2008年12月

トロピック・サンダー/史上最低の作戦12/1MOVIX亀有シアター4監督/ベン・スティラー脚本/ベン・スティラー、ジャスティン・セロー、イータン・コーエン
新人監督がベトナム戦争の映画を任せられるのだけれど、役者を使い切れていない。というわけで、役者をジャングルに置き去りにして迫真感をだそうと思ったら、監督がいきなり地雷を踏んで爆死。残った連中が右往左往しているうち、ラオス辺りの麻薬マフィアに捕まって、さあ、大変!という話。「プラトーン」+「地獄の黙示録」に「プライベート・ライアン」もちょっと入ってるみたいな感じ。血が吹き出るシーンは「M★A★S★H」みたい。他の戦争映画もきっと入ってるんだろうけどね。で、それを全編パロってるブラックなバカ映画。でも、ふざけ方がトンでるので、楽しいし笑える。
冒頭、CMと数本の映画予告編が写される。こういうCMや映画に出演している役者が、ベトナム戦争映画に起用された、という紹介なのだけれど、いやに凝っている。で、あのユニバーサルやFOXのロゴは、あんな風にして使っていいものなのかい?
トビー・マクガイアやジョン・ヴォイトがカメオで登場は分かったけど、ハリウッドのプロデューサーがトム・クルーズだというのは、ラスト近くになってやっと分かった。ああ、そういえば、トム・クルーズが怪演しているって、どこかに書いていたかなんかしたなあ。
小ネタがいい。「レインマン」「フォレスト・ガンプ」みたいに知恵遅れの役も、どっかに天才的なところがあれば評価されてアカデミー賞が取れるけれど、「アイ・アム・サム」のショーン・ペンみたいになりきってしまうと賞の対象にならない、何ていう話が面白い。ブルーレイとHD DVDとの規格争いも、カギはポルノだ、という話は、誰でも納得の話かも。
フツーにまあ面白いのだけれど、麻薬マフィアの村に、捕まった仲間を救助に行く辺りからちょっと話が平板になって、少し眠くなった。ベン・スティラーが村の小児に元気づけられる辺りがいちばん眠かった。ま、救助作戦が始まってからは、また面白くなったけどね。
で、契約には入っているのにロケ現場になかったディーボとかいう録音装置(だっけ?)っていうのは、何のことなんだ?
レッドクリフ Part I12/1MOVIX亀有シアター9監督/ジョン・ウー脚本/ジョン・ウー、カン・チャン、コー・ジェン、シン・ハーユ
原題は“赤壁”。英語タイトルは“Red Cliff”。「三国志」なのだそうだけれど、読んだことがないので知らない。諸葛孔明の名前ぐらいは知ってけどね。で、冒頭に簡単な説明を日本語でしてくれる。さらに、劇中も、3つの国が切り替わるたびに主要人物の名前がスーパーではいる。しかも、繰り返し入るので、どこがどこで誰が誰だか分からなくなることはない。かなり丁寧で親切なつくりになっている。
いきなり冒頭から戦闘が始まる。曹操が劉備を攻め、劉備が敗戦するのだけれど、このシーンはまるで黒沢の「七人の侍」。そのせいか、かなり見応えがあった。で、劉備の軍師・孔明が孫権の所に行って「連合しよう」といいに行く辺りから話がのろのろになってきて少し寝た。その後、劉備・孫権の連合軍が亀の甲羅の作戦で曹操の地上軍をやっつける戦闘シーンは、最初だけちょっと見たけれど、あとの大半はうつらうつらとなってしまった。ちょうど戦闘が終わって、目が冴えた。というわけで、2度ほど沈没してしまった。
ま、ちょっと睡眠不足とかあったのだけれど、引っ張り込む面白さがあれば、こんなことにはならなかったかも。もともと長い話で、軍師や将軍なども個性ある描き方をされているのだろうけれど、映画は2時間30分ぐらい。主要人物をしぼったとしても、結局のところ荒筋のようになってしまうのだろうか。もうちょい人物を掘り下げるとか、特定のエピソードに絞るとかすれば、もう少し違った描き方もできたかも。
「墨攻」「HERO」なんかの中国歴史スペクタクルを見ると、CGで大軍団を描き、戦闘シーンは血や首が賭場、矢が雨あられ。宮廷では耽美ロマンな愛憎があって・・・というのがお決まりなので、ほとんど期待していなかったから、まあいいか、なんだけどね。
それでも、戦闘シーンは細切れカットのつなぎではなく、そこそこ長く回していたのには感心した。生身の人間がやっているというように見えるのは、やっぱり迫力があるからね。それでも類型的であることには変わりはなく、ジョン・ウーお得意の鳩はでてくるけどさあ。
日本人スタッフが多いけれど、資本も入っているみたいだね。うーむ。中村獅童の声は、あれは中国人がやっているのかなあ・・・。
1408号室12/2上野東急監督/ミカエル・ハフストローム脚本/マット・グリーンバーグ、スコット・アレクサンダー、ラリー・カラゼウスキー
原題は“1408”。スティーブン・キングの原作だと見終わって知った。そういえばそんなことを聞いたような覚えが…。
前半はかなり怖い。でも、後半になると“脅かし”より話の構成(どんでん返しというかエンドレスというか・・・)に内容が移っていき、ラストはかなり陳腐。前半は80点、後半は50点というところかな。この類の映画はどう収拾させるかが重要なんだけど、ある意味でキングらしいオトシマエのつけかただと思う。勢いで話をどんどん広げていって、でも、最後にちゃんと畳めなくて中途半端、って感じかな。もっとも、原作とはラストが違っている場合もあるけれど、ね。
話はこうだ。ホラー作家のマイク・エンズリン(ジョン・キューザック)が、ドルフィンホテルの1408号室に興味をもつ。かつてはまともな小説も書いていたらしいマイクは、いまはオカルト中心のお手軽本ばかり書いている三流作家。幽霊が出るというホテルに泊まり、そのレビューを書いたりもする。その彼の所に「ドルフィンホテルの1408号室には泊まるな」と書かれたハガキが届いたのだ。こんなハガキをいったい誰が出したんだ? とか、何10人も死んでいるホテルのその部屋を、マイクが知らないというのはおかしいだろう! という疑問はかるくすっ飛ばしてくれる。なので、冒頭近くに描かれるサイン会の模様とサーフィン中に波に飲まれて溺れる・・・というエピソードもテキトーなモノだろう、と思っていたら、溺れるエピソードは伏線になっていた。でも、だからこそ、サイン会にマイクの処女作をもって現れた少女には意味がなかったのか? と、余計に考えてしまうのだよなあ。
さて。ドルフィンホテルの支配人(サミュエル・L・ジャクソン)は宿泊に抵抗するのだけれど、客が泊まりたいと行ったら拒むすべがない、という弁護士の言葉をもとに、マイクは1408号室に泊まることに成功する。神も仏も信じない合理主義者のマイクには怖いもの無しなのだ。
でもホテルもホテルだよな。20何人もが不審死をとげ、自然死を入れたら50何人が死んでいるという部屋をいまも宿泊できる状態にしてるんだぜ。っていうか、50何人目まで泊めたんだろ? それは凄いよなあ。日本なら2人目が死んだ時点で開かずの間だよな、きっと。・・・という設定のムリは、まあ、大目に見てやってもいいけど、なんか、いい加減な設定ではある。でも、映画だからいいんだけどね。
前半の、得体の知れない恐怖感はゾクゾクする。正体の分からない男、向かいのビルにいてマイクと同じ動作をする男、過去の自殺者・・・と、だんだん具体的なモノが登場するのは、これはやっぱりアメリカ的か。こうなってくると、だんだん恐怖は弱くなってくる。怖いのは、ダクトの中へ入って行くとこいら辺まで。以降は、壁が壊れたり水が溢れたりと「漂流教室」みたいで、ホラーの要素はだんだんなくなっていく。
部屋に水が溢れ、気がつくとサーフィンで溺れ、砂浜に。ここで、なーんだ、夢か。と思わせるわけだ。ところが、N.Y.から別居中の妻が見舞にきて、話をすると、「それを小説にしろ」という。できあがって郵便局に行くと工事中で、職人の顔がホテルの従業員に酷似している! で、壁が壊されると、元の1408号室で、室内は炭のようになっている。癌で幼くして死んだ娘が現れるのだが、その娘も炭のように崩れ去る。部屋の真ん中に真新しいドア。そのドアを開けると・・・。元の1408号室で、調度品はどこも壊れていない。すべては悪夢? 何らかの力がマイクの潜在意識に入り込み、妻と娘の記憶を呼び覚まし、錯乱させていた、らしい。力づくでその悪夢から覚醒し、正気を保とうとするマイクは、聖書を引き裂き火をつけ、トランプをくべる。洪水については妻に「不思議の国のアリス」みたいだ、と言っていたけれど、その関連でトランプが出てくるのかな。聖書が白紙なのも、アリスがらみ? で、部屋に火災を起こし、すんでの所で救助される、という寸法だ。自分の居場所は、PC画面からネット経由で妻に語りかけた、ということになっているのだけれど、あの部屋からネットにつながるっていうのは、これはちょっとムリがあるんじゃないのかね。
