2008年10月

最後の初恋10/2上野東急2監督/ジョージ・C・ウルフ脚本/アン・ピーコック、ジョン・ロマーノ
原題は“Nights in Rodanthe”。Rodantheというのは舞台となる地名らしい。疾走する野生馬に関連する言葉かな、と思っていたら大違いだった。ははは。
リチャード・ギアとダイアン・レイン。お前ら、何度目だ!? という共演作だけど、中味はほとんどからっぽ。亭主に逃げられた40ババアと妻に逃げられた60近いオヤジの、ちょっと不倫なロマンス話である。予告編で見えなかったのは、医師ギアが担当した患者が5万人にひとりの拒絶反応で、手術中に亡くなってしまうというゴタゴタを抱えていた、というようなことぐらい。あとはまあ、ギアが最後に死ぬことも予告編で見えていたので、意外性のかけらもない。ま、暇つぶしにどーぞ、的な映画かも。
そんな中で、ひとつ思ったのは、謝罪によって心が通じることがある、という主張かな。患者の家族から訴えられ、それで、患者の家族の家を訪ねてきたギア。当初は自分の正当性を主張するだけで、“sorry”のひと言もなかった。その態度に、ダイアンがツッコミを入れ、ギアは再び患者の家族に会う。ギアの息子も医者で、父親の態度に嫌気がさして南米に行ってしまったのだけれど、その息子の後をギアが追う。もう、息子にあれこれ指示したりせず、患者を診るだけに集中したのも、息子への謝罪の気持ちに違いない。一方、ダイアンの娘(中学生ぐらい)は、「戻りたい」という父親(ダイアンの亭主)の肩を持ち、父親が帰ることを拒否するダイアンに反抗する。ま、他所に女をつくって家出して、女に逃げられたから戻りたい、といっていることを知らなかったのだけどね。でも、その事実を知って、娘は母親(ダイアン)に謝罪し、受け入れる。こうした謝罪の姿勢というのは、アメリカに欠けていることだ。
たとえばイラク戦争だって、大量破壊兵器があるからと攻撃したのに、あとになってそんなものはなかったと判明した。けれど、ブッシュは過ちを認めることはなかった。そういうアメリカの体質に対するアンチテーゼなのかも、ね。深読みかも知れないけど。
ベティの小さな秘密10/3シネセゾン渋谷監督/ジャン=ピエール・アメリス脚本/ジャン=ピエール・アメリス、ギョーム・ローラン
原題は“Je m'appelle Elisabeth”。英文タイトルは“Call Me Elisabeth”。劇中で「ベティじゃなくて、エリザベスって呼んで」というようなセリフがあって、仲良くなった相手にそう、ベティがいうのだった。
精神病院、分裂症患者の逃亡、顔に痣のある少年、廃屋敷、納屋、野良犬(?)、ちょっと意地悪な姉、母親の不倫・・・。エレメントは揃っている。でも結局、そういう要素をとっ散らかしただけで、どこにも収斂されない。これでは退屈になってしまうのも致し方ないかもね。タイトルから、明るいファンタジーを想像していたのだけれど、ぜーんぜん違った。陰気で暗い映画だった。
時代は1960年代ぐらい? フランス郊外の精神病院。壁ひとつ挟んで病院長の家があり、妻と2人の娘が住んでいる。姉は12、3歳? 冒頭にでてきたと思ったら、さっさと寄宿学校に行ってしまって、あとは最後にでてくるだけ。主人公のベティは8歳ぐらいに見える(解説では10歳となっているけど)。母親は、ピアニストの夢を捨てて医者と結婚したのに、毎日の田舎暮らしが退屈らしい。なわけで街に繰り出しているうちに男ができたと、家出してしまう。でも、10歳のベティは泣きもせず平気な顔をして受け止めるのだよな。母親のことより、金曜日に安楽死される犬のことが心配らしい。その犬は檻に入れられているんだけど、もともと医者が飼っていた犬なのか、それともただの野良犬なのかよく分からない。でも、後半でベティが檻を破って連れ出すと、ちゃんとなついているのだよな。どういう犬なんだろう? 父親は「あんな犬より、子犬を飼おう」といって、その犬を安楽死から助け出そうとしないのだけれど、それがベティにとっては困りごとになっているのだ。
冒頭で、2人の姉妹が廃屋敷に忍び込もうとし、扉が開いたので逃げ帰るシーンがある。なので、ベティがあとからその屋敷に入り込み、騒動になるのかと思いきや、そういう展開ではなかった。というか、ラストまでほとんど廃屋敷は忘れられてしまっていて、どーなってんだ? と、少しイライラしたのだった。もうひとつのイライラは、住んでいる屋敷の上の階の部屋のドアが半開きになっていて、なにかありそう、と思わせていながら、そのあと全く触れないことだ。このように、この映画では思わせぶりな対象がどんどんでてくるのだけれど、結局、ほとんど意味をなしていない。顔に痣のある転校生もそうだ。彼とは結局、学校だけのつき合いで、痣にまつわる話もでてこない。彼が級友たちにいじめられるのかと思いきや、逆に級友たちと一緒にベティをからかう存在になったりする。「地球は年老いた太陽みたいなもの」という言葉もベティに話すのだけれど、ではその意味や、示唆するものはなにかということについても、結局、よくわからない。
病院を抜けだした自閉症気味の青年がいて、ベティは彼を納屋にかくまう。ひょっとして、一緒にいるところを見つかり、警察か村の住民かがベティの安全を優先して青年を射殺するとか半殺しにするとか、そういう展開になるのかな、と思ったら、そういうことにもならなかった。ベティは青年と廃屋敷に逃げ込む。青年は屋根から飛び降りようとする(みたいに思える)、ベティが屋根から落ちかける、青年が間一髪で助ける。それを見守る父と母と姉・・・って、おいおい。母親は戻ってきたのかい。姉は何で学校から戻ってきたんだい? で、青年は他者との接触に臆病だったのが治ったということか?(そんな風には見えなかったけど) ベティは結局子供っぽいことをしただけで、何も学ばず成長していないよなあ。
いったい、この映画は何が言いたいのだ? さっぱり分からない。きっと、つくった監督にも分からないに違いない。だって、ここにはドラマらしきものはほとんどなく、テキトーに要素を散りばめてつないだだけなのだから。
JUNO/ジュノ10/16ギンレイホール監督/ジェイソン・ライトマン脚本/ディアブロ・コディ
アカデミー作品賞にもノミネートされた映画だけれど、共感より違和感の報が強かった。たとえば、娘が妊娠を両親に告白するところ。なんか、あまりも素直でいい子みたいに正直にいう。あんな風に言えるものか? それに対する両親の反応も冷静すぎ。フツー、孕ませたのはどこのどいつだ! と怒り狂い、娘に謹慎を言いつけ、相手の男の所に怒鳴り込むとかするんではないの? 寛容すぎだろ。孕ませた男の子(ポーリー)の母親も、ヘン。ジュノに「あなたはヘンな子だから嫌い」といったり、ましてや、息子のしでかしたことに罪悪感ももっていないみたい。日本人の感覚とはかけ離れていて、とても「そうそう」なんて思えない。
映画は、ジュノと両親、ジュノとポーリー、ジュノと里親になる予定の夫婦、という軸で進んでいく。他に重要そうな役としては、ジュノの親友のリア(チアリーダー)ぐらいかな。驚くことに、それ以外の関係がほとんど登場しない。他の同級生の反応や教師たちの対応なんか、ほとんどない。隣近所の人たちの反応もない。それって、ちょっと取り上げ方としてヘンではないの? だって、高校生が妊娠、しかも、孕ませた相手は同級生でみんな知っているわけなのに、そういう面からは全然切り込んでいないのだよ。フツー、大騒ぎだろ。街の中だってそうだ。なのに、周囲はほとんど無関心みたいに描かれてしまっている。ちょっと偏りすぎではないかと思ったりする。
里親夫婦はもっとジュノの妊娠に関与するのかと思いきや、記号的にしか機能しない。ホラー、マンガ、音楽好きの亭主は現在CM作曲家。偽善的な家庭は築いているけれど、どこか違うと思いつづけていて、それがジュノの個性と出会って決断に至る。子供や家庭ではなく、ロックへの夢よもう一度!と。妻はごくフツーの女で、子供っぽい亭主はダメ。もっとフツーに大人になって欲しいと思っているし、父親として成熟して欲しい。こういう2人がどうして結婚したのか、の方が不思議なんだけど、そこそこ金持ち夫婦のヤッピーにも、あるのかもね。でも、描かれ方がステレオタイプだよね。亭主がジュノに恋をして・・・なんていう展開もあるのか? と思ったけれど、それはなしだった。2人は結局、離婚するのだけれど、1人で生きる元妻に、ジュノは生まれた子供を約束通り里子に出すのだよね。その関係性が、いまひとつ、うーむだった。あんなフツーの女に、ジュノみたいに個性的な娘の子をあげちゃっていいの?
