2008年11月

ゲット スマート11/1MOVIX亀有シアター10監督/ピーター・シーガル脚本/トム・J・アッスル、マット・エンバー
原題は“Get Smart”。「それ行けスマート」の劇場版らしい。テレビ板は見てなかったけど。
ここが笑いどころなのだろうな、という個所はいくつもあるのだけれど、笑えるものはそう多くない。もちろんクスッと笑えるところもあるのだけれど、やっぱり日米の笑いの違いを感じてしまう。だって、あきらかに、こういうオチだろうなとミエミエなギャグがたくさんあるのだよ。それで笑えといわれたって、ねえ。それと、会話のギャグは、これはもうアメリカのものであって、日本人にはピンとこないものが多い。チャック・ノリスで笑え、と言われてもね。笑えないよ。
でも、エンドクレジットにメル・ブルックスの名前がでてきて、おお、と思ってしまった。
話は単純なんだけど、スマート(スティーヴ・カレル)とエージェント99(アン・ハサウェイ)がなぜチェチェン(だっけ?)からロシアに潜入するのか? ロシアにあるカオスという組織は何なんだ? なんで放射能なんだ? なんていう所が、よく分からないままどんどん話は進んでいき、2人はよく分からない場所に潜入していったりする。ちょっとした豪邸の一室にレーザー光線が張り巡らされていたり(何のためなのだ? っていうか、あの部屋自体がギャグかもね)、なんかいびつに細かかったりするのだけれど、まあ、そういう突っ込み所は多すぎて指摘するのもバカバカしいのでやめておく。っていうか、そういう設定自体のバカバカしさを楽しまなくちゃいけないのかもね。
でも、半分ぐらいは真面目な描写があったりして、底抜けにアホらしいバカ話でもないのだよなあ。その中途半端さが、まあ、そこそこいいんだけど。すべてバカだと「オースティン・パワーズ」みたいになっちゃって、とてもつき合いきれないものになっちゃうだろうけど。でも、なんでアメリカ人はこういう手合いのギャグが好きなんだろうなあ。
アン・ハサウェイは濃いけれど、角度によってはまあまあ可愛く見えるけれど、でも、イブニングドレスを着たりすると、かなり贅肉がついてきているのが分かる。バカ姉ちゃん役も、もうそろそろかもね。でも、あの顔立ちでは、そこそこの中年オバサン役は難しいかも。などと余計なことを考えてしまったりして。
飛行機が登場するシーンは「北北西に進路を取れ」、ベートーベンの第九の盛り上がりでドカン、は「知りすぎていた男」のシンバルを連想させる。巨大男が登場するのは007だし。他にも、あの映画? この映画? と思わせる場面はいくつかあった。
脇が豪華。あとで気づいたけど、大統領はジェームズ・カーンだったのね。他に、テレンス・スタンプ、ビル・マーレイ(木のうろから顔を見せるだけ!)と、往年の名俳優がでてる。集客力がまだあるのだね。なるほど。
ハンサム★スーツ11/4新宿ミラノ2監督/英勉脚本/鈴木おさむ
ほんわりと温い、たられば物語。話は単純すぎるぐらい単純。ぶ男(琢郎=塚地武雅)がハンサム(光山=谷原章介)になり、可愛い娘(寛子=北川景子)が…という仕掛けはミエミエで、意外性はまったくない。それでも、琢郎がいかにしてブス(本江=大島美幸)の正体は寛子ちゃん! と気づくのか、そのタイミングを待ち遠しく見ていくだけでも楽しい。
琢郎はハンサムになり、いきなりモデルにスカウトされてしまう。谷原章介レベルの男が街にいても、そうそう女は振り向かないと思うんだけど、女が群がってくる。こういう類型的な表現が、いかにも昔の活動映画風で映画でおかしい。…というようなステレオタイプなのだけれど、こういうのが単純に楽しめるのは塚地のキャラによるものだろうなあ。いっぽうの可愛い娘寛子ちゃんのオーラはいまいちかな。そこらにいるフツーの娘にしか見えない。もうちょっと、なんだな、ゴミだめに一輪のユリ的な輝きが欲しかった。
いちばん楽しかったのは、琢郎×本江の、ぶ男とブスのパートだな。ハンサムになって女たちからちやほやされるのも楽しいけれど、場末の定食屋で身の丈にあった相手と心を通わせるというのは、いつの時代にあっても安心させてくれる展開だ。なので、本江は実は、ブスーツを着て不細工になった寛子ちゃん! と気づいた後の、琢郎の本江への思いはどうなるのだ、という不安感がつきまとう。もともと本江という存在はなかったものではあるけれど、けれど、人間は中身である、というこの映画のテーマからすれば、なんだ、やっぱりブスより美人がいいんじゃないか、ということになってしまうわけで。そこのところは、永遠に解決しない問題だろうね。映画としても、観客の大半を占めるフツーもしくは不細工な男たちの、いつかは俺だって美人と…という願いに応えてやらないといけないのだからね。
というわけで、光山×美人モデル(來香=佐田真由美)の組み合わせのパートは、それほど面白くない。だって、そのうちお湯を浴びて試着用スーツがよれよれになるんだろう、それはいつ? と分かりながら待ち受けているのだから。ま、それが楽しいと言えばいえるんだけど、ちょっと哀しいしね。だいたい、中味が庶民の琢郎で外見が派手な光山なら、いつかはそのアンバランスがバレルわけだし。モデルの世界という虚飾の世界に、ハンサムスーツを着た虚ろな琢郎が混じり込んでも、要するに中味のないからっぽな世界で浮遊するだけの話なのだから。
佐田真由美は、これまで印象がなくて。香椎由宇かな? と思いつつ、ホントにそうかな? なんて見ていた。車椅子の池内博之と本上まなみのカップルは、もう少し、障害者でもこんなことがデキル的な使い方はできなかったのかなあ、と、ちょっともったいない感じ。とはいうものの、総じていい感じで見終えた。とくに、いいことした人を発見してデジカメるという琢郎×本江のシーンは、ちょっとうるうるしてしまったではないか。スーツを提供する秘密組織が紳士服の青山、というのも笑える。それにしても、なんのためにあんなスーツを発明したのかな?
