2011年2月

ウォール・ストリート2/7上野東急2監督/オリヴァー・ストーン脚本/アラン・ローブ
原題は"Wall Street: Money Never Sleeps"。「ウォール街」の続編ということで、ゴードン・ゲッコー(マイケル・ダグラス)が8年の服役後、出所するところからはじまる。で、その後の7年目の2008年が舞台。ゲッコーには娘ウィニー(キャリー・マリガン)がいて、その彼氏ジェイコブ・ムーア(シャイア・ラブーフ)は前作の舞台だった投資銀行ゼイベルに勤めている。が、同じく投資銀行(?)CSのブレトンが流した風評でゼイベルが倒産の危機に…。全米なんとかかんとかという企業団体が救済すると思いきや、ブレトンはゼイベルを安く買い叩く。ジェイコブは腹いせにブレトンに風評で仕返しをするのだけれど、それは軽いジャブ程度。で、その手腕を見込まれてCSに入社する。ジェイコブはかねてから支援してきたクリーン・エネルギーの会社を推すが、ブレトンはいったん支援すると言いながら別の石油開発事業を支援することに。これを裏切りとしてジェイコブはCSを辞め、昔の仲間とCSの悪評を流す。その結果ブレトンは失脚する、というのが話の大筋。ゲッコーはサブ的な扱いで、ムショに入ったけど冷淡さを発揮して復活する。で、その娘を彼女→妻にしたジェイコブと、家族を大切にしない父親を毛嫌いするウィニーの対立なども交えたホームドラマのつくりもあるけど、全体にドラマチックがあんまりない。なので中盤は少し飽きてきて時計を見るようになってしまった。
ゲッコー、ブレトン、ジェイコブ。みんな同じ穴の狢に見える。ブレトンがゼイベルを救わなかったのは、かつての恨みがあったようだし。なんだっけ。大半の会社がブレトンを救うのに賛成したけど、ゼイベルだけが反対したとか、そういうことだったと思う。恨みと復讐の連鎖ではないか。ブレトンという人物も、そんな悪人に描かれていなかったし。意図的にそういうつくりにしているのかね。
実質的な主人公であるジェイコブからしてが妻に嘘をついたり、わけのわからんクリーン・エネルギーに大枚を投資しようとしたり。おまえ、バカかと思う。その金はゲッコーが隠し資産としてスイス銀行に預けていたもので、娘に譲渡すると約束していた。それをウィニーは「慈善事業(?)に寄付したい」というのにジェイコブは「そんなことより将来のエネルギー」と言って説き伏せてしまう。おいおい。ウィニーは非営利団体のホームページを運営しているんだろ? まあ、実際に何をしているかは分からんけど、それが未来エネルギーに投資、を認めるのかい? それに、スイスからの送金はマネー・ロンダリングで脱税になるのに、それは了承するのか?
それと、兄がヤク中で死んだ原因を父親に求めているけれど、投資に夢中で息子を顧みなかったということかね。もうちょい具体性があると、父娘の不和がしっくり来たと思うんだが。
ラス前に、娘に与えたはずの大金をゲッコーが横取りし、それを元に投資を始めて復活するという話になるのだけれど、そうやって稼いだ金を2年後ぐらいに娘に返すというオチも付く。それで父娘も和解(?)に近づき(最後のパーティに父親もいたんだっけ?)、仲違いしたジェイコブとウィニーもよりを戻す。ううむ。なんか強引すぎないか?
話が単調なのを意識したのか、いろんな小細工をしている。会議の場面では画面を小刻みに揺らしたり突然クローズ・アップしたりして緊張感をだす。酒場のシーンでは陶酔感をピンぼけで描く。ちょっと素人っぽいんだけどね。それから、チャリティ・パーティだったかな、のシーンは映画風な演出をする。あの音楽はアニメだっけ、ミュージカルだっけ。…で、そのパーティの終わりは昔の映画みたいに黒丸が小さくなる。そんなことする必要があったのかね。ジェイコブが情報操作=風評を流す場面は、画面と文字の組み合わせによるCGで、これはなんか稚拙な感じ。というような演出はしなくてもよかったんじゃないかと思うんだが。もっとドカンとインパクトのあるエピソードは挿入できなかったのかね。
オリヴァー・ストーンは2度(3カット)登場。前作に出ていたチャーリー・シーンもパーティのシーンで顔を見せる。これはご愛敬。
デュー・デート 〜出産まであと5日! 史上最悪のアメリカ横断〜2/8シネ・リーブル池袋シアター1監督/トッド・フィリップス脚本/アラン・R・コーエン、アラン・フリードランド、アダム・スティキエル、トッド・フィリップス
原題は"Due Date"。「満期」という意味で、妻の出産のことを言っているらしい。妻の出産に立ち会うためロスに戻ろうとするピーター(ロバート・ダウニー・Jr)。ハリウッドでひと花咲かせようと男イーサン(ザック・ガリフィナーキス)。この2人のクルマによる珍道中なんだけど、バカバカしさも跳び越えて面白かった。ピーター建築家。ちょっとエラソーで短気。クール。イーサンは成り行きまかせのいい加減やろう。たぶんゲイ。愛犬に愛情を注ぐ。意外ときれい好き。感情的。
話の大半はイーサンのヘマによって引き起こされる。送金の宛先を芸名にしたり、居眠り運転で事故ったり、銃を発射したり。そのたびにピーターは心身ともに打ちのめされるのに、本人はいたって平気。このギャップ、ありえねえ! と思いつつ、バカバカしさについ笑ってしまった。まあ、個人的には近くにイーサンみたいなやつがいるだけで勘弁してくれえ! だけど。
父親の遺灰をコーヒー缶に入れて持ち歩くイーサンって、なによ。なので、きっと中味は別物で、「嘘だった」なんて言うのかと思ったら、あにはからんや、本当に遺灰だった。それにしても、それをコーヒー粉と間違えて、コーヒー淹れたりするか?
他にも、メキシコ警察のクルマはどう処理した? ピーターの友だちのクルマは、メキシコに置きっぱなし? 最後にピーターはどうやって手錠を外したのだ? と「?」はいくつかあるけど、そんなことは些細なこと。えげつなく汚らしく嫌らしく、でも圧倒的なおかしさの前では、どうだっていい。「ハングオーバー!」より、こっちの方が面白かったと思うぞ。
身体障害者ネタや黒人差別ネタなんかをガンガンやってくれているのも嬉しい。日本じゃ、あんなのなかなかできないからね。
RED/レッド2/8池袋東急監督/ロベルト・シュヴェンケ脚本/ジョン・ホーバー、エリック・ホーバー
原題も"Red"。これは、グァテマラでの作戦名(?)だったかな。
ブルース・ウィリス、モーガン・フリーマン、ジョン・マルコビッチ、ヘレン・ミレン。この4人の名前がでーんと出ていたので、ロートル4人の大活躍物語? と思ったら、前半はブルース・ウィリスと年金課の女性(メアリー=ルイーズ・パーカー)との逃避行がメイン。あららら。と思っていると、モーガン、マルコビッチ、ヘレンと集まってきて、まあ、大活躍するのだけれど、4人が仲間というより、そうせざるを得なくなったという感じかな。
引退して暇をもてあましている元CIAのブルースが、現CIAに狙われる。現CIAは新聞記者他を殺害していて、その中国人記者の実家をたずね、現CIAがターゲットとした10人のリストを手に入れる。なかに1人だけ殺されていない人物がいて、これがリチャード・ドレイファスなんだが、こいつ怪しい。で、そのリストに上がっているのはグァテマラの作戦に関係していた連中だってことが分かり、グァテマラでの大量殺人の首謀者が、現副大統領であることが分かる。…という筋なんだけど、なぜブルースが狙われたのか、がよく分からない。ブルース本人も分かっていない。で、CIAの極秘文書資料室へ行ってグァテマラの資料を見て、それで現副大統領が昔・・・ということが分かる。じゃ、なんで現CIAが10人を殺そうとしたんだ? 知らないならほっときゃいい。寝た子を起こすようなことをする必要はない。それよか、中国人の新聞記者が、どこからネタを拾ってきたのか、のほうが気になってしまう。10人は真相を知っていたから? ブルースは10人の中に入ってるのか?(入っているらしい) モーガンやマルコビッチは、それとどういう関係があるんだ? まあ、ヘレンは英国諜報部員で、ヘレンが愛したロシアのスパイも合わせて、旧時代のスパイたちが、現役CIAと戦うという荒唐無稽な構造でいいのかもしれないが。
というわけで、基本的な部分が曖昧で、よく分からん。で、現CIA側は女性の上司と若い部員が組んでブルースらを追っている。で、若いのは疑念なくブルースを追うのだけれど、最後の最後、工場で、黒幕がリチャード・ドレイファスであると分かると、動揺する。ドレイファスと女性上司が組んでいたらしいのだが、それがどう問題あるのか、よく分からん。だから、若いのが突然ブルースに味方し、女性上司を撃つ理由が分からない。ちゃんと見てれば、分かる範囲なのかい?
てなわけで、話の根幹がよく分からなかったのであった。
全体に様式的な映像表現で、リアリティはあまり追求していない。これは、原作がアメコミであることと関係があるのかも知れない。コメディタッチであることも、ちょっと影響しているかも。人物の造形も画一的で、人間味があんまりない。ヘレン・ミレンとロシアの諜報部員はそこそこ描けているけど、あとは人形みたい。
話の進行は移動する都市名などで転換するのだが、その転換には絵はがき風なイラストが使われる。そのイラストが画面の小道具の一部になっている、みたいな感じ。この手の場面転換は「スティング」なんかと同じで、お遊び的な要素が強いと思う。このあたりからも、リアリティ追求ではなく、漫画だよ、というメッセージが読み取れる。でも、そういうタッチの映画は、それなりに中味もシンクロして面白くなくちゃいけないと思うのだが、そうはなっていない。まるで書き割りみたいなドラマ展開で、遊びの要素が少ない。これじゃ様式に一貫性がない。
前半は、メアリーの視点からすると巻き込まれ形で、「バード・オン・ワイヤー」なんだが、あっちには、互いに罵り合いながら行動を伴にしなくちゃならないという縛りがあった。けど、こっちではメアリーは話の上でほとんど機能していない。やっぱ、まさかのときに馬鹿力発揮して相手スパイを何人かのしちゃうぐらいのハチャメチャぶりがないとね。ブルースが一方的に好きになっていて、初対面でもブルースは違和感なく好きなままで、メアリーだけキャーキャー驚いてるのもつまんないし。なんか話に入っていけないんだよ。それにメアリーが、かなりのオバサンなのが気になる。造形的には可愛い範疇に入るかも知れないが、目のシワが凄い。もうちょい若めでもよかったんじゃないのかね。
そもそも、現副大統領がかつて・・・という真相に意外性がない。「あ、そ」ぐらいにしか思えなかった。
モーガンが敵の囮になって早々に死んでしまうのはもったいない。がん患者だから囮になる、というのもありきたり。
そういえば、メアリーがモーテルに縛られているのが、現CIAになぜ分かったのだ? 位置まで正確に・・・。それと、最後、工場内で1発撃ったのは、誰を狙って撃ったんだ?
