劔岳 点の記 | 7/1 | MOVIX亀有シアター8 | 監督/木村大作 | 脚本/木村大作、菊池淳夫、宮村敏正 |
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監督の木村大作がPR活動でマスコミによく出ていた。CGを使わず、役者にも本当に登山してもらって撮った作品だ、と自慢していた。なので期待したのだけれど、言うほど面白くなかった。端的にいうと、ドラマがなくヤマ場がない。山の画面も、撮ってる連中にとっては「どうだ凄いだろ」なのかも知れないけど、見る方にすると「もういいよ」という気になってくる。1時間を過ぎたあたりからあくびが出てしょうがなかった。 明治末期。陸軍測量隊が前人未踏の劔岳に挑む話。陸軍の柴崎(浅野忠信)と、案内人の長次郎(香川照之)の信頼に満ちた関係史といってもいいかも知れない。明治39年に2人が下見をするまでが前半部分。後半は翌年の測量と登頂が描かれている。下見シーンまでは人も多く登場するし、人間関係も密に描かれる。そこそこドラマもありそうだ(と期待させたが・・・)。2人の下見の過程で、雲海を下に見て会話するところや、遠く富士山が見える、なんていうところはなかなかよかった。 が、しかし、翌年の登頂部分になるとがぜんつまらなくなる。他の測量メンバー(松田龍平、モロ師岡ら)や案内人たちが加わって賑やかにはなるのだけれど、単にそれだけでドラマがない。松田龍平の生意気さが薄らぎ、従順になる過程も、とってつけたような描き方。また、同じように登頂を目指す山岳会の描写も薄っぺら。意地の張り合いも淡々とし過ぎて、これからどうなるの・・・? という緊張感は皆無。事故も、雪崩、案内人の滑落と松田龍平の転落、吹雪の中の立ち往生ぐらいで、それも全員無事と迫力に欠ける。本当は大変だったのかも知れないが、大変だったという雰囲気がまるで伝わってこない。 他にも、香川照之は地元では嫌われ者のように描かれているかと思うと、ちゃんとついてくる村民もいたりして、その存在が中途半端。また、香川の息子も、当初は反対だった劔岳登頂を中盤から認めだす、のはなぜなんだ? ちゃんと合理的な説明をしてくれよと思う。 劔岳登頂には、一般人である山岳会に先を越されたら面目丸つぶれ・・・という陸軍の維持があった。そこの説明も、いまひとつピンとこない。もっと陸軍の維持を汚らしく表現するとかね。なんか作業必要なんだろう。剣岳周辺でも陸軍測量部と山岳会は接近遭遇するのだけれど、なーんの緊張感もない。もっと山岳会の思いや意図を深めていけば、違ったのかも。 そういえば、この映画、妙なところがある。全編を通すと、浅野が主人公のようなんだけど、突然、山岳会の中村トオルのナレーションが入り、彼の意思が表現されたりする。これは表現手法としてとても奇妙。いったい誰の視点から映画をつくっているのか分からなくなる。 で、ほとんど困難と思われていた剣岳登頂が、修験層のひとことで呆気なく叶ってしまうのが、つまらない。なーんだ。ぜんぜん難しくないじゃん、と見えてしまうのだ。しかも、頂上征服シーンはなく、あれっ? という間に、陸軍測量部が頂上に登っていたりする。おいおい。クライマックスがないじゃん。だいたい、登山ものって、映像化は難しいと思う。三角錐のような山を目指すならともかく、峰が連なっているわけで、画面を見てもどこが頂上かピンとこない。さらに、一行が山間部のどこにいるか、その地理的把握も困難。だから、一行がどこをどう通り、どこに向かっていて、あとどのぐらい、というようなことばさっぱり分からないからだ。この映画もその例に漏れず、延々と山の映像を見せられても、驚きや畏怖、感動がつたわってはこなかった。 後半の、会話シーンなんかで、よくこれでOKだしたな、と思えるような、声のタイミングの悪いシーンがあった。この監督、ホンモノの登山とCGなしの画面に酔いしれたか、人間ドラマにはめっぽう興味がないらしい。これじゃ、感情移入もできないよ。キャストもバラバラなような気がした。自然体すぎるセリフの浅野。思いっきり演技する香川。ラフな口調の松田。なんか、トーンがそろわない。 登頂したら修験者の錫杖が残されていて、すでに前人未踏ではなかったと分かる。では、あの修験者(夏八木勲)が・・・とてっきり思っていたら、なんと、Wikiによると奈良時代のものらしいという。なら映画でもちゃんとそう描くべきだろ。 キャスト&スタッフが、「仲間たち」という題名の後に名前だけがだらだらとづく。スタッフの職種は書かれていない。みな同格だ、とでもいうつもりなのかも知れないけど、そんなの意味がないと思う。 それにしても、あんな山の中の測量をしたところで、日本軍の役にはほとんど立たないと思うんだが、なんでまた、測量および発登頂にこだわったのかね、陸軍さんは。わからん。それと。山頂にあんな木枠の三角点をしつらえたって、数ヵ月もすれば吹っ飛ばされちゃうんではないの? と、心配になった。宮崎あおいは可愛いけど、それだけでしかなかった。 | ||||
愛を読むひと | 7/1 | MOVIX亀有シアター2 | 監督/スティーヴン・ダルドリー | 脚本/デヴィッド・ヘア |
原題は"The Reader"。原作は「朗読者」で、むかし読んだ。女が文盲なのは覚えていたけど、その罪がアウシュビッツに関係があり、最後に自殺するまでは覚えていなかった。 小説では「なるほど」と納得できる事柄が、映画になるとそうもいかなくなる。たとえば文盲。かつてアウシュビッツで看守をし、戦後は市電の車掌をしていたハンナ(ケイト・ウィンスレット)が読み書きができない、と他人に知れないということがあるだろうか。相当に難しい確率だと思う。また、1922年生まれのドイツ人で、文盲であった理由というのは何だったのだろう。ハンナの生い立ちにはまったく触れないのも、気になってしまう。また、文盲はそんなに恥だったのか、とも思ったりした。10%〜の率で、文盲は存在したんじゃないのかな。想像だけど。というような基本的なことが気になってしまって、どうもいけない。ついでにいうと、放課後毎日のように自転車で15歳の生徒が30半ばのハンナの家に日参していることを、街の人は気づかなかったのか? ほら、最初の方で妹か姉かが、「生まれ育った街で迷うの?」なんていってたではないか。ってことは、友人知人もうようよしているだろうに、見つからない=噂にならない方がおかしい。 そもそもハンナという女は、どういう存在なのだ。30半ばで独身で、15歳の少年をたらし込んで性の奴隷にしてしまう。それは、たんに本を朗読してもらしいたいがためのことなのか? 性的欲望が先なのか? その辺りを抉っていないのがもったいない。 ハンナはアウシュビッツで看守をしていたときも、ガス室送りにする人間を選ぶとき、朗読させることを前提に選んでいたらしい。このことは何を意味するのだろう。読ませてから殺す、ということに痛みを感じることはなかったと言うことか。いや。そもそもアウシュビッツでの行為を、とくに非道いことだと思っていなかったフシがある。後半の法廷で、他の元看守女性たちとともに裁かれるときも、自分のしたことを誤魔化そうとはしていなかった。その意味では正直なのだろうけれど、事の重大さに怖じ気づき、ウソを言ってでも助かろう、という気持ちはなかったように見えた。彼女は、いったい、どういう女性なのだろう。 学生の一人が言っていたけれど、アウシュビッツから生還した母娘の母親が、収容所での話を書かなければ、元看守たちは法廷に引きずり出されることはなかったかも知れない、のだ。悪いのは親衛隊の偉い連中で、命令をだしていた人たち。