2010年10月

十三人の刺客10/1MOVIX亀有シアター5監督/三池崇志脚本/天願大介
工藤栄一作品(1963)のリメイク。だいぶ前に見たので詳細は忘れているが、宿での立ち回りが派手になってる印象。それで調べたらオリジナルは13 vs 53人。本作は13 vs 200人とパワーアップしている。そのせいだろう、乱闘の中盤(地面に降りての白兵戦になって)から、いささか単調というか同じようなシーンの繰り返しだ。
仕掛けや火薬で80人ほど倒し「残るは120人」と打ってかかる。1人で10人以上はやっつけているように見えるのだけれど、やっつけてもやっつけても敵は2〜30人ほど、ごそっと現れる。あんなに残ってたか? いくらなんでも・・・。という思いにとらわれる。
若い侍の刃先が、相手の肩にぐさりと食い込み、抜けなくなってあせる、というシーンがある。その後、震えているところを島田新六郎(山田孝之)に「人を切ったのは初めてか?」と問われうなずく。しかし。太平の世も終盤近く天保時代に、果たして人を切ったことのある侍がどれほどいるというのだ。あの13人のうち13人は、みな初めてだと思うんだが。
オリジナルで覚えているのは、屋根の上から路地を俯瞰で撮影していたシーン。道路をせき止められ、明石藩の侍が右往左往する。ところが、リメイク版ではそんなシーンはなかった。道路のせき止めはあったけれど、もっと大規模。他にも火薬や背中に火を背負った牛(CGのちゃちいこと。恥ずかしいぐらい)だの、見かけが派手になっている。しかし、派手なだけで頭を使ってないなあ、という感じ。もっと巧妙なカラクリ、オリジナルにはなかったっけ?
手な具合で、大規模になっているけれど、切った分だけ相手が少なくなる、あるいは、怖じ気づいて逃げる藩士もいるだろうに、1人だけ狂気に陥るだけで、あとの藩士は最後まで向かってくる。そんなに忠義が残っていたか? あの時代に。
乱闘シーン、細かなカット割りはせず、結構長くカメラを回しているけれど、それで迫力が増していたかというと、それ程でもないような。むしろ、メリハリのない単調さが目立ってしまった。あんな白兵戦のなかで、松方弘樹だけがひゅんひゅん相手をやっつけていく。東映チャンバラの切り方なんだよ。ほれ。あいてが切られに飛び込んできてくれる殺陣。松方の堂々とした姿はかっこいいけど、この映画に似合っていたかというと、はてな? だよな。
明石藩主・松平斉韶(稲垣吾郎)の異常さが、よく描けていた。と思う部分と、そうでない部分がある。平気で人殺しをするのは、それはそれで不気味。だけど、宿で反乱者に藩士がどんどん切られ、残るは数人となっても、顔色ひとつ変えないというのが、はてな? だね。人を殺すのは屁でもないが、殺されるのは怖い、というのがフツーではないのかな。それとも、殺して欲しいと願っていたのかな、心の中では。
松平斉韶を討ち取る部分が引っぱりすぎ。しかも、島田新左衛門(役所広司)は斉韶に自分を刺させておいて、反撃するという変な戦法。斉韶は、それほど剣の達人なのか? それほど稽古しているようにも思えないけどね。
明石藩御用人・鬼頭半兵衛(市村正親)の忠義が、哀れっぽい。半兵衛は旗本の新左衛門にコンプレックスをもち、出世も遅いのを僻んでいた。でも、将軍弟・松平斉韶の側用人になったのだから、新左衛門の格下とも思えないけどね。まあ、新左衛門との対比として登場するのでああいう性格づけになっているのだが、宿場で藩士がどんどん死んでいき、残り数人となってもまだ自説を曲げない実直さというのは「?」でもあったりする。
新左衛門を750石の小旗本とバカにするようにセリフがあったけど、750石は中の上クラスだと思うんだがね。
冒頭の、間宮図書の自害。間宮が明石藩江戸家老で、自害の場所が老中・土井大炊頭の屋敷前、というのが見ていて分からなかった。セリフでは言ってたのかも知れないけど、古風な言い回しで早いので、聞き逃したのかも。この事件が江戸での出来事なのか明石での出来事なのか、ぱっと分からなかったしね。そもそも、江戸の職制や大名の成立について知らないと、話の構造がうまく理解できないかも。
尾張藩が自藩内を通行止めにできたのは、なぜだ? あれは、以前に屈辱を受けた尾張藩の 牧野靭負(松本幸四郎)が、藩主に内緒で勝手にしたことなのか? だから、通行止め成功後に自害? そもそも、尾張藩主と斉韶は血なので、いさかいは互いに抑えると思うのだが…。また、牧野靭負も自害覚悟ならあの場で斉韶を撃ち殺すこともできたのでは? などと思ってしまう。ま、武士のやり方ではないのかも知れないけど。
斉韶のセリフには、いろいろと含蓄があって面白い。気違いのような行動とはべつに、自分を客観視している。「こんな私が老中になって、日本は安泰だと思うか」のようなセリフもあったり。自分の異常さは自覚しているみたい。なのでなおさら、最後に刺されてから「痛い」だの怖いだのとのたうちまわるのが、妙に思えた。むしろ、甘んじて受ける、不敵な笑みを浮かべる、ぐらいにして欲しかった。
おお。お歯黒だ。と、尾張藩の陣屋の妻がでてきたとき、驚いた。映画でもお歯黒を演出するのは、とても珍しい。しかし、結婚してすぐという設定なのに眉も剃っているのは、おかしいかも。子供ができて眉を剃る、とどこかで読んだのだが、どうなんだろう。
吹石一恵が2役で登場する。新六郎の恋人と、小弥太の恋人。そもそも島田新六郎は、遊び人。太平の世に飽き飽きし、博打もし飽きたという侍。女(吹石一恵)と同棲している。それはいいのだが、美濃への道中、一緒になる木賀小弥太(伊勢谷友介)が思い描く女も、吹石一恵が演じている。なぜだ? 小弥太は親方の女に手をかけ、追われているようなことを言っていたが・・・。じつは、一行と一緒になったとき、小弥太は網に囚われで宙づりになっていた。それを見て佐原平蔵(古田新太)だったかが「狐狸妖怪の類か?」と問う。小弥太は山の民と応えるのだが、ほんとうか? 人間技とも思えない軽い身のこなしで、乱闘でも大活躍。最後の方になって、斉韶の投げた短刀で首を射抜かれ死ぬのだが・・・。なんと、斉韶を討ち取った後、1人で宿をうろつく新六郎の前に現れる。ぴんぴんして。「?」だよね。しかし、思い返せば小弥太が人である保証はどこにもない。おそらく小弥太は狐狸の類で、助けられたとき人に化けた。そして、助けてくれた恩返しをした。ノドに刺さった短刀も、実は刺さっていなかった。ということではないのか。また、新六郎の女と同じ顔の女を思い浮かべるのは、新六郎の心を読み、思う女の顔を思い浮かべたからだろう。または、新六郎と小弥太は表裏一体の存在で、互いにその陰と陽を表象している、ともとれる。さらにまた、決戦前に宿の女が何人もヘロヘロになるまでまぐわうのは、やっぱり狐狸妖怪の類だ。というわけで、小弥太というトリックスター的な存在は、ファンタジーとして存在していると見た。
最初の方で、芋虫女を裸で見せるか? っていうか、大名が、一揆を起こした男の女房の両手両足を切ってまで慰み者にするか?
前半の段取りの部分、案外簡単にメンバーが決まってしまって、「七人の侍」のような肉付けが欲しいところ。それでも、一同が馬で出かけるシーンは、本当にわくわくした。しかし、何度も述べるが宿場の決戦が大げさすぎ。結局、新左衛門も斉韶も、太平の世に死に場所を求めていただけなのかも、と思える終わり方だったね。
そういえば、メンバーを揃えていく過程での、松方弘樹の「これで9人」は「8人」の間違いではないのか?
恋愛戯曲〜私と恋におちてください。〜10/4ヒューマントラストシネマ有楽町・シアター2監督/鴻上尚史脚本/鴻上尚史、
ホームページを見ると、芝居の台本があって、その映画化のようだ。もちろん芝居は見ていない。しかし、原作があろうがなかろうが、映画は映画。映画として楽しめなくてはならない。にもかかわらず、この映画、故意にストーリーをつまらなくしているようにしか見えない。もちろん演出ももったりしていて、どこに焦点が当たっているのか分かりにくい。そもそも、前提となる「恋をしないと書けない」というシナリオライター谷山真由美(深田恭子)というアウトラインが曖昧に始まるので、茫洋としてつかみ所がない。「恋をしないと書けない」という設定は、後から、小出しにしてくるのだ。同じようなことはラストにもあって、「恋をしないと書けない」はずの谷山先生が、なんとあと1日というところで馬力を出してシナリオを完成させてしまうのだが、その原動力となったものが明示されていない。谷山先生は「誰かのために一生懸命にものごとをした」と言うのだが、いつ、そんな気持ちになったのだ? そして、ラストで谷山先生とプロデューサー向井正也が熱いキスを交わすのだが、いつそういう関係になったのだ?