そういえば、そういえば、ブルースは乱闘時にバックドロップかけてたな。こらもうプロレスみたいなデキレース的なお話しですよ、ということかも。いや、こういうお遊び的な要素がもっと盛り込まれているべきなんだよ。
ヘレン・ミレンも見どころだったけど、一番の見ものはアーネスト・ボーグナイン(1917〜)だ。おお。まだ生きていたか、北国の帝王。ちょい痩せたけど、90歳を過ぎてるんだから、動いているだけでも希少価値だ。
何も変えてはならない2/10キネカ大森1監督/ペドロ・コスタ脚本/---
原題は"Ne change rien"。モノクローム、だったっけ? 色も付いてたっけ? なんか、ずうっと影の多い画面でモノトーンだったから、そんな風に思ったのか。色が付いていたような記憶もない。まあ、どうでもいい。40歳ぐらいの女性歌手が、ギターやドラム奏者と題名になっている楽曲の音合わせというか、打ち合わせつつ創り上げていく。かと思うと、何かの舞台袖にカメラが設置され、ピアノの伴奏に合わせて舞台で何かやってる様子だったり。はたまたどっかの小さなステージでコンサート中の様子だったり。発音を指導されながらの発声練習だったり。てなのをほぼFIXで、コントラストの強い画面で延々映していく。歌手が誰で、場所はどこで、何のために、などというのは一切説明亡し。なので、かなり単調。まあ、それでも寝なかったんだけど。
というわけで、見た印象はそれだけ。女性歌手の顔もちゃんと正面から撮られたものはなく、アップはシャドウが多く、引きではよく見えない。コンサートシーンはビデオからなのでザラついている。決めカットがほとんどなく、フォトジェニックを嗜好しているのかも知れないが、ある意味では物足りない。まあ、雰囲気が出てればいい、という考え方なら現状でもいいと思うが。
彼女は、聞いた感じ、そんなに上手くない。下手ではないが、存在感はそれほどではないように聞こえた。とくに、リズムや伴奏をヘッドフォンで聞きつつ歌っているところでは、声だけしか聞こえないところもあったりして、それはそれで、かなりマヌケに聞こえたりもする。生歌の人手はなく、伴奏で活かされる人なのかも知れない。
というわけで、その女性歌手が誰なのか分からないままの100分余で、最初は「いつかはフツーのドキュメンタリーみたいにナレーションか字幕が・・・」「具体的な背景も・・・」と思いつつ見ていたのだけれど、最後まで何も明かされなかった。いささか退屈したのだけれど、寝たりはしなかった。
Webで見るとジャンヌ・バリバールという女優らしいが、よく知らん。いったい、どういう意味があってのこういうつくりなのか、さっぱり分からんです。
途中、突然、日本の下町辺りの古ぼけた喫茶店の一角が映し出される。2人のババアが煙草を吸っていて、片方はエプロンをしている。店の人なのか、それとも近所の店の人が来ているのか。なぜ日本? そのシーンはエプロンの方が席を立つところで終わるんだが、不思議なカットだった。で、エンドクレジットを見たら、かなりの日本人名が登場するので、ひょっとして日本の資本が投入されているので、そのお礼のカットなのか? なんて思ったんだが、どうなんだろう。
ソフィアの夜明け2/10キネカ大森1監督/カメン・カレフ脚本/カメン・カレフ、ステファン・ピリョフ、ヨハネス・ピンター
英文タイトルは"Eastern Plays"。原題はどういう意味か分からず。ソフィアという娘の話かとおもいきや、違った。アラブ顔っぽい青年が学校をサボり、仲間と刺青屋に行くのがオープニング。と思ったら、腕に刺青した家具職人の話が始まった。この2つの話が平行して進み、突然、トルコ人観光客の話になって、3つの話がひとつになる。最初は「なんだ?」と思っていたのだけれど、その「なぜ」が収斂していく構成はスムーズにいってる。
最初、ロシア文字みたいなのが出てくるので、どこの映画? 思ったら、しばらくしてブルガリアという国名がセリフに出てきた。なるほど。ソフィアは首都のことか。で、トルコ人観光客が襲撃されるのだが、襲ったのは刺青屋たち。最初に出てきた青年も仲間に入っていた。その暴行を止めようとしてボコボコにされるのが家具職人。その現場で、青年と家具職人との目が合う・・・。なんかあるのか? と思わせておいて、翌日、家具職人が実家に戻ると、それは青年の家だった。なんと、家具職人と青年は兄弟だった。というわけで、話がやっとひとつになるという案配。
兄は美術学校をでていて、アーチストを志しつつ家具職人をしている。年齢は30前ぐらい? と思っていたら、Webに38歳の設定とあった。弟は10代だから、20歳の開きがある不自然な兄弟。父親がいて、母親もいるが、どうも後妻のよう。実母は病院かどこかにいるみたいな感じ。で、弟は母親を嫌っている。いまどきの若者で、PCでゲームに浸ってる。
兄は、ときどきクスリをもらいに病院に行く。家族の会話で元ヤク中ということが知れる。それから、誰に言ったんだか忘れたが「メタドン」という言葉が出てきた。字幕に説明がなかったが、依存性の低い鎮痛剤のようだ。このメタドンの依存症なのかヤク中をメタドンで治療しているのか知らないが、治療せいで精神が不安定で、朝からビールを飲みつづけるという状態。そのせいで、恋人に辛く当たったりする。
そう、この兄には大学2年生の彼女がいるのだよ、可愛い。だけど、兄は彼女につっけんどんにしてばっかり。これが、この映画の一番解せないところで、かつまた、修正すべき部分だと思う。なぜって、元ヤク中で家具職人であんなオッサンみたいな兄貴が、女にモテモテでいいわけない! そもそも彼女は兄貴のどこがよくて、つれなくされてもしつこく「あなたがいないとダメ」なんていうんだ! 許せん。
という気持ちになるのも、兄がトルコ美人にも好意を持たれるからなのだ。例の、襲撃されたトルコ人家族(夫婦と娘)の娘が黒木メイサを大人にしたような美人で。その彼女が兄貴を好きになってしまうのだよ。よくぞ助けに入ってくれた、と。で、その関係が映画の最後まで影響するんだけど、もともとの彼女の立場はどーなるんだ! と、腹立たしいぐらい。だから、あの彼女の存在はなくすか、ちゃんとした理由を提示しないと納得できない。
ブルガリアの歴史を知れば物語は深く理解できるのだろうが、よくは知らない。昔は社会主義で、現在は違うと言うことぐらい。西側との格差が大きすぎて、まだうまく社会が機能していないのだろう。乱暴者グループの刺青屋は、実はネオナチで、右翼議員から報酬をもらって騒ぎを起こしているらしい。若者に仕事がなく、ストレスも溜まっているから、サッカー場でも大乱闘ばかり起きる。それを煽動しているのがネオナチ、ということらしい。
そんな中にあって、家具職人みたいに正邪をわきまえている人間もいる。けれど、彼自身もかつてはクスリに逃避し、いまでもその後遺症に悩んでいる。あたかもブルガリアという国家のように。そしてまた、彼と同じ道を、弟が歩もうとしている。だから、兄・家具職人は弟に忠告する。まあ、忠告するまでもなく、グループの理不尽さに納得がいかず、自ら離脱するのではあるが。しかし、社会の裏面に吸い込まれるのは、いとも簡単なことだ、とこの映画は伝えている。街には荒涼たる空き地が広がり、そこはいずれアパート群で埋めつくされてしまうだろう、と兄・弟で語るシーンがある。ああ、何年か前の中国に似ているな、と思った。国家が、急激に変貌しているのだ。
家具職人は、神経科医に「内なる善」を求めて葛藤している、と告白する。その「内なる善」がなにかは分からないが、自分を慕う彼女に優しくできないようでは、ダメだな、という気がしてしまうのだよ、やっぱり。
で、家具職人はトルコ一家を病院に連れていった経緯もあり、娘から慕われる。で、彼の方もトルコ娘にご執心ということになってしまう。このあたり、かなり成り行きがいい加減なんだけど、現在の彼女とトルコ娘とを秤にかけているのかも。最初の方で、美術学校の同級生と会うのだけれど、その場に現在の彼女もやってくる。友人がデザインをやってる、というのだが、彼女はデザインの意味が分からない。一方、トルコ人一家はかなり富裕層で知識も豊富そう。3人で食事するときなど、中国のチベット侵略について話したりしていたし。そうした教養のなさを、現在の彼女に見て、嫌悪しているのかも知れない。
そうやって弟は悪の道から離脱し、兄は内面の葛藤に苦しんでいるのだが、トルコ娘は父親に「あんなブルガリア人とつきあうな」といわれ、一家でさっさと帰国してしまう。しかし、思いはつのるばかり・・・。またまた落ち込んで酔っぱらって、夜明け。老人に荷物を持ってくれといわれ、老人の家に行くと、そのまま椅子で寝てしまい、目覚めると幼児が近くで遊んでいるというシーンがある。これで何かを吹っ切ったのだろうか。家具職人は思い立ってトルコに向かう、というところで話が終わっている。なんと唐突に! まあ、悩みを克服するには、他国の援助が必要であるとか、国民の知的水準を向上させなくてはならんとか、そういう意味でもあるのかな? ということで、こういう終わり方もあってもいいかも。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------
と思っていたら、なんと。家具職人を演じた役者がクランクアップ直前に薬物の過剰摂取で急逝し、映画は最後、中途半端のままらしい。いくつか不自然な部分があったりしたのも、そのせいなのかな。たとえば、家具家職人の現彼女へのしうち。弟が、帰国しようとしているトルコ人一家の乗ったクルマと接近遭遇するところ。などなど。伏線にしては改修されておらず、なんか変。ちゃんと仕上がっていたら、どういう収拾の仕方をしたのだろうか。と、残念。
テレビニュースで、ジプシーの行動を規制する、というような話を言っていた。そうだ。ブルガリアはジプシーの国なのだ。ひょっとして、ストーリーに絡んでくるのか? と思っていたが、いっこうにジプシーの話題はでなかった。
家具職人に「どこへ行きたい?」と問われ、トルコ娘が「音楽を聞きに行きたい」と答えるところで、彼女は「ライを聞きに行きたい」と言ったような気がするのだが。歌われていたのはライのような、ジプシー音楽のような・・・。ブルガリアにでもライが聞けるのかな?
ソーシャル・ネットワーク2/12MOVIX亀有シアター1監督/デヴィッド・フィンチャー脚本/アーロン・ソーキン
原題は"The Social Network"。事実をもとに創作を加えている、とあった。が、つい7、8年前の創業時から数年前の和解までを描くもの。関係者はみな現役バリバリだし、訴訟もまだ完全に終了していないようだ。こんな生臭い話題を、実名のままフィクションも交え、映画化できたのはなぜなんだ? 日本なら、ライブドア事件を実名のままフィクションも交えて映画化した、みたいなねのだろ。どうやって関係者の了解を得たんだろ。または、得ないでどうやって映画化できたんだろ。不思議。しかも、ソニー・コロンビアが製作しているんだよなあ。こっちに訴訟の矛先は向いてこないのかい?