自分らは、その命令に従っていてただけ。と思っていることも十分に考えられる。で、そのことに大きな間違いはないだろうと思う。軍隊に入り、上官の命令に従うのは義務だし、従わなかったら処罰されるのだから。もっとも、いくら戦時下、ヒトラー政権下といっても、人としてしていいことといけないこと、の区別はつけなくてはならないとは思うけどね。でも、極端な状況下では、精神がマヒしてしまっていることだって、あるかも知れない、とも思ったりする。 ハンナが終身刑を言い渡される前、たまたま傍聴しにきて彼女の今を知ったかつての少年=長じて法学生マイケルは、ハンナが文盲であることを訴えようが悩む。文盲であることが裁判官に分かれば、余計な罪を背負わず、大幅に減刑される。でも、文盲であることを知られたくなかったハンナは、自分が調書を書いた、とウソの証言をする。この辺りのところでは、マイケルの判断が正しかったかどうか、悩むところ。せいぜい4年の刑になるか、終身刑になるかでは大違いだ。けれど、文盲であることが人にバレるよりは、終身刑を選んでしまうハンナの心は、どうなっているのだろう。 それから10年ほどして、マイケルはハンナのために本を朗読したテープを送る。なんでいまさら、と思う。もっと早く面会に行けばいいものを、どうしてなのだ? と、納得できない部分だな。で、20年で出られると分かると、出所前日ハンナは首をつる。社会に戻りたくなかったのか。それとも、何日か前に、やっと面会にきたマイケルに、アウシュビッツのことで責めるようなことをいわれたから? 後者なら、マイケルはある意味で殺人者になってしまう・・・。 ハンナは、なけなしの金を、アウシュビッツ本の著者の娘に、とマイケルに託していた。それでマイケルはアメリカまでどけに行くのだけれど、著者の娘の高飛車な言い方、上から目線の話し方が鼻についた。そりゃあなたもお母さんも大変な苦労をしたんだろうけれど、加害者側にもそれなりの言い訳があるんじゃないの・・・と思ったりした。 とはいうものの、最後に、自ら字を覚えようとするハンナの姿勢は感動もの。できることなら、こっちの方に重点を置いて表現してもらえると、もっと評価が高くなっていったかも知れないと思う。それにしても、俺は最初からハンナが文盲であることを知っていたが(だから、マイケルに本を読ませるシーンやメニューを見るシーンは興味深かった)、知らない人はどこで「彼女は字が読めないのか」と気づくのだろうね。 | ||||
トランスフォーマー/リベンジ | 7/2 | 上野東急 | 監督/マイケル・ベイ | 脚本/アーレン・クルーガー、ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン |
1作目も見たけど、ざっくりとしか覚えていない。で。ロボットが涙を流して別れを悲しんだり。母親が頭をぶつけたり大麻クッキーでラリったり、同級生がスタンガンで自爆・・・と、コメディ要素がたっぷりの前半。人間ドラマも密で、1時間目ぐらいまではノンストップで楽しめた。これは星5つの満点評価になるかな、と思っていたんだけど、やっぱりCGによるロボット同士のバトルには退屈する。そして、老ロボットによってエジプトに飛ばされてからは眠気との戦いだった。一派の名前だの固有名だのマトリックスだの何だのと前半では登場しなかった固有名詞がどどっとでてきて、ついていけなくなってしまう。まあ、1作目をおさらいすれば分かるところが大半だろうけど、そんなの忘れてるぜ。で、とうとう1時間40分前後から15分ぐらい寝てしまう。ううむ。やっぱり、何も考えなくてもいいバトルシーンは苦手だよ。 ヒロインのミカエラ(ミーガン・フォックス)は、前作よりもきれい、というより、マルボロマンに色目を使うエロ女みたいになっていた。スタイルがよくないのか、下半身はあまりでてこない。胸元はバッチリだったけど、後半も白いジーンズにロングブーツでどたどた走り回る。やっぱ、ジーンズの短パンで駆け回ってくれないとなあ。その彼女が一番魅力的に見えたのが、口元をベールで覆い、眉と目だけを出すエジプト原住民のスタイルでちらっと写ったときだった。彼氏の方は相変わらず頭悪そうなアンちゃんのままだった。でも、立派な大学に入学して、彼女とは遠距離恋愛らしいが。 後半からは、ちょっとだけインディ・ジョーンズの冒険譚みたいな部分があるのだけれど、あまりにもあっさりし過ぎてつまらない。あの文字情報の謎解きをもうちょっと深めてもらえると、寝なかったかも。 ロボットが登場するSFだから多少のいい加減は見逃すけど、いろいろ気になるところがある。敵味方のロボットの見分けがつきにくい。キューブのかけらが2年もトレーナーのポットに入ったままタンスに下がってるか?(そもそもキューブって何だっけ? キューブのかけらに近づくと、家電製品がロボット化するのかい?) 重要なマトリックスを善のロボットが身体をはって守った・・・ってのが、そこらにある神殿の入口の壁一枚隔てたところにあるって、おいおい。ピラミッドのてっぺんに太陽を攻撃する兵器があるだと! バカいってんじゃないよ、だなあ。とかね。ところで、ヒーローの両親は何で突然エジプトに現れたんだ? 悪玉ロボットが人質に連れてきた? | ||||
トランスフォーマー/リベンジ | 7/2 | 上野東急 | 監督/マイケル・ベイ | 脚本/アーレン・クルーガー、ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン |
2度目。今度は寝ないだろうと思っていたのだけれど、なんと1時間目ぐらいから眠くなり、ちょっと寝てしまう。でも、1回目より早めに、違う部分で寝たので、これですべての部分を見たことになった。ははは。見逃していたのは、働く自動車が合体してでかくて赤いロボットになって暴れ回る部分を中心としたところだった。 | ||||
ディア・ドクター | 7/3 | 新宿武蔵野館1 | 監督/西川美和 | 脚本/西川美和 |
ポスターやタイトルはほのぼのムード。しかも主演が鶴瓶。だからって心あたたまる映画を西川美和が撮るはずがない。何の予備知識も入れまいとしたが、新聞の紹介をちらっと見たとき「医師が行方不明になる」という文字が目に入ってしまった。ああ。これで映画の意外性は雲散霧消したか。と思っていたら、映画はその、行方不明になったシーンから始まった。そして、過去に遡る。西川美和。やっぱりタダでは終わらない。 とはいうものの、結論をいうと、こちらの常識を揺さぶるほどのどつきはなかった。案外と常識的な範囲の問いかけであり、ごくフツーの人でも考えそうなネタだった。といっても、これまでこのモチーフを扱った映画がよくある、ということではない。この手の事件を耳にすると、たいがいの人は、映画に描かれているようなことを思い描くだろうな、という内容だった、ということだ。善と悪とは表裏一体。その行為が法律的には違法行為であっても、人々の役に立っていてかも知れない。では、その折り合いはつけることができるのだろうか? といっても、下手な、というか、社会派の監督なら「さあ、どうする」と離村における医師不足の現状をタテに行政を問い詰めたりするのだろうが、そんなことはしない。メッセージ性は表に出さず、さらっと受け流す。そして、今日の観客席がそうであったように、鶴瓶の笑顔を見にやってきたオバチャンたちの心にもほんわかと届くようにソフトにつくられている。この辺りは、すでに手練れだな。万人受けする映画に仕立てつつ、主張もしっかりと込めている。この辺りは、アート系を任じてわけの分からない映画をつくったりする監督たちによーく学んでもらいたいものだと思ったりする。 