2010年11月

桜田門外ノ変11/1MOVIX亀有・シアター7監督/佐藤純彌脚本/江良至、佐藤純彌
桜田門外ノ変については、以前、本も読んでいるのだけれどね。細かい経緯すっかりは忘れている。幕末に暗いので、ディテールに弱いのだが。で、思うに。この映画、忠実であろうとするあまり、省略を忘れてしまったような気がしてならない。なぜって、登場人物が多くて複雑で、どっちの側に与しているのか、分かりづらい。もっと対立構造を単純化して、誰でも分かるようにしてもらわないと、何が何だかさっぱり分からんよ。福井藩の松平春嶽とか、西郷隆盛の島津藩、それから鳥取藩の連中、徳川斉昭だとか、思想的にどう結びついているのか、フツーの庶民にはわからんぜよ。尊皇、攘夷、尊王攘夷にしたって、時代によって概念が変わっていたりするのだからなあ。歴史好きは面白く見るのだろうが、ドラマ好きには受けないかもね。
テロ集団がどんな連中だったのか、というのも、よく分からない。そもそも御三家のひとつ水戸藩の陪審たちが、なぜ井伊大老を狙ったのか。そもそものところが、あまりよく描かれていない。冒頭で尊王攘夷の説明はあるが、水戸藩主斉昭と井伊の対立が、どういう思惑から発したものか、アバウトだ。将軍継嗣問題はちらっと触れているけれど、一橋慶喜と徳川家茂を推すグループの思惑、対立、というのもセリフで説明されるだけ。では、継嗣問題と尊王攘夷はどうかかわってるのだ? 安政の大獄なんか、犠牲となった面々の墓石を見せて終わりだ。突っ込んでいくと、分かりづらい。尊王攘夷より、たんに主君斉昭が井伊大老に冷たくされたから、それで決起、とかしてくれた方が分かりやすいよな。それに、薩摩の軍勢が3000人上洛してどうのこうの、とあったけれど、その3000に水戸浪士が加わって、それで天皇をかついで討幕しようてしてたのか? ううむ。まことに幕末のあれやこれやは複雑怪奇。分かりもうさん。
決起部隊にしても、何に憤っているのか、よくわからない。あまりカリカリしていないのだよな、みんな。中核となった柄本、西村雅彦、生瀬の3人はそこそこ描かれているけど、深くはない。で、こいつら結局、自分では戦ってないのだよな。主人公の大沢たかおにしても、リーダーではあるが見届け人。なんか、その他大勢の斬り込みたいが、可哀想になってくる。兵隊と士官は、いつの時代もこんなものなのだね。そういえば、有村次左衛門(板東巳之助)が井伊の首級をもっていたのに途中で自刃したが、あれで首はどうなっちゃったのだ? 気になって仕方がない。
この映画、前半の早いうちにさっさと襲撃して、その後の残党の行方がどうなったか、に焦点を当てている。のだけれど、時代を遡ったりすることがしょっちゅうで、かなり戸惑う。むしろ、逐次的に描いてくれた方が分かりやすかったんじゃないの? という気がする。で、その後を描くにしても、それぞれの人物の描き方が薄いので、ほとんど共感などは湧かない。ああ、あいつはここで捕まったのね、とかいう程度。西村については、ひょうひょうといい加減な人物に描かれているけれど、表面的だからなあ。もうちょっとやりようがあったろうに。
その襲撃シーンだけれど、これが迫力がない。カット割りせず長まわししているのだけれど、ズバッズバッてはなく、よろよろ、ドタバタ、なのだ。ま、実際の斬り合いなんて、もっともたもたしてるんだろうけど、映画的にはどうなんだろう。リアリティを追求するなら、それなりの描き方もあったろうに。畏れや驚愕、狼狽といったものをみせるとかね。この演出には、そういうものはなかった。
大沢は、リーダーの関鉄之介を演じている。でも、鉄之介本人というより、水戸の女房子供、江戸の妾の、この2人の存在を描くことによって、その存在があるような描き方だ。本人の意志なんて、どうでもいいような風に描かれている。ま、とにかく、この映画は人物がよく描けていない上に、関係性もささっと済ませてしまっているので、どこにどう感情移入してよいらや。まったく困ったものなのである。
それと、言葉の問題もある。わりと江戸時代の言い回しを使っているので、すっと頭に入ってこないのだ。昔の言い回しは大事かも知れない。けれど、理解するには、ちょっと難があるな。それと、薩摩の侍が「ごわす」を使っているのに、水戸の侍に訛りがなく、「だっぺ」をいわないのは、変だよな、どうみても。
さて、結局、ほぼ全員捕まって斬首されるのだけれど、お白砂で、1人1人連れていかれるシーンで、茣蓙の上に草履が片方残ったままでいたのが気になって気になって仕方がなかった。あえてやったわけではない、と思う。が、どうして撮り直さなかったのか、疑問だな。
桜田門のシーンはセットのようだ。けど、一目してすぐ安普請のセットと分かってしまう。金のかけ方が間違ってるんじゃないのかな。むしろ、CGの方がリアルにできたかもよ。そうそう。その桜田門に茶店が出ているんだけど、そこに水戸浪士がゾロゾロ集まって相談したりしている。茶店でも「彦根の連中、気付いていない」なんて、茶店の娘に聞こえるようにいったりしていたのは、おいおい、だよな。
エクスペンダブルズ11/4上野東急2監督/シルヴェスター・スタローン脚本/シルヴェスター・スタローン、デヴィッド・キャラハム
原題は"The Expendables"。字幕では「消耗品軍団」ってなってたんだっけかな。豪華キャストが話題のアクション映画。でも、主役格がスタローンとジェイソン・ステイサム。脇にジェット・リー。ゲストでミッキー・ローク。カメオ出演でシュワルツェネッガーとブルース・ウィリス、ってな感じだな。おっさん、というよりジジイに近いのも混じった無敵の傭兵部隊の話。軍やCIAから頼まれて戦地であれこれ派手にぶちかますのが特異、という設定。スタローン、ステイサム、リーに、ヤク中男、セラピー通いの男、重機関銃好きな黒人、がメンバー。元メンバーで現刺青師がミッキー・ローク。同業者にシュワルツェネッガー。
話は凄く単純で、奇を衒った展開や演出もない。この豪華メンバーじゃなかったら、陳腐な話、としか思えないと思う。だって別に謎も伏線も意外な展開もないんだから。まあ、理解しやすいので話しについて行けるのはいいんだけど、ひねりも何もないから、ストーリーの楽しみはない。でも、なんとか持ってしまうのは、役者の存在に尽きるね。
スタローンは60過ぎなので、顔に厚化粧してる。それが露骨に分かって、ちょっと人造人間っぽい顔だ。ま、しょうがないだろ。胸厚はあるけれど、でも、脱がなかった。Tシャツの下に肉布団でも巻いてるのかな?
