2009年4月

ワルキューレ4/1MOVIX亀有シアター6監督/ブライアン・シンガー脚本/クリストファー・マッカリー、ネイサン・アレクサンダー
原題は"Valkyrie"。第二次大戦下のドイツで、反ヒトラーの将校たちがクーデターを起こす物語。事実だ、と冒頭にでる。では、成功しなかったのだな、と分かってしまう。なので、緊張感はあまり感じられない。
冒頭のチュニジアでの戦闘シーンは、かなりの迫力。つづく、ヒトラー暗殺(飛行機に乗り組むヒトラーの側近に爆薬入りの酒を手土産に渡す)の過程は、なかなかスリリング。しかし、トム・クルーズが中心になる部分は、クーデターに至る過程が面白くならなければならないのに、作戦がどーのと静的な室内劇が中心になって、だれる。ま、こっちが内情や状況を十分に把握・理解できていないせいかも知れないけどね。
反ヒトラーの同士がたくさん登場する。しかし、彼らがどういう因果、または、利害で結びついているか、いかなる信念・心境にあるかはあまり描かれない。顔が登場する回数が多くても、トム・クルーズの大佐以外はほとんど個人がフィーチャーされていないのだ。なのでので感情移入しにくい。
とはいうものの、ドイツ軍のでてくる映画では大概ドイツ人将校は悪いやつら、という描き方しかされていないので、この映画のように"よい"ドイツ人将校ばかりが登場する映画は貴重なような気がする。とくに、末端の兵士ではなく将軍クラス以上に反ヒトラー分子がたくさんいたのには驚いた。それに、映画で描かれるほどのクーデターが起きていたということにも驚いた。大臣暗殺などを除けば、2.26事件と同じぐらいの規模ではないか。
ヒトラー暗殺を実際に行なったトム・クルーズは、爆破は見たけれどヒトラーの死は確認しなかった。そのせいでクーデターは失敗に終わるのだけれど、暗殺者が自分の命を助けようとすればああなるより他はないのだろうね。ちょっと情けない感じがした。昨今のイスラム過激派の自爆テロなどを思うと、余計にその思いは強くなる。
それと、映画で描かれるのはテレックス(?)によるニュース配信網を監視下に置かなかったことが失敗の原因のように描いている。ヒトラーの取り巻きや親衛隊からの情報を配信できないようにしておけば、クーデターは成功したかもしれないのだよな。その意味で、反乱軍は情報の大切さを認識していなかった、ということになる。
それにしても、クーデターにひっぱりだされるのは、なーんも知らない兵隊たちなのだよなあ。2.26事件でも兵隊たちは自分たちが何をしているか分からなかったらしいが、この映画でも予備役の兵隊たちが反乱軍に利用される。なんか、そのあたりが、哀れに思えてしまう。上官の命令には絶対の軍隊なのだねえ。
でもね。ちょっとひっかかるのは、反ヒトラーのグループがなんとなくルーズな感じがするのだよね。メンバーが集まって堂々とクーデターの密談をパーティのようにしていたりするのだけれど、あんな風ではどこからか漏れるよなあ、フツー。トム・クルーズが誘われるときも、トムが部下の中尉を仲間にするときも、お気楽に自分が反ヒトラーと明かしてしまう。不用心すぎるだろ、と思った。
映画の始めに日本の観客用に当時の世界情勢、ドイツの位置づけなどが簡単に文字で紹介される。それだけ歴史を知らない人が増えた、ということなのだろう。それと、将官などの名前がクレジットででるのだけれど、必要あったのかな? なくても分かったんじゃないのかな。
相棒シリーズ 鑑識・米沢守の事件簿4/1MOVIX亀有シアター9監督/長谷部安春脚本/飯田武
テレビの「相棒」は見たことがない。なのにこの映画を見たのは、監督が長谷部安春だったから。でも、以前から長谷部はずっと「相棒」のメガホンを取っていたのだね。知らなかった。
結果的にテレビの2時間ドラマそのもので見るべきものはなかった。鑑識の米沢(六角精児)と所轄刑事の相原誠(萩原聖人)の2人が中心人物として活躍するのだけれど、人間はほとんど描かれていない。せいぜい人柄ぐらいだね、表現されているのは。とくに萩原は我を忘れてしまうアホに描かれている。
話のテンポは速い。けれど映像がテレビフレームでセリフ中心の説明型だから、疾走感はない。というか、主人公たちに都合よく話が転がっていく感じ。特徴的なのが、2人が青少年なんとかセンターに忍び込んだとき、そこの課長(市川染五郎)も偶然来ていて遭遇するというシーン。ご都合主義もいいところだ。
それはないだろ、というところもある。六角が自宅待機で見張られている最中、ピザ屋の配達員に化けて脱出するシーンがある。六角は萩原と浅草見番で合流し、翌日、青少年なんとかセンターへ乗り込むのだけれど、この間、誰も六角の動向を知らなかったのか? 2人は理事長室に乗り込み、いろいろ証拠品を並べて理事長および課長を攻め立て、ひょっとしたら口を滑らすかも知れない可能性にかける。六角が志ん生のレアな「四段目」音源からヒントを得ての引っかけだけれど、「四段目」のどこが関係しているのか説明がない。さらに、そのとき六角が手にしたのは被害者の遺言の紙片なのだ。おいおい。それは警察署内に保管されているものだろ。どうやってもってきたのだ! それに、志ん生「四段目」の音源は違法コピーではないの? とツッコミを入れてしまったぞ。
で、1番怪しそうな理事長、2番目に怪しそうな課長ではなく、おしゃべりな事務員(片桐はいり)が思わず口をすべらしてしまう・・・というオチなんだけど、2時間ドラマの定番の犯人設定。しかも、その場で片桐は動機や犯行模様を悪びれずに説明するという・・・。いやもう、2時間ドラマの定番の犯人解明シーンですなあ。やれやれ。
青少年何とかセンターという警察の外郭団体は警察官僚の天下り団体で税金の無駄遣いをしている、というような批評性はあるのだけれど、なんかチャチ。というか、結果的に天下り団体の大物たちは悪者ではなかった(叩けばホコリが出るようなことを最後に言っていたけど)というラストも、インパクトが足りない。
で。この映画は六角の元妻(家出をしたという設定)と、萩原の別れた妻(被害者)が似ていて、それで2人で勝手に捜査を始めるという設定なんだけどね。逃げた女房を思う六角はさておき、萩原が離婚した元妻に執着している理由が分からない。フツー離婚したら単なる他人だろ。凄く違和感を感じてしまった。
あと、そうね。でてくる女優がオバサンばっかりで、楽しみがなかったのが残念だね。テレビシリーズとの連携でしょうがないのかも知れないけど、ちょっとねえ。
ウォッチメン4/2上野東急2監督/ザック・スナイダー脚本/デヴィッド・ヘイター、アレックス・ツェー
原題も"Watchmen"。「300 <スリーハンドレッド>」の監督なんだそうな。なるほど。でも、原作がアメコミのせいか、画面のタッチやテイストは「シン・シティ」に似てるなあ。
で。こちらの頭が悪いせいなのか、ストーリーがよく理解できず。思うに・・・。かつて悪党を取り締まる私設の自警団ウォッチメンができた。みんなコミックヒーローに化けていた。ニクソンの自警団禁止令で彼らは解散した。ところが、かつてのメンバーを狙う連中が登場した。かつてのメンバーが団結して相手を探るが、黒幕はかつての仲間の一人だった。という大筋は分かるのだけれど、なぜ彼がそうしたのか俺には分からなかった。字幕もほぼ読んでいたんだけどねえ。うーむ。
ニクソンの時代の冷戦、核の恐怖なんていうのも背景にあるようだけど、どう絡んでいるのかよく分からなかった。ラストで、Dr.マンハッタンの力が利用されているようだったのだけれど、これも分からない。ラスト、犯人を追いつめたのに、「少ない犠牲で地球を救えた」とヴェイト社社長のオジマンディアスにいわれ、Dr.マンハッタンがロールシャッハを殺してしまうのもよく分からない。さっぱり何だかわからない!