過ちで子供はできたけど、でも、やっぱり好き、と元の鞘に収まるジュノとポーリーも、ヘン。だいいち、ポーリーって、ちっともいい男ではないし、どっちかっていうと変態オタク風なのだ。なぜジュノはあんな平凡な(走るのは速いようだけど)少年に恋をするのだ? だんだんジュノの気持ちが分からなくなってくる。それに、再度つきあい始めるなら、子供を里子に出さず、自分たち、または、ジュノの両親が育てるという選択肢もあるんではないの? 簡単に人にやってしまう心理も、いまひとつ分からない。
ジュノの饒舌さというのは、あれは、なんなのだ? 里子夫婦に会ったときからべらべらぐだぐだとしゃべりつづけ。あれは、衒いを隠すため? すごく生意気に感じたし、いやな気分にもなった。いや、そういう性格ならそれでいいんだけど、子供を里子に出そうというなら、もっと控えめで大人しく弱々しい娘を想像するし、描かれているように主張が強く我が強く個性的なら、子供ぐらい育てる! と言いそうだったから、なんだけどね。
ま、とにかく。この映画は、人と人との関係において、「我慢」しあうのか。「許容」するのか、との差を考えさせるようなところがあったりすると思う。たとえば、ジュノの義母が、ジュノに気兼ねして犬を飼わないでいた、と告白するのだけれど、ラストシーンでは、犬を飼っているのだ。これは、何を意味するのか。自分の趣味嗜好を相手に押しつけるのでも、または相手を気遣ってしないのでもなく、自分の嗜好を主張しつづけながら、相手にもちょっとだけ我慢して貰う。そして、それを互いにしていく、というようなことで、生活は少し気分がよくなる、というようなことを言おうとしているのではないのかな、と思ったりした。
で。この映画。感受性がつよく自己主張ばっかりしている娘が、ごくフツーの男の子を相手にお試しセックスしてみたら妊娠してしまって。でも、堕ろすことはできなくてねというところが真面目というか律儀。でも、里親を相手に自己主張しつづけたりというヘンな娘で。なんか、やっぱりよく分からないね。こんなに人の命が軽く扱われていいのだろうか、という気持ちの方が先に立ってしまう。それは、堕ろすにしろ、里子に出すにせよ、だ。それでもう、忘れてしまうのかい? うーむ。
石内尋常高等小学校 花は散れども10/17新宿武蔵野館3監督/新藤兼人脚本/新藤兼人
新藤兼人も相当なボケ老人になってしまった。もういいよ。テーマも主張もゴチャゴチャで何を言いたいかわからない。辻褄の合ってないところや、時代考証のいい加減テキトーな画像も陳腐。何なんだ、でてくる役者がみなバカみたいなオーバーアクションで。しかも、何らの表象にも様式にもなっていない。表面的に奇を衒っただけではないの?
石内小学校に人生を捧げた男の話が下にあり、その上に、脚本家としてヨロヨロ生活している男と、その小学校時代の同級生の女の子のロマンスがある、という構造。しかし、小学校の教師としてひとつの学校に40年も奉職することはないはずだし、送り出した生徒は大正13年卒業(かな?)だけではないだろう。なのに、この時の生徒たちだけが教師を慕っているというのがヘンだ。
卒業から30年後の同窓会は、市川先生(柄本明)の定年の年。ということは、生徒たちは15歳+30年=45歳。なのに、その生徒を演ずる役者が歳を取りすぎだろう。豊川悦司(46歳)、大竹しのぶ(41歳)はいいとして、六平直政(54歳)、大杉漣(51歳)、りりィ(56歳)、根岸季衣(54歳)・・・。他に役者はいないのか。しかも、この同窓会では、それぞれの人生が戦争によってめちゃめちゃにされたことが奇妙なオーバーアクションで語られる。あまりにも直接的で、うっとうしいぐらいだ。大杉漣のバケモノめいたケロイドのメイクは何なんだと思う。では、戦争当時、熱血教師市川は、戦争に協力したのだろうか? 教え子を、どのように戦場に送り出していったのだろう? それとも、軍部に反抗して牢にでも入れられたか? と、その時代の市川の行動が知りたくなってくる。ところが、この映画ではその戦時下がすっぽり抜け落ちてしまっている。おいおい、だよな。
で、同窓会をきっかけに出会ったトヨエツと大竹の焼けぼっくいに火がついて、子供が生まれるという設定が、あり得ない! 45歳の高齢出産。しかも、亭主は大阪に女がいて・・・なんていう関係なのに、大竹の生んだ子供の父親は誰だ? と、みんな疑うだろ。
高小卒業後、広島に出てその後に上京して脚本家になったトヨエツという設定だけれど、どういう人生を送ったかがまったく描かれていない。いつものように、というか、昔から新藤は主人公に自分を投影する。つまり、売れない脚本家。しかし、映画や芝居が好きだったというというような伏線もないまま、脚本家ですといわれても、説得力ないよね。たんなる個人的こだわり、趣味の範疇だ。誰が共感できる。こんな設定に。で、上京以来音沙汰のないトヨエツの、故郷に残した父親はどうなったんだ? 死んだのか? 葬式にも出なかったのか? 同窓会後、トヨエツはしょっちゅう東京と田舎を行き来する。でも、昭和30年代の前半の移動は、2日がかり。教師のこと、大竹のことぐらいで、そうそう戻ったりできるものではないと思うぞ。ついでにいうと、トヨエツの小学生時代の母親役が吉村実子(65歳)だぜ。かんべんしてくれよ。
市川先生が脳梗塞で倒れ、トヨエツが戻ってくる。そのとき、すでに六平は村長になっているのだけれど、想定年齢は50歳過ぎ。若すぎる村長だ。まあ、それはいい。先生病後のあれこれが終わり、次のシーンは六平が上京し、トヨエツのアパートでビールを飲んでいるのだけれど、ここでトヨエツが「お前、村長になったの! えーっ?」なんていう。それはおかしいだろ。すでに知っていなきゃおかしい。たぶん、こっちのシーンを先に撮ってしまい、直せなかったのかも知れないが、不自然な感じはぬぐえない。それと、このシーンでビール瓶がゆっくり倒れるエフェクトを加えているのだけれど、なんの意味があるのだ? ないよなあ。
大正時代の部分で、みなの着ているものがみな新しく、こざっぱりしているのはヘンだよな。もっとよれよれで、汚れ破れしているはずなのに。なんか、つくりものめいて見えてしまう。病気になった市川先生が、妻(川上麻衣子。若い時も60過ぎも演ずるのだけれど、老後は別の人が演じた方がよかった。年寄りに見えない)に支えられ、校庭にはいる。すると用務員が「入るな」と追い払うのだけれど、でも、先生は定年後まだ5年。フツー、周囲は憶えているだろ。それに、昭和30年半ばなら、校庭にはいることをそんなに制限していなかったと思うぞ。市川先生が、トラックの荷台に載って娘夫婦の家に行くという日。教え子たちがトラックに駆け寄ろうとするのだけれど、それを学校の用務員が制止するのだけれど、なんで制止するのだ? おかしいだろう。
さて、市川先生の墓碑には昭和38年11月、66歳とあった。なんか、先生の熱血ぶりは大正時代の一瞬だけで、あとはもう映画の本筋とは関係なくなってしまう。で、後半のトヨエツと大竹のロマンスが面白いかというと、ぜんぜんなのだ。というわけで、95歳が撮ったということ以外、なんの話題もない映画。役者も古臭くて、その点から見ても魅力のない映画。もう、映画を撮らなくていいから。そっとしていてくれ、と思いたい。
宮廷画家ゴヤは見た10/17新宿ミラノ2監督/ミロス・フォアマン脚本/ミロス・フォアマン、ジャン=クロード・カリエール
原題は“Goya's Ghosts”。いやー。スゴっ。2時間弱の圧倒的な物語性に釘付け。波瀾万丈がゴヤの描く絵と相まって、素晴らしい。
それにしても、18世紀末のスペインではカソリックは異端審問なんてことをやっていたのだね。拷問で告白させ、牢に軟禁・・・。豪商の娘イネス(ナタリー・ポートマン)も捕らえられてしまうのだけれど、とても腹立たしい。心の中で、拷問を加える聖職者たちだって、拷問を加えられればどうなるもんだかわからんだろ! なんて思っていると、なんと、イネスの父親がエラソーな神父(ロレンソ)を軟禁して拷問を加え、「私の先祖はチンパンジー」なんていう告白書にサインさせてしまう。しかも、ものの数分の拷問で・・・。観客は「ざまあみろ」って思うよね。しかし、この意外な展開(というか、観客の心を読んでいたかのような展開)は、まだ序の口だった。ロレンソはフランスに逃亡し、フランス革命に身を投じたという設定。で、ナポレオン弟の部下としてスペインに戻ってきて、ゴヤと再会。心ならずも(なのかな)、イネスを15年ぶりに牢から出すことになる。しかも、イネスはロレンソの子供を産んでいた・・・。いや、もの凄い話の振れ具合だ。その後、イギリス・ポルトガル連合軍が浸入し、スペインを占領していたフランス軍は追い払われてしまうのだけれど、ロレンソは捕まってしまう。またまた大きく振れる。で、いったんは死刑判決を下した聖職者たちに、逆に死刑判決を下されてしまう皮肉の皮肉。聖職者たちは「悔い改めれば命だけは助けてやる」というのだけれど、ロレンソは拒否する。この意思の強さ、自我の目覚めは、中世の終了と近代の目覚めを象徴していると見る。機を見るに敏で、体制側の権力をうまく利用し生きてきたロレンソ。けれど、ロレンソは保身ではなく未来を向いている。ロレンソは真に悔い改め、新しい考えを受け入れたのだと思う。カソリック神父として審問を行ってきたことは間違いだったと認め、自由と平等という精神を獲得した。それを、再びカソリックの暗黒時代に戻すことをよしとしなかったのだから。その精神力の強さは、豪商にちょっと拷問されただけで言を翻したときとは大違い。このロレンソの成長こそが、この映画のメインテーマなのではないか。しかし、衆人環視の中で死刑にされるロレンソを、精神に異常をきたしたイネスが“私の愛する人。この子(拾ってきた赤ん坊)の父親”という眼差しで見つめ、真の娘がイギリス軍兵士のつかの間の女としてバルコニーから笑いながら見ているという構図は、また、凄まじい。
