2009年6月

ラスト・ブラッド6/1MOVIX亀有シアター7監督/クリス・ナオン脚本/クリス・チョウ
原題は"Blood: The Last Vampire"。香港/日本/フランス/アルゼンチン合作で、監督はフランス人らしい。予告編は見た記憶があるけれど、本日の原題を見て「おっ。なんだよ。吸血鬼ものか」と知った次第。日本で吸血鬼は合わないよなあ・・・。字幕では「オニ」と表記されていた存在は、"デーモン"のようだ。悪魔や悪霊と、日本の鬼は違うはずだけど、ま、カタカナ表記の「オニ」なのかもね。
それにしても、日本を舞台としていながら主演が韓国人。日本人は小雪と倉田保昭だけで、あとは白人と中国・韓国人みたいなのばかりってのは、どっからでた発想なんだろう。たんに、英語のできる女性タレントがいないということなのか? でも、小雪だって発音は下手だったぞ。ま、「ラスト・サムライ」効果ででてるんだろうけど。しかし、カトウ役は岡本信人だとばっかり思っていたのだけれど、クレジットを見たら倉田保昭だった。いつのまにあんなしまりのない顔になっていたのだ?
1970年当時の日本が舞台になっている。丸の内線の車両が登場し、銀座線の線路を走るなど、考証のいい加減さはたくさんある。けれど、それをいちいちあげつらってもしょうがない。それに、いい加減といっても無茶苦茶というのでは、ない。街並みや家屋など、かなり丁寧なセットまちはCGがつくられていて、ある意味で凝りまくっているようにも思えるぐらいだ。もっとも、登場する東京は1950〜60年代的な雰囲気が濃厚なつくり。ひょっとして、いろんな昔の日本映画を参考に、昔の日本を作り出しているようにも思えた。ちょっとアナクロだけれど、そんなに違和感のない東京が登場していたのが面白かった。
ストーリーは、もう、いい加減だ。つじつまもなにも、ない。戦国時代にキヨマサがオニ退治をしくじりオニゲンに殺された。以降、日本はオニの天下になっていた。父親をオニゲンに殺されたサヤは、父親の家来のカトウに育てられ、数100年にわたってオニと戦ってきた。そのサヤを支援するのは、遙か昔からオニ退治を支援してきたグループ。一般人の中に潜むオニを、サヤが退治していく。が、オニゲンが復活し、サヤの前に立ちふさがる・・・。という、まあ、どうでもいいような話。これはもう、他のヴァンパイア物と同じだから、こんなもんだろ。むしろ、興味深いのは、西洋が舞台では物足らなくなり、日本を舞台にしているということだな。これで客が入る、採算が取れる、と判断したんだろう。きっと。しかも、現在の日本ではなく、1970年前後としているところが興味深い。ときはベトナム戦争盛んな頃。日本の基地からベトナムへと兵隊が送られていった時代背景をもってきている、というところがミソだな。そんなに深い意味はないかも知れないけど、米兵にも相当のヴァンパイアがいた、と考えることもできたりして、想像が膨らむ。
チョン・ジヒョンは相変わらず可愛い。セーラー服もまだ似合う。立ち回りも、そこそこいけている。ま、かなり編集してるけどね。テンポも速くて、前半はそこそこ楽しめた。でも、後半になるとやっぱり飽きてしまって、ちょっと眠くなってしまった。だって、なーんも考えなくていいんだもん。これはちょっとつらい。
そういえば、地下鉄車両に日本刀・・・。「HEROES」のヒロ・ナカムラを連想してしまったのだけれど、影響されているんじゃないのかなあ。それと、ニセCIAがもっていた機械は、なんだったのだ? サヤがオニ退治をしたあとに、周囲を清掃していた機械のように見えたけど・・・。
消されたヘッドライン6/1MOVIX亀有シアター7監督/ケヴィン・マクドナルド脚本/マシュー・マイケル・カーナハン、トニー・ギルロイ、ビリー・レイ
原題は"State of Play"。で。邦題はどういう意味なのだ? 新聞の見出しのことを言っているのか? だとしたら、とても分かりにくいよなあ。
前半は面白い。けれど、中盤から勢いが減退し、ラストは腰砕け。おい。そんな終わり方はないだろ。核心を外すなよ、といいたい。
麻薬関連のシケた殺しと、公聴会議長の秘書の自殺。この2つの事件の背後には、なにやら怪しい影が。そもそも議長を務める議員(ベン・アフレック)は、戦争業務などをアウトソーシングする民間企業の追求しようとしていた。それを阻止するため、その民間企業がベンを陥れるために仕組んだんだ・・・。ということを、新聞記者のラッセル・クロウが暴いていく、という話。イラク戦争なんかでも、米軍以外に民間企業が戦争を請け負っているなんていう話が報道されているので、時宜を得た話、と興味深く見ていった。ところが、しだいに新聞社vs悪徳議員&悪徳企業という対立軸が薄れだし、痴話話や人間関係のもつれが前に出てくるようになる。そして、いったんは戦争請負企業を告発する記事が載るか、というところに来るんだけれど、すんでの所でどんでん返し。なんと、議員ベン・アフレックの個人的な所業ということになってしまう(のだよな?)。あらら。大山鳴動してはした議員1人かよ。戦争請負企業と、そこに群がる悪徳議員の追求はどうなっちゃったの? という肩すかし。おいおい。
可哀想なのは、冒頭で殺されるヤク中の青年と、たまたま通りかかった青年だな。ヤク中青年の仲間の少女16歳も後半で殺されてしまう。この3人なんか、本題とは関係ないところでムダに人生を終えてしまう。にもかかわらず、扱いは単なるその他大勢レベル。これじゃ可哀想だよ。
ラッセルと、部下のレイチェル・マクアダムスが関係者を取材するシーンがあるんだけど、あっというまに過去や隠しごとまでゾロゾロわかってしまう。あんなに短時間に都合よく事実が明らかになるわけないだろ、と思いつつ、映画だからいいか、と思っていたけれど、終わってみれば、アホか、という気分だ。
ラッセルの、昔気質で警官や監察医となあなあな古参記者という設定は面白いのだけれど、やっぱりただのデブにしか見えなかったりもする。キレがないのだよね、全体に、この映画。レイチェル・マクアダムスも可愛いけど、映画の中での役割がいまひとつ薄すぎる。議員ベン・アフレックは何をやっている議員なのか、なんか中途半端にしか描かれない。ベンの妻とラッセルが浮気しているという話に至っては、そんなエピソードなんかななくてもいいじゃん、である。
結局、国や企業の陰謀は明らかにならずじまいなのだから、終わってもスカッとしない。どころか、なんだかよく分かんない、というところもでてきたりしてね。たとえばラスト近く。ベンの秘書(実は企業側のスパイだった)の月給が2万6千ドルだとベンの奥方が知っていたのはなぜ? とラッセルが疑問に思い、ラッセルはベンを問い詰める。その結果、秘書を殺させたのはベンだ、と分かる・・・のだけれど、秘書の月給が2万6千ドルだとベンの奥方が知っていると、なぜベンがすべての黒幕だと分かるの? よく分からなかった。誰かおせーて。
他に気になったところというと、ラッセルが企業の内部告発者に呼び出され、ショーウインドウの前で会話するシーン。ウインドウの中に見える女性の顔のポスターが、変。だって、額から血が流れているように見えるんだぜ。ちょっと前にラッセルのところにベンの妻が訪ねてきていたんだけれど、彼女が死ぬことを予告しているのかと思ってしまったよ。あれは、意味がなかったのかなあ?
