2010年1月


 
 

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インフォーマント!1/5新宿ミラノ1監督/スティーヴン・ソダーバーグ脚本/スコット・Z・バーンズ
原題は"The Informant!"。言語学の、資料提供者、という意味らしい。
食品添加物みたいなものをつくっている大企業、ADM社の幹部社員マーク(マット・デイモン)。彼の担当部門でウィルスによる被害が発生する。マークは「日本の味の素から連絡があって、ADMにはスパイがいる。スパイの名前を教えるから金をよこせ」と恐喝される。そこでFBIがマークの家に盗聴器を仕掛ける・・・。という冒頭の部分が、実はよくわかりづらい。あれ? 何が起こっているのだ? と思っているうちに話が進み、マークは妻に「真実を告げろ」といわれ、FBIの職員に「ADMでは会長・社長の指示で、世界規模でカルテルを企んでいる」と告発する。このあたり、なんで突然? なのだけれど、話はどんどん進み、マークはカルテルの証拠をつかむため、FBIの手先となる。つまり、会議などの録音だ。それを2年あまりつづけ、決定的な音声を録音するのだが・・・。
という荒筋は、Webを見たりして書いた。読みながら、ああ、そうだったのか、と思ったりした。なんだかするすると話が進んでしまうので、実はよく分からない部分があったのだ。マークが日本人から恐喝されている、というのも突然。FBIが盗聴器をつけるのも、突然。カルテルの告発も突然。え? なんだなんだ? と思いつつ、でも話はどんどん進んでいく。アバウト理解できるけど、ニュアンスやディテールは、どうもつかみづらい。
で、中盤から、マークって頭がおかしいんじゃないか? と思えてくる。だって、会社の上司を告発し、彼らがいなくなったら自分が会社の大幹部となり、将来は社長になれると皮算用していたらしいのだ。そんなん、フツーに考えてムリだろ。証拠のテープなんて、誰が関与したか、する分かっちゃうだろ。そういう人物が、会社に残れるはずがない。なのに、マークは脳天気に構えている。
で、FBIの手入れで幹部が逮捕されても、自分だけは捕まらない、と思い込んでいる。ところが、幹部たちはマークの不正=賄賂を見つけ出す。それがFBIに知れると、「それがなぜ悪い?」と、居直るのではなく、不思議そうに問い直すのだ。「上司のカルテル告発に貢献したんだから、無罪だろ?」と。こいつ、おかしいな。
さらに、賄賂の額は低めに白状する、日本からの恐喝もでっちあげ(つまり、ウィルス事故を誤魔化そうとした)る、早くに両親が死んで富豪に育てられたという話も嘘。こいつ、虚言癖なのか? しかし、たんなる虚言癖じゃないかも。なんか、中間的な症状みたいな言葉が登場していたけれど、忘れた(双極性障害、らしい)。思うに、躁病なんじゃないのかな? なんでも自分の都合よく解釈し、FBIや弁護士に「しゃべるな。黙ってろ」と言われているのにマスコミにあれこれ話しつづける。こいつ、やっぱり変。
それまではフツーの頭だったのが、突然、躁状態に振れたんじゃないのかな。もしかして。
というわけで、最初の頃のウィルス事件の後のあれやこれやはみんなマークの嘘で、会社を告発しつつ取引先からのリベートで私腹を肥やし、上司がいなくなったら自分が社長の椅子に座れると単純に思っていたらしい、ということが分かる。いや、呆れてしまう。
でも、ソダーバーグらしく淡々と事実を積み重ねるような手法は、あまりドラマチックじゃない。もちろん、話が話だけにシリアスではなく、コメディタッチ。といっても、日本人(というか、俺だけ?)に分かりにくい言い回しやなんかがあるような気がする。ただでさえ人名や経済用語が多発し、追いついていくのが大変なのに、マークのギャグみたいなつぶやきが、ずうっとつづくのだ。情報過多で、いささが苦労した。その分、気軽に楽しめることはできなかった。ま、もう一回見れば、ああ、そうか、って思えるかも知れないけどね。でも、切れ味の鋭いコメディ、とは思えないかも。経済にうとい私だから、そう思うのかも知れないんだけど。
太ったデイモン。収監中に禿げ上がり、なさけない姿になっているのは見もの。しかし、現実のマークは出所後、なんとかいう会社のCEOになっているというのだから、恐れ入る。
しかし、つい何年か前に刑期を終えて出所してきた実在の人物をネタに、こういう映画をつくっちゃって、相手からなにか言われたりしないのだろうか? それが気になるね。
★町山智弘がTBSラジオ「キラキラ」で語っているのを聞いた(聞かずにとっておいた)。マークはもともとハゲで、ヅラだったんだと。しきりに頭に手をやる仕草がある、といっていたけど、気がつかなかったなあ。それと、劇中に登場した味の素、協和発酵ともう一社、日本の会社とカルテルを結ぼうとしていた、らしい。妻に説得される部分も、よく分からなかったんだが、そういうことか。マークのつぶやきは、病気の症状の一部で、妄想癖が強くなる、みたい。描かれてはいるかも知れないけど、1度では分からない部分もたくさんあるに違いない。映画だけでは茫漠としていた部分が、幾分すっきりした。
