2010年8月

ソルト8/2上野東急2監督/フィリップ・ノイス脚本/カート・ウィマー
原題も"Salt"。主人公の名前だ。他に、米ソ間の戦略兵器制限交渉の名称でもあるらしい。
CIAのイヴリン・ソルト(アンジェリーナ・ジョリー)に二重スパイの疑いがかかり、逃亡する。果たしてそれは真実か? で引っぱっていく。ソルトは逃亡しつつロシア首相暗殺など、次々とやらかしていく。なので「ひょっとして本当か?」と疑ったりしそうになるけれど、それでもアンジーが悪者にはならない、という確信がある。だから、意外な真実がどんな形で明らかになるか、と思いつつ見ることになる。その意味では、意外性というのは大きくない。
冒頭で、ソルトは北朝鮮軍に捕まっている。「スパだろう」と拷問されるが「違う」と言い張る。でも、人質交換で解放されると、CIAであることが観客に分かる。つまり、ここでソルトは、ミッションのためには嘘を突き通す人間、として描かれる。これが、本題の方にも影響を与える。つまり、ソルトは逃亡の理由を「夫を捜すため」と主張するのだけれど、観客にはにわかに信じられない仕組みだ。
さて、本題は妙な始まり方をする。ロシア情報をもつ男オルロフがCIAにやってきて、ソルトが面接する。オルロフは、ソ連で育成されたスパイが米国内に潜入していて、その1人が「お前だ」ソルトに言う。どうも、赤ん坊の頃に誘拐され、スパイ養成所で特訓を受けていたらしい。それで、命令があるとアクションを起こす、らしい。これを聞いたCIA幹部のウィンター(リーヴ・シュレイバー)はソルトを確保しようとする。が、まずオルロフが逃亡。同時にソルトも逃亡を開始する。ウィンターとCIAのピーボディ(キウェテル・イジョフォー)は、ソルトを追う・・・。
実はこの時点では、ソルトが本当に潜入スパイであることは観客に知らされていない。だから、観客は「どうなるんだ?」という興味で展開を見ることになる。しかし、後から思うに、納得できない部分もいくつかある。まず、オルロフがやってきた理由。出頭してきたのか捕まったのか、どっちか分からないけど、なぜあえてCIAに堂々とやってきたのか。外で、そっと会えばいいだけじゃん。わざわざ捕まりにきて、危険を冒して脱出する意味が分からない。会う場所はさておき、実際に接触する理由はなんだろう。すっかりCIAの人となっているソルトの、実はロシアのスパイであるという眠っているスイッチを入れる役割でもあったのかな。ああいう緊張感のある場所でないと、スイッチが入らなかった? それと、ソルトはオルロフと久しぶりに会うわけだけれど、すぐ分かったのかな? などと思ってしまった。それから、オルロフのことを調べていくと、昔はブレジネフにも近い人間で、写真にも写っていることが分かるのだけれど、そんなの、調べなくてもわかれ、と思ってしまった。
CIAから逃げるソルト、のアクションは面白かった。ま、トラックの屋根から屋根へ飛び移るってのは、そりゃ、あり得ねえだろう、と思ったけど。それと、CIAからまず最初に自宅に戻る、という流れはおかしいだろ、と思った。そんなの、電話で手配すれば先に来られただろうに。映画では都合良く一足先にソルトが家に戻り、爆薬と毒蜘蛛の毒液(これが、後の伏線になる)をもって逃げおおせる。そこで、2年前に結婚した夫が誘拐されたであろうコトを知る。それにしても、別の部屋の少女に預けた犬は、どうなったのかね。
時期はちょうど米国副大統領の葬儀の前日。オルロフは「ロシアのスパイが、ロシア大統領を狙っている」と話したんだけれど、意図は良く分からない。両国関係を悪くして、一触即発の状態をつくるため? で、逃げおおせたソルトはホテルに宿泊するのだが、なんと、クレジットカードを使うのだ。げ。なんで止められてないのだよ? それっておかしいだろ。
で、厳戒態勢をくぐりぬけ、ソルトは単身副大統領の葬儀場へ潜入。みごとロシア大統領を仕留めてしまう。と、このとき、ピーポディが接近するのを感じて銃口を向けるが、撃たない。・・・というのが、後ほどの伏線になったりする。のであるが、割りと簡単に逮捕されるのだよ、ソルトは。でも、パトカーで護送中に車内の警官をやっつけて逃亡するのだけどね。
で、ソルトが向かったのはオルロフとその仲間のいる船。・・・で、また疑問。だってオルロフの居所を知っていたのなら、ロシア大統領を仕留める前に夫捜しにこっちへ来たら良かったじゃないか。という不審を裏付けるように、ソルトが船内に入っていくと、拘束されていた夫が無造作に射殺されるのだ。一瞬ドキリとするソルト。でも、感情を押し殺して、かつての教師であるオルロフや、昔の同級生と旧交を温める・・・と思ったら、いきなり酒瓶でオルロフを殴り殺す。もちろん、同級生たちも皆殺し。ここにおいて、ソルトは実際にロシアでたたき上げられたスパイなのだなと納得し、同時にでも、ソルトは米国のために動いているのだな、と確信できる。
殴り殺す前に、ソルトはオルロフから次のターゲットを聞かされていた。米国大統領。米国の将校になっているかつてのロシアの先輩と、専用機で目的地へ。で、男に化けてホワイトハウスに入り込むと、突然、先輩がソルトを押しのけ、走り出す。ドカン。自爆して大統領を殺すつもりだったのか。でも、この場面はちゃちい。だって、あんなんで米国大統領が暗殺できると思っているのか? ロシアのスパイの先輩さん。それとも、殺害が目的ではなく、混乱させるのが目的だったのか? ひょっとして先輩は、もう一人の隠れスパイと連絡を取りあって自爆した?
そもそもソルトは、夫を守る=探すために逃亡したんだろ? その夫が惨殺され、殺した相手(オルロフと昔の同級生)は始末した。そこでとりあえず、ソルトのすべきことはなくなった。なのに先輩に同行したのは、なぜなんだろう? この先にある、大統領に成り代わって原爆ミサイルを打ち上げる、という目的は知らなかったはず。すでにここで、ソルトは米国への愛国心が目覚め、先輩の行為を阻止するため? いや、先輩は爆死ししているのに、さらに米国大統領を追ってエレベーターの穴を降下していく理由は何だったのだ? その先に何があるか、誰がいるか、分かってなかったはず。何かあったら困るから、追ったのか? ううむ。よく分からん。
で、ソルトは地下へ。そこで、CIA幹部のウィンターもロシアのスパイであることが分かる。ウィンターは米国大統領を殴り倒し、大統領権限でミサイルをイランに撃ち込もうとする。というところにソルトがやってきて、ウィンターはソルトを知っているが、ソルトはウィンターを知らなかったことが明らかになる。前半、ウィンターがソルトに優しかった理由が分かる。それと、遺骸として帰国したはずのロシア大統領が元気に戻った、ということがテレビで放映される。ここで、蜘蛛の毒の伏線が効いてくる。ずっと気になっていたんだけど、ここで使われるのね。それはそれでいいけれど、ウィンターはソルトの裏切りに気づく。
防弾ガラスの部屋に入ろうとするソルト(しっかし、防弾ガラスに弾を何発も撃つって・・・。跳ね返った弾はどうなったんだ? と気になって仕方なかった)。ミサイルを発射しようとするウィンター。間一髪で発射を阻止するソルト。そこに、ピーポディらがやってくる。が、ピーポディはソルトを犯罪者と思っている。というところで、ソルトは離れ業でウィンターを抹殺する。逮捕されるソルト。ピーポディはソルトをヘリで護送する。「潔白を主ようにも、ウィンターはもう死んでしまった」といい「あのとき、あなたを撃たなかったのは、仲間だから」といい、それを信じたピーポディはヘリから川への落下を黙認するような形でソルトを逃がしてやる。で、おしまい。
でもさ、米国大統領は死んでなかったんじゃないのか? だとしたら、大統領を殴ったのはウィンターなんだから、証人になれるんではないの? それと、米国大統領を暗殺するなら、副大統領の葬儀のときでも十分にできたはず。ま、ウィンターの狙いは米国からイスラム圏へのミサイル投下で世界を混乱させることにあるのだから、生かしておいた理由はあるけどね。
というわけで典型的なノンストップアクション。飽きさせないのだけれど、あちこちに突っ込み所があったりして、スカッと納まらない。そもそも、ソルトはいつロシアのスパイをやめたのだろう。北朝鮮への密入国のために蜘蛛研究家に接近し、愛してしまったところ辺りからなのか? でも、それは個人的なものであって、ロシアのスパイをやめて米国に忠誠を尽くす、という話ではないよなあ。ううむ。すっきりしない。
