2009年3月

ベンジャミン・バトン 数奇な人生3/1MOVIX亀有シアター6監督/デヴィッド・フィンチャー脚本/エリック・ロス
原題は"The Curious Case of Benjamin Button"。スコット・フィッツジェラルドの短編を元にしているとクレジットにあった。ふーん。そうだったのか。
ベンジャミン(ブラピ)が老人で生まれ、次第に若返っていく、という設定を除けば、ほとんどフツーの出来事ばかりがつづき、たいしたドラマがない。結論をいうと、だからどうした、というような内容。ブラピ自身は存在自体がドラマだけれど、映画的ドラマの激しさとしては、ブラピの幼なじみのデイジー(ケイト・ブランシェット)の方がはるかに大きい。演技もメイクもね。だから、アカデミー賞ノミネートは、ブラピではなくケイトにこそ相応しいと思った。
現在のパートとベンジャミンのクロニクルの部分が交互に登場して進む。とくに重要な伏線があるわけでもなく、話はストレート。ベンジャミンをとりまく人たちも現れては消えていく。ただ、それだけの話。
ベンジャミンがデイジーと娘を置いて家を出て行く理由が分からない。「子供が2人になったら面倒は見切れまい」とかなんとか言ってたけど、それは勝手すぎる意見。それに、自分が若返っていって最後には幼児(のような老人)になっていくことを考えたら、安心して面倒を見てもらえる伴侶や家族が欲しいのではないの? それを迷惑と思うなら、後になってデイジーや娘に会いに何て来るなよな、といいたい。
ベンジャミンは20代になる頃からバイクに乗り始める。次第に若返る人がそういう選択をするだろうか? 肉体は若くても、精神的には次第に成熟していくはず。すると人間は落ち着き、思慮深くなるはず。バイクに乗ったとしても冒険なんかはしないのではないのかな。ヨットも然り。世界漫遊も同じだ。
デイジーと別れたあと、何人かの若い恋人もできたらしい。でも、そのときベンジャミンは40過ぎか50代。外見とは別に心は落ち着いているはずだ。女性が喜ぶ店やなんやかやも多く知ってるはずだし、性的なテクニックも豊富だろう。年齢を経なければ身につかないあれやこれやも手に入れているはず。決して、外見が若いだけの他の男たちとは同じではないと思うんだけど、そういう悪擦れした感じに描かれ方がされていない。たんに若返って遊んでいる。だんだん純真になっているように見えるかのように描かれているのが、ちょっと不満だね。
路上で父親と出会うというのも、偶然にしては出来過ぎ。父親はずっと息子のことを気にして追跡していたのかも知れないけれど、だったらもっと早く会いに行けよ、という気もする。で、その父親だけれど、ボタン屋だったというのは、どういう意味があるのかな? WBマークもボタンの集積でつくられていたけど、よく意味が分からなかった。
ベンジャミンに仕事を与える船長の「俺はアーチスト」と刺青を誇り、ハチドリの話をするというのもよく分からないエピソード。ハチドリはときどき画面に登場するけど、意味があるのかい?
そして、後半。デイジーはは10歳ぐらいまで若返ったベンジャミンを引き取り、その後ずっと赤ん坊になって死ぬまで面倒を見たことになっている。それを、娘(すでに10〜20歳ぐらいになっていたはず)が知らなかった、ようなのは変だよね。
で。冒頭の盲目の、第一次大戦で息子を失った時計職人ガトー氏と逆回転する駅の時計のエピソードは、いったい何のためにあったんだ? ラストでは、逆回転時計がしまわれた屋根裏部屋(?)に洪水のように水が押し寄せるシーンなんだけど、あれも、よく意味が分からない。時の流れを表しているのかな?(ハリケーンで水が入った・・・とWebで書いている人がいた。そうか。で、あのハリケーンは何を示唆しているのだろう?)
感染列島3/5キネカ大森3監督/瀬々敬久脚本/瀬々敬久
ムダに長く中味は薄っぺら。くだらんロマンスなんか端折って、ウィルスの感染ルートや騒然とした街区、日本の状態などをリアルに描くべきだったろう。できるならセミドキュメントタッチでね。
だいたい、この映画にはドラマがほとんどない。人物描写も中途半端で甘い。病院の描写は「ER」なんかにはるかに劣る。しかも、べらべらと説明的でくどいセリフがまたうっとうしい。映像を信じていない監督がつくるから、こんなことになる。
最初の頃、登場人物の名前や肩書きがテロップででる。複雑な人間模様が繰り広げられるのかな? と思ったらさにあらず。ただのカッコづけでしかなかった。あんなの意味ないじゃん。
なぜウィルスにターゲットして物語をつくらなかったのか、不思議。未知のウィルスということで民間の研究者と名乗る男(カンニング竹山)が接近してくるのだけれど、この男をめぐってドラマが起きるかと思いきや、拍子抜け。男がどういう立場なのかも分からず、後半で男がウィルスを究明しても厚労省に手柄を取られてしまって地団駄・・・というだけで、究明までのプロセスなどほとんど描かれない。なんとももったいない話だ。
数千万人が感染し、その半数が死亡しているという設定。でも、日本がマヒしている様子などあまりでてこない。せいぜい東京駅周辺で火の手が上がり、奇妙に道幅が狭く人気のない銀座通りがでてくる程度。いずみ野市の外では、どういうことが起こっているのか? ちゃんと描けばいいのに、それをしない。学校や会社は? 交通機関は? スーパーマーケットはちらっとでてきたけど、それだけ? ガス・水道・電気はどうなったのか? 人々は何を食べてどう生き延びてきたのか? どうして描かないのかイライラするばかりだ。
院内の模様も、つまらない。WHOからやってきた女医(檀れい)に反発するスタッフが、いつのまにか協力するようになっていたりするのだけれど、わだかまりはいつどこでとけたの? とか、疑問に思っちゃうよなあ。
日本でだけ広がった感染症。・・・という状態の中、妻夫木と藤竜也の2人が感染源らしい国へ行くことになるのだけれど、簡単に国外へ出たりできるはずがないだろ。まったく嘘くさい。そもそも、その感染源の島から嶋田久作が日本にやってきて、嶋田から娘婿に伝染したということらしいが、医者である嶋田が病原菌をわざわざ日本に持ってきて、発症しつつもまた帰って行った、という話が変。フツー気づくだろ。なんとか対策を考えるだろ。感染源の島のある国はオープンではないとはいえ、WHOが知るところになれば、世界中から注目されるはず。なのに、その島だけで感染者がヨタヨタしているという設定は、あり得ないよなあ。
というわけで、食い足りない部分がたくさんありすぎ。それに、ヒロインの檀れいがオバサン顔なので、ちっとも燃えないしね。
パッセンジャーズ3/9新宿武蔵野館1監督/ロドリゴ・ガルシア脚本/ロニー・クリステンセン
原題も"Passengers"。飛行機事故の生き残り、という話だったので「アンブレイカブル」みたいな話かな? と思ったら、同じシャマランでも「シックス・センス」の方で、はっきりいって、まるっきりパクリだった。こんなもの映画にするなよな。恥ずかしくないのか?