いま話題のFacebook、その総業秘話。そして、創業時に関わったハーバードの仲間との訴訟問題を扱って、120分があっという間。面白かった。
創業者マーク・ザッカーバーグは極めて独善的な男に描かれる。最初の、恋人とのデートの最中の会話が典型的。自分を正当化するのに詭弁を総動員し、合理的も度が過ぎて明らかに人間性が欠如している。でも、その反面で権威には弱かったりする。学内の伝統的クラブに入れないことを悔しがっているし、モテるやつは「ボート部だろう」と勝手にイメージしていたりする。それと、富豪にも心の奥では憧れている様子。自分には能力があり、能力さえあれば成功はついてきて、女も寄ってくる、と考えているのかも知れない。
知らなかったのだが、Napster開発者のショーン・パーカーがマークに接触し、マークはショーンにぞっこんになってしまう。この辺りが、事実は小説よりも奇なりというところか。観客にはショーンは山師、たかりの類にしか見えないのだけれど、ショーンには憧れのお方にしか見えないらしい。すべて言いなりになる。これも、マークが権威に弱いことを示しているのだろう。
ショーンのように口先三寸で人を煙に巻き、好きなことをやってきた人間には、マークとFacebookは鴨ネギに見えたに違いない。マークの共同経営者だったエドゥアルドを追い出すカラクリ(大量の増資で、エドゥアルドの持ち株比率を35%→0.05%にしてしまう)にオーケーしてしまう。なので、この映画ではエドゥアルドは「マジメなのに捨てられる人」と、同情を集めるように設定されている。実際は、エドゥアルドはあまりスポンサーを集めることができず、ショーンの方が大手のスポンサーを見つけるんだけどね。でも、そういうやり手より、やっぱ友情じゃないか、と観客は思うに決まっている。
で、もう1組、マークの前に立ちはだかるのが、キェメロンとタイラー・のウィンクルボス兄弟(この2人がボート部で、北京五輪にも出場しているというのが皮肉。だって、マークの憧れのステイタスなんだから)と、その友人の3人。そもそも、この3人が学内交流のためのサイトを立ち上げようとして、そのプログラマを探していた。そこに現れたのがマークで、学内の女性の写真をハッキングし、比較して得点をつける、というお遊びサイトを思いつきで立ち上げ、学校のサーバをダウンさせたばかりだった。こいつなら、期待のサイトをプログラムできるだろうと素案を提示すると、マークは「すぐやるよ」と返事したのだけれど、その素案を基にいろんなアイディアを盛り込んでいくうち、Facebookになってしまい、ウィンクルボス兄弟への回答は延ばし延ばしにしていた、というわけだ。これが原因で、ウィンクルボス兄弟から「アイディアをパクった」と訴えられるわけだ。
いや、生臭いことこの上ない。もっともマークはウィンクルボス兄弟について「これまでのように自分の思い通りにならなかったから腹を立てているんだろう」と素っ気ない。つまり、金じゃない、といっている。もちろん兄弟は富豪で名士の息子だから。とくに兄弟の片方は、最後まで訴訟に二の足を踏んでいた。このあたり、アメリカの大金持ちの高慢とプライドが透けて見えて面白い。
エドゥアルドの訴えは、マークの裏切りへの義憤に見える。もちろんエドゥアルドはFacebookを一刻も早く商売にしたくて「広告を載せよう」というのだけれど、マークはそれには反対する。なので、エドゥアルドには金の問題もあるだろうけれど、ショーンの介入はあまりにも見え見え。できるだけシステムを普及させてから金にしよう、という魂胆がはっきりしている。こんな風に描いて、実際のショーンからクレームは、ついていないのか? なにしろ、映画の中でマークが「それ、やりすぎ」とショーンに注意するぐらいなのだから。
では、マークは金や商売には興味がないのか? ないはずがない。だって会社の立ち上げにあたっては株式をエドゥアルドと分けているのだし、ショーンがエドゥアルドを追い出すときは、株の持ち分を低くしている。もしマークが金や商売に関心がないなら、エドゥアルドを相応に扱って然るべきだ。そうしていながら、Facebookは金や商売でやってるわけではない、と言うのならカツコいいけど、そうじゃないと思う。
映画は「独占はよくないよ。人を大切にしないとな。とくに友情だろ、友情。それに、彼女の悪口をブログに書いたりするやつは、許せんよな」と、マークに批判的な立場から見られるようになっている。事実だから一方的な感じに描いているのだろうか。地震がなかったら、真実は闇の中的な、ちょっと引いた視線で物語を描くと思うんだけど、そうはしていない。まあ、だからこそ、悪(マークとショーン)に対する善(エドゥアルド)という対立構造で見られて、安心して肩入れできるのだけれどね。
そういえばインターネットはもともとアーパネットで軍事用だったのが転用された。Facebookも、マークの美人比較サイトがもともとあって、ハーバードの学生の交流の場(というか、彼氏彼女捜しの場)としてスタートし、SNSになったわけで。本来とは違う結果になっているけれど、クローズドで不純な動機から発生して、ついには世界を動かすメディアにまでなってしまうのだから、世の中というのはわからない。
それと、FacebookにしてもNapsterにしても、遊び心から始まっていくころなど、学問とは無関係に、思いつきや発想が優先されるものなのだな、と思ってしまう。とはいいつつ、こちらはいつまでたっても利用者の側で、大金持ちになる側には立てないけどね。そうそう。あの、マークが気にするようになった、2年目の女性弁護士、なんか、雰囲気がよかったね。
物語は、創業当時の話に、現在が混じる。その現在は、訴訟に対する話し合いの場なのだが、対エドゥアルド、対ウィンクルボス兄弟で、別の場所のようだ。でも、その違いや、時制がどうなっているのか、はちょっと分かりづらいところもあった。そのぐらいしか、突っ込みどころはなかった。それにしても、ビルゲイツを知らない学生がいる、というエピソードには驚いた。
オカンの嫁入り2/14ギンレイホール監督/呉美保脚本/呉美保
通俗的な人情ドラマを市川準風に撮ってみましたが、どうでしょーか? 泣いていただけましたかぁ? というつぶやきが聞こえそうな糞映画。ムダなカットのオンパレードで、ざっくりやったら60分も残らないだろう。本人が、しっとり、と思っているであろう部分が、ほとんど退屈。画面からは情緒もへったくれもにじみ出てこない。見えるのは、うわべを真似ただけの下品な計算だけ。最初の数分で、すっかり底が見えてくる。バカにするのもいい加減にしろ、って気分。
母子家庭。病魔に冒され余命数ヵ月という母親が、若い男(健太・服部研二)と結婚するというだけの話。それを25歳の娘の視点から見ているのだけれど、話が見え透いていて鑑賞に耐えられない。そもそも予告編で母・陽子(大竹しのぶ)が病気になるのは分かってしまっている。だから、陽子が一回り以上も下の青年を連れ込んだのも、病気のせいだ、と観客は分かっている。なのに、娘・月子の視点から延々と語りつづけるのが退屈すぎる。前半の1時間は、ほとんど娘の母への反発で占められているのだから!
で、突然陽子が倒れ、月子は事実を知る。以降は、月子が陽子を許す、という話の展開になる。こんな手垢のべったり付いた話に、誰が食いつくか。バカバカしくて見てられない。少しは頭を使え。なに? 頭を使ったのが、市川準風なところですってか。くだらねえ。
陽子は夫・薫に先立たれ、父親の顔を知らない月子を25年間育て上げてきた(お涙頂戴?)。月子は看護婦で、整形外科医の開業医・村上(國村準)と一緒になるもの、と月子は思っていた。村上も2度アタックしたが、陽子は娘・月子を理由に断ってきた。それが、どーして3年前から急に若い健太とつきあい始めるんだよ?! 病気が分かって自暴自棄になって若い男に手を出した、ってわけじゃないのか! いったい陽子って女は、なんなのだ? 30歳なのに一回り以上上の女と結婚したがる健太って、なんなんだ?
健太は両親を幼くして亡くし、祖母の養子になった? 最近、祖母が死んで遺産相続で揉めて、漬物樽ひとつだけもちだした・・・って、その背景が分かりにくすぎ。叔父叔母と揉めたなら、そう描けばいいのに。それにしたって、法的に漬物樽ひとつはないだろ。それと。健太は料理屋を辞めた云々で無職らしいが、祖母と仕入れで揉めた、とか、店に行ったら祖母がカウンターの向こうで倒れていた、とかいっていた。ってことは、祖母と共同経営のカウンターだけの小料理屋ってことか? 板前修業はどこでしたんだ?
月子には、電車に乗れないトラウマがある。しかし、その事実はわかりづらい。原因は同僚男性のストーカー行為と暴行なんだけど、自転車置き場でボコボコにされ、同僚のいる会社に行けなくなった。だから電車に乗れない、というのは変だろ。会社の近くに行けない、というなら分かるけど、電車に乗れなくなる因果関係が理解不能。その原因はさておいても、電車に乗れない症状である、というのが明確ではないので、どーもすっきり話が運ばないのだ。
生理的にやな部分もある。座敷犬。しかも、月子は一緒にベッドに寝てる。外から帰ると、犬は土足で家に上がる。げっ。月子が公園で、ベンチに土足で上がる。げっ。自転車は右側走行。げっ。
最初、舞台は京都かと思っていた。ところが同僚をたこ焼きに連れていく、で大阪と分かった。大阪弁と京都弁の区別、つかなかってし・・・。しかし、町屋の様子や山の木々など、どうみても大阪という雰囲気ではない。あえて大阪にする理由は、どこにあったのだ? まあ、月子たちが住んでる一角が、妙な長屋みたいなというか中庭のある住宅のような、変な空間であるのは興味深かったけど。けど、大家や、陽子の勤めている病院長が気軽に平気で出入りするような空間なんて、実際にはあり得ないよな。ってか、病院長は、あれ、独身なのか?
大竹しのぶの、やつれかた・・・。あれはメイクと演技なのか? すげーババアになっちまったな、という印象。
イップ・マン 葉問2/15新宿武蔵野館1監督/ウィルソン・イップ脚本/エドモンド・ウォン
原題は"葉問2"で、英文タイトルが"IP Man 2"みたい。なんでも「イップ・マン 序章」が近々公開されるらしいが、こっちの原題は"葉問"で英文タイトルはIP Man"らしい。なんだか分かりにくい話だが、第2部を公開したらそこそこ評判がいいので、じゃあ第1部も、となったのだろう。映画終了後にその「序章」の予告が流れたのだが、こちらは侵略国家日本との戦いらしい。池内博之が柔術家として登場していたが、公開予定のない香港映画だったわけね。
で、第2部らしく本編冒頭に第1部のかなり短いダイジェストがあった。やはり順番に見るのが本筋だろうな。まあ、第2部だけでも話は成立していたけれど。
1950年頃、葉問が香港に道場を開こうとするところからの話。なんとか10数人の弟子ができるが、他の道場の弟子とのいざこざが発生し、葉問が市場に乗り込む。その市場を仕切っているのがホン(サモ・ハン・キンポー)で、道場主でもある。この時点でホンは線香が燃え尽きるまでの時間、負けてはならないとかいうものだ。で、不安定なテーブル上で数人の道場手と戦うハメになるんだけど、ここらへんからホンや他の道場主も悪者じゃないじゃん、という気になってくる。ルールは実は同業者を守るための既得権で、葉問がルールを知らなかっただけなのだ。
で、その戦いで2人の道場主に勝ち、ホンと引き分けると、他の道場主たちは葉問に丁重に対応するようになるからおかしい。もっともホンは会費を払えと言うのだけれど、葉問が無視し、そのせいでホンの弟子にゴタゴタを引き起こされるのだけどね。
そういうホンも、実は大変なのだ。家には美しい妻と5人(?)の娘、幼い男の子のお父さん。なんとも微笑ましい。さらに、香港を統治するイギリス軍の将校(?)に上前をピンハネされ、イベントではただ働き。ホンの道場も資金繰りが大変みたい。警察もイギリス軍の手下みたいになっていて、構造的に搾取のシステムができあがっていて、簡単に自由にはできない状態だったのだ。ホンも可哀想。なんて思えてくる。
で、後半はイギリス人ボクサーのイベントがらみの話になるのだが、このボクサーは本来なにをしにきたのか、よく分からないところが凄いいい加減。でもまあ、細かなことに気をとられていると、偉そうなイギリス人vs虐げられる中国人、という対立構造に支障をきたす、とでもいわんばかりに、監督はさっさとボクサーに居丈高な態度を取らせる。で、バカにされた拳法の弟子らがボクサーに向かっていくが歯が立たない!
