2010年2月

サロゲート2/1MOVIX亀有シアター7監督/ジョナサン・モストウ脚本/マイケル・フェリス、ジョン・D・ブランカトー
原題も"Surrogates"。近未来SF。高性能ロボットが開発され、人々は生身で動くことをしなくなる。自宅などで操縦装置をセットすると、分身が社会にでて行動する。働いているのも、遊んでいるのも、みな分身=サロゲートということだ。なんと、ただいま大ヒット中の「アバター」と同じ原理ではないか。どっちが早いのか知らないが、偶然なのか?
分身のせいで凶悪事件は激減。女性はいつも若々しい分身を操って、老いを隠すことができる。変態オヤジが女性の分身を操ったり、老人が少年の分身を操ったりもする。この段でいくと、いろんなエピソードが(変態モノやロマンス、コメディなど)思いつきそうだけれど、この映画ではそんな枝葉末節には触れない。なんとももったいない話だ。
大きくいうと、サロゲート開発者が、まずは会社(VSI)を追われる。で、反サロゲート思想をもつにいたる。それを危険と見たVSI社は、開発者の抹殺を図ろうとする。その武器は、サロゲートを撃破するだけで、操縦している生身の人間まで殺せる、というもの。開発者の息子およびそのサロゲートが殺られるところから、話が始まる。この事件は息子が父親のサロゲートを一時借りたことから生じた間違いだったのだけれど、暗殺者は反サロゲート主義者がこもる独立国逃げ込み、そこの指導者に殺されてしまう・・・。というような流れで、最初は開発者が反サロゲートになっていることが明かされないので、その謎を追ってブルース・ウィリスが活躍する。
最初、髪の毛ふさふさのウィリスが現れるのでたまげる。げ。こんなメイクで映画に出るのか? と。でも、それはサロゲートだからであって、生身のウィリスは途中から無償ヒゲの生身で登場することになる。生身の人間が老いや疲労感にまとわりつかれているのに対して、サロゲートは若く、シワがなくすべすべした肌で、まるで絵葉書写真の人間みたいな人造感があるのがおもしろい。
最後に、サロゲートをコントロールするコンピュータがダウンして(というか、ウィリスによってダウンさせられて)、街の中にいる人体はすべてサロゲートだということが分かるのだけれど、ここまで虚飾に満ちた世界というのも、なぜかリアルに感じられるから不思議。現代人も、ロボットを使っていなくても化粧や整形で老いを隠し、もうひとりの自分に飾っていたりするからね。そういうのが連想されて、とても興味深い。
実際、ウィリスは妻ともう何年も会っていないらしい。同じアパートに住んでいるのに、ウィリスが話すのは妻のサロゲートなのだ。交通事故で息子を亡くして以来、閉じこもり気味の妻。しかし、サロゲートを得て若々しくなり、美容院で働き、青年たちとつき合ったりしている。でも、生身は隠したまま、なのだ。その落差が、なかなかリアル。
つっこみはいくらでも入れられる。生身の生殖活動は? 教育やレジャーは? 食い物や排泄はどうするんだ。ゴミや死体は。ペットは。などなど、杜撰な部分は多い。けど、そういうことは、このSFには関係ない。虚飾に満ちた世界が描けていれば、それでいいのだ。なかには警察の監視官(?なのかな、太った男)のように生身で働いている男もいるし、先述の独立区のように反サロゲート主義者もいるし。まだまだ、多様性は残されているから。
それにしても、「サマーウォーズ」「アバター」なんかもそうだったけど、将来の社会インフラを一般企業が握る、という怖さを訴えていること。政府はみな小さなモノになり、アウトソーシングで私企業がコントロールするようになる、のかね。ううむ。それはそれで、とても心配であるが。
Dr.パルナサスの鏡2/1MOVIX亀有シアター1監督/テリー・ギリアム脚本/テリー・ギリアム、チャールズ・マッケオン
原題は"The Imaginarium of Doctor Parnassus"。ギリアムは相性が悪い。「ローズ・イン・タイドランド」も「ブラザーズ・グリム」も寝てしまっている。この手の怪しいファンタジーが「好き」と標榜している俺なのだが、実際、見ると寝てしまうことが多い。そういやあ「ダークシティ」なんていうのも寝ちゃったっけ。幻想や怪奇は「「好き」っていうことにしておかないと世間的にまずい、っていう意識はあるのだけれど、体はそれについていかない、ってことなのかも。本質的には合わない? のかな。まあいい。というわけで、ははは、この映画もちゃんと途中で寝ちゃいましたよ。やっぱね。
オープニングはそそる内容だったんだけどね。いきなり怪しい舞台が開いて、なんと、ジプシー音楽が奏でられる。これ以上の妖しさはないぞ。と思っていたら、ジプシー音楽は全体でそこだけ。次第に1920年代チャールストン風な楽曲になゃって、妖しさが減衰・・・。それでも、一座が移動する不可思議な乗り物がまた素晴らしくてわくわくしてしまう。博士の娘も淫靡でいい。しかも、当然ながら小人つき。
なのだけれど、大筋がいつになっても見えてこない。物語性が足りないと、こっちの意識はついて行きにくいのだよ。娘の16歳の誕生日になにかありそう・・・。悪魔、みたいなのと約束だか賭けをしてしているみたい・・・。5人こなしたら、って、どういう意味だ? こういうのの解き明かしがちゃんとついてくれば、こっちもなんとか追随できるんだけど、そうは話が転がらない。なぜか分からないけど、博士が作り出しているのかなんののか、扉の向こうに幻想世界が広がっていて、そこに入り込むとみな愉快になってしまう。で、この幻想世界はいったい何なのだ? 博士と奥さんと娘の話は、よくわからんぞ。てな疑問ばかり。話を広げすぎて、ぜんぜん収拾がついていかない。これじゃ、俺の脳も休みたくなるってもんだ。
というわけで、20分ぐらいうつらうつらしたかも。でも、ストーリーなんてなくてないようなものだから、あんまり関係ないと思うんだけど。
で、あの首つり男はいったい何物? たんなる嘘つき、でいいのか? ううむ。わからん。ってか、分からなくてもいいのかも知れないが。で、彼がヒース・レジャーだっていうのは、エンドロールで思い出した。そういえは、そんなことを聞いたなあ、と。しかし、だ。ジュード・ローがでてきたりジョニー・デップだったりしたのは、なんなんだ? クレジットにはImaginarium Tony #2、Imaginarium Tony #1となってでてきたけど、なんで首つり男の顔が変わって登場してくるのだ? ああ。わからん。まあ、ヒマな人は意味づけなんかをしたり示唆するものをこじつけたりするのかも知れないけど、まあ、みんな思いつきで、大した意味はないと思うけどなあ。ははは。なにか、下敷きにしている話はあるのかも知れないけどね。
「鏡の国のアリス」ばりの、扉の向こうの世界。これが、いまいちちゃち。CGで簡単にできちゃうのもいかんのだろうと思うけれど、「大霊界」みたいに薄っぺらで、凄さも素晴らしさもない。
彼岸島2/2シネ・リーブル池袋2監督/キム・テギュン脚本/大石哲也
吸血寄モノ。ワーナーの配給なので、世界マーケットを狙っているのだろう。韓国人監督の起用も、それがあってのことか。アメリカでは吸血鬼、血がどばっ、美少女、サムライがウケるらしいから。高校の描写やザラついた画調が「火山高」に似てるなと思ったら、あの映画の監督なのね。
ホラーではあるけれど、かなり笑える部分がある。といっても、笑わせようとしているのではなく、マジにやってるのだけどね。ある意味で、バカ映画かも。設定は別として、構成やセリフが3流で、素材を生かし切れていない。そういう3流バカ映画を楽しむ覚悟で行けば、腹は立たないかも。それにしても盛り上がるというより、疑問の山ばかり。大声で叫んでばかりの兄・篤にあきれ、学習能力のない弟・明にはイライラさせられ通し。
冒頭で、吸血鬼の頭に矢が2本刺さるのだが、誰が射たのだ? というようなツッコミが山のようにできる映画。大雑把、大アバウト。しかし、青山冷(水川あさみ、セリフ棒読み)という女の立ち位置、意図が分からん。人間の味方なのか吸血鬼側なのか? さらに、「吸血鬼に噛まれただけでは、吸血鬼にはならない。血が混じると、吸血鬼になる」という都合のいい設定は、いい加減すぎるだろ。それに、一行が彼岸島に着くなり捕まってしまうのだけれど、誰ひとり吸血鬼にされない。次に女子高生ユキが捕まった時も、吸血鬼につれない。ユキを殺さずにおく必然性はないのだが・・・。というご都合主義ばかりで飽きる。もっとスリリングに捕まり、合理的に逃げ出して欲しいものだ。ま、そういう脚本が思いつかないのだろうけど。
そもそも吸血鬼の登場は、篤(渡辺大)が、知らずに封印を破り、吸血鬼のボス雅(山本耕史)を解き放したのが原因。それで篤の恋人や島民が殺され=吸血鬼になったのに、篤は罪悪感をあまり感じていないのが不思議。島民のレジスタンス(笑える)からも受け入れられているのも、変。フツーなら「お前のせいで」となぶり殺しではないの?