わからないのが、谷山先生が苦し紛れにつくる物語の内容だ。ひとつは、主婦ライターとプロデューサーの物語。こちらが最初に始まるのだが、途中で強盗と売れっ子ライターの話しに変わる。・・・と思ったら、なんと、主婦とプロデューサーの話しも没にならず、つづいてるって・・・。おいおい。どういうことなのだ? 谷山先生と向井の物語は、主婦とプロデューサーが代わりに進めていたとでもいうのかい?
仰々しいのが、テレビ局内部の会議や局長などの意地の張り合い。ここは軽いユーモアが有効に使えそうな頃なのに、そうはなっていない。このあたりも、下手だな、と思う。それと、あんな大会議室で打合せをするのかい? プレゼンも、クライアントの部長を呼んで、あんなところでするの? あほらし
で、最後のプレゼンの場では、主要人物がセリフであれこれ説明し始める。そんなの、映像で見せなくちゃいかんだろ。そりゃ、芝居小屋じゃ笑いが絶えないかも知れない。でも、芝居小屋に来る客は、始めから笑おうと来ている客だ。箸が転がったって笑ってくれる。でも、映画館では、面白くないと、笑ってくれないのだよ。
向井という存在についても、最後に「実は昔は敏腕プロデューサーで、でも、以降、ヒットがなく名前を変えて別のテレビ局に・・・」なんて、セリフで説明するのだけれど、伏線もなにもなくそんなこと言われたって、誰が「なるほど」と思えるものか。というわけで、始めから終わりまで、ひとつも笑えないコメディ映画だった。少し寝ちゃったし。
ミックマック10/6シネマスクエアとうきゅう監督/ジャン=ピエール・ジュネ脚本/ジャン=ピエール・ジュネ、ギョーム・ローラン
原題は"Micmacs a tire-larigot"。フランス映画。英文タイトルは"Micmacs"。「デリカテッセン」「アメリ」の監督だ。どことなくレトロで不可思議な映像美。は相変わらず。父親を地雷で失い、自分も流れ弾に当たって一命を取り留めた男の物語。
医師が「頭に入った銃弾を取り出すと植物人間、残しておくといつ死んでもおかしくない」と、手術すべきか否かをコイントスで決定。バジルは銃弾を頭に残すことになった。ホームレスになったバジルは、廃品回収の人たちとともに生活することに。社会には適合しないけれど一芸をもつ変人たちとの生活が始まる。かつてのバイト先に行ったら仕事はないと言われる。しかし、新しい店員に拾った銃弾を見せられる。とぼとぼ歩いていると、地雷にあったマーク、銃弾についていたマークの会社のビルがあるのに気付く。で、バジルの復讐戦が始まる。
個人で挑もうとするが、ホームレス仲間が「一緒にやる」といいだし、集団で武器会社にアプローチ。あれやこれや・・・。というところで、一度、ふっと寝てしまう。起きると相変わらず武器会社に攻撃している。と、ふっとまた寝てしまう。起きると、相変わらず。でまたまた、ふっと寝てしまう。都合3度、浅い眠りに落ちた。この監督のタッチは嫌いではないのだけどねえ・・・。
で、後半はちゃんと見た。おお。武器会社は地雷と銃弾は別で、2つの会社だったのか。それも、向かい合って建っていたのか。といまさらながらに気付く。大仰なことをしているわりに、せこいな。と思っていたら、大爆発をさせた。おやおや。でも、バジルが捕まって後の救出劇、および、アラブに行ったかのように思わせた、という件は面白かった。で、最後に、2社の社長の、自分たちが武器を輸出した、の告白ビデオをYoutubeにアップして、エンド。
で、なぜ寝てしまったのかをつらつら考える。多少疲れはあったものの、30分昼寝したし。頭に刺戟が来る映画なら、眠りに落ちたりはしないのだけどなあ。
まず、バジルが突然武器会社をターゲットに据えたのが「?」だった。父の戦死で、フツーなら恨みは敵国あるいは国家に向かうよなあ。自分が乱射事件に巻き込まれて、フツーなら恨みは事件の当事者に向かうよなあ。それが、武器会社? もちろん死の商人という存在はわかっている。けれど、唐突すぎて共感まで行かない。
話は、相変わらずの大人の童話である。戯画化も当然いいでしょう。けれど、「デリカテッセン」のような妖しさ、神秘性が足りないと思うぞ。ホームレスの集団も、疎外されている感が少なくて、いまひとつ魅力がない。それぞれの特技も「なるほど」という活かされ方ではなく、なんとなくこじつけだし。会社をやっつける仕掛けも、ピタゴラスイッチの大仕掛けみたいの、という意外性=夢がない。
武器会社の社長や社員は、絵に描いたようなパターンの悪人。記号になってしまっていて、魅力がない。話に奥行きがなく、面白みがない。ボーッと見ていたので、武器会社は2つだったというのも、後から気づいたぐらい。こうなると戯画化の部分やエキセントリックな部分しか興味がなくなるが、それが薄い。
そもそも、主人公の目的=意図が薄弱。大上段に正義や平和を気にするようになったのは、なぜなのだ? たとえばそれが、脳内に止まっている銃弾が目覚めさせた、とか。そういうのがあるといいのにね。死と直面しつつ生きている、という感じもない。頭に銃弾が残ったまま、という設定が生きていないと思う。なわけで、話が楽しめず、よく分からないまま(本当はもっと裏があるのでは? もっと面白くなるのでは? と思っていた)どんどん進んでいき、なかなか弾けないのがつまらなかった原因かも。
ときどきバジルが妄想、というか、過去を考えたりするところはイメージが豊か。だけど、それだけで、話が広がらない。武器会社の社長をアラブに行ったように思わせる件は面白かった。
ところで、軟体女がバジルを恋するようになった理由は? いつごろから好意を抱いていたの? 個人的には、メガネをかけた計算女に少し興味があったんだけど、あまりフィーチャーされていなくて,残念。
ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い10/8キネカ大森2監督/カルロス・サウラ脚本/カルロス・サウラ、ラファエロ・ウボルディ、アレッサンドロ・ヴァリーニ
イタリア/スペイン映画。原題は"Io, Don Giovanni"。「ドン・ジョヴァンニ」がモーツァルトの歌劇、ってことも知らなかった。ははは。で、ドン・ジョヴァンニってやっぱりドン・ファンのことなのだな。
映画の主人公は、台本作家のロレンツォ・ダ・ポンテ。ユダヤ教を棄てキリスト教に改宗。神父になったけれど女性遍歴の結果、イタリアを追放になる。・・・という部分は個条書きのような断片で紹介される。で、カサノヴァの紹介でウィーンへ行くんだけど、このときの絵が、絵葉書かエッチングの中を馬車が動く、というように描かれる。なんか安っぽい(他にも、書き割りのような背景、いい加減なセットも多く登場する)。で、この地でモーツァルトと出会い、作家として成功。歌手と同棲を始める。という過程も、荒筋のように描かれる。時間の経過もバッサリ切られていたりして、あれあれあれ、という気もしなくもない。で、やっと「ドン・ジョヴァンニ」の話になるのだが、こんなことなら過去一切をバッサリとやってもよかったんじゃね? という気もする。
以後は、はかどらないモーツァルト。いつの間にか台本を仕上げてしまい、ヴェネチア時代の知人の娘との再会で、燃えてしまっている様子が描かれる。のだけど、それまでの仕込み(伏線)があまりにもダイジェストなので、説得力があまりない。「ドン・ジョヴァンニ」の練習舞台は適宜インサートされ、オペラ好きには分かりやすいのかも知れないけど、こちとら素人。あまりにもドラマがなく、淡々と、要点しか描かない展開に入り込めず。人物の掘り下げがほとんどできていないのだよね。みんな上っ面だけ。なので、だんだん飽きてくる。寝なかったけど、ちゃんと見よう、という気にさせてくれない映画だった。
ヒロインのアンネッタ(エミリア・ヴェルジネッリ)、きれいなんだけど、口元にしわが目立って、ううむ・・・。モーツァルト役は、「アマデウス」にずいぶん影響されているな。
キャタピラー10/8キネカ大森1監督/若松孝二脚本/黒沢久子、出口出
江戸川乱歩「芋虫」(1929)を下敷きにしていながらクレジットしないという卑劣な映画である。ちなみに、話題になった「ジョニーは戦場へ行った」の原作は1939年、映画は1971で、乱歩が先んじている。
いきなりニュースフィルムをバックにスタッフクレジット。で、「1940年、日中戦争」のタイトル。出征兵士を送る行列に、黒塗りのクルマ。久蔵が、四肢をもがれた姿で戻ってきた。・・・というところから話は始まる。のだけれど、この映画、物語=ストーリーというかドラマがない。あるのはエピソード。最初、嫌がっていた妻のシゲ子も、軍神の帰還と言われては逆らえない。声のでない久蔵が要求するのは、性交と食事。いやいや従うシゲ子が思いついた仕返しは、久蔵の見せ物化だった。リヤカーに乗せ、野良仕事に連れていく。なにかと連れて出かける。恥じる久蔵。彼の寄る辺は、いただいた3つの勲章と、久蔵武勲で帰還の新聞記事。しかし敗戦で、存在価値を失った久蔵は自ら水溜まりに落ち、自死する。という話。なんだよ。ドラマがないじゃん。