というわけで、妻が言うには火災は漏電。しかし、当日、マイクが録音していたマイクロテレコには、娘の声が入っていた、というとってもつまらないオチ。うーむ。
あんなに最後をこねくり回さず、サーフィン中に波に飲まれて溺れていた間の悪夢、だけでもよかったんじゃないのかな、と思ったりした。それから、いったん戻った部屋の中にドアが登場したとき、このドアが冒頭、雨の中に訪れた小さなホテルの一室にでたら面白いかも、と思いながら見ていたのだけれど、そうはならなかった。いずれにしても、あの部屋に住み着いているものが何なのか。支配人がいうには、バケモノではない、という話だったけど、ではいったい何なのか? それについての示唆も何もないというのは、かなり尻切れトンボのような気がする
しかし、「アリス」というヒントをもらっているのだから、なんとか読み解くことはできるかも。洪水以外に、鍵穴はしょっちゅう出てくる。ドアも、小さくないけれど、登場する。鏡も多用されている。とくに、向かいのビルの男が、マイクの鏡像のような動きをするのは意味深だ。これは、マイクが鏡の中に閉じ込められている、ということの示唆かも。でもって、トランプだ。カードは何だったかな? 憶えてないなあ。ドルフィン=イルカも登場するし。でもって、幼くして死んだ娘は、まさに不思議の国に迷い込んだアリスそのものといえる。つまり、マイクは好きこのんでオバケの出るホテルを泊まり歩いているのではない。あの世に通じている入口をずっと探し続けていたのだ。アリス=娘に会いたい一心で。そして、ようやく本物の部屋を見つけ出した。それがドルフィンホテルの1408号室だった、というわけだ。なぜホテルか? それは、死に一番近い場所だからだろう、きっと。それで、あえて自身をあの世に迷い込ませ、娘との再会を果たす。その証拠が、テープに残された娘の声だった。・・・という解釈はどうだろうかね。なに、読み過ぎだって? いいんだよ。
サミュエル・L・ジャクソンは最初の方と、最後に1カット出るだけ。後半にもっと出番があると思っていたのだけれど、なーんだ。ジョン・キューザックは、なんか、ずいぶん太っちゃったね。
ブラインドネス12/3上野東急2監督/フェルナンド・メイレレス脚本/ドン・マッケラー
原題は“Blindness”。つまらない、というより腹立たしくてイライラした。人類が次々失明していって・・・。といった設定はよくある。H.G.ウェルズだったかの小説にも、地球がエーテルに包まれ、次々倒れていくが、エーテルが去った後にみんな生き返る、ってなのがあったような気がする。ウェルズの「宇宙戦争」でも、宇宙人たちは地球を破壊したあとも最後に感染病にかかって次々死んでいった。この映画も、その類の亜種。目が見えなくなる、という設定は初めてかも知れないけど、それほどの恐怖も感じない。なので、その状況に感情移入できない。つまりまあ、冷ややかに見てしまう、ってわけだ。
で。失明が感染症だと気づいた政府は、失明者を病棟という名の収容所に次々に放り込む。健常者は感染を恐れてだれも病棟に近づかない。ただ、食料を供給するのみ。という病棟内での患者の対立が主たるドラマになるのだけれど、この手の、複数の人間をとてつもない状況に追い込み、そこで起こる出来事を描くもの、といったら「蠅の王」があるではないか。映画は見ていないけれど、昔、小説を読んだ。あれに優る話はないのではないのかなあ。なので、どうしても比較してしまうわけだ。すると、あまりにも陳腐なのだ。失明し、隔離された人間があんな行動にでるものか? と思いつつ見ていたのだけれど、「なんでああしないんだ」「なんで唯々諾々としたがっているのだ」とイライラのし通し。あまりにもアホらしくて話にならない。
病棟は3つ。それ以上の患者が送り込まれてこない、というのが変だ。で、第1病棟では眼科医夫妻を中心に民主的に運営されるが、突然、第3病棟が王国宣言をする。「死体を埋める作業はまっぴらだ。食料は食べたいだけ食べる!」と。さらに拳銃を武器に、第1、第2病棟の失明者たちに、食料を「売る」と宣言する。で、第1、第2病棟の失明者たちはそれに素直に従ってしまうのだ。貴金属がなくなると、今度は「女を出せ」と要求し、またまた従ってしまう。おいおい、いくらなんでも、それはないだろう。「従わなければ全面戦争になるから、従う」なんて言ってたけど、そんなことが心配で女たちが自分から食料のために抱かれに行くものか? いいや、絶対に行かない。というか、もっと以前に抵抗するだろう。しかも、眼科医の妻(ジュリアン・ムーア)は目が悪くないのに夫について病棟に入っていて、見えるんだぜ(他の失明者には内緒らしいが)。盲相手にハサミでも棒でも振り回せば、いくらでも王国側の盲たちを制圧できただろう。それに、男たちもだらしがない。相手が拳銃を持っているといっても、盲vs盲だろ。拳銃なんてなんの威嚇にもなりゃあせんだろ。と思うと、話の展開にイライラ。
で、ある日突然、看守の兵隊たちがいなくなり、失明者たちが街に出ると、世の中の人すべてが盲となって掠奪とホームレス状態になっている。唯一目の見えるジュリアン・ムーアが何人かの仲間を自宅に連れていき、そこで生活していると、突如、世界で最初に失明した伊勢谷友介の目がもとに戻る。・・・という結末は最初から見えていたので別に驚きもしなかった。むしろ、この映画は失明者たちの派閥争い、が主だと思うので、そこがロクに描けていないのがダメだ。
で、ラスト。ジュリアン・ムーアは「今度は私の番」とかなんとか言うのだけれど、それってどういう意味? いままで見えていた自分の目が見えなくなるかも、ってこと? よく分からん。
収容所における派閥争いも、変だよなあ。突如「これからは俺が王様だ」と1人が言ったら同じ病棟の男どもは諸手を挙げて賛成し、金品を取ることや他の病棟の女を犯すことにも賛成する。そんな単純なことってあるかあ? 目が見えなくなって、金品にまだこだわる? しかも、人間の葛藤のようなものは、どこにも描かれていない。人間がもうみんな薄っぺら。くだらない。つまらない。あり得ない。
伊勢谷友介と木村佳乃が日本人夫婦として登場。とくに伊勢谷は、世界で最初に盲になり、最初に回復する患者として登場するので、得な役どころだ。
ベガスの恋に勝つルール12/4ギンレイホール監督/トム・ヴォーン脚本/デイナ・フォックス
原題は“What Happens in Vegas”。キャメロン・ディアスのラブコメ。バカにしていたけど、よくできている。もっともお話は昔からよくあるパターンで、新鮮味はない。そこをキャラクター設定や脇役などに工夫を凝らし、面白いエピソードを突っ込んでとても楽しい仕上がりにしている。暇つぶしには最適だね。
超ダンドリ女のキャメロン(実年齢36歳!)は、その性格が禍し、結婚寸前までいった恋人から絶縁宣言される。アシュトン・カッチャー(実年齢30歳)は、したいこと以外はしない主義の脳天気男。こちらは父親が経営する木工所を首になり、友だちの弁護士に慰められる(といっても、セックスフレンドはちゃんといるんだけど)。この2人が憂さ晴らしにベガスにやってきて、手違いで同室に。ダブルブッキングだったんだけど、じゃあちょっと飲もうか、ということになり、キャメロンとアシュトンが意気投合。酔った勢いで式を挙げてしまう。翌朝、気づいて「別れましょう」。てで、キャメロンの25セント硬貨をアシュトンがスロットマシンに入れたら、300万ドルの大当たり。さて。この金は誰のもの?
で、裁判になって、判事は結婚していると認める。で、6ヵ月間共同生活し、その後に細かいことは決定しよう、というようなことになるのだけれど、この裁判が何を決定しようとしていたのか、実はよく分からなかった。婚姻が正式なものならキャメロンにも受け取る権利はあるはずだし、離婚したら慰謝料がもらえるはずだし、ね。何を争っていたのかね?