デイ&ナイト8/2上野東急監督/テディ・ニュートン脚本---
原題も"Day & Night"。「トイ・ストーリー3」の前に上映された6分の短編。2人の人物(?)が登場。どちらも、体に風景が写される。片方は、昼が。もう一方には夜の風景が写される。昼の風景を羨む夜だったが、日没と夜明けが過ぎると、写される風景は逆転。なーんだ、同じような風景が時間をずらして写るだけじゃん。ということで、めでたしめでたし。という話。古典的な平面の絵が、なかなか味がある。
トイ・ストーリー38/2上野東急監督/リー・アンクリッチ脚本/マイケル・アーント、ジョン・ラセター、アンドリュー・スタントン、リー・アンクリッチ
原題は"Toy Story 3"とそのまんま。日本語吹き替え2D版を見た。子供が17歳になって大学に行くことになった。部屋に残されたガラクタ、おもちゃをどうするか選択を迫られた青年がくだした判断は・・・。という話。遊ばれなくなったおもちゃをモチーフに、子供のときには誰でももっていた感情が、大人になると消え失せてしまうことの切なさを表現しようとしたもの。ある程度は成功していると思う。冒頭部分や、ラスト近くは、多少ぐっとくるようなところもあった。昔遊んで、いつの間にかどこかに行ってしまったモノたちをふと思い出し、切なくなってくる。
しかし、「カールじいさんの空飛ぶ家」もそうなんだけど、本題に入ってドラマが展開し出すと、情緒的な部分が極端に薄らいできてしまう。かつて所有していたおもちゃに対する懐かしさはさておいて、映画的ドラマが無理やり介入してくるのだ。
そのドラマは、保育園における古手のおもちゃたちが、新入りに対して意地悪をする、という形で進行していく。意地悪は、新入りたちをより幼年組のおもちゃとして割り振るということだ。この根底には、幼児はおもちゃを大切にせず粗末に扱う、という内容で話が進んでいく。でも、それって偏見=決めつけが激しくないか? 幼児だからおもちゃを叩きつけるとか壊すとか、そんなことはないと思うぞ。
さらに、古参おもちゃの指揮をとるのはピンクのクマと、その手下格の赤ちゃん人形なのだけれど、そうなったには哀しい過去があったのです、というエピソードが紹介される(実はこの辺りで、5分ぐらい半睡してしまった)。なんか、粗末にされ、捨てられたおもちゃは性格が歪み、どこかでストレスを発散するのが当然、みたいな描き方だ。こんな風に、おもちゃを擬人化、というか、人間社会に重ね合わせて動かす必要があるのだろうか? 性悪に描かれるピンクのクマは、なんだか可哀想。無理やり悪役をやらされている。でもって、最後はトラック運ちゃんの飾りにさせられる。まるで見せしめではないか。
結末をみれば勧善懲悪。悪いことをすると、こんな悲惨な現実が待ってますよ、という終わり方をするのだけれど、いいおもちゃ、悪いおもちゃという区別をつけること自体が、どうも気に入らない。まあ、金を取る映画だからちゃんとしたドラマがなくちゃいけない、と思い込んでいるのだろうけれど。「カールじいさんの空飛ぶ家」もそうだったけれど、ぜんぜんワクワクしない話になってしまっていた。
本題のドラマの中では、最後の方の、ゴミ回収→分類→焼却・・・のところが、少し感情移入して気になったぐらいかも。
で思うに、見捨てられたおもちゃのあるべき余生はなんだろう? 屋根裏がいいか? 保育園がいいか? 特定の個人がいいか? 映画では保育園の環境はいいとはいえず、むしろ良くないとなっている。本当か? ラストでおもちゃたちは知り合いの幼い娘にもらわれるのだけれど、しばらくは大切にするだろう、あの子も。でも中学生ぐらいになればもう、おもちゃ遊びはしなくなる。またまた捨てられるか屋根裏か、誰かにもらわれるかの分岐点がやってくる。その繰り返しだ。
その点、保育園は、おもちゃは汚くなって壊れる間際まで長生きできる場所なのではないのかな。修理だってしてもらえそうだし。なので、この映画のようなラストは、どうなんだろう、と思ってしまう。ドラマとしては感情移入のしどころなのかも知れないけれど、どーも不安を感じてしまうのだよね。
そもそも子供が入れ込んで遊んだおもちゃは汚いものだ。手垢によだれがこびりついている。そのうえ年月で古び、色も褪せている。遊んだ本人には懐かしさもあるだろうけれど、他人がみたらただのゴミだ。とまあ、そういうことを思うと、人が使ったおもちゃをもらって、いまどきの子供はうれしいのかな? 昔ならいざ知らず。どうだろう?
それに、映画のラストでは女の子に男の子のおもちゃをプレゼントする設定なんだけれど、それはないよな。なんでバービーをもっていかない! と思ってしまった。
疑問をいくつか。3匹の宇宙人が、他の仲間を焼却炉から救い出すんだけど、3匹はどうやって焼却炉から外に出たんだ? バービーとケンは、ゴミ回収されてなかったんだっけ? いつのまに保育園に戻ってんだ? よく分からん。
保育園の様子が日本とあまり変わらないのが面白かった。うちにもあったのは、電話機のおもちゃ。娘が、アレが近づくとすぐに泣いた。よほど怖かったんだろう。トトロがでてきたのは、ジブリとディズニーが提携しているから、だろう。バービーは、どうしたのかな。ビッグ・ベビーは「チャイルド・プレイ」を連想した。ま、意図しているかどうか分からないけどね。
ゾンビランド8/3テアトルダイヤ・スクリーン2監督/ルーベン・フライシャー脚本/レット・リース、ポール・ワーニック
原題はそのまま"Zombieland"。全米がゾンビに征服されようとしている! そんな中、逃亡中の青年がカウボーイ野郎と出会う。互いに実名を名乗らず、行き先で呼び合う。青年は実家のあるコロンバス。カウボーイは、タラハシー。2人は、詐欺で稼ぎながらLAのパシフィックランドを目指す姉妹と出会い、一緒に旅をする。・・・という話。冒頭、コロンバスが最初にゾンビ化した女性(寮の406号室)に出会ったところから、スプラッターがつづく。そのなかで、ゾンビへの対処法をいろいろ紹介していくのが面白い。過激だったスプラッターは、旅に入ってからはほとんどなし。4人のキャラクターの造形がよくできていて、互いの駆け引きや心の変容なども巧みに描けている。
姉妹にイニシアチブを取られたり、クルマを乗っ取られたり。女性陣が強い。LAではビル・マーレイの家に入るのだけれど、本物のビルが登場。ゾンビに狙われないようゾンビメイクしているのだけれど、それがあだでコロンバスに撃ち殺されたりする。バカバカしいコメディ。でも、皮肉もたっぷり効いている(模様)。最後はパシフィックランドでの大立ち回りで、ゾンビをやっつける。姉妹の姉の方(ちょっとエロっぽい)とキスできて、非モテ解消。これからも、家族のように旅をつづけるぞ! という明るく脳天気な終わり方が楽しい。仲間を信じよう、というメッセージなのかもね。これじゃ、彼の地じゃやんやの大喝采だろう。
しかし、ネイティブでないと分からないモノ、言葉などがてんこもり。ついていけない部分がたくさんある。たとえば、タラハシーが自分のクルマに「3」と名付ける理由。最初の方で登場した、ピンクのトラックに積まれていた菓子。カウボーイのタラハシーが是が非でも食べたいと願うトゥインキーという菓子は? LAの俳優の屋敷探しで「トム・クルーズはBリストの俳優だから」というのは? で、Aリストのビル・マーレーの屋敷に入ったんだけど、どういう意味? ビル・マーレーがいまわの際に「心残りは?」と聞かれ「ガーフィールド」というのは、あの映画が良くなかったってこと? エンドロールの後にビル・マーレーが出てきてするのは、サルトルの声色? ううむ。他にも色々あったし、分からなかったものはもっともっとあるはず。あー。ネイティブならドカンドカン笑えるんだろうなあ、と思うと悔しくて悔しくて・・・。
それと、いろいろ映画の題名も登場してきた。映画の内容を下敷きにしている部分も、多そう。ピエロが怖い、ってのはスティーブン・キングの小説というか映画にあったなあ。他にもあるだろうけど。