もっとドラマチックがあるかと思いきや、淡々と話が進む。飛行機事故の数少ない生存者たち。彼らをカウンセリングするアン・ハサウェー。得体の知れない観察者が登場したり、カウンセリングにやってきていた生存者がぽつりぽつりと来なくなったり、アンが姉を訪ねてもいつも不在だったり、不思議の予兆は確かにある。なので途中から、北村薫の「ターン」みたいに、アンは意識不明で重篤な状態なのかな? それにしちゃあアン以外の人物が関わって来すぎだよなあ、とか、活きているように見える人物が死んでいるのかな、と考えるようになった。そうしたら、やっぱり、だった。やれやれ。見え透いてるよ。
もっと、冒頭から3/4ぐらいまでの部分にスリルとドラマがなくちゃな。この映画では、伏線のためのパートになりきってしまっていて、面白くも何ともない。つまらない部分の描き方は「アザーズ」みたいな感じで、結局、「アザーズ」も死んだ側の人間を生きている人間みたいに描く誤魔化し方だったけど、似ちゃうんだろうなあ。退屈だったぜ。
罪とか罰とか3/13テアトル新宿監督/ケラリーノ・サンドロヴィッチ脚本/ケラリーノ・サンドロヴィッチ
うーむ。冒頭からタイトルがでるまでの、段田安則の部分は抜群に面白かった。小ネタがくすくす笑えた。これは面白いかもよ。と、期待。ところが。タイトルが終わって成海璃子が登場し、次第にテンションが下がり気味。そして、一日警察署長として警察署に入った時点から俄然つまらなくなってしまった。冒頭とは天と地のデキの違いだ。とくに、ノー天気で無意味な笑いがなくなって、ひたすら暗く陰気で笑えず意味ありげで実は何もないような物語になってしまったのだよ。
個々に繰り広げられていくバラバラのエピソード、そして人物関係が徐々に絡み合い、結びつき、おお、そういう関係だったのか、と思わせる手法は「運命じゃない人」以来、最近よく使われている手法。その構成は悪くはないけれど、結局のところ伏線をまとめ上げることだけに労力が費やされてしまっている感じ。「どーだ、うまくまとまったろう」と自慢気に描いているのが分かる感じがする。でも、話の深さや面白さにはつながっていない。ついでにいえば、時制が分かりにくい部分があって、切れがいい演出とは決して言えないと思う。まして、ドストエフスキーの「罪と罰」にどうつながっていくのかもよく分からない。ま、俺の知識が足りないのかも知れないけどね。
成海璃子が可愛く撮れていない。風船顔でむくんでいるようにしか見えない。売れっ子タレントになってしまった友だちを演じている役者も、ぜんぜん可愛くも美しくもない。実をいうと誰だか分からなかった奥菜恵が蓮っ葉な役柄でいい演技を見せていた。他にも徳井優、サトエリ、六角精児、田中要次、高橋ひとみ(気がつかなかったいい、麻生久美子、串田和美なんていう名優・大物がごろごろでてくるんだけど、いずれも演劇関係での知り合いででてるんだろう。豪華ではあるけれど、役者の使い方が間違っていると思う。犬山イヌコは上手いけれど、いまのところまだ助演レベルの役者ではない。主要キャストが薄く、脇役が濃いというのは、映画としてはマイナーな存在でしかないってことだ。やっぱ、メインを張る役者にもっと花がなくちゃなあ。
話の深さという点でも、ううむだね。成海のかつての恋人が警察署にいて、実は、無意識に交際中の女性を何人も手にかけてきた殺人鬼・・・という設定だけど、それ以上に何もない。段田安則もフツーのサラリーマン、というスナップ的な描写だけで、それ以上につたわってこない。要するに、中味がないのだよね。からっぽ。かといってナンセンスコメディにもなってない。
たとえば警察署内。所長室が地下にありクモの巣が張っているような場所であるのは、それはそれでいい。けど、なんでそうなのか、というのが提示されていないと意外性なんか感じられないよな。それに、副所長は登場するのに、なぜか所長自身はでてこない。この警察に署長はいないのか? その他、部下の犯罪を見逃す副所長とか、一日署長の命令を待つ署員だとか、ありえない設定やブラックな表現は、それはそれでいいんだけど、それ以上の表現になってない。ごろん、と単に提示しているだけなんだよね。加工されていない。映画は演劇とは違うのだよ、ということがまだ監督には分かっていないのかも知れない。
別に社会批評をしろというのではない。せめてもうちょっと皮肉や毒がグサッとくるようにすればいいのに、ということかな。せっかく映画をつくってるんだから、もっと笑える話にしてくれよ、だね。
ストリートファイター ザ・レジェンド・オブ・チュンリー3/13新宿ミラノ3監督/アンジェイ・バートコウィアク脚本/ジャスティン・マークス
原題は"Street Fighter: The Legend of Chun-Li"。ストリート・ファイターというからむくつけき野郎がビシバシ血だらけになって汗臭くバトルを繰り広げるのかと思いきやさにあらず。可愛い娘が主人公で、他にもエロっぽいタイ警察の婦警なんかも登場したりする。物語も単純稚拙ながらちゃんとあるので、食事の後にしては一瞬トイレでの女性同士のバトルのところでふっと何秒か目をつむっただけで、見通すことができた。とはいってもやっぱり話はつまらないけどね。人物にも深みツッコミがなくていまひとつふたつみっつ。興味深かったのはタイの近代的街区や、昔ながらの屋台風景など。うわあ。タイってずいぶん進んでるのだなあ。インターネット屋台なんかもあったりして。
それにしても、タイのスラムから成り上がったボスというのが、ちょっとちゃちい。というかフツーのオッサンにしか見えないのだよなあ。自分の良心を胎内の娘に移動させるため妻を殺したりしているのに、極悪非道の魔物には全然見えない。ほかの敵キャラも、あんまり強い(無敵・不死)やつがいないのも物足りない。せいぜい黒人の部下ぐらいで、他に個性的な悪役がいないのだよなあ。
主人公の娘(クリスティン・クルック)はオリエンタルな顔立ちで可愛い。しかし。彼女が父親を捜しに行く過程がいまひとつ説得力がない。っていうのは、彼女のところに漢字で書いた巻物がとどき、それを解読してもらった結果タイに行くことになるのだけれど、誰があの巻物を送ってきたのか、それが明かされていないのだよ。しかも、ピアニストとして成功していたのに父親を捜しに行くか? そんなに想っていたのか? しかも、タイでは路上生活し、食い物も恵んでもらう生活をする。うーむ。お金がないわけでもないだろうに、そんなことをする必要があるのかなあ? さらに、映画の途中で父親はあっけなく殺されてしまうのに、その後も戦いつづけるのは、単なる復讐?