ゴヤは、狂言まわし。それでも、ゴヤの描く絵画・版画そのものの映像が繰り広げられるのは素晴らしい。本当にリアルに時代性が感じられる。可憐な少女が一転し、15年後に形相も異形に変貌した様子で登場するイネスは、ナタリー・ポートマン。この演技が素晴らしい。しかも、奔放な売春婦としてのイネスの娘も演じている。いわば、3役をこなしているのだよね。しかし、なんといってもロレンソ役のハビエル・バルデムだな。神父時代の嫌らしい感じ、フランス軍時代の格好良さ、捕らわれて刑死するシーンと、こちらも幅の広い演技力を見せてくれと見入ってしまう。あと、気になったのは、ゴヤの耳が聞こえなくなった後の手話通訳をした役者。大きな役回りはないのだけれど、ね。
それにしても、フランス革命前後のスペインも面白そうだね。それに、当時の有名な絵画もどんどんでてくるし。スペイン王はフランス人で王妃はイタリア人(だっけ?)といっていたけれど、国王が外国人でも頂点に戴くという西洋人の感覚はよくわからんので、そういうことも知りたくなってくる。
ぼくたちと駐在さんの700日戦争10/17キネカ大森2監督/塚本連平脚本/福田雄一
ビデオ撮影なので画質は悪いが、内容はサイコーに面白い。シンプルかつおバカな小ネタ満載の前半は笑わせて貰った。ああいう笑いは、いまの日本映画には決定的に欠けている要素だと思う。しかも、ネタの提示とバラシ具合のタイミングが小気味いい。多くの他の映画では間が悪かったり、ずるずるあとに引きずったり、意味なくしつこく尻が長かったりするのだけれど、この映画にそういうのがない。ぱっぱっと気持ちよく使い捨てていく。ほんとうに笑えた。
メインの芝居の背景で、小芝居をしている(動かないまま・・・というのもあったね)のがおかしい。テレビの「ショムニ」でああいう手法がよく使われていたけれど、あれの系譜なのかな。
反抗的な青春を笑いに転化しているところが面白い。フツーなら、親や教師、権力に対してストレートにぶつかっていく。たとえば、駐在の妻(麻生久美子)が元族だったとか、西条(石田卓也)が喧嘩ばかりしていた、なんていうのがその例だ。しかし、そういうストレートな反抗ではなく、知恵とジョークで権力(といってもたかが駐在だけど)に対抗し、ひと泡吹かせようとあれこれするのが楽しい。応援したくなったりする。そういう知的遊びとしての反抗が連続してつづく前半は、もう、サイコーである。
ただし、後半、病気の少女を応援するための花火の話になると、ちょっとお涙頂戴になってしまい、ありきたり度がましてくる。ここは何とかならなかったのか。しかも、実際に花火を盗んで打ち上げるという、本当の犯罪になってしまっている。ここも、本来なら犯罪スレスレというか、権力の裏をかく的な知的な反抗で通してくれればよかったんだけどね。
でてくる女の子がみんな可愛い。これは、こういう青春モノには欠かせない要素。その点、この映画は合格点以上だね。主演の市原隼人はしゃべり方が好きではないので置いといて。石田卓也が相変わらずいい味を出している。甚兵衛姿の孝昭(加治将樹)は、西条(石田卓也)と顔の印象がかぶりすぎ。グレート井上(賀来賢人)は、医者の息子というキャラ設定を生かし切れていないかも。一瞬登場する妹も、もっと使い道があったろうに。惜しい。免許を持ってる辻村さん(小柳友)は、少ない登場時間にもかかわらず印象的。オカマっぽいジェミー(富浦智嗣)がとても印象的だった。プールのシーンで仲間に加わったとき、すっかり女だと思っていたので、男? ええっ? と、驚いてしまった。太った千葉くん(腋知弘)に関しては、こういうグループには必ずいるタイプというだけで印象が深くない。いっぽう駐在の佐々木蔵之介は、持ち味全快。その他、腋も贅沢で、これほどの内容の映画をビデオ撮りというのだけが惜しい。
おくりびと10/20MOVIX亀有シアター5監督/滝田洋二郎脚本/小山薫堂
滝田洋二郎の代表作ができた。といっても、貢献しているのは演出のキレというより、脚本の見事さではないかと思う。それに、抑制の利いた演出がうまく噛み合っていると言う印象。
納棺師というのが存在するのかどうか、知らない。クレジットに納棺協会というような文字があったので、あるのだろうか? でWebで調べたら、株式会社で納棺協会というのがあり、NKグループという映画そのままの名称で存在しているのだね。おお。びっくり。といっても社員なしではなく、北海道東北を中心に手広くやっているみたい。しかも、映画と同じ様な納棺の儀式というのも行なわれているとは、またまたびっくり。あんなものがあるとは知らなかった。
音楽家への夢をあきらめて帰郷。偶然、納棺屋に勤めることになった男(本木雅弘)の話。入った会社の社長が山崎努というのは「お葬式」を意識してのキャスティングだろう。大きなドラマもなく淡々と話は進んでいくのだけれど、扱われているモチーフが納棺なので、嫌でも見てしまう。しかも、コケ脅かしの話や演出にしていないところが、とてもよろしい。
人間がとてもよく描かれている。それも脇がいい。単なる銭湯の客かと思っていた笹野高史が、火葬場で働く、別れを見送る人間として再び登場したときは「うまい!」と唸ってしまった。NKで働く事務の女(余貴美子)が、実は幼い子供を捨てて駆け落ちした末の過去をもつことが明らかになるのだけれど、これも本木の境遇の裏返し(本木の父は女と出奔)として描かれている。「さすが」。さらに、銭湯の女主人(吉行和子)の存在も、効果的。吉行の息子(杉本哲太)は本木と同級で、「評判悪いぞ。まともな仕事に就け」と、本木を非難するのだけれど、いざ母親の死に向き合い、本木の世話になって、見方が変わるわけだ。ここでフツーの映画なら杉本が本木に「悪かった。お前の仕事は素晴らしい」とかなんとかセリフで言わせるのだけれど、それをせず、杉本の表情だけで語らせている。「すばらしい」。これは、「仕事を変えろ」といっていた広末が、納棺の儀式を見ている過程で考えが変わっていくのを、表情だけで見せているのも同じだ。ベタに言葉で言うのではなく、映像で見せ、納得させる力がこの映画にはある。で、本木や山崎の納棺の儀式への評価は、いくつもの死を看取る人たちの家族の声として表現してしまっている。これも効果的。押しつけがましくなく、素直に話に入っていけ、感情移入もできるという具合だ。
最初の方で、会社に並べてある、値段の違う3つの棺桶。それが、最後になって、本木の父親の死のときに効果的に使われるのも、お見事。これはもう、シナリオに尽きるね。
死んでいく人も、自殺したオカマ、乱暴運転で事故死したヤンキー、家庭やつれした母親、発見されずに2週間も経った老婆、ホテルの首つり自殺者・・・と、実際はそう滅多にないかもしれない死に方を凝縮して提示することで、納棺師の仕事の広さと大変さを的確に表現し尽くしている。
本木の、自分を捨てて出ていった親に、峰岸徹。先頃、癌で急逝したのだけれど、その峰岸が死体役で登場するのも、かなり感動的。駆け落ちしたはいいけど、さっさと女に捨てられたかして、それでも家に戻れず1人暮らしで70過ぎまで・・・という悲惨がうまく描かれている。
本木の妻に広末涼子。彼女だけがちょっと浮いていた、かも。
ゴジラ対ヘドラ10/20Bunkamura ル・シネマ1監督/坂野義光脚本/馬淵薫、坂野義光
第21回東京国際映画祭 natural TIFF 傑作選(1971年東宝映画)。ものすごくヘンなゴジラ映画。フツーの、じわじわ始まって科学者と政府が対策に追われ、そこに一般家庭の市民または子供がからみ、最後はバトルで盛り上がる的な話じゃない。1970年代らしく河川の汚水、ヘドロ発生、光化学スモッグなんかがイメージで提示され、その反動でヘドラが誕生。それをゴジラが阻止するという話なのだ。しかし、この映画、盛り上がりがないのだよね。ずうっとベタな感じで、どうやっても感情移入できない。というわけで、30分ぐらい見たけれど、とても耐えきれずに寝てしまった(小一時間前に“ねぎし”で豚ロース焼き定食を食べた、ということも原因のひとつかも)。80分あまりのうち、半分以上は寝てしまった。途中で何度か目が開いたのだけれど、話はやっぱりつまらなく、また寝てしまったという塩梅。
冒頭、海水汚染のイメージの後に、さっさとヘドラが登場。さらに、それを退治にさっさとゴジラが登場し、さっさと戦い始めてしまう。状況設定もなく、ストーリーらしいものもないので、まったく引き込まれず。そこに、当時のサイケ調のイメージ、ゴーゴー喫茶なんかが出てくるのだけれど、たんに時代を感じさせるだけで、面白みはない。たとえていうなら、「ウルトラQ」23分を80数分に無理矢理引き延ばし、タイムリーなイメージをいくつかインサートしただけ、みたいな映画。盛り上がりがほとんどない。といっても、寝ていたから偉そうなことはいえないのだけどね。まあ、公害メッセージがあるというところが今になって評価されたわけだけれど、当初から反公害を訴えるのが目的、というより、時流に乗ったテーマで1本つくりました、という感じかなあ。公害物質および化学物質を並べただけの凄い歌詞のテーマソングと、柴俊夫が柴本俊夫で登場したのが引っかかった。後から知った、ゴジラが空を飛ぶシーンは寝ていて見逃してしまった。
