2010年12月

やさしい嘘と贈り物12/1ギンレイホール監督/ニコラス・ファクラー脚本/ニコラス・ファクラー
原題は"Lovely, Still"。1人暮らしの老人ロバートの家の向かいに、老母メアリーと娘が越してきた。そのメアリーがロバートを果敢に誘い出し、デートに連れ出す。その気になるロバート・・・。内容についての前知識はゼロだったと思う。最初はロバートの財産を狙った詐欺師? いやまて、タイトルが「やさしい嘘」だからな。善意じゃないとおかしい。するってーと、あれかい? ロバートの記憶がなくなっていて、周囲の人間が覚醒させようとしてるってことか? 事故による記憶喪失か、それとも痴呆? デートが終わった辺りでそんな推測が成立し、ずっとその視点で見ていたら、やっぱりそうだった。だいたい、越してきたばかりの向かいのババアが勝手にロバートの家に入り込んだり、速攻で食事に誘ったり、違和感ありすぎて、裏があるとしか思えない。また、ときどきインサートされるCGが、どうみても脳神経細胞=ニューロンに見える。増えてるんだか減ってるんだか分からなかったけれど、脳に関係あることは確かだ、とも思った。というわけで早々とネタバレしてしまうので、意外性は少なく、引きも弱い。
ロバートが痴呆で、忘れていく過程にあるのは大詰めで分かるのだけれど、前半のあまりにも理性的に見える行動や思考を考えると、あれで痴呆だと納得させるのはちょっと苦しいと思う。それになにより、痴呆老人を向かいとはいえ別棟に1人で住まわせる、というのが変。
そもそも設定はどうなんだ? 実際は妻のメアリーは、あの家にロバートと一緒に住んでいたのか? で、メアリーや息子、娘を忘れてしまった、と。で、いつから1人暮らしだと思い込み始めたのだろう? いやまて。実は息子と2人でスーパーマーケットを経営していた、っていうことも忘れているのか? で、夫婦がいままで住んでいた家の向かいに、息子と娘が越してきたのか? というような、辻褄がいまいちピタリとはまらない。それも、困ったところだ。
しかし、最後は一気に痴呆が進んだのか、倒れたまま死んでしまうっていう終わり方は、ちょっとなあ。もうちょいと、やさしい終わり方はなかったものなのかね。こちらは、ラスト寸前で少し眠くなり、眠りはしなかったけれど、いま一歩で瞼を閉じる寸前だった。
瞳の奥の秘密12/1ギンレイホール監督/フアン・ホセ・カンパネラ脚本/エドゥアルド・サチェリ、フアン・ホセ・カンパネラ
スペイン/アルゼンチン映画。2度目。ストーリーは概ね覚えてる。2ヵ月前に見たんだし。で、感想も大体同じ。ミステリーとしてはつまらない。写真に写った目つきだけで犯人扱いされたんでは、たまらん。スタジアムのシーンの1シーン1ショットは凄い。どうやって撮ったんだ? いったん逮捕した犯人が、なぜ釈放されちまうのだ? からかわれて犯行を自供するなんて・・・。ロマンスは、いまひとつだなあ・・・。彼の地の裁判制度は、ちょっと理解できそうもない。
イシドロを釈放した、また、誤ってパブロを殺した(狙いはエスポシトだったけれど)連中は、ロマーノに関係しているらしいことが、今回、分かった。けど、ロマーノって、なにやつ? 最初、ボリビア人を犯人に仕立て上げようとして、エスポシトと言い争いした男だよな。で、イシドロの釈放について、エスポシトとイレーネが抗議に行った先の男・・・。あの男の位置がよくわからない。
そもそも、工事現場を渡り歩いていたような男が、刑務所に入ったら警察の優秀な手先になるって、そのこと自体もいまいち納得しにくい。(オフィシャルページの説明では、当時のアルゼンチン政府は軍部と対立していて、のちに軍事政権に移行。圧政が行われたらしい。なので、ロマーノは軍事政権側でイシドロはロマーノに利用されたということかな)
瞳の奥、とは、被害者の亭主の瞳の奥、だったのね。また、その亭主が死刑反対で、犯人には空虚な人生を送らせたい、と思っていたことが頻出する。ちゃんと字幕を追っていけば、「なるほど」と思えるような構造にはなっているのだね。
で、最後。事実を解明したエスポシトがイレーネを訪ね、話がある、という。これにたいしてイレーネは、何て言ったんだっけかな。「難しいことだけど」とか何とか言ったんだっけかな。で、ということは、エスポシトがイレーネに積年の思いを告白し、イレーネには受け入れる余地がある、ということの表明なのかな? そのように受け取れたんだけど、夫や子供もいるのに、無理なんではないの?
それにしても、25年前、イレーネはエスポシトの思いに、気付いていたのかいないのか? エスポシトが田舎へ逃げるときの駅での様子を見ると、イレーネはエスポシトに惹かれていたようにも思えるけど、でも、そのときにはいまの夫と結婚することを決めていたわけで。なんか、よく分からないね。
裁判長!ここは懲役4年でどうすか12/2ヒューマントラストシネマ渋谷・シアター1監督/豊島圭介脚本/アサダアツシ
北尾トロの裁判傍聴記の映画化。すでにテレビで「傍聴マニア09 裁判長!ここは懲役4年でどうすか」があって、こっちは半分ぐらい見たかも。
何度か裁判を傍聴したことがある。なので、裁判所内や法定、食堂、裁判所ロビーなどが、かなりリアルなので驚いた。初心者が次第に傍聴にはまり込んでいくイントロ部分は、様々な法廷が紹介されるなど、自分の経験と照らし合わせてしまうので、とても興味深かった。のだけれど、中盤にさしかかる辺りから、少し眠くなってきた。なんでかっていうと、この映画、全体を通す串が弱くて、物語のダイナミズムがあまりない。いうならば、小ネタ(エピソード)を連ねている感じ。
主人公タモツが映画プロデューサーに頼まれてシナリオを書く・・・という設定はあるけれど、それ以上の何もない。だからタモツは何かをなし遂げるために努力したり挫折したり戦ったり乗り越えたり、しない。なので、飽きてきてしまうのだな。
45分程度のテレビドラマならそれでもいいけど、100分近い映画だからね。物語がなければ、やっぱもたないよ。
クライマックスに、放火のえん罪で捕まった青年の件、がある。しかし、タモツは傍聴仲間とビラ配りする程度で、詳しい事件の検証などは行われない。しかも、判決当日かと思ったら、まーだ審理段階だではないか。なんか、うさん臭い。この話が素直に逆転無罪になるかどうかは怪しい・・・。で、私の立てた予想は、無実にはなるけれど、その後、不敵な笑みを浮かべ、「放火は、実は僕がやった」と不敵に告白するだろう、ということだった。しかし、予想通りに事は運ばず、法廷で証言台に立たされた青年が、突然「実は私がやったんです」と告白してしまった。ま、予想は当たらずといえど遠からじ、かも。これで、最後のエピソードは尻つぼみ、なんとも冴えない終わり方になってしまっている。
主人公を含む人物にも、いささか魅力が足りない。タモツ(設楽統)と西村(螢雪次朗)はいいとして、テレビ版の南明奈に相当する、可愛い娘がいない。それと、六角精児の司法試験くずれもいない。4人仲間の2人のキャラが、ぜんぜん立っていない。女性は映画プロデューサーと女検事だけで、主人公とのドラマはほとんどない。もっとドラマのある物語をつくらなければ、映画にならないよな。もったいないことだ。
