2009年12月

曲がれ!スプーン12/1MOVIX亀有シアター2監督/本広克行脚本/上田誠
この世界には、本物の、でもそんなにパワフルな超能力者ではない連中が、ひっそりと生きている、という設定のコメディだ。それはいい。けど、「あすなろサイキック」というテレビ番組のAD・長澤まさみが"本物のエスパー探し"にでかけ、香川・善通寺で、そのエスパー達に出会うという話自体はちっとも面白くない。前半はたるく、中盤に「サマータイムマシン・ブルース」のときのようなノリが少しうかがえるのだけれど、後半はまた失速。最後は何だかよく分からない状態のまま終熄してしまう。これはもう、シナリオがよくないとしかいいようがない。話が練られていないのだと思う。
長澤まさみのキャラは、「アメリ」だよな。だったら、成長するまでのエピソードも、あんな書き割り表現ではなく、ちゃんと描くべきだ。そうやって彼女の、超常現象へのあこがれ、を印象づけないと、後半の話においしくからんでこない。長澤が全国行脚するシーンも書き割りで、お前手抜きか、と腹が立っちまった。CGもちゃちだし。
喫茶店でエスパーが集まってやりとりする部分は、面白い。テレポートといいつつ、3秒間時間を止めて走る、とか。電気関係をコントロールできるが、家電はむずかしい。他も、あまり役に立ちそうもない力なのがいい。ただし、太めの青年の念力だけが立派すぎるのが気にかかる。火をおこせるけどライター程度、ぐらいにして欲しかった。
長澤まさみの名刺入れにクモが! で、いかに自分たちがエスパーであることを知られずにクモをとりだすか? で、悩むエスパー達。ううむ。事実を細男に知らせ、細男が予知能力または透視能力がある、ということにしてもよかったんじゃないのかな。そうすれば細男はテレビにでられるじゃないか。だめかな?
で、長澤は、「ここには誰も超能力者はいない」とあきらめて帰ろうとするのだが、それを連中は哀れに思い、超能力をつかってひと夜の異変を見せてやることにする。この部分にかなりのムリがある。だって、あんなに「他人に知られたくない。マスコミにはとくに」と思っている連中が、どうして心変わり? と思うよなあ。ここを納得させるためにも、長澤をちゃんとエキセントリックな娘、として描いておく必要があったと思う。いまのままじゃ、ただの軽い女でしかないよ。そもそも超能力者紹介テレビ番組、との組み合わせは、ステレオタイプ。もうちょい設定を考えた方がよかったと思う。
サンタに扮した細男を 空中高く飛ばせる…。でも、人間に見えなかった。ゴミ袋みたいに見えたなあ。引きの絵ばかりじゃなくて、アップも入れればよかったのだ。さらに、長澤が「この人たち、超能力者?」と感づく部分がないので、彼女が納得して(連中がエスパーだと理解して)帰る、というくだりにいまひとつ説得力がない。
それから、マスターのピンチを救ったのは、細男だったって話のようだけど、セリフだけなのでつまらない。そもそも、どうやってカバンに入り、移動していったのだ? っていうか、無理矢理のこじつけすぎ。でもってラスト近辺のUFOがやってきた、っていう部分は、余計。だって、東京で呼んで、善通寺市に現れたって、ねえ。変だろ。
あとから調べたら、脚本の上田誠は「サマータイムマシン・ブルース 」の原作/脚本家でもあるのだね。なーるほど。それで雰囲気が似ているのか。舞台も同じ善通寺で、同じロケ地もあったはず。共通してでてくる役者も多かった。しかし、レベルはあっちの方がはるかに上だな。
イングロリアス・バスターズ12/2上野東急監督/クエンティン・タランティーノ脚本/クエンティン・タランティーノ
原題も"Inglourious Basterds"。期待して見に行ったのだけれど、なるほどね半分、いまひとつ感半分。ラストも爽快感がなく、はじけたり抜けたりする部分はなかった。
相変わらずのタランティーノ節。音楽も(最初の方は、まるで西部劇)、章立ても、本筋に関係ないムダがやたら多いのも、昔風のクレジットも、なるほどタランティーノだね。でも、主要人物がどんどん死んでいくのは、ちょっと哀しい。せっかく華々しく登場しながら、たいして活躍もせず呆気なく死んじゃったりする。ううむ。不完全燃焼。
話は単純。込み入ったりしていなくて、誰にでも分かりやすい。でも、主要キャラは頭に入っても、脇役レベルになると、あれ? 誰だっけ? というのが多くて、ちょっと戸惑うところがある。たとえば、最後にブラピと一緒にトラックに乗せられた仲間は、あれは、どこで何をやってた奴だったのかな? そして、あいつは何をしてどこで捕まったんだ?
舞台はドイツ占領下のパリ。かつて家族を殺され、いまは映画館主のショシャナ(メラニー・ロラン)に、ドイツ兵卒がいいよってくる。彼は英雄で、映画に主演までしている。彼に連れられ、ドイツ将校と会食…。そこに、家族を殺したユダヤ・ハンターが現れる! で、彼女の映画館でプレミア上映会をする運びとなる。そこには、ナチ幹部も出席することに…。
という話とは別に、ブラッド・ピットが隊長の、ドイツ兵狩りの部隊がいた。彼らはドイツ兵の頭皮を剥ぎ、頭をバットで殴ったりと悪名高き部隊として知られていた。彼らも、上映会にあつまるナチ幹部を狙っていた。
という具合に、ナチへの恨みを晴らそうと、話は上映会場へ向かっていく。途中、ドイツ女優ながら連合軍のスパイ(ダイアン・クルーガー)がからんだりするけれど、たいして中味はない。むしろ、長々としたエピソードで見せようという魂胆だ。あの、地下の居酒屋でのあっという間の撃ち合い。当然予想はしていたけれど、一瞬なので、おおおお、と思っているうちに終わってしまった。可愛いウェイトレスも、たくましい体つきのドイツ女性も、元ドイツ兵卒ながら親衛隊幹部殺しも、みんな死んでしまった。すべては、あの銃撃戦を見せるためだけの、長い長い枕だったんだよなあ。
とまあ、全編そんな具合で、もったいぶっている割りに、中味はない。でもま、それがタランティーノだから、それを楽しめばいいんだろうけど。でも、ちょっと今回の話は救いようがない部分が多くて、哀しい。せめて、ショシャナだけは生き残って欲しかったなあ。そういえば彼女=メラニー・ロランは、「PARIS」で美しい女子大生を演じていたけど、この映画でもなかなか魅力的。彼氏が黒人男性というのも、クール。
それにしても、おいおいと突っ込みを入れたくなるのが、ユダヤ人ハンターのランダ大佐。さんざんユダヤ人狩りをしていたくせに、連合軍が上陸したとみるや、さっさと上官を売り国を売り、アメリカに亡命したいって、おまえなあ。映画も、そんな終わり方でいいのか? 尽くした人はどんどん死んでいき、極悪人は額に鍵十字の烙印だけだなんて…。ううむ。納得いかないなあ。
それに、随所で残酷シーン、リアルな場面続出なのに、最後の上映会へブラピ以下3人が乗り込む部分なんて、完全にもうコメディ。そのコメディと平行してダイアン・クルーガーが! そして、メラニー・ロランが! という展開なのだ。なんか、テイストがこんがらがって、変な気分。
それで、ヒトラーもゲッペルスもあそこで死んでしまって、では、第二次大戦はどうやって終焉したんだ? セルズニック、なんて名前がでてきていたけど、1940年代のハリウッド、ドイツ映画なんかに詳しいと、もっと面白く見られたかもなあ。ポスターとかいろいろ貼ってあって、でも、よく分からなかったよ。