●ティーチインがあった。監督本人が登場し、あれこれ話す。でも、この人、監督作品は「ゴジラ対ヘドラ」1本だけで、空飛ぶゴジラやヘンなゴジラ映画は不評だったみたいね。そう明言はしていなかったけど。干されたのかもね。テーマ性をもったSFは米国にはないと評価されたことを誇りにしているみたい。アメリカでアイマックス向けにゴジラをという企画が5年ぐらい前からあり、それが昨今流行りの3Dでということになって・・・という話もしていたけれど、実現しそうにもなさそうな印象。本編ではなく、PRや企画がらみの分野で活躍してきたようだけれど、まだまだ映像に関心があるのは素晴らしいと思うけどね。「若い人の力を借りたい。何でもいってくれ。メールもくれれば相手する」と言っていた。話をする場やチャンスが欲しいようにも受け取れた。意欲は素晴らしいと思うけど・・・。
プラネット・カルロス10/21TOHOシネマズ六本木ヒルズ・スクリーン2監督/アンドレアス・カネンギーサー脚本/Catrin Luth
第21回東京国際映画祭 コンペティション。原題は“Planet Carlos”。ニカラグアを舞台にした映画。貧困家庭の少年カルロス13歳。肝っ玉母さんに、義理のオヤジ、母親似の姉と、妹がいる。同級生たちと民族舞踏の劇団をつくっていて、旅行者などに見せてお金を稼いでいる(TIFF DAILY NEWSには「カルロス君には夢があって、民族舞踏の謡い手になりたいんですよ。それで一旗あげるべく勝負に出る・・・という物語」と書いてあるのだけれど、そういう風に読めるようには描写されていないと思う)。一家も、カルロスの稼ぎに期待している。が、劇団のリーダー格は同級生の腕力の強いやつ。カルロスは自分の詩的才能に自信を持っていて、劇中の語りを自分がやりたいと主張するが、一蹴される。だったら辞めてやる、と劇で使う顔の面をもって家に帰ってしまう。働かない亭主に不満顔の母は、劇の稼ぎをもってこない息子カルロスに不満顔。カルロスは辞めたとは言えず、ずるずると・・・。でも、同級生たちが、人形を返せとやってきてバレてしまう。一緒に劇をやっていた仲間の少女イザベルに接触し、自分と劇団をつくらないかと提案。イザベルはオーケーするが、自分では踊ったりしたくない様子。それに、指揮したがるカルロスに嫌気がさし、辞めてしまう。義父も家出してしまう。金に困ったカルロスは市場で働き始め、バナナの荷下ろしのようなことをする。しかし、仕事が雑だと文句をつけられ、やる気がなくなっていく。それで「金がないから学校にも行けない」と旅行者をだまして金を稼いだりする。そして、オーディションで仲間を集い、劇団をつくり、大道芸。しかし、金は稼げない。有名な詩人の家に行って援助を依頼するが「自分は金は出さない。海外の人が金銭的支援をする。でも、それはもう締め切った」といわれ、話が違うじゃないかと仲間割れ。家に戻ると、姉は街に出たと妹が言う。男でもできたのか、売春なのか、定かではない。妹とイザベルの所に行くカルロス。かつて海を見たことがあると言っていたイザベルに「海に行こう」と誘い、3人ででかける。海岸で戯れる3人。場面が変わって街中。仕事はないと言われ落ち込む義父が、カルロスを見かけて寄っていく。「どうしてる」てなもんだ。カルロスは義父にチョコレートを与える。そして、街中へ紛れ込んでいくカルロス。暗転。
というわけで、何だかよく分からない映画だ貧困ゆえにこうなった的な話はよくあるので、いまさらという気がする。といって、貧困を嘆くとか訴えているようでもない。では何なんだろう? 前半の劇団活動、同級生との対立なんかは面白かった。カルロスがお面をもっていったお陰で、元の仲間は劇が見せられなくなってしまう、らしいのがおかしい。あんなお面、カゴの上に紙を貼って絵の具で顔の面描くぐらいなのに、しつこく取り戻しにくるのが不思議で仕方がなかった。あんなものでもつくるには金がかかるからなのかね。
カルロスは平気でウソをつく。日本でも、1950〜60年代の映画なら、貧困家庭の子供が盗みをしたりウソを言う、というのはあったと思う。しかし、混乱期を除けば日本のモラルでは平気でウソをつくことを許さない。なので、あれは国民性もあるのだろうか、などと思ってしまった。
義父も自慢するカルロスの詩的才能。でも、映画の中ではさほど強調されていなかったよね。もっと、才能あふれる少年、という部分を推してもよかったのではないだろうか。そうしなければ、同情にも値しないような気もしてしまう。
イザベルは、体も発達していてとても同級生に見えない。年長の少女なのか? だとすると、どうしてカルロスと行動を共にするのか、その理由がよくわからない。同様に、オーディションでかき集めた少年たちも、かなりの年長。彼らがカルロスの言いなりになって太鼓を叩いたり人形を操ったりしているのが、とてもヘンに見えた。それとも、設定としては同年齢に近いのかな? よく分からない。
とくに後半の流れは、ドラマもなくなってしまい、つまらない。何が目当てなのか、何がしたくて動いているのかが、よ分からない。イザベルと海に行ったのも、何でえ? というか、何でイザベルは一緒に海に行ったの? さらに、ラストで街に出ているカルロスは、どういう生活をしているのだろう? イザベルや妹と劇団活動しているの?
というわけで、最初の方は同級生との対立関係もあるし、太っちょ母親のふてぶてしい態度や甲斐性なしの義父もユニークで面白かったんだけど、後半がメロメロになってしまって、話をどこに落ち着かせていいやら分からなくなってしまった感じだ。やはり、設定をまずちゃんと描ききること。その上で人物を掘り下げ、動かしていくということができていないと、感情移入もできないし、面白くない。まだまだぬるいとしか言いようがない。
画面の構図は写真みたいな完成度の高さがあった。それに、中南米特有の原色が多く登場し、なかなかキレイ。
●上映後のティーチ・インには監督、プロデューサー(女性)、カメラマン、主演のカルロス役のマリオ・ホセ・チャベス・チャベス君が登場した。監督はドイツ人で、舞台となるニカラグアに2年ほど住んだことがあり、それで撮った。演技経験があるのは父親役の人だけで、それも民族舞踏団レベル。あとはみな素人ということらしい。
不都合な真実10/21Bunkamura ル・シネマ1監督/デイヴィス・グッゲンハイム脚本/---
第21回東京国際映画祭 natural TIFF 傑作選。原題は“An Inconvenient Truth”。
公開時には見ていなかった。初見。内容は概略分かっていた。大統領選に敗れたアル・ゴアが、地球温暖化を警告するドキュメンタリーだ。しかし、温暖化で水位がこんなにあがる! と語っている数値がインチキであるとか、ほとんど内容が大げさであるとか、温暖化に冷静な人たちの間ではパチモノ扱いされている映画だ。なので、そういう先入観で見はじめた。映画は、どこかのホールで学生相手にビデオ映像とグラフを駆使して説得的なアピールするゴアの様子を軸に、日頃のゴアの活動がインサートされるカタチで進んでいく。しかし、グラフの説明は単調で、しかも、こちらは「たぶん、かなり誇張しているんだろう」と疑ってかかっているから驚きも意外性もない。地球は温暖期に入っているかも知れないけれど、人為的なCO2による影響は、温暖化している部分の1%セントもないともいわれているから、映画の最後に、あれもこれもやめてこうすれば温暖化は防げる、みたいなことを言うのが嘘っぱちに見えるしね。
とはいうものの、またもや寝てしまったよ。30分ぐらいはちゃんと見ていたけれど、ドラマチックはないし、ゴアの日常の描写はPR映画みたいでわざとらしい。それで、中盤はすっかり寝てしまった。ははは(5時過ぎにサムラートでキーマカレーを食べ、HMVでCDを買い、東急本店の椅子で少し休んで、結局、この間に居眠りできなかったのが影響したのかも)。それに何たって、温暖化を憂う側からの一方的な主張だからね。反対意見も交えて舌戦にでもなれば面白いとは思うのだけれど。マイケル・ムーアだったら、このテーマでどんな風に撮るかな、なんていう風に思ってしまう。
ライラの誕生日10/22TOHOシネマズ六本木ヒルズ・スクリーン2監督/ラシード・マシャラーウィ脚本/ラシード・マシャラーウィ
第21回東京国際映画祭 ラシード・マシャラーウィの世界。原題は“Eid milad Laila”。英語の国際タイトルは“Laila's Birthday”。
素晴らしい。70分余の時間が凝縮されて描かれていて、飽きさせない。手際もいい。
パレスチナ・ラマラという街が舞台のタクシー運転手の話。元は裁判官で、以前の政権下でどこからか呼び戻され、任官する、と約束された。けれど、上層部が変わってからはけんもほろろ。何度嘆願に行っても相手にしてもらえない。しかたなくタクシー運転手をしている男。クルマはワーゲンだけど、実の持ち主は義兄だったりする。妻と7歳ぐらいの娘がいる。早朝から爆撃音で起こされる。今日は娘の誕生日で、朝から男は娘を学校に送り、仕事に励む。