まあいい。で、共同生活はするけれど、互いに嫌悪を抱きっぱなし。それが次第に心が通じ合い、時間をかけて恋に落ちていくという話だ。ホント、よくあるパターンだ。でも、話にそれほどムリがなく、当初のいがみ合う2人がだんだん認め合う過程がよく描けていると思う。
唯一気になったのは、後半でカギとなる写真。キャメロンがひとり寂しく訪れる場所を暗示しているのだけれど、その写真自体が事前にでてきていないのだよね。言葉では登場するんだけど。あれは、ちゃんと見せておくべきだよなあ。
ラスト。ベガスでの泥酔状態での結婚式の模様、キャメロンを振った男のタマキンへの一発、もてないちびヒゲ男のエピソードがクレジット中、後にあるのも、気が利いてる。
デス・レース12/4新宿ミラノ1監督/ポール・W・S・アンダーソン脚本/ポール・W・S・アンダーソン
原題は“Death Race”。経済不況ですさんだアメリカ。犯罪者を集めた孤島の刑務所で、死のカーレースが行なわれている、という設定。そこに、妻殺しのえん罪で送り込まれた男(ジェイソン・ステイサム)が主人公。これまでスタードライバーだったフランケンシュタインが事故死してしまって、その代わりをさせようと言うことらしい。のだけど、話のつじつまがよく分からないところがありすぎ。
工場を首になって家に戻るといきなり強盗が来る。強盗はステイサムの妻を殺し、赤ん坊をさらって、ステイサムを刑務所に送り込む。女所長が、レースに出ろ、と命ずる。・・・うーむ。そんなことする必要があるのか? 妻を殺さなくてもいくらでもやりようがあるだろうに。または、失業しだんならレースに出て稼がないか? と誘ったっていいではないか。それに、ステイサムが元は名の知れたレーサーで、ライセンスを剥奪されている、という設定を知らせる方が先だろう。でないと、流れが意外すぎる。
ステイサムの妻を殺したのは誰か? 命じたのは所長? 示唆されているだけで、はっきりとは明示されていない。だから、妻の復讐を遂げた、という爽快感がちょっと足りないと思う。それ以前に、ライバルレーサーについて、もっと描き込みがあってもいいと思うがね。ステイサムをサポートするメカニックについては、かなり描かれているのにね。もったいない。
女所長(ジョーン・アレン)は、最後のレースにでかい装甲車のようなのを繰り出してレースを盛り上げるつもりらしいけど、なんでそんなことを? と思ってしまう。この刑務所の死のレースはペイ・パー・ビューで放送されているらしいのだけれど、その収入がめあてなの? だったら、女所長の狂気、金銭欲を示す部分も必要ではないのかな。すごい贅沢な生活をしているとか、何かのコレクターだとか、もっと変態的に描くと、説得力があったかも。いまの女所長は、たんなる冷徹な女、というだけでしかない。
ナビゲーターがエロっぽい女囚っていうのはグー! だけれど、ステイサムのナビゲーターが、ステイサムを妨害するよう命ぜられていた、というくだりがいまひとつピンとこなかった。せっかく無実の妻を殺して呼び寄せたステイサムに勝たせたくないの? ヒーローにしたかったんじゃないの? 「勝っても残ってレースに出ろ」とか言ってなかった?
で、最後のレースの途中で逃亡するステイサム。1位を競った黒人レーサーも、なんか突然という感じで仲よくなつて、いまひとつ納得できず。メカニックのボスが女所長を爆殺するのだけれど、そんなことをして罪は重くならないのか心配。逃亡先のメキシコ(だっけ?)に、ナビゲーターを務めた娘がやってくるのは分かっていたけど、彼女はそんなに早く釈放されるような罪だったっけ?
というわけで、突っ込み所は満載。荒唐無稽は構わないのだけれど、荒っぽすぎて「なにこれ?」の部分が多かったかも。で、実は第1日目のレースの前半ぐらいに眠くなり、一瞬の睡眠を挟んで10分ぐらいボーッとしてしまった。やっぱり、考えなくても受け身だけでオーケーの映画って、いまひとつ興味を惹かれないのだよなあ。
PRESTO12/10キネカ大森2監督/Doug Sweetland脚本/Doug Sweetland、Ted Mathot
「ウォーリー」の前に上映された5分の短編。マジシャンがウサギを帽子からだす手品をしようとするが、なかなかニンジンを食べさせてくれないので、ウサギがマジシャンのジャマをする、という話。離れた場所にある帽子からマジシャンの手が出てきたりするバカバカしさがなんともいえない。
ウォーリー12/10キネカ大森2監督/アンドリュー・スタントン脚本/アンドリュー・スタントン、ジム・リアドン
原題は“WALL・E”。見たのは日本語吹き替え版。でも、主要な2台のロボット(ウォーリーとイヴ)はほとんど口をきかないので、字幕版とあまり変わりがないかも。
何らかの理由で地球が滅亡・汚染され、植物も生えない状態になって700年。それでも1台のゴミ回収ロボット・ウォーリー(キャタピラ付きでメカニカルな旧式ロボットだ)は黙々と仕事をつづけていた(植物が生えないほどなのに、ゴキブリはちゃんと生き延びているというのが凄いね)。仕事が終わるとビデオを見て人間を懐かしむウォーリー。どうも人恋しくてしょうがないらしい。ゴミの中から、人間の温もりが感じられるモノをコレクションしてしまう、というのも、とても人間くさいて共感できてしまう。本来、感情などないはずのロボットなんだけど、それを超えた設定はなぜか納得できてしまうから不思議。この辺りまでの描写はなかなかいい。
さて、そこに得体の知れない近代的なロボット・イヴがやってきて、あちこち調査しまくる。寂しい毎日を送ってきたウォーリーは、イヴにすりよっていくが、イヴはウォーリーにあまり関心を示さない。しばらくしてイヴは草の芽をみつけるとそれをもって去ろうとする(初めからそれが目的だった)。イヴに恋したウォーリーはロケットにしがみつき、母船の中へ。そこには700年前に地球を離れた人間が生きながらえていた。
宇宙船内では人間は便利の追求の結果、椅子に座って生活している。その世話はロボットが焼いてくれる。だから人間はぜんぜん動かずみんなデブ。そして、画面ばっかり見つづけている。これは現在のネット社会への皮肉なんだろうね。
イヴが植物を持ち帰ってきたのは、地球が人間が生活できるレベルまで回復した証拠。その植物を船内のある場所にセットすると、宇宙船は自動的に地球に戻る、ということになっている。ところが、自動パイロット装置は船長の命令を聞かず、700年前の命令に従おうとして反乱。すったもんだの結果、宇宙船は地球に戻ってめでたしめでたし。…という話。
地球上での話は面白いのだけれど、宇宙船へ行ってからの話は類型的でいまひとつ。まず連想したのはハックスレーの古典「素晴らしき新世界」。以後、同じ様な未来世界はさんざん描かれてきたわけで、もうちょっと何とかならなかったのかと思う。それに、何といっても理屈に合わない部分がありすぎ。あげつらっていけば、こんな具合。
宇宙船内では、どうやって食料を調達しているのだ? 金属ゴミは船外へ捨てているようだけど、資源がなくなっちゃうのでは? だれが食料や水を製造しているのだ? ロボットか? 医療はどうなってる? 幼児はセックスせずに生んだのか? 試験管ベイビー?
宇宙船が地球を離れた頃のロボットはウォーリーのレベルだったはず。それがイヴのようなロボットを開発できたのは、宇宙船内で開発・研究・進化があったからか? イヴ型のロボットは誰が開発したのだ? もしかして、船内のどこかにデブではない体型の人間がいるのではないの? と思ったのだけれど、そういうことはないらしい。では、あの宇宙船は700年前と同じままなのか? それって変じゃないの?