スター・トレック6/4上野東急2監督/J.J.エイブラムス脚本/ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン
原題は"Star Trek"。まんまである。
この手のなーんも考えなくていいSF(つまり、受け身で見る映画ということ)は、苦手だ。「スターウォーズ」の新シリーズもほとんど眠かった。「マトリックス」の2、3作は寝てしまった。なので、これも寝ちゃうかも。と思って見はじめたのだけれど、"カーク船長誕生秘話"らしく、なんとなく面白そう。とくに、カークの父親の犠牲的精神や母親の存在、さらに、スポックの幼少時〜青年期などは興味深かった。ところが、青年になってエンタープライズ号に乗り組んだあたりから話に深みがなくなってきた。そして、半ば。1時間目ぐらいになると退屈してきて、年老いた スポックが登場したあたりから眠くなってきて・・・。はっ、と気づいたら、カークがスコット(かな? ひょうきんな隊員)を連れてきたところ、みたいだった。それ以後はちゃんと見たのだけれど、でも、ぜーんぜんワクワク感はなくなっていた。
最初に引っかかったのは、カークが隊長試験にインチキをするところ。そのちょっと前にカークが緑色の女の部屋で・・・というところにルームメイトの黒人隊員がやってきて。で、なんとかの無線を聞いた、とかいうのをヒントにしてインチキを成功させたと言うことらしいが、そのカラクリが分からなかった。
次によく分からなかったのが、悪玉ネロの存在。自分の星や妻を失った悲しみを、反逆に変えているらしいのだが、なぜにあやつは冒頭でエンタープライズを襲ったのか? 惑星連邦が何か悪いことをしたのか? さらに、なんでスポックを目の仇にするんだ? というのが伝わってこない。
次に、スポック。と、その前に。インチキをして停学中のカークがまんまとエンタープライズに乗り込み、黒人隊員が聞いた無線のことを引き合いに出し、「これはワナだ」と訴える。それに対して若きスポックはカークを船外退去処分にしてしまう。放り出された星で怪獣に襲われるなどさんざんな目にあった末に、なんと年老いたスポックに出会う。で、このスポックは未来からやってきたスポックで、若きスポックのなれの果てであることは分かったんだけど、「なんで?」に対する回答がなかなか提示されない。そのうち、こっちは寝ちゃったんだけどね。だから、寝ている間に説明があったのかも知れないけど、こっちはすでにストーリーなんか理解してやるもんか、と思っていたからどうでもいいんだ。
それにしても、最後の方で若きスポックズ老いたスポックと対面する。ええっ。タイムトラベル物では、未来や過去の自分に会ったりしてはいけない、っていうルールがなかったっけ? それ、平気で破ってない? いやまて、あの2人は同一人物ではないのか? 寝ていたので分からないのだよ。
それに、だいたい、船外退去だとか行って、人間をあんなところに放置するか? あまりにもひどい仕打ちではないか! 悪玉ネロとスポックが同じ星人らしいといいのも気になっていたけれど、でも、起きて見ている間に合理的な説明はなかった。というようなワケで、話が分かりにくかったのが眠ってしまった原因だな。
最高にバカバカしいのは、停学中で乗船拒否されていたカークが、いつも間にか自分でキャプテンを名乗り始めるところだな。スポックが代理キャプテンを降りて、そうなったんだけど、他の誰があんなバカカークを船長として信頼するかね。しかも、学校の大先輩で上官でもあるスポックまで配下に納めてしまうんだぜ。あり得ねえよ、そんなん。
登場するテクノロジーやなんかも、「?」モノが多かった。悪玉船が大地に埋め込む巨大なドライバーというか碇みたいなの。あれはいったい何なのだ? ラストでは簡単に破壊されちゃうのだけれど、最初の頃は鉄壁の強さだった。変だよな。それに、悪玉が星に打ち込む小型のブラックホール。ありゃ一体どういうシロモノなんだ? あんなものが簡単に開発されて、しかも、悪玉ネロしかもっていないのか? 技術を駆使した戦いなら、あれを防ぐ装置ぐらいあってもいいんじゃないの? それに、物質を瞬間移動するテクノロジーだけど、これに関しては惑星連邦というかエンタープライズ組が一方的に利用している。なんと敵船の中にまで送り込め、落下中の人間も船内に戻すことができてしまう。それって都合よすぎだろ。で、この瞬間移動装置を、悪玉側はもっていないのかい? なんでえ? と、いろいろツッコミを入れたくなるところがてんこ盛り。
単純なテレビドラマなら、子供だましとして許してやってもいいけど、たいそうな映画として大人も見るのだ。もうちょい合理的で説得力のある話の展開にしてもらわんと、飽きちゃうよ。もっとも、「スター・トレック」ファンにとっては、そんなことはまったく気にせず、ワクワクドキドキで楽しめる映画になっていると思う。この程度ちゃんと作られていれば、納得しちゃうに違いない。でも、やっぱり大人が見るにはツメが甘すぎだと思う。
チェイサー6/9新宿ミラノ3監督/ナ・ホンジン脚本/ナ・ホンジン
とても面白かった。のだけれど、現実的にあり得ない設定など、杜撰さがかなり目立つ映画。この杜撰さを減らして、物語の疾走感をプラスすると、大傑作になったかも。
デリヘルの社長が、配下の女の子を救い出すため奔走する、という物語。このところ、何人かの女の子が客に呼ばれたまま疾走している。今度もまた、連絡が途切れそう。というわけでケータイで連絡させようとするが、つながらない。社長は手下を連れてクルマの止まっているところまで行くが・・・。
というところで、女の子が何人も消えているなら、もっとぴりぴりしてたっていいんじゃないのか? という疑問。現場近くで事故った相手が、犯人であったというできすぎな設定。・・・あのまま走って追いかけるからチェイサーかと思ったら、違っていた。
社長は元警官で、先輩刑事を巻き込んでの右往左往。けど、社長はずっと、犯人は女の子を売り飛ばした、と思い込んでいて、まさか殺されたとは思っていない。この状況で後半まで突っ走るのだけれど、この社長が何をどう追っているか、が曖昧で、疾走感が足らない。しかも、犯人のクルマから鍵の束を手に入れるのだけれど、これで探し出したのは犯人が以前住んでいた友人の家だけ。おかしいだろ。鍵の数だけ女の子が連れ込まれた可能性のある場所があるんだから、そのすべてを確かめろ、と手下に命令すべきだろ。しかも、途中で社長は、この鍵の存在を忘れたかのような態度になる。だって、先輩刑事に鍵束を渡し、一斉に調べてもらえば犯人の隠れ家はもっと早く分かったはず。なのに、そうしないのは変だ。
犯人はいったん警察に逮捕されるのだけれど、証拠不十分で釈放される方向で検討される。韓国の警察って、そんなに律儀なの? そもそも収監歴がある犯人をつかまえて、その履歴が即刻でてこないのもおかしい。もっと疑う方向で検討するのがフツーだろう。そもそも被害者の血液が付いた服を着ていて、DNA鑑定もしているようなのに、そり結果も待たずに釈放が決まるのも変。犯人擁護の姿勢を取るのは、後半ちょっと登場する記者だけというのも弱い。あまり機能していない「市長にウンコ投げ」のエピソードを、えん罪を恐れる警察、という方に重点を置いて描いた方がよかったかもね。
警察は無能に描かれているけれど、釈放した犯人につけた尾行が、さっきまで取り調べをしていた女刑事がそのときのままの服装で、ってのはどう考えたって変だろ。
監禁場所から逃げた女とたまたま出会い、殺害するのだけれど、あのシーンでは「彼女は助かるのだよな」と思っていたので、おお、という展開だった。ここまでやるか。で、その彼女の生首を持って近所にある隠れ家に逃げた、ということらしいが、あんなに返り血を浴びて、生首を持っての白昼堂々逃避行というのは、どんなものなんでしょうかね。あり得ないだろ。
犯人がどうやって隠れ家に入り込んだか知らないが、得体の知らない男が突然住み始めた家なんて、近所の人が警察に通報するのではないの? しかも、その家の主人は教会関係者なんだから。
教会関連でいうと、犯人が友人の家の壁に描いたキリスト像の意味が分からない。突然何なんだ? 他にも、社長とともに行動する少女(行方不明になった女の娘)が途中、知らない女の人の後を付いていき、社長が発見したとき倒れていた、というエピソードがあるのだけれど、あれはどういうことがあって顔にキズを追うほどのことになったんだ? よく分からん。
そうそう。犯人がいった監禁場所(隠れ家)の住所は間違いで、違うところを掘り返していた、という場面があったけれど、住所がなんか似ていたのは、あれは意味があったのか? 犯人が故意に違う住所を言った? 聞いた社長が間違った?