どうも、久蔵は大陸で中国女性を強姦していたことがフラッシュバックのイメージで表現される。強姦中に傷を負ったのか否か、それは明示されていない。そのトラウマが、シゲ子との性交を重ねるにつれ大きくなっていった、と表現されている。それ以外の話としては、久蔵の食欲が激しく、配給ではままならない、ということ。さらに、出征前、シゲ子は久蔵に石女と蔑まれ、暴力を振るわれていたこと、などがわずかに描かれる。
それ以外には、久蔵の弟が少し。それから、村に必ずいる気違い(篠原勝之)ぐらい? あとは、エピソードにもなっていない。たとえば、シゲ子が久蔵の弟に手を出して罪悪感に苛まれるとか。「芋虫」のようにシゲ子が久蔵を虐待し、イジメ倒すとか。石女だったシゲ子に子ができ、それを久蔵が疑うとか。物語が欲しかった。
若松孝二は、何度となく新聞記事、昭和天皇両陛下のご真影、ニュース映像、強姦シーンを繰り返してインサートする。さらに、あれこれの犠牲者数などもデータで紹介する。正直いって、繰り返しも2度まででもう結構。それ以上やられるとうっとうしい。左翼政党、団体がなくなって、いまどき珍しい硬派な若松孝二ではあるけれど、ベタにメッセージを貼り付けたような映画は、見ていて面白くないし、感動にもつながらない。もともと映画表現が下手くそな若松孝二だけれど、相変わらずの単刀直入映像で、雰囲気も情緒も感動もへったくれもない。
若松孝二のいい加減さは、いろんな意味で映画をつまらなくしている。久蔵の出征シーンで、衿が変な風に重なっている、とか。久蔵役の役者が、足を折っているのがバレているのが分かるシーンがあったり。というような、チンケな場面が少なくなくて、ショボさも感じてしまう。
で、日本の中国侵略で終わるかと思いきや、広島、長崎の原爆投下にも触れるなど、いったいお前は何が言いたいんだ、若松孝二! といいたくなるようなシーンが少なくない。
あと、基本的に気になったのは、現在の日本人は戦前の日本人を演じられないのか? ということ。主婦竹槍のへっぴりごし、バケツリレーも下手くそ。出征兵士の足取りなんか、すごい内股で奇妙。伝統的日本人は、あんなじゃないぞ。
それはそうと、元ちとせのテーマ曲。そのバックになっていた壁みたいなのは、あれは何なのだ? 意味があるのか?
ナイト&デイ10/12上野東急監督/ジェームズ・マンゴールド脚本/パトリック・オニール
原題も"Knight and Day"。トム・クルーズにキャメロン・ディアスが絡む、追いつ追われつ物語。なのだが、「バード・オン・ワイヤー」のようなめくるめく展開、意外な転がり方はしない。肝心な部分は省略し、経過だけを淡々と見せたりする。たとえば2人が捕まって、キャメロンはしばられている。トムはロープで逆さ吊り・・・。ふつうなら、どうやって脱出する? に興味が湧くじゃない? でも、それは描かない。どういうわけかトムは逆さ吊りから逃れ、敵をやっつけ、キャメロンと飛行機(?)に乗って、どこか知らぬ島へと脱出してしまっている(だったよな? 違ったっけ?)。そんなのアリかよ。2人がビーチで「誰がビキニに着替えたの?」「ちらっと見たけど」なんてバカらしい会話が聞きたいかっての。
ラブコメ大活劇と割り切ればいいのだろうけど、どーもな。そもそもトムがキャメロンに絡んでいく理由がよく分からない。最初の方で,トムが突然、キャメロンがよろよろ運転するクルマに飛び乗ってきて助けるシーンがあったけど。あり得ないだろ。そもそも、どうやってやってきたのだ? というような神出鬼没のトム・クルーズ。あまりにも脚本が飛んでる、というか、ザルなのが意気消沈させる。「どうなるんだ?」「で、その謎は?」という興味で引っぱって、最後に、ジャジャジャーン! これが事実でした。とかバラスのが順当ではないか。
なのに、トム君は早々に、「仲間の男がパワーのある電源を売りたくて、開発者の少年と電源を手に入れようとして、僕を裏切った」みたいなことを言ってしまう。あらららら。そんなわけで、映画の引きがほとんどなく、あとはキャメロンの美貌と愛嬌ということになるのだけれど、いや、老けちゃって。オバチャンだね、完全に。というわけで、過去の役者がドタバタをやっているようにしか見えなかった。
そんなわけで4〜50分ぐらいたって、少年を連れてウィーン(だっけ?)へ行くシーンあたりで気を失い、気がついたらトムが水に落ちて死ぬ? とかいうような場面だった。その後、結婚式だったかな? その後もだらだらで、ピリッとしない。ストーリーは手垢の付いたスタイルで、映像もいまいち。役者もあれでは、起きていて見たい、という気にさせてくれないわな。
春との旅10/14ギンレイホール監督/小林政広脚本/小林政広
深刻そうな話をすれば評価されると勘違いしてるんじゃないのか、この監督。いやもう死ぬほど、耐え難いほどバカバカしく退屈な映画だった。こんなにスキだらけの脚本で、よくもまあ役者たちもマジで演技しているものだ。アホじゃないかと思う。
足の悪いジジイ(仲代達也)が孫娘(徳永えり)と、数日間放浪する話。しかし、足が悪いといいながら、歩く歩く。どこが悪いんだ! 仲代!
ことのおこりは、徳永が勤務する学校が廃校になり、給食の仕事を失う。そこで「都会へ出て働きたい」といったら仲代が怒りだした、というもの。仲代は自分の兄弟を訪ね、独り身の自分を住まわせてくれ、と頼むもの。それを引き留めようと徳永が随行する。つまり、徳永は、ちょっと言ってはみたがすぐ反省し、「じいちゃんといつまでも住む」という考えである。しかし、仲代は徳永の言葉に耳を貸さない。
おいおい分かるのだが、2人の住まいは北海道の増毛。電車の終点らしい。仲代には娘がいて、しかし、後に離婚。仲代、娘、孫娘(徳永)で暮らしていた。しかし、5年前に娘が自死。仲代は孫娘と2人で暮らしてきた。仲代は漁師で、かつてはニシンで羽振りがよかったが、いまは仕事もない。足をいつ、どうして悪くしたか、分からない。また、妻をいつ亡くしたのかも分からない。長兄、弟、姉(宮城・鳴子温泉)、末弟(仙台)のもとを訪ねるが、弟はムショ暮らし。長兄・末弟からは毛嫌いされる。姉は割りと優しい。が、仲代の評判は「変わり者」「自分勝手」。で、最後に、徳永が「父に会いたい」と言いだし、北海道の牧場に行く。ここで、かつての娘の夫(香川照之)と現在の妻(戸田菜穂)に会うのだけれど、兄弟から冷たくされた仲代が、赤の他人の戸田に「一緒に住みましょう」と言われるところで、ああ、この監督は現代風「東京物語」がやりたかったのか、と悟った。それはいい。いいが、話自体に説得力がなくちゃ、効果ないよな。
長兄は、納屋でもいいから住まわせてくれと頼む仲代をけなした上で、最後に、実は老夫婦でホームに入る。息子夫婦には何も言えぬ立場、と漏らす。そのギャップが理解できない。強気→弱気になるぐらいなら始めから自分には裁量権がないといえばいいのに、「いまだに人が出入りする家だ。弟を納屋に住まわせるなんてできない」なんて偉そうに言うなんて、あり得るか? リアリティがない。
弟を訪ねるが、住んでいない。さんざ探して、清水という女性の家がそうらしいとわかり、やっと巡り会う。で、他人の罪を着て8年の刑で服役中、と女(田中裕子)がいう。それまでの年賀状は彼女が出していたという。がしかし、内縁の妻なら、いくら服役中でも同居人の名字ぐらい表札に出すだろ。弟宛の手紙だって届くだろうし。子供がいるらしいが、弟が認知していれば、名字は違ってくるはず。などと思うと、リアリティがない。
姉(淡島千景とは気付かなかった)は、旅館の女将。羽振りがいい。徳永を後継者として働かせたい、という。仲代は1人暮らしさせればいい、ともいう。いい話じゃないか。それに、妻が死に娘が死に、孫娘の世話にならなければ、暮らせない? なにを我が儘いってんだ、仲代。という気分。独居老人なんていくらでもいる。それを甘えて、20歳の娘の将来を束縛する権利がどこにある。旅館の女将になれるなら、もってこいの話ではないか。アホか、と思う。徳永も、こんな祖父にかかずりあう必要なんか、ない。さっさと都会に出て働けばいい。どこが好きで仲代と同居、世話をしたい、なんていうのだろう? 説得力はまるでない。
末弟(柄本明)は、仙台で不動産業。のはずが、家が更地。近所で聞いて、マンションに行くが、仕事が上手くいかず生活は火の車。仲代に悪態ついて追い出そうとし、ケンカになる。のだけれど、2人が仲違いする理由がよく分からない。昔からケンカしてばかりなのか? 最後は、なけなしの金でホテルのスイートに泊まらせるって、意味ないじゃん。金をやった方がよっぽど意味がある。バカじゃね?