といったわけで、いくらマンガ映画だといっても、もうちょっとつじつま合わせをして欲しいものだ。地球上のウォーリーについても、ある。700年の間にイヴのようなロボットは頻繁に地球に来ていたはずなのに、ウォーリーは気がつかなかったのか? キャタピラやイメージセンサは交換が効いても、基板の交換まではムリなんじゃないの? よく700年ももったね。とかね。ま、そういうツッコミは「アニメなんだから」で済まされそうだけれど、やっぱり納得がいかないなあ。
最後。半壊したウォーリーを直そうと、イヴは地球にあるウォーリーの家にやってくる。そして、ウォーリーが集めていたガラクタの中からキャタピラやセンサ、基板を探し出して交換する。ウォーリーは回復したけど、イヴのことが認識できなくなる。ああ、これは基板のメモリが変わってしまったからだな、と思ったのだけれど、暫くして手を握り合うと、ウォーリーはイヴのことを思い出すのだ。おお。このウォーリーは学習するロボットなのか? サブメモリかなんかに蓄えていたログでも呼び出したのか? とか、考えてしまったのだった。
肥満の船長が、反抗する自動パイロットに対応するため自分の足でなんとか立ちあがろうとするシーンで、「2001年宇宙の旅」の音楽が流れるのが笑えた。どんなになっても、人間は知恵を失わない。いつかきっと知恵を取り戻し、復活する。自分の足で…。と、アメリカが自分に言い聞かせてているような内容だなあ。
ウォーリーが朝、起動するときの音はMacの起動音だ。ウォーリーはiPodももっていたりして、姿形も含めてあの愛らしさは一昔前のciを連想させる。一方のイヴの姿は、最近のMacBookみたいな白くすべすべした感じだね。ウォーリーがWindowsだという見解もあるようだけど、Windowsはあんなに可愛くないと思うぞ。
エンドクレジットに、地球に戻ってからの人間の復活・歴史が描かれる。これが、最初はヒエログラフで描かれ、次第に進化してスーラやゴッホのタッチになったりするのだけれど、なかなか気が利いていると思った。
D-WARS ディー・ウォーズ12/11テアトルダイヤ監督/シム・ヒョンレ脚本/シム・ヒョンレ
原題は“D-War”。オープニングから変。映画を間違えたかと思ったぐらい。だって水墨画の龍や漢字、ハングルが登場する。映画が始まると白人が出てきたので、間違ってなかったな、と思ったのだけれど、すぐに韓国の昔話になったりして、かなり変。こんなものをアメリカ資本がつくりたがるか? と思いつつ見ていたのだけれど、エンドクレジットを見たら監督以下スタッフの大半がイーとかチェーとかいう名前になっている。うーむ。これは、アメリカのキャストやスタッフ、ノウハウを利用しつつ、実のところ中味は韓国映画? と思ったらその通りだった。
だからというわけではないかも知れないが、映画としてはひどいデキ。ほら、「日本以外全部沈没」「ギララの逆襲」なんかを撮ったお手軽監督・河崎実あたりに金をふんだんに与え、「好きなように撮ってよし」といったら、こんな映画ができるんじゃなかろうか。それぐらいバカ映画に近い。真面目にやっているところで思いいっきり笑えたりするし。
というか、それ以前に、話がすげーいい加減。最初に発見された鱗みたいなやつは、、あれは何だったんだ? から始まって、古道具屋のオヤジが脈絡もなく突然ぬっと登場したり。あんなバカでかい蛇の化け物が神出鬼没ってことはないだろ、とかね。そもそも、古道具屋のオヤジが最初に話した韓国の昔話がなんのことやらよく分からず、そのまま現代の話に入ってしまうから、こっちはおいてきぼり。って、ま、何回か見ればちゃんと理解できるとも限らないと思うけどね。でもさ、韓国の伝説がなぜL.A.で500年後に勃発するのだ? 何のこっちゃよーわからん映画だ。
CGは安っぽくてちゃち。怪獣映画としても、どっかで見たような場面ばっかり。ま、東洋の龍が舞うというのは珍しいとは思うが「千と千尋の神隠し」ですでにやってるしなあ。うーむ。そうそう。最初の方ですぐに眠くなり、瞬間的に寝てしまった・・・。
ぼくのおばあちゃん12/12テアトル新宿監督/榊英雄脚本/龜石太夏匡、榊英雄
菅井きん初主演で話題の映画。元気なババアが活躍する話かと思いきや、後半ずっと病にふせる菅井きん。しかも、息子のガンは自分(母親)のせい、というセリフを言ったりする。観客を泣かせようというつもりなんだろうが、患者に対する配慮がなさすぎる。このような、ガンは遺伝するという表現は、たとえそれが事実であっても控えるべきだと思う。とくに、こういう家族や老人たちが見る映画ではね。なんたって日本人の3人に1人がガンで亡くなる時代なんだから。こういう無神経は随所に見られる。
なんでもセリフで説明してしまうというのも、そのひとつ。もっと観客を信頼して、絵だけで見せろよなあ、と思わせてくれる。現在の物語に、主人公が幼かった昔の物語をインサートしつつ進行するのだけれど、現在と過去の区別が最初つきにくかった。テクニックとして、もう少し考えるべきだね。それと、過去(20年ぐらい前の1985年前後?)について、時代考証がかなりテキトー。神経が行き届いていない。
主人公は、幼い頃、街の人気者だったらしい。チャンバラの真似をすると、商店主も相手をしてくれている。フツー、そんな反応はしてくれないよなあ。たとえ幼少の頃にちやほやされても、中学生になったら相手になんかしてくれないだろ。なんか特別な関係でもない限りあり得ない。
1980年代は、まだ、告知は一般的じゃなかったのかなあ。それにしても、80過ぎてガンと告知されて錯乱するか? ガンは死病、という発想から抜けだしていない。とても古い考え方だと思う。告知した医師に、中学生の主人公が食ってかかるのも、違和感しか感じない。
さて、現代のパート。父兄参観日な、なんで父親ばっかりなんだ? というか、参観日に父親に来て欲しいか? フツー欲しくないだろ。
主人公は住宅会社の営業マンで、義父との同居を拒む嫁(清水美砂)のいる家族がただいまのターゲット。その家族問題がゴタゴタし、参観日だというのにそれに振り回される。そんなこと、フツーあり得ないだろ。その前に、嫁の「お父さんと同居はいや」という奥さんはあまりにもステレオタイプすぎる。それに、自分が祖母をいとおしく思っていたなら、母親のことも1人にしないで面倒見てやれよ、と思ってしまう。
ラスト近く。8mmビデオに残されていたおばあちやんのメッセージが突然発見されるわけだが。箪笥のあんな場所に昔の紙で折った兜だのなんだの、入ってるわけがない。ビデオだって、あれ1本しか撮らなかったみたいな雰囲気で、とても不自然。不自然といえば、主人公は八百屋の娘と結婚していたのね。同級生同士で結婚! というのが後半の終わり頃にならないと分からないというのは、変だよな。それから、やたら城が登場するけれど、住人にとってどういう存在なのかが説明されないので、つたわってこない。
というように、ディテールにムリがあるまま強引にやっつけてしまった、という印象。個人的には、もっと元気な頃のおばあちゃんとの思い出を描いて欲しかった。だって登場するのはフツーのおばあちゃんで、特別な何かを共有した、というようなところがない。なので、そんなに心に残っているの? というふうに思ってしまうほどだ。たいがいの人には祖父や祖母の記憶はある。それを引っ張り出してくれるほどの力はなかったね。それに、泣かせるために簡単に父親を殺してしまうというのも気に入らない。あまりにも安易なつくりだと思う。
家の中に「真打昇進披露 菊の助」というポスターが貼ってあるのだけれど、あれは、なんか意味があるのか?
この間48歳で亡くなった深浦加奈子が元気な姿を見せていた。合掌。
青い鳥12/14新宿武蔵野館2監督/中西健二脚本/飯田健三郎、長谷川康夫
中学生のいじめを扱った映画。クラスの悪2〜3人がリードして特定の少年(野口)に万引きを強要し、クラスの仲間も悪のり。挙げ句に野口が自殺未遂。野口一家は転居。担任はノイローゼ。そこに臨時教師の村内先生(阿部寛)が赴任してきた。村内先生は、どもりだ。その村内先生は、倉庫に入れてあった野口の机を元の位置にもってこさせ、毎朝「野口君おはよう」と笑顔で呼びかける。せっかく忘れかけていた事件を蒸し返す、と生徒の一部が反発して・・・。という話。
いじめを真摯に扱った、という具合に見せるためか、音楽をほとんど使っていない。オープニングとラストにテーマ曲。ラスト近く、村内先生と園部との対話のときに、ピアノ曲。それだけだったんじゃないのかな。といって緊張感がでているかというと、そんなことはないと思う。
ここえ扱っているいじめのスタイルは、どっちかっていうと、ひと昔前のものではないのかな。最近はボス的存在がいない、というか、日替わりのようにリーダーが変わり、かつてのリーダーが逆にいじめられたりするケースもあったりして、昔みたいな悪のボス的存在がいない、というようなことを聞いたけどなあ。なので、この映画のいじめは、俺でも理解できるパターンだ。悪ガキの井上がいて、おべっかい使いの調子のいい野口がいて。野口は井上や他の連中から仲間はずれにされたり、暴力をふるわれたくないから、子分のような立場を維持しようとして、その関係が過剰になりすぎて、野口が思い詰める・・・。他のクラスメートは、井上らの中心的な悪ガキに楯突くのも面倒だし、そんなことをすれば「正義感ぶりやがって」といわれるし、先生にチクるのもできない。なので傍観するか、ちょっと悪のりして井上側になって野口を(心ならずも)からかい、あとで自己嫌悪に陥るけれど「保身のためにはこれぐらい・・・」と、自己正当化するというやつだ。昔からよくあるよ、これは。
