2010年6月

グリーン・ゾーン6/1MOVIX亀有シアター2監督/ポール・グリーングラス脚本/ブライアン・ヘルゲランド
原題も"Green Zone"。イラクの大量破壊兵器への疑義を、サスペンス仕立てにした戦争映画。テンポが早い割りに分かりやすくて、この手の映画によくあるように、ついていけなくなる、なんでえ? という困惑はなかった。真実を暴いていく過程はスリリングで、しかも、米国政府の虚偽・隠蔽体質に対していく流れはハラハラどきどき。とても面白かった。
ところで、オープニングに「史実に基づく」というような表記がなかった。ということはフィクションなのか? それにしては登場する新聞記者がウォールストリートジャーナルだったりする。内容がウソだったら名誉毀損問題だ。ってことは事実なのか? しかし、事実にしては、ええ? ホントにこんなことがあったの? と思えるようなシーンがたくさんある。いったいどこが事実なのか? フィクションとして過剰に演出している部分はどこなのか? それがとても気になった。
イラク・バグダッド陥落。ミラー准尉は大量破壊兵器の撤去業務を行なっている。が、いつも空振り。情報の真偽に疑問をもつ。上官に疑念を吐露するが、命令に従え、といわれる(上官は疑問をもっていないのか? それとも事実を知っているのか? よく分からない)。会議で質問すると、上官は発言を封じようとする。共感してくれたのは、CIAのブラウン。彼も情報源には疑問を抱いていた。いっぽう、ウォールストリートジャーナルの女性記者デインは、疑問を抱きながらも政府高官パウンドストーンからの情報を鵜呑みにして記事をたれ流していた(これは本当のこと? 日本のマスコミなら平気でやりそうだけど、裏取りせずに書くのかね、アメリカでも)。現地人フレディは、フセイン政権の残党の密会を目撃。それをミラーに伝える(ハムザと敵対する部族なんだろうけど、米軍に内通することで得はあるの?)。確信を抱いたミラーは密会所に突撃(上官に問い合わせず、そんな勝手なことをしていいの?)。しかし、幹部のサイード・ハムザは取り逃がす。代わりに、密会所の家主から1冊のノートを手に入れる。が、突然現れたパウンドストーン配下の特殊部隊(こんな部隊が実際にいるの?)に捕縛した捕虜を横取りされてしまう。ミラーはノートをブラウンに見せる(同じ米軍にノーを渡さず、CIAに見せるのは違反ではないの?)。そこには、ハムザの隠れ家がいくつか書かれていた。ブラウンはミラーを一時的にCIAの配下に移籍し、米軍に軟禁された密会所の家主に会い、情報を得るよう命ずる。が、特殊部隊がCIAに乱入。ノートを奪い去る(大統領命令なら、こういうことができるのか・・・)。同時にミラーのCIAへの移動が取り消される(ていうか、チョロチョロ動くな、って米国本土送りにでもすりゃいいのに、と思った)。しかしミラーは拘置所に入り込み(CIAへの移籍を取り消されたのに、これって命令違反じゃないの?)、家主から「ヨルダン」との情報を得るが(米軍に拷問されても吐かなかったのに、そうも簡単にミラーに告げるか?)、家主は拷問で死んだ? ブラウンは、パウンドストーンがハムザとヨルダンで密会し、「大量破壊兵器はない」との証言を得、その事実を隠すためにニセの情報源をでっち上げ、そこからの情報だとデインに告げていた、と推理(ちょっと強引な気がした)。いっぽう、パウンドストーンは特殊部隊にハムザの抹殺を命じていた。ミラーはノートの情報をもとに、ハムザ捕獲に出向く。そこで特殊部隊が無差別に怪しい人物を殺していた。が、特殊部隊が雇った現地兵が、ハムザの一味の1人を殺そうとしているところを阻止(現地兵を撃ち殺すんだけど、それって反逆罪に問われないの? それにしても、米兵ではなく現地兵、というところが笑える。味方同士の殺しあいは避けたかったのかな?)。ミラーはハムザの一味に「ハムザに会いたい。バス停で」と伝言し、解き放つ。ミラー隊は、バス停へ。ハムザの手下がやってきて、ミラーが先導してついていく。が、ミラーがハムザの手下にさらわれ、ミラーの部下が本部に連絡する。その無線を特殊部隊が傍受し、ハムザ抹殺に向かう(ミラーは特殊部隊を引き連れてハムザのアジトに向かったわけで、トンマすぎないか? ハムザだってノコノコバス停にやってくるはずがないだろ)。ミラーはハムザに面会し、「同行してくれ」と懇願する(アホか。ミラーはハムザを守りきれると思ってるの?)。そこに特殊部隊が突入。逃げるハムザ。追うミラー。追う特殊部隊のボス。特殊部隊のボスがハムザを撃とうとする。ミラーがボスに飛びかかる。ボスをハムザの部下が撃つ。その部下をミラーが撃つ(って、無茶苦茶だな。ミラーは特殊部隊のボスを殺さない、ということで味方同士の争いはかろうじて避けている。けれど、命令系統に反していることには変わりないと思うぞ)。さらに、フレディがハムザを撃つ。フレディ曰く「イラクのことはイラク人で決める。米国人には決めさせない」。ぱちばち。拍手だね、この主張は。CIAのブラウンは「イラン軍を残し、軍に統治させればいい」と主張していた。けれど、パウンドストーンは国外からやってきた指導者(国内では知名度のない、どっかの派のの人)をリーダーに据える。しかし、各部族が集まった会議は混乱を極める(これは、イランを知っている人ならたいてい予想がつくようなことだと思うが・・・)。ミラーは報告書をまとめ、マスコミ各社にメールする。ウォールストリートジャーナルの女性記者デインにも、「今度は真実を書いてくれ」と。
というような流れで、首をひねるようなところも少なくない。そもそも「大量破壊兵器はない」というハムザの言を素直に信じたパウンドストーンも、ちょっと変。彼はヨルダンでハムザと会っているのだから、連絡ルートはあるのだろ? だったら、特殊部隊なんか使わなくても連絡がつくんじゃないの? そのハムザ、占拠されたバグダッド市内を素顔で真っ昼間から堂々と移動しているのは変だよなあ。いや、たとえハムザが「大量破壊兵器はない」と公言したとしても、米政府としては「それはウソ」と言い続ければいいじゃないか。それと、偽情報ばかりで何もない建物を調べまくっても、そのうち「おかしい」と兵隊たちも気付く、と思わなかったのかなあ。
原作本があるようだが。どこまでその本に忠実なのか。はたまた、その本はどれだけ事実に基づいているのか。そのあたりが分からないので、杜撰な部分がアラとなって見えてしまう。まあ、現実というものは多分にテキトーかついい加減なものだから、なんともいえないんだけどね。
撮影はモロッコなどで行われたらしい。でも、バグダッド市内やイラン人の様子はリアリティがあった。冒頭、ミラー隊が大量破壊兵器が隠されている場所に向かい、処理しようとしているのに、イラン人たちは蟻のようにむらがって略奪の限りを尽くしている。すごいパワーというか、目の前の危険なんて屁とも思ってないのかな。ハムザを追うミラー、その後を追う特殊部隊のボス。彼らが、市内に住む一般人の家の居間や何かをガンガン突っ切っていく。それが凄いのももちろんだけど、そんなバグダッドに住み続けている住人にも驚いた。
それにしても、米軍や米国政府は、虚々実々。イラク人も、部族間の覇権争いを含んで足の引っ張り合い。これじゃ、まとまるものもまとまらないだろう。そもそものイラク、イランなどの中東の国境の決め方もおかしい。東欧が民族ごとに独立したがった歴史を考えれば、中東だって同じようにしたい、と思うのは当然だよな。それを、無理やり西洋式の民主主義を植え付けようとしても、これはむずかしいと思う。他民族をかろうじてフセインの強権で押さえつけていたのに、パンドラの箱を開けてしまったブッシュ元大統領の間違い。それを正すようにするのも、米国の役割だと思うのだが。
プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂6/3上野東急2監督/マイク・ニューウェル脚本/ボアズ・イェーキン、ダグ・ミロ、カルロ・バーナード
原題も"Prince of Persia: The Sands of Time"と、同じ。ペルシャが舞台のアクションものだが、映し出されたペルシャの領土はトルコからアフリカの一部、中東全体をカバーする広大なのもだった。時代はいつなんだろう? わからない。それにしても中東を舞台にした剣劇がつくられるということは、イスラム原理派によるテロ行為がつづいている現在でも、あいかわらずアラビアンナイトの世界は健在だということなのだろう。もっとも、十字軍と戦うそれ以前の、古き良き時代が、ということなのだろうけれど。
両親を失い、浮浪者生活だった少年ダスタンが王の目に止まり、養子になる。すでに実子の兄2人がいるので、第3王子となった。長兄が、隣国アラムートを攻める、と主張。次男が先鋒として正面攻撃することとなるが、それでは被害が大きくなるとダスタンが主張する。しかし、その意見は退けられる。ムダな死者を出したくないダスタンは、夜陰にまぎれ、少数の部下と城に潜入。内部から門を開けて、次男らを迎え入れる。長男は野望が大きく、次男は無鉄砲、ダスタンは部下の命を大切にする博愛の勇者、という描き分けだ。
長男がアラムートを攻撃した理由が笑える。大量破壊兵器を隠し持っているに違いないから、というものなのだ。それって、ブッシュがイラク攻撃に使った手口ではないか。攻め入ったら兵器などなかった、というのも同じ。ブッシュとその一味を想定してこのシナリオは書かれたのかい? 実は王は、3人のアラムート攻撃を知らなかった様子。内心では、攻撃してはならぬ国、と思っていたようだ。もしかすると、王はアラムートに関する秘密を知っていたのかも知れない。
兄弟はなんなくアラムートを占拠し、タミーナ姫を捕虜にする。実は姫は、奪われてはならない短剣を部下に託し、いずこかへもっていくよう命じていた。しかし、その部下はダスタンによって殺害され、短剣はダスタンの手に渡っていた。さて、ダスタンはアラムートの法衣を王に献上し、着せる。が、毒が塗られていて呆気なく王は死亡。ダスタンに嫌疑がかけられる。騒ぎの中、ダスタンと姫は逃亡する。姫の狙いは、ダスタンの持つ短剣だ。
この時点で、ダスタンは真犯人を長兄と判断する。アラムート攻撃を望んだのも、ダスタンに法衣を渡したのも長兄だからだ。その後、ダスタンは短剣の秘密を知るのだが、この秘密を長兄も知っていて、短剣が狙いだった、と判断する。でも、それは間違いだった。秘密を知っていて、短剣を狙っていたのは王の弟ニザムだった・・・。