ううむ。中国人vs外国人という図式は「燃えよドラゴン」を筆頭にいくらでもあるし、第二次大戦以前の設定のもいくらでもあったと思うが、1950年代に中国拳法はボクシングにお手上げ状態だったのか? という疑問が湧いてきてしまう。いくらなんでもホンあたりがボクサーに簡単に負けちゃうのは、中国拳法にとって恥ずかしいことではないの? と思ったりしてしまう。しかも、ボクサーはグローブ着用で、ホンは足蹴りオーケーなんだぜ。それってボクサーに不利すぎだろ、と思えてしまう。
で、ホンは叩きのめされ死んでしまい、これで満を持して葉問がボクサーに挑戦状を叩きつける。勝負は五分と五分。なので、3ラウンドから「中国人は足蹴りなし」のルールに変えられてしまう。でも、葉問に気の毒、とは思えない。やっと条件がイーブンになった、としか思えない。まあとにかく、葉問は背中にパンチを浴びせたり、首筋にチョップを当てたり、倒れているボクサーを殴りつづけたりして、勝利する。それでリングの上から、中国人は謙虚であり・・・中国人も白人も互いに尊敬し合う関係に云々のスピーチをするのだが、大半の白人が拍手するという、ううむな展開だった。昨今の中国人はぜんぜん謙虚じゃないからね。
さて、試合が終わり、新しい弟子が1人やってくる。名前が「李小龍」って、え? ブルース・リー? フィクションに実在の人間を登場させちゃうのか? と思ったらつづきがあって、実在の葉問とブルース・リーの写真がいくつも登場するではないか。おお。葉問ッテ実在の人間だったのね。って、知らずに見ていたよ。ははは。
ドニー・イェンはやさ男の顔立ちで、昔の林与一みたい。スター面じゃないので、どーも感情移入がしづらい。
ビルの屋上を紹介する新聞経営者、市場で葉問と再会する耳の悪い男、日本軍に頭を撃たれて記憶障害のある浮浪者、などは、第1部の登場者なのだろう。なんだかよく分からなかったけれど、第1部を見ている人には納得の配置なのかも知れない。
川の底からこんにちは2/17キネカ大森1監督/石井裕也脚本/石井裕也
起伏に富み、意外性もあり、物語性にとんでいるという点で、とても面白い。しかも、映画的神話につながるようなコト、モノ、オブジェクトなどが豊富に登場するので、その意味でも飽きない。昨今の、イメージ優先だかなんだか知らんが、恋人2人がダラダラ海岸を歩いたり、土手で寝転がったり、ぼーっと車窓を眺めたりなどという、まったく意味のないシーン、カットがないということも、素晴らしい。すべてに作り込まれ、意味を付与され、考えさせる。こういう映像の豊穣さは、近頃、減っている。去年公開の「愛のむきだし」なんかは物語性は非常に豊かだけれど、映画的神話の部分ではいまひとつストーリーについていっていない気がする。
基本はコメディ。実家がシジミ工場なので、宍道湖か銚子近辺か、どこかな? と思っていたら撮影協力に鹿島鉄道や鉾田が登場した。茨城の涸沼らしい。あの辺りを走る鉄道にもトンネルがあるのか・・・。はいいとして。主人公はその工場の1人娘(?)佐和子(満島ひかり)。幼少時に母を亡くし、父親の手で育てられてきた。その間、父親は従業員のオバサンを連れ込んで・・・。それをひとつの契機として、高校を卒業するとテニス部のイケメンをつれて家出、がしかし、実家周辺では「駆け落ち」ということになっている。以来5年。会社を5つ変わり、男も5人目。現在はおもちゃ会社のOLで、課長・新井健一といい仲になってる。健一は妻に逃げられ、娘がひとりいる。そこに実家から父危篤の報が叔父・木村信夫からとどく。しかし健一には「帰れない事情がある」というのみ。失敗作をつくって身の置き所がない健一は、佐和子の実家がしじみ工場と知って、さっさと会社を辞め、「帰ろう。しじみ工場で働こう」と・・・。
佐和子の口癖は「しょうがない」「しょせん中の下」で、主体性がなく、流される人生を送ってきた。高望みはせず、ほどほど。目的も意欲もない。ところが帰ってみれば会社は右肩下がり。何とかしないと会社がつぶれる。そこで思い切った宣伝活動(といっても5万円でできる範囲)に打って出て、経営回復へ! というのがメインストリーム。
茨城でしじみ漁というと、深川通り魔殺人事件の川俣軍司を連想してしまう。貧乏、低学歴、職人、覚醒剤、犯罪・・・。事件は1981年だが、あれから30年。日本人は豊かになり、シジミも北朝鮮や中国産が増えた。いっぽうで国内産は売れず、シジミ漁も衰退している。国内の景気も回復せず、貧乏、低学歴、就職難は相変わらず。覚醒剤だって減ってる気配はない。きっと佐和子も、田舎を出たかったに違いない。だって、高校を出たら仕事もなく、いずれは婿を取ってしじみ工場の経営者・・・。じっさい、佐和子の同級生が木村水産で働いているし。そんな未来を消し去るため、テニス部の男子は口実にして上京したのだろう。まあ、上京といっても十分に日帰りできる距離ではあるけどね。
佐和子の達観は、現在の社会状況の反映でもある。持てる者、持たざる者の二極分化は進み、階層構造化しつつある。かつての一億総中流意識は消え、90%以上が下流=300万円未満の年収になっている。そういうなかで中の下というのは微妙なところである。下ではないというのは、佐和子が経営者側にいる、ということと無縁ではないかも知れない。従業員は、下。でも、経営者だから、中の下。実質的には下だが意識は中流という意味もあるかもしれない。これは多くの日本人がそう思っている幻想だ。
しかし、そんな佐和子も、「駆け落ち」といわれて戸惑う。ここも微妙なところで、自身は「帰れない事情がある」といいながら「駆け落ち」という言葉には拒否感を示す。中の下という現実には目を背けないのに、駆け落ちは認めようとしない。おそらく、佐和子に駆け落ちの意識はなかったのだろう。たまたま上京するのに声をかけただけで、テニス部に対する憧れはなかった、と。実際、2人が寝たかどうかは関係ない。「捨てられた」と周囲も佐和子も言っているけれど、捨てられた意識もなかったと思う。ただ、駆け落ちして捨てられた、ということにした方が都合がいいから、そうしたように見える。言い訳したってムリだから、周囲の期待に応えてそうしたのだと思う。それがあって後々の佐和子の居直りがあり、従業員からの支援も取り付けられたのだろう。いつまで言い訳していても、従業員に拒否されるばかりだから。このあたり、佐和子は「しょうがない」でやっているように思える。
男に対しても、高望みしない。こぶつきの30男、健一。優柔不断で身勝手で、生活力もない。娘から「そんなだからお母さんに逃げられるんだよ」と言われてしまうほど情けない。そんな男でも捨てない。積極的ではないが、受け入れる。健一が佐和子の同級生と駆け落ちしても、娘の面倒は見る。ここまでくると、佐和子は菩薩ではないかと思えてくる。
佐和子のトラウマが一挙に崩れるのも面白い。つまり、父は従業員の特定の女と関係があり、その女がいずれ自分の母親になるかも、という思い込みだ。実は、10人いる従業員の8人と関係していたことが、父の死後、従業員の告白で明らかになるのだが、このあっけらかんとした様子はなんなのだ。しかも、10人の内8人は男に逃げられた過去をもつ。つまり、帰ってきた佐和子を「駆け落ち」とバカにしていた彼女たちも、佐和子と同じ穴の狢であることが分かり、それで打ち解けるようになる。誰が上位で誰が下位という階層はない。みんな同じ、中の下だ! というわけだ。こうやって木村水産は一致団結。覇気のない社歌は止めて、自分たちは、「中の下、中の下、どうせみんな大した人生じゃないし、鼻っから期待してませーん」という、居直った社歌に変えて出直す。どうやって成功したかは、あまり深く描いていないけど、あれで十分。宣伝費5万円で生産者の顔写真をパックにつけたぐらいで売上げが倍増になるはずもないけど、それはいいのだ。とにかく、何か努力すれば、不可能はない! と思わせればいい。そうして、同級生に振られて戻ってきた健一を受け入れ、娘とともに「大したことのない人生」を生きていこうとする佐和子。ほんと菩薩。仏教の、欲を捨ててあるがまま受け入れる、という思想と通底している。それを、こんなすっとんきょうな物語にして見せるのだから、素晴らしい。
積み重ねられるエピソードがことごとく面白い。佐和子の腸内洗浄。畑の肥まき。胸はスイカみたいに大きくなくても、肥のおかげで大きなスイカが穫れた。健一の失敗作・オバサン型のチョロQ。電灯は足で消す。「ゴリラの脇の下は臭い?」という健一の娘の質問。父親がカツラ。父親の骨撒き・・・etc。いずれもどこかしら映画的神話に基づいているような気はするのだが・・・。はっきり分かるのは、テニス部と佐和子が鹿島鉄道で駆け落ちするとき、「東京に行ったらやりまくり」という科白の後に、列車がトンネルに入っていく場面。これはヒッチコック他、多くで使われている。さがせばもっとあるに違いない。
佐和子は幼くして母を亡くし、健一の娘も、幼くして母親に去られている、というアナロジー。
男たちは目の前のオマンコに弱い。佐和子の父親しかり。役所勤務の叔父も、頭の中は女とやること。健一も、佐和子の同級生と・・・。木村水産の従業員の亭主も、リサーチにやってきた太めの女学生(?)と・・・。いずれも、後に反省するような関係ばかり。つまりまあ、男はそういうものだ。それを許すのが女の役目、と言っているようにも思える。まあ、女も一方で、「みんな女狐」でもあるわけで・・・。
佐和子の同級生が健一を連れて戻り、健一を降ろして去っていく。その車のナンバーが「2910」で、「にくいわ」になっている。同級生の彼氏だったテニス部と駆け落ちした、佐和子へのメッセージだろうか。
いろいろと読み応えがある。
満島ひかりの科白の読み方も、自然すぎるぐらいで、リアリティが十分。ドラマドラマした感じではなく、本音でそう思ってるだろ、オマエ、と言いたくなるぐらいだった。
ザ・タウン2/21新宿ミラノ1監督/ベン・アフレック脚本/ベン・アフレック、ピーター・クレイグ、アーロン・ストッカード
原題も"The Town"。銀行強盗の話。銀行強盗を扱った話は、知恵比べや権力に一矢報いる展開になりやすい。悪人=悪行だけど、カッコイイ、みたいに。ところがこの映画は、主人公たち(4人)はひたすら悪いやつばかり。では極悪人に描かれているかというと、そうでもない。監督で主演のベン・アフレック演ずるダグは、本当は心の優しい男に描かれている。ベン・アフレックが演じるから、余計そうなる。もっと悪人面の役者がダグを演じたら、印象はきっと違ったものになったんじゃないかな。ダグと対比されるのが、ジェム(ジェレミー・レナー)。「ハート・ロッカー」では冷静な男を演じていたが、この映画ではすぐ切れるアンちゃんで、すぐ殴る、拳銃をぶっ放す、殺す。だから、暴力を否定し、酒も止め、強盗引退を考えているダグが、ましな人間に見えてくる。