鶴瓶がニセ医者であることは、映画が始まって20分ぐらい。村長と刑事らが鶴瓶の履歴書を挟んで話をしているところで分かった。あとは、鶴瓶がニセ医者であることを少しずつバラしていく設定。これなら、どんなにニブい観客でも感づくはず。ここらへんの描き方も上手い。また、鶴瓶と余貴美子(看護婦)、瑛太(研修医)の3人の日常を描いていくだけでもそこそこ面白いので、飽きさせない。けれど、ニセ医者であることがはっきりしてからの"うねり"は物足りない。たとえば緊張性気胸の対処方法に戸惑い、余に教えてもらってなんとか処理した後、鶴瓶と余との関係はそれまでと変化したはずだ。鶴瓶は恐れを抱き、余は疑惑を持ちづけるはず。この関係がほとんど描かれないのがかなり物足りない。だって、ここに大きなドラマが生まれるはずではないか。なのに、一気に余の出番が減り、代わって八千草薫と井川遙の出番が増えてしまう。これでいいのか? それとも、余はずっと前から鶴瓶がニセ医者であることを知っていた、のか? 鶴瓶と八千草との関係も、最後まで曖昧なままだ。単なる患者としての対応なら、妙に濃い。最初に、瑛太の車で八千草とすれ違ったとき、余が八千草について言及するが、鶴瓶は「遠いからもう診に行くのが面倒」というようなことをいう。これは、全編通してみた後だと、何かを否定しているように見えてくる。鶴瓶と八千草との間には、何かがあったのではないか・・・。それでなければ、八千草の意向を受け入れ、娘である井川遙にウソの病名をつたえるというのも、あそこで医師をしつづけて行こうと思うなら、リスクが高い。それに、最後に八千草が入院している病院の賄いでもぐり込むなんて、そりゃ一個人に対して入れ込みすぎだよなあ、と。ま、穿ちすぎかも知れないけどね。 鶴瓶との関係性というか、ニセ医者と知っていたかどうか、を刑事に聞かれたときの各々の対応は、前作「ゆれる」と似ている。八千草は「別に何もしてくれなかった」と証言する。余は、とくに擁護も罵倒もしない。瑛太も、自分の鶴瓶への思いを語らない。このあたりが、とても興味深い。ごくフツーの社会派映画なら「医師免許は持ってなくても、よくやってくれた」と擁護する意見が出たり、一方で「騙された」という否定の言葉がたくさん出たりするはず。でも、あえて深くは踏み込まない。その辺りの曖昧さ加減は、いかにも西川美和っぽい。 鶴瓶の父親は、医者だった、みたいだね。最初に刑事が電話をかけたマンション。あそこにいたのは、まったくの別人、と思わせておいて、実はやっぱり本当の両親だった、ようだ。これがどういう意味を持つか、それについてもとくに言及はない。なんだか、ちょっともやもやした気分になる。父親が医師であるということまでは、ウソはつけなかった人間だよ、ということなのかな。 印象に残ったのは、香川照之が、喫茶店で松重豊に尋問されるシーン。香川はニセ医者であることを以前から知っていたわけだが、鶴瓶の村民に対する態度を「愛があったと言えるのか」と刑事に問われ、故意に椅子で倒れる。それを松重豊が思わず助けるように手が出る。そして「ほら。あなた助けたでしょ。それと同じですよ。でも、それに愛があります?」みたいなことをいう。これが最もメッセージ性の強いシーンだったかもね。 岩松了は、この手のドラマの刑事役としてはちょっと浮いている。「時効警察」を連想してしまう。八千草薫は、野良仕事に出かける百姓にはどうしても見えない。それから、少し疑問。気胸への対応を知らないのに、気胸用の穿刺針が咄嗟に出てくる診療所というのは、おかしくないか? そして、ラストだけれど、八千草の娘・井川遙が努めている病院なんだから、すぐ顔が割れるだろうに・・・。と、思ってしまった。ま、見つかったらまた逃げるだけなのかも知れないけどね。 それにしても、鶴瓶は呆けてしまった父親や、介護する母親に会いに行かないのはなぜなんだろう。井川が、母親に会うのは1年後、と言っただけで動揺して診療所から逃げ出したっていうのにね。 | ||||
60歳のラブレター | 7/6 | キネカ大森2 | 監督/深川栄洋 | 脚本/古沢良太 |
60歳前後のカップルが3組。よくある定番の設定で、「こんなんありえねー」というつくりごとめいた物語が進んでいく。別に映画館で見なくても、テレビでいいんじゃないの? というレベルの内容。なのだけれど、脚本はキチッとしていて破綻がない。演出もけれんがなく素直。外れがないといえばそうだけれど、面白さもないということでもある。 中心になるのが中村雅俊と原田美枝子の話。定年退職した元建設マンが、浮気相手の会社に共同経営者として乗り込む。が、大企業で通用した力業が通じない。若い人のアイディアを理解できない。仕事バカで料理もできない。女房を顧みない。・・・という設定は、古臭すぎる。で、いったんは離婚した2人が元の鞘に・・・って、あり得ないだろ。妻を失った医師・井上順と独身翻訳家の戸田恵子のぎくしゃくした恋。ありえねー。翻訳業にそんな金持ちはいないと思うぞ。文筆業者はみんな地味だし。それに、あんな奥手の医師なんか、いるはずがないだろ。魚屋の亭主・イッセー尾形と妻の綾戸智恵。素人歌手が、追っかけの中でも一番可愛い娘を嫁にしたのに、いまは見る陰もなし、というのだけは、うんうん、と納得した。はは。この2人は病気ネタだけど、泣けもしない。しかしだな、こういう自営業者に病気を持ってくる話って、安易すぎだろ。どうせなら熱血サラリーマンが病気になれよ。高給取りの翻訳家が病気になれ。魚屋の亭主に若い彼女をひっつけろ。なんて思ってしまう。話のつくり方からしてステレオタイプで、そこから抜け出せていない。 | ||||
ウィッチマウンテン/地図から消された山 | 7/6 | 新宿武蔵野館2 | 監督/アンディ・フィックマン | 脚本/マット・ロペス、マーク・ボンバック |
原題は"Race to Witch Mountain"。「未知との遭遇」「MIB」「スパイキッズ」「ターミネーター」を合わせたような子供向けのSF映画。中学生ぐらいが喜びそう。大人向けだとばっかり思っていたので、拍子抜け。ストーリーもかなりチャチいし。「テラビシアにかける橋」のアンナソフィア・ロブだけが見どころ、だったかも。まだ少女そのものの彼女だけれど、そんなに可愛く撮れていないのが残念。 話は単純。衰亡する星の生物が、地球を狙ってやってくる。その星では武器を使って攻略する派と、そうしない派が対立していて、兄妹は友好派の代表として地球を調査しにきた。けれど、円盤が墜落。そこにタクシーの運転手が絡んで、友好派の兄妹を殺そうとする攻略派の宇宙人(ターミネーターみたいなの)、米政府の特別チームと戦う。 しかし、地球人にとってどっちが友好派でどっちが攻略派かなんて、説明されたって納得できないよなあ、と思ってしまうとバカバカしくなってきて見ていられなくなる。レストランで3人を逃がしてくれたウェイトレスのおばちゃんだってそうだよ。3人が米政府の基地に潜入するのも、あまりにも簡単すぎ。テキトーすぎるよ! って思えるところだらけで、中盤以降は萎えてしまった。ラストもあっさりし過ぎていて物足りない。でもま、お子ちゃま向けだからしょうがないか。 あの宇宙人の兄妹。あの姿は地球人になりすますためのものなんだよなあ。実際の顔は、攻略派の宇宙人みたい、なのかな? タイトルになっているウィッチマウンテンが別にミステリアスでもなく、すんなり到達できちゃうのは、つまらなすぎだと思うけどなあ。 | ||||
蟹工船 | 7/9 | テアトル新宿 | 監督/SABU | 脚本/SABU |