ボスに対抗する連中も、主人公であり父親をさらわれた娘、警察、かつてのギャングの仲間でいまは改心しているスパイターという男と、様々。しかも途中で娘が警察と共闘を組むとかもないので、話がてんでんばらばらで散漫なのだよね。いまひとつ芯となる話が感じられなくて、残念。
あと、それから。香港の大邸宅は、タイに行くときに売ってしまったのかと思ったら、そういうことではなかったのね。最後で帰国して荷物を運び込んでいるみたいだったし。であるなら、使用人たちを解雇する必要はなかったんじゃないの? だって、娘が大人になってピアニストで収入を得ていたか、父親が誘拐された時点で貯金があって、それで生計を立てていたんだろ? 違うかな。
ちょいと気になったのは、バトルの最後。娘はボスをやっつけるのだけれど、なんとボスの娘(父親から良心を移された子)が見ている前で首をひねり殺すのだよね。これにはいったいどういう意味があるのだろう? ううむ。
というわけで、全体に盛り上がりが少なく、メリハリのない映画であったけれど、クリスティン・クルックがそこそこ可愛いかったからいいか。90分程度というちょうどいい尺で助かったというところかな。
●本編終了後、スタジオ4℃製作、森本晃司・総監修のアニメ(4分程度)が上映された。ほとんどスチルのように動きのないアニメで、物語も何だかよくわからなかった。つまんねえの。ピクサーなんかが本編の前に上映する短編と比べたら、月とスッポンだわな。
チェ 39歳 別れの手紙3/15上野東急2監督/スティーヴン・ソダーバーグ脚本/ピーター・バックマン
原題は"Che: Part Two"。「チェ 28歳の革命」につづく第2部だ。しかし、パート1が「陽」ならこちらはまったくの「陰」といった塩梅。理想に燃えてボリビアに渡ったゲバラが堕ちていく様をじわじわ真綿で首を絞めるように淡々と単調に盛り上がりもドラマもなく静かに描いていく。なので、映画的娯楽の部分はほとんどない。
断片的なエピソードの集積という演出スタイルは1作と同じで、しかも、とくにゲバラを際立たせようとしていないので、誰が主人公かもわからない(ゲバラではなく変名を使っていて、それで呼ばれているのでなおさらだ)。ライティングもあまりしていなくて、どれがゲバラか分からないことしばし。それだけではない。誰がセリフをしゃべってるのか分からないことも多々あった。意図してやっているのだろうけど、あまりにもゲバラが埋没してしまって感情移入もしにくい。1作を見ていなかったら、「なんなんだ、これは?」と思うんじゃないのかな。
勇躍ボリビアに潜入し、キューバ時代の仲間と組織を組み立てる。最初は住民にも好意的にされるのだけれど、しばらくしてボリビア政府がアメリカの助力を得てからは、政府軍が盛り返す。それからのずるずる後退していく様子は、あわれそのもの。
繰り返し描かれるのは、食い物のこと。食糧がなく、村人のところへ調達に行くのだけれど、断られたり高値を要求されたり。挙げ句にラバを食べたり、野獣をつかまえたり。これでは理想も何もあったものじゃない。戦いにとって兵站線は重要だ、と教えてくれる。で、この結果、兵士は逃げていく。村人には裏切られる。ロバも言うことを聞かない。挙げ句は薬を忘れて喘息に悩まされる。ダメなときはこういうものなのか。踏んだり蹴ったりだね。そうやって仲間が減り、政府軍の罠にはまり、追いつめられて捕縛される。そして銃殺。この銃殺シーンだけはカメラはゲバラの視線になり、崩れ落ち、暗転する。この様子を陰気に描きつづけるのだ。面白いはずがない。
でも、気が滅入るかというと、そういうことはなかった。やはり思うのは、ゲバラは騒動好きな革命男で、たとえボリビアで革命が成功しても止まることなく別の国に行って革命を煽動しつづけたんじゃないだろうか。ギャンブル好きな男が、馬券を買いたい衝動を抑えきれないみたいにね。その意味では不幸な人だと思う。
人間ゲバラではなく、ゲバラという行為が失敗していく様をセミドキュメントのようなカタチで表現する、という意味では成功しているのだろう。けれど、ゲバラという人間を感じ取りたい、という向きには不向きな映画になってしまった。主人公ゲバラに光を当て(文字通りちゃんとレフ板も当てて顔がわかるようにして)るような映画は撮りたくなかったんだろう。けれど、ゲバラを含むゲリラたちの人物はささいなエピソードでしか描かれないのは、やはり物足りない。幹部が誰でフランスから来た仲間が誰で、女性兵士はどういう関係なのか、というようなことを、もうちょっと解説して欲しかった。映像がムリなら字幕ででもできたろうに。
でも、おそらく、そういう説明はこの映画には必要ない、とソダーバーグは考えたのだろう。できるだけ感情移入できるようにせず、事実に近いことを積み重ねていくという描き方を選択した。その結果、一般的な映画のもつダイナミズムは失われてしまったけれど、ゲバラというムーブメントは描けたといえる。あとは、私たち自身で、描かれていない間隙を埋めていくしかない。ま、この映画でそこまでゲバラに関心を抱く人が多く誕生するかどうかは疑問だけどね。