そもそも、最初の方で社長と一緒に警察に逮捕された犯人は、なぜ「俺は人殺し」なんてしゃべったのだろう? そして、なぜそれを警察は信じなかったのだろう? という疑問もある。たんに異常者だった、という答えもあるかと思うが、女に立たないインポは異常者、みたいな描き方も、ちょっとどうかと思うしなあ。
でも、映画の構造というかつくり方はユニークで、面白かったのは確か。「黒い家」にも似た異常者の行動、幼い少女連れで八面六臂の活躍をする社長、のらりくらりの先輩刑事、身の保身ばかり考えている警察上層部・・・。要素がそろうと、面白いドラマができるものなのだね。でも、あり得ない描写をもっとなくしてもらわないとなあ。
モンテーニュ通りのカフェ6/11ギンレイホール監督/ダニエル・トンプソン脚本/ダニエル・トンプソン、クリストファー・トンプソン
原題は"Fauteuils d'orchestre"。フランス映画。
芝居小屋とコンサートホールとオークション会場。この3つが入っているビル。その近くの小さなカフェに、田舎出の娘が雇ってもらう。そのカフェに集う人の人間模様がコミカルに、リズミカルに進む。ラストもそれぞれに洒落ていてハッピーだし、とても気持ちのよい映画。ピアニストのエピソード。女優のエピソード。美術品をすべて売却する富豪のエピソード。この3つの物語が、少しずつオーバーラップしていくのも楽しい。建物の雇われ支配人は、歌手になりたかったけどなれなかったから、芸人のそばで仕事をしているという陽気なおばちゃんで、もうすぐ定年退職。いつもヘッドフォンステレオを聴きながら、歌手になりきって口をぱくぱくやっている。この彼女がいい味をだしていて、カフェとは別の軸になって活躍する。
冒頭から、田舎娘中心で話が進むので、ずっとそのスタイルかと思っていたら、途中から娘はあまり顔を出さなくなってしまう。これがちょっと不満。個々のエピソードを深めようということなんだろけど、彼女の出番が少なくなって、要の部分が薄らいでしまった感がある。ま、ちょっと話を広げすぎ、な感じかな。
ピアニストの話は分かりやすい。格式張ったコンサートより、老人ホームや学校でクラシックを演奏して、ファンの裾野を広げたい、という彼がいて。元チェロ奏者で自分がなし得なかった名演奏家としてのキャリアを積ませたい、という妻がいる。考え方の対立で、離婚間近。これが、最後はなんとなく夫の意見が通ったかのように収まってしまうのは、あれっ? だけど、具体的には妻はどう自分を納得させるのかなあ・・・と、ちょっと心配。この奥さん役の女優は、なかなか美しかった。
女優のエピソードが一番面白かった。主な業務はテレビのソープオペラの人気女優。でも、野心はあるので舞台にも出る。しかも、演出家にずけずけものを言う。演劇学校時代の、ソリの合わない友だちが米国の有名監督(シドニー・ポラックがやっている)をつれて、映画のキャスティングにやってきて、どうしても自分を売り込みたい。工作はするのだけれど、それとは別に監督がどういうわけか都合よく彼女を気に入る、のだけど、「タクシードライバー」はよかった、といって「マーチンは才能ある監督だ」とカエされたり、監督が考えているサルトル像に異論をぶちかましたり、自分を抑えられない。それで自己嫌悪になってやってくるのが、女支配人の住み込み部屋、っていうのがまた面白い。最後には初演の舞台でも演出家の意図から離れたワガママ演技で笑いを取り、監督から「共同脚本を」とまで言わせてしまう、都合よさなんだけど、楽しかった。
富豪は、末期がんらしい。若い愛人がいて、彼女にそそのかされたからか、自分の意思なのか、膨大な美術コレクションのすべてを売り払おうとしている。息子は大学で教えているらしい知識人。妻ともうまくいっていない(?)らしいが、何と、父親の愛人との関係も続いているらしい。父親がコレクションを売り払うのには強く反対はしていないが、愛着のあった「接吻」という彫刻まで手放すのには、未練があるらしい。・・・このエピソードはちょっと理解が難しくて、父親、息子、愛人の考えもはっきりと伝わってこない。なのに、いつのまにか息子と田舎娘が仲良くなって、最後は恋人同士になってしまうという、なんともいい加減なオチになっている。そうそう。「接吻」は、途中で予測が付くように、オークションの競りに息子が参加して、落とすのかと思ったら、父親が出品をやめにする、というオチが付く。こっちの顛末はまあ妥当だろう。
他にも何人か人物は登場するけれど、みなほのぼのと、そこそこの幸せの中にいることを感じさせて話が終わっていく。群像劇でも「ラブ・アクチュアリー」に似たご都合主義だけれど、ま、終わってこっちも気分がよくなるので、悪い気はしない。そんな映画だね。
PARIS(パリ)6/11ギンレイホール監督/セドリック・クラピッシュ脚本/セドリック・クラピッシュ
原題は"Paris"。「モンテーニュ通りのカフェ」と同じような、複数のエピソードでつづられる群像劇。ただし、こちらでは各エピソードの人物の交錯があまり濃くない。
移植が必要な心臓病を患っている若いダンサー。その姉(ジュリエット・ビノシュ)。その姉がよく行く市場の面々。ホームレスらしいオヤジ。老教授の、女学生への恋。老教授の弟の建築家。カメルーンからパリへ不法入国しようとする青年。街のパン屋。ファッションモデル(?)らしい女。・・・こんな人物の、あまり楽しくないお話が延々と綴られていく。ちょっと気が重くなる話ばっかりだ。
話の要に位置するような役回りは、ビノシュ。でも、すべての話に接点があるわけではない。なので、彼女が軸になっているようには見えない。とにかく、パリの空の下には色々な人が生活している、ということだけが伝わってくるような映画だ。
理解に苦しむのが、心臓病のダンサー。たんに暗いだけで、自分から何もしようとしない。すべて姉に頼りきりで「死ぬ前にセックスがしたい」なんていっていうのだ。彼は、近くのアパートの窓から見える娘(教授が片思いする教え子)に片思いなんだけど、その彼女のところへビノシュがアンケートを装って様子をうかがいに行く、というアホなことをする。挙げ句は、自分の同僚のオバサンを弟にあてがったりする。それを有り難そうに受け入れる弟の姿は、とても嘆かわしい。後半では知人を呼んでパーティまでする気力があるのだから、もっと自分で行動せい、とツッコミを入れたくなった。
教え子に恋をしてストーカー=メール攻撃する教授。自分がメールの発信人だと分かってしまい、居直ったところ、なんといきなりセックスできてしまうという展開はなんなんだ。都合よすぎるだろ。そういう娘は、別に彼氏がいて、彼氏や別の友だちと過ごしている様子を教授にわざと見せつけたりする。何が目的なのか、よく分からない。で、教授はそれで落ち込んでしまうのだけれど、若い娘とセックスできるんだから、それで大満足じゃん。若い娘を独占しなくちゃ済まないの? おい、贅沢いってんじゃないよ、とツッコミを入れたくなった。
離婚した夫婦が、市場で八百屋をやっている。元妻は、魚屋だの別の店の男たちから色目で見られている。そういうのを、元夫は苦々しく見ている。・・・って、そんな関係をつづけている亭主もおかしいんじゃないの? しかも、飲み会で意地悪した魚屋と、元妻は仲良くなってしまう、といういい加減さ。さらに、突然の交通事故で元妻を殺してしまう、といういい加減な展開に、おいおい、とツッコミを入れてしまった。建築家の話は、とくに何も印象に残らなかった。どういう意味があったのか、よく分からんぞ。カメルーンからの密入国は、難破したと見せかけてちゃんと到着しているところをラストで見せている。なかなかだね。一番面白かったのは、パン屋のエピソードだな。フランス人でもなんとか族とかいろいろいて、あつらは働かないとかなんとか、バイトを雇った経験からあれこれいうオバサン主人がいい味を出している。で、ちりちりパーマのアラブ系の女の子がよく働くのでご機嫌になってしまったり。とても面白かった。そうそう。注文されたバケットを素手でつかんで簡単な紙袋に入れて渡すのは、フランスらしくて気持ちがよかった。日本は、ちょっと神経使いすぎだよな。
最後に、心臓病の青年のところに、移植手術が決まったらしい連絡がくる。病院への道すがら、タクシーの窓から、各エピソードの登場人物が見えるのだけれど、彼からすれば、フツーに生きてい入られることだけでも幸せなのだ、というセリフが一番正鵠を得ていると思った。
鈍獣6/15新宿武蔵野館3監督/細野ひで晃脚本/宮藤官九郎
この手の映画を、人はどうして撮りたがるのだろう。何本かヒットしたり撮れたりして実績がつくと、突然、人はわけの分からないものをつくりたがる。ビートたけしも「みんな〜やってるか!」とか「監督・ばんざい!」とか、わけの分からないものをつくる。これはもう、絶対に観客からの評価は低いだろうな、というようなことを分かっていながらつくる。ただしそれが石井克人の「茶の味」や「鮫肌男と桃尻女」のような世界を見せてくれるならまだしも、中途半端な思いつきのアチャラカを、さも作家性の強い作品でござい、なんて提示されたって、ひとつも楽しくはない。そんなワガママ勝手につきあってやるのは、ごめんだ! といいたい。
今回の「鈍獣」も、どうもそういう気配がしたので、これは寝ちゃうな、と思って見はじめたのだけど、やっぱり30分ぐらいしたら眠くなってしまった。ちょっと寝て、しばらく見ていたらまた眠くなって浅く寝て、また起きて見ていたけれど、またまた寝てしまった。きっと、寝ても寝なくてもこの映画に関してはほとんど何の影響もないと思う。それだけの内容はないし、メッセージよりも雰囲気の映画だろうから。でも、雰囲気を伝えるために長々106分も尺を必要とはしない。2〜30分あれば済んでしまう話だ。それをだらだら繰り返し同じようなことをひねくり回すというのは、たんに水で薄めているだけ。それを見せられる観客はいい迷惑だ。