こうして兄弟を経めぐる過程を見ていて、いらつくことがあった。4兄弟は何の連絡もとりあってないのか? 兄弟の1人が刑務所にいること。末弟が住所を変えたこと。そういうことを長兄や姉は知らないってのか? 仲代ですら住所録に記載のある兄弟。フツーの生活をしている2人なら、情報を入手していないはずがない。それがないというなら、横のつながりの薄い兄弟としかいいようがない。でも、そういうの、フツーないだろ。
で、最後に徳永は、父・香川に会いに行き、妻がいることにショックを受けた、というが、20歳にもなって何をいってるんだ、と思う。しかも、父には「会いたくない」と思っていたと言いつつ、離婚の原因が母(つまり、仲代の自殺した娘)の浮気にあったといことを知っている云々と長々と説明ゼリフ。おいおい。それに、母の浮気と知っているなら、なぜ母の肩を持つ。そして「お母さんを許せなかったの? どうして」なんて父を責める。徳永は浮気した母の落ち度より、浮気した妻から去っていった父が憎いわけね。どーも、生理的に納得できない展開だな。
で、徳永は「おじいちゃんと一緒に暮らす」といい、2人で家に帰るのだが、このまま2人暮らせるはずはない。徳永が都会に出て働く未来、あるいは、姉の旅館を継ぐ明るい未来につなげるには、仲代が死ぬしかないな、と思っていたら、なーんと、帰りの電車の中で仲代が崩れ落ちるように死んでいったのだ。おお。なんと分かりやすく単純でいい加減、かつ、ご都合主義的な結末だ! と、軽蔑に値する結末とあいなった。バカバカしいったらありゃしない。じゃあ、2人の、仲代の兄弟をめぐる旅は、何だったのだ!
細かなことも、いくつか。「奥さんが亡くなり、今度はこんなことになっちゃって」と旅館経営の姉の言う「今度」は5年前の娘の自殺、って、セリフがおかしいだろ。
仲代と徳永は、ずっと同じ服装。臭いだろ、そんなの。
仲代は役に合ってない。偏屈は分かるが、どうみたって漁師の柄ではない。しゃべり言葉が、小学校しか出ていない漁師ではない。そもそも、漁師がロングコートなんて着るか? どこで買ったんだ? コーヒーを飲んだことがないような漁師の着るようなもんじゃないだろ。メガネもオシャレだし。映画全体がウソっぽく、リアリティがなく、説得力もない。だから、退屈で退屈で、たまらなく辛かった。
さらに、読みにくいエンドクレジットは何なのだ。洒落たつもりか。アホだね。
彼女が消えた浜辺10/15ヒューマントラストシネマ有楽町・シアター1監督/アスガー・ファルハディ脚本/アスガー・ファルハディ
原題は"Darbareye Elly"。英文タイトルではないようだが、よく分からない。イラン映画。最初しばらくは、何だか分からない。オープニングのタイトルバックは、ポストの内側(あるいは投票箱?)から投入口を見ているのか? 闇に光るスリットから紙片がぞくぞくと投入されていく。映画が終わって振り返っても、何のことやらよくわからない。
映画が始まっても、何だかよく分からない。クルマを連ねてキャンプ? どうも、エリという女性が話題になっているが、それ以外の面々がどういう連中か、分からない。分からないまま目的地について、でも、予定していた貸別荘は、持ち主が翌日に帰ってくるから泊まれないと分かり、仕方なく紹介された浜辺の使われていない建物に案内される。男女7〜8人、子供が3人ぐらい。カップルか夫婦か。1人、ドイツ人女性と離婚した男性がいて、その彼とエリをくっつけよう、という意志がどこかに働いているような気配。翌日はビーチバレーに興じたりの面々。浜で遊ぶ子供を「見ていて」と女性がエリに頼むのだけれど、ここで子供が波にさらわれるよ、ほら、もうすぐだ、的な演出がされているので、嫌な気分になる。
子供が溺死し、みなが責任をエリに押しつけ、その結果自死? なんて思っていたら、子供は救出され蘇生。が、エリもいないのにみなが気付く。エリが助けに行って溺れたのか? それとも、1泊で帰りたがっていたので、そのまま帰ったのか? 責任のなすり合いが始まる。
このあたりで、一行は家族らしいのが分かってくるのだけれど、兄弟なのか従兄弟なのかは最後まで分からない。警察に連絡して調べてもらうが、潜水士は「30分見た。死んでれば明日、浜に上がる」と早々に引き上げてしまう。
と、このあたりまでの展開はざわざわして、引っぱる力がある。ああ、どの国でも同じような反応をするのだな、と思う。イスラムの国に対する偏見が、弱まってくる。
のだけれど、以降の展開がいまいち、すんなり入ってこない。ひとつは、人物が嘘をつきまくること。これは、話を引き伸ばすための話の展開に見えてしまって、なんとなくチープ。ふたつめは、宗教上の問題なんだろうけれども、婚約中の女性が他の男性と行動をともにしたことに対する非難について。とくに、後者については、それほどのことか? と思ってしまうような問題なので、最後の最後に大きく取り上げられると、ちょっと白けてしまう。
そもそも、さっさとエリの家に電話すればいいのに、だらだらと回避する様子はイラつく。理由としてエリの母が心臓病だからとか、カバンがないので帰ったのだろう、とか、ちょっと強引な事柄が用意されていて、どうもすんなり納得できない。さらに、携帯も隠されていただのと、ムリにムリを重ねた展開は、シナリオにちょっとムリがあるかな、と思ったりした。そんなこと、ずっと隠し通してないで、さっさと言ってしまえばいいじゃないか、と。イスラム人は、相手のためなら隠しごとや嘘もいいことだ、と思っているのかな。
エリは、保育園の先生、らしい。であれば、本名や住所を知らなくても不自然ではない。なのに、エリが何者か? というミステリー性を無理やり強調する。終わってみれば何もミステリアスではないのだし、そんなことにこだわる話にする必要もなかったかも。ミステリアスにするのなら、もっと別の終わり方もあったろう。たとえば、エリが死んでいるかどうか明らかにしない展開もありではないかと思う。なので、ラストで死体安置所のシーンを見せたのは、いかがなものか。あの死体がエリではなかった、というほうが面白いような気がした。
それにしても、子供をちゃんと見ないで遊びほうけ、赤の他人のエリに監視を頼む一行も、どうかしてる。ま、映画の設定だからしょうがないけどね。で、あの溺れた少年は、自分のせいで人を死なせたという重荷を、生涯背負うのだろうか?