で、この映画では優等生の園部(本郷奏多)が生徒のメインキャストとなる。悪人ではないのだけれど、仲間はずれは嫌だし、ついつい出来心でいじめる側に一度だけ立ってしまった、と悩んでいる設定だ。で、園部の罪悪感が村内先生のブラフ(野口の机効果)によって肥大化する。井上も、やっと沈静化したのに逆なでされてむかついている状態。ところが、クラスの揺らぎは結局その程度で、せいぜいがクラスの中で殴り合いが起こりかけるだけ。で、ほんとうは、そこから先が重要だと思うのだけれど、悪ガキ井上は反省した様子はないのに、最後に反省文を書き直す立場に立ってしまうのが不可解。本来なら、井上はどこまで反省したのか、を提示しなくてはならないはずだ。だって、園部の立場はその他大勢と一緒で、大半の人が当てはまる立場。園部のような気持ちでいる連中(正義感は持っているけれど、ついつい悪にもなってしまう連中)は、そりゃ反省するのは当然だ。こういう類の連中は、社会的に犯罪を犯しても罪悪感に苛まされるわけで、二度と犯罪を犯さない人たちだ。いうならば、とくにブラフをかけなくても自分で自分を矯正できるはず。むしろ、問題は悪事を扇動し、罪悪感をもたない、もちにくい井上のような連中のはず。なのに、その井上とそのグループに関して、この手の映画はつっこんで語ることをしない。フランス映画「コーラス」にも悪ガキが登場していたけれど、あの手の悪人は“仕方がない”存在として描かれてしまっている。この映画の井上も、その手の悪ガキで、といっても20歳過ぎればフツーになりそうな少年ではあるけれど、それでも同級生を自殺未遂に追い込んでおいて大して反省していない存在として描かれている。問題なのは、こっちだろ? という気がしてしまうのだけれどね。
というわけで、事件直後にクラス全員に書かせた反省文は校長らが何度も書き直させたシロモノになっているので、村内は学校を去る前に「書き直したい人は原稿用紙をもっていきなさい」という。誰も書き直すそぶりを見せない。ここで、井上が最初に原稿用紙を取りに来る、というのは唖然だね。だって、さっきも書いたけれど、反省のそぶりがまったく見えなかったんだから。あまりにも映画的な飛躍というか、ウソだよなあ。説得力がない。むしろ、「コーラス」のようにまたぞろ問題を起こし、矯正施設行き、という方が納得できる終わり方だと思う。そう。悪い心、思いやりのない性格は、あるていど素質なのだよ。いくら周囲が注意しても直らない。人それぞれに性格が違うようにね。でもま、それを堂々と描いてしまってはおしまいだ、というのがあるのかも。エンドクレジットに、原作重松清とあって、なるほど、と思ったんだけど、こういうケリの付け方は重松らしい、という気もする。どんな生徒も見捨てず、救いたいんだろう。けど、救えないものもあるんだ、と思う。だから、ラスト近くの村内先生と園部との対話で交わされる「責任論」も、ある意味で、ありきたりだと思う。そんなことは、園部はすでに分かっている。だから、それ以上ではない。むしろ、他の生徒たちが心にしまい込んでしまっていることの方が、まずい気がする。
村内先生を、どもり、にしているのはずるいような気もする。村内もいじめられる側だったから、その気持ちが分かる、とかなんとか言いたいんだろう。でも、そうしたら、ああいう教育は、特別な人しかできないことになってしまうではないか。ああいう設定は小説としてのテクニックであって、一般性はどこにもない。だから、この映画を見ても自分のことにも思えず、結局、作り物だよなという気持ちしか湧いてこない。
他の教師たちの対応も描かれる。生徒たちの声を集める箱(この名前が青い鳥)を設置したことで、「対応策は講じている」と納得してしまう安易さ。反省文も、反省しているような表現に誘導し、何度も書き直させるバカバカしさ。これはもう問題を直視するのではなく、問題を隠すだけのことでしかないのにね。でも、こうした旧態依然の行動はステレオタイプにしか描かれない。ぐさりとは刺しているけれど、えぐり取ってないんだよなあ。
現実はそんなんじゃないだろ。小説がつくるきれいごとの世界を、さも重々しく描いて事足れりとしているみたいで、どーも納得いかないなあ。
村内先生は得体の知れない人物に描かれる。どもり、だけではない。動作も緩慢。笑顔もほとんどない。家族がいるのかどうかも描かれない。で、過去がうかがえるのは1枚の写真だけだ。村内先生が笑っていて、前の方いる少年に移動していく。あれは、何なんだ? 過去に教え子を失ってでもいるのか? バスでやってきて、バスで去っていく村内先生。車内では石川啄木の文庫本を読んでいる。でも、真新しい。ってことは、最近読もうと思い始めた作家だと言うことだよなあ。
松山善三監修となっていた。まだ現役でやっていたのか・・・。
私は貝になりたい12/16キネカ大森3監督/福澤克雄脚本/橋本忍
フランキー堺版は、たしかテレビドラマだったと思うんだけど、昔、見たような気がする。ディテールは覚えていない。でも、ラストは分かっている。だから、後半になっての「どうなるんだろう」的ドキドキ感はない。一般常識としても周知の物語のはずなので、結末を知らずに見る人は少ないかも知れない。それでも、ちゃんと見られるデキになっている。
とても丁寧につくられている。衣服にしても、仲間由紀恵の割烹着など、ごわごわの木綿を手縫いしてつくっているな、と分かる。他も同様。時代考証に力を入れ、戦中・戦後の暮らしができるだけリアルに作り込まれているように感じられる。
CGとオープンセットの境目はまったく分からない。連隊、大阪空襲、横浜の焼け跡、渋谷や池袋駅、巣鴨プリズンにCGが多用されているのは分かるけれど、いかにもCGと分かるのは巣鴨プリズンの俯瞰ぐらいで、あとはよくできていた。
高知の山や海はあんなに美しいのか、と思うほど自然がよく描かれている。季節感もよく出ている。署名をもらいに歩く秋の紅葉(彩色はCGだろうけど)、雪山(CGで降らしているのもあるだろう)も、素晴らしい。いずれも、時間をかけてじっくりつくられたのだな、と分かる。がしかし、署名を貰いに歩く情景と、流れる音楽は「砂の器」を思わせる。と思ったら、この監督テレビ出身で「砂の器」を演出したことがあるらしい。ってことは、野村芳太郎版に影響を受けている、ということか。
これを見てB、C級戦犯でも絞首刑はあったのだな、と再認識。捕虜が腹が空いているようなので親切心でにゴボウを与えたら、木の根を食わせて拷問した、と判断されて刑が重くなったなんていう話は昔聞いたことがあったんだけど。なるほどね。
捕虜を殺す、という日本側に不利なことを描きつつ、末端の兵隊に押しつけられた理不尽な刑について描いているわけで、アメリカ側にはアメリカの理屈もあるのだろうけどなあ、と思いつつ見た。逆に、矢野中将が「民間人への無差別爆撃は違法」と強くいうところは、そうだよなあ、と思いつつ見る。ここの論理は「明日への遺言」と同じ(でも、こっちの方が説得力があるように見えたのはなぜなんだろう)。しかし、無条件降伏した日本は、何も言えずに従うしかなかったのだね。当時の日本人がB、C級戦犯への助命嘆願に批判的だったのも、やれやれ困ったものだ、と思いつつ見る。A級戦犯はいざしらず、命令に従うしかない二等兵ぐらいは大目に見るのがフツーだろ、と思うのだけれど、そんなことはなかったのだね。知らなかったことは、少なくない。
この映画のいちばんの欠点は、床屋の主人が中居正広なのはいいとして、奥さんが仲間由紀恵だってことだな。あんな美形がびっこの床屋の嫁になるはずがないだろ。と思ってしまう。それにしても、いくら戦局が悪化していたからといって、足の悪い者まで兵隊にとったというのは真実なのかな?
矢野中将が石坂浩二であることにまったく気づかなかった。クレジットで、織本順吉とあって、ああ、あの床屋の椅子で居眠りしてしまうジジイがそうか、と分かった。ずいぶん痩せちゃったなあ。
ワイドスクリーンなのに、将来のテレビ放映を考慮したような、被写体が4:3に収まるようなフレーミングが散見されたのは、ちょっと萎えた。
●この回だけなのか分からないが、音が変だった。回転むらでテープがひっかかってるみたいな音が、とん、とん、とん・・・と入るところが最初に少し、後半の多くにあった。中盤では、音楽が引っかかるような感じで歪む。でも、画面自体は歪まないし、セリフ部分もおかしくはない。音楽トラック部分が変になるということはあるのだろうか? サントラがフィルムに焼き込まれているのだとすると、伝送系か? 近頃の装置がどうなっているか分からないのだけれど、後半はそれが気になって画面に集中できず。だって、本来無音であるべきところでとん、とん、とん・・・と音が入ったりするんだもん。もちろんスタッフには言ったけどね。
同窓会12/18ギンレイホール監督/サタケミキオ脚本/サタケミキオ
物語の90%はあまり面白くない。しかし、最後の10%でどんでん返し。おお。そうなるのか。というわけで、物語の90%は長い長い伏線、というか、仕込みだな。この仕込み部分が面白くなると、もっといい映画になりそうなんだけどなあ。
南克行を演じる主演の宅間孝行がいまひとつピンとこない役者。別の、もうちょい華があって色気のある俳優がやれば映画の印象も変わったのになあ。と思ってallcinemaページを見たら、監督のサタケミキオは宅間孝行の別名らしい。しかも、フィルモグラフィを見たら、脚本で「ヒートアイランド」があった。そういえば、あれもラストのドンデンまでもっていくような構造だった。そうか。「運命じゃない人」のような仕掛けの話が撮りたいのだな、この人は。で、「ヒートアイランド」では人に任せたけれど、やっぱり俺が・・・となったわけだ。見ると「花より男子」シリーズで評価されてるところだから、監督やらせくください、いいよ1本ぐらい、てなことになったのかも。
南克行(宅間孝行)と友永雪(永作博美)は同級生同士で結婚。でも克行の浮気で離婚が決定。離婚後に雪の病気が発覚し、あと3ヵ月と・・・。で、その3ヵ月の間にあれこれあって、結局、元の鞘に収まるのだけれど、“あれこれ”が高校時代の思い出とともに進行する。
高校時代の雪は人気者。でも、ステディのようにつき合っている中垣君がいた。克行もアプローチするが、いい返事をもらえない・・・。卒業後、東京で再会した克行と雪は、結婚する。その結婚式に中垣君も来ていたのだけれど、克行は気づかなかった。しかも、雪は中垣からもらった万年筆を大事に使っていた・・・。それが、克行は引っかかっていた。
というのが骨格。しかし、いろいろと話にムリがある。だって、実は雪も克行を思っていた、というオチなのだから、高校時代に雪の方から克行にアクションあるいは反応があってもいいはず。しかし、それはなかったことになっている。なぜなら、雪の相手は中垣君、と観客に思わせなければならないからだ。さらに、あの万年筆はどーも高校時代の克行のモノで、克行を想っていた中垣君が拾ったモノ。それを、結婚式のときに中垣君が雪にあげたモノらしい。ん? するってーと、克行は自分の持ち物だった万年筆に見覚えがなく、しかも、それに嫉妬していたことになるのか? そりゃあいくらなんでもあり得ないだろう。・・・というようなムリが見えてくる。