岸田戯曲賞をとった台本らしいが、生の芝居で笑える話をそのまま映画にしても、面白くならない場合だってあるのだ。その勘所が理解できないはずはなかろうが、結局のところ、人に分かる映画ではなく、作り手が作りたい映画になってしまっている。こんなんじゃ迷惑だよなあ。
それにしても、遊びでつくるにしても「なるほど」と思えるような道楽を見せてくれればいいのに、どうしようもなくつまらないものを見せつけようというのは、どういう魂胆なのだろう。そして、一般的にそこそこレベルの高い映画を撮れる監督や脚本家が、こうやってとてつもなくつまらない映画をつくりたがるのは、なぜなんだろうと思う。
わが教え子、ヒトラー6/15ギンレイホール監督/ダニー・レヴィ脚本/ダニー・レヴィ
この映画って、真面目な映画なのか? 俺には冗談にしか思えなかったんだが。しかも、下手なコメディってな感じ。ほとんど何も伝わってこなかった。だって、途中で寝ちゃったしね。
真実である、といっているけれど、きっとウソだろう。どこまで本当なのか、よく分からない。1945年の1月1日に、ヒトラーが廃墟のベルリンで本当に演説したのかも、知らない。ひょっとしたらそれは本当で、その史実をもとに創作したのかも知れない。まあ、どうでもいいけど。
落ち込み、声も出なくなったヒトラー。その理由はよく分からない。敗戦濃厚だからか? で、ゲッペルスはひとりのユダヤ人をヒトラーの元に呼び寄せる。どうも、昔、ヒトラーを教えたことのある役者でしかも教授らしい。その教授が、ナチ監視のもと、ヒトラーを元気づけ、声を取り戻させるのだが・・・。という話。
なぜユダヤ人を? という答えは、でてきていた。ヒトラーがユダヤ人教授に反感を抱くように仕向けているから、らしい。けど、説得力のある物ではないと思う。しかも、ユダヤ人教授は1週間ぐらいのうちに何度もヒトラー殺害を企て、それがヒトラーには感づかれず、ナチの幾人かには目撃されているという、なんだかよく分からない状態。この辺りは、正直に言ってバカバカしくて見ていられなくなってきて、それで寝てしまったのかも知れない。ふと気がついたら、ヒトラーのセックスシーンで、ちんぽが小さすぎて入ってるかどうか分かんないわよ、と女に言われているところだった。
で、1月1日の演説当日になって、どういうわけかまたヒトラーの声が出なくなってしまう。そこで、ユダヤ人教授がマイクでヒトラーの代わりにしゃべり、ヒトラーは口パクをするという、おいおい、これはチャップリンの「独裁者」か? というようなバカバカしい展開になり、演題の下のユダヤ人教授が悪のりし、ヒトラーをバカにするようなことをしゃべり始め、周囲が青くなる。で、その場で銃殺されてしまうという、なんだかよく分からない話だった。うーむ。
真夏のオリオン6/16キネカ大森2監督/篠原哲雄脚本/長谷川康夫、飯田健三郎
戦争映画に長髪はないだろう。といっても、日本映画じゃムリな注文だろうけど。ほかにもこの艦長、部下にですます調だったりして、そんなやつが帝国海軍にいたのか? 命を大切にしろ、なんて大っぴらに言ってたりしたら、少佐まで昇進しないんじゃないのか? なんて思いながら見ていた。少佐といえば襟章でそう判断したんだけど。ほら。軍医長がたしか星2つで中尉と言われていて、航海長、水雷長らも星2つだったから、じゃあこの艦長は星1つで少佐か。ううむ。でも、なんか若すぎない? 40凸凹にならないと、少佐まで出世しないんじゃないか? 回想シーンでは「お兄ちゃん」なんて呼ばれていたけど、そんな若い少佐がいるのか? とWebサイトを見たら30歳の設定なんだね。うへえ。
日本の潜水艦と、米駆逐艦との静かなる戦いの物語だ。一般にこの手の映画は位置的な対立関係がわかりにくく、潜水艦の状況も把握しにくいので、見ていてドキドキしないことが多い。この映画もその口で、どういう力関係でそうなっているのか、が、あまりひしひしと伝わってこない。その割りに、大変そうなことをセリフで言っていたりするのだけれど、でも、画面からはそれほど緊迫感が伝わってこない。とくにいけないのが米側の描き方。だって、駆逐艦はときどき外観が登場するだけで、あとは艦長と副官のバストショットというのが大半。なーんもアクションがない。悪いがこれじゃ書き割りと同じだ。ドラマ以前の問題だと思う。
潜水艦が音が出ないように潜り、次第に酸欠に・・・というパターンは、ちょっと手垢が付きすぎではないの。それ以外の話にしないと「またかよ」という印象しか浮かばない。たとえ設定がそれでも展開に工夫を凝らすとか、別のエピソードを噛ますとか、何かしないと新鮮味がないと思う。
その味付けの意味で挿入されているのが、倉本艦長(玉木宏)と、友人の有沢艦長(堂珍嘉邦)の話なんだけど、これがまた中味がない。たんに倉本と有沢が親友で、有沢の妹(北川景子)が倉本に好意を持っている、というだけの話。ぜーんぜん深みがない。
で、この映画の最初のバトルは、倉本艦の話ではなく、有沢艦と米艦との戦いなのだよな、と気がついたのは映画を見ている途中で。そういえば艦長が玉木宏じゃないなあ、なんて見ていて、場面が変わると玉木が平然と艦長をやっていたりするので、ああ、あれは有沢艦の話だったのか、と気がついた次第。そもそも最初に、出撃の目的がなんで何作戦と呼ばれて云々と字幕で教えてくれればもう少し分かりやすかったと思う。それなのに、なんだかいつの間にか海の中で、海図の中で潜水艦が5艘ばかり作戦を展開中、というのが分かる程度。これじゃ、見ている方はピンとこないよな。
戦闘シーンもちゃっちい。なんだあの水中の爆発シーンは。安手のCGで黄色い光が潜水艦の上に被さるだけ。波間の潜水艦もしょぼい。米艦は、どうみても大戦中の艦には見えず、引きの派手なシーンはなし。潜水艦内もありきたりの演出で、生々しさはない。こんなんで観客が納得すると思っているとしたら、それは甘いよ。
クライマックスで、少年兵がハモニカで真夏のオリオンの曲を吹くのだけれど、なんとそれがはっきり米艦に聞こえてる…って、おい、そんなのが聞こえるなら、艦内の話し声だって聞こえないとおかしいだろ。というような描写があったり。海底に沈み酸素もなくなって死ぬ間際の有沢艦長が最後に思うのが、愛しい妹のこと・・・だったりする異様なシーンがあったり。どーも、素直に受け取れないところが多い。
それから、この映画は有沢の妹が倉本に、お守りとして贈った「真夏のオリオン」という曲(ハモニカで演奏されるけど印象に残らず。これは知られた曲なのか?)の楽譜が米艦船長の手に渡り、それが数10年の時を経て倉本と有沢の孫娘の手に戻ってきた。で、その孫娘が、楽譜を手に鈴木という、潜水艦に乗っていた最年少の兵隊に会いにゆくという設定なんだけれど。よくよく思うに、鈴木はたまたまハモニカで演奏しただけで、楽譜が艦長の彼女の手になるものとは知らないはず。なのに、懐かしげに楽譜を見たりする。どーも、この設定にはムリがありはしないか。とくに鈴木少年兵を登場させなくても、話は進んでいくと思うのだけれどなあ。現代から過去を回想するときによく使われる手法ではあるけれど、あんまり意味がないと思う。
ラストは、潜水艦が浮上して全員退避しようかというところで、日本の無条件降伏の報が入る、という趣向。ここはちょっと見ものではあるけれど、あまりのタイミングのよさに笑ってしまう。それに、このシーンだけで長々と引っぱりすぎるのもいかがなものかと。でも、人があまり死なない戦争映画となっていて、まあ、ちょっと変わっている方かな。終わり方は。
幸せのセラピー6/18新宿武蔵野館2監督/メリッサ・ウォーラック、バーニー・ゴールドマン脚本/メリッサ・ウォーラック
原題は"Bill"または"Meet Bill"というらしい。2007年製作の映画なので、DVD化に際してタイトルが変わったのかも。それにしても、こんな映画をなんでまたほじくり出してきたのか。疑問。
日本のポスターはアーロン・エッカートとジェシカ・アルバをドーンとフィーチャー。これだと2人が主演クラスと思っちゃうよなあ。しかし、実際はまったく違った。アーロン・エッカート(夫)が主役で、ジェシカ・アルバ(店員)は完全なる脇役だった。準主役は、エリザベス・バンクス(妻)とローガン・ラーマン(高校生役)である。映画のクレジットも最初がアーロンで次がジェシカだったけど、金やメンツが絡んでるんじゃないのかな。
ポスターがあれでタイトルが「幸せのセラピー」だぜ。アーロンがどっかでエロ可愛いジェシカと出会い、キュートなロマンスがおっぱじまると思うじゃない。ところがどっこい、ジェシカはいつになっても登場しない。やっとでてくるのは、始まって30分ぐらいしてからじゃないか。しかも、アーロンとの出会いではなく、高校生ローガンがアタックしてる店員として、なんだぜ。これじゃ詐欺だ。
映画の中味もテキトーのいい加減。どこにもひねりのない脚本で、ウィットもユーモアも的外れ。で、なにが言いたかったの? だよね。途中から眠気を抑えるのが大変で、ああ、あと30分ちょっとか、と思いつつ、義父の市長選立候補の前のシーンあたりから寝てしまった。やれやれ。とんでもない駄作だった。
アーロンが銀行の頭取の娘と結婚して人事課長を任されている・・・という設定からして変。2人に子供もおらず、では仲がいいかというと妻は性生活に不満でテレビレポーターと浮気中で、夫はそれに気づいていないという、なんか、リアリティのかけらもない。でも、気配を感じた夫が盗撮ビデオをセットすると、濡れ場がバッチリ写っていて、それがネットに公開されてしまうという、これもあり得ない展開。こういう娘を両親や兄弟は恥もせず、夫の方を情けなく思う・・・という変な話だ。で、銀行は向いてないからドーナツ屋でもやろうと決めた夫だったけれど、ドーナツ屋がきっかけで夫婦仲ももとに戻ったので銀行も辞め、ドーナツ屋もとくにやりたくないので放り出し、家も売ってしまい・・・で、映画は終わる。アーロンとエリザベスの夫婦はいったい何をやっているんだろう?
