のプロフィールが分からず(冒頭で説明があったのかも知れないが、速すぎて分からなかった)、いったい彼女たちは何で食っているのか、頭をひねりながら見ていた。後半に、キャリーは作家であることが分かった。最後の方で、ミランダが弁護士だと言うことが分かった。あとの2人は最後まで分からず。食わせて貰っているのかな? なんて思いつつ見ていた。4人の描写の中に、仕事をしている瞬間というのが、ない。それでも話を引っ張っていってしまうのだから、それはそれでいいのかも知れないけど、テレビを見ていない客のために、ちょっとぐらいは仕事の部分を挟んでいってもよかったかも。
軸になるのは、同棲中の彼との結婚話。これがまた、女の馬鹿さ加減がみえておかしい。新しい言えに引っ越すのをきっかけに「もうそろそろ」と雰囲気で結婚を決めてしまうのだけれど、キャリーの方はひとり舞い上がっている。招待客もはじめは75人だったのが、いつのまにか200人越え。飾り気のないドレスでいい、といっていたのが、豪華なドレスになる。おどろいたのは結婚式の前夜祭なんていうのがあって、客をたくさん呼んで騒ぐということ。アメリカ人は教会で質素な式を挙げるだけ、という概念が大きく崩れていく。なんか、バブル期の日本を見ているようで、恐ろしい。こういう経過を、彼氏の方は苦々しく思いつつ、キャリーの好きなようにと見ていたんだけど、結婚式当日になってふと悩む。キャリーに電話するも、キャリーは携帯から離れていてでられない。この行き違いから、彼は結婚式場から離れていってしまうのだけれど、このちょっとした行き違いはなかなか面白い。彼としては、式の豪華さなんて関係ないのだ。キャリーの気持ちを確かめられれば良かった。それで安心して、我慢して式に臨んだことだろう。だけど、キャリーは浮ついてしまっていて、そういう男の気持ちがまったく分からない。挙げ句に喧嘩して、式は中止。落ち込んだキャリーは引きこもってしまう。この過程を見るにつけ、女のワガママ自分勝手がよく見える。私が主役の結婚式を、みんなに見せびらかしたいのだなあ、と。でも、もうキャリーは40歳なんだぜ。
サマンサは、ロスに住んでいるらしい。恋人はかなり年下。サマンサも40歳ぐらいかと思っていたら、あとから50歳だと分かる。げげ。この年でセックスに狂っている女って…。寿司の女体盛りをして彼氏を喜ばそうとしたり、隣のイケメンのチンボコに憧れたり、どーも生臭すぎ。で、彼女の仕事は何か知らないが、ことあるごとにN.Y.にやってきて、他の3人とつるんでイケイケしたりする。50歳のババアだぜ。年を考えろ、てな風に思うよなあ。最後は若いツバメを切って捨ててしまうし。こうやって、また新しい男を漁るのかい? うーむ。若いツバメは、サマンサの金を目当てに相手してくれていただけではないの? という感想しか抱けなかった。
いちばんドラマがなかったのがシャーロットかな。子宝に恵まれ、養女に加えて自分の子供を産むのだから、なんか、いちぱんまともに見える。個人的に言うと、4人の中でもっとも可愛い。あとの4人は、すでに旬を過ぎたオバサンにしか見えなかった。
ミランダは、あとから弁護士だと分かるのだけれど、弁護士があんなに遊んでいられる分けがない。ま、ドラマだからしょうがないけど。で、亭主との夜の営みには興味がなく、「速く済ませて」なんてことをいう。さらに、むだ毛処理もしていなくて、水着からハミ毛状態なのを他の3人から指摘されても「しょうがないじゃないの」なんて言ったりする。そのくせ、亭主が「一度だけ浮気した」と告白すると、即別居なんだからなあ。自分を棚に上げて、こんな女は願い下げだよなあ。ただでさえババア顔で生活やつれがひどい顔をしているのに…。
というような塩梅で、どうみても素敵な女は登場しない。せいぜいシャーロットぐらい?
しかし、アメリカにおける男の地位は、低いのだね。キャリーの彼氏はキャリーに謝るために苦労する。ミランダの亭主なんか、バレてもいないのに自分から告白して妻に嫌悪され、何度も謝って最後の最後に許される。そんなことまでして、あんな彼女や妻と一緒にいたいのかねえ。これはやっぱり、キリスト教的な考え方が浸透しているから? 股にハミ毛でババア顔の妻を抱いてやるだけでもボランティアのような気がするけどなあ。なんかどーも、男がだらしない。というか、女の言いなりになんかなるなよな、という気分になる。
ブランドもの信仰は、日本の専売特許化と思っていた。若い娘がブランドものをもっていることに、「海外ではあり得ない」なんて口調でいう文化人もいたりしたけど、この映画を見るとそうでもないじゃないかと思える。だってキャリーが雇った黒人のアシスタントは、レンタルもののブランド品を愛用している。しかも、本物のブランド品をキャリーに貰って狂喜乱舞している。一点豪華主義であっても、ブランド信仰はアメリカにもあるじゃん、という新発見。日本の女の子と、変わりないじゃん。
というように、相変わらずのブランド信仰、遊び人の女たちの話かと思いきや、最後はブランドではない生身の自分を発見していく、という、よくあるパターンで終わる。ま、さんざん遊んだんだからいいじゃん、とは思うのだけれど、ね。40歳になって、もうオバサンなんだから、年相応の生活をしなさいよ、だね。もっとも、みんな金だけはある職業のようなので、一般人の暮らしとは関係のない世界に住んでいるのは変わらないとは思うけど。でも、装うことより、やっぱり中味だよな、という終わり方にでもしないと、誰も納得しない?