そもそもウォッチメンはどういう組織なのだ? ケネディ暗殺やカストロやあれやこれやに関して、どっちの側で何をしてきたのだ? で、今回、オジマンディアスの目的は何だったの? 最後までさっぱり分からず、途中では眠くなるし(2、3分目をつぶっていた)、やれやれだ。まさか、米ソ核戦争を回避するため、意図的にニューヨークを核爆発させたとかいうのがキモだつたりはしないだろうな。そんなことをしてまで核戦争を回避する理由が理解できん。
構成も分かりづらい。最初はダイジェストのように成立の過程を。さらに、メンバー(?)が殺されていく様子。さらに、色んな事件に関与したこと。で、やっとメンバーの一人コメディアンの暗殺シーンになる。展開がだらだらしていて「ダークナイト」みたいにもったいつけている感じ。で、途中に過去の経緯を挟んだりしていて、混乱。もっと素直に一方向に進むような単純なストーリー展開の方がよかったんじゃないのかね。
ま、それでも理解できたかどうか怪しいけどね。スタイリッシュな画像より、分かりやすさの方を俺は求めるね。
フロスト×ニクソン4/6新宿武蔵野館2監督/Frost/Nixon脚本/ピーター・モーガン
原題は"Frost/Nixon"。
ウォーターゲート事件の名前は知っていても、具体的に何をしたのかはよく知らなかったりした。「大統領の陰謀」は見ているのだけれど、ね。帰ってからYouTubeで調べたら、本物のニクソンにフロストがインタビューしたビデオが見つかった。映画ではひょうきんで思慮が浅そうに見えたけれど、本物はどこかずる賢い感じのする男だった。
フロストが、ウォーターゲート事件で失脚したニクソンにインタビューし、悪事を働いたことを認めさせようとする。周囲は「テレビショーの司会しかしたことのない男が」と冷笑するが、最後の最後に言質を引き出すことに成功する、という話。エンドクレジットに「初演はロンドン」とあったので、元は舞台劇なのだろう。ニクソンとフロストのやりとりに、重きを置いている。ただし、そのクライマックスまでもってくるまでが、ちょっと退屈だったりする。
けれど、どーもこの映画はフロストの軽い部分を強調しすぎているような気がした。そうでなくてはドラマチックにならないからそうしているのかも知れないけどね。でも、フロストが飛行機で引っかけた女性の役回りなんか、ほとんど意味がない。さらに、ニクソンへのインタビュー3回目まではニクソンにいいように仕切られて完敗(といっても、ニクソン発言のどこで優位に立ったか、という感覚はよく分からない。ま、俺の歴史的な知識の欠如なのかもしれないが)。なのに、一念発起して突如試料を読みあさり、最後のインタビューで劇的逆転って、出来過ぎてない? どこまでほんとうなのか分からないけれど、どーも、よくできた芝居みたいに思えてしょうがない。もっとも、本物のインタビューが存在しているのだから、真実に近いことなのかも知れないけどね。
この映画の小道具として登場するのが、チーズバーガーとスリッポンのイタリア製の靴。チーズバーガーはニクソンからの電話の中で触れられていたけど、どういう意味だっけ? 忘れてしまった。靴は、あれだ、ニクソンがフロストの靴を気にしていたのだ。それで秘書(?)に訊いたら「あんな女みたいな靴」と一蹴されるのだけれど、ニクソンはご執心だった、ということだったなあ。これは、ニクソンが虚勢を張っていたことの象徴かな?
ニクソンからの電話で、フロストがケンブリッジに入学したけれど家柄がよくなくてコンプレックスを抱いた、ということが暴露されていた。そして、ニクソン自身も成り上がったけれど、誰からも尊敬されない、と嘆いていた。あのあたり、人間として通底するところがあるのだろうけれど、一方は世紀の悪者大統領、もう一方は軽佻浮薄なテレビショーの司会者、という人生を選び取った。たがいになんか、自分という砦を守るために必死だったのかもね。なんてことを思った。
ニクソン役はフランク・ランジェラ。ぜんぜん似ていないので、ちょっと不満。フロスト役はいいとして、フロストを支援する2人の描き方にちょっとツッコミ不足があるような気がした。それにしても、ニクソンは自分が不利になるかも知れない汚点に関するインタビューを、なぜ平気で受けるのだろう。それで1〜2億入るとしてもね。やっぱ、お金が欲しかったということだけなの?