で、ジェシカはアーロンの母校の生徒で、ショッピングモールの店員をしている。ローガンがアタック中。ドーナツ屋の研修は夫婦で受講するのだけれど、まだエリザベスに話していないアーロンが、代役を頼む、というところぐらいしか接点はない。ぜーんぜんジェシカはセラピーにもなにもなっていない。
アーロンはときどき心変わり、決心をするのだけれど(たとえば甘い物は食べないぞ、とか)、なぜそう決心したか、という要因なども描かれない。テキトーに話が流れていき、なんとなく終わる。まったくいい加減なシナリオと映画である。こんなもの、未公開のままDVDで売り出せばいいような映画だな。
ターミネーター46/19新宿ミラノ1監督/マックG脚本/ジョン・D・ブランカトー、マイケル・フェリス
概ね面白かった。というか、久しぶりにちゃんと練ってつくった(であろう)アクション大作を見た感じ。後半はちょっと飽きがきたけれど、それでも寝なかった。一番驚いたのは、最初の方の撮影手法。ジョン・コナーが地下から這い上がると地上は死屍累々。攻撃を受けている。そこでジョンは近くにあったヘリに乗り込むのだけれど、地上にあったはずのカメラが上昇するヘリと一緒に上がっていき、さらにヘリの中に入り込む。と思ったら攻撃を受け、ヘリは一回転して頭から墜落。その中からジョンが這い出る・・・を1カットで撮ってるんだけど、おいおい、どうやって撮ってるんだ!? というオドロキがあった。これがこの映画の最大のヤマ場だったといってもいいと思う。
シリーズについては、とりあえず見ているはずなんだが、記憶は曖昧。それに、1作目で悪役だったシュワちゃんは、2作目からは悪役でなくなっていたりしているはずで、そのあたりの混乱もある。なので、ジョン・コナーってどういう役回りだっけ? と、これはきっと、1作目をちゃんと蘇らせないと分からないのかもなあ・・・。などと思いつつ見ていた。でもまあ、概ねわかった。
分からないのは役者の見分け方で。ジョン・コナー(クリスチャン・ベイル)とマーカス・ライト(サム・ワーシントン)がいずれも坊主頭に面長なので、どっちがどっちやら最初に戸惑った。でもまあ、すぐに慣れたけどね。
で、中味だが。これまでと違ってスカイネット社がつくるロボット兵器がパワーアップしすぎで、おいおい、と茶々を入れたくなるぐらい。巨大な飛行体や観察飛行物体、無人バイク(これはカッコよかった)、水中にはロボット魚と盛りだくさん。CGでできるから、これでもかのてんこ盛りだけど、こんなに強力な連中を相手に、人間が太刀打ちできるようには見えなかったな。というより、ずっと気になってしまっていたのが、どこで発電しているのだろうか? とか、食糧はどこでつくっているのだろうか? とか、モバイルやPCを供給しているらしいSONYはどういう生産体制を維持しているのだろうか? とか、つまんないことが引っかかる。こういうところは無視してあげるのが筋なんだろうけど、どうもね。
マーカスって、今回初登場のキャラクター? ま、どうでもいいんだけど。犯罪者が選ばれてサイボーグ化された、と。で、いきなり15年後に蘇った、の? それとも、何度か本来の目的(人間社会に潜入して人間を捕獲する使命)を果たしつつ、故障か何かしたのが再生されたのか? 後半、半ば破壊されたマーカスがすいすいとスカイネット社に入れ、ちゃんと修理までされちゃうのは、存在が登録されていて出入りしていたから、と考えるのが自然だよなあ。で、そのマーカスが今回に限ってロボット的な意識ではなく人間的な意識をもってしまったのは、なんでなの? それから、マーカスが修復された近くの寝台に、別のカラダがあったけど、あれはなに? それにしても「俺は人間だ!」と、頭に埋められたチップを取り去るのだけれど、あらま、頭皮の下に射し込まれていただけなの? 俺は、もっと脳の奥深くに埋められているとばっかり思っていたので、かなり拍子抜けしてしまった。
サイボーグと分かったマーカスが抵抗軍に捉えられる。マーカスはサイボーグで、敵だ、というわけだ。一方で、マーカスを救出にいったパイロット(黒人女性)は「マーカスは人間」という視点で、マーカスを逃がしてしまう。でも、この逃がすという行動は、ちょっと行き過ぎだよな。初めてであって2、3日で恋に落ちてしまったのかい? 恋に落ちたからって、敵の可能性もあるマーカスを、やすやすと逃がしてやるか? あまりにも軽薄な行動で説得力がない。ここは、黒人女性がマーカスを信じるだけの合理的な理由が必要だろう。たとえば、マーカスだけがカイル・リースの居所を知っていて、マーカスに頼らなければカイルが殺されてしまうであろう的な理由がね。
さて、スカイネット社に乗り込んだジョンとマーカスは、当然のように身体を張って大活躍なんだけど。突然、登場するシュワちゃんそっくりのターミネーターは、他のT800タイプのターミネーターとは違うのか? 同じタイプなのか? それにしても、シュワちゃんとジョンの戦いは、第1作を連想させるようなつくりになっているね。
そもそもスカイネット社は、どういう目的の会社だったんだ? がんに冒された技術者の女がマーカスに献体を依頼した2003年、スカイネット社は世界を支配することをすでに目論んでいたの? で、スカイネットで働いていた連中は、すでにロボットの手先として働いていたのか?
突っ込み所も多いが、たとえばジョン・コナーの部隊なんか広いところに大量の武器があるのだから、簡単にスカイネット社に探知されちゃうだろ。ジョンが逃走するマーカスを追跡し、川でロボット魚に襲われるところなど、なんでシグナルを使わないのか不思議だった。だって、ちょっと前にシグナルを鳴らすとロボットたちは制御不能になることを実証したばかりなんだろ。じゃあ、その効果をもっと利用しろよ、とかね。
それと、ジョン・コナーの父親はカイル・リースで、タイムトラベルかなんかしたせいでまだ少年なんだけど、カイルがいないと時分もいなくなるからなのか、ジョンはやたらカイルの存在ばかり気にする。たんに自分が消滅することを恐れているようにしか見えないのだけどなあ。
わが教え子、ヒトラー6/23ギンレイホール監督/ダニー・レヴィ脚本/ダニー・レヴィ
2度目。やっぱり同じようなところで寝てしまう。もっとも、前回より早く寝てしまったせいで、前回よりちょっと早く起きた。それでも、見てない部分はまだあるんだろうなあ。といいつつ、もういいや。やっぱり大したことがない映画なんだと思う。
で。最後に演台が爆発するのは、なんで? って、寝ていたところにちゃんと説明があるのかな?
