96時間 | 9/1 | MOVIX亀有シアター8 | 監督/ピエール・モレル | 脚本/リュック・ベッソン、ロバート・マーク・ケイメン |
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原題は"Taken"。製作・脚本がリュック・ベッソン。なのに面白い、と評判なので見てきた。実際に、冒頭からラストまで一気。途中で時計を見ようとは思わなかった。A地点からB地点へ。一気呵成に突き進む単純な話ではあるが(ベッソンの映画はいつもそれ)、設定が面白い。それに、96時間という制限のあるなかでの奮闘、というのも効いていると思う。ま、ベッソンがアイディア(設定と大まかな流れ)を思いついて、脚本化が具体的に肉付けしたのだろうけど、その肉付けの具合がいい。 主演はリーアム・ニーソン。リーアム・ニーソンっていうと、1.5流の印象なんだよなあ。大作の主演もやってるけど、客を呼べる一枚看板じゃない。大作だと共演者か脇役みたいなことが多い。で、この手のB級映画では主演、ってな印象かな。他はよく知らない顔。でも、だからこそできた男ニーソン大活躍の映画だと思う。 ニーソンは元米国の秘密工作員。世界各地でやばいことをやってきた模様。結婚はしていたが、妻に心配のかけ過ぎを嫌われて捨てられる。娘だけは大切にしていて、誕生日には政府のミッションをほったらかしにして駆けつけるほどだったのに。そんなわけで、再婚した元妻の家の近くに住み、娘といつでも会えるよう、工作員を辞任。しょぼい田舎のオヤジになっちゃってる。・・・という設定が泣かせる。超がつくほどの親ばかニーソンだよ、という刷り込み具合が後から効いてくるわけだ。 元妻の現亭主は自家用ジェットを持つほどの大実業家。娘の誕生日も、遊園地なみの派手さでぶち上げる。ニーソンがなけなしの金を注ぎ込んで家庭用カラオケをプレゼントしたのに、義父は生きた馬をプレゼント。これじゃ負けるよなあ。泣けてくるぜ。 そんな17歳の娘が、友だちと2人でパリへ旅行に行くという。仕事がら超心配性のニーソンは反対するけど、でもそれじゃ娘に嫌われる。で、泣く泣く許可するのだけれど・・・。パリに着いたら娘と友人は誘拐されてしまう。そこから、ニーソンの大活躍が始まるのだ。娘のケータイから聞こえてきた声を昔の仲間の知恵を借り、アルバニア移民の誘拐団と分析。さっそくパリへ。いまはデスクワークの旧知を頼るが、すげない。とまあ、あの手この手で娘の存在に接近していく過程がスリリング。そしてスピーディ。誘拐団のアジトで誘拐した本人を発見し、尋問するあたりから、非情な工作員の顔が見えてくるのも凄い。相手が哀れみを乞うても一切無視。がんがん始末していく。実はフランスの旧知も一件に関わっていることを知ると、なんの関係もない旧知の妻の腕を打ち抜く。そして、事実を明かせ、と迫る。よくある映画みたいに、単に銃口を向けて脅すのじゃない。まず撃ってしまう。そうだよな。そうするよなあ。非情だけど、本気で真実を引きだそうとするなら、脅しの前に実行だよなあ。と、ひどく納得してしまう。 もっとも、アルバニア人のアジトに1人で潜入してみんなやっつけちゃったり。人身売買の場に乗り込んで大暴れしたり。いったん捕まったのに簡単に逃げ出せたり。最後はクルーザーに飛び乗って奮闘。・・・と、スーパーマン的大活躍。後半の活劇部分になると、スティーヴン・セガール的なアクションになっちゃうのがおかしい。でも、最近のセガールは、本人が出るときは上半身しか映さない。全身の場面はすべて吹き替え。ってパターンだけど、リーアム・ニーソンはそこそこアクションも自分でやっていて、まだまだ身体はついてきている。 フツーの女の子はヤク中にしてパリ市内の淫売宿に売りつけるらしいが、高値のつく処女はべつの団体へ売り渡されるという。で、その人身売買の場から、買い手の爺さまが乗るクルーザーへ。ここまでくるのに一人で何人殺したことか。でも、助けを求める相手に決して甘い顔をせず、容赦なく撃ち殺していく姿は、格好いい。すべては娘のため、という一途さもはっきり伝わってくる。 まあ、処女で売る、ということだったので、助け出した娘のキムは処女の状態だったんだろう。しかし、淫売宿やアジトでヤク漬けにされていた娘たちのその後はどうなったんだろう。かなり気になった。 それにしても、ホントにアルバニア移民はあんなに怖いのか? 単なるフィクションなら、クレームがつくところだろうけど、類似する事件はあったのかも知れないね。それにしても、旧ユーゴスラビアあたりの連中は・・・。って、擦り込まれちゃうよね。ラスト。娘を連れてアメリカに戻るニーソン。あれほど元夫をバカにし、毛嫌いしていた元妻が復縁を申し込むのか? と思ったらそんなことはなく、さっさと現夫のクルマで、娘ともども帰ってしまった。なんと素っ気ない。娘も、自分のバカさ加減や、そのバカ娘を容認する甘やかしの母より、ニーソンの方が頼りになる、と再認識すればいいのにね。ま、ニーソンが知り合いになった大物歌手のところに連れていってはあげるけどさ。 | ||||
ノーボーイズ,ノークライ | 9/3 | シネリーブル池袋シアター1 | 監督/キム・ヨンナム | 脚本/渡辺あや |
原題は"The Bort No Boys,No Cry"。オープニングタイトルは、英語が主。で、日本語もつけ足しのように出る。エンドクレジットは、日本語がメイン。ううむ。この映画は日本映画か? 韓国映画か? 資本は両国のようだが、よくわからん。 終わってから考えるに、何を言おうとしているのか、よく分からん、だね。クライムサスペンス的な背景にあるのに、中盤の大半はだらだらと間延びした演出で人間模様を描く。でも、どこにも引っ掛かりや棘がない。で、犯罪的な要素は、最後はなんとなくうやむや。うーむ。見終えた爽快感がない。 最初の方の人間模様がとても分かりにくい。登場している人、いない人含めて、会話でどんどん説明されるのだけれど、それが誰やらさっぱり分からない、ということが多い。まあ、見ていくうちに分かるような脚本にはなっているので、不満は幾分解消されるのだけれど、それでも結局分からない、という部分も少なくない。なので、もうちょい説明しろや、といたい。 基本的な情報が中途半端。妻夫木の存在はどういうものなのか。