2009年5月

バーン・アフター・リーディング5/1MOVIX亀有シアター6監督/イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン脚本/イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン
原題は"Burn After Reading"。予告編ではブラピのおバカシーンが目立ってて、単なるバカ映画かと思ってた。
1人の女が全身整形をしたい、と思ったことから話が広がり、もともと亀裂が入りかけていた夫婦を完全にバラバラにし、彼女の同僚男性2には不幸が訪れる。なんともズッコケたドタバタ。でも、単なるバカ映画ではなく、かなりブラックが込められている。で、監督を見たらコーエン兄弟の映画。なるほどね。
連邦保安官の亭主(ジョージ・クルーニー)に童話作家の妻。CIAを辞めたばかりの情報員(ジョン・マルコビッチ)と、女医(ティルダ・スウィントン)の夫婦。2組の夫婦は知り合い同士。でも、クルーニーとスウィントンは不倫中。さらに、クルーニーは出会い系サイトで知り合った女とヤルのが趣味。マルコビッチはCIA憎しと暴露本を執筆中。妻のスウィントンは離婚を計画中。・・・なのだけれど、マルコビッチが原稿のCTをフィットネスクラブに忘れて。それを拾ったクラブのオバサン(フランシス・マクドーマンド)と同僚(ブラッド・ピット)が、これ幸いにとマルコビッチをゆする・・・。その顛末だ。
マクドーマンドがゆすりを発案したのは、金のため。全身整形したいけど保険は下りない。では、ゆすり取ろう、という単純な発想。軽薄オヤジのブラピは、彼女に引っ張り込まれる設定。彼女は最後まで自分がしでかしたあれやこれやについて知らないまま、っていうのがおかしい。
ゆする2人はかなりのトンマで、売り込もうとする情報に価値がないことに気づいていない。ブラピはマクドーマンドにいいように引っ張り回されるだけ。クルーニーも妻に捨てられ、最後は国外逃亡。マルコビッチも離婚寸前だったけど、最後は警察沙汰に。映画が終わってみれば女はしぶとく生き残っているのに、男たちと来たら撃たれて死んだり意識不明医だったり外国に逃亡したり、ざまあない。CIAや連邦保安官なんていっても、現実はこんなモノ、みたいなところもあったりして、かなりおちょくられている。
複雑な人間関係が次第に分かっていく過程も面白いのだけれど、どーもヤマ場というようなのがなくて、いまひとつ盛り上がりに欠けるかなあ。コーエン兄弟の映画とか、クルーニーが手がける映画には、なるほどよくできている、というような構成の話があるけれど、巧妙なだけで何も残らない、あるいは、すぐ忘れてしまう、というような話が少なくない。これも、そんな映画のひとつだと思う。いまひとつ、ガツン、というところがないのだよね。
マクドーマンドの上司で、昔、ロシア正教会の神父をしていた、という人物が登場する。かれは、ひそかに彼女に好意を持っている。全身整形なんてしなくてもいい、いまのままでいい、と思っている。でも、50凸凹の彼女は、整形が不可欠と思い込んでいる。その彼女のために、最後は一肌脱ぐんだけど、思わぬ結果になってしまう。なんか、男って哀れだなあ、と思ってしまう。ブラピもあっけなく死んじゃうんだけど(「パルプフィクション」のトラボルタを連想してしまったよ。それにしても、ブラピはクルーニーに撃たれたの? ブラピが暴発させたの? どっちなんだろ? それから、マルコビッチがカフェでハナしているとき、プリンストン大からの召喚状だ、といって書類を渡されるのだけれど、あれは何だったんだろう?
レイン・フォール/雨の牙5/7新宿ミラノ2監督/マックス・マニックス脚本/マックス・マニックス
原作はむかし読んでる。けど、渋谷道玄坂の果物屋に入っていくところと、地下鉄の中でペースメーカーを乱すところぐらいしか覚えていない。今回、見ていても、かつてのストーリーが蘇ってくることはなかった。
正直いってつまらなかった。話のもって行き方が単調というか芸がなくて、10分もしたら飽きてきてしまった。だらだら見ていたけれど、30分も過ぎたら眠くなり、1時間目あたりで寝てしまった。はっ、と気づくと椎名桔平が果物屋の冷蔵ケース天井からカードメモリを取り外すシーンだった。あとはちゃんと見たんだけど、どーもストーリーも判然としないまま。これは、眠っていた性もあるだろうけれど、脚本が下手くそなせいもあるんじゃなかろうか。
その大きな理由のひとつが、主人公ジョン・レイン(椎名桔平)にリアリティがないことだ。ヤバイ仕事を引き受け、実行するジョン・レイン。その彼が、CIAの単純な罠にはまってしまった、っていう話だと思うんだけど、それってあまりにもバカすぎない? しかも、銃を持って都内をうろついているのに、素顔のままなんだぜ。喫茶店に入ったり電車に乗ったり、堂々としすぎ。いくらなんでも、それはないだろ。
話のいい加減さも目に余る。携帯を近づけたぐらいでペースメーカーは狂わない、というのがいまや常識。しかも、衆人環視どころかCIAに囲まれた車内でコトを成し遂げられる、というのは映像化するとかなりムリがある。殺された官僚の家にレインが忍び込む。娘(妹の方)がシャワーを浴びている。ヤクザらしい2人連れが娘を襲おうとしている。それをレインが助ける。そこにCIAのチームが2つほど入ってくる。これも、難なくやっつけてしまう。・・・と、こんな大騒動がありながら、ヤクザの2人連れはちゃんと逃げ帰っている。もちろん、レインも。しかし、CIAはどうやってレインの動向を知ったのだ? そんな調査力があると分かっているのだから、レインはもっとお忍びの行動をするべきだろなあ。さらに、高級官僚の娘たちを守ろうとするのには、どういう意味があるのか?