ストレンジャーズ/戦慄の訪問者4/6新宿ミラノ2監督/ブライアン・ベルティノ脚本/ブライアン・ベルティノ
原題は"The Strangers"。つまらなかった。少しだけど途中で寝ちゃったし(うとうとしながら見ていて、はっと気づいたら友人を撃ち殺したところだった)。
ある夜3人組に襲われ、殺害されるカップルの話。なぜ襲うのか、その理由は分からない。得体の知れない連中に襲われる恐怖を描いているだけで、それ以上のものはまったくなし。ゾンビだったとか悪魔だったとか、アメリカ的なホラーのパターンにはない展開。といって、日本のホラーのような得体の知れない不気味さもない。ちょっとだけドキッとしたのが3回ぐらい? あとは全然怖くない。むしろ、襲われている方も襲う方もアホみたいに見える。
襲われる2人(リブ・タイラーとスコット・スピードマン)の関係もよく分からない。2人は友人の結婚式に出席した後、スコットの別荘に戻ってきた・・・という設定なのだけれど、そこでスコットがリブにプロポーズ。ところが、リブは浮かぬ顔。拒絶か? なのに、この2人は恋人関係みたい。スコットは「ふられたので気まずい」と電話で友人に話しているのに、なんとしばらくしたらこの2人セックスしようとするではないか。いったいこいつら、どういう関係なんだ?
あとは延々、袋をかぶった男とお面をかぶった女2人にじわじわ恐怖を味あわされるのだけれど、そんなにキャーキャーいって逃げ回る程か? 相手はせいぜい斧しか使っていなくて、こっちは散弾銃。なのにやられてしまうって・・・。アホか。
最後に、襲った3人の生身がでてしまうのは、なんとも味気なさ過ぎ。それに、少年に発見されたリブの死体ががばっ! と起き上がるのは、ありゃゾンビか? それとも死んでなかったちゅーことかい?
未来を写した子どもたち4/7ギンレイホール監督/ロス・カウフマン、ザナ・ブリスキ撮影/ロス・カウフマン、ザナ・ブリスキ
原題は"Born Into Brothels: Calcutta's Red Light Kids"。2004年のアメリカ映画。インド・カルカッタ。女性ジャーナリスト(ザナ・ブリスキ)が赤線地帯に住む子供たちにカメラを与え、次第に目覚めさせていく様子を描くドキュメンタリー。赤線地帯といっても売春宿がある感じではない。自宅に男を招き入れ、春をひさいでいるみたい。なので、売春婦といってもフツーの主婦である。亭主も子供も、老父母も一緒に住んでいる。仕事をするときは部屋の一角をカーテンで覆い、子供たちは家から出される。そんなスタイルみたい。そして、子供たちも長じれば仕事をするようにいわれる、らしい。街自体が売春で食っているのだろう。
家庭に不満があっても、子供たちの多くが家族に対する愛情をもっているのが素晴らしい。そして、みな、明るい。もちろん写真も素晴らしい。フィルムに定着したイメージを見たり選んでいる子供たちは、ほんとうに楽しそうだ。もちろん撮っているときもうれしそうだ。
けれど、最初の頃に10人ぐらいいた子供たちが、中盤からは半分ぐらいに減ってしまう。残ったのは、才能があるからコペンハーゲン(だっけかな)まで連れていってやろう、といわれた少年。それに、4〜5人の裕福そうな子供たちだけ。その裕福そうな子供たちを全寮制の学校に入れようとザナ・ブリスキは努力する。一方、コペンハーゲンに行くことになった少年のパスポートがなかなか取れない。そのうち少年は「いまは他のことがしたい。写真は後からする」みたいなことをいうし。ザナ・ブリスキは振り回されっぱなし。
映画だから色んなことがテンポよく進んでいるように見えるけれど、申請してから数日待ち、当日も数時間待ちというのはザラにあるはず。なんたってインドだからね。それでも最後にパスポートはとれたし、少女4人は学校には入れた。よかったよかった。と思っていたら、最後に少女の大半が学校を辞めたことがクレジットで分かる。母親がやめさせたり自分からやめたり、いろいろ。うーむ。お金の問題? 赤線地帯の子供だからといじめられた? 何があったのか、それが知りたい。
一見すると、可哀想な子供たちに手をさしのべるやさしい西洋人、という図式だ。でも、一歩間違えると親切の押し売りをする傲慢な連中、というふうにも見える。当地(インド)の文化や習慣などを、悪いものだと見ているようにも見えるからだ。昔も西洋の基準から見て悪・悲惨でも、当人たちはそれほど地獄とは思っていないかも知れないのだし。だからといって売春宿の子供たちを捨てておけというわけではない。その高尚に見えるお題目の影に、西洋人の優越感が隠れているようにも思える、ということだ。とくにインドはイギリスの植民地で、かつて同化政策がとられなかった。それが、今度は哀れみかよ。という気分にもなる。果たしてこういう親切は、どこまで介入してよいものなのだろうか。いくら野蛮で、先進国からすると信じられない文化・習慣(必ずしも売春を指しているわけではない)でも、当地の人々にとっては大切なものもないわけではないよなあ・・・というような思いをちょっと感じた。
ニセ札4/14テアトル新宿監督/木村祐一脚本/向井康介、井土紀州、木村祐一
評判がよさそうなので期待したのだけれど、ちょっとがっかり。構成がいまいちで、冒頭の終戦の説明なんか余計だろう。つなぎもぎくしゃくしていて、テンポが悪い。もうちょっと軽快でリズミカルなの映画にできなかったものかね。撮影も手持ちカメラでぶれぶれで、みっともない。むしろフィックスに徹した方がマシではないかと思った。テイストも中途半端。コメディにしては笑いどころがないし、戦後のヤミのどろどろした部分も感じられない。味というか深みがないのだよね。
話も、たいしたヤマ場もなく、ニセ札づくりのディテールの書き込みもほとんどなく、「ヒットラーの贋札」みたいなワクワク感がぜーんぜんない。だいたい、写真製版でちょいちょいとやっつけ仕事で「つくるのは本物です」なんて宣言するなんて呆れてしまう。
あんな村の中でよそ者も含めた数人がコソコソやっていて、噂にもならないというのが変だよね。木村祐一が女に向かって「裏からでていけ。みつからんように」とか言っていながら、ちょっと後では一同が河原でワイワイ食事をしている。おいおい、そんなことしてていいのかよ、だよね。
一方で、何人かの村の連中にはバレてしまっているというのも、マヌケな話。そんな状況でニセ札をつくりつづけるというのも、変な話だと思う。
メンバー個々の描き方も、掘り下げが甘い。一方の検挙する側の警官なんて、ほとんど書き割りにしか描いていない。もうちょっと何とかしろよ。