人生に乾杯!12/3ギンレイホール監督/ガーボル・ロホニ脚本/バラージュ・ロヴァシュ、ジョルト・ポジュガイ
ハンガリー映画。原題は"Konyec - Az utols? csekk a poh?rban"。評判がいいようだが、ピンとこなかった。手垢の付いたモチーフを垢抜けない演出で仕上げている感じ。ひねりがなさすぎるのだ。今年「その土曜日、7時58分」という映画があったが、まあ、あれは時制をいじりすぎている気もしないではないけれど、「いったい何が?」という興味でかなり引っぱってくれる。ところがこの映画、引っぱりは最初の30分ぐらいしかない。あとはひたすら逃避行なんだけど、このロードムービーの部分がありきたりで、変化に乏しい。1時間を過ぎたあたりから、ちょっと退屈になってしまった。
81歳の旦那と70歳の奥さん。年金だけじゃ暮らせない、と亭主が突然、郵便局に強盗に入る。テレビに流れる監視カメラの映像を見て、奥さん、そんなにビックリしないのが凄い。クルマのナンバーが割れて(警察のクルマきちがいが、旧ソ連時代のクルマ(チャイカ)だから、とナンバーを暗記していた!)、警察は奥さんのところへ。亭主から「会いたい」の電話があって、警官を引き連れて会いに行くのだけれど、強気の奥さんは亭主と一緒に逃げてしまう。チャイカの凄いこと。険しい坂は何のその、パトカーも振り切ってしまう! で、以後、強盗しながらのあてどない旅にでるわけだ。
なにこれ。アメリカン・ニューシネマじゃん。「俺たちに明日はない」そのもの。しかも、ラストは警官がパワーショベルで封鎖する中に突撃して自爆。おお「バニシング・ポイント」そのものじゃないか。近年の映画だと、「テルマ&ルイーズ」だな。なんだ、ハンガリーじゃ、いまごろニューシネマが来ているのか? それも、青年の怒りではなく、老人の怒り爆発か? てなわけで、最後は2人とも自爆死するという悲惨な話なのに、「乾杯!」はないだろう。これじゃ、爺さん婆さんともに「完敗」だよな。
この映画をつまらなくしている原因は、もうひとつある。警察がまったくの無能なのだ。ぜんぜん話の展開にからんでいかない。ジジババ2人の逃避行の添え物として存在しているだけ、みたいなのだ。警察にもドラマは用意されているけれど、つまらない。同棲中の男性刑事と女性刑事。彼の方がストリップバーにいって浮気して、それで現在、別居中、というか、男は警察の拘置所に寝泊まりしてる。その2人が、しかも、彼女の方が上司として事件を追うように命じられる。なんだけど、肝心なところで逃げられてばかり。おいおい。重大事件なのに、この2人に任せっぱなし? しかも、取り逃がしても外さないのか? てな具合だ。ハンガリーの警察は、そうとういい加減のようだ。
ジジババの強盗に、隣近所も最初はマスコミに悪口をいう。でも、老人代表だ、という世論が高まると、応援しだす。こういうところは、どこも同じなのだね。しかし、この夫婦が強盗しなくちゃならないほど、追いつめられていたのか? そこがよく分からない。子供は早世していないようだけれど、社会保障はないのか? クルマとイヤリングは残っていたのだから、まだ、少し持ちこたえたのでは? と思ってしまった。もっとせっぱ詰まった設定にしてもらえると、もっと共感できたかも。
冒頭の、爺さんと婆さんの出会いのエピソード。あのつづきが見たいと思っていたら、最後に、ちょっとだけでてきた。泣かせどころだ。欲をいうと、あの2人のその後の生活を、もうちょっと見たかった。それから、社会主義体制が倒れ、そのときにソ連に与していた連中にはなにがしかの制裁があったんじゃないかと思うが、そういうのはほとんど省かれていた。ひとつだけ、宝石商の男が、むかし、爺さんに不利な証言をした、と暗示されるだけ。ううむ。その辺りも、知りたい気がした。
2人がホテルに宿泊していると連絡があり、刑事が一人で部屋に侵入する。一人で入る、なんていうことは、まずないよな。ところが、爺さんにホテルの浴室へ押し込められ、鍵をかけられてしまう。トンマな刑事だ。でも、浴室の鍵って、外側から閉まるのか? それはないんじゃないのかなあ。
女性刑事が、かなりきつい顔つきで、色っぽさに乏しいのも、マイナスだね。
熊のぬいぐるみは、なんだ? と思っていたけれど、あれは盗んだ金が入っていたのね。でも、自爆前にカバンに移し、一緒に燃えちまったのだろ? で、カバンに移す必要性って、あったのか? それとも、あれは何か別の意味があったのか?(2ちゃんによれば、熊を身代わりに激突させ、2人は海を見に逃げた、という解釈もあるようだ)
サンシャイン・クリーニング12/3ギンレイホール監督/クリスティン・ジェフズ脚本/ミーガン・ホリー
原題も"Sunshine Cleaning"。アメリカの、一般庶民の中の低所得者層が描かれているという意味で興味深かった。ローズは高校時代はチアリーディングの花形。きっとプロムではアメフトの人気者マックとキング&クイーンに選出されたんだろう。でも、たぶん大学には行かず、マックとも別れ、ロクな仕事にも就かずふらふらしていたのかも。で、誰かの子供を身ごもって、未婚の母に・・・。
そもそも、母親がウェイトレスだ。学も才覚もなかった、ってことなのかも。父親も、まともに仕事はしてこなかった感じだな。いまだに妙な商売に入れ込んでは損ばかりしている。母親が自殺した理由は描かれていないけれど、父親が原因なのかもしれない。
ローズは、清掃会社の派遣社員。妹もファーストフードで働いたりの職業転々。なんか、典型的なダメ一家ってことだよな。なのに、ローズはかつての恋人マックとつきあってる。マックはローズでなく、別の同級生を妻にしたっていうのに。ってことは、マック(現在は刑事)は、ローズを妻としては考えられなかった、ってことだろう。やれやれだね。ぼろぼろだな。でも、こういうところがカチッと描かれているから、それぞれの人生、考え方が透けて見えてくる。なかなか脚本がよくできている、ってことだろう。
ローズの息子はオスカー8歳は問題児。最近はいろんなものを舐め、ついに、女性教師の足を舐めた。で、医師に見せるよういわれる。誰の血なのだ? 爺さん(ローズの父親)? こう指摘されても、アメリカ人は自分の息子を叱りつけることをしないのが凄いよね。「あんたは悪くない。こんな学校、こっちから払い下げ」というわけで、私立に行かせようとするが先立つものがない。そんなとき、マックから事件現場清掃の仕事を紹介され、失業中の妹といやいやながら始める、というわけだ。
そういう仕事があるのか、という驚きがある。けど、誰かがやらなくちゃならないんだから、表に出なくてもあるはずだよな、と思う。日本にもね。「おくりびと」にも、葬儀屋が、死後ずいぶん経った1人暮らしの老人の死体を片づけるシーンがあった。しかし、アメリカじゃ死体はフツーのものなのか、わりと大っぴらに活躍しているらしい。処理に使う薬剤や器具を売っている店(ここの元警官で片腕の店長がいい味をだしていた)もある。それに、ローズが高校の同級生の子供の誕生会(?)みたいなのに招待され、のこのこ出かけていって「わたし、事業をはじめたの」と、とくとくと事実を説明する件は驚いた。現場処理の仕事でも、自慢のひとつになるのか。ううむ。エンバーミングが定着している国らしいなあ。