というように、なんか、ちょっとあり得ないだろう、というような描写がつづき、飽き飽きしてきてしまうのだよ。
で、レインを雇ったのは実はCIAで、というのが最後の方に明かされるのだけれど、CIAはそんな手間をかけなくても、もてる人員を駆使すれば難なく高級官僚を始末できただろうし、カードメモリだって手に入れられたんじゃないの? いや、そもそも、CIAは高級官僚が握っている秘密を入手し、米国が日本を自由にコントロールしたい、らしいのだけれど、その情報というのが、しょぼい。日本はアメリカの数倍もの公共事業を発注し、業者と癒着している・・・ということなんだってさ。そんなの、日本人なら誰でも知っているし、証拠データだっていくらもある。そんなものをCIAに握られたって、日本政府は屁とも思わないだろう。そんなもののために何人もの男たちが命をかける。アホとしか思えない話だ。
レインと官僚の娘(姉・長谷川京子)の淡い恋のようなものも描かれているけれど、これは完全につけたし。CIAのスタッフに清水美砂もいるけれど、ぜーんぜんフィーチャーされていない。人間の使い方も下手くそ。それに、描かれる東京がなんとなく古臭くて魅力がない。寝てしまった部分をもう一度見よう、という気にもなれなかった。
大阪ハムレット5/8ギンレイホール監督/光石冨士朗脚本/伊藤秀裕、江良至
うーむ。焦点ボケしてて、中途半端だね。感情移入できるキャラも登場してこなかったし。お店を広げすぎて、収拾がつかなくなった感がある。マンガが原作らしいが、消化し切れていないのではないのかな。
父(間寛平)が死んだ。葬儀の最中、父の弟(岸部一徳)が突然やってくる。3人の子供たちには初対面の男。当日から叔父は一緒に住み始める。母(松坂慶子/昼は看護婦、夜はスナックでバイト)は何の違和感もなく叔父を迎え入れ、奇妙な同居生活が始まる。しかし、なぜ母は叔父を同居させるのか。叔父はなぜ同居するのか。その理由がまったく説明なく説得力がない。
長男は高校受験生。たまたま街で会った女性(教育実習中の大学生)に大学生と思い込まれ、つき合うようになる。彼女の母は再婚で、彼女は連れ子だった。彼女を可愛がる義父に、母が嫉妬。なのでファザコンになってしまったという設定。なので、彼女は長男に、彼氏ではなく父親の役割を期待する。実は、長男も弟2人とは父違いらしい。・・・という、長男のエピソードはちょっと面白かった。
次男はツッパリ中学生。教師に「君はハムレットみたい」といわれたのを「ハムスターみたい」と言われたと勘違いし、教師を脅す。が、真実を知り、図書館で「ハムレット」を借り出して辞書を引きつつ読み始める。これが、タイトルのいわれらしい。ま、その前に、この一家の設定が「ハムレット」に似ているらしいが、「ハムレット」を知らないのでピンとこない。しかし、ツッパリがシェークスピアを読み始める動機としては、説得力のないエピソードだと思う。そんなんで、本なんか読まないと絶対に思う。次男は、「ハムレット」に関する狂言まわしに使われるだけで、ほとんど意味がない。ケンカ仇も登場するけど、たんにいがみ合っているだけで、他に何の意味もない。
三男は、女装願望・性転換願望を持ち、公言してはばからない。母の妹(本上まなみ)が末期がんで入院中で、彼女を強く慕っていた。学芸会で「シンデレラ」を上演することになり、ヒロインを演じることになる。同級生で宝塚志願の女子が王子を演じるという逆説もある。エピソードとして、あまり面白くない。
というような塩梅で、何を描こうとしているのか、よくわからないところが大部分。子供3人に関しては、眼前の課題を克服する、というような設定になってはいるけれど、ちゃんと克服しているのかどうか、なんか怪しい。長男は、7歳ぐらい年上の女性とこれからつきあえるか。父親の役割を演じられるか。というところが鍵なのに、映画はそれにちゃんと応えていない。次男については、そもそも乗り越える課題がない。三男も、彼本人が超えるというより、少尉が認めるか否かという話になってしまっている。
長男と女子大生がつきあい始めたとき。女子大生が自分の家庭環境を延々とセリフで説明してしまうシーンがある。これが象徴するように、この映画は絵でみせることをせず、セリフで説明してしまう傾向がつよい。こんなのは映画ではない。ついでにいうと、彼女が東京に向かって出発する日、長男は彼女を負ぶって歩いていく。でも、彼女がスカートなのはよくない。駅のホームで、彼女の太腿が見えてしまっている。なぜスラックスにしなかったのか、疑問だね。
三男の学芸会のシーン。観客席から「キモイ」の声が飛ぶ。それで三男は調子を崩すのだが、ダンスのシーンの後では観客席から「よくなってきたわね」の声がする。おいおい。ダンスのどこに観客を納得させるモノがあったんだ? ないぞ。このシーンなども、セリフで強引にオカマを納得させてしまう部分。ぜーんぜん説得力がない。そもそも、野次を飛ばす子供など、教師が叱りつければいいのに、そういうこともしないのが変。
得体の知れない叔父は、何のために登場するのだろう? まったくわからない。だから、叔父が「みんな一緒に住んでいるのだから」と同じデザインの財布やTシャツを買ってくるというのも、意味が分からない。まして、三男の学芸会があるからと仕事(工事現場の交通整理)を辞めてしまうというのも、理解不能。そんなに家族がかわいいのかい? って、お前の家族じゃないんだろ? お前には家族はないのか? などといらついてしまう。
で。母が4人目の子供を妊娠するのだけれど、これは父親が死ぬ前に残していったものかと思っていたのだけれど、どーもそうではないらしい。子供たちも、本音では知りたいのに、母に聞けないでいる。叔父の子供なのか? では、母と叔父はそうしう関係なのか。でも、そういう関係であれば、もっと子供たちへの影響は大きく、子供たちにはショックであると思うのだけれど、そういう部分はスルーしてしまう。なんか、いい加減な気がする。