ディファイアンス6/23ギンレイホール監督/エドワード・ズウィック脚本/クレイトン・フローマン、エドワード・ズウィック
原題は"Defiance"。「反抗の態度」というような意味らしい。いくつかの不自然さな部分はあるとしても、全体ではとても興味深く見た。ひとつは、極限状況における集団のなかで、人はどう行動するかということ。もうひとつは、スラブ系の人々の暴力性について、だ。
舞台は第二次大戦下のベルラーシ(って、旧ソ連から独立した国だよな、ぐらいの知識しかない)。ドイツ軍の占領下にあって、ナチによるユダヤ人狩りが行われていた。多くのユダヤ人が殺戮され、捕まったユダヤ人はゲットーに隔離された。父親を殺害されたトゥヴィア(長男:ダニエル・クレイグ)、ズシュ(次男:リーヴ・シュレイバー)、アザエル(三男)、アーロン(四男)のビエルスキー兄弟は、森に逃げ込む。が、逃げてきたユダヤ人たちに頼られ、集団は次第に大きくなっていく、という話だ。
元凶はドイツ軍の反ユダヤ政策なんだけど、実際に手を下すのは、ユダヤ人ではないベルラーシ人であるところが、やっかい。占領下にあって、いい生活をしたい、生き延びたい、という思いが一般のベルラーシ人にあるわけだ。だから、彼らの一部は進んでナチの先兵と化す。まあ、こういうのはいずこも同じだろう。しかし、人種が入り組んでいるだけ、いったん事が起こると憎しみは倍加する。
これって、ユーゴ崩壊後のボスニア内戦と通じるよなあ。人種や宗教が違っても、昨日までは隣どおし仲よくしていたのに、ある日を境に対立・憎しみ合う。それも、尋常ではないレベルで。ああいうのは、スラブ系の人々の専売特許なんだろうかと思ってしまう。まあ、自分可愛さに他人を売るぐらいのことは、日本人でするだろうけど、でも、ちょっと違う種類のように思えてならなかった。
もうひとつの集団内における適者生存で連想したのがゴールディングの「蠅の王」だ。あれは漂着した島での少年たちの物語だけれど、結局のところ、同じようなものだ。集団のリーダーとなる男。リーダーになびく女。反目する連中。争い・・・。さまざまな要素が散りばめられていて、とても興味深いものがあった。よくあることだけど、戦時下では頭脳派より肉体派が幅を効かせる、ってこともよく表現されていた。また、同じユダヤ人同士でも、食い物の恨みはオソロシイつといことも描かれている。このあたりは、ユダヤ人賛美一辺倒ではないので、好感が持てた。
以上の2つの点に興味をもって見ていたので、ドイツ軍のユダヤ人に対する迫害は、そんなに強く意識しなかった。まあ、意図的にそうしているのだろうけれど、結果的にそれで正解ではないかと思う。
不自然に思った部分は、導入部。なんか、前置きもなく、どどどっと事が運んでしまうのが気に入らない。やっぱり、最初は平穏で、そこに邪悪が介入する、という流れがあった方が、観客は納得しやすいんじゃないのかな。もうひとつは、森を追われた一団が湿原にでくわし、トゥヴィアがたじろくところ。湿原はそんなにビビるような場所なのか? だって、ビビっている兄貴を三男が励まし、みんなで湿原にズブズブと入り込んでいくのだけれど、ときどき敵機が上空を横切るぐらいで、なんの困難もなく湿原を渡りきってしまうのだぜ。なんか、拍子抜けだよな。いくらモーセの紅海になぞらえているからって、もうちょっと面白い描き方はあったんじゃないかと思うぞ。
地理的な知識がなかったのでなんなんだが。徒歩でいける範囲の森に小屋を造ったりするのは、見ていて「?」だった。だって、近隣のベルラーシ人の農家を襲って食糧をかき集め、それで生活するなんて、すぐバレルだろう。ドイツ軍シンパの連中も来るだろうし(映画でも実際にやってきた)、連中がドイツ軍に通報すれば、あっという間に爆撃を食らうはず。なのに、なぜか暢気に暮らしているなあ、と見えるところもあったりする。それほど広い森で、ドイツ軍といえど立ち入るのに二の足を踏むような場所だったのかなあ。なんてね、思ったりしていた。
4人兄弟は、かっこよく描かれすぎ。事実をベースにしているといっても、相当美化しているのだろう。戦闘場面も、リアルよりアクション・エンタテインメント映画として撮っているので、そうならざるを得ないのだろう。っていうか、この映画はアクション映画でもあるので、それでいいのだろうと思う。4人とも生き残るというのは、話しが上手すぎないか、と思ったのだけれど、これは歴史上の真実らしい。へー、だね。もっとも、共同体内での男女関係も都合よく描かれているだろうし、周辺農家への徴発活動もホントはもっと非道いことをしたんだろうなあ、と割り引きながら見ていたけどね。
それでも、全体として目の話せない、次はどうなるのだろう、と引っぱってくれるとても面白い映画だった。ダニエル・クレイグもぴったりだし、いったんは赤軍に入るものの、最後には戻ってくる次男も、いかにもらしい演技。三男が次第に成長していく姿も、凛々しくていい。それと、長男、次男、三男のパートナーとなる女性も、美しすぎない美人であるのが、また、よい。
マン・オン・ワイヤー6/24テアトルタイムズスクエア監督/ジェームズ・マーシュ脚本/---
原題は"Man on Wire"。「敵こそ、我が友 〜戦犯クラウス・バルビーの3つの人生〜」もそうなんだけど、アリもののフィルムやスチルを組み合わせ、ナレーションとインタビューで展開するスタイルのドキュメンタリーは苦手。ドラマチックさが欠けて、どうしてもワクワクしない。これも寝るだろうなあ、と思ったいたら、始まって30分ぐらいになってしっかり睡眠していた。でも、以後の1時間はちゃんと見た。
この映画。証言や写真などに依っている割りに登場人物が多い。なので、誰がどういう役回りなのか、いまひとつピンとこなかった。このあたり、工夫の仕方があるんではないのかな。
動いている部分は再現フィルムかな? と思っていたら、どうもそうでもなさそう。16mmあたりで撮った過去映像が大量に使われている。ここで、疑問。将来を見据えて、フィルムをわざわざ撮って残していたのか? それとも、別の目的で撮っていたのを使っているのか? そのあたりが、よく分からない。
再現フィルムもいくつかあって、ここは再現というのはだいたい分かるのだけれど、なんの表示も出ないというのは不親切ではないのかな。過去のホンモノ、再現フィルムの区別をちゃんとしてくれた方が、納得しやすいように思うんだがなあ。
いよいよ貿易センタービルで綱渡り、というところは、そこそこ面白かった。でも、アップの映像はないのだね。まあ、いいけど。テンション盛り上げつつ、最後は拍子抜けみたいな気もしないでもなかった。さらに、その後の人生もさらっと流してしまっている。ひょっとしたら、こっちの没落人生の方が面白かったりしてね。
それにしても、これがアカデミー賞の最優秀長編ドキュメンタリー賞受賞作かい? ううむ。もの凄さは、あんまり感じなかったけどなあ。
南極料理人6/25ル テアトル銀座監督/沖田修一脚本/沖田修一
南極越冬隊の料理人という面白い素材を得ながら、面白く料理できいない。期待度が高かっただけに、残念。
この映画には芯になるものがない。エピソードの集積のみでヤマ場もない。いちおう調理担当の堺雅人が主人公のようになっているが、ドラマチックはどこにもない。まあ、下手な脚本家が泣ける(と思い込んだような)ドラマを作り込んだりしてチープになるよりはマシなのかも知れないが、それでもやっぱり何か工夫をするべきだろう。
もっと堺雅人という人物を掘り下げる手もある。海上保安庁からの出向らしいが、なぜ堺は調理人なのだ? または、堺と妻(西田尚美)の関係に、ちょっとだけドラマを作り上げてもよかったかも知れない。
そもそも、この映画ではほとんど個人を掘り下げた描写がない。冒頭で高良健吾が宿舎から逃走し、それを生瀬勝久が追うシーンがあるのだが、あれだってちょっと工夫すればドラマになるはずだ。なぜ高良が周囲が雪ばかりの南極で脱走しようとしたのか、そこをつっこんで描けば、後々の他の隊員たちの異常な行動への伏線にもなるはずなのに、そういうことをしていない。とてももったいないと思う。
堺(調理)と生瀬(学者)、豊原功補(医師)には、南極の仕事の描写がある。しかし、他の人物にはそれがないのは、もったいない。他の出演者では、きたろうは区別がつく(が、仕事の描写はほとんどない)。高良も、若いので区別がつく。しかし、それ以外の3人---古館寛治(主任・車両)、黒田大輔(通信?)、小浜正寛(大気学者?)---の区別がつかない。彼らの仕事の様子をエピソードとして描いていけば、もっと人物に厚みがでて面白くなったろうに。もったいない。
