しあわせの隠れ場所 | 4/1 | MOVIX亀有シアター7 | 監督/ジョン・リー・ハンコック | 脚本/ジョン・リー・ハンコック |
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原題は"The Blind Side"。「死角」でいいのかな。ラグビーでは、オープンサイドに対するブラインドサイドで、ディフェンスラインの短い方のことなんだが。アメフトではなんだろう。Wikiで見たら「クォーターバックの利き手の逆側のタックル」のことらしい。なるほど。主人公の役割のことなのだな。そういえば、冒頭でタックルの話を何度もしていたけれど、あれに関係するのか。アメフトのルールや選手についてよく知らないのでスルーしてしまったけれど、意味があったのね。それと、映画のラストにローレンス・テイラーという名前が登場したのだけれど、そんな人物でてたっけ? と出演者の役名を見てもない。Wikiで見たら、有名なフットボールプレイヤーだと分かった。なるほど。じゃ、冒頭のビデオにでていた選手だっけ? あー、もう、最初の方に名前がでていたかどうか、忘れてるよ。それにしても、そういったアメフトの知識がないとついていけない部分があるっていうのは、ちょっと困るよなあ。字幕で、注釈できなかったのかなあ。 この作品でサンドラ・ブロックはアカデミー賞主演女優賞を獲得。他に、ゴールデン・グローブ女優賞、放送映画批評家協会賞主演女優賞も受賞しているらしい。 裕福な白人一家が、貧乏で家族や講演者のいない黒人少年を引き取り、家族同様の扱いをして大学までだしてやる、という美談である。最初から最後までほとんどいい人ばかりしか登場しないので、なんじゃこれ、嘘くさいなあ、と思っていた。ところが、エンドロールに幾枚ものスチル写真が登場。どうやら、この話は事実に基づいた話らしい。おお。というわけで、本編内容の感動もさることながら、終わった後にももういちど大きな感動が訪れる趣向になっている。といっても、たいていの人は事前に「事実」と知っているんだろうけどね。 幼少時に一家離散状態になり、なんとか生きてきたマイケル。引っ込み思案だけれど、運動神経は抜群。そこで家に住まわせていた黒人男性が、自分の息子共々地元の、白人ばかりが通う学校に売り込みに行く。冒頭の、黒人3人が乗ったクルマが貧しい黒人スラム街から高級住宅の並ぶ白人地域へと入り込み、高校へと行き着くしーんは、ひとつの街に中にある大きな差を一瞬にして見せている。さて男性は、俺は整備工だから金はある、なんてことを言っている。運動部のコーチはマイケルに一目惚れ。しかし、成績が最低レベルで、教師の大半はためらう。が、そこはそれ、なんとか入学する。で、入学してもマイケルは冴えない。ひとつは、整備工が妻から責められ、どうやらまた浮浪生活になってしまったかららしい。では、そのとき、学費は誰が払っていたのかな? そのままだったら、退学になっていたのか? さらに不思議なのは、運動で入ったのに、ぜんぜん部活をつないこと。でも、これは中盤にさしかかる辺りで説明された。アメフト部に入部するには、一定の成績を得ていないとダメなのね。ま、そのときはすでに親切なテューイ夫人(サンドラ・ブロック)に拾われていたのだけど。このあたりは、米国の運動選手狩りの状況を知らないと、戸惑う。 で、アメフト部に入部後、マイケルは本領を発揮できない。どうやら心が優しすぎて、相手をぶちのめせない=タックルできないらしい。で、心理テストみたいなのをみたら「保護本能が抜群」。サンドラは、首をひねるコーチを尻目に「あなたの役目はQBを守ること」なんて理屈で説得し、潜在能力を発揮させてしまう。このあたりは、サンドラがいつも出演する軽いノリの映画の雰囲気で、とても面白い。こういうノリの部分がありながら、心にぐっと迫るところもちゃんと抑えているので、見ていて嫌な気分にはならない。登場するのがいい人ばかりで、嫌な八つを登場させないのも、嫌な気分を避けるためなんだろう。 嫌なやつは、せいぜいサンドラのお友達の一部程度。マイケルの黒人仲間も、そんなにひどく描かれていない。それから、マイケルがミシシッピ大を選択したことに対する査問官の女性も、憎たらしくは描かれていない。このあたりの神経の配り方は、とてもバランスが取れている。 マイケル最大の危機は、自動車事故。身分証明がないから欲しいと主張し、取ったばかりの免許でサンドラの息子を乗せたまま激突。たいした事故ではなかったけれど、ここでも、マイケルが身をもってサンドラの息子を守った、という美談にしてしまう。上手いね。 さて、もっとも興味深かったのは、大学の選択だ。高校の試合で注目され、数10校から「我が校へ」の嵐。でも、成績が2.5以上ないと運動推薦できないらしい。これは、5点満点なのかな。ランクでいうと、B。でも、マイケルはCマイナスかDばかり。そこで雇われる家庭教師が、キャシー・ベイツ。「私は民主党だけど、いい?」と質問する。なーるほど。ミシシッピー大かテネシー大か、という選択は、つまり、南部における住民の意識も反映されるわけなのか。そういう地域性に気がつかずに見ていたので、おお、と思ってしまった。マイケルはテネシー大へ行きたい雰囲気。でも、サンドラと旦那はミシシッピー大。のちに娘も行くことになる。キャシー・ベイツも、テネシー大の悪口を言って、マイケルにミシシッピー大に行くよう仕向ける。このあたりの感覚が、じつはよく分からない。テネシー大が黒人に寛容で、ミシシッピー大はそうでもない、ということがあるのかな? 他にも政治的な部分がある。サンドラがマイケルの出自のことを調べようと役所に行くと、長い行列。それに抗議して「責任者は誰?」とという、担当官は壁のポスターを指さす。ジョージ・ブッシュである。あと、黒人スラム街に行って脅されたとき、「私は全米ライフル協会員よ」なんてことをいう。ってことは、チャールトン・ヘストン同様、銃の所持には賛成派なのだな。つまりは、共和党を支持する南部の白人なのだ、と。 でまあ、結局、マイケルは家庭教師のおかげもあって推薦をとりつける。ただし、低い点をつけた論文担当の教師に、こんな内容で書け、とサンドラと亭主、キャシー・ベイツが勧める内容については、ピンとこなかった。あれは、米国人またはアメフト好きでないと分からないのかな。で、マイケルも最終的にミシシッピ大を選択する。この流れに、大学連盟みたいなのがいちゃもんをつけた、というのが冒頭のシーン。なにか事故でも起こしてのっぴきならないことになっているのか? と心配していたけれど、この程度のことだった。どうやら、能力のある選手を養子などで囲い込み、そのまま特定の大学に送り込むような悪弊にならないよう監視していたらしい。でも、これも「家族がみんなミシシッピー大だから、ぼくもそうした」で、切り抜ける。ハッピーエンド、である。 ぐっとくるシーンがいくつもある。夜、サンドラがマイケルをクルマで拾うところ。図書館で、娘がマイケルのテーブルに移るシーン。でも、やっぱり、エンドロールともに流れる、実際の写真がもっとも印象強かった。サンドラが演じた奥さんも金髪で、きれい。娘も可愛い。へー。こんな白人の一家が、あんな熊みたいな黒人青年をひとつ屋根に住まわせる。これは美談だ。おそらく、大半の人にはできないことだから、だから、驚きと感動があるのだろう。そもそも、マイケルみたいに無口で弱々しい黒人のイメージ、ってないものね。これも、映画やテレビがいけないのだろうか。ううむ。邦題はよくないね。意味が不明だ。 | ||||
噂のモーガン夫妻 | 4/1 | MOVIX亀有シアター2 | 監督/マーク・ローレンス | 脚本/マーク・ローレンス |
原題は"Did You Hear About the Morgans?"。iMDbでは3.9ポイントという評価だけれど、そんなにひどいデキでもないと思うんだが。ううむ。 夫の浮気で別居中のモーガン夫妻(ヒュー・グラント、サラ・ジェシカ・パーカー)が、あることをきっかけに仲直りするまでの、いわゆるラブコメみたいなもの。そのきっかけというのは、殺人事件の目撃で、殺されたのはギャングがらみの事件で証言するはずの証人(?)で、2人は殺人犯に顔を見られてしまう。それで、2人も証人保護プログラムでワイオミングの田舎町レイに行くことになる。2人が一つ屋根の下に強制的に住むことになり、いつしかよりが戻る、と。 で、2人の関係はヒューがサラに未練たっぷり。元の鞘に収まりたい。サラは、浮気亭主を許さない。という関係。というはずだったのが、最後の最後で、別居中にサラも浮気していた、と告白。なーんだ。どっちもどっちじゃないか。でも、このサラの告白で、ヒューの態度が変わってしまうのがおかしい。弱者だったはずが、そうではない、と気付くと、サラを拒否しはじめる。なんか、こういう力関係が恋愛感情を支配するっていうのが洋画にはよくあるけど、なんかなあ。感情より理性が勝っているのね、西洋人は、という感じがしてしまう。 この映画の枠組みは、N.Y.育ちのサラと、英国人でN.Y.住まいのヒューが、西部劇の舞台ではあるけれど、なーんもないワイオミングに移り住むことによって生ずる数々のギャップにある。サラが酒場でタバコの煙のことを注意すると「ここは俺の店だ。ルールは俺が決める」みたいなことを言われ、さらに「あんた民主党だな」と言われるのが面白い。「こんな町だって民主党支持者ぐらいいるでしょ」と反論すると「14人な」「いや、1人死んだから13人だ」と、個人まで特定されるほどの田舎である。アメリカの田舎は、本当に徹底して田舎なのだね。「しあわせの隠れ場所」にも党派の話がでていたけれど、アメリカ人には切っても切れない問題なんだろう。そういう意味で、ワイオミングのルールが色々でてくるのが面白かった。