というように、映画としてはとくにどーということはないのだけれど、いろいろ考えるところのあるストーリーで、かなりの尺(2時間24分)なのに飽きなかった。もちろん、共感できるような人物は誰ひとりでてこなかったけどね。
隣のカップルが、気持ち悪かった。ポップコーンをがさがさいわせる。男は食べ終わると歯をチューチュー。「う、ううーむ」なんて声をだしたり。そして、ことあるごとに女に感想を言ったりする。こんなバカがいまどきもいるのだよなあ。文句をいおうと思ったけど、あんまり近いので、逆襲されるとコワイし、映画にも集中できなくなるのでやめておいた。
言えない秘密9/4新宿武蔵野館2監督/ジェイ・チョウ脚本/ジェイ・チョウ、トー・チーロン
冒頭の、男子生徒シャンルンが女生徒シャオユーを呼び止めるシーンで、別の友だちが振り返る、という演出をしている。これで、ああ、シャオユーは他の人には見えないのだな、と分かってしまう。で思ったのは、幽霊。古い教室に未練を残して死んだシャオユーが現れているのだ、と。しかし、その後、シャオユーの存在は周囲にも見られている、というような演出になっていく。あれれ…? で思ったのが、シャオユーはシャンルンの妹説。両親が離婚して別々に住んでいるのかな? と。でも、2人はシャオユーの家の屋上でキスをする。ん? やっぱり幽霊か?というように、いろいろ振り回してくれる映画だ。その意味で、そこそこの意外性がそこそこの数あって、引っ張りは強いと思う。
テイストは、日本のコミックみたいな感じ。芸術系高校(一瞬、大学かと思ったけど、ちがうと思う)の音楽科の生徒が主人公。最初の方には同級生とのピアノ合戦があったり、クラスメートも登場するのだけれど、後半になるとほとんどなくなってしまう。これはちょっともったいない。もっと同級生を活用するような脚本にすればよかったのに、と思う。結局のところ、ピアノがタイムマシンで、1999年(だよね? 違ったっけ?)のシャオユーが現代にやってきて、シャンルンに出会うという話。しかし、色々舌足らずの部分がある。タイムトラベルのきっかけとなったピアノの来歴は? ピアノに隠されていた楽譜(この曲を弾くとタイムトラベルできる)は誰が隠した? なぜシャンルンにはシャオユーが見えるのか? なぜ2人は運命的に結ばれているのか? といったことはほとんど説明されていない。なので、意外性のある展開はさておき、なるほどね、といえるまでの説得力には欠けると思う。もうちょっと練り込めば良かったのにね。もったいない。
で、いったんは過去にもどったシャオユーが、再度、現在にやってくる。その姿を見て、今度はシャンルンが過去へ行くことになるのだけれど…。で、結局のところシャオユーは生きているのかい? 過去に行ったシャンルンも生きているの? 生きているなら、現在もどこかにいるはずだけど、どこにいるの? というか、2人は過去を変えてしまったのだから、現在の人物関係に変化が生じているのではないのかなあ。
そして、ラストのカットに、卒業写真が登場するのだけれど、アップされたところにいたのは、あれは誰? あのおかっぱ頭の少女は、シャオユー? え? あれ? 西暦が1979年(ちがったっけ?)ってなってなかった? うーむ。なんだかよく分からない最後であった。
2人のピアノ演奏があるんだけど、吹き替えではなく自分で手を動かしているのが凄い。音は、別の人のものかも知れないけど、指はちゃんと合っているのだよ。
落語娘9/4新宿ミラノ2監督/中原俊脚本/ 江良至
想像以上のいい映画だった。いちばん興味深かったのは末広亭の内部で、前座の太鼓と下座の様子が見られたこと。って、まあ、それは本来オマケなんだけどね。ミムラの演じている気っぷのいい前座娘がとてもいい。元気はつらつ、打たれ強くて負けん気が強く、芯の通っている姿が好ましい。芸熱心なところもいい。一方、この映画の本筋である、師匠が封印噺を演じる、という部分についてはあまり面白くなかった。とくに、噺を時代劇で描写する部分はつまらなかった。その封印噺というのが、さほど凄まじくもなく、面白くないのも一因だと思うけどね。
女の噺家は、いまじゃ少なくない。だから、映画みたいにバカにされてはいないと思うんだけど、映画では人間扱いされていない。ただし、セクハラはかなりあると思う。まあ、映画は誇張しているとは思うけどね。でも、落語好きの僕にはいろいろ想像できる部分が結構あって面白かった。三々亭平佐と香須美の師弟は、川柳川柳とつくし師弟にも見える。平佐の破滅的なところは、ちょっと談志も入っているかも。正統派の三松家柿紅は、円生か志ん朝みたいにも思えた。その柿紅が企てている東西交流は、志の輔や正蔵が進めている5人の会のスケールアップ版か。幹部を親にもつ生意気な前座は、きくお(現木久蔵)か? そんな想像をするだけでも楽しい。
ミムラの香須美はどう見ても美人だ。あんな女流噺家は、いない。なので、女の弟子があんなすけべ師匠の家に住み込んでいる、というのがありえないよね。それから、演者の名前が書かれるべきめくりに演題が書かれていたり。いくつか変なところはあるけれど、まあ、映画だから。少し誇張があっても、許してあげよう。
気になったのは、セリフ廻しでいくつか変な言い方があったこと。もうちょっと自然な言い方があるんではないの? なんて思いながら見たところがいくつかあった。
しかし、本当は正統派の柿紅に入門したかったのに断られ、平佐に入門してもなお柿紅に心酔している弟子に注ぐ温かい眼差しは、素晴らしい。ちょっとテレビに出たから、派手なことをするからといって教会を除名する、という柿紅の見解は「?」だし、封印噺を演じきったとたん、「あれはよかった」とすり寄ってくる柿紅の手のひらを返すような態度も「?」だったりする。ちょっと流れに説得力がなかったかも、
最初の頃、セリフがかぶったりして聞き取りにくかった。それに、落語を知らないと分からないような言い回しもどんどん入れ込み、早口でしゃべらせているのは、ちょっとどーかな、とも思った。まあ、知らないとまったく楽しめない、というわけでもなさそうなので、知っている人は深いところで笑ってください、ということなのかも知れないけどね。
でも、ミムラのちゃきちゃき娘はよかった。公園で練習しているところも良かった。もっとも、新内だか小唄は調子が外れていたけど。ミムラの落語は、まあ、あの程度の前座はたくさんいるから、フツーかな。津川雅彦の落語は、そんなに上手ではない。地話風の説明部分が多く、人物を描写する部分がほとんどない。意図的にそうしたのかも知れないね。子役の香須美が、落語好きの叔父さんのために病院で「景清」を演じるところは、なかなか泣かせる。
ハンコック9/5上野東急監督/ピーター・バーグ脚本/ヴィー・ヴィンセント・ノー、ヴィンス・ギリガン
原題は“Hancock”で主人公の名前。
スーパーマン的な力をもつ男がいて、名前はハンコック(ウィル・スミス)。彼のことはみんなが知っている。ときどき悪党を退治したりする。しかし、建物は壊すは地面は削るなど意味なく破壊して市民から毛嫌いされている、という設定。