多喜二の原作は読んでいない。今後も読むことはないだろう。たしか、大正プロレタリアだよな。あ、でも発表は昭和4年なのか。ふーん。 映画はつまらなかった。SABUの持ち味である疾走感、ドライブ感はまったくない。全体に平板で抑揚がない。もうちょっと起承転結をつけたほうが、あの時代の労働者階級の立場や状況を理解しやすいのではないのかな。時代背景など、そもそも、の部分がないので、たんに奴隷のように抑圧下で暴力的に働かされているようにしか見えない。実際そうだったのかもしれないが、そんなにヒドかったの? という気持ちも湧いてくる。だって、彼ら労働者は自由意思で働いているのだろ? 女工哀史の時代じゃないんだし。それをむち打ったら、次の働き手がなくなるのでは? というような気持ちも湧いてきてしまう。つまりまあ、当時を知らない現代人には、どこまでが史実に近く、どこが過剰な表現か分からないのだから、それを曖昧なままに描くのは、問題ではないのかな、と思うのだ。 船内は舞台のセットのように描かれる。巨大な歯車や、缶詰のベルトコンベアー(缶詰をつめるシーンがないのもつまらない)は、ドイツ表現主義のように象徴的扱いで登場する。「モダンタイムス」の真似かい。土管みたいな寝床も、何かを意味させようとしているのかも。しかし、そういう表現はとても古臭く感じるし、同じセットの大道具を何度も何度も使うのは、安っぽく見えるだけだ。映画全体が書き割りのように見える。やはり漁の工程や労働の過酷さを、演劇的なパターンで見せるのではなく、生身のドラマで見せる必要もあると思う。 ドラマとしての流れにリズムがない。同じようなシーンが何度も登場したりして、ぜんぜん前へ進まない。やっと蜂起か、と思ったら、このシーンはさっさと終わってしまう。なんだよ。もっとガンガン戦って資本家の手先をやっつけろよ、と思っても、そっちには時間を取っていないようだ。 労働者が酷使されているのに、そこにデブは要らないだろ。あれはミスキャスト。他の労働者たちも、あまり見分けがつかず、個性が活かされていない。一方の西島秀俊の監督は、迫力がなさ過ぎ。もっと冷酷で鋭利な痩せぎすの男か、はたまた六平直政みたいな豪腕タイプにするとか。もうちょっと見かけでなんとかできなかったものかね。こうしたなか、松田龍平の達者さが目立った。他の役者とは格が違う存在感を示していた。 全編、蟹工船というのは、ドラマとして面白くないよな。蟹工船の物語と、作者である小林多喜二の物語をパラレルで構成するとかして、当時の特高の怖さを見せるという手もあったんじゃないかな。それから、セリフが聞き取りにくくて何しゃべってるか分からない部分が相当あった。 | ||||
MW-ムウ- | 7/10 | 新宿ミラノ2 | 監督/岩本仁志 | 脚本/大石哲也、木村春夫 |
最初の30分で、これはいいかも、と思わせて。でも、その営利誘拐のチェイスのオチがなんともマヌケでがっかり。以後、1時間目ぐらいはストーリーを追うことでついて行けたけど、次第にバカバカしくなってきた。基本的な物語にアラが多すぎる。たかが毒ガス如きでここまで異常な事件になる必要があるのか? 冒頭は、たんにチェイスシーンを入れたかっただけなんだろう。日本ではムリだからタイにしたのかな? で、犯人(玉木宏)はまんまと1億円を手に入れるのだけれど、その手口が唖然。最初にホテルを出るとき、デリバリーサービスに依頼していたというものだ。では、わざわざニセのアタッシュケースを用意することも、ダミーとなる多人数のバイトや現地の運び人を雇ったり、あえて追われる必要もなかったわけじゃん。そーっと目立たないようにホテルを出ればよかったじゃん。なんなんだよ、あの無意味なチェイス劇は。この部分、カメラワークや画調がハリウッド映画風でいいなと思ったんだけど、このオチでオジャンだね。以後の画調はつまらなくなっちまったし。 さて。話は途中で分かった。日本で開発された(といっても日本人が開発したのか米軍が開発したのか不明)強力な毒ガスが、15年前に沖之真船島で漏れた。島民の大半は死に、生きていた者も米軍に殺された。ただ、2人の兄弟だけを除いては・・・。という話。そもそもその毒ガスは何のために造られたのか。また、その製造に誰がどうかかわったのか、示されていない。望月大臣はどういう役割を演じたのか? 米軍の指示だったのか? 何のために? 沖之真船島は、どうも東京からクルーザーで行けるぐらいの距離らしい。しかも、一般人が簡単に潜入できるようだ。しかも、毒ガスの貯蔵プールにも容易にアクセスできる(あの中の毒ガスは、からっぽだったのか? なんで?)。あるのは監視カメラ1台。それでバレてヘリの襲撃は受けるけど、あまりにも非現実的でチャチいだろ。 神父(山田孝之)は、その島の崖から落ちてもケガをせず、帰りの船から玉木に落とされても生還する。すごい生命力だ。ラスト、米軍のヘリから落ちてしまうのだけど、ホントに死んだのか? おらあ、ひょっこり出てくるのかとばっかり思っていたよ。それにしても、東京湾でヒコーキを爆破したら、目立ちすぎだよな。 以前に毒ガスと島の謎を追っていた新聞記者は事故死したという。しかし、記者の家には取材メモやノート、資料がどっさり。おいおい。そういうのを始末しなきゃだめだろ。記者ひとり始末したって、意味ないじゃん。と、突っ込みを入れたい。 いくら玉木が毒ガスを吸ったからといって、単なる殺人鬼=モンスターになってしまったとは見えない。そもそも、島の生き残りを殺していく理由は、なんだ? 毒ガスの存在を黙っている代わりに大金をせしめた、みたいなことが言われていたが、他の島民が焼き殺されていく中、助けられ、お金で口封じさせられた島民がいたのはなぜなんだ? そうした連中のひとりの娘や、刑事まで殺してしまうほどのモンスターぶりが、どうしても感じられなかった。 玉木が単なる殺人鬼なら、毒ガスにこだわらなくてもいいんではないの? 保育園の児童をつれて米軍基地に乗り込み、基地内にある毒ガスを奪おうとした理由はなに? いや、そのまえに、一般人が米軍基地に簡単に入れ、しかも、毒ガスのありかまで簡単にたどり着き、はては毒ガスを2本奪えてしまう杜撰さは何なんだ! で、ラスト。死んだ女記者(石田ゆり子)の意志を継いで若い記者が記事にするのだけれど、世間や望月大臣に無視された・・・って、なんだよ。記事になっても問題ないなら、大量殺人なんてする必要がなかったんじゃないの? 神父・山田の存在が薄かったな。だいたい、神父が玉木の狂気に気づいていれば、さっさと警察に売り渡せばよかったんだ。それを、かばうから。それと、神父と保育園の先生とのロマンスは、もうちょい描き込んだ方がよかったと思うんだが。 とか、後半は突っ込みどころだらけ。眠ってしまうのをやっと堪えてました。そうそう。エンドクレジットの最後に「この映画はフィクションです。法律で禁じられていることはしないでください」というような文章が出てきた。いったい何なんだ、これは? | ||||
ノウイング | 7/13 | 上野東急2 | 監督/アレックス・プロヤス | 脚本/ライン・ダグラス・ピアソン、ジュリエット・スノードン、スタイルズ・ホワイト |