晴れときどきくもり1/6キネカ大森2監督/ピーター・ソーン脚本/---
原題は"Partly Cloudy"。「カールじいさん」の前に上映された6分の短編。コウノトリが運ぶ赤ちゃんは、空の雲から生まれる、という話。よろこばれる犬や猫、人間をつくる雲もいれば、嫌われ者のワニやハリネズミなんかをつくる雲もいる。ワニやハリネズミは、運ぶコウノトリも大変。なので、コウノトリが嫌がった・・・。で、雲が怒って雷が鳴り、哀しくて雨を降らせる。が、コウノトリは、自分を守るヘルメットとプロテクターを別の雲に作ってもらっていただけだった。という話。面白いとは思うが、この世に誕生するのはゴキブリや芋虫、蛇にトカゲ、病原菌だっているんだぜ、と大人は考えてしまうのだった。じゃん。
カールじいさんの空飛ぶ家1/6キネカ大森2監督/ピーター・ドクター、ボブ・ピーターソン脚本/ボブ・ピーターソン、ピーター・ドクター
原題は"Up"。たんにそれだけ、の題名らしい。見たのは吹き替え版で、3Dではない。
妻を失ったカールじいさんが、いつか妻エリーと行こうとしていた南米・ギアナ高地辺りへ行く話。といっても、一戸建てに数多の風船をつけて、飛んでいく、という物語。
冒頭に、幼いカールが映画館でニュース映画を見ている場面がある。ニュースでは冒険家のマンツが映っている。マンツは、当時(1930年代かな?)の子供の人気者。幼いエリーもマンツに夢中で、2人とも、マンツがでかけたギアナ高地に夢を馳せている。時は移って2人は結婚。子供を欲しがったが、できないことが分かる。それでも2人は仲よく暮らし、妻が先立って、カールは1人暮らし。周囲が開発されるなか、カールは頑固に家を売ろうとしない。
この回顧部分が、このアニメの白眉。セリフもなく、淡々と過ぎゆく時間を描くのだけれど、人の一生、夫婦の時間を濃密に描いて素晴らしい。おそらく、ほとんどの大人はここでグッときてしまうに違いない。
1人暮らしのカールの処に、ボーイスカウトみたいな少年ラッセルが「お手伝いさせてください」とやってくる。それと相まって、カールは建設工事の労働者に怪我を負わせ、裁判の結果、強制的に老人ホームに移されることになる。でも、行きたくない。というか、そのまえに、行くところがある。というわけで、カールは幾多の風船を家にくくりつけ、空へ。ラッセルも一緒についてくる。
というとこまでは、まあいい。以後がつまらない。たった1日(に、見えた)でギアナ高地へたどりつくと、犬に追われる鳥を発見。なんとこの鳥は、マンツが長年探し続けてきて、姿も見たことのない鳥らしいのだが、それが、たまたま降り立ったカールじいさんとラッセルの前に姿を現すって…。マンガとはいえ、都合がよすぎないか?
犬たちがしゃべる! マンツには犬語翻訳機を発明できる才能もあったのか。じゃあ、それで有名人になれるじゃん。マンツは、カールやラッセルが見た鳥が、探し求めていた鳥だと知って、捕まえようとする。それを阻止しようとするカールとラッセル、それから、1匹だけカール側についた犬との戦いがはじまる。…このあたり、「天空の城のラピュタ」みたいな感じだ。
理想としていた人物が、たんに欲望に取り付かれていただけ、というパターンはよくある手。子供映画なのだから、まあ、いいか、とも思う。けど、やはり唐突感が否めない。あの良心的な犬も含めてね。
争いはカール側の勝利に終わり、鳥は巣に戻る。マンツは地上に落下して…死んだのだろう。でね。Webで見るとカールは78歳という設定らしいのだが、少年カールが見たニュース映像のマンツは大人だったから、15歳上としても、93歳になっちまう。93歳のマンツが、なんであんなに元気なんだ? どっかで若返りの薬でも手に入れていた、というエピソードでもあるならともかく、ムリがありすぎだろう。ほかにも、犬はどうやって手に入れたのか? 飛行船のメンテナンスは? 食糧の買い出しは? とか、アニメではあるけれど、ヤボな突っ込みを入れたくなってしまうところが数多あり。
それと、ギアナ高地の上部はほぼ平らではないの? カールじいさん達が降りた場所も、全体像が映って、ほぼ平らだったように思う。なのに、その後に切り立った崖がでてきたり、洞穴状の場所が登場したり、情景描写もすごくいい加減。カールとラッセルはマンツの飛行船でアメリカまで戻ってきたようだけれど、あんな飛行船が突然やってきて、話題にはならなかったのかい? とまた、アニメなんだから、してはいけない突っ込みを入れたくなってしまう。
