2009年8月

ハリー・ポッターと謎のプリンス8/3上野東急監督/デヴィッド・イェーツ脚本/スティーヴン・クローヴス
原題は"Harry Potter and the Half-Blood Prince"。最近のハリポタはときどき寝たりしているので、話がよく分からないまま見ている。3作目あたりから「?」が登場し、4、5作はなんのこっちゃ? 的な疎外感を感じつつ見た。だから、途中で寝てしまうという次第。なので今回も「きっと話についていけないんだろうな」と思いつつ見ていたんだけど、なんと、今回はそれほど複雑怪奇ではなかった。というか、中味がかなりゆるい。これだったら150分も要らないだろ。90分もあればだいたい話は済んじゃうと思うぞ。というぐらい、どうでもいいパートが多かった。ひねりもないし。とくに、主役の3人をめぐる男女関係のもつれは、くだらない。そんなことを描くなら、もっと脇役を含む人物を描け、といいたい。
今回は、全体の流れからいったら、ほとんど話が進んでいない。闇の帝王ヴォルデモートの本名がトム・リドルで、むかしホグワーツ魔法学校にいたこと。その恩師がホラス・スラグホーンで、ダンブルドア校長が再び学校へ招く。で結局スネイプ先生がやっぱり怪しくて、闇の魔法使いの一味になっているらしい、ということが分かる。それと、スネイプによってダンブルドア校長が殺される、ってことぐらい。まあ、後になって"スネイプ先生は闇の世界にスパイとして入ったのであって、校長は死んだふりをした"なんていう展開にならないとも限らないけどね。
撮り方がとても平板で単調。とくに盛り上げようともしていないし、カメラのテクニックもほとんど使っていない。空のハンドボールみたいな試合シーンもそんなに長くはなく、他に見せ場というのはあまりない。せいぜい、魂の入れ物をダンブルドアとハリーが取りに行った先で、針金みたいな裸人に水中で襲われるところ、ぐらい? その直後にダンブルドアがスネイプにやられるんだけど、ここも盛り上がりはない。意図的になのか、ワクワク感やドキドキ感など、急転直下の展開、といった演出が避けられている。まあ、こけおどしの演出がない分、よかったとはいえる。内容が薄いせいで、こちらも話について行けたしね。たとえ固有名詞が頻出しても、何度も繰り返されたり説明されたりすると、概ね理解できたりするものなのだな。
ロンが変な女の子と相愛になって、それをハーマイオニーが嫉妬するというのは、くだらん話。ロンの妹がハリーに気があり、それをロンとハーマイオニーか気にするのも、どうでもいい話だ。それにしても、ハーマイオニーは可愛くなくなったし、ロンの妹はブスだし、ロンの相手も不細工。ちったー可愛い娘は登場しないのか! と強く思う。そういうなかで、不思議ちゃんみたいな女の子が気にはなっているけれど、ああいう使い方でしかないの? もったいないと思うがね。
主演の3人はもう20歳ぐらいだけど、そんなふうに見えないように撮られていた。来年、再来年と7作、8作がつくられるようだけど(最後に予告がでていた)、早く終わらないと子供に見えなくなっちゃうモノなあ。
あー、それから、人物を、あるときは名字で呼んだり、あるときは名前で呼んだりしているのを忠実に守られると、こっちは「あれ? それは誰?」てな気分になってしまうよ。よくわかる通り名の方で統一してもらえると助かるのだがね。
セントアンナの奇跡8/4テアトルタイムズスクエア監督/スパイク・リー脚本/ジェームズ・マクブライド
原題は"Miracle at St. Anna"。冒頭で、切手売りの黒人が、突然客を射殺。その理由は? というわけで、1944年のイタリア戦線へ。で、戦争映画にファンタジーをプラスしたのかな? と思っていたら、とくにそういうワケでもなかった。てなわけで終わって、あれ? 冒頭で撃たれた男は誰だったんだ? と記憶をたぐる。被害者は戦後、移民でやってきた男、とか言ってたけど…。名前まで言ってたっけ? あれー? 誰なんだ? と10分ぐらい考えて、ひょっとして、あの裏切り者のパルチザンか? それ以外にはいないよなあ、と思い至る。パルチザンでありながらドイツ軍のスパイをしていた男。だからこそ、ルガーで射殺されて当然、ということなのかな。
内容は単純なようで、分かりにくい。しかも、2時間43分も使って。とくにぐちゃぐちゃなのが、黒人兵4人が山村にやってきてからのあれやこれや。結末に向かって一直線、ではなく、とぐろを巻いているような感じで、すっきりしない。脚本も悪いんだろうけど、演出もキレがない。
イタリアは1943年9月に降伏しているので、降伏後のイタリア戦線。そこにドイツ軍とアメリカ軍とイタリアのパルチザンが入り混じる。で、イタリア戦線の最前線には、黒人部隊=バッファロー・ソルジャーが送られたようだ。「バファロー・ソルジャー」というと、ボブ・マーリーにあるな、と調べたら、南北戦争時に組織された黒人だけの軍隊が起源らしい。イタリア戦線の部隊も由来は同じで、黒人部隊という意味らしい(最初の方に「黒人部隊は実験で、大統領夫人の部隊。新世界へ連れていけ」米参謀が言うシーンがあるんだが、どういう意味なんだろ?)。でね今日も今日とて最前線に向かわされ、ドイツ軍の集中砲火を浴びる。後方の白人隊長に電話で砲撃を依頼するが、隊長はそれを無視。いい加減な援護射撃で味方が死んでいく。生き残った2人(デブと金歯)が、納屋で少年を救う。そこに、軍曹と通信兵の2人が加わって、山村に迷い込む。4人のうち、デブと金歯はなんとか描き分けられているのだけれど、残りの2人はほとんど区別がつかない。もっと人物を掘り下げて描けば、映画の印象も変わったかも知れない。
少年はいったい如何なる存在なのか?(精霊が見えるらしい) 後で分かるが、少年は、パルチザンの攻撃に業を煮やしたドイツ軍が、イタリア住民を虐殺、という出来事と関係してくる。また、そのパルチザンがドイツ兵を1人捕虜にして村にやってくるのだけれど、これで話が複雑化する。なぜなら、4人はたまたまつながった(少年の能力で直した?)無線機で本部と連絡を取ると、ドイツ兵を一人捕まえて戻ってこい、と無理難題を突きつけられる。渡りに船とパルチザンが連れてきたドイツ兵を引き渡せといっても、引き渡そうとしない。このあたりの力関係と思惑が分かりづらい。で、このドイツ兵は意外といいやつだった、ということが後で分かる。ドイツ将校がイタリア人を大虐殺するとき、例の少年を逃がしてやったからだ。さて、さらに話がこんがらがるのは、パルチザン。過去の出来事として、いくつか描かれるシーンがよく分からない。たとえば、ドイツ軍の金を奪おうとした仲間の件は、どういう意味があるのだ? あの男がよく名前がでてきたマルコなのか? で、彼の弟が、ドイツ軍のスパイになった? ううむ。よく分からなかった。
村の生活は、ドイツ軍が周囲にうようよいる、というわりにのどか。村人のパーティに出たり、ロマンスがあったり、アメリカでは差別されるのに、ここでは差別されない、と喜んでいる黒人がいたりする。それってホントのことなのか? なんか、この辺り、アメリカ国内のレストランでかき氷を食わせて貰えなかった例を挙げてねちっこく描いていたけれど、メッセージ性が強すぎる。同じく、村に貼ってあった「アメリカ軍は敵」のポスターに、黒人が妙に描かれているので剥がしたり、というのも、物語から浮いているような気がした。で、最初のうちは村から脱出するといっていたのに、いつの間にか隊長がやってくるという話になって、周囲にドイツ人がうようよという話だったのに、なんとジープで到着したりする。おいおい、どうなってんだよ。
と思ったら、スパイのパルチザンは知っていたようだけれど、ドイツ軍が大挙してやってきて。黒人兵4人のうち3人が死んでしまう。で、冒頭の黒人はいったい4人のうちどれなんだ? と思っていたら、いちばんそうじゃなさそうなそうなやつ(通信兵)が生き残った。へー。彼かよ。意外。というか、変じゃないか? と思った。だって、少年がなついていたのはデブだったじゃないか。それに、本来はもっと感謝すべきなのが、捕虜になったドイツ兵だ。彼が助けてくれたから少年は生きていたんだし。だから、ラストシーンで、長じた少年が、裁判にかけられている黒人の保釈金をぽーんとだした、と分かって、あり得ねえ、と思ったのだった。これが、あのデブの黒人ならわかるけどね。さらに、あの通信兵は、裏切ったパルチザンのことをどこまで知っていたんだ? と、思う。見た瞬間に見分けがつき、射殺できるほど恨みはあったのか?