でその誕生会みたいなのと仕事が重なって、ローズは妹を1人で現場に行かせる。がしかし、そこで妹は火事をだしてしまう(依頼人の家、という表現をしていたから、現場清掃は個人が発注することもあるのだね。業者は、警察が教えてくれるのかもね)。ローズは妹をなじる。仕事もこなくなり、軌道に乗りかけていた事業はオシマイ。このあたりの、姉妹の罵りあいは、いかにも貧乏人という感じでリアル。
というわけで、いったんは廃業を決めたローズだけど、エビの販売がうまくいかない父親が手伝うことになって、事業再開。明日に向かって元気よく、というところで終わる。ま、ちょっと都合がよすぎるラストだけどね。ちなみに妹は旅行に出てしまっている。
最後の頃に分かったんだけど、ローズの家はロシア系という設定なのだね、名前からすると。ここにも、なんらかの意味はあるのだろうなあ。わからないけど。
201212/4上野東急2監督/ローランド・エメリッヒ、ハラルド・クローサー脚本/ローランド・エメリッヒ
かつて「MIB 」を見たとき、見せ場のシーンやCG部分のほとんどが予告編にあったものばかりで、それ以外に驚くような映像がなかったことがある。なので、予告編ではなるだけ目をつむるようにしている。とくに、この手のCG使いまくりパニック映画は、そうした方が精神衛生上いいと思っている。なので「2012」の予告編もできる限り見なかった。さっき、Appleのトレーラーサイトで3つある予告編を見てみたのだが、大半の見どころがちゃーんと見えていた。あの、方舟まで登場していた。ストーリー順に並べ替えれば、だいたい説明できるほど見せてしまっている。やっぱ、目をつむっていて正解だったな。CGシーンも、多少は意外性があって見られたからね。
原題も"2012"。話はよくあるパターン。惑星が一列に並んで、ニュートリノがなんたらかんたらして、地球の地殻が溶け出して大陸が移動。おいおい。それって「神々の指紋」でグラハム・ハンコックも紹介していたような説だな。でまあ、アメリカを中心に生き残り策を考える、と。しかし、これがG8中心で進められてる。じゃ、他の国はみんな見殺し?
地球の天井、チベットで秘密裏に現代版ノアの方舟を数隻造り、それで生き残ろうというつもりらしい。しかし、誰を乗せるのか? この辺りのジレンマは「ディープ・インパクト」と同じだ。でも、こちらでは、金持ち優先に乗せる、というルートがある。方舟建設には金がかかるので、世界の長者に出資してもらい、その代わりに乗船チケットを配布したらしい。
しかし、地球が壊滅するっていうのに、ユーロもドルも価値がなくなっちゃうだろ。建設・建造に携わったのは中国らしいが、アメリカは中国人を騙して紙切れを押しつけたのか? なんか、肝心なところがぼやけていて、リアルじゃないね。リアルが足りないといえば、世界中が壊滅しつつあるのに、電気がついたり電話が通じたりと、インフラが機能していたりすることもおかしいよな。と、つっこみどころはたくさんある。
この核となる物語に、ジョン・キューザックの家族が絡む。家族、といっても、分かれた女房とその亭主、実子が2人だけど。こっちの話が、かなりいい加減。というか、ステレオタイプ過ぎ。キューザックは仕事中毒で離婚され、でも、子供たちとは仲がいい。元妻には亭主あり。でも、元妻もキューザックが嫌い、ではない。という5人が迫る危機をくぐり抜け、なんとチベットまで潜入してしまう、のだ。インディ・ジョーンズもかくや? というわけで、荒唐無稽すぎてかなり笑える。とくに、CGがらみの部分は、こりゃコメディ映画か? と思えるほどバカバカしくて笑える。
で、選ばれた人たちは堂々と。キューザック一党は裏口から方舟に潜入し、そのおかげで方舟のドアが閉まらず浸水してしまう(この浸水シーン、画質が見るからにビデオっぽい。なんなんだ? あそこはハンディで撮ったのか?)。しかも、都合よく元妻亭主が死んでしまう(そして、元妻ともよりが戻るというご都合主義)。さらに、歯車にからんだロープを外すのは、まるっきし「ポセイドン・アドベンチャー」。おいおい。
このキューザック一党の裏口侵入は、正当化できるのか? 大多数の迷惑じゃん、この一家。という気持ちも少しあったりする。
方舟に誰を乗せるか。そのジレンマは「ディープ・インパクト」にも描かれていたと思うけど、もっと、その辺を突っ込んで見て欲しい気がする。キューザックは作家のはずだが、知事(?)の運転手もしてるのか? このデブ知事を傲慢金満家の代表として登場させ、最後は奈落の底へ落としてしまう。こういうのも都合よすぎる。でも、他にも金と地位で乗船する連中も入る。彼らが"選ばれ""生き残る"価値があるのか? という問いかけが欲しいよなあ。大統領の娘だって、個人の価値から入って、生き残るに値するか怪しいはずだ。
その大統領の娘にダンディ・ニュートン。「ER」でカーターの妻、になったんだっけ? 最後に。大統領役は、「リーサル・ウェポン」で冴えない老刑事だったダニー・グローヴァー。出世したもんだ。「ディープ・インパクト」ではモーガン・フリーマンが大統領だったけど、いまじゃ白黒混血の大統領が実際にいるのだからね。
ゼロの焦点12/7キネカ大森2監督/犬童一心脚本/犬童一心、中園健司
残念ながら脚色しきれていない。いろいろ網羅したせいか、焦点がボケてしまった。食い足らない、というより、もの足らない。
原作は昔読んだ。すっかり忘れている。それはいい。問題はまず、この話のモチーフおよびテーマが現代に通じるかどうか、だ。昭和30〜40年代なら、戦後闇市赤線パンパンといえば、ピンときた。しかし、戦後は遠く過去のものになってしまった。こんなことをいうと叱られそうだが、パンパンであったことを隠すため人を3人も殺せるのか? という疑問が湧いてきてしまった。昨今の援助交際だのAVビデオだの風俗だのを思うと、そんなことで? と思えてしまう。もちろん、生きるためだったとはいえ、かつては口にも出せない恥だったのかも知れない。でも、現在の空気感の中では、衝撃はかなり弱くなってしまっているといえるような気がする。
130分あまりなのだが、1時間半を過ぎたあたりで真相が解明してしまう。ところが、誰かが合理的に謎解きをする、というのではない。広末分する鵜原禎子の推測のような推理ですべてがすっかり分かってしまう、のである。夫・憲一(西島秀俊)が偽名をつかって女・田沼久子と生活していたことも、すらすら分かってしまう。おいおい。なんなんだ、この映画。はっきりした証拠もなく、どんどん禎子が推理してしまう。合理的な謎解きは放棄かよ。かなり釈然としない展開だね。
で、解明してから思うのは、最初の方にでてきた死体。あれこそ夫・憲一のものではなかったの? という疑問なんだが。違うのか? そもそも顔がくだけていても、右肩に銃創があるのだから、それを調べてもらえばよかったのに、と思ってしまった。
モロ師岡ともう一人の刑事は、ほとんど何もしない。狂言まわしにもなっていない。もう少し存在感はだせなかったの?
