2009年11月

マイケル・ジャクソン THIS IS IT11/2上野東急監督/ケニー・オルテガ脚本/--
原題も"This Is It"。今年2009年7月にロンドン公演を行なう予定だったマイケル。その矢先の6月25日に亡くなってしまったわけだが、リハーサルの映像が残っているので、急遽でっちあげた映画である。しかし、死後4ヵ月で映画を1本つくってしまうなんてね。日本ならいざ知らず、アメリカで。なのでテキトー映画かと思ったら、あにはからんや。マイケルが「プライベートで撮っておいてくれ」といったおかげで残っていた、という話らしいが、これがまっとうな画質の映像で、いい加減なものではなかった。ひょっとしたら、これは映画公開、または、DVD発売を予定して撮っていたものなのかも。それぐらい質はいい。もっとも、スコセッシが撮ったストーンズの「シャイン・ア・ライト」みたいに作り込まれてはいないけどね。でも、記録映画としてはちゃんとしていたので驚いた。
とくにマイケルが好きというわけではない。CDももってないし。でも、時代を画したスターだから、それなりには知っている。ただし、整形、少年への性的虐待、変態趣味、裁判沙汰、借金・・・と、スキャンダルもたっぷりね。今回のコンサートも借金返済のため、という話だった。ところがどっこい。画面の中のマイケルは現役バリバリ。カラダもぜんぜんなまっていなかった。
最初の頃に、現在のと過去の映像が交互に映されたのと、ジャクソン5のときの映像が出たとき以外は、リハーサルの映像を使っているように見えた。ずいぶん長い時間、撮っていたのだな。
映画の中でマイケルは「リハーサルだから声はちゃんとはださない」といっていたけれど、でも、そんな風には聞こえなかった。あとで調整してはいるのだろうけど、踊りながらちゃんと歌っていたし、外したり流したりもしていなかった。もちろん、そういう部分だけを選んでいるのだろうけど、思わず本気でノリノリでやっている部分もあったりする。リハーサルを重ねつつ演出をその場で考えたりしているから、なんだろう。その様子に、観客であるスタッフから大拍手がおこったりして。
マイケルはステージで実際に歌っているのか、それとも口パクなのか、それは知らない。あんなに動きが激しくては声も出ないだろうと思うんだけど。リハーサルだから実際に歌っていた、のかな? よく分からない。
日本のリハーサルを知らないので何ともいえないのだが、マイケルのリハーサルはすごいね。スタジオにステージやセットを本番さながらに造ってしまい(なのかな?)、そこで音楽も踊りも歌も本番通りやっていくみたい。それを何度も繰り返していくのだろう。適宜、修正はマイケルが加えていく。ここはこう、こうやって、ああして・・・と。もちろん他にプロデューサーみたいなのはいるけれど、相談しながら進めていくのだね。そして、「観客に非日常の楽しみを与えるために」というようなことをいっていた。ずいぶんお客様思いでもあるのだな。
ムーンウォークやロボット動きは、リハーサルだから控えめだけど、ちゃんとやっていた。これも驚き。ながくステージを離れていればカラダはなまるはずなのに、ちゃんとできるのだよ。ああいう動きは普通の生活をしていると使う筋肉が違うから、つねにトレーニングしてないとできないはずなのに。それを軽々とこなしていく。とくに凄いのが、動き→静止するとき。カラダが、ぴちっ、と止まる。微動だにしない。周囲のダンサーが息が上がってハアハアいっていたり、ピタリとまらなくて動いているのと比べて、段違い。マイケルは息が苦しくないのか? もちろん、体型は昔のままを維持して、腹などでていない。すばらしい。
映画は、最初の方にバックダンサーのオーディションがあり、あとはリハの様子を映していく。最初の頃はそれでも面白かった。けど、ジャクソン5の映像あたりから、ちょっと飽きてきた。眠りはしなかったけど、ね。歌の合間に、もうちょっと何か刺激的な何かを挟んでくれてもよかったんじゃないのかな。この映画では、共演予定者の短いインタビューが挟まるぐらいで、他には何もない。ちょっと物足りない。
それと、映画は「これで演出はひととおり完了」というところで終わってしまっている。その後の事故や、なくなったマイケルへの追悼、悲しみの言葉も一切ない。まるでまだマイケルが生きているかのようなつくりになっている。それは意図的なのだろうけれど、いささか拍子抜け。べつにお涙頂戴物にしろとか、スキャンダルの周辺を匂わせろ、というのでもない。なにか足りない気がするのだ。舞台で踊り歌うマイケル。CG等に指示をだすマイケル。・・・そういうマイケルではない、日常のマイケルがもう少し見えてもいいんじゃなかろうか。それがあると、飽きが来なかったかも知れない。もちろん、有名曲のオンパレードで、好きな人にはあれで満足、なのかも知れないけどね。
共演予定だった女性ギタリストがカッコイイ。Orianthi Panagarisというらしい。24歳。なかなか渋くていい。あと、気になったのがボーカルの女性。東洋系の入った黒人みたいな人で、彼女も気になった。Judith Hillというらしい。25歳。美人でも何でもないけれど、ひっかかる存在だった。ちょっと腹が出加減なのが気になったけどね、日系人の血が混じっているとか。ふーん。
ホワイトアウト11/3新宿シネマミラノ1監督/ドミニク・セナ脚本/ジョン・ホーバー、エリック・ホーバー、チャド・ヘイズ、ケイリー・W・ヘイズ
原題も"Whiteout"。ワーナーのマークの後に、ダークキャッスル。おお。ホラーか。そういえば、ミラノ1ではこないだまでダークキャッスルの「エスター」をやっていたよな。ミラノ1は恐怖オカルト館と化したのか?
B級サスペンスだった。ホラー的な要素は、乾燥死体や頭がつぶれた死体、死骸の傷跡などで、別にオバケは出てこない。内容も単純で、これはミラノ3にかけるべき映画だな。この時期、他にかけるシャシンがないのかも知れない >> 東急。
50年ぐらい前、南極にロシアの飛行機が墜落した。しかも、乗組員が互いに撃ち合って・・・。で、現在のアメリカの南極基地。「30デイズ・ナイト」みたいにあと数日で極夜がやってこようか、という日。死体が見つかる。殺人事件。数日で帰国予定の警官キャリーと医者が、飛行機で現場へ行く。と、死体は、隕石を調べるグループの一員だった・・・。さらに、そのグループの一員から電話があって、「こっちへ来てくれ」といわれ、キャリーは飛行機でノコノコでかける。ううむ。なんか杜撰な映画だね。理由も告げられず「来ればわかる」といわれて、警官が単身(操縦士もいたけど)で関係者に会いに行くか?
で、行ってみると、電話をかけたヤツは殺されていて、キャリーは覆面男に襲われる。なんとか逃げたところに、FBI捜査官がやってきている・・・。という具合に、話は転がっていくのだけれど、多くの「なぜ?」が残ってしまう。この後、キャリーと捜査官は隕石グループが掘っていたのは50年前の飛行機で、グループが何か高価な物を売買しようとしていたことが分かる。しかし、そもそも隕石グループとそのボス(謎の男として描かれるが、すぐに誰だか分かってしまう)の間にどういうやりとりがあったのか? どのように分裂し、殺し合いに至ったのか? ということが描かれていないので、話に重みがない。それにだいたい、4人(3人か?)いた隕石グループの2人が殺され、1人が逃げつづけていたわけだが、基地のどこにどう隠れていたんだ?