で、倍賞美津子の分け前が3万いくらで、その行方は分からない、って。おいおい。それが図書に化けたことぐらい、調べればすぐわかるだろうに。だいいちニセ札をつかまされたところからバレていくに違いないだろ。村の仲間に配当として与えたニセ札も、使われてばバレるはず。なのに、何の言及もしない。倍賞が育てていた知恵遅れの青年のその後は、どうなったんだよー。
逮捕後、倍賞が法廷で「ニセ札も本物も、同じ紙切れ。そんなものに振り回されるなんて」とかいうシーンがあるけれど、陳腐。そんな理屈は昔から子供だって言っている。もうちょっと気の利いたことを言ってほしかったね。
ザ・バンク 堕ちた巨像4/15109シネマズ木場 シアター4監督/トム・ティクヴァ脚本/エリック・ウォーレン・シンガー
原題は"The International"。おおむね背景も展開も分かるのだけれど、銀行が武器産業で演じている役割、というのがいまひとつ分かりにくかった。とくに、IBBCが誘導装置を買おうとしている企業との関係が、よく分からん。IBBCは誘導装置をどうしようとしているのだ? あれか。第三世界へ売りつけて、その国を経済的に支配しようとしている、ってことか? で、誘導装置の会社の社長を狙撃したのは、社長がインターポールのサリンジャー(クライヴ・オーウェン)にそのことを告げようとしたから? でも、社長とサリンジャーが会ったその日に狙撃されているんだぜ? もっと以前から、社長は狙われていた? ってことは、IBBCに背いて契約を結ぶつもりがなかったから殺されたのか? というようなことが、よく分からなかった。字幕に漢字が多いし、呼んで理解する間にどんどん進んじゃうからなあ。
それでも、冒頭から3/4ぐらいはとてもスリリングで緊張感もたっぷり。画面に釘付けって感じで見入ってしまった。ヤマ場はグッゲンハイム美術館の銃撃戦。あれは本物じゃないよな。それとも、改修工事でもするから使わせてもらったのか? 殺し屋の一人が吹き抜けを下へ落ちるシーンなんか、スタントでも凄すぎる。あれはCGかな。・・・ではあるのだけれど、あんなに派手に殺し屋を総動員するというのも、考えてみればかなりいい加減。あのなかの殺し屋を人質にとって証言させても構わない、って理屈になるわけだし。なんて思えてしまう。それとも、あれぐらいの騒ぎなら、当局を通じて押さえ込めるとでも言うの? ムリだろ、到底。
さてと、グッゲンハイムの後、サリンジャーと検事のエレノア(ナオミ・ワッツ)が銀行幹部のジジイを締め上げてなびかせるのかなと思ったらさにあらず。ジジイは「懺悔したがっている」とかいう拍子抜けの理由でIBBCを裏切り、サリンジャーの側についてしまうのだ。おいおい。ちょっと都合がよすぎないか。というわけで、この辺りから、それまでの緊張感が一気に消え失せ、俄然つまらなくなってしまう。これはとても残念だ。あのままのテンションで最後までいったらサイコーだったのにね。
IBBCは誘導装置の会社の社長を殺し、その息子たちとビジネスをすることになるのだけれど、サリンジャーが息子たちにIBBCの思惑を話しただけで、交渉は決裂。さらに、息子たちの差し金でIBBCの幹部や社長までもが殺されていく・・・って、このあたりは明確に描かれているわけではなく、"らしく"描かれているだけなので、強烈に浸みてこない。幹部ジジイが、IBBCは警察や検察、各国政府など色々なところに力を及ぼしているので、司法で裁くのは不可能、てなことをいう。IBBCの社長も、自分を殺しても別の誰かが変わって同じことをする、と言い放った。この、武器産業の不可解さ、国家権力や様々な組織に及んでいる、というのが具体的に見えないので、空恐ろしい、とまで感じられなかったのがちょっと玉にきずかも。
それに、ラストでIBBCの社長をサリンジャーが追いつめるときも、さっきまで社長を守っていたボディガードがいつのまにかいなくなってる・・・っていうのも、変だよね。というわけで、大半はもの凄く素晴らしい出来なのに、終盤で失速してしまったのが残念至極だ。
ナオミ・ワッツは相変わらず造形的に美しいのだけれど、口元辺りが徐々に婆さんになりつつある。うーむ。ちょっと哀しいものがあるなあ。えてしてこういう映画では、サリンジャーとエレノアが惚れ合っていて、なんていうヨタ話がでてくるのだけれど、そういうのを排除したのはとてもよい。
ある公爵夫人の生涯4/16銀座テアトルシネマ監督/ソウル・ディブ脚本/ソウル・ディブ、ジェフリー・ハッチャー、アナス・トーマス・イェンセン
原題は"The Duchess"。公爵夫人、という意味らしい。公侯伯子男のトップだから、日本でいえば徳川時代の松平家みたいなもんか。大大名の奥さまだわな。そういうのに17歳でなってしまったジョージアナの物語。世継ぎを生むために嫁ぎ、女ばかり生むので公爵にうとまれ、自分も恋を・・・てなスキャンダルが映画の売り物なのだろうけど、1700年代中期のイギリスということを思えば、そんなに可哀想とか思えない。原題の尺度で、当時の人たちの価値基準は測れないはずだからね。
公爵は、ジョージアナの前にも女中に手をつけて娘を生ませている。でも、日本の大名なんか正妻の他に側室を何人も囲い、しかも、同居していたんだから、驚くことではないよね。まあ、映画によるとイギリスでは選挙も行われていて民主主義が根づき始めていたようなので、女性の地位向上には関心があったのかも知れないけどね。とはいっても、映画でもいっていたように、まだ全市民が投票権をもっていなかった時代だ。王政でありながら議会民主制も敷かれていたらしいので、これは日本なら明治時代みたいな状態かな? 当時の日本の華族が公式に側室を認めていたか、妻妾同居していたから知らないけれど、華族のスキャンダルなんていうのが新聞ネタにはなっていたみたいだから、そこそこのモラルは求められていたのかな。であれば、日本の明治時代の感覚で見ればいいのかな。
映画に戻ろう。公爵に疎まれるジョージアナは、女友達エリザベスをつくって家に住まわせる。彼女がどの程度の階級か分からないのだけれど、貴族ではないように思えた。その彼女に公爵が手を出し、正妻のような振る舞いをし始める。対抗するジョージアナはなんとか公爵の嫡子を生むのだけれど、生んだら生んだで「お前は用済み」的な扱いをされる。うーむ。それは、あんたの女としての才能がなさ過ぎ何じゃないの? なんて思ってしまう。だって、他の男からはちやほやされるのに、公爵から冷たくされるって、なんでよ。別に公爵が女嫌いなわけじゃないのに。たんなる好みの違いなのか?