変なところ。敷地内でのビラ配りはできないのに、配っている。それから、放火えん罪の審理当日、タモツが入館するとき手荷物検査を受けずに入ってきてしまうのは、おかしい。
武士の家計簿12/6シネリーブル池袋・シアター1監督/森田芳光脚本/柏田道夫
原作は確か読んでいる。どう料理するのか、興味深かった。しかし、脚本がよくない。そもそもエピソード自体が面白いのに、ムダに物語を付加してしまった嫌いがある。帳簿と、その背景を描くだけでも、十分に面白くなるはずなのに、家族の年代記にしてしまった。しかし、人物像もドラマ性も薄っぺらで中途半端なのだ。
もし家計簿をモチーフにドラマをつくるなら、あくまでも家計簿は素材に徹するべき。でも、この映画のドラマは中途半端にしかつくられていない。どっちつかずなんだよな。
冒頭は、猪山成之が軍の主計将校であることを見せる。その後、猪山成之のナレーションで話が進むのだけれど、映像に登場するのは父の猪山直之(堺雅人)と、その父親の猪山信之(中村雅俊)。成之はまだ生まれていない。自分の知らない時代を猪山成之が語っていく、というのが不自然ですっと入って来なかった。
「ぐんか」「さんようもの」などの言葉が、解説なしに語られる。フツーの人には分からんよ。江戸時代の言葉や口調を中途半端に導入しているので、分かりにくい部分が多い。逆に、幼い猪山成之がつける毎日の出納帳に書かれる文字は、原題の文字。そりゃ不自然だろ。
猪山直之の母親だったかが、「うちは直参」(だったかな)と言う場面がある。直参というのは徳川家に直接仕える旗本・御家人のことではないのか? 加賀・前田家の家臣は陪臣ということになるのではないのかな。
猪山信之・直之親子がでかけるとき、中間の1人もつけずに出仕するって、変ではないの? 山田洋次の昨今の時代劇では、そのあたり考証にしたがってるようだけれど、この映画はあえて無視? 猪山直之と妻・駒(仲間由紀恵)が祭りかなんかに出かけ、並んで歩き、櫛を買ってやる場面も変。フツー、夫婦で出かけたりしないだろ、あんな具合に。なんか、テレビドラマのいい加減さが、かなり入り込んでいる。
そもそも家柄が算用者で家計に厳しいはずが、借金に気付くのが遅すぎやしないか? 普段の贅沢を抑えておけば、あんな具合にはならないはず。妻に2分もする櫛を買ってやったりして、あまりにも浪費家としか思えなかった。毎日の食事もそう。魚なんて毎日ついたりしない。基本は一汁一菜。だから、倹約生活が始まってから、鱈を一匹まるごと買うところで、「ええっ!」と思ってしまった。
算用方がたくさんいるシーンにも、違和感を覚えた。加賀藩には算用方が120人もいると説明が付くが、120名が何交替かで出勤するのではないのかな? あー、あと、直之が両親に給金を差し出すシーンがあったが、別に毎月サラリーのように払われるわけではあるまい。父親が70石の知行取りで、息子の直之は10俵とか20俵の蔵米取りではないのかな。それともあれは、年に一回、蔵米から届いた分なのか? 家も、70石取りにしては立派すぎかも。
というように、「あれえ?」というような場面がつづくので、正直いってがっかり。いっそのこと、現代劇風にもっとアレンジし、セリフも現代風にやってくれたら違和感は減ると思うんだけど、中途半端にこだわりすぎてると思う。
あー、それから。直之がお救い米の不正に気付き、追求するところも中途半端。正義感ではなく、算用者としてつじつまが合わないのが気になる、というような風にしか見えない。で、下っ端が探っていることに藩の上層部(小木茂光ら)が気付くのだけれど、あの連中はどういうつもりだったのだ? 最初は不正派が直之を能登に飛ばそうとするが、小木茂光らが不正派を一掃。直之も出世する。小木茂光たちは、藩内の政争の具として直之の情報を利用した、ってことなのか? どーも、説明不足。
そうそう。家財を道具屋に売るところで、父の信之が姫君拝領の茶碗(?)だけは売りたくない、という。だからあれは売らないものと思っていたら、道具屋に値を付けさせていた。あれは、どういうことなのだ? 信之の気が変わったのか?
後半はどんどん年寄りが死んでいって、ナレーションの本人・成之も嫁をもらう。のだけれど、母親の仲間由紀恵は歳をとらない。老けるのが難しい役者なら、使わなければいいのに。そもそも質素倹約な女には見えないし、直之の母(松坂慶子)とともに、派手な着物ばっかり着ている。もっと質素で地味な着物を着なさいよ、とツッコミばかり入れていた。
とまあ、映画はイマイチだったけれど、客はずいぶん入っていた。1時前に出ると、次の回を待つ高齢者がうじゃうじゃいた。時代劇と家計簿という組み合わせに、興味を示す客がたくさんいるってことだな。「鸚鵡籠中記」や「藤岡屋日記」「視聴草」なんていうのも、たんに素材としてじゃなくて、それそのもの自体に魅力があるんだから、スポットライトを浴びてもいい時期かも。山本博文の本なんかもね。
黒く濁る村12/9シネマスクエアとうきゅう監督/カン・ウソク脚本/チョン・ジウ
韓国映画。原題はどうやら"苔"らしい。そういや、苔の話題がでてたな。タイムテーブルを見てギクッとした。10時35分〜1時20分となってる。げ。2時間45分もあるのかよ。1時間ちょい前にウーロン茶を2杯飲んだんだよなあ。1杯にしときゃよかった・・・。という心配は当たって、1時間半過ぎ辺りから尿意。なぜって、館内が底冷えして下半身が寒い。ああ。途中で小水に・・・と思いつつの残り1時間あまり。いまいち集中しきれなかったでござる。
1978年の物語と、現在とが交錯しながら進む。1978年、祈祷院で信者の心を捉えている男がいた。ユ・モッキョン。祈祷院の院長はモッキョンを妬み(?)、悪徳刑事(チョン・ヨンドク)に痛めつけるよう依頼する。が、ヨンドクはモッキョンの人心掌握力を利用して、山の中に新しい村をつくる。村民は、ヨンドクの知る殺人者や犯罪者など3人。それに、モッキョンが救った娘。この6人から村は始まった。
で、30年後の現在。モッキョンが死に、モッキョンの息子ヘグクがやってくる。村は大きく成長。ヨンドクが村長となり、例の3人は相変わらず取り巻き。父の死に不審を抱くヘグクが村に滞在するのだが、皆は早く村から出て行けという態度で対応する。いったいこの村は・・・。という展開で、次第に事実が分かっていくという寸法。けれど尺が長いだけで話にひねりが無く、意外性もない。しかも、タイトルから連想されるおどろおどろした空気感もない。どころか、ときどき笑える場面もでてくる。もちろん、笑わせようとしているわけではなくシリアスな場面で、だ。
そもそも1978年の時点で「?」がある。祈祷院の院長は、モッキョンが信者からの土地(?)を自分のものにしてる、と憤り、ヨンドクに預ける。ヨンドクはモッキョンを刑務所に入れ、他の受刑者に暴行させる。がしかし、信者の土地はどうなったんだ?モッキョンが独り占めにしていたのか?