スターが出ている部分は見られるのだけれど、カーチェイスやクライマックスのアクションが、どーもね。どちらもカメラぶん回しでカット割りが多い。カーチェイスなんか、クルマの位置関係がさっぱり分からない。その上カメラが動くから、見ているこっちも目がまわる。クライマックスの部分も、派手なだけ。誰が何してどうなって、が見えない。ま、スタント多用しているのだろうけど、途中で飽きてきてしまった。
笑ったのは、シュワルツェネッガーに「あいつ、大統領を狙ってる」というセリフ。それから、最後に、スタローンがヒロインと別れた後、ステイサムが「好みじゃなかったんだろ?」というところ。まったくね。
エンディングに、なぜか長渕剛の歌う曲が流れる。これが、気分をぶちこわしてくれる。なんでまた、と思うよね。
乱暴と待機11/5テアトル新宿監督/冨永昌敬脚本/冨永昌敬
「パビリオン山椒魚」「パンドラの匣」の監督。原作は、本谷有希子。彼女の芝居は見ていないし、本も読んでいない。音楽は大谷能生。やけに印象的なフリージャズのはずだ。
正直にいって、よく分からない。何を象徴しているのか、その端緒もつかめない。不思議な物語。
古ぼけた平屋の市営住宅に越してきたのは、貴男(山田孝之)とあずさ(小池栄子)の夫婦。貴男は無職。あずさは身ごもっている。で、近くの棟に住んでいる奈々瀬(美波)を見て、あずさが殺気立つ。2人は高校の同級生で、奈々瀬はあずさに負い目があるらしい。あずさは「なんでおまえがこんな所にいるんだ」と因縁をつける。奈々瀬には同居人の山根(浅野忠信)がおり、「お兄ちゃん」と呼んでいるが、あずさは「お前にお兄ちゃんはいないだろ!」と凄む。もちろん、あずさは山根にも嫌がらせをする。山根は足が悪く、びっこをひいている。なのにときどきマラソンに行く。と称して天井裏にもぐり、部屋の中の奈々瀬を見ていたりする。・・・というような、謎を引きずったまま展開するので、30分ぐらいはこちらの緊張も持続できる。のだけれど、いつになってもあずさが奈々瀬にからむ理由が明かされない。なので、飽きてくる。だって話が転がっていかないのだもの。
その原因がかすかに分かるのは、中盤。奈々瀬の恋人を寝取った、ということらしい。がしかし、あずさが、あそこまで狂気じみたことをするのは合点がいかぬ。なので、実はもっと凄い何かがあるのだろう、と思っていたのだけれど、結局、寝取られ以外、なにもない。拍子抜けである。その後で分かるのだけれど、奈々瀬は高校のとき、誰にでもやらせてくれる女として有名だった、ということが分かる。だったらなおさらだ。そんな女に男を寝取られたのなら、男を非難しろ、と。
その後、貴男は奈々瀬に迫って関係をもつのだけれど(妻が妊娠中ということもあるだろう)、奈々瀬が色目を使ったということではない。奈々瀬に、男を呼び寄せる何かがある、ということなのだろう。2度も奈々瀬に連れ合いを寝取られた、あずさ。これまた、そういう運命にある女だ、としかいいようがない気もしないでもない。
貴男、あずさの夫婦は結局、離婚してしまう。でも、それでもこの映画の中では、フツーの常識人なのだ。山根と奈々瀬の関係は、まったくもって理解できない。
おさせの奈々瀬は卒業後、都内の出版社に勤めていた。このエピソードが不思議。星占いが担当らしいが、どこから化の電話で「手、抜いただろ」いわれ、最初は戸惑った表情なんだけど、つぎに「手、抜きました」と素直に認めるのだ。いったいこれは、何を意味しているのだ? わからない。で、家に戻ると山根が来ていて、半分、拉致されたようにして市営住宅に連れてこられる。別に山根は暴力も使っていないし、脅してもいない。そうして2人の共同生活が始まるのだけれど、すぐさま奈々瀬は灰色ジャージの上下と、素通しメガネを着用する。斯うして共同生活が始まったのが、5年前。奈々瀬22歳のときで、以後、ずっと一緒に住んでいる。しかし、2人に性的関係はない。山根は、あずさに「あんた童貞?」といわれるほどなのだ。
山根は奈々瀬を「お前のせいで両親が死んだ」と責める。奈々瀬はそれを否定しない。それどころか贖罪の意識がみなぎっている。この奈々瀬の性格が、もっとも不可解。
越してきて、最初に貴男が奈々瀬に会ったとき、奈々瀬は新聞の勧誘かと思って拒絶する。そのとき、奈々瀬は仏壇の前で写経をしていた。つまり、罪悪感があるから、と考えていい。でも、山根の両親の何に対して責任があるのかは、観客にはずっと分からない。
奈々瀬は、メガネにジャージで、まるで「ごくせん」の仲間由紀恵そっくりだ。で、貴男にもあずさにも、おどおどしている。でも、山根には愛想良く、ご機嫌を取るような接し方をする。貴男にも、最初はおどおどだったけれど、次第にニコニコになる。このあたりの関係性の撮り方の理由が、良く分からない。あとから山根は「お前は人に嫌われたくないんだろ」的なことをいうのだが、愛想の良さは、それがあるからなのかも知れない。でも、なぜ彼女が「人に嫌われたくない」のかはよくわからない。もともとそういう性格で、そのせいで周囲が勘違いし(貴男もそうだった)、「お、この女、俺に感心があるのかな?」とアタックしてきた、と考えることもできる。たんに人がいいだけ? ううむ。
では、最初に奈々瀬が貴男にあったとき、小水を我慢しすぎて漏らす、のは何なのだ? あれも、話の途中でトイレに行くのは申し訳ない、という配慮?
出版社に勤めている頃の奈々瀬は、フツーのメイクの、ちょっと影のある女性。後に、貴男があずさと離婚し、奈々瀬と暮らしているシーンで登場した奈々瀬も、フツーのメイクのフツーの表情だった。ジャージとメガネは、奈々瀬の性格を一変させるコスチュームなのか?
こんな2組の男女が、ギスギスとだけれど、山根の家で4人でボードゲームをするような関係になる。で、あずさは仕事にでかけるからと家に戻る(あずさって、雇われかと思っていたら、自分の店をもっている! 27歳でだ。どうやったんだ?)。山根が、気を使ってマラソンにでかける。もちろん、貴男と奈々瀬のセックスを屋根裏から見るためだ。あずさが、家をでる。2人なった貴男が、奈々瀬に迫る。「こんなこと・・・」と奈々瀬が少し拒む。貴男は「これは、僕とあずさが仲よくなるためだ」というような、わけの分からないことをいって奈々瀬を納得させる。貴男が奈々瀬にまたがる。と、そこに、あずさが立っている。という、怖いシーン。言い訳する貴男。破水しながら、貴男を責める。あずさが奈々瀬に包丁で斬りつけようとする。天井裏の山根が「やめろ」という。「やるわけないだろ」というあずさ。天井裏から見られていたことに気付き、驚愕する貴男と奈々瀬。天井を踏み抜いて落下する山根。貴男の腹を刺すあずさ。・・・というのが、ばかばかしいクライマックス。
その夜、山根は「でていっていい」と奈々瀬にいう。2人の関係は、ゆるい軟禁だったのだ。そして、「もうお前に復讐しようとは思わない」ともいう。ここで、山根の奈々瀬に対する恨みは消えた、といえるのかな?
そして、しばらくして。あずさは子供を産み、スナックのママも継続中。そこに、スーツ姿の山根が登場する(趣味のカセットいじりが高じて会社をつくった、らしい)。「どうなった?」と聞くので、あずさが家につれていく。と、貴男と奈々瀬が同棲中。というところで、話が、山根が両親の事故のことを話しはじめる。むかし、山根は両親とクルマに乗ってどこかへいくところだった。そこに、アニメかなんかか見たい、といって奈々瀬が乗り込んできた。奈々瀬は、山根の家の近所の子供だったのだろう。踏切で車が止まってしまって、そこに列車が。そのとき、後部座席の山根は父に「前へ」といった。けれど、奈々瀬が「後ろへ」と言った。両親は列車が近づいているのが見えず、混乱。そのせいで両親が死んだ、と山根は奈々瀬を非難しつづけていた、という。で、そのとき、あずさが介入する。「それって、後ろでよかったんじゃない? だって、後ろに動いたから、あなたがた2人が助かったんじゃないの」と。凍りつく山根。
とまあ、これがこの映画の大逆転みたいなエピソードなんだけど、そんなことに気付かなかったのか! と思うとアホらしくなってくる。で、突然、山根は奈々瀬に「お前への復讐の方法を思いついた」と駆けだして、トラックにひかれる!
で、次のシーンでは、包帯だらけの山根のそばにジャージとメガネの奈々瀬が「これからはお兄ちゃんと一緒に暮らせるのね」と笑顔でいう。じゃん。おしまい。
という、わけの分からん話である。思わせぶりに難解ぶってるだけで中味は何もないような気もするのだけれど、なんか読み取ってやりたい気持ちもあったりする。けど、わからんなあ。
ラスト、登場する山根は足を引きずっていない。あずさに訊かれて「治った」という山根。って、それだけ? もしかして、足が悪かったのは精神的なことが原因だったのか?