妻夫木と親分の関係は? 親分(ヒョングを拾ってくれた男)はどういう存在か? 韓国人娘の父親と親分の関係は何だったのだ? 本当に金を盗んだ? 生命保険会社はどういう役回り? 親分の息子と妻夫木の妹は、あれは、結婚してるのか? なんだかよく分からない。韓国娘は父をどうやって探した? 冒頭からしばらくの間つづく、何だろう? 感が簡単に途切れてしまう。人質の韓国娘を手に入れて、それで大金をせしめようという魂胆らしいが、なかなか行動に移さない。それどころか、親分はヒョングや韓国娘を捜しているだろうに、2人は妻夫木の家でぶらぶらしている。あの感覚は理解不能。狭い町だろうに。見つかっちゃうだろ。親分の配下も、妻夫木の実家ぐらい、さっさと探せよ、という気にもなる。 大半のエピソードが尻切れトンボのままだったりする。で、どうなったの? という気分。省略されているだけなのか、あえて描かないのか。こっちは消化不良に陥ってしまう。ラスト、親分に捕まったヒョングが沈められたのを妻夫木が救い上げるのだけれど、あれでヒョングは生き返ったのか? ヒョングのナレーションがかぶっているのだから、息を吹き返したというせっていだよなあ? それにしても妻夫木は、ヒョングの足取りをずっと見張って追っていたのか? なんかなあ。いろいろと納得がいかないなあ。というわけで、スッキリしない1本であった。登場する要素は多いけど散漫。とっちらかされているだけで、言いたいこともよく分からない。 | ||||
築城せよ! | 9/4 | キネカ大森3 | 監督/古波津陽 | 脚本/古波津陽、浜頭仁史 |
技術的に大学の映研に毛が生えたようなレベル。とくに冒頭からしばらくの間はひどかった。カメラはつねにふらふらしていて落ち着かない。意図的には見えないので、きっとカメラマンが下手なんだろう。編集(つなぎ)の不自然なところも多い。演技過剰でわざとらしく、学芸会みたいな部分も多々見られた。中盤から少し落ち着いてきたのは、順撮りで慣れてきたせいか? 話は荒唐無稽。戦国武将の魂が3人の男に乗り移り、城をつくりたいという。街おこしに城を造ろうとしていた連中がそれに賛同。しかし、4日後には魂がもとに戻るので、段ボールで築城することになる。一方、工場を建てようとしていた役所側はそれに敵対。戦国祭りの参加者をつのり、城を壊させようとする。 しかし、戦国武将が築城にこだわる理由がみつからない。第一あんな天守閣だけの城なんか何の役にも立たないはず。なおさら説得力がない。さらに、段ボールで築く必然性もよくわからない。たんに、早くつくれるからってだけ? ううむ。 役所や市長は、面倒なことになるから警察には届けないでおこう、という。しかし、街中の人が知ってしまったのに、警察も消防も現れないのは不自然すぎる。まあ映画だし、ご都合主義なだけなんだろうけどね。 で、城ができあがったら宴会が開かれ、無精とヒロインが祝言の真似をする。このあたりも意味不明。とにかく、一本筋は通っているけれど、肉付けが中途半端すぎて面白く見ていられない。しかも、盛り上がりというのがほとんどなく、クライマックスらしいものもない。なので、冒頭直後から眠くて眠くてたまらなかった。なんとか寝ないで最後まできたけれど、これは長編映画にするような素材ではない。金をドブに捨てているようなものだ。 エキストラがただの野次馬になってしまっているのが哀しい。統制が取れていないせいだけれど、エキストラを自然に見せるというのにも、それなりのテクニックがいるのだな、と認識させてくれた。なるほど。 | ||||
ミルク | 9/7 | ギンレイホール | 監督/ガス・ヴァン・サント | 脚本/ダスティン・ランス・ブラック |
原題も"Milk"。メッセージ性はあるのだろうが、映画としてのドラマ性やダイナミズムは希薄。ミルクが自覚を持って立ちあがってからの8年間のハイライトをつないだような構成で、大河ドラマのダイジェストというか、荒筋を見ているような感じ。人物の掘り下げも甘く、個人がほとんど立っていない。とても薄っぺら。主人公ミルクの別の曲面だけをハイライトしたら、全然別の映画ができそうな気がした。 同性愛者ミルクが、周囲の偏見や差別に憤り、サンフランシスコで市政委員や下院(州議会?)に立候補しては落ち、立候補しては落ち、ついには市政委員に当選し、責務を全うしている最中、同僚の市政委員に銃殺されるまでの8年間を描いた物語。この程度の映画がアカデミー賞にノミネートされ、主演男優賞、脚本賞を受賞したことが信じられない。ま、ゲイが多いハリウッドにアピールしやすい素材だった、ってことなのかもね。 まず、市政委員というのが分からなかった。市議会議員とは別の組織・役職なのか? 人数が6人ぐらいしかいないようなことをいっていたが。どういう権限があるのかも分からない。これは、事前に情報をインプットすべきだと思うなあ。上映前に解説を入れる手法が最近はやっているけど、やってもよかったんじゃないかな。 シスコはゲイに寛容なのか、あまり激しい抵抗・差別がない。むしろ市長までが味方みたいで、なんだか拍子抜けしてしまう。そういうミルクの敵は同性愛嫌いのオバチャン。それから「提案6号」のなんとか議員? この辺りの関係が、分かるようで正確には分からない。住民投票はアメリカ全土で行なわれているのか? それにしては、最後の方で塗りつぶしていたのはカリフォルニアの地図だったよなあ。それにしても、アメリカって、国会で決まった法案に対して簡単に住民投票を行ない、廃案にできちゃったりするのかい? このあたりの政治のやり方、日本との違いについても予備知識がないと、するっと入っていけないと思う。 で、政敵のオバチャンはテレビの画面での登場ばかり。なんとかいう議員(?)も、最初は名前だけ登場し、後から実際にあって討論会をしたけど、いまいち存在にリアリティが感じにくい。つまり、事実やニュースの情報として知っている人には「わかる」のかも知れないが、知らない日本人には、すっ、と納得しづらいと思う。映画というドラマの中に、ちゃんとした人物として登場しているのならともかく、ああいう登場の仕方では存在の重みが薄い。だから、ミルクとの対立も、個人vs個人の対立構造には見えず、ミルクvs政敵一般、みたいに見えてくる。 選挙や住民投票結果の開票も、表面的で、どうも共感できない。