渡辺美里の「My Revolution」が、主人公の好きな曲としてがんがん流れるのだけれど、小室哲哉なのだよねえ。ははは。先日、5億円詐欺で逮捕されちゃいましたが…。
ICHI11/4上野東急2監督/曽利文彦脚本/浅野妙子
綾瀬はるかが市を演ずるなんて、これはきっと際物だろうと侮っていたのだけれど、本寸法に上出来なので驚いた。ご立派。北野武の座頭市よりはるかに優れている。話は「用心棒」+「座頭市」。そこに真剣で母を失明させたことがトラウマになり剣が抜けなくなった、という浪人(大沢たかお)は、「雨あがる」の浪人・寺尾聰みたいな感じ? 他に似た設定の浪人は他にもいると思うけど、思いつかない。「用心棒」では宿場に2つの組があって対立…だったけれど、「ICHI」では傾き者みたいな格好をした軍団が登場する。真面目な渡世人を野放図な連中が脅かす、という意味では「七人の侍」の野武士を少し連想させるかも。というわけで、枠組みがかなりキッチリ出来上がっている。構造はオーソドックスで、かつての時代劇がもっていた要素をすべて盛り込んでいるので、その意味で直球ストレート。
綾瀬はるかはアイドル的な要素を残しつつ、冷酷な娘をうまく演じている。最後に、「境目が見えるようになった」というなど、心の機微も表現できていると思う。ひょっとして、シリーズ化されるかな? 窪塚洋介がいい感じになってきた。
大沢は、トラウマが影響して大事なところで剣が抜けない。そのお陰で、綾瀬に何度も助けられる。その大沢が、クライマックスで万鬼(中村獅童)を相手に、それまでとはうって変わって、すっと剣を拭いてしまう。おいおい。トラウマが解錠されたのはなぜなんだ? なんか、ちょっと説明してくれよ、だね。この、大沢が剣を抜く、については、“刀を鞘に収めず、抜き身でもっていればいいじゃないか”とずっと思っていた。なので、刀が抜けずにいる大沢に、誰かが抜き身の剣を放り投げるとか、そういう手続でもあって剣を手にできるのかな? と思っていたのだけれど、そういうことではなかった。
殺陣に迫力を出すため、CGの血糊がうまく使われている。斬った瞬間、刀から血糊が飛び散るのだ。斬ったばかりの刀を鞘に収められるのは、この素早い刀さばきがあるから? でもやっぱり気になるよね、刃についた血糊…。鞘がべとべとで暫くして固まって刀が抜けなくなるだろ。とか思いながら見てしまう。そういうリアリティは考えてはいけない映画なんだけどね。
しかし、やっぱり気になるのは万鬼とその配下だな。関八州をも意に介しない連中が、宿場町の弱々しいヤクザを相手に半数以上もやられてしまうというのも、ちょっとねえ。そこまであの宿場町とヤクザ白川組にこだわる理由づけをしないと、納得できないところがある。もの凄い金塊が眠っているとか、とてつもない恨みがあるとか、なんかないとね。
イーグル・アイ11/6上野東急監督/D・J・カルーソー脚本/ダン・マクダーモット、ジョン・グレン、トラヴィス・アダム・ライト、ヒラリー・サイツ
原題は“Eagle Eye”。制作総指揮にスピルバーグ。というわりに、フツーな感じ。
突然、アパートに銃や爆薬が届けられ、電話が鳴る。「30秒で逃げろ、FBIが来る」そんなことを言われても真に受ける奴はいない。というわけでショーはFBIに捕まるのだけれど、またまた誰かの手で脱出させられ、あそこへ行け、ああしろ、こうしろ、と携帯や街中の電光サインで命じられる。他にも同じように動かされている人がいて、ショーはそういう中のひとり、レイチェルとともに行動することになる。自分がいったい何のために、何をしているのか分からずに…。という話。
始めのうちは、ずいぶん手の込んだ指示を出すグループがいるもんだ、と思っていた。そんなことを指示するくらいなら、自分たちでやった方がはるかに簡単だ。しかも、あらかじめお膳立てをしておくにも、かなりの労力と時間が必要。そんなにしてまで、他人を操り行動させる意味はあるのか? と。しかし、国防省地下のコンピュータルームが登場し、しばらくしてそのカラクリが分かった。分かった途端、話が急につまらなくなって眠くなった。だから、ラスト30分前ぐらいは眠くて眠くて仕方がなかった。
実は、最初に地下のコンピュータ室が出たとき、連想したのは「2001年宇宙の旅」のHALだった。意識を持つコンピュータ。でも、そのときは、こいつがすべてを企み実行したとは思わなかった。そうか、と分かったのは、ショーの双子の兄がコンピュータと口論する辺り。そーか、そーか。でも、コンピュータが意志を持ち人間に刃向かうという話は、それこそ昔からたくさんつくられていて、とても新鮮味はない。またか。そんな感想しかなかった。だから、がっくりきて眠くなったのだと思う。