むかつくジョージアナは、かつて自分に思いを寄せていた男(大学を出てホイッグ党の議員になっている)にアプローチして、浮気を始めるのだ。やれやれ。でも、女好きの公爵がいる家に女盛りを同居させたジョージアナにも落ち度はあるよなあ。
というわけで、幾分、冷ややかに見てしまった。それにしても思うのは、ジョージアナは2人の娘を生み、2度男子を流産し、公爵の嫡子を生み、浮気相手の子を生む。なんと、6回も孕んでいるのだけれど、それでもまだ恋多き女でいるのだから凄い。エリザベスにしたって、亭主との間に子供が3人だか2人だかいて、離婚して、子持ちの状態で公爵との関係を続けていたのだ。女が可哀想、より、子供を産んでも女はたくましい、という印象をもってしまった。
映画は"スキャンダル"を標榜しているけれど、劇中にはスキャンダル騒ぎはほとんど登場しない。単なる公爵家の中のドタバタ劇のようにしか描かれていない。このあたりが、ちょっと物足りない。
それにしても、広い家にはたくさんの使用人がいる。食事中も賄い以外に2人ぐらい突っ立っている。扉のあるところにも突っ立っている。そして、痴話騒ぎもののしりあいも全部聞いている。公爵の秘め事にも聞き耳を立てている。なんか、秘密なんかどこにもないのだね。同じ描くにしても、公爵や公爵夫人の目線より、こういう使用人の視点からの公爵一家のあれやこれやを描いた方が、格段に面白くなりそうなものだと思うのだけどなあ。どうなんだろ。
トワイライト〜初恋〜4/16テアトルダイヤ監督/キャサリン・ハードウィック脚本/メリッサ・ローゼンバーグ
原題は"Twilight"。ポスターと惹起の言葉から、「ウォーク・トゥ・リメンバー」みたいな儚い恋物語かと思っていた(「ヴァンパイア」とも書いてあったようだけど「タイタニック以来の歴史的ラブ・ストーリー」しか見ていなかった・・・)。そしたら、なんと、ヴアンパイアものではないか。カレン一族の娘・息子たちが食堂に入ってくるシーンをみて、すぐ分かっちゃう。なんだあの白塗りの顔は。ヒーローの眉剃りというか付け眉みたいな気持ち悪さもひどい。うげ。
ティーン向けコミックみたいな展開。基本は学園もので、そこにヴァンパイアの味付け。でも合理的な整合性より設定や展開の妙、ロマンスで引っぱっていこうという魂胆らしい。その割にヒロインはとんでもない美人ではない。ここが最大の弱点だね。
それでも中盤まではなんとか引っぱっていてくれたけど、中盤でヒーローが自分の出自を明かし、恋に落ちる辺りからダレはじめた。ヴァンパイヤものならロマンスはつけ足しにしてくくれた方がよかった。なのに、延々とつづくのだよなあ。それにしても、ヒーローの「僕たちは動物の血を吸うからベジタリアンと同じ」には笑ったね。詭弁じゃないか。動物愛護協会からクレームがつくぜ。
というわけで、カレン家との野球のシーンの途中から寝てしまい、気づいたら鏡の部屋でヒーローと悪役が戦っているところ。うーむ。20〜30分寝ちゃったかな。どうってことない映画なので、そのまま帰ろうか。とも思ったけど、肝心な部分を見ていないような気がして、もう一度見ることにした。
トワイライト〜初恋〜4/16テアトルダイヤ監督/キャサリン・ハードウィック脚本/メリッサ・ローゼンバーグ
で、つづけて2度目。思うに、ヒロインがヴァンパイヤたちに特別に好かれる理由というのが明示されていないので、全編を通じて「なんでえ?」という気分にさせられてしまう。ここをちゃんと語るべきだと思う。
で、寝ていた間に、人間を襲う肉食系のヴァンパイヤが正式登場し、草食系(といっても動物の血で我慢)のカレン一族に挑む。というか、肉食系が「ヒロインをよこせ」といい、草食系がヒロインを守る展開になる。しかし、肉食系の連中がヒロインを執拗に追う理由が分からない。人間はそこらじゅうにいるのに、あえてヒロインを追いかける理由はどこにあるのだ?
他に襲われたのは、工場の従業員と、食堂のオヤジだ。かれらの血は特別美味かったのかねえ?
ヒーローがヒロインを背負って宙を飛んだり木を登るCGが、とてもちゃち。ま、笑えるからいいんだけどね。
脇には味のありそうな人間を配しているのに、ほとんど活用されていない。父親である警官、食堂の夫婦、教師、同級生・・・。みんなもったいない使い方だ。なかでも昔なじみのインディアン親子は大きくフィーチャーしながら、ほとんど何も語っていない。父親が車椅子の理由。息子がヒロインに寄せる思い。居留地の生活・・・。そして、彼らが草食系ヴァンパイヤに向ける敵意は、あれは、解消されないのか? とかいう疑問に、もうちょっと応えるべきだったんじゃないのかな。
鴨川ホルモー4/20MOVIX亀有シアター3監督/本木克英脚本/経塚丸雄
うーむ。素材は面白いのだけれど、料理の仕方がなあ…。
そもそも学生が鬼=式神をあやつる(ということは陰陽師と同じ力量をもつということか?)ということ自体が破天荒なのだから、そこに陰の部分や怪しの雰囲気を出すべきではないのかね。なんかちょっと安易というか、フツー過ぎるような気がした。たとえば京大青竜会にしても、おどろおどろしいけれど、なんか魅力的、みたいに描いて欲しかったような気がする。
脇役のキャラがあまりたっていない。青竜会の約半分はおざなりの描き方しかされていない。とくに上級生は画面には登場しても、個人として際立つことがない。立命館、京産、龍谷の他3大学の面々もおざなり。このあたりの人物を描き分けると、さらに面白くなったんじゃないだろうか。準主役の濱田岳(殿様頭)や荒川良々は目立っているのに、物足りないよね。
で、学園中心の話は面白く見せているのだけれど、CGの鬼が登場して一気につまらなくなった。ブタみたいな式神に、魅力はない。それになんといっても、CGじゃん。面白くないよ。しかも、そのCGもかなり手抜きで、モブシーンの格闘ではうろうろしているだけで、ほとんど乱闘していない。
さらに、一方で話が結局たわいもない失恋物語になってしまっているのがつまらない。美人ながら冷酷な女として登場する早良京子も、何を考えているか分からない娘にしか描かれていなくて、かなり食い足りない。
で。そもそも、4大学がなぜに京都の4神なのだ? とか、その4大学が鬼をつかって戦う意味は何? という疑問も最後まで晴れない。ちゃんとした目的があって式神を操っているのではなく、ゲームをしているだけみたいに見えてしまっている。ここら辺が、映画としての物語の深さにつながっていかないのだよね。原作がそうなっているから、かも知れないけど。描き文字では誤魔化せても、映像化されると誤魔化せないところというのがあるのだよね。
それにしても、京都の4神にどうして同志社が含まれないの?