では、島の吸血鬼はみな、元島民なのか? が、オババ=吸血コウモリ(?)なのだが、こいつはどこからでてきたのだ? エイリアンみたいな怪獣も、どこからでてきた? っていうか、吸血鬼とどういう関係かがあるのだ? 日本兵や土民がいたりするのは、みな墓場から甦ってきたのか? なら、そういうシーンを入れるべきだよな。それに、神社の中にあった写真に、島民と雅が一緒に写真に写っているのがあったけど、むかしは協調していたのか? などなど、疑問というか、説明の足りないそれこそ山のようにある。いちいち挙げていては追いつかないので、もうやめておこう。
構成でいうと、前半の高校生諸君が島に渡り、捕縛されて逃げて・・・が、長すぎる。ががっと短縮したほうがいい。さらに、篤が封印を解いた、らしい、という伏線を前半の早いうちに張っておくべきだね。その方が、謎を解く楽しみがでると思う。最初の方の、冷と、冷を監視する吸血鬼、さらに、明に絡んできた不良のシーンなど、なくてもいい。まあ、映画にとって何が必要で、どこを省略すればいいか、の勘所が分からん連中がつくってるんだろうけどね。
脇の役者は数多く出ているが、ほとんど活かされていない。あの日本兵の軍医みたいなのは面白そうだったのに。高校生6人が島に渡り、1人しか死なないのも、ううむだね。しかも、犠牲になるのは一番弱くて可哀想なやつ。それはないよなあ。
おとうと2/3上野東急2監督/山田洋次脚本/山田洋次、平松恵美子
くだらない。時代錯誤。観客はじじいばばあが主で、こういう映画は50代以上にしか見られない、のだろうなと思った。それにしても、山田洋次は耄碌したか。こんな時代とズレた映画をつくるなんて。まるでケータイもネットもないような世界の人情物語。それも、「男はつらいよ」の二番煎じのような話をつくって、満足なのか?
夫に先立たれ、女手ひとつで娘・蒼井優を育て上げた吉永小百合。彼女には、奔放でだらしのない弟・笑福亭鶴瓶がいる。蒼井優の結婚式でも酔っぱらって大騒ぎ。新郎側に文句をいわれる・・・。っていう設定に、リアリティがない。酔っぱらう前に監視しろよ。吉永・鶴瓶の兄・小林稔侍だって出席してるんだ。いくらでも事前に止められるだろ。と、見えてしまう。なのに、そうは描かず、鶴瓶の無軌道ぶりに重点を置く。このわざとらしい演出がいやらしい。
蒼井の結婚相手は医者なのだが、「あんな弟がいるなら事前にいってくれないと」だの「免許を取るなら実家から出してもらえ」「歯の治療なんか結婚前にしておけ」と言われ、夫婦間の会話もなくなってあっという間に離婚する。おいおい。そりゃ、蒼井の男選びの眼力がなかった、ってことではないの? 医者が忙しいのは当たり前。婚約期間は、そうじゃなかったのかい? とかね、変なところがたくさんある。都合の悪い人物、良くない側の人物の造形が、あまりにもステレオタイプ。それも、古臭いパターンに陥っている。書き割りを見ているような気分になった。
その他、登場する脇役も、真面目な大工・加瀬亮に、気のオジサンたち(森本レオ、笹野高史)と、「男はつらいよ」または、それ以前の社会派ドラマとおんなじ。世の中、進んでるのだよ。進んでいる、といえば、蒼井優が実家に逃げもどってきたとき、吉永が夫に「話したの」というと、「メールした」と蒼井がいう。これに吉永があきれ顔になるのだけれど、夫婦でメールなんて当たり前じゃん。それが分かっていない人なのだよ、もう山田洋次は。
吉永が蒼井の亭主に会いに行く。そこで「薬局も大変ですね。ドラッグストアが増えて」というのだけれど、吉永のところは処方箋を受け付ける調剤薬局。薬店であるドラッグストアとは基本的に競合しないのではないのかな?
この映画の妙なところは、すべて説明してしまう過剰なセリフと、意味のない登場人物(たとえば製薬会社のMR)やその動きにもある。とくに前半部に多いのだけれど、噛んで含めるような、状況まですべて説明してしまうようなくどいセリフが、映画のテンポを疎外している。ユーモア部分も、勘所が悪くてズレているから、ほとんど笑えない。
ムダな人物は、リアリティを出すため、とでも説明するのかも知れないけれど、うっとうしいだけだ。そんなことより、もっとちゃんと描かなくてはならないものがあると思うんだが。
いちばん理解できないのは、姉の弟に対する気持ちだな。世話の焼ける弟だけれど、見放すことができない、という思いがぜーんぜんどこにも感じられない。あんな姉が、いまどきいるか? 単なる甘やかしでしかないよね。兄・小林念侍は、ぜんぜん兄の役割を果たしていないし。なんか、あの兄弟の関係が理解できない。末っ子の鶴瓶が親に可愛がられなかった、なんていうセリフもあったけれど、フツー、逆だろ。末っ子が可愛がられるだろ。その鶴瓶の、芸人になりたくてなれない、中途半端な破滅型人生も見えてこない。もともと鶴瓶は地を出すしかできない人だから、ほとんど演技をしていない。それだけに、共感できる悪人が造形できていない。姉の吉永も、なんだかマネキンのような、存在感のないワンパターンなしゃべり方しかしない。みんな、バラバラに浮きまくっているのだよなあ。同情も何も、ないよなあ。
そうそう。弟危篤の連絡が吉永から蒼井にあり、加瀬亮が蒼井をクルマで送っていくことになる。雨の夜。時刻は9時ぐらい。軽自動車。で、到着したのは日の出前の様子。おいおい。大阪まで500キロあるのに、何キロで飛ばしたんだ? 結局、なんとかというホスピス団体のヨイショがしたかったのかな。いまどき通用しない、古臭い社会派映画だよなあ。ま、見る方も、たとえ見ている間に同情したとしても、映画館をでたらさっさと忘れて、消費行動! のオバサンばかりだよ。きっと。
「おとうと」・・・これって、オリジナルじゃないよな。昔、同じタイトルの映画があったよなあ。と思いつつのエンドクレジット。原作・幸田文とでてきて、 ああ。で、最後に献辞がでてきた。市川崑。そうか。市川崑の「おとうと」か。見てないなきっと。
あ、それから、慣れない手持ちカメラのブレが、気持ち悪かった。新たな表現様式を採り入れたつもり、なのかな?