受刑者までがモッキョンの信者になってしまうので、ヨンドクはモッキョンを利用しようと考える。新しい村をつくり、信者を集め、モッキョンに信者をコントロールさせて土地を買い漁る。3人の手下はそれを手伝いする。・・・のだけれど、村民たちがほとんど登場しないので、不思議な村の感じがまるででていない。それに、土地を集めて、ヨンドクはどうするつもりだったのだ? せいぜい村長止まりで、それ以上の欲望が見えない。豪邸や酒食にも興味がなさそう。手下の3人も、フツーに貧乏暮らし。金が手に入れば、もっと何か要求し始めるのではないの? それがないから、闇も見えない。
村長の家からモッキョンや他の手下の家へと地下道が通じている。これはちょっとザワザワっけれど、ほとんど機能していなかった。もったいない使い方だ。高所から村を睥睨し、地下からコントロールする、闇の村長という雰囲気がまるででていない。
で、モッキョンは自分が利用されているとは長く気付かずにいたようだけれど、アホではないの? それが分かると、とつぜんヨンドクを刺し殺そうとする。おいおい。痛めつけられても孤高の人だったモッキョンが、なぜに突然、感情的になる? どーも、モッキョンという人物がわからない。1978年の、祈祷院の集団自殺にしても、最後まで原因は分からずじまい。実は、モッキョンが? とも示唆していないし。
ヘグクがモッキョンの息子、と分かって最初に思ったのが、こりゃ4人組に強姦された娘の腹から生まれた子供だな、だった。もしくは、その娘とヨンドクと手下3人の誰かかの子供。でもそうではなく、たんにモッキョンが宗教者になる前につくった子供だった。拍子抜け。
ヘグクが村に来て、宿泊所として提供される雑貨屋、というのも「?」。そこの主人はイ・ヨンジという中年女。そのうち彼女が、4人組に犯された娘のなれの果てだと分かるのだけれど、なんか存在が中途半端。夜な夜なヨンドクや手下がまぐわいにくるのだけれど、ヨンジの推定年齢は45前後だろ。ヨンドクたちは70過ぎ。かなり変じゃないか? それに、彼女自身も、そういう生活を望んでいるわけでもあるまいに。理解不能。
というようなわけで、何かあるだろう、裏があるだろう、と思いつつ見ていたのだけれど、ほとんど無かった。最後に、ヘグクを村に呼び寄せ、ヨンドクと手下を殺すよう仕組んだのは、ヨンジだった! と示唆するシーンで終わるのだけれど、そんな手の込んだことをする必要がどこにある?
よかったのはキャスティング。みなそれぞれ違った顔をしているので、最初から見分けることができた。
レオニー12/10シネ・リーブル池袋・シアター2監督/松井久子脚本/松井久子
日本以外に、アメリカの資本も入っているらしい。英文タイトルも"Leonie"。イサム・ノグチの母親の物語である。イサム・ノグチの名前は知っていたけど、生まれ育ちは知らなかった。そうか。こんな経緯で誕生したのか、と驚かされた。というのも最近、クララ・ホイットニーの存在を知ったのでね。クララは勝海舟の嗣子・梅太郎と恋仲になり、できちゃった婚で一緒に。6人の子を生むが、梅太郎が頼りにならない男なので、子供を連れてアメリカに帰ってしまったという気丈な女なのだ。しかも、クララは梅太郎より4歳年上。凄いよな。なので、レオニーを見つつ、クララのことを思っていたのだった。
最初に、クララが大学で教師に質問を投げかけるシーンがある。近くの席の女がケータイを見てるので気になって、こちらの集中力が失われていて、意味がよくわからなかった。馬鹿女めが
その後、時制が3つ入り組む冒頭はちょっと分かりにかつたけど、次第に整理されていく。ま、いいか。野口米二郎(中村獅童)との出会い。中村獅童の下手な英語は、いかにも当時の在米日本人のようで、なんか感じがでてた。2人が急接近、はいいのだけれど、レオニーの米二郎を思う気持ちは、あまり描写されていない。これをもう少し描いていって欲しかったかも。
米二郎は日露戦争勃発で、突然帰国の意志を強める。この辺りの背景がいまいち分からない。日本人が米国でも排斥されたのか? 黄禍論は分かるが、アメリカで日本人が暴行を受けるほどだったの? 米二郎が突然「日本に帰る」と言いだすのも唐突すぎて、説得力はない。
子供を産み、母親の所に身を寄せるレオニー。しかし、一家の家族構成などほとんど分からず、ちょっと不満。また、子供の名前をずっとつけない、というのは、理解不能だった。なんか理由があるのかイ? また、ケンカ別れしたのに、まだ米二郎に未練があるのか・・・というところも、あまり感じられない。やはり、2人の関係をちゃんと描いておいて欲しかった。
米二郎がレオニーを日本に呼び寄せる、ってのも、よく分からない行為。そもそも日本で妻を娶っているのだから、レオニーは妾になる。そんな存在を、レオニーが認めると思っていたのだろうか? 米二郎の神経が理解できない。
日本にやってきてのカルチャーショックの数々は、興味深かった。妾が公認されているという日本は、まだまだ野蛮国としか思えないだろうな。なんか、見ていて恥ずかしかった。イサムも、アメリカでは東洋人とバカにされ、日本では外人と差別される。小泉八雲の妻とその、ハーフの子供たちが登場したときはギョッとした。西洋人の顔をして絣の着物・・・。彼らは、ひどい扱いを受けたのだろうな。どんな風に成長していったのだろう。と心配になった。
米二郎に見切りを付け、自立しようとするレオニーは素晴らしい。で、家を建てる過程でイサムが大工仕事に興味をもっていく、というのが興味深い。そういう日常的なところから、アートに入っていったのか、と。
津田梅子のエピソードは、哀しいものだった。開明的な津田梅子でさえ、当時の日本の慣習・常識には逆らえず、レオニーに仕事を与えることができなかった、というわけか。そういう時代だっんだろうけど、梅子は情けない役回りでしかなっかった。ま、5年以上も日本にいて日本語を覚えようともしないレオニーにも問題はあるけれどね。
分からないところもいくつかあった。イサムが単身米国留学したら、その学校がつぶれた、という。なんでつぶれたのだ? 第一次大戦と関係あるのか?ひょっとして創立者がドイツ人だったからとか、あるのかな。だって、戦争が終わった頃、その創立者がイサムを探して世話をするってことになったりするし。
で、アイリスの父親は誰なんだ? 中村雅俊が演じる茶人? 実際にも、分かっていないのかも知れないけど、アイリス自身が母親に詰め寄るシーンは、共感できるものがある。なにもしゃべらずにあの世に行くなんて、ずるいよな。それにしても、米二郎と別れ、自立しつつ、日本の男とセックスだけはちゃんとしてるというのも、凄いね。尊敬してしまう。ま、それは今日の基準での話ではあるけれどね。当時だったら、たんなるふしだらな女だろうけど。
エミリー・モーティマーは演技賞物の熱演で、とても印象的。老けメークもちゃんとしてて、なかなか。静岡(?)あたりに新築したときに雇った下女がいい味を出していた。後半はちょっと駆け足だけれど、全体を通して、上出来。
で、興味をもったのでWebで実際の年譜を見ると、レオニーが米二郎と出会ったのはなんと37歳、イサムを生んだのが40歳、アイリスを生んだのは48歳! ひぇー! こりゃ、日本でなくても色キチガイなんて呼ばれるかもな。
ベストセラー12/14ヒューマントラストシネマ渋谷・シアター3監督/イ・ジョンホ脚本/イ・ジョンホ
韓国映画。ホラー/ミステリーを謳ってるけど怖くない。秘密も大したことがない。突っ込みどころも多くて、いまいち楽しめなかった。1時20分の回で、始まる前にパンを囓ったのだけれど、眠くなるだろうなと思っていたら、当然のようにそうなった。けれども、寝なかったけどね。
20年間も作家をやっているというのに、30過ぎにしか見えない女性ヒス(オム・ジョンファ)が主人公。近作に盗作の疑いがかかり2年間沈黙していたヒス。編集者の薦めもあって、寒村の宣教師館へ執筆に行く。同伴は幼い娘。医師である夫とはうまくいっていない。そこで書き上げた作品が、またもや盗作! ヒスは盗作した覚えがないので、その原因を探りに、再び宣教師館へ・・・。という骨格だけど、大きく前半と後半に分かれる。前半は、サイコホラー。ヒスは娘が襲われる、という恐怖に駆られながら、娘が「お姉ちゃん」とよぶ誰かから聞いた話をタイプしつづける。それで復帰作が仕上がるのだが、それが何年か前の誰かの小説と同内容と分かる。夫が神経科に見せると・・・、実は娘は死んでいて(事故死?)、一緒に宣教師館にいたのは幻覚だったということがわかる。おお。なるほど。「パーマネント野ばら」やアメリカ映画で使われるパラノイアor分裂症のオチだ。