たとえば、クルマは他人に貸せるように鍵をつけたままにしておく」とか熊にあったときの対処法とか、女の子が看護婦とウェイトレスと消防署員を兼ねていたり、町中の人間がビンゴゲームに興じていたりと、ほんと、他に楽しみがない。それなのに、2人をシカゴからやってきた、と信じる看護婦は「シカゴは憧れの街」といいつつ「憧れだけど住みたいとは思わない」と断言するところも面白い。そういう、すべてが田舎で完結し、そこから出ていかずに一生を終える人がたくさんいる、のだね。話は、知人・友人との接触が禁じられているのに、病院の電話で養子縁組を支援する団体にサラが電話し、それで殺し屋に居場所が分かってしまう…という展開。ヤマ場はロデオ大会で、2人は馬の人形の前肢と後肢というマヌケな格好で逃げ出すのだけれど、まあ、こういう映画だからね。それなりの展開だろう。なんで3.9ポイントと低く見られているのか、分からない。 個人的に行いって、馬面のサラ・ジェシカ・パーカーにはまったく魅力がない。看護婦の娘は可愛いけど、個性が足りない。というわけで、いちばん色っぽかったのは、メアリー・スティーンバージェンだった。調べたら、56歳。スタイルはいいし、きれいだね。サラは45歳らしいが、ラストで妊娠するには高齢過ぎるよなあ。 さて、子供ができにくい2人は「しあわせの隠れ場所」のように養子をとる。これが中国人。東洋系は頭がいいので人気なんだそうだが、こんなのが流行したら、白人世界はだんだんと黄色や黒に染まっていくのだろうか。ま、都会だけの現象だろうけど。 2人の秘書同士の話もサブストーリーとしてあるのだけれど、もうちょっとこっちをフィーチャーしてもよかったんじゃないのかな、と思ったりもした。 | ||||
アイガー北壁 | 4/5 | ヒューマントラストシネマ有楽町・シアター1 | 監督/フィリップ・シュテルツェル | 脚本/フィリップ・シュテルツェル、クリストフ・ジルバー、ルーペルト・ヘニング、ヨハネス・ナーバー |
原題は"Nordwand"。「北壁」という意味らしい。ドイツ映画と思ったら、Germany/Austria/Switzerland合作。知識ゼロで見はじめた。 最初に「事実に基づく物語」とでる。つづいて、だれやらの日記のようなノート。写真がたくさん貼り付けてある。で、新聞社の社内に移る。で、そっからは時間軸通りに話が進む。タイトル通り、1930年代にアイガー北壁に挑んだ登山家の物語。この時点では、苦労の末に成功する話だろうと思っていた。軸となるのは、登山のために軍隊まで辞めてしまうぐらい自由奔放な活きのいい青年2人(トニーとアンディ)なのだから。で、当時のドイツ軍隊は徴兵制ではなく、志願制だったのかな。しかも、勝手に辞められたの? すでにヒトラーがオーストリアを併合しようか、という時代だったのに。ふーん。という驚きがあった。 トニーは冷静沈着。アンディは冒険心に富むが軽いタイプ。まだ北壁は制覇されていなくて、各国隊が挑んでは失敗していたらしい。当時ヒトラーは「ぜひドイツ人の手で」と思っていたようだが、その意志ははっきりとは映画に登場しない。むしろ、ドイツ国民が期待している、というような間接的な描き方。だから、挑戦するドイツ人たちが、ヒトラーの野望の犠牲になった、というようには見えない。あくまでも、登山家自身の選択による登山、という描き方。 ネタとして注目しているのは、新聞社のヘンリーで、ドイツ人の成功で新聞を飾りたい、という思惑があるみたい。読者のため=国家のため、という様にも見える。でも、ヘンリー熱狂的なナチ信奉者にも見えない。当時のドイツは国を挙げてハイル・ヒトラーで熱狂していたのは歴史的に分かっているから、そういう視点で見ろ、ということなのかな。 で、新入りでお茶くみをしていた娘ヨハンナが、「幼なじみの二人がいます」と、ヘンリーに言うわけだ。でも、アイガーに挑もうという登山家を、新聞社の編集が知らない、という設定は、どうかと思うがなあ。 トニーとアンディが自転車で700キロを走破して麓に到着すると、すでに4組ぐらいがテントを張って準備中。オーストリア隊とイタリア隊がいるのはわかったけど、他は? また、その後に登場するのは、一緒に登坂するオーストリア隊だ。救助に向かったのは、あれはどこの隊? また、ドイツとオーストリア隊が登攀を開始しても、他の隊は見ていただけなの? というように、他の隊との関係性がよく分からん。 深夜トニーが「登るぞ」とアンディを起こし、登攀開始。が、途中まで登って、事前に置いてあった用具の袋(何ていう場所で、何という袋か忘れた)を見て「アイゼンがない」という。これって、誰かに盗られたということ? それとも、単に忘れたのか? でも、戻って取りに行ってない。それでも登ってしまうの? いい加減だなあ。 登攀シーンは、とてもリアル。吹雪くシーンなども、ごく自然に見える。ハリウッドのような、全面的なCGは使われていないと思う。CGはせいぜい雪を降らせたぐらい? クレジットにはSFX、マスク、ビジュアルエフェクト何ていう文字が見えたから、マットペインティングは使われているのだろう。あと、吹雪くシーンなんかはスタジオか。でも、本当に登攀しているシーンもあったよなあ、多分、と思うのだが。でも、カメラはどうしたのだろう? とも考えてしまう。どこに、どの程度、どういうCGが使われたのか、知りたいね。 ヘンリーとヨハンナが電車で一緒になる富豪夫婦(なのか?)は、たんなる野次馬? オーストリア隊(?)の一人だったかが、「オーストリアはそのうち併合される」に「併合されたら、大手を振って帰れる」と応えるシーンがある。亡命者らしいのだが、どうして亡命者が大手を振って帰れる、のか理解できず。 ああ、これは失敗するのだな、と思ったのは、トニーがノートをヨハンナに渡しにきたとき。しかし、失敗譚を映画にしてどうなんだ? という気持ちが残った(なんでも、登山の世界では有名な話らしい。ふーん)。公式サイトにあるように、トニーとアンディが、ヒトラー=ナチの犠牲になった、という描き方はされていない。そもそも、ナチが、なにがなんでもドイツ人に、と思ったなら、上官の命令で2人に登攀を促すはず。2人が登山のために休暇を、と願い出ると、NOと返事する。それで2人は軍隊を辞めるのだから、2人の北壁挑戦は自主的な判断だ。しかも、2人は北壁まで700キロを自転車で向かったように、ナチの援助は受けていない。もちろん、新聞社の支援もない。だから、2人は国家の威信など背負っていない、という描き方をされている。とにかく、この映画、ナチの影はとても薄い。個人の挑戦、という視点で描かれていると思う。 不思議なのが、トニーの心変わり。アンディが「挑もう」というのに対し、「みんな失敗している。それは、困難だからだ。それに1番最初である必要はない」というようなことをいう。そこまで冷静なトニーが挑戦することにしたのは、なぜなのだろう。それは、まったく描かれていない。ヨハンナの取材にも、「俺たちのことは取材するな」といっているぐらいで、ヨハンナに対する見栄でもない。さらに、トニーとヨハンナが惹かれ合っている、ということも、曖昧にしか描かれていないので、ロマンスとしても中途半端。いや、そもそも、ヨハンナを演じている女優が、なんともすごい馬面なのがいまいち。 ただし、登攀シーンは手に汗を握るシーンの連続。しかも、次第に凍傷で身体が傷ついていく様子が描かれ、オソロシイ。なのだけれど、マヌケにも見える部分もある。なんとアイガーにはトンネルが掘られていて、登山電車が行き来している。途中に停車場もあり、北壁の一部に展望台もあるのだ。その他にも北壁に面して穴が開けられていて、扉を開けると北壁に出られる! って、なんだよ。前人未到とはいうけれど、ハイヒールでも上の方まで簡単に行けるってことじゃん。ただし、北壁ルートが難攻不落ということなのだ。でも、北壁では凍傷に苦しみ、死と隣り合わせの登山家がいて、その壁一枚内側には安全なトンネルがある、わけだ。しかも、開けられた穴から登山家と声を交わしたり、救助隊が出かけたりする。それって、なんかこう、張りぼてつくったバカでかいフリークライミングのコースみたいじゃん? と思える。なんかゲーム感覚なのだ。もちろん、人が死んでいるのだから、安全なゲームではないのだけれど。 最後の方で、ヨハンナが吹雪の中、窓から這い出て岸壁をつたい、狭いところに立ちすくんで「助けてくれ」と叫ぶトニーと言葉を交わすところがある。おいおい。ほんの素人娘がそんなことできるのか? しかも、何時間か、吹雪く岸壁で寝ちゃってるって・・・。嘘だろ。っていうか、ドイツ隊とオーストリア隊の4人が、結局みんな死んでしまうのだから、登攀中のあれやこれやは、事実に基づくといっても創作が大きいのでは? と思えてしまう。 | ||||
ソラニン | 4/6 | シネ・リーブル池袋・シアター1 | 監督/三木孝浩 | 脚本/高橋泉 |