ドゥーニャとデイジー2/4飯田橋ギンレイ監督/ダナ・ネクスタン脚本/ロバート・アルベルディンク・タイム
原題は"Dunya & Desie"。オランダ/ベルギー映画。ドイツ語みたいに思っていたけれど、オランダ語だったのね。
舞台は現代のオランダ。モロッコからオランダに移住した一家がいて、そこに18歳になりたての娘ドゥーニャがいる(美しい顔立ち。実際は23歳ぐらいのようだ)。大家族でイスラム教徒。真面目で律儀。故国に住むはとことの結婚話がもちあがり、突如、一家で帰省することになる(一時的な帰省なのか、完全なる移住なのか分からない)。
一方のデイジーはオランダ人。実母・義父と一緒に住んでいる。ワガママで飽きっぽく仕事がつづかない。浮気性で恋人をとっかえひっかえしていたが、教習所の講師の子を身ごもってしまう。ドゥーニャと相談して堕ろすことにしたのだけれど、母親同様、実父のいない子供を産もうとしている自分が正しいのか? 生む前に実父に会って、自分は望まれて生まれてきたのかを聞きただそうと、実父の住むモロッコへ向かう。
後半はモロッコでのドゥーニャとデイジーの珍道中。ケンカしたり助け合ったりしながら、2人はなんとか父親に巡り会うのだけれど、話がシンプルな分エピソードが多い。そのエピソードが面白く、かつ、人物をうまく描くのに成功していると思う。
2人の関係はデイジーのワガママをドゥーニャが受け入れる、というパターン。昨日の「おとうと」と比べ、その関係が生き生きと、自然に描かれている。作為が感じられないのだ。「おとうと」は、それこそ作為のオンパレードだったからね。
オランダ生まれで、祖国を知らないドューニャ。両親の世代は故国の因習を大切にし、ドゥーニャの結婚話も当然ことと考えている。でも、オランダ生まれのドゥーニャには理解不能なことだ。こういう文化の差の表現は、「ベッカムに恋して」と似ていて興味深い。
方やデイジーは、大麻も合法の国からモロッコへ行き、そこで自国の生活スタイルを押し通すデイジー。困った外国人の典型だ。そのズレ具合が、面白く描かれている。
モロッコなんて、と思っていたドューニャ。偶然ながら、自分たちの一族の発祥の地を訪れてしまう。なにかの因縁を感じるドゥーニャ。この辺りは、理屈ではない何かを感じさせてくれる。モロッコの大工の青年に一目惚れしたり、カサブランカで占い師に見てもらったのも含めて、オランダ育ちといえど彼女はモロッコ人なのだな、と思わせてくれる。こういうところは、在日韓国人などの感覚と似ているのだろうか。
デイジーは、顔も見たことのない父親に捨てられた、という思いがあったのだろう。それで、世間を斜めに見ていたのかも知れない。かつて、ドゥーニャと埋めたタイムカプセルの中に、父親のモロッコの住所を入れておいたのも、そうした気持ちの先送り、のつもりだったんだろう。しかし、自分が身ごもって、お腹の中にいる子供に対する責任、を感じるようになったというわけだ。自分は、捨てられた側だったけれど、いま、捨てる側に立ってしまった、と。それで、自分の存在意義を確認する必要があった、というわけだ。
ドゥーニャも、自分のルーツを再確認することで、先進国に生きる身でありながら、自信に流れている血の意味を感じ取った、ということなのだろう。それは、否定することのできない事実なのだからね。こういう、自分を見つめ直す過程が、いささかコミカルに描写されていく。なかなか、深いと思う。
まあ、多少、合理性に欠ける部分はあるとしても、それはそれ。性格の違う2人の友情を通して、興味深く描かれている。2人を演じる役者も、役柄にあった顔立ち、演技で、良かった。
私の中のあなた2/4飯田橋ギンレイ監督/ニック・カサヴェテス脚本/ジェレミー・レヴェン、ニック・カサヴェテス
原題は"My Sister's Keeper"。幼い娘ケイトが白血病になった。将来の腎移植が必要だという。しかし両親(ジェイソン・パトリック、キャメロン・ディアス)も息子も合致しない。そこで、医師に勧められて(倫理的に問題があるらしい)、遺伝子操作で合致する妹アナをつくる。そのアナが、11歳になったとき、弁護士を雇い両親を訴え、裁判を起こす。自分が姉のために犠牲になるのはおかしい、と。
この展開を見て、これは凄い映画なのかも知れない、と思った。家族、ドナー、医療裁判などの要素がじかに取り上げられているからだ。とくに、アナの葛藤は凄まじいはず。なので、どういう話になっていくのか、とても興味深く見ていった。ところが、どーも話が妙なのだ。家族の中でアナの気持ちをまったく分かろうとしない人物がいる。キャメロンだ。キャメロンは、アナに訴えを取り下げるよう迫るのだけれど、アナは動じない。うわ。この娘、11歳なのに凄いな、である。
個人的にはどちらかというとアナの立場や気持ちに与したい立場の俺だ。しかし、同じ家に住みながら、姉の命を助ける立場を放棄するというのは、並大抵ではないはず。だってまだ扶養家族なのだから。日本なら「あんたはお姉ちゃんが死んでもいいの?」とか「私が死ねばいいっていうの!」なんて修羅場になって家族崩壊。アナは親戚に預けられて・・・とか、考えてしまう。ところが、この映画では係争中でありながらアナは家族と仲よく暮らし、ケイトの見舞にもよく行く。父親はアナに優しいし、ケイトもアナを恨んでいない。いったい、どういう神経で共同生活をしているのだ? と、疑問を抱きつつ見ていた。
なるほど、と分かるのは、裁判の途中でアナがケイトに電話するシーン。その受話器を父親が奪い取るのだ。そうか。裏で糸を引いていたのはケイトなのか。そうだよな。11歳のアナがひとりで資料を集めたり理論武装できっこない。ましてや、いくら自分の負担が大きいからといって、姉を見殺しにすることになる、のだから。そんなこと、11歳の少女にはムリだろう。
で、からくりが分かってしまうと、話が俄然つまらなくなった。だって、最初に思った、11歳の少女が自分の権利を守るために起こした裁判、の行方が雲散霧消しちゃったのだから。ケイトの指示だということなら、アナの負荷も小さい。兄も、ケイトの指示だと言うことを知っていた。父親は、最初は知らなかったみたいだが、途中で気づく。要するに、ケイトの「もう手術は嫌。死にたい」というケイトの訴えに、聞く耳を持たなかったのは、母親だったのだから。
そこで分かるのが、この映画は「死にゆく人の声を聞けない人がいる」ということを描いた映画だということだ。キャメロンは、ケイトを「生かす」ことに夢中になってしまい「逝かす」ことに思いが至らなくなってしまっていた。その、自分の生活も犠牲にしてケイトのためにすべてを捧げてきた母親の、盲目ぶりが描かれているのだ。
そんなキャメロンに対して、きっと夫も息子も、「困ったもんだ」と思っていた様子。ただし、そういう過去は描かれない。だから、観客は、アナの意志について思いをめぐらす。しかし、まんまとハメられたわけだ。ううむ。終わってみればよくある話で、生とか死とか、ドナーの負担だとか、核心にはほとんど触れずに終わってしまった。興味の行方はいささか薄れたけれど、まあ、それなりの評価は与えたい。それにしても、キャメロンは異常なタイプの母親として描かれてたけどね。かなり浮いていた。
弁護士役のアレック・ボールドウィンがよかった。てんかん持ちという設定で、持病を抱えながらのやり手、というのも興味深い。ジョーン・キューザックも、娘を失って復帰したての判事を好演。神経質そうな感じがよくでていた。こうやってハンディのある設定の人物を配すると、それぞれの人生の厚みが見えてくる。という一方で、一家の親戚の存在感の薄いのが気になってしまう。ケイトの発病以来疎遠になっている、とあったけれど、もうちょいやりようがあったんじゃないのかね。
中盤はケイトと、同じ患者仲間のテイラーとのロマンスのシーンがつづくのだけれど、ちょっと長すぎる。もうちょい端折っても良かったかも。
キャメロンが、本気でやっている。ケイトが「外へ出ると変なのが来た、といわれるからいやだ」というと、すかさず長い髪をバリカンで剃ってしまう。あれはCGじゃないだろ? だとすれば、素晴らしいことだ。日本の役者なんか、男優すらも頭を丸めないからな。それにしても、遺伝子操作で、びたり合致するドナーがつくれるのか? すでに。あ、あと、キャメロンが弁護士で、亭主が消防手というのも、ちょっと気になってしまった。そういうカップルは、少なくないのか?
ゴールデンスランバー2/5キネカ大森2監督/中村義洋脚本/中村義洋、林民夫、鈴木謙一
観客数は4人かな。総理大臣が爆殺され、その実行犯にされられた男の逃走劇。しかし、どこにも疾走感がない。全編を通してあまりにも杜撰なので辟易。「ザ・シューター/極大射程」と比べてみたら月とスッポン。リアリティ=らしさ、のかけらもない。国家権力による陰謀論をもちだすなら、ありえるかも、という雰囲気をウソでもいいから描かなくてはね。
堺雅人が、大学の同級生吉岡秀隆に呼び出される。「釣りに行こう」。で、首相パレード近くにクルマを停め(フツー無理だろ)、しばらく後に爆破。吉岡のクルマも爆発。堺が逃げる。・・・という時点で、おいおい。吉岡は妻の借金を脅され、堺を呼び出すよう言われたという。そもそも権力がこんな人間をスケープゴートにするはずがない。もっと"得体の知れない"人間はたくさんいる。たまたま2年前にアイドルを救って時の人になっただけの堺なんか、やりにくいだけだ。それなりの理由、が必要だよな。
吉岡も、たかが借金で友人を売るか? 権力も、こんな素人をメッセンジャーに使うか? 吉岡はクルマに爆弾が仕掛けてあるのに気づいている。フツー逃げるだろ。または、勇気ある人間なら、権力を告発するだろ。
というわけで、以下疑問点の羅列。アイドルを救い、2年前にニュースにでただけの堺。その彼を、行き交う人が振り返る。あり得ない。誰も覚えていないよ。
永島敏行他の警官が、すぐに発砲。あり得ないだろ。権力中枢のグループが、堺のスケープゴート作戦を知っていたとしても、現場の人間には伝わってないはず。そんな簡単に、発砲なんて無理だぜ。
通り魔少年は、何なんだ? なんの因果関係もなく、偶然性に支配されているだけ。意味がない。そもそも、通り魔少年の問題には一切触れない、というのも変だろ。殺人者に支持されても、しょうがないと思うがね。
自分の運送会社に、大きな段ボールを配送依頼する。来たのは同僚で、堺は箱をかぶってどこかのマンションを脱出し、同僚の車の荷台に載る。・・・わざわざマンションまででむき、箱に入ってマンションから出る、という面倒くさいことをする必要が、どこにある? それに、誰が段ボールを運んでくるか分からないではないか? 堺は、会社の人間を信頼したのか? アホである。その同僚は、途中で「警察に引き渡す」といい、警察に連絡。が、結局、引き渡さず、自分が人質となって堺を逃がす。・・・という面倒くさいことをする必要が、どこにある? 同僚は堺の味方か? ならば、北へ連れて逃げればいい。では、警察に引き渡すつもりなのか? では、なぜ人質になったりしたのか? ここ、意味不明。
10年近くナンバー付きで放置されていたクルマ。バッテリー交換したら動くって・・・。ガソリンは、タイヤは、オイルは、どうすんだ? それに、あんなボロ車なんて目立ってしょうがないだろ。クルマで移動するメリットが考えつかない! そうそう。クルマが放置されていた場所から、民家が派手に見える、ということは、民家からも見えるわけで、そんなところに放置されつづることはあり得ない!