それにしても、ゲリラが内戦をしているような国というのは、こんなものなのだね。いまでもフィリピンだのスリランカだの、勢力をもつゲリラが一部地域を制圧している国はあるけれど、とても日本じゃ考えられない。日本で重装備してうろついていたら、即刻通報されて逮捕だよな。いや。こういうのを見ると、日本という国の規律の凄さを感じ取ってしまうよ。世界には、国家が国民や全土を掌握していない国がいくらでもあるのだね。と、再認識。
エンドロールは無音だった。静謐感を出そうとしたのかも知れないが、あまりにも突き放しているようで、これまた哀しいものがあった。音のない鎮魂歌というところなのかな。
いのちの戦場 - アルジェリア1959 - 3/16新宿武蔵野館2監督/フローラン・エミリオ・シリ脚本/パトリック・ロットマン
原題は"Ennemi intime, L'"。フランス映画。「スズメバチ」を撮った監督らしい。ふーん。
アルジェリア独立戦争を扱った映画は「アルジェの戦い」が有名。でも、見ていない。しかも、どういう経緯で独立戦争に至ったかもよく知らない。なので、少し勉強になったような気がする。ただし、最前線の一部は分かったけど、時代のうねりや流れは見えてこないよね。
昨日見た「チェ 39歳 別れの手紙」と比較してみてしまう。あっちは実在の人物が主人公。こっちは現実をベースにしたフィクション。当然だけど、この映画の方が内容は分かりやすい。部隊が移動する際にも「どこどこへ移動しているところ」という字幕が入り、なんとなく分かったような気にもなれる。しかし、この映画が分かりやすいのは、分かりやすい構造を取っているからだ。新入りの中尉、歴戦の軍曹、古参兵・・・。その新入りの中尉は理想主義で、この戦争にはそもそも反対の立場。軍曹は仕事のように淡々と職務を果たす。歴戦の強者は、アルジェリア人。さらに、兄弟を殺された少年アルジェリア人が隊と行動を共にする・・・。いやもう、典型的な人物配置だ。
理想に燃えていた新入り中尉は人の死や拷問に鈍感になっていく。冷静に思えた軍曹は、実は心の中で悩んでいた。・・・この対比。
ひとり生き残った少年を救った中尉。その少年は、中尉の変節を感じ取るや隊から離れていき、ラストでは兵士として中尉を狙撃する。・・・この対比。軍曹が狙った女性たちが、実は男性ゲリラだったと知ったときの中尉の驚き。その中尉が後に、ゲリラだと思い込んで攻撃した女性が、フツーの民間人だと分かったときの衝撃。・・・という対比。
本当に、この映画には分かりやすさが充満している。その意味で、映画としては当たり前の展開で、それほど面白くはない。けれど、いろいろ変わったところが発見できて興味深かったりした。
大半の兵士がヘルメットを着用せず、テンガロンハットのような帽子をかぶっていること。なんで? アルジェリアの戦いは正式な戦争だとフランスは認めず、それゆえナパーム弾は使用不可だったのに、堂々とナパーム弾を使用していたこと。ふーん。フランスは、アルジェリアの独立を正式に認めたくなかったのか? でも、現在ではアルジェリアからフランスへの移民は少なくないはずだし、文化の交流も多い。アルジェの人々はいま、フランスのことをどう思っているのだろう? 日本と朝鮮半島との関係も連想されて興味深い。
残酷描写がムダに多いような気がするけれど、フランス人、アルジェリア人、互いの憎しみ・反目具合を感じ取るには必要だったのかも。でも、いちばん「おお」と思ったのは、鼻と唇を削がれたジジイの顔だったよ。
第二次大戦にフランス軍に参加したアルジェリア人たちの引き裂かれ具合が象徴的に描かれている。どういう理由でフランスについた人がいて、どういう人がゲリラに参加したのか。そのあたりのツッコミが欲しいような気がしたけれど、フランス人なら分かるから割愛したのかな? 日本人には分からんですが。
というわけで、アルジェリア独立の経緯も、新書でも買ってひと通り読んでみようかね、と思わせてくれるものはあった。
ジェネラル・ルージュの凱旋3/16キネカ大森2監督/中村義洋脚本/斎藤ひろし、中村義洋
いろんな意味でもどかしい映画だった。全体的にはたどたどしく、盛り上がりも感じられない。「あれ? で、事件はどうなったの? ちゃんと解決したの? てか、そもそもの事件って、そんなに大変なことなの? 竹内は何か働いたの? 阿部ちゃんも、何か役に立ってたっけ?」てな印象。
事件としては、まず医療メーカー営業マンの投身自殺(?)が発生する。竹内結子が"最後に会った人"ということで事情聴取を受ける。で、以後この件に関しては触れられない。一方で、救命センター長の堺雅人が"医療メーカーと癒着している"という怪文書が竹内のところと、なんと厚労省の阿部寛のところにとどき、こっちの追求で話が進む。あれえ? うれは自殺で片付いちゃったの?
