インビクタス/負けざる者たち | 3/1 | MOVIX亀有シアター7 | 監督/クリント・イーストウッド | 脚本/アンソニー・ペッカム |
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原題は"Invictus"。ネルソン・マンデラが、南アの大統領に就任した日から物語が始まる。主権が白人の手から黒人の手に渡り、まだ混乱している国内。肌の色を超え、国民に一体感をもたせるために、W杯とスプリングボックスをうまく利用する話。 南アのことは断片的なことだけで、アパルトヘイト、マンデラ、ぐらいで、いかに弾圧され、どうやって解放され、なぜ大統領になれたかは、ほとんど知らない。この映画は、そういう艱難辛苦の部分を、冒頭のニュースフィルム(のようにつくられた部分と、本物のニュースフイルムの合成か)とナレーションで簡単に説明して終わり。つづいて、大統領官邸への初登庁となる。苦労の果てにそうなった、というのが分からないので、「そんなに凄いことだったのか?」という気持ちが湧き起こり、それは最後まで消えなかった。もちろん、途中に収監時のイメージがインサートされるのだけれど、それだけで苦闘の30年を想像するのは難しい。 登庁すると、官邸からは職員が荷物をまとめ、退出しようとしている。白人主権から黒人大統領へ。その移行がどのように行なわれたのか知らないので、武力ではなく紳士的に政権交代が起こったのか、と想像する(この辺りは勉強しないとね)。その職員たちを引き留め、さらに、前大統領を警護し、黒人に弾圧を加えていた白人の公安警察職員を、自分の警固に当たらせる。黒人警官はたまげるが、これが国内の結束を固める一歩だったのだね。 マンデラは、家族にめぐられなかった様子が暗示される。早朝の散歩のとき、白人警官が「大統領のご家族は?」と訪ねて、マンデラが不機嫌なる。それから、後半でマンデラの娘が出てくるところ。これだけで全容を知れ、というのはムリだ。どういう経緯で妻と別居しているのかさっぱりわからない。 それはさておき、たまたまラグビーW杯が南アで開催されることになっていて、それを国内結束に利用しようと思い立つのが鋭いね。 そのラグビーだけど、やっと気がついた。そうか。1995年の南ア大会だったのか。記録的な屈辱、NZとの145点マッチ。小藪監督がいまだにアホ扱いされている大会だ。試合前に平尾たちが街に繰り出して飲んでいたと噂のある、あの時の。で、NZのロムーね。なんて、記憶が少しずつ甦ってくる。でも、準決勝・決勝は、見たように思うけれど、まったく覚えていない。それにしても、マンデラが登場したのは、わずか15年前のあのときだったのか、と再認識した。 マンデラが凄いのは、怨念や復讐心というものを抑え込み、昨日の敵を味方に変えようと務めたことだ。これは並大抵ではできないはず。でも、それが淡々と行なわれていく。このあたりも、感動を薄める原因になっているような気がする。この映画、2部作の方がよくなかったかな。1部で弾圧、解放、当時のスプリングボックスの位置づけや、キャプテン(マット・デイモン)の人となりを描写し、それでもって、この映画=2部に移る、というように。そうすれば、1部での敵役との融和というのが、もっと過激に描けたのではないかと思ったりした。 ちょっとした感動が訪れるのは、マンデラの決定によって、スプリングボックスのメンバーが地域の子供たちにラグビーを教えに行くところ。スプリングボックスはアパルトヘイト、弾圧の代名詞のように思われていたのだね。IRBから助命されてもいたし。前半で、慰問の白人女性が少年にスプリングボックスのジャージを「本物よ」と与えようとするシーンがあるが、それを来ているといじめられる、と拒否する少年が描かれる。ふーん。であった。(それにしても、本物の着古しを慈善事業でだしちゃうの? まじ?)。メンバーは、「こんなところに住んでるのかよ」なんて、初めて見るスラム街に驚きつつ、それでも、子供たちと交歓していく。これも、マンデラの白人と黒人の融和策、だ。他にも、スプリングボックスの名前を残す、であるとか、チームのメンバー名を覚えたり、なかなかの知恵者だ。政策は政策、恨みは恨み、と区別できるのだから。 この映画の物足りないところは、個人があまり描かれていないこと、かも。マンデラはさておいて、スプリングボックスの主将は書き割りのような描き方。さらに、チームにひとりいる黒人選手も、もっと使いようがあったと思うのだけれど。いまひとつツッコミ不足。それになにより、この映画には具体的な対立項が希薄なので、それに打ち勝っていく、という爽快感も得られない。ちょっと残念。 で、あの当時、スプリングボックスは低迷していたのだね、と再認識。いや、むかしからNZと南アは別格に強い、という印象があったから。弱い、といわれると、不思議に思えてしまう。その南アが開催国になって、W杯がいよいよ開かれる。のだけれど、W杯への盛り上がりも希薄。W杯は地区予選があって本戦がある。南アは主催国だから予選なしで出られるんだっけかな。それにしても、開会式だとか、他国チームがやってくる様子、式典というか開会式のようなもの、街に繰り出す各国応援団・・・なんてものが一切無い。さらに、W杯自体も最初に総当たりリーグ戦で、勝ち残ったチームがトーナメントに進む。ここは、簡単に紹介していたけれど、どうやって勝ち進んでいったか、かが描かれないので、わくわく感もない。まあ、もともと強いチームがちょっと不振で、そのチームがもとに戻った程度だと思うので、ミラクルストーリーにもならないのかも。そもそも、日本みたいに最初のリーグ戦で勝ち残れなくて、これまでわずかジンバブエに1勝しかしたことのない国から言わせると、目標が高すぎてついていけない、というのが本音だ。 ラグビーシーンも再演しているが、割と単調で、いまひとつ迫力がない。代表選手や、それに近い選手も出場しているのだと思うのだけれど、イーストウッドがラグビーの勘所を知らないからなのか? 決勝のNZラグビー戦も、ヤマ場もなく淡々と。ロムーをタックルで倒すシーンと、PG、DGのシーンが交互に出てくるだけ。観客も、大統領、デイモンの家族、競技場の外の警備員と少年、あと2ヵ所ほど何人もで見ているところが交互に出てくるだけ。ちっとも手に汗握らない。ラグビーを見慣れている俺がこういうのだから、知らない人はなおさらだろう。ひとつのプレーの、最初から最後までの流れ、も描かれていなっかったのも残念。プレーは断片的で、故意にカメラをブラしたりして、迫力を出そうとしている。そんなことしなくてもいいのに・・・。まあ、もともと題名に「負けざる」とあるから、勝つのは分かってるしね キックオフのボールがノット10mで転がるシーンかあって、そのままゲーム続行だったが・・・あれでいいのか? 再現なのか? それから、ノーサイドが時計ピッタリっていのうは、あるの? ああいう、試合用の時計があるの? 俺は、レフェリーは普通の時計を使っているのかと思っていたのだが。 応援で、「オレーオレオレオレ〜」の歌が歌われていたけど、そうだったのか? ラグビー場で・・・ほんとか? というような塩梅で、ラグビー見物者としてはもっと知識があって然るべきなんだろうけど、いかんせんレベルが低いウォッチャーだから。それにしても、旅客機のパイロットが勝手に航路を変え、低空でスタジアムの上を滑空するなんて、そりゃあまりにも凄すぎる。あんなことが、ほんとうにあったのかね。 | ||||