スラムドッグ$ミリオネア4/21新宿ミラノ2監督/ダニー・ボイル脚本/サイモン・ボーフォイ
原題は"Slumdog Millionaire"。脚本にほとんどムダがなく、必要な映像を小気味よく積み重ねていく。細かなカットの連続が、テンポのいい音楽とともに進む。かと思うと、フィックスでじっくり狙う。疾走感と緊張感と、ちょうどいい具合に構成されて、観客を引っぱっていく。なかなか巧妙だ。
疾走感のあるのは、ジャマールとサリクの兄弟の生い立ちの記。緊張感があるのは、ジャマールが「クイズ$ミリオネア」で解答する部分。そして、ジャマールが警察で尋問を受けるパートが挟まれる。この3つのパートが進行し、クイズに至るまでの過去が明らかになる。冒頭でのスラム生活をする子供たちと、クイズに答える現在と、そのギャップはいかにして埋められるか。さて、お立ち会い、というところだね。
日本の映画でよくあるんだけど、恋人同士が散歩したり空をながめたりラジオを聴いたり煙草を吸ったり酒を飲んだり、これってストーリーの本質にどういう関係があるんだ? というような、どうでもいいシーンを延々撮ってだらだら写しているようなことがほとんどないのだよね。それぞれにちゃんと意味がある。そして、やたら言葉で説明したりしない。ちゃんとアクションと映像で状況や展開を見せている。こういう、ムダをそぎ落としながらちゃんとつたわる映画を、日本映画でもつくって欲しいものだと、つくづく思うね。
映画にはとくにメッセージはないように思う。インドの貧困を訴えるわけでもない。愛の確かさを謳うわけでもない。大人たちのずるさをあげつらうわけでもない。娯楽映画として見て、面白い映画になっている。それが、いいんじゃないだろうか。
インド、ムンバイスラム。兄弟はインドでは少数派のムスリム。ヒンドゥー教徒に襲われ、母親が死んでしまう(こんなことが平気で起こるのか? オーバーに描いていないのか)。兄弟は孤児の少女ラティカを仲間に入れて泥棒生活。物乞いの親方に目をつぶされかかるところを逃走(てまでもこんななのか?)。逃げ遅れた少女は捕をおいて、兄弟は電車ただ乗りでタージマハルへたどり着き、観光客相手のガイドをしつつ泥棒生活・・・。なんともたくましい。金が貯まると兄弟はムンバイへ戻ってラティカを救い出す。けれど、ラティカを手土産に兄サリームはヤクザに弟子入り。弟ジャマールは追い出されてしまう・・・。というのが、過去の流れ。雰囲気は「シティ・オブ・ゴッド」を連想させる。
流れるように進み、ついつい見入ってしまう。のだけれど、見終わって思うのは、この間にジャマールとラティカが相思相愛になっていた、というのはちょっと説得力が足りないかも。それに、ちゃらんぽらんな兄サリームがヤクザになるのはいいけど、弟を簡単に捨ててしまうというのもね。さらに、ラストに関係するけど、サリームがヤクザの元からラティカを逃がしてやり、自分は仲間に撃ち殺されるのをよしとする態度になるのが、かなり唐突。ここはもう少し「なるほど」という話を挟み込むべきだと思う。殺されるのを覚悟でラティカを逃がすなら、はじめからそんなことをするな、ということになる。それに、自分も逃げることだってできたはずなのだから。もう、生きていてもしょうがない、という気持ちになったことを表現しないとね。
で、ラストシーンはジャマールとサリームのキスシーンでストップモーション。ハッピーエンドだけれど、このあと2人が幸せになれたかどうか、ちょっと心許ない気がする。1ルピー=約2円らしいので、手にした資産は4000万円。インドなら数億円の価値があるんだろう。でも、それで働く意欲を失ったらもともこもないしね。お金より大事なものがある、というようなメッセージもないし。ううむ。
最後にインド映画でお決まりの集団踊りがオマケに付くのはご愛敬。それにしても、ハリウッドは「硫黄島からの手紙」もそうだったけれど、米国人が登場しない映画を平気でつくるようになったのだね。こんな映画、フツーのアメリカ人は見ないよなあ。きっと。
そうそう。クイズで出されていた問題は、そんなに難しくなかったね。もちろん、インド国内の問題はさっぱり分からなかったけれど、インド人なら分かってもおかしくないレベルではないの。とくに、2000万ルピーがかかった最後の問題なんて、小説好きな日本人なら大概わかるようなレベルだったよなあ。
画家と庭師とカンパーニュ4/28ギンレイホール監督/ジャン・ベッケル脚本/ジャン・ベッケル、ジャン・コスモ、ジャック・モネ
原題は"Dialogue avec mon jardinier"。カンパーニュとは「田舎」および「田舎のパン」のことを指すらしい。本編の主人公キャンバスは画家、ジャルダンは庭師。小学校の同級生だ。画家は美術学校をでて画家に。ジャルダンは国鉄職員を辞めて庭師家業で暮らしている。画家の母親が亡くなり、田舎の家をアトリエにしようと戻ってきて2人は雇用主と庭師という関係で邂逅する。・・・以下のストーリーは単調でドラチックはあんまりない。よくあるほのぼのフランス映画のタッチで、どこかで見たことのあるような気もする、そんな、お話。画家として立身出世し、都会で浮気し放題の男が田舎に戻ってきて、昔の人情にふれる、というスタイルは、「ニューシネマ・パラダイス」(イタリア映画だけど)を思わせる。
学はないが思っていることをズバズバいうジャルダンが、次第に画家の心を捉えていく過程は興味深い。たとえば、北野武の絵画や画家を語った「アキレスと亀」。あの映画では情報が露骨に出てき過ぎていて、表現と呼べるほど映像がこなれていなかった。一方、本作では「一般人にとって絵画とは何か」という隠れテーマがちゃんとメッセージとして表現されている。素材をいかに料理するかの手腕が、北野映画ではまだまだ生硬すぎて物足りない、と再認識したりした。