すべてが稚拙。テーマは青臭く、モチーフは手垢が付きすぎた"音楽"。いや、バカバカしくて笑わせてくれる。いまどきこんなの、誰が見るんだ? と思うのだけれど、青年男女がよく入っていた。twitterみても「よかった」「感動した」「泣けた」なんて文字が躍っている。ひぇー。これからは、こんな安手の映画に感情移入できる連中を相手に商売しなくちゃならんのか、と思うとがっくりくる。お前ら、幼すぎる。物事も歴史も知らなすぎる。 大学の同級生5人組。種田(高良健吾)、ビリー(桐谷健太)、加藤(近藤洋一)はバンド活動(名称:ロッチ)をしている。種田と同棲しているのが芽衣子(宮崎あおい)、加藤はアイ(伊藤歩)と同棲中。事務員の芽衣子は仕事が面白くない。種田はデザイナー(?)みたいなバイトをしているが、本心では音楽をつづけたい。ビリーは薬局を継いでいる。アイ曰く「加藤はフツーの人だから、これから平凡な人生を長く続ける」のだから、大学6年生でも仕方ないか、という連中。 最初の方に、芽衣子にとっての会社のつまらなさが描写される。しかし、それって身勝手じゃないの? というほど低レベル。ワガママ勝手としか言えないような感覚しかもっていない。これじゃ、何やっても成功しないだろ、と思わせてくれる。種田も同様だ。では、彼らは何がやりたいのか? それがよくわからない。 加藤の卒業記念(?)に、バンドでCDをつくり、レコード会社などに送る。1社から反応があり、歌手デビューさせたい女性のバックで演奏してくれ、といわれる。種田とビリーは不満顔。芽衣子が「お断りします」ときっぱり。おいおい。手段としてのデビューに、オリジナル曲でいつものメンバーじゃないといやだ、なんてぬかすのかい? やれやれだね。こういうのをみて、純粋だ、とか真っ直ぐだ、なんて感動するのかしらん。まいっちゃうね。でもって、芽衣子は会社を辞め、種田もバイトを辞めて"音楽一筋"に徹しようとする。あほか。一所懸命にやったって成功するやつなんて一握りで、しかも、大衆迎合は当然、なのに。大学卒業しても世間が読めないなんて、子供ではないか。そんな子供じみた生活を、素晴らしいと思うの? 別に夢を追うな、ではない。仕事しながらだって音楽はできるではないか。仕事が嫌で、音楽だけの生活にしたい、なんて悩むのはアホ。みんな、ながら、でがんばっているのに。不器用としか思えない。 で、こんどは突然、種田が「別れよう」といいだし、1週間ほど消えてしまう。それは、徹夜でバイトをしていた(前のバイト先に謝って)らしいのだが、この変節が意味不明。あとになって、父親(財津和夫)に電話していたことが分かるのだが、最初は「実家に帰る」で、一週間後には「やりたいことが見つかった」というもの。しかし、何に絶望し、何をしたいと思ったのか、あまりはっきり描けていなかったと思うのだが・・・。 と思ったら、種田を突然のように交通事故死させてしまう。事故の描き方はひねくれていて、家出から戻るスクーターのシーンで、種田が泣く。信号が赤に変わる。横たわった種田の顔・・・。ああ、事故か。と思ったら、カメラが引きになっていって、胸の呼吸が見える。たんに寝転がっていただけ、というシーンをはさんで、種田と芽衣子の楽しい姿がインサートされる。そのあと、しばらくして、ふたたび横たわった種田の頭部が移る。こんどは、後頭部から血。という、へんなもの。衝突の場面などは一切ない。ここが、この映画の大きな疑問。最初の、信号のカット以後の場面は"幻想"なのかな? こんなふうに2人で暮らしたい、という種田の死に行く脳裏のイメージなのか? では、やりたいこと、とは自死? となると、徹夜でバイトしたというのと、話がズレてくる。そもそも種田が悩んでいるように見えない! というわけで、種田の死は謎である。 さて、種田が死ぬのは映画を見る前から分かっていた。悪いのは予告編だ。それでバレていて、芽衣子が歌い出すのも描かれていた。これは、予告編としてはマズイだろ。 で、以後は、お約束通り。芽衣子がギターを習いだし、ビリーと加藤とでコンサートに参加し、題名にもなっている「ソラニン」という歌を歌う、というもの。それでオシマイ。げっ。ふるくさい内容だ。 表現手法も稚拙。たとえば、最初の方に紅い風船に手が届かない芽衣子=望みに手が届かない、の象徴? 花火のシーンで、落ちてくるパラシュートを拾えない種田=夢に手がとどかない象徴? 歌い始めた芽衣子が、横断歩道で事務服姿の自分とすれ違う・・・は、すぐあとに芽衣子自身が「昔の自分に別れを告げる」とセリフで説明していた。ははは。わらっちまう。分かりやすすぎ。あと、ペアでもっているウサギのキーホルダーのエピソードもあったが、ちゃち。 以下、疑問点。下級生の女子が加藤に「一緒にバンドを」といってきたので、同じグループとして参加してくれ、かと思ったら、バンドがいくつもでるコンサートに出てくれ、だったのね。わかりにくいね。で、このコンサートにロッチがでることを、レコード会社の男が聞きに来るのだけれど、そんなのあり得ないだろ。いやまて。下級生の女子が「大手から声がかかってる」といっていたが、声をかけたのが彼だったのか? 芽衣子とビリー、加藤が、バンドの練習帰りに居酒屋に行く。とつぜん芽衣子が吐き気。・・・てっきり種田の子を宿しているのかと思いきや、なんでもなかった。・・・って、意味なくない? この演出。デブの加藤と伊藤歩が同棲している不思議・・・。 ビリーは芽衣子に気がある、かのように描かれているが、中途半端。もっとビリーの心を描くべきだよね。加藤は、ベースが本気で上手そう。もしかして、本物のミュージシャン? しかし、コメディリリーフとして生かし切れていなかったね。もったいない。 あー。ちなみに。ソラニンというのは、じゃがいもの芽の毒のことらしい。それが反映されたシーンは、なかったな。芽の出たじゃがいもはでてきたけど。 | ||||
誰かが私にキスをした | 4/7 | 109シネマズ木場・シアター5 | 監督/ハンス・カノーザ | 脚本/ガブリエル・ゼヴィン |
英文タイトルは"Memoirs of a Teenage Amnesiac"。観客は10人ぐらい。さぶい。 いったい何をいわんとしているのか、さっぱりわからず。もりあがりのないまま、わけが分からず、1時間を過ぎたあたりで眠くなり、堀北真希がアメリカから戻った辺りで瞼が・・・。少し寝てしまった。なので、堀北と松山ケンイチがなぜ破局したのか、理由はわからない。でもま、どーでもいいような映画ではあるけれどね。 ところはアメリカンスクール。イヤーブック(卒業アルバム、とはちがうの?)編集者の堀北は、階段でつまづいてカメラを落とし、それを拾おうとダイブ。カメラは無事だったが、自身が頭部打撲で4年前までの記憶を失う。というのが、話の発端。なのだけれど、それ以降、話がまったく転がっていかない。フツーなら事件や対立が発生したり、目的の追求、挫折、障碍の克服、なんていうドラマが描かれるはず。なのに、この映画にはそれがほとんどない。たとえば、堀北は失われた過去を取りもどしたい、と特に思っているようにも見えない。まあ、記憶が戻ったとしても変わり映えのしない過去しかない、という設定なので、過去を取りもどすことに汲々としない、ということなのだろうけど。 さて倒れた堀北を助け、病院まで付き添っていったのは、松山。その後、松山は堀北に接近し、堀北も好意を抱く関係になるのだけれど、これも意味不明。なんでも松山は問題児で、何校か転々としてアメリカンスクールにやってきた、らしい。アメリカンスクールが、そんな問題児を入学させるか? それはいいとしても、たんに兄が死んだからとひねくれている松山には、なーんも魅力がない。なのに、どうして堀北が惹かれるのか分からない。もしかして、僕が寝ている間に何か説明があったのかも知れないけどね。 そもそも堀北は、同じイヤーブック編集の手越祐也と気があっていたはず。いや、それだけではない。白人のエース(アントン・イェルチン)と恋仲だったのだ。しかも、肉体関係まである仲・・・。どういう設定なんだ、この映画。しかも、記憶を失っている堀北の部屋にエースがやってきて(窓から)、キスもした、セックスもした関係、と説明しても、堀北はいっこうに驚かない。へんなの。 他人から告げられた過去にしばらくつき合っていたものの、結局、松山とつき合うことにした堀北。松山が南カリフォルニア大学に入学が決まり、手続のために訪米中・・・というのに、「きてくれ」と電話で呼び出されると、ほいほい飛行機に乗ってしまう堀北。しかも、米国でみた松山は、どうみても正常じゃない。 でまあ、堀北が帰国してからのしばらくは、寝てしまったわけで・・・ははは。いつのまにか松山とは別れていて、なんと、こんどは手越祐也とつき合うようになる。で、END。なんでえ? ぜーんぜん分からんよ。なんなんだ、この映画は。 それにしても変なのは、堀北は途中で記憶を取りもどしていたにもかかわらず、取りもどしていないようにふるまっていた、ということ。過去が戻っていながら、記憶のないときに行なった事柄との折り合いをどうつけていたのか。よく理解できない。 監督はハンス・カノーザ。みると「カンバセーションズ」の監督か。あの映画も寝てしまったよなあ、そういえば。でも、あの映画には、"実は2人は夫婦"というオチのようなものがあった。でも、この映画には、構成上の妙はなにもないぞ。それに、原作者も米国人のよう。でも、ほんとうに日本のアメリカンスクールを舞台にした日本人の物語、を書いたのか? どういう経緯でこの映画が成立したのか、ちょっと知りたい気がする。 アメリカンスクールには、あんなに日本人がたくさんいるものなのか? 帰国子女レベルじゃ、入れないと思うが、どうなんだ? よく知らん。帰国子女だとして、日本語より英語の方が得意なんだろ。だったら、あんなに校内で日本語はしゃべらんだろ。堀北はちょっとがんばって英語をしゃべっていたが、松山と手越はほとんど日本語。3人とも、下手だし。手越なんか、日本語のセリフが棒読みで、見ていてつらいものがあった。 というつまらない映画だけれど、面白い表現がひとつあった。撮影した写真のイメージが、中空にスクリーンのように浮かんだり、弾けて粉々になったりするところ。ただし、こうしたCGは他にはなく、たんなる思いつきのようにも見えてくる。そもそも、堀北が写真好き、テクニックもかなりのもの、という設定らしいのに、それがぜーんぜん活かされていないのももったいない話。とにかくまあ、散漫でだらだらと長いだけで、中味はからっぽ、の映画にはちがいがない。 | ||||