「ダークナイト」と同じ様な設定だなあと思った。あちらのバットマンは義務感・正義感が強く、大衆への影響力も十分に配慮している。自分がいるせいで、他人に迷惑がかかるのを恐れつつ、それでもジョーカーとの戦いを諦めるつもりはない。一方こちらのハンコックは、気分は人助け。正しいことをしたんだから、少しぐらい周囲に迷惑をかかってもしょうがないだろ、というスタンス。どっちにリアリティがあるかというと、ハンコックだと思う。そもそも、世の中にジョーカーのようなヒールは存在しない。もし存在したとしても、相手は個人ではなく国家的犯罪者であるとか為政者だったりして、戦争規模で相手を追いつめてもクレームがつかない存在に違いない。たとえばフセインとかビン・ラディンとか、そんな存在だろう。だから、バットマンにおけるジョーカーのような悪は、想像の世界のものだ。ところがハンコックが相手にするのはチンピラやくざだったり、悪の存在とは無関係に発生する天災や人災からの救出だったりする。つまり、われわれの住む社会のリスクそのものズバリである。
ハンコックの言い分も当然のところがある。危機と戦っているのに、周囲に気を使わなくてはならないなんて、面倒くさい。器物を破壊しないで救出するのは手間がかかるし、時間もかかる。ハンコックにとっての優先順位をつければ、器物破壊より危機回避なんだろう。それなのに、周囲はハンコックを「くそ野郎」とバカにする。これじゃやってられない、と思うのも当然だ。「ダークナイト」におけるバットマンの葛藤にリアリティがないの比べ、ハンコックの葛藤にはリアリティがあると思う。
日本の怪獣映画やヒーロー物では、暗黙の了解というのがある。ウルトラマンが怪獣をやっつける時に発生する周囲への破壊活動はムシする、というものだ。画面を見ていると建物や送電線は破壊され、格闘の後の街はボロボロに違いないと思わせる。では、その復旧活動については誰が責任を取るのだ? だれが資金をだすのだ? ウルトラマンは地球の危機を救ったかも知れないけれど、その過程で死んでいる市民だっているんじゃないのか? というようなこと。こういう問題に、この映画は目を向けさせていると思う。スーパーマンなんかのヒーローは、現実のところ、こんな感じなんだぜ、というわけだ。その意味で、「ダークナイト」のバットマンは、きれいごとの上に立った葛藤を重苦しく描いただけで、ほとんど説得力がない。それに比べ、軽い内容に思えるこの映画は、かなり本質に迫っていると言える。もっとも、前半部分だけだけどね。
後半の展開には驚いた。予告はよく見ていなかったので、シャーリーズ・セロンがでているとは知らなかった。しかも、90年前に記憶喪失にかかったまま、という設定のハンコックが、実は紀元前からの存在で、セロンとペアの関係だった…なんて展開には、おおおお、となってしまった。セロンも超能力者で、でも、それを隠して普通の主婦としておさまっていたっていうのだから!
もともとハンコックやセロンがどこからやってきた存在か、なぜ存在するのか、他にも同様の力を持つ存在がいるようなのだけれど、その連中は? といったことには最後まで触れない。ここが弱いところで、突っ込み所になっている。たとえば、のちに明らかになるんだけど、ペアの関係(夫婦)なのに、2人が接近すると超能力が消えていく、っていう設定はあまりにも突然で、なんのことやらよく分からない。ちょをっといい加減すぎないか、とも思ったりする。それに、セロンがわざわざ一般人の妻になっている、というところも「なんで?」と、その意図に首をひねってしまう。この辺りの突っ込み所が解消されていたら、もっといい映画になったのではないかと思ったりするのだが、どうだろう。
冒頭にどかどかでてくるハンコックの活躍。そのすべてが、ちゃちい。CGも大概にしないと、イメージが悪くなるだけではないかと思う。だってスリルも迫力もないんだもの。
デトロイト・メタル・シティ9/5テアトルダイヤ監督/李闘士男脚本/大森美香
「デトロイト・ロック・シティ」という面白い映画があったけど、タイトルはあれを引きずっているのだろうな。ま、コミックが原作らしいので、そっちが引きずっているのだろうけど。
話は単純で、ニューミュージック系の歌手になりたかった主人公が、どういうわけかヘビメタ悪魔系のスターになってしまっていて、その矛盾に自己分裂を起こしかけているという設定。対立軸が明確だから、まつわるエピソードも対立軸に合わせて振れ具合を調整すればいいわけで、話を面白く持って行きやすいはず。主人公を設定し終えた時点で、これはもうアイデア勝ちだな。
しかも、松山ケンイチが陰と陽を上手く表現できる役者だから、もうイケイケ。コメディとしては日本でも最高レベルに達しているのではないかと思う。ただし、加藤ローサとデートして、バイトがあるからとステージと茶店を行ったり来たるするところとか、自己嫌悪に陥って店舗のガラスに拳をがんがん打ち付けると、中のビアノ教室にいた少女が怖じ気づく、といったギャグはあまりにも定型で、米国コメディでは使い古されたもの。ということは、欧米コメディをなぞったものとも言えるわけだけれど、でも、その結果が笑いにつながるのだから、ま、いいか。こういうカラッとしたギャグが、ウェットな日本には丁度いいのかも知れない。
現実的に考えたら時間的にムリ、とか、あの格好でどうやって街を歩いてきたんだ! といったツッコミはヤボというもの。話の象徴的な部分をさらに強調して描いているのだから、あれはあれでいいのだ。
がしかし、最後の外国のヘビメタバンドとのバンド合戦の部分は、ちょっと退屈。だからどうした、のレベルだよね。しかも、外国のバンドのギターになると、こっちの方が音に厚みがあって、迫力たっぷりだったのが笑わせる(あの海外のバンドは本物なの?…KISSのジーン・シモンズだったらしい)。あれで日本のバンドが買ってしまうというのは、ありえねー! だよね。
ちょっと欲をいうと、どうしてヘビメタバンドになってしまったのか、という部分をフラッシュ的でもいいから絵で見せて欲しかったと思う。あと、セリフが聞き取りにくいのが難点。
クレジットを見たら、岡田義徳とマーティ・フリードマンの名前があったんだけど、どこにでていたのだ?
幸せの1ページ9/8上野東急2監督/マーク・レヴィン、ジェニファー・フラケット脚本/マーク・レヴィン、ジェニファー・フラケット、ポーラ・メイザー、ジョセフ・クォン
原題は“Nim's Island”。「ニムの島」。ニムというのは主人公の少女の名前だ。
とても面白かった。タイトルからロマンチックコメディだろうと思っていたのに、なんとこれがファンタジック・コメディ・アドベンチャー。展開もリズミカルでテンポよく、笑いもたたくさん。アラを探すヒマもなく、あっという間に終わっていた。
南海の孤島に住む父と11歳の娘ニム。大都会の屋敷に住むアドベンチャー作家アレクサンドル・ローバー(ジョディ・フォスター)。この2人がインターネットでメールをやりとりする…というわずかな接点から、思わぬ話に展開する。内容は子供向け、といっていいと思うんだけど、日本ではそういう位置づけではないみたい。夏休みに公開すればよかったのにね。
あり得ない、という設定はかなりある。でも、そういうのはいいんだよ、この映画では。ファンタジーなんだから。ペリカンが人間の心を読めたり、アシカやトカゲがペット状態になっているのも、これはもうアニメの一歩手前みたいなもの。そもそも、アレクサンドルが創造した小説の主人公、アレックス・ローバーまで登場しちゃうんだから。
外出恐怖症のアレクサンドルが死ぬ覚悟でニムを助けに行くのだけれど、その過程がもうホントに死にそうなぐらいにハードなのがおかしい。最後、アレクサンドルと、遭難から戻ってきたニムの父親が結ばれそうな思わせぶりがあるけれど、これはちょっと強引かも。なんか伏線をひとつぐらい張っておくべきだったかもね。
冒頭とラストのイラストはとても素晴らしい。それにしても、タイトルがよくないよね。イメージと内容がぜんぜん違うって!