で、この後はミステリー&サスペンス。ヒスは過去の小説の作家を訪れ、さらに、宣教師館に舞い戻る。・・・とここで、ヒスの頭が正常に戻ったみたいになっているのがいい加減すぎ。それはいいけど、あれやこれやでヒスは、自分が書いた物語は事実に違いない、と確信するに至る。4人組が娘を殺した、と。その怨念が過去の作家にもヒスにも同じ内容の物語を書かせたに違いない、と。最初は年寄り4人組を疑う。が、ここで突如若者風3人組が登場する。でも、事件は22年前なので、設定は40歳ぐらい何だろうけど。この3人が宣教師館の2階に入り込み、床下から過去の罪を消し去ろうとするが、床を開けても、それがない! 宣教師館に潜んでいたヒスが見つかり、逃げようとするが、最初の方から登場していたデブに捕まってしまう。このデブも、あの3人組の仲間だったというわけだ。
このあたり、ぜーんぜんサスペンスが足りない。まず、前半で22年前に行方不明になった娘の話が出ているので意外性はない。前半の幻覚でも、床下に埋められた汚れた顔が映ってしまっている。それに、床下に死体がないことも、前半で、村の古老1人が湖にフィッシングセンターをつくるのに反対している、という話で分かってしまっている。死体は湖に沈めてあるのだ。それにしても、盗作問題で話題になり、その作品の中にほとんど事実が書かれているので、あわてて死骸をどうにかしようと集まってきた4人(スティーヴン・キングの話の設定みたい)がアホである。いまさら遅いだろ。っていうか、先に本が出たときには気付かなかったのか? それに、娘の怨霊が事実を書かせたのなら、「いまは湖の底にいる」とは書かれていなかったのか? と、いろいろ突っ込める。
で、4人に捕まったヒス。その携帯の騒音だけでピンと来てやってくる夫。4人組の仲間割れがあり、最後は古老がヒスを水中に沈めるが、なーんと、水中で放った銃声が岸辺の夫に聞こえ、それから夫が湖に飛び込んで足に重りのついたヒスを助け出すって、おいおい、そりゃいくらなんでも不可能だろ、とまたまたツッコミ。
そもそも娘の怨念が2人の小説家に事件のあらましを書かせたわけだが、その怨念は水中→宣教師館→訪れた人間、につたわっているのか? ヒスが依代として選ばれたのは、パラノイア状態だから憑依しやすかった、のかもしれないが。なんか、都合よすぎ。それと、得体の知れない乞食のような婆さんが最初から最後まで登場していたけれど、結局、正体はなんだったのだ?
で、最後に、編集者は「あれは盗作ではなく事実」と電話対応していたけれど、どういうことなのだ? ヒスが数人に面接を受けているシーンがあったけれど、あれは賞の選考会? ヒスの作品が賞の対象になった? いや、ヒスは賞の選考委員をしていて、そこで読んだ作品を模倣して云々というのが最初の盗作だったよなあ。いや、いく、わからん終わり方だ。それとも、俺が眠りかけの頭で見ていたからかも知れないが。単にスランプら陥った作家が宣教師館に行ったら幻覚を見て・・・ぐらいにした方がよかったんじゃないのかね。妙に凝りすぎて複雑にし、つまんなくしているような気がしてならない。
そうそう。なんかコミカルな4人の青年たちだったけれど、都会へ出て行くという娘に振られるのは、あのデブなのか? 娘も偶然死に至った・・・でも死んでいなくて床に埋められて、古老に首を絞められたという経緯を考えると、宣教師館に住み着いて恨みはたさでおくべきか、というほどのこともないような気もするんだけど。
アメリア 永遠の翼12/16新宿武蔵野館2監督/ミーラー・ナーイル脚本/ロナルド・バス、アンナ・ハミルトン・フェラン
原題は"Amelia"。ひたすら退屈な映画だった。なぜって、ドラマがないんだもん。淡々と経過を見せていくだけで、フライトに挑むアメリアの意志がまったく見えない。困難を克服するとかステップを駆け上るとか、ないわけではないけれど、簡単に済ませてしまう。「おいおい。そこに至るには、苦労があったんじゃないのか?」とツッコミを入れたくなるぐらいだ。これは、最初に大西洋横断を操縦士ではなく乗客として成功するときからずっと変わりなく、だからきっと脚本家がつまらないホンしか書けないということなのだろう。
アメリア・イヤハートの存在は知っていたけれど、死んだんだっけ? 成功してた? どっちだっけ。というぐらいの知識。CG以外にも本物の航空機が登場するので、それはそれで迫力がある。けど、たんにそれだけ。外に見どころはない。
そもそも、ヒラリー・スワンクがなあ・・・。あんな男みたいなゴツゴツした女が主人公じゃなあ。で、彼女らしいタフさが前に出た話があるのかっていうと、ない。冒険旅行のプロデューサー(?)のリチャード・ギアと相思相愛になって・・・というロマンスがある。何やってるのか分からないユアン・マクレガーとの浮気もある。げ。ぜんぜんエロっぽくもかわゆくもない。浮気にまつわる諍いや挫折、立ち直りなんていう部分にもスポットは当てない。ああ。つまらん。
で、世界一周旅行に旅立つのだけれど、ああ、これは途中で事故だっけかなあ、と思い出させてくれるような展開になってきて。最後も無線が切れて、それでおしまい。素っ気なく終わってしまった。芸のない映画だな。よくこんなんでみんな納得したもんだ。
それにしても、最初にアイルランドを目指していたのにウェールズに到着。単独大西洋横断も、パリを目指しながら到着したのはアイルランド。ま、レーダーが本格的に採用される前だから無理だったんだろうけど。
最後に実際のアメリア・イヤハートがニュース・フィルムででてくる。おお。ヒラリー・スワンクみたいな無骨な容貌ではないか。ロマンスは似合わなそうな顔をしてるわ。
小さな村の小さなダンサー12/17ギンレイホール監督/ブルース・ベレスフォード脚本/ジャン・サルディ
原題は"Mao's Last Dancer"。どうも実話を元にした話らしい。あまりに中国に辛辣なので気になったのだけれど、オーストラリア映画らしい。なるほど。
1970年代初め、全国の小学校からバレエダンサー向きの少年少女をかき集める。そのやり方が、人買いと同じなのが凄い。近年の中国がオリンピックでも好成績なのは、同じようなことを今でもやってるからだろうな、と思わせる。
そんなわけでリーは無理やりバレエ学校に入れられ、厳しく訓練される。それでも当初は欧米のバレエを中国で上演、というつもりだったようだ。でも、江青女子が見に来て「武器がない。革命がない」といわれ、教師陣がビビル。文化大革命をリードした四人組の威力は凄かったんだな、とつたわってくる。
江青が逮捕され、少し自由が戻ったのか。アメリカのバレエ指導者がやってきて、リーが発見される。そして渡米。3ヵ月の滞留のはずがアメリカの自由に目覚めてしまい、帰国拒否。ガールフレンドと急遽結婚して、故国を捨てる。リーは世界的なバレーダンサーとして認められる。サクセスストーリーと中国の現代史が重なって、話に引き込まれていった。面白い。
話が単純で分かりやすくなっているので、ストーリーを追うだけでも興味深いのだけれど、人物造形となると、いまひとつかな、という気もする。それでも、閉鎖社会中国からやってきたリーのカルチャーショックの数々は面白い。大使から毛沢東思想を忘れるな、自由主義に触れすぎて堕落するな、人から物をもらうな、と言われるのだけれど、次第にそういう刷り込みが剥げてくる。そういえばもともとリーは早熟で、中国にいたときも同期の女の子に恋心を抱いたり、異端として描かれている。自由思想になじみやすい性格だったのかも知れない。教師のベンに与えられた衣服を返そうとしたり。大統領の悪口をいったら危険じゃないか、と心配したり。ガールフレンドとの初体験のときのセックスの話題とか。なるほど、ここまで情報操作されていたのかと思わせる話がたくさんある。
中国政府がリーの滞在延長を認めなかったのは、亡命を恐れたからなんだろう。いまの中国と比べると、大きな差があるね。とくに、後から見た「北京の自転車」と比べると、一目瞭然。ああ、中国政府が恐れていた腐敗は、こういうことなのか、と少しだけ納得できたけどね。でも、自由主義は悪い事ばかりではないし、共産主義もいいことだけではない。まあ、なかなか政体について語るのは難しい。