FBI捜査官が突然やってきたのは、それは偶然なのか? 3人目の隕石グループの男、彼は、飛行機の方へ逃げたけれど、あの後、死んだシーンってあったっけ? それとも、どっかに生きている? ううむ。なんか、いろいろムリがあるね。で、キャリーは、最初の死体は飛行機から落とされた、と推理し、飛行機を操れるのは基地の上司である、と判断する。なのに、想定される上司は、画面に2人しか出てこない。基地のボスと医者だ。このどちらが犯人らしくないかというと、医者だ。しかし、この医者に、あれこれ指図する時間があったか? それに、簡単に口封じをしても南極大陸じゃ、犯行はいずれバレるだろ? そこまで考えないのかね。さらに、覆面男は医者と通じていた刺青=ストーカー野郎だと分かるのだけれど、こいつにしたって飛行機であちこち移動すれば痕跡は残るはず。
というわけで、突っ込み所満載のB級としかいいようがない。脚本も、4人も名前を連ねているわりに単調というか、ひねりがなさすぎ。50年前にダイヤを発見して仲間割れしたごとく、またしても、グループは仲間割れした、という部分をちゃんと描いた方がよかったんじゃないかと思う。
主人公を演じるケイト・ベッキンセイルは、きれいだけれど、クセがなさ過ぎて面白くない。後の役者もしかり。ああ、あの人、という役者はいなかったしね。撮影したのはカナダがどっかかかな? 南極にしては山がありすぎ、みたいに思えたけど、スケール感はでていたね。
扉をたたく人11/4ギンレイホール監督/トーマス・マッカーシー脚本/トーマス・マッカーシー
原題は"The Visitor"。「訪問者」。ウォルターは20年間同じノートで講義している大学教授。惰性で仕事をしている。息子はロンドン、妻も亡くなった。趣味もとくになさそう。妻が好きだったピアノを習おうとしても、指がいうことを聞かない。
そんな彼がNYで開かれる学会に、いやいや参加する。たまにしかNYに行かないのにアパートを所有しているというのが凄いね。で、鍵を開けたら人の気配。なんと、他人が住んでいた(仲介者が誤魔化したらしいが、この経緯がよく分からなかった)。2ヵ月前からシリア人の青年タレクとセネガル人の娘ゼイナブが住んでいたようだ。誤解が解け、出ていくという2人にウォルターは情けをかけ、アパートが見つかるまでいてもいいよ、と。タレクはジャンベという太鼓叩きで、ウォルターも習うようになる。2人が公園で他の黒人たちと一緒にジャンベを叩くシーンはとても感動的。いままで知らなかった移民との接触によって、ウォルターが輝きはじめるのがよく描かれている。
しかし、いいことだけでドラマが収まるわけがない。タレクは地下鉄で逮捕され、不法移民がバレてしまう。ウォルターは学会が終わって帰らなくちゃならないのに、タレクのことで東奔西走。もう、無関心では済まされない出来事、になってしまったわけだ。
以降はアメリカの、不法移民への対応への問題提起がつづくのだけれど、政治臭はしない。あくまでもウォルター個人の関わり合い、というスタンスをとりつづける。そして、大学を一時休職してまでタレクの釈放のために動こうとする。ま、これにはタレクの母親モーナがミシガンやってきたことが大きいけどね。
それにしても、タレクの一家はシリアでの難を逃れてきたのに、難民扱いしてもらえなかったのかね。それと、難民申請の件があるのだけれど、ちょっと分かりにくい。却下されたのを再申請すればよかったのに・・・ということだけれど、9.11以降厳しくなって、アラブ人はテキトーでは済まなくなっているみたい。でも、アメリカ側の視点に立てば、アラブ人に対して厳しくしたい、という気持ちは分からないではない。難しいところだ。
不法移民として収監され、最後は強制送還されるタレクだけれど、アメリカという国のふところの広さと狭さが両方描かれていると思う。人種が雑多で移民歓迎、という側面。でも、いったん事が起きると、NO。日本のようにハナッからNOという国よりも、開かれているとは思うのだけれどね。それにまあ、行きたい国を選べ、といわれたら、日本よりアメリカをたいていの人は選択するだろうなあ、と思ったりもした。
タレクの母親と、ウォルターのいっときの肌の温もり。この先、タレクはアメリカに戻れるのか。タレクを追って、捨てたはずの国に戻る母親。その先はどうなるのだろう。明るい兆しのかけらも見せてくれることなく、映画は、地下鉄のホームで怒りを発散するかのようにジャンベを叩きつづけるウォルターの映像で終わる。閉塞感だけが重くのしかかってくるね。
タレクの母モーナがウォルターに連れられ、ゼイナブに会うシーンが意味深。彼女はモーナを遠くから見て「あんなに黒いの?」というのだ。お互い不法移民なのに、人類的にアラブ人の方が上、という意識があるのかね。
パイレーツ・ロック11/5新宿武蔵野館1監督/リチャード・カーティス脚本/リチャード・カーティス
原題は"The Boat That Rocked"。1960年代に、イギリスで頻発した海賊放送局をモチーフにした映画。実際にそういうことはあったんだろう。船から放送した、ってことも。しかし、映画のようなことが起こったかどうかは分からない。たぶん創作だろう。海賊放送局は200以上(だっけ?)あった、というように字幕で出ていたし。
ストーンズやビートルズが登場した頃、ロックが嫌われていたのは事実だ。で、BBCは1日にロックやポップスを45分しか流さなかったらしい。でも、流してはいたんだよなあ、という気持ちはつきまとう。政府が「不道徳だから」と取り締まるのなら、なぜBBCで流していたのだ? 45分間とはいえ・・・? また、海賊放送局が放送禁止に対して反抗したなら価値ありだけど、そういうわけではないのだよなあ。
また、海賊放送局を取り締まる法律がない、というのが不思議でしょうがなかった。イギリスは成文法ではなく、不文法だからなのか? そのあたりの説明は、ちょっと欲しかったね。
映画は、嵐の夜に、海賊放送戦に1人の男性が乗り込むところから始まる。その青年トムが主人公扱いで話が進むと思うではないか。でも、違うのだよ。なんか中途半端な群像劇になっている。人物をあまり掘り下げず、雰囲気でイケイケ的なノリのつくりっていうのかな。一番目立つのはデブのデイブ。はっきりいって、なんでこいつの出番が多いの? という気分。次がアメリカからやってきたカウント。でも、出番は多いけど、インパクトは薄い。次に、元の人気DJで、放送人気を回復するために急遽呼び戻されたギャヴィン。彼も書き割り的な人物の描き方しかされていない。むしろ、結婚相手が、実はギャヴィン目当てですぐ離婚することになったサイモン、天気予報とニュース担当のDJなんかの方が目立ってたりする。無口でモテモテのマークや嫌われ者のアンガスなんて、瞬間的にしか登場しないのはもったいないぐらいだ。バランスが取れているのはレズの女の子、経営者のクエンティン(「ラブ・アクチュアリー」にでてたロック歌手だ。こういう役をやらせると絶品だね。最高)、夜明けのDJボブぐらいではないのかな。どうも、人物とエピソードが散漫で、筋が通ってないのだよなあ。
あとは次々訪れる女の子ぐらいが見どころ? でも、クエンテインの姪の女の子が、デブのデイブとさっさとやっちゃったりするのは、おいおいだね。なんか、みんながみんなイケてるわけでもないのに、女の子にモテるという設定も、いまいちかな。あんなデブが、あんなトロイのが? と思ってしまうシーンが目白押し。