憲一の部下の本多(野間口徹)という男、こいつも変な奴だ。憲一のことを調べるのに、得意先に乗り込んで根掘り葉掘り聞いたりする。しかも、得意先の電話を借りて、受付の女・田沼久子(木村多江)や社長夫人・室田佐知子(中谷美紀)の噂話などを禎子につたえるって・・・。クライアントのことをあれこれ調べ、クライアントの電話使って、クライアントから外部に電話するような広告会社社員がどこにいるよ。変だろ。ついには刺殺されるのだけれど、背後から刺され、そのまま壁(?)にピン留めされたみたいになるって・・・。嘘だろ。
その本多の上司の青木(本田博太郎)は、ただ陰気で暗い役。思わせぶりで、なーんにも関係ない役だった。
憲一は、金沢で偽名を使い、田沼久子と暮らしていた・・・。しかも1年以上・・・。会社勤めしながら、そんなことができるのか? 偽名を使って暮らしていたことを、妻禎子は、キャラメルの空き箱(CG合成モロ分かり)をみて理解してしまう! おいおい。
憲一は、「生まれ変わりたい」という思いで、禎子との結婚を決意した、らしい。しかし、そういう思いがぜんぜん伝わってこない。戦争で生き残り、立川では警官としてパンパン狩りをした。でも、その後は広告会社で順風満帆。たまたま金沢で昔のパンパンに遭遇し、同棲した、というだけで、それで、忘れたい過去はどこにあるのだ? 説得力がないよね。
憲一の兄・鵜原宗太郎も変な男だ。弟が金沢で女と同棲しているのを知りつつ、禎子との結婚話を進めるなんて。おいおい。突っ込みを入れたくなる。佐知子の夫・室田儀作(加賀丈史)も変な奴。一代で成功した男だが、いったい佐知子とはどうやって知り合ったのだ? また、佐知子に代わって逮捕され、しまいに自死するわけだが、彼は佐知子をかばったのか? 佐知子の素性を知ってのことか? 知らないで、なのか? よく分からん。自死する理由など、どこにもないと思うのだが。
佐知子は、戦争で両親を失ったようだ。それで弟と2人、暮らした。で、佐知子はなんと大学に行ったというのだが、その資金はどう工面したのだ? 佐知子がパンパンになったのは。弟の学費をひねり出すため、と考えてもいいのだろうが、自分の学費はどうしたのか、不思議。で、ラスト近く、弟が佐知子を逃がすのは、どういう意味なのだろう? 逃げて欲しかったからか、自死を選んでもらいたかったからか? そういったことが、ぜんぜん描かれていない。まさに、突っ込み所ばかりの映画だ。
画面全体に気がまわっていないような気がした。最初の方で中谷美紀が選挙事務所で演説をぶつシーン。後じさりしながら階段を上がる・・・というところで、中谷が少しコケそうになるのだが、そんなカットを使うなよなあ、という気がした。市長選に立候補する女を登場させることで、女の地位向上と支援する元パンパン、という対比を見せたかったのだろうが、ピンとこない。それがどうした、レベルの問題だよなあ。
謎解きとして、ほとんど面白いところがない。かといって、戦後の世相を扱った割りに、メッセージが希薄。赤いコートの女は禎子、と始めから分かってしまうしね。小説の設定通りにやっても、いまさら面白くなるような素材ではないのではないのかね。
戦後すぐの金沢市内。路面電車が走るシーンは、どうしたのだ? と思って、すぐに思い出した。新聞に、韓国のスタジオにある日帝の街並みをつかった、でていたっけ。なるほどね。
音楽は、「砂の器」風のメロディが流れるのだけれど、最後のテーマソングは中島みゆき。なんか、テイストに統一性がなくて、全体にインパクトがなかった。
なくもんか12/11キネカ大森3監督/水田伸生脚本/宮藤官九郎
ううむ。小ネタ満載でテキトーに笑いはあるけど、中味がまるで小演劇のまんま、なんだよなあ。エピソードの積み重ね、でも、エピソードとエピソードのつながりが希薄。問題解決しないで、どんどん捨てていく。残るのは、単純ながら存在する骨格。つまりまあ、兄弟の再会、家族の再建ということがテーマなんだろう。でも、全体の話=流れは、とても単純。ぜんぜん深くない。思わぬ展開もなく、先を急ぐような展開に、途中から飽きがきてしまった。ムダに長すぎるしね。
ミニシアターで生身の芝居を観ているなら、これで十分なんだろう。でも、生身の空気感を共有できない映画では、こういう構成=展開は、一体感を感じることができない。スクリーンの中でドタバタをやっている 阿部サダヲがアホに見えてきたりする。やっぱ、映画と演劇の違いだろうな。
ちょい役なのに、えっ? この人が? という贅沢な役者の使い方をしている。もうちょいフィーチャーしてあげればいいのに、なんて思ったりした。阿部サダヲは小演劇的に弾けているけど、観客席から見たらひとり浮きまくりにしか見えないところも多かった。もうちょい物語を見たい気がしてね。
テーマは家族、兄弟なのかもしれないが、感動はない。ぜーんぜんない。親が離婚して、離婚後に生まれたので会ったことのない弟に会いたい、と願う気持ちもよくわからない。それが特別哀しい設定とも思わない。そういう人は、この世にもたくさんいるはず。でも、この映画のような話にはならないだろうと思う。
だからこそ、最後、沖縄のステージでの兄(阿部サダヲ)と弟(瑛太)の漫才の、あまりにも「ここが見せ所、泣かせどころ」みたいな撮り方、引っぱり、セリフは、アホらしくて下らない。ずうっとちゃらんぽらんな話を展開してきて、あそこだけマジになってどうすんだよ。
竹内結子は、こういうコメディが嫌いじゃないんだろうな。コメディエンヌとしての自覚もあるんだと思う。ま、成功しているかどうかは別としてね。むしろ、いしだあゆみ、の天然ボケ的な演技が面白かった。ま、演技しているというよりセリフを読まされているようなシーンも多かったような気がするけれど、それでも鋭く光部分があったと思う。
ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない12/14シネ・リーブル池袋シアター2監督/佐藤祐市脚本/いずみ吉紘
ブラック・・・というから、詐欺まがいの電話セールスでもやってる、犯罪ぎりぎりの会社かなんか? と思ったら大違い。IT企業だった。さらに、Wikiでみたら「従業員に労働法やその他の法令に抵触しまたはその可能性がある条件での労働を強いたり、関係諸法に抵触する可能性がある営業行為を従業員に強いたりする、若しくは賃金や福利厚生等に対して見合わない異常に過大な身体的、精神的、金銭的、本来の業務とは無関係な非合理的負担を与える労働を従業員に強いる体質を持つ企業」なんだと。なーんだ。ちょっと前なら、どこでもやってたようなことじゃん。