あ、そう、という感じ。ドラマとして登場してこないからだと思う。ミルクという人物にも疑問が残る。市政委員になってからは駆け引きに力を注いだりして、どうも真実一路的な無垢な人間ではなさそう。馴染みの恋人と分かれ、神経症みたいな青年とつきあう理由もよく分からない。もうちょっと描き込めば同情なり共感できると思うんだけどなあ。 ミルクの周囲をとりまく人物も、まともに描かれるやつは誰もいない。なんとなく現れ、登場時間や回数は多いけれど、その人となりまでは分からない。まあ、雰囲気で分かれ、ということなのかもしれないが、人物としての厚みは少ない。だから、ミルクが駅でナンパする青年、その後、恋愛関係になり自殺する青年ともに、得体が知れないままだ。その他もしかり。描き込めば面白くなりそうな素材ばかりなのに、もったいないと思う。 遠くの田舎から電話してきた車椅子の少年のエピソードも中途半端。「自殺する」と言ってきたのに、そのフォローをしようともしない。1年後にまたかかってきたときは「君は自殺したのかと思ってたよ」みたいなことをいう。ミルクって、何てやつだ、という印象しか持たなかった。他人のことには親身にならないひとなのかい? それとも、あれだけのエピソードで、ミルクは素晴らしい人だ、とわかるようになっているのかい? ホワイトが市政委員を辞めると言ったり、警官のいる部屋から出てきたと思ったら翻して辞めない、といったりする過程も分からない。そして、市長が再任しないからと逆恨みし、市長とミルクを射殺する理由もよく分からない。映画では、ミルクが再任させないよう市長に言っているシーンがあったけど、だから何よ、って感じ。ホワイトの人柄も含め、いまいち描き方が物足りなかった。それとは別に気になったのが、ホワイトの家族はまだどこかで生きているだろうに、家族への配慮はないのだろうか、ということだ。 それにしても、同性愛者はすれ違うだけで分かる、というけど。地下鉄の階段を下ってくる青年に声をかけ、口説いてキスまでしちゃうって…。なんか、ゲイが空恐ろしくなった。偏見をもつな、とは思うけれど、どうしてももっちゃうよなあ、多少は。とくにゲイの方々と交流したいと思わないし。男同士のキスシーンでは、ぞっ、としたしなあ。 映画が終わって。エンドクレジットに本当のミルクや周囲の人々が本当の写真で登場する。映画を観つつ、本人はどんな顔をしているのだろう? Webで見られるかな? と思っていたので、とても満足。それどころか、ミルクや支援者たちは実在したのだ、という感動が襲ってきた。映画自体にはさっぱり心を打たれなかったのにね。ミルクという人物については、ドラマ化よりドキュメンタリーの方がインパクトがあったんじゃないのかな。 | ||||
30デイズ・ナイト | 9/11 | 新宿ミラノ3 | 監督/デヴィッド・スレイド | 脚本/スティーヴ・ナイルズ、スチュアート・ビーティー、ブライアン・ネルソン |
原題は"30 Days of Night"。2007年の製作だ。いまさら何で? という気分。他にまともな映画はないのか? 製作にサム・ライミ。うーむ。二流の臭いがぷんぷん。 北極点に近いアラスカでは、1ヵ月ほど太陽が出てこない町があるらしい。そこに吸血鬼がやってくるという話。結論をいうと、ぜんぜん怖くないホラー。笑えるところは多数あり。で、また吸血鬼かよ! という落胆が大きい。それにしても、飽きずに吸血鬼の映画をつくるねえ、アメリカは。手を変え品を変え、設定を変えて。でも、この映画みたいに稚拙なのも近ごろ珍しい。吸血鬼たちは動物的で、あまり考えない連中に見える。動きは素早く、極寒の地でも寒さ知らずのようだ。ポーランドの奥地にいて、貴族の血統を引く優雅さは微塵もない。 こいつらの魂胆がよく分からない。30日間太陽が姿を消すから、ここに現れた? でも、陸な人間が残っていないところにやってきて人を襲う、って設定がいまいちだ。こういう場所を移動しつつ人目を避けていた、っていうのなら分かるんだけどねえ。あんな吹雪の町の人間を襲っても、なんのメリットもないだろ。人間に「自分たちの存在を示す」のなら、もっと別の場所でやったら? としか思えない。 ジョシュ・ハーネットもこんな映画に出るなんて、落ちたな、という感想を抱いてしまう。しかも、相手役のヒロインが不細工。それで、ジョシュと離婚して町に戻るところだった、という設定なのだから、なんかジョシュがさらに可哀想に見えてきた。この他、ジョシュの同僚、ジョシュの弟と祖母、トラックの運転手、チャラい女、謎の男ぐらいまでは個性が立ってるんだけど、あとの人物がほとんどつけ足しみたい。生き残ったメンバーの、ボケ老人を抱えた一家とか、どこかの管理人とか、いつの間にか混じってた、ってな印象しかない。 そもそもこの映画、最初の方から吸血鬼をバンバン登場させてしまい、怪しさや謎の深さをぜーんぜん感じさせない。むしろ最初の2〜30分は人物たちを描き分け、謎が次第に大きくなっていくような、じわじわスタイルの方がいいんじゃないのかな。大写しで明瞭に写る血まみれ吸血鬼の連中は、ぜーんぜ怖くなくて、アホみたいに見えた。 狭い町をぞろぞろ30日も逃げ回る、という設定も、かなりムリがあると思う。あんな狭い町で、見つからないわけがない。しかも、映画では数日があっという間にたっている。その間、飯はどうした。ウンコや小便はどうしたんだ。お茶も飲んでいたようだが、どこで湧かしたんだ? という追求を、どうしてもしたくなってしまう。 ラスト。ジョシュが吸血鬼の血を注射したとき、ああこれはジェンナーの種痘の要領で、免疫をつくるのか、と思った。ところがどっこい、噛まれたのと同じ作用を引き起こすだけ。で、自分が吸血鬼にならない前に相手と対決し、吸血鬼になりかけてパワーを身につけた瞬間に、相手をやっつける、というプランだった。けっ。つまんないの。でも、それにしたってあと数時間で30日間の闇があけ、太陽が昇るんだから、命をかけて戦う必要なんてなかったんじゃないの? トラックの運転手はいいキャラだったのに、作業車を家に突っ込ませて自滅させるとは、もったいない使い方をしたもんだ。幼児が吸血鬼になって、その幼児を鉈で叩き切る、という表現はあまりにも大胆。日本なら非難囂々ではないだろうか。あとついでに、最初の方の焼けた携帯はなんだったの? 謎の男はなんだったの? と、突っ込み所は満載だった。 | ||||