カラクリが分かり、前半からの疑問符はあらかた解消したけれど、今度はコンピュータが刃向かうようになった理由が、いまひとつよく分からなかった。葬送中のアラブ人(?)を誤爆(というか、手配中の人物だ、とする根拠が51%しかないので「暗殺するな」とコンピュータは主張したのに、大統領は暗殺を命じた)したせいで、全世界でテロが発生。その原因をつくった大統領に復讐するため(というか、正しい判断を下せない奴、とコンピュータが判断して排除するため)、コンピュータが意思を持って勝手に動き出した、というのでいいのかな? でも、コンピュータが末端の手先として選んだのが双子の弟ショーで、ショーに大統領暗殺を手助けさせるため(?)に、あんな大がかりなことをする、というのはやっぱり合点がいかない。楽器に爆弾を仕込むより、もっと簡単な方法があるんじゃないの?
それにしても、現在のところ、いくらネットにつながっている端末だからといって、あそこまで情報を収集できないだろうし、世間のモノをコントロールできるはずもないだろう。その意味で現実味はない。でも、あと20年もすれば、映画ぐらいのことはできてしまうのかな、という危惧もあったりする。もっとも、それをするのは頭でっかちになったコンピュータではなく、人間だと思うけどね。
あと、前半の疾走するようなアクション、とくにカーアクション。みんなブツ切れで編集されていて、迫力がない。やっぱ、アクションは一発撮りで継ぎ目なく見せないと、面白くないよね。
たみおのしあわせ11/14ギンレイホール監督/岩松了脚本/岩松了
日常の中のどうでもいいような行動や反応に焦点を当てて積み重ねていったような映画。ストーリーはあってなきのごとし。エピソードの積み重ねで進んでいく。5月から6月までの日時がタイトル表示されるけれど、ほとんど意味はない。
お茶の販売会社に勤める父(原田芳雄)と、どこかに勤めている息子(オダギリジョー)がいて。息子は気むずかしいらしく、見合いしてもなかなか結婚にまでたどり着かない。が、たまたま見合いした相手(麻生久美子)に好かれたみたいで、結婚することになりそう…。母は15年前に交通事故で亡くなり、2人暮らし。住んでいる家は、実は妻の弟のものだけれど、その弟(小林薫)はアメリカに行ったきりもどってこない。というのが、主人公たちのアウトライン。原田は従業員とつきあうことが多く、かつては石田えり、現在は大竹しのぶとつきあっている。そこに、アメリカを切り上げた義弟・小林がもどってくるが、なんと小林は大竹と気があってつきあい始める。一方、麻生は原田に関心を持ち始める。しかし、オダギリはそんなことも知らず、いよいよ結婚式!
という流れなのだけれど、ほとんどドラマらしいことが起こらない。盛り上がりもない。小ネタも、「時効警察」のような派手なギャグではなく、地味系。なので大笑いはなく、ときどきクスクス程度。で、いったい何が言いたいのだと見ていくと、なんと、結婚式で話が崩れていく。神父に「この女性を妻として娶るか」と聞かれて答えられないオダギリ。それをみている父・原田は脂汗。で、原田が壇上に駈け上がり、オダギリの手を引いて逃走するのだ。ここは、まるっきり「卒業」のパロディで、十字架で門に鍵をかけ、バスの後部座席に乗るのだ。そのバスは高原の方に行き、2人が降りると、そこに母親らしき女性が和服に日傘で現れ、背の高い夏草の中に入ってしまう。その後を、父・息子が追って入っていく…って、ここは「フィールド・オブ・ドリームス」ではないか。すると、母親はやはり亡霊で、それについて行ってしまう2人は、死んだということか? それとも、世間とはつき合いきれずに世捨て人のように日々を送っていく、ということの示唆か? よくわからんです。
どーもその、父と息子のべったり関係が気持ち悪い。父は60前後で息子は30ぐらいなわけで、そういう2人がする日常会話ではないようなものが繰り広げられる。なんか、変。麻生は遊び人だったようなのに、なぜ見合いなの? はたして麻生は原田が好きになったのか?(麻生が原田に贈ったネクタイ。その裏にあった印のようなものには、何か意味があるのだろうか? 何て書いてあるか分からなかったんだけどね) 大竹はなぜ小林のことを好きになったのだ? とか、昔つきあっていた石田を息子の結婚式に呼ぶか? といったような合点がいかないことばかりで、どーも、いまひとつ面白がれなかった。
エンドロールに光石研と片桐夕子とあったけれど、どこにいたのかさっぱりわからなかった。ちょっと悔しい。
ブタがいた教室11/18新宿武蔵野館1監督/前田哲脚本/小林弘利
10時50分の回なんだけど、133席に20人ぐらいしか入っていない。武蔵野館でいまいちばん大きな小屋なんだぜ。こんなんでいいのか? 映画は素晴らしくいいのに、こういう映画に客が集まらないというのは、どっかおかしいのではないかと思ってしまう。