というタイトルの話はさておき。ブラック会社という設定と、下請けプログラミング会社というシチュエーションだけなのに、なかなかよくできた内容の映画だった。とくに、人物の描き分けが絶妙にうまい。それぞれ典型的なタイプを演じ分けているんだけど、過剰過ぎず、控えめすぎず、みなが立っている。
話も、ブラック会社で働くことだけで、社内以外は自宅、病院、街頭ぐらいしかでてこない。なのに、ちゃんともつのだよ、これが。さらに、主人公(小池徹平)の人間ドラマはあまりない。設定として高校時代はいじめられっ子。引きこもって高校中退。ニート生活。母親の思い出。父親のリストラと病気、ぐらい。ニートから脱出して就職しようとするもみな不採用で、やっと採ってくれた会社だから辞められない、というのがあるというのがわかるぐらい。当然ながらロマンスはなく、想う相手もいない。また、ライバルもいない。克服すべき敵もない・・・。まあ、社内のリーダー(品川祐)が壁としてあるけれど、克服すべき相手として存在するわけではないし・・・。という設定だけ見たら、つまらない映画になりそうだけど、そんなことはないのだよ。二次三次下請けの仕事ばかりで、でも、それをクリアして納品! という話なんかに、なんとなくリアリティがあったり、そうして使われる主人公にシンパシーを感じることができるから、なのかね。
エピソードも面白い。おくてで、言葉もロクに話せないはずの上原さん(中村靖日)が、ほかほかアイマスクをしたらぺらぺらしゃべれたり。その他、たくさん。でも、やっぱり、社員として登場する連中の個々の面白さが一番、かな。
でも、いくつか注文もある。主人公の父親が倒れた! と会社に連絡が入る。で、病気が胃がん・・・って、おいおい。突然倒れるような病気じゃないだろ。倒れさせるなら、心筋梗塞か軽い脳梗塞ぐらいにしろよ。
それから、ブラック会社で働かされ、へろへろ、という感じがあまりでていない。連日徹夜で目がしょぼしょぼとか、ワイシャツ汗でドロドロとか、そういうリアルがない。家に戻ってもオヤジがまだ起きて待っていたり、毎晩深夜という雰囲気がない。時間の経過が、よく表現されていない。このあたりを、もうちょっと何とかして欲しかった。
先輩社員(田辺誠一)が、屋上で、自分が会社を辞める理由を「この会社で崖っぷちで働いてる連中をたくさん見たからだ。そういう後輩の一人と、いま、話している」というようなことを言うのだけれど、なんか意味がわからないぞ。どういうことなのだ? この田辺誠一の演じる藤田という男。最初から善人ででてくるので、実は裏があるのかと思いきや、やっぱり善人だった。ちょっとつまらない。品川祐は大げさに演じすぎかな。なんでもかんでも「バカ」とつけていうバカな上役だけど、上役に見えないのが大きな欠点。社長の森本レオ。オーナーなのに、仕事にはタッチしない理由がよくわからない。
エンドロールに庄司智春の名前が特別出演であったんだけど、どこにでていたんだ? と思っていたら、最後に1カットぶら下がっていて、社長(森本レオ)のところに面接に来ている男が庄司だった)
ニュームーン/トワイライト・サーガ12/15シネセゾン渋谷監督/クリス・ワイツ脚本/メリッサ・ローゼンバーグ
原題は"The Twilight Saga: New Moon"。ううむ。前作の流れはアバウト理解してたつもりなんだけど(そんな複雑じゃなかったし)、今回は、いったい何の話なのかよくわからなかった。でまあ、その大きな理由の一つが、話にノレないので途中から真面目に字幕を読まなくなったから。だって、中味がなくてつまらないし、誰それがどーした、と名前で説明する個所が多いので、ついていくのが億劫になったから、でもある。
ヴァンパイアのヒーローであるエドワード。彼が突然、一家そろって転居する、といいだす。落ち込む、ベラ。で、昔なじみのインディアンの子、ジェイコブがベラにアタックするが、あんたは友だち、と断られてしまう。・・・という話が延々とつづく。だからどうした、だよな。エドワードたちが姿を消した理由は、後半で説明されるけれど、それがなんだったのか、もう忘れてしまった。だって、つまんないから途中(ジェイコブと仲間が狼になって争う前あたり)で寝てしまったし、最後、エンドロールでも寝てしまった。つまりまあ、なんとか持ちこたえたけど最後で沈没、というわけで、半睡状態。これじゃ、話もよくわからんよ。ははは。
というわけで、内容について云々できるほど真面目に見ていなかった、というのが本当のところ。だって、面白くないんだもん。だいたい1作目もそうだったけど、ベラがエドワードに恋してしまう理由がまったくわからない。たとえば前世の因果で理由なく惹きつけられる、でもいい。なんか、それなりのわけが欲しい。でないと、単なるイケメン好みのバカ女にしか見えないよ。そもそも、今作でフィーチャーされているジェイコブの方が、よっぽど頼りになるし献身的だ。彼になびかないのがもったいないぐらいだと思うんだがね。
さて、今回の目玉は、なんとジェイコブがインディアン仲間の中でも狼に変身できる種族であることがわかったことだ。そりゃ、ヴァンパイアにも草食系と肉食系がいるんだから、インディアンが変身したって文句はなかろう、かも知れない。けど、前振りというか伏線なしにいきなりこれでは、開いた口が塞がらない。この映画には、1本太く貫く芯のようなストーリーはないのか? というか、連続ドラマの3本分を2時間超の映画にして、延々シリーズ化していく魂胆なのか? そんなことされたら、本編が始まる前に、これまでの荒筋を紹介してくれなくちゃ、ついていけないよ。
しかし、もう第3作目は完成しているようなので、全米のティーンはまたぞろ熱狂するんだろう。場内にも高校生の女の子が何人もいたけど、そういう情報を聞きつけてのご来場だろうか。しかし、その高校生たち、映画の途中でケータイのチェックするわ、がさごそ音を立てて何やら食いまくってるわ、邪魔くさい連中ばかりだったなあ。
パブリック・エネミーズ12/22新宿ミラノ3監督/マイケル・マン脚本/ロナン・ベネット、アン・ビダーマン、マイケル・マン
