2010年5月

ウィニングチケット -遥かなるブダペスト-5/6ギンレイホール監督/イレーシュ・サボー、シャーンドル・カルドシュ脚本/シャーンドル・カルドシュ
原題は"Telitalalat"。2003年、ハンガリー映画。
邦題から、サッカー見物にでもいく話かな、と思っていた(ウィニングチケットって、考えて見れば「当たり券」なんだよな…)。ところが冒頭、日本の観客に向けた背景についての説明文が出る。「ハンガリー動乱でソ連軍が攻め込んできて亡命する人が増えた。しかし、亡命せず国内に残る人もいて、彼らはサッカーの勝敗が楽しみだった」とかいうような文面。なので動乱下から動乱後の話だと思って見ていた。のだけれど、どうもよく分からない。後でWebで見たら、動乱前からの話で、サッカーくじに当たった日に動乱が勃発した、と書いている。ふーん。ってことは、車で銀行に行こうとしていて人々に襲われ、クルマから脱出したら「ビラを撒くのか?」といわれ、屋上に上がろうとしたらスターリン像が飛び込んできた、あの出来事が動乱勃発だったのね。ふーん。わかんねえよ、あれじゃ。
そもそもハンガリー動乱についてよく分からず。規模や期間、内容、被害者の数、なんてのはまったく知らず。プラハの春と同じような、ソビエト支配への抵抗なんだろう、と思っていた。しかし、経緯が分からないと、映画に描かれる生活環境の変化、国外への希求なんかは、実感として理解できないと思う。歴史を知らないと分からない映画の1本だと思う。
で、最初の頃、住民同士で「自由」なんて言っていたのは、民主化への希求だったのか。で、主人公が工場の改善会議みたいなので発言したら、労働時間が長くされられてしまう。あれは、社会主義体制を皮肉っているのだろう。では、当時のハンガリーの体制側は、ソ連に従順だったのか?
で、主人公はサッカーくじを買う。それにしても、サッカーが命なのだね。オーストリア戦でラジオを聞きつつ、得点が入ると、長屋中の人がでてきて「おーっ」と騒ぐ姿が微笑ましかった。そういえば、冒頭、少年がボール遊びしている場面でサッカー選手の写真がヒーローのように貼ってあったけれど、誰? その他、サッカー選手の名前が何度か登場していたけれど、どういうことなのかつたわってこない。
長屋の広場で、住人が集まって話を聞く。舞台の背後にあった写真は、誰のもの? また、歌を歌ったオヤジは、どういう人物なんだ? ハンガリーの政治体制と、関係あるシーンなのかな?
で、サッカーくじが当選し、大金が手に入る。この金を銀行に入れようとしている最中に、動乱が起きたのね。と、あとから解説を読んで納得。いや、あのスターリン像なんかは、主人公の幻想=夢なのかと思ってしまっていたのだよ、じつは。で、銀行に入れられず、金を携行する日々。広場の庭に埋めてみたり、金に替えようと試みたり。この件は落語の「水屋の富」みたい。
で、主人公が食糧を買いに出かけ、スリと遭遇。スリに「盗まれた」というやつがいて、そこにすぐ警官らしいのが来て、スリに制裁を加える。やれやれ、と見ていたら、別の日、主人公が不必要に金を持っていたため嫌疑をかけられる、という話があった。あれ? スリのときと同じような連中だな? あれは、警官側のやらせなのか? さらに、捕まった主人公が身体に札を貼られ、晒されるのだが、そこでハッと目覚める。では、警察に捕まったのは夢? というシーンがあったので、スターリン像も夢かと思ったのだよ。それはそうと、主人公が外出し、買ってきた食べ物は金色の紙に包まれた固形物…って、どういう意味なのだ? あの金色のものは、食べ物なの? わからん。
動乱勃発後、銃撃戦が始まる。主人公の家でも、一家が家の隅に固まってしゃがみ込んでいる。というところに従兄弟、が突然やってくる。しかし、主人公の母親を「母さん」と呼んでいた。「?」。従兄弟なら「伯母さん」ではないの? 盗人の自分を政治犯、と呼ぶ従兄弟。下宿人である娘と親しくなるのだけれど、あれ? この娘には部屋に泊まっていくような兵隊の彼氏がいたんじゃなかったっけ? 彼はどうしたんだ?
戦場となる市街。予算の都合か、まつたくリアルに描かれない。で、よく登場する戦車はどっちの側のものなのだ? ソ連のもの? よく分からん。
主人公が従兄弟と紙幣を金(GOLD)に替えようと出かけ、従兄弟が撃たれてしまう。なんと呆気ない展開! で、家に戻ると家族がいない。あらら。みんな国外逃亡しちゃったの? 行き先を言っていたけれど、国内だか国外だかわからんよ。で、下宿人である娘と死骸を引き取りに行き、埋葬。この過程で、主人公と下宿人である娘とかなんとなく色恋関係みたいになる過程はどうなんだ? 寝たとは描かれてないけど、女房においていかれたからって、強引すぎないか? 
がっくりした主人公は、カフェに金を与え、店を開かせる。自暴自棄? 主人公はジプシー楽団を呼んで演奏させる。歌手になりたかった、という下宿人である娘が歌う。でも、昔からのジプシー音楽ばかりで、いまひとつ…。兵士の女性が酒場に来て、一曲演奏して戦場に戻るのが、かっこいい。が、女も戦っているのに、主人公たち一般市民は飲んだくれてる。お前らは抵抗しないのか? とツッコミを入れたくなった。
さて、下宿人である娘も、戦車の砲弾で死んでしまう。あらら。あの戦車はソ連のもの? で、主人公が警察(?)に尋問される。組合に資金提供したかどで「本来なら銃殺だが釈放」とかいわれ。あれは、すでにソ連に鎮圧されてからのことか? それとも、まだ抵抗しているうち?
で、工場に戻った主人公。そこに字幕で、「実話に基づく」「彼の行方は分からない」で終わる。なんなんだ? 笑えないユーモアばかりで、すんなり入り込めない。考えさせる内容なんだろうけど、知識がないから十分に理解できない。ううむ、な映画だった。世界に向けてみせるなら、もっとやりようがあるよな。母親が漏らす言葉に、いちいち含蓄があって、これは面白かった。サッカー自体は、ほとんど登場しない。動乱がどのような経過を辿り、どう集束したかも映画だけでは分からない。こまったね。勉強しろって?
ダーリンは外国人5/7テアトルダイヤ・スクリーン1監督/宇恵和昭脚本/大島里美
外国人の亭主に関する物語、かと思ったら、違った。さおり(井上真央)がトニーとつきあいはじめた頃から始まり、同棲を始め、プロポーズされるまでの話だった。パート2でもつくるつもりなのかな?
おおむね面白い。語学オタクのトニーが、そのシーンに最適な日本語表現を考え、言うんだけどちょっとズレてる、という展開は笑える。他にも、さおりの姉の結婚式で、「なぜ悪くいう。お姉さんはすばらしい人なのに」と主張したり、日本の習慣に慣れていない面白さもある。
が、さおりの父の病気・突然の死、あたりから話が暗くなる。トニーとの考えのズレ、思うようにマンガが描けない焦り・・・。この展開は、正直いってつまらない。脚本は、ここでドラマを見せよう、というつもりなのかも知れないけど、じつはドラマになっていない。父の死はともかく、さおりとトニーの感情のズレがとても曖昧で、説得力がない。さおりが「日本人と外国人じゃ、しょせん上手くいかないのよね」なんていうのには、がっかり。あまりに類型的。マンガが描けなくなる理由もはっきりしない。なんだかわけが分からないまま暗くなっていき、笑いもなくなる。見ている方もイライラするよ、これじゃ。
すべてを解消する小道具として、洗濯方法のメモ、を使っている。間違いなく選択しようと、トニーはこれを見ていたのか! ど、さおりが渡米して、実家に帰っているトニーと再会。トニーのプロポーズとなるのだが・・・。そもそも、洗濯記号の意味を、物干しにぶら下げておく理由が分からん。洗濯する前に気をつけるべきものなのだから、洗濯機の前にでも貼っておくべきだろう。
ムリしてドラマをつくったせいで、中盤以降はもたつく。いっそ、最初のテンションをずっと最後まで貫き通した方が、面白かったのにね。エピソードだらけになるかも知れないけど、「南極料理人」なんか、その手でそこそこ面白くできているのだから、不可能なわけじゃない。
あと、物足りないのは、2人の関係。さおりがトニーに恋してる、というようだ。で、最初の出会いの後、どうやってつき合うようになったのか、そのきっかけを知りたい。それがないと、さおりが恋するようになった理由も分からないからね。
本物のトニー・ラズロは牧師役ででていた。でも、原作者の小栗左多里はどこにでていたんだ?
