2009年10月

キラー・ヴァージンロード10/1MOVIX亀有シアター7監督/岸谷五朗脚本/岸谷五朗、川崎いづみ
結婚式を明日に控えた上野樹里が、隣室の大家(寺脇康文)を誤って刺殺。死体を引きずって逃亡する過程で起こるあれやこれやをナンセンス、コミカルに描いている。この死体が最後に生き返るのはお約束として。ティッシュ配りの兄ちゃん、自殺志願の女(木村佳乃)、暴走族、自転車の巡査なんかが絡む前半は、これは傑作だ! と思ったほどだ。ズレ具合が絶妙にいいし、ギャグも決まってる。さて、次はどんな難題を上野にふっかけるのか? と。
しかし、中盤から少しペースが落ちて、さらに、最後は祖父との人情話が支配しはじめ、わけのわからん外人ギャング2人組が登場し、話の収拾=つじつま合わせになってしまい、パワーダウン。最初の頃の快調にズレまくっていたテイストがひどく薄れてしまう。ううむ。前半はホント、笑えたのになあ。もったいない。
ドジな性格でいじめられてきた上野の役柄は「嫌われ松子の一生」を連想させる。逃避行は「鮫肌男と桃尻女」を。樹海に行く件は「フロム・ダスク・ティル・ドーン」「絶叫屋敷へいらっしゃい」「ロッキー・ホラー・ショー」なんかの怪しい雰囲気が少し感じられる。でも、怪しい映画になるかと思いきや、そうはならないんだよね。北村一樹のペンション主人がそうなるのかなと思ったら、肩すかし。上野の、祖父にひと目だけ花嫁姿を見せたい話に堕してしまう。つまんないよ。
こういう映画には、リアリティは不要。つじつまが合わないとか、理屈に合わないとかいうことは問題ではない。なのでそれは突っ込まない。突っ込む必要がないしね。
それにしても、上野樹里は天然キャラのバカ映画に出すぎだよなあ。「笑うミカエル」「亀は意外と速く泳ぐ」「のだめ」とか。もつとシリアスな映画に出ればいいのにね。「虹の女神」なんて、かなりよかったのに、そっちではなかなか評価されないのかな? 木村佳乃のバカキャラがよかった。ちょっと狂気が入ってて、笑える。
カムイ外伝10/1MOVIX亀有シアター10監督/崔洋一脚本/宮藤官九郎、崔洋一
1960年代に一世を風靡したマンガを、なぜいま実写? しかも、崔洋一が。しかし、そのはっきりした答えは見あたらなかった。むしろ、白戸三平が描いた世界は、やっぱり1960年代のものであり、かつてはリアルに見えていた世界も、こうして生身の人間によって演じられると不自然な部分ばかりが目立ってしまう。
現在ならではの、と言えるのが、ワイヤーアクションによる飛翔などのシーン。しかし、あまりうまくなかった。人が飛んでいるというより、ぶら下がっているようにしか見えないシーンも多々あった。それから、CG。しかし、これもレベルが低く、チャチ。CGアニメの中に人間を合成したみたいに見える部分が多い。とくに海のシーンは、ひとめでそれと分かるチャチさ。というわけで、ワイヤーとCGのシーンではあまりのひどさ、荒唐無稽さに思わず笑ってしまったのだった。
では、どこが不自然か。まず、抜け忍と追忍。組織を抜けた忍者を、どうしてあそこまで執拗に追うのか。抜け忍が重要な情報をもっている、というのならあり得るかも知れないが、たんに組織を抜けただけであんなに多くの追忍がカムイ1人を追う理由がわからない。いくら追っ手を差し向けてもムダと分かったら、さっさとあきらめたほうが合理的だ。
江戸時代なのに、白昼、あんな斬り合いをして、死骸の後片づけはどうするのだ? 殿様があまりにも類型的。殿様と家臣の差、侍と百姓の差、平民と非人の差が、現実離れしている。実際はもっともちつもたれつのところもあったはず。しかし、1960年代の階級闘争のアナロジーとして提示された士農工商穢多非人の世界が、当時はそれで説得力があっても、いまじゃ通じないように思える。自由を求めるカムイの姿が、とくに心を打たないからだ。なぜ抜け忍になったのか、何を求めているのか? それも多少は描かなくてはな。ナレーションで簡単に済ましただけでは、足りないと思うぞ。
時代の進化、解釈や価値観の違いで、ものがかつてとは同じように見えなくなってしまう。そういうことはあるものだ。たとえば、現在かまびすしい地球温暖化対策も、あと50年もしたら「アホみたいなことやってたな」といわれるようになるかも知れない。それと同じだ。
松山ケンイチのカムイは、それほど不自然ではない。動きも俊敏で(スタントかも知れないけど)、キレがある。ま、そこに飛んでくる手裏剣などのCGが、マンガチックなのは笑っちゃうけど。それでもやっぱり、マンガの主人公を生身の人間が演じることになると、どこか違和感がでるけどね。ヒロインが大後寿々花ってのはなあ。「セクシーボイス アンド ロボ」のコンビが思い出されるけど、ごくフツー以下の顔立ちだしなあ。もうちょい可憐で花のある女の子がよかったなあ、個人的には。
宮藤官九郎の脚本は、かなりオーソドックス。漁村で、大後に惚れていた青年が、大後の父(小林薫)を侍に売り、仲間にボコボコにされてしまうっていう展開は、あまりにも青年がバカすぎ。小舟で島に渡ろうとしていて鮫に襲われ、あわや、と思ったら大きな船に乗ったワタリ連中に助けられる、という展開にはあきれた。船が視界に入って、近づくまでそんなに短時間で済むのか? 自らを抜け忍の集団と言っていたワタリの首領(伊藤英明)が、実は追忍だった、というオチもいかがなものか。時間をかけて仲間を信じさせ、それでもなおカムイを殺したいのか? 島民の全員殺戮も意味不明。映画では理由を語っていたけれど、説得力がない。
それはそうと、あの絵師はどういう存在なのだ? しかも、大頭と呼ばれた忍者のボスとも行動をともにしている。その絵師が、藩のお抱え絵師でもあるわけ?(お抱え医師と島の絵師は同じだよな・・・) 何を意味しているのかよく分からない。そうそう。ジョン・ウーの鳩みたいに、かもめがうじゃうじゃ湧いてくるのにも笑った。
サマーウォーズ10/2上野東急2監督/細田守脚本/奥寺佐渡子
「時をかける少女」の監督と脚本家だ。「時かけ」よりも絵が動いている。短時間でよくもここまで動かしたものだ。で、話はアニメ版「マトリックス」のセカイ系みたいな感じ。基本的には面白かった。が、後半のバーチャル世界OZでのバトルになると、つまらなくなった。俺の興味は人間ドラマにあって、バーチャルなゲーム世界にはないからかも。