「男のために死ねるけれど、男のせいで死にたくはない」という、あずさの言葉は、ちょっと印象に残った。
遠距離恋愛 彼女の決断11/5新宿武蔵野館2監督/ナネット・バースタイン脚本/ジェフ・ラ・チューリップ
原題は"Going the Distance"。毒にも薬にもならない、暇つぶしのためのロマコメ。ドキュメンタリー「くたばれ!ハリウッド」の監督だけど、こんなプログラムピクチャーも手がけるのだね。ドリュー・バリモアは、最近この手の映画に設定をあれこれ変えて出演している。という中でも、あまりひねりがない方かも、だって、遠距離恋愛だけなんだもん、フックとなる設定が。
エレン(ドリュー・バリモア)はスタンフォードの大学院生。研修でNYの新聞社に来ている。バーで知り合ったギャレット(ジャスティン・ロング)と6週間限定のつき合いを始めるが、いざとなったら分かれがたく、遠距離恋愛を決意する。互いに会えない関係を、どう克服するか。・・・という話。なのだけれど、この映画には成長があまり描かれない。ふつう、この手の軽い映画でもサブテーマが設けられ、そこで何らかの課題に直面し、それを克服する、といった話があるものだ。でも、この映画には、サブテーマにできそうな設定はたくさんあるのに、あまりエピソードとして提示されない。もったいない話だ。
エレンは、就職難のなか、NYの新聞社に雇って貰おうとするが、「100人首を切ったところ」と断られる。最終的に、教授が推薦してくれたシスコの新聞社から誘われるのだけれど、ギャレットと一緒に住みたいので断ろうとする。でも、こういった話が、ささっ、としか描かれないのだよね。エレンがNYの新聞社で唯一書いた記事も、結果しか提示されない。苦労を乗り越え、やっと書けた、掲載された! という話になっていない。もったいないではないか。
ギャレットは音楽ディレクター。会社が売り込もうとするバンドの世話を仰せつかるが、自分が売り出したいバンドは別にある。でも、会社は興味を示してくれない。でも、その葛藤の様子は描かれない。担当していたバンドがどうなったのか、それも描かれない。最後に、ギャレットが会社を辞め、関心のあったバンドのマネージャーになってLAに住む、ということで、シスコとLAは飛行機で1時間の距離! という解決策をもってくるのだけれど、あまりにも簡単に説明されるだけで、観客は「あ、そ」という感じ。もったいない。
他にも、エレンがゲームの達人であるとか、ギャレットの友だちであるとか、面白くなりそうな要素はたくさんあるのだけれど、うまく利用されているとは言いがたい。
その代わり、この映画がしつこく取り上げるのが、下ネタだ。こちらはもう、オンパレード。これが、出会いは「トップガン」もどき、セックスは「郵便配達は二度ベルを鳴らせ」風に描かれたりして、映画ファンは喜びそう。ま、そういう年齢層を狙った映画だからかも知れないけどね。
それにしても、会いたい、セックスしたい。それがダメなら、つきあえない。のが、アメリカ人の普通の感覚なのかね。他の映画でも、同じような設定を見たような気もするし。この熱々カップルとは対照的なのが、エレンの姉夫婦。もう、着衣プレーでしか興奮しない、という。姉夫婦の友だちがやってきて食事をするシーンがあるけれど、ここでは明らかに、結婚すればすぐ飽きる、という事実を対比させている。熱中するカップルには、そんな現実は目に入らない、という描き方だ。
2人が最初にあった夜、ギャレットの部屋で即刻セックスに及ぶのだけれど、その前にマリワナを決めるシーンがある。ここまで大っぴらに描かれてしまうと、なんだかなあ、という気もしてしまう。一般的に、もう、犯罪という感覚は、アメリカではないのだね。
冒頭、ギャレットが恋人とケンカするシーンがある。彼女が「私へのプレゼントは?」というと「だって、いらないって言ったじゃないか」と応える。すると「そういえば、もっといいものがもらえるかと思ったのよ」ということで、彼女の方が怒って出て行ってしまうのだ。ひゃー。プレゼント如きで関係が壊れるのかよ。すごいね。
面白かったのは、エレンの姉の子供。母親は、うるさい娘を黙らせるときダルマさんが転んだ、をするのだけれど、そのときの言い方が「statue」。へー。像になれ、っていうのか。これが、ラストの落ちにも使われている。
ドリュー・バリモアは、かなりシワが目立ち、可愛らしさもなくなっている。ん? 40すぎてたっけ? と思うほど。実年齢を見たら35歳らしいけど、劣化がはなはだしい。ロマコメの女王も、そろそろオシマイではないのかな。
second assistant directorにYumiko Takeya、first assistant editorだったかにNina Kawasakiという名前があった。後者は三世かも知れないけど、前者は日本人かも。
ドアーズ/まぼろしの世界11/08新宿武蔵野館3監督/トム・ディチロ脚本/---
原題は"When You're Strange"。副題の「まぼろしの世界」はセカンドアルバム名で、英文では"Strange Days"。ってことは、原題はここから来ているのかな?
最初に、映画はすべて当時のフィルムから構成されていて、この映画のために撮影された映像はない、というコメントがでる。
で、あとはグループの誕生からデビュー、ジム・モリソンの奇行と死、が描かれる。当時の世相を映すフィルムも。J.F.K.、公民権運動、ケネディ弟、キング牧師、ベトナム反戦、フラワームーブメント・・・。そして、ジミヘンとジャニスの27歳の死。ドラッグカルチャー。1960年代のお定まりで、目新しくもない。しかしまあ、こういう時代に登場したグループである、ということはまぎれもない事実なのだから、その影響をまったく受けていない、とはいえないわけで。かといって、ドアーズ、とくに、ジム・モリソンに思想的・哲学的なメッセージがあったのかどうか、私には分からない。
もちろん、デビュー当時の歌は愛や恋をモチーフにしたよくあるパターン。それが次第に大人世代への抵抗、反発、挑発へと変化していっているのは、分かった。けれど、反発しているだけで、とくにメッセージはないように見えるのだよね。本人は、酒とドラッグに逃げちゃうわけだし。というわけで、やんちゃなことは分かるけれど、ま、要するに大人になれないままだった、ともいえるわけで。ああいう時代があって、ああいうグループがあった、という風にしか思えなかった。ナレーション(ジョニー・デップが語っていた)でも、とくに深いことは言ってなかったように思うしね。
面白かったのは、ステージの様子。本番で歌っている最中に警官が5人も6人もステージにいて、上がってこようとする観客を押しとどめているのだ。ひぇー。ステージの下でやれよ、という気がしたが、観客をステージそばまで近づけるのは、アメリカ流なのだろうか。な日本みたいに、始めからステージと観客席を離せば済む、と思うのだけどね。
しかし、昔の映像をつなぎ合わせただけで映画が1本できてしまうとはね。そんなにフィルムがあったのか。誰が、何のために撮ったものなんだろう。公開するつもりだったのか? それとも、プライベート? 演出されているようなのもあるし。いったい、どうやって見つけ、集めたのだろう?
脇役物語11/9ヒューマントラストシネマ有楽町・シアター2監督/緒方篤脚本/緒方篤、白鳥あかね
期待値が大きかったので、落差が激しかった。使い捨てのような中味だった。
始まってすぐ、この映画は生理的に変だな、と思った。連想したのはハリウッドのプログラムピクチャ−。こないだ見た「遠距離恋愛」みたいな、設定だけで強引に話を引っぱって行くタイプの映画。細かな配慮、伏線なんかはあまりなく、ちょっとした疑問も話の展開で分からせていく、みたいな。
たとえばアヤ(永作博美)がヒロシ(益岡徹)の家に行った帰り、階段でアヤがヒロシに携帯を渡す。「?」と思っていたら、次のカットでヒロシが後輩と歩いていて、アヤからのメールを見せている。なるほど、あのシーンは携帯番号を教えた、ということを示しているのか。
たとえば、ヒロシが主役に復帰することが決まって、その後、会議室で熱弁を振るうシーンがある。声は聞こえない。で、ラストに、主役はアヤになった、と分かる。あの熱弁は、ヒロシがアヤを推していた、ということだったようだ。