グーグーだって猫である9/9新宿武蔵野館1監督/犬童一心脚本/犬童一心
うーむ。だからどうしたってな映画だなあ。散文的で、起承転結というか、ドラマらしいドラマもない。どこにも引っかからない。といって雰囲気で盛り上がるようなものにもなっていない。つっこみ具合が中途半端で、なにも訴えてこないぞ!
主人公の漫画家は、大島弓子自身なのかな。原作もそうなっているし。自分の体験を描いた、エッセイ風のマンガなのかな? ネコ映画かと思いきや、そんなにネコを可愛く撮っているわけでもない。かといって小泉今日子(漫画家)を魅力的に描いているわけでもない。どこかを目指して何かをするとか、何か事件が起こるというような気配もない。…唯一、得体の知れないサングラス男が写真を撮っていたのだが…。というわけで、1時間経っても話が転がっていかないので、眠くなってきた。で、10分ぐらい就寝。気がつくと、小泉今日子がアシスタントの上野樹里に「卵巣がんだって」と告白しているところだった。おやおや。これから闘病物語になるのか。そして、最後はネコに見送られて…? と思っていたら、手術が終わるとしばらくして元気になり、それきり病気のことには触れない。うーむ。
寝ている間に、加瀬亮が演じる得体の知れない青年は医者として登場していた。サングラス男の正体は、寝ている間に判明したらしい。いったい、どういうことだったんだ? まあ、いいけど。それにしても、漫画家と加瀬は、結局、何もなかったのね。では、どういうつもりで青年は漫画家に接近したんだ?
ときどき挿入されるマンガの意味がよく分からん。大島のマンガなんだろうけど、断片的すぎて何が言いたいのか分からない。それと、年に一作しか描かない漫画家のアシスタントなんて、そりゃもう専属ではない臨時応援部隊みたいなもんだろ。それが4人も漫画家の周りをうろうろしているのが理解できない。アシスタントの上野樹里が、発売された漫画家のマンガを見て感動するシーンが2度あったけど、不自然。だって、自分で描いているんではないの? アシスタントとして。描いているときと、発売されたものを読むのとでは違うって? それなら、そういう具合に表現しないとね。
吉祥寺の風景がたくさんでてきて、最初のうちは楽しんでいたけど、すぐ飽きてきた。特別協賛らしき花王の製品「ニャンとも清潔トイレ」をしっかり写していた。あそこまで大写しにしてやる必要はないんじゃないの? それほど資金を提供されているの? 角川が資金をだしているからといって、角川角川とセリフで連発し、社長も何度もでたり、うっとーしー。
美しすぎる母9/11ギンレイホール監督/トム・ケイリン脚本/ハワード・A・ロッドマン
原題は“Savage Grace”。野蛮な品位、みたいなことかい?
で。よく分からない映画だった。なんなの? これ。である。
ある青年(アントニー)の、生後すぐからの年代記でつづられていく。幼児期、少年期、青年期…。美しすぎる、とは必ずしもいえないジュリアン・ムーアが母親なんだけど、どうもいささか俗物的な感じがする母親だ。教養がないことを恥じたりしてもいる。父親の家系は成金で、祖父がベークライトを発明したことで大金持ち。働かずに暮らせることが自慢らしい。で、両親ともに社交界の賭場口には立っているけれど、本当の貴族階級と接していないのが悔しいみたいな様子がうかがえたりする。
青年のアントニーは、あるとき海岸でスペイン系(?)の女の子と知り合って、寝る。でも、なんかぎこちない。それはきっと、あとから分かるんだけど、ホモだったからだ。で、その彼女を、なんと父親にやってしまうのだから、変なの。その結果、母親は捨てられてしまう。その腹いせに、タクシーの運ちゃんとモーテルに行ってしまうのだけど、バカじゃないのか? この母親は、と思う。息子は、両親が元の鞘に収まるよう期待しているみたいだけど、母親が自殺未遂。挙げ句に母親は、とうとう息子と禁断のセックス! 母親の「いった?」に息子が「いかない」。「じゃあ、いかせてあげる」と手でいかせる母親の哀しさよ。
で、なぜかは知らねど息子は母親を刺し殺してしまう。映画はこれでおしまい。最後にクレジットで、息子は刑務所を出てすぐに母方の祖母を殺し、再度入った刑務所でビニール袋をかぶって自死したとつたえる。だからなに? なんか、どこにも引っかかるところがない映画だった。
説明がいろいろ足りないと思う。家族をめぐる人物はたくさんでてくるのに、それぞれがどういう人物でどういう関係があるのか、なんてことはほとんど描かれない。ある時代に、こういう人が周囲にいた、ぐらいしか分からない。だから、母親が壊れていき、息子も壊れていく過程に、ぜんぜん重みも深さも感じられない。だから、なに! だよね。※どうやらこの話は事実に基づいているらしいが、祖母殺しや自殺シーンまで淡々と冷徹に描いた方がよかったんではないの?