というのが冒頭からの流れ。見ながら、他にイラクに関係するアナロジーは他にもあるかな? と思いつつ見ていたけれど、とくになかったかな。アラムート攻撃の「理由」だけがイラク侵攻を連想させたのだけれど、その武器がみつからなかった云々という話はとくに描かれていない。ただし視点を変えると、現在のイランを含むペルシャも、もとをたどれば帝国主義の侵略者で、武力をもって他国を侵略してきたのだよ、と言っているようにもみえる。もっとも時代は違うし、それでブッシュのイラク侵攻が正当化できるわけではないけどね。
自分を陥れたのは長兄、と思っていたのが、実は叔父ニザム、と分かる過程あたりから話が少しつまらなくなってくる。ニザムが兄王の座を奪いたくなる理由がほとんど描かれていないことも関係しているかも知れない。兄にいつも邪険にされていたとか、亭主に「世が世なら私が王妃だったのに」と愚痴る女房がいるとか、具体的な原因があってほしかったところだ。でないと、突然の感じでどーも「なるほど」感が足りない。
もうひとつ、つまらなくしている原因は、タミーナ姫が短刀を隠しに行った場所にも原因がある。あそこは一体どういう場所なのだ? 人が住んでいたようだけれど、ニザムの配下の暗殺集団が先にきて、皆殺し。なんでえ? という気がする。それと、ダスタンが知り合ったダチョウ好きの男たちが、あの地へ財宝を目当てでやってきたようだけれど、どうしてあそこに宝があるのだ? というようなことがはっきり描かれていないので、いささか欲求不満。
さらに、アラムートがどのように不思議な国なのか、ということが描かれていない。これも、時間の砂のパワーを観客に認識させるのに必要だったと思う。最大の疑問はラストにある。短刀を大きな砂時計に刺すと大砂嵐がやってきて世界が終わる、と言っておきながら、そんなことはさっぱり起きない。たんに時間の針が大きく戻され、アラムート攻略直後にタイムワープしただけではないか。なんで? それに、短刀を刺したら永遠に時間が戻りつづけるみたいなこと、言ってなかったっけ。どうせなら、アラムート攻略前にもどれば、ムダな殺生をしなくて済んだんじゃないの? なんて思ったりしてしまった。
大筋は面白い。しかし、上記のように途中から説明不足や疑問がいくつかでてきて、トーンダウン。ラストの、アラムート攻略前の、つまり波瀾万丈のアドベンチャーがなかったものになってしまうのも、ちょっと肩すかし。だけって、死んだはずの父王も2人の兄も生き返ってしまうなんて、調子がよすぎ。姫も、ダスタンとの冒険譚もまるきり知らず、自国が占領されたっていうのに、ダスタンに好意的な表情を浮かべるのも、「そんなのありか?」と思ってしまう。一炊の夢のごとく、あれはなかったことに、というのは表紙抜けてしまうな。
短剣の砂による時間逆回転は、単純に言うとタイムワープだ。しかし、パラレルワールドになっていると考えてもいい。ある特定の分岐点まで戻るだけど、戻る前の世界は延々とつづいていっている、みたいにね。
ダスタンに、ジェイク・ギレンホール。身体はムキムキだけれど、あのマヌケ面はどーもスーパーヒーローには物足りない。それに、アラムートの姫タミーナ(ジェマ・アータートン)がそれほどの美人じゃなく、胸も小さいのも、魅力が半減。ま、ディズニー映画だからしょうがないのかも知れないけど、アラビアンナイトに色気はやっぱり必要だよなあ。もっとも、2人がいつキスするか、かなり焦らすのはなかなか巧みだった。
冷たい雨に撃て、約束の銃弾を6/4新宿武蔵野館3監督/ジョニー・トー脚本/ワイ・カーファイ
原題は"Vengeance 復仇"。武蔵野館のHPの写真だけ見て、すっかりヨーロッパ映画だと思い込んでいた。なので、オープニングで中国語がでてきてたまげた。うわ。
ノワール映画なのだけれど、昼のシーンが多い。監督は「エレクション」「エグザイル/絆」のジョニー・トー。なので、あんなタッチなのだけれど、途中から演出過剰気味になってきて、そりゃ遊びすぎ、素っ気なさ過ぎ、という部分もあったりする。
「エレクション」「エグザイル/絆」と比べ、話は分かりやすい。でも、そのことで深みが失われたような気もする。観客が考えなくては分からない部分、説明を端折る部分がもう少しあってもいいのかな、と。でも、分かりにくくなったらなったで、文句をいう可能性もあるのだけどね。でも、情緒的なシーンなども多く、総じて面白い。
マカオ。中国人会計士一家が、暗殺団3人に襲撃される。かろうじて生き残ったのはフランス人の妻。彼女の父親が復讐のため、マカオに降り立つ。しかし、右も左も分からない。コステロは宿泊先のホテルで殺害事件を目撃。その襲撃犯をプロと見込んで、復讐の代行を依頼する。って、フツーにあり得ないような展開だけど。それはそれとして。
コステロが目撃したのは、アンソニー・ウォン、ラム・カートン、ラム・シュー。香港映画じゃお馴染みのの3人で、こちらは義理堅く気のいい暗殺者。アンソニー・ウォンの従兄弟で銃商人を介して、襲撃犯は簡単にわかってしまうのが、ちょっと物足りない。こちらの襲撃犯3人も家族思いで、闇の商売以外はいい人なのだよね。ところが、実は双方とも同じボスの配下だということが分かる。けれど、アンソニー・ウォンたちは「契約は契約」と、ボスとの関係よりコステロとの約束を優先し、襲撃犯3人を処理した後、銃口はボスへと向かう。このあたり、日本のヤクザの親分子分関係とはちがい、とてもドラスティック。なので、そんな簡単に親分に刃向かうの? という気分。でもま、そもそも金だけで結ばれている親分子分関係で、依頼者に忠実という風に見ればよいのかも。
3人と一緒にコステロも戦うのだけれど、彼の設定にひと工夫あって、それは記憶障害。彼も元殺し屋で脳に銃弾が残っていて、次第に記憶がなくなっていくというもの。それが加速度的に進み、いちいちボラを撮ってメモしておかないとならない。ラスト、コステロがボスを殺るときに、この設定が生きている。で。Webで見ていたら、このコステロはジョニー・アリディだったのね! ひぇー。気がつかなかった。
話は面白いのだけれど、全体のトーンがそれほどノワールでない。たとえば、ゴミ捨て場でボスの配下に立ち向かうシーンなどが典型的で、ゴミの山をタテにして数倍の敵と銃撃戦となる。けれど、そこには生々しさはなく、芝居じみた様式主義に陥ってしまっている。アンソニー・ウォンらには生への執着がなく、はじめから玉砕覚悟の戦いなのだ。戯画化しすぎなんじゃないのかな。もっと血にまみれ、泥にまみれて、それでも勝ち抜いて欲しかったという気がする。だって、3人があんなところで殉じる意味なんかないんだもの。
色気でいうと、最初に出てきた女性刑事をもっとフィーチャーすべきだったと思う。そもそもラム・カートンが面通しに呼ばれるからには、目をつけられているということだ。だったら、追う刑事の存在も描いて欲しかった。最後の方に出てくる腹ぼての女は、ほとんど説明がない。孤児を育てつつ、自分も子を生むというのは、どういう女性なのだろう? しかし、ラストのコステロの襲撃の参謀でもあるわけで、ちょっとぐらい背景を描いても損はないと思った。
冒頭の会計士襲撃のシーン。これは、世田谷一家殺害事件を連想させる。殺害方法は銃とナイフとで異なるけれど、あんな感じの一団が冷酷非情に淡々と事を達成したのではないのかな、と思われて不気味だった。
告白6/7テアトルダイヤ・シアター1監督/中島哲也脚本/中島哲也
2009年本屋大賞受賞、湊かなえのベストセラー小説の映画化なんだと。原作は読んでない。よい小説がそのままよい映画にはならない好例かも。
森口先生(松たか子)が生徒の前で告白するシーンは、予告編で見た。こっちの勘違いだったんだが、森口先生が犯人である生徒を見つけ出し、追いつめていくような話かと思っていた。それも、殺された子供は生徒と同年齢で、イジメで殺されたのかと思っていた。ところが、ぜーんぜん違ったので面食らった。だって、冒頭から森口先生は騒ぐ生徒でうるさい教室で延々と、生徒が聞いていようといまいと関係ないように淡々と話しつづけるのだから。それが15分か20分ぐらいつづく。で、なんと、その告白の中で自分の幼い娘がこの教室の生徒2人、それも誰と特定できるよう2人に殺された、と話すのだよ。で、その間、その指弾された生徒は席にずっと座りつづけ、逃げようともしない。うるさかった他の生徒はしばらくして静かになったけれど、話を聞きつつケータイで各所に森口先生の話を伝達したりしている。そんなの、あり得ないよなあ。というわけで、早々に見切りを付けた。
映画は登場人物の「告白」を積み重ねていく形式を取っていて、冒頭の森口先生の「告白」がいちばん重要で長い。しかし、淡々とした口調に映像がノイズのようにかぶるのがうっとうしい。その映像はクラスの生徒だったり、森口先生の話す内容をサポートするようなものだったりするのだけれど、断片的で短く、忙しくインサートされる。そのくせ森口先生の話は書き言葉のように素っ気なく、理屈やたとえ話も交えて長々とつづく。じつは、ここで俺は頭が痛くなってしまった。森口先生の話がすっと頭に入り込まず、ちょっと考えたりしていると映像がちかちかと動き回り、置いてきぼりを食らいそうになるのだ。焦る。しかも、前席のオヤジががさごそ食い物をあさる音も気になって、前提となる内容を十分に理解できたかどうか甚だ怪しい。結局、前列のオヤジには静かにしてくれ、と小声で囁いたのだけれど、こんなことがあると内容はしっかり身に染みて分かってこないものなのだよ。
リアリティの欠如はいたるところに出現する。警察が事故と断定した事件なのに、一介の教師が真犯人たる生徒を特定できたのはなぜ? にはじまり、教室で森口先生が「告白」したのに、その内容が学校側や家族にぜんぜんつたわらない。
少年Bの母親(木村佳乃)は、息子が犯人だと指摘されているのに反論しない。フツーなら学校に連絡し、森口先生の独断を制止するように動くはず。また、犯罪をおかしたことを認めつつ、罪悪感を感じない女として描かれているが、そんな人間はほとんどいないと思うぞ。少年Aは、天才的な数学者の母から生まれたんだろ? それでも父親がバカだから、母に「どうしてできないの!」と叱られてばかりだった。なのに、中学生になると学校では優秀な生徒になっちゃうのかい? さらに、少年Aの犯罪動機のすべては、マザコンにあるという描き方も「?」だね。少年Aはマゾか? 優しかった父親には、向かわないの?