ま、ストーリーを見るより、雑然としたエピソードを、当時の音楽とともに楽しめばいいのかも知れないけどね。で、楽曲に登場する女の子の名前からいくつかエピソードがつくられているのだけれど、そういう曲に限って知らない曲だったりするのだよ。やれやれだね。
で、青年トムだけど、乗船してきたはいいけど、どんな仕事をしているのかがまったく描かれない。それじゃいかんだろ。さらに、ところどころにインサートされる政府側の対応だけど、いまいちキリッとしない。もっと本気に向かってくるとか。秘書の女の子も実は海賊放送のファンで、上司の邪魔をしているとか、そういう話も入れ込んでくれたら面白かったのにね。
ロックのパロディもたくさんあるんだろう。なぞなぞゲームも笑いどころなのかも。でも、知識がなくてさらに字幕では十分に理解できないかもね。他のジョークやダジャレも以下同文。そういうのが分かると、もっと楽しめるのかも知れないけど。それから、2時間15分は長すぎるな。この手の映画は、短くパパッとテンポがよくなくちゃ。とはいうものの、飽きはしなかったよ。
沈まぬ太陽11/7キネカ大森1監督/若松節朗脚本/西岡琢也
3時間22分。途中10分間の休憩が入るので、トイレは安心。
余韻は残らない。情緒もない。ひたすら筋を追いかける映画。ある意味、テレビの2時間ドラマの前後編をみる感じ。全体のうねりも少なく、ヤマ場といえるようなところもとくにない。でもまあ、話自体はつまらなくないので見てしまうけれどね。
原作は読んでいない。なので、御巣鷹山がでてくるのは知っていたけど、官僚の話だと思い込んでいて、日航の社員だということは知らなかった。日航といえば、新聞でも最近よく目にする。破綻寸前で、その原因のひとつが高すぎる年金らしい。でも、元は国営企業だから、むやみに潰せない、とかね。それに、膨大な赤字を出しているのに、給料は世界トップレベルでもあるらしい。そんなことを見たり聞いたりしているので、組合の待遇改善要求なんか見ても、昔からのその体質がいまの日航の足を引っぱってるんだよ、としか見えなかったりする。当時といまとでは、価値観が大きく違ってしまった。かつては経営者と対決するのが組合。でも、いまや、経営者との協調路線をとるようになってしまった。組合活動や労働運動は、もう、過去の遺物だ。そういう時代に、こんな話を見せられても、残念ながら心は揺り動かされない。
ドラマのつくりは、とても古臭い。古い会社の体質に刃向かう純粋で若い改革派。しかし、会社の力につぶされ、それでも耐える。こういう構成って、「白い巨塔」あたりから同じだね。で、その結果は、何度目かのアフリカ勤務。・・・笑ってしまう。早くそんな会社、やめちゃえよ。なんで会社にしがみつくんだよ。現在の基準で考えると、会社を辞めないでいる主人公恩地がバカに見えてくる。そんなに会社っていいか? そんなにトップに登り詰めたいか? とか、いろんな思いがよぎる。
主人公は、会社幹部に嫌われてカラチ→テヘラン→ケニヤへ赴任される。ひどい仕打ち、という話だけれど、そうか? という気分。現在の感覚だと、先進国ではないけれど、いい経験じゃないか、という気持ちになってしまう。ま、当時の日航の、東大出の社員としては脇道なんだろうけど、それも組合活動の結果なんだから、甘んじて受ける覚悟がなきゃいかんのじゃないの? という気になってしまう。
というわけで、30年ぐらい前に山本薩夫あたりが撮ってたら社会派ドラマとして衝撃の問題作なんだろうけど、いまじゃ「ふーん。そんなことがあったの。あの飛行機事故の裏で」ぐらいにしか思えない。
あとは、思いついた疑問点を。
恩地はいつもジュースやジンジャエールを飲んでいるが、御巣鷹山から戻ったときは、まずビールだった。アルコールは飲めるの? あの人。
象を撃つシーンは、どういう意味があるのだろう? 虚像=巨像が堕ちたということ? あんな主人公も、昔は象撃ちで憂さを晴らしていたということ? それはいいとして、この現代に、象を撃ち殺す映像を挿入する意味がどれだけあるのだろう。逆効果なんじゃないかと思った。
石坂浩二の老眼鏡、新幹線に乗ってるときにかけていたフレール下半分だけあるやつ、が、とても変。あの時代にあんなデザインのフレームはあったのか?
松雪泰子のスチュワーデス。最初に登場したのが22歳ぐらいとして、あれから20年近く。ってことは、40凸凹だけど、それまで三浦友和と不倫がつづいていたってのが、ムリっぽい。それに、あんな自分勝手な三浦についていくという神経も理解できない。また、彼女は死んだ同僚の両親のところへ線香を上げに行く。あのとき彼女は同僚の両親に「搭乗を代わってもらった」っていったのかな? 本来の目的は三浦にいわれて遺族団の名簿を入手することだったから、いうわけないか。
新潮社から出版されているのに、角川が映画にするのだね。角川も、春樹じゃなくて歴彦の方だけど。
クレジットにタイクルーとあって、「なんで?」と思ったのだけれど、Wikiによると飛行場はタイで撮影したとか。日航は大々的にこの映画を批判していて、告訴も辞さない、なんていっているらしい。それで飛行場や飛行機は国内で撮れなかったようだ。飛行機もモロCGって分かるレベルで、ちゃちい。
きみがぼくを見つけた日11/8新宿ミラノ2監督/ロベルト・シュヴェンケ脚本/ブルース・ジョエル・ルービン
原題は"The Time Traveler's Wife"。主人公ヘンリー(エリック・バナ)は、なぜか知らぬがタイムトラベルできる体質。しかし、いつどこへ移動するかはコントロールできない。そんな彼がクレア(レイチェル・マクアダムス)という娘とであい、その成長を見守り、結婚する話。それだけ。夫がタイムトラベラー、という設定は早々に分かる。さて、ではどんなドラマが待ち受けているのか、と思えど何もない。その設定のまま最後まで引っぱっていく。だから、後半はちょっとつらい物がある。だって、ドラマがないんだもん。
ヘンリーが移動するようになったきっかけは描かれない。そういう遺伝子がある、らしいというだけ。また、何のために移動するかも分からない。ただし、オッサンのヘンリーが幼いクレアと何度も接触しているということは、クレアと会うように移動しているともいえるわけだ。といって、映画は、そのように運命づけられた関係、ということは強調していない。さらに、クレアがタイムトラベラーのヘンリーに、いつのまにか恋するようになった理由も描かれない。このあたりがテキトーなので、ロマンスとしてはあまり説得力がない。
一般にタイムトラベル物では、過去や未来の自分、もしくは家族に会うことは禁忌とされる。それは、歴史を変えることにつながるから、という考えからだ。ところがこの映画では、そういうルールは無視。過去の自分に会ったり、未来の妻にあって妊娠させたり、自由自在。おいおい。それじゃ、ヘンリーは本来の自分の時間軸がどこにあるのか、分からなくなっちゃわないか? それに、拡大解釈すれば、ヘンリーは死んだとしても、ラストシーンのように、過去のヘンリーが未来や過去へと旅することができるのだから、永遠に再会することが可能だ、ということになる。だから、よくよく考えれば、この映画には別れ、というものはないのだ、と思う。
ヘンリーは、図書館で働いているだけでは食っていけないだろ。あんなに頻繁にいなくなるのでは。ロトで5億円せしめるという反則は使っているけど、それいがいの収入はどうする? というか、ヘンリーの身辺調査もせずに娘を嫁にやるクレアの両親もどうかしてる。クレアはデザイナーみたいな仕事をしているようだけど、あまりはっきりとは描かれない。もっと生活感をだしてもいいと思うんだけどね。どうも、リアリティが少し足らないような気がした。