女性が4人出てくるのだけれど、1人の年かさの女性を除き、みなとても美しい。男たちは、よく見るアラブ風ではなく、なんとなく西洋風の風貌。内容も含めて、イラン映画の枠を超えるものはあった、とは思う。最後の、婚約云々の過剰な部分を除けばね。
TSUNAMI-ツナミ-10/21新宿ミラノ3監督/ユン・ジェギュン脚本/ユン・ジェギュン
韓国製のパニック映画。地理的に考えて朝鮮半島に津波はないだろ、と思って見ていたら、メガ津波というものらしい。登場する学者が言うには、日本の対馬が崩落すると巨大な波が発生し、10分で釜山にとどく、という。メガ津波は本物なのか? あてにはならぬ。中盤に対馬が崩れるシーンがちょいと出るのだが、だいたい島が陥没したりするものか? せいぜい山崩れぐらいだろ。島がなくなるほどの陥没じゃなきゃ、津波なんて発生しやしないと思うぞ。
科学的根拠が薄弱なのは、この映画に一貫している。この手の映画の定番のように、前半の50分ぐらいを使って群像劇が繰り広げられる。しかし、その中に科学者が1人いるだけで、他には登場しない。たとえば、どこそこで地震が多発して山が崩れたとか。突然、海底が陥没して小津波が襲ってきたとか。そういう前兆を小出しに積み重ね、次第にエスカレート。とうとう海中で何らかの爆発と陥没が起こり、対馬が海中に沈んでいく・・・といった予兆を見せるのが、こうしたパニック映画の常なのに、そういう地道な伏線が、あまりない。隣国の日本で地震が発生(対馬でM6.5とかそんなの)したとかいってるけど、その映像もでやしない。大津波が発生するまで、暢気に人々は過ごしている、という寸法。一人の学者が「危険だ!」と叫んでいるだけで、他は何も対策を施していない、という設定。ううむ。あまりにも杜撰かも。
その他、羅列していくと。最初の頃にでてきた、テレビ画面の中のニュースのアナウンサーがキレイだった。
水であふれた釜山。食堂の女と漁師の男が電柱に上がるのだが、女が先で男が後からだったはずなのに、次のシーンでは男が近くの屋根(?)から電柱の女を引っ張り上げようとしている。いつ、入れ替わったのだ? で、その隣の電柱に、女の叔父さんがいるのに気がつかないの?
漁師の男、「昔はカッコよかった」と食堂の女がいうのだけれど、どうしてもそうは思えない卑屈さ、かっこ悪さだ。で、男には幼い娘がいるのだけれど、逃げたという嫁はどこにいるのだ? っていうか、女の父親が死んだ海難事故から5年目なのだから、事故の時には男は結婚していたのか? とすると、事故死寸前に女の父親が男に「娘を頼む」というのは、変だよな。では、5年以内に結婚したのか? ううむ、よく分からない。
救命士と大学生を装うじつは受験生の娘のドタバタは面白い。けど、あまりにもバカコメディすぎないか? この映画に適切かどうか、疑わしい。それに、救命士がいいやつなのに、最後に死んでしまうという展開は、おいおい、だよな。くだらない男のために犠牲になる、という、ありきたりの設定なんだけど、そんなんで感動はしないよな。
漁師の後輩で、食堂の娘の同級生がいる。彼も、5年前の海難事故のとき、漁師の男と、食堂の娘の父親と同じ船に乗っていた。で、漁師の男が食堂の女に告白しようとしていることを知ると「あの船の上であったことをバラす」なんていって、漁師の男を脅す。でも、脅されるようなことを、してたか? してないと思うんだけどね。で、この後輩のチンピラが、いい味を出していた。
食堂の娘の叔父が進めていたショッピングセンターの計画は、津波の日に開発許可が下りなかったらしい。しかし、そんな気振は見えなかったよなあ。あんなに自信たっぷりで偉そうだったのに、どうしてなのだい?
フラミンゴ No.1310/25TOHOシネマズ 六本木ヒルズ スクリーン7監督/ハミド・レザ・アリゴリアン脚本/ラスール・ユーナン
東京国際映画祭・コンペティション部門、イラン映画。英文タイトルは"Flamingo No.13"。
オフィシャルサイトの情報によると「イラン山間部の小さな村。雄大な自然の中で、人々がひっそりと暮らしている。禁じられたフラミンゴ猟にとりつかれた男。彼が愛する女。そして、ふたりの仲をねたむ男。寓話のような三角関係を、幻想的な映像美で描いた新人監督の第1作。歌舞音曲の描写にも優れ、ときおり現実とドラマの垣根を越えていくような演出は、アリゴリアン監督が師匠筋のアッバス・キアロスタミの正統な後継者であることを予感させる」というもの。しかし、はっきりいって舌足らず。表現の域に達していない。
冒頭、列車から男が降りて、山へ向かっていく。その男は、山に住む男たちを呼びつけ、どうやら存在確認をしているようだ。「お前が殺人を犯したなんて」「先生、元気?」なんて話しかけている。若い男には「お前は何でここ若い男は「あれは嘘だった」と言い訳する。で、男たちの存在と拇印を得、夜行列車で帰っていくらしい。ここは、どうやら流刑地。長老見たいのが「ここは地の果てだ」つぶやく。だけど、列車の駅が近くにあるのに、どこが地の果てなのだ? しかも、周囲には罪人ではない人々が普通の生活を営んでいる。何が流刑地だ、と思う。冒頭から、なんか説得力がない。
この村、子供たちもいるし女もいる。高原地帯らしいが、緑豊かで、どうみても人里離れた寒村には見えない。だって人が生活しているのだから。海が近い、といっていたが、高原地帯に海? と思っていたら、最後の監督のQ&Aで、海はカスピ海と知れる。しかし、その海に近づくには、住んでいるところから相当行かなくてはいけないのでは? と思ったりしたのだが、答えは分からない。
殺人者や強盗が、一般人と住んでる流刑地って何よ。である。しかも、殺人を犯したとされるソレイマンという男は、銃をもって狩りをしている。もうひとり、軽薄な女たらしが登場するのだが、この男は下界の街へ出没したりしているらしい。かなり自由がある。こんな流刑地、ありか? というような設定で始まる。まあ、世界にはいろんな流刑地があるのだろう。しかし、のんびりした流刑地だよな、と思う。
で、無口なソレイマン、という男がいる。本当に殺人を犯したのか、えん罪という説もあるようだが分からない。彼は鳥を撃っている。軽薄男が肉をさばいていたりするので、食糧になるのかも知れない。そのソレイマンが狙っているのが、フラミンゴ。フラミンゴと言えば、最初に登場した役人(村長?)が、「フラミンゴは我が国では捕れない。だから、撃ってはいけない」とかなんとか言っていたが、なぜそうなのかは分からない。また、ソレイマンがなぜフラミンゴを獲ることに執着するのか、も分からない。フラミンゴには、なにか特別な意味があるのか? しかし、映画では何も語られない。
村には寡婦がいる。夫を亡くしたばかりで、美人。軽薄男がしつこく接近し、好きだ、をアピール。しかし、寡婦はソレイマンが好きで、結局、ソレイマンと結婚してしまう。って、そういうこともできる流刑地なの? よく分からんな。
この映画、人物に関する説明はほとんどなし。どういう過去を持ち、いま何を考え、これから何をしたいのか、というようなことはほとんど描写しない。主人公であるソレイマンも、何を考えているか分からない。寡婦も分からない。唯一、人間らしく描かれるのが、軽薄男。昔から嘘ばかりついて人を騙し、いまもなお騙しつつある。寡婦に思いを寄せ、ストーカーのようにまとわりつく。寡婦がソレイマンに心がある、と知って、ソレイマンを殺そうとする。欲のかたまりである。
ソレイマンは寡婦と結婚したもののフラミンゴ狩りへの思いを断ち切れず、猟に行く。どうも、ソレイマンは海に向かって行ってしまった(つまり、死んだ)らしく、二度と戻らない。冬になり、夫の死を信じない寡婦。そこに「もう亭主が死んで40日だ。俺と一緒になろう」と迫る軽薄男。それを銃で脅す詩人(先生と呼ばれる流刑人)、代わりに軽薄男を絞め殺すヒゲの大男(流刑人の1人)。という流れで、またまた役人(村長?)がゃってきて、流刑人の存在をチェックする。・・・というところで終わり。ああ、いったい何だったのだ? この映画は。
というわけで、最初の30分ぐらいは、どう展開するのかな? と興味深く見ていたけれど、以後は退屈してきて、眠くて眠くてたまらなかった。やはり、背景がよく分からず、人物が薄く、物語性も弱いと、映画は面白くない。とくにこの映画、流刑人の詩人のような男が読む詩が頻出するのだが、作り手の思い込みがどうあろうと、見ている方にはまったくつたわってこない。それを感じろ、というのもムリな話。あらゆる意味で中途半端、あるいは力不足で、こんな映画をコンペ作品に選ぶ方もどうかしている。ほかにまともな映画がなかったんだろう、としか思えないものな。