シャネル&ストラヴィンスキー | 4/9 | ギンレイホール | 監督/ヤン・クーネン | 脚本/クリス・グリーンハルジュ |
原題は"Chanel Coco & Igor Stravinsky"。フランス映画。去年はシャネルに関する映画が2本公開された。シャーリー・マクレーンが主演したTVドラマの「ココ・シャネル」、オドレイ・トトゥの「ココ・アヴァン・シャネル」。それにつづくシャネル物だ。「ココ・シャネル」は見たが、あれは娘時代から描いていたが、この映画は1913〜1920年代初頭まで。ストラヴィンスキーとの関係に絞っている。もっとも、冒頭にボーイ・カペルとのシーンがわずかに描かれるが、ほとんど意味をなさない。というか、シャネルに詳しくないと、なんのことやら分からない。これは全編そうで、シャネルについて熟知していることを前提につくられたような映画だ。なので、前知識がないと分からないところだらけ、だと思う。もちろん俺も、わからないとこだらけである。 ニジンスキーのパリ公演が最初に描かれる。「春の祭典」。ディアギレフ,ストラヴィンスキーなどが一緒だ。ニジンスキーはバレエダンサーだけど、ディアギレフってどんな人だっけ。ストラヴィンスキーは? てな具合。それでも、この3人が組んだパリ公演は前衛的すぎて理解してもらえず、がっくり、という様子。その公演を、シャネルも見に来ていた、と。また、このあたりから交際が始まった、らしい。で、つぎに第一次大戦とロシア革命のニュース映像が入り、1920年。どうやらストラヴィンスキーはパリに亡命してきたらしい。そこに救いの手を差し伸べたのがシャネルで、郊外の別荘に一家そろって引き取る。というのが話の枠組み。 で、家族ぐるみで世話しているのに、シャネルがストラヴィンスキーを誘惑。別荘内での関係がたび重なる。それを察知した妻が子供たちと出て行ってしまう。これでやり放題か、と思ったら、シャネルがストラヴィンスキーを拒絶するようになる。なんでえ? しかも、「春の祭典」の再演には衣装で全面協力するっていうのに・・・。わからん関係。で、今度は大成功。 というラストに、老いさらばえたシャネルが、リッツホテルにいるシーンが挿入される。それとともに、ストラヴィンスキーの写真が飾ってある部屋で、シャネルが別の男をベッドに誘うシーンも。ううむ。すべてが断片的で、よくわからんですわ。 この映画、シャネルを美化するつもりはまったくなくて、むしろ、魔性の女的な扱い。興味をもった男を食い尽くす、みたいな女性に描いている。その点では、他の映画とは違っている。それはそれで面白い。のだけれど、妖しさがちょいと足りない。有り体にいうと、役者があまり魅力的ではない。シャネル役のアナ・ムグラリスは中年で痩せぎすの婆さんにしか見えない(好みもあるだろうけどね)。みると1978年生まれ。げ。制作時には31歳なの! 艶やかな色気とは無縁な、煮干しかカマキリみたいな雰囲気なんだけど・・・。ストラヴィンスキー役のマッツ・ミケルセンは44歳で、こちらも色男とはいいがたい。ジャック・パランス似のニヒルなおっさんだ。2人の濃厚なセックスシーンもあるんだけど、妖艶さ色っぽさはほとんどない。しかしまあ、ストラヴィンスキーがカマキリに食われていると思えば、それはそれで適切なのかも知れないけどね。それにしても、ひとつ屋根の下で他人の亭主に言い寄り、奥方に「モラルはないの?」と問われ、無視してしまうシャネル。はたしてそれは単なる肉欲? よくわからんです。登場する人物は、みな人間的な感情を削がれたような、表情でしか見せないから。ストラヴィンスキーの妻も、怒りわめくのではなく、怒りを秘めた演技しかしないし。 その極致が、一家が住むシャネルの別荘。白壁に黒い窓枠、柱。意匠はアールデコ。シンプルすぎて息が詰まりそう。別荘というからには本宅もあるのだろうけど、こちらは一切登場しない。本宅には、人間くさい部分があったんだろうか? なんて思ってしまった。 映画は多くを語らない。情景描写に徹していて、淡泊。その分、示唆的なイメージがちょこちょとこインサートされる。ストラヴィンスキーが浴槽に沈む、情事のシーンに、ストラヴィンスキーの娘がブランコに乗っている、とか。そういう、古典的なモンタージュがよく使われている。抑制が利いてはいるのだけれど、利きすぎていて古臭い印象も否めない。70年代頃には、こんな手法がよく使われていなかったか? そんな印象。突き抜けて独自性がないと、そういうことしか考えられなくなってしまう。損だなあ、という気がした。 妻が出ていった途端、ストラヴィンスキーを拒否するシャネル。曰く「失望した」。簡単に手が届くようになったら、つまらない、ということか。そのくせ、「春の祭典」再演の衣装協力をするというのは、ストラヴィンスキーの名声を利用して、自分の知名度を高めようという魂胆? ストラヴィンスキーも「私は芸術家だが、お前はただの洋服屋だ」なんて面と向かってシャネルにいう。まあ、当然かもしれないけど、シャネルはこれにムッとしたのかも知れない。この辺りの感情の動きを映像化してもいいと思うんだけど、そういうことはバッサリ切り捨てる。それが、この映画のスタイル。なので、後半はかなり退屈で、眠くなっていたのも事実。あとは勝手に想像しろ、と放り出されても、こっちには手がかりがないんだから、ね。 たとえば、ディアギレフだったか、秘書の面接をしているシーンにストラヴィンスキーが入っていくところがあった。なんと、応募者はチンポを見せているところだった。なんなんだ? と思うよなあ。でも、それ以上は説明しない。なのでWikiでみると、ディアギレフはホモで、同性愛者を秘書にしていた、とある。それが分かっている人なら、ふふふ、と笑えたりするのだろうけど。そうはいかない。そういえば、「春の祭典」の初演時のシーンでは、ニジンスキーもディアギレフにも字幕で人名がでていた。これは、日本の観客への配慮なんだろうね。 Wikiでシャネル、ストラヴィンスキー、ディアギレフなんかについて読んだら、ふーん、なるほど、と思える部分がたくさんあった。フランス人は、そんな説明が要らないほど知識があるのかね。よくわからんです。ああ、それから。シャネルが、どのシーンだったか「歌って」といわれ「しゃがれ声だから」と断る場面があったけれど、若いときはクラブで歌っていたのに、歌えないの? と思った。 | ||||
フィリップ、きみを愛してる! | 4/13 | ヒューマントラストシネマ渋谷・シアター3 | 監督/グレン・フィカーラ | 脚本/グレン・フィカーラ、ジョン・レクア |
原題は"I Love You Phillip Morris"。"EUROPA"のロゴが出たので「フランス映画?」と思ったら、なんと主演はジム・キャリーとユアン・マクレガー。しかもセリフは英語。そうだ。そうだっけ。HTCのサイトで役者名と、ホモっぽい内容だというのは見たんだっけ。でも、ほとんど内容は知らず。という状況で見はじめた。つまり「懲役167年」という惹句も知らずに、ね。 冒頭に、病室のスティーヴン(ジム・キャリー)。さて、なんでこんなことに? というところから回顧へ。は警官を辞め、妻と子供をつれ転居。あるとき交通事故で死にかけ、「自分に忠実に生きる」と決意し、ゲイであることを宣言。彼氏への貢ぎ物のため保険金詐欺を繰り返すが、あえなく刑務所へ。刑務所に入ったら、金髪・青い眼のフィリップ・モリス(ユアン・マクレガー)に一目惚れ・・・と、この辺りまでの話はテンポも速く意外性もあって面白い。 ところが、以後の刑務所内の話が地味で、トーンダウン。時間的にも長く、飽きてくる。さて、あれこれ工作して出獄し、2人は共同生活。スティーヴンは弁護士を偽り、裁判に出席したりする。最初に「本当の話」と字幕が出るけれど、そんなに米国の裁判所っていい加減なのか? 弁護士の次は、エリート社員に偽装。信頼を勝ち取るが、資金運用でのチョロまかしがバレて投獄。 しかし、またもやあれこれ工作して早めに出獄するが、フィリップに「弁護士っていうのもウソか」と拒絶されてしまう。そこで今度は・・・どうしたんだっけ? さっき見たはずなんだけど、印象が薄くて忘れちゃったよ。ははは。で、またまた刑務所に舞い戻るが、今度はエイズの末期症状になるスティーヴン。で、これがこの映画の最大の引っかけで、この病気もスティーヴンのウソ。刑務所から民間の医療機関に移送され・・・の間にトンズラし、またまた弁護士としてフィリップに会いにくる。が、捕まって懲役167年を宣言される。という話。 詐欺師をジム・キャリーが演じる。つまり、過剰な表情と大げさな身振りで、コメディに仕立てる。詐欺の手口も具体的に描かれなくリアリティがない。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」がコメディとしてつくられていないのに結果的におかしい味わいがあるのとは逆になっている。詐欺ではないけれど「インフォーマント!」も、こんな陳腐な手口だったの? という意外性があった。けれどこの映画は、こういうゲイの詐欺師がいた、という紹介に終わっている。エイズのひっかけにも、一杯食わされた、という気分にならない。 フツーに、軽妙に描いて、おかしい。そういう映画にするべきだったんではないのな。コメディアンのジム・キャリーが演じることで実際のスティーヴンの存在は薄れ、、映画は「ジム・キャリーの」ものになってしまっている。その意味でキャスティングの失敗だと思う。 ジム・キャリーは、そもそもコメディアンの顔をしていない。ハンサムだし、デブでもない。変な顔や動作をしなければ、シリアスでもいける。肉体も、必要以上にリアリティがある。そのせいかジム・キャリーのコメディは、いつも見ていてつらい気持ちになってしまう。この映画もその類かも知れない。 もっとも、日本人には理解できないユーモア、があるのだろうけどね。 そもそも話に奥深さがない。なぜスティーヴンはフィリップに惚れたのか、両思いになったのか。スティーヴンの女房は、亭主のゲイを素直に受け入れているみたいに描かれているけれど、そうなのか? 細部にこだわらない映画は、軽い。2人がやりまくるシーンも、想像させるだけ。さらに、最後につけ足しのように懲役167年、といわれても、たかが詐欺でどうしてそんな重い刑になるのだ? と思ってしまう。こういう部分の説得力も足りない。だから、いまひとつ盛り上がらない。ついつい見てしまうことがない。どうせインチキなんだろ、としか見えない。詐欺師の映画がそれでは、観客はひっかからないと思う。 フィリップ・モリスというのは、本名なんだろうか? それとも、タバコの銘柄に由来するの? それと、どうしてこれがフランス映画なんだろう? というのも、わだかまっている疑問だ。 | ||||