それにしても、帰国予定の直前に結婚とは、やることが凄い。故国の家族を心配しただろうけれど、それでも自由を手に入れようとしたのは、はたして我が侭ではなかったのかどうか、これも、なかなか難しい問題だ。結果的に、映画では家族はそんなに迫害されなかったみたいに描かれているけれど、現実はどうだったんだろう。
で、中国と対比して描かれるアメリカの懐の広さを痛感させられる。たとえ中国人であろうと、才能のある人間は受け入れる。評価する。尊敬する。こういうところは、さすがアメリカだよなと納得させられる。
最後、両親がやってきてリーのバレエを見るのだけれど、ここはさすがに感動的で涙うるうる。うまくつくられている。
ワシントン公演のとき、大使館(?)に新しく赴任してきた、と語った中国人、あの人は前に出て来ていたっけ? どんな人物かぱっと分からなかった。晴れて帰国したとき、クルマから女性が出て来たので妻のリズかと思ったら顔が違う・・・。西海岸へ行ったとき、すでに離婚していたってことか・・・。リーの相手、プリマやってた女性はもっと痩せてたし・・・彼女とも違うよな・・・? よく分からん。
で、中国に戻って、リート妻はその場でダンスを披露するのだけれど、奥さんのスカートが広がってパンツ丸見え! になるじゃないか、と心配になった。もちろんそんなシーンはないけど。で、もっとも気になったのが、最後のシーン。2人は重なるようにして左手を右上に差し伸べている。その、2人の顔の向こうに中国の赤い国旗がはためいているのだけれど、この構図はどうみても共産主義プロパガンダでよく使われているもの。あえてその構図を最後に据えたのは、どういう理由なのだろう。単純に、これこそが本来の理想、とでもいうことなのだろうか。
北京の自転車12/17ギンレイホール監督/ワン・シャオシュアイ脚本/ワン・シャオシュアイ
原題は"十七歳的単車"。クレジットには北京と台北の文字が見えた。漢字は簡略体ではない。でも舞台は北京。調べると、製作国は中国/台湾となっている。どういうつながりなんだろう?
最初から最後まで、いやーな気分にさせられた。救いようのない話にもっていこうという作者の意図が、理解できない。
田舎から上京してきた青年グイが、自転車便の会社に勤める。北京にも自転車便か。凄いな。「メッセンジャー」みたいな話か? 最初は貸与の自転車が、働きに応じて自分のモノになるシステム。で、もう少しで自転車が自分のモノに、というとき自転車を盗まれる。おお、現代版「自転車泥棒」かよ。というわけで、自転車をめぐる物語は始まる。
与えられた自転車は最新のマウンテンバイク。グイは荷物を引き取りにサウナに行く。受付に行くと湯に通され、すったもんだで客が見つからない。受付では入浴料を払え、といわれる・・・。グイのマヌケな対応を見ているだけでイラつく。で、支配人が客と分かり解放されるが、今度は自転車が盗まれて、ない。それでもさっさと預かった荷物を届ければいいのに、夜半までそこで待っている。会社でも「自転車はしょうがない。なぜすぐ荷物を届けなかった」と責められ、首になる。しかも、数分先が読める展開なので、嫌な気分になる。荷物を引き取りに行って湯に入ったり、いくら田舎ものでも、あり得ないだろ。故意にトラブルに巻き込む脚本でしかない。
グイには、小さな雑貨屋を営む知人が居て(故郷の先輩か?)、店に来る高校生ジェンの自転車が、グイのものだと気付く。グイは、デート中のジェンから自転車を奪うが、ジェンと仲間に追いかけられ、逃げる途中でトラックに衝突! これも狭い道を走るので、ぶつかるだろうと予測できてしまう。そもそもグイは自転車にやすりで目印を付けていたんだから、それを言えばいいじゃないか。トラブったら警察に行けばいい、と思う。田舎出身で街のことをしらないから? いいや。故意にトラブルに巻き込むためだと思う。
映画は、ジェンが自転車を盗んだんだろうと観客をミスリードしながら、ジェンの家の前でのグイとジェンの対決になる。といっても、行事はジェンの父親。ここでようやく分かるのは、ジェンは家の金を盗んで、中古屋から自転車を買ったということだ。なーるほど。実はジェンは、高校に入ったら自転車を買ってやる、といわれていた。けれど家計の苦しい家庭で、後回しになっていた。仲間はみな自転車をもっているので、是が非でも欲しかった、というわけだ。でも、父親はグイの主張を認め、自転車をグイに渡す。フツーならこれで一件落着なんだけど、ジェンの仲間が「あれはお前が買ったんだろ」と焚きつけ、みんなでグイを取り囲む。で、決定したのは、1日おきで自転車を使うという解決法だった。おお。なんと原始的な。
ジェンにも言い分はあろうが、チープ。父親(母親はいないのかな?)の苦労を知りながら、自分の欲望に従うだけ。妹の学費にも文句を言うなんて、情けない奴だ、としか思えない。まあ、中国にも物質至上主義が蔓延し、ゲーセンで遊んだりと悪い文化が入り込んだということを言いたいのかも知れない。が、しかし、文化の問題じゃなくて、個人の問題だ。同じ環境でも、欲望に惑わされない人の方が、中国でも多いに違いない。でも映画は、それを一般論として見せたいらしい。このあたりに、悪意を感じてしまう。
親の金を盗み、嘘をつき、自己正当化をするようなジェンに、彼女がいるのも不自然。あの可愛い彼女は、ジェンのどこに惹かれていたのだろう? そういう、画面に現れてこない部分が見えないので、説得力はほとんどない。しかも、最後の方で、彼女は別の男になびいてしまい、それを恨みに、ジェンはその男を煉瓦で殴ったりする。そんなに彼女が大事なら、自転車問題で揺れているときに彼女に見せたつっけんどんな態度なんか、とるなよ。つまりまあ、人物造形もちゃんとできていない映画なのだ。映画を通して貧困とか社会問題なんかを表現すれば評価されるだろう的な安易な作品づくりが、露骨に見えてくる。安っぽい。
グイは、ビンボー度では、最底辺。ジェンは、ビンボーと言っても高校に行っているのだから、グイよりは恵まれている。恵まれていながら、より上を欲する。欲望限りなし、ということだ。
グイはちょっと足らない青年、という設定なのかな。自転車事故を2度も起こす。2度目は近所に住んでいる娘を突き飛ばすのだけれど、こんなやつに自転車なんて乗せるな、と思ってしまう。危なっかしくてたまらんだろ。
ジェンは、恋人を奪った相手を煉瓦で殴る。グイも、最後の最後に感情が切れて、自転車を壊しているチンピラの頭を煉瓦で殴る。中国人は、手加減というのを知らないようだ。日本人なら、相手を殺してしまうかも知れないようなことは、そうはしないと思うのだが。
先輩とグイが、羨ましげに見ていた裏のマンションに住む娘。「都会的だなあ」なんて言っていたけど、実は彼女も田舎の出で、たんなる使用人だったと分かる。ま、この辺りはこの映画のテーマである、他人の芝生は緑、とか、持てる者と持たざる者の二極分化とか、欲望限りなし、とか、そういうことを別のエピソードで補完しているのだろう。でも、娘は結局ひと言もしゃべらないままだった。なんかちょっともっ全体にわたってイライラさせる話の展開がとても不愉快。なので、あまり評価できない。
事故を起こしたり、なんだり、その瞬間を映さず、結果だけを静的に見せる。または、その場面を見せない。これって、北野武お得意の表現手法だよな。あまりに頻出するので、気になった。
グイと先輩の行動で、気味が悪かったのは、歯ブラシの共用と、きゅうりだな。人が使ったもの、食べかけのものを平気で口に入れるか? 田舎者だからできるといいたいのか? ううむ。
最後の忠臣蔵12/21上野東急2監督/杉田成道脚本/田中陽造
四十七士の中に生存者がいるのは知っていた。寺坂吉右衛門と、さっとは名前はでてこないけどね。で。瀬尾孫左衛門は創作の人かと思ったら、こちらも実在の人物で、実際、討ち入り直前に逐電しているらしい。ふーん。で、そのエピソードから池宮彰一郎が物語をつくった、と。では、大石良雄の妾・可留とその娘・可音が創作の人なのかな。
冒頭、寺坂が遺族を捜してあるくシーンがある。波打ち際を、水に足首までつかりながら歩く。アホかと思う。いくら絵になるからといって、わざわざ足を汐に突っ込んで歩くバカはいない。そういう様式主義は、もう古い。
正直いって、緊張感があったのは最後の10分だけ。残りの120分はとても退屈だった。だって、対立項がまったくなく、だらだらと話が進むだけなんだもの。それも、16歳の娘が育ての親に恋するというつまらない話を…。映画にすべき部分を取り違えていないかな?