男は元裁判官だけに意志が強い。銃をもった人は乗せない。それを表すためのシールもフロントガラスに貼っている。検問所付近は危険だから、頼まれても行かない。助手席に乗る人にはシートベルトを強要する。デートする場所がなく、かといってネット喫茶は高いからタクシーに乗っていちゃいちゃしようというカップルにはお引き取り願う。こんなだから売上げは伸びない。そこにもってきて、乗車する客は元囚人だったり墓地と病院のどちらに先に行こうか悩みつつ、たまたまみた行列に並びたいからと降りてしまったりする。それが何の行列か分からないのに・・・。警官が追ってきて何を言うかと思えば「副業に運転手をやりたいが、この車を売ってくれ。いくらだ?」と聞く。と思えば携帯を車内に忘れた客からその携帯に電話があり、警察に届けると「職業は何だ、あのクルマは誰のだ」などと聞かれ、いらいら。渡そうとするのだけれど車が故障。修理工場にもっていったら、時間がかかるからお茶でも飲んできてくれついでにローソクを買ってきてくれるとうれしいと工場主に言われ、行くと店は主人がいなくて少年の息子がゲームに夢中。娘に買おうと思ったランドセルの値段も聞けない。と思ったら爆発音で、工場に戻ったら自分のタクシーは被害者を運ぶために使われてしまった! タクシー運転手が、ボロいビーグルのタクシーを拾って病院へ。自分の車はあったが、被害者の家族が打ちひしがれているから家まで送ってくれと言われてしまう。娘にケーキを買おうとしていたら、駐車しておいたクルマに結婚式のデコレーションをされてしまい、イライラしながら走っていたら通行人を轢きかける。「中途半端なところで止めるな。どうせならひき殺してくれ」といわれる。やれやれとガスステーションに行くと、近くの道でクラクションの音。対向車両同士で何やら話していて、そのお陰で周囲は交通マヒ状態。男は、近くにあった警察車両(?)の拡声器をつかむと、「何をやってるんだ。交通のジャマだろ。それから、銃を持っているやつら、おまえらターザン気取りか!」云々と鬱憤を晴らすように叫ぶ。それを、元囚人の男がニコニコしながら聞いている・・・(この囚人はもう一度登場していて、それは、囚人をどうたらこうたらというデモの先頭にいたのだった)。というわけで、なんとか無事に家にたどり着いた男。娘には、物売りの少年から買ったネックレス。妻には、デコレーションされたときクルマに付けられた花束を贈る。エンド。
という塩梅で、エピソードがうまくつながり、連携し、主人公のいらいらがひしひしと伝わってくる。しかも、舞台はパレスチナ。イスラエルと軍との衝突もしょっちゅうで街は瓦礫のままのところもたくさん。どころではなく、爆弾も平気で爆発する。そんななか、人々はフツーに生活している奇妙な感覚がまた不思議に思える、魅力的な映画だ。
●ティーチインには、監督とその妻が登場。妻は、この映画の、タクシー運転手の奥さん役で登場。プロデューサーも兼ねているらしい。パレスチナはガザ、エルサレム、西海岸の3つの場所からなっている。この映画の舞台、テマラもその近く。「タクシーに張ってあった武器禁止マークは本物か?」の質問がある。あれは映画のためにつくったものだそうだ。それから、判事は普通、一般市民と同席してレストランなんかには行かないので、映画のよに主人公が喫茶店に行くようなことはないらしい。それと、タクシーの乗り方だけれど、一般的には助手席に乗るらしい。もっとも、女性の場合は後部座席に乗るようだけど。でも、映画では前に乗る人と後ろに乗る人を、バランスよく配置したという。それから、僕も気になっていたのだけれど、「囚人が3度登場する。他の乗客はそんなことはないのに、どうして?」という質問が出た。なんでも、ガザには12000人の囚人がいるそうで、どうやら囚人といっても政治犯のようなものみたい。なので、囚人のデモもあったのだろう。それと「囚人も獄を出れば社会の観察者になる。最後に主人公が正義を主張する演説をするが、あれは傍観者を辞めたということ、その様子を囚人が見ているというのは、彼が観察者でもあるからだ」というようなことを言っていた。それと、エピソードの断片の連続だけではなく、リズムをつけたかった、といっていた。
アンダー・ザ・ツリー10/22TOHOシネマズ六本木ヒルズ・スクリーン7監督/ガリン・ヌグロホ脚本/アラマントロ、ガリン・ヌグロホ
第21回東京国際映画祭 コンペティション。原題は“Dibawah pohon”。英語の国際タイトルは“Under the Tree”。
何だかよく分からない映画だ。15分ぐらいなんとか付いていったのだけれど、沈没。30分ぐらい寝て、残りの60分近くは見たんだけど、よく分からない。何が言いたいのか、何の映画かも分からない。これじゃ、寝るよなあ。みんな。
冒頭はケチャ。で、がらりと画面が変わって女が4人登場する。若い踊り子。踊り子のボスと同居しているいかつい顔の女、DJらしき職業の妊娠した女、後藤真希似の若い女。踊り子といかつい顔の女は1つのエピソード。妊娠女もひとつのエピソード。若い女もひとつのエピソード。それが、結局交わらず、並行して進んでいく。ストーリーはないようなもの。踊り子のボスは幼児売買容疑で捕まったりするけれど、なんか唐突。妊娠女は卵を剥きながら、中絶を非難するような歌を延々歌ったりする。若い女は何をしているのかサッパリ分からない。分からないまま、最後までいって、だからどうした、の約110分。みんな退屈したろうなあ。俺は寝たからいいようなものの。
画面がとても汚い。クローズアップが多く、しかも、カメラが揺れ動き、被写体をなめ回すように撮るので、目がチカチカ。酔いそうになってしまう。音も、むやみに大きくて困った。唯一、少しだけ笑ったシーンがあった。ボスといかつい女、踊り子が警察に捕まって、「子供を売っていたろう」の他に、いかつい女との関係を聞かれ、「将来は嫁にする予定の女だ」と説明した時の、いかつい女のニカッとした顔が怖くてね。ははは。「あんたは可愛い踊り子しかバイクに乗せない!」とひがんでいたけれど、これで女房の座はいただき、という笑みだった。
●ティーチインでは、監督、妊娠女、若い女、踊り子のボス役の男の4人が登場した。監督曰く、2週間で撮り上げたそうだ。それ以外に役者にダイアログを考えてきてもらう作業もあったとか。なんと、脚本らしいものはなく、毎日、役者にダイアログを考えさせ、提示してもらい、それにしたがって撮っていったんだと。そういうやり方はバリの演劇には伝統的にある手法で、それに沿った作り方をしたんだと。「新しい試みなので、やっている私は楽しかったけれど、ご覧になったみなさんはどういう感想を持ったでしょう?」なんて監督は言う。おいおい。それから、Under the Treeのtreeは生命のシンボルを意味しているとも言っていた。ふーん。
コドモのコドモ10/22新宿武蔵野館2監督/萩生田宏治脚本/宮下和雅子、萩生田宏治
映画の意図やメッセージをとやかく言う前に、この映画はあまりにもチャチいというしかない。小学5年生の娘の腹がどんどんでかくなっているのに気づかない家族がいるはずがない。その点から見て、映画の主人公・春菜の母親(宮崎美子)、祖母(草村礼子)は、女失格である。もちろん、他の周囲の人間も以下同文。その意味で、この映画は物語として違和感がありすぎて、成立し得ていない。バカバカしいにも程がある。
・・・というようなことは、つくる側も重々承知だっただろう。それでもあえてこの映画をつくってしまったのは、子供たちだけで母親になる春菜を応援し、子供たちだけで産ませてしまえ! という悪巧みがあったからだと思う。だって、それ以外この映画には見るべきものはないからだ。だって、登場する人物はみな変な人ばかり。というか、それ以前に人物造形がまったくできていない。たとえば主人公の春菜はいったい何を考えているのか。「うざい」「みんな死ね」とか、2ちゃん言葉を乱用し、大人に不満顔のような一面がありながら、素直なところもある。かと思うと、10歳にしては幼すぎる部分もあったりする。具体的に言えば、男の子と2人遊びして自分から「くっつけっこしようか」なんて言うわけだけど、生理が来た女の子にしてはあり得ない発想だし、知恵遅れでもあるまいに小4でそんなことをするか? 女の子と男の子が2人でつるんでいたりしたら、同級生にはやされるだけではないの? あんな田舎なら。
他の人物も推して知るべし。みな記号的に役割を果たしているだけで、その生活や考え方、背景などが見えるように描かれている人物はひとりもいない。つまり、薄っぺらで底が浅いのだ。
春菜の姉の友だちで妊娠した娘がいたけど、彼女の描き方もひどい。フツー、妊娠したことを友だちの妹なんかに聞かれたくないだろ。まして、同情されるなんて・・・。さらに、妊娠したことがいつのまにか街で噂になっているなんて、それじゃ外も歩けないだろ。
春菜がエッチした相手がなぜヒロユキだったのか? 春菜とダイゴの関係はどうなのだ? 医者の息子のミツオはどういう立ち位置なのだ? ということが、まったく分からない。で、コトが露見してヒロユキが家族とともに街を離れるとき、駅舎で春菜の姉の友だちと遭遇するのだけれど、あの2人は以前に会ったことがあったっけ?
