我が至上の愛 〜アストレとセラドン〜 | 2/9 | 銀座テアトルシネマ | 監督/エリック・ロメール | 脚本/エリック・ロメール |
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エリック・ロメールである。名前は知っている。どんな映画を撮っているのかな? と調べたら、見たことのない映画ばかりだった。けっ。 冒頭に「ルイ○世」がどうとか「ローマ」がどうとか前口上がでたので時代背景のことかと思ったら、「そういう風景は本来の場所にはないので似ている場所で撮影した」なんてことで、時代のことではないのだな、と思いつつ見はじめて。いったいいつの物語なのか「?」に。ギリシア・ローマ時代に近い服装だけど、城は中世っぽい。ルイ王朝の話なの? 結局分からず。終わって、ポスターを見たら「5世紀のフランス」とか書いてあった。ふーん。なんか、よく分からんね。 映画というより戯曲(または叙事詩)そのままを映像化したみたいな感じ。古風な言い回しでもったいぶってて間が悪く大時代的。現代的で映画的なテンポは丸でない。演出もひどく素朴。映研が撮ってる見たいな絵だ。あまりにつまらないので、城に運ばれて暫くして寝てしまった。気がついたら、城から出て行こうとしているところだった。以後も映像の様子は変わらず。 なんでこんな映画を撮ったのか理解できない。大時代的な台本でも現代風にも撮れるのに、そうはしていない。スタンダードサイズのがめんに人物はよろよろと出たり入ったりして大仰なセリフをいうだけ。「5世紀フランスの究極の愛と官能」とキャッチフレーズがついているのだけれど、たいした官能はない。ラスト近く、ヒロインのおっぱいぽろりシーンがあるのだけれど、そのおっぱいに字幕がのっかっててジャマでしょうがなかった。あのシーンぐらい、字幕をタテにしておっぱいにかぶるのをやめるべきだろう。なんと鈍感なことか。 さて、なーんの説明も読まずに見たからこんなハメになったのかも知れない。オフィシャルサイトを見てみるか。 なんでも原作は17世紀の作品らしく、5世紀ガリア地方の話らしい。この時代って、ローマ帝国はあったんだっけ? なんだかよく分からんよ。フランス人なら分かるのかね。それにしても、いくら倒れていたからって羊飼いの青年を女たちが場内に運び込み、僧侶といっしょに介抱したりする話というのは、にわかに信じられない。あの女たちは、城主の妻や娘たちなのか? それが、いくらイケメンだからって、一介の羊飼いを・・・。よくわからん話である。しかも、その羊飼いが恋する、同じ羊飼いの娘というのが、そんなに可愛くないし。艶めかしさもいまひとつふたつみっつぐらい足りないと思う。さらに、大自然の描写もありきたりで、ぜんぜん美しくも雄大でもない。そこらの野っ原だよ、あれじゃ。 | ||||
レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで | 2/9 | 上野東急 | 監督/サム・メンデス | 脚本/ジャスティン・ヘイス |
原題は"Revolutionary Road"。若夫婦の関係をいかにも緊張感ありげに描いていく話。でも、見終わって思ったのは、日本とアメリカの、男女間・夫婦間の意思疎通の方法の違いの大きさだけのような気がする。アメリカ人って「お互いに隠し事はしない、真実を話す」といいつつ、そんなことは守らない。そして、たまに真実を話すとぎこちなくなったりする。にほんなら、まずこんなときは黙っているに限る、というようなときにも、相手を慰めたり労ったり同情したりするために、言葉を利用する。なんか、言葉にしすぎなんではないの? という気がする。本心ではなくてもあれこれ誉めたりおだてたりして関係を回復するって、それって、嘘に近いんではないの? ケイト・ウィンスレットとレオナルド・ディカプリオ。出会いはインク・スポッツの音楽だ。以降、グレン・ミラーやモダンジャズ、ロックンロールと、音楽で時間の変遷を見せていくのは、よろしい。2人は結婚して子供を儲け、郊外の一戸建てを買う。レオは都心の大会社のサラリーマン。若いけど美しくない女子社員と浮気をしたりもする。ケイトは専業主婦で、地域の仲間と演劇に挑むが才能のなさを思い知らされる(芝居が終わり、夫が妻に「いい芝居だったとはいえないね。こんな田舎で芝居は間違っていたんだよ。君だけがまともだった。あとはみんな・・・」と慰めるんだけど、しつこい。ケイトが、「もう言わないで」って言っているのに、それでも慰めの言葉をレオはかけ続ける。これじ、ケイトが怒るのも当然だと思うけれどなあ。でも、何も言わなけりゃ言わないで、文句がくるんだろうなあ。アメリカ人はやっかいだね)。でも、こんな風に歳を取り、死んでいく人生でいいの? という気持ちだけはある。セックス面でも不満があるみたいで、大して魅力的とは思えない友人とクルマの中でいたしたりするのだよ。まったく、倦怠期、で片づけてよいものなのか・・・。 ケイトは、レオが大戦時にパリにいて、バリのよさを語るのに強く反応。思いつきで「会社を辞めてバリに行こう。私が働くから、あなたは自分のしたいことを発見して」と主張する。戸惑っていたレオも、次第にその気になってしまう・・・。 うーむ。こういう展開は日本でもありそうだな。自分には夢があった。なのにいまは平凡なサラリーマン。本来ならこんなところでくすぶっている俺じゃない。妻と子供と家庭さえなければ・・・。なんていうパターンね。でも、レオは自分でも言ってたけど作家や画家の才能があるとは自覚していない。パリの自由な空気を一瞬だけ感じただけだったんだ。なのに、ケイトは自分の夢を夫に仮託する。レオもその気になって会社を辞める決意をする。そんなとき、レオの仕事が評価され、昇進のチャンスが訪れる。ついでに、久しぶりのセックスでケイトが妊娠。ここでパリをあきらめればいいのに、ケイトはしつこくこだわるのだよね。自分で堕胎器まで買ってきたりする。パリで働くこともできなくなりそう(というか、ケイトは政府機関で働けば給料はいい、なんていってたけど、そもそも就職できるのかね?)で、子供を産むわけにもいかず・・・という理由で、とりあえず断念する。 それで収まればよかったんだけど、ここでトリックスターが話をややこしくするのだ。家を買うときに世話になった不動産屋のオバサン(キャシー・ベイツ)が、息子の話し相手になってくれ、と分裂病で入退院を繰り返す変人息子を連れてくるのだけれど、彼は夫婦の考えている核心をズバズバ言い当てていくのだ。パリに行く、ということには「こんなクソみたいな街を出ていきたいのは当然」と理解を示し、パリ行きをやめたことを知ると「奥さんが原因じゃない。旦那が原因だ」と突っ込む。一家が帰ったあとは壮大なる夫婦喧嘩で、レオは「子供なんて堕ろせばよかったんだ」と口走ってしまう。これで、生む方向に傾いていたケイトは、自力で堕胎。それが失敗して死んでしまうのだ・・・。なんとまあ。で、レオは子供を連れて会社勤めの日々、というエンド。 アメリカ人には納得できる映画なのかも知れないけれど、日本人の俺には「アホなんじゃないの?」のひと言で片づけられてしまう話。夫婦間の心のズレなんか当たり前なんだから、静かに放っておけばいいのだ。語りすぎなければいい。過剰な夢を追わなければいい。自分の夢を夫に託したりしてはいけない。フツーに生きればそれでいいではないか。と思ってしまうので、この映画のケイトみたいな奥さんは、アホにしか見えないのだよ。 ラスト。キャシー・ベイツが「だからあの家は売れなかったのよ」と亭主にべらべらしゃべり始めると、夫が補聴器の音量をゼロにする。結局この映画、うるさすぎる奥方族への皮肉なのかな? | ||||