入院中の柄本明が、竹内結子にマンホール作戦を伝授する。が、柄本って何物? 裏家業って? 地下の地図ももってるってことは工事業者?、なんで軽くてピタリとハマルマンホールの蓋を何10枚ももってるの? 地下道沿いに街を移動するメリットって、あるのか?
マンホールから花火なんて打ち上げられない。
病院の柄本、花火師のベンガル、アイドルの貫地谷しほり・・・。接点も少ないのに、堺を救う民間人が多いのは不自然。
iPodがポケットにあったおかげで、銃弾が貫通しなかった・・・。うそつけ。
堺をだます手伝いをしたラジコン娘は、どこへ行った。あれも警察官か? 脅されたひとりか? 整形してどこかで暮らしているのか? ラジコン中の証拠ビデオ、を撮ったと称する人物は? 他にも目撃者がいるかも知れないではないか。それから、整形した医師。通り魔少年とツーカーだったみたいたけど、あの医師も権力側に丸め込まれたままなのか?
ラスト、堺の顔に整形された男の死体が見つかって一件落着。が、堺は整形して逃げ延びていた。では、誰が整形してくれたのだ? 権力の手助けをした医師・・・のはずはないよな。整形した時点で、見つかるだろ。いや、それ以前に、整形する必要はないだろ。もし堺が実家に戻って暮らし始めたら、周囲は「堺が生きている」と知る。それがマスコミに知れれば、権力の工作が発覚する可能性もある。じゃないの?
とまあ、杜撰の嵐だ。で。分からなかったところをひとつ。堺が電気店でワンセグを買う。バス停でカップルに拾われる。警察が携帯の発信源を調べたら、カップルの携帯。・・・っていうシーンが、分からない。カップルは、ICレコーダみたいなのをもってたように見えたけど、なんなんだ? 携帯を交換したのか? ううむ。
それにしても、そもそもの土台がよく分からない。なぜ首相が暗殺されるハメになったのか。検察・警察勢力に不利な政策を実行しそうだから、消した。とか、分かりやすい、そもそもの原因をちゃんと描いて欲しい。その上で、なぜ犯人を一般人の中から選択したか、という過程もさらりと紹介するなどすれば、もっと闇の部分が描けたと思うのだが。4人の学生生活だの思い出だの、つまらんことに時間を割きすぎなのではないか。それにしても、大卒で運送会社のドライバーということは、ごくフツーの学生だった、ってことなのかね。その過去に、権力にリストアップされられた原因があるとかだったら意味があるだろうけど、映画のリズムや疾走感を削ぐだけだったね。
クヒオ大佐2/5キネカ大森3監督/吉田大八脚本/香川まさひと、吉田大八
1日1回19時50分からの回なのだが、本日が最終日。だからなのか40席がほとんど埋まった。評判がいいのかな。で、見たら、なかなかに映画的。ストーリーを追うだけでなく、映画表現としてもなかなか見るべき部分があって、とても楽しめた。クヒオ大佐のことは、よく知らない。そんなに話題になった人だったのかな。とても興味が湧いた。
ポスターでは、大佐の周囲に3人の女。なので、次々と女を騙して籠絡させて・・・と思ったら、そうではなかった。完全に騙されていたのは弁当屋の社長・松雪泰子だけ。科学館の職員・満島ひかりは、一度だけ体は許したが金は取られていない。バーの女・中村優子は、大佐よりも一枚上手。なので、ポスターはウソつきまくりだ。
あんな詐欺師に騙される女がいるのか? とは、思う。しかし、実話に基づいているのだから、疑問の余地はない。いるのだ。そういう女が。松雪には、そこまで男にひたむき、ずるずる、という女性像は描けていないと思う。ここは思い切って、藤山直美とか渡辺えりあたり、または、同系のもう少し若い役者(って、だれかいるか?)に演じてもらえると、登場するだけで「なるほど」と納得できるんだが。松雪では「容疑者Xの献身」でも感じたような、弁当屋の経営者って感じではないだろ、という違和感が残ってしまう。これが残念。しかし、ずるずると振りまわされる(疑わない)様子は、哀れだけれど面白い。
松雪のパートで光っているのが、弟役の新井浩文。これが素晴らしくいい。大佐が機上からというウソ電話をかけると、弟が出でる、という件や、ファミレスのシーンなど、大佐のトンマぶりがあぶり出されるんだけど、新井の役割もとても大きい。悪人ではないけれど、ちょっとヤクザな感じがよくでていた。
満島のパートは、大佐が女をいかに引っかけるか、を紹介している部分。金だけでなく、ちょっと可愛い娘にもアプローチするのだな、と分かる。それも、あんまり頭がよくなくて、でも、生活に不満をもっているような、そんな女性(設定は学芸員らしいが、単なる職員にしか見えない)。それにしても、弁当屋も科学館の職員も、たいした稼ぎはないと思うんだけど、やはりそういうゾーンに属する女性がターゲットにされるのか、と興味深い。それと、満島と上司、同僚の三角関係の話も、話に厚みを加えている。
中村のパートは、ブローチ失敗の事例紹介のパート。水商売の女、と思って接近したけれど、相手がしたたかすぎて、逆襲を食らって慌てる大佐が面白い。が、このパートでは、女に信頼されるためのテクニックが紹介されるので面白い。ギャラリーで、他人のクルマを使ったもの、投資の話などだ。
3人の女性の各パートで、大佐の人となりや行動様式をうまく整理して表現している。うまい脚本だ。大佐の生い立ちの紹介も、長すぎず適切。ただし、冒頭のアナロジーと最後の妄想は、ちょいやり過ぎか。冒頭は分かっていながらアメリカに騙され、もちつもたれつの関係を示唆しているらしいが(見ているときは分からなかった)、分かりにくい。最後の逮捕後の大佐がパイロットとして第一線に向かっている様子・・・は、大佐の頭がちょっとおかしい、妄想癖があるということを言わんとしているのだろうけれど、ズレ過ぎている感じも否めない。もうちょいトーンをゆるめるか、冒頭部分は削除しても十分に成立すると思う。さもなくば、日頃から政府高官からの連絡がある、とか、もっと電波な感じにしちゃうという手もあったのではないのかな。
科学館の前で腕立て伏せをする大佐。家具のほとんどない空虚な部屋に住む大佐。などなど、見せ方も面白い部分が多い。
「ゴールデンスランバー」のいい加減な脚本を見せつけられた後なので、余計にこの映画のカチッとしたところが目についてしまった。
満島ひかり、という女優は魅力がある。フツーのちゃらい姉ちゃんの感じがよくでてる。あどけない表情も、可愛いし。でも、横向きになると、子供っぽい顔に似合わない妙なとんがり鼻が目立つ。あれは整形か?
オーシャンズ2/7新宿ミラノ2監督/ジャック・ペラン、ジャック・クルーゾ脚本/---
原題は"Oc?ans"。フランス映画。海の生物の共生を描いたドキュメンタリー。けれど、ジャック・ペランに似た少年と、ペラン本人も登場する。語りや説明をするのでなく、海を見つめる観客のひとり、のような感じで登場する。IMDbで見ると、少年の名字もペラン。ホントの親子なのかな?