コトが露見して臨時PTAが開かれた席に、春菜がエッチしたヒロユキの母親が出席するって、あり得るか? あり得ないだろ。
命に別状ないと言われていた祖母(草村礼子)が、1年後遺影になっている。おいおい。ここで殺す必然性はどこにある?
出産するのは農作業小屋だけれど、あんなところで産めるのかい? 医者の息子は医学的知識はなかったはずだし、クラス委員長も図書館の本程度。それで、どうやって胎盤を処理し、へその緒を切ったんだ? とか、いろいろアラばかりが目に付いてしまう。むしろ、本でも見ながら、こう書いてある、ああ書いている、なんてヨロヨロしながらなんとか産ませた、ぐらいの方がよかったんじゃないの?
最後に、教師(麻生久美子)が子供たちに、「みんなは知ってたの?」と聞くと、クラス委員長の娘が「私がみんなをまとめました」なんて、偉そう口調でいうのだけれど、フツー仲間の前でそんな言い方はしないだろ。というわけで、奇想天外なバカ映画だった。でも、寝なかったけどね。
ビューティフル・カントリー10/23シネマート六本木スクリーン4監督/エズメラルダ・カラブリア、アンドレア・ダンブロジオ、ペッペ・ルッジエロ脚本/---
第21回東京国際映画祭 natural TIFF。原題は“Biuiful cauntri”。イタリア映画。イタリアのカンパニア州にはゴミ投棄場所が多く、閉鎖されて後も不法投棄が止まらないという。その背後にはマフィアと、マフィアとつながりの深い為政者がいる、という。で、この映画ではアポなしの突撃レポートを行なったりして、戦いを挑んでいく。しかし、ツッコミが弱いのだよね、これが。レポーターは施設の警備員に文句をいい、役所の人間に疑問を投げかけ、国会議員にも食ってかかる。しかし、言葉では登場するマフィアに迫るものはひとつもない。
何とかいう企業もやり玉に挙げられているが、その会社の人は登場しない。なんか、日本のテレビ局の方が、もっと鋭いツッコミを入れながら取材するし、しつこく追い回す気がするなあ。・・・というレベル。マイケル・ムーアのドキュメンタリーなら、どこから切っていくだろうか、と思ってしまう。
なので、50分ぐらいまでは何とか見ていたんだけど、いつまで経っても「ひどい、ひどい」を繰り返すような塩梅で、革新に迫っていかない。で、だんだん飽きてきて、眠くな〜る。一瞬寝ただよ、後半も押し詰まってから。やっぱ、表現も内容も、どんどんエスカレートしていった方が、面白くなると思うんだけどねえ。
エルサレム行きチケット10/23Bunkamura ル・シネマ2監督/ラシード・マシャラーウィ脚本/ラシード・マシャラーウィ
第21回東京国際映画祭 ラシード・マシャラーウィの世界。原題は“Tadhkirah ila al-Quds”で、英語タイトルが“Ticket to Jerusalem”みたい。
「ライラの誕生日」の監督の作品。こちらは2002年の映画だ。検問所で隔離されている地区をまたぎ、巡回映画を行なっている男の話。見せるのはアニメで、学校や難民キャンプを回っている。ほとんどボランティア。クルマに映写機を積み、忙しい。妻は救急車で働く看護士。すれ違いが多い。よく分からないのだけれど、妻とその両親はヨルダン(だっけ?)の難民キャンプにいたのを、ラマラに移ってきたみたい。で、パレスチナは現在イスラエルの統治下にある。エルサレムやガザ、西海岸への移動は検問所を通過するので、クルマでの移動ができない時もある。そういうときは映写機を手押し車に乗せて検問所を通過したりする。そんな、巡回映画に没頭する夫を、妻は少し疎ましい。といって、いさかいになる程ではない。
ある学校の女教師から、うちでも上映して欲しいと請われ、エルサレムを訪ねる。しかし家はイスラエル人の入植者にほとんどが占拠され、自宅の一室しか使えない状態。その家の中庭で映画を上映したい、と女教師が言う。しかし、同居する老母は、そんなことをしたら何をされるか分からないからやめておけ、という。しかし、イスラエル人たちはトイレに鍵をかけて使わせなくしたり、残る一室からも追い出しかねない状況。老母も、中庭での映画上映に同意する。足繁くエルサレムに行く夫に、浮気の嫌疑をもった妻。昔なじみで喫茶店のオヤジをやっている男の所に行くと、件の家に連れていってくれ、老母に会わせてくれる。あんたの旦那の浮気相手は、この人ですよ、と。安心する妻。壊れた映写機が直ったので、「ニューシネマ・パラダイス」を上映しようと、妻と一緒にエルサレムに向かうが、検問所は通過できず、その日はあきらめる。そして、いよいよ、中庭での上映日。やはりクルマでは行けず、近所の自動車修理工の友だちに手伝ってもらって山越えし、荷車でエルサレムへ。中庭には椅子が用意され、いよいよ上映開始。エルサレムに住むパレスチナ人もたくさん集まり、アラブ映画が上映される。妻もやってきた。イスラエル人たちも、何気なく映画を見ている。そして、巡回上映は、明日も続く。
という内容。パレスチナの状況をよく知らないのだけれど、それでも何となく、物語は理解できる。映画への情熱、映画が人と人とを結ぶという信念のようなものが伝わってくる。それにしても、イスラエル軍の兵士や戦車、装甲車、検問所、街中などはどうやって撮影したのだろうかと、不思議になった。
●ティーチ・インは、監督だけ。奥さんは出席しなかった。しかし、この質疑応答で、内容の理解は深まった。この監督はドキュメントとフィクションをコラボしたような映画をつくっているということらしい。2002年は、イスラエルが再びパレスチナを統治しようとしていた時代で、登場する検問所や戦車はみな本物。そこでのやりとりは、実際に起こったことだという。その上でどうやってフィクションにつなげていったのだろう? という疑問は残るけどね。それから、パレスチナには映画館は一軒しかなく、映画に登場した水パイプ屋の主人が経営しているものだとか。で、1995年ぐらいに巡回映画を思いついて、実際に見せていたんだとか。きっかけは「ニューシネマ・パラダイス」だったらしい。しかし、2002年頃には巡回映画も難しくなり、それでこの映画の企画を考えたのだとか。以上は司会者の質問による答え。救急車に、アメリカがサポートしている、という文字があったが? と言う質問の答えが面白かった。アメリカは、パレスチナに医薬品や救急車を支援しているのだそうだ。そして、イスラエルには戦車を提供しているのだとか。笑える話である。入植者が家を占拠、というのは、監督が「ビハインド・ザ・ウォー」という、実際に家がひと部屋ずつ次々と占拠されている様子を描いたドキュメントをつくったことがあって、それを下敷きにしているのだとか。また、あえてエルサレムの家の中庭で上映したのにはわけがある、と。自動車修理工の友人にエルサレムでの上映を告げると、「エルサレムなんて、もう失われたじゃないか」といわれてしまう。それにたいして主人公は「行かなければ、存在しなくなってしまう」と答える。あの会場には、エルサレムにまだ住んでいるパレスチナ人が集まってくる。エルサレムには入植者たちに囲まれながらも、パレスチナ人もいるのだということを示したかった。パレスチナ人が仲間のパレスチナ人を呼んでくる、ということが大事だった。というような話であった。なるほどね、と言うところが少なくなかった。
それにしても、映画が終わると観客の3/4ぐらいは帰ってしまう。事前に、上映後に監督が来てティーチ・インがある、とアナウンスしておけば、残る人ももう少し増えるのではなかろうか。と、思うね。
The Audition〜メトロポリタン歌劇場への扉10/24Bunkamuraオーチャードホール監督/スーザン・フロムキー脚本/---