シャッター アイランド | 4/14 | 新宿ミラノ1 | 監督/マーティン・スコセッシ | 脚本/レータ・カログリディス |
原題は"Shutter Island"。上映前に、平行線が曲がって見える目の錯覚の図と日本語のコメントが出る。思い込んでいると真実が見えなくなる、みたいな内容。で、映画にはいくつものヒントが隠されている。ラストは誰にもいうな、というメッセージまで。はいはい。 で、前知識はほとんどなし。予告も、目をつむっていたからほとんど見ていない。という状態で見はじめた。保安官のデカプリオが、部下と船上に。島へ向かっている。その島には精神病院があり、ある女性患者が逃げ出した、と。は〜ん。こりゃあれだな。「“アイデンティティー”」みたいなオチかな? と思う。なぜって、最初の船にリアリティがなかったから。それと、やはり、精神病院。アメリカ映画って、犯人は気違いだった、っていう結末が多いからね。それに、患者が1人逃げたからって、連邦警察が乗り込んでくるか? しばらく見ていたが、「“アイデンティティー”」みたいに、すべてが、ある誰かの想像上の出来事、と考えにくいと思うにいたり、では、ジョニー・デップの「「シークレット ウインドウ」みたいなオチかな、と思うに至った。とくに、デカプリオが幻覚をよく見る。その視点で見ていると、こりゃデカプリオが壊れているのだな、と分かってきてしまった。 こうなると話がつまらない。だって、不可解に見える物語の展開は、すべてデカプリオの妄想なのだから。20分ぐらいで眠くなりはじめ、やっと1時間。ああ、まだ1時間以上もつづくのか。眠い。寝ちゃおうか。でも、そうしたら、もう1回見る? なんてことを思いつつ、スコセッシのムダな攪乱を眺めていた。画面には厚みがあり、美しい。でも、だからこそ余計に空しく見える。ところどころに幻覚イメージが挿入されるが、それはちょっと面白い。けれど、それ以外の話にはほとんど興味を失ってしまった。そうして、C棟に入って格闘する辺り〜崖下に死骸を見つけるまえ辺りまで、目は開いていたけれど寝ていた状態。はっ、と気付いてからは、軽く寝たせいか眠気はなくなった。 デカプリオの部下が、実はデカプリオの担当医、であるというのまでは分からなかったけれど、思った通りのオチへと進んでいく。それにしても、人をバカにしたオチだよなあ。同じような引っかけは、いままでたくさんつくられているっていうのに、まんでまたスコセッシ・・・。しかも、デカプリオが幻覚を見る、なんていう話をまとわりつけるから、余計にバレバレだ。そんなことせず、ずうっとフツーに撮っていって、最後でがらりとひっくり返せばいいのに。 デカプリオの過去。その絵解きが、灯台の中で延々となされる。これも、本格探偵小説みたいでつまらない。映画なんだから、ドラマで見せろよ。で、そこで終わるのかと思いきや、妻が子供たちを水死させたシーンがオマケのようについてきた。ここは不要ではないの? いったんデカプリオは、過去を思い出す。その後、担当医がデカプリオに話しかけると、デカプリオは担当医を部下として扱う。これで、ロボトミー手術が決定だ。しかし、その後にデカプリオが言った、怪物のようにして生きていくのか、ロボトミーを受けて知らずに生きていくのがいいのか、とかいうようなセリフ。これは意味深。本当は過去を思い出しているのに故意に妄想状態を装い、自分からロボトミーを受け入れようとしているようにも見える。どっちなんだろうね。 寝ていたので分からないところもあるのだが。デカプリオは実際に、警官をやっていたのだよな。で、ナチスのイメージは、あれは妄想だったのだよな。違うかな? それにしても、デカプリオと妻と2人ともが気違いで、妻は子供を殺害し、夫は妻を殺害するというような、気違い=犯罪者的な描写が、ほんとアメリカ映画には多い。日本でこんなストーリーを考えたら、どんなことになるか・・・。 | ||||
密約 外務省機密漏洩事件 | 4/15 | 新宿武蔵野館2 | 監督/千野皓司 | 脚本/長谷川公之 |
いきなり画面がスタンダードなのでたまげた。映像は古びている。新作かと思い込んでいた。このたびの西山事件の新展開を機に、再上映なのだね。いまさら北村一夫が西山記者? 北村は70過ぎだろ? なんで? と思っていた疑問が氷解。エンドクレジットでは1988年公開だけれど、実はテレ朝が1978年にテレビ用に製作し、それを1988年に一般公開、らしい。ふーん。どうりで16mm画質。 西山事件については概略知っているだけ。この映画で事件や裁判の経緯、その後などが分かった。しかし、情を通じた蓮見事務官が映画の中で「早く忘れてもらいたい」と言っているにもかかわらず、こうしてTV映画になったり、いままた話題になったりして、迷惑この上ないよなあ、と思ったりした。 見はじめて、奇妙なつくりだな、と思った。事実をもとにしたドラマ、というより、よくある再現ドラマ風な仕立てなのだ。3部構成になっているが、とくに分ける必要性は感じない。CMの関係なのだろうか? 1、2部は石山(西山/北村一夫)と筈見(蓮見/吉行和子)の出会いと経緯。この部分が完全に再現ドラマ。3部は、原作者である澤井(澤地久枝/大空真弓)と西山の同僚で若い記者の久我原(礎部勉)を中心としたその後の話で、やっと物語風になっていく。フツーなら最初から澤井を登場させ、彼女を主人公として展開させるはず。けれど、この映画で澤井は2部の途中(だったと思う)から傍聴人として登場するものの、素性の分からない人物として描かれる。そして、3部の中盤になってライターであることが分かるような仕組み。なんか解せないつくりだ。1、2部はノンフィクションで、3部で原作者澤地久枝の見解と主張を描く、というような変な構成になっている。 3部での主張は、「日米間の密約が下半身問題にすり替えられた」というもの。がしかし、この映画も下半身問題にねちっこく迫っている。石山がいかに筈見を籠絡させたか。筈見がいかに石山にぞっこんだったか。石山が簡単に筈見を捨てたこと。さらに、法廷では疲労の色を見せる筈見が、裁判所の食道でケラケラ笑っている・・・。筈見は以前にも出入り業者と浮気をしていた・・・。また、機密書類を新聞記者に見せながら、ことの重大性に気がつきもしないバカ女に描いている。その上、判決後は手記を雑誌に載せているのに、澤井の取材依頼には応えない。だれかに操られているのでは? とも憶測している。こういう描き方では、筈見という女に同情の余地はない、と思えてくる。 石山記者も、正義感に燃えた記者には見えない。ずうずうしく偉そうで自分勝手な男に描かれている。むかしの記者はこんなものなのかも知れないけれどね。筈見を利用し、価値がなくなったから捨てた、という具合に見える。裁判でのジャーナリストや学者の意見も、とってつけたような正論に見えてくる。 密約の存在を明るみにだそうという記者魂は、価値あるものだ。しかし、それがジャーナリストの責務でもある。しかし、石山が独自の取材で得た情報ならいざ知らず、女の弱みにつけ込んで労せず情報を入手し、手柄は自分のものにしようとしていたようにみえるわけで、とても立派な記者には見えない。しかも、情報のコピーを社会党代議士に渡して国会で質問させるのは、論外。事件が明るみになると、筈見を冷たく突き放す。石山はとても嫌な記者に描かれている。下半身問題に終始したのも、致し方ないし、そもそも石山記者に問題あり、に見えてくる。 筈見の亭主というのも、中途半端な描かれ方をしている。病身だというが、妻(筈見)に養われる関係にあったのか。事件が明るみになっても騒ぐわけではない。裁判も傍聴に来ている。この人の男のメンツというのは、どこにあるのだろう?的な描かれようだ。 こういう流れで1部2部が描かれるので、3部になって澤井が登場し、この裁判の本質は、などといわれてもあまり説得力がない。記者が手段として男女関係を利用するにしても、もっとスマートに行なっていたら、話は違っていただろう。 そもそも石山は密約のことを早いうちに記事にしていた。しかし、取材源を隠すために突っ込んだ記事にできなかった。そのせいかあまり話題にならなかった。なので、機密書類のコピーそのものを代議士に渡し、社会問題化させようと企んだ、としか見えないんだけどなあ。映画では。 一審では筈見が有罪で石山が無罪。しかし、高裁では石山は「そそのかし」で有罪。最高裁は上告を棄却する。筈見が有罪なのは納得だけれど、石山に対する有罪判決はおかしいと思う。これは、国家の意図が反映されているに違いない。司法の独立性はいまだに保てていないけれど、当時はもっとひどかったのかもね。 法廷のシーンが多い。おどろいたのは、石山と筈見が一緒に同じ法廷に立っていたこと。別々に審理したんじゃないのか。それと、2人とも在宅で起訴されていたこと。拘置されていなかったんだな。法廷で警察官もいなかったし・・・。さらに驚いたのは、証言台に立っていないとき、石山が足を組んでいたこと。法定内でそんなこと・・・。この辺り、演出に意図が感じられるんだが。 大空真弓は、このとき38歳。なかなか可愛かった。吉行和子は、蓮っ葉な感じがよくでていた。礎部勉という役者は、どこへ行ってしまったんだろう。石山の上司役の永井智雄は、視線が明後日の方ばかり向いている。なぜだ? 筈見の弁護士役の稲葉義男は、いささか裏のありそうな役柄。 | ||||