原題も"Public Enemies"。ううむ。俺はやっぱりウォーレン・ウォーツの「デリンジャー」でいいや。余計だったな。というような出来。ちっとも惹かれない。どころか、デリンジャー(ジョニー・デップ)が再び収監された頃から眠くなり、気がついたら出獄(脱獄?)していた。以後、彼女(マリオン・コティヤール)も出てこなくなり、別れたの? なんて思ってたら、最後の方に登場したのだったが。
まず。画面から時代の空気がちっとも感じられない。どこが1930年代なんだ? 音楽はそうだが、ファッションや髪型が、違うなあ。ジョニー・デップやコティヤールも、現在の人みたいに見える。そのあたりから、この物語には入り込めなかった。
話は、仮出所したデリンジャーが、8ヵ月後に刑務所に舞い戻ってきたところから始まる。どこから手に入れたか拳銃を手に、何人かの服役囚が脱獄を図る。デリンジャーも一緒に。で、女のところに寄るのだけれど、あの女は誰なのだ? 背後にはためく洗濯物が、田舎を感じさせていいシーンだったが。で、あとは強盗と、コティヤールとの出会い。でも、出会ってすぐにいいよってモノにしてしまう。この辺りから、話がいい加減だなあ、と思えてきた。
この映画、すべてが情緒的に撮られている。人間を深く掘り下げるようなことはなく、原因と結果が因果をもつような流れもなく(つまり、論理的でなく)、雰囲気でどんどん進んでいく。だから、デリンジャーの仲間も丁寧に紹介されることはない。せいせいベビーフェイス・ネルソンが目立つ程度。あとは、出たり入ったり、誰が誰やらよく分からない。というか、そういうことを始めから説明しようという気持ちはさらさらない、という撮り方だ。
この、ちょっとドキュメンタリー的というか、自然な撮り方は、手持ちカメラの多用や、ときどき合わないピントなんかにも見て取れる。まあ、そういう意図なんだろう。でも、こっちはそういう撮り方は好きではない。上っ面をなでたような、雰囲気と気分で突っ走るような映画は好みじゃない。だいいち、物語=ドラマがない。強盗シーンと撃ち合いと、女と、追うFBIと。それが交互に出てくるだけじゃ、つまらない。だからか、1時間目の手前ぐらいで、すでに飽きてきた。だって、仲間の顔や名前が覚えられないんだもん。覚えられなくていい、といわれても、じゃあ何を見るのだい?
というわけで、人間に迫らない映画がいかにつまらないかを、またまた感じてしまったのであった。
デリンジャーが山荘にいる、と知ったFBIが包囲する。ここの襲撃シーンは、かなり派手だ。けれど、露骨にビデオ映像だということが分かる映像でもある。なんか、テレビを見ているような気がして、とても安っぽく見えた。それに、このシーンでも、どっちギャングでがどっちがFBIなんだ? で、デリンジャーはどうやって逃げたのだ? なんていうことが分かりやすくは描かれない。これじゃなあ。
ラスト近く。女の用達についてきたデリンジャーは、ふとシカゴ警察内に足を踏み入れる。しかも、デリンジャー捜査本部の中へ! このシーンはなかなかよかった。ま、事実じゃないだろうけど。
それにしても、デリンジャーの女関係は、どうなっておるのだい? クロークをしている女(コティヤール)に惚れて、追いかけ回して自分のモノにしたはずなのに、彼女が逮捕されると、さっさとどっかの移民の女と暮らしている(もちろん、どうやって知り合ったかなんて描かれない…たしか、そうだよな)。で、その移民の女と映画を見に行き、そこで銃弾を浴びて死ぬのだけれど、死に際に言ったのが「ビリー(コティヤール)に伝えてくれ、バイバイ・ブラックバード」だと。なんかムリがありすぎではないの?
しかし、いまさらながらアメリカは変な国だね。州の独立性が強くて、州境を超えると警察権力がおよばない。天下のお尋ね者が、堂々と住宅で暮らし、彼女もいる。それで見つからない? 知ってて逮捕できない? よく分からないけど。ギャングがあんなに堂々と国中を駆け回れた時代って、変だよなあ、どう考えたって。
母なる証明12/24新宿武蔵野館2監督/ポン・ジュノ脚本/パク・ウンギョ、ポン・ジュノ
原題の意味は"Mother"。とても後味が悪い。話運びや映画としてのつくりは悪くないのだけれど、こんな、身も蓋もない話では気が滅入るだけだ。
日本以外の外国では、精神病者や知恵遅れが犯罪者、っていう話が少なくない。はたしてそういう物語でいいのか? という疑問がまずある。なぜなら、健常者と非健常者の犯罪率はそれほど乖離しているわけではない。なのに、この手の話が大手を振ってまかり通れば、「やっぱり異常者か」というような偏見が蔓延する遠因となるだろう。それがたまらない。
主人公の青年は、知恵遅れ。とくに、記憶する力が弱いようだ。面倒をみてくれるのは、母一人。あそんでくれる不良ジンテがいるけど、ワルだ。一人前に若い女に興味はあるけど、理性はある。そんな青年が、女子高生殺人の容疑者として逮捕される。母は息子の嫌疑を晴らすため奔走する。というのが大筋。
韓国の警察は日本に劣らず閉鎖的であるかのように描かれる。なので、警察制度への嫌悪感が先に立つが、しだいに話が母中心のものとなっていき、真犯人捜しというミステリーの色が濃くなってくる。ここまでくると、最初に感じていた制度への嫌悪は薄れてくる。だって、ラストでは嫌疑が晴れ、誤認逮捕=えん罪が晴れた青年に、警察が謝るシーンが浮かぶからだ。ところが、この映画はそんなに素直ではなかった。母親の調べで、殺害された女子高生は決して純情ではなく、金のために多くの男たちと援交していたことが分かってくる。では、その援交相手が真犯人か・・・。彼女は相手の写真を携帯で写していた、ということを聞きつける母親。携帯を探すチンピラ高校生たち。ここで、息子の記憶が甦り、その晩に現場近くで見た初老の男の顔を思い出す・・・。母親はなんとか女子高生の携帯を手に入れ、初老の男に会いに行くが・・・。
という流れで、案外スムーズに進んでいくのだけれど、いくつか釈然としない部分がある。ひとつは、息子の友だちジンテのこと。最初はひょうきんキャラで登場する。ところが後半はシリアスすぎるキャラに変貌してしまう。中盤での登場は、別人かと思ってしまった。母親に、犯人捜しのアドバイスを与えるのだけれど、そんなに真犯人がしりたけりゃ、お前も探せよ、と言いたくなってしまう。さらに、彼が大学教授からかっぱらったゴルフクラブを、母親が見つけ出す。そこに、血が。母親は警察に持ち込むが、相手にされない。というシーンで、警官が、ジンテと彼女がゴルフクラブで遊ぶ様子を撮ったビデオを見ているのだけれど、あの映像は誰が撮り、誰が持ち込んだものなのだ?