第21回東京国際映画祭 特別上映。メトロポリタン歌劇場で毎年開催されているという、オーディションの模様を追ったドキュメンタリー。合格したら具体的に何かある、というようなものではないみたい。最終選考に残った11人(だっけかな?)が、メトロポリタンで一般観衆の前で歌える、ということと、次のステップが拓ける、ということがあるコンテストみたい。1次、2次のコンテストは地方、地区予選で、それに通過した22人の準決勝から追っていく。22人は合宿でもしているみたいな感じで、個人にあったレッスンを何日か受け、準決勝に臨む。その結果半数が決勝に通過し、その11人がメトロポリタンのステージに立つ。で、最終的に合格者は6人。「アメリカン・アイドル」と同じ様な感じで、でも、こっちはクラシック。華々しさや大衆受けはないけれど、真剣さは負けない感じ。
22人のうち、冒頭から追っていくのは22歳の男性。後は、30歳の黒人男性、高音に自信ありでハイC9回の歌を選択した男性、太った女性2人、痩せた女性1人の、計6人を主に追っていく。この中でも、22歳の男性、高音得意の男性、痩せた女性の3人の扱いが多く、最終的に痩せた女性は最後で落ち、他はみんな合格する。あまりフィーチャーされなかったもうひとりの太めの女性が合格する。
110分ぐらいの映画で、60分目には決勝が始まるのだけれど、あと50分どうやってもたせるのか、心配になる。だって、個人の私生活を追うとかいう、よくある演出はしないのだもの。どちらかというと、レッスンの模様と最終選考の過程を淡々と映していく感じ。そのうち飽きるかも、と思っていたら、最終選考にはいると目がパッチリ冴えてしまった。やっぱり、勝ち抜いていく、落ちていく、という他人の仕合わせ不幸せを見るのは、人間にとっての興奮材料になるのかもね。それにしても、あのアメリカに、オペラを歌おうと志す人もたくさんいるのだね。
最後に、12人の現在が紹介される。決勝を通過した大半は、大きなステージを体験している。まだ研修中という人もいたけどね。また、最終選考に落ちたけれど、ちゃんと活躍している人もいる、と紹介される。こういう、あの人は今、という切り口もよくある手だけれど、こういうのは観客の楽しみでもあるのだよね。
上映後、映画の中で決勝を通過したアンジェラ・ミードという太めの女性が登場し、2曲披露してくれた。しかし、最前列のカメラのひとりが最前列をうろうろし、さらに、上手近くにある通路に入り込み、シャッターを押しつつげけやがる。しかも、バシャンバシャンとシャッター音を轟かせる。うー! うっとうしい、邪魔くさい。誰も何も言わないというのが、不思議だね。本当に、カメラマンという奴は・・・。
その木戸を通って10/24Bunkamuraオーチャードホール監督/市川崑脚本/中村努、市川崑
第21回東京国際映画祭 特別上映。5時30分からスタート、かと思いきや、最初にゲスト。浅野ゆう子と中井貴一が登場。監督は肉と卵しか食べず、煙草は4、5箱も吸っていたとか、つまらないことしか話さなかった。ただひとつ、浅野の「照明をほとんど使わなかった」という話が興味深かった。言われてみると、全体に回るような光はなく、全体が暗部で、顔や手にスポットを当てるような光の使い方をしている。これはこれで、江戸時代のリアルを追求したのも知れない。2人が登場すると、最前列のカメラがフラッシュ! 司会の女性が、あとでフォトセッションの時間を設けるのでインタビューの間は撮らないで、と言ってるにもかかわらず、何人かのカメラマンはバシャバシャフラッシュ焚いて撮っている。でも、誰も文句言わない。まったく他人の迷惑を考えないバカメラマンだね。
1993年製作、日本初の本格的ハイビジョンドラマだという。BSで一度オンエア。あとはヴェネチア映画祭でフィルム上映されただけという。それを今さらの公開に先駆けての上映。しかし、発色がとても悪い。全体に露出オーバー気味で、乾燥した感じに見える。雨のシーンも瑞々しさは感じられない。緑や赤の深み、画面の奥行き感はまるでなし。オーチャードホールの光源は弱く、ただでさえ画面が暗いのに、これではなあ・・・。ハイビジョンの元データが残っていて、それからフィルム化したらしいが、15年であんなに色褪せるものなのか? 人の動きも、ところどころコマ撮り風にカタカタするところもあったりして、質的にはかなり悪い。さらに、オーチャードホールのせいだと思うけれど、音が反響しすぎてセリフが聞き取りづらい。
つくりは、テレビを意識したものだと思う。画面は人間とセリフが主体で、画面構成もかなりシンプル。あまり金をかけていなさそう。まだカメラがでかくて機動性がなかったからなのかも知れないけれど、画面のダイナミズムは感じられない。話もシンプルすぎて、とくに作り込みをしていない様子。これを映画館で金を取って見せるのか? と、ちょっと疑問を感じてしまった。いくら市川崑が撮ったからっていってもねえ・・・。
原作は山本周五郎。むかし読んだことがあるが、うろ憶え。でも、途中からオチが蘇ってきた。ただし、現在の“ふさ”を見に行くところがあったかどうかは分からない。
家柄関係が、分かりにくい。平松正四郎(中井貴一)は、婿だ。で、石坂浩二が父親役なんだけれど、あれは実父なのか養父なのかが分かりにくい。フランキー堺の上司は、石坂と仲がよいようで、それで中井の面倒も見ているという関係らしいが、では、中井の養父母は? とか、基本的なところの関係がつかめない。で、Webで配役表を見ると、石坂浩二は岩井勘解由となっているので、これは実父だなあ。で、江戸住まいか。すると、養父母はいないのか? 平松家に婿に来て家を継いだら、すぐに養父母が死んだ? それとも、江戸にいるのか? いやまて、夫が江戸詰でも妻は地方暮らしだよなあ。中井は勤めに出ているのだから、部屋住みではない。となると、養父はいないということなのか? 子のない平松家が、主人他界に際して婿養子をとり、家を継がせたのか? などと、考えながら見てしまった。
で、昔は武家のことを知らなかったから素直に読んだけれど、いま見るといろいろ違和感を感じるところが多い。平松家は地方の藩の中級の家柄。ならば、もっと早くに養子をとっていてもおかしくないのではないの? しかも、城代家老の娘との縁談が整っているって・・・。すると、300石ぐらいあってもしかるべき。となると、住み込みの中間夫婦がひと組と、下女がひとりだけっていうのも、ヘンではないの? 下侍の2、3人いてもおかしくはないはず。というか、妾がいても不思議ではないよなあ・・・。いや、江戸から帰ってきたばかりで、そのヒマがなかった? とかね。いろいろとツッコミを入れたくなる映画であった。
内容は、時代小説の形を取ったSFなので、それはそれでいいんだけど。もうちょっとミステリアスな演出があってもよかったかも、と思ったりした。出演者に、出川哲朗というのがあったけれど、あの、お笑い芸人の出川? わからなかったけど・・・。
ボディ・ジャック10/27キネカ大森1監督/倉谷宣緒脚本/藤岡美暢
元活動家(高橋和也)に幕末の志士(武市半平太=柴田光太郎)が乗り移ってしまう話。タイムスリップ的なエピソードがあるかと思いきや、そういうのは全くなし。なぜ元活動家に乗り移ったか? 革命を志す気持ちが共通しているから・・・って、それって説得力ないだろ。武市が乗り移ったのは、他の、成仏していない志士を成仏させるため、らしい。武市に暗殺された岡田以蔵の霊がいろんな人に乗り移り、悪さをするのだけれど、それが元活動家に見えるようになる・・・。うーむ。単に武市が乗り移ったからといって、どうしてそうなるのだ? というような憑依関係と霊視に関しては、とてもいい加減。最後は、武市の霊と岡田の霊が斬り合い、岡田が武市をピストルで狙ったところに坂本竜馬が登場し、みな成仏するというとても説得力のない話。だいたい、霊同士で斬り合い、負けた(斬られた、または、撃たれた)方はどうなるっていうの?