ビデオ撮りなんだけど、それが露骨に分かる部分が多くて、映画としての情緒に欠けるところがある。もうちょい画調には気を使ってもらいたいものだ。それから、大阪弁が聞き取れないところも多かった。とくに、風呂場で次男が暴れるところ、ほとんど分からなかった。
デュプリシティ 〜スパイは、スパイに嘘をつく〜5/8新宿武蔵野館1監督/トニー・ギルロイ脚本/トニー・ギルロイ
原題は"Duplicity"。元CIAのジュリア・ロバーツ、元M16のクライヴ・オーウェン。この2人が産業スパイになって、ライバル会社の新商品情報を手に入れようとするクライム・・・なんだけど、サスペンスはなくてロマンスが大きなウェイトを占めている。お陰で映画はとても退屈なものになってしまった。それにしても、邦題サブタイトルがすでにしてネタバレっていうのが、ひどすぎる。
冒頭でM16のクライヴがCIAのジュリアにしてやられる5年前の出来事が紹介される。クライヴがジュリアをナンパ(なのかな? 当初からスパイ合戦だったのか?)して一発やったはいいいけれど、クライヴは眠り薬か何かで眠らされ、情報を奪われてしまった・・・というようなもの。のちにそのときの経緯をジュリアが話すシーンがあるんだけど、よく理解できず。昨今のこの手の映画は漢字が多く、字幕の文字を少なくしようとしているせいで、ニュアンスまでつたわる表現になっていないことがよくある。昨日も「クリミナル」という、最後にドンデンのある詐欺犯罪ものをビデオでみていたんだけど、途中に何度もストップしては字幕を何度も読み直すことが多かった。それでも理解不能な部分は残る。翻訳者がほんとうに意味を理解して字幕をつくっているのか、疑問に思ってしまうほどだ。
それはさておき。一企業があんなに情報担当者、それも元は国家で働いていたような連中を雇っているのか? 映画なりの脚色なのか? どっちなんだろ。で。A社とB社はライバル関係。ジュリアはA社に雇われ、B社の情報担当として潜入。クライヴは2週間前にA社の情報担当として採用され、このたびのプロジェクトに参加した。・・・という設定。つまり、A社の視点からB社の企業秘密を入手する、わけだ。ところが、ジュリアはクライヴの参入を知らず、クライヴはジュリアがB社に潜入していることを知らない。2人は5年ぶりに再会する。・・・という設定で話が始まる。ところが、しばらくして「2年前」の場面が回顧され、ローマで2人は邂逅していることが知らされる。ここで、観客は「な、なんだ?」と疑問に思うことになる。「なーんだ。5年ぶりじゃなくて2年ぶりだったんじゃないか」と。ところが、現在のドラマの進行とともに、2年前から数ヵ月おきに2人は連絡をとっていたことが分かってくる。「いったい何なんだ?」と観客は戸惑いを深くする。しかも、回顧シーンのほとんどは2人のロマンスばかり。せいぜいジュリアが、CIAより企業の方が金になる、とかいってクライヴに「M16を辞めたら?」とそそのかし、ほんとうに辞めてしまうという過程ぐらいのものだ。
この映画の最大の欠点は、この、回顧シーンの多さだと思う。回顧にほとんど意味がなく、ロマンスシーンを増やすためだけに挿入されているとしか思えない。しかも、現在のスパイ合戦のテンポと密度が薄まって、ぜんぜんスリリングでなくなってしまっている。回顧シーンは後半あたりに1回か、または、ラストシーン近くから2年前にもどって、実は・・・とバラしたほうがよかったような気がする。
で。B社の新商品が毛生え薬っていうのは、なんとなく想像がついたんだけど、大がかりなスパイ合戦の割りに話がしょぼ過ぎる気がする。いや、毛生え薬はノーベル賞以上の大発明かも知れないけど、なくたってなくたってどうでもいい発明だ。国家的危機や安全には何の関係もない。そんなことのために情報活動しているなんて、なんか、ままごとみたいに思えてきてしまうのだ。
そして、次第に分かってくるんだけど、ジュリアとクライヴは示し合わせてA社に入社し、この一件でB社の企業秘密をかすめ取ろうとしていたようだ。つまり、「5年ぶりに再会」というのは、2人の会話を盗聴しているだろう仲間に対する攪乱の意味があった、ということ。それにしても、ロマンス部分で触れられる2人の関係も、互いに牽制し合っているようにも見えるし、その牽制自体もカモフラージュのように見えたりして、いまひとつスッキリしない。ラストはちょっとしたドンデンで、A社のオバサン諜報部員が実はB社のスパイというもので、本来は驚かなきゃいけないのかも知れないけれど、延々とつまらない物語を見せられて飽き飽きしていたのでビックリもできない。というか、サブタイトルでバラしてるだろ、すでに。
というわけで、クライム部分にロマンスがサンドイッチされて、どっちつかずのしまりのない映画になってしまったような気がする。ジュリア・ロバーツ自身に魅力がある時代ならともかく、40も過ぎればもう恋物語はムリなお年頃。肌も汚くなっているし、彼女の顔もちょっと醜く映されているような気がする。
グラン・トリノ5/12上野東急2監督/クリント・イーストウッド脚本/ニック・シェンク
原題は"Gran Torino"。老兵はいまだ死なず。しかし、いま死に場所を見つけた。そんな感じの映画。
最近はやたらと非アメリカ人を取り上げるイーストウッドだけれど、今回はモン族とかいうラオス、中国、タイあたりにまたがる民族が登場する。それだけではない。移民のオンパレードだ。隣には件のモン族。ベトナム戦争後、共産勢力から逃げてアメリカにやってきたらしい。そのモン族のチンピラは、メキシコ人のチンピラと対立している。さらに、黒人のチンピラたちがいる。主人公コワルスキー(イーストウッド)はポーランド移民。行きつけの床屋はイタリア移民。知り合いの建設業者はアイルランド移民と、アメリカが移民の国であることを思い知らされる。WASPじゃなく、肉体労働者ばかりだ。それでも移民間でのヒエラルキーがあるんだろう。コワルスキーは隣家のモン族の連中を"米食い虫"とバカにし、毛嫌いしている。