で、怪文書の出所が分かっても、こちらに衝撃がつたわってこない。そもそも大学病院が清廉潔白なところだなどと誰も思っていない。病院に自浄作用があるとも思えない。むしろ、互いの足の引っ張り合いならあるだろうけどね。なので、委員会(公聴会みたいな感じだったが)が開催され、癒着が俎上にあげられ、弾劾されるような経過にどーもリアリティがない。つくりごとというかきれいごとというか、嘘くさいのだよね。業者と癒着して金品を得ていたといっても、それが極悪非道にも思えないしね。リベートごときは、どこにでもあるだろ。
しかも、堺雅人はリベートで私腹を肥やしていたわけではないことも明らかになる。なのに堺を懲戒免職にしろ、なんて主張する医師もいる。このあたり、どーも素直に「そうそう」と思えず、結果的にインパクトのなさにつながっているのではないのかな。
で、怪文書は堺本人が書いた、という事実もほとんど突き刺さってこない。怪文書によって救命センターのあり方が問われることを願っていたみたいなことを言っていたけど、そんな、どう転ぶか分からないような方向に話をもっていこうという考えが理解できない。堺はもっと合理的で理知的な医師ではないの? だったら、もっと確実性の高い手法を選択するのではないの? それに、私欲を肥やしていなかったんだから、委員会としても情状酌量でいいんではないの? ダメなの? と思ってしまう。
怪文書とは別に、精神神経科の高嶋政伸と事務長の尾見としのり、それから、助手みたいなやつらは精神科の覇権拡大を狙っていて、医療メーカーの営業マンはその話に一枚噛まされそうになっていたわけだよなあ。高嶋もリベートを要求していたのか? よく分からんが。でね、真実が分かった後、高嶋や尾見には何かお咎めはあったのか? 尾見はその後も画面に登場し、いいパパぶりまで見せているのだけれど、どーも納得のいく収拾の付け方ではないよなあ。いや、そもそも救急センターの設備が不足していたり救急ヘリを調達しなかった病院長だって責任あるだろ。違うか? というようま疑問符がついてしまうのだよね。
話自体が地味なのを補おうとしたのか、最後に大型交通事故の患者が大量に運ばれてきて、救急センターが大活躍という長いエピソードを入れている。ここで盛り上げようって寸法なんだろうけど、それって本筋とは関係のない話だよなあ。うーむ。もっと投身自殺の真相究明とか怪文書の追求をスリリングに見せるとか、そっち方面に重点を置いた映画にできただろ。ねえ。
ルージュの意味も、分かるまでがじれったい。早く教えろよ、と思っていたけれど、口紅だと分かって「なんだよ」とがっくり。弱気な顔色が口紅ごときで変わるかね? 周囲には「元気そう」より「不気味」に見えるんじゃないの?
速水センター長のクルマのナンバーが「883」。そんなところで遊んでいるのかね。それにしても、クルマの周りにぺんぺん草が生えているって、クルマには乗ってないってことをいいたいだけなのか? それにしても阿部ちゃん、足にヒビが入ったぐらいで長期入院するか?
映像にも工夫がなくしょぼい。カメラはFIXが多く、移動が少ない。カット割りも単調。ぜんぜん疾走感がないのだよね。ここは「ER」のパクリでもいいから移動撮影、細かなカット割り、そして、セリフも工夫すればもっと緊迫感も出せたんじゃないのかね。
ブーリン家の姉妹3/17ギンレイホール監督/ジャスティン・チャドウィック脚本/ピーター・モーガン
原題は"The Other Boleyn Girl"。アン・ブーリンを扱った映画では「1000日のアン」が有名。でも見ていない。最近では「エリザベス」がちょっと関連してるかな。この時代の女たちは、いま、旬なのかしら。
アン(ナタリー・ポートマン)とメアリー(スカーレット・ヨハンソン)の姉妹以外ですぐ分かるのは、2人の母親とヘンリー王ぐらい。父と叔父とその周辺の人物は見分けがつかない。若い男たちもぞろぞろ登場するけれど、誰がどれやら分かりにくい。姉妹と一緒に戯れていた青年は誰? と思っていたら、中盤ぐらいにアンの弟でメアリーの兄と分かった。その兄は後半で不細工な女と嫌々結婚していたけれど、その経過はさっぱり分からず。アンが衝動的に結婚した青年も、最初の方の舞踏会みたいなのにちょっと見えていただけで、子細が分からない。最後にメアリーの亭主に立候補するやつは誰? そんな具合で、人物関係を整理しようにもデータが描かれないので当惑したまま見ていた。ま、細かなところは無視して結構、ということなのかも知れないんだけどね。
最初の1/3ぐらいの流れは興味深い。男子を産めないキャサリン王妃。そんな妻に飽きているヘンリー王。周囲が「妾を」という話になって、「それなら俺の姪が・・・」というわけで、アンが指名される。世継ぎを確保するのは、東西どこも大変だ。ところが、アンを差し出すつもりが、王が気に入ったのは妹のメアリー。でもメアリーはすでに結婚していて、宮廷は嫌い・・・といっていたはずが、王の子を宿すやコロリと変わってしまうんだよお立ち会い、だよなあ。ホント、女はいい加減だ。嫉妬に狂うアンは衝動的にどこかの貴族の息子と勝手に結婚式を挙げてしまう。
アンは知性的だけれど、計算高い割に衝動的なキャラに描かれている。ナタリー・ポートマンはうってつけだね。一方のメアリーは、頭は健康的でやさしいお母さんタイプ。ま、どっちが幸福になるか、歴史を知らなくても分かっちゃうかも知れない。
それにしても、王のお手つきになれば一家は出世して安泰、としか考えないのかね。男子が産めなかったら嫌われちゃうんだろう。メアリーは男児を出生するのに、いとも簡単にヘンリー王に捨てられてしまう。王はアンにモーションをかけ始めるのだ。これでアンとメアリーの関係は逆転。メアリーは、これでよかったと夫の元に戻るのかと思いきや、「王を愛している」なんていう。やれやれ。女ってやつは。そして、アンは王を焦らす。「私は私生児は産みたくない。愛人は嫌だ。王妃になりたい」と。そういわれてローマ教皇に刃向かってまでキャサリンと離婚し、アンと結婚式を上げしてまうのだから、凄い。映画では、キャサリンと離婚できる根拠として、前の夫と一夜をともにしたかどうか、なんてことが言われていて何のことか分からなかったけれど、あとで調べたらキャサリンは当初、ヘンリーの兄のところに嫁に来て、でも兄が死んでしまったのでキャサリンを妻にしたらしい。いや、歴史を知らないと映画も存分に楽しめないとはつらい。