まず、瀬尾孫左衛門の疑問。大石から妾とその子を頼まれた。それはいい。しかし、罪人の係累なので公儀に知れるとマズイ。時が来るまで内密にといわれ、それを守っている。の割りに、生活はテキトー。骨董商として「武家大名に出入りしている」と、茶屋四郎次郎がいってたような気がする。しかも、気軽に京の街に出かけ、芝居を見る。しかも、16歳の可音は1人で街に出かけたりする。ぜーんぜん、ひっそり隠れた生活ではない。進藤長保(伊武雅刀)も住んでいる京の町なんだろ?
隠れて生活していたつもりが、寺坂に見つかった孫左衛門。なんと寺坂に斬ってかかる。なんで? 寺坂自体が討ち入り後に身を隠しているんだから、孫左衛門と立場としては同じではないのか? それとも、寺坂については公儀も自由にさせているということか?
孫左衛門は茶屋に可音の素性を聞かれ「詳しくは言えないがさる西国の大名筋の娘で、16年前に…」なんてしゃべっている。そりゃあなた、浅野の家に関係すると、言ってるも同然ではないの。
挙げ句は浅野家の墓参に行って、討ち入りに参加しなかった元浅野家家臣に素性を見破られ殴られる。あほか。それはともかく、元浅野家臣連中は怖じ気づいて討ち入りに参加しなかったんだから、孫左衛門が直前に逐電したからといって責められるはずはないと思うのだが。どうなんだ? などと、筋が通らないことばかり。呆れかえりながら見ていた。
個々人の生活も気になるところ。寺坂は16年もどうやって食っていたのだ? しかも侍姿だが、浪人のままという設定? 孫左衛門はどうやって骨董の目利きになり得たのだ? ゆう(安田成美)は元島原の太夫で茶屋に身請けされ、いまは1人で京都の外れに住んでいるという設定らしいが、生活費はどうしているの? だってもう茶屋とは切れているんだろ?
最後、可音の嫁入り行列(あんな大名駕籠、どっから調達したのだ?)に元赤穂の家臣が「お待ちくだされ」などと飛び入りで参加する(主君でもなく、上司の、しかも妾の子の嫁入りでも、あんな風にするものか?)。おい。どこでその情報を仕入れてきたのだ? しかも、茶屋の家に招かれ、なかに入ってしまう。すると、人数分料理が用意されているって、どういう魔法を使ったんだ?
孫左衛門は大石と可留の位牌を仏壇においているが、妾の場合はそうするのがスタイルなのか? 戒名はどっかの坊主に書いてもらったのかなあ? でも、そんなことしたらバレるだろ。自分で書いたのかなあ? と、あちこちに突っ込みどころが満載。
この話の核になっているのが、可音の孫左衛門に対する恋心。でも、育ての親を女の子が恋したりするものなのか? むしろ反発したり呪ったりするんじゃないかと思うんだが、この時代の、武家の娘はそうはしないと言うことなのかね。でも、エピソードとしては全然迫ってこなくて、くだらねーと思いつつ見ていた。
最初に対立項がないと書いたけれど、孫左衛門が「追われている」と認識しているとしたら、その影を描くべきだったんじゃないのかな。つまり、公儀の誰それに狙われていて、そこから可音を守る、というようなね。それがなく、出てくる人はみないい人で、ドラマらしい物がない。これが、120分つまらない大きな理由だと思う。
あとは、進藤長保の存在がよく分からない。なぜ寺坂を家に上げ、養うのか。それだけのつながりがどこにあるのか、映画では分からない。新藤役は伊武雅刀だったので、また腹黒い役かと思ったら、そうではなかったので戸惑ったけどね(笑)。で、最後、可音を茶屋の息子に嫁がせた当日、宴席から姿を消し、家に戻る孫左衛門。ゆう がねぎらいの言葉をかけ、閨に誘うがそれを断り、大石の位牌の前で自害する。ううむ。なるほど。しきりに挿入されていた人形浄瑠璃の道行は、ここに至る予兆だったのね。と改めて思ったりして。道行なので、ひょっとしたら可音が嫁入りをやめて孫左衛門の元へ戻ってくるとか、後追いするとかするのかな? と幾分不安げに思っていたのであるが。
武士の忠義を考えればそうなのかも知れないが、赤穂藩士でも討ち入りに参加したのは少数派。だから、主君に殉じるのが武士のあり方かと問えば、そうでもないらしい、ということになるだろう。それに、たとえ可音を嫁がせたとしても、その後を見守る義務もあるのではないのかね。可音にしたって育ててくれた恩人、恋する孫左衛門が死んでしまっては哀しいだけではないか。それも、祝言当日だなんて。可音が泣き暮らすであろうこれからの日々を想像すると、つらいものがある。ここはやっぱり、生きながらえて可音の幸せを見守るべきであると思う。それこそが、大石から託された使命だろう。それに、孫左衛門は大石家の家来だから浅野から見たら陪臣。そんなに忠義はつくさなくてもよかったのとちがうか?