というわけで、とてもすっきりしない映画だった。イタリア娘が黒人兵に身を委ねてしまうのも、なんか、つくりすぎのような気がする。兄の恨みだからといって、同国民を売り渡すパルチザンというのも、なんかなあ。ちょっと黒人兵がみなカッコよすぎて、やっぱりスパイク・リーか、という気がしてしまう。
偶然が重なったんだろうけれど、ドイツ軍の砲弾のせいで村に電気が点いたり、少年が無線機を直したみたいな話になっていたり、精霊が登場して少年を助けたり。ファンタジー的な要素が中途半端。ラストの、黒人兵4人とわずかなパルチザンがドイツ軍にやられてしまう…と思ったら、突然、米軍がドイツ軍を追っ払ったみたいになっていたシーンも、あり得ないんじゃない? という気がする。その直前、負傷した通信兵にとどめを刺そうとドイツ兵が銃を向けるのを、ドイツ将校が「もういい」と止める。だけじゃく、拳銃を渡して「自分の身を守れ」というのは、いったい何なんだ?
というわけで、「眠れる男」の意味もよく分からんし、ドイツの司令官が部下に「探してこい」と命じる兵隊のことも分からない。いろいろと分からん映画であった。
テアトルタイムズスクエアは、今月でテアトル系列から離れるらしい。きっとテアトルが借りていたんだろう。というわけで、これが最後になるかもね。テアトルタイムズスクエア。
山形スクリーム8/4キネカ大森1監督/竹中直人脚本/継田淳、竹中直人
日本産のゾンビ映画。中味は大したことがない。話もいい加減。バカ映画。演出のキレもなく、わざとつまらなくしているみたいにも思える。タイミングや編集もよくないしね。それでも、ベタな部分は少しは笑えたりする。しかし、この映画の見どころは何といっても役者。これほど豪華な役者が勢ぞろい、ってううのも珍しいよね。
メインの女子高生(成海璃子を除く)や教師、理髪店主なんかはまったく知らない。脇が凄い。温水洋一、六平直政、田中要次、赤井英和、石橋蓮司、クリスタル・ケイ、岩松了、生瀬勝久、由紀さおり、神戸浩、途中で分かった沢村一樹。クレジットを見て、ええっ! っと思ったのは広田玲於奈、荻野目慶子、篠原ともえ、斉木しげる、デビット伊東。うーむ。みんなバカやって楽しそうだね。
ただし、2時間は長い。90分にすべきだ。成海璃子は「罪とか罰とか」もそうだけど、すでに色物女優と化してしまった感があるなあ。いいのか、それで。それに、昨今のデブ化現象はどうにかならんのか。
コネクテッド8/6新宿武蔵野館3監督/ベニー・チャン脚本/アラン・ユエン、ベニー・チャン
あの快作「セルラー」を香港がリメイクしたもの。大筋は同じで、アクションシーンなどを派手派手にしてる。もともと面白い話だけど、中盤からゴチャゴチャ感がでてくる。事件を気にして被害者宅に潜入する交通警官の周囲が、いまひとつスッキリしないからだ。交通警官は、色々あって降格させられていた。で、かつての部下が刑事になっている。その刑事に情報を与え、空港に呼び出すのだけれど、どうしてこの誘拐事件と麻薬取引事件が結びついたのか、そのあたりが鮮明ではない。実は刑事も犯人グループ(国際警察の連中)に加担していて、最後のドンデンにつながるのだけれど、あのあたりの意外性がいまいちスッと入ってこなかった。チェイスの部分はなかなか迫力があって面白かっただけに、惜しいかな。
誘拐された母親からの電話を受け、半信半疑ながら娘の学校へ向かう、ぐらいまではいいんだけど、その後の派手なアクションになると、いくらなんでもそこまでするか? という疑問が澱のように淀んでしまう。オリジナルの方が自然な巻き込まれ方をしていたんじゃないのかな。こっちは、道路を逆走して他人に大被害を与えたりして、あれじゃ無関係の人が何人か死んでるんじゃないか? と思えるぐらいだ。このぐらいはアリかも、と思える程度がいいんじゃないのかな、という気もする。ま、映画だから大目にみた方がいいのかも知れないけどね。
冒頭近く、母親が運転中のクルマを横から撮っている。と、突然、画面の正面から(クルマにとっては真横に)クルマが急接近し、追突する。このシーンにちょっとビックリ。どうやって撮ったんだろう? ホントにやってるのかな? 笑ったのは、バッテリーがなくなって携帯屋に行き、バッテリーを注文すると店員にあれこれ注文内容を細かく訊かれ、いらいらしてくるところ。場内からもクスクス笑いが漏れていた。感動的なのは、ラストだよね。それまで会うことなく、電話でだけつながっていた2人が会うところ。あれは、いい。
誘拐される母親が、なかなか美人。なのになんで娘はド近眼でブスなんだ? 被害者宅に居残っている国際警察一味の女警察官も、なかなか美人。一方、国際警察の悪玉グループは、ちょっと雰囲気が古臭い。とくにボスなんか日活ニューアクションの悪玉みたいで、スマートじゃない。それに、国際警察一味の犯行が、あんな大っぴらなところだというのは、ちょっとあり得ないよな。昼日中、人気のある天下の公道で殺人を犯すなんてね。
湖のほとりで8/7銀座テアトルシネマ監督/アンドレア・モライヨーリ脚本/サンドロ・ペトラリア
イタリア映画。原題は"La ragazza del lago"。なぜかは知らないが、テアトルシネマは連日満員。11時5分の回のために10時15分ぐらいに行ったら、すでにチケット売り場に列。おお。なんでこんなに? よっぽどカルチャーババアに好評らしい。人生を語る、重厚なドラマなのかな? と思っていたら、あに図らんや。とくにどうってことのない、ちんけなミステリーだった。なんでこんなのが人気を集めるのだ? 俺にはよく分からない。
まず、最初に。この映画、字幕がよくない。誰が、何を、誰に対して、どのように…というような基本的なことがパッとわからない字幕が多く、ニュアンスが表現できていない。とても舌足らず。何を言わんとしているのか、分からないことが多かった。そのせいで、この映画も分かりにくくなっているところがあるやもしれない。
最初、小学生女児が行方不明、という事件が発生する。なんのことはない、村の知恵遅れが一緒に遊んでいただけなのだ。でも、ひょっとして、知恵遅れが血祭りに上げられるのか? やな展開だな。…と思っていたら、なんと女児はすぐに発見され、以後登場しなくなる。問題は、女児と知恵遅れが発見した若い女の死体に移行する。
この女は、映画の冒頭に登場した女か? もう、忘れてしまっている俺。冒頭、青年が家を出て行く。カメラが家の中を写し、寝ている女を捉える。と、そこに別の青年がいる、というシーンがあったのだ。この3人が誰なのか、思い出せない。ビデオなら巻き戻して再確認できるのだけどなあ。くそ。