過速スキャンダル | 3/3 | 新宿武蔵野館2 | 監督/カン・ヒョンチョル | 脚本/カン・ヒョンチョル |
いやー。最高に面白い。徹底的に笑えて、泣けて。いくつか深いテーマも隠し持っている。軽いタッチの笑いが連続で途切れなくつづくつくりは、なかなか。脚本もいいけれど、センスのいい演出が相まって、突っ込み所がなく完成度の高いコメディに仕上がっている。 登場人物が、また、素晴らしい。主人公ヒョンスに、チャ・テヒョン。「猟奇的な彼女」での情けないキャラが、いまだに生きている。ヒョンスの娘ジョンナムのパク・ボヨンが可愛い。泥臭い顔も可愛いし、化粧をしても品が出る。ジョンナムの息子ギドン役のワン・ソクヒョンが凄い。現在6歳らしいが、ほんとうに天才的な演技をこなす。表情も巧みで、いうことなし。さらに、保育園の園長(?)役のファン・ウスレがキレイで可愛い。何年か前まで韓国映画といえばうりざね顔の美人ばっかりでうんざりしていたのだけれど、いろんなタイプの役者が登場してきて、ずいぶん映画の表情が豊かになってきた。他にも土田晃之に似たライジオ局のスタッフや、陰気な顔の芸能記者など、キャスティングもいいね。 元歌手で、いまはラジオのDJのヒョンス。30代半ばの独身で、遊び人。そこに、あなたの娘と名乗るジョンナムが、息子ギドンと一緒にやってくる。なんと、15歳のときの過ちで、相手には子供が。しかも、孫までできていた。さて、どうやって隠し通すか? というのが大筋。この枠の中でムダなシーンやセリフを省き、すべてが有効に噛み合っていく映画の楽しみを感じることができた。いや、素晴らしい。 ところで、スキャンダル記者を殴ったのは、ジョンナムの元彼=ギドンの父親だと思うのだけれど、殴りかかったときに髪が長かったから、ひょっとして違うのか? なんて思ったりして、でも、他にはいないよなあ。などと。そこのところだけが気になっている。 ヒョンスが園長と行くレストランの入口に、Asahi Super Dryの看板あり。店は日本式ということか? クレジットでアサヒビールがあるのか見たのだけれど、発見できず。スポンサーになっているのかいないのか、分からず。ラジオ局で、若いスタッフが「寿司!」といい、部長は「焼肉」という。ヒョンスの友人の写真屋が、決め言葉に日本語を使う。・・・てなことで、韓国の若い世代に日本が抵抗なく受け入れられているような気がしたのだけれど、どうなのだろう。 | ||||
泣きながら生きて | 3/4 | キネカ大森2 | 企画/張麗玲 | 構成/横山隆晴、張煥王奇 |
最初に自殺者の話が出たので、これはそういう話なのかな? と思いつつ見ていたら、北海道にあった中国人向けの日本語学校の話が出た。「あれ?」。見た記憶がある。同じ素材をつかってるのかな? と思っていたら、登場してきた中国人男性や奥さん、娘も同じ・・・。ありゃりゃ。数年前にTV放送されたドキュメンタリーをもとに、再構成したのか? そうそう、ああなってこうなって、娘がこれから日本へやってきて涙の対面があるのだよなあ。と、記憶している通りの流れ。でも、それから以後ははっきり覚えていない。アメリカで、娘が成長した姿が見られたような・・・。うろ覚え。ああ、そうか、奥さんが日本経由で娘に会いに行くのか。なんか、記憶にあるようなないような・・・。どうも、こちらの記憶力も怪しい。娘との東京での再会はクリアに覚えているのに、その後の部分はぼんやりなのだよ。付け加えられた部分なのか、それとも、こちらが覚えていないだけなのか。ううむ。 なんてことを思いながら見た。下方政策で青春をフイにした30過ぎの男が、借金をして日本へ。北海道の日本語学校を逃げ出して東京にもぐり込み、不法滞在のまま仕事をつづけ、上海に送金。妻と娘と離れ、10数年。途中、娘はニューヨーク州立大学医学部に入学。3人バラバラの生活になる。娘が渡米するときと、妻が娘に会いに行くとき、この2度、男は家族に会う。奥さんとの再会のときは、じわっときたね。うむ。 とことんついていない男の物語、だと思う。日本に行けば何とかなる、というのも悪い。雪深い北海道に語学学校を開いて中国人を呼ぶ、というのも悪い。まあ、ともに、利益=夢を求めてのことなんだろうけど、目先のことしか考えていない。でもまあ、せっぱつまったあがき、でもあるのだろう。そういう境遇にいないのに、「悪い」なんて断定するのは申し訳ないとは思うが、ともに、もっと違う道が選べなかったのかな、とも思ったりする。自分の人生なのに、楽しむこともせず、娘のためだけに費やす、なんて、ちょっと哀しい。 15年前。奥さんは、ただのオバサンにしか見えない。でも、10年前ぐらいの映像では、とても品のある顔になっている。髪型とメガネが悪いんだな。娘も、高校生のときは太り気味のブサイク、にしか見えない。でも、米国で母親と再会するときには、スリムになっていて、しかも、品のある顔になっている。ううむ。化粧や衣装、アクセサリーで、ずいぶん変わるのだね。 男=亭主は、とてもハンサム。俳優に出もしたいぐらいいい男。知っている場所で働いているシーンが出てくる。たとえば、渋谷・いまはなき東急文化会館への通路で清掃をしている。ってことは、ひょっしてすれ違っていたこともあるかも・・・。 中国人にはいい加減な人間が多そう、という先入観があるけれど、そういう思いを断ち切ってくれる映画。家族の重みがつたわってくる。 男は、娘が医者になったので、出頭して中国に帰ったとテロップが出る。そうか。いまは夫婦で暮らしているのか。でも、アメリカに行ってしまった娘は、もう返っては来ないだろうな。なんて、思ったりした。 | ||||
50歳の恋愛白書 | 3/5 | 新宿武蔵野館2 | 監督/レベッカ・ミラー | 脚本/レベッカ・ミラー |
原題は"The Private Lives of Pippa Lee"。日本の題名は、ロマンチックコメディを連想させるよなあ。そのつもりで見たら、ぜーんぜん違う。なんか、意味ありげで、でも、何をいわんとしているのかよく分からない映画だった。 ピッパ・リー(ロビン・ライト・ペン)は50歳。夫は高齢で、2人で老人ホームみたいなところに転居。そこで35歳のクリス(キアヌ・リーブス)と出会い、過去を振り返る・・・。みたいな話。転居先は老人ホーム? と思ったけれど、Webを見たら高齢者が住むコミュニティなのね。 ここでピッパ・リーの生い立ちが「アメリ」みたいな感じで紹介される。ヤク中の母親。叔母のところへ逃げたら、彼女はレズで、同居者(ジュリアン・ムーア)に変態ビデオを撮られ、でも自分は気に入っていた、みたいな感じ。そのうち文化人と知り合い、なかにハーブ・リー(アラン・アーキン)がいた。ハーブには妻(モニカ・ベルッチ)がいたが別居中? 仲が悪いのかと思ったら、妻はピッパとハーブの目前で拳銃で喉を撃ち抜く・・・。で、ピッパとハーブが結婚し、子供は2人。いまに至る。ハーブは心臓発作で静養中・・・。 ピッパはクリスに惹かれる。さて、コミュニティはつまらない、とハーブが転居を宣言。あるときピッパが訪れると、ハーブはサンドラ(ウィノラ・ライダー)と浮気中。サンドラは・・・食事をつくってくれてた関係とかあったけれど、メイド? Webにはピッパの古い友だちとあったけど・・・。