どこが運営してるのか知らないが、世界のインフラはOZ(「オズの魔法使い」から来ているのだろう)に頼っているという設定。で、知識を求めるAIプログラムをアメリカ国防省がなぜかOZに解き放ち、OZが勝手に暴走。世界中のインフラに支障をきたし、果ては衛星を原発に向けて落とすことになる・・・という話が背景にある。しかし、物語はこんなハードな始まり方をしない。信州上田の旧家が実家の高校生陣内夏希が、下級生の健二をバイトで連れていく・・・。そのバイトというのは、曾祖母に、東大出の婚約者です、と健二を紹介するため、らしい。しかし、この時点で話は変だ。曾祖母90歳の誕生日に旧家の親戚一同が集まる、というときに、18歳の小娘がそんなアホなことをしでかすか? だって、両親だってやってくるんだぜ。しかしまあ、そういうことには目をつぶろう。
夏希の家は武田家の家臣だったというせってい。家族もたくさんいる。叔父や叔母がうじゃうじゃいる。その人間模様がよく描けていると思う。もっとも、誰がどういう関係かは分からないけど。いや、別に分からなくてもいいんだ。このアニメでは。
で、AIがOZの利用者に暗号を送る。数学好きの健二は暗号を解いて返信する。すると、翌日一日、世界が混乱に陥る。何かにアクセスするためのパスワードだったらしい。しかし、AIは自力でパスワードを得られなかったのかい? で、健二らが何やらアカウントを再獲得したら、混乱がおさまってしまう。このあたりの具体的関係性について、もうちょっと説明が欲しいところだけど、まあ、あえて曖昧にしているのだろうなあ。きっと。
以後、AIはOZ参加者のアパター=アカウントを自分のモノにしていきつつ巨大化。OZの支配権、つまり、世界中のあらゆるコントロールにかかろうとする。のであるが、自分で考え知識を求めるAIが、世界の混沌を求めるものなのか? なぜAIがそういうことをするのか、そこが明かされていないので、単に暴走しているようにしか見えない。さらに、最終手段として、AIがバクチ好きだからと、夏希とコイコイをし、夏希が勝ってしまう。これでAIが手にしていたアパターはほとんど夏希のものに。危機一髪で人工衛星は陣内家を外れてめでたしめでたし。
コンピュータの暴走というのは、「2001年宇宙の旅」以来、何度も描かれてきたテーマだ。ここに、現実化しているインターネットの世界があてはめられる。見える部分ではネットゲームやSNS。そして、交通や消防などの公共機関(インフラ)も、ネットに依存している、と。何でもかんでもコンピュータ依存は危険、と警鐘を鳴らしているのだろう。でも、この部分は曾祖母の描写で、セリフとして生のまま出てきたりしていて、露骨すぎ。説明しなくても分かると思うぞ。しかしまあ、国や自治体などまでが、OZのような巨大バーチャル世界に依存することは考えられない。だから、物語にリアリティはないけれど、まあ、アニメだからな。
陣内家の妾の子がAIをつくって米国国防省に売り、それが暴走。それを健二+同級生+陣内家の面々で火消しする、って、とんでもない話ではある。いろいろ物語として突っ込み所が多いのであるが、細かいことを気にしなければ十分に面白いかも。
OZ世界の描写が村上隆である。でも、クレジットはされていない。Webでみたら、オリジナルだという。しかも、細川監督と村上隆は仕事仲間で知り合いでもあるらしい。しかし、だからってこれは・・・。許可を得たパクリ以外の何物でもない。村上隆の世界はそんなに好きではないので、余計に釈然としないところがある。
ドゥームズデイ10/5新宿ミラノ2監督/ニール・マーシャル脚本/ニール・マーシャル
原題も"Doomsday"。CG使いまくりのバイオレンスかと期待しないで行ったら、拾い物。B級テイストをうまくまとめ上げていて楽しめた。しかも含蓄もある。もう一度つづけて見ようかな、と思わせるようなデキだった(見なかったけど)。
2008年のイギリス・スコットランド。死に至る伝染病が発生し、ブリテン島の北半分が隔離される。2035年、ロンドンに伝染病が発生。隔離地に生存者が確認されるので、きっと特効薬が開発されたはず・・・。と、突撃隊を送り込む、という設定。ありふれているとも言えるけれど、その設定をうまくこなしている作品は多くない。この映画では、隔離する側と、される側という視点を一貫してもちつづけている。しかも、隔離する側は、される側を人間扱いせず、平気で無差別に殺戮している。自分たちの安全を守るためなら、何をしてもいいのか? しかし、隔離する側の人間も、一歩間違えれば、隔離される側に堕ちるのだ、という教訓も生きている。
広大な地域が隔離されてしまう。その結果として、パンクでバイオレンスな連中が集団をつくる。一方、電気も文明も捨てた一団は中世の暮らしをする。ほかにも、平穏な一団があるように描かれている。伝染病を乗り越え、人々がそれぞれにリーダーを掲げ、国家を形成していく様子も興味深い。
ここに乗り込むのは、27年前、幼女の時に隔離されかけた女性エデンだ。いまじゃ腕の立つ警官(? みたいなの)になっている。ほかに黒人のノートン軍曹ら。装甲車2台で乗り込むが、ここでメンバーがどんどん殺られていく。運転してた、ちょっとかわいい系の女子隊員あっけなく逝ってしまう。メンバーの半分以上がここで昇天。この後も、牢に入れられていた娘の相棒みたいな弓矢使いが、逃走中、あっけなく騎士にやられてしまうというシーンがある。なんか、人物を消耗品のように使い捨てていく小気味よさがあるね。
その一方で、24話完結のテレビドラマをぎゅっと縮めた感じもある。逆に言えば、この映画を伸ばして24話ぐらいの展開には十分にできる。そんな感じの映画でもある。つまり、波瀾万丈。
ただし、気になるところもある。わずか27年で人間はあんなに変わらないよ。刑務所が隔離されてあんな具合になる映画もあったけど(「ニューヨーク1997」)、ごくフツーの人間もたくさんいたはず。文化生活からいきなり中世の城での生活もあり得ない。ここは、隔離してから100年ぐらい経って、世の中みんな忘れた存在になっているエリア、ぐらいにした方がよかったかも。
ワクチンをくれ、とエデンがケイン博士にいう。すると博士は「適者生存だ」と素っ気なく言う。そうなんだよね。どんなに強力な伝染病が蔓延しても、生き延びる人はいるのだよ。黒死病もヨーロッパの1/3の人間を殺したけれど、2/3は生き延びたのだ。伝染病にかからない、かかっても軽い人というのは存在するのだ。それを忘れて、みんな死んでるはず、と思うこと自体がおかしいよね。つまりまあ、伝染病が発生したからって、単純に隔離すればいいってもんでもない、ってことだと思う。
ラスト、ワクチンは見つからなかったけれど、伝染病の中を生き延びた娘(牢にいた娘)がいる、と、エデンは迎えにきた相手に言う。けど、娘はどうみても2008年以後に生まれたようにしか見えないのだけどね。それに、たまたま抵抗力をもっていた人がいて、その血液を調べれば、何かわかるのか?