史実をWikipediaで見ていくと、なるほどね、というところがある。たとえば大石の妻と子供たちは別段咎めもなく成長し、嫁いだりしている。それと比べると、大石の子といっても妾の子。公儀がとやかくいうほどのこともないだろう。秘密主義は、孫左衛門の過剰反応だったようだ。
寺坂は足軽だったんだな。あんな立派な侍の身なりは、していなかったんじゃないのかな。
伊武雅刀の足元が映るところ、足袋が足に合ってない。桜庭ななみの着物姿は、なんか凛としてなくてぞろっとしてる。
セリフがもこもこして、よく聞き取れないところがある。音声としてだけでなく、侍言葉としても分かりにくい部分がある。工夫が必要だろう。
モンガに散る12/27シネマスクエアとうきゅう監督/ニウ・チェンザー脚本/ニウ・チェンザー、ツォン・リーティン
台湾映画。不良少年グループが長じてヤクザになり、大人の理屈で仲間割れさせられる話。この手の話はよくあるので既視感はある。けれど、台湾製のせいか、韓国映画のような暗さはあまりない。前半はコミカルでさえある。後半、本物の極道になってからは話も重くなるけれど、運命とか絆とか血縁とか、そういののが、あるにはあるのだが薄い。その点で、後半は息切れ感がある。とくに、グループのリーダー格のモンクの心変わりは、ほとんど説得力がない。これが大きな端境になるのだから、もっと必然性を出さないとね。
母子家庭のモスキート。何度目かの退学で某高校に入るが、いきなりイジメ。始めは耐えるが、クラスのチンピラとやり合うことに。1対多の活躍を見て、学校の番長格というか、ヤクザの下部組織的なグループの長・モンクが仲間に引き込む。で、廟口組の下部組織として働きはじめる、というのが前半。集団乱闘のシーンが秀逸で、カット割りなし。カメラが移動しながら5人(グループ)の活躍および性格まで見せてしまう。もちろんナレーションも入るけど。結局、高校は退学し、モスキートは正式に(?)他の仲間とともに廟口組の組員になる。・・・と、ここまではなかなかのノリ。売春宿の、青に痣のある少女との純愛もあったりして、この手の映画に不可欠な要素が上手くかみあってる。
ところが、後半、話が安っぽくなってくる。モンクが大陸人に説得され、やすやすと仲間を裏切る。で、廟口組の親分を簡単に殺してしまうのだよ。いままで世話になっているっていうのに・・・。しかも、親分は5人グループのもう1人の長、ドラゴンの父親だぜ? いくらモンガ(台北の繁華街)の将来のため、とはいえ、なんとも軽すぎる。
タイトルに「散る」という言葉が入っている通り、ラストはハッピーエンドではない。果たして「散る」なんて言葉を入れてよかったのか? いささか疑ってしまうね。
メンバー5人の性格はそこそこ描き分けられている。けれど、活かされているとは言えない。たとえばモンクは頭がいい。けれど、簡単に対立相手の若手の口車に乗ってしまう。また、モンクは同性愛者で、どうやらドラゴンが好きらしい、ように描いている。なのに、そのドラゴンの父親を殺し、ドラコンさえも殺そうとする。けれど、そこに苦悩がない。それはないだろ。ドラゴンが親分の息子だっていうのに、だいぶたってから気付いた。モスキートが外の4人にゲタを「親分だ」と紹介されたとき、そんな字幕があったっけ? モスキートは、たんなる不良から次第に極道になるのだけれど、最後まで少年の雰囲気をまとっている。ドラゴンの登場シーンは多いけど、いまひとつ分からないキャラだな。あと2人は、ちょっとオカマっぽいのと、向こうっ気の強いのと、に描き分けられている。でも、割りと表面的な描き分けで、深くない。
家庭環境も説明されたのだけれど、モンクの父親は、何のために腕を切り落としたんだっけ? はぱっと早くて、気がつかなかったよ。というように、人物や関係が言葉で説明されたり、ひょっとしたら足りないような部分もあったりして、このあたりは、ちょっと不満。むしろ、90分ぐらいの、1部2部にしてくれた方がよかったんではないのかな、と思ったりした。実際は2時間21分なんだが。
それと、モスキートの実の父親、そして、父親が日本から送ってきた絵葉書、っていうのがサブストーリーになってるんだけど、これも使い方が中途半端。そもそも、母親が昔つきあっていた男、なんだから、だいたい想像がつく。なので、父親の方はそのことを知っていて、10何年かぶりに母親のところ(美容院)にやってきてるのかと思いきや、知っているのは母親だけで、父親もモスキートも知らなかった、というオチ。あらら。で、これに関連して、その父親(なぜ彼が大陸者なのかわからない)の指令で、息子も殺してしまうかも、と慌てるシーンがよく分からず。その父親の手下に「話しましたから」とかなんとか言われて慌てるんだけどね。
台湾ヤクザのシマおよび親分の関係がよくわからないので、「親分は何10人もいる」といわれても「?」だよな。小規模の組をまとめ上げる組長みたいのはいるのかな? それがゲタと、対立する組の親分? 大陸者に対する感覚がよく分からないので、意図がつたわらないところがあるのかも。しかし、モスキートの父親と、ムショからでてきた何とかいう男との関係は、なんなのだ? 一緒にムショに入っていただけ? ムショにいた期間を、日本にいた、といっているのか? よく分からん。ああ、もやもやする。
不審な部分は、もう一回見れば解消しそうな気もしたけれど、連続してみるほどでもないので、やめた。まあいいや。
オトシマエをつけさせた指を食事中に持ってこさせ、ゲタ親分が箸でつまむシーンには笑ってしまった。絵葉書の桜は、赤すぎる。桜は桃色だよな。それに富士山も変だった。
アブラクサスの祭12/29テアトル新宿監督/加藤直輝脚本/佐向大、加藤直輝
何かに悩む坊主が寺でロックコンサートを開く話。しかし、だらだらと平板で山がなく、何を言いたいのかも分からない。とても退屈。
福島県のある町の寺。住職(小林薫)に、通いの坊主・浄念(スネオヘアー)がいる。檀家の多い大きな寺と思われる。浄念は昔ロックをやっていて、妻(ともさかりえ)に「コンサートがしたい」といいだす。妻は反対。住職は寛大。浄念の悩みは膨らんでいき・・・。みたいな話なんだけど、具体性がないのでちっとも訴えてこない。
浄念は、高校から「仕事」に関する話をしてくれて言われるが、「君らの将来に興味がない」叫び、近くにあったピアノを乱打するなど奇行が激しい。それも一時で、すぐに落ち着き、住職の前では大人しく従順になる。奇行の理由は分からない。浄念は薬を飲んでいる。住職の話によると、10年前やってきたとき5日つづけて葬儀があり、頭が変になって冬の海に飛び込んだらしい。また、その後か前か分からないが、精神病院にも入っていたらしい。なーんだ。分裂病か。それとも鬱? 映画は明らかにしない。
鹿児島辺りのサラリーマンの息子で、親の薦めで坊主になった。けれど、親の死に目に会えなかった、などとも話していた。学生時代は金髪で、ロックンローラー。乗ってくると裸になるのが癖らしい。が、最近はずっと音楽からは離れているみたい。なんだけど、浄念には妻と子がある。おお。妻は「すぐ裸になるからダメ」というぐらいだから、学生時代からのつきあい? では、坊主になることを決心し、冬の海に飛び込み、精神病院に入ったことも知っているのだろう。いまどきの若い女性が、こんな相手と結婚するか? という疑問が湧いてくる。浄念よりも、彼の妻の方がよほど立派でしっかりしているではないか。
住職にも、若い妻(本上まなみ)がいる。小林は実年齢59歳だが、本上は35歳。しかも、10年前に浄念が海に飛び込んだことを本上は知らない。つてことは、後妻なのか? こんな田舎の住職に、なんであんな美人が? という疑問の方が先になってしまう。こっちのカップルも、妻が偉い! と思ってしまう。
浄念の悩みは、病気なんだろ? と思うと、ちっとも同情が湧かない。共感もできない。なにか具体的な傷、壁、出来事があっての心の弱さならまだしも、そういうんじゃないんだもん。だから、物語も当然のように面白くならない。しょっちゅう観念的な言葉やなんやかや出てくるけれど、ちっとも届いてこない。タイトルのアブラクサスにしても、浄念と妻が語り合うシーンで説明されたような気がするのだけれど、飽き飽きしていて眠気と戦っていたので記憶にない。観念的な言葉を入れるのは、原作者(玄侑宗久)の指示でもあったのか? 映画なんだから言葉に頼らず、見せないとな。