というわけで、この映画の冒険譚は、よくあるパターンなので面白くない。むしろ、この冒険譚をカットして、冒頭の出会いと結婚生活、別れ、そして、エリーのアルバム部分だけで短編をつくってくれた方が、よっぽど感動的だったと思う。
東のエデン 劇場版 I The King of Eden1/8シネセゾン渋谷監督/神山健治脚本/神山健治
テレビから派生したアニメである。2部作の第一部。オープニングタイトルにかぶって、これまでの経緯みたいなのが写される。で、この作品は、ある娘が米国・ワシントンに到着したところから始まっている。がしかし、そもそもの設定がよくわからなまま話がどんどん進んでいく。セレソンって、なんだよ! ノブレス携帯とは? 東のエデンってグループorサーバーみたいだけど、どういう役割があるのだ? ぞろぞろ登場する日本側の、元ニートの仲間達は、なんなのだ? 怪しい女は何? といった具合に、皆目手がかりがないままに進んでいき、ラストは、娘と滝沢朗または首相の息子?が一緒に専用機で日本に帰るところで終わる。あれれれ。どこで盛り上がっていいのか分からないままに終わってしまった。
この手の、テレビでやったものを劇場用にした場合、すでにテレビで語られた部分が重ねて語られているのか、または、省略されているのか、初見の人間には分からない。初見の人間(俺だ)からすると、まず、物語の背景をちゃんと語り、その上でドラマが始まってもらいたいのだが、このアニメなどはいったいどこが既存部分か初出ぶぶんか分からない。感想をいえば、テレビを見た人にだけ分かるようにつくられている、ように思える。もし、これが、テレビ放映部のダイジェストを含むとしたら、ずいぶんテキトーかついい加減に思える。
というわけで、いかにも中途半端。アクションの見せ場もあまりないし、とても拍子抜け。ただし、絵は丁寧で、よく動いている方だと思う。でも、キレイな分だけ、動的なダイナミズムに欠ける。動きがぎこちない、というか、スローすぎるというか、早技がない。ある意味、丁寧すぎて、端折るところを端折ってないので、スリリングな動きがでていない。なので、アニメならではの表現がされておらず、とても物足りない。
2部につながるのは分かるけれど、やっぱ、1部の中でも見せ場はつくるべきだったね。というか、冒頭の、設定の背景をキチンと描くべきだろう。でないと、初見ではついていけない。ま、そういう客をアテにしていない、のかも知れないけどね。
ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢1/13ギンレイホール監督/ジェームズ・D・スターン、アダム・デル・デオ脚本/---
原題は"Every Little Step"。最近再演されたのだろう「コーラスライン」のオーディション風景と、1975年初演時のエピソードを交互に写していく。しかし、現オーディション風景があまりにも散文的すぎて、感情移入できる人がいない。一昨年のTIFFで見た「The Audition〜メトロポリタン歌劇場への扉」はオーディション風景だけを追ったものだったけれど、10数名の応募者を人間性も含めて丁寧に追っていて、とても面白かったのを記憶している。それに比べ、この映画では、個人が特定できるようになるのは中盤以降の数人だけ。多くは軽く紹介されて消えていく。または、間隔をおきすぎて人物が一致しなかったり、一瞬だけの紹介だったりする。だから、選ばれていく高揚感や、落ちたときの失望感をなかなか共有できない。
初演時の回想の軸になるのは「コーラスライン」の作者なのかな、の残されたテープ音声。そこに、初演時の役者やスタッフの回想が絡んでいく。このパート、ミュージカルに興味があって「コーラスライン」を知っている人なら面白いんだろう。でも、ミュージカルにほとんど興味のない俺には、説明が足らずによく理解できないところが多かった。まあ、なんとなくアバウトには分かるんだけど、なるほど、へへーっ、ってな思いにはならなかった。「コーラスライン」がどれほどのものか、知らない強みだな、ははは。
なので、全体を通していうと、食い足りない。どこにも感情移入できず、応募者の女性の尻や胸ばかり見ていた。へっへっへ。
オーディション編は、さっき言ったように、薄い。もっと個人に肉薄しなくちゃな。ま、誰が合格するか分からない状態で撮り始めたのかも知れないけどね。それと、セリフなのか、フツーの会話なのか区別がつかない部分がある。セリフをしゃべっている部分をイタリックにするとか、手はあったと思うのだが。
応募者が、どういう人物なのか、よく分からない。誰でも受けられる、といいつつ、残っていくのはプロばかりみたい。次第に分かってくるのは、かなりのキャリアのある人が多く、審査員とも懇意の人が受けている。そんな場合の審査員の葛藤などに興味が移るのだけれど、そんなことには一切ふれない。それって、もったいなくないか?
字幕に「役不足」という表現が出てきたが、意味が間違っていなかったかなあ?