モン族の連中がアメリカにやってきたのも、そもそも米国がベトナムに深く関わったことが原因だ。メキシコ人が越境してくるのも、アメリカとの経済格差が無縁ではない。遡れば黒人奴隷がある。すべて、米国がまいた種、でもある。そのツケが、いま、コワルスキーの周辺にも及んでいる、ってことでもあるんだろう。おそらく、入居したときは中流白人が多く住んでいたであろう住宅地。そこには、中国人を始めとする米を食べるアジアばかりが住むようになった。でも、コワルスキーは、そこから出ていこうともしない。世界一の自動車産業を誇った過去の栄光から抜け出せず、グラン・トリノを後生大事に磨いている。家庭内の修理も自分でしてしまう。なんでも人任せの現代とは真逆の男だ。
コワルスキーは、チャラい孫たちや、自分を老人ホームに入れようとする息子夫婦たちに苛ついている。フォードの熟練工として勤め上げた彼は、息子が日本車に乗っているのにもムカついている。若造の神父にもむかついている。なにからなにまでいらついている。そんな頑固一徹のジジイだ。昔はよかった、とでも言うようにね。それが、モン族のチンピラから隣家の少年タオを助けたり、その姉のスーが黒人チンピラに囲まれているところを救ったりして交流が始まり、ホームパーティに行くようになる。その様子は、息子の成長を支える父親のようだ。
この導入部は苦笑がしょっちゅう起こるほど愉快だ。でも、フツーの面白い映画、なんてイーストウッドがつくるはずがない。イーストウッドが間違ってタオを射殺したりするのか? タオがスズメバチに刺されて大事に至るのか? モン族のチンピラにやられるのか? どういう展開が、気が気ではない。
横道に逸れそうになりながら、物語はイーストウッドとモン族のチンピラとの戦いに収斂されていく。チンピラたちがタオをいじめ、そのお返しにコワルスキーがチンピラの一人を殴り倒す。その報復に、チンピラがスーを殴り犯す。チンピラたちは同じ一族で、スーの従兄弟もいるというのに・・・。タオは復讐だといきりたつ。そのタオを地下室に閉じ込め、コワルスキーは一人でチンピラたちの家に向かう・・・。
コワルスキーは、消極的な復讐を遂行する。チンピラたちに発砲せず、発砲させる手段を選択する。それで、チンピラたちを刑務所に送り込む。覚悟の犠牲的精神は、特攻隊のようだ。おそらく不治の病を医師に告げられ、いずれ死ぬなら人(タオやスー)のため、と思ったのだろう。その「人」には、かつて朝鮮戦争で死んでいった仲間や、殺した北朝鮮兵が重なっていることだろう。人を殺して生き延びてきたこと、いままで生かされてきたことを心の重荷にして、年老いてきたのだろう。その命を、人のために使いたい、と思ったに違いない。
もうひとり、コワルスキーが心を開かない相手が、若い神父。学校出たての若造に、なんで懺悔なんかしなくちゃならないんだ。・・・という気持ちはよく分かる。アメリカでも、宗教人口は減っているのだろうか。
そしてこの映画は、人種や民族、国民性などで人間を区別できないことを教えている。同じモン族にも、悪いやつもいればいいやつもいる。と、それだけのことだ、ということだ。
気になったのは、登場人物がやたら唾を吐くこと。あれには何か理由があるのだろうか。
雨が舞う 〜金瓜石 残照〜5/13キネカ大森2監督/林雅行脚本/林雅行
台湾北部・金瓜石にあった金山のドキュメンタリー。日本の植民地時代、日本人監督の下で台湾人が数多く働いていたらしい。初めて知る話なので、興味深く見た。
それにしても、統治者である日本人のことを悪く言う人が圧倒的に少ないのが、気味が悪いほどだ。なかでも面白かったのは、自分を叱ってくれた教師を懐かしくいう老人の話。おもちゃの日本刀で「殺すぞ」なんて遊んでいたら、それを見た教師が駆けつけてきて、「君が人を殺したらどんなことになるか。それを考えなさい」と涙を流して言い、さらに「そんなことをしているぐらいだからヒマなんだろう。うちに子供がいるから、その子供を面倒見ろ」と言われたという。いまなら、そんな悪いやつに自分の子供を見させたりしない。それをあの先生はやってくれた。あれは立派な教育だ。・・・と、懐かしく、感心したように語る。ふーん。日本人は台湾人をこき使っただけじゃなくて、ちゃんと心に残ることもしているのだな。他の老人たちも、学校や会社で、日本人は厳しかったけれど、いろんな思い出がある、と語る。憎しみよりも、懐かしみが多いみたいに思えた。
1人だけ、インテリっぽい婆さんだけが、日本人は台湾人を差別していた、と淡々と語っていた。それは事実なのだろうけれど、他の人たちの語る"あの当時"と、印象が違っている。なんだか、あとから仕入れたデータを語るような口ぶりだった。しかしまあ、すべての台湾人にアンケートを採っているわけではないのだから、本当のところは分からないかも知れないけどね。ほら。そういえば、数カ月前にNHKで放映された台湾人のドキュメントで、日本圧政時代を強調したようななっていたとあちこちからクレームが付いたようだ。インタビューに登場して日本時代を非難した人までが、一部を取り上げているので誤解がある、と言ったという。ほんと、編集の力で何とでもメッセージは変えることができるから、なんでも鵜呑みにしない方がいいのかも。