母親は、女子高生の携帯を追い求め、彼女と一緒に生活していた祖母を何度か訪ねる。そこで携帯を入手するのだけれど、祖母がどうして孫の携帯をもっているのだ? 女子高生は、援交相手の写真を保険として、祖母に預けていた? ううむ。なんかよく分からない。
というような、「?」の部分があるのは、ちょっと惜しい。ま、よーく見れば分かるようなことなのかも知れないのだけどね。
以下は、この映画がどうしようもない展について。まず、母親と息子は、貧乏生活。こんな貧乏人に光明を与えず、蹴り落とすようなラストへの展開は、どうなんだ? 夢も希望もないではないか。初老の男が目撃した事実。それによると、やっぱり息子が真犯人。殺す意図がなく、偶然だったとはいえ、それが真実。それを知った母は、初老の男を衝動的に殺してしまう。つまり、母は、かつて息子との心中事件で殺人未遂を犯しているが、今度は本当に殺人犯になってしまった、のだ。親が親なら、子も子、その子の親はやっぱり人殺し、という話を最後に持ってくるなんて、あまりにもむごすぎだろう。
死んだ女子高生も、貧乏とアル中の祖母をセットで抱え込み、金欲しさの援交だ。哀れも甚だしい。それが、呆気なく逝ってしまう。なんて話なんだ。もうちょい弱者の味方になれよ、と言いたくなってしまう。
息子の記憶は、とぎれとぎれに甦る。拘置所の面会でも、彼が5歳の頃のことを思い出す。「思い出した。母さんは僕を殺そうとした」。ギクッ。だよね。母曰く、ビンボーだから心中しようとした。しかし、この殺人の系譜は、延々と流れつづけている、とでも言うような因果はめぐるを映画にしちゃってるわけだ。そんな、殺人が遺伝的なわけがない。なのに、それを描いてしまう。それは、殺人遺伝子があるとでも言うような考え方の普及を後押ししていないか?
その後、刑事が「真犯人が見つかった」といいにくる。援交の相手で、結婚が合致した、ということらしい。しかし、伏線によってそれは鼻血であることが観客には分かつている。で、真犯人として捕まったのは、なんとダウン症らしき青年なのだ。母は、その青年に会うが、彼を助け出そうとはしない。たとえ真犯人が息子であっても、やはり息子と一緒に暮らしたいのね。という、親子の情の深さが、オソロシイ。
ラスト。団体旅行のバスの中。苦しみを忘れるために針を打ち、踊り惚ける。しかし、息子の記憶は、いつなんどき甦るかも知れないのだ。ふと、あるとき、「僕が殺した」と言いかねない。そんな時限爆弾みたいな息子と暮らすことに、平穏はないだろう。それでも、母親として息子と暮らすことが大切なのね。
で、調べたら監督は「殺人の追憶」の人なのね。映像的手法の豊穣さ、粘着感、土着性・・・。テイストが似ていたのも当然だ。さりげない伏線の張り方なんか、なかなか実に見事。どこかで俺の疑問も解決してくれたらいいんだけど、ね。
HACHI 約束の犬12/28ギンレイホール監督/ラッセ・ハルストレム脚本/スティーヴン・P・リンゼイ
原題は"Hachiko: A Dog's Story"。日本の「ハチ公物語」のリメイクらしい。なんとなく陰気で情緒に流れやすい日本映画に比べ、同じ素材でも、外国人が登場するとそこそこ垢抜けて見えるのは、これは私の偏見か? いやまあ、だからなんだけど、日本色を完全に払拭していないところが気になってしまった。冒頭の、どこかの日本のお寺の風景、日本の自動改札・・・。それと、リチャード・ギアの同僚の日本人教授も。この映画で、原作が日本であることを示す必要はないと思うのだが。
最初に松竹のロゴが出た。さらに「フジテレビジョン開局50周年記念作品」とも。では、ひょっとして制作費は日本が出しているのか? しかし、エンドロールにはそういう気配はない。IMDbで見ても、制作国はアメリカになっている。ってことは、松竹は配給だけなのか? だったら、なおさら日本にこだわる必要は、ないよね。
ラストに、現実の話に基づいている、とハチの写真や渋谷のハチ公像が映る。「おお」と、ちょっと感動してしまった。だからって、日本色があっていいということじゃない。物語に日本色を加味する必要はないと言うことだ。事実に基づいていてる、という件では、日本に触れても構わない、ということだ。で、気になったのが、この映画は日本の資本が入っているのか? なのだ。日本人の思惑で渋谷のハチ公が登場したとすれば、金の力で日本をごり押しして入れさせた、になるような気がしてね。つまりまあ、アメリカ人がこの原作、および、ハチ公に対してどういう気持ちでいるのか、が知りたかった、というわけだ。ま、ここまでは映画の中味以前の話。
物語は、まあ、「ハチ公物語」とだいたい同じなんだろう。大学教授とはいっても、こちらは音楽の先生のようだけど。それと、娘夫婦に関しては、日本版がそうなっていたかどうかは、すっかり忘れている。ま、いずれにしても、脚色はあるだろ。べつにそれは構わない。
映画が楽しいのは、主人公の大学教授(リチャード・ギア)が生きていた頃の話だな。思わず拾ってしまった子犬と、中年オヤジとの交流がほのぼのと描かれている。子犬も可愛いし。ここで、ギアの奥さんが犬を飼うのを渋るのだけれど、あれは以前に飼っていた犬が死んだから? 納屋に、それ風の寝床や人形なんかが残されているのだが、説明不足でよく分からない。だから、奥さんが飼うのをためらう理由も、つたわりにくい。
奥さんに関する描写は、かなり舌っ足らず。職業は、建築家か意匠デザイナーか、そんなようなものらしいけれど、はっきりとは描かれない。子犬のハチが奥さんが制作した模型(のようなもの)を壊してしまった、というシーンがあるのだけれど、壊す前のカタチが登場しない(たしか、そうだと思った)ので、ここも分かりにくい。奥さんの仕事現場で、30年間壁の中に塗り込められていた絵を甦らせるシーンがあるのだけれど、あれも、どういう建物の、なにをしようとしているのか、つたわってこない。ギアが亡くなり、奥さんも引っ越すのだけれど、彼女が久しぶりにこの地を訪れるシーンがある。そこで、何かの(忘れた)芝居の看板がでてくるのだけれど、あの劇場が、かつて彼女が改修していたところなのかな、とは思うのだけれど、伏線がちゃんとしていないので、効果が薄い。本当は、もっと彼女の私生活についての描写があったのかも知れないが、尺の都合でカットされたのかな。分かりにくくなっていると思う。