その後のカーチェイスは、「マッドマックス2」そのもの。パクリと言うより、オマージュでいいんではないの。
この手の映画で気になるのは、食い物はどこから調達しているのだ? 電気はどこで誰がつくっているのだ? 衣服は? というようなこと。この映画もこの問題には触れていない。たとえば、ごくフツーの人間の集団があって、それを下部組織として支配している連中が、一般人集団に知性と生産活動を委託している、という背景をちょっとだけ描き込めば、それで済むのになあ。と、思ったりした。
エデン役のローラ・ミトラは美人ではないけれど、腰から足のラインがすらりと伸びてカッコイイ。ノートン軍曹は最後で逃げ切れず、矢で射られてしまうのが残念。で、隊員で生き延びたのはエデンともうひとりの男性。え? こいつって、最初はどんな風に登場したんだっけ? てなぐらい印象の薄いやつが生き延びている。
エデンは、迎えにきた仲間とは一緒に安全地帯に戻らない。そして、パンクな連中の住む街へ戻り、どうもそこのリーダーになるみたい。なんで? もともと隔離される側にいて、そこから逃げるヘリに乗せられて助かったエデン。自分をヘリの兵隊に託した母親とはそこで生き別れだったけど、その母親でも探そうというのかい? それとも、迎えにきた次の大統領カナリスの、「隔離して見捨てる」という言葉への反撥なのかな。まあ、どっちでもいいや。隔離する方にも、隔離される方にも、どっちにも自分の安らぎは、もうないのかも知れないね。
エデンの右目はかつて失明していて、義眼。取り外してビデオカメラとして使えるのだけど、その目玉のカメラがかわいい。
基本はスタントで、CGは要所では使っているだろうけど、目立たない。これもまた、よろしい。人肉ぐちゃぐちゃ、首ちょっきんのスプラッターも、ちょうどいい具合に混じってる。
あの日、欲望の大地で10/6銀座テアトルシネマ監督/ギジェルモ・アリアガ脚本/ギジェルモ・アリアガ
原題は"The Burning Plain"。時制、および、時間の流れの表現に難(作為)があって、わかりづらい面がある。それは意図的なものだとは思う。最初から時制を明らかにしたら、「2つの話はどこでつながるのだ?」という疑問は発生しないだろう。いずれ分かるにしても、俺は最後の方になるまで分からなかった。勘のいい人ならさっさと予測することもできたかもね。あの映画を見て、どこで、どのぐらいの人が、あの仕掛けに気づくのか、知りたいところである。
3つの物語が別々に進行する。そのうちの1つは、現在と過去とが入り混じりながら進行する。つまり、3つの現在に1つの過去が混じっていると当初は誰しも思うはず。ところが、2つは現在なのだけれど、現在と過去とが入り混じって進行する物語は、なんと過去と大過去が入り混じって進行している物語なのだった。それに気づいたのは、俺はとても遅かった。分かってしまうと「もっと早く気づいてもよかった」と思えるようなことなのだけれど、気づけなかった。
現在1。シルヴィア(シャーリーズ・セロン)というレストランのオーナーの物語。現在2。メキシコの、サンディアゴと娘のマリアの物語。サンティアゴが農薬散布飛行機の墜落で大けが。友人のカルロスはマリアを連れて、昔、サンティアゴとマリアを捨てた母親を捜しに米国へ。この話は、比較的わかりやすい。ただし、俺は米国に来ていたカルロスが、農薬飛行機のサンティアゴの相棒であることに、ずっと気がつかなかった。で、入院中のサンティアゴがカルロスに頼んでいるところでやっと気づいた。
過去。これは、ずっと現在だと思っていた話。サンティアゴの父親と、マリアーナの母親が不倫関係に。しかし、あるとき密会現場のトレーラーハウスが炎上し、2人は抱き合ったまま黒こげに。この事件以後のサンティアゴとマリアーナの話である。大過去。これは、マリアーナと母親との関係をえぐり出す物語で、密会を重ねる2人に気づくマリアーナの心情が大部分を占める。
現在1と現在2の交差は、途中で分かる。しかし、現在1,2と過去(といっても、もうひとつの現在と思っていた)との接点はどこだ? とずっと迷いつつ見ていたのだけれど、気づいたのはラスト近く。シルヴィアがメキシコの病院に行き、面会する辺りだ。子供を産んで2日後に彼の元を去った、なんていうところへんで、おお、シルヴィアはあのマリアーナなのか! と分かった次第。ま、女性の方は名前が違うからしょうがないとしても、男性の方はどうだったんだ? ともにサンティアゴって呼ばれてたのか? 記憶が定かではない。
という、分かりにくさがミステリアスでもあり、話の中に引きずり込まれていく。現在1では、女房持ちの部下と不倫しつつ、お客とも寝て、シルヴィアを探しに来たカルロスまでをも誘う淫乱な女が描かれる。なぜだ? しかし、あとから理由は氷解する。シルヴィアは忘れたくても忘れられない十字架を背負っているのだ。自分をいじめぬく。しかも、母親がしたのと同じ背徳的行為で。その痛みを感じることで、かろうじて生を保っているということなのだろう。実際、石で自分の大腿部を傷つけるシーンがある。シルヴィアがサンティアゴとマリアを捨てたのも、背徳的行為関係と、その結果の娘の誕生を受け入れられなかったからに違いない。
現在1。冒頭から、ラテン系の男がシルヴィアをつけまわす。何故だ? この疑問は、男がカルロスであることが分かって氷解する。メキシコのシーン(現在2)でカルロスは、ちゃんと分かるように写されていたのかな。であれば、気がつくのが遅かったのは俺自身のせいだが。俺は、前に述べたように病室でやっと分かった。
過去。サンティアゴの父親の葬式にやってきて、罵声を浴びせていったのは、マリアーナの一家。お前のオヤジが、うちの母親を殺した、というわけだ。事情は互いに同じなのに、それを認めることはできるものではない。しかし、サンティアゴは一家の中に娘がいるのを確認すると、なぜか接近していく。この動機だけが、合理的に説明がつかない。サンティアゴは、母親や兄のように「父親を奪われた」という認識だけを感じていたのではなかった、ということか。母親を失った相手家の娘に、同情したのか。どうなのだろう。
サンティアゴの接近を、マリアーナは拒まない。彼女もサンティアゴと同じ気持ちだったのか? しかし、その理由は曖昧なまま、2人の関係は深くなっていく。互いに失った家族の部分を補い合うかのように。でも、マリアーナがシルヴィアで分かった途端、マリアーナの一連の行動がサンティアゴと同じであるはずがないことが分かる。がつん、という感じで迫ってくる。なにしろ、マリアーナと実母の死に関係しているだけでなく、サンディアゴの父親の死にも関係しているのだから。実は、マリアーナが不倫の死に関係しているのであろうことは、早くから分かる仕組みになっている。その、じわりとした母親への不信感のドラマも、じっとり濃い。