ほかに驚くのは、神社跡や鳥居、天皇の宿泊予定の建物など、当時の施設や建築などがいまも残されている、というのも不思議だ。これが韓国・朝鮮、中国ならさっさと取り壊しているはずだ。そして、現在は観光地になっている金山には、日本兵に強制的に労働を強いられる中国人の姿、なんていうのが原寸大人形で展示されているはず。でも、台湾にはそういうものはないみたい。なんか、えらい違いだなあ、と思う。
戦後、閉山してからの話もちょっとあるのだけれど、それがとってつけたようなもので、ほとんどがつまらない。テレビ局を辞めてこの地に喫茶店を始めた女性、駄菓子屋のオババ(2階の貸本を見せたかったんだろう、監督は)、当時を懐かしむ日本人の兄弟(何のために登場したのか意味不明)とか、それまでのトーンとは全く違うし、ない方がましなぐらいだ。
さらに、後半でかかる歌謡曲みたいな歌と、エンディングでかかる曲、この2つがいったい何なのかよく分からない。昨今つくられた、ご当地ソングか何かなのか、それとも、映画のための歌なのか。何だか分からないものがいきなり聞こえてくると言うのは、どうも座りが悪い。
バンコック・デンジャラス5/13新宿ミラノ2監督/オキサイド・パン脚本/ジェイソン・リッチマン(オリジナル脚本:オキサイド・パン、ダニー・パン)
原題は"Bangkok Dangerous"。あとから気づいたんだが、これはタイ映画「レイン」の監督による同作のリメイクらしい。へー。すっかり忘れてるよ、「レイン」、見たけど。
非情な殺し屋がタイにやってきて、4つの仕事を仕上げて引退しようという魂胆だ。ところが、非情なはずの殺し屋が、薬屋の唖の娘(といっても、かなりのオバサン顔なのが興ざめ)に恋をする。拾ったチンピラを弟子に取ってしまう。どちらも、殺し屋の掟に反している。・・・という、なんか、日活ニューアクションみたいな話だ。
で、主演のニコラス・ケイジ以外の大半がタイ人。冒頭のプラハのシーンとニュースキャスターに白人系の役者が使われていただけ。最近のスティーブン・セガールは米国からあまりお呼びがかからなくって、こんな感じの外国映画にでているけれど、ニコラス・ケイジも落ちぶれたのか? だって、スタッフロールもほとんどタイ人の名前。で、あとから確認したられっきとしたアメリカ映画で、ニコラス・ケイジ自身がプロデューサーになっていた。おお。じゃ、ケイジが「レイン」を気に入り、その監督にリメイクさせたってわけかい。うーむ。どうせなら舞台をタイにせず、米国本土にすればよかったのに。
え? 本編の内容は、って? とくに驚くような内容はまるでなし。目立たない殺人を心がけてきたのに3人目のターゲットに気づかれ、ボートのチェイスで派手にやっつけるシーンは、「おまえ、それは目立ちすぎだろ」とツッコミを入れたくなった。それに、007シリーズなんかで見慣れたチェイスなので、退屈で、退屈で・・・。それから、唖の彼女とデート中、近くに寄ってきた暴漢(?)を2人射殺してしまう、っていうのも、あり得ない展開ではないの? とツッコミを入れたくなった。
4つめのターゲットは民衆の味方で、ケイジは逡巡。結局、撃てず。さらに、ケイジが捕まったら自分たちもヤバイ、と依頼主がケイジを消しにかかる。しかし、ケイジは是が非でも消さなけりゃならない存在だったのかなあ? で、狙われたケイジは娘と弟子を救うため依頼主のところに乗り込み、最後は依頼主を道連れに自決しちゃう・・・。って、何で逃げないの? だよね。ううむ。アメリカ人の発想じゃないよなあ、あのラストは。なんで自ら死ななくちゃいけないのだ? よく分からん。
夏時間の庭5/18銀座テアトルシネマ監督/オリヴィエ・アサイヤス脚本/オリヴィエ・アサイヤス
原題は"L'heure d'ete"。内容はそんなに重くないし、ぜんぜん複雑でもない。でも、いろいろと考えさせられるものがある映画だ。
年老いた母が死に、田舎の家と美術品が残された。長男、長女、次男はそれをどう受け継ぐか。という話。といっても、残された美術品が半端ではない。なんたって大叔父は画家。本人以外の名品も数多く残され、家具ですらアールデコとしての価値がある。長女はアメリカをベースに活躍する工業デザイナー。次男はアシックス(?)の子会社を中国で運営している。なので、家も骨董品も処分する考え。長男はパリに住んでいるので、本来なら家も絵画も残したい。けれど、相続税だけでも大変。亡母は長男に「家も絵画も売ってよし。管理するだけでも大変」といい残して逝ったけれど、コロー(だっけかな)の大作だけは売りたくない…。が、結局、絵画の大半は美術館に寄託(だったかな?)する。映画を見ていただけでは、何を売って何を寄託し、どの程度のお金が子供たちに入ったのか入らなかったのか、それはよく分からない。でも、税金はかかっていないのだろうと思う。でも、とにかく、家は人手に渡り、絵画は美術館などに収まってしまうことになる。
その過程を見ていると、とても哀しくなる。ひとつは、本来あるべき場所にまとまったカタチで残されず、散逸していくことへの寂しさだ。もうひとつは、自分の祖先が残してくれた者なのに、対して愛着も示さない子供たちに対してだ。もっとも、母親は大叔父と恋仲だったらしいので、母親が示す愛着とは違うと思うけれど、それにしたって、絵画や家など、もっと思い出や愛着があってもいいじゃないかと思ってしまう。このあたりは、日本もフランスも、同じなのだなあと、つくづく考えてしまう。もちろん、先祖が有名人で者を残している家なんて、そうはありはしないだろうけどね。
兄弟3人いて、その2人が海外に拠点を置いているという設定も、すごいなあ。フランス人は、海外志向が強いのか? 長女がデザインした陶器は、日本の高島屋に向けたものだ、といっていたけれど、アメリカを拠点として世界が活躍の場なんだね。芸術の都、なんていうのは、過去の遺物になっちゃっているのかも。