というようなバラシを積み重ねていくような映画で、分かりやすいと言えば分かりやすい。けど、どこか繊細さがないのだよな。エピソードをつないで話をつくって行くみたいで、接続詞や形容詞があまりない。話はどんどん進むけど、情緒がない。やっぱ、アメリカ映画みたいな脚本だ。
そういえば、オープニングタイトルにやたらスタッフ名が大書されて登場するのだけれど、半分ぐらいが外人名。ってことは資本があちらからでているのか? それで話があんななのか? と、帰って調べてみた。すると、緒方篤は初監督。父は緒方竹虎の三男で、母は緒方貞子。犬養毅の血筋もひいている。で、MITで学び、欧州で前衛映画を制作。オランダのテレビ番組でコメディアンとして注目され、コメディ映画を制作。その結果の本編らしい。いいとこのお坊ちゃんの道楽か。
映画の中ではウディ・アレン映画の日本リメイク作品にヒロシが出演することになって・・・。というのが串になっているのだけれど、監督自身が「ウディ・アレンのような知的なコメディーが好き」らしい。その気配は随所にあって、ヒロシの父親(津川雅彦)とアヤが意図せず抱き合ったまま倒れるというところにヒロシが戻ってくる、とか。ヒロシが後ろ姿のアヤに告白=弁解し終わって、アヤがこっちを向くとコンピに店長だったり、とか(このシーンの益岡、セリフに淀みがあるのだが、ちゃんとしたのを使えよ、という気分)。そもそもの、ヒロシがよく他の誰かに間違えられる、という設定なんかも、ウディ・アレンが使った、使いそうなネタだ。しかし、別に知的でも何でもなくて、安直なコピーでしかない。安っぽさ、全開である。
スリと間違えられたアヤをヒロシが助ける、というきっかけで始まる2人の出会い。でも、以降の展開はあまりにも強引であり得ないストーリー。洋画なら許せるいい加減さも、日本映画では、ちょっとね。しかも、2人がいつ、どのように互いに好意を持つようになったか、が、わからない。ヒロシは、アヤを邪魔者扱いしていたのではないの? なのに、あれれれれ。ラストでハッピーエンドにもって行くためだけのもので、あまりにも説得力がなさ過ぎ。
アヤと、以前の彼氏との別れも素っ気ないし、松坂慶子の件(ヒロシが愛人だと間違われる)も、いい加減な描写。人物は薄っぺらで、共感できる部分がない。その他、アメリカ的なコメディ描写が、無神経でうっとうしい。違うだろ、という思いにとらわれてしまった。
永作博美のメイクが、素に近いように見えた。つまり、可愛く撮れていないのだ。あえてそうしているのかな。選べば、可愛く、というか、30そこそこに見えるカットばかりでつくれたのに、と少し残念。ま、それでも40には見えないけどね。
さらば愛しの大統領11/10シネ・リーブル池袋・シアター2監督/柴田大輔、世界のナベアツ脚本/山田慶太
昼に有楽町でフォーを食べ、丸の内線で移動。ほんのちょっとだけ、ふっ、意識を失った。寝た部類には入らないかもしれないが・・・。で、最初の20分ぐらいは見たような・・・。ほとんど意味のないギャグの連続。とくに面白くなくて笑えない。ふっ、と気を失う。気がつくと、取調室のNGシーン。が、また気を失ってしまう。その後、もう一度気付いたが、また寝てしまう。で、最後の15分ぐらいは見たのかな。
アメリカのおバカ映画みたいなぶっ飛び感がまるでない。小ネタ、それも、どこかで見たようなのばかりで、目新しさがない。テレビで十分。っていうか、テレビでも見ないかも。そんな映画を、見に行くな、って話だが。
吹石一恵はなんでこんな映画に出たのだ? 大杉漣、中村トオル、六平直政とかさあ。・・・前田吟、釈由美子は、出てても違和感なかったなあ。
国家代表!?11/10シネマスクエアとうきゅう監督/キム・ヨンファ脚本/キム・ヨンファ
英文タイトルは「Take Off」。事実をもとにしたフィクション、とクレジットが出る。けれど、Webで見ると、劣悪な環境で練習していたのは事実らしいが、他はほとんどフィクションらしい。長野五輪で130mジャンプ連続でメダル目前、が最後に失敗というのも嘘。最下位は事実らしいが、そこまでやるか、という創作だ。
ほとんどジャンプ経験がなく五輪をめざす、という設定を聞いて連想したのは「ジャマイカの選手がボブスレーに挑む「クール・ランニング」。あのレベルまで行ってるかな? と期待したのだけれど、ハズレだった。
なんと尺が2時間26分。描き込んでいるのだな、と思ったら、そうでもない。あの内容なら100分程度に収めるのがフツーだ。むしろ、必要な部分を描かず、ムダに長い気がする。それに、脚本に緻密さが足りない。
分かりにくいのは、背景。冒頭に韓国のオリンピックの歴史みたいのが写真でぱらぱら紹介され、どうも韓国が立候補しているが・・・競技不足でダメ、とか通知が来る、という過程が描かれる。字幕が悪いのか、こちらの頭が悪いのか、この、映画の前提条件がすっと飲み込めなかった。見終えて想像するに、開催するにはエントリーする競技数が規程を満たしていないとダメ、で申請を却下されたということかな。それで、これまで参加していなかったジャンプにエントリーするための、偽装チームだった、と。ワールドカップにも参加して、参加資格も得たが、時を同じくして主催国決定の投票に負けたので、チームは解散の憂き目にあう。けれど、なんとか自費で長野にやってきて、冬季五輪に参加した、と。それでいいような気がするのだけれど、はっきり分かりやすく描かれないので、確たる自信はない。そういえば、ワールドカップでは米国チームとケンカして出場停止となり、五輪参加資格も得られないはずだったのが、天候不良で試合が中止となり、全チームが五輪に参加できるようになった、のだが。この件もよく分からなかった。そういうルールがあるのかい? こういう、ちゃんと説明しなくちゃならぬ部分に手抜かりがあるような気がして、すいすいと合点して見られなかった。わだかまりを抱きつつ見るのは、やっぱり、スカッとしない。
もうひとつ、大きな問題がある。フツー、この手の映画ではメンバー集めがワクワクするものだ。「七人の侍」なんかを筆頭に、どんな映画でも期待感が増す部分。だけど、この映画はこの部分を大事にしていない。コーチとボブがどうして選ばれたのか、もかなりテキトー。他の3人+1人のメンバーも、場当たり的に選ばれてるみたいで、どうして彼らが? という疑問しか感じられなかった。これはかなりもったいないことだ。
コーチの娘、というのが登場する。が、彼女の意味がほとんど不明。映画の中では、何の役回りも果たさない。得体の知れない商売をしているという設定なんかやめて、フツーに選手を応援する少女、で十分機能したと思うんだが。ボブと、彼を捨てた韓国の母親のエピソードも、だらだらと長いわりに効果が薄い。やっぱこの映画、物語がよく練れていなくて、ムダが多すぎると思う。
選手の成長も、あまり描かれない。そもそもジャンプ経験があるのはボブだけで、それも米国でジュニアレベル、という設定。あとはスキーは知っていても、オチコボレだ。そのオチコボレが五輪に参加するだけの理由が欲しいし、あの傾斜を克服するまでのキョーフ感などもほとんど描かれない。一般的なジャンプの練習風景に終始している。そんなんじゃなくて、彼らがどのように成長していったのかを描かないなんて、そりゃないだろう。
というわけで、素材は最高にいいんだけれど、脚本が悪すぎる。
それにしても、韓国人はしょっちゅうボコボコ叩いたり殴ったり罵ったり、下品だなあと思ってしまう日常的な様子。ボブが捨て子でアメリカ人の養父母に育てられて、母を求めて韓国チームに参加、という設定もあまり活かされていない。これは例えば文化的な感じ方の違いなどのことだが、最初は「兄貴」と言われるのがやだったのが、最後になると「兄貴」と呼べ、といったり、コーチをコーチ様と自ら呼んだり、退行しているのが気になってしまった。むしろ、文化の違いでいろいろトラブルを引き起こす、ということがあっても良かったかもね。
で、最後は長野での活躍、なのだけれど。実際は記録も最低だったのに、あわやメダル獲得! が、失敗ジャンプでおじゃん、というように、史実まで変えてしまうというのは、どうなんだろ。国民も、それで喜んでいるっていうのかい? ううむ。
森崎書店の日々11/11シネセゾン渋谷監督/日向朝子脚本/日向朝子
失恋した女性が立ち直るまでの話。時の流れや会話がゆったりと、でも自然に描かれて、とても和んでくる映画。なのだけれど、後半、元カレとの確執の部分が邪魔をしている。あの部分がなければ、とてもいい映画、になったはずだけれど。