井上真央は、俺の好みではない。鼻のかたちがどーもね。それと、正面の顔はまずまずなんだけど、横顔に魅力がない。なのに、この映画では真横からとらえる場面があったりして、ううむ。真横からだとかなり大人びた、水商売系の面立ちになってしまう。女優のベストショットを、もうちょい考えるべきだな。
ウルフマン5/8上野東急2監督/ジョー・ジョンストン脚本/アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー、デヴィッド・セルフ
原題は"The Wolfman"。主演はベニチオ・デル・トロとアンソニー・ホプキンス。がしかし、最後まで、なんのひねりもない。ベネチオが狼男に噛まれ、狼男に。ホブキンスも、もとから狼男。はいはい、それは分かります。が、意外な展開やどんでん返しもない。秘密、といったって、ホプキンスが妻を殺してしまった、ぐらいのこと。とくに驚くに値しない。だいたい想像がつく。いつまでたっても話が面白くならないので、眠くなってきた。1時間目あたりがつらかった。ちょうどベネチオが精神病棟に入れられる辺り。目は開いていたんだけど、いま思い返してみると、10分簡ぐらいよく覚えていない。目を開いたまま眠っていたのかも。
19世紀末。切り裂きジャックの時代。田舎の貴族の館。兄が行方不明、とロンドンの弟(ベネチオ)に手紙がくる。書いたのは、兄の許嫁? 弟が到着すると、父(ホプキンス)が迎える。「兄は死んだ」と。ベネチオがジプシーたちを調べていると、狼男が登場。ベネチオは噛まれてしまう。快癒後、傷跡がなくなる。音に敏感になり、飼い犬に咆えられるベネチオ。満月の夜、狼男に変身し、村の人々を襲いだす!いったんは捕まり、精神病院に入れられる。そこに父がやってきて、いわれを説明する。実は、父親が狼男。妻(ベネチオにとっては母)を殺したのは私だ、と。
なんだよ、やっぱりベネチオが狼男になって、ホブキンスも狼男? 予想の範囲じゃん。以後、ベネチオもホプキンスも救われることなく、なんのひねりもなく、終わる。おい。こんなんでいいのかよ! あまりにも単純すぎて、途中から眠くなってしまった。どこかで意外な展開が・・・の期待も空しく、なにも起こらずに終わってしまう。けっ。つまんねえの。
突っ込み所はたくさんある。ホプキンスはなぜ狼男になったのか? その述懐の辺り、眠くて記憶が薄い。旅に出て、妙な少年に出会った、とかだったかな? ホプキンスも噛まれたんだっけ? で、あの少年はどうしたんだ? あの少年がベネチオ、じゃないよな? なぜベネチオの夢にあの少年が登場したんだ? もう一回見ればわかるかな? でも、つまらない映画だから見ないけど。
そもそも、死んだ兄は自分を狼少年の子、と自覚していたのか?
満月の夜、従者のインド人はホプキンスを監禁していたはず。なのに、今回はどうしてホプキンスが外界にでたのだ? インド人はホプキンスが息子(兄)を殺した、と知っているはず。なのに、なぜベネチオには注意しないのか? ホプキンスも、ベネチオに「外出するな」というだけ、ってのもおかしいだろ。ホプキンスは、息子を狼男にしてもいいと思っていたのか? したくないと思っていたのか?
狼男に噛まれると、狼男になる。では、ベネチオ以外の一般人で、噛まれて死ななかった連中は、狼男になったのか? ホプキンスがベネチオを噛んだのは意図的? それとも、予期せぬこと? ホプキンスは、息子(兄)の許嫁を、さっさとロンドンに帰すべきだろ! ベネチオが病棟に行くと「戻ってきたな」と迎えられる。ん? ベネチオは以前にも精神病院にいた? どうも、ベネチオは有名な役者らしいんだけど、それは事実なのか? ロンドンの刑事は、切り裂きジャックを担当者らしい。彼は、ベネチオを犯人、と睨んでいた? でも、ベネチオはロンドンじゃ狼男じゃないよな? よく分からん。
とか、不明な点が盛りだくさん。なのに、映画はほとんど何も教えてくれない。変身シーンのCGなんて、べつにリアルでも何でもない。アニメと同じ要領だ。
ベネチオと、兄の許嫁とのロマンスっぽい展開もいまひとつ。ベネチオの、どうしようもない哀しみもロクに描かれない。ホプキンスの存在も中途半端。映画化前に、詳細をちゃんと詰めておかなくちゃなあ。やっぱり。
困ったこと。セリフでは「ジプシー」と言っているのに、字幕で「東方の流浪民」と訳されることだ。差別の助長につながるから? バカ言ってるよ。そもそもセリフがジプシーなのに、言い換えたら意味がつながらんだろ。なんだ、東方の流浪民とは! インディアンやエスキモーもそうだが、くだらんところで配慮しすぎだと思う。
武士道シックスティーン5/11テアトル新宿監督/古厩智之脚本/大野敏哉、古厩智之
「書道ガールズ!!」の公開も間近に控え、剣道部、書道部で忙しい成海璃子。まあ、この手の話は面白くつくりやすいのか「恋は五・七・五!」「ロボコン」なんていうのもあった。「ウォーター・ボーイズ」「スウィング・ガールズ」も同じ範疇だな。高校野球やテニスなんかのスポーツではなく、割りと地味目で意外性のあるサークルがトレンドみたい。これも、女の子の剣道、というのが売りなんだろう。顔が面で隠れてしまうハンデをいかに克服するか。それが大変だったかもね。
原作があって、やはりコミックらしい。前半は、そのコミックさながらに現実離れした展開。幼少時から厳格な父に剣道を強制され、女の子らしい生き方を一切してこなかった成海璃子。いっぽう、興味本位で剣道をやってきた北乃きい。この2人の対比が面白い。しかも、冒頭の、15歳・中学時の対戦で、2人の性格が見事に描かれている。勝つために前に出、攻めるいっぽうの成海。負けないために引いて、逃げる北乃。しかも、それまで負け知らずの成海が、北乃の自然体の剣道に一本とられていて、それが痛恨の極みとしてトラウマと化していることが、端的に描かれている。
その後の展開もマンガチック。新入生なのに高校剣道部で上級生に活を入れる! 校内では孤独に宮本武蔵的生活をする? 成海に友だちはできない! などなど、あり得ない展開だけど、なぜか納得させられてしまう。こんな成海に、なぜか惹かれる北乃。北乃が追っかけ、成海が困り果てるのも、この手の物語によくある展開だ。で、周囲に嫌われつつも関東地区予選で勝ち上がっていく。準決勝を目前に手首をケガする成海。準決はなんとか誤魔化して乗り切ったものの、失神。決勝は北乃が代わりにでる。…というところまでは、とても面白い。のだけれど、以降ががぜんつまらなくなってしまう。
インターハイ出場は決めた。けれど、成海が迷い始めるのだ。手が治っても部活に顔を出さない。という流れに、ぜんぜん説得力がない。なぜ成海はやる気を失ったのか? そして、部活だけでなく、父親が道場主である道場からも身を引くようになったのか。その理由がまったく描かれていない。きっかけとしては手首のケガしかないのだけれど、なんでそれで?
深読みすれば、準決でなんとか勝利したときのこと。攻めるばかりの成海に、北乃が「引け」と指示を送る。はじめは無視していたが、最後は引いてなんとか勝ちを得る。この、引くことによる勝負のあり方を、北乃に教わったことがショックだったのか? しかし、映画ではそんな理由は明示されない。されるのは、依然として「お前に負けたからだ」という、中学のときのトラウマのみ。おいおい。そういうのは、成海が北乃を自分の道場に連れ込み、一緒に練習する過程で消えたんじゃなかったのか?