食に関する映画は最近少なくない。生き物を食べるという、同じ系列のドキュメンタリーに「いのちの食べかた」というのがあった(実は見てないんだけどね)。身近な食べ物に関して、我々は知ることが少ない。とくに、豚や牛、鶏などの動物は、すべて加工されているものしか見ないから、そこに命があるということを見ないように生きることに慣れてしまっている。豚も牛も鶏も、犬やネコと同じように成長し、そして、誰かがどこかで殺し、精肉加工されているのだけれど、それは見えないような仕組みになっていて、それに誰も異を唱えないようになってしまっていてる。人間の死も同じだ。死ぬところや死体は見えないようになっていて、だから、死はケガレとしての位置づけがますます高まってしまっている。それでいいのか? ということは、少なからずの人が感じているけれど、それを映画にするとなると、なかなか難しかったに違いない。だって、ブタを食べる、ということ自体がドラマであって、それ以外の、フツーの映画で描かれるような人間ドラマは、どうやったって負けてしまうだろうから。なので、いったいどんな展開にするのかと思っていたら、これがもう、前半は子供たちのブタへの愛着一辺倒。で、後半は食べるか否かの議論。それだけで最後まで描ききってしまっていた。
後半の白眉となるのが、生徒たちの白熱した討論だ。クラス26人が、卒業間近になってブタをどうするかで討論する。先生(妻夫木聡)は、最初から「ブタを育てようと思う。そして、食べようと思う」といってブタを連れてきた。けれど、育てていくうち、愛着が湧いてくる。それで、誰かに引き取ってもらうとか、これからも自分たちで面倒を見るとか、現実性のない案を提示する生徒が半数。いっぽう、食肉センターに引き取ってもらうというのが半数。その溝は埋まらない。最終的には先生が食肉センター行き、の1票を加え、食べられる運命になるのだけれど、その結論にたどり着くまでの議論の過程の凄さは、これはもうフィクションをはるかに超えて凄い。すべて合わせると議論のシーン30分以上あったと思うけれど、まったく長すぎるとは思えない。真剣な眼差し、涙、震える唇なんかを見せられて、あれで感動しない人はいないと思う。おそらく、半分程度はノンフィクション=ドキュメンタリーではないだろうか。登場する6年生たちはある程度の期間、本当にブタを育てたのだと思う。そして、その彼らに、ブタの行く末を本当に議論させたのだろう。それでなくては、あの迫力ある議論は撮影できなかったと思う。
そのうち食べる、と分かっていても、育てていくうちに情は移る。どうしても食べられなくなる。飼っているブタは、他のブタとは違って見えてくる。でも、所詮はブタ。食肉のために品種改良されてきた種に違いはない。子供たちの心も変わるし、先生も一方的に「食べよう」といえなくなっていくのだね。

クラスの討論では、3年生のクラスに後を託すが13人で食肉センター行き13人とぴったり分かれ、最後に妥当な結論へと導かれるのは、作為が見えすぎでいまいちだけど、これはまあ映画だからね、仕方がないかも。13対13にならず、3年生に託すが圧倒的多数だったら、先生は「そうしましょう」としたのか、ちょっと気になるのだけどね。あんなでかくなったブタを、下級生が育てるというのは非現実的だ。むしろ、3年生も子豚から育てればいいではないかと思ったりした。もっとも、1年であんなに大きくなるブタを、どうやって死ぬまで育てつづけるか、それは問題だと思うけどね。
親たちの反応も、もっと知りたい気がした。ちょっと薄すぎたかな。そういうなかで、もっとも印象に残ったのは肉屋わしている父親だな。「俺がさばかなくていいのか?」と冷徹にいうあの親は、素晴らしい。むしろ、「ブタを殺すなんて、そんなものは見せられない」と口を出す親はいなかったのだろうか、と気になってしまった。
他に、1つのクラスでブタなんか飼えば、他のクラスも「飼いたい」というだろうに。まあ、そういう部分はざっくり描かない、のかも知れないけど。
冒頭近くから、カメラはクラスの中の転校生の女の子をとらえる。彼女が生徒の中の主人公になるのかな、と思ったのだけれど、結局のところ、他の子供たちと同じ様な扱いになっていてしまう。本当は生徒の中の中心人物として描こうとしていたけれど、当初の意図とは別な方向に生徒たちの話し合いが盛り上がってしまったからなのかな。よく分からないけれど、成り行き上そうなってしまった、というのはあるかも。なんか、表現が中途半端な気がした。