で、若い女の恋人らしい青年、ヒゲの青年、アイスホッケーの指導者、知恵遅れ、女が子守をしていた家の母親、知恵遅れの父親…なんていうところが登場し、刑事に尋問されていく。しかし、字幕が悪くて説明が中途半端、さらに、会話の中に名前が登場するケースも多くて、ちょっと油断したらついていけなくなってしまった。とくに、子守先の出来事は会話でだけ紹介されるので、なんのことやら明瞭につたわらない。どうも、子守していた幼児がものを詰まらせて死んだ、というような事件らしい。でも、絵で見せてくれないからピンとこないのだ。ヒゲの男がその幼児の父親で、幼児の死をきっかけに離婚したらしいことも、あとから分かった。字幕が読めていれば、もっと先に分かったかも知れないけどね。
というわけで、なんだかよく分からないまま捜査は進み、結局犯人はヒゲ男ということになるのだけれど、その動機もなんか、すっきりしない終わり方。ううむ、だよなあ。むしろこの映画、刑事の偉そうな捜査態度だけがハナについて、いらしいた。とくに、恋人らしい青年に対する執拗なアプローチは、殴りたいほど。ひどい取り調べにも、悪いことをしたという気持ちもないみたいで、とても不愉快。お巡りがますます嫌いになった。
他に、女検事や刑事の部下なんかも登場するけれど、その役割があまりよく分からず。むしろ、この映画は、刑事の妻が痴呆症でどんどん記憶を失っていること。療養施設で、別の男性を好きになっていること。刑事の娘がちょっと反抗期であること。なんていうことを利用して厚みを出そうとしている。けど、そういう設定はよくあるしな。とくに優れているともいえない。ただし、執拗な尋問で他人のプライバシーに介入する刑事に対して、ざまあみろ、的な感情はわいてくる。
で。事件の全容が分かっても、「おお」というような感じはない。幼児がものを詰まらせて死ぬのを止めることなく見ていた父親と、その様子を目撃してしまった娘。で、そのせいで殺されたってわけなのか? でも、娘は脳腫瘍で死期が近いことを知っていたわけだろ? それで、殺されるとき、とくに抵抗しなかった、というのはどう関係してくるのだ? それに、刑事は何を根拠にヒゲ男を犯人と断定したのだろう? 説得力がなさ過ぎないか?
知恵遅れだからと疑われた親子への偏見は、どうおとしまいをつけるのだ? 恋人らしい青年の存在(セックスはしてなかったらしい)は、どう理解すればいいのだ? 親に愛されていないと感じていた、被害者の娘の妹…。被害者の娘は、何を考えていたのだ? みんな、ちゃんと字幕を理解できていれば、ちゃんと分かるのか? 人間がちゃんと描き込まれていなかったように思えるんだけどね、俺には。
ババアが口コミで「いい映画よ」って広げていくような内容だとは思えないんだけどなあ。どこがよくて人気なんだ、この映画? もう一回見れば、評価は変わるかな? どうだろう。音楽は、人の心を逆なでするような感じで、なかなか興味深かった。
レイチェルの結婚8/10ギンレイホール監督/ジョナサン・デミ脚本/ジェニー・ルメット
原題は"Rachel Getting Married"。うーむ。なんか、日本人にとってはスッキリしない映画だな。
キム(アン・ハサウェイ)は20代後半。少年期から薬物中毒で、意識朦朧でクルマを運転中川に落ち、同乗していた弟が死んだ歴あり。その後もヤク中は治らず家族の鼻つまみ者。テレビ沙汰になったこともあるらしく、街のスーパーの店員も顔を知っているほど。あちこちの隔離病棟を渡り歩き、何度目かの退院をする。それは、姉の結婚式の前日だった。さて、どうなる、という話。
キムがなぜ薬物に溺れたか、その理由はあまり語られない。家族に迷惑をかけたことは自覚しているし、罪悪感も抱いている。言葉で謝罪はするが、でもそれは表面的なもので、本心ではないみたい。むしろ、退院したのに信頼されていないことや、迷惑者あつかいされることへにイラついている。そして、愛されたいという思いが先に立っている。
映画の中で、姉が父の言葉として引用する言葉に、「愛されることより、愛することが大切」というようなものがあった。キムの姉と婚約者は、この関係であることも(姉自身が)強調する。もっともアメリカ人のことだ。こうやって言葉にしないと安心できないのかもね。一方のキムは無償で愛することができず、愛されることをばかりを望む。それは、幼い日々に愛される経験がなく、愛を渇望している、というような読みが、まあ、一般的だろう。でも、姉と比較されて、とか、そういうことは描かれない。せいぜい、弟を死に追いやった張本人、としてのようだ。しかし、それはすでに薬物中毒者になった後からのことで、そもそもキムがなぜ薬に頼るようになったのかは描かれない。そこがちょっと物足りない。とはいっても、かつて愛されなかったから、愛を渇望する。そして、さらにヤク中に・・・という話は手の映画ではよくあるパターン。それほど珍しくはない。同情も感じられない。だって同じように愛されない人はたくさんいるはずだし、そういう人の大半は薬に逃避したりしていないからだ。
結局のところ、自分こそが周囲に迷惑をかけている加害者だ、という自覚ができないとしか思えない。理屈をこね回して、自分がこうなったのは何かのせい、誰かのせい、と自己正当化と責任転嫁を図っているようにしか見えない。象徴的なのが、母親に迫るシーンだ。弟と一緒にクルマに乗ったとき、自分は薬を過剰摂取していた。そんな私に運転させる方が悪い。弟が同乗することを認めたあなたが悪い。と、母親に食ってかかる。母親も、あんたなら大丈夫だと思ったのよ、と自分の正当性を主張する。日本人なら、親子でこんな言い争いはしない。自分が悪かった、と互いに思うはず。
その後、キムは母親を殴り、母親に殴り返される。興奮して家を出たキムは斜線を外れ、林の中に突っ込んでクルマを大破させてしまうのだけれど、父親が「クルマには乗るな。お前が運転すると保険が下りない」といっていた通りになってしまった。
薬物中毒は、個体の問題が大きい。同じような経験をした日本人がいたとしたら、キムのような態度は取らないだろう。もっと贖罪感に打ちひしがれ、地味に、自分を殺して生きることだろう。自己主張ばかりしていたら、家族からつまはじきになってしまう。しかし、翌日になると、キムと母親は抱き合って「愛している」なんて言ったりする。対立してもケンカをしても、こういう態度が取れる米国人は不可思議だ。キリスト教の国。自己主張の国。自由の国。こういう、文化の違いが、キムのような反応をさせるのかもね。