気になったのは、ミケランジェロの「アダムの創造」らしき腕の絵が小屋の中に貼ってあったこと。はたしてあれはなんだっのだ? あれは、先生の家だったっけかな? ひょっとして先生はイスラムを棄て、キリスト教徒になってるのか? よく分からんけど。
が、しかし。好意的な解釈をしてみようか、少し。これは、罪を背負って生きている者たちの物語である。イスラム教の教えのせいか、流刑地といっても隔離はしていない。ただ、世俗を離れた自炊生活を旨とし、残りの人生を指折り数えている。ひょっとしたら世俗に戻れるかも知れない。しかし、そんなことは思い描かず、ここで生涯を終えよう、という諦観に満ちている。そんな中に、1人だけ欲望に突き動かされる男が混じっている。軽薄男だ。麓の街に行ったり、村の寡婦にちょっかいだしたり。流刑人たちの鼻つまみ、である。寡婦は、沈黙を守るソレイマンに惹かれ、再婚する。しかし、ソレイマンは禁断のフラミンゴ狩りの誘惑から逃れられない。禁断の果実を求める、まるでアダムのように。先生の部屋に「アダムの誕生の絵があったのは、偶然ではない。ソレイマンは、13番という足輪の付いたフラミンゴと出会い、驚愕する。不吉の数字。しかし、その運命をソレイマンは受け入れる。アダムが永遠の生命を棄て、禁断の果実に手を伸ばしたように、ソレイマンはフラミンゴに食指を伸ばす。手に入れれば、妻との生活が終わってしまうことを知りながら・・・。もしかしたら、ソレイマンにとってフラミンゴは、ヨーロッパの文化・自由の象徴だったのかも知れない。そのフラミンゴを獲れば、自分はイスラム教徒として不実であることの証明になる。しかし、イスラムの文化によって罪人にさせられたソレイマンは、ヨーロッパに対して憧れをもっていたのかもしれない。そんな象徴として、フラミンゴが描かれている、という解釈は無謀だろうか。ひょっとしたら、ソレイマンは軽薄男に撃たれ、死んだという解釈もできなくはない。前々から軽薄男は、ソレイマンを狙っていた。ソレイマンの妻を我が者にしようとしていたからだ。あたかも彼は、仲間を裏切るユダのような存在である。流刑人たちは、軽薄男の罪を知っていた。その償いをさせるため、雪の中、みなで軽薄男を絞め殺す。そうして、流刑地に平穏を取りもどすために。・・・とかね。まあ、いいけど。
さて、珍しかったのは、イランの雪景色が見られたこと。ほほう。中東でもカスピ海近くの高原は、雪に覆われるのか。なるほど。
640人ぐらい入る小屋に、200人ぐらいだったかな、観客は。
◆終了後にQ&Aがあった。出席者は監督、ソレイマン役で脚本の男優、寡婦を演じた女優、プロデューサーの4人。日本語英語ペルシャ語が混ざって、どうも意図がちゃんとつたわっていない部分もあるかも、という案配だった。
監督によると「追放された人々が最後を迎える村は、10年ぐらい前まであった。そのイメージに近い村を探して撮影した。人々の孤独感を表現したかった」「あれはカスピ海。冬になるとヨーロッパからフラミンゴがやってくる。13は不吉な数字で、フラミンゴの足輪の13番は不吉を暗示している」と。寡婦を演じた女優は「イランでは、未亡人は可哀想、といわれることが多い。彼女は、ソレイマンが死んでも捨てずに生きていくだろう」と。そんなことを話していた。
パリから5時間10/27TOHOシネマズ 六本木ヒルズ スクリーン5監督/レオン・プルドフスキー脚本/Erez Kav-El、レオン・プルドフスキー
東京国際映画祭・アジアの風部門・アジア中東パノラマ。イスラエル映画。英語タイトルは"Five Hours from Paris"原題がおそらく"Hamesh Shaot me'Pariz"。
オフィシャルサイトの情報によると「作品解説/タクシー運転手のイガルは息子とふたり暮らし。息子の美しい音楽教師リナにひと目惚れしたイガルは恋に落ちるが、リナの夫がカナダから戻って騒動が…。ほろ苦い大人の恋の物語。プルドフスキー監督はロシアからの移民」あらすじ/パリから飛行機でたったの5時間、テルアビブの労働者階級が暮らす郊外で、ふたりは出会う。彼は生まれも育ちもイスラエルのタクシー運転手で、彼女はロシア人移民の音楽教師だ。彼には野心がなく、彼女はそんなものはとっくに諦めていた。彼は飛ぶことを恐れ、彼女はもうすぐ飛び立とうとしている。果たして、ふたりは結ばれるのだろうか?」というものだ。
映画祭にしては完成度の高い映画だった。逆にいうと、冒険や新鮮さは少なく、よくあるドラマの手法を利用した、そこそこのレベルをクリアした映画ということもできる。政治や宗教はほとんど関係なく、日本で公開しても客が呼べそうだ。
基本は、タクシードライバーの日記風。日本にも「月はどっちに出ている」「バカヤロー」、渡瀬恒彦の2時間ドラマなど、同じような設定のドラマは多く、身近に感じられる。
イガル(山口良一みたい)はタクシー運転手。離婚し、1人暮らし。でも、元妻と暮らす息子(12歳ぐらい)の学校の面談や、息子のスポーツクラブの送り迎えはイガルの役目。で、息子の担任(?)の音楽の先生リナ(仁科亜希子とマドンナを合わせたみたいな魅力的な女優、30半ばぐらい?)と知り合いになり、惚れてしまう。息子を迎えに行くたびきっかけをつくり、話しかける。息子の話では、夫がアメリカに逃げてしまって1人、らしい。でも、本人に確認したら、夫婦でカナダへ移民の予定で、夫だけが先にカナダに行っている、ということだった。それでも積極的にアタックするイガル。で、そのうちリナが打ち解けてきて、リナを送り迎えしたり、リナの友人の誕生パーティにつきあったり。彼女の方も好意を持って接してくるようになる。
しかし、リナの亭主は泌尿器科医。イガルとは比較にならないと思うのだが…。がしかし、いろんな要素が見えてくる。リナは音楽家になりたがったが、現実性を考えて諦めた。しかも、18歳という年齢で結婚。いうなれば、青春を謳歌せずに妻になってしまったわけだ。しかも、まだ早い、と子供をつくるのを伸ばしているうちに、この歳になってしまった。いまさら子供は・・・という心境でもある。このあたりの設定が、微妙に効果的。そのリナの状況を象徴するのが、リナの寝室に飾ってある絵で、下着姿の少女が家の中から窓の外を見ている。広い世の中に憧れをもっている、夢を捨てきれない、ということを語っている。リナは教師以外に音楽ホールでもバイトをしていて、それは音楽の仕事ではなく客の整理だったりする。本来なら場内整理ではなく、私も舞台に・・・。そんなところも、リナの心を揺り動かしていたのだろう。そんなリナが、自分はいつまで籠の小鳥ではない、と思っても不思議ではない。まあ、リナがイガルに惚れたのは、世間知らずのまま大人になってしまった彼女の、いっときの勘違い、かも知れない。きっと男性経験がほとんどないのだ。不自然な恋愛関係も、そう理解すれば、不自然さは薄まってくる。
亭主が医者なのに、リナは貧乏くさいアパートに住んでいる。ひょっとしてイスラエルでは、医者はそんなに金持ちにはなれないのか? それもあってカナダに移住? 現地の事情が分からないので、なんとも言えないけどね。
映画の設定では、リナと亭主はロシアからの移民のようだ。ロシアの歌を懐かしがり、夫もウォッカを飲む。はじめからイスラエルは経由地で、カナダに生きたかったのかも。ただし、直接カナダに行かず、イスラエルを経由する必要があったのかどうかは分からない。あとから分かったのだけれど、監督もロシアからの移民組らしい。イスラエルの出身国状況や背景を知らないと、わからないことがまだありそうだ。
2つの夫婦形態が登場する。イガルと元妻。元妻には亭主がいて、イガルの息子と3人家族。その中に、イガルがしょっちゅう出入りする。なんとイガルは現亭主と、バスを買ってひと儲けしようと画策中なのだ。子供の世話役がイガルということもあってか、ファミリーのようなつきあい。もっとも、監督は「イスラエルでも、あまりあり得ない設定」といっていたけど。リナと亭主も、不思議な関係。夫はリナに飽きている様子はない。後にリナとイガルの関係を知っても(セックスは、最後の最後だけ)、夫はリナを責めない。それどころか、さよならパーティにイガルを招待し、そこで軽く殴り合いをするのだけれど、いさかいはそれだけ。儀式のように一発ずつ殴るだけ。酔った夫とリナを、イガルは家までタクシーで送り届けるのだ。しかも、明日カナダへ行くというので、夫が リナに「別れの挨拶をしてこい」と、送り出す。それでイガルとリナはラブホに行き、最初で最後のセックスをする。そんな関係。あっさり、だね。