ラーメンガール | 2/10 | テアトル新宿 | 監督/ロバート・アラン・アッカーマン | 脚本/ベッカ・トポル |
原題は"The Ramen Girl"。米国人監督によるアメリカ映画だ。奈良橋陽子が製作者に入っているので、資本も出ているのかも知れない。でも、ワーナーのロゴがでていたので、配給は完全にアメリカなんだろう。でも、IMDbをみても42votesだけで、アメリカ人が見ている様子はない。彼の地ではどのぐらいの規模で公開されたのか? いろいろ疑問がつきまとう映画だね。 画角、色調などは完全に日本映画。ライティングも、ヨリとアップが多用されていて、あまり特機も使われていない。なんだこれは? という気分。洋画のテイストが全然反映されていない。しかし、クレジットを見て納得。ほとんどのスタッフは日本人なのだ。いったい、監督はなにをしたんだろう? 座っていただけ? とはいうものの、映画はほどほどに面白かった。恋人を追って日本に来たけど、恋人は別に勤務地である大阪へ。残された娘は日本語もできず哀しい日々。たまたま入ったラーメン屋でラーメンに触れ、弟子入り。新鮮味はないけれど、米国人の見た日本人、日本スタイルはあまりなく、日本映画とほとんど変わらない。日本人監督が撮っても、こんな感じになるかも、というような仕上がりだった。 それにしても、合理的なアメリカ人が、丼洗いやトイレ掃除、「心がこもっていない」だとかの非合理的な味の追求なんかに納得するはずがないと思うが。ああいう筋立てを、よくもまあアメリカ人が受け入れたものだと思う。ひょっとして、アメリカ人の監督は傀儡で、ほんとうは日本人の誰かが監督をしていたんじゃないの? 最後の集束は、かなりテキトー。西田敏行と余貴美子夫婦がパリに行ったままの息子と和解したのは、どうして? とか、西田がアビー(ブリタニー・マーフィ)を後継者にしたにもかかわらず、アビーはアメリカで日本とは異なる変なラーメンを出す店をだしているし。師匠である山崎努のお墨付きは結局もらえないまま? 石橋漣司の店は流行ってるの? とかいうもろもろはアバウトなままだ。ちょっと不満。それと、アビーが恋する青年の祖父母が朝鮮人という設定は、どういう意味があるのだろう? かなりひっかかる設定なのに、それ以上のツッコミがないのはものたりない。それと、いまどきの映画にしてはやたら煙草を吸うのが気になってしまった。 | ||||
ララピポ | 2/10 | 新宿ミラノ3 | 監督/宮野雅之 | 脚本/中島哲也 |
予告編では脳天気なノンストップお笑いムービーみたいに思えたんだけど、実際はそんなことはなかった。かなり暗いところのある映画だった。 脚本は「下妻物語」「嫌われ松子の一生」の中島哲也だけれど、本人監督の映画ようなテンポとノリと疾走感がない。これは演出だけのことかな? 脚本の内容にも関係していると思うんだけどね。 スカウト成宮と32歳オナニー男、ゴスロリデブ女、変身ヒーロー願望男、元銀行員のAV女、その実の母の40AV女なんかが、年齢・年収とともに紹介される。けど、フリーライターとデブ女のエピソードを除いて、そんなに笑えない。むしろ、ドロドロな話が多い。これでは見る意欲がなくなってくる。というわけで、3つめのヒーロー願望男のパートをほんんどすべて寝てしまった。 つらい、かなしい、でも元気に生きてる、という話ならまだしも。世の中の底辺をうごめいている変態連中の話を見て、笑えるか? それに、それぞれが、そういうキャラクターに特化されすぎていて、現実味がかなり削り落とされている。似た人はいるだろうけど、こんなやつ、現実にはいないよ、という気がしてしまう。 32歳フリーライターのオナニー男。この程度の男なら、女性と接点がもてないわけでもないだろう。としか思えないよね。銀行員がファッションヘルス→AV女優になる道もあるだろう。けど、類型化されて描かれているだけで、深みが全然ない。その両親にしたってそう。みんなそう。人物が薄っぺらで類型化されすぎ。もうちょい機微を描け、といいたくなってくる。これはもう、紙芝居でしかないではないか。 ちょっと変わった表現形式としては、フリーライターは主観ではそんなにデブではないのに、客観的にはひどいデブである、というのがある。主観的にはデブ女を殺してしまったのに、客観的にはそんなこともできないへたれだったとか。そういう描き方をしているのだけれど、それだけで終わってしまっている。同じようなギミックというかレトリックを、あといくつか用意すれば、味というか表現ができたような気がするんだけど。中島哲也の表面的なスタイルを真似しただけに終わってしまっている。もったいない。 「ララピポ」とは、"lot of people"のこと。デブ女が街で外人に話しかけられたときの言葉だ。しかし、この言葉にしても、単に使われただけ、レベルで、言葉の意味するところまでの深みへ行き届いてはいない。これも、もったいないとしかいいようがない。 | ||||
イエスタデイズ | 2/12 | ギンレイホール | 監督/窪田崇 | 脚本/清水友佳子 |