悲しみが乾くまで9/11ギンレイホール監督/スサンネ・ビア脚本/アラン・ローブ
原題は“Things We Lost in the Fire”。火事で失ったもの…っていうのは、映画の中ででてくる。自宅のガレージが火事になって、思い出の品をいくつか失ったのだ。夫は動揺ひとつしない。妻がどうして? と聞いたら、「なくなったのはモノだ。俺たちはこうして生きているじゃないか」と返事をした。しかし、夫の死後、ずいぶん経ってから、夫の部屋から失ったモノをリストアップしたメモが出てくる…というエピソードにちなんでいる。
これもまた、ひきつづいて、よく分からない映画。いろいろ中途半端で、何がいいたいのかよく分からない。
最初の20分ぐらい、時制が分断されて提示される。冒頭はプールで遊ぶ父親と子供。次に葬式、家族の語らい…といった具合で、「なんだろう?」と見る側に緊張感を与える。で、父親が暴漢に殺され、残された家族の話だと分かった。では、この家族の再生の話なのだな、と思いきや、軸がずれていくのだ。
父親=夫の友だちに、ベニチオ・デル・トロ。ちょっとむくみ気味だけど、相変わらず濃いね。母親=妻に、ハル・ベリー。相変わらず美しいね。
妻は、夫が死んだことを受け入れれることができない。葬儀の当日、ふと思い出す。夫の子供のときからの友人(ベニチオ・デル・トロ)に夫の死を伝えていなかった、と。友人はヤク中だったけど、夫は親身に面倒を見ていた。でも、妻はこの友だちが嫌いだった。盗み癖があると思いこんでいたからだ。その疑いが晴れると、妻は、家のガレージを彼に提供する。回復し、労働意欲をとりもどす友人。でも、家族の中で友人の存在が大きな位置を占めるようになると、妻は友人を追い払う。追い払われて、またまたヤク中に逆戻り、っていう展開がなんだかご都合主義というかテキトーさ満開で、説得力が全然ないのが困ったもの。その後の、妻が友人を捜し出して禁断症状から救い出し、回復させる過程は「だったら追い出さなきゃよかったじゃないか」と思うだけ。回復した友人は、自律するためにガレージを出て行くんだけど、やっぱりなんだかよく分からない変な映画だった。
寡婦が、いくら知り合いだからとガレージを改築して住まわせる、ということ自体に不自然さがある。それゃあんた、男が欲しいからでしょ、と思われるに違いないじゃん。しかも、いつも亭主にそうして貰っていたからと、友人をベッドに誘い、耳朶をいじって貰って寝る、というのは、ありかね? その時点で関係はなかったとしても、いくらなんでも2人は関係するようになった、とみるのがフツーだよなあ。なのに、映画の設定は、夫を忘れることができない寡婦、なんだよね。変だと思うがねえ。それに、ちいさな子供たちも、「ママと一緒に住んでよ」って言うぐらい、家族の一員としてなじんでいるんだろ? なのに、出て行けはないよなあ。と、素直に納得できない箇所が多々あって、どーも、しっくりこなかった。それに、後半の麻薬からの脱却部分が強すぎて、夫の影を忘れられない妻、という当初のモチーフの占める割合が小さくなってしまったのは、もったいないと思う。友人には、麻薬脱却サークルで知り合った娘の存在もあるのだから、妻と友人との接近、というのをあんなに強く描く必要はなかったんじゃないのかね。
夫は白人、妻は黒人。2人の子供はハーフ。夫の友人はラテン系と、人種が入り混じっているのが面白かった。こういう家族・友人関係というのも、ごくフツーに見られるようになってきた、ということなのだろうか。
パコと魔法の絵本9/17109シネマズ木場 シアター2監督/中島哲也脚本/中島哲也、門間宣裕
ちょっと寝不足状態で行った。なので30分過ぎに、ふっと睡魔に襲われ、5〜10分ぐらい意識が飛んだ。目は開いていたような気がするんだけどね。それで、気がついたら役所広司がパコに同情して涙を流しているところだった。あんなに意地悪だった役所が、どうして心変わりしたのか、その理由を見逃してしまった。残念。
ちょっと寝たとはいえ、映画はよくできていたと思う。「下妻」「嫌われ松子」の中島哲也らしい画面づくりと演出で、とても楽しい世界ができあがっていた。カメラ目線、ベタなギャグ、チープな場面転換、演劇風のセリフ廻し…。こういうのが畳みかけられる最初の20分ぐらいは、とても面白い。
でも、30分ぐらいから本筋の話に入り込み、ちょっと話が地見目で暗くなってくる。たとえば、パコの両親が死んでいるとか1日しか記憶が持たないという、手垢の付いた設定も、ちょっと興ざめだし。演出やギャグも一巡して、新鮮味がなくなってくる。これからの話の展開も、なんとなくおおよそ見当がついてきて、意外性の面も薄れてくる。まあ、しょうがないといえば言えるんだけどね。フツーならこの程度の間延びなら維持できるんだけど、今日の体調では僕の好奇心を掻き立てるまでにはいかなかった、ってこと。
で、後半のヤマ場である芝居の場面では、登場人物がアニメキャラ化したり、生身で登場したりとめまぐるしい。悪くはないけれど、うーむ、だなあ。ほかの盛り上げ方といっても思いつかないのだけれど、安易といえば安易かもなあ…。
それでも、もうすぐ命が尽きるのが役所だと思わせておいて、実は…というのには引っかかってしまった。後から思えば、定番のような引っかけなんだけど。でも、泣かせるところでは、ちゃんとしんみり心に訴えてくるし、よくできていると思う。ただし、子供が見て面白いお話にはなっていないような気がする。やっぱ、大人が見て楽しむおとぎ話、ではないのかなあ。子供を呼び込むためにか下ネタや麻薬なんかの話はないけれど、あってもおかしくないような話だよなあ。テリー・ギリアムっぽく、あぶない世界を描いても、面白かったんではないかな、と思ったりしたのだが・・・。
貫地谷しほり、デヴィ夫人の名前がエンドクレジットにでていて、びっくり。どこにでていた? 主演・脇役クラスでもメイクが凄くて分かりにくいのに(小池栄子なんか、別人!)、もう、端役になったら、ワケがわからんよ。
20世紀少年9/22キネカ大森3監督/堤幸彦脚本/福田靖、長崎尚志、浦沢直樹、渡辺雄介
40席の最小の小屋に、観客4人。平日の昼を挟んで、後半はとても眠かった。寝ちゃえばよかった。我慢したせいで、ずうっと一日中眠くてたまらなかった。
最初の40分ぐらいは、そこそこ面白かったんだよね。1969年の小学生と、1997の大人になった彼ら。同窓会から始まって昔の仲間が再会し、秘密基地に埋めた缶を掘り出す辺りまでは引っ張っていく力はある。一方で、「ともだち」という男の主催する新興宗教に関しては、とくに引きがない。オウム事件を連想させるけれど、「ときめきに死す」なんていうのも昔あったし。新興宗教はそんな珍しいテーマじゃない。そういえば「忘れられぬ人々」なんていうのもあったけど、あれはオウムの後か・・・。まあいい。
堤幸彦の「TRICK」なんか、延々新興宗教で、他のモチーフはないのかと思ったぐらいだから、その堤がまたまた新興宗教を描きたいと思ったのも、不思議ではない。描き方も、土俗的なものではなくハイテクだし、いまじゃ40凸凹だけど昔の少年少女の冒険と謎もからめている、というかもしれない。でも、所詮は新興宗教。その範疇からでないから、意外性はないし、またかよ、という思いの方が強い。緊張感、サスペンス性はまったくない。