ヘンリーの末路は、移動先でハンターに間違えて撃たれて死ぬというもの。あのハンターは、クレアのパパかな? よく分からなかったが。パパだとして、そういう最後を用意する意味は何だろう? それに、物語として面白みがないよね。原作がそうなのかも知れないけど。
タイムトラベル時は、衣服は一緒に移動できず、肉体だけ。だから、移動先では素っ裸。というのは理にかなっている。では。娘のアルバも思いのままにタイムトラベルできるらしいが、彼女も裸で移動するのかい? そこのところは、曖昧にしたままだったね。というわけで、ロマンスとしても中途半端。SFとしても深みがない。
エリック・バナは背骨が曲がっているのか、いつも左に傾いている。レイチェル・マクアダムスの背中が見えるシーンがあったけど、背骨がボコボコ出っ張ってる。それに肋骨も浮いている。痩せているから? それとも、姿勢が悪いからかな。それはさておき「ミーン・ガールズ」のバカ女ぶりは過去の物として、最近は知性を売り物にしてる感じ。頭よさそうで、可愛くて、いいねえ。でも、大物にはなれなそうもない顔立ちだなあ。
こまどり姉妹がやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!11/09テアトル新宿監督/片岡英子脚本/---
10時からのモーニングショー。1日1回の上映だ。なのに電車が遅れて到着したのが10時5分。「いま本編が始まったところ」といわれ迷ったけれど、入った。トイレにも行った。公式には、尺が71分。終了したのが11時15分。ってことは、始まったのは10時4分ぐらいか。数分、頭を見てないかも。銭函という駅の近くで生まれ、不味い物を食べて育ったとか舞台で話しているところだった。
ドキュメンタリーである。幼い頃の話、両親が門付けしていたら、「子供に歌わせれば金を出す」といわれ、中一で初めて歌ったのだそうだ。流しを始めて大うけ。上京して山谷に暮らし、やがてデビュー。ただし、どうやってデビューにこぎ着けたか、詳しいことは話さなかった。まあ、いえること、いえないことがたくさんあるんだろう。それはしょうがない。紅白に出場し、妹が刺される。ああ、そういえば、あの当時は美空ひばりが塩酸をかけられたり、いろいろあった時代だったね。でも、刺された後、33歳ぐらいで妹が子宮がんになったのは知らなかった。それから、着物を脱いでミニスカートで歌っていたのも記憶にない。歌謡曲より、グループサウンズの時代だったのかな。
こまどり姉妹が歌っているのは、よく見た。着物姿でね。でも、一時のような気がする。あとは、懐かしのなんとかに登場するのを、ちょっと見たぐらい。ヒット曲を挙げてみろ、といわれても、出てこない。映画は彼女たちの曲でつづられていくのだけれど、知らない曲が多い。そうそう。こんな曲があった、というのもあるけど、そんな多くない。こまどり姉妹の名は大きいけれど、実績はそれ程でもないのかも知れない。活躍時期が短かったからなんだろう。
あとは転落の一途。姉が未婚の母になったり、バーのママをしたり、生きていくため、なんでもやった時代もあったようだ。大変だったのだね、としかいいようがない。それに、こういう転落の部分はあまり具体的に語られないし、スカッとするような話もない。なので、後半も半ばを過ぎると、ちょっと話に高揚感がなくなる。まあ、北海道から出てきてのし上がっていく部分と比べては酷かも知れないけど。
71分という短い中に、エッセンスを詰め込んだ感じ。世相も織り交ぜ、興味深く見られた。でも、ちょっと深みが足りない気もする。のし上がっていく過程や事件も、もうちょい突っ込んで語ってもらいたかった気がする。たとえば、姉の子はいまどうしているのだろうか、なんてことも気になってしまう。まあ、こまどり姉妹が了承する話が主体になるのは分かるけどね。
しゃべるのは、妹の方。姉は言葉が少ない。口べたなのだろうか?
席を立って後方の出口へ向かうと戸口から声がする。「ありがとうございました。ありがとうございました」。見ると、なんとそこに、さっきまで画面にいた こまどり姉妹 が並んでいるではないか。観客に挨拶、握手をしている。うわっ。気になって、呼ばれてもいないのにやってきてるのかな? 2人とも小さくて150cmもないくらい。映画と同じニットの帽子をかぶり、生地を継いだようなカラフルな柄の服をまとい、両手で一人ひとりとしっかり挨拶している。2、3人待てば握手できたけど、列を外れて後列からロビーに出て、握手する2人をしばらく眺めていた。芸人魂というのかな。サービス精神は並ではないね。敬服。
携帯彼氏11/10テアトルダイヤ・スクリーン2監督/船曳真珠脚本/柴田一成
男子顔のアパターをDLし、会話をするという携帯ゲーム。こまめに相手し、気に入られないとゲージが下がりゲームオーバーというもの。"ラブプラス"の携帯版? 配信しているのは「あい・すくりーむ」というところ。で、そのゲームでゲージが0か100になったら死ぬ、という噂が流れ、主人公の周囲でどんどん人が死んでいくという物語。設定は「着信アリ」「リング」なんかと似たような話で新鮮味がない。が、話の展開は、かなりテンポが悪いのだけれど、骨格はちゃんとしている。とくに後半、アパターを女刑事やバイト先の上司に転送し、いずれもが死んでしまったり、火災事故で死んでしまった学校の先輩が、じつは「あい・すくりーむ」のサーバのメンテナンスをやっていた、だとか、前半の伏線がいろいろと効いてくる構成になっている。ただし、大きな問題は、とてつもなくテンポが悪いこと。シナリオは饒舌=いらないセリフがてんこもり。不要なカットもたくさん。このあたり、監督や編集が、映画は省略であるということをまるで分かっていない。70分ぐらいで、ちょうどよくまとまるのではないのかな。さらに、音楽が少なくて、雰囲気がぜんぜんだされていない。ちょっと気の利いた監督が演出すれば、結構、クールな映画ができただろうな、と思う。もったいない。
クライマックス。主人公が死んだ先輩に導かれ、悪いアパターをサーバから消去するのだが、完全には消去できず、レイプ事件の女子中学生の霊が登場するのだけれど、この件がよくわからず。なぜ完全に消去できなかったのか? 女子中学生の霊は、何をしたのか?(サーバの全データの消去?) 説明が足りないと思う。
主人公を演ずる川島海荷は、可愛いことは可愛いけど、どこにでもいそうなレベル。他には小木茂光ぐらいしか知った顔は出なかった。
大洗にも星はふるなり11/13シネセゾン渋谷監督/福田雄一脚本/福田雄一
ひさしぶりに、ひどくつまらない=退屈な映画を観てしまった。開始10分で映画の構造が分かった。しかし、一幕物の場合、舞台用の脚本をそのままもってきても通用しない。なのに、この映画は舞台用のような、くどくてまどるっこしいセリフが延々とつづく。先が読めてしまう展開、先が読めているのに念押しするようなセリフ、数呼吸遅れたリアクション、状況を説明するセリフ・・・。これじゃ、ひとつも笑えない。実際、笑えるシーンはひとつもなかった。もっと省略が効いてテンポのよい展開なら、ちょっとは笑えたかも知れない。でも、そうはなっていなかった。つまらないだけでなく、耐え難い苦痛さえ感じた。この状況を脱するには、眠るしかない。30分ぐらいして、ふっ、と入眠し、目が覚めたのち、また眠ってしまった。さらに、誰が一堂をクリスマスイブの海の家に呼んだのか、を告白する直前の部分で3度目の居眠りをした。3度も寝るなんて、いかにつまらなかったか、の証だろう。みんな、セリフを大声で派手なアクションで話す。演劇的だなあ。舞台ならいいんだよ、それでも。でも、映画じゃ通用しない。それが分かっていない。