ペランといえば「WATARIDORI」で、彼は自然や環境に興味をもっているのかな。で、映像はとくに目新しいものはない。ひょっとしたらあるのかも知れないけれど、おお! と驚くようなものはない。みな、どっかで見たことがあるような感じのものばかり。
もっとも、「これ、どうやって撮ったのだ?」という映像はある。人間ではなく、遠隔操作らしいもの。ひょっとしたらCG合成? みたいに見えるものもあったりする(違うかも知れないけど)。できれば、エンドロールに、そういう撮影手法のネタバラシをして欲しかったな。
海洋生物の不思議や神秘を見せる、のではなく、捕食関係にあったり、助け合っていたり、というような「関係性」を織りなすように描かれている。絶好のタイミングも少なからずあって、撮るのは大変だったろうな、と思わせる。でも、ダイナミズムや迫力がいまひとつなのだよね。
さらに。後半1/3が、いやらしい。船舶が北氷洋を訪れたり、荒波に揉まれる船が描かれはじめ、網にかかる魚、漁師、ヒレだけを削がれて投棄されるサメなどが描かれる。漁師は明らかに東洋人だし、フカヒレは中国人か日本人だろう。まるで水産物を捕獲する連中は自然破壊の元凶であり、絶滅種をこしらえた張本人である、かのように描かれる。ええい、うっとうしー、西洋人め。の、気分だね。
ジェイン・オースティン 秘められた恋2/8ギンレイホール監督/ジュリアン・ジャロルド脚本/サラ・ウィリアムズ、ケヴィン・フッド
原題は"Becoming Jane"。「ジェインになっていく・・・」ってな意味なのかな。「秘められた恋」はありふれてて、つまんないかも。
ちと睡眠不足であった。なので、ハナから「眠っちゃおうかな」という気分で見はじめた。案の定、寝てしまう。はっ、と気づいたら、穴の開いた手紙につづいてクリケットのシーン。以後ちゃんと見た。まあ、それ程違和感はなかった。で、この映画が終了すると2時でメシ時なのだが、結局「ポー川のひかり」をはさんで4時からの回の冒頭30分余を見直した(寝ていたのはジェインの朗読から舞踏会、森の出会い、ぐらい)。1回目には忙しすぎて何だか分からなかった人物紹介。曲がりなりに見終えているので、よーく分かった。なるほど。しかし、初見ですべて理解するのは困難、と見た。
ジェインの家族+姉の婚約者。ジェインの兄とレフロイ、若い神父の3人組。レフロイと判事をやっている伯父。金持ちレディと、甥。レフロイと、もうひとりの伯父一家。・・・みの辺りが短時間にがががっと描かれていくのだが、最初は追いかけるのを途中でやめちまったもんな。
しばらく前にケーブルで「プライドと偏見」が放送され、録画しておいたのを見たんだが、その内容とこの映画の設定やジェインの体験が似ている。貧乏農家の姉妹を、富豪のところに嫁にやろう、という両親の思い。派遣されてきた神父。理解ある父親。なんていう設定は、ほぼ同じように思える。もしかして、「高慢と偏見」は自らの経験を踏まえて執筆されたのかね。
物語としてどうかといわれると「あ、そう」程度の内容。だってオースティンは読んだことないし、「プライドと偏見」しか知らないから。あ、そうそう。「ジェイン・オースティンの読書会」なんていう映画もあったな。それでも、ジェイン本人を描いたドラマは知らない。で、この映画を見たら、結構、波瀾万丈な恋物語があったんだね、という認識。ま、実話をどこまで脚色しているかは知らないが。
ジェインは、調べたら1775-1817と、日本なら江戸時代中期を生きた人なのだね。当時のイギリスの階級制度や暮らしがよく分からないので、ふーん、そうなのか、と見ていくしかない。
「プライドと偏見」でも思ったんだが、オースティン家は、どういう位置づけなのかよくわからない(そうだよ。俺の知識不足だよ)。父親は牧師をしているが、母親は自分たちを貧乏と思っているみたいだ。でも、地元の社交界には出入りしていて、ジェインは地元の富豪から「嫁に」と乞われる。もしジェインが結婚していたら、オースティン家のステータスも上がった、のかな。ジェインの兄はオックスフォードを卒業したばかり。・・・なんてことを思えば、上流階級に近い存在みたいにも思える。でも、両親が鍬を手に百姓をしていたりするのだよなあ。
ジェインが恋するレフロイ。彼の実家は、かなり金に困っているみたいに描かれている。判事をしてる伯父の援助で生活しているらしいが、伯父は「恋愛結婚なんかするから貧乏なんだ」と自分の妹を蔑んでいる。この当時の現金収入は、どうやってみんな得ていたのだろう。
地元の名士が、ジェインの従姉妹がフランス貴族の嫁(亭主は断頭台へ)だと知ると、なんとなく尊敬のまなざしを向ける。貴族というのは、腐っても鯛だったのね。とか、その階層意識というのか、ピタリと理解できない。ううむ。そういうのが分かると、この映画はもっと面白く見られるのかもね。
富豪の意識が如実に表れている言葉があった。レフロイの伯父が「法律というのは、貧乏人から財産を守るためにあるのだ」と断言するのだ。そうだったのか。法律というのは、そういうものだつたのか。
その他、レフロイがジェインに、森を描いた本の中から、小鳥の交尾の様子を描いた文章を読んで聞かせる。その後の「トム・ジョーンズ」の文学的位置づけなんかも、知っておかなくちゃいかんのだろう。ううむ。だんだん遠い存在になってくるな、この映画。
というわけで、まだまだ自由恋愛がとんでもないこと、と思われていたり。女は「ユーモアはいいがアイロニーはいかん」といわれている時代のことなので、ストンと腑に落ちることはなかった。そういうものなのか、という程度だった。
まあ、ああいう時代に表現者になるのは大変だったでしょうね。周囲の圧力にも負けず、小説を書き通したのだから、すごく意志の強かった女性なのだな。とかね。それにしても、アン・ハサウェイのあの濃い顔は、田舎の百姓の顔じゃないよなあ。
ポー川のひかり2/8ギンレイホール監督/エルマンノ・オルミ脚本/エルマンノ・オルミ
原題は"Cento chiodi"。「100本の釘」という意味らしい。イタリア映画。大学(神学校みたい)の図書館で、事件発生。図書館の本が、床に釘付け状態にされてしまった。警察は「思想犯?」なんて思い、聞き込みを始める。で、たいした苦労もなく、ひげ面でキリスト似の教授が犯人らしいと分かってしまう。・・・あらら。しかも、ミステリじみた部分はここでオシマイ。以後は、教授が川のそばにやってきて、廃屋に住みはじめ、村の人々に受け入れられていく過程を描く。その過程で、教授を慕う12人の村人が、どうも十二使徒のようであり、彼らが用意する横長のテーブルが、最後の晩餐を思わせるように見えてくる。12人は、ポー川の近くに住んでいるのだが、そこはもともと国の地所。突然、測量技師がやってきて、次には立ち退き要求になる。どうやら港をつくるのだという。最後、12人の村人とともに晩餐の後、逮捕される・・・のかと思いきや、教授は二度と戻ってくることはなかった、で終わってしまう。あらららら。ううむ。何が言いたいのだ?
既存のキリスト教的な宗教体系に反旗を翻し、さまよう現在のキリスト? ううむ。よくわからんです。
教授に好意を抱くピザ屋の娘がいるのだけれど、豪傑すぎて可愛げがない。顔も男みたい。郵便配達の青年や、他の村人も、とくに印象に残るようなところがない。
前半の、インド人の生徒やカメラ青年、守衛、学長(?)、女刑事なんか、以後は登場しなくなっちゃうし。どんな意図があるのかも、よく分からない。キリスト教的なことが分からないと、理解できないのかな?
というわけで、途中で少しだけ、うつらうつら(数分かな?)、してしまった。
Web上にある情報では、打ち付けられるのは「古文書」で、主人公は「哲学教授」だと。
パラノーマル・アクティビティ2/9シネマスクエアとうきゅう監督/オーレン・ペリ脚本/オーレン・ペリ
原題は"Paranormal Activity"。「超常的な出来事」というようなことかな。「超常現象」でもいいのかな? 150万程度の予算でつくられ「全米大ヒット」らしい。なで、こりゃ、もの凄くヤバイ映像があるのかと思いきや、大山鳴動せずねずみ一匹もでてこなかった。肩すかし。こんなものが、なぜヒットするのか理解不能。
同棲中の若いカップル。彼はデイトレーダーで、彼女は学生。その彼女に悪魔が憑いているらしく、ラップ現象が起こる。思い返せば昔からで、火事で家が焼けたり、転居したりしながら、現在の住居に"何か"がいるらしい。何かは、家ではなく、彼女に憑いているようだ。で、彼がビデオとマイクを設置し、夜中も含めて記録を始める。すると、異様な音、ドアが動く、彼女が夢遊病状態・・・。などがつづく。超常現象の専門家にも来てもらったが、悪魔憑きは専門外、と逃げてしまう。床に粉を撒いて「何か」の足跡をとったり、天井に誘導されて幼い日の彼女の、焼けた写真を見つけたり。「何か」の行動はエスカレートしていく・・・。
というものなのだが、ちっとも怖くない。そもそも、また悪魔かよ、という気分。なんでアメリカ人は、ホラーというと悪魔が登場しないと気が済まないのか。そんなにキリスト教的な思考が定着しているのか?
フツーのホラーなら彼と彼女は追いつめられていくはずだが、この映画はそうはならない。2人は最後の最後まで自室の寝室で優雅に眠る。悪魔が近くにいるっていうのに、逃げも隠れもしない。誰かに助けを乞うこともない(専門家に2度だけ来てもらったけど)。だから、緊迫感がない。たとえば後半で、彼女が寝ているとき足を引っぱられて部屋の外につれていかれたとき、思わず笑ってしまった。それにさ、寝るときっていつもドア開けっ放しなのかい? 変じゃねえの?
悪魔のいたずらは少しずつエスカレートするけど、派手じゃない。小出し。ひかえめで、つつましやか。どうせやるなら、さっさとやっちまえ、と檄を飛ばしたくなるほど消極的だ。で、最初は音だけ、ドアの開け閉め、ランプを揺らす、ちょっと憑依、足を引っぱる、最後はまたまた憑依。というような感じで、他の悪魔もののように、実体としては登場しない。ひょっとして、これはジャパニーズホラーの影響? で、実体があるんだかないんだか知らないけど、足跡がつくっていうのは、そりゃ実体があるってことであって、つまりは、透明悪魔だってことかい?