最後に、トラックに積まれていくブタ。食肉センターの人たちのブタの扱いは、ペットに対するものではなくモノにたいするものだった。嫌がるブタの耳をもち、無理矢理荷台に追い込んでいく。これが現実だよ。子供たち。去っていくブタを追いかける子供たちを、荷台のカメラが写す。ちょっとだけ見えるブタの左耳に、赤いものが…。あれは、荷台に乗せられるときに引っ張られた耳からでた血、ということなのかな。
ハッピーフライト11/18キネカ大森2監督/矢口史靖脚本/矢口史靖
話はとても面白い。けれど、この監督は相変わらず画面や映像に対するこだわり、執着、美意識が足りない。なんか、映ってればそれでいい、みたいな粗雑な画面だ。物理的にざらざらしているということもあるけれど、絵画的な完成度を追求するそぶりもないし、役者を美しく見せようという気配もない。もし、あれをハリウッドで撮ったら、大がかりなセットやクレーンを使い、スムーズで華麗で美しく滑らかな動きで、夾雑物など画面に入り込まないように撮るだろうに。と思うと、イラつくぐらい汚らしくアバウト。照明もべたっと回り込むような照らし方で、うーむ、だよなあ。
宣伝では機長に挑む田辺誠一と新人CA綾瀬はるかがメインみたいな扱われ方をしているけど、そうでもない。田辺は主演といってもいい、かな、程度。綾瀬は他のもろもろと同格程度の出番だし、扱われ方もそう。たとえば中堅CAの吹石一恵、カウンター業務の田畑智子、平岩紙だって負けずにめだっている。いや、登場人物のほとんどは、ほぼ平等の群衆劇になっている。ま、ツッコミ不足はあるけれど、それぞれにいい味を出してはいる。カウンター業務の他に、管制官や天気予報などをしているチーム、整備員なんか、もっと知りたい! と思うようなところがたくさんあった。一方で、乗客は割とステレオタイプ。もうちょっと変人がでてくるとか、最後まで引きずる出来事のようなのがもうちょっとあってもよかったかも。せいぜい、無くなったレンチのありかと、男ひでりと悩んでいた田畑にアプローチしてきた二級建築士の話があるぐらいで、ちょっと物足りなかった。
ま、それにしても、面白い素材をあの程度に終わらせるのは、ホントにもったいない。もっとクオリティは上げられるはずなのにねえ。
ブロークン11/20テアトルタイムズスクエア監督/ショーン・エリス脚本/ショーン・エリス
原題は“The Brφken”。制作国はイギリスとフランス。不条理なサスペンスというかホラー風というか…。放射線技師の女がドッペルゲンガーを見る。いつしか、彼女の恋人が、いままでとは違うようになっている。弟(?)の恋人が、ドッペルゲンガーに殺される。父も、ドッペルゲンガーに殺される。自分もドッペルゲンガーに殺される…と思っていたら、実は“自分”をすでに殺していたドッペルゲンガーの方だった。ただ、交通事故の衝撃で、そのことを忘れていただけだった…。という話。
女がドッペルゲンガーを見た時点で、なんとなく映画の方向性が見えてしまい、あとは、どういう展開でもっていくのかな、という興味が少しあるだけ。意外性はほとんどなくて、物語的には基本的には退屈だった。そりゃ、サスペンスだから脅しの盛り上げもあって、ゾクッとするところはあっても、大したことはない。その盛り上げ方だけど、音楽が割と効果的。音楽で激しく盛り上げておいて、映像は何でもない、とか。音楽のないところでドキッとさせたり、間を外すようなテクニックも使っている。ま、昨今の常套手段かも知れないけど。
あと、背後に何か見える、とか、フラッシュバックの多用とか、ジャパニーズホラーを思わせるところも少しあった。
けれど、この映画の最も興味深いところは、はっきりした理由を挙げて決着をつけないところだな。ほれ。アメリカ映画なら、実は宇宙人の侵略で…とか、悪魔がこの世に出現して…というようなオチというか、諸悪の根源を披露するのだけれど、ここではそれはなし。曖昧な終わり方は、フランスっぽい。でも、やっばり、なんでこのむ家族にだけ? という疑問はつきまとうよね。
狂言まわしの小道具として鏡が使われている。あちこちの鏡が自然に割れる。これは、自分がいなくなることの象徴か? 鏡の中の自分が、いきなり刃を振り下ろす、というシーンがあったけれど、ドッペルゲンガーは鏡の中に住んでいて、それが鏡を割ってこの世界に入り込み、本当の“自分”を殺して入れ替わりつつある、ということなのかな。
冒頭に、心臓が右に付いている患者の症例レントゲンがでてきて「1000人の1人の珍しい症例」という会話を放射線技師の女がいう。ところが、ラストには放射線技師自身のレントゲンが登場し、これが心臓が逆になっている。つまりまあ、ドッペルゲンガーは鏡に映ったように反転している、ということなんだろう。でも、彼女が事故で入院したとき、治療に当たったスタッフはそのことに気づくのではないのかね。気づいていても無関心だったのかな? それとも、ラストに出てきた写真は、その事故のときのものなのかな?