少年Aに接近する少女も、いまひとつ存在感がない。目立つ殺人をしたいと薬を集めているとかなんとか言ってるけど、切迫感もなにもないではないか。
大騒ぎしているクラスの、その生徒たちを他の教師たちはなんとも思わないのか? そういえば、ラスト近く、始業式で「人の命は重い」なんて演説する少年Aがいるのだけれど、彼のクラスの生徒は少年Aにそんなことを主張する権利がないことを知っているはず。なのに、全校生徒が拍手している。おい、おかしくないか。演説の後、演台の下の爆薬を破裂させるつもりが、爆薬がない。というところに森口先生から電話があって、事実を告げられるのだけれど、それ以降、少年Aは体育館の中を携帯を耳にあてがいながら叫んだりわめいたり鼻血を出したりしながらうろつきまわる。あげくは床にしゃがみ込み、生徒たちに囲まれる。って、おいおい。教師たちは何をしてるのだ? さらに、そこに、ハイヒールのままの森口先生が入ってきて、自分がお前(少年A)を追いつめたのだ、と宣言する。みんなのいる前でだよ? 信じられないね。
でその、少年Aがセットしておいた爆薬は森口先生が持ち去ったのだけれど、その配線を彼女は切断している。なのに、その爆弾を少年Aの母親が勤務する大学の研究室に持ち込んでいる。つまり、演説が終了し、携帯を使った起動をしたとき、その爆薬は研究室で爆破した、らしいのだけれど(爆破のイメージはあるが、実際に起こったとは確定していない表現だ)、森口先生はいったん切断した配線を結びなおしたってことか? 切断の意味がないではないか? また、少年は学校での爆破をWebページで予告(ビデオまで撮って再生できるようにしている)しているのだが、その映像を森口先生はどうやら前夜見ているらしいのだ。そんなん、タイマーセットして演説が終わったら試聴可能にするとか、フツーするだろ!
他にもまだあるが、もういい。とにかく、ほとんど全編が突っ込み所、といった内容でバカバカしくて退屈した。そもそも、この映画では少年少女の得体の知れない犯罪、というのは登場しない。少年Aは母親への愛の渇望が根底にある。少年Bは、父親が不在という環境が提示してある。つまり、ごくフツーの、ありふれた少年たちが、何をするかわからないのだよ、というようには描かれていない。家庭環境に瑕疵があると、とんでもないことをする可能性があるよねと言っているのだ。これって先入観から来る偏見でしかあり得ないだろ。
この映画に登場するのは、偏った人間ばかりだ。少年Aの母親は自分勝手。Bの母親は社会性欠如。森口先生は復讐鬼。・・・って、みんな悪の根源は女にあるのかい? 生徒たちも、みんな変なやつばかり。ま、変人ばっかり集めればあんなクラスもできるだろうけど、ごくフツーにはあり得ないだろ。それに、映画の中に「殺人が悪いことだと、誰も教えてくれなかった」というような語りがあった。バカか、と思う。そういうのは教えられずとも身につくものだ。
シーサイドモーテル6/8ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1監督/守屋健太郎脚本/柿本流、守屋健太郎
つまらなかった。なんたって30分目ぐらいに、すっ、と眠ってしまったぐらいだ。
なぜか山の中にある、うらぶれたモーテル。その4つの部屋で繰り広げられるゴタゴタを、ときに交錯させながら進める。がしかし、それぞれの話が面白くない。そして、実はこんなところで関係していた互いの宿泊客・・・という交錯具合が貧困で、例に出すのも可哀想だけれど「運命じゃない人」のような謎解き、というか、「おお。こんなつながりが!」という驚きは皆無。当然「さあ、次はどうなるのだろう?」という心躍る展開はない。ひとえに脚本の練り込みが足らないわけで、その足りなさに気付かないような連中がつくっている、ということに他ならない。見せられる観客はたまったもんじゃない。
編集は、いま流行りの細かいカットをつないでチャカチャカと進む方式。でも、そのつなぎにテンポがない。カット尻が長かったり、意味なくだらだらつづいたり。もっとリズミカルに、すんずか進まないとなあ。
さて、内容。1つは売春婦(麻生久美子)とセールスマン(生田斗真)の、恋物語。けれど、男を知りつくした女が、こんな簡単に心を許すか? ということからして不自然。哀愁も何もない。ありきたりの内容だし。
2つ目は、スーパーの店長(古田新太)と女房(小島聖)の話。この話が一番内容がない。好きこのんで古女房とモーテルへ? 亭主は売春婦めあて、女房は店員とのアバンチュール目当て、らしいが、ぜーんぜん説得力がない。しかも、女房は簡単に交通事故死してしまうという身も蓋もない話。亭主が呼んだ売春婦が部屋を間違えてセールスマンと出会う、というためだけにある話か?
3つ目は、高級旅館をエサにキャバクラ嬢(山崎真実)をデートに誘い、もったいないからモーテルでコトを済まそう、という男(池田鉄洋)。それが、行為の途中にぎっくり腰になって救急車で運ばれる、というだけの話。まったく中味がない。他の話との交差もなく、意味がほとんどない。
4つ目は、3000万(?)借金した男(山田孝之)と、連れ(成海璃子)のところに、取り立て屋のヤクザ(玉山鉄二、柄本時生)が突然やってくる。そこに拷問屋(温水洋一)がやってきて、山田を拷問する。のだけれど、拷問したって無い金は戻ってこないだろうに。何のために指の皮を爪切りで千切るのか意味不明。が、実は山田はヤクザの金を数億盗んでいて、山田と温水はグルだということが後に分かる。のだけれど、山田はあらかじめ玉山らが来るのが分かっていたのか? 温水に拷問されることを了承済みだったのか? でも、そんな苦痛や面倒をかけずとも、さっさと逃げればいいだけの話で、もの凄く不自然。さらに、山田と温水がグル、ということを玉山が推理するシーンは、玉山の独り言のような解説セリフがだらだらつづく。やめてくれってーの、セリフで説明するの! 山田と玉山は旧友という設定だけど、何も活かされていない。山田と成海の関係も不明。
というわけで、ほとんど面白いところがない。唯一、気が利いているな、と思ったのは、各部屋に飾られている写真の主が誰なのか、ということ。そんなことはあり得ない、というような仕掛けなんだけど、なかなか面白かった。あとは、警官2人がとぼけたキャラで目立っていた。他は、ほとんどつまらない。退屈。
マイ・ブラザー6/10新宿武蔵野館1監督/ジム・シェリダン脚本/デヴィッド・ベニオフ
原題は"Brothers"。邦題は、弟から見た兄貴、という感じなのかな。原題は、兄弟を客観的に見てるということだよな。なので原題と邦題では意味が違う。しかし、映画を最後まで見ると、「え? 兄弟の関係なんて、あまり強調されてなかったなあ」という感想。
終わってみれば、アフガン戦争で捕虜になった兄(トビー・マグワイア)の葛藤が主題になっていて、それはそれで重いテーマで意義深いのだけれど、途中まではそんな感じではなかった。兄が刑務所に弟(ジェイク・ギレンホール)を迎えに行く。出所祝いで、両親(実父と義母)、兄夫婦と娘2人が集まっている。・・・というところで、違和感。日本人なら、町の銀行を襲撃した息子を、よく戻ってきた、って祝ったりしないものな。強盗の息子を育てた、って周囲から白い目で見られ、いたたまれず転居したりするかも。兄は職業軍人。父も軍隊経験者。この2人だって、家族に強盗、じゃ肩身が狭いはず。いや、本人だって、堂々と町を歩いたりできないだろう。でも、アメリカは違うのだよなあ。
弟と入れ替わるように兄はアフガンへ。・・・という時点で、これかせ兄は戦死。兄嫁(ナタリー・ポートマン)と弟が情を通じ、そこに兄が生還する。さらに、父親はデキのよかった故兄と弟を比べ、弟を罵倒する。これもよくある設定。なんか展開が読めてしまってつまんないなあ。ここにどういうひねりが加わるのだ? と思えど、なかなか話が転がらない。
アフガンで捕虜になった兄の様子が平行して描かれるのだけれど、兄嫁と弟の関係もじれったいだけ。・・・とはいうものの、夫が戦死で寡婦の兄嫁の家に、いくら2人の幼女が可愛いからって入り浸りの弟って、フツーないだろ、倫理的に。美しい義姉に接近するより、さっさと自力で彼女つくれよ、と思ってしまう。なんか、むりくり不義の関係をつくりあげている感じだな。
そんななか、アフガンでは壮絶な状況が。部下に「機密は漏らすな」と命じていた兄だが、自分の命を救うために部下を撲殺。運良く救出され、帰国することになる。と、ここから家族のドラマから戦争のトラウマがテーマになってしまう。あらら。これが、ひとひねりだったのか! いや、モチーフとして持ってくるのはいいんだけど、それまでの流れと乖離し過ぎじゃないの? そもそも、こっちが本来の主題であるならば、兄弟関係やヤクザな弟なんて、そんなに描き込まなくてもいいはず。まあ、帰国した兄が妄想全開させるために、兄嫁と弟の疑惑はなくちゃならないかも知れないけど。
もっとも違和感を感じるのが、幼い娘たちが弟(叔父)に好意をもち、父親を嫌悪する部分。とくに、妹の誕生日に、自分のときよりご馳走もプレゼントも豪勢すぎる、と姉がごねる、だけではなく、風船をこすって音を出し、嫌がらせをする。挙げ句、「ママは叔父さんと寝た」なんてことまでいう。子供がそんなしないだろ。邪悪に描きすぎていると思う。まあ、その後、兄が怒り狂って台所を壊し、銃を持って弟を威嚇するための伏線なのだろうが、ムリがありすぎる。