マイレージ、マイライフ | 4/15 | 新宿武蔵野館1 | 監督/ジェイソン・ライトマン | 脚本/ジェイソン・ライトマン、シェルドン・ターナー |
原題は"Up in the Air"。「何も決まっていない」「皆目見当がつかない」という意味らしい。ふーん。 よく練られた脚本。伏線も効いている。しかし、妹の結婚式の後から話が陰気になり、最後は夢のない状態で突き放される。それまでの軽快なタッチも消えてしまい、後味はよくない。なんとかならなかったものか。 ライアン(ジョージ・クルーニー)は、首切り宣告会社のやり手社員。年間320日ぐらい出張で、全米を飛び回る。おかげでマイレージがたまり、もう少しで1000万マイルに達する。ところが、会社がネットを導入。テレビ電話で首切り宣告し、経費を浮かせようと画策する。アイディアは、コーネル大学を首席で卒業した新入社員の小娘ナタリー(アナ・ケンドリック)による。反対するライアン(生き甲斐である出張がなくなるのだ!)に、社長が「ナタリーをつれて仕事を見せてやれ」と命ずる。・・・って、よくあるベテランと新人の対立→現実にびっくりの新人→ベテランを尊敬・成長する新人、という話だな。古い枠組みに、意外なモチーフをはめ込んで、今様な話に仕上がっている。悪くない。 首切りを宣告したくない会社が、こういうシステムを利用するらしい。ドライなようだけれど、ライアンは、リストラの対象者が新たなスタートができるようにもっていくのが仕事、と誇りを持っている。ナタリーは、素人でもリストラ宣告できるよう、システムのマニュアル化に励む。けれど、現実はそう上手くいかない、というのは、定番の展開。でも、ナタリーがネット時代の新人類として描かれているのがユニーク。しかも、いうことはドライだけれど、人間的にはまだ子供、という描き方も新鮮。恋人を追いかけてこの地に就職したのに、その彼からメールで「別れよう」といわれ、ホテルで泣きじゃくる様子は、日本の小娘と変わらない。この辺りの描き方は、これまでのアメリカ映画にはない感じ。 ライアンは、バーでアレックス(ヴェラ・ファーミガ)と出会う。彼女も出張の多い仕事。あとくされのない関係は大歓迎、というわけで、出張先だけの関係になる。ヴェラ・ファーミガの後ろ姿のヌードが、美しい! 2人が、自分のもっているカードを見せ、自慢し合うところが笑える。ライアンは航空会社やホテルの会員になっていて、一般より早く受付ができる。それが自慢だったりする。フライトのときに並ぶ列も、東洋人のいる列が早い、なんて合理的な判断をする。ここら辺は「なるほど」と思ってしまう。 ライアンは、賃貸アパートに住んでいる。めったに戻らないけどね。家財道具や衣類、財産としてのモノも最低限。一年を、キャリーバッグひとつで済ませている。ときどき頼まれる講演も、背負っているモノが多すぎる、という話で一貫している。未婚で、家庭や妻は不要だと思っている。いっぽうナタリーは、家庭や恋人がいなくて何の人生と思っている。この対比も分かりやすい。 しかし、ライアンの心が次第に揺れ動く。ナタリーの考え方。アレックスへの傾倒。妹の結婚・・・。家族に縁のない暮らしをしていたライアンが、心細さを感じ始め、頼りを求め始める。いつまでも強気じゃいられない、ってことか。あんなに強気なライアンが、そんなに簡単に弱気になるか? という疑問はあるけれど、そこそこの説得力がある。年齢もあるだろう。10年、20年後を思ったら、影響させられてもおかしくない。とくに、独身かと思っていたアレックスに家族がある、という事実に愕然とした模様。 アレックスの二重人格・二重生活には恐れ入った。浮気生活に罪悪感はまったくない、らしい。そんなものなのか? 子供だと思っていたナタリーが、パーティで出会った男と寝てしまう、というのにも驚いた。そんなものなのか? まあ、恋人に絶縁宣言されたせいもあるだろうけど。アバンチュールは楽しまなくちゃ、という精神で一貫しているね、この映画。 リストラ宣告した相手が自殺した、という知らせに、メールで辞表を提出するナタリー。こちらは、自分なりの生き方を見つけようとしている姿が見られる。なかなかよろしい。会社のネット首切りがなくなって、出張生活にもどれるライアンは浮かない顔。というか、孤独を思い知った表情。これは重苦しい。最後はスカッと明るく終わって欲しかった気がするのだけれど、そういうエンディングをあえて避けたのか。ううむ。 結婚式の当日になって、腰が引けてきたライアンの妹のフィアンセ。その説得を、姉から頼まれるライアン。説得の言葉は簡単なのに、納得してしまうフィアンセ。ううむ。この辺り、説得力が足りないかも。それでも冒頭から80%ぐらいは、とても清清しく面白い映画だったから、ま、いいか。 ひとつ、思ったこと。首切り会社までが人間的接触をなくし、ネットでコトを済ませようとする。それは、合理化のため。出張代を浮かせば、経費が80%削減できる、らしい。しかし、その結果、航空会社は大きな痛手を受ける。経費削減、合理化こそが、不況の最大の原因だろ。その意味で、デジタルは不況の原因だし、もっとアナログを大切にした方が、やっぱりいいよな。というのは、映画の主張でもあるし、俺の考えでもある。デジタルも、ほどほどにね。 音楽が効果を発揮している。要所で、歌詞が主人公の心や状況を適度に説明する。ちょっと直接的すぎるかな、という嫌いもなくはないが、ちょうどいい具合かも知れない。 | ||||
ダレン・シャン | 4/16 | 上野東急2 | 監督/ポール・ワイツ | 脚本/ポール・ワイツ、ブライアン・ヘルゲランド |
原題は"Cirque du Freak: The Vampire's Assistant"。シルク・ド・フリークは、話に出てくる怪物サーカス。英題は、バンパイアの助手、と味気ない。では邦題はというと、主人公の名前。これも芸がない。 吹替版が多いな、と思いつつ、その吹替版。見て納得。中高生あたりのジュニア向け映画だ。もちろん中味も子供だまし。途中で、ふっ、と一瞬気を失ってしまったよ。以後も話に入れず、早く終われ、と祈っていたほど。 基本構造は「トワイライト〜初恋〜」と同じで、人間に危害を加えないバンパイアと、人間も殺すバンパニーズがいて、その対決。主人公のダレン・シャンは半分吸血鬼のハーフ・バンパイヤとなって、バンパイアの助手となり、バンパニーズと戦う。味付けとして、古典的名作「フリークス」を拝借している。しかし、ストーリーはいい加減で、合理性も説得力もない。ま、子供向けだから、矛盾なんてどうでもいいのかも知れないけどね。 サーカスの一員に、渡辺謙。吹き替えも本人が行なっていた。オープニングタイトルでは2番目に名前がでてきた。出番も多いのかな、と思ったらさにあらず。どうでもいいような役だった。きっと、知名度や格付けで、上なんだろう。願わくばフリークのサーカス部分に魅力があればよかったんだが、子供向けのせいかいまひとつ妖しさが足りない。ヒロインも不細工で、そそられない。 それにしても、アメリカは吸血鬼ものが好きだね。最近は悪い吸血鬼と良い吸血鬼の対立、という構図が流行っているのかな? ★なんと「トワイライト〜初恋〜」の続編である「ニュームーン/トワイライト・サーガ」の監督クリス・ワイツは、この映画の監督ホール・ワイツの弟なんだと。兄弟で同時期に同じような設定のバンパイア映画を撮るなんて、変なの。 | ||||
アリス・イン・ワンダーランド | 4/20 | 上野東急 | 監督/ティム・バートン | 脚本/リンダ・ウールヴァートン |
原題は"Alice in Wonderland"。2D版を見た。「不思議の国のアリス」そのものかと思いきや、さにあらず。件の冒険譚の13年後、20歳間近のアリスが、ふたたびワンダーランドを訪れた、という設定。なのでか、予告編でアリスが大人なのは。 原作は読んでいるので大体は分かる。けど、白の女王の存在や、赤と白の対決、ドラゴンとの戦いなんてあったっけ? 詳しくは覚えてないんだけどね。 アリスは、あるパーティに招かれる。そのパーティはアリスと貴族の青年との見合いの場で、アリス以外はみな知っていた・・・。という現実があり、そこでアリスは白ウサギを目撃。呼ばれるようにして穴に落ちていく。と、この件は現実をなぞっているけれど、細かなところが違っている。ではそれが面白く変わっているかというと、そうでもない。ずっと見ていて、少しもワクワクしない。盛り上がらない。驚かされない。チシャ猫をはじめとするキャラクターも、どーも魅力がない。言葉遊びは翻訳ではまずムリだし、アイロニーやウィットも届いてこない。ううむ。退屈だ。 3D効果のためか、奥行きを意識した構図が多い。動作も同じ。向こうから手前にやってくる、手前から向こう側へ・・・。同じような構図が多いので、飽きる。フツーの映画としての画像の深みがなく、縦横無尽な動きも限られる。3Dはひとときのブームであって、長続きはしないような気がするのだが、どうだろう。 大胆にも、ジャンヌダルクばりに剣をもってドラゴンと戦うアリス。ううむ。幼い少女の妖しい魅力はなくて、それでいて、女としての色気にも欠ける。これじゃあなあ・・・。で、現実界に戻ったアリスは結婚の申し出をキッパリ断り、知り合いだか伯父さんだかの仕事を手伝い、アジアへと商圏を伸ばす・・・ようなビジネスウーマンとして終わる。これもなあ。女は女でいてこそおとぎ話。男は要らない、仕事に生きる、なんていうアリスに、あまり興味はないよ。 てなわけで、クライマックスの赤と白の戦い、ドラゴンとの戦いあたりでは、あわや沈没=眠ってしまいそうになってほどだった。やれやれ。 | ||||