ひとり、沖縄出身の女性が残っていくのだけれど、なぜ彼女が選ばれるのか、がうかがえて興味深い。つまりは、初演時に同じ役をした中国系の女性が審査員にいて、彼女に似ているから、だ。でまた、欧米人が東洋人に望む容貌、に合致しているからだろう。小柄で扁平な顔立ち、ね。この辺は、欧米人の嗜好と偏見が垣間見えるような気がする。
もっとも記憶に残ったのは、演技が終わった後「一目惚れした」と審査員に言わしめた女性だ。映画の、最後から2番目にも登場する。調べたら、クリッシー・ホワイトヘッド。映画女優向きの個性的な顔立ち。大成しそうな予感がした。って、偉そうにいってしまう。
ゲイの役を演じて審査員を泣かしてしまった応募者がいた。彼のことを、以後もっと突っ込むのかと思いきや、そんなこともしない。なんかなあ。あっさりしすぎではないの? オーディション開始から決定まで、8ヵ月もかかる、という時間の経過もよく表現されてなかったし。
幸せはシャンソニア劇場から1/13ギンレイホール監督/クリストフ・バラティエ脚本/クリストフ・バラティエ、ジュリアン・ラプノー
原題は"Faubourg 36"。フランスの1936年。いったいどういう状況だったのだ? ということを知らないと、この映画の面白さは半減するのかも知れない。個人的には、フランスにもあったらしいファシスト集団や共産党の赤軍、ストなんかが登場して、知らない一面を教えられてような気がした。
それはさておき。だらだらと長い(120分)わりに、芯がしっかりしていない。いちおう軸として設定されているのはピゴワルという冴えない劇場の裏方のオヤジなのだけれど、しっかりとした軸になっていない。むしろ、劇場にまつわる群像劇と呼ぶ方が正しい。ピゴワルを主人公に据えることで、群像劇の力が弱まっているように思う。
シャンソニア劇場は経営が上手くいっていない。客も減り、借金も返せず、オーナーは自殺。不動産業のギャラピアに権利が移る。しかし、働く場所もなく、劇場に未練のあるピゴワル、共産党かぶれの青年ミルー(でも、かなり年配の役者のようだ)、芸人たちがギャラピアと交渉し、しばらく劇場を借りることになる。たまたま訪れた、母が前のオーナーの知り合いだ、という若い娘ドゥースにギャラピアが惚れ込んだから、なんだけど。で、復活するけど、やっぱり上手くいかない。ドゥースは大手の劇場から声がかかって、さようなら。しかし、20年間家を一歩も出なかったラジオ男がドゥースの出自を知り、彼女が劇場に戻る。ピゴワルの息子も参加して、劇場は大繁盛に。しかし、ドゥースがミルーといい仲になっているのを嫉妬したギャラピアが手下にミルーを襲わせ、ピゴワルが助けに行ったことでトラブルが。10年の後、刑務所からでてきたピゴワルは、相変わらず繁昌のシャンソニア劇場に舞い戻る。というのが大筋。
しかし、いろいろ疑問が湧いてくる。まず、SOCという存在。ギャラピアはSOCとつるんで活動していたようだけど、SOCはどういう存在だったのだ? ギャラピアは、SOCと関係をもつことでどういう利点があるのだ? いっぽう、フランスの赤軍はどういう位置にいたのだ? というようなこと。これが分からないと、1936年のフランス・パリは理解できないんじゃないのかね。
「カサブランカ」にも登場するビシー政権以前の時代だよなあ。パリが占領される前。ううむ。なになに(Wikiで調べてる)。第三共和制の末期なのか。レオン・ブルムの人民戦線が選挙で圧勝し、社会党や共産党などによる内閣が成立した・・・のか。それでミルーのような革新的な連中が大手を振って横行できたし、シャンソニア劇場でも反ファシスト的な芝居が上演できた、と。はいはい。では、それに対向するSOCは、どうなのだ? どうも、そういう団体はないらしい、ともどこかのブログに書いてある。ううむ。
この映画に登場する悪役は、そのSOCとギャラピアだけ。他は、ほんと、いい人ばかり。で、ナチスの影、戦争の雰囲気は、ほとんどない。だから、どうも、戦争前の妖しい雰囲気がでていないのだよな。まだ、そういう雰囲気がない時代だったのだろうか? どーも、きれいごとのように見えてしまうところがある。
それと。ピゴワルが刑務所に入った後、ナチスが席巻。パリはドイツ占領下の時代を迎えるわけだけれど、その部分がすぱっと無視されている。だから、1945年の冬にピゴワルが出所し、劇場近くのバーを訪れ、「劇場は大繁盛だよ」と告げられても、素直に喜べない。いったい、ドイツ占領下には何があったのか、想像すればいろいろあるから、ね。その部分を描かず、劇場の繁栄を描いても、説得力がないよなあ、という気がしてしまう。占領下はどう生き延びたのか、それがとても知りたい。