実をいうと、アフガンから帰国した兄の、その異様さというのがあまり強調して描かれていない。トビー・マグワイアらしく、怒りや矛盾を内に秘めた冷静な演技がつづく。たとえば、食卓で娘たちが象の耳と犬の耳の話をしていて、その話に参加しない兄がブッと席を立つシーンがある。この行為は兄の異様さを強調するシーンのようなんだけれど、どーも何を言っているのかよく分からなかったりした。他にも、何かが溜まっていくような様子は描かれているものの、怒りや狂気が見える形ではない。まあ、溜め込んで溜め込んで、最後に爆発する、ということを描きたかったのかも知れない。でも、むしろ、異常行動を小出しにエスカレートさせていった方が、納得し安かったかも知れない。
他に分かりづらかったシーンは・・・。アフガンで、見せしめのために、兄と部下の前で銃殺されるときに、その罪状を述べたのだけれど、それがすんなり頭に入らなかった。兄が帰国し、家にいるところで、とつぜん男の赤ん坊がはいはい。え? ひょっとして戦場に行く前に仕込んだ子供が生まれたのか? なんて思ってしまった。じつは、その子は兄が殺した部下の子で、部下の奥さんが妻のところに話に来ているシーンだった。ちょっと戸惑ってしまった。それはいいとして、自分が殺した部下の家族を前にして、兄はじっと見るだけなのだよな。日本映画だったら、もう少し過剰な演出をさせるだろうなあ。表情も変えず、同じ部屋にいられる精神は、日本人と西洋人の違いなのかね。
というわけで、テーマの絞り込みが中途半端。とくに前半はよくある展開で面白みがない。というより、嫌な気分になった。さらに、兄の部下殺しで気分は最低。最後まで重苦しい気分がつづき、ぐったりという感じ。ラストで、やっと兄は妻にアフガンで起こったことを口にするのだけれど、それで解決になるわけではない。たとえ個人的にトラウマが薄れたとしても、同じようなことはこれからもつづくわけで。米国が他国に侵攻することの是非には、ほとんど触れられていない。兄弟の父でさえ、「兄貴は国のために尽くしている」と誇り高く告げているぐらいだ。
それより気になるのは、ラスト周辺で弟の存在が無くなってしまうこと。犯罪者でも奔放でも、好きなことをしていた方が、精神的にいい、と主張するわけじゃないのだよな、この映画。そういえば、弟は襲った銀行に侘びに行き、脅したあるしは撃った相手と話している。それで相手は、泣いて受け入れた、みたいな話が語られる。この被害者の対応も、とても日本じゃ考えられない反応だな。
米国批判も強くないし。根源的な部分にスポットを当てなくて、どうしようというのだろう、という気分になる。
それはそうと、アフガン人が撮っていたビデオ。あれは、米軍が拾って、上官たちは見たのだろうか? という前に、兄は、自分のしたことを上官に、また、セラピーで告げているのだろうか? 実は、兄は現役復帰を希望して上官に申し出るのだよね。自分のしたことを考えれば、もういちど軍隊へ、とは思わないと思うんだが・・・。
●と言うところで他の感想文などを読んだら、デンマーク映画「ある愛の風景」のリメイクだと書いてある。で、調べたら2008年の2月に、俺、見てたよ。オリジナル。ははは。それで、見たことのあるような展開、と思ったのかもね。でも、オリジナルの感想文を読み返したら、↑と同じようなことを書いている。結局、見方は変わらない、ってことかも。ははは。
アウトレイジ6/14上野東急2監督/北野武脚本/北野武
ヤクザの抗争だということは分かっていた。だから、やな気分がしていた。顔の似た日本人が、同じような黒い背広でぞろぞろでてきて、名前で呼び合う・・・。複数の組が錯綜して、何が何だか分からなくっちまうのでは・・・と。半分は合っていた。でも、話が分からなくなることはなかった。
ファーストシーン。黒服の男たちがクルマの横に並んでいる。その様子を、右から左へとミドルショットでパン。でも、ピントがどこにもあっていない。最後の方に、ビートたけしと杉本哲太。この2人もちゃんとピンがきていない。まあ、ラストシーンまで見ると、このピンぼけにはちゃんと意味があることが分かってくる。こいつらは下っ端で、その他大勢なのだよ、と。
で。話は案外単純で、山王会という大きな組と下部組織の池元組、そのまた下の大友組というタテの階層に、池元組と舎弟関係にある村瀬組というのが絡んでくる。池元(國村隼)と村瀬(石橋蓮司)は覚醒剤で提携しているらしく、山王会会長(北村総一郎)はそれが気に入らない。そこで池元にブラフをかける。その後大友組と村瀬組の若い衆がいざこざを起こすのだけれど、この経緯がよく分からない。大友組の男が村瀬組の客引きにわざと引っ掛かり、バーに入る。60万円を請求され、金がないからと村瀬組の男を連れていった先が、大友組。村瀬組の男は指をつめるが、話はそれて終わらない。どんどんエスカレートし、幹部の獲り合い、組長(大友と村瀬)の獲り合いに発展する。大友は池元の命令で村瀬を獲ったのに、逆に破門される。そこで、大友(ビートたけし)は池元を獲る。山王会に狙われる大友。・・・という流れなのだけれど、いったい誰のどういう魂胆でこうなったの? というところが曖昧模糊。腹に一物もち、子分たちを情報であやつる山王会会長の思惑、なのか? そんな仕掛けをしてまで村瀬をつぶし、大友をつぶし、池元をつぶす価値があるのか?
とくに、中盤からは拳銃撃ちまくり。手榴弾やマシンガンも使い放題。死体がゴロゴロなのに、ニュースにもならず警官も騒がない。これまでのヤクザ映画なら、戦争! となると組全体が殺気だったりするものだが、そういうのはなし。ヤクザはみな冷静沈着に淡々と動いていく。それはそれでスタイルなんだろうけど、どーもすべてが様式的すぎるような気もする。
で、最後には山王会会長も幹部(三浦友和)に撃たれ、その幹部が山王会会長に納まる。幹部には、大友のところにいた男(加瀬亮)がついている・・・。てえことは、地位をもとめて三浦友和が動いていたってことか? では、いつから加瀬亮は三浦とつるんでいたのだ? 加瀬は、同僚に、大友への裏切り行為を指摘されていたが、それも三浦の指示? なんて疑惑がいくつもでてくる。
しかし、それほど大きくない、しかも直接は盃を交わしていない村瀬をつぶしたり、下っ端の大友らを派手な撃ち合いで殺戮する意味はないよなあ。と、この物語のそもそもの経緯と、処理の方法には疑問を感じてしまう。
話(といっても、浅いレベルでね)は、分かりやすい。けれど、その代わり、人物や物語が類型的でパターン化してしまっている。意外性も少なく、衝撃のようなものはない。もうちょい思惑だの苦慮だの恐怖だのが見えると面白かったのにね。
ビートたけしのセリフはドスが利いていないので、拍子抜けする。昔からそうだけど、他と比べると貫禄もない。もう、自身がでるのはやめにした方がいいと思うのだが・・・。
フローズン・リバー6/17ギンレイホール監督/コートニー・ハント脚本/コートニー・ハント
原題は"Frozen River"。ひたすら暗い話で、滅入る。こんな現実が果たしてあるのかどうか知らないが、それにしてもね。
アメリカとカナダの国境近く。レイは40歳オーバーなオバサン。15歳ぐらいの息子と、幼児がいる。亭主はギャンブル狂いで、ケンカして足を狙って撃ったら出奔してしまった。仕事はパートでロクに収入がない。住んでいるのは小さなトレーラーハウス。実は貯めていた金で大きなトレーラーハウスを買うつもりだったけれど、亭主がもっていってしまった。レンタルテレビは払いが滞り、もっていかれそう。食事もままならず、ポップコーンの朝食だったりする。息子がバイトするといっても、学校へ行け、と躾は厳しい。が、いかんせん金がない…。亭主が乗り捨てた車を見つけ、現在の所有者を訪ねると居留地内のインディアン女のライラ。亭主に死なれ、生んだばかりの子は義母に奪われた。目も悪い。そんな彼女は、カナダからの密入国者を、凍った川を行き来して運び、金をもらっていた。レイは、その仕事に一枚噛ませてもらうことにした。
というのが話の枠組み。伏線が割りと露骨で、レイが息子に「火を使うな」としつこく言っているのがボヤ事件につながったり、レイのアラブ人嫌いがアラブ人の赤ん坊放置事件につながったり、オヤジが「今日は暑い」と言ったから氷が割れるのだろうと予想できたり、案外と先が読みやすく、だからこそ見ていて憂鬱になる。どんどんドツボにはまっていくんだもんなあ。そもそもレイが悪事(運び屋)になったことからして、この先、嫌な事件が起きるに違いない、ということだ。こういう救いようがない話というのは、正直、見たくない。たとえ、マジメな内容の映画であってもね。
結局、運び屋は警官に見つかり、レイは自ら逮捕される。ちょっとした金稼ぎ、とクレジットカードの番号を盗んで売った息子は、ちょっとした注意で済んだ。それでもレイは4ヶ月ぐらいムショに入るわけだ。出てきてからのことを思えば、明るさはない。救いは、ライラが罪に問われず、子供を自分の手に取りもどしたことぐらい?