もちろん、ドンデン返しは意表をついて面白く、それまで暗かった映画が一気にハッピーになる。それでも、思い返してみるとこういうムリが見えてきて、ちょっと萎えてしまう。
で、そのドンデン返しだけど、中垣君は性同一性障害で、それを高校時代に雪に打ち明けていた。中垣君も雪も、克行を想っていた。秘密を握っている中垣君は行方不明。克行が、雪の余命は3ヵ月と思い込み、同窓会を開く。そこにやってきたのは、性転換した中垣君。それで中垣君と雪への疑念が晴れた克行は、余命3ヵ月の雪に復縁を哀願する。しかし、3ヵ月というのは余命ではなく、子供が生まれるまであと3ヵ月のことだった! というもので、これにはすっかり騙されてしまった。おおおお! という具合。でも、やっぱりよく考えるといろいろね、あり得ないのでは? と思えるようなことがね、でてくるよね。
冒頭、雪が離婚届に素直に印を押すのも、ちょっとね。あんなに想っていた相手と結婚できたのに、そんなに簡単に別れるか? しかも、子供ができているのを自覚していた、かも知れないんだろ? そりゃまあ、最初は胃腸の検診でついでに妊娠が分かったのかもしれないけどね。こういうところが不自然でなく表現できないとなあ。
「ヒートアイランド」と同じ様な、ブツ切れにしてテンポよくする編集が散見される。あんまり意味がないからあんなのはやめた方がいいと思う。
高校時代は「博多っ子純情」を連想させる。克行が雪のことばかり8mmで撮っていたのは「ニューシネマ・パラダイス」を思わせる。高校時代の克行がモテそうな顔なのに、大人になってイマイチになってしまうのが、イマイチだな。永作博美は相変わらず年以下にしか見えない。
ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト12/18新宿武蔵野館1監督/マーティン・スコセッシ脚本/---
原題は“Shine a Light”。すばらしい。ストーンズのライブコンサートを収めた映像なんだけど、映画になっている。画面のキレが、フツーのライブビデオなんかと全然違う。編集も素晴らしい。
ミック・ジャガーの身体の動き。手足や腰の動き。これが64歳? キース・リチャーがぷっ、と吸い殻を口から吐き出す。ぴん、と指で吸い殻をはじく。おお。カッコイイ(ステージの焼けこげは気になるけど・・・)。ゲストで登場したバディ・ガイに、その場でギターを“it's yours”と与えてしまう! 腰をかがめてギターを鳴らす姿がカッコイイ。チャーリー・ワッツの楽しそうなこと。メンバー紹介のとき、ミックに「やっとしゃべった」と言われてにこり。ロン・ウッドはいまひとつキメ! がなかったけど・・・。みんな60半ばにさしかかったジジイだなんて、ぜんぜん思えない。いまだやんちゃで反抗的でワガママなアンちゃんたちだぜ。
カメラは、ささいなところもちゃんと捉えている。観客席で携帯カメラを構えた客に向け、ポーズをとるミック。キースの吸い殻の扱い方。ロンのおどけた顔。スパッと鋭い編集は、とても気持ちがいい。だらだらとカメラをぶんまわす、よくあるライブ映像なんかとは段違い。それでいて、ステージでハンディがうろつくこともない。観客席から邪魔になっていたのは、クレーンぐらいじゃないのかな。
劇場が小さく、観客が近いのもいいね。特別なコンサートだから、かも知れないけど。日本じゃとうてい考えられない近さ。素晴らしい。
冒頭、スコセッシがいらついている。コンサートの曲が分からないから、らしい。カメラの割り振りを決めておきたいかららしい。でも、あっという間に当日。ミックが言っていた劇場への不満はどう解消されたか、なんて説明はない。曲順も、当日のスタート直前にやってきた。で、カメラへの指示はどうなったか、なんてことも説明はしない。でも、それでいいんだよ。なんやかや問題はあったけど、ちゃんとコンサートが始まった、ってことが分かればね。
途中で過去の映像も少しだけ挿入される。ほんとに少しだけ。別にストーンズを分析したり評論するのではないから、あれで十分。日本人の若い女性がケラケラ笑いながらミックに年を聞くのもあって、バカみたいに見えた。
金髪の女性歌手とのデュエットもあったけど、ああいう色物的なのは余計だなあ。コンサート的には息抜きで必要なのかも知れないけど、映画的には中だるみしてしまうと思う。
どうも、このコンサートにはクリントン元大統領がからんでいる、らしい。チャリティかなんかかも知れない。ヒラリーや、ヒラリーの母親(?)、他のゲストもたくさんいるけど、ストーンズの面々は嫌がらずにちゃんと挨拶している。ははは。こういうところは大人になったのかな。なんか、可愛いではないか。
改めて見るとスコセッシって音楽関連の映画をたくさん撮ってるんだな。「ウッドストック」「ラスト・ワルツ」「ノー・ディレクション・ホーム」・・・。なるほど。手慣れているわけだ。
映画館の観客席が、大人しい。となりの客なんか、別にリズムを取ったりしていない。俺なんか、もともとロック魂もないし、そんなにストーンズのことを知らなくても、思わず足でリズムを取り、小さく拍手したりしていたんだけど。これがアメリカなら、劇場内大騒ぎなんじゃないのかな。
K-20(TWENTY) 怪人二十面相・伝12/24キネカ大森2監督/佐藤嗣麻子脚本/佐藤嗣麻子
話がぬるい。テンポがのろい。意外性がない。退屈。大仰な宣伝の割にスケールは、せこい。
第二次大戦に参戦しなかった日本の1949年。華族が支配者となって、激しい階級社会になっているという設定だ。でも、そもそも華族なんて1000ぐらいしかなかったはず。天皇および華族が特権を握ったとしても、市民が映画に描かれるような貧乏になるというのは考えにくい。
映画では、大戦後の日本が味わったような物資不足、孤児、貧困層などが登場する。でも、大戦がなかったんだから国土が疲弊するはずはないし、なぜ市民が貧困になっているかの説明がない。つまり、前提となる「参戦しなかった」日本が、あのまま継承されていたら、どんな社会になっていたか、という想像力が足りなすぎる。第二次大戦はあったのか? ドイツはヒトラーが、イタリアはムッソリーニが支配しているのか? 日本の警察のクルマに、横文字が書かれていたが、あれがドイツ語なら、日本とドイツは蜜月状態ということだよな。その割に、日本以外の国がぜんぜん見えてこないのは、変だろ。さて、日本は中国を支配しつづけていたのか? 南北朝鮮は? ロシアには革命が起こったのか? こういうことが描かれていないから、社会状況が理解しようもない。華族が支配階級だとして、軍国主義は維持されているのか? 軍部に力はないのか? 共産主義者は活動していないのか? 特高は活動しているのか? そういうことも描かれないと、なんか片手落ちだと思う。話が荒唐無稽でも構わない。ただ、こんな社会になっている、ということをちゃんと伝えて欲しい。それがあってはじめて物語にも厚みが出ると思う。
最初に八木博士とかいう人物が、テスラなんとかという、電気を飛ばせる機械の実験をする。が、それは八木博士に化けた怪人二十面相だった、というイントロ。で、後でわかる二十面相の目的というのが、そのテスラ何とかという機械の大きいモノを手に入れる、ことだった。しかし、映画を見終えてから思うに、あんな大げさな工作をしなくても、二十面相は容易にテスラ何とかを手中にできたのではないの? と思えるのだよね。
カストリ雑誌(カストリだって、戦後だから誕生した酒で、そんな粗悪な紙を使った雑誌という意味だ。そんな雑誌が、戦争もないのに登場するはずがない。1円札も同じこと)を出してるという男(加賀丈史)がサーカスの曲芸師・遠藤平吉(金城武)に接近し、羽柴葉子(松たか子)と明智小五郎(仲村トオル)との婚約式の様子を写真に撮るよう依頼する。で、なぜか平吉は了承し、曲芸の技を使って高層ビルの屋上に登り、写真を撮るとビルが大爆発。平吉は二十面相として逮捕される・・・。てな感じなんだけど、加賀は実は二十面相、ということなんだけど、わざわざ平吉に接近する必然性はどこにあるの? 本来の目的である世界征服を実行するなら、そんな手の込んだことをしない方がいいんじゃないの? という場面ばかりがつづく。
平吉が牢にはいると、隣の房にいる男が「二十面相の素顔を見たことがある」という。これなんか、加賀こそ二十面相、と観客に信じ込ませようと言うものなんだけど、あまりにもあからさま過ぎて陳腐にしか思えない。意外な展開がほとんどなく、だらだらと説明的に話が進むだけ。まったく、ワクワクしない。
せめてCGでもいいから1949年の帝都の様子を国名に描写するとか(「帝都物語」や「魍魎の匣」みたいに)すればいいのに、レトロでダークな帝都の雰囲気はあまりでていない。屋根ばかりの街の全体像と、レンガの建物の寄りの絵しかでてこない。というわけで、ドラマとしての面白さはないし、セットやCGの見どころもいまいち。登場するレンガの建物は上海のスタジオを使ったらしいけれど、古さは出ていてもツッコミが足りないよな。
テスラなんとかにしても、なぜそれがあると世界を支配できるのか、よくわからん。最初の頃、そのテスラなんとかで巨大なクレーターができた、なんて説明していたけれど、最後、テスラなんとかを装備していた高層ビルから、その自分のビルに電気が落ちるようにしておきながら、ビルは大して壊れないというのも変だし。なんかもう、ひどいお話だ。
明智小五郎は悪役として登場するのだけれど、魅力がない。小林少年は元気いっぱいなんだけど、結局、トンマなだけ。キャラにも魅力がないのだよね。もっと観客を引っ張っていく物語性と、壮大なロマンのようなものがないと、この手の映画はチャチなところが目立つだけ。ヒロインの松たか子はますます馬面かつオバサン化していて、とてもお嬢様という雰囲気ではなくなっている。巻き込まれ型で2代目二十面相として生きていく覚悟を決めた平吉も、いまひとつ凛々しくないしなあ。悪と正義の対立関係が脆弱なのも、魅力が足りない理由の一つ、かもなあ。
ついでに。平吉が、明智の前で羽柴葉子のことを「こいつ」呼ばわりするのも変だよなあ。だって、葉子は明智の婚約者なんだから。小林少年役の本郷奏多が田原町を「たはらまち」と読んだのも、変。「のがみ」という地名が頻出するけど、それって、「上野」のことかい? それとも、架空の街?