悪役として登場し、最後はピゴワルに殺されてしまうギャラピア。俺には彼がそれほど悪い奴には見えなかった。リアルな悪者、というより、カリカチュアライズされたようなところが、2人の手下も含めてある。そもそも、女のためとはいえ、素人どもに劇場を使わせるのは、かなりの好意ではないのか? 手下にミルーを襲わせ、手下は間違えて別の芸人を襲ってしまうのだけれど、当初は殺意がなかった。手下が「別人だ」と気づいて、知られちゃまずい、と激しく叩きのめしたカタチだ。ギャラピアは「痛めつけてこい」ぐらいのつもりだったと思う。最後、ミルーに銃を向けたギャラビアだけれど、あのときも殺意はなかったろう。なのに、ピゴワルに撃たれてしまう。なんか、可哀想な気がした。
そもそも、ギャラピアはドゥースの自由を束縛できるほど、ドゥースに恩は売ってないよなあ。ピゴワル達がオーディションするよ、と教えてやっただけだよなあ。ドゥースは、そんなにピゴワルの言いなりになる必要なんてなかったように思うんだが。
で、ラスト。出所したピゴワルが劇場に行くと、繁昌しているのか、満員だと断られてしまう。どうやら、支配人は息子がやっているみたい。ちょっと皮肉なラストだけど、その後のみんな、が、どうしてるか、知りたいよなあ。ドゥースとミルーは一緒になったの? ミルーは誰が育て、いかにして劇場の支配人になったの? 他の芸人達は? 息子の兄貴分だった少年は? とか、なんで描かないのかね。もったいない。
最後に。ピゴワルの妻は、若い芸人と不倫・駆け落ち。失業中のピゴワルには養育権がないと言われ、駆け落ちから舞い戻り、フツーの生活をしている元妻に、息子を奪われる。ううむ。ピゴワルが拒否すれば、離婚できないのでは? それにしても、いい加減な元妻。彼女に不幸は訪れるのだろうか? と思っていたのだが、、何も起きなかった。元妻と一緒になった男は、何物なんだ? 連れ子もよろこんで引き受けるほど、元妻はいい女、には見えないのだが。
ラジオ男が、ドゥースとの関係をクルマの中でささっと説明したんだけど、よく分からなかった。ラジオ男はドゥースの母親が好きだった。彼女が妊娠した。ラジオ男の子ではない。では、ドゥース父親は誰なんだ? 
ジュリー&ジュリア1/18新宿武蔵野館3監督/ノーラ・エフロン脚本/ノーラ・エフロン
原題も"Julie & Julia"。とても面白かった。突っ込みを入れるヒマもなく物語に入り込めて、くすくす笑える。上出来で上質なコメディだね。
最初、1949年と1999年の、2つの別の話が交合に映されるので、戸惑った。タイムワープでもないのに、こういう手法が成立するのかな? と。「めぐりあう時間たち」なんていう、ちょっとピンとこない映画もあったしなあ…。というわけで、いささか緊張しながら見はじめたのだけれど、まったくの杞憂だった。時を超えて関連するところは関連し、独立したところはそのように。見事に時代が響き合う映画だった。
1949年。ジュリアの夫は外交官。彼女自身も公務員だったらしい。それが、夫のパリ勤務で渡仏。暇をもてあまし、料理を習うことに。現地で知り合ったフランス料理好きの2人のオバサンと3人で、フランス料理の入門書を書くことになる。で、帰国してから見事に出版。その後はテレビの人気者になった、らしい。
1999年のジュリアも公務員。夫は学者の様子。9.11被害者からのクレーム処理を電話で行なっているらしく、ストレスもたまり気味? かつては小説家志望だったのに…。で、思いついて、ジュリアの本にあるレシピ500余を365日でこなし、それをブログで告知することを決める。
ジュリーがジュリアをなぞるだけで、2人の間に具体的な交流はない。ラスト近く、高齢のジュリアが、ジュリーのブログを快く思っていていない、ということが編集者からの情報でわかるだけだ。だから1949〜のドラマは独立して楽しみ、1999のドラマはジュリアを意識したジュリーのドラマ、というわけだ。
メリル・ストリープが演じるジュリアは、変人。甲高い声で、動作も操り人形みたいにぎこちない。実話なので本人を真似ているんだろうけど、そんな人がいたの? で、さっきYoutubeで見たら、本人の映像がたくさんあった。メリルみたいな細身ではなく、がっちりタイプ。声も甲高い。でも、失敗なんて関係ない、楽しけりゃそれでいいのよ的な大らかさは、そのまま。なるほど。もっとも、ジュリアがパリに行った頃、彼女は37歳。それを60歳のメリル(1949年生)が演じるのは、ちと不気味かも。夫役は1960年生まれのスタンリー・トゥッチで、2人の、これからベッドシーン、というシーンが数カ所あるのだが、ジジイとババアが色気づいて、としか見えない。でも、実は40前だった、と修正すれば、おかしくはない。