ホッタラケの島 遥と魔法の鏡 | 9/11 | テアトルダイヤ・スクリーン2 | 監督/佐藤信介 | 脚本/安達寛高(乙一)、佐藤信介 |
アニメの精度の彼我の違いを感じさせられた。米アニメの自然な動き、質感のリアルさ、ダイナミズム。どれをとっても及ばない。キャラクターののっぺりした表情、いかにもコンピュータでゃってます的なくにゃくにゃした不自然な動き、プラスチックのような布地・・・。こういう基本的なところからして、見ていて気持ちが悪くなるほどレベルが低い。いや。10年前なら立派に通用したかも知れないが、あちらの進化はもう遠いところまで行ってしまった。なんてことをいうと、アメリカと日本では予算が違う、製作日数が違う、なんて言い訳をするのだろう。言い訳は要らないのだ。見るに耐えないものはつくらなければいい。たとえばこの映画、尺が99分もある。これ、70分にして、もっと中味を充実させられないものなのかな。ムリだって? ストーリーは、たわいがなさすぎ。まあ、幼児向けだから、というのなら、いいでしょう。でも、中高生が見るには素朴で単純すぎると思う。とくにひねりもないし、何かのアナロジーでもなさそう。アリスのように穴から地底に落ちると、そこには別世界。でも、みんなどこかで見たことがあるようなイメージばかり。絢爛さも意外性も、とくに感じない。そもそも、母親の鏡がなぜ大切なのか、という最初の疑問が残ってしまう。さらに、鏡は神器であるとか、妙な理屈で神格化。加えて、どうってことのない鏡が地底国では大変な鏡になっているという理由もよく分からん。でもって、地下のあの狐みたいな連中は何を意味しているのだろうか、とか、なぜ男爵が最高地位なのか、とか。疑問だらけ。まあ、別の何かのアニメの影響であるのなら、それはそれでも構いませんけどね。 というわけで、地底に落ちてしばらくして飽きてしまい、中盤は眠気を堪えるのが大変だった。かろうじて目はつぶらなかったけれど、どうやら目を開いたまま数分間は寝ていたに違いない。だって映像の記憶がないんだもん。 | ||||
TAJOMARU | 9/14 | 池袋東急 | 監督/中野裕之 | 脚本/市川森一、水島力也(山本又一朗) |
前半を見つつ、これは傑作だ、と思った。芥川の「藪の中」を原作に、黒沢&橋本忍の「羅生門」からも離れ、独自の物語性を引き出した。ところが、白砂の後半、道兼(やべきょうすけ)がもうひとつの真実を明らかにしてしまってからは、心理劇からアクション映画に一気に堕した。最後はお涙頂戴になってしまって、フツーの映画になってしまった。最後まで人間の心の奥に潜む邪悪をまさぐってくれたらよかったのに。ああ、もったいない。 脚本が、市川森一と水島力也。この水島力也はどうやらこの映画のプロデューサーで、山本又一朗の筆名らしい。見るとアニメや「あずみ」「クローズZERO」などのアクション映画が並んでいる。でもって、この映画の配給はワーナーブラザース。ってことは、アメリカ国内で必須の忍者+バイオレンス+血みどろ+アクションが要求されたに違いない。思うに。市川森一がつくったシノプシスに、水島力也が肉付けしたのか。それにしても、前半と後半ではテイストがが違う。 「羅生門」では、白州に出てきたのは誰だっけ。山賊と女性と・・・。調べたら、女性と一緒の侍は夫ではなく、伴侍らしい。で、霊媒が死んだ伴侍の霊を呼び出したらしい。昔、見たことはあるけど、忘れてしまってるよ。ははは。で、「羅生門」では、それぞれの証言に食い違いがあり、真実は分からない。というものだった。だから「藪の中」なんだよな。では、芥川の原作はどうなってるんだっけ? こちらも読んだけど、覚えてないよ。 で、この「TAJOMARU」は、白州と証言という設定は同じだけれど、話が食い違うのではなく、次第に真実が明らかになってくる、という、ミステリー仕立てになっていた。なるほどの改作。いまどき真実は藪の中、とやっても誰も見やしない。それに、「羅生門」の単なるリメイクではつまらない。さらに、山中をやってきた高貴な男女の出時を明らかにして、その存在をクローズアップさせたのも正解。「羅生門」の、その先を目指して、カタチとしては成功していると思う。ただし、道兼がのぞき見た阿古姫の真実を語り終えると、それで謎がすべて解けてしまい、以後の引っぱりがなくなってしまう。白砂の道兼が、会ったことのないはずの桜丸や阿古姫の名を口にするので「?」とは思っていたのだが、そういうことか。でも、謎を解いてしまって、スッキリさせてしまって本当によかったのかどうか、ちと疑問が残る。最後まで謎のいくつかを残しておいたほうが、よかったんではないの? 高貴な男女の出時が、これまた興味深い。時代背景はいつだっけ・・・。鎌倉時代? ん? 平安末期? いや、武士の台頭だからもっと後だよなあ、と思いつつ、御所様の意味が分からなくて、だいぶ考えた。で、誰だか忘れたが武将の名前が会話で登場し、御所様を道兼が「将軍」と呼んだので、ああ、室町幕府か、と納得した。そのぐらい分かれよ、といわれそうだけど、日本史に詳しくないと、すぐには分からんぜ。でも、応仁の乱の前なのか? 最初に時代背景の説明が欲しかったね。それに、管領といわれても、すぐにピンとこない。京都所司代との役割の違いは? とか、あの辺りを、もうちょい整理してくれると嬉しい。 で、大納言の娘・阿古姫(柴本幸)と、黄金。阿古姫の幼なじみで代々管領を務める家柄の畠山氏の長男・信綱(池内博之)と次男・直光(小栗旬)の家督相続問題。阿古姫の黄金を手に入れたい将軍足利義政(萩原健一)。そこに直光が拾った捨て子・桜丸(田中圭)が絡むメインストーリーに、多襄丸(松方弘樹)や山賊・道兼らがからんでくるという展開。なかなか緻密で深い。とくに前半が秀逸。 義政は大納言家の黄金目当てに、阿古姫と畠山兄弟のどちらかを婚姻させ、管領にしてやる代わりに黄金を献上させよう、という魂胆らしい。しかし、ここの筋書きにいまひとつ説得力がない。のだけれど、ここはまあ何とか、そんなものかな、とスルーしてやってもいい。その後の兄弟の確執、そこにつけ込む桜丸の打算と非人情が容赦なく描かれていて、最近の映画にない、どろどろした感覚が味わえるしね。 