大道芸人の山本光洋の名前がクレジットにでていたけど、スタントで登場したのかな? どこにでていたか、さっぱり分からなかったなあ。。
ブロークン・イングリッシュ12/26銀座テアトルシネマ監督/ゾーイ・カサヴェテス脚本/ゾーイ・カサヴェテス
原題も“Broken English”。なにこの映画。ドラマもメッセージも、ロクにない。からっぽ、だね。
男が欲しい、結婚したい願望の30半ばの女ノラ。仕事はホテルのマネージャー。同僚で友だちの女性オードリーは、映画監督の夫とあまりうまくいってない。ノラは宿泊客の男優に誘われれば、ほいほいついていって飲んで酔って一夜をともにする。翌日には遊ばれた、と分かって落ち込むのだけれど…。そんなノラがフランスからやってきた青年ジュリアンに言い寄られ、夜をともにする。青年はフランスに「いつか連絡を」と電話番号を渡して戻る。そのジュリアンに会いにオードリーと一緒に渡仏するが、電話番号を見失う。あきらめて帰国しようとする空港への車中で、なんとジュリアンに出会う! という、味も素っ気もない、つまらない話だ。
主人公ノラに魅力がない。ただのハイミスで、マネージャーとしての腕は優れているようだけど、芸能テレビを見てゲラゲラ笑う程度の人物。趣味もないし夢もない。サラ・ローレンス大学を卒業しているというので調べたら、芸能関係に強い有名校らしいけど、彼女が何を学んだかまでは語られていない。そう。この映画は、いろいろツッコミが弱いのだよ。
ノラが落ち込んでいると、占いのババアが呼び止める。超能力者と訳されていたけど、ウィッチ・ドクターと聞こえたから、いわゆる魔女だわな。で、その婆さんは何の布石でもなく、たんにその場に登場しただけ。他にも、フランスへ行ったついでに荷物を届けた先の婆さん(ノラを孫と間違えている、とか言っていたけど、真偽は不明。オードリーが届けた先の老紳士。彼女がバーでひとり飲んでいると、隣にやってきた老紳士。ギャラリーの青年オーナー。タクシーの運転手。…みんな、単にその場に登場しただけで、何の伏線にもなっていないし、うまく利用されてもいない。何のためのエピソードなんだ? 意味ないじゃん。つまらん脚本だよ、まったく。
パリに行くとき、オードリーの亭主(映画監督)だと思うんだが、ノラとオードリーに荷物運びを頼んだ。ノラが運んだのは紙幣だったようなんだが、一体あれは何だったのだ? ミステリアスな展開とオチを少し期待したのだけれど、なーんの説明もない。本筋にも絡まない。エピソードにもなっていない。描きっぱなしで尻切れトンボ。アホじゃないのか? この監督。見よう見まねで初めてシナリオ書いてみました、レベルのスカスカ物語だよね。
そもそも、ジュリアンが、なぜ彼女を好きになったか? 本当に恋しているのか? ということにはまったく触れない。だって、ノラは女性としてとくに取り柄はないし、魅力的でもない。のだからね。
設定も、変。ノラはホテルのマネージャー(役者も定宿にするほどのホテルなのに、カウンターにいるのはポロシャツ姿の男たち、って、どういうホテルなんだ?)。オードリーの亭主は映画監督! ジュリアンは映画の録音技師! そんな環境の人間なんて、フツーいやしないだろ。そういう設定にすれば、観客は喜ぶとでも思っているのかね。さらに、ラストも、電車で再会して、「このまま帰るの?」と問われ、キスして、それでおしまい。おいおい。核心に行く手前で終わっちゃうのかよ。何も語っていないじゃないか。ご都合主義とテキトー主義が混ざって、とりあえず1本映画をつくりました、みたいじゃないか。ひどいね。
誰か他の監督がまともな映画を1本つくり、その後で不要になったフィルムをつなぎ合わせ、なんとなく映画にしてみました、みたいな産物なのだよ。困ったもんだ。
まあ、別の見方もできるとは思うんだがね。それは、故意につまらなくしている、ということだ。ノラは、たまに可愛らしく描かれることもあるのだけれど、大半は年相応の顔で描かれる。とくに、オープニングでドレスを選んでいるときがそう。他にも、ジュリアンと最初に過ごした翌朝(といっても、そのときはセックスしていない)のだらしない顔。口は垂れ下がり、でろんとした表情は男に見せる顔ではない。カウチポテトでテレビの姿もそうだ。正装していないとき、気を許したとき、普段の女はこんなもんだぜ、という視点で描かれているのだ。しかも、普段着のファッションも、みすぼらしいものが多い。これは、映画にロマンスを求めてくる女性たちにとって、ドキッとするところではないかと思う。さらに、パリで出会ったりする人々を、伏線にも使わないというのは、こんな風にも読める。つまり、現実に出会う人の多くは、人生を変えたりするような、そんなたいそうな人ではないですよ。みんな一過性の、すぐ別れて忘れてしまうような人ばかりですよ」と。そして、ジュリアンと最後に結ばれるところも、「男と女が結ばれるのは、フツーの映画みたいなおとぎ話の要素なんかないんだよ。たまたま、偶然に、好きになって結ばれるだけのことさ」と。そんな冷ややかで諦観のようなものが感じられないでもない。その意味では、なかなか鋭いところもあるような気もする。あえてワクワクのロマンスにせず、観客が鏡を見るような物語にしたかった、のかもと。
ロマンスを盛り上げるような音楽があまりない。これは、故意なんだろうか。記憶に残るテーマミュージックもないし、妙にズレた感じなのだ。
監督のピーター・ボグダノビッチが登場していたようだ。どれだったんだ?日本名のコ・プロデューサーが登場していた。小西啓介というらしい。日本からも資金が出ていた、ということなのかな。それで、ノラと男優は最初に日本レストランに行ったのか。
エグザイル/絆12/29シネマスクエアとうきゅう監督/ジョニー・トー脚本/セット・カムイェン、イップ・ティンシン
原題は“EXILED/放・逐”。前評判がよいので、気になっていた。とはいうものの、最近の香港映画は、見る前からちょっと緊張する。っていうのも、話しについて行けなくなることがしょっちゅうだからだ。「インファナル・アフェア」もそうだった。とくに、2作・3作は、もう、何が何だか分からなかった。最近では「SPL/狼よ静かに死ね」をビデオで見たんだけど、分からなくなると時間を戻して確かめながら見るような始末。その大きな理由は、顔と名前が覚えられないことにある。大半が見知らぬ顔で、しかも、同じように見える。それと、かつてのテキトー脚本ではなく、練り上げられたホンが多くなってきていて、ちょっと見逃すと、というか、理解できなかったりすると、次が即刻分からなくなったりするのた。しかも、その伏線らしいセリフや映像が分かりにくかったり、瞬間的にして提示されなかったりすることが多い。なので、こちらも見る前からキンチョーするんだけど、ワンだのチョーだのホイといった名前がセリフに登場し出すと、もうダメ。覚えようという気力も萎えて、次第ついていけなくなるのだ。
この映画も、冒頭から俺のような客を放り出す。スペインを思わせるような街と佇まい。その家に、2人の男が訪ねてきて「ウーはいるか」と女に問う。2人が立ち去ると、別の2人がくる(このうち1人はアンソニー・ウォンなので分かるけど)。で、この4人が近くの公園みたいなところで顔を合わせて、ちょっと会話する。そこに、小型トラックがやってきて、運転手が家に入っていき、その後を4人がついて入る。で、家の中で3すくみの銃撃戦。それが 収まると停戦し、6人は銃撃で壊れた家を修繕し、家具を運び込む。そして、にこやかに食事・・・。この意外な展開は、こちらもニコッとしてしまうのだけれど、その背景がわからない。6人の関係が大まかにしかわからない。4人がボスの命令でウーを殺しに来た、らしいのだけれど、2組の2人連れの関係がよく分からない。だって、3すくみで撃ち合うのだから・・・。最初の2人連れは、アンソニー・ウォンの2人連れとはどういう関係?