それにからんで、元活動家の同僚の娘。元活動家の昔の恋人の妹で、現在は元活動家の妻。その娘。娘をストーカーする青年などが登場するが、みんなとってつけたようなエピソード。しかし、元活動家の妻はどうみても40歳を超えている(星ようこ。調べたら1966生だった)女優だと思うのだけれど、その彼女がセーラー服の女子高生を演ずるところは不気味であった。
それにしても、1969年の活動家が「これからは内ゲバが激しくなる。本当の革命はできない」と、簡単にヘルメットを脱いでしまうのはどんなものか。武市が目をつけた活動家なら、もっと純粋に燃えていてもいいんではないの? 1969年の20年後っていったら1989年のはずだけど、そのときにはまだコンピュータもPC-98の時代で、ノートパソコンもあんな立派なのはなかったよなあ・・・と思いつつ見てていた。まあ、2008年の現在を舞台にしたら活動家は60歳になっちゃうから20年後にしたんだろうけど。ちょっと時代設定としてはつらいものがあるね。それから、元活動家はコピーライターで、結婚式場のキャッチが「きっと思い出になる恋がある。」だっけ? そんなようなコピーだけど、出来がよくないね。恋が思い出になってしまったのでは、その恋は現在、かなり薄れているってことになるわけで、結婚するとだんだん覚めてくる、と読めてしまうではないか。
さて、原作はなんと幸福の科学からでているのだった。原作者の光岡史朗のブログを見ると「ガンは「心」がつくりだす病気なのだ」とか、アブナイことが書いてあったりするよ〜
イースタン・プロミス10/28ギンレイホール監督/デヴィッド・クローネンバーグ脚本/スティーヴン・ナイト
原題は“Eastern Promises”。素材はいいんだけど、料理がいまいちだよなあ、なんて思いながら見ていた。舞台はイギリス。幼い妊婦が死に、胎児は生き残る。看護士のアンナ(ナオミ・ワッツ)は、死んだ妊婦の日記をちょろまかすのだけれど、その内容は恐ろしいものだった・・・、という流れ。イギリスにおけるロシア・マフィアの内紛と、潜入捜査がからんでアクションとミステリー性に富んでいるかと思いきや、でろんどろんとした展開で、中盤はとても退屈。ミステリアスな雰囲気や、奇妙なねじれもとくにない。ぶっきらぼうで、たどたどしい感じがつきまとう。それが、後半のサウナでの裸の乱闘シーンで目が覚めた。チンポが見えるほどのアクションで、ここは凄い。けど、結局、面白かったのはその裸の乱闘シーンだけで、全体にもっと面白くできるのにあえて面白くしていないみたいな感じで、つらかった。
で、エンドクレジットを見たら、なんと監督はクローネンバーグだったのね。いやその。ギンレイで上映する映画だから見に行っただけで、監督がどうの役者がどうのというのは、ほとんど考慮せずに見ているのだ。なので、見終わって「おお、なるほど」ということは少なくない。監督の名前ぐらい気づくだろ、と思われるかも知れないが、そういうのも気にしないで、まったく予断なく見ることも少なくないのだよ。
というわけで、あのだらだらした映像と展開は、クローネンバーグだったのだね。なるほど。って、納得したから、それでよしとするわけではないけどね。
マフィアの親分の悪行がつづられ、流出させたくないロシア語の日記・・・。その日記をめぐって・・・という設定はよくある。なので、もっと日記の争奪戦で引っ張れるのに、そういうことをしない。たとえば、アンナは日記に挟まれていた名刺を頼りにロシア料理店に行き、そこの主人にあれこれ話して日記の所在も明かしてしまう。それだけではない。数日後には、日記のコピーをもっていって、料理店の主人に渡してしまうのだ。その主人がロシアマフィアの黒幕だとは知らずに・・・。という展開で、ハナから日記の行方なんかどうでもいいような話にしてしまうのだ。それってあり? もったいないではないか。まあ、フツーのアクション映画にしたくない、という意図があるのかも知れないけどさあ。
で、あれこれあって、アンナはロシアマフィアの用心棒ニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)と心を通じ合わせる間際までくるのだけれど、ニコライの存在がとても中途半端。どうなっているんだ、と思っていたら、なんとニコライは警官で潜入捜査をしていたのだった。「インファナル・アフェア」かよ、今度は。といっても、刑事ドラマにある緊張感なんかあんまりなくて、どうもズボラな感じなのだよなあ。
本来なら映画として見せると面白くなりそうな部分をつまらなく見せる、または、省いてしまい、どうでもいいような部分をつないで1本つくってしまいました、みたいな感じがして、いかにもクローネンバーグだねえとは思うのだけれど、やっぱり退屈だよ。
マフィアの親分と、そのバカ息子。それに親分の運転手ニコライが、マフィア側の主要人物。ニコライはニヒルな部分を残しつつ、バカ息子に取り入る。バカ息子はオヤジの存在がうとましい。で、バカ息子はマフィア仲間をクルド人の床屋に命じて殺させるのだけれど、ここの意味というか理由がよく分からなかった。バカ息子に都合の悪いやつを殺させたのか? で、殺されたマフィア仲間の弟と名乗る2人連れが登場し、実歳に手を下したクルド人床屋の息子を殺害する。クルド人床屋は、親分に取り入ろうとしつつ、ニコライをサウナにおびき寄せ、マフィア仲間の2人にニコライを殺させようとする。しかし、ニコライがかろうじてかわし、2人を返り討ち。ニコライはバカ息子を手玉に取る関係となり、「そのうち親分はいなくなる」なんてバカ息子をおだて・・・で、次のカットで、ニコライはマフィアの幹部の椅子に座っている・・・というような感じで終わるのだ。なんか、ブツ切れだよな。バカ息子と親分であるオヤジの関係、バカ息子が仲間を殺した理由、仲間の弟とは誰なのだ? 親分の傘下にいる他の親分のところの者たち? しかし、その抗争などは描かれていない。
親分は、そんな偉そうにも見えない。ただのロシア料理店の主人に見えてしまう。ここで連想したのが、東京タワーの近くにあるモスク建築のロシア料理店で、あの店の地下はロシア大使館とつながっているという話だったよなあ、なんて思いながら見ていた。
で、アンナの存在は、実は大して影響がないのだよね。冒頭近くで日記の存在を親分に見せてしまっているのだから。しかも、アンナの叔父が訳している、としゃべってしまっているのだから、親分とすればアンナと叔父夫妻をさっさと抹殺すればそれで済んでしまうはず。なのに、なかなかそうしない。せいぜい、ニコライに叔父を消すように命令するだけ。でも、ニコライは叔父を逃がしてしまうのだけどね。でもさ、潜入捜査をするような人間が、そう簡単に一般人を信用してしまっていいの? 叔父が発見され、叔父夫妻やアンナから情報が漏れることも十分考えられるだろ? とかね、思ってしまう。
で、ラストはどうなっているのだろう? マフィアの親分は、年月が過ぎ去って死んで、息子がボスになったのか? 潜入捜査といいつつ、ニコライは完全なるマフィアになってしまった、ということなのか。うーむ。よく分からない映画であった。
容疑者Xの献身10/31キネカ大森2監督/西谷弘脚本/福田靖
冒頭からテンポよく、映像のキレもいい。知らず知らず話に引き込まれていってしまった。観客の心をつかんで話に引きずり込む、なかなか巧みな脚本だ。けど、半ばを過ぎたあたりから、少しユルくなってくる。ダンカンと松雪がホテルで会うのをつけ回す堤真一、そして、堤が福山雅治と雪山に行く辺りは、なんか、話が拡散して迷走気味。キレがなくなって、どうなるのだ? という疑念すら湧いてきた。まあ、原作がそうなのだろうから仕方がないのかも知れないけど、当初のノリが薄れていくのは、ちょっと残念。
終わってみて思うのは、堤が自殺しなければならないほど追いつめられていた、という風に見えなかったのがつらい。ここが、この映画の、というか、ミステリーとしての根拠になるべきところなのにね。親の世話をするため大学院に進めず高校教師になったから…なんて、説得力がなさすぎだ。環境がどうあれ、自分の信念を貫き通している人はいくらでもいるのだから。しかも、たまたま隣室に越してきた女性(松雪泰子)に一目惚れして生き甲斐が湧いてきた…って、安易だろ、それって。
不思議なのが、死体が松雪の亭主だ、と早々に分かってしまったこと。実はあの死体は赤の他人のホームレスなのだから、根拠となるのは自転車の指紋と、木賃宿にあったホームレスの毛髪などということになるわけだけれど、そんな簡単な工作で人ひとりの出自を誤魔化せるとはとうてい思えない。あの亭主がどこかで軽犯罪を犯し、指紋でも採られていたら一発でバレルではないか。だから、あの死体入替はかなり杜撰なものとしか言いようがない。
大学教授にして堤の同級生である福山は「彼は殺人なんか犯さない。数学をやっているのだから、もっと合理的に考える」というようなことをいっていたけれど、これも説得力がないセリフだね。しかしまあ、話としては、その定理を覆したのは、堤の恋心といいたいのだろうけど(冒頭に柴咲コウが伏線となるようなセリフ「恋がどうたら」を言っているし)、でもやっぱ根拠としてはイージーだよなあ。ありふれていすぎると思うし。
いったい堤は松雪にどれぐらい惚れていた、または、ストーカーをしていたのだろう? その部分がかなり曖昧にしか描かれていない。ホテルで写真を撮ったのは事実だろう。では、隣の会話を盗聴していたというのは? 堤が隣室の騒動に気づいたとき、盗聴マイクに頼らなかったということは、盗聴マイクは堤の工作だったのだろうなあ。では、堤が出した脅しの手紙は? あれも工作なのだろうか? でも、松雪が「今度はあの人(堤)のことを気にしながら生きて行かなくちゃいけないの?」と娘にいうのは、本心からだよなあ。となると、松雪は堤の存在を薄気味悪く思っていたのか? 堤に恋されていると感じていたのか? ストーカーされていたと意識していた? でも、そうだったら弁当屋にやってくる堤に愛想笑いはしないだろうし、亭主を殺ったあとで自室に堤を入れないだろう。このあたりの、堤と松雪との関係が、どうも隔靴掻痒。あ、でも、松雪の娘は堤のことを気に入っていたみたいだよね。ま、単なる隣室の住人にあんな笑顔を向ける人間なんて、この世に存在しないと思うけど。
というような、物語が佳境に入り、謎が解け出すにつれていささか退屈になってきたのは、以上のようないい加減さが見えてきたからだと思う。
伏線は、なんか、露骨に張ってある。ホームレスが消える、というのもはっきり過ぎるほど描かれている。どういう関わりをするのかまでは分からなかったけどね。松雪と娘にはっきりしたアリバイがある、ということから、犯行日を1日ずらしたのではないか、というのは何となく分かった。でも、死亡時刻を1日ずらす方法までは分からなかった。別の死体を使うというのは分からなかったけどね。それにしても、2つの死体を抱え、夜の東京を右往左往するのは、容易ではないと思うがね。数学者だったら、もっとも合理的な解は、自首だと気づくと思うのだけれどね。

 
 

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