原題も"Knowing"。サスペンス+ちょっぴりホラー的要素+SF。50年前のタイムカプセルが告げる予言、その解読、そして飛行機事故、列車事故。と引きずり込んでいく力がある。ところが、謎解きが進むにつれて陳腐になり、ラストは、おいおい宗教かよ、といいたくなる代物に堕する。すべて解き明かさず、秘密のままの要素があったほうが、余韻が残ったかも知れない。 50年前の少女が憑かれるように書き殴った数字。その意味の解き明かしから、重大事故への流れはドキドキする。いきなりの飛行機墜落、炎に包まれる犠牲者の様子は「うっ」となってしまう程の描写。その後の、地下鉄事故は、数年前の福知山線の脱線事故車両もかくや、と思わせるようなリアリティで「うっ」となってしまった。ま、多少、列車がミニチュアっぽいCGではあったけれどね。 同時に、得体の知れない人物が子供の近くをうろうろし始める。これはラストへの伏線だけれど、なんとなく宇宙人っぽいというのは誰しも感じるところだろう。ま、何をしにきているのか、というのは分からなくても、感覚的に納得できる。とても幽霊には見えないし。 ニコラス・ケイジが50年前の少女を追求し始めると、話がだんだんと縮こまってくる。要するに、地球滅亡に際して、未成へと生き残る人々を宇宙人が選別する、という話なのだが。この映画のような手の込んだことをする必要がどこにあるの? と思い始めるとアホらしくなってくる。ノアの方舟(映画では宇宙船)に乗るのは、50年前の予言少女の孫娘と、ニコラス・ケイジの息子という設定。他にも、地球上には何人もの選ばれし人たちがいるようす。では、彼らはどういう理由で選ばれたのだろう。そこが曖昧なままだ。さらに、予言少女はね50年後のニコラス・ケイジに読ませるために予言の数字を書いた、というようになっている。でも、ニコラス・ケイジが解読し、右往左往しても、結局、何も変わることはなかった。地球の破滅を止めることも、予言少女の娘を救うことも、自分が助かることさえできなかった。じゃ、予言の数字なんて意味ないじゃん。・・・と、基本的なところで、かなり納得できないところがある。 ニコラス・ケイジは、息子に過保護すぎ。いくら母親が事故死したからといって、あそこまでする必要はないと思う。異常だ。謎解きの要素のひとつとして登場するアイテムに、黒いつやつやの石がある。何かの意味があるのかと思いきや、宇宙船が着陸した場所の石でしかないようだ。つまんねえの。 予言少女の孫娘とニコラス・ケイジの息子がアダムとイブ・・・みたいな描き方をされているけれど、一方で選ばれし人たちは、他にもいる様子。地球を飛び立つ宇宙船は複数あったしね。ってことは、数万人規模で救い出したのかな。宇宙船の入口に向かっていくときの宇宙人の背中には、天使の羽根のような流線が描かれる。やれやれ。で、彼らが行った星は、あれはどこなのだ? 大きな惑星が見えたけど、あれは別の星なんだよな。熱で焼けた地球が再生したわけではないのだよな、多分。それにしても、宗教的で気持ちの悪い映像だ。結局、SFノアの方舟というわけか。なんか、ちゃちな結末だ。 | ||||
そして、私たちは愛に帰る | 7/17 | ギンレイホール | 監督/ファティ・アキン | 脚本/ファティ・アキン |
原題は"Auf der anderen Seite"。英文タイトルで原題に近いのか"On the Other Side"で、意訳したものが"The Edge of Heaven"のようだ。ドイツとトルコ、イタリアも噛んでいるみたい。 むかし、「最底辺」という本を読んだことがある。トルコ移民がドイツ国内でひどい労働条件で働かされている、という話だ。だから、この映画の背景はなんとなく理解できていた。クルド人の独立運動などで悩まされていることや、イスラム国家として唯一EUに加盟申請していること、軍が力を持っていることも分かっていた。ただし、映画で描かれているような反体制運動が行なわれているのは、よく知らなかった。 おおきく3つの章に別れていて、最初が母親編というところか。次が娘編。最後は、すべてが絡みつつすれ違っていく様子。最初の章はちょっと退屈。たいした事件も事故も起きず、スケベ親父だけが目立つ。次の章で話が転がってきて、俄然おもしろくなる。そのテンションは、映画の最後までつづく。シナリオがなかなか上手くできていて、会いたい人、会うべき人がすれ違う様が上手く表現されている。 最初の章は、見ているときは茫洋とした内容に思える。けれど、2章以降になると「なるほど」と思える部分がでてくる。この仕掛けがわざとらしくなくて、自然でよい。妻を亡くした父親が、娼婦を家に引っ張り込む。妻が死んだのは息子が誕生してすぐのことだから、不自由したのだろう。再婚もしたけれど、別れているし。トルコ人かドイツで働き、息子を大学教授にするまでには、経費もハンパじゃなかったろう。息子は、父親の行動に寛大だ。しかし、やっぱりただのエロじじい。家に娼婦を置いたつもりになって「なめろ」と強要し、断られると殴って殺してしまう。当たり所が悪かった、ってな感じだけどね。父親は刑務所に。息子はトルコに行って、最近音沙汰のない娼婦の娘を探し始める。 娘は、トルコで反体制運動の活動家になっていた。警官の拳銃を盗み、そのままドイツへ逃亡。たまたま出会った女学生の家に暮らすようになる。が、不法入国がバレて強制送還。ドイツ女学生も後を追ってやってくる。大学教授という職に疑問を持っていた息子は、売りに出ていた書店を買って店主になっていた。女学生は、たまたま入った書店主=息子の部屋に下宿することになる・・・。こうしてすれ違いの物語は次第に厚みを増していく。あのとき、ドイツ女学生が、娘の本名を話していたら・・・。あのとき、娼婦のポスターが書店に貼ったままだったならば・・・。このあたりの描写がなにげなく、それでいて分かりやすく行なわれている。 この人物は重要なのだろうな、と思っている役者が呆気なく死んでいくのも面白い。最初は娼婦。つぎに、ドイツ女学生。女学生の方は、娘が隠した拳銃を活動家に渡そうとしているとき子供にカバンをひったくられ、なんとか探し出したものの、子供に射殺されてしまうというもの。俺はこの、女学生が撃たれたところで、失礼ながら笑ってしまった。あまりにも呆気なく、出来過ぎの展開だったからだ。ここは、ちょっと話をつくりすぎたのではないか、と思うのだけれど、ここで女学生が死なないと、話はシンメトリーにならない。つまり、ドイツで殺された娼婦の棺桶が、トルコに送り返される。トルコで殺された女学生の棺桶が、ドイツに送り返される。この対比が、ひとつのアイロニーのようなものなのだからね。 娘は、女学生に関する情報を官憲につたえる代わり、20年といわれていた刑期を大幅に短縮して出獄する。これで、刑務所にいた仲間からは顰蹙を受けるけどね。そうして、息子の経営する書店にやってくる。たまたま息子は旅に出ていて、店番をしていたのはドイツ女学生の母親。彼女もトルコに居座り、息子の部屋に下宿していたのだ。 息子は、強制送還された父親に会いに出かけていたんだけど、いずれ息子と、娘は会うことになるのだろう、と思わせる終わり方だ。 トルコの刑務所というと、なんといっても「ミッドナイト・エクスプレス」だ。大麻を飛行機に持ち込もうとして終身刑(だったかな)を受け、果ては精神病院に入れられてしまうアメリカ青年の話だ。これでトルコ警察やトルコの刑務所は評判が落ちたわけだけれど、あの時代と比べると刑務所の病者がまるで違う。ここまで進歩したか、と思わせるような設備だった。 ドイツ女学生の母は、娘がつれてきたトルコ娘が政府の悪口をいうのを聞いて「EUに加盟すればすべて解決する」と落ち着いた口調でいう。しかし、娘は納得せず、激高する。まるで、かつての自分を見るようなやさしい口調だったが、その理由は後半で分かる。ドイツ女学生の母も学生の頃、カウンターカルチャーにかぶれてヒッチハイクでインドを目指したのだ。その娘も同じようにインドに行き、トルコ娘と同性愛関係になり、果てはトルコで撃たれて死んでしまう。何の因果か。・・・というように、それぞれの人物の描写が厚いのだ。だから、じっくり、じわっと訴えてくる。 かつてあった、歴史。ドイツとトルコ、母と娘、父と息子。そして未来へと連綿とつづく物語を、精緻な構成の物語して織り上げた。素晴らしい映画だと思う。もっとも、製作者の思いとは裏腹に、ちょっとコミカルに思えてしまう部分があるのも確かなんだけどね。でも、それでも構わないと思う。人生なんて、なさけなくて、みっともないことばかり。みんな罪深く、それぞれに重荷を背負って生きているのだ。罪深い人を許すことも必要だ。若い時には無我夢中で分からなかったけれど、歳をとってみるとわかる、なんていうことがたくさんあるのだから。 気になったこと。息子と娼婦は、関係をもったのだろうか? それから、自分の父親が殴り殺した娼婦の葬式に、息子ははるばるトルコまで行く。すると、娼婦の家族たちは息子を温かく迎えるのだよ。「従兄弟よ」なんていってね。なんか、それはちょっとないんじゃないの、という気がした。 | ||||