ただし、省略されている部分が多く、先に書いた時代背景や役職が分かりづらい。とくに、大納言と畠山、将軍の関係がいまいち。幼児の頃から信綱、直光、阿古姫が遊んでいたという設定だけど、家来に守られず京の町を遊んでいるのか? 兄弟で剣術の稽古? と、描写がかなりいい加減。また、最初は阿古姫が妹のような描き方をされていて、その存在がいまひとつ分かりづらい。やはり大納言家をちゃんと描き、そこの娘と畠山家の兄弟がたまにふれあう、程度の描き方をすべきだったろう。阿古姫の父親が流行病で死んだ、と義政に言われても、ピンとは来ないぜ。また、畠山家の当主が登場しないのが不可思議。 この映画、主人公が誰なのかよく分からない。本来なら桜丸こそが主人公になるべきだろうと思う。ところが、どっちかというと、盗賊にやられて気絶してしまう情けない役を小栗旬が演じている。このまま情けない役で終わればいいのに、後半になって大活躍してしまうから、つまらない。 「羅生門」では主人公だった多襄丸を、松方弘樹が演じている。これがまた、いい。若手たどたどしい中、自由奔放に演技している。この映画一番の存在感だ。松方に劣らず目立っているのが萩原健一。怪物にして狸爺のような義政を怪演している。素晴らしい。さらに、京都所司代役の本田博太郎が、渋い。本だが出ているシーン、および、ショーケンの場面は、なんだか黒沢の「乱」を思わせるような重厚さと静謐さがにじみ出ている。 という一方で、ピンの合ってないショットがたくさんあったりして、映像の質が一定していない。さらに、松方多襄丸のシーンは中央に大木のある、あたかも舞台の一場面のような雰囲気で撮られている。意識してのことだろうけれど、この画面に奥行き感が感じられず、もったいない気がした。照明が廻りすぎなのかも知れない。いまひとつの工夫で、もうちょっと幻想的で様式的な感じが強まったかも知れないのに。 というわけで、様式的な展開の強い前半に比して、後半はもう無茶苦茶になってしまう。道兼率いる山賊たちの大活劇や、小栗旬の立ち回り。最後は直光と桜丸の大活劇で、これはもう結果は見えたようなもの。つまらないにも程がある。映像は、観客を裏切ってこそ価値があるというのに。でもって、官僚の地位も捨て、阿古姫と2人、旅にでる直光。で、おまえ、これからどうやって暮らしていくんだ? と茶々を入れたくなってしまった。だって、阿古姫はお姫様の格好なんだもん。そらあんた、これから戦国時代が激しくなっていくって言うのに、苦労のし通しでっせ、と。 阿古姫の柴本幸は、表情が怪しくてよろしい。山賊の道兼も、そこそこなのだけれど、もうひとつクセのある部分が欲しかった。道兼一党が多襄丸に加担し、桜丸に挑んで全員討ち死にするという展開は、あまりにも無意味だし、見え透いていてつまらない。ここも、観客を裏切る工夫が欲しいところ。桜丸の田中圭は、義政に可愛がられる稚児的な風貌から選ばれたのかも知れないが、美しさの裏に秘められた邪悪な感じがないので悪党に見えないところがつまらない。ここはもっと、いやらしい役者を配して欲しかった気がする。 できるなら、全編、最初のテイストで、じわっと見せて欲しかった。欲望と裏切り、愛憎半ばする冷酷非情な世の、彼らの行動を見てみたいからだ。観客を驚かせるのに、派手なアクションはそれほど必要ないのだから。 冒頭の、幼児期の部分の子供たちの演技は、学芸会レベル。なんとかならなかったのかね。 | ||||
サブウェイ123 激突 | 9/15 | 109シネマズ木場シアター8 | 監督/トニー・スコット | 脚本/ブライアン・ヘルゲランド |
原題は"The Taking of Pelham 1 2 3"。ペラム駅1時23分発、のことらしい。あまり意味はないな。以前に映画化された「サブウェイ・パニック」は見たことがあったかなあ。タイトルに記憶はあるんだが。 昨今流行りのザラついた画面、ちゃかちゃかとテンポのいい編集。あんまり、じわっとくる感じはない。ま、この程度のアクション映画にはこんなもんでいいのかな。 ジョン・トラボルタの一味が地下鉄の車両をジャックして、立て籠もる。1時間以内にもってこないと、乗客を殺していく。警察や市長とのやりとりは、運行指令室のデンゼル・ワシントンが仲介する、という設定。しかし、地下鉄に立て籠もって逃げられるか? 逃げられないだろ。どうやって逃げるのか? というのが最大の関心事なのだが、最終的にとてもいい加減な方法で逃げ出すのだよね。ご都合主義だ。 1時間以内に金を持ってこい、て、警察がオートバイを先導してパトカーで届けようとする前半。ああ、1時間に間に合わない! という緊迫感をつくっておいて、あれれれれ? 到着したのかと思ったら、なんと、さらにヘリコプターで届けるって、どういうことだ? 金は地下鉄指令室まで届けて、そっから車両までさらに送り届けたのか? なんか、よく分からない話の展開だったなあ。 人質を乗せたままの車両が、運転ハンドルを固定されたまま終点に向かって走り出す。で、信号は青信号なので、止まらない。さてどうする? 激突してみな死ぬのか? と思っていたら、なんと呆気なく止まってしまった。あれは、どうして止まったんだ? 信号が赤になったから? 誰か、そうしたんだっけ? なんか、拍子抜け。 そもそもの設定に説得力がない。投資失敗の責任を市長に押しつけられ、服役した証券マン(トラボルタ)。彼が、同房の元地下鉄マント共謀して企んだみたい。しかし、元証券マンとは思えないほど非情に人を殺していく。ううむ。そこまでなれるのか? 他の仲間も、刑務所仲間? 地下鉄事件を起こして株価を下げ、金相場で儲けるという発想は面白いんだけど、あまり活かされてないね。それに、そんなに悪党ばかりで企んだのなら、すぐ分かっちゃうだろ。と、思った。 デンゼルが日本人から車両選定で賄賂をもらった云々の話がよく分からなかった。トラボルタに追求されて「もらった」と言ったのは、あれは人質が殺されないようにするウソかと思ったんだが。ウソだった、と反論するシーンはない。つてことは、ホントにもらったってことかい? うーむ。なんかスッキリしないね。市長の浮気がどうたらというトラボルタとの会話も、よく分からなかった。だからなんだっていうの? 的な印象。字幕の内容が不足なのか? 人実の乗客が、ぜーんぜん活かされていない。たんなる群衆の一分としか扱われていない。PCをもってる青年がいて、ライブカメラで車内が写るのだけど、それも賑やかし程度。次の犠牲者に選ばれた子連れの母親を救おうと立ちあがった黒人青年がかわいそう。だって、母親に「空挺部隊なんでしょ。なんか策はないの?」なんて、半ばおだてられたというか、プレッシャーをかけられた結果だからなあ。 それにしても、地下鉄ジャック事件が発生してるっていうのに、他の路線というか、近くを走る別の車両は、運行をやめないのね。なんか、危なくない? リーマン破綻なんてのが去年あったけど、悪の根源は証券マン、というなぞらえ方がこの映画にはあったりするんだろうか? トラボルタがこだわっていた「死は神への借金を返す」だっけ。なんかよく分からないセリフ。あれはどういう意味なんだろう。 | ||||