その、鏡の中の自分がいきなり刃を振り下ろす、というシーンはドキッとした。分かってはいるけれどドキッとするシーンだね。サスペンス的にはそこそこだとは思うのだけれど、見慣れた人にとっては、手垢が付いた感じでイマイチ、なのかも知れないけど。
恋人の部屋だったかな。ランプの支柱がマシンガンになっているのがあって、なんか、ちょっと面白かった。
ホームレス中学生11/24テアトルダイヤ監督/古厩智之脚本/後藤法子、古厩智之
つまらない。脚本にキレがないし、つまらないショットも多すぎる。観客を納得させるだけのリアリティも強引さもない。あるのは、テキトーにやっときましょうか、ってな感じ。原作はベストセラーになった若手漫才師の本。が、しかし、テレビ版(見てない)は、件の漫才師そっくりの少年が主役を務めていたが、こっちはイケメン青年が演じている。これだけでもう説得力がない。
この映画は、なぜそうなったか? という原因についてほとんど追求していない。田村家=父親(イッセー尾形)が家を抵当に取られた理由や、3人兄弟なのに僕(小池徹平)が兄(西野亮広)や姉(池脇千鶴)とともに行動しなかった理由が描かれていない。あれは、自立心があったから? 腹が減ってもコンビニで働いている兄の所に行けないのは、意固地だから? それが分からない。だから、結果そうなった事実を見せられても同情も反発もしにくい。たとえば、父は妻(古手川祐子)につらく当たっているときもあったけれど、でも、やさしいところもあった、という表現がされている。これでは、父親の存在の意味がつたわらない。そもそも、イッセーのような人柄のいい役者がやっているから、どうやったって憎めない。しかも、家族が破綻するに至った原因も分からず、父親がその後どこでどう暮らしているかも分からない。というか、父親には行くところがあった、ということ自体が不思議だ。これじゃ、悪役がいないではないか。これでは観客は戸惑ったまま映画を見つづけるしかないではないか。
僕の行動、考え方、が変である。他の兄弟と一緒に行動しないこと。さらに、後半で3兄弟で暮らし始めてから、姉とちょっと喧嘩して家出してしまうのも、原因が分からない。思春期の漠とした将来への不安とか、そんなこと? いやまて。映画では、愛する母親を失ったことが断続的にインサートされ、母親の存在が大きなウェイトを占めるような風に描かれる。けれど、母が病気になったのは家族の誰のせいでもないし、父親だって悪いわけではない。なのに、「母親を失ってから、ぼくらは家を失った」みたいな、漠とした思いが言葉で告げられるのだ。え? それってどういうこと? だよね。もやもやばかりが感じられるのだよ。
変なことはもっとある。最初の頃登場していた、僕に好意を持っていた同級生の少女は、後半出てこないのはおかしいよね。ウンコ公園で何日過ごしたのか知らないけど、マンションから丸見えの所で少年が何日も暮らし、その公園で何度もウンコをしていたりすれば、周囲はすぐ気づくだろ。小学生らしいのが何人もやってくるけれど、あんなの多勢に無勢で数のいる方が強いのではないの? 兄弟で住む家に連れていかれたとき、民生委員のいしだあゆみと一緒にいた夫婦は、いったい誰なのだ? いしだあゆみが、のちほど死ぬシーンは何の意味があるのだ? しかも、いしだを棺に入れて見せる必要はどこにある? 先生(黒谷友香)が「君はみんなを笑わせるのが得意じゃない」とかいうけれど、僕に関してそういう演出は、冒頭の“口の中へエンピツを突っ込む”シーンを除いてない。僕がひょうきんなところを見せるのは、母親に対してだけだ。だから、簿がひょうきん者で、将来漫才師になるという伏線がないのだよ。それなのに、そう見えるだろう、というような押しつけをしているのだ。
そもそも、大学生の兄を筆頭に姉と僕の3人が父親に捨てられたとき、何らかの手を打てばよかった。教師にいうなり、近所のオバサンにいうなり、役所に行くなりして、寝床を得る努力をすればよいはず。なのに、そういうこともせず、公園や神社で毎日を過ごす、という発想自体が、「こいつらアホじゃないの?」というふうに見えてしまい、共感よりも首をひねってしまうのだ。
そういう中で、格好良かったのは、僕の友だちの両親(宇崎竜童と田中裕子)だね。愛想は悪いけれど、人の道を心得ている人物として描かれている。こういう人の世話になりながら、僕はいつになってもだらしない。なんかなあ。共感なんかできないね。
で、思ったのは、兄と姉がバイトすれば月に10万ぐらいは稼げる。家賃3万の四畳半をなんとか借りられれば、あとは保護を受けていけば生活できるのではないの? ということだった。そういう発想と行動ができない兄や姉は、なんか、ちょっと物足りないなと思った。
それから、3兄弟がみな老けすぎ。池脇千鶴が高校生!? おいおい。やめてくれよ。だよね。
落下の王国11/26新宿武蔵野館2監督/ターセム脚本/ダン・ギルロイ、ニコ・ソウルタナキス、ターセム