長男は、資金的にも弟や妹に払える金もなし。なくなく家や絵画を手放すのだけれど、のちのち美術館に行って、展示されているテーブルと対面するシーンは、皮肉。それと、誰もその価値を知らず、安物とばっかり思っていた花瓶を使用人に与えてしまう、というエピソードも面白い。そして、仲南の娘が「お婆ちゃんが言ってた。あなたに子供ができたら、ここに連れてくるといいよって」と、人手に渡る直前の家で言うシーンも印象的。どのシーンも目新しいものはないけれど、ゆっくりと丁寧に描かれていく物語には、心に迫るものがある。その人のことは、その人を知る人にしか深く記憶されていかない。そして、記憶も思い出も2世代も経ると風化して、誰も覚えていなくなってしまう。でも、それが当たり前のことなのだ。当たり前のことなのだけれど、なぜか哀しい。かといって、風化するのを止めることはできない。この流れは、これまでも、これからも、人間が生きていくなかでつづいていくのだろうな。
長女役を、ジュリエット・ピノシュ。もう少し思慮深い人間を演じるのかと思いきや、現代的でドライな性格の役だった。最後にドンデンで、家だけは残す、というような終わり方をしたらいいのになあ、という期待は、軽く一蹴されてしまった。ま、それでいいんだけどね、映画としては。
マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと5/22新宿武蔵野館2監督/デヴィッド・フランケル脚本/スコット・フランク、ドン・ルース
原題は"Marley & Me"。題名からくだらないバカコメディ映画かと思い込んでいた。なので、ぜーんぜん期待していなかった。そしたらなんと、まともすぎるぐらいちゃんとした映画だった。あらま。
犬好きな家族のアホな生活、みたいに思っていたのだけれど、そうではないらしい。と分かったのは、オープニングタイトルで原作がある、と出てきたから。しかも、映画の主人公が書いた本で、それが原作になっているみたい。しかも、その主人公は新聞記者だ。なんと、妻もコラムライター。2人は新婚で、当分子供をつくるつもりがない。なので、夫の方が犬を飼おうと考えて、ある子犬を妻にプレゼントする。そこから物語が始まる。
表面的には、飼い主のいうことをきかない、ちょっと腕白な犬に翻弄される2人の物語、なんだけどね。でも、ちゃんと人間の話ができているのだ。夫の方は、記者志望。ところがコラムを書かされるハメになって、困惑する。ためしに犬のことを書いてみたら大うけ。で、フロリダ地方新聞の名物コラムライターにまでなってしまう。妻は、次第に子供が欲しくなってくる。この夫婦のことまで、夫はコラムにしてしまう。そうして、苦労を重ねて第一子誕生。その子供に振りまわされる生活。妻の育児ノイローゼ。妻の機嫌を取る夫・・・。このあたりは、結婚して子供を持ったことのある人なら、そうそう、と納得の物語だろうね。
ある日夫は、旧友に出会う。彼は国際政治記者として世界を飛び回り、トップ記事を飾るスター記者になっている(もっとも、家族はつくらず相変わらず女漁りばかりだけど)。一方の自分は、田舎の新聞のコラムライター。これでいいのか? というわけで心機一転、フィラディルフィア(だっけかな?)の新聞社に、記者として赴く。妻は、2子、3子をさずかり、仕事をあきらめつつ、子育てに充実の日々。でも、夫は長年のコラム生活で私心を捨てた記事が書けなくなっている。そのジレンマに悩んだりするけれど、癒しとなるのは家庭であり、子供たちだ。そして、相変わらずトンマな犬が元気に走り回っている。・・・けれど、だんだん犬は家庭の中心ではなくなってしまっている。
こうした一家の変遷が、とてもうまく描かれていて、しみじみとしてしまう。そのぐらい、この映画はバカではない。ま、ラストは予想通り犬が生涯を終えるところで静かに幕が引かれるのだけれど、泣けるほどに感情移入できないところもちょうどいい。つまりまあ、犬の映画を装いながら、立派に家族の成長の話になっているからだと思う。
犬の名前が、マーリー。なんと、ボブ・マーリーから取っていたとは知らなかった。
少し気になったところ。2人が最初に済んだのはフロリダの一般的な住宅地。ある日、隣の娘が暴漢に襲われる事件が発生する。これで2人はどうしたか。暴漢がやってこない高級住宅地に越したのだ。ちょっとがっかりした。問題を解決することなく、問題に立ち向かうことなく、自分たちだけ安全な地域に逃げただけじゃないか。新聞記者がこれでいいのか? アメリカという地域の事情はあるだろうけれど、なんか合点がいかない話だった。それから、フロリダの新聞社で才能を開花させてもらったのに、他の新聞社から引き合いがあると、さっさとそっちへ移ってしまったことも、日本人からすると、素直に喜べない。アメリカじゃ、会社を移ってステイタスを築いていくのだろうけれど、それでいいのかなあ、と。ま、日本的なセンチメンタリズムだってことは十分に分かっているのだけどね。
バンク・ジョブ5/22ギンレイホール監督/ロジャー・ドナルドソン脚本/ディック・クレメント、イアン・ラ・フレネ
2度目。前回は、冒頭から20分ぐらいの、パラレルに進む複数の設定を埋め込んでいく部分がしっかり理解できなかったので、今度こそは、のつもり。だったはずだったけれど、前回から5ヵ月も経っているので記憶も薄れ、それでも前回よりは理解したつもりなんだけど、完璧に、とまではいかなかった。残念。やっぱり、最初の方はもう少し説明的でもいいのになあなあ、と。それでも、ムダがなく素早いカットでテンポよく進む展開にはほれぼれ。それに、役者がみなはまってるよね。ジェイソン・ステイサムはカッコイイ。サフロン・バロウズは美しい。他の脇役も、みんな個性豊かで目立ってる。貸金庫担当のミック・ジャガーもちゃんと見たぞ。