王様がキャラになったキングマートというコンビニが登場したり、最初の頃は小ネタも多かった。けど、堤作品にしてはボケが少なく、わりとストレート。なので、いろいろとアラが見えてくる。たとえば、突然、唐沢が指名手配になって地下に潜つてしまうけど、もう少し過程を踏まないと説得力がないだろ。その唐沢、指名手配なのにうろうろしすぎだろ。ホームレス3人も、大した因果もなく登場し、昔少年たちの味方になってしまう。変だろ。羽田空港や議事堂が爆破されて、でも街が不穏な空気に包まれていないのは変だろ。っていうか、どうやって議事堂を爆破できたんだよ! それに、最後に登場するロボット2体。あんなもの、どこで製造され、どうやって移動してきたんだ。さらに、どうやって逃げおおせたんだ? あり得ないだろ、あんなロボットがまんまと逃げてしまうなんて。もう、1時間を過ぎた辺りから、噺は無茶苦茶。ただの荒唐無稽のバカ映画になってしまった。あまりつまらないので眠くなったのだけれど、ミントをなめてかろうじて目は開けていた。でも、目を開いたまま、脳は活動していない期間がかなりあった模様だ。やれやれ。
それに、キャラも唐沢寿明と石塚英彦、常盤貴子、少年ドンキーの4人はそこそこ描かれているけれど、その他の人物がまるで断片的すぎる。豪華に役者を使っていながら一瞬しか登場しなかったり、昔少年のなかでも時々しかでてこない奴もいたりして、感情移入も共感もできない。つまり、全般に人間がひとつも描き切れていない。だから、最後にロボットと戦う9人は、誰と誰なんだ? なんて考えながら見るしかないわけだ。さらに、呆気なく死んでしまうキャラもいる。
結局の所、詰め込みすぎなんじゃないかね。もっと整理して、切り捨てるべきは切り捨てる。原作の浦沢直樹が脚本に名を連ねているけれど、詰め込みすぎになったのは、そのせい? もっと人間を掘り下げれば、もうちょっとましな映画になったのではないかと思う。
インビジブル・ターゲット9/25シネマスクエアとうきゅう監督/ベニー・チャン脚本/ベニー・チャン
原題は“男兒本色(Invisible Target)”。香港映画。話はありふれていて新鮮味はない。けど、アクションがもの凄い。走る、飛ぶ、落ちる、ぶつかる、殴る蹴る・・・。こういうのが、スタントではなく役者本人がやっているように見えるのだけれど、リアル、というか、痛さがつたわってくるようなアクションなのだ。あれで怪我しなかったらおかしい、と思えるほどで、それを見るだけでも価値がある。しかも、そういうアクションが満載なので、飽きない。
警察上層部の人間がギャングとつるみ、強盗・・・。という、その構造は案外とはやく察知できてしまう。だから、インビジブルとはいえないと思うのだけどね。それに、この手の話はもう山のようにつくられていて、意外性はまったくない。というわけで、筋書きの意外性は二の次でいいと思う。
で、これに挑むのが平刑事3人。強盗事件のまきぞいで恋人を失ったチャン。操作過程で取り逃がし、拳銃の弾を飲み込まされたフォン。街の巡査のワイ。この3人が、ちょっと凸凹トリオで向かっていく相手が、これが無茶苦茶強い。たった4人なんだけど、無敵。とくにボスキャラは強すぎ。3人束でかかっても敵わないのをどう攻略するか、がキーポイントだね。でも、本当のボス(警視)がまだいるのをすっかり忘れていて、まだまだバトルが続くのだと思い知らされた。
惜しむらくは、人物の描き方が浅いこと。強盗団のボスは、同情すべき生まれでああなった、みたいなことが言われていたけど、それだけ。あとの3人のうち1人は女なんだけど、アップがないから顔もよく分からない。残る2人は、その他大勢扱い(1人だけ、最後にワイ巡査と絡むシーンがあるけどね)。なんかなあ。そのワイ巡査の兄は潜入捜査で彼ら強盗団に混じっていて、見つかって殺されている。なのに、ワイ巡査まで最後に死んでしまうのは、ちょっと哀しすぎないか? 大けがだけにして、生かしておいてやれよ。やさしいおばあちゃんが可哀想だろ。スクールバスがジャックされて何時間も経っているのに、親たちが警察に駆けつけていないのも、なんか変かな。
それから、この映画は香港映画にしては分かりやすかった。というより、分かりやすすぎた、かも知れない。描写が丁寧すぎるところがあるのだ。たとえば、拳銃を奪い、その拳銃を相手に向け撃つと、弾が抜かれている・・・というシーン。そこで、如何に弾を抜いたかをスローで見せたりするのだけれど、そこまで説明する必要はないよなあ。というような説明過剰がいくつかあって、それを端折ればもう少しテンポがよくなったかも。でも、説明不足で分かりにくい、よりずっといいけどね。
奇跡のシンフォニー9/26ギンレイホール監督/カーステン・シェリダン脚本/ニック・キャッスル、ジェームズ・V・ハート
原題は“August Rush”。これは、劇中でロビン・ウィリアムスが主人公につける芸名。
孤児が辛苦をなめながらも最後には成功するという話は、「オリバー・ツイスト」に象徴されるように昔からたくさんつくられてきた。世の中に貧乏人が多い時代は、「実は私は王子の子」というファミリー・ロマンスまたは貴種流離譚、そして「私もいつかは長者様」という成り上がりモノは大流行した。でも、いまさらそれをやっても現代には通用しない。というわけで、オリバー・ツイスト+母を訪ねて三千里に音楽を持ち込み、さらにシンクロニシティというより超常現象に近い奇跡をくっつけて出来上がったのが、この話なんだろう。根本的なストーリーは何百年も練り上げられているから破綻はない。あとは、観客が感情移入できるような子供に仕立て上げればよいのだ。そこでもってきたのが、DNA=天性の素質というやつだ。音楽が嫌いな人はまずいない。自分の子に音楽を習わせたい、と思っている人はゴマンといる。でもって、可愛い男の子を配すれば、一丁上がりってな寸法だ。ご都合主義と、登場するのは善人ばかり(ロビンの存在も、それ程、極悪人に描かれていない)という内容も、これも定番通り。じつに感動的な映画が出来上がってしまった。
内容は、悪くない。見ていて不愉快になることもないし、一段一段成功へ、そして、両親の近くへ接近する過程は、応援したくなるほど美しい。見終わって「よかったよかった」と、予定調和的なラストにも不満はない。感動的だったしね。いまどき、こんな単純な映画は珍しい。その意味でも価値はある。それにやっぱり、こういうのが、大衆が楽しめる物語なんだよね。やたら斜に構えてごてごてくだくだ言うリアリズムより、リアリティなくてもいいから見ている間中は楽しい映画、っていう方がいいに決まっている。けれど、そういう映画は案外と少ない。その意味でも、心をやさしく解きほぐしてくれる映画だよね。というわけで、こういう映画にまんまとのせられても不満はない。
映画のつくりとして、気になったところがひとつ。ポスターから少年が中心の映画かと思っていたら、その両親の話も織り交ぜなのだった。で、その両親の出会いのシーンなんかについて、最初は少年が紡ぎ出した幻想かな? と思っていたのだけれど、次第にそれは幻想ではなく、事実のように描かれるようになる。ここのところが、ちょっと違和感があった。ひょっとして、現実は少年の幻想とは違うのかな? と思いつつ、最初の頃、見ていたわけで、意図してそうしたのか分からないけど、ちょっと中途半端な気がした。
しかしなあ、ロック志望のアンちゃんとクラシックのチェロ弾きのお姉ちゃんが、あったその日にビルの屋上でエッチして、できた子供が、音楽の天才とはねえ。なんか、「生まれてくる子供は絶対音感をもってる天才かも」なんて思い込む人が増えたりするんじゃないのかね。初めて見た楽器をあっという間に弾きこなしたり、音程の概略を教えてもらった次の瞬間、作曲できちゃったり。荒唐無稽も甚だしいけど、その100分の1でもいいから、自分にも音楽の才能があったらいいな、って思わせてくれるよね。
少年の才能に目を付け、「こいつで食っていこう」と企むオヤジに、ロビン・ウィリアムス。この人、天才が絡んでくる映画とか、超常現象に関係する映画に、縁があるね。もしかして、そういう団体がバックについている映画、ってことはあるのかな?