原題は“The Fall”。不思議な感じの映画。様式的であり、耽美的であり、絵画的でもある。で、物語的にはどうかというと、これは大したことがない。ビジュアル的に面白いだけで、それ以上にはなっていない。というわけで、主人公のスタントマンが少女に「モルヒネを取ってきてくれ」と頼むちょっと前、5〜10分ぐらい寝てしまった。でも、途中で寝ても構わないような映画だなと思った。ストーリーは二の次で、映像主体の映画だね。で、さっき調べたら、監督は「ザ・セル」を撮った人だったのね。で、この映画がビジュアル優先である理由が分かった。この手の映像が好きな人なのだな。
1920年代ぐらい? の映画で、スタントマンをやっていた男。それが事故って病院行き。腰をやって動けない。その間に恋人を他人に撮られ、悲観して自殺しようとする。これが、件の、5歳の少女にモルヒネを持ってこさせるという話になるのだけれど、さして面白くない。なぜスタントマンは自殺を試みようとしたのだ? 歩けなくなって、それで恋人に去られ、失意の元に…と思っていたら、ラストに、このスタントマンの活躍するシーン(少女が後に見ることになる映像)がたくさん流れるのだけれど、あれを見て、「ん? 回復してまたスタントができるようになったのか?」と思ってしまい、スタントマンの自殺願望は恋人を取られたことだけによるものなのか? と混乱した。その辺りが、はっきり描かれていなかったように思えるのだがねえ。
さて、スタントマンは少女を操るために即興の物語をつくって聞かせるのだけれど、その山賊の物語が同時並行して進む。で、山賊の物語に登場するのは、そのスタントマンや看護婦、氷の配達人だとか、現実の登場人物が別キャラとして登場しているようなのだけれど、パッとみて分からないので始めのうちは混乱し、少しずつ分かっていたりする程度。しかも、なぜ現実の彼らが物語の登場人物として描かれるのか、それは分からない。それがスタントマンの描くキャラ設定なのか、少女の設定なのか、それも定かではない。しかも、その物語自体もたいして面白くない。
興味深いのは、物語の中の背景だ。自然や街、建物なんかが、ほんとうに、こんなところがあるのね、と思うほど魅力的で素晴らしい。海に浮かぶ直径数10メートルの砂州のような島のようなところ、美しい砂漠(「セル」にもでてきたね)、逆ピラミッドみたいな建物に階段がたくさんあるところ、モスク、タージマハールみたいな場所…。もう、その光景だけで素晴らしい。実際、この映画は印/英/米の資本でつくられていて、ロケ地もトルコ、インド、カンボジア、バリ、中国、ヨーロッパ各地など、もう、もの凄い。シーンの数だけ各国を飛び回っている様子で、金がかかってるねえ。…で、ひとつだけ建物を爆破しているところがあるのだけれど、あれはつくりものなのかなあ?
というわけで、鮮やかな色合い、絵画のような画面構成、様式的な美学、なんていうのが画面から溢れる物語部分の映像は素晴らしい。でもやっぱり、話が面白くないと、一般大衆は引っ張り込めないのでは?
個人的にいちばん面白かったのは、ラスト近く。スタントマンが事故ったときの映像を使った映画の試写のところと、それにつづく無声映画のアクションシーンの連続だね。これをみて、ああなるほど、かつての無声映画時代に貢献したスタントマンたちへのオマージュなのか、と分かったのであるよ。もっと早めにそれが分かってもよかったんではないのかな。
あ、そういえば、話の構造的に、夏に見た「幸せの1ページ」とちょっと似ているな、と想った。ま、あっちは現実の中にファンタジーが入り込んでしまい、現実と物語が混乱していくので、大きな違いはあるのだけれど…。
ぼくの大切なともだち11/26ギンレイホール監督/パトリス・ルコント脚本/パトリス・ルコント、ジェローム・トネール
原題は“Mon meilleur ami”。英語タイトルは“My Best Friend”。「落下の王国」を見て、それからギンレイにきたんだけど、そしたら、来年ここで「落下の王国」をかけると書いてあった。もっとも、「まだロードショー中なので内密に」ということだけど。でも、ちょっと悔しい。
友だちがいない、と自覚した古美術商の中年男。どうやつたら友だちができるか? 気軽に愛想をふりまくタクシー運転手に頼み込みレクチャーを受けることにした。…という初っぱなで、この2人が最後には真の友だちになるんだろ、と分かってしまう。ま、それはそれていいんだけど、なかなかくすぐりが効いていていろいろ笑わせてくれる。もっとも、別れたとはいえ女房もかつていて、娘が同居していて、ときどき遊びに来る中年女がいて、経営する古美術商店のパートナー(女)もいるのだから、その時点で“友だちがいない”とは言えないのではないの? と思ってしまう私は、もっと友だちがいないような気がしてしまう。
日本で“友だちがいない”男の話をつくったら、もっと暗いものになるはず。主人公はハンサムではなく三枚目の役者になって、引きこもってゲームでもしているオタクっぽい感じ? 仕事なんかほとんどしていない感じの中年男、かな。それか、仕事一直線で同僚から嫌われ(映画にて出てくる同業者のパーティにも呼んでもらえない)、妻と娘に去られて1人暮らしの陰気なオヤジ、かな。