★Aリストは出演料の高い俳優のことをいうらしい(Webで調べた)。
おのぼり物語8/5ヒューマントラストシネマ有楽町・シアター2監督/毛利安孝脚本/毛利安孝、村田亮
29歳のギャグ漫画家が、大阪から上京。が、1本だけあった連載も雑誌が休刊。後に引けないまま売り込みしたりの数ヵ月間を描いたもの。新幹線で3時間の大阪から「おのぼり」か? という疑問は大いにあるが、大目にみよう。大きな事件も起こらず、淡々とあるがままに描く様子は、なかなかいい。唯一、分かりにくいのが時制・時間の経過なのだよなあ。具体的にいうと、最初の方の、片桐君が父親とトラックに乗って送ってもらうところ。あれは、いつのことなんだ? 最初に出てくるところなら、回想だ。しかし、上京してアパートを決め、いったん大阪に戻ったのなら、順序はあっている。でも、次のカットでは、やっと決まったアパートでそのまま寝込んでしまったような片桐君が映る。ってことは、上京した日にアパートを決め、そのままそこで寝てしまったの? でも、翌日に、大阪から荷物がとどくものか? ううむ。それから、夏のシーンにススキの穂が映るシーン。時間経過のために挿入したんだろうが、そのあとのカットで扇風機が回っていたりする。さらに、編集者が原稿を「会議にかける」と言った後、片桐君はバイトに行ったり何だのかんだの、凄く時間を費やしている。原稿のことが気にならんのか? とかね。概ねこの映画、時間の経過に関して、ほとんど注意が払われていないのが、いささか気になった。
29歳。俺は何をしていたか、と振り返る。会社で仕事をし、そこそこの成果も挙げていた。・・・そう、30前後は、人生のうちでもっとも脂ののりきった、威勢のいいときだったと思う。当時の俺には他にしたいこともとくになく、別段、夢もなかった。だから、会社をやめて夢に打ち込む、などという無謀なことをすることもなかった。これが大学を卒業した22、3の頃なら、違ってくる。会社なんかに勤めたくなかったし、まして、気の進まないところに行くのは憂鬱になるほど嫌だった。会社勤めせずに生きていけるなら、その方法を選択したはずだ。けれど、そんなことはできなかった。まあ、そもそも自由業で食っていけるほどの才能もなく、かといって夢を追うだけの無謀さもなかった、ということなんだけど。ま、小さいやつだったんだな。
それとを思うと、主人公片桐聰が30近くまで働きながら漫画を描きつづけ、なんとか認められてマイナー雑誌ながらも連載をもっていた、というのは、これはこれですでに凄いことだと思う。それを足がかりにさらに上を目指すため上京したというのも、あながち間違いではなかったと思う。
世の中には、努力すればいつか報われる人がいる。努力しても報われない人もいる。才能があっても芽が出ない人もいれば、才能がないのに成功してしまう人もいる。まったく世の中は不平等だ。でも、おおむね才能がない人は、チャンスが来てもそれを活かすことができなかったりする。たとえば、片桐君の女友達の野島さん(通称・先輩)がそうだ。野島さんはカメラのアシスタントをしている。けれど要領が悪く、あまり可愛がられていないようだ。才能がなくてもフツーに撮れればカメラマンなんか務まるはずで、それが上手くいかないというのは、不器用なのかも知れない。それでも、そういう自分の限界を知るのは、怖いし辛い。自分を信じていかなければ、漫画家だのカメラマンなんか、目指せないよね。片桐君が編集者(八嶋智人)に「つまらないものなんか描いていない。面白いと思って描いてきた」というのも、そういう自信の表れなんだろう。そう。自分で「これはつまらない」と思うものを編集者に見せたりしたら、その人はそれで終わりだ。世の中、そんなに甘いもんじゃないからね。まあ、そうやってあきらめず、なんとかしがみつき、コツコツと作品を描きつづけることで未来への足がかりをつかんでいく片桐君。その、周辺には奇妙奇天烈な人間がいたりする。
最初に住んだアパートは、東伏見。そんな田舎じゃないと思うが、片桐君は東京の外れ、だと思っている。住人も少し変わった人が多い。不法滞在ロシア人と日本人女性のカップル。オカマ。陰気な息子のいる母子家庭。フツーのサラリーマン。共産主義者らしいロシア人の露出度が多いのだけれど、この住人の話は本筋にはあまり関係ない。前半の半分以上がこの住人の話なのだけれど、まあ、片桐君の住環境ということで、にぎやかしかな。できれば、住人の人生をもうちょっと描き込んでもらって、片桐君の人生とのアナロジーを感じるようにしてもらったりしたらよかったかな、とも思うのだけれどね。
前半では、すでに上京して写真のアシスタントをしている野島さんとの交流もある。先輩といっても実は同級生みたいで、でも、どういう関係だったのかは描かれていない。せいぜい専門学校を出て上京した、ということぐらい。もうちょっとこう、写真コンテストの常連で嘱望されていた、とか。設定に深みがあったらいいのにね。それと、ロマンスの部分に物足りなさが残った。再会し、飲んで、都庁前。「つきあおうか」と言われ片桐君は呆気にとられるんだけど、野島さんの本心がいまいちわかりにくい。おそらくあれは本心で、仕事上の行き詰まりを感じていたからの言葉ではないかと思うのだけれど。彼女は「嘘。これぐらい、東京は生き馬の目をぬくところ」と茶化して誤魔化す。しかし、東京が生き馬の目をぬく、という表現は、ちと古臭いよなあ。むしろ、若い世代からみたら、手玉に取れる都会ではないかと思うんだが。
後半になって、片桐君が弱気になったとき、野島さんは泣きながら片桐君を叱りつける。「そんなんでどうする。帰るなんていうな」と。まあ、あの言葉のすべては自分に向けた言葉なのであるが、そこの長まわしはちょっと迫力があった。ただし、カメラマンの足の運びが分かるようなカメラの動きなのが気になってしまった。もうちょいスムーズにカメラを動かしても良かったんではないのかな。
そして、いよいよ野島さんは「私、大阪に帰る」と片桐君に言う。敗北宣言だ。そうして飲んで、自転車に二人乗り。ここで、野島さんは片桐君の背中にもたれかかる! だろうと思っていたら、ずっと体を離したままだったのには残念無念。「もう一軒行こう!」のノリのところだったからしょうがないのかも知れないが。それでもぐでんぐでんの片桐君をつれて片桐君のアパートに入り、眠っている片桐君の顔を撮り、キスをして別れていく。このキスもすりガラス越しで、ロマンチックじゃないのだよなあ。・・・こんなこっちゃ、野島さんは片桐君に思いを寄せいていた、というのは間違いか? と思ってしまうが。ま、2人とも29歳ということを思うと、いささか子供っぽすぎるよなあ、と思ったりするのであるが。22,3歳の物語ならまだしも、ね。
東京での生活は、持ち込み原稿の連続でもあったりする。淡々と作品をみて、だまって返す編集者。あれこれ話を聞いてくれる編集者(八嶋)もいる。「編集会議にかける。大丈夫」といいつつ、何の返事もくれない編集者もいる。ま、そんなものなんだろう。八嶋の「君は将来、忙しくなると思うんだよな」というセリフが3度繰り返される。いつ、どこで、誰に何を話したか、忘れている編集者が多いんだろうね。
あ、それから。バイトで有名漫画家のアシスタントになるところがあったけれど、あのモデルは楳図かずお? 違うか?
あとは、家族の話か。父親がガンになって、東京と大阪を行ったり来たりすることになるのだが、話題としては作為を感じてしまって、いまひとつ共感できなかった。
そうはいいつつ、全体で見るとそこそこいい感じの映画。なにげない日常の風景が淡々と積み重ねられていく感じがよくでている。主役となって世間を振りまわすのではなく、どちらかというと振りまわされるタイプの、ちょっと弱々しくて情けない感じもよくでている。でも実は芯が強く、多少のことは気にかけないタイプ、なんだろうけど。
ぼくのエリ 200歳の少女銀座テアトルシネマ8/9監督/トーマス・アルフレッドソン脚本/ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト
スウェーデン映画。原題は"Lat den ratte komma in"。英文タイトルは"Let the Right One In"。「正しき者を招き入れよう(受け入れよう)」とかいう意味なのかな?