第9地区 | 4/20 | MOVIX亀有シアター8 | 監督/ニール・ブロンカンプ | 脚本/ニール・ブロンカンプ、テリー・タッチェル |
原題は"District 9"。終わってみれば面白かったんだけど、最初はいささか面食らった。というか、いきなり「すでにUFOが来ている」「すでに20年浮かんでる」「宇宙人が隔離地域に」という設定。しかも南アだぜ。アパルトヘイトかよ。この導入部は過去を顧みる風に何人もの人がインタビューに応じるドキュメンタリー風。でもって、顧みられる主人公ヴィカスはなよなよ中年オヤジで、こいつがズッコケなのだ。コメディか? 他にも、隔離地域に居住する宇宙人がいかにも張りぼてで、行動もマヌケに見える。キャットフード好き、ってとこなんかもね。予告編もロクに見ていなかったので、ちょっと萎えた。 さらに、昼から「アリス・イン・ワンダーランド」を見て、2時過ぎに昼を食べ、いったん家に戻って少し間食し、あたふた亀有にでかけたりして、疲労もあったのだろう。眠くなってきた。それで、実は主人公が感染(?)するシーンを見逃した(予告編に出ていた!)。知らない間に左手に包帯。で、ツメが抜けるシーン辺りから、再びちゃんと見はじめた。以降の展開は、どうなるの? で、疾走するように追いかけてみた。なかなかにグロい描写が豊富で、ちょっと気味が悪いのが気にかかる。その後の展開は皮肉も入って(主人公はしたたかに生き延びていた・・・)いて、面白かった。なので、見逃した部分をもう一度見たい気分なんだが、シネコンは入れ替え制だからなあ。 宇宙人たちは地域住民から嫌われている。ヴィカスは、宇宙人を移転される係に抜擢され、訪問しては了承のサインを取り付けていく。ヴィカスが属しているのはMNUという組織で、これは企業なのかな? よく分からん。傭兵も雇っていて、国家よりも力をもっているみたい。巨大軍事産業や傭兵は「アバター」にもでてくるけど、流行りなのかな。で、この過程が陳腐なので少し寝てしまったわけだが、その間に何かの液体を浴びて汚染する。これによって人間が宇宙人化するという理屈は分からないが、半宇宙人化したヴィカスは宇宙人の武器が使えるようになる。宇宙人の武器は武器自身では機能せず、宇宙人のDNAをもった者が触れると機能する、という設定がミソなわけだ。ここにMNUは目をつけ、ヴィカスの肉体を研究しようとサンプル化しようとする。サンプル化しようとしたのはMNUの上層部、っていうか、ヴィカスの妻の父親ここからヴィカスの逃亡生活が始まる、というわけで、この辺りから話が面白くなってくるのだった。 面白いのは、宇宙人の描き方。「E.T.」をはじめとする一般的な映画だと、宇宙人は進んだ知識をもつ連中で、さらに病原菌を心配したりして完全隔離! となるのだろうが、そんなこともしていない様子。エビのような外観にもかかわらず、素手では人間と互角みたいで、残虐でも柔和でもない。武器もあるのに、使った形跡もない。そもそも、20年前に宇宙船がやってきて、人間が調べたらみな栄養失調で・・・って、ギャグかよ。それを助けてもらった恩義なのか、隔離地域に大人しく暮らしている。黒人ギャングなんかにも従順にしたがってたりして、ホント、難民かホームレスみたいに描かれる。新鮮な描き方ではあるけれど、いまひとつパワーがない。これなんかも、眠くなった一因かも。 インディアンや南アの黒人のように隔離される宇宙人。それはまた、ゲットーのユダヤ人や収容所の日系人のようにも見えたりする。はたまた、内戦を嫌って船で逃亡してきた難民にも見える。地元に溶け込むことができず、逆に追い出されようとしている。ユダヤ人たちにも思えてくる。いろんな見方ができると思う。その宇宙人相手に猫缶その他を物々交換で売りつけるナイジェリア人のギャング。こういう連中はいつもどこからか湧いてくるよなあ。それにしてもナイジェリアは南アと離れいるのに、どういうつながりがあるのだろう? ヴィカスは人間ではなくなったが、宇宙人でもない。どちらにも属しない存在でありながら、その肉体には価値が付けられていく。これも何かのメタファーか。いろいろ考えられて面白い。 クライマックスは、ヴィカスがガンダムみたいなロボットに乗り、傭兵たちと戦う。「トランスフォーマー」というより「アバター」に似ている。むしろ「アバター」が真似たのか? と思えるほどだ。そして最後、行方が分からないという証言の後、ほとんど全身が宇宙人化したヴィカスが映される。したたかに隔離地域で生き続けている。このあたりの描写は少しコミカル。かつての「ウルトラQ」を想像させる含みをもった終わり方だ。 ヴィカスはクリストファーに「母船に来れば治してやる。ただし3年かかる」っていわれていたけど、あれはどういう意味だったんだろ。母船に治せる設備、薬があるということ? それとも、母船が故郷の星へたどり着くまで3年? で、3年、と聞いたヴィカスがクリストファーを殴り、クリストファーの息子と2人で母船へと向かったのは、なぜ? 母船と司令船、の区別は? 宇宙人のクリストファーという名前は、地球人風につけたのか? これなんかも、植民地の原住民に、分かりやすい名前をつける行為と似ているね。最後、クリストファーと息子の2人だけで母船に移り、故郷に帰った。という設定だが、母船に食糧は積まなかったよなあ。宇宙人は、なぜ地球にやってきたのか?(見逃したのかな?) 彼らの故郷はどうなっているのか? どの程度の文明なのか? なんていうことが、もうちょい知りたい気がしたが、あまり詳しく描くとノンフィクションっぽさが薄れちまうかも、ね。これぐらいの曖昧さがちょうどいいのかも。 | ||||
苦い蜜 〜消えたレコード〜 | 4/22 | ヒューマントラストシネマ有楽町・シアター2 | 監督/亀田幸則 | 脚本/亀田幸則 |
「十二人の怒れる男」のアイディアを、"陪審員"から"バーに集まった関係者"に置き換えた映画。いわゆる一幕もの。消えたビートルズのレコードをめぐる物語で、「盗んだ」と汚名を着せられたまま亡くなった青年の恨みを、友人が晴らす。 がしかし、その友人(探偵らしい)が開陳する証明は、あまり論理的ではなく説得力に欠ける。とくに前半は、すべて都合良く解釈しているだけ、に思える。セリフもくどい。話が大きく転がりだすのは、パラソルチョコレートの1件が話題になってから。それ以前は憶測だけで話が進んでいる。 果たして探偵は、どこまで知っていたのか? という疑問が残る。すべてを知っていて、あえて関係者が集まっているバーに乗り込んだのか? それにしては、自分でべらべらしゃべるのではなく、ヒントを与えて関係者に思い出したり考えたりさせるような手法を採っている。それはそれで構わないのだけれど、探偵が「すべてを知っていた」のか「知らないところを聞きに来た」のかでは、話が違ってくる。だって、パラソルチョコレートの件もそうだけれど、取材・調査しなければ分からないようなことばかりだ。ということは、探偵はすべてを解明していない状態でやってきたのか? それにしては、最初から自信満々で友人の無罪を主張している。とまあ、こういう部分がしっかりしていないから、話自体が嘘くさく感じられてしまう。 また、最後の、レコードは開店祝いのくす玉に隠されていて、開店時に割らなかったので1年間疑惑が残った、という終わり方もスッキリしない。なぜなら、レコードをくす玉に仕込んだのが誰なのか、結局、分からないからだ。これを知らせずに終わるというのは、どうなんだろう。仕込んだのが、開店時に死んでしまった鈴木社長だ、という説もある。が、病院にいっても意識があり(のだろ?)、「パラソルチョコ」と口にするぐらいなら、「柚木は犯人じゃない。隠したのは俺だ」とでもつぶやけばいい。でも、そういうこともしていない。もし鈴木社長が仕込んだのなら、それとはっきり分かる終わり方をするべきだ。だって、柚木がのちに交通事故でなくなったのも、鈴木社長に原因があることになるではないか。そもそも鈴木社長にそんな茶目っ気があるのなら、そのような伏線も必要だと思う。また、隠す1枚をマスターにあげる予定のレコードにした理由も分からない。とにかく、この話には精緻さが欠けていて、突っ込み所が多すぎるのだ。まだ、話を練り込む必要があると思う。 とにかく、出演者が多すぎる。バーに集まるのが14人。このうち、いなくてもいいようなのが5人はいる。べらべらしゃべる割りに意味のないのが、新人タレントの青年。主義主張もころころ変わるし、バカにしか見えない。もうちょい人物をしぼりこみ、セリフも刈り込んで、さらに必要なセリフを加え、人物を掘り下げるためのエピソードなども入れ込むなど、するべきコトはたくさんあると思う。 で、allcinemaの見たら、この監督の前作は、これと同じ話なんだね。しかも、元々は舞台劇。1つの話に自己陶酔しているとしか思えない。これ、他人が脚色した方が、まともなホンになるんじゃないのかな。きっと。それと、冒頭の、柚木は正義感の強い青年、を強調するエピソードは余分だ。 それにしても、いっちゃ悪いが、旬の過ぎた役者やテレビの脇役を集めてつくったに違いない、と分かるようなキャスティング。これで面白ければいいんだけど、イマイチなのが哀しい。 | ||||