監督は、「イガルは争いごとを好まない性格」といっていた。振り返ればそうかも知れないが、臆病、奥手、ともとれる。たとえば、イガルは飛行機が怖い。元妻と亭主が子供を連れてパリに行き、何かの祝いをする予定らしいので、イガルも行きたがっている。でも、飛行機に乗る自身がない。なので、イガルはセラピーに通っている。自己暗示で飛行機を克服しよう、という案配だ。ためしに医師は、セスナへの挑戦を進め、2人で乗り込む。けれど、イガルはぎりぎりで逃げてしまう。もう終わりかと思ったら、再度の挑戦を予約していたようで、イガルはその挑戦にリナを誘う。なんとかフライトするが、イガルは即刻気絶・・・。それでも、好きな彼女と一緒なら、困難も克服できる、という自信の表れかも。
とはいいつつ、リナがカナダに旅発ってしまうのは、寂しい。元妻の家に行くと、亭主が「バス購入の契約をした。あとはお前のサインだ」と契約書を提示する。それを、イガルは拒否。ずっと分かっていたはずなのに、イラついているのか、「ローンなんてまっぴらだ」とけんか腰になってしまう。あんぐり、の夫。このあたり、優柔不断なイガルが自己主張をするようになった、ということなのか。
面白いのは、ただ乗り男とのエピソードだ。最初はひっかかってしまう。それでも、イガルは怒ったりしない。会社への無線には、家にお金を取りに行った客が戻ってきた、かのようにとりつくろう。怒って、客を捜したりはしない。2度目にその客が乗り込んだ。客は、同じ手を使う。しかし、イガルはすべてお見通し。でも、追求したりせず、客がそわそわ逃げるに任せてしまう。去る者は追わず? リナへの感情と同じ、なのだろうか? 執着心がないのか、争いが嫌いなだけなのか。
ラスト。イガルは、リナが乗っていたのかも知れない飛行機を、飛行場の外から見送るシーンで終わる。イガルが、パリまで一緒に、元妻家族と行けたのかどうかは、分からない。
上映後にQ&Aがあった。監督が登場。「パリは大人の恋、ロマンチックな街として、ユダヤ人憧れの都会。ロシア移民に人気がある。一家がパリに行く、という設定は、イスラエルの小さな街と大都会パリを比較させたかったから」「前夫が子供の面談に行ったり、現夫と仲がいい、という設定はイスラエルでも珍しい。あえて、普通ではない設定をしてみたかった。パリで上映したときも同じ質問が出た」「まず、音楽ありきでシナリオを作っていった。共同脚本家と話ながら」(エンドクレジットにかぶる曲の詞に「彼女は風のように去ってしまった」というようなのがある)「この映画は2週間ぐらいの期間を描いている。その間の、ささいな心の動きが大事。イガルは争いごとが好きではない。別の重要な事が起こり、反応が変わってくる、というように」とかいうの。通訳が悪いのか、具体性が無く分かりにくい日本語になってしまった部分もあった。★後記:最初、イガルがリナを送っていくとき、リナがロシアの曲に反応したのに対して、「モロッコの音楽ばかり聴いてるのかと思った」というところがあった。それで、リナはモロッコ人? と思っていたのだけれど、やっぱりロシア移民だった。では、モロッコとは何? という疑問があった。で、「オーケストラ!」にも、モロッコが登場したのだよ。具体的にはよく覚えていないのだけれど、ユダヤ人にとって、モロッコは何なのだ? で、調べたら、中世、スペインで迫害されたユダヤ人の多くがモロッコに亡命し、ユダヤ人居住区がつくられていたらしい。それがイスラエル建国で多くが新天地に移った、という。モロッコは、ユダヤ人にとって、故郷のひとつなのだったのだね。
ユダヤ人にとってパリが特別な街であることも、「オーケストラ!」でわかった。なにしろ、楽団員がみな「パリ」のひと声でまいってしまうのだ。パリで公演できるなら! という憧れ。とくに、ロシアの高級官僚にとって、この上ない響きがあるらしい。亡命ロシア人が、パリに憧れるのは、当然のことなのだね。
オーケストラ!10/28ギンレイホール監督/ラデュ・ミヘイレアニュ脚本/ラデュ・ミヘイレアニュ、アラン=ミシェル・ブラン、マシュー・ロビンス
原題は"Le concert"。フランス映画。
ロシアのボリショイ・オーケストラが、パリ公演する話。といっても、正式なオーケストラではなく、ニセモノ(といっても、かつては本物だった)がね。という壮大なホラ話。とても面白く見た。
所はロシア。30年前、ブレジネフに楯突いてボリショイ交響楽団の指揮者を首になったフィリポフ。いまは、楽団の清掃係をやっている。と、そこにフランスから楽団招聘のファクスが届く。上司はいない。よしっ。ってんで昔、同様に首になった仲間を何人か集め、昔のマネージャーも仲間に入れ、フランスにOKの電話をかける。本家には内緒で、演奏旅行に出かけようっていう寸法。それから、昔の仲間を集めて周り、旅費も工面してフランスへ。すったもんだはあったけれど、見事、公演を成功させるというおとぎ話。
ロシア語が登場するのでロシア映画? こんな内容の映画、ロシアが認めないよな、なんて思っていたら、なんとフランス映画だった。なるほど。しかし、より正確に内容を理解するには、30年前に何があったか。ロシア系ユダヤ人とはどういう存在なのか、を知らないといけないのだろう。でも、それはさておいても、十分に楽しむことができる。
引き入れたマネージャーというのが曲者で、いまだに共産主義国家の時代を懐かしんでいる偉い男イワン。しかも、かつてフィリポフの演奏を中止させ、彼を首に追いやった人物でもある。そんな奴が、なぜ仲間に入るのか? という疑問がある。でも、前日に見た「パリから5時間」の情報が役立った。ロシア系ユダヤ人にとってパリは特別な場所で、憧れの地なのだ、ということが分かっていたからね。だからイワンが、パリに行ける、というだけですべてを黙認し、資金まで調達してまで行きたかった理由もなんとなく、わかった。イワンがユダヤ人ではないとしても、ロシア人にとって、パリは憧れだと想像できたからね。このイワン、なんとかいうレストランで食事をするのが夢らしい、のも面白い。それほどパリはロシア人にとって価値ある場所なのね。
で、なんとかパリに入国。が、楽団員たちはあっというまに市内へ散り散りバラバラ。演奏よりも大切なあれやこれやをしでかしにでかける。たとえばトランペット奏者のジジイは息子を連れてきていて、あれこれ売りさばいたりする方に一所懸命。まったくロシア系ユダヤ人と来たら・・・と思うこと必定だ。
みんなが個人活動に執心しているなか、フィリポフだけは落ち着かない。ソロイストに指名したアンヌという女性バイオリニストのことで頭がいっぱいらしい。さては、アンヌはフィリポフの娘? というような思わせぶりで話は進むのだけれど、実は、楽団員の娘だということがあとから分かる。のだけれど、楽団員の娘にどうしてそこまで執心するのか、というのがよく分からなかった。両親はシベリア辺りへ送られ死んでしまっているようなのだけれど、アンヌは隣人や楽団員が工作して海外へ脱出。だから、接点としてもそんなにあるわけでもないと思うのだが…。でも、なにせ短い映像と言葉でささっと説明されただけなので、こっちがよく理解できていなかっただけかも知れないんだけどね。できれば、もうちょっと丁寧にアンヌの素性について描いて欲しかったね。それだけが、いささか不満。
さて、パリ2日目には合同練習の予定、なのに楽団員がこない。アンヌは戸惑うのだけれど、チェロリストのサーシャとジプシーヴァイオリン奏者が特技を披露して、レベルの高さを納得させる。30年のブランクがあれど、練習は欠かさなかった、ってことなのね。
で、公演当日。ぎりぎりに飛び込んでくる演奏者がいたり、マフィアの息子(?)で資金提供者の下手なやつは縛り倒して、タクトが振られる。最初は合わない。けれど、次第に合ってきて、観客を魅了する・・・って、30年もブランクがあって、一発で合わせられるなんてあり得ない! と思うけれど、これはおとぎ話だなのだから、いいのだよ。公演は大成功。次々に招聘の依頼が舞い込み、日本公演も。って、毎日新聞の第一面を飾るというのはどうかと思うが。この後日談は、バリ公演の演奏の中に映像が挿入されるという寸法で、なかなか洒落ている。アンヌも自分の出自が明白になってひと安心、という流れで、ハッピーエンド。空港で、本家ボリショイと遭遇する、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの偽ボリショイ、なんていうシーンもあったりして、面白い。
コメディなんだけど、下品ではなく、バカでもない。洒落たユーモアがあふれているのだ。もちろん、感動的な場面もたくさん。おかしかったのは空港のロビーで偽パスポートをせっせとつくっちまうところ。おいおい。だけれど、おとぎ話だからいいのだ。
モリエール 恋こそ喜劇10/28ギンレイホール監督/ローラン・ティラール脚本/ローラン・ティラール、グレゴワール・ヴィニュロン