ある人が「ホラーだ」といっていて、そういうつもりで見はじめたら、切なく哀しいヴァンパイアものだった。学園ものでロマンスがあり、ロリータが少し入ってラストは乱歩の「押絵と旅する男」となる。ま、乱歩のことなんか知らないだろうけど、あっちは。
ポスターの、金髪のが主人公の少女かと思っていたら、それはオスカーという少年。エリは、最近引っ越してきた隣家の少女だった。黒髪にジプシー風の顔立ち。あとから思うに、吸血鬼の故郷・東欧系の人間にしたのかな? あまり可愛くなく、美少女とも呼べないが、白銀の世界に吸血鬼というエキセントリックな設定で、妖しい雰囲気はでている。で、雪が降る季節だというのに薄着で半袖だったりする。こりゃただの人間ではないな、とわかる。って、同居している50年配のおっさんが、人間を逆さ釣りして首を切り、血を集めているのだから、こりゃヴァンパイア以外の何物でもない。またかよ、という気分になったのは確か。ほら。「トワイライト」シリーズが米国で大ヒット、だしね。でも、この映画は2008年らしいから、こっちの方が先なのかも。
オスカーは12歳。学校では「豚」とバカにされ、いじめられている。少し要領が悪そうではあるけれど、金髪で顔立ちも整っていて、なぜいじめられるのかは分からない。で、オスカーはある晩エリと知り合いになる。
血液集めに失敗したおっさんを、エリは罵ったりしている。この2人はどういう関係なのだ? おっさんは人間なのに、なんで? という問いへの解答は、ラストに分かるようになっている。
でまあ、おっさんが血を集められないのでエリーは夜な夜な人を襲うようになる。その死体を,おっさんが始末したりする。まるで、お姫様としもべのように。が、おっさんはまたしても殺人=採血に失敗。自分の顔を塩酸で焼いて身元不詳にし、エリに追及の手が及ばないように配慮。そのうえ、自分をエリに食わせるという貢献度だったりする。こうして1人となったエリ。それまでオスカーにはあまり近づかなかったんだけど、そろりそろりと接近しだす。さらには、「やられたらやり返せ」と叱咤激励する。これを真に受けて、ある日オスカーはいじめっ子のボスを棒で殴り倒してしまう! ちとやり過ぎじゃん、素手で殴れよ、と思った。
どうもこの辺りからオスカーはエリに本格的に恋をしはじめる。12歳の少年少女の恋物語、なんだけど。実はエリはヴァンパイヤだから。それにタイトルにもあるように(でも、言葉で200歳とはいってなかったけどね)長い間生きてきたはずだから、本当は歳を取っている。血が欠乏すると臭い、顔も皺がでたりするのが、その表れかも。
このあたりはヴァンパイアの宿命がにじみ出ていて、なかなか哀しいものがある。エリは、おっさんがいた間は、オスカーにさほど興味はなかった。けれど、メモに書いたように、別の土地へ行って生きながらえるか、それとも止まって死ぬか、を選ばなくちゃなくなったわけだ。だからエリはオスカーを襲わず、愛しようとしたんだろうと思う。つまりまあ、愛してもらうために愛する、とでもいおうか。生きていくための方便として、ね。
少しロリータがある、というのは、オスカーがシャワーを浴びようとするエリを覗くシーンのこと。ここで、エリの下半身がアップで写される。もっとも、局部は"久しぶりに見る"削り取られた映像で、おそらく毛の生えていない割れ目が見えていたんだろうと思う(★Webで見ると、あれは去勢の瘢痕らしい。つまり、エリは男の子だったということだ! では、一体誰が? おっさんが? よく分からん)。ロリは、オスカーではなく、監督および脚本家、そして、エリのヌードを期待していた観客だ! しかし、スウェーデンではあんなもの大写しにして、問題ないのか? 日本なら、幼児ポルノで一発だけどなあ。
しかし、これまでは、オスカーがエリのことをヴァンパイアだと知らなかったときの話。しかし、とうとうオスカーは知ってしまう。エリがヴァンパイアだと。それでいったんはエリを拒否するオスカーだが、エリの訪問を拒絶しようとしたら、エリが力む! 力む! そして、体から血を吹き出したのだ。これ見てびっくりのオスカー君。とたんにエリを受け入れるようになってしまう。いささか安直だけれど、まあ、映画だからな。それも吸血きものの。というわけで、世間から疎外されるヴァンパイアのエリと、友だちから疎外される少年オスカーは互いに肩を寄せ合い、認め合っていく。
で、怪しいと睨んでやってきた大人をエリはかみ殺してしまう。果ては、相変わらずオスカーにいじめを繰り返す連中も退治してしまう。これで、2人はすべてを知り合い、共有する運命共同体となる。ラストシーンは、列車の中。大きな箱に詰めたエリを手荷物として、オスカーは旅に出る、というわけだ。まるで、「押絵と旅する男」のように。
でまあ、話の内容はジュブナイルなんだけど、撮り方が大人っぽいのだ。「トワイライト」みたいにあっけらかんと撮れば、観客は少年少女になるのだろうけれど、そうは撮らない。世間からつまはじきにされ、居所のない人種として描く。そして、群れる連中を敵視する姿勢がある。オスカーにとっては、いじめ3人組+ボスの兄、エリにとっては、近所の飲み仲間中年男女。脚本家であり原作者であるヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの意識が反映されているのかも。でも、オスカーは人間から離れて暮らせば生きていけるけれど、エリはそうはいかない。その宿命を背負う同伴者を、5〜60年おきに探さなくてはならないのだから、たいへんですなあ。
ヴァンパイア物なので、話のいい加減さは目立つ。たとえばエリが?んだオバサンは、吸血鬼になりかけていた。でも、そうなるのが嫌で、自ら陽の光を浴びて自焼する(あまりに派手なので笑ってしまった。オバサンが猫に襲われるシーンも、笑った)。で、かみ殺された人は吸血鬼にならず、?まれただけの人は吸血鬼になる、という頃合いはどこにあるのだろう? などと、ちょっと考えてしまった。いやね。エリが仲間を増やしたいなら、あちこちでちょい噛みしてあるけばいいことになるからね。
おっさんとエリが住んでいる部屋。ここに、なんか妙な広告ポスターみたいのがたくさん貼られていて。どういう趣味をしてるんだ? と思った。あれは、おっさんの好みだったのかな? それにしても、オスカーはこれからエリを支えていくのだろうけれど、おっさんみたいに、人殺しをつづけていくことになるわけで。それができるようになるのだろうか? いくら、エリに借りがあるからといつてもね。それに、オスカーは12歳から働きつづけるのかい? そして、いつかは男女関係になるのか? するってーと、おっさんとエリも・・・。などと、考え出すと、ロリータだな(★原作では、おっさんは40代でエリに会っているのだという。オスカーのように、子供のときから面倒をみているわけではない。しかも、幼児性愛のおやじで、そういう関係だったということらしい。・・・すると、やらせてやる代わりに、血をもってこさせていた・・・?)。
いろんな猟奇殺人が発生するのだけれど、新聞ネタになったのは、飲み仲間の1人が氷漬けで発見された一件だけ。最初の逆さ吊り、襲われたオバサンの事件などは、新聞は書かないの? と、つまらないツッコミを。えーと、それから。エリは、少しずつでも歳を取っていくのだろうか?
福祉の国、といっても、しつこく陰湿ないじめってのは、あるものなんだな。
借りぐらしのアリエッティ8/10キネカ大森1監督/米林宏昌脚本/宮崎駿、丹羽圭子
最初の屋敷にたどり着く部分は「千と千尋の神隠し」となんとなく似ているね。ま、ジブリだからな。
人間の家に寄生して、いろんなモノを借りて暮らしている小人族がいる、という設定のお話。何世代にもわたって暮らしているらしいのだが、その背景や歴史にはにはまったく触れられていない。しかし、日本の多摩(クルマのナンバーに書いてあるのだけれど、摩の字が略字というのはどうなんだ?)に暮らしていながら名前がアリエッティだのスピラーってなんだよ、と思う。だってメモのやりとりができるんだから、日本語は読めるはず。だったら、有理子でもいいんじゃねえの? などとツッコミを入れたりしながら見ていた。
アリエッティと父親が2人で「借り」に行くシーンは、重厚なデキだった(「かり」のアクセントが変だなあ、と思っていた。そう。「狩り」だと思っていたのだ。あとから、あれは「借り」なのだと気付いた。でも、結局返さないのだから、「借り」はおかしいのではないの?)。しかし、以降は表現にアラさが感じられて、しかも、セリフがかなり説明的。さらにアリエッティと少年・翔の交流がとってつけたみたいな感じで進んで行ってしまい、ちょっとついていけなかった。
ドラマ=対立軸で見ても、最大の敵がお手伝いのハルさんというのも、かなり残念。しかも、ハルさんの小人を生け捕ることの意図がさっぱり分からないので、戸惑ってしまう。彼女は小人を捕まえて、どうしたかったのだ? 昔からの伝説なので、ぜひとも奥さんに見て欲しかったから? それともサーカスに売り込もうというのか? その割りに、ねずみ駆除業者を呼んで見つけようとしたり、することがちぐはぐ。ほんとうに敵なのか、たんなるお人好しなのか。よく分からない。それにやはり、ドラマの薄い話は、退屈する。
リアリティを追求している、ようではある。たとえばポットからの水の出かた、小さなスプーンですくったスープが表面張力で盛り上がる・・・などなど。がしかし、西洋式の名前だったりするので、がっくり。後から登場する土人みたいなスピラーのもつのは洋弓で、服装もアフリカ人みたいだったりする不可思議。それって、リアリティないじゃん。そう思うと、話に入っていけなくなる。
アリエッティと翔の交流など、ほとんどご都合主義。だいたい、たまたまやってきた翔に目撃されるなんて、ドジすぎるだろ。しかも、翔は驚きもしない。アリエッティと父親が潜入しているのを目撃しても、驚くわけでなく、すべてお見通し、みたいに接する。それはフツーあり得ないだろ。しかも、2度目でアリエッティが恥じらいを見せたりする。なんで? と思うよね。始まっていない交流に胸をときめかせる。そんなの、あり?