「キサラギ」あたりにインスパイアされたのだろう。海の家で働いた面々が、クリスマスイブに再集合。一緒に働いていた女の子から「来て、待ってるわ」と手紙で呼び出された、という設定。女の子が好きなのは誰か? 誰が女の子に告白する権利があるか? なんていう話題で引っぱっていくというもの。弁護士1人が加わって狂言まわしとなるが、それ以外は女っ気なし。女性が登場するのは、回想シーンと、ラストシーンだけという、寂しさ。設定が単純すぎ、暴かれる(?)事実がつまらないものばかりなので、驚きはなし。誰がここに呼び寄せたか、のオチも、予想される範囲で、意外性はない。若手中心の出演者の演技も、舞台のような大仰でクサイ演技ばかりで、ちっともつたわってこない。ああ、かったるい。
ガマの油11/16ギンレイホール監督/役所広司脚本/うらら
原案は役所広司と中田秀子で、脚本が、うらら、だと。誰かの変名か?
ううむ。変な映画だ。何を言おうとしているのか、首をひねってしまう。共感できる人物もでてこない。笑えるところも少ない。話も、だからどうした、レベル。造った人には"思い"があるのかも知れないが、観客にはほとんどつたわってこない、というような映画だね。
終わってから考えると、これは、息子を失った父親と、その息子の恋人との、携帯電話を介した嘘(父親からすると)または勘違い(恋人からすると)の物語なのだね。それにしては、その部分が少ない。むしろ、父親と、息子の友人の少年院帰りとの交流とも読める。他にもいくつか切り口はあって、如何様にも読めるような構造になっている。だから、全体を通すと手がかりがあやふやな、イメージが拡散したような映画に思えるのかも知れない。
だからといって、含蓄があるわけでもない。考えさせる部分があるわけでもない。どちらかというと、散漫。ただし、ひとつだけ貫かれているものがあって、これは"御先祖様を大切に"なのだよ。役所広司は、仏壇マニアか? ひょっとして、宗教に凝っているのか? と思わせる。その意味ではちょっと薄気味が悪い。だから、変な映画、でもある。
父親(役所広司)は、株の個人トレーダー。田園調布の豪邸に住み、毎日ネット売買。妻(小林聡美)は、登場時間が多いのに、存在している、というようなレベルでしか描かれない。息子・拓也(瑛太)は、バイト生活。年齢職業は分からない。幼稚園の同級生・秋葉サブローが少年院から出所するので、迎えに行く。そこで交通事故。しばらく意識不明の後、死んでしまう。拓也には少女の友だち光(恋人?)がいる。高校生らしい。光にはお婆ちゃん(八千草薫)がいる。父親は、少年の頃に見たガマの油売りの夫婦(益岡徹・小林聡美)に「仏壇をきれいにしろ。御先祖様には"ありがとう"と言え」と言われたことが忘れられない。・・・というのが、基本的な構造。
父親が現在の妻を娶ったのは、ガマの油売りの妻の面影を慕ってなのか? と、思わせる。父親は、早くに両親を亡くして、祖父と暮らしていた。一方、息子の恋人の光も、両親がいなくて祖母と暮らしているみたい。とはいっても、祖母と一つ屋根の下ではなく、各々1人暮らしをしているみたいに見える。これが、ちょっとしたアナロジー。ガマの油売りは、回想場面にもでてくるが、現実の場面にも登場する。なんとはなしに鈴木清順の世界のような雰囲気だけど、表現レベルはとても及ばず、ちゃちい。
というような塩梅だが、人物設定がかなりアバウト。父親の過去、人生は手がかりなし。いかに大金を得たかも説明されない。たんなる変なオヤジ、でしかない。妻は、添え物のようにいるだけの存在。息子・拓也と光の関係も、よくわからない。拓也とサブローのつながりも、よく分からない。なぜサブローを引き取ろうとしたのかも分からない。光の家庭環境もよく分からない。このように、人物が書き割りのように薄っぺらで、因果関係がほとんど描かれない。だから、リアリティもなく感情移入できない、というわけだ。やっぱり、ファンタジーといえど、人物にはそれなりの履歴がにじみ出ないとね。
息子・拓也は早々に事故死してしまう。本筋は、それ以後の話だろう。ということは、息子は小道具並の存在感しかないというわけだ。それにしてはサブローとの関係などもろもろ描かれすぎのような気もするなんか中途半端だね。息子が意識不明なのに、父親も母親も淡々としていて、泣き騒ぎ立てないのが不自然。死んでも淡々としている。それには何らかの理由があるのだろうか? 登場する人物は、あまりにも感情がなさ過ぎるような気がした。いっぽうで光は、拓也の父親からの電話を、拓也からだと思い込む。そんなことはあり得ないだろう。ま、あり得ないことを描いているのだよ、といわれれば、ああ、そうですか、と返すしかないけれど、いたって不自然。
そう。この映画は不自然だらけ。その不自然さがどこかで溶け出して、別の道が切り開けるのかと思いきや、異次元は"ガマの油"と見せ物小屋だけ。なんでガマの油なのだ? 理由がちっともわからない。ガマの油売りが、少年の心を癒してくれた、とでもいうのかい? 最後の方に登場する見せ物小屋のオールスター達も、とってつけたような塩梅で、ちっともエキセントリックではない。
というわけで、思いが先走りすぎて、表現がぜーんぜんついて行っていない典型的な例だと思うがね。
ジャック・メスリーヌ フランスで社会の敵(パブリック・エネミー)No.1と呼ばれた男 Part 1 ノワール編11/19新宿武蔵野館3監督/ジャン=フランソワ・リシェ脚本/アブデル・ラウフ・ダブリ、ジャン=フランソワ・リシェ
原題は"L'instinct de mort"。パート1(114分)、2(132分)合わせて4時間という長尺映画。しかし、この映画にダイナミズムはない。ただひたすら、エピソードが羅列されるだけ。しかも、伏線というものが、ひとっかけらもない。主人公を除けば、最後まで登場する人物はいない。相棒も恋人も、登場しては消えていく。その後の彼、彼女というものがほとんど一切出てこない。すべて切り捨て。なんか、いまひとつ乗れないところがある。
さて、パート2に比べて変化が多く、メスリーヌがいかに悪の道に堕ちていったか、を語るパート1。まだ、こっちの方が楽しめた。それと、映画のスタイルが読めていなかったので、エピソードをとっちらかしているけれど、パート2で収集するのだろうな、という期待もあったからだと思う。たとえば、メスリーヌの親分であるジェラール・ドパルデューと旧友が殺されるシーンが後半にあるのだが、そのうち暗殺犯が判明し、メスリーヌが復讐するのかな? とか思ったりしたのだが、2人が誰になぜ殺されたかの説明は一切なし、とあとで判明する。なんなんだ、と思うよね。
スペインで出会った娘と結婚。子供も順調にできて、でも、やっぱ堅気にはなれないメスリーヌ。結局妻は子供をおいて帰ってしまうのだが、以後、妻は一切登場しない。
さらに。モントリオールで出会った相棒と、サングラスの恋人と組んであれやこれや。逮捕されて、脱獄し、さらに銀行強盗・・・。というところでパート1は終わるのだけれど、最後に字幕が現れる。いわく、相棒は数年後に射殺され、脱獄しなかった恋人は5年後釈放された、と。おいおい。なんとも素っ気ない紹介で終わらせちゃうのかい?