幼い日、兄とともに道場がよいの様子が描かれる(けど、自分ちが道場なのに、稽古着で町を歩くのは変だよなあ)。他の子のようにブランコで遊べない。お菓子も食べられない。そんな自分のこれまでを振り返るのだけれど、それが果たして、何によるものか、描かれない。北乃の影響であるとも、突然の自我の目覚めとも判然としない。これは見ていてもイライラする。
強くなったのかな? と思えた北乃が、インターハイ前に弱気になっているのも、よく分からない。いや、そもそも、この映画、剣道をモチーフにしていながら、成長の様子がほとんど描かれないのだ。たとえば、成海と北乃の稽古で、北乃がどれだけ強くなったのか? さっぱりわからない。北乃が予選で補欠に選ばれたり、インターハイで正選手に選出される根拠も描かれない。むしろ、ぜんぜん変わらないまま、成長していない、としか思えない描き方をされている。さらに、試合も、誰が勝って、何対何で勝ち上がっていったのか、なんてことには関心がない。これじゃ、成長物語にならないよなあ。
というわけで、見ていて欲求不満になってくる。こうなってくると、いろんなところのアラが気になってくる。中学のとき、負けた相手の名前ぐらい覚えてるだろ! 勝った北乃だって、相手が中学チャンピオンなら、覚えてるだろ! 成海の兄が負けた相手が、北乃の姉の彼氏だ、ぐらいは、狭い町なんだからわかるだろ? とかね。他にも他の部員がほとんど描かれないこと。成海の父親=道場主は、なぜ勝つことしか強要しないのだ? その理由は? 成海の兄は、ライバルに負けて剣道をやめた。そんな簡単にやめるか? フツー。大会に、成海や北乃の家族が応援に来ない。それってありか? 北乃は、成海のどんなところに惹かれたのだ? とかも気にかかる。それまでは、どうせマンガみたいなものだから、と大目にみていた部分にも目が行ってしまう。
成海の挫折、そして、復活を描くなら、やはりそれなりのディテールが必要だ。親子関係、亡き母のこと、フツーの少女であることに憧れた心…。そういうのを端折り、とつぜんの北乃の果たし状で北乃と成海が勝負し、成海が部に戻るというアバウトな展開にもっていってしまう。それに、ぜんぜん成長してないように見えた北乃が、いきなり成海に胴一本をとってしまう。いや。北乃は「私が勝ったら部に戻れ」といっていたのだから、もう一本もとったはずだ。そんなに強くなっちまったのか?
という、成長の物語の手抜きのおかげで、話は暗く、つまらなくなってしまっている。
いっぽうで、北乃の父親が発明家である、というエピソードで、勝ち負けより好きか嫌いの方が大切、という教えを説く。それは、悪いことではない。しかし、剣道部の教師がいうような「折れる心」を、成海がどこで体験し、実感したのか。それがまともに描かれていないのでは、すかっとした気持ちにはなれない。よな。
ツメが甘いせいで、傑作を凡作にしてしまった後半。ああ、もったいない、だね。
フェーズ65/11シネマスクエアとうきゅう監督/アレックス・パストール、ダビ・パストール脚本/アレックス・パストール、ダビ・パストール
原題は"Carriers"。「感染者」がなぜ「フェーズ6」になるのかは不明。アメリカのどこか(撮影はテキサスとメキシコらしい)。4人の男女が楽しげにドライブ中。前方に1台のワゴンが道路を塞いでいる。男がガソリンをくれ、という。しかし、後部座席の少女のマスクに血痕…。「感染してる」といったんは見捨てるが、オイル漏れを起こしたのかクルマがストップ。4人はワゴンを奪いに戻る。ワゴンの男の、某高校でワクチンがつくられた、という情報をもとに、6人が走り出す…。
得体の知れない病原菌の蔓延した地球で、生き残ったわずかの人たちが登場する物語。でも、サバイバルよりは人間ドラマに的を絞った展開で、4人の若者も描き分けられている。自己中心的なブライアンと、イェール大に合格した秀才で気の弱いダニーは兄弟。ブライアンの彼女ボビーは、根が優しい。ダニーの友だちケイトは自己主張がつよく冷淡という設定。さて高校へ着くがワクチンの効き目なく、生存者も自死を図るところ。ブライアンは、もう必要がない、と父娘を置いてきぼりにする。この後も、ブライアンはガソリンを奪うために女性2人組を射殺する。さらに、感染したボビーをケイトに言われるがままに路上に捨てる。
さて、こんなやつには天罰が下る、というわけでブライアンはちゃんと感染する。ケイトに言われ、ダニーがブライアンを射殺し、火葬にする。無情にもボビーを捨てたブライアンが、弟に殺され、捨てられる。…と、この辺りの展開はお約束で意外性はないけれど、観客が納得する流れでもある。
最後、2人は当初からの目的地だった海の家にたどり着く。ここは、ブライアンとダニーが子供の頃から訪れていた海岸。思い出の詰まっている場所に、ダニーとケイトが2人。…ここで、映画は終わる。さて、このあとどうなるのだろう? ダニーは途中、病死した人間を食らう犬に襲われている。順調なら、しばらくすればダニーに症状が現れるはず。するとケイトがダニーを殺すのか。捨てて立ち去るのか。または、2人は地球のアダムとイヴとして、新たな歴史を刻んでいくのか。などと、いろいろ考えられる終わり方をしている。
こんなエピソードもある。途中、ホテルにたどり着いた4人。そこに防菌服をまとった何人かの男がいて、いさかいになる。4人は防菌服の連中に追い出されるのだけれど、防菌服の何人かが「女をおいていけ」といい、防菌服の1人がそれに反対する。感染症が蔓延している状態で、女が保菌者かどうか分からないのに、女に興味あり? ちょっとあり得ない気もする。ま、この一件は、女性2人を下着にしたらボビーが感染していることが判明、で終熄するのだけどね。
モチーフとしては手垢が付きすぎた設定だけど、どう転がすかには興味が湧く。しかも、ヒーローとヒロイン、そこに少年あたりがからみ、智恵のある老人が見守る、みたいなよくある連中ではなく、若者4人であるところが面白い。また、たとえば防菌服の1人が謎の死を遂げたのはなぜか、というような謎をあえて残したまま、というのもいさぎよい。置き去りにしていった連中のその後、をまったく描写しないのも同じ理由か。このほったらかし感、素っ気なさは、話を予定調和的に終わらせず、含みをもたせようと言うことか。ボビーや少女は、軍隊に救われた、みたいな教訓っぽさがないのがいい。
ボビー役のパイパー・ペラーボという女優の胸が洗濯板、というのがイマイチだな。ヒスパニック系の、なかなか可愛い顔をしているのだけど、惜しい。
ま、あんな状態で水はどうなんだ、食糧は? なんていう突っ込み所はあるけれど、まあ、大目にみましょう。
劇場版TRICK 霊能力者バトルロイヤル5/13キネカ大森1監督/堤幸彦脚本/蒔田光治
テレビシリーズから10年。初々しかった仲間由紀恵も30歳。目の下にクマがあったり、肌が汚くなっていたり、背中や腰回りの肉付きがよくなっていたり。はたまた、声もドスの利いたものになっていたり。いまや、かつての「TRICK」の面影はない。いまさら映画をつくる必要があるのか? その問いに「ない」と応える1本になっている。悲惨そのものだ。
物語は、相変わらずの変わり映えしない内容。辺鄙な村にでかけていって、霊能者競争をするという、これまでにも何回か見たような展開でまったく芸がない。もうちょい頭をつかって考えろよ、といいたくなってくる。
眠いのを我慢していたけれど、不死身の男がバラバラ死体になる辺りで、耐えきれずに寝てしまった。目覚めても、内容がねむいのは変わらなかったけどね。
崖に落とした棺桶の死体を放置したままだったり。前日に乗り込んで村を観察し、あまつさえ馬を配置し、さらには村の人も知らなかった双子の正体を発見してしまう犯人など、随所にテキトーいい加減ご都合主義がてんこ盛り。いや、そもそも、あんな村の霊能者の後継者になって財宝を得よう、という動機からして説得力はまるでない。テレビの2時間ドラマ枠がせいぜいだな。
ラストの、上田が山田に「好き・・・」といいかけたのを追求される、というのも、テレビ版にあったはずだし。テレビ版の、菅井きんとの関連が示唆される部分はちょっとだけ興味をもったけれど、それは結局添え物でしかなかったし。ああ。さようなら「TRICK」だな。
息もできない5/14新宿武蔵野館3監督/ヤン・イクチュン脚本/ヤン・イクチュン
英文タイトルも"Breathless"の模様。といっても韓国映画だが。一見してチンピラ×暴力映画のようだけれど、これは純愛物語だな。チンピラ青年と女子高生が、表面的には毒づきながら、心の傷をなめあうように、心を通わせていく。では感動的かというと、そうでもなかった。評判もいい。タイトルに惹かれて、全編緊張感で息もできないほどドラマチックが体験できるかと思ったら、拍子抜け。これまでの韓国映画の、テンポが速くリズミカルに、せっつかれるように、荒々しく、えぐるような描写はほとんどない。かなりぬるい部分があって、時間はゆったりと流れていく。セリフや状況説明に繰り返しが多く、2時間10分は長すぎるかも。30分ぐらいつまんで、カット割りをふやし、テンポのいい音楽をかぶせたら、スリムでシャープな映画になりそう。でもまあ、そういうのをあえて狙わず、じっくりと見せていこうとしたんだろう、と思う。それが成功しているかどうかは別にしてね。
この映画には数多くの相似形が発見できる。関係性の相似形によって、因果はめぐる、を表現する。もっとも、わりと分かりやすい構成で、意外性がなく退屈でもあるのだが。
2つの家族が登場する。追い立て会社の幹部サンフン。30歳ぐらい。父親はDV。幼い頃、サンフンの姉が父に刺されて死亡。母親も、父親の影響で交通事故死。父は刑務所からでてきているが、働いていない。異母姉と、その息子がいる。気に入らないことがあるとすぐ殴るサンフン。これは父親のDVのせいだと明示している。現在は、父親に向かって殴る蹴るを働いている。父親のDVは酒のせいか?