翔の登場は、巨人のように描かれる。ずしんずしんと地響き。顔も巨大。小人の目からそう映ると表現したいのだろうが、そんな相手に親近感なんて抱けないと思うぞ。やはりここは、何かで助けられるとか(カラスぐらいじゃなくてね)、アリエッティが翔に関心を持つようになる確かなエピソードが欲しい。
それと、翔が心臓病だから小人に優しい(ともに弱者だから)というアナロジーはあるにしても、翔がよけいなことをしなければ、アリエッティの家族はまだあそこで安心して暮らして行けたであろうに。それをぶちこわしたという反省があまり内容で、ムリに引き伸ばしている感もある。敵としてハルさんではなく、もっと強力な地上げ屋とか、隣の凶暴な犬とか、観客がしっかりと敵対視できるものをもってきて、それと翔が戦う、というような形にした方が素直な気がするのだがなあ。
それにしても、ジブリらしくない絵もあった。たとえば翔の巨大な顔のアップ。これなんか、モロ線画アニメで平板で、絵としてつまらない。なんとかできなかったものかね。
そうそう。あの家には他にも2家族暮らしていたけど、人間に見つかったから越していった、といっていた。人間に見つかったのなら、アリエッティの家族だって危機感を抱いて転居してもおかしくはない。だって、ずっと小人がいると思われつつ暮らす、ということになるのだからね。話に矛盾があると思う。
あと、そうだね。キャラクターで不満があるとすると、母親の顔がおばあさんだってこと。あれじゃ、どうみたって50〜60代。大竹しのぶの声とも合っていなくて、可哀想。デブ猫が、そこそこいい味をだしていたかな。
それから。話題になっているアリエッティの髪留め=洗濯ばさみだけれど、あれ、最後に翔に渡すのだけれど、指先より小さいぜ。あんな小さな洗濯ばさみは、ないだろ。
魔法使いの弟子8/16上野東急監督/ジョン・タートルトーブ脚本/ダグ・ミロ、カルロ・バーナード、マット・ロペス
原題は"The Sorcerer's Apprentice"。邦題は直訳なのだね。吹き替え版を見た。
内容は、子供向けのファンタジー。の割りにニコラス・ケイジやモニカ・ベルッチがでてたりする。青少年を呼び込もうというのか? それにしちゃ話が稚拙かも。だって、30分も経たずに飽きてきて、40分ぐらい寝てしまったのだ。話に、魅力がなかったせいかもね。
良い魔法使いと悪い魔法使いの戦い、だ。最初に数100年前の経緯が説明されるのだけれど、ちょっと早すぎるのと単純化しすぎのせいで、すっと頭に入らず。マーリンってなんだっけ? モルガナって? ヴェロニカはモニカ・ベルッチなのは分かったけど・・・。てな混乱のまま物語に突入。
2000年、10歳のデイヴが善の魔法使いバルサザール(ニコラス・ケイジ)に出会う。デイヴは謝って悪の魔法使いマクシム(アルフレッド・モリナ)を甦らせてしまう。で、バルサザールはマクシムと一緒に閉じこもっちゃうんだっけ? 忘れてるよ、もう。それから10年。デイヴは小学校時代の女友達ベッキーと再会・・・というロマンスの味付けがあって。マクシムは蘇り、バルサザールもデイヴに再アプローチする。・・・で、いいんだっけ? なんか慌ただしい幕開きで、よく覚えておらん。
しっかし。破った相手を閉じ込めておく入れ物がマトリョーシカみたいなやつで。そこにバルサザールは幾人もの悪の魔法使いを閉じ込めてきたらしい。だけど、この世に甦るのはテキトーみたいで、次々に悪の魔術師が登場するんだけど、1体のマトリョーシカに、どうやって別のマトリョーシカが入ってるんだ? 入れ子になってるのか、やっぱり? などと、つまらんことを考えてしまう。
弟子になると宣言したデイヴだけれど、とくに修練を積むわけではない。というか、その辺りは寝てしまっていたので見ていないのだけれど。人間ドラマや成長物語というよりは、CG使ったバトルが多かったのかも。ああいうの、つまらないから飽きるのだよね。俺。
それと、ヴェロニカは身を挺してモルガナと一緒にマトリョーシカの中に入ってしまっていたらしいのだけれど。どうもヴェロニカは昔、マクシムの恋人だったのをバルサザールが奪った云々という説明もあったよなあ。でも、それが活かされていないのではないの? 遺恨というのも、ドラマの大きな要素になると思うんだけどねえ。
それと、そもそも、モルガナは何がしたいのか、が分からん。人間世界を支配する、って。それって、何が目的なのだ? この辺りは西洋人には既知でも、東洋人にはすんなり入らない。だって、善の魔法使いの目的も分からないしね。つまりまあ、人間と魔法使いの関係も、分かってないってのだよ。
パラボラアンテナを使って都市の上空に魔方陣を描くというスケールは、ふむふむ。だけど、それがどう魔法=世界を滅ぼす、と関係しているのかが分からない。とにかく、合理的な理屈の上に話が構築されておらず、どうも、勢いと見た目の(CG)でつくつてしまった感じがあって、どうも話に入れなかった。
モニカ・ベルッチは、色っぽい。本人の存在感は大きいんだけど、役の意味づけはよく分からないままだった。ヒロインのベッキー、そこそこ可愛いけど、印象に残りにくい。主人公のデイブが、20歳の設定なんだけど、おっさん面で、いまひとつ魅力が足りなかった。普通の青少年でも、こんな素敵なことがありますよ、という考えでのキャスティング? ううむ。
ジェニファーズ・ボディ8/17新宿武蔵野館2監督/カリン・クサマ脚本/ディアブロ・コディ
原題は"Jennifer's Body"と、まんま。監督は「ガールファイト」「イーオン・フラックス」を撮った日系女性。脚本は「JUNO/ジュノ」でアカデミー脚本賞の女性だと。そうか。それでこの映画、幼なじみの女の子の2人、なのか。
ホラーらしいことは知っていた。口が血まみれだったから、こらまたヴァンパイア物だろう、と思っていたら、ちょっと違った。
オカルトを信じてるロックグループが、ドサまわりの最中にジェニファーに出会う。で、ジェニファーをさらって、どっかの生け贄に差し出す。生け贄は処女じゃなきゃいけないのに、ジェニファーは嘘をついていた。それでジェニファーは人食い悪魔になってしまった! それで人間を襲いまくるのだけれど、幼なじみのニーディは襲わない。ニーディは不審に思いつつジェニファーとつき合っていくのだけれど・・・というような話。そもそもロックグループはどういう連中なんだ? とか、突っ込み所が満載。しかし、細かな部分は無視しても、話になってない部分が多すぎる。
話の根底にあるのは、いわゆる学園ドラマ。しかも、美人で積極的なジェニファーと、ファニーフェイスで大人しいニーディという、定番の凸凹コンビ。なんだけど、ニーディにも彼氏がいてちゃんとセックスもしている、のだから話が混乱する。相棒はたいてい引き立て役なのに、そうはなっていないのだ。
で、その学園部分がドラマになっているかというと、そんなこともない。たんに背景がそうだ、っていう程度。とくに意味はないのだよね。怖くないホラーだから、じゃあ、コメディかっていうと、そのトーンも薄い。というか、中途半端。なんか、どっちつかずで、まどろっこしい筋立てで、どこに転がっていくのか見当もつかない。というか、とくに想像する意味もない。なんとか寝なかったけれど、何度も寝そうになった。
最後にとうとうニーディもジェニファーに噛まれるのだけれど、それによってニーディにも魔力が移り、魔力が使えるようになったらしい。ジェニファー殺しの罪で収監されていた刑務所を堂々と脱獄すると、いまやスターになったロックバンドの面々に復讐するシーンが、エンドクレジットについてくる。
ウディ・アレンの 夢と犯罪8/18ギンレイホール監督/ウディ・アレン脚本/ウディ・アレン
原題は"Cassandra's Dream"。カッサンドラはギリシア神話のトロイの女王で、悲劇の予言者のことらしい。内容も教訓臭いもので、新しさはない。なるほど、そうですか、というようなもの。そのせいなのか、邦題に監督名が付くという奇妙な状態になっている。ま、役者名より監督名の方が客が呼べる、と配給が判断したのかも知れないが、二線級のイメージがついてしまって、残念。ま、2007年の作品なのに今年まで公開されなかったわけだから、ウディ・アレンの神通力はかなり衰えた、ということだな。
仲の良い兄弟(ユアン・マクレガーとコリン・ファレル)がいた。兄はお調子者で、投資に夢中。弟は自動車整備工だけれど、バクチ好き。兄は弟が預かった他人の車で女を引っかけたりしている。弟がポーカーで9万ポンドの借金をつくってしまった。兄はLAのホテルに投資する10万ポンドが欲しい。伯父は金持ちだが、2人の父親とは仲が悪い。困った。というところに、伯父が突然やってくることに。聞けばパートナーの一人が伯父を告発するところで、証言されると伯父は破産するという。そこで伯父は2人に男の殺害を依頼する。兄は了承。弟は反対だったが、兄に説得されて了解。まんまと殺害をしでかす。が、弟の精神状態がおかしくなり、自首するといいはじめる。伯父は心配になり、兄に弟殺しを命ずる。いったんはビールに薬を混入するが、いざとなったら殺せない。もみ合いのすえ、弟は兄を投げ飛ばし、殺してしまう。それを悲観して,弟が入水する、という顛末。カッサンドラの物語がこの話と同じなのか、よく分からない。
W・アレンらしくムダのない展開で淡々と進んでいく。ところが男を殺害する件がだらだらと長く引き伸ばされ、ちょっと飽きてくる。いかに殺すか、には大してドラマがない。W・アレンはそんなことより、どんな風にオチへもって行くか、の方に興味があるようだ。ひょっとして殺せなかった、というなら意外な展開になるんだろうけれど、殺害はちゃんと成功し、その後の生活も順調に進んでいく。だから、どう話の収拾をつけるか、に関心が集中するわけなのだけれど、これが最後の5分ぐらいにドタバタと済んでしまうので、ちょっと物足りない。もしかしたら、彼の地の観客で知恵が働く人は、タイトルから連想できるオチなのかな?