アマルフィ 女神の報酬 | 7/22 | キネカ大森3 | 監督/西谷弘 | 脚本/真保裕一 |
脚本が杜撰。なのに、クレジットに脚本家がない。Webで見ると「本作には脚本家のクレジットが存在しない。そのため、脚本家軽視の疑いがあるとして日本シナリオ作家協会が制作者側に抗議を申し入れた。シナリオは小説版作者の真保裕一と西谷弘監督が担当したが、「一人で書き上げたわけではない」とそれぞれが表示を辞退したため、協議してクレジットを入れないことにした」らしい。真保は「ホワイトアウト」のときも"俺に書かせろ"って注文つけたんじゃなかったっけ。今回もなのかな。で、監督の西谷は逃げている? まず、タイトルの意味が分からない。どうやら犯人が2度目の接触を図ろうとした海岸の街のようだけれど、そこで何か特別なことがあったわけじゃない。アジトと少女が発見されたけどね。副題の「女神の報酬」になると、さらに分からない。どういう意味があるのだ? 天海祐希と娘がイタリア旅行にやってきて、娘が誘拐される。外交官の織田裕二が犯人からの電話に出て「父親だ」と名乗ったことから事件に関与。イタリア警察とともに犯人を追う、という物語。 天海のところに知人だという佐藤浩市が頻繁に、しかもイギリスから様子を見に来るんだけど、それだけでもう怪しい。だいたい天海と佐藤の関係は、佐藤が数年前、胃を悪くしたときの看護士だ、ということしか説明されない。それだけの関係で、わざわざイギリスから来たりするか? 娘をさらわれた天海は、しょっちゅう理性を失うバカ女になってしまう。あり得ない。 織田は、警察が気がつかなかった(という設定があり得ない)監視カメラに着目する。で、娘がさらわれた美術館や、身代金を渡す場所に指定された協会などの映像をいち早く見る。美術館の映像では、娘と清掃人がトイレを出入りし、娘が消えている。だったらまず最初に清掃人を疑うべきなのに、ぜんぜん捜査していない様子。あり得ないだろ。同じく監視員の女性も近くにいたのに、調べられた風もない。まさにこの清掃人と監視員は犯人なのに! 監視カメラの映像を保存しているセキュリティ会社に天海、織田、イタリア警部らが入り、突然、天海が銃を抜き、電源を落とす(大使館のセキュリティを解除するために必要)よう命じる。なるほど、天海も犯人の一人か、と思ったら大間違い。犯人の佐藤に脅され、そうしたという。しかし、それって計画として確実性が少なすぎるだろ。そもそも電源を落とさせるために天海の娘を誘拐した、ということからして、計画としては確実性が足らなすぎる。その会社の社員として潜入し、映像を加工できるぐらいだったら、そいつがなんとかして電源を落とすとか、はたまた大使館のセキュリティを解除すればいい。どうも、桶屋が儲かるために風を吹かせたような計画だ。 セキュリティ会社で織田がイタリア警部に銃を向け、逮捕されそうになった天海を連れて逃げる、には開いた口がふさがらなかった。なんでそんなことをする必要があるんだ?それじゃ単なる犯罪者じゃないか。しかも、事件が解決した後は天海も織田も責任が問われていない。あり得ねー! そして、佐藤が日本の外務大臣に銃を向ける理由っていうのが、妻の死の原因だから、って、単純過ぎる。なんとかいう国に資金援助したら、それが軍事政権に回り、そのせいで佐藤や、このたびの誘拐メンバーの家族や恋人が死んだ。その恨みを晴らすための企てだった! って、いまどき、動機としては古典的すぎると思う。それに、日本の国益のための行為だとしたら、外務大臣に罪悪感はあまりないだろう。このあたり、料理の仕方というか、悪人のつくり方が下手だ。 サラ・ブライトマンが歌うショーが登場する。で、Time To Say Goodbyeを歌うのだけれど、テーマソングにもなっているこの曲は、話とどう関係するのかね? よく分からんよ。 それにしても。「これは意味のあるアクセサリーですよー」とでも言わんばかりに、蜂のブローチをカット尻長く写すのは止めてくれ。ああいうのは何気なくさらりと見せればいいのだ。それと、GPS発信器が入っているというブローチは、コートのポケットに入れたはず。そんなもの、計画実行の日にまで身につけているはずがないだろ、と思うのだけど。でも、警察はそれを追っていったりする。あほか。 天海祐希はのっぺり顔で、しかも顔がでかい。もっと華奢な人の方がよかったような気がする。織田裕二は老けた。しかも、貧相になってきた。魅力があまりない。大使館の職員では、戸田恵梨香は狂言役としてそこそこ出番が多いが、大塚寧々や伊藤淳史なんて何の役割も果たしていない。もったいないことだ。ついでに、福山雅治は存在感あるけど、もったいない使い方だなと思った。 イタリアにはひったくりや泥棒が多い、という印象をさらに強くした。イタリア大使館からクレームはつかなかったのかな? | ||||
レスラー | 7/23 | テアトルタイムズスクエア | 監督/ダーレン・アロノフスキー | 脚本/ロバート・シーゲル |
原題は"The Wrestler"。いや−、プロレスラーは因果な商売だね。こないだも日本で三沢光晴が技を受けきれずに死んでしまった。もう身体がボロボロだったんだろうな。映画の中のランディ(ミッキー・ローク)みたいに。 いわゆる技を受けることで見せる商売の核心が、この映画には描き出されている。試合前の簡単にやりとりで、試合をどう進行させるか決める。自分を見せるのではなく、相手の見せ場をつくりつつ、自分も見せ場をつくる。そうした合意がなされるところが、とても面白く見られた。もっとも、リング上で剃刀を取り出したり、「もう止めよう」なんて大っぴらに話しているのは誇張だと思う。もうちょい上手くやるはずだ。それでも、ショーとしてのプロレスの核心を描いた、ということでは画期的なような気がする。 これは、奇を衒った映画ではまったくない。すべてストレート。じっくり、しっかりとショットを積み重ねていく。ムダなカットはひとつもなく、饒舌になることなく、伝えるべきことを確実に伝えている。アカデミー主演男優賞を獲れなかったのは、とても残念。だって、これこそ身体を張った演技だからね。マリサ・トメイも助演女優賞にノミネートされていたらしいが、こっちも獲れて当然の素っ裸演技をしている。ま、この類の映画に対して偏見が、まだ、多少あるのかも知れない。 ランディは孤独だ。歳をとり、50代半ばというところか。20年前の栄光は消え去り、地方の学校の体育館なんかでドサ回りをしている。サイン会もときどきあるけれど、引退したレスラーがほとんど。みなどこか傷めていて、廃人に近い。サインや写真を頼む客も、ほとんどいない・・・。