さて。アンがフランスから戻り、王の気を惹き始めた頃から話が端折り気味になる。もの凄く断片的な描写でどんどん進行する。まるでダイジェストを見ているよう。それとともに、こちらも飽きてきた。ドラマがないのだから飽きるのは仕方ないかも、それでも、アンがなぜ1000日しか妃でいられなかったのか、その理由が分かったからいいか。とはいっても大雑把な説明でしかなくて物足りなかったけどね。
というわけで、本日の収穫は、アンの前にメアリーがヘンリー王の妾になっていたらしいことが分かったこと。それと、アンが放逐された理由が分かったこと。この2つかな。それ以外に、俺にとってこの映画の見どころはなかった。創作みたいにドラマチックな展開だけど、ドラマチックに見せてもらえなくてはつたわらない。ナタリーとスカーレットの2人は演技をする以前の、単なる役柄を演じているレベル。この程度の内容なら、テレビでよくやる歴史解説番組の方が中味は充実したかもね。
で。分からないのは、ヘンリー王はなぜメアリーが生んだ息子を認知して王位に就けなかったのだ? 結局、アンが生んだエリザベスが王妃となるのだけれど、そうなった理由がよく分からない。うーむ。もう一度「エリザベス」を見ろってか。
ホノカアボーイ3/23テアトルダイヤ監督/真田敦脚本/高崎卓馬
表面的には昨今流行の脱力系&ほのぼの系に連なるのかな。荻上直子の「かもめ食堂」「めがね」のようでもあり、中江裕司の「ホテル・ハイビスカス」のようでもある。調べたら真田敦は「いぬのえいが」の「ねえ、マリモ」を監督していたのだと。「ねえ、マリモ」はかなりインパクトのあるショートフィルムだったけど、あの監督なのか。いままで本編をまかせてもらえなかったのが不思議だなあ。
この映画には老人が登場していて、"いくつになっても性欲は存在する"というのがサブテーマになっている。けれど、あまりにも当たり前すぎて面白くない。では、他に何かあるのかというと、大したものはない。どうでもいいようなエピソードの連なりでしかない。で、その茫漠としたのほほん映像が観客に開放感やリラックスを与えてくれるのかというと、そんなこともなかったりする。登場する人はみなどこかで何かに対する強い思いを澱のように残していたりする。決して達観した菩薩のような人々が住んでいる島ではないのだ。だから、どうしてもほのぼの系の映画には見えなかったりするのだよね。
この映画の不思議なところは、主要キャストのバックグラウンドが見えないこと。主役の岡田将生の背景はまるで見えない。かつて恋人(蒼井優)と来たこの島に、1人でやってきて映画館に住み着く。それ以外の手がかりはない。岡田に食事を作ってあげる倍賞千恵子も、どういう人生を送ってきたのか分からない。むしろ、脇役の長谷川潤(恋人と喧嘩し、いっとき岡田とつきあうけれど、やっぱり元の恋人のところに戻っていく娘)、喜味こいし(アルツハイマーの妻の世話をしている老人。80過ぎてマスかくのが唯一の楽しみ)、正司照枝(夫に先立たれた理髪店主)なんかのほうが人間・人生に厚みがあるように描かれている。なぜなんだろう。意図的なのか?
映画館で働く松坂慶子、映写技師、ポップコーン売りのジジイはまた、妙な3人。現実的な生活感はなく、おとぎ話の主人公のような描き方をされている。といっても、ファンタジーにもなりきれていない。
というように、この映画はキャラクターに対するアプローチが違うというのが妙なズレをつくっている。こちらがリアリティを追求しようとしても「そんなものは気にしなくていい」といっているようで、ある面ではリアリティをちやんと描いていたりする。こういうテイストのズレが、映画を見ても心が解放されない理由のひとつなのかも知れない。本来なら、主役の岡田と倍賞について、推察できる要素をいくつか散りばめ、どこかで共感できるようにしておくべきなんだと思う。でも、それをしていない理由は何なんだろう? よく分からない。
ほのぼの映画にふさわしくない生っぽさ。これが一番でてくるのは、倍賞の嫉妬だ。なんだか達観したかのような生活を送る倍賞。岡田の世話をすることで母親、というより、恋人のような気分に浸っていたらしい。岡田とつきあい始めた長谷川に手ひどいいじめをする。女って奴は、いくつになっても嫉妬深いと思わせる描写だ。妻の病気のせいで性的満足から遠ざけられた喜味こいしも、ささやかなマスターベーションで快感を得るしかない。これなんか、老人にとって性とは何かを考えさせるテーマではある。なので、話としてはこっちの方が十分に面白いのだけれど、映画の表面的なテイストはほのぼの脱力系に見せてしまっている。そんなんでいいのか? もうちょっとエグってくれよ、という気持ちがしてしまう。なので、決してほのぼのでも脱力系でもないと思うんだけどね。
岡田の元カノである蒼井優は冒頭ちょっと登場するだけ。ほとんど意味がない。後半にでてくる深津絵里も、たんなる観光客のエピソードでしかない。もっとも、深津のエピソードは面白いけどね。
エキセントリックな人物として登場する松坂慶子は、ちょっといい。でも、それ以上ではなく、ほとんど意味がない。虹の話もとってつけたような感じで、ほとんど意味を成さない。というわけで、いろんな要素が詰まっているにもかかわらず、どれも満足に活かされていない映画。ちょっともったいない。
P.S. アイラヴユー3/25ギンレイホール監督/リチャード・ラグラヴェネーズ脚本/リチャード・ラグラヴェネーズ、スティーヴン・ロジャース
原題は"P.S. I Love You"。なんかどーも、まだるっこしい話だ。もうちょいテキパキできなかったのかねえ。
手紙を利用した映画は少なくない。最近も「イルマーレ」だの「ニライカナイからの手紙」なんていうのがあった。なので、この映画のように死んだはずの夫から手紙がくる、のなら「ニライカナイからの手紙」のように死ぬ前に本人が何通か書いておいて、誰かに配達してもらう手はずをしてから死んだ、ということだろうと思っていた。頼まれたのが誰か、というのは分からなかったけれど、でも、トリックは当たっていた。といっても、たいしたことないけどね。