貴子(菊地亜希子)は25歳(履歴書の誕生日が俺と同じだったよ)。上京して美大を卒業し、デザイン関連の会社に勤めた。上司の男とつきあっていたが、突然「今度結婚する。総務の○○」と言われる。が、彼は悪びれず、ごく普通の会話の中で言う。しかも、「これからうち来て、ビデオ見る?」なんてこともいう。二股かけていて、完全に貴子は遊び。しかも、結婚することをしゃべってしまっても、まだやれる相手、と見られているわけで。男も男だが、貴子も貴子、という気がしないでもない。で、あっさり会社を辞めてしまう。・・・というところに、打たれ弱さを感じてしまう。そんなナイーブな女を、簡単にやれる女、と思っている男も男だけれど、ね。
働く気がない貴子。母親が弟の悟(つまり、貴子の叔父だな。内藤剛史が、いい))に話をし、神保町の古書店の2階に住まわせて貰うことになる。記憶も薄い叔父、神保町・・・。叔父の店の手伝いには二の足を踏みそうだけれど、神保町に住める、ってのはすごく魅力だと思うんだが、あまり乗り気ではないみたいな貴子。ま、結局、引っ越してくるんだけどね。
という設定で、のんびり、たうたうように話が進む。とくにドラマはないんだけど、それでも、貴子が回復していく様子は見ていて楽しい。それに、本は読まなかった貴子が、少しずつページを繰っていく様子も、見ていてうれしい。うんちくを語る常連客(岩松了)や、喫茶店のマスター(きたろう)も、そこそこ控えめな描き方で、ちょうどいい。喫茶店のバイトのトモコに、田中麗奈。ちょっと彼女は、この映画には派手だったかな。もっと知名度の低い女優の方がよかったかも。
で、市場や古本市、と、いろいろと仕事を覚えていく。浜田山まで買い取りに行ったとき、道で、元カレを見かけ、一気にしぼんでしまう。それを見て悟が理由を聞き出そうとするのだけれど、この辺りから話がおかしくなってくる。面と向かって問い詰めるように理由を聞き出し、「その彼に謝罪してもらいに行こう」というのだ。おいおい。大人の恋に、ジジイが介入? 蒸し返したってしょうがないだろ。謝罪させてどうなるっていうのだ? 性悪男に戻ってきて欲しいのか? 未練を捨てるためには、男に謝罪させなきゃならんのか? 違うだろ。過去に拘泥するのではなく、未来を見るべきだろ。新しい自分を発見する方が、成長につながるだろ。
で、2人は夜、元カレの家に押しかけるのだけれど、けんもほろろに無視される。当たり前だ。そういう男なのだから。そういう男を好きになった貴子にも、責任はあるのだから。
でも、貴子は、自分の思い(元カレが好きだった、誠実につきあっていた。なのに・・・という愚痴みたいな告白)を言えて、すっきりした、という。ほんとかね。
映画は、こうやって過去を振り切り、仕事を見つけて働こう、神保町を出て1人で暮らそう、と決意する貴子がいることを描いて終わる。なんか、都合よく収めたみたいだけど、見ている方はわだかまりが残る終わり方。後半の元カレとの部分は、すれ違って落ち込むというのはいいんだけど、押しかけていく件は不必要だろうと思う。なくても十分、映画は成立するはずだ。もったいない。
悟は、若い頃、海外放浪し、結局、親のやっていた古書店を継いだ、という設定。妻がいたが、どうも自殺でもしてしまったのか。会話では、そんな感じに描かれていた。国立に住んでいる,ということ以外、悟の私生活はほとんど描かれない。そんな思わせぶりもまた、いい。
店は、実際に神保町にある建物を使っているみたい。もっとも、古書展用の建物ではないけどね。あんなだったら、誰も店に入ってこないよな。
あの、悟が「値段がつけられない」といっていた本は、どういう本なのだ? 本文は映ってたけど。
ラスト、屋上で貴子とトモコが会話するシーンで、ピンが貴子にしか合っていない。田中麗奈がしゃべるときは、ピン送りすればいいのに。なんか不自然だった。
が、謝罪部分を除けば、上出来。古書を買いに出かけたくなってしまったよ。
[リミット]シネセゾン渋谷11/16監督/ロドリゴ・コルテス脚本/クリス・スパーリング
原題は"Buried"。埋葬、という意味のようだ。日本語のリミットは、タイムリミットからの発想か。それを[ ]に入れているのは、棺桶だから? ううむ。でも、通じないよな。「埋められて・・・」みたいな方が、分かるんではないの?
ねぎし、で昼食の後なので、寝るかも・・・と思っていたら、その通りになってしまった。ま、それはそれとして。ロビーに座ってたら壁の手製ポスターが目に入った。それには「テロ?」「身代金?」なんて文字が躍ってる。げ。話の展開が分かっちまうじゃないか。実は、以前に簡単な予告編とポスターしか見てなくて。死んだと思って埋められた人が棺桶の中で生き返ったら・・・みたいな話かな? ぐらいにしか思っていなかった。なのに、誘拐されて埋められた、という設定が分かってしまったではないか。その後、トイレに行ったら、小便器の前にこの映画の写真が貼ってあって、それが、箱の中で携帯をいじっているものだった。げ。携帯で外とやりとりする話かよ。またまた展開が分かってしまって、落胆。と、今度は「キック・アス」の紹介アナウンスがトイレの中のSPから流れてくる。なんたらかんたら・・・と、設定から冒頭の流れまでしゃべってる。げ。こっちは耳を塞ごうにも両手が! いや、最近は洋画の予告でも設定その他をべらべらしゃべっちまうタイプが増えてるんだけど、やめてくれよ。こっちはでき限り予断を入れずに見ることで、意外な展開を楽しもうとしているのだから。
さて、この映画。漆黒の闇から始まり、男がイラクの地中の棺桶に閉じ込められていることが分かる。で、その後、どういう展開になるんだ? と不思議に思っていたのだけれど、なんと、全編、箱の中の男の映像だけで通した。これはちょっと驚き。それで1本つくってしまうのだから、その意気はたいしたものだ。
けれど、画像としてはあまりにも芸のないものがつづく。それで途中で飽きてきてしまって、自分の映像をYoutubeにアップする直前ぐらいを、5分か10分、寝てしまった。だって、話があまり転がらず、退屈しちまつたんだよ。昼飯のせいもあるとは思うけど。
気付いた男は、さっそくライターを点ける。状況を確かめるためだけれど、以後、ずっと点けっぱなしなのだ。狭い箱の中で、それはないだろう。空気がなくなる。それを知らないのかと思ったら、途中でそのことに触れる会話も登場する。しかも、あとから携帯の存在を知ってからも、ライターを点けて携帯の画面を見る。それはないだろう。さらに付け加えると、ライターは、点けっぱなしだと、すぐに熱くて持てなくなる。なのに、ずっと持っているのだ。ジッポは、大丈夫なのか? というわけで、嘘っぽさフルスロットで始まったので、萎えたこともある。
携帯が鳴って、存在を知る(んだっけ?)。で、まずは実家の奥さんにかける。不在。交換手に言って、FBIにかける。会社にかける。奥さんの友だち(?)にかける。国務省にかける。と、電話かけ放題(米軍基地や大使館にはかけてなかったよなあ。なんで?)。それでも、自分の携帯の番号は分からない。ううむ。ずいぶん後になって言語設定を発見し、分かるようになるのだけれど、分からなかったのはアラブ文字だったから? なにかの偶然に言語設定画面になるのだけれど、文字が読めなくても逐次画面をいじってれば、見つかったんではないの?
電話する相手が、最初、あまり本気で相手にしてくれないのは、よく分かる。男が必死なのに、相手は日常生活を送っているのだから。そういうズレは、よく描かれていた。けれど、その後の対応が、いまひとつ素っ気なさ過ぎないか? FBIだか国務省の担当は、「大丈夫。助けに行く」の一点張りで、具体的に何をしているのかさっぱりわからない。GPS機能も「エジプトの通信を使っているようなので、追跡は不可能」とかいう。ええ? なんで? という具合に、論理的でなかったりする。このあたりが、身に染みてスリリングに見えなかった原因かも。
会社の担当者からの電話で、この状況下で契約関係を切る、というシーンがある。なんでも、会社の同僚と関係をもったら解雇されても文句はいえない、という条項があったらしい。その、同僚の女性の射殺シーンがYoutubeにアップされていて、男も見るのだけれど、ほんとに不倫関係だったの? 寝てたときに説明があったのかな? それにしても、責任回避のためとはいえ、あんな状況下で、録音を取ってまで「契約はもうない」と宣告するものなのか?