原題は"Moliere"。フランス映画。モリエールが人妻と恋に落ちたひとときを描いた、時代劇コメディ。日本でも昔は時代劇でコメディというのはたくさんあった。でも、最近の時代劇はみなシリアスになってしまった。
モリエールの喜劇は読んだことがない。人となりも知らない。なので、時代背景は、ふーん、という感じ。衣装は、ブリューゲルの絵に登場するみたいな感じで、貴族がいた時代だから18世紀の前半? 調べたら17世紀の人だった。どうも、作品のエピソードなどから物語を創作した臭い。というのも、ドラマの中で出くわした出来事をもとに作品をつくった、という内容になっていたから。
物語は、欧州各地を巡業し、フランスに戻ってきた売れっ子作家、というところから始まる。凱旋公演は何にするか? 周囲は「喜劇」というが、本人は喜劇は下等なもの、と信じ込んでいて、「悲劇をやりたい」という。それで国王(?)に会いに行くが、「喜劇以外は認めない」といわれ、落ち込んで戻る。と、女の使いが来て「母が・・・」と呼ばれる。で、13年前に戻るという寸法。
まだ売り出し中のモリエール。借金の踏み倒しで監獄行き、というところを救われ、富豪のアドバイザーになる。どうもこの富豪、女房がいるのに公爵だかなんかの令嬢にご執心で、口説き落とすテクニックを芝居に学ぼう、という魂胆らしい。名目上は聖職者として、子供の家庭教師、ということでね。
でも、モリエールの文才に目を付けたのは、富豪の美しい奥方。いつしか年の離れた2人が抜き差しならぬ関係になるが・・・。という一方で、富豪の友人、と称する侯爵(だっけか?)が富豪に借金を迫る、っていうか、借りる貰うは当たり前、わしゃ貴族だから働かぬ、という主義の侯爵で、こんなのが昔はいたのね、という感じ。侯爵は自分の息子と富豪の娘を結婚させ、堂々と金をせびる魂胆だけれど、娘には平民の恋人がいる。侯爵の息子は商売がしたいという。あれやこれや、話自体がモリエールの芝居の如し。って、芝居からストーリーを作り出したんだろうから当たり前だけど。
がしかし、疲れもあって、しかも、1時過ぎにベーグルを囓りながら見ていたので、つい、うとうとっ。モリエールが富豪に言われて作品を書こうとし始め、できた原稿を富豪の奥さんが見る、というところへんが、記憶がない。でもま、全体にテンポがゆったりしていて、現在のギャグの連発、というものでもなし。笑えるところまでいかないエピソードがそんなに多くなかったのも事実。それとやっぱり、この手のコメディは、ネイティブじゃないと心底笑えない、っていうのもあると思う。というわけで、つまらなくはなかったけれど、俺好みの映画ではなかったかも。
富豪の奥さんになる女優ラウラ・モランテが、美しい。1956年生まれというから、51歳ぐらいのときだ(映画は2007年作品)。富豪を演じるファブリス・ルキーニは橋爪功みたいな雰囲気。働かない侯爵は、池田鉄洋みたいで、モリエールはローリー寺西って感じ。
最後、呼ばれていった先は、富豪の婦人の病床。すでに館には住んでおらず、没落したのだろう。粗末な家に、娘(あれは末娘か)と住んでいるようだ。亭主は、死んじゃったのかな? などと、思ったりして。
しかし、コメディにしては衣装も豪華で,金がかかってる雰囲気だった。
ホット・サマー・デイズ10/29TOHOシネマズ 六本木ヒルズ スクリーン7監督/ウィン・シャ、トニー・チャン脚本/トニー・チャン、ルクレティア・ホー
東京国際映画祭・アジアの風 アジア中東パノラマ 最優秀アジア映画賞候補作品。アメリカ/香港/中国。
公式サイトによれば「作品解説/フルーツ・チャンのプロデュースによる、灼熱の夏の日に展開される男女5組の恋の顛末あれこれ。ジャッキー・チュン、ニコラス・ツェー、ビビアン・スーほか中華圏豪華キャスト。ビッグなカメオ出演者もお楽しみに!」「あらすじ/猛暑の夏、お抱え運転手とフット・マッサージ師が、メールを通じて恋をする。純粋な女子工員は、自分に想いを寄せてくる人に、暑い屋外に100日間立つことを要求する。鮨職人は、愛するグルメ評論家がずっと一緒にいてくれるよう、素晴らしい食事を用意する。盲目の写真家は、自分が侮辱した美しいモデルを探している。老人は、亡くなった妻を葬る聖堂のために、アンティークな電球を必死に探し求めている。クーラーの修理人は、ロードレースで謎めいた少女に毎晩挑戦する。そして町中が停電になり、人々は混沌に包まれる。その時、愛は輝きを放つのだろうか?」というもの。
「ラブ・アクチュアリー」「バレンタインデー」に影響されたみたいな群像劇。ある熱い夏の物語。であるはずなのだが、そのなかの1つのエピソードは100日間の物語だ。中国の田舎でそんなに長い夏があるのかどうか知らないが、ちょっと違和感。だけど、最後にちょっと種明かしがあるのだけどね。
運転手とピアニスト志望のマッサージ師(マギー・チャン)/互いに自分を偽り、メル友に。会ってみたら、互いに虚勢を張っていたのがバレるというありきたりの話。マギー・チャンがアイスキャンデーをなめる口元が、とてもいやらしく見えてしまった・・・。
女子工員と、青年/加瀬亮と北川景子みたいなカップルの話。この話がキーになっている、と最後に分かるのだけれど、それは後で。で、100日間炎天下で立ってたら,つきあってあげる、といういい加減な約束をするほどの関係なのか? 2人は。たんに青年が、賭けをした(女をモノにしたら腕時計を貰うと)結果ではないの? 途中で代理人やマネキンに立たせたり、本気で恋したわけでもない。そもそも、100日もふらふらできるほど、ヒマなのか? こいつは。と思った。しかも、100日目には立つことをやめ、汽車に乗って都会に向かってしまう。なにを考えているのだ? という気分。
寿司職人とグルメ評論家(ビビアン・スー)/この話も、前提なく始まるから、よく分からない。2人の関係は、かつてどうだったの? どっちがどっちを、どう思っているの? 好きなら好きと、言っちまえばいいではないか。なにをノロノロやってんだ、という気分。じれったくて、つまらない。ビビアンは、ワサビ、という名前らしい。広末涼子の出た「WASABI」を連想してしまうが、意味はなさそう。ま、このエピソードでは、日本の寿司が本格的に食べられるようになりつつある、ということを教えてくれる、のが拾いものかな。銀座で修行した中国人の職人が本当にいるかどうかは知らないけどね。ビビアンは相変わらず可愛いけど、少し、オバサンが入ってきたかもね。
老人と妻の話は、それほど大きな話ではないが、単純で分かりやすい。しかし、仏壇に使うあんな電球が、そう簡単になくなるようにも思えないけどね。
カメラマンとモデルの話は、ちょっとアホらしい。モデルに厳しいことを言ったせいで失明した、と思い込むカメラマン。助手とともに行方知れずのモデルを探すのだが、カメラマンは脳腫瘍にかかっていた、という話。場末のショーで案内係をしていたモデルを見つけ、代わりに助手がモデルを撮り直す、ということだけれど、なんかな。説得力がないね。そうそう。雹が降るシーンがあるのだけれど、「マグノリア」のカエルを連想させるね。
中古クーラー屋とバイク少女の話は、リアリティがない。スクーターで走っていたら、バイク少女を見かけ、追っかけたら知り合いになった、といういい加減な話。少女は勝手に病院に入っていき、哀れな人に善意を分け与えている。が、あとから、彼女も不治の病らしいことが分かるのだが、唐突すぎるし背景も分からないので、すんなり入らない。この少女役の娘が、ちょっと影があるゴシック系で可愛く見える。ま、化粧のせいで可愛く見えるだけで、本当は単にシンプルな顔かも知れないんだけど。スタイルはよかった。
で、ラストに停電になって、それぞれのカップルはそれぞれの時間をともにする。停電の話というのも、何年か前に日本であったよなあ。なんか、映画のすべてが借り物みたいな感じ。で、その後、妙な展開に。モデルを撮っていた助手が、腕に古い時計。「20年前、父が、100日間立てるかどうか賭けをして、それでもらった・・・」と説明する。ん? ってことは、あのエピソードは20年前だったのか。あー。そういえば人民が、とか、下放(?)がどーのこーのみたいな話をしていたような・・・。するってーと、中国人なら、あれが過去の話だってことは、周知だよな。で、それはそれとして。ここで、助手とモデルが立っているところに、女工と青年がオーバーラップ。ん? では、青年の母親は、あの女工なのか? でも、青年は女工を置いてきぼりに、都会へ出たのではなかったか? 話がわからんよ。ピタッと収まる解き明かしかと思いきや、混乱させているだけではないの?

 
 

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