意味なく長ったらしく、だらだらしすぎ。ざっくり90分弱にすれば少しは歯切れよくなるかも。最近は、切るのを惜しがる監督が増えているような気がする。 一種のタイムトリップもの。末期がんでホスピスに入った父親から、昔の彼女と隠し子を捜してくれ、と次男が依頼される。・・・という設定からして非常にムリがある。このムリを"あり得るかも"と思わせる力業がなくちゃいけないんだけど、それがない。 主人公が過去にタイムスリップし、過去の父親と昔の恋人がいる部屋に紛れ込んでしまうシーンでも、フツーなら「あんた誰?」となるはずなのに、歓迎されてしまう。あり得ないだろう。ここでは、変な奴が入り込んできたけど妙に親近感が湧いてしまう的(血がつながっているから)な説明がないと、嘘っぽすぎて見ていられない。音大の学生課で女子学生が助け船をだすっていうのも、あり得ない設定。このあたりの杜撰さが、この物語の底の軽さを象徴していると思う。 仕事バカと思い込んでいた父親が、実は絵を志していて、音大生の恋人がいて、子供までできていた・・・という過去を知ることで、父親を見直すという、つまらない話。このありきたりな話に、父親が昔書いたスケッチを見ていると、その過去に入り込んでしまう、という味付けをしている。これも、割とある設定で、意外性はない。 父親が最終的に恋人と別れたのは、彼女に音楽家への夢を捨てて欲しくなかったから、というものだけれど、その彼女が結局は音楽の道を選択できなかったのだから、意味がないではないか、と思ってしまう。父親のレストラン事業を継ぎながら、音楽家を志す妻を娶ったって、何が悪いんだ、という気分になってくる。 それと、長男は父親に反発せず、父の会社で有能に働いている、という設定なのだけれど、まるでそういう兄のような生き方が悪い、とでもいっているようなところもあったりして、どーも歯切れが悪い。ま、脚本のツメが大甘なんだと思う。 最初の頃、最終的な展開はどうなるのかな? と考えながら見ていた。過去に別れた音大生の彼女。その彼女が生んだ子供は、実は、主人公の兄だった・・・。そして、血のつながっていない息子を、いまの母親は育て上げた。そして、音大生の彼女は若くして亡くなっていた・・・。なんて物語を考えながら見ていたのだけれど、まるきりそういう風にはならなかった。残念。 昔の彼女は、石原真理子似の原田夏希が演じている。そのイメージを壊してしまうのが、現在の彼女役の高橋恵子だ。昔の彼女のイメージだけでひっぱって欲しかったんだが、なんと堂々と登場してきてしまった。どーも最近は顔が崩れてきているみたいで、魅力は半減以下。せめて原田美枝子ぐらいにしてくれれば、まだ救われたんだが。 その昔の父の彼女(高橋恵子)と次男(塚本高史)が出会うシーンはレストランなんだが、塚本の背後にうつるエキストラの女がもの凄いデブで、なにもこんなところにあんなデブを・・・と思うぐらい気になって仕方がなかった。 昔の彼女の友人は、現在、バリバリの音楽家。その娘も同じ音大にいて、学生課で次男に話しかけてくるのは、その娘なんだけど。その娘役のぽっちゃり系の中別府葵という女優が、ちょっと可愛かった。/TD> | ||||
トウキョウソナタ | 2/12 | ギンレイホール | 監督/黒沢清 | 脚本/マックス・マニックス、黒沢清、田中幸子 |
亭主がリストラにあった家族の崩壊と再生の物語。テーマはありふれているけれど、ユーモアを交えた描き方が秀逸。とくに前半の流れはテンポよく、歯切れよく、「イエスタデイズ」もこんな感じにキビキビ撮ればいいのに、と思ったぐらい(つまり、これまでの黒沢らしくない)。ところが後半、役所広司の強盗が登場してから話がいきなり抽象的になって、それまでの緊張感が失せてしまう。リストラのショックから立ち直りかけた香川が、ショッピングモールで清掃作業員として戸惑いつつ仕事をし始めたところで、それはそれで面白い展開だと思っていたのに・・・。 この、役所広司が登場している時間帯は、こうだ。亭主(香川照之)は清掃作業中にトイレで現金を拾い、作業着のまま夜道でゴミ箱を蹴飛ばし「やり直せたら」とつぶやきつつ道路に飛び出して跳ねられる。元調理人で何をやっても失敗しつづけの役所は香川の家に強盗に入り、顔が見られたからと女房(小泉今日子)にクルマを運転させ、郊外へと逃走する。役所は海辺の小屋で小泉を犯し(たように見える)、深夜、ひとりでクルマに乗ったまま海へと入っていく。明け方、路上で気がついた香川は家に戻り、小泉と次男(家出しようとして捕まり、留置場で一夜を過ごして戻ってきたところ)とで食事をする。ここで、日常が復活した、ということになる。で、役所に絡んだここまでの時間帯の話が、それ以外の部分と比べてつまらない。なんで、こんな風に話をいじくりまわすのだろう。こうやって、何かありそう、な部分をつくっておかないと心配になるのかな。黒沢清らしさを出そうというのかな。そんなことしないでフツーに撮っていれば、そこそこ精度の高い映画になったものを。この部分のせいで映画が退屈になり、傑作が凡作になってしまった、といってもよいかもね。 役所は、もっと早いうちから登場させ、ある時点で合流させるような構成の方が自然に見えると思う。ショッピングモールで香川と小泉が遭遇した時点から「3時間前」に戻る、っていうのは、それまでの流れをぶった切るようなもの。どう考えても変だ。それと、役所はかき揚げが得意な料理人に見えないよ。温水洋一みたいな頼りない男が強盗に・・・の方がよくないかい? やる気のなさそうな長男(大学生。バイトはティッシュ配り。目標を見失ってる)が米軍に応募する、というのは流れとしてあってもおかしくはないと思う。でも、次男に天才的なピアノの才能がある、という流れは飛躍しすぎかもね。とくに、最後に次男の中学受験で家族再生への一歩を踏み出すのだけれど、天才的次男がいなかったらどうなっているんだ? と思ってしまう。 妻・小泉が日常に不満があるように見えなかったんだけどなあ。亭主に相手にされないぐらいで、それで、たまたま強盗が入ったからって、そのまま強盗と家出しちゃったりするほど息苦しいとは思えないんだけどなあ。 というわけで、前半は映画的緊張感、おかしさに満ちているのだけれど、それでも、この映画の基本的なテーマには共感できなかった。いまどきリストラなんてフツーだろ。それを妻や華族に隠し続けたい、という亭主族。夫・父親の権威を守りたい、なんて思っている男たちなんて、そんなにいないと思うけどなあ。黒沢清は、現在のごくフツーの家族のことを、よく知らないのではないのかな。映画に描かれているのは、ちょっと前の時代までの、類型的な日本人だと思う。香川の同級生で、同じくリストラされたのを家族に黙っている津田寛治は、リストラが女房にバレると小学生の娘を残して無理心中してしまう。仕事を失ったぐらいで、いまどきの日本人はそう簡単に自殺なんかしないと思うぞ。まして娘を残して・・・。だからホームレスが増えているわけで。自殺するのは、うつ病を伴っている場合が多いんだぞ。リストラ→自殺、というパターンにこだわりすぎではないか? そういえば、役所もそのパターンで殺しているなあ。 この家族で一番びっくりしたのは、4人そろっての食事のシーン。小泉と長男、次男がテーブルに着いているところに香川がやってきて、「ビールにしようかな」と缶ビールを開け、コップに注いで飲む。2口、3口。その間、家族は食べずに待っているのだ。うへえ。そして、父親である香川が「いただきます」をいうと、みなの食事が解禁される。うへえ。いまどきこんなルールのある家なんてあるか? ってか、反抗的な息子なら、こんなの守ってないよな。ということは、息子たちはかなり従順ってことになるけど、映画のテーマからすると、なんか違和感がある。別に、家族が崩壊するほどでもないじゃん、と。 次男が「ピアノがやりたい」というと、香川が殴る。うわ。本気で殴ってる。痛そう。その直後、階段から次男が落ちるんだけど、これがなんと、仰向けで頭から落ちてくる。凄っ。顔が見えないからスタントだとは思うけれど、これも痛そうなシーンだった。 画調は、黄色や緑が強調され、コントラストも強い。香港映画でよく見かけるテイストだな。あとは、ヨーロッパ映画にもこんな感じの画調があるなあ。と思っていたら、日本/オランダ/香港の合作らしい。世界公開もされるのだから、日本人がいまでもリストラされると自殺する、みたいな短絡的な表現はやめて欲しかった、という思いがある。ま、映画だからしょうがないといえば、そうなんだけど。 | ||||