喧嘩はするけれど仲のいい夫婦が冒頭に描かれ、暗転して次のシーンは葬式だった。あまりにも突然なので呆気にとられてしまった。最初はパーティかと思ったら、葬式だった。こんな葬式もあるのだね、というような感じ。妻(ヒラリー・スワンク)もそれほど哀しそうにしていなかったしね。で、しばらくして夫からテープレコーダーのメッセージがやってきて、その後、夫からの手紙がどんどんとどく。それに色々と指示があり、落ち込んでいたヒラリーは少しずつ日常に復帰していくようになる。・・・のだけれど、だれも亡き夫からの手紙に不信感を抱いていないのだよね。フツーなら、筆跡も含めて本物の手紙か? と疑い、それが真筆ならどうやって? と追求していくはず。しかし、それがない。そんなことより、ヒラリーの友だちとのあれやこれや、夫の故郷であるアイルランド行きなんていうことの方に話がズレていってしまう。
まあ、ロマンス映画なんだから死んだ人が相手では話が進まないのは理解できる。けど、アイルランドで亡き夫の親友と出会ってベッドを共にするところまで、夫は死ぬ前に予測していたかのような展開で、なんか、奇妙な気がしてしまう。
というわけで、不可思議な手紙への追求が行われないままヨロヨロと話が進んでしまうので、どーも、まだるっこしい。話自体も中途半端で、いまひとつ尖っていない。なんとなく成り行きで進んでいき、ほどほどのハッピーエンドになるという塩梅で、観客が共感したりほっとしたりするところがないのだよね。
ヒラリー・スワンクは口元がババアで出っ歯で筋肉質だから、やっぱり同性愛者かボクサーが似合っているように思う。おっぱいも柔らかいというよりぷりぷりしている感じで、女っぽさがいまいち。ロマンスは似合わないと思う。ま、亭主の他に男を知らないような30女には向いているかも知れないけど。
ヒラリーの友人がパーティで男漁りをしていて、その質問が「独身?」「ゲイ?」「働いてる?」の次に、キスが上手いかどうか試してみるというのがあって、おかしかった。ヒラリーも、アイルランドで亭主にあったときはキスで参ったみたいだし、夫が死んでからアイルランドを訪れ、出会った男ともキスで参ってしまっている。それから、近しい男友だちが告白し、ヒラリーとキスして「ダメだ。妹とキスしているみたいだ」といって、友だち関係でいよう、ということになるところも興味深い。そんなにキスの味は違うものなのかい? うーん。俺には分からない。
映画は映画だ3/26シネマスクエアとうきゅう監督/チャン・フン脚本/チャン・フン
原題は"Yeong-hwa-neun yeong-hwa-da"で、国際タイトルは"A Movie Is a Movie"。原案と製作はキム・ギドク。
思いもかけず面白かった。先が読めない展開で、いったいどうなっちゃうんだ? と話に引きずり込まれてしまった。
映画スター(スタ)と、映画スターになりたかった現役ヤクザ(ガンベ)の話。スタは気性が荒く、撮影中に暴力事件を起こして現在がけっぷち状態。相手役が降板し、代わりに、飲み屋でちょっと接触のあったガンベに映画に出ないか、と誘う。格闘シーンは本気で殴り合う、という条件で。
映画は演技だと思っているスタは、いつもマジでぶつかってくるガンベに対抗意識を持っている。ガンベも、たかが役者とバカにはしていたけれど、素だけでは映画にならないことが分かってくる。かつて一度は夢見た職業なので、監督のいうことには一応したがう。もっとも、ときどき暴走して素がでてしまうのだけれどね。互いに意地を張り合いながら、どこかでちゃんと敬意を払っているのだよね。すったもんだありながら、撮影は最後の格闘シーンへ。泥だらけの中、本気で殴り合い、へとへとになったところでめでたく撮影終了となる。
この、映画を撮るという縦軸に、様々なエピソードが絡んでくるのだけれど、なかなか絶妙に構成されている。スタには表に出せない恋人がいて、いつもワゴン内でのセックス。彼女はこれに不満だ。あるときビデオに収録されたワゴン内の秘め事が送られてきて、ゆすられる。現役ヤクザのガンベは、親分が現在収監中。ライバルの親分が不利な証言をしそうなので工作中だが、思うようにいかない。そこでライバル親分を殺すよう自分の親分に命令されるが、情け心をだして命を助けてしまう。このあたり、ガンベがスタや共演女優に心を少し開いていく過程とシンクロしているので、ごく自然にみられた。で。逃がしてやったライバル親分が舞い戻ってきて、不利な発言をするということがつたわってきて大弱り。
てな、それぞれに事情を抱えながらの映画撮影がつづく。要所で笑え、コメディタッチの所もある。のだけれど、テイストは北野武に似ている。とくに、ガンベが子分に「映画を撮ろう」といい、スローモーションで殴り合いをするシーンなんか、北野感覚だなあと思った。破滅型のヤクザを描きつつ、ユーモアを散りばめるところなんか、かなり北野映画を意識しているのではないのかな。
といった具合に、どういう着地をするのかな? と思っていたのだけれど、ラスト前の泥だらけの対決はほとんど迫力がない。リアルに近い行為をするより、演出された派手な格闘の方が真実みがあるってことなのかも。そして、ラスト。予想されたとおり、映画を撮り終えたガンベはライバル親分を殺りに行くのだけれど、ちょっとありきたり。ここを、いい具合に外してくれたら面白くなったのになあ。といっても、どう外したらいいのかは分からないのだけれどね。
気になるところというと、ガンベが親分と面会中に「殺せ」と命令されたり、ライバル親分を殺ったという証拠に血まみれのメガネを見せたりするところ。おいおい。看守がいるようなところで、それはできないだろう。ガンベが共演女優をクルマの後部座席で犯すシーン。ガンベは本気で迫り、「ホントにやってるよ!」なんていうセリフもあるのだけれど、共演女優が降りると言いだすこともない。数日後には共演女優がガンベを慕うようになったりして、おいおい、あのときの「ホントにやってる」は、どこまでホントだったんだ? と、疑問符がついた。冒頭の2つのシーンも、よく分からない。最初は船上。つぎに腕の傷口を縫い合わせているシーン。なにげなくみていたので役者の顔まで覚えていない。もういちど見れば分かるのかも知れないんだけどね。
それにしても。ほとんどみな初めて見る役者ばかりなので、最初の頃は誰が誰やらわからず戸惑った。しばらくしてヤクザの兄貴の顔が見分けられるようになった。俳優スタは、どーも主役を張るような顔つきではなく、最後までしっくりこなかった。親分格は別として、兄貴と子分、俳優とマネージャなんかがほぼ同年齢帯で、ぱっとみて区別がつくような感じではないのだよね。韓国の方々には問題がないのかも知れないけれど、ちょっと弱った。
チェンジリング3/30新宿ミラノ2監督/クリント・イーストウッド脚本/J・マイケル・ストラジンスキー