そんなこんなこんなで結婚式はつつがなく終わり、翌朝、キムは迎えに北知人らしい黒人女性と家を出て行く。ええっ? なんで出て行っちゃうの? 父親の知人が仕事を世話するって言ってたじゃないか。あれこれ言いたいことを言って、さっさとバイバイかよ。なんてやつ。またまた印象が悪くなったのだった。
姉の結婚相手は、黒人だ。父親のいまの妻も黒人らしい。人種に偏見がない家庭のようで、参列者も様々な人種が見られる。花婿はミュージシャンらしく、参列者も音楽家が多い。のべつ演奏していて、それがジャズだったり東欧風だったりする。披露宴でもサンバやレゲエがあり、インド音楽もある。ああ、そうだ。結婚衣装はサリーだった。結婚式のシーンから以後は人間ドラマが少なくなり、音楽を見せる、聞かせる部分が多くなる。ちょっと退屈。せいぜい、花婿と父親が、食洗機にどれだけ食器が詰め込めるか、の戦いで、キムが出した皿に弟の名前が書いてあるのが登場するぐらいか。それにしても、ここでもキムはドジを踏んでしまう。やっぱり、もともと周囲に配慮のない性格なんだろう。と、思う。そういえば、すでに決まっている花嫁の付添人の座を、姉の友だちから奪ったりもしている。
セラピーで会った男が、姉の結婚式に来ていると知って、その日のうちにセックスしてしまうのだけれど、その彼とのその後の関係がほとんど描かれないというのは、もったいない。
この映画、画面がゆらゆら揺れて、乗り物酔いになりそうだった。しかも、映画の中の登場人物が撮った、という想定のフィルムも混じり、こっちはピントは合っていない、揺れはひどいで、なんなんだ、という感じ。この手のドラマでここまで画面を揺らす必要があるのか、疑問。出目金のアン・ハサウェイは、こういう映画には合わないんじゃないかなあ。
G.I.ジョー8/12新宿ミラノ1監督/スティーヴン・ソマーズ脚本/スチュアート・ビーティー、デヴィッド・エリオット、ポール・ラヴェット
原題は"G.I. Joe: The Rise of Cobra"。予告編は見た。この手のCG使いまくりSFアクションは必ず眠くなる。今日もそうなるんじゃないかな、と思っていたら、やっぱりさっそく眠くなった。だって観客は何も考えなくていいですよ、というお話しなんだもん。では寝たかというと、かろうじて寝なかった。それはたぶん、シナリオがちゃんとしていたことと、人物描写に多少なりとも厚みがあったからだろうと思う。
話は荒唐無稽。悪の組織や北極の基地なんかは、007シリーズを連想させる。その分、ちょっと古臭い感があるんだけどね。アメコミかと思ったら、ミリタリー・アクション・フィギュアだと。でも、俺の知ってるG.I.ジョーは、こんなSFものではなく、普通のアメリカ軍の兵隊さんなんだけどなあ。最近のフィギュアは、こういうバックストーリーをもっているのかい?
武器会社MARSが開発したナノマイトという武器を運ぶ途中の米軍が、黒ずくめの連中に襲われる。ナノマイトが奪われるか! というところに、またまた別の黒ずくめの連中が登場。なんだなんだ? どっちがどっちか、分からんぞ。と最初は混乱するが、次第に分かってくる。最初の黒ずくめはデストロを中心としたコブラという悪の組織。後の黒ずくめは、世界選抜の最強軍団G.I.ジョー。で、米軍の2人もG.I.ジョーに加入し、コブラと戦う、というお話。複雑そうに見えて、実は単純。テンポが恐ろしく早く、畳みかけるようにどんどん進む。しかし、メンバーの背景などを説明するシーンもあるので、混乱することはない。しかも、伏線もちゃんと回収してくれるので、つじつまが合わなくてイライラすることもない。その意味で、よくできた映画だと思う。
ナノマイトは、鉄も食べつくすバクテリアみたいな武器。NATOが開発し、発表会のプレゼンターはデストロが務めてたよなあ。違ったっけ? 開発費をNATOに出させた、ってことか? でも、MARSが主体になって開発したんじゃないの? 自分たちが主体になって開発した武器を、自分たちで盗むって、なんか変じゃないか? 自前で開発すればいいのにね。
コブラのパロネスという美女は、G.I.ジョーに加入した米兵デュークの元恋人らしい。デュークは戦場でパロネスの弟を失っている。すべてが自分の責任ではないけれど、かなりの負い目がある。それでパロネスに会わなくなったのだろう。それでパロネスは捨てられたと思い、悲嘆にくれていた。その姉の脳を手術し、悪人に変えてしまったのは弟だ。彼女が冷徹なコブラに加わったのも、彼女の弟(実はデストロのコブラコマンダー)が九死に一生を得た事件と関係している。けど、コブラコマンダーはあの戦場で何を見たのだ? そして、弟自身がなぜ悪の側にたつことになったのだ? という疑問は残る。それから。顔面手術して大統領になりすましたのは、あれはどういうメンバーなのだ? これがちょっと分からなかった。ま、コブラの2人も生き残っているし、第2弾、3弾とつづけるつもりなんだろうな。
最大の見どころは、ナノマイトでエッフェル塔が倒れるシーンだけれど、あれを予告編で目一杯やっちゃってるのだよな。あれは、予告編では見せるべきじゃないだろ。予告編を見た人はナノマイトが使われることがすぐ分かっちゃうし、意外性もない。予告編も、ちゃんと考えるべきだと思うぞ。
両組織に、日本刀を使う忍者がいるのが笑える。デストロ側は、イ・ビョンホンがやっている。韓国人が日本人役って、納得してやってるのかなあ。他のキャラクターも、比較的分かりやすい。デュークの相棒の黒人はひょうきんだし、同僚の赤毛の女性隊員は、なかなか色っぽい。これぐらい見分けがつけば、置いてきぼりにはならないぞ。
デュークと相棒の黒人が訓練を受けるシーンで、あれ? ブレンダン・フレイザー? と思ったのだけれど、クレジットにたったかな? というわけで、帰ってから調べたらやっぱりブレンダン・フレイザーで、カメオ出演だってさ。
ごくせん THE MOVIE8/14大森キネカ3監督/佐藤東弥脚本/江頭美智留、松田裕子
映画と呼ぶにはしまりがなさ過ぎる。物語の核となる覚醒剤問題、および、偽善者を暴く話も、映画の中盤にならないと始まらない。それまではダラダラと仲間由紀恵がベタとも呼べないような、笑えないギャグを連発する。だれが考えたのか知らないが、これじゃテレビドラマだとしてもレベルが低すぎる。志もない、技術もない連中が、仕事だからやりました、というような感覚で2時間ビデオをまわし、つないだだけ。30分を過ぎたところで眠くなり、かなり瞼は落ちたけれど、完全に寝ることはなかった。よく寝なかったなあ。