面白かったのは、愛想のいいタクシー運転手も、実は友だちがいなくて(唯一の幼なじみが、自分の妻と駆け落ちしてしまった)というくだりかな。これはこれで、アイロニーだね。この運ちゃん、博識でクイズマニア。ミリオネアに出たいんだけど、生まれつきの上がり症で予選を通過できない。この運ちゃんをテレビに出してあげるために役立つのが、古美術商のオヤジが法外な値段で思わず買ってしまった古代エジプトの壺なんだけど、この壺に関するエピソードはかなりご都合主義。パートナーがわずかの時間でコピーをつくらせた(抵当に入れられた時のため、というけれど、コピーをつくるのにも金は必要だろ。それに、短時間でつくった贋作を、主人公の古美術商が見抜けないというのも変だ。さらに、古美術商が突然この壺に入れ込んだ理由が分からない。なんか、ご都合主義的に利用されているだけのような気がする。
というわけで、突っ込み所はあるのだけれど、ほのぼのした映画で楽しんだ。この話なら、ハリウッドでリメイクすれば、またまた面白いコメディ映画になりそうな気もするしね。
さくらんぼ 母ときた道11/29銀座テアトルシネマ監督/チャン・ジャーペイ脚本/パオ・シー
原題は“桜桃”。制作や撮影、音楽他に日本人の名前が多く見られる。お金もプロデュースも実は日本、の映画なのかな。
この映画を見て同情できるか? でもって泣くか? 泣いたか? と問われたら、すべてにノーと応えるぞ。こんな薄気味の悪い映画はない。しかも、つまらない。20分ぐらいで退屈して、あとは時計ばかり見ていた。俺には哀れにしか見えない。もしこれが、泣かしてやろう、という意図でつくられたのなら、とてもいやらしいと思う。
中国のど田舎。びっこの男・葛望が知恵遅れの女・桜桃を嫁にする話。これだけでもう滅入る。葛望の母親が、身寄りのない桜桃を養女のようにして育てた。母は葛望に「お前はびっこだからまともな嫁は来ない。だから、知恵遅れだけれどバカにしないで嫁にしろ」と言って桜桃をあてがったのだ。うわあ。桜桃は子供が欲しくて葛望にセックスをせがむ。一見すると、知恵遅れだから本能的にセックスばかり要求するように見えるけれど、そうではない、という解釈だ。
桜桃は、あるとき捨て子を拾う。中国のひとりっこ政策で、女の子は不要と思う親が増えたせいだ。桜桃は赤ん坊に夢中になるが、葛望はとても育てられないと養父母を手を探しだし、桜桃の知らぬ間に連れていってしまう。それに気づいて街まで探しに行く桜桃。その姿を見て葛望は赤ん坊を取り戻す。赤ん坊は紅紅となづけられ、2人に育てられる。
というストーリーだけれど、なんか、だれもが不幸になるような話で、いたたまれない。紅紅の立場に立てば、こんなひどい話はない。健常人の養父母に育てられれば生活環境も教育環境も恵まれるはず。学齢期になれば自分の母親が知恵遅れだということが分かり、悩み苦しむだろう。映画も実際にそういう展開になる。葛望の楽しみはセックス。なのに、娘を得た桜桃はもう亭主の要求に応えない。おいおい。これじゃ結婚した意味はないではないか。葛望はそれで満足なのか? その後、葛望と桜桃の間に子供もできず、そのまま年老いていくのだよ。哀しいではないか。桜桃にしたって、娘はしだいに離れていき、そして、嫌われることになる。こんなひどい話はないと思うがね。しかも、村長というのがでてきて、葛望に「赤ん坊を育てろ」などという。ちょっと待ってくれよ、だよなあ。
桜桃の哀れさを強調するため、嫌なエピソードが挟まれる。水浴している間にムラの青年たちに衣服を取られる、のは軽い方。娘を守るため同級生の男子を殴打しまくったり、街に行って他人の赤ん坊を盗んだりする。桜桃がドジを踏むと思っていたけれど、こうも予定調和的に見せられるとうんざりだ。あまりにもステレオタイプ。
で、紅紅は小学校の高学年ぐらいになって、桜桃に対して急に理解を深めるという話なのだけれど、そんな簡単に知恵遅れの母親を受け入れることができるものなのか? どーも説得力がないように思うのだけれどね。解せん。
そのきっかけとなったのは、桜桃が紅紅の同級生を殴りつけた夜に、紅紅が重い風邪をひき、その看病に一所懸命だったといういう程度なのだよね。で、その一所懸命は、紅紅のためにとってきたさくらんぼで象徴されるのだけれど、そんなに都合よくさくらんぼが獲れる季節がつづくのかい? という気がする。ご都合主義なのだ。他にもご都合主義はある。養父母に連れていかれた赤ん坊を追って街まで行き、別の子供をひったくってダッシュで逃げ、結局つかまって袋だたきに遭っている・・・という現場に、葛望がめぐり会うのだけれど、そんな偶然はあり得ないだろ。それに、何日も飲まず食わずなのに、赤ん坊を奪って逃げるときの速いこと速いこと。あり得ねーだよなあ。
それから気になったのは、紅紅を連れていった病院。入口までの階段の高さは、あれはなんなのだ? あんなの、ありか? といわけで、前時代の恐ろしき因習の世界みたいなどろどろしたものを見せられた感じ。時代と環境が悪かったといえばそうなんだろうけど、いまさらそんなものを見せられて楽しいかといわれたら、楽しくないと応えるしかないよなあ。

 
 

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