背景に分かりにくい部分がある。地元警察は居留地には入れない、なんて言っていた。それでライラは逮捕されずに済んだのだろうが、一時はライラが出頭してレイが助かるような流れになっていた。それを、レイが「自分が」といってライラを助けた。このあたりの、居留地のインディアンに対する特別扱いは、よく理解できなかった。また、簡単に川を渡って密入国できるっていうのも、ね。警官も、知らなかったというより、見逃していた感じだったな。
ライラが、稼いだ金を筒に入れて隠すようなシーンがあった。随分後になって、筒に入った金が、ライラの家のドアに投げつけられるシーンがあった。あれは、いったい何だっのだろう?
15歳の息子が、異様に父を弁護する。貧乏生活も父親の性だと思うのだけれど、母親へのいたわりはない様子。むしろ、母親のせいで父親は出ていった、と恨んでいる。このあたりの感覚は理解できない。
新しい家の手付けが1500ドルで、残金が4000ドル。併せて5500ドルって、55万円ぐらいで、大型トラックからはみ出るぐらいの家が買えるのか・・・。それにしても、あんな家をどうやって地面に降ろすんだ? 土台は? と気になってしまった。しかし、家なんか買うより、狭くてもいまの家に住み、倹約したらいいだろうに。大型のテレビをレンタルしたり、バカみたいな気がする。まあ、そのぐらいの贅沢は、ということなのかも知れないが、ロクなものも食わずテレビやプレゼントを重要視するのが、理解できない。
レイ役の女優メリッサ・レオが、かなりの婆さん。撮影当時48歳だったようだが、15歳と幼児がいるにしては、ガタがきすぎだと思う。シワだらけだったし。これが、シャーリーズ・セロンとかキャメロン・ディアスが演じていたら、同情できたかも、なんて思ってしまった。
ずっとあなたを愛してる6/17監督/フィリップ・クローデル脚本/フィリップ・クローデル
原題は"Il y a longtemps que je t'aime"。英文タイトルは""I've Loved You So Long"。"仏/独映画。ごくフツーな感じで話が始まる。40代半ばといった感じの姉(ジュリエット)が、40前ぐらいの妹(レア)の家に居候になる。2人とも陰気。何かあるな、と思わせておきながら、だらだらと日常生活を描写しつづける。なので、実は20分目ぐらいまではつまらなく、眠りそうになった。だって、何かあるその何かへ、突き進んでいこうとしないのだもの(刑務所か何か、というのはほぼ想像がつく)。それに、日常描写にも伏線は埋め込まれておらず、意味深なところがない。これじゃ飽きる。で、眠りかけたところに、6歳の息子を殺した、という情報がやっとでてきた。ぱっ、と目が覚めるほどではないけれど、少しだけ刺戟が発露されてきた。
以後も、ドラスティックな展開はない。ジュリエットが裁判でひと言もしゃべらなかっただの、元亭主がジュリエットに不利な発言をしたとか、元は医者だったとか、つぎあわせると、こりゃ息子が重病で・・・と、簡単に想像できてしまうぜ。なので、ミステリアスな展開を期待していると、ずっこける。
というわけで、この映画ではドラマチックよりも、人間の心の変化、感情の発露などを見るべきなのだろう。頑ななジュリエット。最初は目のクマも濃くやつれているのだけれど、次第にふくよかになってくる。肉体的な変化というのは、心の平穏と関係あるのかもな、と思わせる。レアの献身的な態度が、美しい。姉がムショに入った頃をよく覚えていない、みたいなのだけれど、ちゃんと心の支えになっている。「私のことなんか、存在しないと思っていたんでしょ」という姉の疑問にも、冷静に応えるしね。
でも、姉のことをよく覚えていない、というのは変だよなあ。6歳の子供を殺して15年刑務所にいたのなら、20数年前の子供。ジュリエットが25歳で結婚したとしたら現在は46〜7歳で、犯行は30代前半。いくら年の離れた姉妹だとしても、10歳も離れてはいまい。すると、レアは20代前半ということだ。他家に嫁に行っていたとしても、十分に姉の行為は理解できていただろう。もちろん、面会だって、自分の意志で行けたはず。なのに、面会には行っていない。・・・どーも、この姉妹の関係については、納得できない部分が残ってしまう。
変化のつづきだが。子供を殺した、ということで警戒するレアの亭主も、肩の脱臼を嵌めてもらって態度が一変。レアの同僚の毛のない男がジュリエットに接近する。事実を知っても心が変わらない。昔、妻を事故で失った、とか言っていたが、それだけでは彼の態度は納得できないけれど、ジュリエットをめぐる心の変化のひとつといえる。
月に1回(だったかな?)話をしに行く警官も、離婚したとはいえ陽気に話す中年親父だったけれど、ある日行ったら自殺していた! というのが、この映画最大のドラマかもね。そんな人間模様はそこそこ面白い。ただし、深みはないけれどね。
しかし、肝心のジュリエットの犯行理由には、いささか難点がある。ジュリエットは医者の立場で息子の回復困難を知る。苦痛を与えつづけるより死を選んだようだ。けれど、病状ぐらい主治医は知っているだろうし、主治医を通じて夫も知り、ジュリエットの家族だって把握するのがフツーだ。だったら、裁判でだって事実は明らかにされるはず。なのに、すべてをジュリエットが隠し通したように描かれる。これにはムリがある。亭主がなぜジュリエットに不利な証言をしたのかも、よく分からない。このキーポイントが中途半端なので、最後もいまひとつ説得力がない。
それでもまあ、あのハゲの男とは上手くいくのだろう。美術館の階段から、下にかけられているのだろう絵を見るシーンがあるが、左手には天使の彫像があったりする。露骨な描写ではあるが、まあ、これから幸せになっておくれ、といいたい。それにしても、警官の自殺の原因はなんだったんだろう?
妹のレアは、姉が医者で殺人者になったから文化系に進んだらしい。それでいまは大学の教師。なのだけれど、仕事を優先して子供をつくらず、ベトナム人の子供2人を幼女にしている。これは、素直に納得できなかった。産めるなら、自分で産めよ、とどうしても思ってしまう。価値観の違い、で、済む問題とは思えない。
レアの亭主の父親は、話せない。ジュリエットたちの母親は、認知症。・・・と、老いは必ずしも豊かではないところを見せるのも、なかなか現実的。他の人の不幸と併せてみれば、人間は多かれ少なかれ何かを背負って行かなくてはならない、ということを言おうとしているのかもしれない。
カトリーナ(だっけかな?)とかいう家政婦がいて、よく皿を割るという話がでてくる。当の家政婦は画面に出てこなかったように思うんだけど、「よく割るからカトリーナという名前」みたいなセリフがあった。けれど、その意味が分からない。
ジュリエット役のクリスティン・スコット・トーマスって「イングリッシュ・ペイシェント」の人だったのね。ぜーんぜん気がつかず。ついこないだ、ビデオでみたばっかりだったんだけど。
ねこタクシー6/23シネマスクエアとうきゅう監督/亀井亨脚本/永森裕二、イケタニマサオ
なんと、テレビ版は先行して1月から放映されていたのね。知らなかった。それで人物描写が薄っぺらだったり、背景がちゃんと描かれていなかったりするのか? そもそも、映画版はテレビ版のダイジェストなのか? それとも、違う部分もあるの?
教師(中学か? 高校か?)を5年前に辞め、タクシー運転手になったカンニング竹山。自分の意見をまともに述べられない質で、営業成績は最低。望みのない人生を送ってる、という設定。しかし、妻は未だ教師だから、男性と同等の給料取りなわけだ。経済的に困る環境ではない。娘が1人。中学生か? 高校生か?
この映画、ネコを狂言まわしにして、中年男の人生やり直しを描いているわけなのだが、そもそも竹山に何があったのか、過去が描かれていない。なぜ教師をやめざるを得なかったのか? それを描かずして、何かを克服した、ということにはならない。さらに、何で竹山の女房が鶴田真由なのだ? いや、顔ではない。あの性格で結婚を申し込むには、そうとうなドラマがあったはず。俺は、そっちの方に興味がある。犬山イヌコに襲われて子供ができちゃった婚とかいうのなら納得できるけどさ。
で、公園で、ネコがなついてきたのをきっかけに、タクシーにネコ2匹を乗せて営業。成績が急上昇する。…ネコを飼った人なら分かると思うが、見知らぬ人にすり寄るネコは珍しい。成猫はとくにね。それに、食って飲めば小便もクソもする。家ならともかく、車内でどうすんだ? と思った。裸足で地面を歩くし毛は抜ける。嫌いな人は少なくない。ネコを乗せています、とあらかじめ断らなければ、お客とのトラブルだって発生するはずだ。また、映画はそういう現実は無視して、都合よく進んでいく。
ネコの同乗がバレるのは、竹山ではなく同僚の若い女ドライバーから。なんと、本人とネコが雑誌にまで登場しているというのは、あり得ないだろ。それに、成績を上げるためにネコ、とはいうが、成績が上がって収入が増える分と、ネコにかかる経費とを比較したら、あまり意味がないと思うがね。
で、必然的に竹山も同乗させないようになるのだが…。急に、愛玩動物飼養管理士の資格を取得を思い立つ。1年かけて通信教育で学び、試験に合格。保健所に行くのだが、担当者の内藤剛志に「前にも言ったでしょ」と言われてしまう。そうなのだ。1年前に女性ドライバーが問題になったとき「個人で資格を持っていてもダメ、事業所が取得しないと。しかも、申請しても許可されるかどうかわからない。私は反対」と言われているのだから、竹山はアホとしかいいようがない。こんなんで教師が務まるのか?