よく分からん。 で、ハーブが再度の心臓発作で死去。財産を2人の子供に分け与え、クリスとクルマで旅に出る・・・だっけかな。あまり記憶にない。 実は、この映画最初から集中できなかった。それは、観客のせいだ。100人足らずの小屋に60人ぐらい。ひとつ置いて左の席に0凸凹の男が鼻をシュッシュと、1分おきぐらいに吸う音が気にかかる。ときどきシュルシュルッと、指を鼻の穴に当てて強く吸うような音も立てたり「うーっ」なんて声も漏らす。気持ちが悪いったらない。しかし移動もままならず、意を決して「あの。その、鼻の音がうるさいんですけど。静かにしてもらえます」といった。そしたら「わざとやってるんじゃないんだからしょうがないだろ」と言い返してきた。鼻がたれたり詰まったりするのは故意じゃないだろうけど、鼻を鳴らすのは意図的だろう。そんな音をたてなくちゃいられないなら、映画なんか見にくるんじゃねえ。・・・と言ってやりたかったけれど、映画が見られなくなるしケンカもしたくないのでやめておいた。それでも注文しただけの効果はあって、それからほとんど鼻を吸う音はなくなったが、この男、そもそもがじっとしていられないタチのようで。今度は肘掛けから伸ばした手首をカクカク動かし始める。それが、僕の左の視野の端に見えて、いらいらいらいら・・・。それだけではない。手を太腿にあてたり、こすったりで、擦過音が気になってくる。さらに腕を伸ばしたり座席の上にあぐらをかいたり(混んでないときには、僕もたまにはするけど)せわしないったらありゃしない。まったく落ち着きのないやつだ。しばらく左目をつむって右目だけでみたり、いろいろ対抗手段を講じなくてはならないハメに陥った。こういうときは悪いことが重なるもので。数列先の女性はときどき携帯を広げるので画面が光。離れた横では食べ物の入った袋がカサカサカサ・・・。音に鈍感で自分勝手でワガママな連中に囲まれ、とてもスクリーンに集中できなかった。 まあ、それがなくても、たいした映画ではないとは思うのだがね。そもそも、ピッパが母親や叔母から受けた影響は、何なの? どうやって1人で成長したの? 娘時代の役者と長じての役者、あまりにも見かけが違いすぎ。若い時はアホ面だけれど、現在はしっとり落ち着きのある顔立ち。違和感がありすぎだ。 夫との生活に満足していたのに、なぜクリスと出会ってこころが揺れたのか? その理由が描かれない。息子や娘たちとの関係、距離感もよく分からない。亭主の元妻を自殺に追い込んだ、という責任感を感じて生きてきたようにはまったく思えない。しかも、亭主の浮気で、その責任感から解放された、なんて言っている。意味不明。 というわけで、全編にわたってほとんど説得力のない映像がだらだらつづくだけ。役者も、バカみたいに突っ立ってるだけ。主演のロビン・ライト・ペンは、から回りってな雰囲気だ。だからどーした。わけが分からんぞ。製作総指揮にブラッド・ピット。ううむ。なんで? ジュリアン・ムーア、ウィノラ・ライダーともに汚らしくバカ女に描かれている。もうちょいとキレイに撮ってやれよ、と思う。 | ||||
ニンジャ・アサシン | 3/8 | 新宿ミラノ1 | 監督/ジェームズ・マクティーグ | 脚本/マシュー・サンド、J・マイケル・ストラジンスキー |
原題も"Ninja Assassin"そのままだ。製作はDark Castle。でもホラーじゃない。 アメリカ人は忍者とか血がどばっ的なスプラッターが好きなようで、何かってーと忍者が登場する。東洋の神秘、なんだろうね。で今回は味付け程度ではなく、まんま忍者の物語。といっても日本人のイメージする忍者ではなく、彼の地の方々が想像を逞しくして発展させた忍者イメージばかり。静かに忍び入り、音もなく相手を殺害し、ふっ、と消えていく忍者は出てこない。どちらかというと、カンフー映画みたい。ま、登場する日本人も、ちょっと見、タイ人かインドネシア人、南部の中国人に近いような要望をしている。・・・主人公の雷蔵は韓国人で、師匠の小角は日本人シーョー・コスギ、ヒロインの霧子の幼い時は日系人らしいが、若い霧子はよくわからん。とにかく、ああいう容貌が日本人のイメージなのだろう。ぜーんぜん違っているけれどね。 話は、単純にいうと、抜け忍の話。そう、カムイ外伝みたいな感じ。ただし、時代は現代。そう、現在もなお役小角の末裔が存在し(なのかな?)、しかも忍者で、幼児をさらってきては徹底的にしごいて暗殺者を育成。全世界からの要請を受けて暗殺を請け負っている、らしい。しかし、その不条理さに耐えかね、ひとり反旗を翻す雷蔵。一族に暗殺されようとしている人々を救う活動をしている。というところに、国際警察(?)の黒人女性刑事と、白人刑事がからむ、と。物語としては定番過ぎて意外性は皆無。むかしからよくある展開だ。ま、そういうストーリーより、神秘の忍者で売ろう、という魂胆なのだろうけど。 冒頭の、チンピラが暗殺忍者に一網打尽にされる部分が、この映画の白眉かも。いきなり首が飛ぶ、手足を断つ。血がドバ。おお、この調子でいくのか、と思ったら、予算はそこで使い果たしたのか、あとはスケールダウン。雷蔵がらみのアクションも、大半が短いカットのつなぎ+揺れるカメラでの誤魔化し。ワンシーンでアクションを見せるところはほとんどなし。しかも、暗闇でアクションが多く、何が何だか分からないところが多々あり。なので、かなりの尻すぼみ。 で、幼少から殺人技を仕込まれているのに、雷蔵の初仕事では巨漢白人に逆襲されてたじたじ・・・。おいおい。素人にも通用しない技なのか?他にも、簡単に捕まってしまう雷蔵も2度3度。おいおい。そのぐらい読めないのか? さらに、ラストで師匠・小角との戦いでは、大半がボコボコにやられていたのに、突如の強力パワーで逆転勝ちしてしまう。なんで〜。なんか、納得いかないぞ。他にも、クルマが近づくのに気がつかないだとか、トンマな忍者が多数登場する。 あー、そうそう。小角の道場は日本の山の中にあるのかと思いきや、ヨーロッパにあるのだね。なんか、変じゃないか? といった塩梅で、強いんだか弱いんだか分からない主人公キャラに、かなりの減点。ヒロイン霧子もそんな可愛くないし。それに、国際警察の白人刑事は、いったいどっちの味方なのか分からず、描き方も中途半端。 なんか、とりあえず忍者出して血をドバドバしとけば客は喜ぶよ、てな軽い感じでつくられた、一種のC級バカ映画にも見える。この程度の内容なら、日本でもちゃんとつくれると思うのだが、なぜやらん? | ||||
パレード | 3/12 | シネリーブル池袋シアター1 | 監督/行定勲 | 脚本/行定勲 |