悲夢 | 新宿武蔵野館3 | 2/16 | 監督/キム・ギドク | 脚本/キム・ギドク |
キム・ギドクは何本か見ている。分かるような分からんような、でも、すっきりしない映画をつくる人のような印象かな。この映画も、最初の設定は面白かったんだけど、展開がいまひとつ。観客を幻惑させようとしているのか、それとも、収集がつかなくなってしまったのか。なるぼどー、という終わり方をしていない。いや、別にひとつの解を求めているわけではないのだ。多面的に読めてもいいのだけれど、読みすら叶わないような、単に素材の羅列に終わってしまっている気がして、もったいないと思う。 オダギリ・ジョーは、自分を捨てた女の夢ばかり見る。イ・ナヨンは、自分が捨てた男の夢ばかり見る。オダギリが夢の中で自分を捨てた女とセックスしていると、ナヨンは夢遊病のようになって昔の男のところに通い抱かれている。それを知ったナヨンはオダギリに「眠らないでくれ」と頼み込む。そのうち、寝る時間を入れ違いにするのだけれど、眠気を抑えきれないオダギリが寝てしまうと、ナヨンは昔の男のところへ行って抱かれてしまう。・・・というような関係性が基本にある。 占い師によると、オダギリとナヨンは表裏一体。2人が交際すればすべて解決する、というようなことをいうのだけれど、そうはしない。ナヨンはひたすらオダギリに「寝るな」と怒りの声をあげ、オダギリは寝まいと自分のカラダを傷つけたりする。なんてそこまでオダギリが、他人であるナヨンのために寝ないようにするのか、そこが分からない。だって、交通事故を起こし、後には人まで殺すナヨンをかばい「僕が犯人。僕が夢を見たのが悪い」と警察に言ったりするのだよ。そこが釈然としないので、そもそもの2人の関係が納得できない。たとえば前世で何かあったとか、見えない糸でつながっていただとか、背景がないとねえ。ちょっとムリだろ。 ナヨンが夢の中でどうして昔の男に抱かれに行くのか。それも分からない。昔の男には別の女(すごいブスで、あと10年もしたら典型的な韓国人のオバサン顔になりそうな女優)がいるのだけれど、あの女は誰なんだ? オダギリを捨てた女が写真に写っていたけれど、その女か? よくわからなかった。 ちょっと考えてみた。たとえばオダギリを日本、ナヨンを韓国。ナヨンが捨てた男を北朝鮮。その男がいまつき合っている女がアメリカ・・・と仮定できないか、と。アメリカというのはムリがあるけれど、あとの3者はそれなりに合致しないかなあ。オダギリとナヨンが韓国と北朝鮮でもいいんだけど、あえて日本人のオダギリを使っているのだから、やっぱりオダギリは日本だよなあ。とかね。想定してみたりしていた。 蝶が、意味深に使われている。オダギリを捨てた女に、オダギリが与えたネックレスが蝶。そのネックレスをナヨンに与え、ナヨンは自分が捨てた男のところに忘れてきている。で、ラストでナヨンは自死するのだけれど、蝶となる。ま、意味はつながっているけれど、だからどうしたレベルだね。 ナヨンが、自分が捨てた男を殺害し、そのとき男と一緒にいた女とともに精神病院に入れられる。あのくだりが思わせぶりで、意味不明。オダギリも橋から飛び降りて自殺するし、その後を追うようにナヨンは首をつる。だからどうした、の終わり方。ぜーんぜん分かりません。きっと誰にも分からないと思うよ。読み解けるようにつくられていないと思うから。というわけで、どーでもいいくだらない映画であると断言しておこう。 基本的におかしいのは、殺人者であるナヨンと、関係者のオダギリを警察のフツーの事務室で尋問しているのだけれど、これはあり得ない。ナヨンと、捨てた男の彼女が同じ病室に隔離されているのも変。ナヨンとオダギリが、身体が触れあえるような状況で面接するというのも変。変は承知でやっているんだろうけれど、違和感はぬぐいがたい。 この映画でひとつだけ面白かったのは、言葉。韓国が舞台で基本的にみな韓国語をを使っているのに、オダギリは日本語のままで通すのだ。その日本語を韓国人たちは理解できていて、また、オダギリは韓国語が聞き取れている。自動翻訳機械があるみたいにしゃべり、意思疎通している。はじめは不自然だったんだけど、そのうち違和感がなくなってしまった。日本人が下手な韓国語をしゃべらなくても、こういうやり方もあるのだな、と思った。 | ||||
エレジー | 新宿武蔵野館2 | 2/16 | 監督/イザベル・コイシェ | 脚本/ニコラス・メイヤー |
原題も"Elegy"。ただの歳の差カップルの話かと思っていたら、ラスト近くで病魔と戦う女のお涙頂戴深刻映画になりさがってしまって、おいおい。で、監督を調べたら「死ぬまでにしたい10のこと」「あなたになら言える秘密のこと」という辛気くさい映画を撮っていることが判明。なーるほど。ただのメロドラマじゃ終わらないわな。 精力絶倫っぽい老大学教授(ベン・キングズレー)。離婚して1人生活。昔から教え子に手をつけていた様子。いまも、昔の教え子(50歳ぐらい)との関係あり。・・・が、新入生(ペネロペ・クルス)に目をつけアプローチ。どういうわけか成功する。知性にコロリといかれたような風だけれど、若い女がジジイと恋する、という設定としては説得力不足だと思う。ペネロペはベンを家族に紹介したがるのだけれど、ベンは嫌がってばかり。その結果、ペネロペは去っていく。のだけれど、なぜベンは家族に会いたくなかったのかがよくわからない。「こんなジジイが・・・」なのか「正式につき合うことで束縛されたくない」なのか、そこのところが描かれていない。2年間つき合い、2年の別離の後、ペネロペから電話。乳がんにかかったから伝えたい、と。うーむ。ここも変。ペネロペは「他の人から伝わるより、直接伝えたいから」というけれど、別れた男にそんなことをいちいち伝える必要があるか? ないと思う。ま、ペネロペにとってベンが忘れられない男だから、なら分からないことはないけれど、それでも、いちいち伝える必要があるか? どーも疑問だね。 という話で、最後は術後のペネロペとベンが抱き合いながら海岸を歩いているという、なんだかよくわからない終わり方だ。まあ、ペネロペの余命幾ばくもなく、この先、2人は愛し合いながら暮らすのだろう。