最初の方に出てきた暴走族の連中は、後半ではぜんぜん物語に絡まないの? いや、その。登場する若者の区別がほとんどつかないので、その意味でも入り込めなかった。つまり、現在の生徒以外に、過去の学校の教え子も登場するのだけれど、そいつらがどういう関係にあるのか、分からないのだ。だって、テレビ版を見ていないから。それにしても、若い連中の顔が、みんな同じに見えてしょうがなかった。もうちょいメリハリをつけて、目立たせるやつを際立たせた方がいいように思うけどなあ。
仲間由紀恵は、顔に恰幅のよさがでてきてしまったなあ。「TRICK」から10年。少女の面影はすっかりなくなってしまった。それでもヤクザなキャラはやっぱり似合わないと思う。どう考えたって、こんな役柄は、浮いている。だいいち、殺陣がまるっきりなっていない。ムリだって。
平山綾やほしのえみは、名前の表記が変わったのか? それはいいけど、烏合の衆の一分にしか扱ってもらってないのがもったいない。もうちょい人間を描けばいいのになあ。といっても、脚本がボケだから、どうしようもないけどね。どうでもいいような小ネタの羅列と、沢村一樹との対決。この対決も、金より大切なものがある、なんていう使い古されたテーマじゃ、だれも共感しないだろ。いまどき。ああ。ひどいものを見ちゃった。やっぱ、よしときゃよかった。こんな映画がロングランされているなんて・・・。どうなっているのだ。
音楽が「ショムニ」にそっくりなんだけど・・・。
ナイト ミュージアム28/17上野東急2監督/ショーン・レヴィ脚本/ロバート・ベン・ガラント、トーマス・レノン
原題は"Night at the Museum: Battle of the Smithsonian"。タイトル通り、スミソニアン博物館での出来事が中心。実は、前作は見ていない。なのでベン・スティラーと自然史博物館の面々との関係や、石版のことが分からなかった。でも、それはまあ、それなりにテキトーに理解すればいいか、と。
最初のうちは話を把握するので頭を使っていたのだけれど、スミソニアンにやってきて地下の保存庫であれやこれやはじまった頃、すこし飽きてきた。子供向けのせいか、内容がドタバタばっかり。しかも、くどいギャグもあったりする。日本じゃ受けないよな、というようなやつだ。彼の地では大うけ、大笑いになるのかも知れないけれど、日本ではかなり苦しい。そもそも、だからどうした、という話で、とくに達成感や克服感が感じられるワケではない。
それでも面白かったのは、リキテンシュタインの絵画の女が動いたり、第二次対戦終了の日の「キス」の写真の中に飛び込んだりするっていう設定は面白かった。ああいう、アリス的な感覚の部分がもっとあると、楽しめたのかも。でも、そういうシュールな世界へズブズブ・・・というわけにはいかなかった。なので、後はせいぜいアメリア・イヤハート役であるエイミー・アダムスのむっちりしたお尻を眺めるぐらいしか楽しみはなかった。
悪役側の大将がエジプトの王様。その子分格がナポレオンにイワン雷帝。と、歴史上の大人物なのに、アメリカ代表がアル・カポネというのがしょぼい。ついでにカスター将軍が善の側につくのだけれど、やっぱりアメリカは歴史も浅く、人物がいないのだね。そういえば、アメリア・イアハートなんて知らなかったものなあ。そんなに有名人?
ラストも、え? そんなのあり? というようなもの。深夜、誰もいないところで人形たちが動き出すならまだしも、博物館が夜も営業するからって、客が入っているうちに動き出しちゃまずいんじゃないの? ま、映画だから、いいか。
トランスポーター3 アンリミテッド8/20MOVIX亀有シアター2監督/オリヴィエ・メガトン脚本/リュック・ベッソン、ロバート・マーク・ケイメン
原題は単純に"Transporter 3"。食後にちょっとうたた寝をして、それで臨んだのにしっかり寝てしまった。だってつまんないんだもん。このシリーズ、回を追うごとに中味がいい加減で、くだらなくなっていく。肉体強調のアクションや意味のないカースタントばかり多くなって、物語自体は添え物になっちゃって、いやはやだね。
今回はまともな依頼ではなく、強制的な運送依頼。ギャングらしき連中に拉致され、運べ、と言われる。クルマから離れると爆発する腕輪をつけられ、逃げられない、というのがミソ。なぜか、パッパラパー娘という同乗者あり。しかし、この時点で運ぶ物は娘、と分かってしまう。あとからの謎解きなど、意味がない。で、背景にはどこかの国の船が産業廃棄物をロシア(?)の港に持ち込みたい、という非常事態(廃棄物が漏れ出している!)があるようなのだが、その廃棄物が何かはなかなか明らかにされない。で、ギャングに脅されるどこかの国(ロシア?)の高官がいる。というような塩梅で、でも、そういう社会問題や人間関係はさておいて、ジェイソン・ステイサムがひとりで何10人もやっつけてしまったりと、荒唐無稽がひどい。同情の娘はヤク中でソバカスだらけで、とてもヒロインにはむかないご面相。やれやれ。
というわけで、アクションは盛りだくさんだけど、話が全然進まない。ギャングはステイサムに「ブタペストへ行け」だのブルガリアの方へ行けだのと、たんに走らせるだけ。しかも、途中で一度ステイサムに見切りをつけ、別の運転手に変わらせようとしたりして、要するに運転手は誰でもいい、みたいな感じなのだ。なんなんだ?
というわけで、1時間を過ぎたあたりで飽きてきて、眠くなってしまった。で、気づいたら、ギャングの親玉が爆死していた。もう、あとちょっとで終わるところだった。まったくもう。で、話はどう解決したのだろう? 腕輪はどうやって外したのかな? で、ギャングがステイサムに依頼したのは、たんに人質(ソバカス娘)を一定の期間預かってくれ、ということだったの? もっと他に理由があったのかな? もし人質を預かるだけなら、バカみたいだよなあ。仕掛けも大がかりすぎるし、意味がない。で、あの産業廃棄物は何だったんだ? 最後に警察が船に乗り込んでいったけど、船主やギャングの思惑は何だったんだ? 政府高官(ソバカス娘の父らしいが)が脅されていた写真、あれには何が写っていたんだ?
と気になることはたくさんあるんだけど、 寝てたから分かんないよ。ははは。どうせ大した話じゃないだろう。なにせリュック・ベッソンが脚本を書いて(思いつきでやってるんじゃないのかな?)るんだ。テキトーのオンパレードに違いない。もう一度見て確かめたいとも、思わないね。だって、つまんない映画なんだもん。
それにしても、ステイサムの友人の老警察官は、「TAXi」シリーズのとんまな署長と雰囲気が似ているよなあ。それから、ソバカス娘がうなじに「安」って刺青をしているのは、ありゃなんなんだ? たんなるアホか?