で、スナックでコンサートを開くことになったんだけど、反対者が出てきて寺の境内での開催となる。それはいい、っていうか、どうでもいい。問題は、ポスターとチラシ、舞台設営だな。ポスターを印刷したら、いくらかかると思ってるのだ? 舞台だってそうだ。あんなん、軽い気持ちでできるもんじゃないぞ。まったく、テキトーでいい加減な映画だこと。
白いリボン12/30新宿武蔵野館2監督/ミヒャエル・ハネケ脚本/ミヒャエル・ハネケ
ドイツ映画かと思ったら、独奥仏伊の合作らしい。原題は"Das weisse Band - Eine deutsche Kindergeschichte "で、google翻訳したら「ホワイトバンド-ドイツの子供たちの物語」と出てきた。2009カンヌ映画祭パルム・ドール受賞作。いまどき珍しい全編モノクロ映画でけれど、スタンダードではなくビスタサイズ。ミヒャエル・ハネケ監督の作品は、たぶん初めて。内容に関しては予告をチラ見した程度。
男爵が地主の荘園がある、ドイツの村。乗り物は馬車と自転車。自動車は出てこない。衣服は「舞踏会へ向かう三人の農夫」みたいな感じ。19世紀末か20世紀初頭かな? 後半、サラエボ事件に言及され、第一次大戦前夜と分かる。この村に、些細なイタズラ事件が発生する・・・。という流れで始まる。以後、数々の事件が発生するのだけれど、畳みかける感じや盛り上がりがなく、淡々と進んでいく。サスペンス性はないし、ミステリアスでもない。演出は古臭く、しっとり地味。よく言えば抑え気味、ってところか。というか、奇妙な距離感を感じてしまう。近づきがたいというのか、素っ気ないというのか、私は私、みたいな雰囲気? 観客に媚びていない、ともいえるかも。
イタズラ事件の大半は、犯人を示唆する描写はあるが、真実は分からない。それ以外にも、医者の一家と産婆の親子、事故で妻を失った農夫一家、男爵の家族、男爵の家令一家、牧師一家、教師とその恋人、なんていうのが事件に巻き込まれる。それぞれに興味深いエピソードではあるけれど、因果関係があるようにも見えない。後から示唆されるように、子供がやった事件もある、とも断言できない。といっても「藪の中」のような、人の思惑をさらけ出す露悪趣味な話でもない。なぜならこの映画にはナレーターがいて、それは、後に年取って過去を思い返している学校教師だからだ。つまりは、教師の視点、彼の見たあるいは聞いた一面的な事実でしかない。
教師の興味は、男爵家の双子の子供の子守をしている17歳の少女にしかなかった。あとは、それまで荘園で行われてきたルールに従って子供たちに教育を与えることだけ。それ以外は、何も求められてはいない。弱冠31歳で、出身の隣村なので、とくに尊敬されてもいない様子。というか、片手間に仕立屋を営まないと生計が成り立たない位の収入しか得ていないというのが驚き。教師は、そんな職業だったのか、と。
最初に起こったのは、医師の落馬事故。これは誰かが針金を張っていて、意図的に行ったみたいだ。医師は重体で長期の入院を余儀なくされるが、娘と息子は通いの乳母兼産婆(40歳)が面倒をみることになる。医師は妻に先立たれ、実は、この産婆とは妻が生きていた頃から関係をもっていたらしい。産婆には2人の知恵遅れの子供がいるのだが、その父親は最初から明かされない。が、村の人間も、その正体はうすうす気付いていたであろうことは明らかだ。
次に発生するのは、農夫の妻の製材所で事故死。腐った床板を踏み外し、落下して死んでしまった。息子の一人が「男爵に責任がある」と憤るが、父親に諫められる。雇い主に刃向かえば仕事がなくなるから当然だ。けれど息子は男爵のキャベツ畑を破壊し、警察に逮捕される。これは明らかに犯人が明白な事件。さて、息子が釈放されて後、男爵家に火災が発生するが、犯人は明かされない。しかし、父親は納屋で自死してしまう。棺は静かに家をでるが、見送る者は家族だけ。息子がどんな反応をしているかも見せない。ひょっとして息子は町にでて社会運動や革命思想に触れていたのかも知れないな、と思わせるエピソードだね。いつまで農夫は従順ではないぞ、というような・・・。
さらに、男爵の幼い息子が誰かに納屋に逆さ吊りにされる事件が起こる。村の誰かとは限らないかも。これも、外部の社会運動家という可能性もある。その後、男爵の息子の笛を家令の息子が取り上げ、息子を池に突き飛ばす事件が発生する。これは犯人が明かな事件で、家令は息子を叱りつけるのだけれど、これも旧体制の崩壊を連想させる出来事だ。
極めて個人的な悪も描かれる。医師は年老いた産婆に飽きていて、むしろ、妻の若い頃に似てきた実の娘に手を出した、かのような描き方がされている。近親相姦は昔からあったろうが、知的水準が高く、禁忌を犯すはずのないと思われる医師がそのようなタブーを犯す、という描写。モラルの崩壊が感じられる。
産婆の知恵遅れの息子が、森の中で目をつぶされる事件も起きる。現場には、大人の筆跡のような置き手紙があって、とても子供の起こした事件とは思えないのだが、教師は村の子供たち、とくに首謀者は牧師の娘と息子、という見方を取るようになる。それは、彼等が産婆の家の回りをよくうろうろしていたから、という理由だけなのだけれど、ひょっとしたら・・・という伏線も張っていたりする。それは、牧師の娘が父に反抗的で、父の飼っていた小鳥を無残にも殺害し、父の机に置き去りにするという行為で示される。しかし、あまりにも稚拙すぎて、すぐ分かっちゃうよな、という気がするのだが、父である牧師は娘を追求していない。このエピソードは、宗教に対する信頼の瓦解、を意味しているように見える。
さて。医師と娘の行為の現場を、幼い弟が目撃してしまう。その後、いつのまにか医師一家は村を立ち去ってしまい、その後の消息は知れない。のであるが、時を同じくして産婆が、「犯人が分かった。息子がしゃべった。警察に行く」と、教師が娘(このときは既に男爵の子守は解雇され、町場で働いていた)に会いに行くために家令から借りた自転車で、行ってしまう。が、産婆は二度と戻らなかった。それだけではない、息子達もすでにどこかに行ってしまっていて、産婆の家はもぬけの殻だった。・・・という産婆の家の中の様子を窺っていた牧師の子供たちを見て、教師は「子供たちが怪しい」と思うのだけれど、さてどうなのか。というように、伏線はあってなきのごとし。確実性の高い因果関係は示されず、ミスリードするような素材だけが放り出されるように散りばめられ、見る者を惑わせる。惑わせること自体が目的のようであって、真実はどうでもいい、という案配。なので、終わってもまったくスッキリしない。真相は、なんなのだ! と言いたいね。明らかにせず、想像におまかせ、なんていうのかも知れないが、そんなの意味ないと思うけどね。
まあいい。様々な不穏な事件の後、第一次大戦が勃発。最後にナレーションで、医師が徴兵され、戻ってから実家で仕立屋を始めた、ということが語られる。あー、あの娘とは結婚したんだっけかな? 忘れた。まあ、どうでもいいことではあるがね。
タイトルにもあるように、子供たちが主役ではあるのだけれど、「恐るべき子供たち」のようなスリリングな不気味さ、妖しさはない 子供たちはいたってフツーに描かれる。なぜなら、彼等が犯人である証拠はあまり示されていないからね。せいぜい、旧体制や親世代への反発が、自由にできるようになってきた時代であることを感じさせる程度。でもって映画は、何も解き明かさずに放り出したまま。思わせぶりに謎を振りまいて、ほったらかしにする。こんな感じにつくれば、賞が取れるんでしょ? みたいな作為が感じられて、ううむ、な感じ。
複数の家庭の、多くの子供が登場するので、最初の方は何が何だか分からないところもあったりする。外にも、どういう意味があるのか分からないところも多少あったりする。もう一度、家族構成や誰がどこの家の子供か、分かるようになった頭で見返すと、最初の方の内容も理解が深まるかと思われるが、もう一度、金を出して見るのもなんだしね。
ま、そういう物語のあれこれはさておいて。濃密に感じるのは時代の端境期だな。近世の終焉ともいえるかも知れない。封建制度の残るドイツ。その限界がじわじわ訪れていて、ついに爆発する、みたいなところ。厳しい躾による子供教育の限界や村人の反乱などは近代的自我の目覚め、を感じさせる。けれど、すっきりさせない終わり方には、あまり共感ができなかった。

 
 

|back|

|ホームページへ戻る|