しかし、裸体やおっぱい大好きなベンにとって、乳房を取り去ったペネロペがどういう風に見えるのか、それはかなり心配でもある。それに、現在進行形の愛人もいるわけだし。ベンにとって純愛というものが成立しうるのかどうか、はなはだ怪しい気がする。 ベンの行動で面白いのは、友人の詩人(デニス・ホッパー)との関係だね。いつもスカッシュをしていて、ベンはペネロペとの関係の進行を逐一話している。アドバイスをもらおうというのではない。話したがり、みたいにも見える。自慢、にも思える。そのホッパーはカミサンひとすじ、のはずたったのだけれど、どーも若い女に目移りしたみたいで、後半になって急に倒れるのだけれど、病院で看護中のカミサンの乳房に頬を埋めたり、見舞に来たベンにキスをしたりする。どーも、別の誰かと錯覚してそうしたらしいが、老いらくの恋なのか。これはベンに影響されたのかな? わからなかったのが、そのホッパーが倒れた講演会でベンがホッパーの紹介をしたシーン。どうもホッパーは不愉快になり、下手にいたカミサンも驚いた表情なんだけど、ベンの紹介メッセージになにか皮肉っぽいことがあったのか? よく分からん。その紹介に応じて立ちあがろうとして倒れるんだけどね。でもって、病室で朦朧としてキスした後、永眠。 映画としてはベンとホッパーのシーン、ベンと昔の教え子で愛人とのシーンがとても興味深かった。しかし、ガンジー俳優のベン・キングズレーが大学教授で、不良バイク野郎にしてB級映画御用達のデニス・ホッパーがピュリッツァー賞受賞の詩人、蓮っ葉な庶民面のペネロペ・クルスがキューバ生まれのインテリ美人女学生という設定に、ちょっと入り込めないところがあった。 エドワード・ウェストンのピーマンの写真が寝室に飾ってあった。ウェストン好きだと、現代アメリカの知識人ということになるのかね。音楽は、サティやバッハのフーガだったりして、なかなかよかった。でもまあ、手垢が付きすぎてはいると思うのだけれどね。 それにしても、ベンは何歳の設定なんだ? ベンとペネロペは30歳違い。仮にペネロペが20歳なら、ベンは50歳。それはちょっと若すぎるだろ。では、ベンを60歳とするとペネロペは30歳の女学生ということになってしまう。そういう学生もいるだろうけど、ちょっとなあ。それに、ベンが60歳というのもまだ若すぎる気がする。だって、息子が35歳の医者なんだもの。ベンを65歳とするなら、ペネロペは35歳ということになってしまって、それなら歳の差なんかどうでもいいじゃないか、という気になってくる。 それでは実際の年齢はどうだ? ベン・キングズレー65歳、ペネロペ・クルス34歳、パトリシア・クラークソン(ベンの昔の教え子で愛人)は49歳だ。うーむ。するってーと、ペネロペは35歳の女学生ってことか? なんかなあ。どういう学生なんだ? よく分からん。 老人が若い女性に好意を持たれるというのは、いささか嫌らしい感じがぬぐえない。いけないこと、のような感覚が残る。ま、男は何歳になっても青年の気持ちを忘れず、若い女が好きだ、というのは否定しないけどね。でも、若い彼女ができたからって、あまりにも嫉妬深くないかい? 昔の男は何人いたか? どんなセックスをした? なんと問い詰めたりするのって、気色悪いったらありゃしない。まあ、たんに独占欲から来ているわけではないと思うけれど、でも、若い男と自分とを比べて、自分が劣っているのではないかという不安があるのだろう。でも、それはしょうがないことではないのかなあ。 それに応えるかのように、再会したペネロペは「何人かの男とつきあったけれど、肉体的にはあなたが一番」なんてベンに言ってくれるのだ。うれしいとは思うけれど、本当かねえ。お世辞だろう? と思ってしまうよね。 | ||||
フェイク シティ ある男のルール | 2/17 | テアトルダイヤ | 監督/デヴィッド・エアー | 脚本/ジェームズ・エルロイ、カート・ウィマー、ジェイミー・モス |
原題は"Street Kings"なのに、なんで「フェイク シティ」になっちゃうんだ? 安っぽいB級クライムアクションだなあと思いつつ見終えて、エンドクレジットにジェームズ・エルロイの名前を発見。おお。エルロイの原作か。それにしては勘所がよくない。というか、外しまくってるとしか思えない。安っぽいつくりだし。と思って調べたら、これまたエルロイが脚本を書いていた。やれやれだな。原作に忠実に、というのが足かせになったか。なんとも半端な映画ができあがったもんだ。 主人公は命知らずの刑事(キアヌ・リーブス)。突撃時には小瓶の酒(ウォッカらしい)を何本か飲んで勢いをつける。しかも短気で怒りっぽい。なのに中途半端に正義感がつよい。どーも魅力がない。後から、彼の女房が浮気中に心不全かなんかになって、相手に路上に捨てられた(?)過去を持つことが分かるんだけど、その背景がキアヌのキャラに反映されていないのだよなあ。冒頭で無茶な突撃で韓国人ギャングをやっつけるプロローグのアクションがあるんだけど、むしろ、女房の話を持ってきた方が感情移入できたんじゃないかと思った。 さて。キアヌの上司にフォレスト・ウィッテカー。この手の警官ドラマでは悪徳警官が私腹を肥やしているというのが常套だ。すると、ウィッテカーしかいないのだよなあ、当てはまるのが。まさかウィッテカーじゃないだろう。誰なのかな? 内部調査部の部長か? と思っていたら、何と一番怪しいウィッテカーが黒幕だったという、どーうしようもない結末。げ。まあ、ちょっと信頼していたディスカントという刑事もウィッテカーの息がかかっていたというのは見抜けなかったけどね。それにしても意外性のないラストにはがっくりきてしまったよ。 ラストも、キアヌがウィッテカーが黒幕だと気づき、追いつめるのだけれど、そこで官憲に渡して終わりかと思っていたら、さにあらず。なんと撃ち殺してしまうのだ。おお。短気な暴力刑事らしい終わり方にしようというのか。でもちょっとやり過ぎなんじゃないの? と思っていたのだけれど、これにはまだ余韻というか意味があるのだった。これまでキアヌの乱暴狼藉の尻ぬぐいをしてくれたウィッテカーに変わり、次からは内部調査部長が面倒を見るよ・・・。つまり、これから内部調査部長が黒幕になっていく可能性を示唆して終わる、というものだった。でも、それにしては、ちょっとその示唆が弱いような気がしたのだけれどねえ。それに、主人公たるキアヌの存在意味が薄れてしまうのではないの? というわけで、三流刑事ドラマを見せつけられたような気分になってしまった。ヒロインも登場することはするんだけど、いまいちな感じ。色っぽくないし目立たないなあ。 | ||||
誰も守ってくれない | 2/19 | キネカ大森2 | 監督/君塚良一 | 脚本/君塚良一、鈴木智 |