というわけで、話が絡み合うような展開や、伏線が後から効いてくる構成には全然なっていない。しかも、人間の心理を描写するとか、人物に厚みを与えるような描写もない。坂道を転がるような流転の人生のエピソードを無造作につないでいくだけ。奥行きや深みは、これじゃでないよね。
なんか変なの、というシーンもある。旧友と空き巣に入り、逃げようかというところに家人が帰宅。と、2人は刑事のフリをしてまんまと逃げてしまうのだけれど、これはコメディか? と思うような話だ。それと、カナダの移民局から呼び出され「あなたの犯歴では居住は不可。10日以内に帰国しろ」といわれるのだけれど、警察は国境を越えて協力=逮捕しないのか?
中年俳優が青年時代を演じているので、このパート1では主人公や相棒、恋人たちはみな老け顔。これが大きな欠点だな。
ジャック・メスリーヌ フランスで社会の敵(パブリック・エネミー)No.1と呼ばれた男 Part 2 ルージュ編11/19新宿武蔵野館3監督/ジャン=フランソワ・リシェ脚本/アブデル・ラウフ・ダブリ、ジャン=フランソワ・リシェ
原題は"L'ennemi public n°1"。パート1の冒頭とパート2の冒頭は、メスリーヌの将来=最後の姿を分割して見せる仕掛けだ。パート1では、女と2人でクルマに乗っていると、前にトラックが登場。幌が開けられると、そこには銃をもった連中が・・・。ただし、サングラス姿で腹もでっぷりの男がメスリーヌだとは、最初気づかなかった。だって、顔が全然ちがうんだもの。で、パート2の冒頭では、撃たれた男の死体を回収するシーンが挿入される。ん? あれは誰? てな感じだった。で、実は、パート2のラストは、パート1と2の冒頭につづく銃撃シーン、つまり、メスリーヌの最後につづくことになる。パート2の途中から、あれがメスリーヌだと分かるのだけれど、役者の顔が見分けられる人なら、最初から結末が見えてしまう、ということだよなあ。それでいいのかな? しかし、この映画の唯一の仕掛けがこれでは、なんとも大味すぎる。だって、パート2を見ないと、パート1の冒頭の意味が分からないのだからね。
さて、パート2は刑務所に入ったり脱獄したりの連続。しかし、物語の連続性、ダイナミズムがないので、ちょっと飽きてくる。パート1の途中でビスケットをかじったりして、そのせいで眠気も・・・。なので、ジャーナリスト(だっけ?)をボコボコに殴るシーンの辺りで、ふっと気を失ってしまった。
それにしても、この映画は突っ込み所が多い。刑務所で懲役に使うペンチを手に入れるため、木製ペンチを造って入れ替えるって、おいおい、重さも質感も違うのに、誤魔化せるわけがないだろ。
刑務所の庭の、金網2枚向こうは娑婆・・・って、そんな無防備な刑務所があるのか?
メスリーヌの弁護士(ではなく、記者らしい)が、なぜか彼の味方をする。なんと、脱獄用に銃を手渡し、インタビューの世話もする、「これがバレたら私はおしまいよ」なんて言わせる、何をメスリーヌは彼女にしてやったのだ?
金持ち大家を拉致・監禁していた家屋は、どうやって手に入れた? たびたび国外に出ているようだけれど、パースポートはどうしたのだ? 警官のIDもそうだけど、だれかに偽造させた? どういうルートで、金はどうした?
刑務所から出てきても、いつのまにか身近に女をつくってしまうメスリーヌ。どうやって気を惹くのだ? 女も承知でついてくるのか?
逮捕しにきた刑事に「身分証を見せろ」と言い放ち、刑事も、ドアのすき間から身分証を投げ込むって、なんでそんなことする必要があるんだ?
とか、いい加減すぎるような話が満載で、バカバカしくなってしまうのも事実。本来なら、この、エピソードをつなぐ部分にこそ興味深いところがあると思うのだが、映画はそんなことはお構いなしに進んでいく。
それにしても、このメスリーヌという男のやっていることは年を重ねても同じようなことばかり。女→泥棒→投獄→脱獄・・・の繰り返し。なので、どのエピソードがどうつながっていたのか、パート1を見終えたときには、もうこんがらがっている始末。なので、パート2を見たらもう、何が何だか分からなくなってしまうほど。もうちょい起伏=メリハリをつけ、4時間のうねりを見せて欲しかった。
にしても、フランスって、警察官もアホみたいだし、いろんなところがセキュリティ、甘いんだね。
パート1では痩せぎすだったメスリーヌが、パート2ではすっかりデブ=腹がぽっこり、になっているのはどうやったんだろう? そんな簡単に太れるのか?
グリーン・デイズ11/25有楽町朝日ホール監督/ハナ・マフマルバフ脚本/ハナ・マフマルバフ
原題は"Green Days"。第10回東京フィルメックスだ。去年は3回券を買いそこねて行かなかった。今年は3本見る予定。
イラン映画。まず、夜景につぶやき。どこかで話す若い女性。彼女が演出家として劇団員に芝居をつけている。なんていう映像に、YouTubeみたいな荒れた画像が挿入される。倒れ、額から血を流す。「ネダ!」と周囲が呼んでいる。あれ、もしかしてこの映像は、権力側に射殺された聖女として世界中で有名になった、あれか?