女子高生のヨニ。父親はベトナム戦争による後遺症PTSDで錯乱状態。母親は亡くなっている。しかし父は妻が生きていると思い込んでいる。また、振り込まれる補償金を、娘が使い込んでいると疑っている。弟(兄かと思っていた!)がいる。働かず、ゲームセンター通い。姉に金をせびり、暴力を振るう。戦争の暴力→父親の錯乱→弟の暴力→ヨニ、という構図。
つまり、この映画において暴力は記憶であり、その記憶が新たな暴力を生み出している、という関係性を主張する。具体的には、サンフンは暴力を振るうが、彼は被害者でもあるのだ、というように。分かりやすく、しがちではある。でも、ありきたりすぎると思う。だって、同じような環境にあっても、ぐれない人もいるのだからね。暴力を振るう、については、個体の差が大きい。それを、相似形=因果関係で説得しようとするのは、やっぱりムリがある。
さてと。サンフンは、兄貴分のマンシクと取り立て会社をつくり、その幹部でいる。年上のマンシクにも「クソ野郎」などと平気で言う。下っ端には殴り放題。それでもマンシクには信頼されている。そのサンフンが、町でヨニに出会う。このシーンは面白い。サンフンが唾を吐く。それがヨニにかかり、文句をいう。サンフンがいきなりヨニを殴る。おお。女を殴る、か。それでも気付くまで近くにいて、ヨニの毒舌を受け止める。この辺りから、サンフンの、心根のありかが透けて見える。で、ここでもうひとつの相似形が絡んでくる。ヨニの母は、かつて屋台主だった。屋台を追い立て屋に壊され、立ち向かっていったところを、チンピラに刺されて死んだ。そのときのチンピラ集団に、マンシクの顔が一瞬見えた。ということは、サンフンもいたはずだ。加害者と、被害者の娘が、知り合いになる。その後、純愛関係にいたるのだけれど、ヨニの母の一件は、最後まで表に出ない。つまり、知らずにつき合うことになる。
さらに、ヨニの弟も絡んでくる。弟はマンシクのグルーブに加入し、サンフンと行動を共にするようになる。サンフンにいじめられ、最終的にサンフンを殴り殺すのだけれど、そのことをヨニは知らない。ただし、弟は、屋台を壊しているところをヨニに目撃されている。ここにも相似形が現れる。しかも、そのときすでにマンシクは取り立て屋を引退。手下に会社を譲り、堅気になって焼肉屋の店主になっている。つまりまあ、ヨニの弟は、新たなるマンシクの誕生でもある。こうやって、同じような関係は受け継がれ、繰り返されるのか・・・と観客に思わせる構図。
サンフンは、終盤、会社を辞める、とマンシクに告げる。きっかけとなったのは、実父の自殺未遂だろうと思う。あんな父親なんかいない方がいい、と言っていたけれど、いざ自殺未遂を起こされると、父親への慈しみが発露する。さらに、実父への暴力を、腹違いの姉の息子=甥に目撃され、「やめて」と言われたことも大きいみたい。それで、取り立て屋を辞めようと思ったらしい。
ただし、サンフンが「やめる」と言うだろうというのは、観客には読めてしまう。さらにまた、「今日を最後に辞める」といったからには、今日何かある、と予想できてしまう。だから、ラストの衝撃はない。取り立てに行き、相手を殴るヨニの弟を制止し(弱気になり)、相手に金槌で殴られ、さらに、ヨニの弟に恨みをこめて殴り殺される経緯は、想定内の出来事。とくに、息ものまなかった。
というわけで、映画の構図=構成としては複雑そうに見えて単純で分かりやすく、またそれだけに安っぽい部分も感じられる。というのは、得体の知れない暴力というのが登場しないからだ。どの暴力も、みな原因がある。そして、その原因こそが元凶だといっているわけだからね。それじゃ、つまらない。がしかし、ヨニの弟の存在が、その不満を解消してくれた。彼の暴力は、実は、相似形にはあてはまらない。そもそも、ヨニの父親はPTSDであってもDVではない。それに、家庭内でヨニに暴力をふるっても、外に出れば意気地なし。内弁慶だった。だから、マンシクの会社に入っても、返済の滞っている連中を殴ることには抵抗があった。それで、サンフンらにバカにされてもいた。それが、いつの間にか、平気で暴力にまみれていく。そういう暴力は、程度を知らない。マンシクやサンフンは殺すまで殴ったりしないのに、ヨニの弟の暴力は限度を知らない。そして、何かの記憶から生じた暴力でもない。その暴力が、サンフンを殴り殺すにいたったわけだ。ある意味で、オタク。ある意味で、怪物の誕生だとも言える。
こうした暴力の関係性はさておいて。なぜかなついてくるヨニに、サンフンは惹かれていく。といっても、性的関係にはならない。少し毛嫌いしつつ、バカにしつつ、それでも癒しにはなっている、みたいな関係なのか。ヨニにとっても、家庭や学校の息苦しさから逃避するようなカタチで、サンフンとのひとときを渇望する。この、ちょっと控えめないとおしさ関係が、なかなかよい。で、前述したように、サンフンの暴力性がわずかずつ溶解し、暴力から遠ざかろうという心になる。そういう心になったところで、ヨニの弟の暴力性に存在を抹殺される。ああ、なんと分かりやすい構成なのだ。分かりすぎて、つまらないぐらいだ。やっばり、映画はわずかながら謎を残す程度の終わり方がいいと思うのだがね。
見事に美形の男女はでてこない。ま、それでちょうどいい、とは思うけど。で、さっき知ったのだけれど、サンフン役の役者が、監督らしい。ふーん。
クリーン5/19ギンレイホール監督/オリヴィエ・アサイヤス脚本/オリヴィエ・アサイヤス
2004年/仏・英・加映画…なのに、2009年公開なのだな。なんでいまさら? 原題も"Clean"。「夏時間の庭」の監督だったのか。それにしては雑にかんじられところがあったなあ。
中国人女性音楽家が、夫の死や麻薬中毒から抜けだし、メジャーデビューを達成するまでの軌跡。…と書くとカッコよく聞こえる。けど、不注意で夫を麻薬死させ、たまたま刑務所で知り合った作曲家とのコンビが成功しただけの話、でもある。
エミリーは40歳ぐらいの中国人。フランスのケーブルTVで番組の司会もしたことがある。イギリスでロック歌手のリーと知り合い、以後はそのマネージャみたいなことをやっている。息子のジェイは、リーの両親が育てている。エミリーはヘロイン中毒で、その影響でリーも麻薬に依存している。リーは落ち目で、次のアルバムに賭けているが、曲が書けない。2世間は、エミリーのせいでリーはダメになったと言っている。
ある日、エミリーがヘロインを手に入れ、ホテルに持ち帰り、リーに手渡す。独りになりたくてドライブし、戻るとリーが死んでいた。どうみたってエミリーが手に入れたヘロインのせいだけど、エミリーは「リーには渡してない」とずっと言い張る。最後、ジェイに聞かれ、否定はしなかったが正当化はしていた。映画の中で、もっとも的確に両親の問題、麻薬の問題を把握していたのは、ジェイではないかと思うほど鋭い意見を母親にぶつけておった。どうも、エミリーには反省、より、自己主張が似合って入るみたいに思える。まあ、西洋文化にいる人全般に言えることだけどな。
麻薬所持で6ヶ月食らい、リーの両親に会うと、パリに向かう。叔父さんが経営する中華料理店で店員をするためだ。まともに働かないと、ジェイと面会できないから、らしい。けれど、薬物依存がひどく、薬局で手に入るようなものを囓るように摂取しつづける。タバコもね。「こんな仕事バカバカしくって」と辞めて、かつての知人を頼るけれど冷たくあしらわれる。結局、紹介されたのは、洋品店の店員。もっとも、ここも「バカバカしくって」と辞めちゃうんだけど。