犯罪者の家族に焦点を当てた物語。同系統の映画に「手紙」がある。思うに、犯罪は個人に帰するのであって家族は基本的に無関係だと思っている。家族の影響はあるだろうけれど、それがすべてではない。同じような環境・影響下にあっても犯罪を犯さない人もいる。逆に、なんの悪影響がなくても犯罪を犯す人もいる。生理的に、犯罪者の家族を忌避する感情がでやすいのは分かるけれど、家族には何の罪はないと考える。 浅野健一の「犯罪報道の犯罪」という本や考え方に同調する。犯罪者の実名報道にはほとんど意味がない。犯罪者の家族や親戚に迷惑がかかるだけのことだ。実名で報道したからといって犯罪が減るわけでもない。誰の利益にもつながらない。ただ、覗き趣味の一般大衆が少しばかり興味を示すだけのことだ。それも、下世話なことを記事にする低級なマスコミ報道がなければ、大衆だってそんなに「見たい」とは思わないだろう。マスコミが騒ぎ立てるから「見てみようかな」と思う低度なはずだ。 犯罪者の過去を暴いたり、犯罪者の家族や友人知人を面白おかしく書き立てるマスコミはアホである。「みんな知りたがっている」とか「実名報道は責務」なんていうのは、新聞や週刊誌の売れ行きを心配してのことだ。それ以外に考えられない。 という意味で、実名報道は、一種の犯罪である。別に犯罪者をかばうことにはならない。まして、犯罪者の家族は無関係に人々なのだから、そういう人に悪影響が及ばないようかばうのと当然だ。この映画にも出てくるけれど、犯罪者の過去を晒したり家族のことを非難するのは、リンチと同じ。無実の人を血祭りに上げて喜ぶような連中だ。 というわけで、興味深く見ていたのだけれど、冒頭から木村佳乃のマンションに逃げ込むあたりまでは、なかなかスリリング。警察が、犯人の両親にその場で離婚届を出させ、姓を変えるというのは、事実かどうか知らないけれど、ありそうな感じで凄い。とにかく、犯罪者をだしたら、その家族はもう自由はなくなってしまうのがよく伝わってくる。しかし、その後の展開はドラマをつくりすぎてしまって、かえってつまらなくなってしまった。せいぜい、興味深かったのは津田寛治の刑事がペンションで志田未来を尋問する威圧的な口調のところ程度か。 冒頭は、一家の娘である志田未来の学園生活に、逮捕令状を持った警官たちが家に向かう映像が重なっていく。以降、ブレブレの画面がつづくのは、ちょっと安易。不安感や動揺を表そうとしているのだろうけれど、見にくいったらありゃしない。刑事・佐藤浩市と松田龍平が志田未来をクルマに乗せてホテルに向かうのだけれど、そのクルマをマスコミが追うシーンはなかなかのもの。都市部での路上撮影が許可されていないなかで、そこそこチェイス感がでていた。犯人宅を囲むマスコミの傍若無人ぶりも、よく描けていると思う。でも、ここまでなのだよね。それ以上の図々しさまでは突っ込まれていない。エンドクレジットでフジテレビが出資していることが分かって、なるほどな、と思った。自分のところもやっているのだから、そうは否定的には描けないわな。 佐々木蔵之介がマスコミの代表として登場する。彼は、家族も犯人と同罪、でてきて謝れ、という立場らしい。この立場は間違っている、というような描き方はされていない。できることなら、こういうマスコミ人の家族に犯罪者がいたとかいるとかいうことになって、天に唾することになるよ、というようなことを期待してしまうのだけれど。ま、そういう出来過ぎな展開は陳腐なのは分かっているけどね。 犯人家族を守るのが今回の仕事、といわれ、佐藤と松田が戸惑うところが変。そんなことぐらい、あの年の刑事なら上司から言われなくても知っているだろうに。ま、観客に分からせるための説明のためなんだろうけれど、ちょっと陳腐な寛治がした。 後半になると、敵はマスコミではなくネット書き込みになってくる。このあたりが、とても陳腐。実際は、あそこまではしない。犯人の名前と顔写真までぐらいで、家族や、家族をかくまう刑事までしつこく追い回すのはないと思う。もちろん、隠れているペンションにまでやってきて写真を撮るというのも、つくりすぎだ。しかも、そのペンションを教えたのが当の本人(志田未来)というのは、ドラマとしてやりすぎ。志田未来がつき合っている彼氏がやってきて、志田未来をラブホに連れ込んで画像をストリーミング中継・・・になると、アホらしくなってくる。そんなこと、いくらオタクでもやらないよ。そのネット中継がばれたからって、オタクがホテルに殴り込み、刑事をPGで殴るに至っては、バカかと思ってしまう。このあたりのネットオタクへのアプローチは誇張しすぎ。というか、偏見を煽っているとしか思えない。ネットの悪意はこういうものだ、と印象づけようとしているとしか思えない。これは、犯人の家族を否定的に見るマスコミの連中と同じようなもの。あまりにも浅薄。 佐藤浩市は、かつて追尾中の犯人に気づかれ、その結果、犯人が通行中の幼児を殺害するに至ったことでトラウマになっているという設定。でも、早く逮捕したいという佐藤の意向を上司の佐野史郎が制止したから、ということになっている。だったら自分を責めることはないだろうと思う。むしろ、佐野への憎しみが濃くなるはず。でも、そういう描き方はされていない。 佐藤が志田未来を連れていくペンションの経営者が、その、殺害された幼児の両親(柳葉敏郎、石田ゆり子)なんだけど、表面的には佐藤に好意的なのが違和感ありすぎ。悪いのは上司の佐野だと知っているらしいが、それでも警察の失態なのだから、そうかんたんに警察に好意を示すはずはなかろうと思う。とても変。 というように、中盤から変につくったドラマに流れてしまい、とても食い足りない。衝撃度も薄れてしまった。志田未来は、犯人の妹という重しを感じていないようなところもあるし、強いんだか無知なんだか分からないような存在として描かれすぎ。話をとっちらかさず、核心にだけ迫ればいいのに、と思った。精神科医の木村佳乃は、佐藤浩市と個人的なつき合いはあるのだろうか? 佐藤と離婚目前という設定だけれど、その理由もよく分からないしね。離婚を回避しようと娘にプレゼントを買っているし、家族旅行も計画していた、というわりに、家族への愛も感じられないのもつまらない。佐藤と松田の、軽い冗談を交わしながらのコンビ具合だけは、なかなか面白かった。 | ||||
少年メリケンサック | 2/20 | MOVIX亀有シアター9 | 監督/宮藤官九郎 | 脚本/宮藤官九郎 |