こうしてすべての物語がひとつの時間に組み立て直されるとき、ドラマは互いに刺激しあって、さらなる厚みを構成しだす。シルヴィアの一連の行動、他の女に目もくれず、娘を愛するサンティアゴ。その様相が、際立って見えてくる。いや、なかなかに深く濃い。ラスト。メキシコのサンティアゴのもとに戻ったシルヴィアは、再び3人で暮らそうという気持ちになっている。なぜにそうなったのか。単に娘とサンティアゴを見ただけ、なのであるが、安心感がある。ただし、自分の罪をどう償っていくのか。サンティアゴには事実を告白するのか。それで彼女が解放されるのか。そこまでは語っていない。たぶん、語れないだろう。そういう映画なのだと思う。
シルヴィアとマリアーナが同一人物であることを隠しつつ進行する仕掛け。なかなかにトリッキー。しかし、あとから思えば、部下との不倫の後、裸体で窓から外を眺めるシルヴィアのシーンに、燃えるトレーラーハウスがインサートされていたのだ。つまり、シルヴィアの脳裏から、ついぞあのシーンが離れなかった、ということなのだろう。
不倫する中年カップルには、あまり合理性がない。女の方が乳癌で2年前に乳房全摘で、旦那がキズのある胸に勃起しなくなってしまったという背景は描いている。しかし、たかがセックスレスであそこまで燃えるものか? 男の方には、とくに背景はない。たんなる不倫関係でしかない。この描き方がいささか甘い気がしたが、まあ、それはいいか。
シャーリーズ・セロンの乳房見えヌードあり。全身は後ろ姿。しかし、顔は可愛いけど、首から下が男並の体格で、腰がくびれていないので色気はなし。ギリシアのヴィーナス体型だな。むしろ、着衣での乳房のふくらみが感じられるシーンの方が、色っぽい。
路上のソリスト10/8ギンレイホール監督/ジョー・ライト脚本/スザンナ・グラント
原題は"The Soloist"。うーむ。結局のところ、分裂症患者の物語、ではないか。であるのだから、もっと分裂病患者についてのメッセージが込められていてもいいと思うのだけれど、ホームレスの元音楽家という面が前面に出されすぎ。
LAタイムスの記者ロペス(ロバート・ダウニー・Jr)が、ホームレスのバイオリン弾きナサニエル(ジェイミー・フォックス)と出会う。本来はチェロ奏者でジュリアードの学生だったが、幻聴を聞くようになり退学。ホームレスになった。彼のことをコラムに書と反響があり、読者からチェロも届けられた。以後のつき合いと葛藤を描くのだけれど、どこにも感動はない。あるのは、ちゃんと治療してやれよ、という感想だけだった。
分裂病患者をとりあげる多くの映画のように、この映画でもナサニエルは社会生活が送れない異常者として描かれる。しかも、感情が抑えきれずに暴力も多々ふるう、というように。しかし、それがすべての分裂病患者の症状であるはずはない。しかし、映画を観た人は、やっぱりキチガイ(会話ではMadと表現されていたが)は怖い、という思いしか抱かないだろう。それでいいのか?
ホームレスの支援センターが描かれる。そこにいるのは、日本のホームレスのような、生活感のあるホームレスではないように見えた。みな心をやられている病人のように見えた。ロペスは「ナサニエルに診断と薬を」と主張する。しかし、センターの担当者は「診断は意味がない」と拒否する。これが理解できない。治療もせずほったらかし、で、再生できるはずがないだろ。どーも、センターといっても自立支援に力を注いでいるように見えないのだよなあ。
では、ロペスのやり方は間違っているのか? ナサニエルの好きなようにやらせておくことがいいのか? 社会復帰させない方がいいのか? そういうことを無視し、映画的に美化されたナサニエルの行動に感動したりするのは、現実を理解していないからだ。分裂病患者をどう扱っていくべきなのか。この問題を抜きに、この手のファンタジーを描くのは、問題があるように思う。これはファンタジーではなく、現実だ、という向きもあるだろうが、いやいや、半分以上はファンタジーだ。
この映画は、ほとんど表面をなで回しているだけ。ナサニエルの個人的な部分に突っ込んでえぐることはしていない。たんに、才能があったのに病気で活かされず、残念、と軽い同情を示しているだけ。これでは観客に訴えることはできないだろ。ロペスにしても、自分の名誉栄達のためにナサニエルを取材しているのでは? と思ってしまう。
そういえば女性の上司が登場するのだけれど、彼女がロペスの昔の妻、みたいに見えるところがあるのだけれど、そうなの? よく分からなかった。その彼女は、リストラで部下を切る役目を仰せつかっている。しかし、その苦悩が、本筋にはぜんぜん絡んでこない。なんだい、もったいない。それから、ロペスの庭に出現するアライグマ(?だっけ)の問題も、ただのエピソードに終わっている。すべてが収斂していくことがない。中途半端な映像のとっちらかしだ。これじゃ、こちらの心には何もとどかない。
最初はナサニエル、と馴れ馴れしく呼んでいたのが、あるとき逆ギレされ、以来、○○さん、と名字をMr.付きで呼ぶようになってしまうロペス。これは、最後まで変わらなかった。当たり前のことだけど、分裂症患者との深い交流は、ムリなのだ。
キッチン 〜3人のレシピ〜10/13新宿武蔵野館2監督/ホン・ジヨン脚本/ホン・ジヨン
韓国映画。英題は"The Naked Kitchen"となっていた。30分ぐらいで眠くなり、なんとか持ちこたえたのだけれど、1時間ちょいすぎにまた眠くなり、亭主が嫁を殴った後あたりから目をつむったりしていて、字幕をいくつか読まず。嫁が電車でどこかへ出かける辺りから覚醒したけれど、なんで? どうなってんの? さらに、2人が離婚していたとはね。それと、最後の最後、手紙みたいのがでてきてナレーションがかぶるシーンの意味がまったく分からず。やれやれだよ。
とにかく、全編たるい。設定も甘い。だからどうした? というか、どうでもいいような話がずるずるつづく。だいたい、お日様に当たったからボーッとして、初対面の青年に唇を許したりするか? そんなバカ嫁なんかどうでもいい。さっさと離婚しちまえ、としか思えない。きっと、「アメリ」みたいなエキセントリックな若い娘を狙ったんだろうけど、単なるボンクラ女にしか見えない。その青年と同居することになる、という設定はいいとして、それ以後の展開もつまらない。事件というかドラマがまったくなく、だからどうした!? である。だもんだから、俺が寝てしまったとしても仕方がないと思う。
でも、後半ではどういう経緯で離婚したのか。青年はどうやって離れていったのか、それは少しだけ知りたいような気がする。
嫁役のシン・ミナは、ちょっと見は可愛いけど、よく見ると濃い顔をしている。亭主役のキム・テウは、つかこうへいor松任谷正隆みたいで、ちっとも魅力がない。天才シェフがどうしてこんなところで働くのだ? のシェフ役のチュ・ジフンは単なる優男。
嫁の友だちの女カメラマンなんて、キャラがぜんぜん活かされていない。全体にもっと不思議感、エキセントリックで、おとぎ話的なつくりにしないとね。
エスター10/13新宿ミラノ1監督/ジャウメ・コレット=セラ脚本/デヴィッド・レスリー・ジョンソン