エミリーはとても我が儘。概ね身の丈に合わない仕事を望み、店員などの仕事を軽蔑しきっている。そりゃなかには天才的な芸術家で、一般人のするような仕事はできない、という人もいるだろうけど。でも、エミリーにはそんなに才能があるようにも思えない。努力しない、不満をぶつける、自分は悪いとは考えない。なのに、「息子には会いたい」と、突然、殊勝なことをいう。変だよな。こんな女に、まともな仕事ができるはずがないよなあ。しかし、この映画はウルトラCのどんでん返しをもってくる。なんと、エミリーは刑務所で作曲家と知り合い、2人でデモテープをつくり、あちこちに配っていたのだけれど、それがメジャーの目に止まりデビュー! という、ありえねー展開をくっつけてしまう。徹底的にダメ人間、で通した方が人間くさくていいと思うんだけどね。心が弱く、麻薬に手を出し、子供を養う力がなくても、才能とチャンスさえあれば、未来は捨てたもんじゃない、みたいな話は嘘くさくていけない。
でもって、義父(ニック・ノルティ)がとことんいい爺さんにしてしまっている。息子をヤク中にさせられ、事故死という認定だけれど、殺されているのに、エミリーに甘い。最初は「すぐにはジェイと会わないでくれ」と言っておきながら、なんの疑問も抱くことなくジェイに会わせてしまう。しかも、1日預けてしまう。その間に、エミリーはジェイを連れてサンフランシスコまで録音に行くことを企んじゃうっていうのに! それを見とがめても怒ることなく、「それでこそエミリーだ」なんて誉めちまう。おいおい。いくらロック歌手の内縁の妻だといっても、妻も自由奔放でいいとは限らないよなあ。
というわけで、このエミリーという女がとってもやな奴で、少しも共感なんてできなかった。
人間の名前が字幕に多数登場で、なんだかよく理解できないところがあった。ひょっとしたら、字幕になっていない大事な内容をしゃべっている、という可能性も捨てきれないんだよなあ。
パリより愛をこめて5/20MOVIX亀有・シアター1監督/ピエール・モレル脚本/アディ・ハサック
原題は"From Paris with Love"。原案はリュック・ベッソン。それを「96時間」の監督が演出してる。最初は「?」な部分もあったけれど、トラヴォルタが登場してからは「96時間」同様、一気呵成。それに、冒頭の「?」な部分も、伏線としてちゃんと機能していた。リュック・ベッソンの原案だというからテキトーな部分が満載、かと思いきや、それ程でもない。しっかりした構成で、脚本も練られている。もちろん意外性もあって最後まで楽しめた。とくに、フランスにおけるアジア・中東の人間への視線も味わうことができる。もっとも、テロあってのことではあるが。
新米とベテランがコンビを組み、悪に向かっていく。意外なところに敵がいた・・・。終わってみれば、ストーリーはどこかで見たようなものではある。でも、いろいろ新鮮味もある。よくある刑事物ではなく、大使館付きの捜査官。でも、トラヴォルタみたいな派手な大使館員がいるのか? と思いきや、解説を見たらトラヴォルタはCIAで、若い方は大使館員とCIAを兼ねている、と書かれている。その辺りのことは説明されてなかったように思うけど、まあいい。つまり、若い方は銃など使ったことがないマジメぶり。これがどう変化するか、がまた面白い。{TAXi」のコンビも面白かったけど、だんだん中味がスカスカになってしまったが、こっちの路線を充実させるつもりかな?
若い大使館員には彼女がいて、ファッション関係? 彼女は「TAXi」におけるマリオン・コティヤールみたいな単なる飾りだと思っていたら、さにあらず。後半、重要な人物として注目されることになる。これは意外だった。ベッソンらしからぬ展開だ! しかも、昨今の脅威である、イスラム教原理派のテロと絡めてあるのが話に厚みを増している。
もっとも、コカインと言えば中国人、テロと言えばアラブ人、というワンパターンな描写は、どうかと思うけれどね。ま、アクション映画での色づけとしては、平均的なものだろうな。しかし、フランス人でもイスラム教を信じ、「大儀のため」と自爆する人もいる、のだろうなあ。たぶん。
チェス、指輪、インスタント写真、拳銃、布地、爆弾・・・など小道具も効いている。伏線に使われているものも多く、「そーか」と後から納得するものも多い。このあたり、気が利いている。
それになにより、この映画、話が分かりやすいのがいい。最初は麻薬取締で大活躍。ところが、意外なところから別の犯罪も見えてきて・・・という、シンプルさ。ハリウッド映画でも、世界情勢や歴史を知らないとわからん! 設定が分からず、展開にも追いつけない、なんていうのがあるけれど、そうじゃないのがいい。
ひとつ分からないこと。逃走中、それまで乗っていたバンに「指紋がついているから」と若いのがいったら、トラヴォルタがバックで車列に突っ込み、玉突き状になってバンが爆発した! ん?  どうしてバンは爆発するんだ? それが疑問。
運命のボタン5/21新宿武蔵野館3監督/リチャード・ケリー脚本/リチャード・ケリー
原題は"The Box"。薄気味の悪い変な映画。1時間過ぎたあたりで眠気が訪れ、クライマックス前後でしばらく気を失ってしまった。なので、ホントのところ、どういう映画なのか分からずじまい。それにしても、9割ぐらいは見てるんだけど、それでも、分からない。
1970年代。NASA。火星から何かを受信してるかなんかの際に、落雷を受けた男(アーリントン)がいた。いったんは死亡が確認されたが、直後に生還。驚異的に回復した。アーリントンはその後、ある箱をある対象に配り始めた。
アーサー(ジェームズ・マースデン)とノーマ(キャメロン・ディアス)夫婦のもとに、アーリントンがその箱をもってくる。ボタンを押したら、どこかで誰かが死ぬ。代わりに100万ドルあげる、と。悩みつつ、ノーマがボタンを押す。金は手に入れたが、奇妙なことが起こり出す…。
最初はファンタジーかと思った。代わりに死んだ誰かの代償に夫婦も何かを失い、悟った夫婦は時間を遡ってボタンを押さない、とかね。ところが、火星がどうたらという話になる。こりゃ、火星人が乗り移って征服でも企んでいるという話か? と思ったら、落雷の経緯が再び語られる。SFなのか? と思っていると、アーリントンは超常現象を扱うことが分かる。それにしても、あの水柱や移動は何なんだ? さらに、NASAの一部の連中は催眠術でもかけられたかのような行動をする。こりゃオカルト映画か? と、頭がこんがらがりだす。しかも、そのどれにも向かっていこうとせず、解明されもせず、だらだらと話が引き伸ばされていく。
アーサーとノーマは結婚式に出席予定なのだけれど、前夜祭のパーティのシーンだけ見ても、誰の結婚式なのか分からない。で、本番の結婚式が始まって…というとこいらへんから眠気が激しくなってきて。目は開いていながら、つまり、見てはいたんだけど、後から思い出そうとしても思い出せない状態。10分ぐらいそんな状態だったかなあ。
気がついたら、トイレの中で「見えない聞こえない」と叫ぶ息子を、アーサーが助け出そうとしている。ノーマがボタンを押した頃に、アーサーの同僚が妻を殺害するという事件が発生したのだけれど、それと同じことが起こっていた。アーサーは、ノーマを殺すか息子を殺すか、の二者択一を迫られている模様。で、意外とあっさりとノーマを殺し、銃声を通報されてさっさと警察に捕まってしまう…そこでEND。
ひぇ〜。こっちが気絶している簡に、なんか重要な種明かしがされたのか? アーリントンの正体は? あの超常現象は? ボタンを押すことを、どういう人に強制したのか? 何のためにそんなことをしているのか? ノーマの足を晒し者にした生徒は、ありゃなんなのだ? 宇宙人は関係あったのか? とかいうことが、みんな明らかになったのか? なにせ寝ちゃったからね。
アーサーの前に妻を殺した男は、どうなっちゃったの? 逃亡中だったか、結婚式の最中にアーサーに会いに来て「俺はもうダメだが、お前はまだ・・・」なんて話しかけていたが、彼は逮捕されたのか? いや、その前に、アーサーは逮捕された、といってもパトカーではなく黒塗りのクルマで連れ去られていった。どこへ連れていかれたのだ? などと、疑問はたくさんあるのだけれど、入れ替え制じゃないのでもう一度、というわけにはいかない。残念。