演出家の彼女は、精神科のようなところへ行く。冒頭の、話しているシーンはここなのかも。要所にYouTubeの、撃たれた男性やかつがれる男の映像が挟まる。彼女は、大きな競技場に現れる改革派のハタミ(ムサビだったかな?)を待ち受け、その近くに行く。
実は、この辺りで少し眠くなって、ふっ、と少し目をつむった。だってドラマがなく、よくわからんのだもん。
あいかわらず、彼女はつぶやいている。町へ出ると、人々が緑のテープを巻いていたりする。ああ、そういえば。これはイランの大統領選挙がモチーフになっているのか。と、いまさらながらに気づく。保守派の大統領がインチキして、その抗議運動でネダが射殺されたんだっけ・・・。とあやふやな記憶が甦る。字幕にハタミ、ムサビとでてきても、誰がどっちで何派かまでは覚えていないしね。
緑色は、ムサビを応援する人々か。民衆の多くはいまだにハタミ支持者が多いみたい。でも、大統領選に立候補したのはムサビ。彼女は街頭インタビューを始める。「アフマディネジャドよりはましかも」という声が多く、ちらりと映るアフマディネジャドの顔を見て、「ああ、あいつ、圧制者の方だったな」と記憶がうっすら甦ったりする。
という具合で、選挙前のあれこれが暗転すると、字幕や映像、スチルで選挙後の状況が説明される。ムサビが勝利したが、結局、アフマディネジャドが大統領の椅子に座った・・・と。
ううむ。イラン情勢を飲み込んでいる人なら最初の方から分かるだろうけど、それほど関心のない観客には、とても分かりづらい。いっそのこと冒頭で「イランでは大統領選が行われようとしていた。保守派が誰某、改革派が誰某。改革派支持者は緑色を纏った。しかし、現大統領で保守派の某は、さまざまな工作活動を行なっていた。というような説明があったほうがいい。それでないと、大多数は分からないと思う。
映画のドラマ風な場面はことごとくつまらない。何を言おうとしているのか、映画的な表現もほとんどなく、タクシーに乗っている女性や窓外の風景など、なくたってなくたっていいような場面ばかり。こいつは映画をわかってないな。
なんて思いつつチラシを見ていて、ハナ・マフマルバフ監督の名前にひっかかった。あれ? この人、姉妹で監督やってた人じゃないのか? 妹の方は10代半ばで注目されて、さあ。という具合に、断片的記憶で補いながら見たわけだが、映画がこうもつまらないと、メッセージはつたわらない。
それにしても、かの競技場のシーンは本物で、やってきたハタミだかムサビは本物なんだろ? ってことは、そっちの改革派に許可された撮影ということだ。いいわるいは別として、これってプロパガンダじゃないか。もっとも、途中でインタビューされる人の中にアフマディネジャド支持者がいたけどね。でも、なぜ指示するのかをしつこく聞かれているだけだったけど。
というわけで、圧制者の存在する地方では、こういう稚拙な映画もまだまだ堂々と設立する、ということだな。
でも、イラン人の中にも「自由と民主主義を」と訴える人が少なくないことに驚いた。そう発言することもできなくなっているとしたら、かなり問題ではある。問題ではあるが、それは映画のデキとはまた関係のない話ではある。
◆観客席は閑散。100人ぐらいじゃないのかな。来日予定・登壇のキャンセルがずらずら書かれていた。おいおい、だな。
天国の七分間11/26有楽町朝日ホール監督/オムリ・ギヴォン脚本/オムリ・ギヴォン
イスラエル映画。英文題名は"Seven Minutes in Heaven"。上映前に主演女優のReymond Amsalemが登壇し、挨拶。
呼吸器につながれている男。介護する女。女の背中にケロイド。病院から電話で、危篤・・・。葬儀。リーフレットに「自爆テロで負傷」とあったので、設定はすんなり受け入れられた。女の名はガリア。彼女のところに、ネックレスが郵送される。それはテロにあった時につけていたもの。「誰が?」。しかし、街を歩けばテロの記憶が甦り、周囲の人物が怖く見える。路地で不安に襲われ、吐くガリア。そこに男が現れ、ガリアに水を差し出す。そして、なくしたバッグも見つけてくれた。あのネックレスも見つかった。財布がないので、男から金を借りる。
男はの名はボアズ。金を返してから後もガリアにまとわりつき、ドライブに連れていってくれたりする・・・。この時点で、ネックレスを送ってきたのはボアズ? と追い至ってしまうのだけれど、テロ被害者と男性の恋物語と、謎解きが絡み合って面白くなりそうな雰囲気があった。ただし、テンポはスロー。落ち着いた感じで、ハリウッド的な演出、余計な音楽もない。もうちょい色気をだしてもいいのになあ、と思いながら見ていた。
ボアズは、ガリアがテロ犠牲者と知っても近づいてくる。一方、ガリアはテロ時に救出してくれたスタッフを人づてに探し始める。ボアズに肉体を許すガリア。そして、やっぱり、ネックレスを送ってきたのはボアズだと分かる。「あなた、知っていて近づいたの?」と、ボアズに距離を置くガリア。・・・この時点で、この映画はダメだと思った。最初はよかったのに、つまらない展開になってしまった。事実、その後は事故の場面を追体験するような映像が多く、それも、観念的に淡々と映されるだけなので、ちょっと退屈。その退屈がちょっと長くて、やれやれと思っていたら、ラスト直前に落とし穴に落とされたような気分になった。
ラスト近く、いきなり時制の違う映像がつながっていて、あれ? まず、鏡に映るガリアがいる。ウェディングドレス姿だ。つぎに、ガリアがバスを降りると、ボアズに気づく。「式に出ないなら家に来いとオレンに招待された」という。ガリアはボアズを見て「どこかで会ったわよね」という。「ドラキュラ」というと、ボアズは「仮装パーティで」と応える。「ああ、あのときの」。2人が家に入ると、オレンがぴんぴんしている。オレンとボアズは旧友同士らしい。ガリアは左手に指の出る手袋をしているので、火傷はしているみたい。でも、オレンは事故にあったような気配はちっともない。そこで、暗転。クレジットが流れる。え? なんだなんだ。オレンは死んだはずじゃなかったのか? いやまて、いままでの話はすべて幻想だったのか? ガリアのトラウマがつくる妄想の出来事だったのか? そうとしか考えられないよなあ。ううむ。終盤、ちょっとだらけていた雰囲気が、ここでギュッとしまった感じ。
上映終了後、ロビー横の部屋でReymond Amsalemによる質疑応答があるという。ラストについてのヒントが得られるかも、と覗いてみた。
●質疑応答。まず司会が質問/完成まで7年かかった。監督は最初、恋人が交通事故で死ぬ、というホラー映画を企画した。その後、バスを爆破するというテロ事件が発生。監督がバスを見に行ったら、まるで墓石のようだった。そこから、この企画に変更。当初の企画と一体化して進んでいった。
●日本人の質問で「ラストはそうありたいという願いか?」/現実なのは、ラストの2のシーンだけ。それまでのすべての場面は、ガリアが呼吸を停止していた7分間の物語。彼女は、大恋愛をしたがっいてた。そこで、ボアズに出会い、恋をした。しかし、生死をさまよう中で「生きる」か「死ぬ」かを選ぶ。「生きる」を選べば未来の生活が待っている。結局、彼女は生きることを選んだ。それであのラストがある。
●外人が質問「イスラエルではホラーはないと聞いたが」/ない。そのうち監督が撮るでしょう。
●日本人が質問「テロへの憎しみを意図的に避けているようだが」/いい質問だ。犠牲者に実際にインタビューした。みな、憎しみや復讐の気持ちは語らなかった。日々、生きていくことで精一杯のようだった。それがあったので、憎しみの表現は避けた。
●外人が質問「私は歴史的にテロの経験のない英国人だが、苦労したところは?」/返事の内容は忘れた。記憶にあるのは、質問への失笑だ。だって、英国はIRBのテロが盛んな国じゃないか。
●誰への回答か忘れたが/かゆみの表現は苦労した。実際に98%火傷した人に聞いたが、火傷のキズはとても痛いらしい。
<追記>で、質疑応答を聞いて、映画の構造が理解できた。なるほど、そういうことなのね。最後の2シーンが現実で、それ以前は幻想、というのはほぼ当たっていた。もっとも、ガリアが心肺停止だった7分間の出来事、とは思い至らなかったけど。けど、題名を見て、あ、そうだよな、という思いになった。なーんだ。
しかし、だ。説明をきいてやっと分かる、ではマズイよなあ。幻想と現実の間に、たとえば、テロ現場でガリアがハッと目を冷ますシーンを入れるとか、もっと象徴的に描くべきではなかったのかな。それでないと、映画の大半が、天国にいた7分間のこと、というのは分かりづらいと思うけどなあ。あったっけ? そういうシーンは?