原題は"Orphan"。「孤児」だな。とくに奇を衒ったつくりではなく、オーソドックスに話を積み上げていくタイプ。なにげなく→少しずつ違和感→家族(とくに義母)を攪乱→家族をコントロール→そして、本領発揮→意外な真実→なかなか死なない・・・。という流れが完成度高くつくられている。とても上出来のサスペンスだ。
冒頭で、妻(ヴェラ・ファーミガ)の死産シーンが描かれる。なので、またまた悪魔が出てきて死産させたとか、その怨念が云々といういつものパターンかと思ったらさにあらず。夫(ピーター・サースガード)とともに孤児院へ養子をもらいに行き、9歳(10歳だったかな?)の娘エスターをもらってくる。これがはじまり。それにしても、アメリカ人は養子が好きだね。実子が2人いるってのに、もう1人他人を育てようってんだから。しかも、実子よりも年上の子を・・・。
前半は、変な子供、が強調される。さて、その正体は? という引っぱりで、やっぱ悪魔の生まれ変わりなのか? みたいな描き方だ。細かな伏線が(わざとらしく、ではなく)いろいろばらまかれていくのだけれど、それがちゃんと後半に生きていくのもお見事。中盤から、エスターは一家を支配し始める。とくに、義母を疎外し始める。ヴェラはアル中の前科持ちで、そのせいで実娘を溺れさせかけたこともある。なのでカウンセリングを受けているのだけれど、エスターに疑惑の眼差しを向け、過去を調べようとし、その悪巧みに近づいているヴェラをエスターはワナに落とし込んでいく。なんて子供なんだ! と、誰しも思うに違いない。
義父ピーターの前では大人しい子供を演じるエスター。ピーターは、ヴェラこそおかしくなっている、と思い込んでいく。この辺りの展開、流れがなかなか見事。聾唖の娘と、物心ついた年頃の息子も、うまく絡んでくる。
で、ロシアからもらわれてきたエスターの過去が次第にわかりかけ、ついにエスターが爆発。同時に、過去がさらけ出される。おお。そういうことだったのか。なるほど大人っぽいわけだ。以後は突如パワーアップしたエスターが息子を襲い、義父を襲い、さらに娘を襲おうとする。そして、義母が娘を助けに来る! このあたりの緊張感はすさまじい。こっちもちょっと力が入ってしまうほど。いったんはやっつけても、何度か甦ってくるお約束も、圧巻。ラスト「助けて、お母さん」と叫ぶエスターに蹴りを入れるヴェラがたくましい。
唯一の欠陥は、エスターがなぜ犯罪を犯し続けるのか、が解明されないこと。まあ、病気だから、ということで済んでしまうのかも知れないが、ではエスターの目的は何なのだろう? と思ってしまう。
この映画でも、エスターは精神病者という設定だ。それも境界領域。天性の犯罪者として生まれた女、である。どうもアメリカ映画は精神病者に対するステレオタイプな見方があるみたいで、悪いイメージを植え付けるのではないかと心配なのだが、反対運動などは起こっていないのだろうか? 知りたいところだ。
子供に見えるが実は30過ぎの女、と分かって以降のエスターは、別の役者が演じているように見えるのだけれど、どうなのだろう。
エスターの描く絵が、イメージだけ強調され、その潜在意識の発露、として見えにくいのがもったいない。あの、蛍光色は、マニュキアで描いているからなの?
気になったのは、子供がかなりのワルをする演技。鳩を殺したり、エロっぽい言葉を吐いたり。そういうのを10歳ぐらいの少女にさせている。まあ、編集でそう見えている部分も多いと思うけど、演じている当の本人が見たら、ええっ! って驚くのではないのかな。っていうか、10歳の子供には見せられないだろ。
それにしても。こういう映画を見ると、養子なんかもらいたくない、とくに、成長してしまった子供をもらうのはリスクが高い、って思う人が出るんじゃないのかなあ。
悪夢のエレベーター10/15シネセゾン渋谷監督/堀部圭亮脚本/鈴木謙一、堀部圭亮
つまらない。脚本がよくない。とくに前半のエレベータ内の会話は、ベタすぎる。なんでもなんでもしゃべらせればいいってもんじゃない。沈黙や仕草での表現もあるはず。それをせず、すべてべらべらと役者にしゃべらせる。テンポが悪く、重苦しくうっとうしく、つくりものめいてくる。これが40分ぐらいつづくのだから気が滅入る。そして、眠くなる。
さて。4人の男女がエレベータに閉じ込められた。出所したてのコソ泥(内田聖陽)。ジョギングに出かけようとした中年男(モト冬樹)、自殺志願の娘(佐津川愛美)、浮気中の男(斎藤工)。モト冬樹が超能力者で、触れるだけで心が読める、と。そして、各人の過去を読み、斎藤の、妻への気持ちを聞き出そうとしたとき…。斎藤が、もともとエレベータには3人しか乗っていなかった、ということに気づく。実は、3人が斎藤をハメようとしていた、のであった。
以後はネタバラシ。しかし、「運命じゃない人」のような巧みなプロットではなく、ベタに経緯を説明していくパターン。観客は「あ、そ」とは思うけれど、「ええ〜っ!」とまでは思えない内容。だって、ハメているというのがバレているから、もう、過去についての意外性というものがない。しかも、麻酔の注射が効きすぎて斎藤が死んでしまうというアクシデントが発生し、この後は死体隠しの完全犯罪志向となって。話がどんよりしてくる。
この手のコメディ・サスペンスは、ユーモアが大切だ。しかし、どーもこの映画、じめじめうっとうしい空気に包まれているのだよね。もっとカラッと、くすくす笑い飛ばせる軽さが必要だと思うのだけど、そうはなっていない。しかも、最後は掟破りの"境界性人格障害"という飛び道具をもちだしてくる。あれまあ。「エスター」と同じかよ。でも、あっちはハナから異常感全開だからな。こっちの、本来なら洒落た感じにしなくちゃいけない映画とは違う。というわけで、見ている間も、終わっても、スカッとしないうじうじ映画。
そもそも、最初のシーンで江戸川球場が出てきて、そこではプロ2軍の試合が行われていて、客席には内田がいるわけだ。なのに、次のシーンではチンピラみたいな格好でエレベータに乗っている、という時点で不自然。冒頭のシーンなんか、要らないと思うぞ。別に内田が、人生の一発大逆転を狙った仕事をする、というわけでもないのだから。
さらに、演出がくどい。カット尻もムダに長く、しつこい。エレベータ内のあれこれなんか、半分以下に切って、もっとテンポよくやって欲しいね。
斎藤に打った注射は何だったのか? その説明もなく進む。それはないだろう、だよね。しかも、エレベータ内に3人しかいなかった、と気づくのが遅すぎる。もっとはやく気づけよ。斎藤は、ホントは死んでなくて、別の活躍をするのかと思いきや、さにあらず。つまんねえの。
3人が斎藤とエレベータに乗り合わせる手筈も、大雑把すぎ。あれじゃ偶然頼みにしか見えない。さらに、死体2つの始末もほとんどほったらかし。しかも、3人目(斎藤の浮気相手)の被害者も、可哀想に巻き込まれる感が強い。精神障害者が犯人だから、って収拾の付け方は、後味が悪い。