彼は面白がって、積極的に記録しようとする。彼女は「カメラは相手を刺戟する」と否定的。彼女は「専門家にまた来てもらおう」というが、彼はそれには否定的。彼は「家をでよう」というのに、彼女は「嫌」という。・・・このあたりの主義主張が変。毎日、何かがやってきて、その行動がエスカレートしているってのに、具体的な対抗策を取らない。映画を引っぱるためだけに、そうしているとしか思えない。
いくらでも対応できるだろ。広い家なんだから友だちや家族に来てもらう。悪魔払い師は他にもいるのだから、呼べばいい。なんなら、地元のテレビ局も呼べばいい。
それに、何といっても変なのは、電気を点けないことだな。夜中、異常があったら、さっさと明るくするだろ。なのに、ビデオカメラのライトだけで怖々移動したりする。変だろ、それって。
ぎゃーぎゃー怖がって叫びながら、女がちゃんとビデオだけはしっかり撮っているのも、かなり不自然。「ビデオなんか撮るな」っていってるくせに。で、最後は悪魔憑きの彼女が、彼をドーンと突き飛ばしてオシマイ。おいおい。
というわけで、ふーん、な映画であった。それにしても、一番「?」なのは、あんな不細工なデブ女に悪魔が憑いている、ってことだと思う。そんなにたいそうな女なのか、彼女は?
ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女2/12シネ・リーブル池袋2監督/ニールス・アルデン・オプレヴ脚本/ニコライ・アーセル、ラスマス・ヘイスターバング
原題は"Man som hatar kvinnor"。スウェーデン/デンマーク/ドイツ映画。なーんも知らずに見たのだが、この原作は"このミス"なんかで高評価のミステリーだったのね。ふーん。最近はそっち方面疎いもんで。ははは。しかし、タイトルやポスターが陰気すぎて、イメージ良くないね。
体調はよくない。抗アレルギー薬を飲んでいて、半睡状態で入った。もう、途中で熟睡、も覚悟して。ところが最後まで時間を忘れて見てしまった。見終えて、「この映画2時間半もあったの? と思ったぐらい。それぐらい引きがあった。がしかし、冒頭から登場するわけの分からん名前がたくさんでてくるのにうんざりして、それを覚えよう、という意欲がなくなっていた。もうちょい名前を覚えて、セリフ=字幕を丁寧に読み込めば、もっと面白く見られただろうな、と後半になるにつれて思うようになった。この小屋では、この映画は入れ替え制。もしそうじゃなかったら、もう1回つづけて見たいところだ。数年後にケーブルでオンエアされたら、巻き戻しつつ確認しながら見ていきたい。そう思わせるほど、人物関係がわかりにくい。そこのところを考慮してつくってくれたらよかったのにな、と思ったのだった。
すべてを語らず、想像させるところが多い。たとえば、ヒロインのリスベット。なぜ鑑別所or刑務所にいたのか? それがMacの使い手に? ハッカー並? 検索能力と推理力は、人並み以上。なんで? ぐらいにとどめている。すべて説明しない。といって、根拠をまったく示さないわけではない。そのあたりのさじ加減がちょうどよくミステリアス。主人公のミカエルも、ほどほどの紹介しかされず、離婚してひとり、というのも軽く紹介されるのみ。それでも、キャラがちゃんと描けている。
終わってみれば、リスベットの過去や、彼女の保護観察官による性的暴行なんかもちゃんと伏線になっていて、なーるほど。もっとも、消えた少女をめぐる一族のあれやこれやは複雑すぎて、舌足らず。とつぜん同年齢の従姉妹の存在が強調されて、ええっ! となったり、映画ならではのいたしかたない省略も多い。できることなら、問題の一族の相関関係、とか、現在の状況なんかを少し丁寧に描いてくれると、おおっ! となったかも知れない。
WebとMacがよくでてくる。あまりにも簡単にハッキングしたり、つごうよくWebで情報が見つかったりするのはご愛敬か。が、「聖書の言葉」は見せかけで、実はユダヤ人嫌いのナチ、しかも、鬼畜という件は歯切れよかった。まあ、一族の中に犯人がいると分かっていながら、40年も知られなかった理由、の方が問題だとは思うが。しょせんミステリーだからな、しょうがない。
ミレニアムというのは雑誌の名前で、ミカエルはそこの記者。でも、かなりのオッサンだ。調査を依頼され、その謎に興味をもってしまうリスベットは、ヒロインといいながらも、かなりのブサイク。裸のシーンもあって胸もでるのだけれど、ちょっと胸板の厚い男、みたいにしか見えない。ここらへんの色っぽさのなさは、かなりマイナス。野性的ななかにも、女らしさはもう少し出して欲しかったかも。
エンドロー目の後に、次回作の予告編がついていた。おお。こっちでは、もうちょい個人に寄った描写もあるのかな? そしたら、ドラマに厚みが出るだろうな。
バレンタインデー2/17池袋東急監督/ゲイリー・マーシャル脚本/キャサリン・ファゲイト
原題は"Valentine's Day"。予告編を見たとき、これは「ラブ・アクチュアリー」の続編か二番煎じかパクリ、と思っていた。製作、監督、脚本に共通人物がいないところをみると、二番煎じなのだろう。というか、劣化コピーだな。
ほとんど流れは「ラブ・アクチュアリー」と同じ。少女が片思いする少年がいたり、老齢カップルがいたり、身近にいた理想の相手を見つけられずにいたり、とエピソードも似通ってて、新鮮味がない。しかも、「ラブ・アクチュアリー」では各エピソードのキャラがちゃんと見分けられたのに比べると、こちらは同じような顔の女が3、4人、似た顔立ちの男が3、4人登場するので、エピソードの始まり経過が把握しづらい。有名スター何人かを除くと、存在感もなさ過ぎる。それでいて、各エピソードのつながり(重なり合う部分)は「ラブ・アクチュアリー」よりも多いので、余計に混乱してしまう。
睡眠不足のせいもあったかも知れない。それでも、キャラの見分け方、氏名の記憶には、早々にギブアップ。なので、余計に身が入らない。次第に、眠くなってきた。
伏線の張り方も下手。自分は医者の恋人、と思っている娘が登場する。彼女は、花家の青年の友人。が、この友人は医者が既婚者であることを知っている、という設定で進むのだが、友人がいつこの事実を知ったか、なんていうことは描かない。なので、いきなりの話のような印象を受けてしまう。さらに、彼女は小学校の先生である、というのも、後から分かったりする。こういう演出というか構成が多くて、いらいらさせられる。
上の医者がらみで、変なこと。医者は「出張だ」といって娘のところに外泊し、家に戻っていく。娘はその医者を追って驚かせよう、という魂胆。でね。医者はロスから飛行機で帰ったんだよ。当然、娘も飛行機を使ったはず。で、医者が女房と会食中に乗り込んで、医者をビックリさせるのだが・・・。娘はレストランの支配人にウェイトレスのエプロンを借りたという設定だ。そんなことができたのも、支配人の子供が娘の教え子だから、らしい。え?  支配人の子供は飛行機に乗ってロスまで学校に通っているのか? それとも、昔の教え子だった? なんか、テキトー過ぎるねえ。
といった塩梅で、いまひとつ理解が深くなく、どのエピソードも盛り上がらず中途半端。寒々しい感じだけが吹き抜けていった。
役者名ではジェシカ・アルバが最初なんだけれど、いい役ではない。しかも、少女らしい尖った魅力がすっかり抜け落ちて、ただのバカ娘顔になってしまっている。ほんとうに、女の子って20歳過ぎると、一気にアホヅラになるよなあ。
ボーイズ・オン・ザ・ラン2/18シネセゾン渋谷監督/三浦大輔脚本/三浦大輔
主演は峯田和伸。峯田といえば「アイデン&ティティ」で、実は、銀杏BOYZのことはまったく知らない。峯田のイメージは、情けない青年ミュージシャンだ。で今回もその路線で、でも、徹底して情けなくてだらしなくて暗くてみじめな末期青年(設定は29歳)を演じている。気味が悪くて見ていて恥ずかしいほどだ。でも、こういうキャラはいつもなので、しかも銀杏BOYZのことはほとんど知らないので、峯田というと、ああ、あの男ね、というイメージが付いてしまった。
で、今回は性欲満々なのに奥手で、コミュニケーションも上手くとれずお世辞やお追従も言えず、女の子とは酒の勢いでしか話せないような、でも、テレクラに行ったり(電話の主と会ったらブタ女で勃起せず。女なら誰でもいいわけじゃなく、ちゃんと理想はある)、セックスショップでオナニー器具を買ったりAVのDVDをたくさん買い込んだりはできる、という、ちょっと複雑なキャラを演じている。複雑そうに見えてもそれは表出されたものがそう見えるだけで、実は、たんに気の弱い男、であるのだけどね。
だからこそ、かもしれないが、共感できてしまう部分がてんこ盛りで、もちろんその多くはかなり誇張されてはいるのだけれど、なかなかに恥ずかしい。その先が読めてしまいそうで、いてもたってもいられない思いにとらわれたりする。そうなんだよ。女にもててケンカも強くて、何不自由なく生きているやつ(青山・松田龍平)みたいなのがいるし、そういうやつにくっついていい思いしているやつもいる。なのにこちらは、今の言葉でいうと非モテで、金も経験もなく、ケンカも弱い。なんの取り柄もないうじうじ野郎だったなあ。