期待度が高かったせいか、いまひとつスッキリしない。まず、伝説のパンクロックバンドというふれこみだけれど、その少年メリケンサックの音楽がそれほどいいとは思えないこと。それと、テンポがゆるい。 中年バンドと宮崎あおいが全国ツアーという設定は面白い。けど、バンド発掘担当の宮崎が、少年メリケンサックを発見するのがネットの映像・・・という時点でちとしょぼい。あんなの誰だって発見できるだろ。そういうんじゃなく、まったく埋もれていたバンドを発見するという話の方が面白いと思うのだがなあ。それでも宮崎と佐藤浩市、木村祐一との出会いはまずまず。しかし、田口トモロウと三宅弘城との出会いが端折られているのはもったいない。この2人も「七人の侍」ばりに発見していくべきではないの? 宮崎あおいのはじけ方は、素晴らしい。これまで、繊細で華奢な彼女しか知らなかったので、ノー天気でときにドスの利いた口調になる役柄はとても印象的。ってか、こういう役もできるのね、って再認識。もっとも、はじけ度は後半になるにつれてトーンダウンしちゃうんだよなあ。これがもったいない。さいごまで漫画的キャラで通して欲しかった。 ギャグは仕込んであるんだけれど、編集のせいか、構成が悪いのか、あまり笑えない。全体にいえるんだけど、もうちょっと詰めて、テンポよくして欲しい。ギャグもいきなりドカン! ではなく、くるぞくるぞ、ほらきた、どーですか、笑ってください、おかしいでしょ? 的なベタなところが多く、スピード感がない。ま、もともとチープなつくりを目指しているのは分かっているんだけれど、念を押すようなしつこさは、ギャグの疾走感を疎外すると思う。これはきっと監督のクセというか好みなんだろうけど。中島哲也監督みたいな思いっきりのよさと、いつまでも「今」にこだわらずがんがん前へ進むグルーブ感が欲しいなあ、ってこと。 1983年(だっけ?)の少年メリケンサックのメンバーが、よくわからん。Webを見ると、有バンドのメンバーを配しているみたいだけれど、こちらはそのバンドをまったく知らないのでよく分からず。このあたりの整理がうまくできていると、過去と現在がうまくつながるんだけどなあ。 ときどき挟まるピエール瀧他のインタビュー映像は、よくある海外の映画の手法を真似ただけで、つまらない。それに、いつだれが取材したものなのか? という観点から見ると不思議な映像でもある。 というわけで、思いつきはいいんだけど、全体のはじけ方がいまひとつ。話も後半になると見えてきてしまい、かといって、ラストにドンデンの大舞台やとんでも話への展開があるわけではない。むしろ尻切れで終わってしまう。実際、最後の方は飽きちゃったしなあ。だって、突然、佐藤と木村の兄弟が2人で1人だ、って2人でギター弾かせてどーすんのよ。つまんないだけじゃん。花屋のクルマのナンバープレートを「お8783」にするとか遊んでいるヒマがあったら、もっと脚本と映像の方に力を入れて欲しいと思ったのであった。 | ||||
7つの贈り物 | 2/24 | 上野東急 | 監督/ガブリエレ・ムッチーノ | 脚本/グラント・ニーポート |
原題は"Seven Pounds"。なんかどーも、うさん臭い映画だなあ。ウィル・スミスが何人かの人々を訪問する様子がつづくのだけれど、いったい彼の職業は何なのかよく分からない。交わされる会話も、意味がよくつかめない。しばらくして国税局の徴税吏らしいことが分かるのだけれど、それでも行動に不審な部分が残ったまま。善意の押し売りのようなことをしているのだけれど、なんとなく宗教くさい。いったい目的は何なのだ? 目的が分かってくるのは後半になってからで、なるほど理屈は分かった。しかし、行動を起こさせる動機と、行動する本人の意思に関しては薄気味悪いものを覚えた。つまり、自分の運転ミスで妻を含む7人が交通事故死してしまった。その贖罪のため、ウィルは仕事(ロケットのエンジニアらしい)をやめ、国税庁の職員だった弟の職員パスを失敬し、それで他人のプライバシーを覗き、真面目だけれど恵まれない人、可哀想な人に手をさしのべ、難病の人には肺や腎臓の片方を提供し、骨髄も提供し、最後にはモーテルの一室でフカクラゲを使って自死(臓器の新鮮度が保たれるようバスタブには氷を張るという念の入れよう)し、角膜や心臓まで提供していくという話。うーん。はたしてそれが賞賛されることか。どーも理解しがたい。 善意の贈り物が提供される人は、真面目でよい人、でなくてはいけないのか? 生真面目で穏やかで引っ込み思案で誠心誠意の人・・・。そういう人でなければ選ばれる資格はないのだよ、というようなことを言うのは、ある意味でとても傲慢だと思うんだけどね。どうでしょう。人間は、そういう人たちだけでは進化もしなかったし、文化や文明も築けなかったんじゃないの? ま、そういう進化を評価しない、のかも知れないけどね。たとえば、それは昔の活版印刷機には味がある、というようなセリフで示されているのだけれど、でも、その活版印刷機だって発明された当時は最新技術だったはずなのだけれどねえ。 というわけで、見終わってからもういちど90分(全体の1/3強)を見直した。そうしたら、初見のときに意味不明だった会話にはっきりと意味があることが分かる。そーか。このセリフは、あのことを示唆していたのだ! と。しかし、よほど記憶力・注意力がいい人でない限り、映画も後半になるまでセリフや映像の細部まで覚えていられないだろう。その意味で、2度見ないと面白さは分からない映画かも。 それにしても、数多くの人たちから自分のすべてを提供したい相手を見つけるのに、国税局の情報は役立つものなのかね。とくに、ヒロインのロザリオ・ドーソンを選ぶに当たって、同じような患者ならきれいで若い女性を選択しよう、という邪心は入らなかったんだろうか。映画でも、心臓を提供する前にいちどだけ抱きたいという気持ちが先に立っていたんじゃないの? という風に見えてしまう。ま、途中で惚れちゃった、ということでいいんだろうけど。ロマンスがなかったら映画として成立しにくいのは分かるんだけどさあ。 他には市の保護局のおばちゃんには片肺、アイスホッケーの監督には腎臓1つ、黒人少年に骨髄(その前に病院経営者に骨髄を提供したけれど、その経営者がいい加減なやつだった)、盲目のピアニストに角膜、暴力的な恋人をもつプエルトリコ人(?)には、家を。・・・で、6つだなあ。7つめの贈り物は何だったんだ? ※Webで見たらおばさんには肝臓で、弟に肺だと書いてあった。たぶん、2度目の見てないところにあったのかも。やっぱ、2度目もラストまで見ておくんだった。 | ||||
帰らない日々 | 2/26 | ギンレイホール | 監督/テリー・ジョージ | 脚本/テリー・ジョージ、ジョン・バーナム・シュワルツ |