原題は"Changeling"。いなくなった子供を捜し出すために東奔西走する話かと思ったら、ちょっと違った。狙いは腐敗した1930年前後のロス市警を告発だった。悪徳警官を告発する映画は山のようにつくられているけれど、ちょっと毛色が違う。事件が発生し、解決してからのその後が長い。かつての「冷血」みたいな感じで、裁判の様子や絞首刑失効まで見せつける。絞首刑のシーンでは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を連想した。ついでに「グリーンマイル」まで思い出してしまった。あれは電気椅子だけどね。
子供が行方不明→発見されて再会・・・のシーンから以後、ちょっとイライラした。だって、半年会わなかったからって見れば分かるだろ、別人だって。ところが、この映画では母親(アンジェリーナ・ジョリー)は「違う」と思いつつ「違うかも知れない」と揺れているのだよ。違う、と確信していない。だから、別人なのに家に連れてきてしまう。そんなのあり得ないだろう。もっとはっきり「うちの子とは違う」と報道陣の前で大声で言えばよかったんだ。と思うと、とてもじれったい。
「自分の子供じゃない」と言われた警部は、しつこく「あんたの勘違い。この時期、子供は変わる」と説得する。警部はほんとうに、見つかった子供が母親の子供だ、と信じていたのだろうか。それとも、ラスト近くで子供が吐露したように、はなっから警察のでっち上げだったんだろうか。でも、そうすると、背丈も違う別の子供を母親に押しつけて行方不明の子供を発見したということにし、警察は事件解決に全力を尽くした、ということにしようとした、ということになってしまう。事件を解決するために無実の人間を犯人に仕立てる、というのは日本でもよくあることだけれど、警察の威信を保つために行方不明の子供を別人で代替し、それが通用するとでも思ったのだろうか? そうだとしたら、単なるアホだよな。
それとも、最初は本人を発見したと思ったけれど、母親に否定され、プライドを傷つけられた警部以下が意地を張りつづけた結果なのか? それも単なるアホだよなあ。後半、警部が聴聞会のような所に呼び立てられ、母親の弁護士とやりあう部分があるけれど、あのシーンでの警部の主張はもう単なるアホで、そのまま精神病院に放り込んでも問題ないぐらいだったけれど、では、そういうアホが警部にまで上り詰めたというのか? そもそもの発端で、どーも納得のいかない展開でいらついた。
なので、その後の展開もいまひとつ緊張感に欠ける。悪の側(警察や精神病院)の描き方があまりにも単純・表面的で、「そんなのあり得ないだろう」という気になってしまうからだ。だって、発見された子供は行方不明になった子供より7センチも背丈が低く、割礼されていて、歯科医や教師も別人といっている。なのに、警部以外の警察関係者はみな警部と同じ考えのように描かれる。そんなことはあり得ないだろう。映画ではだっち1人の刑事が疑問を持って事件解決の糸口を見つけるけれど、他の警官・警部はみんなアホなのか? ほんとうにロス市警はあんなにアホばっかりの集団だったのか? なので、悪徳警官たちというより、アホ集団としか思えないのだ。
同様のことは、母親が入れられる精神病院にも言える。院長が警察とつながっているのは分かったけれど、看護婦も全員グルなのか? 誰ひとりとして疑問を持たないのか? なんか、007に描かれる犯罪組織スペクターの構成員みたいだ。なんともリアリティがない。でも、真実だと冒頭に出ているということは、アメリカ人はみんなアホなのか?
ロス市長、ロス市警、警部らがどういう悪事を働いているのかでてこない。「L.A.コンフィデンシャル」みたいに警官が金でつながっていて、その秘密を守るために悪事を働いた、っていう対立の構図があるなら分かりやすいと思うのだけれど、この映画にはそういう具体例がまったくでてこない。なので、最後までいっても悪徳警官・役人を懲らしめた、という高揚感が感じられないのだよ。それはやっぱり、善悪の対立がいまひとつ描かれていないから、ではないのかな。母親のように警察の意見に反抗した女たちが精神病院に入れられていたけれど、みな単に"言うことをきかなかったから"入れられたのか? その程度のことで精神病院に入れるのがフツーだった、というなら、やっぱりアメリカ人はアホなんじゃないか? って思っちゃうよね。
唯一、警察の中に疑問をもつことのできる刑事が登場する。この刑事がある少年の告白に耳を傾け、大量小児殺人をあばき、ひいては母親の子供も誘拐されていたことが分かる。警部は刑事に「捜査はするな」といっていたのだから、暴走だ。あの環境では、刑事はとても勇気があった、といえる。あの程度の当たり前の捜査でも、あの時代のロス市警の中では輝かしい行為だった。・・・というのはあまりにも哀しすぎるけど。その刑事と、母親がラストシーンで遭遇し、会話する。なかなかいいシーンなのだけれど、それまでこの2人は接点がなかったのになあ…と思うと、なんかちょっと萎えた。ここは本来なら、母親と牧師(ラジオで警察批判をしていた闘士)の会話になるべきだよなあ。でも、母親のために戦った牧師はいつのまにかフェードアウトしてしまい、母親と接点のなかった刑事がクローズアップされている。なんか変だよね。
子供を誘拐して殺害していた犯人についても、言葉が足りない。あの青年は何のために子供をさらっていたのだ? 幼児セックスかなんか? それとも単なる殺人鬼? うーむ。いまひとつスッキリしないなあ。
母親と少年は、母子家庭だ。少年が、父親がいないことをからかわれ学校で喧嘩した、という話が冒頭にでてくる。そのとき母親は父親がいなくなった理由を子供に説明しているのだけれど、何をいっているのかよく分からなかった。「男としても責任から逃げた」とかなんとか、そんなことだったけれど、具体的には何をいっていたのだろう?
母親は電話交換手なんだけど、その上司が母親に気があるようなそぶりを見せていた。最後に一緒になるような示唆があるのかと思いきや、何もなかった。ちょっと尻切れトンボな感じだね。
CGをあまり使っていないであろう1930年代の街の様子が凄い。あれだけのクラシックカーや路面電車を調達できてしまうもの凄さが映画に厚みを出しているのは確か。

 
 

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