画家は、評論家の言うことなんかジャマだと思っている。自分の思い通りに描けば、お客は喜ぶ、と思っている。そして、自分の描いた絵ならみんな喜んで欲しがると思っている。けれど、「やるよ」といってもジャルダンは、「お前の描いた絵だからいいものだと思う。でも、家に飾るとなるとどうかな。それに、奥さんの意見も聞いてみなくちゃ」と婉曲に断るのだ。そうして、「俺にも分かるような絵を描いてくれよ」というジャルダンの願いに、最後に(つまり、ジャルダンの死後に)応える。その個展には、ジャルダンが履いていた長靴、ジャルダンが「もっていると便利だ」といっていたナイフとひも、大きなカボチャなんかが描かれ、展示されていた。万人に分かる絵ばかりが必ずしもいいとは思わないけれど、意味不明の抽象画の裏を読んで悦に入っている評論家が評価するような絵よりは、よっぽどましだ、ってことなんだろうね。
ジャルダンの奥さんは、アルジェリア人だ。どういう経過で結婚したのか知らないけれど、フランスという国家の歴史とは無縁ではないはず。妻を「奥さん」と他人行儀に呼ぶ裏には、いろんなことがあったんだろうな、と想像させる設定だ。画家の方は、有名人。離婚間近の妻は美人だし、友人知人も多い。ジャルダンの娘婿が失業している、と聞くと、電話一本で職を世話してしまう。モデルとの関係も活発だし、自由奔放。真面目一本槍のジャルダンとは大違いだ。こういう2人の対比は、この手の映画によくある設定で珍しくなく、安心して見ていられる気がする。もっとも、その分、見慣れているので退屈、ということでもあるのだけれどね。
この映画では、感動を深くしようという魂胆か、ジャルダンの病がひどくなり、最後には死んでしまうということになっている。でも、そこまでしなくてもよかったんじゃないの? という気もする。病気が回復し、その快気祝いの個展でジャルダン好みの絵を展示する、でもよかったんじゃないかと思ったりする。そうして、元気になったジャルダンを連れて、夜の街に繰り出す・・・ジャルダンは"奥さん"に申し訳なさそうに、でも、若い娘との交流に心を躍らせる、ぐらいにはじけても、面白かったんじゃないのかな、と思ったりした。ま、ジャルダンは実直のままでいい、という意見もあるだろうけどね。
ラースと、その彼女4/28ギンレイホール監督/クレイグ・ギレスピー脚本/ナンシー・オリヴァー
原題は"Lars and the Real Girl"。ひろい意味でのおとぎ話なんだけど、ファンタジーにせず、マジな描写で通している。そのせいで、ラースのエキセントリックさや、それを受け入れる街の人々の態度が「ありえねー」と思えてくるんだけど、その違和感がちょっと心地よい。
主人公のラースは27歳。生まれたとき母親が死んでしまい、父親に育てられた。兄がいるのだけれど、陰気で無口な父親を嫌い、さっさと家を出てしまったので、兄弟愛にも飢えている。その影響なのか、愛情を向ける方向がズレてしまった。なんと、ネット通販でダッチワイフを購入し、ビビアンと名付けて友だち扱いするようになった。人間のように話しかけ、教会や集まりにも連れていくようになった。しかも、ラースにはビビアンの声が聞こえるらしい。
こういう設定で観客を納得させるのは、難しい。大概はファンタジーの衣をまとう。しかし、あえてそうすることなく、最初はリアルを前面に出していく。兄夫婦は弟を気が違ったと思い、精神科に連れていく。もっとも、病気なのはビビアンだ、ということにして。街の人々も恐る恐るラースを見る。でも、そこに疎外や嫌悪が描かれない。遠巻きにしてながめる程度なのだ。だれも異端児としてのラースに攻撃的にならないという程度の距離間が、この映画をなんとか「ファンタジーかも知れない」と観客に思わせ、ちょっと変な映画だけどなんとなく分かる気がする、と納得させてしまう所以かも知れない。
ラースはビビアンを教会に連れていく。反対者もいたけれど、ある婆さんが「人形を可愛がるのは、犬に着物を着せたりするのと同じじゃないの」といって説得してしまう。ラースの会社の同僚にも、フィギュアおたくがいたりする。ラースに好意をもつ同僚の娘も、テディベアを分身のように可愛がっている。犬やフィギュア、テディベアを、ダッチワイフと同列にするな、という人もいるかも知れないけれど、よーく考えてみると、同じようなことだよな、と分かってくる。可愛がっている人形が等身大になり、たまたま性器もついているというだけで、人々のラースを見る目は異物を見るようなことになってくる。でも、それは偏見でしかない。性的なものを汚らわしいものとして隔離し、見えないようにしているというだけで、実は誰しもが潜在的にラースと同じ欲望をもっていたりする、のに、である。
もちろん、生身の人間に対することができないラースには、病的な部分がある。しかしそれは、自分が誕生するときに自分が母親を殺してしまった、という負い目を持つが故の適応障害なのだろう。本来なら母親の乳房に甘え、肌と肌とを触れあわせることで克服・獲得したであろう女性への愛情表見をできずにいるだけなのだ。母親へのコンプレックスを、ダッチワイフに投影してしまった、というようなことなのだろう。ビビアンに関する以外ラースはほぼ普通の人間だし、会社にも勤めていて社会生活にも問題ない。それが、ラースが病気ではないということの証明だ。
実際、映画はラース自身がビビアンを病気にし、死んだことにする、という段階を経て、隠されていたマザーコンプレックスを克服していく。そして、次第に同僚の女の子に人間的な興味を抱きはじめ、それまで近寄りもしなかったのがチラチラ視線を送るようになっていく。このあたりの、男の子としての通過儀礼を経ていく様子は、映画の中でちゃんと説明されていて、その意味では解説しすぎな部分もあるけれど、心理学的な裏付けをとりながらのシナリオづくりだったのではないかと思わせる。