まあ、ひとつ足を踏み外すとどんどん深みにはまり込み、最後は何もかも失ってしまうよ、という教訓だ。しかし、いかにも作り物の展開なので、「あ、そ」的な印象しかない。ヨットの上で、兄が弟を殺害するか・・・のシーンでは一瞬「太陽がいっぱい」を連想したのだけれど、あんなドラマチックは展開されなかった。
兄の最初の恋人が、ちょっとしか出てこなかったのが残念。レストランの従業員らしいが、スタイルが良くて、ちょっと黒人が入ってる? というような人。でも、兄は舞台女優と知り合って、さっさと乗り移ってしまう。捨てられた彼女の憤りも、ちょっと表現されているとよかったな、と。
17歳の肖像8/18ギンレイホール監督/ロネ・シェルフィグ脚本/ニック・ホーンビィ
原題は"An Education"。監督は「幸せになるためのイタリア語講座」の人らしい。なるほど、それで人物描写がていねいで、話に厚みが出ているのか。なるほど。了解した。
1960年代のイギリス。厳格な家庭に育った成績優秀な女子高生が、遊び人の中年男と知り合い世間を知る。オックスフォードに入るための努力も放棄し、結婚まで考えるが実は・・・という話。この手のストーリーはよくあるけれど、つくりこみが丁寧なので見てしまう。それに、なんといってもキャリー・マリガンの表情が何ともいえず、可愛い。撮影時24歳のようだけれど、16歳で通ずるいたずらっぽい眼差し、不満なときの口の歪みなど、まあ、なんともチャーミング。背伸びして酒やタバコに手を出している様子も、あどけなく演じている。それでいて知的な面持ちも保っていたりするので、思わず引き込まれてしまう。
当時の一般家庭の考え方が垣間見えて、興味深い。父親は徹底的な倹約家。その中で娘を大学にやろうというのだから、ムダなことはしない。しかし、そのムダなことに興味をもつのが、思春期の女の子。まあ、部活でチェロはやらせるけど、それも入試のため。音楽会なんて意味がない、というのは徹底しすぎのように思うけどね。まあ、父親も厳格とはいえ、裕福な家庭で育ったわけではない。だから教養もないし、外食も大してしたことがない。ビートルズが登場する前のイギリス。ジェニーの憧れはフランスの音楽や映画。ところが、父親はどういうわけかフランス嫌い。これは、大戦以前の関係が反映しているのだろうか。とにかく、音楽や美術鑑賞は、遊び事にしか思えないのだろうな。気持ちは分からないでもない。そんな日常を息苦しく思っていたジェニーが、ある日、イカしたクルマに乗った中年男デイヴィットと出会う。そして、音楽会に誘われる。これはもう、天にも昇る心持ちに違いない。
難攻不落と思われた父親の許可も、デイヴィッドが口八丁手八丁で取り付けてしまう。後で分かるのだけれど、初対面の相手にも人当たり良く、信じ込ませてしまうのはデイヴィッドの得意技、だったのだよね。うまい伏線の張り方だ。教授と知り合いだといってオックスフォードに連れ出したり、17歳の誕生日には「伯母が同行する」といいくるめてパリに連れていったりする。もちろん、そこでジェニーは処女喪失! ああ! どんどん堕ちてゆくジェニーを見るのが辛いこと辛いこと。無知な田舎者から高価な地図を二束三文で手に入れたり、住宅価格を下落させるために黒人一家を住まわせたり、詐欺に近いような手口で世渡りしてきたデイヴィッド。彼の友人も文学や芸術に造詣が深いけれど、内容に感化を受けてではなく、銭儲けのためのノウハウとして知っているだけ。友人の彼女は、学問とは縁遠い無教養な女性だったりする。
そんな中で、デイヴィッドの何たるかを少しずつ知っていくのだけれど、それでも疑うことを知らず、デイヴィッドのとりこになっていくジェニー。若さ故の愚かさに気付かない様子は、見ていて痛々しい。まあ、こういうのはよく映画の題材になったりするけれど、学校の成績がいいからといっても、社会を知ることにはつながらないのだよね。
で、デイヴィッドの結婚申し込みにメロメロになり、学校も辞めてしまう。もちろん進学もよす。おいおい、それじゃ困るぞ、と声をかけたくなるほどの無知蒙昧。うむむむ。それにしても不思議なのが、両親。大学に行かなくても、デイヴィッドみたいな相手なら、永久就職で大歓迎、という反応を示すのだ。どういう価値観をしているのだろう。大学と結婚を同一視できるという感覚が、よく分からない。しかし、ジェニーも手玉にとられてしまったけれど、両親も簡単に騙されてしまっている。目先のことで、簡単に目がくらんでしまうのだね。困ったもんだ。
随所で大人の理性を示してくれるのが、学校。担任教師は優等生のジェニーに目をかけている。けれど、贔屓するわけではない。誉めるけれど、甘やかさない。そんな彼女に、ジェニーがパリ土産の香水を差し出すのだけれど、教師は「それは受け取れない」と拒否する。モノでつられたり、私的な感情で仲良くなったりはしない、という厳格な一線を敷いているのが、ある意味、清清しい。最後に分かるのだけれど、彼女は1人暮らし。会話に「彼女はケンブリッジ・・・云々」とあった彼女とは、教師自身のことではないかと思うのだけれど、当時は女性が大学を出てもそれほど活躍の場がなかったみたい。校長も、大人とつき合っていることに注意を促すが、周囲が見えなくなっているジェニーは反発するのみ。ま、よくあるパターンだ。ジェニーが校長に、大学をでてどうなる? と質問して、校長は「教師になれる」と応えるのだけれど、仕事としては面白くない、というニュアンスのことをいい、ジェニーに突っ込まれる。それで「公務員にもなれる」とつけ加えると「そんな答えぐらい、ちゃんと用意しておけ」とジェニーがたたみ込むように言う。二の句がつけない校長・・・。いまなら、ジャーナリストとかアーチストとか、何とでも応えられるのにね。まだ女性の活躍の場は狭かった時代なんだね。
そうやって学校に三行半をつきつけ、さあ、結婚するぞ! と両親共々喜んでいたところで、ジェニーはデイヴィッドに妻がいることに気付く。これで、デイヴィッドは逃げ出してしまう。彼の友だちも、「そのぐらい承知かと思った」というような反応しかしない。孤立無援のジェニー。校長に復学を依頼に行っても、無碍に断られる。それではと担任の家を訪ねる。そこには家庭はなかったけれど、知識と教養があふれていた。「先生。私、先生の助けが要るの」に、「その言葉を待ってたわ」と応える教師が、かっこいい。まさに、これこそがタイトル通りの「教育」だな。口添えをもらって復学したのだろう。見事、オックスフォードに入学するジェニー。
ナレーションでジェニーは、「いまの彼氏は、ちょっと頼りない」とか「パリは初めてよ、と素知らぬふりして返事した」というようなことをいう。おお。なんと。すでに大人の暗部を覗き込んでしまったジェニーは、うぶな男子生徒を手玉にとる、したたかで逞しい女性になってしまっていたのね。なにごとも経験なのかも知れないけれど、ジェニーにいいようにあしらわれる男の子がたくさんでそうだね。でもま、とりあえずハッピーエンドでよかったよ。
ヤギと男と男と壁と8/20シネセゾン渋谷監督/グラント・ヘスロヴ脚本/ピーター・ストローハン
原題は"The Men Who Stare at Goats"。「ヤギを睨みつける男たち」という意味かな。ブラックコメディだろう、と思って見はじめた。しかし、どーも勝手が違う。どう受け止めればいいのか、よく分からない。米軍の中に真面目に超能力を考えている部隊があった、ということからしてジョークなのであるが。笑い飛ばせるほどアホには描かれていなかったりする。かといって、奇妙奇天烈というほどでもない。監督あるいは脚本家は、どう見ているのだろう? また、主人公のジャーナリスト ボブ(ユアン・マクレガー)は、どう感じているのだろう? だって、最後のシーンでボブは、壁にぶち当たるのだ。最初はバカにしていたのに。ってことは、最後は信じるようになった、ってことか? 木乃伊取りが木乃伊? そういう話なのか? いや、ここのところが分からない。最後に近いところでの、食事にLSDだのの件も、何を意図しているのかよく分からない。
すべてがギャグの対象、と考えるべきなのかも知れない。しかし、どういうスタンスで理解したらいいのかが、よく分からず。なので、実は誘拐される部分で少し眠ってしまった。大勢に影響ないとは思うが、ね。