最初の方の食事のとき、ナレーションで隊員の紹介はするのだけれど、字幕がない。そこにもってきて、会話やナレーションが聞き取りにくいときている。ここは、エピソード+字幕で分かりやすくした紹介した方がよかったと思うぞ。
基地は標高3800メートルで気圧が平地の8割ぐらいしかない、と最初の方でいう。であれば、100度未満で沸騰だなあ。調理はどうするんだ? とずっと考えていた。しばらくして、ナレーションで「うまく調理しないとラーメンに芯ができる」と説明する。それは分かってるんだよ。だから、どうやって調理するんだ!? と、苛ついた。
他の観客も、高地で冷凍食品で、どうやって食事を出すのだろう、と思ったんじゃないのかな。僕は他にも、ビールはいったん凍ったものを溶かして飲んでいるのだろうか? と疑問をもった。他にも、水の原料(氷)をかき集めるシーンはあったけれど、水にする過程が描かれなかった。こっちは、どうやって水にするのか期待してみていたのに。だって、最初の方で「水が減っている。誰かが使っている」みたいなシーンがあって、水の大切さを強調していたからね。
つまり、見たい、知りたいのは、そういうことなんだよ。それを映像で見せればいいんだよ。ひとつひとつの料理について、どういう素材をどう調理するのか。その技術を見せていくだけでも、十分に面白いドラマになったんじゃないかと思う。ほら。「UDON」という、讃岐うどんを扱った映画があったではないか。あんな感じにね。ところが、この映画はそれをしない。もったいないと思いながら見ていた。
他にも、主任の引きこもりは何だったのか? その後、髪を洗っていたのは主任だと思うけど、どうしたの? なぜ追われるの? 彼の洗髪が水不足の原因だったのか? もう一人の隊員(ひげ面で区別つかず)のバター食いはなんなのだ? 堺も、娘の歯を1本失ったからって、あんなに落ち込むことか? いや、それは孤立した南極の基地だから、という理由をいいたてるならば、そう思えるような映画にしなくちゃいかんだろ。そうなってないから、苛つくのだよ。
ほかにも、豊原がときどき自転車で散歩に行くのは、なんなのだ? ときに裸で自転車に乗っていくが、意味不明なエピソードだ。そういう、分からないままほったらかしの話がいくつもある。
いくつも料理はでてくるが、こちらの食欲をそそったのは、ローストビーフのステーキと、ラーメンの2つだった。撮り方やエピソードによって、ああいう具合にも表現できるのだから、他の部分でももっと何とかしてくれや。
日本と映像がつながっていて、一般の子供の質問を受け付ける、というシーンがあった。ここで、堺の娘は自分を明かさずに父親と電話で話す。なんて娘だ、と思った。父親の方も、自分の娘の声ぐらい分かれ、と思った。
同じく、南極にばかり行ってると私にも考えがある、と行っていたという生瀬の妻が来ていて、生瀬の胸に抱きつくシーンもあった。嘘くさいよなあ。
というわけで、いまひとつ面白くなかったのだけれど、ひとつだけ悪い意味でなく気になったこと。それは、隊員が食事中に「うまい」と言わないことだ。ラーメンが恋しくてたまらなかった きたろう がラーメンを食べたときでさえ言わない。うーむ。これはこれで、なかなか味な演出だと思った。これぐらいかな、いいと思ったのは。
アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン6/26新宿武蔵野館1監督/トラン・アン・ユン脚本/トラン・アン・ユン
原題は"I Come with the Rain"。フランス映画だが、監督はベトナム人。俳優は米国、韓国、香港、日本、ベトナム・・・といった具合。ごちゃまぜ丼だな。ほとんど英語で会話は進む。クライム・サスペンスのようなオープニングで、ジョシュ・ハーネットが、世界第一の製薬企業のオーナーから、息子を捜してくれと依頼される。この息子の名前がシタオ(木村拓哉)って・・・。名前も変だけど、お前は何人だ? って話だよな。
で、探し出す過程を描くのかと思いきや、なんと、香港にいるシタオがさっさと登場してしまう。シタオはキリストの再来のような状態で、他人の痛みを自らが引き受け、癒す役割を果たしていた。・・・というのが、シタオの物語。
ハーネットは元警官。かつて猟奇殺人鬼と対峙したことがあって、以後警官を辞めて探偵に。どうも、自分もちょっと猟奇の世界に足を突っ込みかけているように見える。精神不安定風。これが、もうひとつの物語。
最後は香港マフィアのィ・ビョンホンとその情婦リリ(トラン・ヌー・イェン・ケー)の話。この物語がいちばんよく分からない。何かの取引中、相手の若衆が突然狂って、リリを人質にして金を持ち逃げする。でも、若衆はビョンホンの部下に殺られ、リリはシタオが自分の小屋に連れていく。で、シタオはリリの麻薬中毒を治療するのだけど、このあたりの物語にムリがありすぎて説得力がない。
よく分からないまま話が進展し、1時間目辺りからイメージ=観念の世界みたいな映像がつづき、とても眠くなる。なんとか寝なかったんだけど、でも、どんな映像だったかさっぱり覚えていない。だってつまんないんだもん。
で、リリを連れ戻しに来たビョンホンはシタオを撃ち、磔状態にして立ち去る。なぜか、ビョンホンは泣いている・・・。残されたシタオに、何でも金色に塗りたくる集団(宗教?)の1人が近づいてきて、さらにシタオはキリスト化される。そこにハーネットがやってきて、手から釘を引き抜いて抱え上げる・・・。という流れ。ううむ。
何かのストーリーの裏にキリストの復活や誕生が潜んでいる、という話ならまだしも、露骨にキリスト登場と迫害、復活が描かれすぎていてバカみたいに見える。リリはマリアか? ビョンホンはイエスを迫害した側の象徴? なんか、そういう要素が散りばめられているだけで、中味はあまりない。
そもそも、ビョンホンがリリを手元に置きたがる理由が分からない。香港のような狭い場所で、誰でも行けるようなところに小屋がけして暮らすシタオって・・・。その存在を庶民はみな知っている。なのに、警察もマフィアも探偵もなかなかたどり着けないって、変じゃないか? とか、突っ込み所も満載で、アホらしい。
いちばん英語が話せないであろう木村拓哉は、片言の断片的な独り言しかしゃべらない。なんか、ちょっと恥ずかしい気がした。
ハーネットの追う猟奇殺害犯のつくるオブジェは、どこかで見たことがあるような気がするんだがなあ。どこだっけ。
ROOKIES -卒業-6/26キネカ大森1監督/平川雄一朗脚本/いずみ吉紘
テレビドラマの映画化らしいが、テレビの方をまったく知らない。それでもまあ、見られた。ダメ生徒が熱血教師にほだされて野球に打ち込む。少しずつ強くなる。ってことだろ。「青春とは何だ」とか「ラグビーウォーズ」の世界だな。で、この映画。力のある、ワケありの新入生とか、主将のケガとか、前半の人間模様は、よくあるパターン。でも、単純明快な分かりやすさは悪くない。と思いながら見ていた。
ところが、後半ががぜんつまらない。その1 予選を勝ち進んでいくのはいいけれど、そんなに強いの? という疑問。これじゃ優勝候補じゃん。もっと、伏兵が・・・というイメージをつけられなかったの? その2 野球シーンの物語が下手。準決勝、決勝ともに、勝つための策が"バント"の一本槍。これはないだろ。もっとバリエーションをもたせろよ。野球を知らない連中がつくっている、ってモロわかってしまう。その3 とくに決勝戦。いちいち引っぱりすぎだって。攻守交代やタイムの間にあんな時間使ってたら、いかんだろ。という真面目な突っ込みを入れたくなった。ま、映画だから、という言い訳はできるけどね。その4 甲子園の映像はモロ合成。ちょっと萎えた。その5 卒業式で、生徒たちが教師に挨拶。これが長すぎる。もう、この辺りで、早く終わらせろよ、と思っていた。
男の子たちはいいんだが、女子生徒や女教師をもっと描いてくれ、という気分。吹石一恵なんか、もっと登場シーンを多くして、エピソードにもからませろよ、という気分になってしまった。他の教師たちも、ただ写ってるだけ、じゃもったいないと思う。それにしても、結局、勝ってしまうという都合のよさはどうなんだろ。挫折知らずに、俺らの流儀で世間は渡れるぜ、ということでよいのだろうか、と思ったことも確か。
ウォーロード/男たちの誓い6/26キネカ大森2監督/ピーター・チャン脚本/スー・ラン、チュン・ティンナム、オーブリー・ラム
最近は中国の史劇がやたら多い。けど、スケールがどうのとCGを多用して結局、つまらなくなっていたりする例が少なくない。物語がチープすぎたり、登場人物が多くて何が何だか分からなくなってしまうのだ。なので、中国の歴史物は避ける傾向にあったのだけれど、この映画はちょっと違っていた。CGがあまり使われておらず、愛憎劇も泥臭いし血なまぐさい。それに、何といっても落ち目の清朝高官に翻弄される成り上がり組、という図式が皮肉に満ちていて、考えさせる部分もあったりする。だから、最後までちゃんと見ることができた。