ウルヴァリン:X-MEN ZERO | 9/16 | 上野東急 | 監督/ギャヴィン・フッド | 脚本/デヴィッド・ベニオフ、スキップ・ウッズ |
原題は"X-Men Origins: Wolverine"。かっちり上出来、という評判に釣られて見に行ったが、登場人物たちの目的や行動、その動機に合理性がなく、見ていてつらかった。何度も本格的に寝そうになったが、かろうじて、うとっ、程度に止まったけどね。X-MENシリーズはまったく見ていない。別にこれまでのを見ていなくても分かる映画だと思うけれど、うーむ。それでいったい、何なんだ? という気分だね。 ミュータントの兄と弟。弟はかつて、父親を殺害。兄とともに逃亡する。・・・のだけど、ここで疑問。なぜ弟は、別の家族に育てられていたんだ? それが原因で実父を他人と思い殺してしまうことになるのだけど。・・・さらに疑問。ミュータント兄弟の父母は、ミュータントではないの? つまり、父母は不死ではないの? 簡単に息子に殺されてしまった故の疑問である。 兄弟は南北戦争、第一次大戦、第二次大戦、ベトナム戦争・・・と生き抜き(不死だから)、軍(?)の秘密部隊(超能力者を集めたらしい)に入れられる。で、いろいろ活躍。が、弟はある日、その行動に疑問をもち、離別。恋人と暮らしているところに弟がやってきて、兄を襲う。って、何で? 最後まで兄が弟を襲う理由は分からず。兄は弟の恋人も殺した、かのように見せておいて、実は恋人は部隊のボスに命じられて接近した監視役。で、死んだふりをしていただけ。何のため? 部隊へ戻るようおびき出すため? 兄およびボスへの復讐心に燃えてやってくる弟。けれど恋人が生きていることを知る。そして弟は体内にある金属を注入される。これでミュータント度および攻撃力がアップ。・・・はいいんだけど、なんでかトンズラこく。部隊とボスは弟を攻撃するのだけれど、せっかく誕生させた新ミュータントを殺そうとする理由は何? 他にも、赤いサングラスの高校生は何なんだ? とか、島抜けしてきた青年は何? とか、いろいろあるんだけど、もういいや。とにかく、それぞれの動機がつたわらないまま人物が右往左往するだけ。人物に厚みや深みがあろうはずがない。というわけで、物語的には退屈なだけだった。 | ||||
BALLAD 名もなき恋のうた | 9/17 | キネカ大森2 | 監督/山崎貴 | 脚本/山崎貴 |
「嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」は見ていない。いや、テレビ放映されたやつを、ほんの断片的にはチラ見しているかも。こども向けアニメとして高い評価を受けている同作の実写化。しかも、監督はあの山崎貴。さて、人間ドラマに対する演出はどうかな? と、おそるおそる見に行った。けれど、危惧することはなかった。ちゃんとした映画になっていて、後半は随所でしんみり、じわっとさせてくれるせつない部分も。もちろん、マンガなら許せるけど実写でそれはないだろう的な荒唐無稽さもあったけれど、これは映画だ、という前提に立って見れば十分に許容範囲。真面目にリアリズムを狙ってつまらなくしている映画より、よっぽどましな仕上がりだと思う。 川上真一は小学4年生程度? 友だちの女の子はいるのだけれど、いじめっ子たちに抵抗できない弱みがある。真一の父(筒井道隆)はフリーのカメラマン。でも、友だちたちと別の仕事を始めようと計画中。妻はそれが気にくわない。初志貫徹を求めている。それぞれに悩みを抱えている現代人だ。真一は、水辺に祈る姫の夢を見る。そしてある日、天正2年戦国時代のまっただ中へタイムワープしてしまう。ただし、なぜ真一なのか、という点には答えはない。ここがちょっと弱いところかな。 戦国の世では、小大名が覇権を争っていた。有力大名は実力をつけつつある途上なのか、名前もでてこない。でも、この名もない大名、名もない侍大将というのが、効果的である。歴史に名を残さないようなただ人。そこにも人生があり、愛が育まれている、ということだから。 小大名に中村敦夫。その娘に新垣結衣。侍大将に草なぎ剛。新垣と草なぎは好き合っているが身分違い、という設定。で、対抗する中型大名に大沢たかお。傲慢な役だけど、こういう役の方が大沢には合うような気がする。大沢の腹心に小沢征悦。これはトンマな役だったけど、コメディアンではなく小沢であるところに意味があると思う。大沢は新垣を嫁に、と中村に迫る。むしろ、自国安定のために中村の方から差し出すのがフツーだと思うが、そこは現代の価値観が入り込んでいるから、身分違いの恋を優先させるわけだ。で、新垣はNO!をつきつけ、怒った大沢が中村を攻めるという、まったくリアルではない展開。でもま、昔だって攻める口実なんてテキトーに作り上げていたんだろうから、べつにいいんではないの。 山崎貴らしく、CGが大活躍。戦国というといつも立派な天守閣が出てきたりするけれど、この映画の丘の上の城砦は粗末な木造。それでも現実と比べると、まだちょっと立派すぎると思うぐらいだ。合戦の場面でたまげたのが、長槍でのたたき合いが描かれていたこと。おお。史実に基づいている。こんな映画で、あんな場面が見られるとは思わなかった。 急襲、および、川上父親のランクル乱入で戦場は混乱。大沢と草なぎの一騎打ちで草なぎが勝ち、さあ、首をとるか、というところで真一が制止する。ここも、現代の価値観を押し通してしまったところだけど、まあ、仕方がない。