散漫で退屈な映画だった。結局、何がいいたいのか、よくわからず。 集合住宅で共同生活する男女4人+1人の物語。もともとの同居人は藤原竜也(28)、香里奈(24)、貫地谷しほり(23)、小出恵介(21)。そこに、泥酔した香里奈が連れ込んだ林遣都(18)が加わる。しかし、男2人、女2人で1室ずつ。そして、居間がある設定。そんな狭いところに28歳から21歳までの、恋人同士でもない男女が住んでいるという設定自体が不気味というか、あり得ないと思う。 話は、4人のうちの1人をフィーチャーした4話形式というスタイルを取る。けれど、群像劇には変わりがない。 最初は小出恵介。先輩の彼女に惚れてしまい、隠れストーカーを実行中。彼女の部屋の前で遭遇し、そのまま部屋へ入り、即セックス・・・。って、おいおい。そういえば、誰かが「あの女はすぐ咥えると評判」と言っていたけれど、軽い女らしい。しかも、2人が寝ているとき、別の男がやってきたりする。さて、このパートでは、いろいろな疑惑が提示される。小出の親友で、退学した友人が交通事故で死んだということ。隣家の住人が、怪しい(売春をしているのではないか、とみんな疑う)、近所で連続通り魔事件が発生する。そして、小出が先輩の彼女をかすめとる。・・・しかし、これらの疑惑のうち、その後、追求されるのは隣家の秘密と連続殺人事件だけ。あとは、触れられもしない。トラブルを抱えた小出がのっぴきならない状況になって・・・とか想像しているのに、話は放り出されっぱなし。なんなんだ。 次は、貫地谷しほりのパート。彼女は無職。彼氏は、人気テレビタレント。が、しかし、後にそれは単なる同郷の友人で、タレントにとっては性処理の相手であることが分かる。この貫地谷の存在がこの映画ではもっとも分かりやすく、おもしろくなりそうなのに、そうはもっていかない。後のパートで貫地谷が妊娠し、それを彼氏に告白するのを畏れているような場面が出てくるのだけれど、それ以上のツッコミがない。しかも、彼氏が「生んでいい」と応えたなどという展開ではドラマにならんだろ。このパートで、林遣都が仲間に加わる。泥酔して連れ込みながら、香里奈本人は記憶していない、得体の知れない人物、として登場。しかし、家の中に見たことのない人間がいるのに、とくに不思議に思わない4人というのが、また、不可思議。 次は、香里奈のパート。香里奈という存在は目立つけれど、もっとも得体が知れないのが彼女かも。彼女の仕事や私生活はほとんど描かれず、林遣都とのふれあいばかりが描かれる。ここでだったかな、隣室が、占い師であるのが分かるのが。 最後が、藤原竜也のパート。英語も堪能な映画配給会社の社員であることが紹介される。また、別れた彼女も登場する。しかし、藤原本人の掘り下げが甘いので、ここもまた不満が残る。そういえば、連続通り魔事件だけれど、この犯人は映画の最初から想像がついてしまう。だって、夜中にひとりジョギングに行くんだぜ。他に怪しいやつもいないし。藤原しかいないじゃん。だから、そうではない展開を期待したら、あに図らんや。まんま、藤原が犯人だった。その犯行現場を林遣都が目撃。悲嘆にくれる藤原を、林遣都が部屋まで連れていくのだけれど、あとの3人が、「伊豆へ行くよね」と、映画の冒頭で小出恵介が先輩に誘われた週末の予定を藤原に質すところで映画は終わる。なんなんだ。だからどうした、だよな。 ま、要するに、原作をうまく消化しきれず、エピソードを羅列しただけ、に終わってるからかも。それぞれのエピソードの断片的で、トータルに何か訴えるもの=テーマとして、が感じられない。たとえば、共同生活を送るようになったきっかけのようなものが描かれているとか、個人がもうちょい掘り下げて描かれていたりすると、それらの相乗効果で何か、がにじみ出てくるものなのだが、そういうものがない。だから、なんとか上手く共同生活をしていた彼らが、少しずつ崩れ始めていく過程も、痛々しく感じられない。ま、うわべだけの表現しかされてないから、しょうがないんだけどね。香里奈が、強姦ビデオを見て癒されるアンバランスなど、言葉で説明しないで、具体的に著さないとな。一見、できる社会人の藤原竜也が、実は壊れている、というのも、根拠が薄弱。トリックスター的役割の林遣都も、その得体の知れなさが中途半端にしか描かれない。それぞれ、もったいない話だ。群像劇としては、「きょうのできごと」にはるかに及ばない。 小出恵介と貫地谷しほりの達者ぶりはさておいて。林遣都のひょうひょうとした味わいが利いている。「ゴールデンスランバー」の濱田岳と感じが似ているけれど、こっちの方がずる賢そう。 | ||||
渇き | 3/15 | 新宿武蔵野館2 | 監督/パク・チャヌク | 脚本/パク・チャヌク、チョン・ソギョン |
すっかり眠ってしまった。歯科に行くので眠くなる薬を飲んでいて、治療のあとだった。しかも、昼食後。眠る条件は十分に備わっていた。が、面白ければ寝ないのだよ。経験から言うとね。 この映画も、冒頭からささっと設定を把握するのが困難だった。病院に神父がいて、その神父が皮膚病みたいになって。しばらく籠もったら治って、みなに歓迎されて。で、知り合いだか何だかの若い女房といい仲になって。・・・って、なんなんだよ、つまんねえな。と見ていたら、眠ってしまった。しばらくして目覚めて、ちょっと見て。また寝て、ちょっと見て。を繰り返して、最後の30分ぐらいはちゃんと見たかも。神父はバンパイアだったのね。いつのまにか若い女房もバンパイアになっていた。あー、そうか。神父はバンパイアだけど人を殺すのに罪悪感を感じ、自殺者だのの、不味い血を飲んでいた。それで皮膚病になったりした。いっぽうの若い女房はどんどん新鮮な血を求める。両者の葛藤。でも、神父も結局はおいしい血が好き。 そんな話かな。外国映画で見たことのあるような設定だが、冒頭からの流れでは分かりづらい。もうちょい、魅力的で分かりやすい展開があってもいいと思うぞ。 若い女房役の女優が、なかなか可愛いというか魅力的。バンパイアには向いていない顔立ちだと思うんだが、まあ、それはそれとして。その女房の元旦那の母親が、ほとんど不随状態ながら目だけでものを言うという設定でずっとでている。この設定も面白そう。しかし、それぞれがどう機能するのか、考えていなさそうなので、しょうがない。 | ||||
シャーロック・ホームズ | 3/18 | 上野東急 | 監督/ガイ・リッチー | 脚本/マイケル・ロバート・ジョンソン、アンソニー・ペッカム、サイモン・キンバーグ |
原題も"Sherlock Holmes"。結論をいうと、つまらなかった。ちっともわくわくしない。やっぱりホームズには、アクションは似合わない。 ホームズもワトソンもタフガイという設定。頭も使うが、どっちかというと走ったり飛んだり殴ったり殴られたり、吹き飛ばされたり。つまりまあ、頭を使わないで見る映画になっている。アクション大好きな人なら満足だろうけれど、謎を解く快感はほとんどない。しかも、敵の存在が曖昧で、いったい何に対して悪戦苦闘しているのか、明瞭ではない。だから、ホームズにもワトソンにも感情移入できない。で、謎解きはほとんどラストに、あれはこう、これはこう、と羅列的にパパッと見せてオシマイ。謎解きまでのあれやこれやに惹きつける力が足りない(知的にね)ので、途中で退屈してきた。で、ついうとうと。5〜10分ぐらい寝たかも。アメリカ大使(?)が爆殺される辺りを見逃してしまった。気がついたら、精肉工場でレイチェル・マクアダムスが鎖でつながれている場面だった。やれやれ。 原作のほとんどは中高生のときに読んでしまっている。NHKで放映したテレビ版も、半分ぐらいは見ていると思う。なので、ホームズといえばこういうもの、という先入観がある。というか、誰もがもっているだろうホームズ像だ。それが、いっきに崩された。でも、悪いことではない。CG全盛で、アクション映画流行りの時代なのだから、こういうアレンジかあっても不思議ではない。しかし、守るべきところは守ってよ、という気持ちがある。それはやっぱり、分かりやすく、意外性があって、驚きの謎解きだ。