斎藤の妻(本上まなみ)の立場はどうなるのだ? 夫の素行調査を依頼しただけなのに、夫が殺されてしまうなんて。これじゃ、不愉快感が消えないじゃないか。そんな中で気を吐いたのが、マンション管理人役の大堀こういち。その怪演は、この映画の唯一のひろいものだ。結局のところ、脚本が緻密にできていない、ということに尽きるのではないかと思う。
ああ、あと、途中からエレベータの壁に、なかったはずのキズができているのが気になってしまった。紙製なので(かな?)できてしまった破れ、なのだろうか。もっと注意しろよ、だなあ。
パンドラの匣10/16テアトル新宿監督/冨永昌敬脚本/冨永昌敬
俺は太宰治はひとつも読んでいない。もとい。教科書にあった「走れメロス」は読んだかも知れない。がしかし、それ以外はまったく知らない。なので、この映画がどの程度原作に依存しているのかも分からない。という状態でストーリーを顧みるに、こんな話だったら太宰は読む必要はやっぱりないな、である。
有り体にいって、何を言いたいのかさっぱり分からない。前半では主人公、ひばりのモノローグや、つくしへの手紙の文面の朗読などが多く混じる。ひょっとしてこれは、太宰の文体または物語が映像化しにくく、結局のところ文章で補わなくてはならなかったのかな、と思った。けど、こうしたモノローグや朗読にどれほどの意味があったのか、よく分からない。だって、やっぱり、よく分からないストーリーなのだから。
ストーリーがつまらなくても、映像が豊かであれば、それはそれで了解できたりする。でも、そういうこともないのだよね。でもって、この映画でかろうじて僕の興味を引っぱってくれたのは、川上未映子の美しさと仲里依紗のファニーフェイスだった。しかし、それとて1本の映画を見終えるほどには強くなかった。いつしか退屈あくびがやってきて、1時間目前後から瞼が…。看護婦の化粧のことでひばりが他室に抗議に入ったところあたりで、ふっ、と一瞬、眠りに落ちてしまった。まあ、すぐさま復帰はしたけれど、あいかわらずのつまらない話がつづいていくだけだった。だからどうした! である。
1945年。終戦直後、ひばりは結核に冒され、健康療養所みたいなところに入る。どうもここは医者はいなくて、看護婦ばかり。主催者の老人がいて、呼吸法や体力づくりで健康を回復しようと言うところらしい。いまから思えば、イワシの頭である。驚くことに、患者たちは隔離されているように見えないことだ。看護婦たちと密接に接しているし、恋もする。外部からの来訪も自由らしい。こんな環境があったのか? こんなことしてたら、看護婦なんかすぐ結核になっちゃうだろ。と、そればかりを心配していた。
そこに、新しい看護婦長・川上未映子がやってくる。そして、寿退社するまでの1年間の物語。他にフィーチャーされるのは、愛嬌ばかりの看護婦・仲里依紗。仲は退院していったつくしが好きで、つくしは川上に惚れる。で、ひばりは川上が好き。仲はひばりのことも好きみたい。で、ラスト。川上が結婚する相手というのは、ひばり、なのかい? うーむ。よく分からん。でも、どうでもいいや。
物語に奥行きというか深みがなく、表面をなでているみたい。そういえば、この監督って「パビリオン山椒魚」の人らしい。あの映画もつまらなくて、たっぷり寝てしまったっけ。なぜ映画を撮りつづけられているのか、理解できないね。
ウェディング・ベルを鳴らせ!10/21ギンレイホール監督/エミール・クストリッツァ脚本/エミール・クストリッツァ
原題は"Zavet"。意味はわからん。でも、クストリッツァだあ! もう、それだけで満足だよ。うはうは。最初のうちは間がちょっと悪くて、テンポにキレがないなあ、なんて思っていたけど、中盤からはもう一気呵成。クストリッツァ節が全開・炸裂で、最後はハッピーエンドの大団円。「黒猫・白猫」(★5つ)と似てるけど、それはそれ。「アンダーグラウンド」(★5つ)や「黒猫・白猫」のスケール感、ダイナミックさ、政治性はないけれど、疾走感は相変わらず。でもやっぱり、戦争や政治性がなりをひそめてしまったのは、ちょっともったいない。とはいいつつボスニア、クロアチア、セルビアあたりのかつての不穏さを、登場するあくどい実業家=マフィアの暴力性に託しているのかもなあ、なんて思いつつ見ていた。
話は単純。田舎の少年が牛を連れて都会へ嫁さんを探しに行くだけのこと。そこに膨大な妄想、寓話、過剰、逸脱なんかを加味して、いかがわしさ=ちんけなギャグが盛大に盛り上がる。この物語性の豊穣さは、やっぱクストリッツァならでは。ただし、狂気や妖しさは薄まってしまってるかも。ボスニア問題が過去の物になりつつあるいま、かつてのような世界を創り上げるのにはムリがあるんだろうけど、ま、そういうのを感じたかったら「アンダーグラウンド」を再見すればいいだけの話だ。
それにしても、性に対する大らかさは、人生を肯定的に捉え、謳歌する姿勢は変わらない。あんな簡単に美女が我が者になるなんて、うらやましいね。階段で、ことの成り行きを見ているオバチャン。主人公の祖父にぞっこんの巨乳おばさん。その巨乳に惚れてしまった政府の役人。その役人を阻止するべく掘られた落とし穴。みんなもう、バカバカしいったらありゃしない。
悪の実業家がサラエボにツインタワーを建てようとしている、というのは、どういう意味があるのだろうね。あの、NYの崩壊したビルを何でまた? その実業家、生身の人間より獣姦にご執心というのは、どういうことかな。かつての内戦での経験が、彼のような変態をつくりあげてしまったってこと? なんて、深読みしようとするのだけれど、なかなか理解は難しそう。って、意味なんかなかったりして? どうなんだろ。
主人公の祖父の友人の孫たちが面白い。2人ともスキンヘッドで、鋼のような肉体をもっている。銃弾を撃ち込まれても死なない。拳銃なんかかみ切ってしまう。あの2人は何を象徴しているのかね。冒頭で、主人公の祖父がソ連の体操選手の活躍に涙したり、学校でロシア語を教えているのは、なぜ?
とか、もっと知識があれば分かることなのかも知れないけど、読み解くべき要素がてんこ盛りなのも興味深い。でも、解説書でもつけてくれないと、十分には理解できないかもね。それでも、クストリッツァの素晴らしさはちゃんとつたわってきた。音楽も相変わらずの陽気さで、楽しいね。
ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜 10/23シネリーブル・シアター1監督/根岸吉太郎脚本/田中陽造
太宰生誕100年である。さて。太宰を読んだことがないので、これが「ヴィヨンの妻」そのものなのか、何か足しているのか、引いているのか、は分からない。しかし、借金して酒を飲みつづけ、心中事件を起こして世間を騒がせている作家とは、太宰本人のように思える。それにしてもいい加減で、だらしなく、どうしようもない男だね、主人公は。それでいて、女には惚れられる。男にも好かれる。なんなのだ。小説とは別の実生活がぐだぐだでも、慕ってくる連中がたくさんいるとは、どういうことだ!