話はよくできている。小ネタがたくさん埋め込まれていて、動作やセリフ、描写もユーモアに満ちている。ジュリアのおおらかで大胆でテキトーな性格なんか、ほんと、笑える。日本的にいうと、間、も良い。これは、1949〜も1999も同じ。多少の誇張なんか気にならない。
3人で書いた、とはいっても、実は最初に2人のオバサンがレシピだけを集めたものだった。それを出版社に突っ返され、ジュリアが手を入れることになったようだ。ところが1人が病気がちというか病気が趣味みたいなオバサンで。出版が決まってから印税の割り振りをするシーンがあるのだけれど、生っぽい話なのに、とてもおかしい。他にも長身の妹の話や、料理学校の女事務員との確執など、気の利いたエピソードがやまもりなのだ。
いっぽう、ジュリーの方も「ブログのために仕事を休みやがって」と上司に嫌みを言われたり、亭主とケンカしたり。それでも何とか1年間でレシピ通りに料理をつくるプロジェクトを完遂。果てはN.Y.タイムスに掲載され、プログの出版依頼が殺到する。いや、こういうサクセスストーリーは、見ていて楽しい。
ジュリー役は、美人じゃなくてどこにでもいそうな姉ちゃんだな、と思っていたら、エイミー・アダムスって「サンシャイン・クリーニング」「ナイトミュージアム2」で最近見てるんだよな。ああ、そういえば、という感じ。印象に残りにくい、というか、どうにでも見える顔なのかも知れない。
難をいうと、先に書いた、メリルが40歳を演じるのはムリがある、ということ。それから、書き上げた原稿が出版社をぐるぐるまわっていく過程がよくわからないこと。それと、実際のジュリアがなぜジュリーのブログに遺憾の意を表明したか、がはっきり描かれていないことかも。そのせいで、ラストは盛り上がりに欠けるものになっている。どうせならはじめから、そのことには触れなくてもよかったのに、と思ったりした。それと、新聞に載ったら突然依頼の電話が…というのも変。新聞の前にも、ブログに目を付けた版元もあるだろうに。ちょっと演出しすぎかも。
あー、そうそう、それから。ジュリーの亭主が家でしたときのこと。ジュリーは寂しくて亭主に電話するのだが、「どこにいるの?」とつぶやく。そのつぶやきが留守電からこぼれてくるのを、亭主はどこかの"部屋"で聞いているのだが、どういうこと? 家出先の電話番号を知っていれば「どこにいるの」はないだろう。では、携帯に電話して固定電話に転送するサービスを使ってる? それにしても、亭主の家出先には調度家具もあって、友だちの処に居候、って感じじゃなかったのだよなあ。
でも、最近見た映画の中では文句なく面白く、物語にすべてを委ねて楽しむことができたデキだった。ジュリアがぷかぷかタバコを吸うのも面白い。子供ができないことを悲しんでいるのもつたわってくる。笑えて、泣けて、気持ちよくなれる映画だね。
アバター1/20MOVIX亀有・シアター10監督/ジェームズ・キャメロン脚本/ジェームズ・キャメロン
原題も"Avatar"。話題の3D映画。なんでも、上映方式が4つあるのだとか。
・XpanD=TOHOシネマズ/109シネマズ系列
・RealD=ワーナーマイカル系列
・Dolby3D=T・ジョイ系列
・IMAX3D=109シネマズ系列
で、見たのはMOVIXだが、どうやらXpanD方式のようだ。メガネがごつく、重い。近視のメガネに重ねてもゆとりがあるが、ぴたり治まらず、ときどきずり落ちる。で、画面が暗い。メガネなしで見ると、ちょいハレーション気味に映っているのだが、メガネをすると鮮やかさ、華やかさはまるで失われる。ずーうっと夜、みたいな感じ。以前に見た「スパイキッズ 3-D:ゲームオーバー」は、ほとんど白黒みたいに見えたから、それよりマシかも知れないけど。で、立体化に伴うズレは案外と少ない。ただし、画面の周囲や、手前に派手に飛び出してくるような、立体感の強調されたモノだと、ダブって見える。それと、動きが激しいモノはちらちらがちゃがちゃして、目にというか頭に悪い。いらつくのだ。はっきり明瞭に見えないからね。
立体感のあるキャラが移動すると、顔がくっきり見えないから、役者の表情を楽しもう、という向きにはイマイチかも。あれ? と思ったのは、手前にくる被写体がピンぼけになっていること。2Dなら被写界深度を浅くして距離感をだす、のが手法だろうけど、3Dなんだから手前に来るモノもピタリとピンが合っていていいんじゃないの?