それがおろそかになっては、ホームズ物とはいえない。 さらにいえば、細かいカットを素早くつないだり、カメラをぶんまわすような画面の動き、および、経緯などのセリフによる説明など、テンポをよくする演出がされている。しかし、アクション物にはいいんだろうが、推理物には似合わない。字幕を読んだり画面を追うのに精一杯で、ついていけないぜ。もっと落ち着いた、じっくりしたテンポの方が良かったな。 人物設定だけ借りた新作のように見えた。モリアーティ教授というのは原作にいたし、ホームズが恋した悪女(アイリーン=レイチェル・マクアダムス)というのは、原作にも登場したような気がするけれど・・・調べたら、でてきた。ホームズの回想の中に登場する女性らしい。だから、あんな派手なこともしないし、そもそもモリアーティ教授の手下にもなっていない。 肝心の中味だけれど、説明不足で分かりにくい。以下、自分の覚え書きのためにストーリーを書いてしまう。 ブラックウッド卿というフリーメーソンの親玉みたいなのが世界征服(?)を企み、大臣を巻き込む。さらに、手下の小人に毒ガス製造を命じる。この毒ガスで多数の国会議員を国会で殺害し、自分の教団を信じる信者をふやそう、という魂胆。・・・というのが、この回の大筋。ここに、モリアーティと、モリアーティに命じられて小人を探索するアイリーンがからむ(が、モリアーティはなぜこんな凝った探し方をする必要があったのだ? さっさと自分で小人を探せばいいではないか。ホームズに頼むほどの難解さは感じられなかったぞ)。というのが、もうひとつの闇としてある。ブラックウッドは、なんでか知らんが若い女を黒魔術みたいので次々に殺害していたらしい。これは、何のための殺害? 教団の神秘性のため? どっかで説明していたかも知れないが、よく分からず。で、ホームズとワトソンは、どうやって突き止めたのか、冒頭でさっさとブラックウッドを逮捕。ブラックウッドは絞首刑となる。が、実は生きていて・・・のカラクリは最後に明かされる。で、ブラックウッドの父やなんかが殺害され・・・。という、この件の意味が良く分からなかった。なんでブラックウッドは、こんな凝った殺害をしなくてはならなかつたの? で、この殺害方法も最後にゾロゾロっと明かされる。で、ホームズとワトソンが追跡中に仕掛け爆弾が爆発。養生の間にホームズは黒魔術のからくり(?)を見破り、ブラックウッドが次に狙うのは国会=議員とワトソンとアイリーンに説明する。って、おいおい、それまでにもいろいろ解読していたんじゃないの? 謎を。それは、ワトソンにも黙っていたのかい? それって、ワトソンを窮地に立たせたことにつながってないか? というわけで、国会に行くと、舞台裏で毒ガス装置が起動されかかっている。それを阻止しているあいだに、アイリーンが何やら装置の一部をもって建設中のタワーブリッジに駆け逃げる。これは、なんで? アイリーンは、装置のあの部分をもってこい、ってモリアーティに言われていたのか? で、さて。ここにブラックウッドが登場し、アイリーンは下の段に墜落。ホームズとの格闘で敗退・・・。で、事後、国会の裏に残された装置を守っていた警官が殺害された、との連絡が。モリアーティの狙いは毒ガスではなく、無線(?)の起爆装置の方だった、というオチ。というか、続編を乞うご期待、って感じの終わり方だった。 という話の、ブラックウッドの企みというのが、公判にならないとはっきり明示されない。なので、前半はドタバタドタバタ動き回っているだけにしか見えず、退屈。やはり、解くべき謎を提示しつつ、そこに進んでいく様子が描かれないと、ついていけない。それと、アイリーンの立ち位置が中途半端。なぜモリアーティの使いっ走りをしている理由を「秘密を握られている」と本人は弁明していたが、それじゃ物足りない。 毒ガスを議場に流し込むという計画。しかし、ブラックウッドと大臣と、あと、ブラックウッドに追随している連中は、防毒マスクもしていなかったが、どうやって生き延びるつもりだったのだろう? とか、まあ、いろいろ突っ込み所も満載だ。 時代考証はしっかりしているような印象。しかし、時代背景が描けているとも思えない。もっと世界情勢や社会の動きも採り入れた方が良かったかも。レイチェル・マクアダムスが、あまりキレイに撮れていない。もうちょい魅力的に、毒婦的ないやらしさも含めて描けなかったものかねえ。 | ||||
TEKKEN 鉄拳 | 3/23 | 新宿ミラノ2 | 監督/ドワイト・H・リトル | 脚本/アラン・B・マッケルロイ |
原題も"Tekken"。どうやら元はゲームで、1998年にアニメ化(日本)されたものの実写化らしい。iMDbを見ると日本/アメリカ。allcinemaには制作総指揮として中村雅哉の名があるが、iMDbにはない。彼方と此方とで表記が違うのには、なにか事情があるのかな? 30%ぐらいが格闘シーン。20%ぐらいお色気があって、アクションも20%ぐらいある。人間に迫る描写はあまりないけれど、それぞれにキャラが立っているので見やすい。ただし、設定にいまひとつ説得力がない。曰く、テロ戦争後、世界は8つのグループに牛耳られている。そのひとつが鉄拳シティ=鉄拳という企業。そのボスは日本人で三島平八(日系米国人の父と日本人の母をもつケイリー=ヒロユキ・タガワ)。息子が一八(白人が演じている)。で、主人公の風間仁は白人のようにも見えるけれど、中国人とアイルランド人の混血らしい。その仁の母役のタムリン・トミタは沖縄人とフィリピン人の混血。というわけで、まとも(というのは変かな)な日本人はほとんど登場しない。けど、鉄拳シティの兵隊は訛った日本語を話すし、ヘルメットは剣道の面。さらに、日本語の看板やなにかがたくさん登場する。どうも、鉄拳は日本企業が母体になっているみたいね。アメリカなのに。で、8つのシティから代表が出て、毎年、格闘技大会が開かれることになっている、というのが背景。 で、鉄拳シティの外にあるアンヴィルという地域に住んでいる仁は、母親と2人暮らし。仁は金を得るため、鉄拳社に潜入してメモリなどを奪い、売ったりしている。でも売り先がネットに接続して使用したら逆探知され、鉄拳兵に襲撃されたり、仁が狙われたり、母は殺害されたりする。・・・という部分が説明不足かなあ。大規模戦争後の混乱状態を背景にした映画はゴマンとあるけれど、この映画ではその状況説明があっさりし過ぎ。各シティがどんな支配体制をとっているのか? 圧政はあるのか? 抵抗勢力は? 各シティとの係争は? 鉄拳シティとアンヴィルとの関係は? とか、考え出すと疑問だらけ。さらに、シティの代表が格闘技コンテストをやる理由もわからない。さらに、仁が一般選手としてコンテストに参加する理由も分からない。本人は、三島平八を殺すため、と言っていたけど、コンテストに出場することと三島殺害がなぜ結びつくのか、わからない。たんに接近できるから? ライバルの格闘家がいろいろ登場するのだけれど、途中で仁たちは反乱。でも、拘束されて再び出場するのだけれど、試合がトーナメントなら、ああはならないだろう、という組み合わせばかり。たとえば仁と恋仲になるクリスティは1回戦の相手(女性)はやっつける。では、他の選手とは戦わないの? 仁が再出場するのが準決勝ってのは、なんで? とか、細かな部分で整合性がとれていない。これは、見ていてイラつく。 