原題は"Reservation Road"。「シートベルトを締めましょう」「運転しながらの携帯電話は危険です」という標語を普及するための映画、なのかもね。それもあながち冗談ではないような話。冒頭、2組の家族が描写されるのだけれど、これが分かりにくい。両家の父親の顔がスター顔ではなく、脇役顔なのも原因かも。でもまあ、暫くするとなんとなく分かってくる。 マーク・ラファロは息子と野球観戦。ホアキン・フェニックスとジェニファー・コネリーの夫婦は子供2人をつれて地域のフェスティバルかなんかに行ってたんだな。で、マークがホアキンの息子を轢き逃げする。息子を失って憔悴の一家。心の弱さでトンズラこいたマーク。その2人の様子が交互に描かれていく。被害者だけでなく、加害者の逡巡の模様も描いているところが、この映画の興味深いところだ。 皮肉な巡り合わせを加味しているところがオソロシイ。警察はアテにならないと弁護士のところへ相談に行くホアキン。担当することになったのは。マークだったのだ・・・。ホアキンの娘にビアノを教えているのがマークの別れた女房、というのも加わって、心理のヒダは複雑に絡み合うわけだ。こういう関係を淡々と描いていく。 マークは、心の中では苦悩しているのかも知れないけれど、表面的には割と淡々としている。仕事もづけていくし、突然、ホアキンが目の前に登場しても狼狽したりしない。人間とは、そういうものなのだろうか、と思わせる表現だね。いったんは自首しようと決意するのだけれど、いざとなったらできなくなってしまう、というのもありがちなことなのだろう。警察情報の手に入る弁護士が、警官から「手がかりはない」なんて言われれば、「逃げおおせるかも」と思っても不思議はないだろうね。 マークが息子を呼ぶ声と、マークのクルマの写真から、マークが犯人、と見破るというのは、話が出来すぎ。せめて、ガレージにあるクルマを発見し、ライトのカバーがひしゃげているのを確認してから、拳銃で脅して欲しかった。とはいっても、大学教授なんだから、拳銃なんか持ち出さず、冷静に対処して欲しかった、とも思う。拳銃のところだけは、ちょっとテイストが違っちゃったしね。 映像では描かれていないけれど、マークは自首するのだろう。そのマークが轢き逃げしたことを告白しているビデオを見ている息子は、いったい何を思うのだろう。そして、轢き逃げ犯の子供、といじめ抜かれるのだろうか。ううむ。 | ||||
ボーダータウン 報道されない殺人者 | 2/26 | ギンレイホール | 監督/グレゴリー・ナヴァ | 脚本/グレゴリー・ナヴァ |
原題は"Bordertown"。始めの10分ぐらい、ちょっと散漫で何を描こうとしているのか分かりづらかったんだけど、被害者の16歳の少女が登場して警察に追われたりしていくうち、テンポがスピーディになっていく。しかも、大国間の経済的な協定のもとに殺人事件までもが隠蔽される、という真相には唖然。最後、ジェニファー・ロペスが間一髪で助かるシーンは出来過ぎだけど。でも、そこは事実を元にしたフィクションだからOKですが。とにかく、途中からは目が話せない物語になっていった。 北米自由貿易協定がどういうものか分からないので、この協定でどうして米墨国境の町フアレスに外国資本の工場が林立し、メキシコの若い女性たちが低賃金で働かされるのか、そのあたりがよく分からない。説明も、国境の町では低賃金で安いテレビやコンピュータがつくられ、それが米国内に輸出されている、ということぐらい。米国の消費社会は、メキシコ人の低賃金労働で支えられている、ということなんだろうけど、何で低賃金になるのか、一部のメキシコ資本家だけが利益を得るのか、アメリカの政治家が潤うのか、というところが、良く分からない。そのあたりが説明されると、なるほど、と思えるのだけど。でも、分からないなりに良くないことなのかも、ということは感じられる。 米墨国境の町フアレスで若い女性が連続して殺害される。その数は警察発表で300人程度、実際は数千人だという。上司(マーティン・シーン)に命じられ、取材に行くジェニファー・ロペス。かつての同僚でフアレスの新聞社で働くアントニオ・バンデラスを頼るが、拒否される。それでも粘っていると、襲われながら生き返ってきた16歳の少女に出会う。解放運動家の女性のところに少女をかくまい、犯人捜しをつづけるジェニファー。アントニオもいつしか手伝い始めていた・・・。てな展開。 工場帰りの女性が強姦・殺害される事件は頻繁に発生しているが、警察は及び腰。政府も、まじめに捜査するより隠蔽した方が安上がり、と、情報を公開しない。取材を付け、記事にしようとするアントニオの新聞社は警察から圧力を受ける。 というわけで、メキシコ人のいい加減さと、それを食い物にするアメリカがクローズアップされる。でも、日本も無関係ではないみたい。だって、フアレスのホテルには米国、メキシコと並んで日本国旗が飜っているのだ。国境の町にある米国の会社の工場は、実は日本の会社なのかも知れないのだ。それにしても、こんな描き方をされてメキシコは怒らないのかなあ。事実だから反論できない? のかも知れないけど、なんか露骨だね。 ジェニファーはアメリカの新聞社で働くキャリア、ということになっている。けれど、彼女も実はメキシコ人。金髪も染めたもので、父親は幼い頃に殺害されている。・・・撃たれたシーンはでてくるのだけれど、どういう事件なのかはよく分からない。で、後半、ジェニファーは犯人であるバスの運転手を逮捕するため自ら工場に潜入し、囮となる。この辺りから、ジェニファーの鬼気迫る感じがでてくる。もともとメキシコ取材なんて彼女はしたくなかったのだ。メキシコで仕事をすれば海外特派員にしてくれる、といわれ、やってきただけなのだ。それが、次第に変わっていく。そして、メキシコ人としての誇りを取り返していく過程が描かれているのが素晴らしい。ジェニファーが工場に潜入するところなんか、化粧はださく、そこらのオバチャンみたいに見える。もちろん髪も黒に変えている。このあたりのいさぎよさには、ちょっとほれぼれ。 結果的に、犯人たちを刑務所に送ることはできない。工場主や、その取り巻きも、アリスという男をひとりやっつけた以外、成果はない。アントニオは誰かに撃たれて死んでしまう。そして、ジェニファーはアントニオの跡を継ぎ、メキシコの新聞社で真相を暴く取材をつづけている、という終わり方だ。これも、カッコイイ終わり方だよね。 と、全般的にデキはいい。けれど、冷静に考えると、おかしなところもいくつかでてくる。表面的な悪行は、バスの運転手と仲間(アリス)による女工の暴行殺害だ。では、その犯人たちを工場主や警察、官僚、裁判所などが擁護しているのか? 映画では、犯人逮捕は手間と金がかかるから、隠蔽しているとだけ説明があった。ということは、逮捕できるならそうしたい、と警察は思っているのか? それとも、運転手やアリスは、工場主や警察にとって何らかの利用価値がある連中なのか? たとえば、工場主のパーティにアリスが来ていたけれど、どういうつながりなのだ? アントニオを狙撃した連中は、誰の手先なのだ? いったい、メキシコの警察や官僚、裁判所などを動かしているのは、誰なんだ? というような基本的なところが曖昧にしか描かれていない。だから、どうもスッキリしないのだよね。 それと、ジェニファーが工場主とセックスするシーンがあるのだけれど、いくら昔の馴染みのアントニオに相手にしてもらえないからって、ちょっと尻軽すぎないか。だって、相手は黒幕だろ? それを分かっていたはずなのにねえ。全体的にはとても面白い映画なのだけれど、随所にほころびが見え隠れしているのも事実。そのあたりのツメがしっかりしていたら、傑作になったと思うんだけどねえ。 |