しつこく粘る竹山。「私はネコを乗せたいのではない。御子神さん(ネコの名前)を乗せたいのだ」と泣きつき、すると、どういうわけか内藤も「それなら」と、なぜか「母を乗せる」といいだす。で、母を乗せるとむかし飼っていた牛がどうのと言いだし、母親に説得されて半ば許可することに・・・。げっ。なんだよ。最後は理屈ではなくお涙頂戴かよ。でも、そんなんで保健所が許可なんか出せないだろ、と思っていると、ちょうどその日に(なのかな?)、御子神さんが天寿を全うする。ってことは、認可されたねこタクシーは走らなかった、ってことだよね。しかも、次のシーンでは、竹山は教師に復帰している。おいおい。都合よすぎないか?
という具合で、突っ込み所がいっぱいだ。
タクシーの天井に「ラジオタクシー」とある。そういう会社かと思ったら、ボディに「アサヒタクシー」とある。いやまて「ラジオタクシー」と「アサヒタクシー」が併記されているが、なんなんだ? 調べたら、複数のタクシー会社が加盟しているグループのようだ。合理化対策なのかな。初めての人には、混乱の極みだよね。
竹山の乗るクルマのナンバーが「7878」。語呂合わせになってるか? どうせなら「2828」=ニャーニャー、ぐらい遊べばいいのに。せんだみつお、しか思い浮かばんぞ。
娘が母親に「父さんのパンツ、一緒に洗わないで」といったという。100年前の話題か? この映画、セリフにセンスがない。最初の頃はナレーションで懇切丁寧すぎるほど語ってしまうし。説明的というか、くどい言い回しも少なくない。営業所の所長が女性ドライバーから「セクハラですよ」といわれ「セクハラは何か獲得(だったと思うが違うかも知れない)したときに成立するんだ。俺は何かいま獲得したか?」なんて、堅苦しい言い回しで反論する。フツー、そんな言い方しないって。
ネコを拾ってきたとき、妻は「娘が受験なのに」という。で、それからしばらくネコを乗せて営業し、見つかってからさらに1年間試験勉強し、合格後にネコに死なれ、教師に復活している。ネコとの出会いから2年ぐらい経ってるんじゃないか? おい、娘の受験はどうなったんだ? 最後も娘はブレサー姿だったが、あれは合格した高校のものなのか? すると、最初は中学生だった? それとも、中一から受験勉強していたのか?
竹山の家の居間に、やたらトロフィーだの盾が並んでいるのだが、誰が何をして得たんだろう? 気になって仕方なかった。
撮影が安っぽい。Fixでいいのに手持ちにしているせいか、ふらふら揺れるシーンがあったりする。クルマの前からの映像で、周囲の、道を歩いている人がじろじろ見ているのが映っている。カメラを構え、クルマを乗せたトラックが街中を走っているのだから目立つだろうけど、もうちょいがんばっていい絵をつくってくれよ。一般人がふらふらうろうろしている画面も多いし。
そういえば、御子神という名前は、猫ババアの室井滋がつけたのか?
で、竹山は、いったい何をどう克服したというのだろう? もう一匹の猫は、室井のところに返してしまったのか?
登場するネコは、太ったふてぶてしいタイプ。いつも舌をだしているのがユニーク。可愛いとは思わないが、親近感がもてる。もう一匹は毛が長いネコで、外国産? やっぱ、日本猫の方が心に迫ると思うのだけどねえ。
観客は、女性客多し。ま、水曜レディースデイ料金1000円のせいだとは思うんだけど。そうそう。セリフが聞きづらいところがかなりあった。困ったもんである。
ケンタとジュンとカヨちゃんの国6/24テアトルダイヤ・スクリーン2監督/大森立嗣脚本/大森立嗣
閉塞感からの脱却の話である。評論家連は「現代を象徴」とか「行き詰まった日本の現状になんたら」と、アナロジーを論じるのかも知れない。しかし、映画自体からはそんなものは読み取れない。勝手気ままな青少年がいるだけである。
かつて、青年の反抗にの原因には貧困や無知があった。1950〜60年代はそれで説得力があった。しかし、その後の日本の繁栄によって、国民は豊かになり、餓死するような貧乏人はいなくなった。貧困ゆえに身体を売る女も減った。それによって犯罪数は激減し、平均寿命も世界トップになった。医療制度のおかげである。もう、形而下的な縛りはないといっていい。残るは,精神的な欲望だけである。こうした時代に青少年の反抗を描くには、それなりの物理的な理屈づけが必要になってくる。この映画では、主人公の2人、ケンタ(松田翔太)とジュン(高良健吾)は孤児院育ちという背景をもってきた。さらに、ケンタの兄は刑務所暮らしである。この2人にからむカヨち(安藤サクラ)ゃんは、22歳。ブスでバカで腋臭という属性がついた。これなら人間歪むだろう、という設定にしている。がしかし、孤児院育ちのすべてが無軌道に走るわけではない。女の子は最近、ブスでも化粧でずいぶんきれいになっている。いっぽうで、両親そろった健全そうな家庭からも犯罪者は生まれ、美人も人を殺める。要は、個体の問題だ。もちろん、個体差があるところに環境の圧力がかかれば、異常をきたす可能性は高まるだろう。でも、環境の問題よりも、要は、個体差だ。秋葉原無差別死傷事件の犯人も、非正規労働者だったから犯罪をおかしたわけではない。労働環境はトリガーのひとつだったろうが、同じような環境下で働く人はごまんといて、もっと劣悪な条件で働く人だっている。世界を見渡せば、日本の最低レベルの人だって、ごくフツーのレベルになってしまうだろう。つまり、下層といっても、すべては相対的なのだ。ある意味で、贅沢病ともいえる。こうした病が犯罪の原因である、といって、説得力がある国は先進国だけだろう。それも、ひとにぎりの。たとえば、アメリカと比べたって、日本の格差はそんなに広くない。だれだってクルマはもてるし携帯ぐらいもっている。それはもう、当然、のレベルとして見られているからだ。それ以上の贅沢、もっと気ままな生活、夢のある社会! なんていったって、自ずから限度がある。そもそも、日本のように豊かになった社会では、物質的な文屋では夢なんて誰だってもちようがない。たとえば、ケンタとジュンが三億円の宝くじに当たったとしても、きっと数年で使い果たしてしまうだろう。夢は、もう物質ではないところにあるのだ。では、2人のように貧乏人だともてないか? そんなことはないはずだ。2人の仲間の洋輔なんか、施設で働いて夢のある暮らしをしているではないか。ケンタとジュンのめざすものは、幻覚でしかない。そもそも、存在しない夢をめざして、無軌道になっているだけの話だ。
2人は解体業者の労働者。ケンタは算数もできず、字もロクに読めない。上司の裕也(新井浩文)にバカにされ、逆上。事務所を荒らし、裕也のクルマを壊し、裕也のスクーターをかっぱらい、会社のトラックで網走をめざす。網走刑務所には、ケンタの兄が収監されているから、という理由で。この辺りの行動は、単なる単細胞。彼らに昇格などの未来が見えたとしても、行動様式は変わらないと思われる。
かつて2人はナンパをして、フツーの女には振り向かれもしない。そりゃそうだ。ニッカボッカで声かけても相手にはされないだろう。それなりの釣り合い、というのが世の中にはあるのだ。住んでいる世界が違うのだ。その世界を変える努力をしたか、どうかは分からない。評論家は、世界を変えることは無理、と2人は自覚し、それで閉塞感を覚えた、何て言うかも知れない。しかし、最底辺からでも努力しさえすれば這い上がれる社会でもあるのだよ、日本は。で、ナンパで引っかかったのは、ブスのカヨちゃん。ブスを自覚し、ブスでも愛されたい、と願う女。そのためには簡単に股をひらいて男を受け入れる。というけれど、これってブスに失礼な話だよな。ブスでも貞操観念の強い女性もいるだろう。美人でもセックス好きはいるはず。ブスだから、男なら誰でもいい、みたいに人物設定は、差別と偏見以外の何物でもないと思う。で、ジュンはカヨちゃんと一時同棲していたのだけれど、2人についていく、という。3人の逃避行が始まった。
しかし、カヨちゃんの財布に大金があるのを見て、金だけいただき、カヨちゃんを置いてきぼりにする。この下りは性悪を絵に描いたみたいな行動で、なかなかいい。捨てられたカヨちゃんが、身体を売りながらヒッチハイクするという、そのたくましさには脱帽。いや、カヨちゃんというキャラは、この映画で最も輝いている。ケンタとジュンには夢がないかも知れないが、カヨちゃんにはちゃんと夢があるんだもん。ジュンに愛されたい、という。その後、盗んだ銅線を売る話があるけれど、まったく意味がない。
トラックがガス欠になり、2人はスクーターで2人乗り、ケンタがバイクを盗むと、「イージー・ライダー」よろしくツーリングだ。仙台で、2人は昔の仲間・洋輔(柄本祐)の家に寄る。洋輔は父親(母親?)に目をつぶされた(?)らしく眼帯をしている。仕事は、知的障害者施設だ。実際の障害者が登場するが、ここだけ画像がドキュメンタリーになってしまっている。おそらく、知的障害者も施設に閉じ込められ、そこから出られない閉塞感を感じている、というアナロジーではないかと思う。でも、障害者を登場させることで、作り手の主張は矛先を失っているようにも見えてしまう。だって、障害者の物理的な制約に比べたら、ケンタとジュンは世間で最下層といっても、はるかに恵まれているのだから。逆にいえば、理性があるから欲望を感じ、夢を見る。だから、強い閉塞感を感じずにはいられない、ということなのたも知れないが。
洋輔の母(洞口依子煤が登場し、ケンタとジュンが挨拶のようなものをするが無視され、それで彼女を罵倒するシーンがある。ここは、どういう意味なのかよく分からなかった。彼女が洋輔を孤児院に預けたから、なのか? なんか、意味がよくわからなかった。
キャバレーで働く、ゆみか、と出会う(で、いいんだよな。キャバレーのシーンでは多部未華子と分からなかったのだよ)。で、昼間、ジュンはゆみかと昼、レストランへ。ゆみかの、理想の結婚、亭主の収入1000万円以上、子供は2人・・・なんていう話を聞いて、指が白くなってしまう。ジュンは、緊張すると指が白くなる、という設定。ただし、絵の具を塗ったようにしか見えないのが、残念。
連絡船で、2人はカヨちゃんと再会する。おお、なんとけなげな。もっとも、タイトルにも名前があるのだから、どこで合流するかが気になっていたけどね。3人は網走刑務所に行き、ケンタだけが兄・カズ(宮崎将)と面接する。カズは表情がなく、目が虚ろ。ケンタに、もう会いに来るな、という。ここは、地の果て、先はない、とも。これは3人の以後の足取りを暗示しているのだけれど、まあ、それはそれとして、カズという男は変だ。映画の冒頭、孤児院でのケンタの誕生パーティ。カズはギターを弾いていたが弦が切れる。暗闇でどうなったのか知らないが、明かりが点くとキレたような目をしている。すでに病的だ。さらに、幼児を誘拐してイタズラしたような映像が挿入される(このとき、少年ケンタはバイクでパトカーに向かって自爆している)。孤児院からの仕事先になつているのか、ケンタらと同じ解体屋に働いていて、裕也に「ロリ」といわれ逆上。カッターで裕也の胴を切り刻む。すでに、きちゃってる。彼の存在は、どう理解すればいいのか。よく分からない。孤児院出身だから、頭が変になる、というのか? では、洋輔はどうなんだ? だよな。
で、3人の前に、裕也が登場する。が、ニッカボッカの裕也から突然、黒服なので違和感ありすぎ。そもそも裕也はヤクザから覚醒剤を流してもらい、その売上げで儲けいてた。ケンタとジュンが出奔するとき、裕也の車にあった覚醒剤も奪い取り、すべて捨ててしまっていた。そのオトシマエをつける必要があったのだろう。なんと、拳銃を構えて待っていた。そこに、ケンタはスクーターで突進していく。詳しい説明はないが、どうやら激突し、相打ちのように倒れ込んだ映像が映った。
そして、キャンプ場。いざこざがあって、ケンタがキャンパーに石で殴りかかる。止めるジュン。なんと拳銃で撃ってしまう。おお。意外な展開。なぜ撃ったか、はジュンが話している。でも、ぜんぜん答えになっていなかった。「俺にはケンタしかいない」とかいうセリフだっけ? 違ったっけ。忘れてしまった。いずれにしても、大して意味がないような内容だった。ジュンはケンタをクルマ(きっと他のキャンパーのものだと思うが)に乗せ、最果ての海へ。その海の向こうにある何かをめざして、海に入っていく・・・。この手のラストは、よくあるような気もする。「テルマ&ルイーズ」なんかも同じクチではないの?