本来ならあんな勝負の付け方はあり得ない。負けたのに命を長らえた大沢は、大将として失格だから部下に見放されるはずだけれど、そうはなっていなかった。 というわけで、ほぼきれいにまとまった物語は、原作がいいからなのか。それほど突っ込み所はない。ただし、最後に草なぎが銃弾に倒れるところは異論あり。あれは、本来、当たっていたはずの銃弾が真一の登場で逸れ、それが、再び現れたものだと思う。であるなら、時の裂け目に入った玉は、川上家がいなくなってから現れて、草なぎに当たる、という方が自然なのではないのかな。ま、理屈はそうであっても、草なぎを最後に殺してしまうという終わり方は、いささか物足りない。ここは結ばれる、にして欲しかったところだ。たとえ何年か後にはどこかの大大名に滅ぼされるとしても、ね。 それぞれ人物描写もしっかりしていて、厚みのある表現ができている。文四郎役の吉武怜朗や野武士の2人も、なかなかよい。夏川結衣は、ちょっと肥えてオバサンになっちっゃたなあ。斎藤由貴は最後まで気づかなかった。新垣結衣が可愛い。戦い前夜、川上父親のカメラに収まる侍たちの姿がいい。幕末の写真をヒントにしているのだろうけれど、なかなか迫るものがあった。 | ||||
重力ピエロ | 9/24 | ギンレイホール | 監督/森淳一 | 脚本/相沢友子 |
伊坂幸太郎の原作は読んでいない。予告編は見た。連続放火魔の話だというのは知っていた。で、見たら別のモチーフがあることが分かった。けれど、そのモチーフについては不愉快になるようなエピソードおよび展開ばかりで、ちっとも胸に突き刺さってこなかった。ありていにいえば、ちゃちい。テーマとして掘り下げて提示するまでもいっていない。これはたぶん原作に問題があるのではないか、と思ったりした。 兄・泉水は大学院生。弟・春は、いたずら書きされた壁アートを消す仕事をしている、らしい。で。壁アートが書かれた場所で放火事件が発生することを2人が突き止める。・・・という時点で、誰でも犯人は春かも知れない、と想定するだろう。だから、それをどう裏切るのかを期待したのだが、結局犯人はやっぱり春だった。なんと底が浅い話なのだ。そもそも壁アートが書かれた近くで放火が起きたのなら、警察が関連性を疑うはず。なのに警察は一切登場しない。アートの描かれた工場主なども、登場してこない。あり得ないよなあ。なんと不自然な話なのだ。 春が、強姦犯と母親(鈴木京香)との間にできた子で、父親(小日向文世)がそれをあえて認めて家族にした、という話が前提になっている。これは哀しい話ではあるけれど、別の観点からすると素晴らしいことでもある。だがしかし、この映画では、犯罪者のこどもはやはり犯罪者、というレベルでしか物語を描き切れていない(または、原作がそうなのかも知れないけれど)。大変な設定を、これほど低次元の話に仕立ててしまったというのは、監督または作者の次元も低いものでしかないということなのだろう。強姦犯の息子が、父親である強姦犯を殺害するという、あまりにも単純すぎる図式を話にしたとしても、そこにはロクなものが残らないはずだ。見ていて不愉快になるだけだしね。しかも、たとえ強姦犯であったとしても、実の父親を殺害してへらへらしている春という青年には、どこにも共感できるところはない。少しは苦悩も描けよ、といいたい。 また、かつて高校生の頃に連続強姦犯であった渡部篤郎についても、極刑に値するような男である、というような描き方がされていない。不気味さも、おぞましさも感じられない。そこらにいるフツーのオッサンである。それなりの十字架を背負っている男として描かなければ、観客は納得しないんじゃないのかな。 そもそも、兄弟が、弟の出自に気づき始めたのは小学生の頃。そして、正式に父親が息子たちに事実を告げたのは弟・春が17歳ぐらいのとき、の設定だ。それまでの2人の心の中はどうだったんだ。父親に告げられて(映画はかなり素っ気なく描いている)以降、わだかまりというようなものは、どこにもなかったのか? そういうことを、先ず知りたい。そして、ともに強姦犯(渡部篤郎)に対して殺意を抱くようになったのは、なぜなんだ? 映画では、これがまともに描けていない。設定が分かれば、それでもう観客も同情したり感情移入してくれるのだろうという、甘い考えなのだろうか。 兄は、大学でも生命科学を学んだはず。その兄が、春と強姦犯の遺伝子検査をすれば真実が分かる、と気づいたのは最近のことのように描かれている。それはないだろ。理学部の学生でなくたって気がつくはず。それに、よりによって、なぜいま、弟の鑑定に強い関心を抱くようになったのか。それがまったく分からない。気にしているのなら、それが、これまでも態度に出ているはずなのにね。 そもそも、春が放火をする理由がさっぱりわからない。二重らせんの頭文字を壁アートに書き込んでいるのだから、兄に気づいて欲しかった、のかも知れない。でも、何を? 一緒に元強姦犯を殺そうってか? その他にも、春に呼び出された元強姦犯が昔の家に呼び出され、火付け+撲殺されるシーンも、「おい。ガソリンの臭いぐらい気づけよ」と思ってしまった。でかいポスターが自室の部屋に貼ってあれば、裏に何かある、ぐらいたいてい気づくだろう。最後の放火だ、と泉水が気づいて、それで、昔からの春のストーカー娘を家に呼びつけるシーンがあるのだが、どういう必然性があるのだ? しかも、そのとき、父親は退院後で臥せっていたはず。とても不自然。 街中の人が、「あの子は強姦犯の子供」と知っていて、差別している、という設定のようだが、そんなことはあり得ないぞ。また逆に、その強姦犯が少年院を出たのち、地元に舞い戻ってきて暮らしている、っていうのもあり得ない設定。彼の親兄弟は一家離散しているだろうし、成人して後も保護観察官が観察をつづけているのではないの? というように、不自然な設定が多くて、ほとんどまともに見ていられなかった。こういう暗い映画なのに、母親・鈴木京香は周囲の目を気にして自殺してしまったかのような設定。さらに、父親も胃がんで死んでしまう設定にしている。なんていい加減な話なんだ。さらに、最後まで警察には感づかれずにいるかのような設定。これってちょっとなあ。あり得ない、の連続だと思うぞ。 鈴木京香と小日向文世の出会いのシーンなんか、まったく必要ない。もっと他に描くべきことはあるだろ。それに、小日向がカツラをかぶって若作りしているシーンはコメディにしか見えない。 宮部みゆきの原作も、映画化すると骨格があまりにも単純なので驚くのだけれど、この本もきっと作者の書き込みによって重量感のあるないようになっているのかも知れない。しかし、そのまま映画化したのでは、あまりにも中味がなさ過ぎになってしまう、という好例かも知れない。 | ||||