リリィ、はちみつ色の秘密8/24ギンレイホール監督/ジーナ・プリンス=バイスウッド脚本/ジーナ・プリンス=バイスウッド
原題は"The Secret Life of Bees"。いろいろあって上映が遅れ、オープニングタイトルを省いた状態で、メインタイトルからの上映。何となく「フライド・グリーン・トマト」とか「サイダーハウス・ルール」となんかと雰囲気が似ている。でも、中味は違うけどね。主演はダコタ・ファニング。可愛い子役は成長して不細工になるものだが、彼女はまともな少女になってきた。これからまだ、いい女になっていきそうな気配。
公民権法が制定された1960年代初頭の南部の話だ。実は昨日の夜、東京MXテレビ「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」で「CSAアメリカ連合国」の前半を観た。もし南北戦争で南部が勝っていたらどうなったか、を想定したドキュメンタリータッチのフィクションだ。その解説の中で町山が、公民権運動の結果、黒人が投票権を得た。けれど、選挙登録に行ったらリンチにあったりすることはフツーにあった、ということを言っていた。その、まさらそのことが映画の中で描かれていた。陰気な父親と2人家族のリリィ(ダコタ・ファニング)。幼い時に母親が家出をし、たまたま、荷物を取りに戻ってきたとき父親とケンカ。リリィが手にした銃が暴発し、母親が死んでしまった・・・という過去を持つ14歳。リリィは黒人に偏見がない。家政婦の黒人ロザリン(ジェニファー・ハドソン)と買い物に行ったら、白人のジジイにいびられ、ロザリンは大けが。ええい、と2人は家出してしまう。目当ては、母親が昔いたらしい街・・・。なんだけど、これがまたなんと、あんまりにも簡単に見つかって潜り込めてしまうのがつまらない。もう少し苦労してたどり着いて欲しかった。
で、そこにはオーガスト(養蜂家・太っ腹のおっかさんタイプ)、ジューン(音楽家・女性の自立を主張)、メイ(家事手伝い・双子のエイプリルを過去に亡くしてから、感情的に)の黒人3姉妹が暮らしている。これがかなりの裕福な家で、ほとんど差別されていないような雰囲気がある。ただし、用法の手伝いをしている黒人少年ザックとリリィが2人で映画に行ったことで、大変なことになるのだけどね。チケットを買って、入口は別。でも、リリィは黒人席に入って一緒に観ていた。そしたら白人たちにつまみだされ、連れ去られる。リンドン・ジョンソンの時代には、まだ南部ではこうだったのか、という驚きがある。で、この出来事にショックを受け、三女のメイは自死してしまう・・・。ううむ。話をドラマチックにしたいのは分かるんだけど、メイの性格や位置づけがいまいち説得力がなくて、精神障害者に見えちゃってるからなあ…。それに、妹が死んだっていうのに、姉たちはあんまり悲嘆にくれていない。それに、死の原因になったリリィにも冷たくならない。この辺りの心の動きが、どーも、すっと入ってこない。
3姉妹の描き分けはできているんだけど、この話の本質とは別の次元になっちゃってて、すんなり受け入れられないところがあるのだよね。
この映画は、いいところまで迫っていながら、ちゃんと描き切れていない部分が多い。たとえばリリィの母親デボラと父親レイとの不仲。もともとレイが恋して落としたといいつつ、1年もしないうちにデボラがレイに飽きた・・・って、なんだよ、それ、だよね。レイが暴力亭主の脳タリンで酒浸り、とでもいうのならいざ知らず。そりゃデボラのワガママもあったんじゃないの? という気分になってくる。だってデボラが死んで10年、レイは後妻を娶らず娘を育ててきた。それを考えると、そんなに悪い亭主・父親には見えない。リリィの誕生日に、控えめながら「おめでとう」も言うし、ブラジャー代も出す。しかも、家政婦ロザリンのいる前で、缶から金を出してロザリンに手渡すのだ。こいつが悪いやつのはずがない。ラスト近く、レイはなんとかリリィの居所を見つけて連れ戻しに来るけれど、娘が嫌いだったらそんなことはしないよなあ。
3姉妹も、中途半端。リリィはもっとオーガストから色々と学ぶ設定でもよかったんじゃないのかな。オーガストという存在が、いまひとつ、しっかりとは伝わってこなかった。ジューンは、たんなる知的なツッパリにしか見えない。恋人のプロポーズを断り続けるのも、女性の地位向上を考えてらしいけど、結婚=男性への隷属化と考えているのは陳腐だと思う。3女の存在は、もっと霊的にするとか、使いようがあったんじゃないのかな。亡くなった双子のエイプリルの影響が、何なのか、見えてこない。こうした部分がもう少し腑に落ちる気配を見せ始めると、もっといい映画になったろう。そして、そのすべてがミツバチの生態にメタファーとして投影されるとかすると、さらに重みがある内容になったはずだ。
デボラはオーガストに育てられたという。それで家庭が破綻したとき、オーガストの元に避難しに来ていたらしいのだが。その関係もよく描かれていない。なんか、みんな物足りないのだよ。
というわけで、レイはリリィに「デボラは荷物をとりに戻った」と言われつづけ、母親に捨てられたと思いつづけてきたが、最後に、「お前を連れに戻った」とレイに真実を伝えられる。これで、誰からも愛されていない、と思いつづけてきたリリィの心は回復する・・・のだろう。しかし、この、軸となる話があまりにも単純すぎて、拍子抜け。やはり、父と母、そして、娘との間に何があったのかを、示唆する何かが欲しい。そういえば、デボラが残した遺品をオーガストが見せてくれる。その中に、レイがくれたブローチがあった。ってことは、レイを憎んでいたわけではない、ということだよなあ。それに、デボラとリリィが一緒にいる写真もあった。あれ、撮ったのはレイ、ということだろ。ってことは、レイは妻も娘も好きだったことじゃないか。なのに、レイを悪者にするような話の展開は、いまひとつ納得がいかない。
それにしても。4歳で実母の死に関わり、14歳でメイという女性の死に関わることになったリリィって、なんか、死に神みたいじゃないか? 自分が原因で近い人が何人も死んでいるなんていう重圧に、俺だったら耐えられんぞ。
黒人3姉妹は、年齢不詳だ。役者の実年齢は長女が39歳、次女が29歳、3女が40歳程度らしい。やっぱ、変だよなあ。
音楽に、聞き覚えがあるんだけど。どこで聞いたんだろう?