そういう疑問が最初に起こり、以後は、こんな時代があったのかねえ、と首をひねりながら見ていた。だって、女は男にかしずいて。浮気されようが、金を持って行かれようが、我慢のいっぽう。男は「死にたい、死にたい」ともらしつつ死なず、飲んだり浮気したり破綻寸前までいっている。それで夫婦が成立していた時代があったのね。うわあああ。そういう時代が、うらやましいような気もするぞ。
主人公の心中事件は、これはもう狂言だろ。死にたい死にたいといいつつ死なないのは、死なないようにしているからだと思う。薬も少なめに。首つりも回避できる程度にやっている。死ぬ気は本気ではないのだ。だって、本気で死にたかったら、いくらでもやりようがあるはず。なのに、そうしない。つまり、心中事件でもいいから、世間から注目されたい、という気持ちだと思う。なさけない。でもまあ、これが太宰本人を表しているのだろうな。最後は、「生きてさえすればいい」というようなことを、主人公と妻とが中野のガード下でつぶやくのだが、その後の太宰の顛末が分かっているだけに、うら寂しい。
松たか子は、清々しさがなくなって、オバサン化してきている。広末涼子はセリフが下手。それに貧相。ま、太宰が心中の相手に選ぶ女は、そういう、どうでもいいような女給を選んでいるフシがあるからちょうどいいのかも知れないが、当時の髪型はなんか似合わない。浅野忠信も、本来の味であるセリフの自然すぎる話し方が徒になっている気がする。端唄みたいのを唸るところがあるけれど、下手だし。室井滋がよかった。
監督が根岸。脚本がこれまた年季の入った田中陽造で、現代風なアレンジもできていない。セリフなど、ふつうそうはしゃべらんだろう、というような言い回しなどが冒頭近く、伊武雅刀が松たか子に説明するシーンのセリフなど、ひどいものだ(原作を青空文庫からダウンロードして斜め読みしたら、セリフは小説に案外と忠実に再現しているのだね。でも、会話としては不自然なところがあると思うぞ)。
物語はストレートと言えばストレート。滅入るような内容だ。こいつは性格破綻者か? としか思えないような行動しかとらないのだもの。なので、見ていて気が晴れるようなことはない。もちろん主人公に同情もできない。勝手にしろ、としか思えない。どこかに、現代に通じる何かがあるとか、意外な展開があるとか、そういうこともない。何らかの解釈がされることなく、放り出されている感じ。妻夫木など、途中でさっさと消えてしまうし、何のために登場したのか分からない扱い。なんかもったいない。原作そのまま、が、いいと思っているのかも知れない。でも、それで果たしていいのだろうか?
個人的には、こういう内容の小説が、いまもって読まれていること自体が信じられない。どこがいいんだ?
当時の中央線の車内も再現されているとか、戦後の中野駅周辺の再現は凝ってはいるけれど、銀座のビル(堤真一の事務所がある設定)は手抜き過ぎ。しかし、中央線の車両の外観は、どうやったのかな。
REC/レック210/27シネマスクェアとうきゅう監督/ジャウマ・バラゲロ、パコ・プラサ脚本/ジャウマ・バラゲロ、パコ・プラサ
原題は"[Rec]2"。前作は、アバウト覚えている。で、本作は、その続編。屋根裏で得体の知れないヤツに捕まった女性カメラマンが・・・。の、つづきだ。がしかし、ラストシーンは覚えていたけど、彼女がカメラクルーの一員だったことはすっかり忘れていた。
この手のサスペンス、ホラーは苦手。なので、ちょっとドキドキ。しかし、前作以上のショッキングなシーンはなかった。むしろ、後半なんかには、思わず笑ってしまうようなシーンもあった。もちろん、真面目に撮っているシーンなんだけど、あまりにもアホらしい、バカバカしいので笑えてしまう、ということだ。
あるビルに得体の知れないヤツが現れ、感染病だと伝えられ、ビル全体が隔離される。その設定は面白い。しかし、そもそも、その得体の知れないヤツが、またしても"悪魔"だったとは。げげっ。前作では・・・ええと、前作の感想文を読み直すと、悪魔とまでは言ってなかったんだよね。ゾンビかな? という程度。ところが、今度は神父まで登場して、「エクソシスト」か? という有様。これで萎えた。
そもそも、悪魔ならもっと賢いんではないの? こんなスペインのアパートに立て籠もらなくても、もっと巧妙に人間社会に入り込めるではないか。なのに、ゾンビみたいに人を食って拡大繁殖していく道を選択する、という時点で、もうだめだ・・・。
神父は悪魔に取り憑かれた少女の血液を欲しがり、SWATたちは「もう帰ろうよ」という。それに神父が怒りまくるのが笑える。なんでまた、そんなにいますぐ欲しいのだ。SWATだって夜が明けてから、たった4人じゃなくて大量に投入すればいいのに、あまりにも可哀想。・・・と思うと、設定にムリがあるよなあ、と思えてきてしまう。
建物は完全封鎖、というはずだったのに、「家族がいるから」という男を、消防署員が下水から案内して入れてしまったり。さらに、そのあとを青少年3人組がついていって入ったり(汚い下水口に入っていくか? フツー。動機が薄弱すぎる)。なんかお粗末。
よかったのは、90分足らず、という尺ではないだろうか。むりに引っぱったりせず、飽きが来ない間にサッと終わらせてしまう。近ごろの日本映画みたいに、ムダに2時間もある映画より、よっぽどいい。こっちの緊張感もゆるむ前に終わってくれるから。
で。おっぱいの谷間がちらっと見える女性カメラマンだけど、最後の方で突如、現れる。え? 前作で食われたんじゃないの? と思いつつ見ていくが、ごくフツーに食われていないように見える。ところが、これが食わせ物だった、というわけだ。ラストで種明かしされるのだけど、彼女は食われるのではなく、悪魔の魂というか本体(ナメクジみたいなの)を、悪魔つきの少女から口移しでもらっていた、という次第。ふーん。で、彼女=悪魔は、正々堂々とビルの外に出て、何をするのかな? こんな手間をかけなくても、さっさとフツーに人間に乗り移り、世の中を支配しちゃえばいいのに。とてもマヌケな悪魔なのであった。
疑問なのは、悪魔たちの世界が、ビデオカメラの暗視カメラなら見える、という件がとてもインチキ臭かった。もともと悪魔世界を見るために開発されたわけじゃないだろうに。ご都合主義もいいところだ。で、次回作だけど、青少年のうち男女2人がまだ生き残って建物の中にいたはずだから、それでなんとかつくる魂胆かもよ。
それにしても、悪魔世界の水の中に引っ張り込まれたSWAT隊員は、どこに行っちゃうんだろうね。それがちょいと気にかかる。
それでも恋するバルセロナ10/29ギンレイホール監督/ウディ・アレン脚本/ウディ・アレン