冒頭に、ボストンのなんとかいう地区は銀行強盗が多く、代々強盗を継承する家もある、なんて字幕が出る。で、その場所がザ・タウン。で、映画が終わると、またまた、タウンには強盗が多いが、大多数は善良な人ばかりである、てな字幕が出る。これって事実なのか? そんなの大っぴらにして、いいのか? 日本にもかつて筑豊に泥棒村があり、「白昼堂々」という小説/映画にもなっているけど、いまじゃタブー。でも、アメリカはOKなのね。
銀行強盗ものは概ね、仲間集め→小手調べ→大仕事に向けて計画(穴掘りとか)→ケンカ別れなんかもあったりして→侵入→ほぼ成功!が、トラブル発生→仲間の何人かは捕まるが、主人公は逃げおおす・・・的な流れが多い。でも「ザ・タウン」では、最後以外はあてはまらない。伝統的な強盗町なので前科もちが何人もいて、ジェムも前科2犯。ダグと残り2人の4人チームで、地域のボスの配下に属している。ボスは花家のオヤジで名前をファーギー。この1月に亡くなったピート・ポスルスウェイトが演じている。いい味だしてるね。
というわけで、それぞれの道の達人が集まって・・・ではなく、親父の代から強盗で、親父に仕込まれて、という仲間で、幼友達でもある。しかし、ほんとにそんな強盗が存在するのか? 計画はなんかテキトー風。仮面をかぶって銀行に押し入り、行員を圧倒して金庫を開けさせ、さっさと逃げる。あるいは、現金輸送車を襲ったりする。やることが派手すぎるだろ、と思うのだが・・・。
こんなだから、簡単に警察にバレてしまう。配電盤を操れるのは何とかいう会社の従業員で、従業員の中に強盗のあった日に休んでいるやつが一人いて、それが4人のうちの1人だってあっさり分かってしまう。それで警官が監視にいき、バーベキューパーティの4人を隠し撮り・・・。ま、ダグは隠し撮りされているのに感づいていたらしいが、フツーならもう追いつめられている局面だよな。でもアメリカ映画は動じない。4人は参考人でしょっ引かれるけど、証拠不十分ですぐ解放される。これでひと安心。になってしまう。どころが、こういうときにファーギーから次の仕事の連絡が入る、って、そういうのアリなのか? ちょっと強引な気がするね。
で、ダグはつきあっている女性(これがなんと、銀行強盗のとき人質にした支店長!)と新生活を始めたいので、ファーギーに「もうやめる」といいに行くが、逆に思い知らされてしまう。ダグはマザコンの毛があり、父親が「逃げた」と言う母親に会いたくてしょうがなかったのだ。それが、実は薬づけで首つり自殺していた、と知らされる。これもファーギーの仕業で、「タウンからは逃げられない」と悟る。で、新しい仕事はフェンウェイパークの上がりを奪うヤマで、結果的にジェムを含む3人は死に、ダグはなんとか逃げ出す・・・という、終わり方。「俺たちに明日はない」みたいな感じでダグも死んで、支店長だった彼女が複雑な気持ちで泣く、でもよかったように思うんだが、そうはしない。それにしても、レッドソックスの本拠地球団が、その内部の撮影を、内部通報者があったという設定で許可したのか? 太っ腹だね、アメリカは。
で、もうひとつの串になるのが、ダグと銀行の支店長の女性クレアとの関係。人質にして短時間で解放したが、住所が近所なのでジェムは消そうという。それでクレアが感づいているかどうかダグが調べるのだが、惹かれてしまう・・・。話を面白くするつもりなのだろうけど、謝罪と同情心が恋に発展するって、倒錯しすぎではないの? セックスフレンドでは満足できない、母親願望が原因なのかね。
クレアは襲われたとき、ジェムの刺青を見ていることなんだけど、これ、犯人確定には最終的に使われない。ダグが犯人、とクレアが気づくのは、FBIが参考人として引っぱった4人の写真を見せたから。やっぱ、ジェムの刺青に気づいて「うそ!」みたいになって欲しかった。
フェンウェイパークの仕事で引退するつもりのダグ。一方クレアは真実を知り、もう一緒の行動はできない・・・。仕事の前にクレアに会ったダグが「説明するから聞いてくれ」としつこく迫るのは、アメリカ文化の七不思議だな。釈明すれば理解してくれると思っているのだろうか。日本との感性の違いをいつも思ってしまう。
さて、フェンウェイパークから逃げ出したダグは、とって返すとファーギーに弾丸をぶち込み、ファーギーの金を持ち出す。・・・でもさ、それができるなら、母親の真実を知らされたときにそうしてればよかったのに、って思うよね。仲間も死んで、金も奪えず、命からがら逃げてきてファーギーに仕返し(母親の)するのは、遅すぎないか? 次にダグは、クレアに電話する。クレアの周りがFBIだらけなのは、ダグから見えている。って、そんな近くに、どうやって行けたんだ?
「これから行く」と返事したダグは次の行動にでるのだが、これがよく分からない。勤続20年とかいう写真のある家(運転手の家?)にいて、そっからでるとバスに乗って(運転してた?)移動。降りるとき、別の運転手に挨拶する。勤続20年の運転手って、だれ?
で、クレアの家のそばに止めてあったFBIのクルマに「あほ」というメッセージを残し、クレアの花壇にファーギーの金を埋める。後にクレアが金に気づくのだけれど、「君なら有効に使えるはず」とメモがあっても、彼女にはフェンウェイパークから盗んだ金かファーギーの金か、区別つかないのでは? それに、いくらボランティアに仕えって言われても、できんだろ。
で、最後に本人はフロリダか中南米かで、ヒゲを伸ばして暮らしている・・・。まあ、そばに美女がいなくて寂しい感じなのは当然として、悪い奴ほど生き延びる終わり方でいいのかね。かつてダグのため、躊躇なく警官(?)を撃ち殺したジェムはボロ切れのようになって撃たれて死んでるっていうのに・・・。ダグは「殺してくれなんて頼んでない」ともいって、ジェムを怒らせていたっけ。ジェムはキチガイ的な部分もあったけど、義理堅いとこものある男だったのだ。
ある意味、ヤクザからの足抜けを描いている。このあたりは、東映のヤクザ映画をちょっと連想させる。最後にヒーローにせず、哀しい終わり方をするのは、日活ニューアクション風。でも、中途半端なリアリズムが、スッキリしない映画にしてしまったような気もしないでもない。
カーチェイスもあるのだが、カメラの視点がいろいろ変わるので、追う方と追われる方の位置関係がわかりづらかった。それから、現金輸送車を襲い、なんとか逃げたバンから出るとき近くに口をあんぐりの警官がいたんだけど、あれは何か意味があるのか? クレアを演ずるレベッカ・ホールは、かなりの馬面。正面から見るときれい、にも見えるが、横顔はアゴがないのでマヌケ面だね。
冷たい熱帯魚2/22シネ・リーブル池袋シアター1監督/園子温脚本/園子温、高橋ヨシキ
いま注目の映画。予告で、大量殺人であることは分かっていたので、展開は予想の範囲。でも、あそこまでスプラッターとは思わなかった。それと、後半の30分は無茶苦茶になりすぎ、のような気がした。あっさり、ふっ、と終わるぐらいでもよかったかも。
事実に基づく、とあったけれど、参考にしているのは埼玉愛犬家連続殺人事件らしい。ペットショップを熱帯魚屋に、犠牲者を4人から60人に変えている。
予告のときから耳についていた"どーんどーんどんがどっが、どーんどーんどんがどっが・・・。"という音楽が耳について離れない。この映画のテンポの良さは、その多くをこの音楽に寄っている。音楽に合わせた細かい編集も効いていて、ぐんぐん引きつけられていく。なにしろ、話が面白いし。
静岡県。個人営業の熱帯魚屋の店主・社本信行。20歳前後の娘と若い後妻との3人家族。娘の万引きが発覚したが、たまたまスーパーにいた村田(でんでん)が救いの手をさしのべる。村田は従業員数名を抱える大規模な熱帯魚屋。弁舌巧みに社本をまるめこみ、仲間(実質的には手下)にしてしまう。アマゾンの高級魚を養殖すれば1000万、の言葉に社本の妻・妙子(神楽坂恵)はまいってしまう。おまけに、社本の娘・美津子(梶原ひかり)を、村田の店で働かせてくれるという。村田には娘を助けてもらった借りがあるから、断れない・・・。という丸め込みの手際が生々しくドラマチック。滑舌の悪いでんでんのセリフも、気にならないどころか、妙に現実的に聞こえてくる。
愛子と社長室で2人きりになった村田が、愛子に迫り、胸を揉み、顔を叩き、押し倒していく過程もすごい。愛子は「嫌」どころか「もっと叩いて!」と嬌声を上げるのだけれど、これはもう、女の素性(マゾ)を見抜いた村田の勝ち、としかいいようがない。ものすごい説得力だ。
呼ばれて行くと、社長室には村田、弁護士の筒井(渡辺哲)、ヤクザの親分(?)の吉田(諏訪太郎)がいる。どうも、吉田にアマゾンの熱帯魚に投資させようとしている様子。しかも、自分も一枚噛んでいるような流れに、社本がたじろぐ。始めは躊躇していた吉田が1千万円渡すと、村田の妻・愛子(黒沢あすか)がドリンク剤をもってきて、それを飲んだ吉田が悶絶死! 筒井はにやにやし、村田は「これが58人目。俺は人が死ぬ時期を知ってる。妻と娘のことを考えろ。手伝え」といい、村田、愛子、社本で山奥の別荘みたいな教会に連れていき、解体作業! 村田と愛子は手慣れた様子で嬉々として作業に打ち込み、社本は震え、吐き気を抑えている・・・てな具合に、いつのまにか渦中の人にされてしまっている! こういう流れが、手際よく、テンポよく描かれていくので、目が離せない。とはいうものの、1千万のために男1人を殺すかね? という疑問はつきまとう。だって、金に困っているみたいに見えなかったし。
この後、警官が社本に接近。村田の周囲で人がいなくなっている、と告げる。
さて、愛子が筒井とデキているみたいな話になった頃から、話が錯綜してくる。筒井は愛子と2人で、村田を消す相談をし始める。そのクルマに同乗した社本は、今度は筒井の仲間にされかける・・・。で、筒井と愛子の濡れ場があり、筒井は運転手に「見てろ」と命令する変態趣味。おやおや。と思っていたら、社本が村田に呼び出され、尾行している警察を振り切って行った先は、筒井の家。なんと、筒井が服上死(勃起したままだった)していて、村田、愛子は2人で運転手を絞殺。しかし、筒井を殺すだけなら、あえて筒井とまぐわう必要はないわけで、これから殺す相手とまぐわいたい、という欲望からの行為なのかな。で、3人で2人の死骸を山中の教会に連れていく・・・。2人の死骸は、またまた村田と愛子が解体! スプラッターはだんだん激しくなる。
のであるが、愛子の裏切りは、ありゃ作戦だったのか? 村田が愛子を責める様子もないし、逆に、筒井のチンポはどうだった? なんて聞いている。どーも、村田と愛子の夫婦関係というのが、よく分からない。妻が他人と寝ても意に介さない。嫉妬もしない。どういう夫婦なのだ? そういや、愛子は従業員の少女と同性愛関係にもあるみたいだし・・・。それと、どうやって筒井を殺したのだ? ドリンクのビンが転がっていたけど、また同じ手口? それに筒井が引っかかったのか? ううむ。ちょい説得力が欠けてきたね。