単純に、他人の死よりも自分の利益を優先した者に、殺し殺された者と同じ苦しみを与える、という教訓話だけなの? 具体的にはマーク・トウェインの「ハドリバーグを堕落させた男」を想起したんだけど。違うのか? ま、寝ちゃっちゃしょうがないんだけどね。
それにしても、NASAに務めている亭主と、高校教師をしている女房の共働きで、「うちは貧乏」はないだろ。わからなかったのは、ノーマが校長に「学費の教員割引がなくなった」といわれ、ひどく落ち込むところ。あれはどういう割引なのだ? 落ち込むほどのものなのか? わからん。
エンター・ザ・ボイド5/24シネマスクエアとうきゅう監督/ギャスパー・ノエ脚本/ギャスパー・ノエ
原題は"Enter the Void"。Voidは「無」のことらしい。ギャスパー・ノエは「アレックス」を見ている。あれは途中で出ようかと思ったぐらいえげつない映画だった。それと、LSD体験下の幻想シーンが多いだの、やたら長いという説もあり、「寝るんじゃないか?」と危惧してしまった。なので、二度寝してからでかけ、11時50分からの回を見た。
2時間23分と確かに長い。メリハリがなく緊張感もない。1時間近くカットしても、言わんとしていることはつたわるかもね。ま、このダラダラ感が持ち味、ということも言えなくないかも知れないけど。観客の立場からは、もっとキレのある映像を望みたい。
話は単純で、歌舞伎町に住む麻薬の売人オスカーが撃たれ、死ぬ。その霊が東京を浮遊しつつ(「チベット死者の書」が露骨にでてくる)、人生をフラッシュバックする、という物語。ではそのオスカーの人生には何か意味があるのかというと、さほどの意味はない。平和な家庭に育ち、妹リンダがいる。ある日、交通事故で両親が死亡。兄妹は別々の養護院に引き取られ、成人。オスカーは、父が「日本に行く」とかつて言っていたことをたよりに来日。でも、不良外人となってドラッグまみれ。妹を呼び寄せ、彼女にもドラッグを勧める。仕事もなく、オスカーは売人、リンダはヌードダンサーをする。オスカーは友人ビクターの母親と密通。リンダは、店のマリオ(日本人)と肉体関係。オスカーの友人アレックスも、リンダと「したい」と公言する。・・・というような有様で、生きていても死んでしまっても、どうでもいいような白人青年に描かれる。
ヴィクターは、オスカーが母親と関係したことを知ると激昂。しかし、すぐに「会いたい」と電話してくる。オスカーが「VOID」という店に行くと、いきなり警察に踏み込まれる。ビクターのたれ込み? トイレに逃げ込むオスカー。そこに銃弾。胸を撃たれてオスカーは死んでしまう(「今村昌平の「豚と軍艦」みたいに便器を抱えたまま死んでいる)。・・・という話が、途中から始まり、時間を遡って描かれ、死ぬところまで。しかし、日本の警察は発砲なんかしないはず。では、誰が? って、そこまで監督は考えていないだろうけど。
さらに、その後の顛末が描かれるが、その様子を、肉体から離れたオスカーの霊が、浮遊しながら見つめている。同時に、これまでの人生のフラッシュバックが起こる。で、最後は出産シーン。これは多分、オスカーの誕生時のものだろう。映画「アレックス」のように現在から一方向的に過去に遡るのではなく、時制を行きつ戻りつしつつ、最終的に自分の誕生へと向かう。この辺り、基本は同じ。でも、一方向でないところに、曖昧さが残ってしまう。

LSDやMDMA(エクスタシー)、MDA(ラブドラッグ)などの幻覚イメージが結構長々と映される。CGでつくられた万華鏡の中、みたいな感じ。ちっともトリップ感は感じられない。こんな映像に、なんの意味があるのだ?
オスカーとリンダにまつわるエピソードは、だからどうした、の類。事故がトラウマになった、というような描き方をしているけれど、とくに説得力があるわけでもない。リンダがマリオと関係するのも、別にマリオの支配下にあるとかいうようなものでもない。リンダはマリオの子を堕ろすが、それはオスカーが「子ができたら堕ろせ」といっていたから、なんだろ? すでにオスカーはいないのに、それでも堕ろしたのは自分も欲しくなかったから? でも、どうでもいいや。
そう。どうでもいいようなエピソードばっかりで、ぜーんぜん面白くはない。アレックスの友人の日本人がつくった、ネオン管の都市みたいなのは、TOKYOのイメージ? そのネオン管の都市を含む東京が、イメージとしてでてくる。といっても、リアル歌舞伎町は最初の方にちょっとだけ。あとは、ビルの屋上の上からの俯瞰ばかり。あの都市はCGなんだろうか?
後半の、オスカーの霊が浮遊する俯瞰シーン。部屋から部屋、部屋から街へ、と連続的に移動する映像が面白かった。スタジオのセットの上にカメラをつり下げて撮っているのかな?俯瞰からノーマルの位置、再び俯瞰へ、なんていうのは、どうやって撮っているのだろう?
濃厚な性描写がある、ということだったけれど、思った以上に控えめ。せいぜいアレックスのキンタマ袋が見えたぐらいで、ペニスは丸出しにはならない。ラブホテルの各室の様子も、ほとんど俯瞰からだけだから、刺戟は少なめ。しかも、交接部から光が放たれているという奇妙な映像だ。さらに、ラブホで一戦交えているヴィクターとリンダを探しだし、アレックスの意識の中に潜入するという変態行為も行なっている。それだけではない。巨大な膣の内部とペニスが描かれ、精子が卵子に向かうシーンも描かれる。昔の日活ロマンポルノにそっくりなのがあったけど、表現が稚拙すぎではないの? マリオ(日本人)の子供は堕ろすのに、ヴィクター(白人)の子供は生むのか? 
いろいろと構えて見に行ったのだけれど、肩すかしを食らった感じだな。
光りの点滅だらけで、脳に悪いかも、それと、オープニングタイトルは、あまりに早いので出演者がほとんど読めない。テンポとノイジーな感じはいいんだけどね。
(追記)最後の誕生シーン、最初はリンダの子供だと思っていた。リンダとヴィクター(アレックスとばっかり思っていたら、ヴィクターらしい。この2人はいつくっついたのだ? よく分からん)のセックスシーンがあり、その次に登場するからね。では、最後に登場するのはこの2人の子供なのか? 母親の顔はひどくポケていて、誰なのか判別がつかない。でも、2人の子供であることに意味があるのか? と思っていた。なので、↑で「最終的に自分(オスカー)の誕生」と解釈した。死ぬ際に見る自分の人生のフラッシュバックの、その原点を見つめる自分、と解釈したからだ。で、↑を書き終え、粉川哲夫の「シネマノート」を参照した。するとそこに「オスカーの死を、ヴィクターがリンダを愛し、子を産ませて(先述の受精シーン)「オスカー」を「再生」させるかのような無理な(?)な構成も、きわめてフロイト/ラカン的である」と書いてあった。これを読んで納得した。オスカーは自分を再生するためヴィクターの身体に入り込み、その精子を妹リンダの卵子と結合させたのだ。なるほどね。これは筋が通っている。オスカーがマリオの子を堕ろせ、とリンダに命じだのも、リンダに自分の子を生ませたい、と思っていたからなのだろう。理解は深まった。とはいっても、オスカーが自分の子を妹に生ませる理由は分からないけどね。輪廻転生? いや、それだったら、べつに妹じゃなくたっていいわけじゃん? それで「無」へ入っていくというメッセージは、どうなんだろう? 禅的な無の境地、ということかな。でも、オスカーはそんな境地に達してはいないよなあ。
書道ガールズ!! わたしたちの甲子園5/25ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2監督/猪股隆一脚本/永田優子
前半(閉店セールあたりまで)は4つ星、以後は2つ星。「武士道シックスティーン」と同じ評価だな、内容は。がしかし、ストーリーまで「武士道シックスティーン」と同じなのには驚いた。どちらも成海璃子主演。違うのは、体育会(剣道部)と文化部(書道部)の違いがあるだけで、大筋同じ。こんなの、許されるのかい?