ごく普通のシーンが3Dというのは、最初は妙な感じ。でも、10数分すると、なんとなく慣れてくる。けれど、べつに立体感がなくてもいいよなあ、このシーンは、なんて思ったりした。
見たのは後方の左翼だった。これだと、視野全体がスクリーンで覆われる、ということはない。なので、通常3D方式の場合は、できるだけ前の方の席で見る方がいいと思う。閉館した、テアトルタイムズスクエア辺りで見ると、迫力がでるだろう。ま、もともとIMAXシアターを前提につくられた映画で、IMAX以外はゴミ(町山智浩)とまで断言している人もいるが。
唯一、映画の中のモノが客席にまでやってくるように感じられたのは、雪。ちらちら降る雪片が、場内に舞っているように感じられた。あとはもう、さあ飛び出すでしょ、の見せ物映画でしかなかった。
という具合に、この映画、内容よりも本格的3D映画、ということが先に立ってしまっている。で、内容はどうかというと、かなりもの足りない。町山智浩が「ポカホンタス」と「ダンス・ウィズ・ウルブス」を見てる人は、30分後にどんな話でどんな結末になるか分かってしまう、といっていたが。ひょっとしたらどちらも見ていないかも知れない。でも、ポカホンタスが原作の「ニュー・ワールド」(2005)を見ているので、想像はつく。あんな話である。
西暦2154年。ある鉱石を採掘するため、某社がある惑星に傭兵を送り込む。その星には先住民(ねずみ色の豹が立って歩いているみたいなキャラ)が住んでいて、彼らは神聖なる森に住んでいる。その地下に鉱石が埋蔵されているので、先住民を追い出そうとする。その手段の一環として、アバターが使われる。
アバターは、先住民のカラダに人間の意識が入り込み、操作するというもの。使われる先住民のカラダは、かつて捕らえたもの? と思ったら、Webなどを見ると、先住民と人間のDNAをかけ合わせて造られたみたい。人間の意識が別のカラダを操作するシステムは、「マトリックス」(というか、「攻殻機動隊」や「エヴァンゲリオン」)と似ている。そうやって先住民と接触し、交渉しよう、という算段らしい。主人公は元海兵隊で、下肢が不自由。兄と共にこの惑星へと8年ぐらいかけてやってきたが、兄は到着時に死亡。主人公がアバターを操作することになる。・・・のあたりの説明が不親切。はやいとこ本題に入ろうということか、なぜ主人公が星に来たか、しかも、地球で足を再生できるようなのに、それもせずやってきた理由がわからない。兄が死んだ理由も、ささっと軽く説明するのみ。前提となる背景を、もっときちっと言って欲しいよな。で、主人公が先住民の女王的立場の娘と恋仲になる。娘には、婚約者のような勇者がいるのに・・・。というところは「ポカホンタス」。で、立ち退かない先住民を攻撃するのが、「ダンス・ウィズ・ウルブス」ってとこか。それ以外にも、恐竜みたいのが戦うところは1939年の「キングコング」で、命を与えてくれる森は「風の谷のナウシカ」、浮かぶ島は「天空の城ラピュタ」。主人公と娘との愛の場面は「緑の館」や「七人の侍」を思わせる。他にも、タイトルを忘れたような映画のあの場面、このシーンが思い浮かんで、なんかこの映画、オリジナリティがない。正直いって、ストーリーは退屈。
まあ、2154年になっても、人間は帝国主義=植民地化を他の惑星でするだろうよ、といっている。さらに、イラク戦争で活躍したような傭兵が、将来は企業の手先となるかも、と警告を発している。飛行艇で襲うとき、ワルキューレだかワグナーだか、なんか言ってたけど、あれは「地獄の黙示録」の無差別殺戮を示唆しているのだろう。また、足の不自由な主人公が、アバターシステムによって地上を自由に駆け巡れる、という設定にしているのは、少しは考えている、ってことかも。
しかし、被害者となるのがいつも先住民=土人で、今回の先住民は尻尾があって顔が猫面というのは、先住民は人間にもとると言っているようなもので、気に入らない。たまには、人間より知的ながら豊かな生活を送っている美男美女の先住民、っていうのも描いてみろよ、といいたい。
ミシェル・ロドリゲスが後半大活躍、というので楽しみにしていたのだけれど、さほどではなかった。それに、妙にむくんでしまっていて、肉がゆれている。「ガール・ファイト」のあたりの粗暴さが、かなり足りなくなってるぜ。
メインのキャラ7〜8人が目立つ程度で、脇役が物足りない。まあ、この手の映画で人間を描け、というのも酷なのかも知れないが、なにせ2時間40分もあるのだ。3Dの見せ場ばっかりつながないで、ちゃんと物語を描いてみろよ、といいたい。
で、ラスト。それまで主人公が日焼けサロンの装置みたいなのに入ってアバターを操作していたのに、なんと、先住民の森で人間→アバターへの意識交換が行われる、というところで終わっている。なんとまあ。では、人間の身体は、あの時点で捨ててしまうのね。でしょ?