そういえば、社本は村田を乗せて筒井の家に行く前に、妙子に電話して、吉田の腕時計を警察に持って行け、という。解体作業中に、村田が社本に与えたものだ。それで警察がすぐくるのかと思ったら、そうではなかった。次なる事態が発生する。川で、2人の死骸を捨てろ、といわれた社本。村田に、「そんな性格だから娘がぐれる。オマエの女房と寝た。悔しかったら殴ってみろ」といわれ、村田に向かっていくが、逆に殴られる。挙げ句に、「愛子を抱け」と言われ、クルマでコトに及んでいる最中、シャープペンで愛子の首を刺す。さらに、村田もシャープやカッターでめった刺し。ううむ。逆上ってことか。このあたり、ストーリーの暴走に思える。正直言ってわけわからん。いたぶった男と妻をまぐわせ、それをみて喜ぶ村田。いや、喜んで社本とまぐわう愛子。こいつら、かなりおかしい。壊れてる。
さらに話は暴走する。社本と愛子は村田の遺骸を教会に運び、愛子に解体を命ずる。で、愛子に「これからは俺の女だ」みたいなことをいうのだが、それで愛子は陶酔の表情を浮かべるのだ。愛子は、自分を引っぱってくれる男に、身も心も殉じる女なのか。うわー。で、解体途中で着替えをした社本は、村田の店に行き、娘のひかりを連れ戻す。家に帰ると反抗するひかりを、ぼかり。妙子を押し倒し、「オマエは俺との結婚を失敗だと思ってるんだろ」などといい、嫌がるのをまぐわおうとする。気がついたひかりが「なにやってんだ、おまえら」と言うのを、またぼかり。笑える。このあたり、抑圧されて育った社本のバルブが弾けたみたいな感じなんだけど、弾けさせたのは村田なわけで。ちょっとした思惑のズレが、自分の死につながってしまったという、村田の浅はかさ?
とってかえすと、愛子は健気に解体中。そんなぬるぬるのなかで、フェラしようとする愛子の頭を置物でポカリ。(の後、社本の頭も叩かれたみたいに見えたんだけど、勘違いか?)・・・包丁もって社本を襲う愛子、逃げる社本、のしかかられて・・・愛子は包丁を捨てて社本のまらを探り、まぐわおうとする・・・そこを社本がズブリ。おお。なんていう展開。愛子のマゾ的変態性欲にはたまげたが。
そこに、やっと警察がやってきて。社本に「中だ」と言われ、家の中へ。警察のクルマに妙子とひかりが乗っていて。妙子が社本に抱きつくんだけど、そこをズブリ。何で? 次に社本はひかりを威嚇し、包丁でちくちくして、「自分一人で生きたいんだろ。えっ?」と執拗にからみ、でも、結局は「死ぬのは痛いとかなんとかいいつつ、自ら頚動脈を断つ。それを見て、「死んじまった」と笑いながら父親の死骸を蹴る。というところで終わり。このときのクルマのナンバー(だっけ?)が、「2954」で、「肉いーよ」「憎いよ」に読めるが、偶然?
というわけで、こう書いていても、愛子の変態性がどんどんエスカレートし、わけが分からなくなってる。社本も、妙なところで目覚めてしまい、いじめられっ子が突然の逆襲。でも、そうやって獲得した父性なんて、なんの権力にもならんよな、と映画は言っている。そもそも、妻が死んで2年ぐらいで後妻をもらい、べたべたしてちゃ、親としてしめしがつかん、とも言っているが、そんな説教臭い背景は要らないとも思うがなあ。娘が万引きしないと話が始まらないから、娘を不良にしたんだろうけど、自閉症的に素直な娘の設定でも、映画は成り立つような気がする。
そうはいいながら、登場人物の設定に厚みがあるから、物語としてみていると、とても面白い。気弱だけど女好きな社本。妻の妙子は、飯もつくれず(みんなレンジでチン)、セックスの相手もあまりしてくれない。そんな義母を毛嫌いし、暴力を振るう娘ひかり(ひかりの設定を、もう少しひねったら、とも思う)。妻がよその男と寝ても気にせず、口から勢いで生きている村田。でも、村田の生き甲斐、夢は何だったんだろう? 殺しも見のがし、金のことしか考えない悪徳弁護士・筒井。なんか、みんなもの凄いね。
・この手のダークな世界は最近、韓国映画が群を抜いているんだけど、それに匹敵するレベルにまではいってるかも。
・愛子の、柔和な表情・口調が、一瞬にして恫喝・暴力的になる演出が、怖くていい。
・妙子役の神楽坂恵の裸がいい。スレンダーなのに、巨乳。揉むととろとろしているのが分かって、なかなかにセクシー。愛子役の黒沢あすかは、逆に貧乳で乳首も濃いので、あえて脱がなくてもよかったかも。とは、男の視点だけど。
・でんでんは、口もよくまわらないのに、よくもまあ沢山のセリフをずらずらとしゃべったもんだ。下手なりにいい味の役者になってたけど、これで、株が上がったね。
・村田の父親がつくった(?)という教会を殺害現場にしている不条理は、メッセージとしてはストレートすぎるかも。教会は「愛のむきだし」にも登場していたけど、神や信仰なんて屁のツッパリにもならん、という気持ちがあるのだろう。興味深いのが、解体のとき、必ずロウソクに明かりを灯して行なうこと。あれは、どういう儀式のつもりなのだろう?
・吉田の遺骸を運んだとき、教会のイルミネーションが付いているのは、いくら映画的効果を狙ったとしても、不自然。
・警察が最初に社本に接近するのが、村田の店の前というのは、ちょっと露骨すぎるかな、と。
・村田の熱帯魚店の従業員たち、みんな若い女の子なんだけど、もうちょっと背景や人物を描いてくれてもよかったかも。
・吉田役の諏訪太郎は、ヤクザの兄貴分(親分?)らしいが、村田の所に1人でやってくるのは、少し変かも。それに、どっかの商店主みたいな感じで、ヤクザっぽくないのがいささか難点。
完全なる報復2/23新宿武蔵野館2監督/F・ゲイリー・グレイ脚本/カート・ウィマー
原題は"Law Abiding Citizen"で、遵法精神に則った市民、みたいな意味かな?
復讐物だとは分かっていた。冒頭、さっそく妻と娘を殺されたクライド(ジェラルド・バトラー)。検察官のニック(ジェイミー・フォックス)と一緒に、悪と戦うのか? と思ったら、次のカットでは犯人が逮捕されていて、裁判・司法取引の話になっている。クライドは司法取引に反対だったのだが、殺人罪を求刑すると2人とも証拠不十分で釈放される可能性が高いので、ニックは自分の勝率アップのため勝手に司法取引してしまう。悔しがるクライド・・・。さてどうなるのだ? と思っていたら、次のカットでは10年後になっていた。あらら。ちょっと先が読めない。
で、10年後、犯人の1人が死刑になる。が、薬液の具合が変で、悶絶死。と思ったら、司法取引で、第3級殺人犯で5年の刑を食らったけど3年で出てきてるもう1人が登場。実はこいつが母娘を殺していて、死刑になった方は従犯だったのだよね。で、薬剤に書かれていた言葉(忘れた)から、薬液に仕掛けを施したのは主犯の方だ、と判断した検察と警察が急行すると・・・。
コカインとセックスでのほほんだった主犯に、男から電話。「警察が来るぞ!」と。外を見ると、ホント! 慌てて逃げ出す主犯。「銃を捨てろ、廃工場に行け」と男の指示があり、そのまま行くと、パトカーで警官が眠らされている。警官の銃を奪い、警官をどついていると、男から携帯に指示・・・。男は、目の前にいる警官だった! ・・・という流れは、いくら仕込んでおいても、そんなにタイミングよくコトが運ぶわけがあるか! という気になるが、まあ映画だから。
その警官はクライドで、主犯を廃工場で解体し(うわ。「冷たい熱帯魚」につづけてのバラバラ!)、そのビデオをニックの家に送付する。クライドの復讐が始まった。と、誰しも思うわな。検察も・・・。で、クライドは別荘であっさり逮捕される。
ニックは、クライドを忘れているみたいな感じだった。たくさんある事件のひとつだからね。で、クライドは「司法取引で裁判を終了させても事件は終わらない。それどころか事実を見のがす。凶悪犯が自由に徘徊するだけだ」という。ニックはクライドの意見に共感するものの、「それじゃ悪人2人が釈放されることになる。それじゃ無意味だ」という。クライドは「2人とも起訴したという誇りが残る」みたいなことをいい、平行線。
面白かったのが、公判。担当するのは、かつて司法取引を認めた女性裁判官。クライドは「証拠不十分なんだから俺を保釈しろ」といい、ニックは反対するのだけれど、裁判官は保釈を認める。と、そこでクライドが「そーやって簡単に保釈を認めるから、悪人がうようよ街を歩くようになるんだ! クソアマ」みたいに裁判官を罵倒する。つまり、真実を追究することなく、司法取引や保釈など、悪人の刑を軽くするシステムがあるのは変だ! ということをクライドは主張するのだ。というわけで、この映画はクライド対アメリカの司法制度という対立項を明確にする。
それ以後が、また面白い。逮捕前に、10年前に主犯を弁護した弁護士を生き埋めにしておき、彼の命を弄びつつ、警察や検察が約束を守るかどうか試したりする。このときは、1時までにクライドが要求した豪華料理をもってこなかったので、弁護士のための酸素(彼は地下に埋められていた)がなくなって、死んでしまう。ちゃんと1時に食事を出していたら、弁護士は助かったものを・・・。と、このあたり、権力者の奢り・横暴を戒める部分があったりして、亡くなった弁護士さんには悪いが、そうそう、と心で叫んでしまった。
ベッドだ、うまい飯だと、刑務所内で次から次へ、要求をエスカレートさせるクライド。でも、次にやったのは同房の殺害。で、独房へ。でも、こっからがまた見もの。拘束されているのに、女性裁判官、上役検事(?)、司法省のスタッフ・・・。次々と10年前の司法取引に関与した人間を予告通り殺害していく。このあたりは、ぐいぐい引き込まれる。だって、逮捕前に仕込んでおいた弁護士の件はわかるけど、それ以後の手口がまったく分からないのだから。検察/警察が「共犯者が」というように、その線かな、と思ってた。上役検事を仕留めるとき、人間の存在が見えたしね。
で、クライドは国防総省と関係があることが分かり、スパイが消せない相手を遠隔操作で始末する天才だ、ということがわかる。なるほど。いろんな仕込み、薬物に詳しい理由、もろもろ納得がいく。次はどんな手口で来るのだ? と思っていたら、手品のタネがあまりにもバカバカしいのでテンションが一気に下がってしまった。だって、刑務所の近所の廃工場を買い取ってトンネルを掘り、各独房へつなげていた、というオチだぜ。のけぞるよ。そりゃ何でも好き放題にできるだろうよ。でも、いくら独房だって監視/見回りはあるはずで、その合間を縫ったとしたって予定が狂うこともある。そんな仕掛けのために10年の歳月を費やしたってのが、アホに見えてきた。もし別の刑務所に送られたらどーしたんだ? 壁に穴開けが発覚しない奇跡は、どうやって起こした?!