人気がなく、部員集めに必死の書道部。なのに、部長の里子(成海璃子)は我が強く、部員に押しつけがましいことばかり言う。父親が書道教師なせいか「書道は自分を見つめるもの。ひとり、黙々と書けばいい」と主張する。これで部内はぎくしゃく。臨時の顧問教師・池澤(金子ノブアキ)に一目惚れした下級生の清美(高畑充希)が大きな紙に「愛」の字を大書するパフォーマンスをすると、「そんなのは書道じゃない。でていけ」と素っ気ない(押しつけがましく、嫌な女の役ばかりだね、成海璃子)。・・・という辺り、父親が剣道場をやってて「武蔵」と呼ばれるほど剣道一途でわき目もふらない「武士道」と同じだ。さらに、コンテストで優勝はするけれど、かつて部員だった美央(山下リオ)の自由な筆致にかなわない、とコンプレックスをもっているところも似ている。で、そんな里子がしだいに周囲への関心が行き届くようになり、妥協も覚え、書く楽しみを知るようになっていく、という流れも「武士道」と同じ。でもって、大会を目指すという流れも同じ。まあ、この大会がクライマックスというのは、この手の話では定番だから許すとしても、基本的な流れがそっくりだよ。同じ時期に、こんなことってあるのだね。
里子、美央のライバルに、同級生の香奈(桜庭ななみ)、下級生の小春(小島藤子)に3人の男子生徒と、それぞれちゃんと描き分けられているのはすばらしい。しかも、成海璃子以外の女の子たちが、みなそれぞれに可愛い。前半時点で、こりゃ「武士道」の上を行くかも、と思い込んだのが大間違い。清美の家が文房具屋を閉店する、のあと辺りから話が俄然つまらなくなる。大きな理由は、里子の心の変化が上手く描かれていないことにあると思う。これも「武士道」と同じ。といっても脚本の下手さ加減も同じ程度、ということだ。
そもそも視野が狭く、自分の考えや行動を他人に押しつけて平気な里子が、どうしてパフォーマンスを「いい」と思うようになったのか? その理由がはっきりしない。ひとつには清美の家の閉店騒動がある。これなら、単なる同情でしかないはず。それに、清美が広島に行くときに話した「みんなでやらなくちゃいけないことがある。みんなじゃなくちゃできないことがある」というような言葉に目覚めた、とも考えられる。清美はこのあと、下級生の小春(小島藤子)がいつも聞いているという曲をMDにして里子に郵送もしている。が、しかし、この程度で里子の考えがコロッと変わっちゃうのか? もっと印象的なエピソードがつくれなかったのかね。
書道パフォーマンスで、甲子園のようなもの、と思いつくのも唐突。せめてたとえば、部員の誰かが漫画甲子園とかを見て、それがヒントになった、というようなエピソードをつくるべきではないの? 里子の父親が書道パフォーマンスに怒り、学校に乗り込んでくる。そこで池澤は自分の体験を話して説得する。その説得に、簡単にのせられてしまう父親も父親だ。意志薄弱、としか思えない。こちらも、例えばライバルの書道教室がパフォーマンスで生徒を集めている、とか、自分もたまたまパフォーマンスしたら楽しかった、というようなエピソードを入れるべきだと思う。でないと、なんでえ? という気分は解消しないと思う。
書道パフォーマンスの甲子園を目指す、のはいい。しかし、いきなりチンドン屋になってシャッター商店街に協賛を申し込みに行くというのも乱暴な話。まずは参加校の呼びかけ、学校や市役所とのシステムづくり、が必要なはず。これがほとんど抜けている。費用集め、ポスターづくり、Webの立ち上げ、反応などは、映画としても盛り上がる部分なのに、それを描かないのはもったいない。
というわけで、後半はスカッとした展開がなくなってしまう。日本映画によくある、なあなあテキトーな展開だ。これを何とかしないとね。
臨時顧問の池澤、なかなかいいキャラをしている。前半は、こりゃ面白くなりそう、と思っていたのだけれど、中盤から影が薄くなってしまう。もったいない。池澤は、自分の書道体験を里子の父に口で説明するだけだ。これも、なんとか映像で見せられなかったものかね。悟りを啓くような書道より、身体を動かす方が書いていても見てもらっても楽しい、を表現しなくちゃなあ。
里子の自己中心主義は、後半になってもあまり変わっていない。その最たるものが、甲子園で書く予定の言葉「再生」を自分で決めて、部員に半ば押しつける部分だ。映画では「いいね」と部員に好評で迎えられていたけれど、実際にそんなことほしたら、鼻つまみではないの? みんなで意見を出し合う。そのなかで、たとえば、「○○商店のオヤジさんが言ってた言葉に"再生"ってのがあったよなあ」とか具体性を加味させ、みんなに支持される、という流れがあるべきだと思う。里子の決定は、あまりにも唐突すぎるし、押しつけがましい。
美央は、母親の病気で学校を辞める決意をし、バイトも始めている。その理由に気付かない里子というのも困ったもの。他にも、下級生の小春はイジメがトラウマになっていたりする。そういう個々のキャラの設定はいいんだけれど、それが物語、とくに、里子の心の変化にあまり影響を与えていないのはもったいない。やっぱ、そういうディテールが相乗的に積み重なり、里子が人間として成長していく過程をみせないと、つまらない。
リアリティという面も無視できない。たとえば、大きな紙をあんなにガンガンつかえるものか? いくらかかるんだ? 金がかかるから、カレンダーの裏をつないで練習するとか、地面に枯れ枝で書くとか、そんな苦労話があってもよかったんじゃないの?
母親が入院して経済的に困っている美央。なのに病床の母親が、「勉強は? 大学は行かないの?」なんて、よく聞けるよな。金はどうするんだ? あてがあるのか? ないから娘が働いているんだろ?
書道教室を開いている里子の父親が「書道は自分と向かい合うためのもの。そのために書道部に入ったんだろ?」というのもおかしい。高校の書道部に、何を期待しているのだ? このオヤジ。自分が教えた方がましだ、とは思わなかったのか?