イラつくといえば、仁は一般人のガールフレンドがいる。なのに、格闘家のクリスティの美尻にやられてしまい、恋仲になってしまう。おいおい、いいのか、それで? と、心配になってしまった。ま、最後はガールフレンドの所に戻ったようだけど。 仁は、父親が誰だか知らない、という設定。なら、父親はどこかで生きている、ってことだろ。じゃあ、三島が父親なんではないの? とすぐ想像がついてしまう。もっとも、平八の方ではなく、一八の方だったけど。でも、遠からず、だ。意外性もなにもないね。 それにしても、日本人を外国人(白人)が演ずる映画なんて1950〜60年代ならまだしも、現在もあるのだね。で、しかも、こんな内容。いっそのこと、すべて白人か黒人に翻案してしまえばいいのに。なぜ日本人のままなんだろう。たとえば、一八は、いつまでも権力の座を譲ってくれない父親を憎んでいて、殺害命令までだす。また、一八はある女性を犯し、それで仁が誕生した。「お前が生まれると分かっていたら、母親の方を殺しておくのだった」とまで言っている。なんて残忍。・・・ってことは、あれかい? 日本人は親子の情も無視して殺し合いをするほど人でなしだ、ということをアメリカ人に擦り込みたいからなのかい? なんて勘ぐってしまうよね。 エンドクレジットのあとで、一八が殺すよう命じた平八が、じつは生きていた、というオチがある。でも、そうだろうと思っていたよ。平八が死ぬ場面なかったし。でもね、ずっと鉄拳シティを牛耳っていたのは平八なわけだろ。その防衛部隊を一八が任されたからって、兵隊たちが「平八を殺せ」という一八の命令に素直に従うとは思えないよなあ、そもそも。 と、いろいろ変なところも多い映画だったけど、女性格闘家のエロっぽさ、他の格闘シーンにも見どころがあって、そこそこ楽しんでしまった。ま、後半の格闘=対決が思いのほか素っ気ないなと思えるところはあったけどね。 冒頭の資産家の秘書の胸の谷間・・・。スー・チーの、見えそうで見えない胸元ののぞき具合・・・。色っぽい表現がうまいなあ。 | ||||
狙った恋の落とし方。 | 3/24 | キネカ大森2 | 監督/フォン・シャオガン(馮小剛) | 脚本/フォン・シャオガン(馮小剛) |
原題は"非誠勿擾"。映画祭では「誠実なおつき合いができる方のみ」「誠意なる婚活」なんていう別邦題で公開されたらしい。あるWebサイトには「新聞に掲載される結婚相手の募集広告に『本気でつきあえる人を望む』という意味で使われている」と説明があった。なるほど。「狙った恋の落とし方。」は、ちょっと狙いすぎだな。 主演はグォ・ヨウとスー・チー。ビビアン・スーも、という話なので期待したら、こっちはちょっとだけだった。話の中でスー・チーはスチュワーデスで、グォ・ヨウは「10点満点の美人」と褒めちぎっていた。あの斜視のあどけなさは、たしかな可愛いと思える部分はある。けどやっぱりあの爬虫類顔、タラコ唇、口元のシワは、気持ち悪くも見えたりする。ま、写し方なんだろうけど。 製作は中国。iMDbではコメディ/ロマンスに分類されていて、たしかに90%はそうなんだけど、ラストに思いがけないシリアスがやってきて、えー! っと驚いてしまった。なんなんだ、いきなり。でも、結局最後の最後にはハッピーエンドではあるんだけどね。女心は分からない。 米国留学したけど学位も取れず地位も名誉もない40代の男。「紛争解消装置」という、ひどくバカバカしい装置を投資家に売って金を得た(しかし、どの程度の金額かよく分からない。字幕が悪いね)。で、突然、結婚相手募集の広告を出す。それに応じてきた女性をつづっていく、のが前半。昔の同僚(オカマ)、墓のセールス女、記憶が数分しかもたない女性、実家が奥地の少数民族、スチュワーデス(スー・チー)、多の男の子を妊娠中の女(ビビアン・スー)、セックスは年1回にしてくれという女、株のトレーダー・・・なんていう強者ぞろいで、みなそれぞれに美人だったりする。 スー・チーは、グォ・ヨウの広告文に興味をもった、と。しかも、妻子持ちの男に惚れているが、相手は別れるつもりはない、と訴えたり。グォも、「あなたは美人過ぎる。もう会うのはよそう」と別れるのだが、スー・チーが追ってきて一緒に飲むことに・・・。で、以後、"友人"という関係でたまに会ったり、ビビアン・スーとの見合いについてきたりする。一方で、スー・チーは妻と旅行中の不倫相手にグォを引き合わせたりする。 それでも、別れる決心をしたスー・チーは、グォに「結婚を前提につき合おう」といい、彼との思い出を立ちきるため、彼と出会った北海道に行く、という。で、グォとともに北海道へ。・・・というのは、理屈に合わんよなあ。フツーは思い出たっぷりの場所へなんて行かないだろ。ということは、未練を断ち切れていない、ということだ。では、なぜグォを伴う必要があったのか? 支えが欲しかった、ということか? 北海道では、グォの古い友人が迎えてくれる。スー・チーと彼との思い出の地に、グォの知人が住んでいるという偶然は出来過ぎだよなあ。まあ、いい。以降は北海道ロードムービー。美しく魅力的に撮れているので、中国からの観光客がふえたのもうなずける。けど、ここまで日本を肯定的に描いてもよくなったのだね。ま、美しく描いているのは日本であって、日本人じゃないけど。なにせ、最初に登場する日本人は、寺の住職と、葬儀中のヤクザの群れだけど。 スー・チーは、彼との思い出にひたりつつ、旅をつづける。それを分かっているグォは、嫌みなことは言うけれど、基本的には従僕のようにしたがっている。ま、彼女にぞっこん、なわけだ。だって、スー・チーは「結婚しても、私が他の人を思うことを認めろ」なんて言うのだから。そんな勝手な女に、「俺だって他の女を思う」なんていうけれど、屁のつっぱりにもならない。 とまあ、このあたりまでは上質でウィットに富んだコメディ部分を含んだ、エキセントリックなロマンス映画。じっくりと進む展開は、とても心地よかった。なのだけれど、突然のようにスー・チーが海に身投げしてしまう。げっ。いきなりシリアスかよ。ちょっと戸惑った。だって、それまでの、ゆったりとした展開。ていねいに交わされる、含みのある会話・・・。そういう世界が、突然、奈落の底、なんだもん。ま、たまたま通りかかった船に助けられた、というご都合主義で、右足骨折とむち打ち程度のケガで、生きていた、という設定なんだが。しかし、彼との関係を断ち切るために、身投げまでさせるというのは、どうなんだろ。結局、彼のことが忘れられない、ってことじゃないか。その後の船上で、彼のことは忘れ、グォと連れ添うというようなことを言っておったが、さて、心の中はどんなものなのかな。身投げ程度で忘れさせる、ぐらいでは観客は納得しないと思うけどなあ。 というわけで、ラストの収拾のつけ方がねいささか強引すぎると思う。もっと他に合理的な解決法はなかったのかね。 スー・チー、ビビアン・スーは台湾人。ビビアンとの見合いでは、グォが共産軍による出来事を「中国解放」といい、ビビアンが「中国崩壊(だっけかな)」と話すのが面白かった。中国人と台湾人では、視点が違うからなんだろうけど、そんなことも映画で表現できてしまうのだね。ま、台湾人が中国映画に出る、しかも、ロケ地は日本だなんて、なんとも優雅な時代になったもんだ。 それにしても、グォが発明した紛争解消装置は、じゃんけんで後出しをなくすためのもので、たんなるパイプ。で、これは、なにを示唆しているのかな。相手の対応を見て、自分の対応を変える、ということをしない。思いを貫き通す、のがいい、とでもいうのかな。わからん。 それにしても、日本の描き方が変わった。ユーモアがわかる日本人、「知床岬」を歌いながら涙する、グォの友人の中国人、和服姿のスー・チー。豊かな北海道の大自然。居酒屋の風景・・・。こんなに好意的なんて、気持ち悪いぐらいだね。 | ||||