一方、カヨちゃんは、またしてもヒッチハイク。でも、男に殴られ、クルマから放り出される。唇から血。それをぬぐうカヨちゃんの顔。で、終了。いやあ、結局、カヨちゃんの映画だったなあ。
というわけで、久しぶりに語れる映画ではあった。もっとも、製作者の主張や狙いは、的が外れているような気がしたけどね。とくに、ラスト。なんと「私たちの望むものは」がかかるのだよ。なんて暗い。なんて60年代! そんなに現在の日本は閉塞的でもないし、哀しい国でもない。格差が広がり、底辺に落ちつつある人は増えているかも知れない。けれど、そういう人だって携帯はもっているしクルマも持っている。女も抱ける。めしだって食えるし、屋根のあるところで寝られる。世界の多くの地域と比べたら、天国なのだ。そこに、岡林の歌を持ってくる理由がよく分からない。
要は、社会を変えればいい、というわけではないと思う。社会に適応できない個人的なバカをどう教育するか、の問題ではないだろうか。思い通りに行かないからと犯罪に走ったら、それはお門違い。まあ、2人は反撥したとは言いながらも、それほどの無軌道ではないけれどね。本当は心根はやさしい。それを、有意味な方向へ向けさせる手続が必要なんだと思う。
それに、カヨちゃんがブスのハンデがあるとして。ケンタとジュンはイケメンなんだから、女関係には不自由しないのではないだろうか。徹底的に最下層を描くのなら、この2人も不細工でチビ、ぐらいにしてもらわないとな。
最初の方で、ケンタが裕也に給料から5万ほど巻き上げられていたけれど、あれは何だったのだろう? よく分からなかった。
カズが網走刑務所に入ったのは、裕也を切り刻んだから? その程度の犯罪で、網走に入るのか?
★「文化系トークラジオLIFE」のPodcast配信で、この映画に関する話をしていた。その中の話を聞いていて思ったこと。閉塞感を感じているのはケンタだけで、ジュンはケンタに付いていっただけ。そのケンタをカヨちゃんが追っていった。ケンタは自分の考えで行動するが、ジュンはケンタの気をうかがうような関係にあった。親分子分の関係ではない。ジュンはケンタのどこかに惚れているようなところがあったのかも。で、別の意味で、ケンタはジュンにとっての壁になっていた。可愛さ余って憎さ百倍のような、表裏関係にある感情がケンタに向けられ、それがケンタに銃口を向けることになったのか・・・。なんか、ねじれた関係なのだな、2人は。そもそもの孤児院での関係が多く語られているわけではないので、微妙ではあるけどね。
処刑人 ll6/29新宿武蔵野館2監督/トロイ・ダフィー脚本/トロイ・ダフィー
原題は"The Boondock Saints II: All Saints Day"。boondocksというのは「田舎」の意味らしい。じゃ、「田舎の聖人・すべての聖人の日」という意味なのか? ちなみに、1作目は見ていない。なのに、どうも前作の結果を引きずっての物語らしい。困ったもんだ。それでも大まかな流れは何となく分かった。8年前、双子らしい兄弟は、市民から喝采を浴びることをやってのけ、警察官にも知り合いができている。いまはアイルランドで暮らしているが、ある神父が殺害された。双子の手口を装って・・・。そこで双子は海を渡る。途中で知り合ったメキシコ人を連れて・・・。
いっぽうアメリカではギャングたちが待ち受けている。のだけれど、ギャングの親分たちがズッコケ。ギャングのボスは映像で指示を出す。って、007のパロディのオースティンパワーズの、そのまたパロディみたい。いや、この手のギャグともいえない変なシーンがたくさんあるのだ。ギャングの一人がマッサージしているところを双子とメキシコ人が襲うシーンは、まるでコメディ。親分たちをメキシコ人の親戚の店に呼んで一網打尽にやっつけるのは、セント・バレンタインデーの虐殺か? 他にも、映画のタイトルがたくさんでてくる。なんとかタワーへ双子が乗り込むシーン(屋上からロープをたらし、窓を撃ち破って入る)も、どこかでみたかな? という具合。廊下から入る手筈のメキシコ人は、捕縛した警備員に、キメぜりふをどうしようかと相談している。
この映画は、どこまでがマジなのだ? いや、双子が撃ちまくるシーンなんかも、正直いってそれほどスタイリッシュではない。どちらかというと、安上がりな感じ。映像テクニックもあまり使っていない。カツコよくないのだ、それほど。ては、コメディが主体化というと、そんなことはなくて。といっても、いわゆるバカ映画にもなりきれていない。なんか、とても中途半端。いろんなところにシャレを入れ込んで、仲間同士で楽しんでいる、ようなことなのかな? それとも、ネイティブが見たら大笑い、のあとに、スカッとするようなデキになっているのだろうか? よくわからんです。
で、この映画は展開とともに意外な発見がある、というスタイルをとっていない。たとえば、タワーに乗り込むシーンなど、最初に惨劇の跡を見せてしまう。つまり、警官が来て現場検証をしている。そこで、女性刑事があれこれ推理しつつ・・・というのにかぶって、実際に乗り込む様子が描かれる。こんなコトする必要があるのか? 素直に時間軸通り見せればいいのに。意外性もなにもあったもんじゃない。
あと、なぜ今回の事件が起きたかを、過去の映像をインサートして説明する。つまり、双子の父親の過去、である。これも、実はまわりくどいし説明的すぎ。で、父親の昔の友人が、引き起こしたことらしい。父親と友人の確執はあるのだろうけれど、なんかどうも牽強付会だな。
さてその友人役だけれど、なんとピーター・フォンダではないか。確信はなかったけれど、似ているなと思っていて、クレジットを見たらやはりそうだった。それと、ラスト近くにウィレム・デフォーが登場し、「死んだはず」と言われるのだけれど、それは前作でのことなのではないの? 今作だけしか見ていない俺には、ほとんど何の意味もないぞ。
瞬 またたき6/29シネ・リーブル池袋2監督/磯村一路脚本/磯村一路
ロマンスの一種なんだろうが、死んでしまった恋人に対するジメジメした話がだらだらつづくのに、いささかうんざりした。これは携帯小説が原作なのか? 調べると原作は河原れんで、「余命」の脚本家らしい。それが本作で小説家デビュー。ううむ。内容は携帯小説っぽい軽さだがなあ。まあいい。
バイクで同乗中、トンネルでトラックに激突。運転していた淳一(岡田将生)死に、泉美(北川景子)が生き延びた。泉美には、事故の瞬間の記憶がない。それを取りもどそうとする泉美の話。
はっきり言って中味がない。終わっても、ああそうですか、で終わってしまう。ドラマもなければ成長もない。そもそも、大きな対立もないので、映画としての面白みがない。対立に相当するのは、失われた記憶、なんだろう。けれど、途中で淳一の背中に強打の後があることが分かり、謎が浮上する。その謎に解決すべき大きな意味があるのならまだしも、たんに"後部の泉美をかばうため、背中向きにトラックに激突した"というだけで終わってしまっている。あ、そ。つまんねえの。
冒頭から1/3ぐらいは、説明ゼリフのオンパレード。背景は分かるけれど、ドラマにならんだろ、それじゃ。その後も、首をひねるような映像が続出する。たとえば泉美が通う精神病院は山の中にあったりする。そんな病院、そうはないだろ。あからさまに気違いの爺さんが登場し「ジャコを知っとるか。ジャコ・パストリアスじゃ。天才じゃったが死に急いだ」なんて泉美に迫ってくる。なんなんだ、突然。ジャコが登場する意味がどこにあるのだ? 気違いを放し飼いにしておく病院も病院だけどね。
そこを救ってくれたのが、弁護士の桐野(大塚寧々)なんだけど、偶然の出会いもいいとこ過ぎるよな。で、失われた記憶を取りもどしたくて、泉美は桐野に頼み込む。このときの桐野の反応が、凄かった。だって、訪問してきた泉美の腕をとり、事務所から外に出て泉美を罵倒するのだ。曰く、精神科に通ってる弁護士だと知られたくない! と。たかが顔見知りがやってきただけで、どういう反応だよ。
そうそう。完治しているはずの足を引きずるクセがある泉美だけれど、最初の方のシーンではずるずる引きずっていた。なのに、桐野の事務所に行くときは、ぜーんぜん普通になってる。おい。ちゃんと演技をつけたのか? テキトー過ぎるだろ。
でまあ、桐野はいやいながら泉美の依頼を引き受けるのだけれど、その背景にあるのが故郷熊本に捨ててきた妹との関係なのだが、これもよくわからん話。仕事が上手くいかず酒乱になった父親が暴力を振るい(なんて手垢の付いた設定!)、あげくヤカンの熱湯が妹の顔にかかりケロイド化。父は出奔し、自分も故郷を捨てた。うううむ。なんで? それに、大学は自力ででたの? 司法試験も自力か? そんなの、あり得るか? てもって、妹に負い目があって田舎に帰らず、会うこともない・・・。って、それって変だろ。
事故の様子はときどきインサートされるのだけれど、事故後、泉美が意識を取りもどすシーンが不可解。枕元に叔母(清水美沙)と父親がいるのだけれど、カットが変わると1人でヨロヨロと叫びながら(なぜなら足に重傷を負っている)霊安室に向かっていて、小窓から淳一の姿を確認。泣き崩れる泉美を、どういうわけかずっと霊安室の前にいた泉美の姉が抱きすくめるのだ。おい。怪我した娘がベッドから這い出すのを、父親も叔母も見ていたのか? だまって。
それと、現在のシーンで泉美が貧血を起こして入院し、明日、精密検査をすることになった夜のシーンがある。横に兄がいてリンゴをむいている。おい。精密検査の前は、軽い夕食後、なにも食べてはいけないのではないのか? 気になって仕方がなかったよ。
大塚が病院や警察に証拠資料の開示を求め、それで事故の様子が少しずつ分かっていくのだけれど、開示請求を認めるのは、誰なのだ? 裁判所か?