■9時30分から予告と案内のあと、盗撮防止PRが出て、「リリィ、はちみつ色の秘密」の上映開始。タダッ! とFOXのテーマが流れても画面はまっくろ。れれれ。しばらくしたら場内が明るくなった。これは、最初からやり直しかな? と思ったら場内が暗くなり、画面はもうドラマが開始している。「リリィ」なんて字幕がでてきて、床に銃が投げ出されたり。そのうちストップして最初から上映し直すのだろう、とちょっとの間、待った。けど、その気配がない。なので席を立って受付の女の子に「頭が切れて真っ暗だったんだけど」というと、戸惑った様子。と、背後の映写室の扉が開いて、人が出てくる。なので、同じことを言う。すると 「途中で止められないんですよ」という。
「じゃなに。頭ちょん切れたまま見ろっていうの? それはないんじゃない?」 困ったように、映写室内の技師を見る。中からは「時間かかりますよ、少し」という返事。
「ちょっと待ってよ。始めからやり直せ、っていってるのは僕だけだろ。中には他にも観客がいるんだよ。他のみんなにも意見を聞かなくちゃしょうがないだろ」と言ってやる。
承知してくれたので、僕は席に戻った。で、関係者が入ってきて、トラブルがあったこと、最初の部分が写らなかったことなどを説明した。ちゃんと謝罪したかは、どうもよく覚えていない。「最初の方が30秒ほど切れてしまいました。申し訳ありませんでした」ぐらいは言ったかも。で、彼はこのようにつづけた。「横にロールになっているシステムを使っているので、巻き戻して最初から上映するのが難しい。できることなら、このまま上映をつづけさせて欲しいんですが、最初から上映した方がいいですか? これは、多数決ってわけにはいかないとは思うんですが・・・」と。おいおい。なんだか自分たちが導入しているシステムの都合を優先したような言い方をしてる。これじゃ、最初からはムリだからこのまま上映させてくれ、というお願いに聞こえるぞ。
さて、他の観客から「なぜトラブルが発生したのか」という質問が出たりしたが、ひとりが「このまま上映してもいい」という意見を言った。同調者がふえると困るので、僕が「僕は最初からやって欲しい」と意見を言う。「どのぐらい時間がかかるのか?」には「10分以上かかる」と。また、「最初の方は重要なことがあったの?」という質問が出た。係の人がそれに応えようと「えー・・・」と説明するように思えたので、俺が静止した。「最初の映像が重要か重要でないかなんて、あなたが判断することじゃない。観客が見て判断することだ」といってやる。
さらに「これは、多数決というわけには行きませんので・・・」と、またまた多数決ではない、と強調する。しばらくして、ご婦人が「私も最初からがいいわ」という。話はそれで決まり。頭からの再上映が決まった。
場内は明るくなり、トイレに行ったり時間を潰し、整然と再上映を待った。そうして、15分ぐらい(たぶん)して、再上映された。再上映にあたって係の人が言うには「ムリに巻き戻していますので、途中でまた同じように切れてしまう可能性もありますので」と、付け加えた。まるで、今度切れたら再上映を要求したお前らが悪いんだからな、とでもいうような言い方だね。で、最初に映し出されたのは黒字に白く"The Secret Life of Bees"という、キメのタイトルだった。FOXのマークや配給会社のトレードマークは無視。さらに、映像が始まる前にどんなオープニングタイトル部分があったのかは、分からない。、ほんとうに、トレードマークのあとすぐにタイトル字幕がでるような始まり方だったのか。それは定かではない。ま、そこまで巻き戻している手間が惜しかったんだろう。
さて、係の人が脅しのように言った「また切れるかも」ということもなく、ちゃんと上映は終了した。館内が明るくなり、またまた係の人が入ってきて「20分遅れの終映です」と言う。不手際で申し訳なかった、とはいってくれなかった。むしろ俺には、お前らが再上映を要求したから遅くなったんだよ、としか聞こえなかった。いや、もう、まったく。
そもそも、俺が上映を止めなければ、連中は観客にエクスキューズなしに上映をつづけるつもりだつたんだぜ。しかも、頭から再上映するということは考えもせず、ハナから「できないシステムだから」と、自分たちの導入しているシステムのことをタテにまず言い訳をする。で、強く言われると、「じゃあ」としぶしぶ手巻きで巻き戻し、「また切れるかも」と責任を回避するようなことをいう。くだくだ言い訳せず、気がついた時点でさっさと手巻きでもなんでも巻き戻せば、再上映までの時間だって短くて済んだんだ。なのに、「このままいっちまえ」なんて、自分たちの都合を優先させるから、症状はだんだんひどくなっちゃうんだよ。急がば回れ、なんだよ。
ギンレイのホームページには"映画ファンの皆様にご満足いただける「マイ・シアター」"なんて書いてあるけど、まったく、困ったもんだ。制作会社のロゴだって映画の要素のひとつだ、っていう意識はないようだしね。
■[追記/2009.09.02]というわけで、見ていない部分があるのではないかと、9月2日に確認しに行った。1時50分の回。FOX SEARCHLIGHTのロゴが出て、暗転。がさ、ごそ、と音。とともにタイトルがでた。なるほど。長いタイトルはなかつた。前回の再上映では、暗転での音の部分1〜2秒を除いて、すべて見られたというわけだ。でも、いくつか確認したかったので(ブラックマリアのラベルで、どうしてピンと来たのか? とか)、30分ぐらい見てでた。ま、あのときはこちらも多少はいらついていたので、落ち着いて画面が見られていなかったからね。
色即ぜねれいしょん8/28シネセゾン渋谷監督/田口トモロヲ脚本/向井康介
ちょっと恥ずかしい映画である。笑えるのだけれど、自分と照らし合わせているうちに、何とも気恥ずかしくなってくる。そんな映画だ。監督の田口トモロヲは、みうらじゅん原作の前作「アイデン&ティティ」に次いでの2本目の監督作品。しかし、みうらの原作しか映画にしないの? いくら仲がいいからってさあ。
「アイデン&ティティ」に比べて、中味の汎用性が広がった感じがした。前作は、フォーク色、ボブ・ディランへの思い入れが強すぎて、そういう世界もあるんだろう、的な視点でしかみられなかった。ところが今回は、登場する様々な要素が、自分とも重なったりする。なので、だから、恥ずかしいのだよね。
仏教高校の内容は知らないが、文化系男子の生態は、なかなかよく描けている。深夜放送にリクエスト。ラブレター。ユースホステルの旅・・・。そして、無知と妄想の日々。ああ、恥ずかしい。とまあ、観客にそう思わせたところで、この映画は大成功しているってことだよなあ。もっとも、昨今の青年男女に1970年代の青い様子は理解できないと思うけど。でも、ちょっとは共感できているんじゃないのかね。
最初の頃の演出は、たどたどしい。ああ、ここでどうして盛り上げない! 音をもっと効果的に! 映像をリズム良く畳みかけるようにすればいいのに・・・。なんて思うところが何カ所もある。でも、そういうのが次第に気にならなくなってくるのだよなあ。中盤の、隠岐の島のユースホステルの辺りから、コツがつかめてきたのか。それとも、噺が面白くなってきたのでアラが目立たなくなってきたのか。どっちなのか分からないけど、話の流れにどんどんと入り込んで行ってしまった。
笑いもたっぷり。しかも、ドタバタの笑いではなく、哀れみの笑いだったり共感の笑いだったり、笑いそのものに質がある。まあ、もっとも、唯一、学食のオバチャンの指がラーメン丼に浸っているという、手垢が付きすぎたベタなギャグだけは外して欲しかったと思うんだが。