カラヴァッジョ 天才画家の光と影 | 3/25 | 銀座テアトルシネマ | 監督/アンジェロ・ロンゴーニ | 脚本/ジェームズ・H・キャリントン、アンジェロ・ロンゴーニ |
原題も"Caravaggio"だが、iMDbを見たら(TV)となっていた。なーんだ。テレビ用としてつくられた長尺ドラマなのか。「没後400年記念公開!」なんて謳っているけど、そうなんだ・・・。へなへな。 さてと。実をいうとカラヴァッジョについてはまったく知らなかった。ポスターを見てルネサンス前後の人かな、とは思っていた。けれど、どこの国のどういう絵を描いていた画家で、同時代人には誰がいたか、なんてことは情報ゼロ。という状況で見はじめた。が、年代が字幕ででるわけでもない。アバウトな感じで見つつ、枢機卿に見出され社交界(じゃないけど、業界人だけの集まりでもないような、パーティみたいなの)に出席したとき、ブリューゲルと会ったりデューラーの名前がでてきて、やっと同時代人がわかった。けれど、名前がミケランジェロでカラヴァッジョでって、あのミケランジェロではないはずだが、なんなんだ的なイライラはついてまわった。西洋美術史でも学んでなきゃ、詳しくなんて分かるわけがない。なのに、かなり不親切な映画だ。 冒頭に少年時代がフラッシュパックで描かれる。どうやら、小舟でうなされている男が夢うつつで思い出している風。で、青年がローマに出てきて、街角で青年と知り合う。・・・と、ここまでの描写がいまひとつ分からない。少年部分は、たとえていうなら、前回のまとめ、みたいにも見える。少年カラヴァッジョがどんな家に生まれ、どう育ったか、はっきり語られていないので、人物関係の整理もつかないまま話が進んでいく。 カラヴァッジョは病気がち、ケガばっかり。いつも青年が世話してくれるのだが、青年は同性愛者のように描かれているものの、それをカラヴァッジョに示すことがない。ここも、思わせぶりで中途半端。で、絵が少し売れるようになって、街で、馬車の女から声をかけられる。どうやら酒場で見た娼婦らしいのだが、最初は別人かと思っていた。だって、別人に見えるんだもの。で、彼女には旦那がいて、それは酒場で偉そうなそぶりをしているのだけれど、その旦那がどんな人物か、わからない。後から、どこそこの長官になった、なんて話しているところを見ると、役人なのか? それにしては、酔っぱらい仲間のボスのようにも見える。娼婦も、その旦那も、カラヴァッジョも、友人の青年も、当時の社会においてどういう地位・存在なのかがさっぱり分からない。これは、話を楽しむには致命的なハンデになる。 そのうち、カラヴァッジョはある枢機卿に見出されるのだけれど、本人はブルボン家がどうのといっているけれど、この枢機卿の位置づけもいまひとつピンとこない。いや、そもそも、ローマ教皇とスペインの関係なんかも、よく分かっていないのだ、こっちは。ううむ。カラヴァッジョがどのぐらい偉くなったのか、そのあたり、さっぱり分からない。というわけで、当時の社会状況を知っておかないと、楽しみは半減するね。 この映画、カラヴァッジョってやつは、感情を抑えられない短気なやつ、として描いている。どちらかというと、病的に気が短い。なのに、枢機卿や友人たちがカラヴァッジョを守ったり匿ってくれたりするのだ。これが、どうも納得できない。なんで? こんなやつ、何の得にもならんじゃないか。やっぱ、どこかで、カラヴァッジョの魅力をしっかり描いてくれないと、男も女もどうしてみんなカラヴァッジョにぞっこんになるのか、納得できないと思うがなあ。 それと、全体を通していえるのは、出来事の羅列ばかりで人間に深く迫っていかない、ということ。あっちでケンカしてこっちで女とできて、あっちへ逃げてこっちに隠れ、を残された資料通りにつなげているだけ、みたいに見える。そもそも、あの高級娼婦は、なぜあんなにカラヴァッジョに尽くすのだ? 2人目の女として登場する女は、顔を切られた後、もう登場しない。おいおい。田舎の友だちがとつぜんでてきたり、田舎の公爵夫人というのもたびたびでてくるけれど、公爵夫人とカラヴァッジョとの関係っていうのは何なんだ? どうも、大河ドラマのダイジェスト版を見せられているようで、表面的な紆余曲折はそれなりに興味深いけれど、ほとんど伏線もなく、その後の後片づけもせず、ほったらかし。ううむ。長く浅く、ではなく、短くてもいいから、深く抉ったような映画にして欲しかったね。 でもま、テレビじゃムリか。もともとテレビ向けにつくったんだから、全体の中のヤマ場、より、ずっと視聴者を飽きさせないドラマ展開が優先されたのかも知れないけどね。★前の席のカップルがセロハンのポップコーン おしゃべり、うるさい。気が散ってしまった。それにしても、カップの上にはみ出るほどのポップコーンをセロハンで包んで売っているらしいが、あんなの、音が出るのわかりきってるじゃないか。売店では音のでないものを売ってくれよ、ねえ。 | ||||
さまよう刃 | 3/29 | ギンレイホール | 監督/益子昌一 | 脚本/益子昌一 |
高揚する部分がどこにもない。ほんらい憎むべき犯罪者が、それほど憎々しげに描かれない。また、被害者の父親の手による復讐はカタルシスであってもいいのに、そうもなっていない。かといって、何かを考えさせる映画にもなっていない。総じて中途半端。さらに、見せ場では必ずといっていいほど長いタメが繰り返される。昔風の日本映画だなあ。さっさと話を進めろよ、と言いたくなってしまった。 寺尾聰の娘(高校生)が暴行殺害される。目撃者によって車種が判明し、当日一緒にいた青年Aが取り調べられる。青年は事件には関与していない、と主張。が、青年は寺尾に電話し、実行犯2名の名前を知らせる。警察には任せておけない寺尾は、1人目の家に侵入し、犯行の様子を録画したビデオを発見。戻ってきた青年Bを殺害する。後手に回った警察は、この犯行が寺尾によるものと断定し、追う。寺尾は、残る1人が菅平の廃ペンションにいるとの情報を得て、あるペンションに泊まり込み探索する。またもや後手後手の警察だったが、ほぼ同時に青年Cに対峙。Cに猟銃をつきつける寺尾。その寺尾に銃を向ける刑事(伊東四郎)。寺尾の動作に伊東が発砲し、どうやら寺尾が死んだ模様。がしかし、寺尾の猟銃は空砲だった、というオチ。と、書いただけで、話の杜撰さがわかっちまうね。 そもそも青年Aが逮捕もされず、事情聴取だけで解放されることが変。泳がして観察している様子もない。そのAが、仲間を警察に売らず、寺尾に知らせる理由はなんだ? 寺尾に「殺してくれ」と言っているのか? Aは寺尾に2度目の電話(菅平にいるということ)をしている。しかし、警察がAおよび寺尾の動向を注視していれば、以後の展開は防げたはず。さらに、ペンションの親父(山谷初男)と娘(酒井美紀)の行動も不可解。追われているはずの寺尾を逃がし、あまつさえ猟銃を渡している。こいつら、共犯じゃないか。 