というわけで、腐った司法制度への挑戦状、そして、遠隔犯罪というもの凄いテーマと手口に感動していたのだけれど、最後はがっくり。しかも、市庁舎での爆殺は大失敗。市庁舎会議室下の階に設置した爆薬が撤去され、クライドの独房に移動されていて、それを知らずにクライドはスイッチを入れてしまう・・・。
面白かったのは司法省スタッフのクルマを爆破する辺りまでで、トンネルが出てからはバカにしながら見てた。クライドの爆死の後、ニックは妻と娘の演奏会に行くのだけれど、ニックは「これでよかったのか?」という顔をする。成果主義一本槍のニックの考えは、変わったのだろうか? 変わらないとむ思うんだが・・・。それに「完全なる報復」といいながら、もっとも重要な相手ニックを始末していないのは、片手落ちだろ。個人的には、もうひとつ超ウルトラスーパーデラックスな手口で、ニックあるいはその家族が爆弾で吹っ飛ぶ、という最後を期待したんだが、そうはならなかった。ううむ。
司法取引や保釈はよくない、と考えている米国民が少なくないから、こういう映画ができるんだろうな。まあ、それはそれとして。司法取引云々とは別に、自分の主張を貫くためには多少の犠牲も仕方がない、というテロリズムの肯定になっているのが興味深い。強大な国家や不完全なシステムに馴らされた人にショックを与えるには、もう、投票行動なんかではムリ。命をかけて戦うんだ、ということだ。でも、それはイスラム圏の過激派が行なっていることと変わりはない。でも、哀しみに相当する原因があるならば、許されるかも知れない、という判断だと思う。もちろん、多くの犠牲者をだしたのと引き替えに、最後はあなたにも死んで償ってもらうよ、とは言っているけどね。
しかし、ターゲットがどんどん拡散し、サラを含む司法省のスタッフまで、まるで見せしめのように殺してしまうのは、やっぱ行きすぎのように思えた。裁判での勝率を確保したいがため、司法取引に依存するニックをそのままにしておいて、サラまで殺ってしまうのは、おいおい、だね。
・クライドは、クラウゼヴィッツの「戦争論」かなんかを引用するのが、渋い。
・スパイから依頼され、ターゲットに炭素繊維のネクタイをさせ、数日後に始末、というのは、どういうことだ? 繊維の爆弾?
・逮捕時、クライドは素っ裸になるのだが、これは警官の手間を省くため?
・フィラディルフィアの市長なんかを殺害して、なんのアピールになるのだ?
・最初に映ったのは、フィラディルフィアの裁判所?
・サラを演ずるレスリー・ビブが、なかなかかわいい。35、6歳らしいが、とてもチャーミング。彼女を殺したのは、失敗だったね、クライド君。
・で、クライドの娘がつくってパパにプレゼントしてくれた名前入りの腕輪は、なんか意味があったの?
トロッコ2/25ギンレイホール監督/川口浩史脚本/川口浩史、ホアン・シ―ミン
映画的表現手法も満足に知らず、雰囲気だけで映画をつくるとこうなる、の典型的な見本のような映画。退屈を通り越して、見ているのが苦痛でさえある。ほとんどのショット=映像に意味はなく、作り手が酔っているだけ。でもそれは勘違い。要するに、描くべき何も持ち合わせていないから、だらだらとどーでもいいような映像を惜しげにつないでいる。この映画に本当に必要な部分だけを抽出したら、おそらく20分足らずになってしまうのではないだろうか。ひと言で言えば、ゴミである。半年か1年前、「恋空」をケーブルでやってたのでRECしてみたが、だらだら歩く、芝生に座る・・・なんていう意味のない映像の連続に怒り心頭に発し途中で見るのをやめた。まあ、「トロッコ」もそれに近い。映像がほとんど何も語っていない。
矢野夕美子・敦・凱の家族が、死んだ中国人の夫の遺灰を台湾の実家にもっていく。それだけの話。台湾の実家の家族問題、矢野家の親子問題、トロッコにまつわる話。この3つが折り合わされてはいるのだが、いずれも中途半端。物語の背景がまったく描かれないので、共感も反発も、なにもできない。
台湾の実家は老父1人で住んでいて、台北から次男夫婦が来ている。次男の妻は、はやく台北に戻って仕事をしたい雰囲気。次男は夕美子に気を使うが、妻はそれに嫉妬する。ああ、老父は可哀想に。「歩いても 歩いても」みたいだなと思っていたら、突然、老母が現れる! 次男が迎えに行ったらしいが、いったいどこにいたのだ? 病院? 足が悪いと分かるが、なんの伏線にもなっていない。また後半、敦と凱がトロッコでいなくなったとき、なーんの前触れもなく病気で倒れる。なんなんだ!
矢野家の親子問題・・・に移る前に。台湾人の長男は、帰化したのか? それで矢野、なのか? わからん。で、夕美子は新聞記者(?)あるいは旅行ライターで、忙しいらしい。夫だった台湾の長男も新聞記者。この女が、後半、凄いことをいう義父にいう。「同年代で働いている女性を見ると、私に子供がいなかったら、って思うんです」と。げ。子供を持った母親が、こんなことを口にするか? 鬼母だな。これを敦が聞いてショックを受けるのだが、ひどい女だ。息子たちの叱り方も下品で、人間として尊重する姿勢もない。品性を疑う女だ。まあ、トロッコの冒険から戻ってきた敦にたずねられ、「お前がいちばん好きだよ」と抱きしめるのだが、その後ろで凱が見ているんだぜ。「じゃ、僕は2番目?」と思っても不思議ではない。なんて無神経なバカ親だ。それにしても、夫がなぜ死んだか、それについて何も触れないのも、変だろ。
で、タイトルにもなっているトロッコだが、冒険譚は後半に出てくるのみ。こっちは、さっさとトロッコで山の中へ、幻想の世界へ迷い込め! と思っているのに、ぜんぜんそんなことがない。むしろ、トロッコで異界へ迷い込む話かと思っていたのに! けっ。
トロッコ話のきっかけは、亡くなった台湾・長男が持っていた古い写真で、そこにトロッコを押す少年が写っていて、敦がその写真を祖父に見せるところから始まる。のであるが、なぜ敦がその写真にこだわったのか、分からない。写ってる少年は父ではなく、台湾の祖父だったのだけれど、こんどはその祖父(夕美子の義父)が「これはどこで撮ったんだろう」と考え出す。しかし、なぜその写真の撮影場所にこだわるのか、理由が分からない。次男は「どこで撮ったか、記憶がなくなっているのにショックを受けている」なんてことを言っているが、意味ない。
つまり、話の作り込みが全然できていない、ということなのだ。1枚の写真、その写真がもたらしてくれた過去、過去の思い出=夢という図式がちゃんと描かれていない。断片から想像するに、日本占領下の台湾で、そのトロッコのレールは日本につづいていた。義父は、いつか日本に行けると思っていた。しかし、2年間、日本兵として貢献したのに補償金ももらえない。なんてこった! という図式を想定しているのだろうけど、それがちゃんと伝わらなければ、意味がないのだ。
で、敦と凱は、トロッコを使っている青年の手伝いをするかたちで、山の中へ入っていく。でも、青年と一緒だから、冒険でも何でもない。自分を育ててくれた叔父の家まで2人を連れていくが、凱は「帰りたいよー」と逃げ出してしまうのだよ、なんで? 疲れたら眠ればいいではないか。逃げる必要がどこにある。笑えるのが、青年の「道が分かるか?」のセリフ。トロッコの線路をたどれば戻れるだろ。あほ。さらに途中から凱の方が泣きじゃくるのだが、延々と泣きっぱなし。そんなのあり得ない! この監督は子供の感情も分かっていないし、泣き疲れなんていう言葉も知らないのだろう。 ・敦と凱の成長を象徴する小道具に、寺で拾った小鳥がある。羽根を傷め、飛べなくなっていたのを、籠に入れて飼うことになった。で、その小鳥が、2人のトロッコからの帰還とタイミングを合わせるかのように、飛び立っていく。そのとき凱が「あ、飛んだ」というのだけれど、その小鳥の絵がないのはどうしてなのだ?
・青年が廃屋からお菓子をとってくる。「むかし住んでいた」というのだが、そんな廃屋にどうしてお菓子があるのだ?
・夕美子は、息子らと台湾に残る、と決心。それを義父に告げるが、気持ちだけで結構と断られる。すると、さっさと提案を引っ込める。安直すぎないか? そういえば次男も、義姉に残るよう勧めると言っていたが、台湾に住んで何をさせるつもりだったのだろう?
・次男のクルマで実家に向かうとき、粗末な木でつくられた鳥居が瞬間的に写る。あれで、台湾か、と分かったのだが、旧日本兵の話しにつなげるなら、あそこで子供たちに「鳥居だ。なんで台湾に鳥居があるの?」ぐらいを言わせるとかすればいいのに、と思った。
・青年が、育ててくれた叔父に子供たちを紹介する。すると叔父が自己紹介をする。「日本名、なかむらみつるです」と。このシーンだけはまともだった。ああいう世界へ導くために、他の時間を費やすべきだったね。でもま、偶然の産物だと思うが。
・山の中へ向かっていると思われるトロッコ。でも、勾配がないのは変だろ。
・セリフが、中国語と日本語のごっちゃで、まったくもって不自然。母親役の尾野真千子が中国語が下手だからか?