やっぱりよく分からなかったのは、キプロス人や少佐が誰に何のために殺されたか、だね。彼らが殺されるなら、他の連中だって狙われてもいいはずなのに、そうはなっていない。そこがちょっと気になった。
その土曜日、7時58分5/22ギンレイホール監督/シドニー・ルメット脚本/ケリー・マスターソン
原題は"Before the Devil Knows You're Dead"。エンドクレジットにシドニー・ルメットとあったので、げっ、と思った。まーだ撮ってんのかよ。いくつなんだ? 相当もうろくしてるな。こんなつまんねえ映画を見せやがって。と思いつつ、ギンレイがこれを上映したのは、監督の名前に影響されてるんだろうな、とも思った。
冒頭で、宝石店に泥棒。で、時間を遡って弟の視点で、兄の視点で、父親の視点で、と物語が語られ、全貌が明らかになってくる(最近よくある手法なので珍しくも何ともない)。兄弟の話あたりまではクライムサスペンスにしてはトロいなあ、ぐらいだったんだけど、父親の視点を経て、その後の展開になると話がめろめろ。いつのまにか親子関係のうらみつらみみたいな話になってきて、迷走。しかも、テンポはしだいにゆったりどんよりしてきて、中盤以降は退屈のひと言になってしまう。
些細なことから悪事に手を出し、歯車が狂って転落人生・・・の部分だけなら、まーだ許せる。もっとも、シリアスドラマではなく、コメディにした方がいい内容だとは思うのだけどね。いや、ホントにそう思う。だって、金に困った兄弟が、両親の経営する宝石店に強盗に入ろうとする。計画は兄が、実行は弟が。けど、自信のない弟は友人を誘い、その友人が押し入る。ところが、店にはバイトのおばちゃんがいるはずなのに、その日はたまたま母親がいた! 強盗ごっこで両親から金を奪おうとしたのに、友人は死に、母親は意識不明。これって、どうみてもコメディじゃん。
と、同時に、弟や兄が金欠になった理由も少し説明されるのだけれど、これが物足りない。別れた妻に養育費を払うからって、弟はあんなにビンボーになるものか? 麻薬に溺れたからって、兄は架空社員の給料を使い込むほどになるか? 2人とも同じ会社で働いていて、兄は重役らしいし、弟だってちゃんと働いている。なので、かなり説得力に欠ける設定だと思う。
さらに、弟の友人の女房の兄、ってうのが登場し、弟をゆする。それを解決しようと兄が立ち上がり、まずは行きつけの麻薬バーに乗り込み、たまたまいた客と店主を撃ち殺す。さらに、友人の女房の兄も撃ち殺す。なんでこんなに豹変するのだ? 笑っちゃうのは、兄弟で対立している最中、友人の女房に、兄が撃たれてしまうってこと。さらに、すべてを知った父が、兄を病院で殺しちゃうのだけど、ここまでくると、何が何だかコトの因果関係も動機も、すっかり分からなくなってしまう。そんなことまでする必要なんかないじゃん。おかしいんじゃないのか、この監督。と思ったところにシドニー・ルメットの名前がクレジットに! ついにトチ狂ったか、じいさん。だね。
ついでにいっておくと、冒頭で兄が妻とバックで盛り上がっているシーンは、ありゃなんなのだ? あんな後背位のセックスシーンなんか、要らないよな。リオがどうのと言っているけれど、ほんとうにリオに来ているのか、それもよく分からない。だってベッドの中しか写らないのだから。それに、この妻の顔がちゃんと写されるシーンが少なくて、弟の浮気相手が兄の妻だっていうのが、妻が告白するまで気づかなかったよ。やれやれ。
ひょっとしたら、この映画の重要なテーマとなるようなエピソードが、後半開かされる。父が、兄にいう。「期待をかけすぎて悪かった」と。兄は、「期待にそえなくて悪かった」と。なんかよく分からない会話だ。しかし、その兄は、父に可愛がられる弟に嫉妬していたのだ。そして、その理由を「弟の方が外見的に可愛いから」で、「僕はほんとうの子じゃないんじゃないか」と思い込んでいた。そのことを父に言うと、父は兄に平手打ちを食らわせる。このコンプレックスが、兄を麻薬の道に追いやり、罪悪感などないかのように人を殺せる人間になる、っていうことなんだろうか。そんな深読みはできないようなエピソードなんだけど、含みを持たせているに違いない。病院で、機械につながれている兄を容易に窒息死させるシーンを考えても、ひょっとしたら兄の言うとおりなのかも知れない、と思ったりしてしまう。さらに、帰りの車の中で、兄は父親が謝罪したことに動揺してしまっている。なんだかよく分からないシーンだ。
タイトルは、死を悪魔が知る前に、ということだろうけれど、その意味するところがよく分からない。また、邦題の7時58分というのは強盗に入った時間なのかも知れないけれど、映画的にはとくに意味のないものだ。なんでこんなタイトルにしたのか、よく分からない。
天使と悪魔5/25キネカ大森1監督/ロン・ハワード脚本/デヴィッド・コープ、アキヴァ・ゴールズマン
原題は"Angels & Demons"。前作は"謎解き"主体だったが、今回は"追跡=展開"が主体になっている。緻密さに欠ける分、つまらない。「ナショナル・トレジャー」の2作目がレベルダウンしたのと似てる。
まず、イタリアの科学者が"反物質"なるものを完成させるところから物語が始まる。で、この"反物質"って、なんなの? だよね。SFの話じゃなくて、現実にあり得るの? でもって、こういうのをイタリアの科学力でなし得るの? という疑問がわき上がってくる。>> Wikiを見たらあった。けど、爆発するとかいう話は載っていなかった。
その反物質が盗まれるのだが、盗人はある学者の目玉をくりぬき、その瞳を使って反物質のある部屋に入った様子・・・なのだけれど、この部分がちょっと変。だって、瞳認証の場所に血痕があり、扉なのかに目玉が捨てられているのはいいとして、目玉をくりぬかれた本人がその部屋の中に横たわっているのだぜ(確かそうだった)。これって、おかしくないか?