いい加減なところを挙げると、先住民の矢では歯が立たなかった飛行艇のガラスが、途中から、矢で打ち砕けるようになってしまっている件について、異議を唱えておきたい。さらに、最後に母船が炎上しながら落下するのだけれど、あれじゃ地上は大災害だわな。先住民の仲間(森の住民以外の部族)は後半になって多少登場するけれど、地球を考えて見ろよ、あちこちに人間が住んでいるじゃないか。あの惑星に最初に人間がやってきた時点で、他の部族との連携はできたんじゃないの? 巨大な翼竜を簡単に手なずけてしまう話も、おいおい。なんか、ツメが甘いよなあ。映画だから、テキトーでいいんだって? あそ。
そうそう。「アリス」の予告編が3Dだった。あの映画も3Dなのか。ふーん。
かいじゅうたちのいるところ1/27シネマミラノ3監督/スパイク・ジョーンズ脚本/スパイク・ジョーンズ、デイヴ・エッガース
原題は"Where the Wild Things Are"。監督は、スパイク・ジョーンズ。ああ、あのメッセージ性の強い黒人監督か・・・あ、あれ?(IMFbを見て)、白人なの? あ、そうか。あっちはスパイク・リーか。ははは。
両親は離婚。母と姉、少年マックスの3人家族。姉は高校生? 男の子たちと遊ぶ年齢だ。マックスは10歳ぐらい? の割りに子供っぽくて、雪だるまをつくったり部屋の中に砦をつくったりと、夢想する少年。でも、自分の中に閉じこもるわけではない。むしろ、雪だるまや砦を姉や母に見てもらいたい。誉めてもらいたい。一緒に遊びたい、と思っている。とても幼い。母の彼氏が来ているときも、構ってもらえなくてテーブルに乗っかって言うことを聞かず、母に"out of control"と言われ、家を飛び出してしまう。で、心の中のファンタジー世界に逃避してしまう。
以上の現実世界は、その原因がマックスにあって、いささか発達の遅れ、病的な部分があるとしても、それなりに見ていられた。しかし、以後のファンタジー世界のパートはとてもつまらなかった。砂漠をうろうろするようなシーンでとうとう寝てしまい、10分ぐらい目をつぶっていたかも。
ファンタジー部分が、何を言おうとしているのか、よく分からない。でかいぬいぐるみが数体出てくるんだけど、悪いやつらではなさそう。でも、どういう連中かも分からない。5〜6体ながら派閥があったり対立関係があったりして、いいことばかりの世界でもなさそう。そんな中で、テキトーなことを言って、マックスは王様にさせられてしまう。たいしたキングじゃないけど。で、しばらく一緒に住んで、別れて帰ってくる。で、母親の元に泣きつく。それでオシマイ。ううむ。
だからなんなんだ。ファンタジー世界はマックスが創った世界、なのだろう。であれば、マックスがここで成長するはずがない。たんなる逃避だろう。にしては、ファンタジー世界の怪物たちの振る舞いは、意味ありげだったりする。
もうちょい、大人になりたくない少年が、王様になれてしまう不思議な島! 的なノー天気なものでも良かったように思うんだけど。きっと、よく読み込めばそれぞれの怪獣がなにかの象徴になっていたりするのかも知れないけど、ただでさえ面白くない映画を時間をかけて読み解いてやろう、なんていう気力はないよ。
ぬいぐるみの割りには、怪獣たちの表情は豊かだった。
キャピタリズム マネーは踊る1/28新宿武蔵野館3監督/マイケル・ムーア脚本/マイケル・ムーア
原題は"Capitalism: A Love Story"。今回は資本主義が相手だ。まずはサブプライム問題で家を失った人、強制執行の模様など。次に、ウォルマートやCITIBANKが社員に保険金をかけ、会社が死亡保険金を受け取っている問題。それから、荒廃した自動車産業と組合問題など。でも、途中から眠くなってきて、ふっ、と一瞬寝てしまう。寝たからもう大丈夫、と思っていたら、またまた今度は深く寝てしまい、気がついたらCITIだかウォルマートで組合員のストが勝利した、なんていう話をしていて、そのあとすぐに映画は終わってし又。あららら。
社員に保険金なんて、そら凄いな、という話もあったんだけど、全体に単調な感じは否めず。それと、事実の紹介の羅列で、観客に考えさせる部分が足りないとも思った。考えさせられていれば、眠らなかったと思うし。たとえ寝不足でもね。
要するに、マイケル・ムーアの手法=ドキュメントの表現に飽きてしまった、というのもあると思う。いろんな過去の映像やニュース映像をつないで笑いを取ろう、というやつ。もういいよ、そういうのは。
エンドクレジットに流れるジャズ・ボーカル。これがなんと、「インターナショナル」だった。おやおや。こんな労働歌までジャズにしちゃうのか。凄いな、アメリカは。
それと、アメリカの反共思想の徹底ぶりは、あらためて感じざるを得ない。国民皆保険なんて共産主義じゃないと思うのに。高額所得者の税率減少も、ね。なのに、反共=民主主義=資本主義を掲げる人しか支持されない。それね、大衆にね。というところが背景にあるから、いくらマイケル・ムーアが大声を上げても、説得力がない、というのもある。それに、監督自身もそうだけど、家を追い出される貧しい連中が、みんなデブだっていうのも、問題だね。大型テレビだのステレオだの、そういうのをカードで買って借金してる=それが必要最低限の生活、といわれてもね。もっと貧しい人は世界中にたくさんいるんだから。
アメリカは・・・。それに引き替えヨーロッパや日本は国民皆保険。日本には労働者の団結権がある。なーんて解説されて、恥ずかしくなっちゃうよな。いまや日本もアメリカ追従で富裕層と貧困層の二極分化が著しいし、社会党・総評が壊滅して組合なんて機能してないのに。
最後のルーズベルトの部分は、なかなかいいような気がした。とくに興味を惹かれたのが、機関銃が据えられた、という件だ。機関銃は組合員を守るために使われた、とあったように思うが、最近読んだ「機関銃の社会史」に、機関銃は資本家を守るために組合つぶしに使われた、と書いてあったように思う。この辺りの整合性について、どうなのかな、と興味を引かれた。