イントゥ・ザ・ワイルド9/29テアトルタイムズスクエア監督/ショーン・ペン脚本/ショーン・ペン
原題は“Into the Wild”。
思うに、世の中にはいろんな考えの人がいる、ということでいいのではないかと思う。ただし、他人に心配をかけたり、親より先に死ぬことになるのは、誉められたことではないと思う。文明を否定して荒野に生きることを選択したとしても、結局それは個人のわがまま。それによって迷惑を蒙る人はいるのだからね。
荒野に生きるといいつつ文明の利器からは離れられないのが残念、と見えた。住まいにするバスやライフル、ライター、その他もろもろ。プラスチックでできているものなんか使わない、とでもいうのなら立派だと誉めてもいいけど、中途半端な気がする。卒業祝いに車を買ってやるという父に「要らない。みんなモノ、モノ、モノのことばかりいう」と反論しているのだから、物質文明に対する批判の目があるのだろうけど、かといって自然礼拝というわけでもないスタンスが、気になる。たとえば獣を撃ち殺すというのも、日本人からすると違和感がある。そりゃ最小限の食糧だというのは分かるけれど、殺さなくなって生きてはいけるはず。なのに動物を食糧として見てしまうというのは、西洋的な考えだと思う。反物質文明というより、単に人嫌いで狩猟好きなやつ、という風にも見えなくもないしね。
でも、そういう性格であるのならまだしも、家庭環境に原因あり、という背景を延々と描くというのは、アメリカの病、精神病理学的な部分を訴えようとしているように見える。が、この切り口はいまやありふれている。両親が喧嘩ばかり、とか、実は母は父親の愛人だったのが現在は一緒に住んでいる、というような関係に育つ子供は他にもいるはず。だから、環境に原因を求めようとするのは、あまりにもワンパターンな思考だと思う。原因がなくたって、物質文明を嫌って旅に出る人はいるだろうからね。西洋人って、何にでも原因を求めようとしすぎなのではないのかな。なので、家庭環境への過剰な言及は、とくに必要がないように思えた。だって、フツーの家庭に生まれていたら、彼はフツーに社会に入って生活したともいえないだろ?
荒野に行くのはいいけれど、あえてアラスカの冬を選択した理由は何なのだろう? 獲物も少ないだろうに。その理由こそ知りたいと思う。最後の生への執着は何なのだろう? 鉄砲水で驚き、川下りだのアラスカでの孤独な生活には、死への恐怖など感じていなかったのに、毒草でおののいているのが、不思議な気がした。まあ、死ぬことが目標でもないのだろうから、それはそれで当然なのかも知れないが、彼の求めているものが何なのかよく分からないので、とてもなるほどとは思えなかった。しかし、原野を切り裂いて奥に入っていったら、なんと捨てられたマイクロバス! ってことは、バスで行ける場所だったということだよなあ。結局、そんなに奥地ではなかったということなのかね。しかもラストでバスが穏やかに流れる川のすぐ近くにあることが明らかにされるのだけれど、なんだかちょっとマヌケな感じがしないでもない。あれは、皮肉な結末を見せようとしているのだろうか?
でかける前に銀行のカードやクレジットカードを裁断し、紙幣も燃やしていた。けど、後から農場で働いて、その金であれこれ旅に必要なものを買っている。では、最初にお金を燃やしたのは象徴的なことだったのか? ちょっと納得がいかない。カード類とともに、紙のカードを燃やしていたけど、あの紙は何だったんだ? 気になる。それから、土の中にビニールでくるんだものを埋めるシーンと掘り出すシーンがあったけど、埋めたものは何だったの? ひょっしてお金?
冒頭にでてきた妹への手紙は、いつ書いたものなのだ? というか、妹との関わりというのが、いまひとつよく分からない。たんに、愛人の子供という共通項だけなんだろうか?
そのほか、農場主が逮捕された理由は何?(衛星放送受信機をもってるぐらいでFBIがくるのか?) 革細工のジジイに「ここまで登ってこい」なんていうのは、ひどすぎると思う。年寄りへのいたわりがないやつだと思った。同じようにキャンプ生活を送っている16歳の娘に手を出さなかったのは、それは、彼がひょっとしてホモだったから? なんて思ってしまった。主人公はロンドンやケルアックの描くホーボーともまた違って、仕方がないから放浪するわけではないのだよね。いまや自然は、あえて探さなければ存在しない。そこに自ら飛び込んでいったわけだ。でも、世界中が自然礼拝になったら、自然主義者たちも物質文明のおこぼれに預かれなくなって、生活できなくなるはず。その矛盾を超えられないうちは、この手の話はひとりよがりにしか思えない。
実話だと言うけれど、あんな汚い格好をしていて、みんなよくクルマに乗せたり家に泊めたりするよなあ、と思ってしまう。アメリカ人は、基本はやさしいのかもね。というようなことも思った。
闇の子供たち9/29新宿ミラノ3監督/阪本順治脚本/阪本順治
扱っているモチーフは重いのだけれど、演出がまったくついて行っていない。というか、表現になっていない部分が多すぎる。どこか教育映画のような感じといったらいいのかな。過剰な演出を避けて淡々と・・・という意図がひょっとしたらあるのかも知れないが、だとしても成功はしていない。画面は最初から最後まで素っ気なく、感情移入しようにもきっかけさえつかめなかった。映画初心者がとりあえず撮りました、それをつなぎました、みたいな感じで、どこにもドラマチックがない。センセーションもない。たとえば同じテーマを「シティ・オブ・ゴッド」のフェルナンド・メイレレスやスティーブン・ソダーバーグあたりが演出したら、どう見せてくれるだろう? と思ったりしてしまう。それぐらいこの映画は、何もしていない。
原作は梁石日の小説で、2002年の発売らしい。とすると旧聞に属する話で、新事実というわけではないのだろう。念のためWikiで見ると、小説はフィクションで、日本人がタイで心臓手術を受けた事実はないそうだ。児童売春については、よく分からない。あるのかも知れないが、映画の通りであるとは限らない、なのだろうか。・・・ということからすると、事実無根の話をセンセーショナルに仕立て上げた小説、ということもできないこともない。あくまでフィクションとして考えた方がよさそうだ。となると、タイとしても、国辱ものの内容だから、黙ってはいられないだろうね。