ギアが病気でなくなった後、ハチは5時になると迎えに行くことにする。いったんは娘夫婦が引き取るのだけれど、そこから逃げてまでかつての主人を迎えに行くようになる。娘夫婦も、それなら、とハチの勝手にさせることにする。つまり、こここで、ハチは野良犬になったということだ。そうやって数年間、来る日も来る日も主人の帰りを待ち続けるのだけれど、ハチってバカ犬なんじゃないか、とだんだん思えてくる。少し利口な犬なら、主人の死ぐらい理解するだろ。というわけで気になったのが、ギアの死後、その遺体にハチに見せたのかどうか、ということだ。葬式にも連れていかなかったので、見せていないのかも知れないが、あんなになついていたのだから、死に目に合わせてもいいだろうになあ。いったい、ハチは遺体を見ないで、主人の死がわからない、のか。遺体を見てさえも、主人の死が分からないのか。どっちなんだろう、と思ったりした。ま、どっちにしても、あんまり頭のいい犬ではないよな。これは、忠誠心とは別の問題だと思う。
さて、本来、ハチは日本からアメリカへと、飛行機で送られた、という設定になってる。ここが気になってしまう。いったい、なぜアメリカに送られたのだろう? 秋田県の価値を知っているアメリカ人が、個人輸入でもしたのか? それとも、冒頭のあの坊さんが、アメリカの知人にでも送ったのか? 荷札はちぎれても、控えはどこかにあるだろ! とかね。そのあたりも気になったのだった。◆ちなみに、米国ではまだ公開されていないんだそうだ。
いのちの山河〜日本の青空II〜12/29新宿武蔵野館2監督/大澤豊脚本/宮負秀夫
見ているうちに、ああ、そういえば、とモデルとなった村長のことを思い出した。そんな人が東北にいたなあ、と。で、その人の伝記である。
高齢者の医療費負担が増えたり、福祉政策が後退するいま、こうした人や話題をとりあげ、訴えるのは悪くない。けれど、モチーフやテーマはさておいて、その映画的表現がなんというか、かなりアナクロなのだ。そりゃま、民主主義や人権を標榜し、医療費の無料化に対しては国と戦ったりした人だから、多少はプロパガンダ的な表現になるのはやむを得ない。が、しかし、この映画はまるで1950〜70年代の、社会党・共産党系の監督が撮ったみたいな、とんでもなく古臭い見え方をする。教訓臭がぷんぷんして、とてもやりきれない。
主人公の深澤晟雄は、戦後満州から引き上げてきて、仕事も失い、故郷の沢内村へ。そこで夜間教師→教育長→助役→村長と、トントン拍子に出世していく。やってることがよかったから、なんだろうけど、当時は反共ムードもあったはず。そこで声高に「民主主義」を標榜し、そうやすやすと事が運ぶとは思えないのだが・・・。かように、この映画には、深澤に対する抵抗勢力がほとんど描かれない。わずかに登場する壁は、除雪反対者の投石、村長選挙の対立候補(この時は僅差で勝ったみたい)、岩手県庁の職員ぐらいで、あとはもう深澤信奉者のオンパレード。あまりにスムーズに思いを達成してしまうので、見ていて面白みがない。
むしろ夜間教師や教育長、助役時代は大胆に端折り、医療制度改革と高齢者の医療費無料化に的を絞った方がよかったんじゃないのかな。たとえば、冒頭では満州でも悲惨な体験や妻との出会いなどを活写。つづいて、村に戻り、その後の出世はスチルを重ねて表現するとかね。でもって、国や県の抵抗を、もっといやらしく描くことで、ドラマが生まれそうな気がする。それと、村内の反撥。対立候補が「福祉より発展」のようなことを言っていたけれど、そっちの包囲網も描くとか、ね。困難を乗り越えてこその民主主義、を描かなければ、ちっとも面白くない。
とにかく、あれこれ詰め込みすぎ。映像で見せずに、すべてセリフで説明する。あまりにも社会劇そのもので、これでは映画とはいえない。娘のエピソードなど、正直いってどうでもいい。ラスト、深澤が亡くなって、その遺骸が村に帰ってくる(のかな?)。それを迎える人の列。・・・あ、このシーンは「初恋のきた道」そのものじゃん。でも、ちょっと感動的だったけど。ここだけだな、映画と呼べるのは。
エンドロールの最後に、組合や生協、共産党など、全国の社会運動組織の名前がぞろぞろでてくる。うわー。サヨク的な思考や人間がいなくなってしまった、と思っていたのだけれど、ちゃんと全国には多くの支援者がいたりするのね。と、ちょっと驚き。
小林綾子って、どこにでていたんだ?
のだめカンタービレ 最終楽章 前編12/29キネカ大森3監督/武内英樹脚本/衛藤凛
ごくフツーに面白かった。テレビでは、数回分見ている。竹中直人が外人役なのが分かっていたのだ、ウエンツやベッキー、なだぎ武、らが外人役で、なのに日本語をしゃべっているのにも、しっかりついていけた。もし、「のだめ」を初めて見たとしたら、混乱するかもだけど。
しかし、問題なのは、この映画が全然"のだめ"(上野樹里)の話になっていないってことかも。全編、すっかり千秋先輩(玉木宏)の話になってしまっている。"のだめ"は狂言まわしというか、添え物扱い。これで果たして、いいのか? これは、後編へのイントロ、と考えればいいのかも知れないけど、なんか、軸がズレている感じがした。
連ドラの次のスペシャルで放送されたことを前提にしているのかも知れないけれど、"のだめ"と千秋先輩の関係がよく分からなかった。こちらは連ドラを少し、なので、"のだめ"が千秋に片思い・・・のつもりで見ていた。でも、なんか様子が違う。ウィーンでも隣室同士で住んでいる。ん? この2人は仲がよくなったのか? という、前提がよく分からなかった。恋人同士的な関係になっているのなら、それを最初に提示すべきだろうな。
彼の地のオーケストラ団員が登場するのだけれど、役者なのか本当の音楽家なのかはよく分からず。でも、とくに違和感なく見られたので、どーでもいいや。
今回で、弱小オケの常任指揮者になった千秋。後編では、ライバルの指揮者との熾烈な意地の張り合いが見られるのかな。でも、それじゃ、ぜーんぜ"のだめ"の活躍のしどころがないよなあ。やっぱ、"のだめ"の成長物語であって欲しかった、という気分。
上野樹里は、かつてもキラキラした少女の輝きが少しずつ失われていく感じ。まあ、20歳過ぎればトーゼンかも知れないけど、フツーのオバサン顔に写っているところが少なからずある。もうちょい瑞々しく写して欲しいなあ、と思ったんだけど。とくに、ファッションが、イトーヨーカドーか"しまむら"か、って感じで、美しくも可愛くもない。なんとかしろよ、という気がする。

 
 

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