勢いでラブホに行き、彼女に「まだ早い」と断られ、それでも翌朝、彼女から(もう少し一緒に過ごしたい)と意思表示されているのにそれを理解できない主人公。ああ、いらいらする。そんな彼女が、あっという間に別の男とつき合うようになってしまう・・・。
この映画の主人公田西(峯田)は、気弱で奥手なんだけれど、最後には彼女のために青山の会社・マンモスまで乗り込んでいって、サシでケンカする。結局のされちゃうんだけど、でも、ケンカしに行く覚悟ができていて、実際、乗り込んでいってしまうところは真似ができない。あそこまでダメ人間とスタンプを押されたくない、という気持ちが前に出てしまうんだろう。情けないといえば情けないが、たいがいの男はそうやってどこかで折り合いをつけながら、大人になっていくんだと思う。恥ずかしい記憶を頭の片隅に押し込めながら。
というわけで、この映画の恥ずかしさは、自分自身の恥ずかしさにも通ずる部分があるわけで、そういう気持ちを頭の片隅から引っ張り出すことに成功しているだけでも、まいりました、だ。
自分が好きになり、守らなければならない、と思う女性が、徹底して自分を裏切ってしまっていたことだとか。好きな女の子がいても目先の女に勃起してしまうところだとか。思わず見栄を張って嘘をついてしまうところだとか。思い出したくないあれやこれやは、また、頭の中の片隅にしまい込むことにしよう。
設定も面白い。そうか。あのガチャガチャにも企画・営業があって、しのぎを削っているなんてね。いっちゃ悪いけれど、花形的な仕事ではなく、自慢できるようなものでもない。青山のマンモスはバンダイみたいな大企業だけど、田西の会社は中小企業。アイディアもので勝負をかけている、なんてね。具体的すぎて、悲哀まで聞こえてきそうだ。
社長のリリー・フランキー。キャスティングが素晴らしい。上司の、いつも酒ばかり飲んでいる鈴木さんに、小林薫。前半は、どういう使い方なんだ? と思っていたら、後半で大活躍。マンモスの上司の岩松了も、出番は少ないけど、目立っている。ヒロインの植村ちはるに、黒川芽以。小太りでむっちり。とりたてて美人でもなく、とくべつ可愛いわけでもない。どちらかというと、アホな女がとても似合っていた。田西の峯田は、メガネをかけているときは、これまでのイメージを踏襲できていたんだけれど、砂場でケンカしてメガネを飛ばされた部分では、かなり年齢がでてしまっていた。ああ、この手のキャラは、もうムリかもなあ、と思った。YOUは、ま、あんなもんだろ。
感動的なのが、乗り込む前の日の、「夢をあきらめないで」の絶唱と、それにかぶる峯田の疾駆シーン。一途な思いがつたわってくる。ああ、恥ずかしい。
ラブリーボーン2/20MOVIX亀有シアター1監督/ピーター・ジャクソン脚本/フラン・ウォルシュ、フィリッパ・ボウエン、ピーター・ジャクソン
原題は"The Lovely Bones"。「愛しい骨」って、ううむ。どういう意味なのだ? 主人公の少女が殺されて・・・という設定は知っていた。なので、意外性は欠如した状態で見た。そそれと、ファンタジーっぽくて変、という意見も目にしていた。詳しくは知らなかったけど。で、最初の1/3ぐらい。犯人の隣人ハーヴィの家に刑事がやってくるところまでは、ごくフツーのサスペンス。もっとも、殺された少女スージーのナレーションはサスペンスではないかも。それに、死んだばかりのスージーの思念のような部分も多少ある。けれど、そんなに異常ではない。ところが、突然「大霊界」の世界が始まってしまうのだよ。
それは金色だったりトウモロコシ畑だったり森だったりするのだけれど、この世とあの世の端境。成仏できない霊が彷徨っている世界だ。そこで、スージーは別の少女に出会い、これから天国に行くのだ、と教えられる。しかし、この世に未練のあるスージーは、なかなか天国には行けない・・・。というような話が、サスペンス映画の中に挿入されていく。ううむ。これは変。気持ちが悪い。現実のサスペンス部分はとくに変なところがなく、よくできているのに、バランスがとても変なのだ。
しかも、現実世界では両親が悲しみ、妹は隣人を疑ったりとリアルなのに、あの世のスージーの方はとくにハーヴィを憎んでいたりしない。このギャップも大きい。それに、スージーはこの世の人間と接点を多少もつけれど、犯人を示唆したり、教えたりはしない。まあ、霊が教えたらオカルトになっちゃうかも知れないが、じゃあ、この映画は何を言いたかったの? ということだ。
あの世の部分では「この世への未練を捨てたら、天国へ行けるわ」という、存外ハッピーなメッセージが込められている。という意味で、エセ宗教的な雰囲気が濃厚に漂っている。それも薄気味悪い理由のひとつだ。
で、あの世はとりあえず置いといて。現実部分なのだが、リアルであったはずが、ちょっと霊感じみてはくる。たとえば、妹は隣家のハーヴィを疑い始めるのだが、具体的なきっかけは飼い犬が吠えたことだけ。父親のハーヴィに対する疑いは、スージーの撮った写真。けれど、写真にハーヴィが写っているというだけで、具体的な証拠があるわけでもない。なのに、父と妹はハーヴイに対する疑いをどんどん濃くしていく。これはちょっと変だ。やはり、もっと具体的に表現していくべきだったろう。
スージーの撮った写真の扱いも変。多く残されたのを父が週に1本だけ現像していくのだが、普通だったら重要なヒントがあるかも知れないのだから、すべて一気に現像するだろ。そして、警察に提供するはず。ハーヴィ以外の写っている人やなにかが具体的に何かを指し示している、というサスペンス、ミステリにでもすべきだったんではないのかな。
そんな妄想に駆られて、妹はハーヴィの家に侵入する。たまたま偶然,勘が当たっただけ、だと思うけど。で、確定的な証拠を発見。ハーヴィは逃げる。でも、あんなの、警察はすぐに見つけられるんじゃないの? そもそもハーヴィは金持ちに見えないし、個人が特定できれば、銀行もカードも止めることができるはず。なのにハーヴィは優雅に逃亡し、途中で娘を引っかけようとまでしている。そんなにゆとりのある暮らしをしているのは、なぜ?
そもそもハーヴィも、あんな、見られたら一発で分かってしまうような設計図や髪の毛なんかを取っておくのは変ではないの? ま、それが変態の変態たる所以なのかも知れないが。
逃亡中、ハーヴィは娘を引っかけようとして失敗する。その彼の頭につららが落ち、避けようとしてバランスを失い、崖下に転落死って、おいおい、偶然に支配された終わりかたすぎないか? やっぱ、連続殺人犯に対するメリハリのある勧善懲悪の部分がないと、みなさん納得できないと思うぞ。
そんな欠点があっても、中盤過ぎまで「大霊界」の部分は変だけど、それ以外の現実の部分は上出来かも、と思っていた。たとえば巨大なゴミの穴と、スージーが犠牲になる穴のアナロジー。「オセロ」。カフカ。ハーヴィがつくるドールハウス。ボトルシップ。水没・・・。なかなか意味深な表現も多くて、映画的には面白そうに思えた。でも、あるシーンで現実部分も決定的にダメだ、と思うようになった。ハーヴィが、スージーの死体の入った金庫を、穴の中へ捨てに行ったところだ。金庫は重く、農夫に手伝ってもらって降ろし、2人でどすんどすんと転がしながら穴に近づいていく。ええっ? そんなに思い金庫を、ハーヴィはどうやって車に積んだのだ? この1点だけで、この映画は完全に破綻した。
意味のない「大霊界」の部分を1/10ぐらいに抑え、緊張感のある表現にすれば、なかなか立派な映画なのではないか、と思ったりするのだが。
ハーヴィのスタンリー・トゥッチって、「ER」のモレッティ部長だったのか。ぜーんぜん違う顔なので分からなかったよ。髪の毛もふさふさだったし。っていうか、「ER」の方が、ゲストだったのね。気がつかなかった。
エンドクレジットが、すごく長かった。フツーの2倍ぐらいあったんじゃないのかな。
恋するベーカリー2/22上野東急監督/ナンシー・マイヤーズ脚本/ナンシー・マイヤーズ
原題は"It's Complicated"。複雑な事情・・・ってか。メリル・ストリープ主演の、下品なロマンス・コメディ。60凸凹の高齢者のセックス、性愛など、面白いテーマではあるけれど、離婚した2人が再び激しく燃える、という設定は「嘘だろ」としか思えない。フツーあるはずがない。
ジェーン(メリル・ストリープ)は10年前にジェイク(アレック・ボールドウィン)と離婚。原因はジェイクの浮気。以来娘2人と息子1人を育て上げ、息子が大学を卒業の60歳間近。仕事はベーカリーといっても、客席も付いているような店の経営者。
ジェイクは若い妻とうまくいってない。で、息子の卒業式で久しぶりに元妻と会い、意気投合。ベッドインしてしまう。
ジェーンは家を改築の予定。紹介された建築士アダム(スティーヴ・マーティン)が離婚後2年ということから意気投合。つきあい始めることに。