さて。トム・ハンクスのところにヴァチカンから使いがくる。教皇が亡くなった時期を狙ってイルミナティが復活。しかも"反物質"を手に入れた、と。で、誘拐された4人の司教を救うためにヴァチカン+ローマを走り回るという物語。なのだけれど、トム君の活躍が金田一耕助にだぶっちゃうのだよ。なぜって、1時間ごとに殺すと予告された司教を救おうと、推理した場所へと駆けつけるのだけれど、結局、3人の司教は救えない。どころか、応援してくれる教皇の警察官たちを多く死なせてしまう。でも、考えてみれば、順番に救い出そうとせずとも、4人の司教が殺害されるであろう場所は予知できたはず。あえてそれをせず、犯人と無理矢理追いかけっこをしているとしか見えない。トム君、バカみたいだよ、と。しかも、あっちこっちで歴史的文化物を壊しまくっている。おめーなー。
この映画、非常に単純な構造になっている。元教皇の秘書として登場するのが、ユアン・マクレガー。この時点で、犯人はユアンだ、というのが明白。もちろん、映画ではずっとよい人を演じつづけるのだけどね。そして、いかにも怪しい存在に描かれるのが、教皇の警察のトップと大司教。この2人には裏があるぞ〜あるぞ〜というような描き方がされる。なので、いつドンデンが仕組まれているか、その瞬間を待つ以外、楽しみがない。本来なら、その裏がもうひとつあれば望ましいのだけれど、それがない。これじゃ、つまらないよなあ。
で。ユアンの望みは何だったんだ? 科学も受け入れる進歩派の教皇が死に、また、同じような進歩派が教皇の座につくのを嫌った、のか? それで、イルミナティが復活したかのように仕組み、殺し屋に実行をまかせた、ということなの? それにしても、あんな手の込んだ仕掛けをしてイルミナティの仕業にする必要が、あったのかな? それに、殺し屋はたった1人で"反物質"の強奪から4司教の誘拐・殺人までやったのかい。すごいねえ。信じられないよ。それにしたって、最後にとうとう"反物質"が発見され、もう、予備のバッテリーに変える時間もない、ということになるなんて、そこまでは予測していたはずがない。では、ユアンがヘリに"反物質"を乗せて上空へと舞い上がり、自分はパラシュートで降下、"反物質"は上空で爆破・・・ということまで、考えていたんだろうか? どーも信じがたいなあ。
というわけで、いまひとつ乗れきれなかった今回の「天使と悪魔」。タイトルの天使や悪魔は何を示しているのか、よく分からないままだった。ちぇっ。
インスタント沼5/28テアトル新宿監督/三木聡脚本/三木聡
三木聡は「亀は意外と速く泳ぐ」「イン・ザ・プール」「時効警察」(テレビ)、「転々」「図鑑に載っていない虫」と見てきたが、テレビは別として寝なかったのは「イン・ザ・プール」と「転々」で、「亀」と「虫」はじっくり寝てしまった。なので、今回もまた・・・と思っていたら、やっぱり寝てしまった。「プール」と「転々」には芯となる物語が何とかあって、ドラマもあった。どうなるのかな? という引きもあった。けれど、「亀」と「虫」はいずれも小ネタの集積。ドラマらしいモノはなく、「だからどうした!」といいたくなるような展開だった。この「沼」は後者で、まごうことなく小ネタの集積。しかも、ふせえり、岩松了、麻生久美子ら三木一派のパターンを、今回参加の役者たちも踏襲しているというかたちだ。こういう形式の映画だと、俺はついていけなくなる。どうでもいいような気になってきて、次第に眠くなってくる。今回も、相田翔子が登場し、ツタンカーメンを探し始めた頃から眠くなり、見つかったところで目覚めた。ひょっとすると長くは寝ていないのかも知れない。でも、どうでもいい。どこかを見ていまいが、この映画にとって、そんなことは関係ない。作り手のおふざけにつき合って解釈したりするつもりもないし、感動もない。とくに笑いも多くない。だから、どうした、だ。三木聡は次第にこの手の映画ばかりつくるようになってきていている。これでいいのだろうか。俺は、もっと芯がしっかりしていながら、ちゃんと笑わせてくれるような物語をつくってもらいたいと切に願うものである。

 
 

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