で、ふと思う。アメリカ人が捕虜になって、身代金を払って解放されたケースってあったっけ? 映画中でも言っているけれど、国としては交渉に応じない、んだろ? それは、テロ組織も知ってるんじゃないの? だとすると、身代金要求は、ズレてるような気がするんだけどね。いや、身代金要求にしても、フツーに小屋に隔離して、それでビデオを撮ればいいではないか。わざわざ、コーランの聞こえる教会の近くの地下に棺桶に入れて埋葬する意味は、あるのか? ないよな。そんな手間をかける必要性は、ないのでは? と思うと、映画がアホらしくなってくる。
テロ組織は、男のアメリカの実家の場所を知っている様子。住所や、妻の名前も言ってたっけかな? でも、どうやってそれを知り得たのだ? たまたま捕獲したクルマの運転手だぜ。それに、埋めても携帯がつながる、という検証はしたのかな、テロ集団。でも、携帯やその他を足元に入れたり、トンマすぎないか? 酒やライターなど、残しておいた品物も、恣意的すぎる。それと、携帯。設定をアラブ文字にしておけば、または、エジプト経由だと場所が特定されない、ということを分かってやっていたのかね。

ラスト。米軍がテロリストを捕まえて、埋葬場所が分かった、という。「いま、向かっている。到着した。」と掘り進める音が携帯から流れる。が、でてきたのは、何とかいう男の死体・・・。こっちの男の棺桶は、板が破れ、上から土砂が・・・。で、終わる。のだけれど、掘り出されるのは別の場所、というオチはたいていの人が想像したろう。意外性もなく、ちょっと陳腐な終わり方。むしろ、助かってしまった方が、意外性があったんではないかと思う。
という、映画としての手際の悪さはさておいて。携帯でビデオが撮れてインターネットのYoutubeにアップして、とITフル活用でリアルタイムに事が進む、というのは凄い。遺言まで携帯でビデオだ。ustreamも利用すれば、死ぬところを生中継できてしまうね。あ、そういえば、日本でも自殺の生中継をした男性がいた、らしいが。最近。
思うに。ビジュアル面での工夫をすればよかったのに。たとえば、足元に手紙と発光物があるのを知って、男は棺桶の中で頭と足を入れ替える動作をする。けれど、画面には男の顔と手しか出てこない。ああもどかしい。どうせなから透明板で棺桶をつくり、周囲を土で覆い、それを俯瞰で撮るとかすればよかったんではないのかな。そうすれば、どのぐらい狭い空間か。閉塞感も出せたのではないかと思ったりした。
エクリプス/トワイライト・サーガ11/17池袋東急監督/デヴィッド・スレイド脚本/メリッサ・ローゼンバーグ
原題は"Eclipse"。「日食」のことらしい。シリーズ3作目だ。上映前に1,2作のダイジェストを日本語で紹介してくれた。これは大助かり。ってか、そういう話だったのか、と再確認できたよ。ははは。
で、本作はこれまでと違って、人間ドラマが中心。人間のベラ(クリステン・スチュワート)と草食系ヴァンパイアのエドワード、そして、狼族のジェイコブ(テイラー・ロートナー)の三角関係というか恋のさや当てで通してしまっている。CGを使ったアクションもあるけど、添えものみたいな感じ。なので、平板な青春ドラマみたいな印象。エドワードの虜になってしまっているベラに、翻意を迫る、というか、いつかは自分のことを恋する、と信じているジェイコブ。で、いきなりのキスでベラに嫌われたかと思ったら、エドワードが大事なことを知らせなかったと怒り、ジェイコブと一緒に過ごすようになるベラ。ああ、面倒くせえ。女ってやつは。というような話ばかりで、深みはない。むしろ、ベラの馬鹿さ加減が強調される結果になってしまって、感情移入できない。
第2話で、ヴァンパイアになる、と決心しているベラだけど、まだ噛まれないつもりみたい。でも、「人間である間にあなたと・・・」とエドワードにセックスを迫ったり。ううむ。なんなんだ、この女。人間やめてまでエドワードと一緒になりたいのか? 父親に,何ていうのだ? と思ってしまう。それに、観客席から見ていて、エドワードよりジェイコブの方がしっかりした考えを持っているように見えるので、ベラの軽薄さが哀れに見えてくるのだよ。
で、イタリアのヴァンパイアに操られた新生ヴァンパイアというのが登場する。噛まれて間もない連中は、過激なんだそうな。で、新生ヴァンパイアたちがシアトルを中心に暴れ回り、エドワードたちとベラを狙ってやってくる。ベラの血は他の人間より美味いらしいが、なんでなんだ? 2話までにそんな説明があったっけ。忘れてるよ、こっちは。で、ベラが狙われているからと、草食系ヴァンパイアと狼族が連携し、新生ヴァンパイアと戦うのだけれど、新生たちは草食系よりはるかに強い、といっていながら、終わってみれば草食系の大勝。あれあれ。なんか、呆気なさ過ぎ。せいぜいジェイコブが大けがした程度?
伏線が効いているのが1つだけあった。ベラは狼族の古老から昔話を聞くのだけれど、それは、コールドマンとかなんとかいうのに襲われたとき、妻が自分の体を傷つけ、その血でコールドマンの気を逸らさせた隙に、夫の方が襲って勝つ、というものだった。エドワードと新生との戦いで、ベラはこの手を利用して相手の注意を引きつけるのだよね。あとは、伏線らしいものはなかったような・・・。
興味深かったのは、エドワードの仲間の2人の過去。1人は、かつて男に犯された過去がある。もう1人は南北戦争の経験があり・・・。という過去のことが描かれる。これ、もっと以前からやってれば、人間描写に厚みが出たのにね。今回は、とってつけたように行なわれていて、もったいなかったかも。
そうそう。イタリアからやってきたヴァンパイアのボス女。なんかダコタ・ファニングに似てるなあ、と思っていたら、エンドタイトルにその名前が。げ。本人だった。大きくなっちゃったんだね。でも、まだ16歳か。
マチェーテ<11/18MOVIX亀有・シアター3監督/イーサン・マニキス、ロバート・ロドリゲス脚本/ロバート・ロドリゲス、アルヴァロ・ロドリゲス
原題も"Machete"。「グラインドハウス」に使われた架空の映画の予告編。それが本編になってしまったという映画。主演はダニー・トレホ。鬼瓦みたいな顔の爺さんだ。経歴を見ると、見た映画もあるんだけど、ほとんど記憶がない。こんな役者、いたの? ってな感じ。
タイトル前のエピソード。このつかみが、凄い。所はメキシコ。マチェーテは警察官。その警察もアンタッチャブルな麻薬玉(スティーンヴン・セガール)を逮捕しに、乗り込む。山刀で首や手首をちょきんちょきん腹をズブズブ。もちろんガンガンぶっ放す。が、人質になっている裸の女がボスとツーカーで逆に捕まってしまう。と思ったら、裸の女も、もう要らない、とばかりに簡単に殺される。さらに、マチェーテの妻の首もちょっきん! しかし、マチェーテは命だけは助けられる。って、この、殺されなかった理由がよく分からないのだが。まあいいか。それにしても、内容は凄い。
で、3年後。マチェーテはテキサスの国境の町にいた。って、なぜなのかは、わからないのだが・・・。思うに妻と娘を殺され、腑抜けにされて放り出された、ということか。雑用をこなして暮らしている様子。で、ここに事件がもちあがる。メキシコ人の不法入国問題だ。
テキサス選出の上院議員(ロバート・デ・ニーロ! 「チェンジ、チェンジばかり言って・・・」と現政権をこき下ろすのが愉快)は、反対派。どころか、自警団による密入国者狩りまで行なわれていて、なんと上院議員も参加している。その様子をビデオに撮っていて「これを見せれば、支援者が喜ぶ」と上院議員が言う。うわ。凄い設定だなあ。その秘書みたいないるんだけど、これが実はセガールの手下で。国境線が自由に往来できると安い麻薬が流通するので、国境線の強化を願っている。だから上院議員を応援している。いっぽう、自由往来を主張するメキシコ人グループがあって、その闇のボスがミシェル・ロドリゲス。超カッコイイ! さらに、アメリカの国境警備官みたいなのがジェシカ・アルバで、これも可愛い。
なぜかマチェーテは議員の秘書に150万ドルで「議員を殺せ」と命じられる。その150万ドルを屋台営業のミシェル・ロドリゲスにくれてやり、いざ、撃たん。とし瞬間、心変わり。というか、理性を取りもどした? が、秘書は別のスナイパーを用意していて、彼が議員の足を撃つ。どうも秘書は、はじめからスナイパーに足を狙わせ、マチェーテを犯人に仕立て上げる計画だったみたい。
逃げるマチェーテを、ミシェルが助ける。さらに、ジェシカにも助けられ、最後は自警団とネットワークグループの大衝突に。という話で、細かいツッコミをいれても意味がない。要はドンパチ+山刀でざっくり、を楽しめばいい。