さてと。最初の方のドタバタと経緯を説明する件も、すっと頭に入らなかった。ボブが会社をやめて自分で取材に行く、というところ。ボブには妻がいて、同じ新聞社で働いている? けれど、妻は上司と浮気? なんか、よく分からん。で、超能力部隊のことを自力で記事にしようとして出かける。と、偶然にも元米軍超能力部隊のリン(ジョージ・クルーニー)と出会う。で、ボブがたまたまイタズラ書きしたピラミッドに目玉の絵を見て心を許し、ともに行動するようになる。のだけれど、リンは最初からあの場所(後半に出てくる、ジェフ・ブリッジスやケヴィン・スペイシーがいるところ)へ行くつもり、だったのか? その割りには誘拐されたり迷ったりしているのが、よく分からない。
映画のすべてが笑いの対象である、というようにも感じられない。というのは、作り手側がどこまでマジで、どこまで茶化しているのか分からないから。ひょっとして、すべてを茶化している、のか? しかし、字幕では十分にニュアンスまではつたわらない。だって、表面的にはシリアス映画のような撮り方をしていて、ギャグ映画として撮られていないから。登場する連中の異常ぶりはわかるんだけど、笑えないのだよ。なんか、どーもね。ううむ。なんといっていいのか、よく分からない。
この手の映画を理解して、笑うためには、英語力とその他の教養が十分に必要なのかも、と思ったりしてしまう。ううむ。で、ヤギはいったい、何なんだ? たんなる超能力の対象動物? ううむ。解説付きでないと、苦しいなあ。
9<ナイン> 〜9番目の奇妙な人形〜8/25ギンレイホール監督/シェーン・アッカー脚本/パメラ・ペトラー
原題は"9"とシンプル。邦題は、余計な意味が付加されすぎていて変かも。1〜8番も奇妙な人形には変わりないのだから。ディム・バートンがなんたらと書いているので、彼が監督なのかとばっかり思っていた。製作だけなのだね。で、評価が高そうだったので、どうなのかな? と思ったのだが、大いに期待外れ。ロボットと人間が戦って人間が滅びた、というのは「マトリックス」みたいだし、小さなロボットが残されたというのは「ウォーリー」みたい。ロボットをつくったのが第三帝国みたいなのは、よくあるパターン。で、ひ弱だけれど特徴のあるな小ロボットたちが巨大な敵を倒す、というのは、「七人の侍」にもつながるよくある話。と、あげつらっていくとオリジナリティはすっからかん。だからどうしたの話になってしまう。
そもそも第三帝国風の国家は、どこと戦うために目玉ロボットをつくったんだろう? 途中で目玉ロボットが反乱し、人間に刃向かうようになった。で、人間国家は連携して戦ったのか? 敵も味方も。で、そういう強大な目玉ロボットの心臓部が、その開発者の手もとにあったというのは、どういう理由なんだろう? その時点ですでに、目玉ロボットは電源OFFの状態なのだよな。で、地球は人間も目玉ロボットも動きを止め、沈静化していた、と。そこに、9が生まれるわけだ。
でも、開発者が自分の感情を9体の小ロボットに込めた・・・。のはなぜなんだ? しかも、9番目に感情を吹き込むと同時に開発者は死んでしまった。では、1〜8番目に感情を入れたときは、まだまだ元気だったのだよなあ。じゃあ、口頭でも、つくった理由を告げておけばいいじゃないか。
たまたま9体目で力が尽きたということか? で、1〜8番目にはメッセージを残さず、9番目にだけ「おまえたちをつくった理由」を告げるのはなぜなのだ?
人類が終焉を迎えたようだけれど、ちょっと前まで開発者が生きていたわけだよな。では彼は、何を食べてどうやって暮らしていたのだろう? 他の人間はどこに行ったのだ? 実はまだどこかに隠れているのか? それと、最初の方に出てきた猫の骨ロボットは、あれはなんなんだ? かつて目玉ロボットにつくられた残党? というような基本的に納得のいかない展開がつづくので、見てやろうという意識がだんだん薄れてきてしまった。
そんなわけで、クライマックスの、目玉ロボットとの戦いのアクションシーンではうとうとしてしまった。だって、アニメなんだからアクションを見ても興奮なんかしないよ。生身じゃないんだから。そんなことより、もっと内面に迫る話の展開にしてくれないと、共感なんかできるはずがない。
そうそう。小ロボットたちは、目玉ロボットに見つめられると魂を抜かれてしまうらしいのだが、他の小ロボットが目玉ロボットを打ち倒そうというのに、9番は「やめろ」という。なぜなら、やられた仲間の魂が宿っているから、という。では、最後に目玉をやっつけたら、魂は肉体に戻るのか? と思ったらそうはならなかった。あれは、仏教でいうと「成仏」にあたるように終わり方だった。でも、どーも納得がいかないよなあ。
眠っていた目玉ロボットに生命を再び吹き込んだのは、9番。たまたま思いつきでコネクタみたいのを射し込んでそうなったんだけど、あまりにも安易な奴だな。セリフにもあったけれど、「すべてはお前のせいだ」である。なのに、9番は十分に反省しているようには思えない。ここは、謝るよりは自己正当化を図る西欧流なのかね。というわけで、神秘性だとかダークファンタジーだとかいう言葉には影響されない私であった。ははは。
第9地区8/25ギンレイホール監督/ニール・ブロンカンプ脚本/ニール・ブロンカンプ、テリー・タッチェル
2度目だ。最初のときは、立ち退き作業の途中で眠くなり、気がついたらトイレで爪をはがしていたのだった。それから以後は転がるような展開で面白く見た記憶がある。なので、今回は見落とし部分の確認と、全体の流れを見に行った。のだが、前半は寝なかったけれど、後半になって眠くなり、なんとクライマックスであるモビールロボットとの戦いのところで、数分沈没してしまった。やっぱ、この映画とは相性が良くないのかも知れないな。
最初の方の構造が、2度目でやっとはっきりわかってきた。会社(MNU)の記録映像と、事件後の関係者へのインタビューへを交互に流していたのだな。最初に見たときは、冒頭から何を言おうとしているのか分からず、ちょい戸惑った。今回は分かりにくいといえば、分かりにくいかも。
設定だとか、それが意味するアナロジーは前回書いたからいい。むしろ、今回はアラばかりが目についてしまった。たとえばあの黒い液体は何なのだ? 飛行船の燃料にもなり、人間がふれるとエイリアン化するって、それって何よ? どうやって地上で少しずつ集めたんだ? どっから?
司令船が埋まってた・・・って、どうやって人知れず埋めたんだ? それに、あの、コンピュータの数々。どっからもってきたのだ?
MNUは主人公を確保し、生体解剖しようとする。なんだ? 臓器残らず価値がある、って胸を開こうとしたとき、主人公は逃げ出す。でも、その後、MNUの上層部は主人公を生け捕りしろ、命ずる。矛盾してるだろ。そもそも、どうやって主人公がエイリアン化したか、を聞き出すのが先決だろ。それでないとエイリアンの武器はいつになっても使えない。主人公を生かしておいて研究するのが筋だよな。
などと、そういうところが目についてしまう。つまりまあ、ストーリーは知っているので、その目まぐるしさは前回体験してしまった。初めてのときは、凄い、と思ったのだけれど、展開を知ってしまった状態で見ると、強引さが目立つと言うことかも。
それに、仲間を置いてきぼりにしたエイリアン親子にも、あまりいい感情はもてなかったし。この手のトリッキーな映画は、初回が勝負なのかもね。
パリ20区、僕たちのクラス8/27新宿武蔵野館3監督/ローラン・カンテ脚本/ローラン・カンテ、フランソワ・ベゴドー、ロバン・カンピヨ
原題は"Entre les murs"。英文タイトルは"The Class"。パリ市内の中学校と、あるクラスの物語。そのタッチから最初はドキュメンタリーかと思っていたが、カメラを意識しない生徒やどんでん切り返しによって、あ、こりゃフィクションか、と分かった。それぐらい生々しいタッチ。
昨今の生徒の荒れ様はどこでも同じなのだね。日本でもフランスでも、先生は大変。と、思っていたのだけれど、こりゃ日本の比ではないかも、という部分も多い。たとえば教師は生徒を一人の人間として人格を尊重しなくてはならないこと。こうはん、教師が教室で「あんな態度は娼婦みたいだ」といったことで事が紛糾する。生徒を娼婦扱いした、という非難だ。それは生徒から何とか委員会(?)の教師に訴えられ、学校全体の騒ぎになってしまう。また、教師たちが生徒の評価をする会議に、生徒代表として2人が臨席するのだ。そんななかで、あの子は態度が悪いとか何だとか話していれば、当然、翌日には誰先生は誰々のことをこう言っていた、というのが広まってしまう。こんな制度が日本にあったら、先生たちはどうする?