それにしても、街の人々はラースにやさしい。教会でも街中でも、温かく迎え入れてくれる。医者は親身になってビビアンを診察し、ビビアンが危篤に陥ると救急車で病院に連れていき、入院までさせる。これが、もう、"ごっこ"には見えなくなるから不思議だ。そして、臨終。ラースの家の入口には、街中の人からの花や蝋燭が置かれている。うるうるしてしまうシーンだ。
兄も兄嫁も、ちょっとおかしくなった弟のことをごく自然に街の人に話し、相談に乗ってもらえる環境がある、と描いていることが素晴らしい。フツーのアメリカ映画の殺伐とした様子からは、ちょっと想像できない人間の豊かさが、美しく描かれているではないか。
というわけでこの映画は、本来は少年が口唇期を経て一人前の男になる過程を、27歳という青年の年齢になってやっと実現できた、という話をちょっとコミカルに描いたものだと考えてよいのではないだろうか。ラースが母屋に住まず、ガレージを改造して住んでいる、ということは、まだ彼が幼児の状態から抜け出せていないことを表している記号のひとつだと思う。
今度の日曜日に4/30新宿武蔵野館2監督/けんもち聡脚本/けんもち聡
たいしたことは語っていない。だから中味は薄いんだけど、なぜか爽やかな後味が悪くない。
韓国人が日本の大学へ映像技術を学びに留学、しかも、信州の大学へ・・・っていう、設定としては「ええっ?」な感じの物語。それほど日本の技術が高いわけでもなく、まして、なぜに信州? でもま、映画だから、いいか。
チェ・ソラ(ユンナ)は、男の先輩を慕い、先輩の後を追うように日本にやってくる。ところが先輩は入れ違いに韓国に戻っていた。で、ひとり日本生活を続けるのだけれど、課題のテーマ「興味の行方」を仕上げなくちゃならなくなって、たまたま気になった学校の用務員・松元(市川染五郎)さんに接近する、という話。
先輩とのエピソードは尻切れトンボで、意味なく先輩をどんどん不幸にしていくというかなりテキトーなシナリオなんだけど、まあ、ソラと松元さんとの話が主、と考えればいいのかな、とも思えてくる。それにしても、先輩の末路はちょっと可哀想。なんとかしてあげられなかったのか、と思ったりする。
こういった瑕疵を補ってあまりあるのが、ユンナの自然体な演技かも知れない。彼女はとくに美人でもない。ちょっと太めの女の子だ。あと4、5年もすればフツーの韓国オバサンへの入口を突き進むような気もしないでもない。でも、誰からも愛されるであろう人のよさ、懸命さなんかが、ごく自然につたわってくるのだよね。いま、輝いているこの時だからこそ表現できる少女から女への転換期の一瞬を、活き活きと演じているように思えた。
染五郎のちょっととぼけた感じのオヤジも、なかなかいい。実年齢36歳らしいが、歳を取りすぎず、かといってもう若くもない中途半端な年齢の存在を、面白く演じている。
この2人の、ひょっとしたらコミカルにしてしまいがちな話を、そこそこシリアスに進めていく。しかも、ソラが松元さんに接近するのはかなり時間がたってからのことで、それまでのあれやこれやのエピソードを念入りに仕込んでおいて、の2人の交流は、なかなかユニーク。もちろんそこに恋心が介入することもなく、ちょっと一線を保ちながらの関係がまたいい。
松元さんが朝は新聞配達、昼は用務員、夜はピザ屋の店員と働かなくてはならない理由も、次第に分かってくる。その松元さんを映像化することをテーマに、あれこれ注文をだすソラだけど、決して焦らない。焦らず、松元さんのペースに合わせようとする。その、ちょっとひと息はいるぐらいののんびりしたテンポが、なぜか心地よかった。
ただし、後半でちょっと「?」もある。
ソラの様子が変だ、とソラの女友達から聞いて、松元さんはソラの部屋を訪れる。ソラは、割ってしまったガラスビンを接着剤で直そうとしている。松元さんがドアを叩いても、出ようともしない。ここの件が、ちょっとちょっとズレている。だってソラは先輩が交通事故でなくなったことを嘆き悲しんでいるはず。しかし、松元さんはそれを知らない。やっとドアを開けたソラの手に血。ソラはビンを割ったと告げる。松元さんは、残っていたビンを割る。たかがビンのせいでソラが嘆き悲しんでいるのを見ていられなかったからだ。でも、ソラが悲しんでいたのは、ビンのことなんかじゃないはず。だから、あのあと2人がわずかの時間路上で抱き合っていても、「お前ら、勘違いしているだけだよ」と言いたくなってしまった。
その後、12月23日にソラは教師(竹中直人)と保育園の慰問に行く。その後、松元さんの部屋に寄ってみると、松元さんはすでに部屋を出ていた。この別れがちょい強引かな。松元さんが出ていく理由が分からないのだから。それから、ガラスビンと一緒に置いてあったマフラーは、あれはいったい、何なのだ? ソラが松元さんに貸したマフラー? でも、貸すシーンがないので、よく分からなかったそ。
ソラが松元さんの衣類を洗濯してやるのだけれど、家財道具が一切ないのに、なぜに衣類だけあんなにあるのだ? 一方のソラは、いつも同じ服しか着ていないのがとても気になった。
それにしても、松元さんは、どこへ転居していったんだろう。借金返済のメドはついたのか? それとも、借金取りに追われて? ちょっと心配。
ソラが撮っていた松元さん主演の映画は、エンドロールに出てくるのだけれど、なんか、あまり映画になっていない。だから、ちょっと物足りない。もう少し、何とかできなかったのかね。
細かなことだが、最初の方で松本に向かう電車のガタンガタンという音が、メロディになっていた。あれは、故意にそうしたのかな?

 
 

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