主人公は新聞記者(江口洋介)で、児童の臓器を生体から摘出して日本人に移植している、との情報の確認を取ろうとしている。そこにNPOの娘(宮崎あおい)がからむ。カメラマンに雇われる妻夫木聡は、あまり重要な役割ではない。江口はあくまで報道を優先し、タイの子供を売春宿から取り戻すことには係わらないスタンス。宮崎は、1人の子供でも助けたいスタンス。この2人の立場がステレオタイプすぎて、まるで記号のよう。新聞記者は心ない人種に、NPOは感情的な意見しか言わない人種に描かれる。これはなんとも底が浅い。
しかも、ラストに意外なオチがとってつけたように用意されていて、これでびっくりさせようと言うのかも知れないけれど、あまりにもアホらしいので衝撃も何も感じられない。だって、事件を追っている江口自身が児童売春していて、それで自殺してしまうのだよ! そんな展開、ありかよ。伏線として思いつくのは、江口が子供好きだったこと。それから、自室に飾っていた少年の写真ぐらい。でも、少年の写真の真相はラストに分かるので、実質的にはほとんどない。なので、突然そんなこと言われても、だからなに! としか思えませんですね。
画面に奥行きがなく、必要以上にクロースアップが多いのではないだろうか。もうちょっと引きの絵を使ってもいいと思う。テンポは、のろい。もっと流れるようなカメラワークは使えなかったものか。それに説明的すぎてくどい。映画なんだから、絵で見せるべきだよね。日本映画特有のフラットな照明も、物足りない。内容の割に素っ気なく、淡々とし過ぎていて、人物が記号的。これでは、人の心に刺さるような映画はできないと思うのだけどね。
日本人との仲介をしている太田、という男をいかにして捜し出したのか、よく分からない。いきなり屋上で殴る蹴るされていてもなあ。ゴミ袋から逃げてきた少女が行き着いたのは、あれは自分の家だったのか? 小屋に入れられたまま、死んでも家族が気づかなかった、ということなのか? なんか、変な展開だねえ。最後に、集会に乱入して発泡し、撃たれてしまう男は何なんだ? どういう意味があったのだ? よく分からん。で、最後は売春宿に警察が乗り込んで逮捕、なんだけど、最初の方でNPOの誰かが「警察なんて」と言ってなかったか? なのに、やっぱり警察と法律かよ。なんか説得力がないね。
少女にフェラさせたり、少年の肛門でするシーンが登場する。いくら別々に撮った映像をつないだといっても、通用しないのではないのかな。描かなくてもいいものがあるのではないだろうか。たとえば、江口の自死はロープだけしか見せていないのだからね。
アキレスと亀9/30銀座テアトルシネマ監督/北野武脚本/北野武
とても分かりやすい。戦後日本の美術史のお勉強(?)にもなるし、画廊経営の裏側も見せてくれる。ま、その分、意外性がなくて物足りないんだけど。大笑いはできなくても、そこそこ笑えるシーンもあったりして、フツーに楽しめる映画かも。ただし、少年期の部分がちょっと長すぎる。もうすこし端折ってもよかったかも。
見ていて思ったのは「誰でもピカソ」の影響があること。あの番組に登場する素人画家たちは、みな自分はアーチストだと思って登場する。でも、どこかみな誰かの模倣だったりする。そういうレベルの人は確かに存在していて、自覚すらないことが多いのだろう。それで一生を棒に振るどころか家族まで犠牲にしてしまう。死ぬまで気がつかない人もいるはず。映画の主人公・倉持真知寿も同種の人間なんだけれど、画廊の主人に“死と隣り合わせ”で描かなくちゃといわれ、納屋に火を付け火事の中で描く。いうならば、日本語の理解力もない人種なのだ。それでやけどを負って、ようやっと悟ったわけだ。路傍に転がっている錆びた空き缶の方が、人を引きつけることがある、ということを。つまり、やっとアキレスは亀に追いついて、芸術家の目をもつことができた。でも、その缶を惜しげもなく捨て去ってしまう。これでようやく真知寿は絵の呪縛から解放された、ということなのだろう。映画の構造とメッセージは、分かりやすいと思う。
というわけで、自分には絵の才能があると勘違いした男の半生の物語。小学生時代は戦前のように見えるのだけれど、青年期のアクションペインティングやウォーホール真似が1960年代で、女子高生の娘がいるのは現代・・・と、どう考えても年齢と年代が合わない。まあ、それは先刻承知でやっているのだろうけど、違和感はある。
小ネタがいくつか登場する。小学生の時に描いたヒラメの絵が画廊に展示されていたり、青年期に描いた波止場の絵が喫茶店に飾ってあったりする(基本的な技術はある、という設定。でも、時代に先んじることができない絵描き。言われれば、誰々風という真似はできるけど、というところか)。しかし、真知寿はそれに気づきもしない。この男は、昔のことをさっさと忘れてしまうのだろうか。新しいことしか考えないのだろうか。しかし、ここで監督が言いたいのは、画廊のいい加減なんだろうと思う。本当の絵の善し悪しとは関係なく、稚拙な絵でも商売にしてしまう画廊というところに対する、冷ややかな視点が見える。
絵で成功したのは、ニューヨークに行ったモヒカンだけというのも皮肉。クルマの激突で絵を描こうとして死んでしまったり、歩道橋から飛び降りて自死したり。実際に60年代には、そんなこともあったんだろうと思う。絵画教室の講師も、洋行帰りだけどパッとしないという設定だった。ほんと。絵や絵描きなんて、才能以外のところでなんとでもなる世界なのだ。ということも言っている。一方で、小学生時代の絵描き友だちは、ただのバカだった。その姿は山下清を思わせるけれど、でも、肩をぴくぴく動かすところは、たけしそのもの。あれは、ビートたけしは山下清的な絵描きだ、ということを言おうとしているのかな。
真知寿が大金持ちの子供だった、というのは、環境の変化を見せようという程度のことではないのかな。別に、金持ちの子供がワガママで他人の言うことを聞かない、ということでもないだろうに。設定としての面白みだけじゃないのかな。
小学生、青年期(柳憂怜は、青年とはいえないよなあ)、中年期(たけし)を別の役者が演じているのだけれど、それぞれ全然似ていない。しかも、小学生の真知寿は無口、青年真知寿は引っ込み思案、なのに、中年真知寿は饒舌で躁病のよう。顔も性格も別人では、すっと入ってこないよね。
それにしても、あんな真知寿のことを好いて、ヌードモデルになるといって寄ってくる女あり、結婚を迫る女ありというのもなあ。あれじゃ大久保清じゃないか。

 
 

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