それに驚くのは、生徒たちの意思の強さ。なんてったって、はっきりものを言う。授業中でもどんどん発言する(授業に関係ない質問なんかも)し、教師の姿勢や態度もしっかりと観察している。たとえば最初の方で、教師が用語の使用例を板書したら、「なんで例文の人名がビルなんだ。いつも白人の名前ばっかりじゃないか」というクレームをつける。これに教師があたふたし、「大統領の名前だから」と、中途半端な答えで逃げる。このシーンが映画をもっとも象徴していると思うのだけれど、教師は生徒を偏見で見ていないつもりでも、どっかで先入観をもってみているのだ、と。
とはいっても、クラスの中に純然たるフランス人が多くなくて、モロッコやマリ、アルジェリアなんかのアフリカ人が多く、他にもジャマイカ人を含め、黒人系がかなりいる。さらに中国人(不法入国らしい)がいたり、そりゃもう出身国はバラバラ。こんなに凄いのか、フランスは。と、驚いてしまった。中国人の少年の両親は、あまり仏語がしゃべれない。本人も、下手だと思っている。でも、クラスでは優等生の部類だったりする。マリからの移民の少年は、母親はまったく仏語がダメ。父親は登場しないけれど、まあ、ほとんどダメなんだろう。兄と少年だけが仏語をしゃべる。労働移民なんだろうけど、そうした子がごろごろしているクラスで、フランス人も学ばなくてはならない。こんなんじゃ、金のある白人は私立に逃げるわな、絶対。
というような、質的に劣悪ではあるけれど、でも、暴力沙汰が起きないのが不思議。黒人少年たちを中心に、ひねたのが教室の後方に集まっているけて見えていて、それほどの貧困ではないけれど、裕福ではない暮らしの影響が感じられたりする。といっても、不良にはなっていない、のだけれどね。しかも、ワルの中心であるマリの少年は、先に挙げた娼婦呼ばわり事件のとき、先頭に立って教師に刃向かっていった。つまり、正義感はちゃんと持ち合わせている、のだ。このあたりのバランス感覚が、日本とは比べものにならない。
日本人なら、教師の態度に不満があっても刃向かったりはしないだろう。なぜって、自分の成績(内申書)に関係してきたりするからね。でも、パリの子たちは、間違っていると思ったらはっきりものを言う。そして、教師をたじろがせる。日本の、核心をはぐらかすような教育方針では、きっと太刀打ちできないだろうなあ。
あんな環境で、よく教師になろうと思うよなあ。というのが率直な感想。教師の会議を生徒(中学生だよ)に公開したりするような状況がいいのかどうか。きっと日本ではあり得ない設定だ。でも、フランスでは違う。生徒が自律している、からなのか? 生徒を尊重しているから、なんだろうと思う。そんなふうにして子供が育つ風土というのは、どこにあるのだろう。それに、もともとのフランス人だけでなく、移民の子供も含めての環境で、生徒は尊重されているのだから、フランス人特有というわけでもなしはず。なんか、根本的なところで、自由や権利への考え方が,日本とは違うのだろうな、と思わざるを得なかった。
さて、娼婦発言をきっかけに、マリの少年が懲罰会議にかけられ、けっきょく退学処分になる(もっとも、退学になっても別の中学校にまわされることになるだけのようだが)。もうなんども悪い態度を示してきたからしょうがないのだけれど、事前に、この退学によって少年は父親によってマリに帰される、ということは分かっていた。それでも、少年は退学になった。このあたりの、温情をまじえない教師の判断も、毅然としているなあ、と思ったり。いずれにしても、日本とフランスでは、学校制度がずいぶん違う。教師であることだけで尊敬されることなんかなくて、授業中の態度が生徒によって監視されているのだよ。かといって教師は生徒に迎合することなく、教育をしなくてはならない。なんか、とても緊張を強いられ、また、精神的に苦痛も感じる職業だよなあ、と。昔からそうなのか? トリュフォーの映画なんかでは、厳格な教師の姿が描かれていたように思うんだけど。ああなった背景というのは、どこにあるのだろう。などと思ったりしたのであった。
それにしても自然すぎる演技がすごい。あの生徒たちの演技は、みんなに演技賞を与えたいぐらいだね。
ちょんまげぷりん8/30シネ・リーブル池袋シアター1監督/中村義洋脚本/中村義洋
ともさかりえである。嫌いではない。「金田一少年の事件簿」の頃は、むしろ可愛かった。もちろん正統美少女ではないけどね。しかし、多くの女性タレントが20歳過ぎると少年のような凛々しさ、切れ味を失い、マヌケ面になっていく。早見優や西田ひかるなんか代表例だ。田中麗奈や牧瀬里穂はかなり状態を保ちつつ成人したが、やはり色気づいてくると化粧が濃くなっていって、鮮鋭さが一気に濁ってくる。少女の頃と同じような面立ちを保ってきた原田知世も、接近すればアラが目立つに決まっている。ともさかも、最近は厚化粧で、かつての中学生の頃の切れ味の鋭い存在感が薄れていた。どんどん馬面になり、顎の歪みはますますひどくなっていった。ロマンスのヒロインには関係なく、いっきにオバサン役になりかけていた。のだけれど、この映画ではちょっと素のともさかが垣間見えて、いささか可愛い。髪型のせいもあるかも知れない。本来もっている持ち味が素直に出た、というべきなのか。色気のない、それでいて魅力的なキャラが炸裂している。
タイムスリップものだ。江戸の侍が現代へ、というのはよくあるパターン。あとはどう引っぱっていくか、だ。
オープニングから木島安兵衛の登場までが短いのがいい。ともさかと息子が保育園へと向かう朝、スーパーの前に侍姿で突っ立っているのだ。とかく日本映画は凝りたがる。最初の時代は江戸で、安兵衛が農村をウロウロし、地蔵に祈る・・・とそこで地震が発生してズブズブと地面の下へ・・・。というようなパートがあって、次に現代のシーン、とかね。でも、もったいぶらず、さっさと現代の街中に侍を出してしまったのは正解。
ともさか&息子と、安兵衛。この会話の食い違いも面白くできていた。他にも、江戸の常識と現代の常識の違いによる衝突なども、けっこう面白く描けていた。とかく細かいことに拘泥したがるのだけれど、適度ないい加減さがいい。たとえば、息子とカードゲームするにしても、安兵衛は「エネルギー」が何だかさっぱり理解できないはずだけど、つまらんこだわりがないのがいい。
もっとも、注文はある。ともさかが、あっさり素直に「タイムスリップね」と納得しちゃうのはいかがなものか。もっと疑り深く、半信半疑でもよかったかな。または、それなりの衝撃もあってよかったかも。
それから、これは映画の根幹に係わることだけれど、安兵衛がいかにプリンに注目し、さらに、菓子づくりに邁進したか。あるいは、冷蔵庫や調理器具に精通し、蘊蓄を身につけていったか、という経緯を具体的に描いて欲しかった。現状は、その過程を畳みかけるように紹介していくだけで、安兵衛がいかにして西洋菓子の魅力に虜にされていったか、は描かれていない。これはもったいない。タイトルやラストにも関係してくるけれど、洋菓子の中でもなぜプリンか、ということにもこだわって欲しかった。たんに、ともさかの息子が喜んだ、ぐらいでは物足りない。
この映画の偉いところは、何気で現代女性の労働条件、労働環境への提言がなされていることだ。家事一切を担当し、保育園への引き取りもやってもらえるから、女性でもまっとうに働ける。それがないと、定時に帰らなくちゃならない。その制約は大きいからね。そんなところにも触れているのが、何気に鋭いと思う。さて、安兵衛が江戸に戻っていった後、その問題をどう解決したのか。いささか心配だが、ここは映画だからなあ。
最後に安兵衛が江戸に戻る、というのはこの手の映画のお約束だから、予定調和的終焉だ。どういうタイミングで、どのように? あの地蔵にいつか気付いて,スーパーの屋上に駈け上がっていくのかと思ったら,ハズレ。スーパー前で、ずぶずぶとワープしてしまった。あららら。で、安兵衛は未来へ、何をメッセージとして残したのか? も、この手の映画では見どころのひとつ。それは、プリンだったのだけれど、牛乳がないので豆乳でつくった、と。なるほど。じゃ、他のケーキも作れなかったのね。残念。あとは、ケータイのストラップに付いていたアクセサリー、か。もうちょっと、ともさか個人に対して残したメッセージがあると良かったのになあ、とおもいつつ、ま、いいか。
安兵衛を演じる錦戸亮は、いささか物足りないところがあった。静止するべき所で体や首がぐらぐらしていたり。カツラのしたから後れ毛がもじゃもじゃでていたり。ええい、映画のためなら坊主にでもなってしまえ、といいたい。それに、存在がいまひとつ軽いところが、ね。もっとも、あまりにリアルすぎる侍は、こういった映画には不向きなのかも知れないが。難しいところかも。
それにしても、ともさかの、これからの男性との交友関係は、いささか気になるところ。まさか、ともさかを慕うようになったあのプログラマーじゃないよな、きっと。

 
 

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