白夜 | 9/25 | 新宿武蔵野館2 | 監督/小林政広 | 脚本/小林政広 |
フランスのリヨン。橋に佇む若い女。「日本人?」と声をかける青年。最初は警戒する女。しつこくからむ青年。次第に会話が絡み合い、女は不倫相手を追ってリヨンにやってきた、と告白。青年は、死にゆく母親の世話から逃げ出してきたが、明日、日本に帰るという。喫茶店に行き、青年が女の不倫相手の会社に連絡を取る。外出中で戻るのは夜10時。じゃあ、街を案内しよう、と青年がいう。街を歩き、食事をし、時間が迫ってくる。女は、不倫相手に会うのをあきらめる、という。青年は、じゃあ、一緒に暮らそう、という。女はホテルに荷物を取りに戻る。しかし、その間に青年はパリ行きの列車に乗ってしまう・・・。 その日初めて会った男女がそうなるまでを、登場人物2人の、ほとんど会話だけでもたせようとした映画。舞台劇のようでもある。設定や展開は面白い。ところがセリフに説得力がなく、そうなってしまっても不思議ではないかも、と思わせるだけの力、というか、説得力が足りない。さらに、2人とも棒読みで「間」がほとんどない。情緒のある雰囲気はなく、青年はひたすら軽佻浮薄に見える。女も、声質からとても軽い女に見えてしまう。話の基本的な流れはいいとして、セリフはもっと練り込む必要があると思う。長台詞をワンシーンで収めているところが多いのだけれど、苦労はともかく芝居になっていないのは残念だね。 とくに違和感を覚えたのが、最初に女が不倫相手のことを告白し、青年にもたれかかるところ。おいおい。初めて会った男に、そこまで軽々しくしゃべっちゃうか? しかも、なれなれしく。さらに、夜、感極まってキスをすするシーン。突然すぎて、おいおい。 終盤は不自然さのオンパレード。突然のキスもそうだけれど、一緒に住もうと切り出した青年が、女を置いて列車に乗ってしまうのはなぜなのだ? 最初から帰るつもりなのに、女にウソをいったのか? これがよく分からない。さらに、いなくなった青年を追って、女が橋に舞い戻るんだけど、なぜ彼女はここで不倫相手の幻を見て身投げしなくちゃいけないのだ? あまりにも唐突なのでわけが分からん。彼女はずっと精神状態が不安定で、そのテンションが切れちゃったってことなのかい? ううむ。わからん。 彼女が身投げした橋のたもとに、彼女のペンダント(十字架)が落ちている。ま、それはいい。しかし、その事件から2年後、橋にもどってきた青年が、その十字架をもっている、っていうのはおかしいだろ。パリ行きの列車に乗り、翌日には日本行きの飛行機に乗ったんだろ? だったら、名前も知らない女がその後どうしたか、なんて知るはずがない。まして、彼女が橋に落とした十字架を手にするはずがない。だいいち、なぜ2年後なのだ? 青年が2年も経って、花をもって現れた理由は何なんだ? 昼間、2人が出会った時、女はジーンズにコート姿で「寒い寒い」といってたのに、青年が市内観光に誘ったらいそいそと着替えして、薄手のワンピースとストッキング、ハイヒール姿になって現れたんだけど、それは変ではないの。夜になったらもっと寒くなるだろうに。 カメラはほとんど手持ち。しかし、望遠でアップを撮っているシーンがいくつかあって、そういうときの画面の動きが激しい。見てると酔ってしまいそう。べつに心の動きを表現しているわけでもなさそうだ。そもそも手持ちである必然性はないし、あんなに揺らす合理的な理由もないと思う。単調な内容を、カメラの動きで誤魔化そうということか? FIXにしても良かったと思うけどね。 2回ぐらい登場するモノクロシーン。これは、人物がマジになったとき、とか、冷静になったとき、とかに使われているのだろうか。考えたけれど、よく分からない。あまり意味がある技法だとも思えないぞ。 タイトルの「白夜」というのは、主人公の女が見たかったモノというだけで、とくだんの意味がなかった。 | ||||
男と女の不都合な真実 | 9/25 | 新宿武蔵野館1 | 監督/ロバート・ルケティック | 脚本/ニコール・イーストマン、カレン・マックラー・ラッツ、キルステン・スミス |
原題は"The Ugly Truth"。これはテレビ番組のコーナーの名称であり、この映画のテーマでもある。 30そこそこ。地方テレビ局の女性TVプロデューサー・アビー。合理的で仕切りやで分析好きで、男に好かれない。なんとかして! と思っているところに、通販番組(?)で頭角を現してきた下品なキャスター・マイクが自局に転職してきた。アビーは隣家の若手ドクター・コリンにアタック中。その指南をマイクが買って出る。アビーとマイクはケンカしながら、でも、次第に理解し合いつつ、惹かれ合っていく。・・・って、いままでも同じようなお話しはあったよなあ。しかしまあ、下ネタ満載、下品な笑いで引っぱっていく流れはとても快調。なーんも考えず、時間を笑ってつぶすにはちょうどいいかも。 アビー役に、爬虫類顔のキャサリン・ハイグル。「幸せになるための27のドレス」から本格的に映画スターに昇格? でもまだやっぱりテレビ顔だよなあ、ちょっと。それに、頬の辺りが垂れてきていないかい? それにしても、彼女はこの手の品のないロマンスコメディの女王になっちゃうのか寝。 マイクにはジェラルド・バトラー。知らない顔だなあ、と思って調べたら「Dearフランキー」「オペラ座の怪人」「300」「P.S.アイラブユー」「仕合わせの1ページ」なんかに出ていたのね。あらま。品のないラッセル・クロウみたいに見えたんだが。ははは。 それにしても、セクハラ満載で下品な下ネタの連続の映画が、どこかの団体からクレームをつけられたりもせず、堂々とつくられているのだね。そういう許容量の広さは、やっぱアメリカだなあ、と思ったりする。 ところで、最初の方の料理番組中、鴨肉がどーので調整室が騒いでいたのは、なぜなんだろう? |