とまあ、60歳間近のオバサンが、中年男2人を手玉に取ってセックスし放題という、気持ちの悪い映画。日本のタイトルは、ほのぼのロマンスを連想させるけど、原題の方が言い得ている。まあ、気持ちが悪いといっても所詮は映画。あり得ないことを、あり得るかのごとく描くわけだ。笑って済ませられればいいが、ふと現実に戻って、自分が老境にさしかかったオバサンに夢中になれるか、と考えると、そりゃいくらなんでも・・・と思えてしまう。
メリルはいつもの調子で楽しんで演技している。それにしても、最近よくアレック・ボールドウィンを見かけるね。「私の中のあなた」でも弁護士だったが、この映画でも弁護士。そういう風に見えるのか? それにしても、固太りの肉体を惜しげもなく見せびらかして、うえっ、見たくねえ、てな部分もあったりする。さすがにメリルは方から上と膝から下しか見せませんが。なによりだ。
スティーヴ・マーティンは、昔からジジイ顔だったけれど、歳を取ってもあまり変わらない。それがいいのか悪いのか分からないけど。
気になったのは、3人の子供たち。長女には婚約者がいるってのに、いまだに3人とも、よきアメリカの家庭の子供たち、を演じているのだ。そんなのあり得ない、というような、ね。そんないい子は、いまどきいないぜ。
しかしまあ、要するに、すべてあり得ない話、と考えれば納得できるのかも知れない。
コメディとして、ラストが弱い。若妻と別れて、元の鞘に収まりたい、とやってくるジェイク。そういう結末か? でも、NOというジェーン。子供たちは、父親に戻って欲しい、にも見えるけどはっきりとは分からない。結局、アダムを選ぶジェーン。ううむ。それでよかったのか? ジェーンも、元夫とのセックスを楽しんでいたじゃないか。なのに、無理矢理のようにアダムを恋人に選ぶ。ってことは、ジェーンの店での一夜で、アダムを選ぶようになった? とかね、いろいろ想像できてしまって、なんか嫌らしい。ま、この映画、前編嫌らしいといえばいえるんだけどね。
サイドウェイズ2/25ギンレイホール監督/チェリン・グラック脚本/上杉隆之
米国映画のリメイク。金は日本が出して、米国人監督を起用? なんでまたそんなことを? というような映画。オリジナルも見ているが、内容は別物。4人の男女がワイン蔵めぐりをするという設定だけ借りている・・・かと思ったら、そうでもないのね。もう忘れていたけれど、Webで見たら人物設定も似ていた。小説家を夢見る教師→売れないシナリオライター(小日向文世)。落ち目のTVスター→元TVスターで現在はレストラン店長(生瀬勝久)。小日向が思いを寄せる昔の教え子に、鈴木京香。鈴木の友人の、菊地凛子。この4人の設定も、借りていたのだね。すっかり忘れている・・・。
生瀬は、務めるレストランのオーナーの娘と数日後に結婚の予定。日本から出席のためやってきた小日向と、独身最後の旅に出る。小日向もむかし留学経験があるという設定だけれど、1年アメリカにいたのに40歳にしてすっかり忘れている、というのはいくらなんでもね・・・。で、小日向はかつて家庭教師をしていて、そのときの教え子(鈴木京香)に遭遇。さらに、鈴木の知人の日系人(菊地凛子)とも一緒になり、ドタバタという展開。生瀬は菊地と意気投合してやりまくる。菊地はただの店員。鈴木に気がある小日向は売れないシナリオライター。鈴木はフードコーディネーター(?)みたいで、日本支店に行くよう上司に言われているが、LAで働きたいと拒否。
というバックグラウンドはあるが、とくに共感できる感じはない。生瀬は恐妻家になりそうで、妻の両親ともうまくいきそうもない結婚に息苦しさを感じている。かつてはテレビスターで人気者だったけど、いまじゃしがないレストランの店長。でも、その危うさが表現されていない。
小日向は、1本だけ連ドラを書いたことがあるが、いまじゃシナリオ学校の講師。教え子がどんどん立派になっていき、置いてきぼりにあっている。しかも、同棲相手も逃げ出した。・・・でも、40半ばで同棲中という設定も、どうかなあ。過去に拘泥し、20年前の鈴木や生瀬との日々を回想して脚本にしたり、うじうじ度が高すぎる。鈴木も、なぜLA滞在にこだわるのか、意味不明。日本で成功してLAに戻ればいいではないか。菊地は、何も考えていないフリーターでしかない。どれもみんな、浮世離れしていて、「そうだよなあ」と思えないところがつらい。もっと設定の練り込みが必要だったかもね。
空気人形2/25ギンレイホール監督/是枝裕和脚本/是枝裕和
期待して見に行ったんだけど、つまらなかった。設定や話の展開も、思わせぶりなだけで中味がない。からっぽ。これは空気映画だ。ペ・ドゥナの裸も見られるのだけれど、脱いだ意味はほとんどなかったね。
ファミレスに勤める板尾創路は40男。ドジで女にももてそうもなく、家にはダッチワイフ(ペ・ドゥナ)がいる。心の友ではなく、性処理の道具としてね。そのダッチワイフが、あるとき心を持ち、勝手に動き回る、という話。設定は面白いけれど、そこから先の話が、ほとんど意味がない。
ペ・ドゥナはレンタルビデオ店に勤め、従業員(ARATA)とつきあい始める。あるとき空気が抜けて、ARATAにダッチワイフであることを知られる。逆に「僕も同じようなもの」といわれ、ARATAも空気人形であると思い込む。ARATAは、ペ・ドゥナの体から空気を抜くことの欲望にかられ、頼み込んで実行する。逆にペ・ドゥナも、ARATAから空気を抜こうとして、殺してしまう。・・・というのが、本筋の流れ。でも、だからどうしたレベル。つまらない。
あとは、ペ・ドゥナの周囲にいる老人や小学生、警官などのスケッチ。こちらも、だからなに、程度。散漫な描写だけに終わっている。なにが言いたいんだ! といらつく映画でもある。思わせぶりに素材だけをひけらかし、風呂敷を広げて、収拾の付かないまま放り出している。天体やタンポポの種なんかを小道具にしても、ぜんぜん効果はなし。
ペ・ドゥナは、惜しげもなく裸体を見せてくれる。形のいい胸が印象的。ヘソの穴から空気を吹き込まれるシーンもあるけれど、とくに官能的ではない。簡単にセックスの道具になる、という意味のシーンでは、レンタルビデオ店長の岩松了との職場セックスがあるけれど、ぜーんぜん色っぽくない。なんか、ペ・ドゥナは脱ぎ損した感じだな。
唯一、面白くなりそう、と思ったところがある。ダッチワイフ製造会社を訪ねたところ。そこに、製造途中の人形が並んでいるのだけれど、こっちのほうがよほどエロチック。こっちの世界との交感を描けば、不可思議なファンタジーが生まれたのではないのかな。
結局は、使い捨てられる、ダッチワイフ。字余り。
牛の鈴音2/26新宿武蔵野館2監督/イ・チュンニョル脚本/イ・チュンニョル
韓国映画。英文タイトルは"Old Partner"。老夫婦と、牛とのドキュメンタリー。牛は30年以上(40年という話もでていたが)飼われていて、荷車を引いたり田うないに使われている。夫婦をのせたカゴを引くのもヨタヨタ。足取りもおぼつかない。それでも、ジジイは老牛を手放そうとしない。・・・という1年が描かれ、そして牛が死ぬところまで。
夫婦の関係が面白い。黙して語らないジジイ。のべつ文句をいい通しのババア。牛ばかり大事にして、あたしはこき使われる。こんなところに嫁に来たのが間違いだ・・・と。カゴを引いている牛が止まってしまった。そしたらジジイが、降りろ、とババアに言う。ババアは文句たらたらでカゴを降りる、というシーンがあった。これは映画を象徴する、牛と夫婦との関係かも。
子供は何人もいて、街で生活している。なのに、夫婦は田舎で農業。それも、機械化に逆らって、牛に頼った生活。「牛のおかげで食ってこられた」というが、嘘だろう。百姓なんかしなくても食っていけるはず。そもそも韓国で、子供が親を貧乏暮らしさせるはずがない。ここなは、何らかの作為があるような気がする。
しかし、ババアのぼやきがツボにはまって、なかなか笑える。まあ、日常的に独り言はいわないだろうから、監督やスタッフに向かってぼやいているのだろう。それを、ジジイに対してぼやいているように、うまくつないでいる。もしかしたら、ジジイは反論しているのかも知れない。けれど、挿入されるジジイの顔は、黙しているか「頭が痛い」といっているか、のどっちか。このあたり、編集によってずいぶんつくられているようにも思える。まあ、それでも、面白いからいいけど。
それにしても牛の最後の1年をよく撮れたな。たまたまなのか。実際には数年撮っていたのか。その間に、夫婦に「撮られている」という意識が生まれ、演技を始めたようにも感じられる。ババアだけじゃなくて、ジジイもね。その、現実と虚構のハザマの、危うい感じが、ちょうどよくでているのかも。牛の首ががくっとなって、事切れるシーンも撮られている。あれは、本物なのか? それとも、寝たところだったりして・・・。真相は分からないな。
同録の部分はノイズが多いのに、そうでない部分は音が明瞭。牛の鈴音や足音など、SEで入れている部分も多そう。絵も、構図が決まっているところが少なくなくて、後からかなり演出している気配がある。

 
 

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