原題は"Vicky Cristina Barcelona"。主人公の女性2人の名前と、都市名だな。単純。映画がはじまり、タイトルがスチル形式でぱっぱっと変わっていく。ありゃ。ウディ・アレンみたいだな。と思っていたら、その通りだった。ってか、監督名を知らずに見はじめていたのだよ。つーか、事前情報、インプットされてなさすぎ? いいや。いいんだよ。これぐらい無関心で、サラな心持ちで見はじめた方が、驚きがあるはずだからね。
アメリカ人の女子大生(?)2人がバルセロナに。そこで新人画家に出会って惚れてしまう。画家は、最近、妻に逃げられたばかり。三角関係ならぬ四角関係の、なんとも不思議な物語。といっても、ウィットとユーモアは相変わらず。建て前と本音、理性とパッション。そのハザマで、女たちはうろたえたり、過激になったり。ま、それはいいとして、3人の女にちやほやされるスペイン人というのも、単純にうらやましいけど。でも、女を籠絡する手間は惜しまないみたいだね。ここで思ったのは、イタリア男との違いかな。イタリア人なら、しつこく、何度も何度も迫って、美辞麗句で飾り立て、呆れられてもあきらめることなくアタックする・・・。てなイメージ。けど、スペイン男は知的に迫る。というか、論理は破綻していても、言葉で説得していくのだよね。「人生は短い。楽しまなくては」とか、セックスを悪と思わず楽しもう、と言うのだ。下手に出るのではなく、上から目線で「モラルにしばられるのは哀しいことだ」とでも言わんばかりに。うーむ。こういう流れでホントに女が落ちるのかどうかはさておき、興味深かった。まあ、この映画のスペイン男は、だらしなくても芸術家だからな。その点は、ちょい差し引かないといけないかも知れないが。
ヴィッキー(レベッカ・ホール)は恋人がいてもうすぐ結婚予定。クリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)は、アバンチュール大好き女。この仲良し2人がバルセロナへ。で、画家のフアン・アントニオ(ハビエル・バルデス)と出会う。最初に色目を使ったのはクリスティーナ。「週末を田舎で一緒に過ごし、セックスしよう」と誘われ、ヴィッキーは常識外、と拒絶。でもクリスティーナはオーケーする。でも、ヴィッキーも一緒についていっちゃう、ってところがいい加減。クリスティーナはいま一歩のところで腹痛を起こしてセックスできず。アントニオは代わりにヴィッキーを誘い、彼女をメロメロにしてしまう。そして、一夜だけのセックスを・・・。
アントニオはヴィッキーに、あれは遊び。婚約者がいるんだから、結婚してフツーの生活を送れ、という。けど、ヴィッキーはアントニオが忘れられなくなる。間近に迫った結婚まで疑問視し始める。・・・ていうヴィッキーの心の変化が、じつに上手く表現されている。
結局、アントニオはクリスティーナとつき合うことに。彼女も、恋人がスペイン人の芸術家、ということで大いに満足する。ホント。アメリカ人のヨーロッパ好き、ヨーロッパの男は最高!を地でいくバカ女を象徴するような存在だね。
芝居のような話、というか、展開だ。それぞれ特徴的な性格の人材を配し、ドラマを起こさせ、右往左往させる。作劇がとても上手い。なるほど、さすがはウディ・アレン。突拍子もない設定も、それほど違和感なく受け入れられる。どうせつくりごと、と思ってみられるからね。
最初の方、ムリに映像で見せようとせず、ナレーションと、それを補う映像でちゃちゃっと見せてしまうのは、まあ、正解かも。芝居のト書きを読むような感じかな。俄然面白くなるのはマリアが登場し、引っかき回し始めてからだね。マリアがスペイン語で話し、アントニオは「クリスティーナに分からないから英語で」というんだけど、マリアはスペイン語ばかり。イライラしたアントニオまでスペイン語になって。と、今度はマリアが英語でしゃべったり。この、英語スペイン語のちゃんぽん具合も笑えた。
もちろん、現実の人間の代表的な部分が投影されているから、こういうやつっていそう、こういう出来事って、起こりそう、とも思える。とくに、ヴィッキーと、バルセロナで居候する先の奥さん(パトリシア・クラークソン)がリアリティありそう。アントニオみたいなやつだって、いないわけじゃない。日本にだって太宰だの夢二だの石田純一だの、女にだらしなくて、それでももてる男がいるわけだから。もっとも、アントニオを芸術家、としていて正解だとは思うが。フツーの会社員には、そうはいないだろう。
マリアみたいなのも、いそう。情熱的で魅力的だけど、感情的で自分勝手、そして、ワガママ。うーん。でも、アントニオとクリスティーナとマリアの3人が一緒に生活してると、穏やかだったんだろうね。そうそう。マリアが戻ってきたとき、アントニオと一緒に住んでいるクリスティーナの荷物を全部チェックした、というエピソードには笑えたし、また、ぞっとした。女は怖いね。だって、最後にはピストルもってやってくるんだから。大杉栄と神近市子みたいだな。マリアとの共同生活がはじまると、アントニオは萎縮し始める。っていうか、ほとんどマリアに頭が上がらない。アントニオの才能(?)は、マリアの盗作から? という話にもリアリティがありそうだね。本人も半ば認めているし。才能の感化は受けるけど、夫唱婦随の関係には到底なりそうにもない。アントニオとクリスティーナなら、芸術家と一般人で、クリスティーナがアントニオを尊敬してるから、上手くいきそうなんだけど。では、アントニオとヴィッキーならどうだろう? ヴィッキーはアントニオにすがり、結局、捨てられるパターンだろうな。ぜんぜん合いそうにないもの。なので、映画の終わり方は、あれでよかったのかも。
3人の生活に、最初に不安を感じ始めたのがクリスティーナ、っていうのが面白かった。クリスティーナは、アントニオに魅力を感じなくなっていったのかのかも。アントニオよりマリアに影響され、その結果、アントニオへの興味をなくしたのかも。このあたり、アバンチュールを求める尻軽女らしい逃げ方かも。で、フランスへ行ったらしいのだが、彼の地での男漁りの様子は描かれない。実際のところはどうだったんだろう? と、思ったりする。
レベッカ・ホールは、下顎が発達している。しかも馬面。ううむ。ヨハンソンはいくつになつても子供っぽいね。ま、そこがウディ・アレン好みなんだろうけど。ハビエル・バルデスは、どこかで見たことが・・・で、あ、「宮廷画家ゴヤは見た」「コレラの時代の愛」の、あの粘着男だ、と分かった。アントニオの恋人マリアがでてきたときは、おお、と思った。ペネロペが登場するとは思わなかったので。でも、考えて見れば舞台がスペインなんだから、当然だよな。ペネロペの激する女は素晴らしい演技。

 
 

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