事故のときの記憶を解明しようとする泉美に、兄は反対の態度をとる。これも、きつい調子で。なので、なにか隠している事実があるのかな? と思ったら、そんなことは一切なかった。なのに兄のあの反応ぶりは何だったんだろう?
そして、ようやっと記憶が戻り、事実がわかる。つまり、うろ向きでぶつかった、ってことがね。しかし、警察官が言ってたけど、たいがいはハンドルを切るだろうなあ。それに、一瞬で背後をかばうなんて、できるのか? という疑問が先に立ってしまう。さらに、切断された淳一の指3本を泉美が身体を引きずって集めるのだ。おい。そんなことをしていたのなら、調書にもっといろんなことが書かれてるはずだろ。這って歩いた跡があったとか。指が3本集められていたとか。傷口をハンカチでしばってあったとか。そういうことは、もっと早く分かっていて当然のことだ。なのに、最後になって分かったかのような描き方をしているって、おかしい。
調べたら、「がんばっていきまっしょい」の監らしい。あの映画の監督にしては・・・。それから「解夏」もか。これは、いまいちだった。その「解夏」と比べても、どうしようもない内容だ。
北川景子って、どうも印象が地味。顔も特徴がなくて、こころに響かない。ううむ、だなあ。
花のあと6/30キネカ大森 3監督/中西健二脚本/長谷川康夫、飯田健三郎
藤沢周平の原作なんだと。で、渋く律儀な話かと思いきや、いろいろと中途半端。短い話を伸ばしているように思えたけれど、みるとやはり原作は短編らしい。その短編の行間を埋めることなく、隙間の空いたまま時間だけを間延びさせている。とくに前半は退屈。
海坂藩の武士・寺井(國村隼)の娘以登(北川景子)は剣の使い手。友人がどんどん嫁に行ってしまう中、行き遅れている。といっても、許嫁の片桐才助(甲本雅裕)がいて江戸で学問の修行中。もう5年も会っていない。そこに、江口孫四郎(宮尾俊太郎)という青年が、いちど手合わせを願いたい、とやってくる。勝負は江口の勝ち。しかし、女だからと手加減せず、しかも、小手の後で倒れかけた以登をやさしく抱き留める心づかいに、惚れてしまうのだ! おいおい、いいのか?
以登の思いとは裏腹に、江口は300石取りの家に婿養子に入る。下級武士からいきなり出世。しかし、嫁の加世(伊藤歩)が尻軽女で、藩の重役・藤井勘解由(市川亀治郎)と前々から深い仲。結婚後も、その関係をつづけていた・・・。そこに、藩に対して幕府から普請事業の命が下る。藩としては金がないので負担を軽くしてもらおうと、江口を江戸に使いにやる。そのとき、藤井は江口に間違った手順を教え、その結果、江口は自刃する。で、その経緯に疑問をもった以登は、ちょうと江戸から戻ってきた片桐に調査を依頼。真相を知ると単身、藤井を呼び出し、あっという間に片づけてしまう、という話。
まず、最初は何の話なのかさっぱり分からなかった。片桐はまったく登場せず、以登と江口の淡い恋物語? てな感じなのだ。しかも江口役の宮尾俊太郎がセリフ棒読み。それに、そんなにいい男でもない。さらに以登役の北川景子もまたセリフ棒読み。しかも、相手とのタイミングもまったく図っていない。それに深刻な顔ばかりして、眉間にタテ筋をたてている。北川景子というひとは、表情や目の動きなどで演技ができる人出はないのはもう分かった。それにしても、もうちょい別の顔もできないのか、というぐらい同じ顔しかできない人だ。それは分かっていることなのだから、まずキャストから外すのが1番だ。それができないなら、撮り方に工夫するとかすりゃあいいんだ。こんな木偶の坊でも、照明やアングルで、少しはカバーできるだろ。でも、できなかったんだよな、この映画。
で、いったいこの映画、どうなっていくのだ? と思っていた中盤、片桐が江戸から戻ってくる。國村隼以外に、やっと存在感のある役者が出てきた。で、見つつ思ったのは、本来この映画は、片桐と以登の話ではないのか、ということだ。おおらかで人がよく、知恵も働く片桐。でも、品がないし(結婚前なのに尻をさわったり)。そんな片桐を、以登は好んではいなかった。親の決めたことだから、という納得をさせていたはず。けれど、片桐の黒幕をあばく活躍に魅力を感じ始める、というところにこの話のポイントだ。なのに、そこが全然活かされていない。
江口はとりあえずハンサム。剣の腕も達者。そこに若い女が惚れるというのは、分からないでもない。イケメンのスポーツマンならウェルカムな女はゴマンといるからね。それに対して、文化系男子は人気がない。しかも、品のないオタクだったら敬遠されるだろう。で、そういう男の対比でもあるはず。なのに、それが描ききれていない。
狭い藩内で、以登が江口と会ったことがないというのも変な感じ。だって同じ道場なんだろ? で、江口は身分につられて300石取りの家に婿に入る。しかも、相手の身持ちが悪いのを覚悟で・・・。という男なのに、以登が恋々としているのがいただけない。
片桐は人がいい。けれど、江口の一件に関心を持つ以登にほとんど疑問をもたない、という設定も変。いちど手合わせしただけ、と言い訳されても、なっとくはフツーできんだろ。ここは、片桐自身の関心が高まっていった、という具合に話をもっていくのが筋だろうと思う。それと、片桐の調査能力の原動力が何なのか、ということも触れて欲しいところだ。たとえば江戸で何を学んだのか。藩中にはどんな勢力があって、どこに属しているのか。藤井と対立するグループがいたりするのか? といったことを、ちょっと掘り下げれば、話に厚みが出る。でも、それをしていない。まったく薄っぺらだ。さらに、藤井が加世とできているのは藩の噂になっていて、江口も知っていた、なんてことなら、反藤井勢力だってあったんじゃないの?
以登は1人で藤井を呼び出す。が、藤井は3人の手下を連れていて、以登はまず3人を片づける。さらに藤井と向かい合い、刀を飛ばされてしまう。あわや、というとき、短剣でひと突き。難を逃れる・・・のはいいが、そこにひょっこり片桐が現れ、「あとはまかせろ」と言うのだけれど、おいおい、それはないだろ。片桐は以登が4人相手に立ち回っているのを眺めていたのか? たまたま以登が勝ったからいいようなものの、以登がやられていたらどうするつもりだったのだ? 片桐は単なる腰抜け? そんな片桐を、以登が好きになる物か? いやそのまえに、片桐はどうやって決闘の場所を知ったのだ?
という具合に、スキだらけの話。それでも片桐の甲本が登場してからは、セリフにもリズムが出てきて、見られるようになった。それまでは、悲惨だったもんなあ・・・。なので、もっとさきに甲本を登場させておいて、江口をそんなにクローズアップさせない展開にした方がマシだったのではないか、と思ったりした。
加世役の伊藤歩と、以登の友人の津勢(佐藤めぐみ)の顔が似ているのはよくない。寺井の妻役の相築あきこ、という役者はほとんど知らない。下女役の谷川清美もよく知らない役者だ。それにしても、この谷川清美は登場シーンも多いのに、Webで見るほどんどの情報に記載されていない。変だよなあ。寺井が藩医(柄本明)と碁を打つシーンがあるのだが、どうも石の並べ方がテキトーな風に見えて仕方なかった。寺井の家は何100石取りだか知らないが、下男下女6〜7人いた。そんなに雇えるものかい? ちゃんと気を使っているのかな? 市中の描写で、店先に貼られている宣伝文句などが草書でなく楷書のものがいくつかあった。あれはないだろ。

 
 

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