冬の小鳥2/25ギンレイホール監督/ウニー・ルコント脚本/ウニー・ルコント
原題は"Yeo-haeng-ja "。仏語は"Une vie toute neuve"。英語は"A Brand New Life"。「サイダーハウス・ルール」の孤児院の部分を抽出し、磨き上げたような作品。力強く、感動的。
冒頭は、男と少女。仲良さそう。少女、愛くるしい。でも、男の顔がでない。これは・・・。ひょっとして誘拐犯と、誘拐された娘が仲よなって・・・とかいう話か? と思ったら、孤児院(少女を専門に扱う修道院)へ娘を捨てに行くのだった。おお。
信じていた父に捨てられ、園になじめない少女ジニ。反抗するが、結局はあきらめる。あきらめながら、可能性は捨てていない。父親が迎えに来る、と。切ない。それが、痛切に感じられる。
たとえば、足の悪い娘がいて。彼女は修道院にやってくる配達の青年に恋している。ある日、彼女は思いきって手紙を渡す。しかし、あえなく断られ、彼女は自殺未遂する。翌日か翌々日か、彼女は仲間の前で「もうしません」と誓うのだが、仲間の幼い少女たちはひとつも悲痛な顔をしていない。それどころか、クスクス笑いが広がっていく。それにつられ、足の悪い娘も、つい笑ってしまう。そうだよ。あまりにも悲惨なとき、人はこうやって笑ってしまったりするものなんだ!
その足の悪い娘にも、養子のもらい手はあった。ただ、彼女は感づいていた。養子としてではなく、家政婦として引き取られるのだ、と。「そんなのは嫌だ」と手伝いのオバサンにはっきり言う。それもあって、青年に告白したのに、夢は破れ去った。しばらく後、彼女は、実質的には家政婦として引き取られていく。修道院のみんなが、お祝いの歌を歌ってくれている。・・・その裏で、オバサンは布団を叩いていた。家政婦としてしか娘を送り出せない自分たちの非力さに怒りながら、無言で布団を叩いていた。・・・この映像の説得力の素晴らしさ。「トロッコ」の監督も、ちったあ学べ、と言いたくなった。
つづきがある。クリスマスかなんかで外部から人形が送られてくる。ジニは、無言で人形を投げ捨てる。他の少女たちがもらった人形も、壊す。「そんなもので、ごまかされないぞ」とでもいうように。それを、手伝いのオバサンに見とがめられる。でも、オバサンはジニを叱りつけない。布団が干してあるところに連れていき、「腹が立ったら、布団を叩け」という。ああ。心に迫る。少ないセリフと映像とで、メッセージがびんびんつたわってくる。説明セリフは極端に少なく、映像で見せ、理解させ、納得させる。そのテクニックが全編につかわれていて、もの凄い。
かわいい子は、もらわれていく。相手に気に入ってもらえるよう振る舞う様子は、「サイダーハウス・ルール」にもでてきたが、切ない。それでも、園にいるよりましだから。そうするしかない。ジニはいつもふて腐れたまま。でも、ジニが仲良くなった姉貴株の子がアメリカ人にもらわれていくとき、やっとジニが笑う。「よかったね」と。これは感動的だ。冒頭以来、ずっと笑いがなかったから、とくに。そして、ジニがもらわれていくことが決まった。ただし、どうやって決定したかは省かれていて、他の養子を連れていく養父母にパリまで連れていってもらう、ことになった。不安げなジニ。空港で、首から名札をつけて、不安げにひとり歩くジニ。先に、養父母らしき人。不安げな顔がどーんとアップになる。ここで観客は(俺が、だけど)「大丈夫だよ。安心しな。韓国にいるより、幸せになれるから。大丈夫だよ」と心で叫んでしまう。いい終わり方だった。うるうる・・・。
・少女たちの演技が素晴らしい。とても自然で、素の感じ。ハンディカメラによるドキュメンタリータッチもいい。
・小鳥の墓をあばき、もっと掘り進め、自分を埋めようとする。なぜか「禁じられた遊び」を連想した。
・なぜフランス語字幕やタイトルがあるのかと思ったら、韓国/フランス製作なのか、え? 「実際に韓国のカトリック系児童養護施設からフランスの家庭に養女として引き取られた監督自らの体験をベースに、過酷な運命を受入れ悲しみを乗り越えていく一人の少女の心の軌跡を繊細に描き出す」(allcinema)に書いてある。おお。そういうことだったのか。ううむ。真実味があって当然かも。
・教会で神父が「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫んでいて、「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」という意味だと知った。あの映画は、そういう意味だったのか。って、別のことを一瞬、思った。
メッセージ そして、愛が残る2/26キネカ大森シアター2監督/ジル・ブルドス脚本/ジル・ブルドス、ミシェル・スピノザ
独/仏/加。原題は"Afterwards"。人の死を感じることができ、運命と向き合う時間を与えるメッセンジャー=人生の師となった人間の、戸惑いを描く。でも、オカルト/宗教臭がぷんぷんする、うさんくさい映画でもある。ネイサンは少年のとき交通事故に遭い、臨死状態を経験したことがある。で、いまは弁護士。ある日、病院の部長みたいな男ケイ(ジョン・マルコヴィッチ)が接近してきて、話を聞けと言う。で、見せられたのが、ケイの予知能力。彼の予言通り、男が数分後に自死した・・・。びびるネイサン。その後も接近してくるケイを避けようとするが、ケイはネイサンの周囲で人が死にゆくことを次々と予告していく。「ああ、これで自分の死も近い」と思い込んだネイサンは、離婚した妻と娘に会いに行くが、今度はネイサンが妻の死を感じてしまう。ケイがいうには、自分が死ぬかも知れないと思わせた方が自覚しやすいから、だと。その自覚というのは、自分がメッセンジャーであることの自覚。自分が死ぬかも、という思いを感じることで、他者への対応もしやすくなり、メッセンジャーとして自立しやすいらしい。でまあ、臨死体験した人は、メッセンジャーになりやすい、ということだったのね、結局。
とまあ、話自体は単純なんだけど、これがサスペンスタッチで撮られていたら感想は違ったかも知れない。でも、教訓や蘊蓄など、だらだらと観念的な会話がつづき、人を説得するような粘着なセリフがつづくので、どーも宗教を感じてしまう。死を予知、もSFではなく、オカルトに思えてしまうのだ。むかし「光の旅人 K-PAX」というオカルト映画があったけれど、あれと同じ雰囲気。
というわけで、たらたらと盛り上がらず、字幕を読むのも億劫になって、テキトーに見ていたら、1時間過ぎぐらいに眠くなり、10分ぐらい目をつむってしまった。
それにしても、ネイサンが担当していた、飛行機事故の犠牲になったハイチ人の件は、どうなったのかね。
シングルマン2/26キネカ大森シアター2監督/トム・フォード脚本/トム・フォード、デヴィッド・スケアス
原題は"A Single Man"。これ、後半で気づいたんだけど、1日の話なのだな。朝、神経質そうにヒゲを剃り、ワイシャツを選んで、朝食をとろうとすると、パンが冷凍。というところに電話で知人の死が伝えられる。葬儀に出る、といったら断られる。で、クルマで出かけようとして、斜向かいの家族に挨拶し、到着したのが大学。彼は、大学教授だった。すると、事務職員から「住所を聞きに来た人がいました」といわれ、ふーん、といいつつ講義。終わると、男子学生がまとわりつく。銀行に寄って、貸金庫からいくつかの書類をとりだし、現金化も。で、そこで斜向かいの娘と母親に会い、家に戻ると自殺の仕度をする。でも、タイミング悪く、近所の寡婦から電話。頼まれていたジンを届け、酒が足りないので酒場に寄ったら、昼間の男子学生に出会い、意気投合。一緒に海で泳ぎ、自宅に誘って。自殺するのを止めることにした直後、心筋梗塞で死んでしまう。キューバ危機の時代の話だ。その間に、過去のイメージがフラッシュバックや回想でインサートされるのだけれど、分かる部分もあれば、分からない部分(ジョージがチャーリーの家にずぶ濡れで訪ねるところなど)もある。イメージはカラーであったりモノクロであったりするが、過去がモノクロであるというわけでもない。そのあたりの統一性は、とくにないようだ。
で、途中から分かっていくのだけれど、この教授はゲイで、死んだ知人は愛人だった。でまあ、その知人の交通事故は冒頭に出てきているのだけどね。で、愛人が死んだので自分も死のうとしたのだけれど、なーんと、ゲイの学生がアプローチしてきたので自殺を止めた、という話である。しかしゲイにまったく興味がないので、共感もなにも感じることはできなかった。ふーん。あ、そ。程度。
しかし、この映画、そういう筋より、ディテールで構成されているようなところがあって、小道具やエピソードが意味ありげにぱらぱらと配置されている。もっとも、そのほとんどは読み取れていないのだけれど、分かったらきっと面白いかも、とは思うのだけれど、やっぱ自分はゲイじゃないからな。知識としてのゲイ、および、その周縁を分かったつもりになる程度かも、と思ったのも事実だったりする。ハリウッド的にはゲイの話はウケると思うけれど
主人公のジョージ(コリン・ファース)と、チャーリー(ジュリアン・ムーア)もだっけかな、はイギリス出身。ジョージが読むのはカフカの「変身」(だっけ?)で、愛人のジム(マシュー・グード)が読むのはカポーティの「ティファニーで朝食を」。カポーティはゲイだけど、カフカもか? ジョージが講義しているテキストは、ハックスリーの「多くの夏を経て」。こういう本にも、意味があるんだろうな。
かけるレコード。曲名なんか覚えてない、あるいは知らないけど、意味があるのだろう。
近所の寡婦=チャーリーは未亡人? 離婚だっけ? で、2人はかつて男女に仲だったけど、いまはそういうつき合いではないみたい。でも、チャーリーはまだ未練があるみたい。彼女の存在は、なんなのだ? それにしても、ジュリアン・ムーアはソバカスがすごいなあ。という感想しかないんだけど。
店の壁が大写しで、人の顔。「オール・アバウト・マイ・マザー」を連想した。ジョージと学生が裸で泳ぐシーンは、アラン・ドロンの「ショック療法」を連想したけど、関係あるかどうか・・・。他にも裸で泳ぐような映画はごまんとあるしなあ。
それよりも。興味深いのが、役者のメイクあるいは設定で、主要キャストが有名映画スターに似たような風貌/衣装だったりするのだよ。ジョージのあの黒縁メガネはマルチェロ・マストロヤンニ。チャーリーの衣装とメイクはエリザベス・テイラー。若い学生はアラン・ドロン(or ジョージ・ハリソンにも似ていたが・・・)。その彼女はブリジッド・バルドー。ウッディ・アレンに似た学生もちらっと映った。ジョージに声をかけるスペイン人は、自分でもジェームズ・ディーンの真似だといっていたし。ジムは、誰だろう? 分からなかったけど。これは、なんか、映画の意図と関係があるのかな。それとも私の勝手な勘違い?
まあ、話としては、最愛の愛人を失った男が自殺しようとしたが、新たな恋をみつけて生きる決心をしたら、さっさと病気で死んでしまった、というオチはついているけれど、話自体はたいして面白くない。そういうところではない部分を味わう映画だと思うのだけれど、知識がないので分からない!

 
 

|back|

|ホームページへ戻る|