キャンピングカーに住み、移動は自前のワゴン。疲れ切って、楽しみといえばストリップバー。馴染みの、でも、40過ぎの、こちらもロートルストリッパー(マリサ・トメイ)が心の慰みになっている。でも、あくまでも仕事上のつき合い、と一線を越えることを許さない。 大動脈狭窄化なんかで心筋梗塞を発症し、バイパス手術をした後は、とたんに気が弱くなる。引退を決め込み、スーパーでの仕事を多くする。というか、普段でも平日はスーパーで力仕事をし、週末は試合をつづけている。大変だねえ。試合に使う道具(鍋やフタ)の仕込みや、日焼けサロン、ジムに通うにも金が要る。でも、試合のギャラは多くなくて、キャンピングカーの部屋代にも事欠く有様。ほんと、その日暮らしだ。それが大病して、娘に頼ろうとする。気持ちは分かる。でも、昔から子供との接触も少なく、反吐が出るほど嫌われている。・・・こういう感覚は、父親は家族を大切にする義務がある、という建て前のアメリカならではなのかもね。家庭を顧みない父親なんて、日本ならゴマンといる。そんなことでひねくれる子供なんて、そんなにいないと思うんだけどね。 で、少し和解ムードになった娘とのつき合いも、約束をすっぽかしたお陰で元の木阿弥。でも、すっぽかした理由というのが、バーで知り合った若い娘に誘われ、コカインやってトイレでバックでバコバコ・・・なんだから、いいじゃないの。という気もしてしまう。そうなのだ。老いたとはいえ、レスラーはその気になればモテるのだ。だったら、ランディもアバンチュールを楽しめばいいのに、と思ったりもする。でも、ランディがつき合いたいのは、40過ぎのストリッパーなんだから、わからない。でも、ストリッパーには「ダメ」といわれ、娘には愛想を尽かされ、仕事先でのちまちましたこと、そして、自分を知っている客が来たりすることに耐えられない。ま、そうだろう。そうして、ランディはリングに戻っていく。「俺にとって家族は、ここに来ているみんなだ」とお客に向かって言うのも、本音なんだろう。お客以外、ランディをちやほやしてくれないのだから。という意味で、リングの上は、麻薬なんだろう。 心臓を抑えながら、試合を続行するランディ。トップロープからジャンプする場面で暗転して終わるが、まあ、あれでランディは本当に死んだ、ということを予告しているのだろう。多分。 お客を楽しませるためのサービス精神の凄さが描かれている。額を切って血を出すのは序の口。デスマッチでは、鉄条網、ガラス(クルマに使われているような、玉になって割れるタイプ)、自動ステープラーを身体に打ち付けるというのは、見るに耐えない凄さ。うは。こんなことまでするのかよ。たいしたギャラでもないのに。ああいう痛みも、快感になっていたりするのかな。 | ||||
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 | 7/28 | シネセゾン渋谷 | 監督/庵野秀明(総監督)、摩砂雪、鶴巻和哉 | 脚本/庵野秀明 |
初エヴァ体験だった前作「序」ではすっかり寝込んでしまった。それでテレビ版の「エヴァ」26回分をYouTubeで見た。その後、先日地上波で放送した劇場版「序」を見た。これで完璧だ、と臨んだのだけれど、またしても30分ぐらいで眠くなり、中盤でウトウトしてしまった。やっぱり俺には合わないな、このアニメ。 「序」の後でPodcast放送された竹熊健太郎と宮台真司の対談を、「破」を見た後でだらだらと聞いた。そしたら、10年前にテレビ版を補う劇場版が2作あり、それでいくつか整合性をとっているらしい。ふーん。そんなのがあったのか。でも、わざわざ金を出して見る気もない。という程度の関心だ。宮台はあれこれ解釈を論じていたが、それが当たっていようといまいとどうでもいい。そんなことより、やっぱりこのアニメは見ていて面白くないからだ。 使徒とは何か。なぜ襲ってくるのか。エヴァとは何か。だれが造ったのか。エヴァはロボットのように見えるが、骨や肉体もあるみたい。いかなる存在なのだ。なぜエヴァは14歳の少年でなくては操れないのか。いや、ダミーでも操れるとはどういうことだ。綾波レイはクローンなのか。では元は何だったのだ? 碇シンジの母親はなぜ死に、どうなったのか。碇ゲンドウはなぜ息子に冷淡なのか。セカンドインパクトとは何か。地球はどうなっているのか。ちょっと見には普通の街で、交通機関や商店などのインフラもちゃんとしてるが、そこまで復旧するには時間はかからなかったのか。ビール工場や食品会社は原料をどうしているのか。ローソンやヱビスビールはいかなる流通経路を利用しているのか。日本全土はどうなっているのか。インパクトで生涯を背負った人はいないのか。使徒がのべつ現れ戦いを繰り返す第3新都市東京に、なぜ人々は平然と暮らしていられるのか。被害者となった市民はどうしているのか。なぜ使徒は日本にだけやってくるのか。各国もエヴァを所有しているみたい(各国3機までとかいっていた)だけど、他国のエヴァは何と戦っているのか。各国で協調はしないのか。なぜエヴァはドイツで造られているのか。・・・と、フツーなら基本条件として提示されるべき情報がほとんど示されない。そして、思わせぶりの中途半端なオブジェクトが、何かのメタファーのようにして散りばめられる。いうなれば、メタファーをまとった情報のかけらをぽろぽろと見せられるだけで、全貌はまつたくわからない。こんなアニメに真っ正直に向き合って謎解きをしているなんて、暇だな、と思う。 エヴァが話題になった14〜5年前(阪神淡路大震災とオウム事件があった年で、バブルが崩壊した年でもある)に見たとしても、このアニメに夢中になった人たちのようには、夢中になれなかったに違いない。たとえば、思わせぶりにしても「ツイン・ピークス」のようなドラマの方がまだ興味をもてる。なぜなら、このアニメは日本人にとってほとんど縁のないキリスト教を下敷きにしているからだ。なぜ仏教ではないのだ。なぜ西欧の宗教のもとに全世界が構成されているのだ。イスラム教徒だってムッとするに違いない。 戦いも、あいかわらず静的で見どころが少ない。妙な形の使徒との戦いは薄っぺらで、どうやって勝ち負けが決まるのか、よく分からない。テレビ版に比べ、この映画では赤い玉のようなのがよく登場し、それを切り裂いたりすると使徒が死滅するようなのだが、死んだらどうなるの? そこら辺に腐臭は漂うの? とか、気になってしまう。 もっとも、ほとんど動きのない省エネアニメだったテレビ版に比べ、多少なりともスムーズには動くようになっている。それは「序」よりも見事な動きで、それは多分CGを多用しているからだろうと思う。でも、アニメが動くのは最低限の条件であって、テレビ版が紙芝居過ぎたのだ。 それにしてもテレビ版と同じシナリオと展開の「序」、少しは変わっている「破」と、なんか進歩がない。同じようなものを何度も作り直して、飽きないのかね。リメイクならもっと潔くガラッと違う表現でやればいい。テレビ版を補うのなら、あとえば葛城ミサトや加持リョウジを主人公にした外伝的な物語で外堀を埋めていくとかすればいい。その方がよっぽど全体像が浮き出てくる。 ま、この監督には進歩や進化という概念がきっとないんだろう。過去の遺産にしがみつくしかないのかもね。それにしても、意味なくおっぱいやお尻が強調されたりするのは、くだらないとしか思えないのだが。ああ、それから。「翼をください」だとかいくつの歌曲は、あれはジョークか? 俺は笑ってしまったぞ。エンドテーマの宇多田ヒカルは、カップヌードル提供の「FREEDOM」を連想させてくれて、陳腐。やっぱりこの映画、思い入れが人一倍強くないとハマれないのかもね。 | ||||