それぞれのキャラもいい。主人公、いつも、つるんでる2人。小学校の頃から好きな彼女・足立恭子。隠岐の島で知り合うオリーブ(なんと可愛い)、ヒゲゴジラ。クラスの不良。とくに、須藤役の古川雄弥がいい。文化祭のホーネンズのリードボーカルとなって歌うシーンは、不良のある一面をよく見せていると思う。母親役の掘ちえみは、いくぶん腹が出ているけれど、可愛さをたもっている。ううむ。仏教学校の教師たちなんかも、上手く表現されている。ほんと。脇役の存在が、映画の深みを増すのに大いに役立っている、と思う。
で。最後、文化祭でしっとりとしたフォークを歌うつもりが、ホーネンズへの大熱狂でぶっ壊れてしまい、やけのやんぱちで、本音を歌いまくる主人公。この落差も素晴らしい。で、フツーなら会場に小学時代の同級生・恭子が来ていて・・・とか、端っこでオリーブが見ていて・・・なんて演出になるのだろうが、この映画はそうしない。くる、という言質を取り付けたはずの恭子はこない! では、と電話してデートの約束を取り付けるが、とつぜん祖父が亡くなって約束はパー! いや、最後にもひねりがあった。青春映画の傑作かも知れない。
ココ・シャネル8/31新宿武蔵野館1監督/クリスチャン・デュゲイ脚本/エンリコ・メディオーリ
ちょっと眠い状態ででかけた。昨日は総選挙で、でも、1時前には寝たんだけどね。でも、1時間ぐらいして蚊に刺されて起きてしまった。なもんで、3時頃やっと安心して就寝。そのせいかも。
原題も"Coco Chanel"。IMDbによると、どうもテレビドラマらしい。なるほど、そうか。いやね。主演シャーリー・マクレーンとしているけど、若き日のシャネルを演じているバルボラ・ボブローヴァの方が、本来の主役。シャーリーは映画に箔をつけるための引き立て役みたいに思えたのだ。それと、もう一人の大物が、いまやテレビ役者になってしまっているマルコム・マクダウェルだったこと。そして、この2人以外に知った顔がいなかったのだ。さらに、エンドクレジットが昨今の映画にしては異常に短かった。なので、なんか変だなあ、とは思っていたのだけどね。それでも、映画と言われて、すぐに「テレビドラマだろ?」とは切り返せないぐらいの質は維持している。見ると、脚本のエンリコ・メディオーリは超がつくほどの大物ではないか。どういう因果で集まったスタッフ/キャストか知らないが、よく素性の分からない映画だね。
ココ・シャネルの生涯を見せる物語。一番の欠点は、時代がいつか分からないこと。母が死んで父親に修道院に預けられ、お針子になる・・・という映像が19世紀末ビクトリア朝みたいに見える。ええっ。シャネルって、そんな古い人なんだっけか。そして、シャーリーがシャネルを演じる現代は、1960年代みたいなクルマやモードだ。シャネルって、そんな時代の人だったのか。というのが、この映画を観た最大の収穫かも。
この映画、エンジンがかかりだすまで時間がかかる。幼い姉妹。母が死に、父親に修道院に入れられ(このあたり、ちょっと説明不足かも)、長じて町のお針子に。そこで将校エチエンヌに惚れられて、愛人に。・・・という説明的な描写に面白みがない。シャネルの才覚が光るのは、太ったオバサンの衣服の丈をいじる時ぐらい。で、やっと自分がデザインした帽子がポロ競技場で認められる・・・かと思いきや、それもちょっと話題になるだけ。いつまでたってもシャネルらしさは発揮されず、ワクワクするサクセスストーリーに入っていかない。
ドラマが始まるのは、ボーイという実業家と出会ってから。ボーイはエチエンヌの友人で、ちょっとした三角関係になりかけるけれど、ここも盛り上げ方がいまいち。で、オリジナル帽子を作り始めるが、エチエンヌが店を出すことを承知しないので、これも盛り上がらず。結局シャネルはエチエンヌを捨てるのだけれど、これは彼が自分と結婚するつもりがないと知ったから。このあたりの話も、ロマンスとはいえないレベル。というわけで男と別れてパリのアパートの3階に住んで帽子を売り出すが、客はつかない。まったくもって、盛り上がりに欠ける話運びである。
話が動きはじめるのは、シャネルがボーイと再会し、ボーイの資金で店を出してから。なのだけれど、この映画はファッション事業におけるサクセス物語より、だらだらした男女関係を描くことに腐心する。シャネルは成功してボーイに資金を返却する。ボーイはシャネルに結婚を申し込む。ところがシャネルは自立してから、と断る。それでボーイは昔なじみの女性と結婚してしまう・・・。のだけど、ここら辺の話は全然ドラマがない。男と女の心の通い合い、傷心の日々、失望、なんていう部分が描写されず、単弾と成り行きだけが説明されていく感じなのだ。ボーイが結婚生活に不満を持ち、シャネルに愛に来ようとしたそのとき、自動車事故で死んでしまうというのも、なんかなあ。都合良すぎないか(でも、これは事実らしい)。
さて。現代(1954年らしい)のシャネルは15年ぶりに新作を発表。ところが酷評される。それではともう一度復帰をかけて挑み、これは大成功。いったんは落ちぶれていたシャネルブランドも復活する、というだけの話。こちらも、ワクワクするようなエピソードがない。それに、成功した、というショーの服が、いまから見るとなんとも古臭い。ファッションなんて、そんなものだ、といえばそうなんだろうけど・・・。
というわけで、なんか、時代をだらだらとなぞっただけの話にしか思えなかった。ドラマがないのだよなあ。ロマンスは中途半端で、サクセスストーリーの快感もいまいちだ。さらに、シャネルをめぐる人物の説明も舌足らず。たとえば、修道院に残ったはずの妹は、最初だけ出てきてあとは手紙でだけ登場。かと思ったら、現代のパートでシャネルの姪という娘が登場する。ってことは、妹の娘ってことだよなあ。じゃ、なんで妹は登場しないのだ?(ついでに、このシーンで姪が着ていた黒いドレスが敵のデザインしたドレス、とかいうセリフがあったけど、意味不明) お針子時代の女店主はいいキャラだったのに、後半に出さないのはもったいないよなあ。お針子時代の同僚で、シャネルの店のパートナーとなる女の子は、以後どうしたの? 帽子の店を出したとき、嫌みなことを言った奥方は誰? どっかの大使夫人? 以前にどこかで出てきたっけ? 現代パートで、シャネルのパートナーみたいなオバサンがいたけど、あれは誰? 若い秘書みたいなのは、誰? あれが姪だっけ? マクダウェルはシャネルとどういう関係だったのだ? といった具合で、周囲を飾る人物が使い捨てみたいな感じで登場するのももったいない。
全体に平板な映画だと思う。単に男を踏み台にして有名になったデザイナー、という気もする。一方で、女の衣装はこういうもの、と決めつけられていた時代に、既成概念を破るものに挑みつづけたバイタリティ、やんちゃなところが、可愛らしい。たとえば、狩りのときにスカートでなく使用人のズボンを履いて行って周囲をビックリさせたり。コルセットにアンチを唱えたり。現在のデザイナーに比べてハードルが高かった時代に、よくやり遂げたものだ、と評価したい。だからこそ、そういう部分にスポットライトを当てた映画にして欲しかった、という気がするのだけどね。
若き日のシャネルを演じるのはバルボラ・ボブローヴァという女優。チェコ生まれでイタリアで活躍、らしい。最初は貧相な感じにしか見えなかったけれど、どこかはかなさを秘めた表情が次第に浸みてくる。実年齢は34歳ぐらいらしいけど、10代から演じて不自然さを感じさせなかった。シャーリー・マクレーンにもちょっと似てたしね。
で。Wikiで見たシャネルの履歴を見ると、いろいろ興味深かった。お針子の傍ら歌手を目指してキャバレーで歌っていた。エチエンヌの支援でパリに店を出した。つまり、映画の中の貧乏生活はなかった? ボーイの死後、何人かと交際したが、省略されている。第二次大戦中はドイツ将校と交際し、フランス解放後はスイスに亡命。15年間の空白は、これだったのだ・・・! というわけで、本当にドラマチックな部分は描かれていない、のかも知れない。

 
 

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