秘書の娘にリンジー・ローハンで、これがヤク中。なんだい、現実と同じ設定かよ、と笑えたりする。途中、ミシェルは簡単に殺されてしまって、素っ気ないなあ、と思っていたら、最後に大逆転。実は生きていて、最後の大立ち回りに登場する。マチェーテの兄は神父で、教会での殺戮もあったりして、もう、モラル・ハザードの連続。リンジーも、素っ裸から尼さんの衣装になって活躍したり、病院のナースがバリバリ機関銃を撃ちまくったり、エロもバイオレンスも笑いもたっぷり。そうそう、セガールは、ナイフで刺された後、ハラキリを見せてくれたよ。
最後に「第2弾」「第3弾」を製作中、なんて予告文字がでるけど、これは嘘だよな、きっと。
華麗なるアリバイ11/19ギンレイホール監督/パスカル・ボニゼール脚本/パスカル・ボニゼール、ジェローム・ボジュール
フランス映画。原題は"Le grand alibi"。アガサ・クリスティ原作らしい。で、ある屋敷に人が10人ぐらい集まって、殺人事件が発生。つづいて、もう1人殺されて。犯人は? という物語。なのだけれど、まず、誰が誰やらさっぱり分からないまま突っ走る。会話が、第三者のことを話題にするようなものばかり。しかも、多数でてくる。もう、何が何だかさっぱり分からず。早々に追いかけるのはやめた。
人物がみな薄っぺら。そもそも、集まった連中の関係も、あまりよく分からない。屋敷の主は議員らしく(というのも、事件が発生して刑事と話している過程で分かる)、集まったのはほとんど親戚、と言っていたけれど、どういう関係かは分からず。知人や、昔の愛人なども登場するけど、因果関係、職業などは描かれない。こんなんで、人物に魅力がでるはずがない。
さらに、事件も曖昧にしか描かれない。プールサイドで死んだ医者・・・。あららら。もう死んじゃったの? で、そこにいた人は? っていっても、人物が頭に入ってないから、分からんよ。
で、やっと中盤から、医者がプレイボーイであれこれ招待客ともヤリまくりだった、なんてことが分かってくる。あと、分かったのが屋敷の議員夫婦。と、娘? 彫刻家の女。作家の男。この作家の彼女は、どういう存在なのだ? イタリアの女は、女優かなんか? その運転手・・・。そうそう。殺された医者の妻もいたんだ。そういえば、医者の患者だった婆さんは、どういう意味があったんだ? とか、後半になって、やっと人々の見分けがついてくる。顔と名前は、曖昧・・・。
で、犯人が医者の妻だった、と分かっても、なーんの驚きもない。ふーん。だから、なに。って感じ。どこが「華麗なるアリバイ」なんだ? そういえば、なんで彫刻家は殺人に使われた9ミリの拳銃を塑像の中に埋め込んで隠したのだ? よく分からん。
警察の連中も、とくにフィーチャーされてないし。なんかな。ぜんぜん演出されていない感じだな。
それにしても。登場する役者は視たこともない。ストーリーもいまいち。なぜギンレイでこの映画がかかったのか、不明だな。たんにフランス映画だ、ってこと、だけか? そんなんで、オバサン客が集まると思ってんのかな。
クレイジー・ハート11/19ギンレイホール監督/スコット・クーパー脚本/スコット・クーパー
原題はそのまんまの"Crazy Heart"。昔は売れっ子だったけれど、いまはドサ回りのカントリーシンガー、バッド・ブレイク(ジェフ・ブリッジス)の物語。教え子だったトミー(コリン・ファレル)がいまや大スターで、その前座まで勤めるという落ちぶれよう。でも、金のために出演する。で、サンタフェで子持ちのジーン(マギー・ギレンホール)と知り合って、久しぶりの恋をするが、アル中が邪魔をして破局。その後、立ち直るものの、ジーンは他の男と結婚してしまった・・・という、よくあるストーリー。しかし、アカデミー主演男優賞を獲得しただけあって、ジェフ・ブリッジスがいい。そして、音楽がいい。こっちも、アカデミー主題歌賞獲ってるんだな。
ドサ回りの感じが、なかなかいい。最初に登場するのはボーリング場。自分で運転するボロ車から出ると、ポリタンクに入った小便を流して捨てる。これでもう、バッドの性格や立場、なんていうのが描けている。マネージャーに挨拶すると、さっそく酒を飲む。金がないから、かつての有名スターであることを利用して、店長に1本サービスさせる。このあたり、しょっちゅうこの手を使っているな、と思わせる演出。こういう、細かい演出が凝らされていて、バッドという人物がとてもリアルに描かれていく。哀れなのが、アル中。昼間っから飲み始め、ステージで気分が悪くなって裏へ逃げ出し、吐いてからまた戻る、なんてことの繰り返し。体は蝕まれているのに、やめられない。でも、現地でかき集められたバックバンドと音合わせなんか、しない。しなくても、ちゃんと歌いきってしまう力はまだ残っている。そう。57歳だけれど、才能はみなが買っているのだ。マネージャーや、後に会うトミーからも「歌を書け」といわれるほどだ。
というわけで、この映画のもっとも大きな謎は、なぜバッドが曲を書かないか、その理由が描かれていない、ということに尽きるかも。
トミーの話題をだされるのを嫌っている、バッド。じゃ、仲違いしてるのか? というと、そんなことはなくて、再会すれば昔なじみのいい仲で、結局のところ、バッドが引け目を感じていた、っていうことだ。救いの手も差し出してくれるし。まったく、バッドに敵はいない。ドサ回りだって、選り好みしなければ、そこそこのオバサンは抱ける。でも、ちょっと曲がり角かな、という自覚があるということか。4度結婚し、そのなかの1人との間には子供もいる。28歳になるはず。と、4歳のときに分かれて以来、初めて電話してみたり。人恋しく、落ち着きたい、という気持ちがあるのだな、と気持ちがつたわってくる。そんなとき、ジーンと相思相愛になる。願ったり叶ったり。
これを、どうやってぶちこわすのか。最初は、ジーンの5歳の息子の子守をしたとき。ああ、ここで事故が起こるんだろ、と思ったらハズレ。その後、ジーンがヒューストンの自宅に戻り、そこにジーンと子供がやってきたときに、事件は起こる。「子供の前では飲むな」といわれているのに、ちょいと一杯とバーに入り、そのスキに子供が行方不明。これで、ジーンはバッドを見放してしまう。この程度で愛想つかされるというのは、その程度の恋愛関係だった、ってことだけど。
で、バッドは思い切って断酒会に入り、酒と決別する。その間に書いた曲もトニーが歌ってくれて、第二の人生は順調に・・・。ただし、16ヵ月ぶりに再会したジーンは、別の、ちゃんとした男と結婚しちゃってたけど。・・・という話で、視線が温かい映画である。逆に言うと、すべて善意と好意に還元してしまって、嫌な部分や困ったことをあまり描いていない、ということでもある。
バッドのアル中の様子は、描かれる。でも、せいぜい吐く、酔っぱらい運転で事故って足を骨折、ジーンの子供を見失う、トイレの横で寝てしまう、ぐらい。暴力を振るうわけでなし、ステージでしくじって再起不能、というわけでもない。へべれけな状態は写さない。人のいいおっさんのまま、だ。この映画の弱いところは、こういうきれいごとにしてしまったところにあると思う。
いやね。断酒会のシーンがでてきたときは、キャンペーンかと思っちゃったよ。それに、1年ぐらいで決別できちゃうし。でも、実際は、ちゃんと断酒できず問題を起こしたり、繰り返し断酒会にやってきたりする、わけなんだろ。でも、この映画では、簡単に酒と決別できてしまう。絵に描いたように、ね。作詞作曲の才能がある、という設定だから、ちょろちょろっとつくって、大歓迎されてしまう。なんて都合が良すぎるの? という嫌いがあるので、その分は割り引いてみないとね。この映画は、見終わるといい気持になりますが、それはきれい事しか描いていないから、なんだから。
ジェフ・ブリッジス本人が歌ってるように見えたが、上手いね。ギターも。
クロッシング11/25新宿武蔵野館2監督/アントワーン・フークア脚本/マイケル・C・マーティン
原題は"Brooklyn's Finest"。ブルックリンの、最高のもの・・・とかいう意味なのか? よく分からん。刑事物。(1)うだつの上がらない、あと7日で定年のヒラ警官エディ(リチャード・ギア)の話。(2)黒人ギャング団に潜入しているヒラ刑事タンゴ(ドン・チードル)の話。(3)子だくさんで引っ越ししたいのに金がない、突撃隊の警官サル(イーサン・ホーク)の話がが平行して進行し、それぞれの主人公が最後にたまたま同じ場所に集まってくる。でも、互いの接触は、道ですれ違う程度。その意味で、オムニバスと考えてもいいかも。
最初に、サルがタレ込み屋を殺して金を奪うシーン。次に、黒人アパート街で、警官が金欲しさに黒人青年を殺害する事件が発生する。この時点で考える。サルが犯人というのは露骨すぎるから、違うだろう。という裏をかいて、犯人だと明かしつつ、その背景を描くのかな? しかし、いつまでたっても悪徳警官の追求ははじまらない。エディは新人警官のトレーニングを押しつけられ、サルは新しい家の頭金のやりくりに困惑している。サルは人を殺してまで金を奪う、というところまではいっていない様子。だって、教会で自分のちょっとした悪事を懺悔して、神は不公平だ、なんて文句を言っているぐらいなのだから。