ホルテンさんのはじめての冒険 | 7/30 | ギンレイホール | 監督/ベント・ハーメル | 脚本/ベント・ハーメル |
原題は"O' Horten"。珍しや、ノルウェー映画。独居老人の孤独を、ユーモラスに描いている。でも、全般的には暗いところや重々しい部分が多い。なかなか含みのある笑いなのだ。 67歳で鉄道の運転士を定年退職する前日のホルテン。67まで働けるのか、と思う反面、こんなジジイの運転で安心なのか? という気分にもなる。さてホルテンさん。前日の夜にちょっとしたトラブルで、翌日の最終運転に遅刻。以後しばらく落ち込むのだけれど、いろいろあって復活するまでの話。でも、普通の映画のような描き方をしていない。いろいろと象徴的な表現を駆使している。 痴呆症の母親(90歳を超えている?)。母親が好きだったジャンプ。でもホルテンさんは怖くて飛べなかった。 レストランで食事中、ある男に電話が掛かってくるが、「いないといってくれ」と給仕にいう。ホルテンさんが店を出ると、路面が凍りつき坂道を上がれない。電話男が、サケを一匹下げて平気で歩いている。坂道を、転倒したバイクが滑り落ちていく。座ったままの格好の男性が滑り落ちていく。 いつも食事をするレストラン。ホルテンさんの席は、入口を入ってすぐ右の1人テーブル。店内を見渡しながら食べる。入口を挟んで反対側には、いつも背を向けて食事をしている男性がいる。この店に突然、刑事がやってきて、料理人を逮捕・連行していく。 タバコ屋の店主は、いつのまにか死んでいた。妻が店を継いでいた。 タバコ屋の外で、老人が転倒している。ホルテンさんが助け、家まで送っていく。意気投合し、翌朝ドライブにいく。が、運転中に突然死する。老人は自称元外交官で、目をつむってもクルマが運転できるといっていたのだが…。 元外交官には、発明家の弟がいたが分裂病にかかり早世した。と、元外交官がいっていたが、じつは、彼こそが発明家だった…。弟が外交官だった。 自称元外交官が「ニッポンのクルマにニッサンというのがある」という。ノルウェー語でニッサンは、何を意味するのだろう。しかも、彼が飲んでいるのはサントリー「響」だった。なんで? サントリーが金を出しているのか? とまあ、曰くありげな話がつづくのだけれど、ほとんど本筋とは関係ない。これらはみな、何かのメタファーなんだろうか。ホルテンさん、ホルテンさんの母親、ホテルのマダム、自称元外交官など、独居老人がよく登場する。それには意味があるのか? その他に、何を意味しているのか、よく分からなかったりする。でも、あざといぐらい露骨に曰くありげな映像がつづくので、それはそれでいいかも、と思えてくる。とくに読み解かなくてもいいのかも、と思ってしまえば楽かも。 ホルテンさんは、結局、オスロ市内の有名なジャンプ台から飛ぶことで、抑圧から自己を解放する。実は、ジャンプのシーンの後に暗転下ので、これで終わりか?(ホルテンさんは死んだか?) と思ったのだけれど、つづきがあった。元気になったホルテンさんは、犬(自称元外交官が飼っていた犬)をつれ、後背が運転する乗務員室にちゃっかり入り込んでいるのだった。ジャンプすることで母親から解放されたのか? いや、その前に、ホルテンさんには妻や子はいなかったのか? 単なるマザコン? そんなホルテンさんは、泊まりのときによく利用するホテルのマダムといい仲、みたい。「最終運転の日には、帰りは飛行機だ」なんて言っておきながら、遅刻したホルテンさん。やっと彼女の元を訪れる覚悟ができたのか、ラストシーンで再会する。うーむ。本筋に関係あるエピソードは、それほど量は多くない。どうでもいいようなエピソード、描写が圧倒的に多く、そっちの映像の方が主のように見える。でもきっと、それでいいんだと思うんだけどなあ。 ホルテンさんはほのぼのした人物のように描かれる。でも、相当モラルも崩壊しているようにも受け取れる。あるアパートのある部屋に入ろうとして、ちょうど修繕工事のために組んであった足場をつたって上階へ。行き止まりになると、他人の家の扉を押し開けて入ってしまう。ま、通り抜けられなくて、ひと晩すごしてしまうのだけどね。他にも、運転中にタバコを吸ったり。知人を訪ねて飛行場に行き、滑走路でタバコをふかしたり。サウナで居眠りして、夜中のプールで素っ裸で泳いだり。ルーズなところがある人物として描かれている。 自宅以外に家がいくつかあるように見えるんだけど、どういうことなのだろう? | ||||
英国王 給仕人に乾杯! | 7/30 | ギンレイホール | 監督/イジー・メンツェル | 脚本/イジー・メンツェル |
英語圏タイトルは"I Served the King of England"。珍しや、チェコ/スロヴァキア映画だという。中味は人間万事塞翁が馬みたいな感じのコメディなんだけど、いまひとつピンとこない。あまり毒も感じられないし、皮肉も少ない。あったとしても、主人公本人ではなく、多くは背景に仕組まれている。主人公が、多少翻弄されるところはあるけれど、結局は人生を全うする。でも、主人公はユダヤ人やチェコ人にとっては裏切り者なんではないの? と思うとしっくりこない。 短躯なれど夢は大きく大ホテルのオーナー、という青年がいた。駅のソーセージ売りからカフェのボーイ、金持ち相手のホテルの給仕、大ホテルの給仕・・・と出世するのだけれど、とくに努力したりもしていない。しかも、話は荒筋みたいにすらすら流れていってしまってドラマがない。多少、ドラマが混じってくるのは中盤を過ぎてからで、ドイツ人の彼女ができたのでドイツ崇拝者に片足を突っ込み、果ては、ドイツ娘と結婚してしまうのだ。そうしてチェコ人を見下すような暮らしっぷりになって、妻が、アウシュビッツに送られたユダヤ人の荷物から切手をかっぱらってきていて、それで戦後は大金持ちになる! って、そういう流れでいいのかよ。祖国の裏切り者! と、いたぶられるのではないの? そんなことはまったくない。のだけれど、チェコの共産化に伴って財産が没収され、貯金もあるので15年の刑に服する、というのがせいぜいの過酷な生活らしい。 という話と平行して、現在の、出獄してからの生活がインサートされて描かれる。話としてはこっちの方がドラマがありそうなんだけど、でも、やっぱりこっちもあまり劇的ではない。主人公に近寄ってくる淫乱女と何かあるのかと思ったのに、なにもない。で、労働者として働きつつ、あてがわれた家を自分で整備してカフェもどきにし、はるか昔、ソーセージ売りをしていた頃につり銭を渡せなかったユダヤ人富豪とビールを飲み交わす、というところで終わっている。これ、ひねりも何もない。教訓もない。その場その場の、たいして面白くないギャグのようなものがあるだけで、全体のうねりは全然感じられない。いったい何を言おうとしているのだ? 分からんよ。 色っぽい娘が何人かでてきて、おっぱいを惜しげもなく見せてくれるはがよかった。前半部がムダに長すぎる。ドイツ帝国のチェコへの侵略部分をもっと早くした方がいい(ドイツ娘と出会う直前で、ちょっとうとうとしてしまったよ)。男女の狂乱などのシーンで、1930年代のジャズがかかるんだけど、これが画像と合っていない。絵と音楽がバラバラで、吹っ飛んだ感じが全然でてこない。 主人公がなぜ女にもてるのか? その理由も定かではない。最初の頃にやっていた、小銭をばらまくと金持ちでも夢中になって拾う、というのは、何を言おうとしているのだろう? というように、素材がバラバラのままで、一本筋が通っていないような気がした。それにしても、タイトルから想像した内容とは、ぜんぜんかけ離れた映画だった。やれやれだな。 |