シリアの花嫁 | 4/23 | ギンレイホール | 監督/エラン・リクリス | 脚本/スハ・アラフ、エラン・リクリス |
原題は"The Syrian Bride"。イスラエル/フランス/ドイツ映画。へー。シリア資本は入ってない? もともとシリア領だけれど、現在はイスラエルの占領下にあるゴラン高原のマジュダルシャムス村。住民はシリア人だし、シリアの大統領を支持している。けれど、住民は無国籍扱い。この村の娘が、シリアのタレントの男と結婚することになった。式は、マジュダルシャムス村とシリア領との非武装地帯で執り行われる。奇しくもその日は、シリアの新大統領支持のデモの日。イスラエル軍や警察は、シリア人との一触即発の危機を想定してピリビリしている・・・。 はじめは、たかが結婚式で警察が大騒ぎ? と思っていたが、シリア人と村の娘の結婚式なので、緩衝地帯が関係してくるのだな、と分かってくる。「いちど国境を越えたら二度と戻れない」なんて言ってるけど、ロシアやフランスに住んでいる兄弟は戻ってきているじゃないか。下の弟も、シリアの大学に行ってるんだろ? 行き来はできるんじゃないの? と思ったら、結婚によって娘はシリア人になり、この村には戻れない、らしい。ってことは、男の兄弟は無国籍のままなのかい? そのあたり、よく分からず。 娘の父親は政治犯らしく、投獄歴も。なので緩衝地帯への侵入を警察から制止される。でも結局、入っちゃうんだけどね。どうも、アラブ人はルールを守る、という意識に乏しいように描かれている。その父親を警察が逮捕しようとすると、ロシア人を妻にした長男が「俺は弁護士。逮捕状がないと逮捕できない」といって、父親の逮捕を免れる。ええっ? そもそも政治犯だから進入禁止、となっているのだから、現行犯で逮捕できるんじゃないの? ロシア人の妻を娶った長男が嫌われている理由がよく分からない。父親は無視する。村の長老たちは、長男を家に入れるなら、以後のつき合いはしない、などという。ううむ。なぜなんだ? で、嫌われていた長男とロシア人の妻。まず、ロシア人の妻が、長女の亭主が脱水症状になったのを治療する。彼女は医者。次に、長男が父親の窮地を救う。これによって、父親から家族扱いされることになるのだけれど、なんかご都合主義でいまいち納得できない。だいたい長男も、自分のせいで家族が肩身の狭い思いをしていると知っていながら、なんでわざわざロシアからやってくるかな。いくら妹の結婚式だからって。 というわけで、結婚式へと話が進んでいく。のだけれど、盛り上がりや高揚感はあまりない。全体にだらっとした感じ。細かなエピソードの積み重ね、ともいえる。なので、何をいいたいのかよくわからない。 結婚についていうと、まだ写真だけで結婚というスタイルが残っている、というのが驚き。日本でもブラジル移民がそうだった。あと、何年か前に見た「リトル・イタリーの恋」というのも文通と写真だけで結婚する、という話だった。このシリアでは、まったくの無縁ではなく、親族の中の誰か、を結びつけるみたいだね。「ドゥーニャとデイジー」という映画にも、あれはモロッコだったけれど、親族同士でめあわせるという話が出てきていた。イスラム社会では、そういうのは当たり前、なのだろうか。誰もそれに疑問を持っていない。結婚式を迎える娘も、会ったことのない結婚相手に、ものすごく期待している様子。それが普通の社会というのは、なかなか想像できない。ただし、娘の姪(姉の子供)は、近所の男の子と仲がよく、結婚したいと思っていることが描かれている。でも、だからといって最近の若い連中は、という非難は込められていない。そういえば、花婿が雇ったのだろうカメラマンも「結婚はスイカみたいなもの。割ってみないとわからない」なんていっている。 家族。一家は、男3人女2人の5人兄弟らしい。長男は弁護士。ロシア人と結婚し、ロシア暮らし? 次男は商売人。お調子者で女好き。3男はシリアの大学に行っているみたい。長女がこの映画の主人公的な立場。彼女は親とは離れて暮らしているのか? そういう地理的・位置的な描写がないので、わかりづらい。亭主が何をしているのかよくわからないが、ダメ亭主、とバカにしている模様。結婚によって自分のしたいことができなくなった、とも思っている気配がある。大学に入学するのは、長女の娘かと思っていたら、長女自身みたい。いろんな意味で、この映画は舌足らずの部分がある。長女の女優。見たことがある。「扉を叩く人」で、息子に会いにやってきた母親だ、と気付く。後で見たら、「画家と庭師とカンパーニュ」にもでていたのね。シリア人じゃなくイスラエル人らしいが、シリア人役を演じても問題ないのかな? で、次女が嫁に行く、という設定。30歳前なのかな。 父親は、何をしている人なんだろう。名士のようだけれど、わからない。息子たちを海外にやるというのは、進歩的なのか。それでも、女性たちには保守的。これは宗教的なもの? 長男に対する態度もよくわからない。いま、夫婦と次女だけで暮らしているのか? ううむ、よく分からん。 女性の自立。母親は保守的。長女も見合い結婚のようだが、本人は失敗したと思っている。だから、この年になって大学に行こうとしているのだろう。で、その大学はシリアにあるのか? とすると、国境を越える? では、長女も帰れなくなるのか? でも、国籍がシリアになるわけじゃないから大丈夫なのか・・・? 長女の娘には彼氏がいる。その彼氏は、内通者、と周囲に言われている。実際はどうなんだ? そもそも、その彼氏も新大統領支持のデモに参加していたじゃないか。みんなが内通者、と知っていたら、つまはじきにされるんじゃないのか? 長男もそうだけれど、この村で疎外されている人間が、なぜそうなっているのか、という部分がわかりづらい。 さて、話が面白くなる、というか、ドラマが始まるのが、一堂が緩衝地帯に入ってからのこと。占領しているイスラエルの出国担当役人が、パスポートに出国印を押す。ところが、シリア側の入国職員が、それを認めない。なぜなら、それまでイスラエルは出国印を押さなかったのだけれど、突然、イスラエルと国名のある出国印を押すようにしたから、らしい。占領地域がイスラエル領である、と既成事実をつくろうとしている模様。しかし、シリア側は、たまたま占領下にあるだけで当然シリアの領土、という認識だからそれを受け入れるわけにはいかない。国と国とのメンツの対立だ。パスポートをもって、国連職員が緩衝地帯を行ったり来たりする。時間が経っていく。どちらの側も、上司に連絡が取れない。最終的にイスラエルの職員が、自分の判断で出国印を修正液で消すのだけれど、今度はシリア側の職員が交代してしまって、そんなことは知らない、と受理しない。にっちもさっちもいかなくなって花嫁はどうするか? と、無断でゲートを抜けてシリア領に向かっていく・・・。で、終わるのだけれど、途中には国連のゲートがあり、次にはシリアのゲートがある。ちゃんと越えられるのか? という疑問が残ってしまう。それに、出国印を修正液で消した職員は上司に叱責されないのか? と心配になる。それでも、最後の最後にドラマらしい部分がでてきて、やっと映画らしくなった。 その他、国連職員の位置づけが分かりにくい。どういう権限があるのか。どういう役割があるのか。そのあたりも、説明が足りない。次男が国連職員の女性とつき合っていた、という設定だけど、そんなことがあり得るのだね。次男の地理的な自由度というのは、どの程度あったのだろう。次男のクルマはアウディだった。レンタカーなのか? タクシーはベンツ。長女のクルマも立派そう。高級車がもてるほどの収入があるの? あんな村で。花嫁がとんでもない馬面で、いまいち興味が削がれる。長女と、長女の娘が美しいだけに、ね。 | ||||
戦場でワルツを | 4/23 | ギンレイホール | 監督/アリ・フォルマン | 脚本/アリ・フォルマン |
原題は"Vals Im Bashir"。この映画、見たいという気がそもそも起きなかった。その理由はアニメであること。実写をもとに描き起こしたタッチや動作が、どうも受け入れがたい。けれど、去年のアカデミー外国語賞で前評判No.1。結局「おくりびと」に負けたけれど、それなりにいいのかな・・・。でもなあ。てな印象しかもたなかった。それがギンレイで上映される。ついでだ。というわけで、見た。 犬を殺す夢を見る、という男。20年前の戦争が関係しているかも、と医者にいわれ、過去の戦友たちを訪問。ひょっとしたら潜在意識下に押し隠しているかも知れない事実を探ろうとする話。で、1人目のエピソードの途中で寝てしまった。目覚めたら、山本小鉄風の、元戦車隊の男のエピソード。でも、その後にまた寝てしまう。気がつくと、ひざまずかないので殺した、というような話をしている。以後は見たんだけど、どうも何も迫ってこない。どうも主人公は、自分じゃ虐殺には加担しておらず、虐殺の直後に現場入りした記憶が悪さをしていた、というオチ。最後に実際の虐殺現場の実写フィルムが数分間つく。しかし、インパクトは少なかった。 ひょっとしたら、寝ている間に興味深いエピソードがあったのかも知れない。で、俺が見ている間はそれ程でもない画像がつづいたのかも知れない。なので偉そうなことは言えないのだが、全体を通して心に迫ってくるなにがしかがあった、とも思いにくい。きっと、この虐殺事件を取り上げた、ということだけで評価されているのではなかろうか、と思ったりしたのであった。 アラブの問題は、結局のところ、そもそも論に行き着いてしまう。でも、その、そもそもが論理的にカタが付かない。どちらかが引く以外、解決はない。でも、互いに引くことはないだろう。これはもうずっと、ねじれたまま、だろう。そういう問題をとりあげても、何の解決にもならないも、と思うのだけれどね。では、どうすればいいか。それは、私にも分からない。 |