タンゴが、黒人青年殺しとちょっと絡む。黒人青年殺しで警察に矛先が向かうのを避けるため、警察の上層部がタンゴの仲間キャズをワナに陥れろ、と命令する・・・んだったよな、確か。それとも、キャズを犯人に仕立てるために、だったかな。忘れた。で、悩む。潜入してるギャング団のボスだけど、貸し借り関係もあるみたいで、シンパシーも感じてる様子。でも、拒めば巡査部長への昇進=デスクワークへの転身もなくなる。別居中(?)の妻とのよりを戻すにも、考えどき・・・とね。それにしても、シナリオを書いてその通りに事を進めよう、というのは、昨今の日本の検察のやり口とも似ているね。
3人3様の悩みを持っているのが、面白い。エディは定年まで無事勤め上げて、年金生活に突入しようとしている。そのために関わり合いを避けてきたけれど、署内では能なし=臆病者扱いされている。しかも、妻はいない。逃げられたのか、何なのか。癒しは、売春婦。
サルの子だくさんの悩みは、日本の感覚では「?」。何人子供がいるんだか分からないけど、現在6人ぐらい? で、双子で8人。夫婦合わせて10人。あの一軒家なら、十分住めるだろ。ってか、黒人の子供がいたりして。結婚は何回目だ? ってか、どういう性生活をしてるんだ? だな。ま、女房のシックハウス症候群には同情するけど。
いろいろエピソードはあるけれど、伏線にはあまりなってない。どんどん使い捨てていく。エディの新人教育も、とくにフォローしない。でもって、最初に言ったように、悪徳警官を追いつめる話でもない。それぞれ目的がないまま、だらだらと話がつづいていくので、いささかだれる。
で、あれこれあって、定年退職したばかりのエディは行方不明の少女を移動させる現場を目撃し(あんな連行の仕方を、フツーするか?)、追跡する。サルは、とうとう我慢できず、突入予定だった現場へ、1人、金を奪いに行く。キャズを殺されたタンゴは、復讐のためにレッドの所に向かう。その場所が、黒人アパート群の一棟、という交錯(クロッシング)だ。ううむ。
サルは、金を手にした途端、撃たれてあえなく死んでしまう。たかが家のために、アホかと思う。解決方法は他にあったんじゃないの? せっぱ詰まった感が感じられなくて、イマイチの話だった。
タンゴは、レッドを撃ち殺すんだけれど、サルの仲間の警官に撃たれてしまう。この話がよく分からない。タンゴはキャズをハメる作戦にいったんは乗る。けれど、直前にやめてキャズを救おうとする。が、2人一緒のところを銃撃され、キャズが殺される。警察上部の話では、レッドから話があった、とかいっていたけど、この過程がよく分からない。なんでレッドが警察にタレ込むのだ? レッドの思惑が分からない。
エディが、警官を辞めてから冒険を犯す理由がよく分からない。直前に馴染みの娼婦に「田舎へ一緒に来てくれ」と哀願して断られてるんだけど、その衝撃? ううむ。でも、娼婦に本気で惚れてしまうアホさ加減は、ちょっとな。
というわけで、じっくりと重厚な話運びではあるのだけれど、いまいち辻褄の上でもスッキリしないし、話の結末も暗くてスッキリしない。ううむ。警官もので、こういう重苦しいのは、ちょっと辛いかも。
リチャード・ギアがうだうだつの上がらないヒラ警官、というのが違和感ありすぎで、どーもなじめなかった。最後の頃には、まあ許せるか、という程度にはなじんできたけど。ドン・チードルも、ギャング団の幹部として登場したとき、違和感ありすぎ。「悪い奴じゃないんだろ?」と見ていたら、やっぱり警官だった。なんか、イメージが固定している役者は、損だね。その点、イーサン・ホークのだらしなさは、ハマっていたよ。
ゲゲゲの女房11/29新宿武蔵野館2監督/鈴木卓爾脚本/大石三知子、鈴木卓爾
NHKで評判の朝ドラの映画版。あっちは明るく爽やかサクセスストーリーみたいな感じらしいが、映画版は2時間ずっと「貧乏!」をつぶやきつづけている。ドラマらしいドラマはなく、わずかな人間関係とドラマがあるばかり。物語を期待すると、肩すかしを食うかも。
予告編は見ている。いま思うと、この映画の中のできる限り明るくにぎやかな場面だけを集めてつくったみたい。こんなにスタティックで暗くて陰気な映画だとは思わなかった。この映画を見に来る客は、こんな、作家主義性の高い(と監督が思い込んでいるだけの独りよがり)映画なんて期待してはいない。あのテレビの感動を、映画館で! と思ってやってくるわけだ。それが、こんなものを見せられて、ひどく戸惑ってがっかりしたに違いない。もちろん、テレビとは違うものをつくりたい、という気持ちは分からんでもない。しかし、大衆演劇の舞台に観念論をもちこまれても、困るだけだ。大衆演劇に姿を変えながらも、一本筋の通った主張をすりゃあいいのだ。けれど、それができない。表面的なスタイルから入ろうとする。そんな青臭い映画監督は必要ないのだよ。
戦争で片腕で失った水木しげる。齢40。いっぽうの武良布枝は29歳。戦後間もない頃(具体的にいつ、は字幕にも出てこない)なので、30近い女は相手を選べなかったのだろう。・・・というような、女の気持ちはまったく描かれない。恩給を鳥取の両親の方に振り込ませていて(この理由も突っ込んでは描かれない)、自身は貸本漫画で生活しようとしている水木。あげくの貧乏で質屋通いでやっと暮らしている新婚夫婦。布枝は我慢しているけれど、怒りはあまり感じなかったのか? もっと激しい感情が生じたのではないかと思うのだが…。
2階に下宿している似顔絵描き。餓死する漫画家(一泊した彼が布団の中で砂になっている幻覚みたいなのは、なんのためなんだ?)。その他の漫画家仲間。倒産する貸本出版社。貸本屋のオヤジ。税務署員。講談社の編集者。・・・と人物は登場するけれど、短髪のエピソードで、流れも伏線もない。ただ、ぽつっ、ぽつっ、と点のようにはき出されるだけ。物語のダイナミズムはまるっきりない。
で、最後に、講談社から「好きな漫画を描いていい」と依頼があり、やっと収入が安定するかもしれない・・・。ということろで、いきなり終わってしまう。あらら。これで終わり? 素っ気ないの。印象に残らない映画だなあ。
妙な部分がある。結婚式を挙げて上京し、東京駅で布枝が姉と待ち合わせるシーン。東京駅が白いシートをかぶっている。クレーンも林立している。近代的高層ビルも見えている。おいおい。いま工事中の東京駅をそのまま映してるではないか。なんなんだよ。と、イラついた。ところが、その後、調布駅前のパルコや、姉の家の近くのバス停の向こうに見える巨大マンションや、「止まれ」の文字が書かれている道路など、現代的なものがどんどん見えてくるので、これは意図的なんだな、と考える。しかし、なぜあえてそうしているのか。その理由は、予算の関係なのか、よく分からない。で、思うに。この物語自体が過去の話であって、現代から見れば妖怪物語みたい話が、かつてあったんだよ、ということでも言いたいのかな、と。そう解釈してあげられないこともないかな、と。でも、フツーの観客には、違和感しか残らないだろうな。
なにげなく妖怪が登場するのだけれど、妖しい感じがほとんどしない。最初は、河原に座り込む男女あたりかな。あとから、妖怪らしい風貌のもでてくるけれど、トーンが中途半端。水木の妖怪を信じようとしている気持ちと、とくに無関係のような登場する。火の玉が登場する場面があったけど、あれぐらいかな、合格点は。
水木の母親も、妖怪と同じような感じで登場する。まだ水木の両親は生きているという設定のようなので、心配した母親が、嫁の様子を窺いにきた、という設定なのか。ってことは、水木の母親も妖怪と同じ、ってことだな。しかし、宮藤官九郎の母親役が、南果歩というのは、違和感ありすぎだな。
出版社の外の道路にいる母娘は、あれは妖怪ではないのか? よく分からない。
布枝の奇妙な行動、もある。これは習性と行ってもいいのかも知れないけれど、ゴミ箱を覗く→時計のゼンマイを巻く、というセットで登場する。ゴミに描かれる文字や絵から、彼女は亭主の気持ちを読み取ろうとしているのかな? いずれにしても、変なの。でもま、ゼンマイを巻く行為は、現在の動きを止めることなく未来に向かって動きつづける、ということの象徴かな。ま、どうでもいいけどね。思わせぶりな人物や設定で、さも表現主義的に凄いだろう、と言っているように見えて、実はほとんど何も考えられていない、かなりテキトーな映画だと思うから。もっと、映画館を出るとき、気持ちよくなれる映画をつくらないと、もう、声が掛からなくなるかもよ。>> 監督さん
布枝と姉がタクシーの後部座席に乗っているシーンで、なんと、姉役の坂井真紀の顔が半分切れたままずっと映し出されるという、妙なカットもあった。なんであんな中途半端なフレームにしているのだろう? そもそも、結婚式の写真にタイトルが入る冒頭の場面でも、全体のバランスが変だったし。構図の取り方が、生理的に変な監督なのかも知れない。

 
 

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