分かりにくさを助長するのが、撮り方。1人1人を強調せず、集合としてフレームに入れ、セリフを言わせる。だから、セリフが誰のものか分かりにくい。というか、分からない。だから、いつになっても顔と名前と役割が、こちらの頭に入ってこない。映画に疎外されているような気分になって、理解しようという気持ちが余計に萎えてくる。だって、ただでさえ区別がつきにくい中国人なんだから・・・。ま、中国人には分かるのかも知れないけど、ね。
さて。翌朝5人の男はホテルへ行き・・・というところから、疎外感はいや増しに増し、だんだん気が散ってきた。ところどころ画面は見ているのだけれど、話は曖昧模糊。半睡状態になり、気がついたらレストランのようなところにいる。そして、激しい銃撃戦が始まった。以降は、目が覚めたのでちゃんと見た。男が1人撃たれ、ヤミ医者にかかるが死ぬ。どうやら、死んだのは女の亭主でウーらしい。4人は放浪をはじめる。だんだん4人の区別がついてくる。でも、誰と誰が2人セットだったか、覚えていない・・・。で、金塊強奪からホテルへの呼び出しになり、またまた銃撃戦で、劇終となる。
うーむ。眠ってしまったところはちゃんと確認したい。4人+1人の男の関係も、幼なじみらしいことは分かるのだけれど、もつとちゃんと知りたい。だから、ヤミ医者での銃撃戦のところまで、もう一度見ることにしよう。
エグザイル/絆12/29シネマスクエアとうきゅう監督/ジョニー・トー脚本/セット・カムイェン、イップ・ティンシン
というわけで、つづけて2回目。タイとキャット(長髪)、ブレイズ(アンソニー・ウォン)とファット(デブ髭)がセットで、ちゃんと描き分けられていることが分かる。でも、2組の関係がどうなっているかは、よく分からない。「ウーを支援する」というようなセリフがあったので、タイとキャットは、ウーと仲間なのかも知れない。家での3すくみでも、タイはブレイズを狙っていたから。しかし、思うに、冒頭ではもっとちゃんと説明して欲しいと思う。後から分かるんだけど、時期は香港返却前夜。ウーは、フェイ(ヤクザのボス)を撃った。でも、それは内部抗争なのか、組織の対立かはよく分からない。フェイの手下のブレイズは、ウーを殺すよう命じられる。で、冒頭の流れにつながるのだろう。だったら、それはちゃんと説明してくれなくちゃ、分からんよ。とくに初見では分からないと思う。
分からなかったのが、家での銃撃戦の後、5人でホテルへ行き、斡旋人にヤミ仕事を紹介してもらうくだり。この時点では、ブレイズはまだウーを殺すことを完全にはあきらめていないのではないの。友情と使命の中で葛藤していたはず。ブレイズが使命に背こう、と決めたのは、レストランの銃撃戦の後だよねえ。で、そのレストランでマカオの親分を殺そうとしていたところにフェイがやってきて、これまた激しい銃撃戦になるのだけれど、逃走中の車中でタイがブレイズに「お前は死んでいたんだ」とののしるところがある。初見では意味が分からなかったが、今度は、ウーが身をもってブレイズを守ったらしいということが分かった。のだけれど、それがどのシーンだったのかは、分からなかったよ。やれやれだね。で、ここで、ブレイズは使命を捨て、友情に生きることを決めたのだろう。
金塊強奪は、初見ではたまたま遭遇、と思っていたのだけれど、斡旋人が紹介した仕事の一つに入っていたのだね。
というわけで、2度目は流れも関係も、理解が大きく進んだ。もっとも、それでも分からないことがあるけどね。キャット、ブレイズ、ファットはすぐに見分けがつくのだけれど、タイ、ウー、斡旋人、マカオのボス、フェイ・・・。このあたりが、銃撃戦のシーンでドタバタしていると、瞬時に見分けがつかなかったりした。ここいらへんは、ビデオ鑑賞しないと、なるほど、と納得できないところかも。
ウーの妻がブレイズたちに復讐心を燃やすのは、要は勘違いなわけで。ちゃんと説明すればよかったんではないの? という気がする。ま、そういうヒマもなかったのかも知れんが。金塊を奪ったブレイズの携帯に、フェイから電話がくる。ウーの妻を預かっている、という脅しだ。それにしても、電話が通じるなら、もっと早くになんとかするんではないの? ボスなんだから。これは、ちょっと違和感ありだった。
というような分かりにくさはある。でも、物語的には情緒も郷愁も友情も感じられる。なかなかしっとりしたいい映画だと思う。みんなで集合写真を撮るところなんか「俺たちに明日はない」そのもの。他にも、どっかで見たことのあるような雰囲気の話、映像はあるけれど、一本スジは通っている。写真は、ラストシーンでも照明写真機で撮った4人の顔が効果的に使われている。銃撃戦も、宙を舞うドアを挟んでの撃ち合い、宙に舞った缶が落ちてくるまでの一瞬の戦いなど、凝っている。要するに、語り過ぎや説明しすぎの必要はないけれど、もうちょっと設定や人物が頭に入るぐらいの描き込みが欲しいなあ、ということだね。だって、定年間近で争いに関わりたくない老刑事。ホテル住まいで、ハイエナみたいな娼婦。女好きなヤミ医者。金塊を守る不敵な護衛官・・・。っていうような、魅力的な脇がいるのに、メインの5人が描き足りないのっておかしいよね。
悪夢探偵212/31シネセゾン渋谷監督/塚本晋也脚本/塚本晋也、黒木久勝
くだらない。相変わらず思わせぶりの映画をつくって韜晦するだけ。こんな誤魔化しを読み解く必要もないし価値もない。塚本晋也の中味がからっぽだっていうことを照明するような映画だと思う。
恐がりの同級生をいじめ、登校拒否にさせた女子高生が、松田龍平のところにやってくる。いじめた相手が夢にでる、と。松田も、悪夢にうなされていた。実の母が恐がりで、それが原因で自殺した、という記憶が離れないでいる。・・・というアナロジーで構成されているのだけれど、だから何? という設定と内容だ。あほか。
くだんの恐がりの女子高生の生き霊が、なぜいじめた女子高生3人の夢だけにでるのだ? 病的に恐がりなら、恨みの対象なんてそれこそあちこちにいるはず。なのに、なんで3人の女子高生なのだ? しかも、いちばんいじめていたという女子高生は結局無事で、あとの2人は死んでしまう。なんなの、これ? そのうえ、生き残ったその女子高生は、人の心が読めるようになってしまう。どーゆーことなんだ?
恐がりの母親の夢ばかり見る、松田。しかし、なんでいまになって見るわけ? というか、何で母親は松田のことをころそうとしたわけ? 松田が母親が怖がるようなことをしたのか? なんか、因果関係がいい加減、というか、始めっから説明しようという気がない、というか、骨格だけを決めてテキトーに尾ひれをつけて、さも深い意味がありそうな具合にしているだけのこと。見え透いている。
他にも、よく分からないのだけれど、戦時服を着た少年たちが行列しているように見えるシーンがたびたび出てくるのだけれど、これも、何のことやら分からない。しかも、時間が短く暗くてブレているから、よく見えない。意味ありげだけれど、コケ脅かしにしか過ぎないだろう。とにかく、この映画に意味を求めてもムダだ。下手なハッタリしかない、と思う。
それと、相変わらずなのが、カメラぶん回し。手持ちカメラでブレブレにすれば緊張感がでる、と思いこんでいるのがアホらしい。そういう小細工を多用すればするほど、要するに映像そのものを信じていない、というか、監督自身に表現力かないことを露呈してしまっている。ホント。塚本晋也は、進化がない。きっと、もともと大した才能も、表現したいものもないのだと思う。若くして祭り上げられてしまった人の悲劇だね。
子役が、なかなかよかった。母親訳の市川実和子が突き飛ばし、泣き出すところなんか、リアル。っていうか、こいつはきっと、本当に泣かせているんじゃねえの? と思ってしまった。

 
 

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