というようなわけで、面白くなりそうな滑り出しにはワクワクしたのだけれど、次第にがっかり、なんだよ、つまんねえな、という気にさせられたのだった。
パーマネント野ばら5/27シネセゾン渋谷監督/吉田大八脚本/奥寺佐渡子
原作は西原理恵子。登場するのは、ダメ男たち。そして、ダメ男に惹かれて人生を棒に振る女たち。それでも、たくましく老いていく女たち。なのに、いい男は他にいっちゃったり早死にしちゃうのよね、というため息。西原の実体験からくる物語なのかも。
核となるべきストーリーが弱く、つまらないエピソードの累積になっている。散漫な印象で、何を言いたいのかわからない。眠るほどではない退屈さが延々とつづき、欲求不満になってくる。しかも、高知弁も関連してか、セリフ=音声が聞き取りにくい。もしかしたら、笑えるセリフがあるのかも知れないけれど、届かないところがかなりあるような気がする。
高知の漁村に、菅野美穂が戻ってくる。離婚なのだが、離婚原因はわからない。小学生の娘は父親をまだ慕っていて、父親も子供に会いにくる。ということしか分からない。だから、後に菅野が「なんで私こんなに哀しいの」と泣いても、ぜーんぜん説得力はない。だって感情移入できないのだから。
菅野の実家はパーマ屋。いまだに母親(夏木マリ)ががんばっている。パーマ屋には近所のおばちゃんが集まって、男の話など下ネタばかり。女のたくましさは分かるけど、だからなに? というレベル。
夏木には亭主(宇崎竜童)がいるのだが、いまは別の女(むかしはパーマ屋の客だった)と暮らしている。もっとも、宇崎は菅野の父ではない。映画の中に、母が新しい亭主とトラックで別の街に行くシーンが登場し、それがいやで小学生だった菅野がドアを開けて転げ落ちるシーンがあるのだが、このときの亭主が宇崎であるようには見えない(もちろん、みな別の役者がやっているのだけれど)。つまりまあ、菅野の父親は誰で、夏木は何人の男とつき合ったのか、ということはわからない。家庭と呼べるものがないような環境に育っていないのに、菅野はそうひねくれて育っていないように見える。
菅野は、出戻ってきて、中学校の教師(江口洋介)とつきあいはじめる。しかし、最初から江口は奇妙な存在に描かれる。たとえば菅野は、学校の教室を訪れている。フツーそんなことはあり得ない。最初は映画のウソかと思っていた。ところが、2人で飲みに行ったりもしているという。そんなことをしたら、翌日には町中に噂が広がるだろ! と、思うような出来事だ。決定的なのは、温泉宿の話。菅野が誘い、先に宿に行く。あとから江口がワーゲンでやってくる。情事のあと、江口がいなくなる。クルマもない。飲みかけのビールもある。菅野は宿の人間にそのことを説明するのだが、フツーそんなプライベートなことを他人には話さないだろう。まず、電話して確認すればいい。ところが、菅野は携帯を持っていないようなのだ。で、つぎにビールが映ると、それは栓が開けられていない。つまり、すべて菅野の妄想と言うことだ。さらに、家に帰った菅野は、家の電話を使わず、公衆電話から江口に電話する。あとから江口は菅野の在学中に死んでいることが説明される。公衆電話も妄想のなかのものだろう。離婚による傷心を、中学生時代の教師への恋心で癒そうとしていたのか。でも、いささか分裂症気味でもあって、かなり危うい状況にあったといえると思う。離婚には、そこまでの影響力があったの? と、想像するしかないけれど、映像ではひどい亭主だったようには描かれない。だから、違和感しか残らない。
ひどい亭主は、菅野の友人たちの亭主だ。スナックママの小池栄子。その亭主は、店で働く女の子に伸びる。嫉妬した小池は、亭主をクルマではね飛ばす。ううむ。そんなに愛しているのか? いやならさっさと別れればいいじゃないか、としか思えないレベル。ま、最終的には別れるのだけれど、よく分からん関係だな。それにしても、あんな漁村なのに、スナックには4人ぐらいの女の子(フィリピン人)が働いている。凄い繁昌してるってことだよな。そんなに、住人は稼ぎがあるのか? ということが気にかかってしまう。
もうひとり、事務員服の池脇千鶴も、男運が悪い。ロクでもない男にばかりひっかかり、結婚したのもギャンブラー。最後は山でのたれ死に。・・・ううむ。そういう男を選ぶあんたが悪いんだろ、としか思えないんだよなあ。
ほかにも、小ネタのエピソードがいろいろあるのだけれど、どれも、だからなに? という程度で。しんみり、グサッとくるような話がない。それに、菅野の話が串として一貫しているようにも思えない。他のエピソードより少し強調されているような具合で、全体を見ると群像劇(といっても、単なるエピソードの積み重ね)と行った方がいいようが描き方。それならそれで、別のやり方があるような気がするのだよね。
菅野、小池、池脇の小学生時代の話もでてくる。自転車の所有者が菅野らしいのは分かるが、あとの2人がどっちがとっち? と、見ているときには思ってしまった。それから、これは小池の父親だと思うのだけれど、電柱を切り倒すオヤジがでてくる。それもこれも、エピソードとしては完結しているけれど、全体の流れに噛み合っていない。あとひとつかふたつ、接続詞になるような映像を噛ませればいいのにな、なんて思いながら見ていた。
(500)日のサマー5/31ギンレイホール監督/マーク・ウェブ脚本/スコット・ノイスタッター、マイケル・H・ウェバー
原題も"(500) Days of Summer"と同じ。悪くないテイストなんだけど、破局に至る過程というか、サマーの心変わりに関しては、理解できない部分が多分にあったりする。というか、そもそも、男女のつき合いに関する定義がよくわからない。日本とUSで違う、だけでなく、主人公トムとサマーの間でも違う。よく分からん。
トムはカードライター。ギフトカードに書かれる言葉を考える商売らしい。コピーライターや作家の余技でもいいような気がするが、カード大国のUSなら、その専門会社もあるのかも。そのトムが、新しく入った社長秘書のサマーに一目惚れ。でも気が弱いのか、あれこれアタックして友だちから恋人になった、つもりだった。けれど不思議ちゃんのサマーは他人を所有したり所有されるのは嫌い。ビートルズならリンゴ・スターが好き。部屋の雰囲気も、エキセントリック。映画「卒業」のラストシーンでは涙を流す。トムとセックスする仲になっても、恋人とは見なさない。かといって、白馬の王子さまを追い求めているわけじゃない。なので、トムは「はっきりしてくれ」と迫るけれど、かわされる・・・。
というわけで、不思議ちゃんに振りまわされる日々を描くのだけれど、終わってみればサマーってフツーなんだよな。なんだかんだいいつつ、コピー室でサマーの方からトムにキスをする。カラオケで"Suger time"を歌う。セックスだって嫌いなわけじゃない。「永遠の愛なんてあり得ない」といいつつ、最後は「運命の出会いなの」と、ちゃっかり結婚してしまう。あらららら。なんだよ。ぜんぜん不思議ちゃんじゃなくなってるじゃん。
それと、サマーの紹介の所で、彼女の不思議さについていくつかの例をだしている。彼女がバイトしたら客が何倍になった、とか、彼女が歩くとみな振り返った、とか。それだけ魅力がある、ということの説明なんだろう。けれど、トムとつきあい始めての寝物語のなかで、サマーの特異性(人に注目される)はまったく反映されない。「アメリ」みたいな不思議な展開があるのかな、とおもったら肩すかし。無菌室育ちみたいなトムは、サマーが結婚していることを知って、ギフトカードの言葉なんて嘘っぱちだ! と会社をやめちまう。なんか、とても子供っぽい話。
そもそも、サマーがトムに愛想をつかしたのはいつなんだ? とくにきっかけらしいものはなかったと思うんだが、たんに飽きた、ということなんだろうか? 恋人であることを確認したくて質問したり、過去の恋人のことを話させたり、というトムの要求にも応えていたのにね。せいぜい、トムが「部屋に行きたい」というのに対して「映画が見たい」と対立したぐらいした思い出せない。他になにかあったっけ?
雰囲気はそこそこ面白いのに、ストンと腑に落ちない。そこがいまいち共感できないところではある。
2つの時間軸を交互に進行させる構成を取っている。出会った1日目からの流れと、気まずくなった150〜200日あたりからの流れ。なので、最初はちょっと戸惑った。けど、何日、という具体的な日数は途中から気にしないようにした。おおまかな2つの流れ、と考えればいい。
はじめてサマーとセックスしたトム。その翌日のハッピーな様子はミュージカル仕立て。ま、なんとなく気持ちが分かるいいシーンではある。けれど、トムの年齢を考えたら(30歳ぐらい?)、ちょっと子供過ぎる反応だよなあ。10代の青少年ならいざ知らずね。
トムには何人かの友だちがいて、サマーとの関係を逐一報告している様子。なかに小学生ぐらいの少女がいて、彼女がトムの恋愛相談にのってやっている。これがおかしい。
久しぶりに再会して、トムはサマーにパーティに誘われる。パーティでは「こうなるかも」という妄想と、「こうなった」という現実のシーンが左右に分かれ、同じ時間軸で進行する、というのも面白かった。あるある、こういうの、だね。
で、サマーに振られ、就職活動中のトム。あちこち落ちまくるのだけれど、あれは本来の建築家としての仕事を得ようとしているのかな? ある会社で若い女のこと同席になる。で、「運命なんて、ない」と確信を得たように、正面切って彼女にデートを申し込む。恋は、自分で切り拓こう、という意志が生まれたのだろう。ちょっとためらって、彼女が「オーケー」といい、トムが名前を聞くと、「オータム」と応える。これはなかなか気が利いていて面白かった。でも、これって、サマーが言っていた「永遠の愛なんてない」に通じるのではないの? 季節が始まり、終わるように、恋も次々新しいものが訪れる・・・というように。

 
 

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