西太后の清朝は、何年ぐらいだっけ。映画のWebサイトで見たら太平天国の乱(1851〜64)は、日本の江戸最末期にあたるのだね。で、この映画は、清朝に刃向かった太平天国側ではなく、それを鎮圧する清朝側を描いているのが面白い。パン(ジェット・リー)は、清軍の将軍。反乱軍と戦い、死んだふりをして生き残り、盗賊の一群に助けられる。盗賊団のボスはアルフ(アンディ・ラウ)で、その弟分がウーヤン(金城武)。気があった3人は義兄弟の契り"投名状"を交わす。のだけど、その契りのためにはそれぞれが人を殺してからでないといけないらしい。なので、哀れに犠牲者が3人用意され洞窟にいる。3人は素っ気なく生け贄を殺し、義兄弟となる。って、なんか、すごいね、中国は。と思ってしまう。
でも、盗賊のままでは先は見えている、とパンがリーダーシップを発揮。清軍に取り入って、軍隊の一員となる。・・・という展開は違和感があった。自由奔放な盗賊から、規範の中の生活へ。いくら武器弾薬食糧金銭が手に入るからと、軍隊に入ってやっていけるのだろうか、と。そりゃもともと軍人のパンはいいだろうけどね。
という不安は徐々に当たってくる。システムの中の一員として、目的のために仲間を切り捨てるパン。蘇州城攻略でも、単身乗り込んで降伏を条件に太平天国軍を殺さない、と約したアルフに、パンは「殺せ」と命じる。あくまでもシステムの一員として清・西太后のため、と大義名分を押し通すパンと、義理と人情を大切にする元盗賊の考え方の違いがでてくる。映画でははっきり描いていないけれど、パンは元盗賊の2人を利用して上を目指したのだろうなあ、結局のところ。アルフ暗殺に際しても涙し、ウーヤンの攻撃にも人情味厚く対しているけれど、どうみてもパンは悪いやつに描かれている。ま、それでいいと思うんだけどね。
もうひとつ、女の問題がある。冒頭、戦いに敗れたパンが、村の女と一夜をともにする。得体の知れない男と、そんな関係になるなんて・・・なんだけど、この一夜の契りが延々と尾を引くのだよ、これが。実はこの女、アルフの女房だったのだ。ウーヤンがさらっと説明していたのだけれど(字幕を全部追い切れなかった)、女はアルフの幼友達で、アルフが女を助けた。一緒に村を逃げてアルフの女房になった・・・で、よかったんだっけ? 違ったかな。で、不思議なことにアルフが好きになれないらしく、幾度も盗賊の村から逃げ出したり、結局、戻ったりを繰り返しているらしい。それが、たまたまパンに出会い、恋してしまったという設定。この恋に落ちる過程がちゃんと描かれないので、その後の展開が幾分甘いのだけれど、まあ、尺も短いししょうがないかも。でもね。映画を通じて、女ならパンには惚れないよなあ、むしろ、アルフに惚れるよなあ、と思って見ていた。アンディ・ラウの方が男前だし、人情に厚いいい男に描かれているぜ。なので、女の行動(パンと浮気する)には疑問符だったな。
というような瑕疵はあるものの、そうじて面白かった。戦いの様子もいい。CGではなく、多数の人間を集めて大ロケーションしているらしいのも、いい。
それにしても、清朝の大臣3人組の老獪なことよ。出世をエサに将軍たちを手のひらの上で思いのままに動かすのだから。そして、パンでさえその言いなりになってしまうのだから(だって、最後は大臣たちによって暗殺されてしまうのだからね)。清朝なんて、そんなに長くはつづかず、没落の一途をたどっているっていうのにね。で、パンの言う、すべての人が平等の社会、というのは、後の中華人民共和国のことなのか? ううむ。中共もこれから何年もつか分からないと思うんだけどねえ。
ロルナの祈り6/29ギンレイホール監督/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ脚本/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
原題は"Le silence de Lorna"、英語タイトルは"Lorna's Silence"。ベルギー/フランス/イタリア/ドイツの合作らしい。
なんだかよく分からない映画である。ギンレイの紹介ページで偽装結婚の話であるのはあらかじめ知っていたけれど、偽装のシステムが最後まで分からずじまいだった。
主人公のロルナはとても美人とはいえない女性。30凸凹? クリーニング屋で働き、同居している男クローディがいる。これが偽装結婚の相手か? クローディは麻薬中毒らしいが、1人じゃやっていけない軟弱野郎だったりする。で、タクシー運転手をのファビオが、偽装結婚に一枚噛んでいるようだ。で、映画が始まってすぐ、ロルナはファビオにベルギー国籍が取れた、と告げる。それなのにロルナとクローデイの同居生活はつづく。それだけじゃない。ヤク中のクローディを病院に入れたり、世話もする。そのかたわらロルナはクローディとの離婚が早く済むよう、DVをでっち上げようとする。クローディに自分を殴れ、と命令したりするのだよ。・・・離婚するのに何でこんなことをする必要があるんだ? その一方で、ファビオはクローディに、ヤク漬けにすれば死ぬからそうしろ、と命令する。ううむ。いったいこの偽装結婚はどういうシステムになっているのだ? 国籍が取れたらさっさと別居して、テキトーなところで離婚すればいいんじゃないの?
で。こういう生活を送るロルナに、ファビオは次のロシア人との仕事がどーのこーのとせかす。うーむ。何が何だか分からんよ。どういう偽装なんだ? 誰が金を出し、誰が儲かるシステムなんだ? ずうっと考え、いつか明らかになると思いきや、最後まではっきりせず。フランス周辺の人々なら、事情が分かってすんなり理解できるのかなあ。
ロルナには彼氏がいる。どんな仕事をしているのか知らないが、愛し合っているようす。でも、偽装結婚ているのも知ってる見たい。で、同居中のへなちょこヤク中野郎のクローディは毛嫌いしているように見えた。ところが。禁断症状を克服するために入った病院から戻ったクローディが、またぞろ売人と会っているのを見たロルナは、とつぜん異常な行動にでるのだ。なんと、いきなり裸になり、クローディに抱きついてしまう。んんんん? なんなんだ? クローディが再びヤク中に堕すのを、身を挺して防ごうというのか? ロルナはクローディが好きになっちまったのか? 意味が分からん。ロルナの心の動きなんて、これっぽっちも表現されていなかったしなあ。ついでにいうと、ロルナ役の女優はもの凄い貧乳で、体つきは筋肉質でかっちり。30年後は立派なオババになっているだろうことが想像できるような裸体だった。
で、驚くのは次の次ぐらいのシーンでクローディが死んじゃってること。ええっ? しかも、死因は麻薬の大量摂取だって。おいおい。これは、ファビオの仕業なのか? それともクローディが自分で? まったく分からない展開だ。
さらにしばらくして、ロルナにクローディの子供が宿ったことが分かるんだが、いきなりだよなあ、これも。コンドームつけずに、ヤク中の同居人とセックスするか? 信じられない展開だぜ。でもって、ファビオには「生む」と応え、ロシア人との仕事(次の偽装結婚)がしにくくなるから堕ろせ、と言われているのに拒否。結局、ロシア人との仕事はオジャンになって、ロルナはファビオの手下にいずこかへ連れていかれそうになるが・・・。小便がしたいとクルマから降り、拾った石でがんがん殴って逃亡。で、オシマイ。って、なんなんだよ、この映画は。さっぱり分かんねえよ。
そうそう。2つ目の病院では、妊娠していない、と言われたような描き方をしていて、じゃあ想像妊娠か? でも、そうだとも断言していない。でも、ロルナは妊娠していると信じて逃亡したみたい。では、ロルナは精神に異常をきたしたのか? よく分からん。
ロルナや他の連中はアルバニアからの移民? らしいことが後半でセリフにあるのだけれど、そういう事情についてはよく分からんよなあ、日本人には。もっと、偽装のシステムをはっきり説明しろ。偽装結婚の必要性も知りたい。それが分からないと、映画の意味もないと思うがなあ。
描き方がみんな舌足らず。偽装を必要とする背景、偽装のシステム、金の流れなんかをしっかり描かないと、伝わってくるものがない。ロルナの心の動きや目的、なんかも中途半端。あまりにも断片的すぎると思うがなあ、この映画。

 
 

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