若い刑事(竹ノ内豊)も、青臭いことを言う。そんな考えで、40歳近くまで刑事をやってきた、とは思えないほどだ。伊東も、最後に寺尾を撃ってしまって、悔恨はないのか? というより、あの場合、刑事は寺尾を撃つべきなのか? 撃つにしても、殺すか? 青年Cには彼女のようなのがいるのだけれど、こいつが青年Cを逃がすようなことをする。変態殺人鬼の人格を考えたら、とてもフツーの人間とのつき合いなんてできそうにもないように思えるんだが、ここでは青年B、Cともに、ごくフツーの青年のように描かれる。このあたりも、犯人をとことん憎めない(違和感がありすぎて)原因かも知れない。 また、タイトルの「さまよう刃」は、犯人を追う寺尾のことを刺していると思われるが、寺尾はぜーんぜんシャキンとしてなくて、よろよろ、よたよた、ジジイのごとくだ。青年Aに「廃ペンション」といわれているのに、あちこちのペンションにCの写真を見せまくっている。どっかで、廃業したペンションのリストでも手に入れればいいだろうに、と思ってしまう。というように、得体の知れない内容がてんこ盛り。バカバカしくて見ていられない。 そうそう。署内でひとりうつうつとし、竹ノ内にすがるようにしていた男、がいたが、あれは何物なんだ? | ||||
ハート・ロッカー | 3/30 | シネマスクエアとうきゅう | 監督/キャスリン・ビグロー | 脚本/マーク・ボール |
原題は"The Hurt Locker"。「痛みの箱」という意味なんだそうな。 アカデミー賞「作品賞」「監督賞」「脚本賞」他計6冠を得た映画。派手なアクションはないけれど、ほぼ見せ場の連続で飽きなかった。 世の中には、非常時に威力を発揮する人間がいる。戦争とか災害時に、だ。「コンバット」のサンダース軍曹なんかもその手の人間だ。戦場では人一倍勇敢で優れた判断力を示す。でも、平和になると平凡な人間に成り下がってしまう。この映画は、イラクでの爆弾処理班を扱っている。つねに危険=死と隣り合わせの職務。ふつうなら、そんな仕事は後免こうむりたいもの。しかし、その緊張感、恐怖を超えた何ものかにとりつかれ、逃れられなくなってしまった男の物語。冒頭にも、麻薬中毒のような作用、と書いてあった。 イラク。爆弾処理班。前任者が事故で死に、後任の軍曹ジェレミーがやってきた。ジェレミーは怖いもの知らず。フツーならリモコンで処理するところ、防護服だけでどんどん近づいていき、爆弾を処理してしまう。同じメンバーのサンポーン(援護係みたい)は「迷惑だ」と思っている。それでも、淡々と役割をこなしているので、大きな声で文句もいえない。そんな関係で、いくつもの爆弾を処理していく。そんな日常を淡々と描いていく。とくに思想性はないように見える。わざとらしさもない。でも、そこにこそリアリティが感じられて、見ている方にも緊張感が伝わってくる。 ジェレミーが爆弾ハイになっていくのは、これは個人的なことだからしょうがない。それにしても、母国に妻と幼い娘がいて(離婚している状態で、一緒に住んでいるらしい。これは、いつか自分が死ぬことを想定してのことなのかな)も、それでも、そういう平穏な日々よりも、死の近くの方が高揚感が得られる、らしい。そういう人もいるのだろう。としか思えないけれど、まあ、世の中には首を絞めながらセックスする人もいるらしいので、死に近ければそれだけ脳内伝達物質も多く排出される、ということなのかもしれない。 同僚のサンポーン(黒人)は、理性派。命令を忠実に守り、役割を果たすタイプ。もうひとり若手がいて、彼は戦闘になれていない設定。やたら人間を登場させることなく、この3人でほどよくバランスを取っている。 ジェレミーと仲のよいイラン少年がいる。ある爆弾製造現場で、大量の爆薬と少年の死体を発見する。さらに、基地近くのDVD売りのオヤジをゲリラのスパイだと思い込み、個人行動を取ったりする。あげくはサンポーンと若手を危険地帯に連れ込み、若手に怪我をさせてしまう。ま、突っ走ってしまったわけだ。その後、ジェレミーは武装状態のままシャワーを浴び、崩れ落ちるののだけれど、これは自己嫌悪を表現しているのかな。やりすぎちまった、とか、間違いだった、とか。それに、爆弾製造現場でみつけた死骸は、仲のいい少年ではなかった、ということも後から判明する。ということは、あの期間のジェレミーは判断力がにぶっていたか、何かに取り憑かれていたか、なんだろう。ま、勇者にもときどき迷いが生ずる、ということだろうか。 チームが、砂漠で遊軍(アラブ人に変装していた)と出会い、直後にゲリラの狙撃に会うシーンがある。ここは、すごい。いきなり1人が撃たれ、敵を探すが見つからない。やっと800m以上かなたの小屋を発見して反撃(主にサンポーンと若手の仕事)するが、これが、なかなか当たらない。そのとき、ジェレミーがサンポーンを支援するのだけれど、望遠レンズでのナビゲート、銃弾の手配、サンポーンへの飲料の手配など、どちらかというと花のない行動を逐一描き込む。そのひとつひとつにリアリティが感じられて、本当の戦闘とはかくや、と思わせてくれる。スコープで覗いている敵の、撃った瞬間銃口が光り、ほんのわずかの間を置いて味方が撃たれる、なんていう描き方も、すごっ。 さて、背景だけれど、フセイン亡き後のイラク。いまも米軍が駐留している。なんでも、イラクはもともと複数部族の対立が激しかったが、フセインの圧政で国内がかろうじて統一されていた。しかし、重石がなくなって、各部族の対立が顕在化。互いにイニシアチブをとるため、ゲリラ合戦が頻発している、というのが現状の様子。しかし、詳しいことが分からないので、いったい誰が誰と対立し、誰が誰を狙っているのか、ということはさっぱり分からず。米国が推した部族は米国に好意的なんだろうけれど、そうではない部族は米国に敵対的、なのかもしれないし。底が知りたい、という気持ちはあるけれど、多分この映画は、そういうことを描くためにつくられたのではないのだろう。あくまでも、ジェレミー個人を描く映画だ。だから、余分な説明は、きっと要らないのだろうと思う。 それにしても、言葉が通じない国で、アラブ人相手にあれこれ命令しても、齟齬はあるだろうな、と。冒頭の、死んでしまった前任者。これなんか、イラクのオヤジが近くでケータイを使ったせいで爆弾が破裂してしまったせいだ。他にも、処理現場にずけずけとクルマで乗り込んできて、いっこうに退去しないイラク人。敵対組織に爆弾を巻かれた・・・と助けを求めてくるイラク人、などなど、民族性の違いや、単なる敵味方で一線が引けない複雑な事情が見て取れたりもする。 個人的には、各国の事情は各国内で勝手に処理してもらえばいいと思っている私なので、先進国が介在したりすることには反対。戦争をやりたい国には、勝手にさせておけばいい。ただし、その戦争が、かつての帝国主義時代のツケであることが多い、というのが、中近東やアフリカの内戦の悩ましい問題だ。せめて、そういう国に、先進国が武器を売ることだけはやめるべきだ。スイスだのイタリアだの、たくさんの国が、戦い合うどちらの側にも武器を売って利益を上げていたりする。戦いをやめさせる運動だの、難民を救う運動だの、それはそれでご苦労さんなんだけど、その前に、国家的な武器商人を排除するのが先だと思うがね。そのうえで、素手ででも争ってもらう、というのが理想なんだが。ま、そういうわけにもいくまいが。 |