さらに、幻覚の部分に、それが幻覚であるという細工をほどこすべきだと思う。たとえば、テレビ画面が調子悪いとノイズで歪むみたいにして、現実ではないよ、という示唆を加えてもよかった。思い返せば、ガリアが横断歩道で周囲の人物に恐怖を感じるシーンがあり、一瞬後に、周囲の人々が消えてしまっていた。こういうのが示唆のひとつだったのかも知れないが、でも、それでは、現実のガリアがトラウマにとらわれている、という具合に解釈されてしまうはず。実際、そう思ったしね。ほかにも、かつての恋人が現れたりもする。これだって、意識不明の幻覚というより、トラウマから生じた幻覚に見えてしまう。
ボアズがドラキュラの扮装をしていた意味が、やっとわかった。意識不明の中、ボアズを選択するか、それとも「生きる」を選択するか、そのハザマに揺れるガリア。つまり、ボアズを選択するということは、そのまま幻覚の中に生きること=死ぬことを意味する。一方、ボアズを拒否することは「生きる」を選択するということだ。ドラキュラは、「死」の誘惑の象徴として登場したのだな。
他に思ったこと。ううむ。冒頭の、恋人の看病のシーンは、必要だったのかな? 「シックス・センス」みたいに、ガリアが乗ったバスが爆発する、から始まってもよかったのかも。それで、フツーの生活に戻ったガリアがいて、恋人オレンは死んでしまったことにする。ただし、現実にはオレンはバスに乗っていない。けれど、ガリアの意識の中では、オレンを抹殺したがっていた。なぜなら、ガリアはボアズに惹かれ始めていたから・・・。なので、意識不明の中、頭の中でああしたドラマを創りだしていた。しかし、結局はボアズを選ばず、オレンを選択した。いささか退屈な結婚生活が待っているけれど、それでも、彼女は「生きる」を選択したのだ、というようなことに、ね。◆そうそう。観客席に、監督の崔洋一がいた。観客は昨日に比べて多くて、200人ぐらいいたかも。
ペルシャ猫を誰も知らない11/27有楽町朝日ホール監督/バフマン・ゴバディ脚本/バフマン・ゴバディ、Hossein Mortezaeiyan、Roxana Saberi
英文タイトル"No One Knows About Persian Cats"、原題"/Kasi Az Gorbehayeh Irani Khabar Nadareh"。イラン映画。1人(海賊DVD屋か女性かどっちか)を除き、すべてプロの俳優ではないらしい。最初に監督からのメッセージが読み上げられた。なんと、この映画のおかげでイランに戻ることができない状態なんだと。ふーん。
ポップスやロックが禁止のイラン。海外に逃げるため偽パスポート、偽ビザを求める人が少なくないらしい。ある娘と、ある青年。ともに音楽がやりたくて、海賊版DVDを扱う男(映画監督みたいが、故買屋のようでもある)に相談する。男は2人を偽造屋へとつれていく。男は2人の音楽的才能を評価し、国を出る前にコンサートを開け、と勧める。2人は、男に紹介されたりして、ポップスやロック、ラップに一所懸命のミュージシャンを訪ね歩き、参加を申し込む。とくに、コンサートを公に認めさせるために、女性コーラス3人が必要らしい。しかし、コンサート直前、偽造屋が警察に逮捕される。男は責任感からコンサート当日まで行方をくらましていたが、青年に発見されてしまう。その場所でもロック音楽がかかっていたが、突然の警察の手入れ。窓から飛び降りた青年は、大けがをして病院に担ぎ込まれる・・・END、という物語。
大きな流れはある。しかし、どちらかというとエピソードをつなげた感じで、大きなダイナミズムはない。その代わり、小ネタ、のような、笑える部分がたくさんあったりする。たとえば、音を出すと近所の子供に告げ口される、とか。うるさいやつが外出してから練習だ、とか。オヤジが経営している農場で演奏していて、牛が乳をださなくなった、とか。このあたり、「少年メリケンサック」と似たところもあったりして、とても微笑ましい。
青年と娘は、故買屋に教えられて、いろんなロッカーを訪ね歩く。でも、何のためなのか、よくわからない。多分、この辺りは勢いで見ろ、ということなのかも知れない。確かに、映像にスピード感はある。でも、もうちょい、青年、娘、故買屋の3人の思い、願い、なんていうものをはっきり打ち出してもよかったような気がする。
とくに故買屋。警察にも通じているような事をいっていたけれど、それ程でもないようだが、彼の出自がもう少し描き込まれていたら、話に厚みが出たかもね。
スラックスや化粧、音楽、その他、イスラム教に反するもの、行為が禁止されているイラン。西洋音楽も禁止されているはずなのに、先にも書いたように案外みんなコソコソと挑戦していたりする。警察が出動しても、すぐに釈放してくれる程度のものなのかな。どの程度の刑になるのか、判断がつかない。故買屋は、違法DVDかなんかで捕まって、罰金とむち打ちだ、といわれていたのを懇願し、軽くしてもらっていたりする。あんがいテキトーなのね。
そんな、かなりいい加減な取り締まりなので、ラスト、青年がロックパーティに潜入し、酔っぱらった故買屋を介抱しようとしていて、警察の手入れ。それで窓から飛び降りて大けが、という終わり方が、なんとも気が重い。ちょっと前まで、軽いノリで突っ走っていたのが(日本でいうと、跳ねっ返りのチンピラが警察と追っかけっこするみたいな雰囲気)のにね。
いやはや。今回のフィルメックスではイラン映画2本で、少しイラン情勢に詳しくなった? かも。そうそう。この映画、審査員特別賞を受賞したようだ。

 
 

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