ジーン・ワルツ | 3/3 | 上野東急2 | 監督/大谷健太郎 | 脚本/林民夫 |
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海堂尊の医療ものが原作。「チーム・バチスタ」シリーズみたいに人間が錯綜し、悪らしきも対象もあるのかな? と思ったらさにあらず。ミステリー的要素は薄く、一幕物の芝居みたいな、静的でダイナミズムのない話だった。 大学病院の産科医の話。近々教授になる予定の田辺誠一。その部下に菅野美穂。マリア病院の大森南朋は田辺の同級生? 大森は医療過誤で刑務所に入り、母のマリアも肺がんで余命僅か。代診の菅野がヤバイことをやらかそうとしている・・・。部下の汚点は教授昇進に響く、というわけで、田辺が菅野を監視する。が、この2人、かつて関係があった・・・。というような人間関係なのだけれど、はっきり描かれないことが多すぎて、分かりづらい。 菅野が中絶手術をするシーンがあって、執刀医は田辺。菅野が頼んだらしいが、誰の子? 中絶と言いつつ、子宮は保存して、といっていた。ってことは摘出か。なんで? 実は菅野は代理母を実母・風吹ジュンに依頼しているのだけれど、卵子は菅野のものだとして、精子は誰の? 田辺のものらしい雰囲気はあるけれど、どうやって採取したのだ? とか、歯切れが悪い部分がてんこもり。いらつく。 時制もうまく表現されておらず、過去なのか現在なのか判然としない部分もあったりする。これなど、基本的な問題だと思うのだが・・・。 菅野はマリア病院が閉院するまで、4組の妊婦を診ることになる。43歳ぐらい(南果歩)の高齢出産、55歳ぐらいの代理母(菅野の実母)、無脳症の胎児に悩む夫婦、チャラい娘。こういうエピソードで柔らかく親しみやすくしているのだろうけど、ステレオタイプだな。無脳症のケースなど、夫婦で産むかどうか迷ってる・・・なんてさんざん引っぱったあとで、実は・・・という種明かし。しかも、チャラい娘には「中絶した」と言っているが、両親はその未熟な胎児とともに写真に写ってる。両親は「産んで、1日でもいいから光りを見せてやりたい」といっていたんだから、そりゃ中絶ではなく産んだということなのか? ううむ、分からん。 とまあ、説明不足がゴマンとあって、すっきりしない。元のシナリオにはあったのが切られたのか、もともとなかったのか。それにしても中途半端なシナリオだ。 医療過誤訴訟に恐れをなして、産婦人科医のなり手が減少している、ということが数年前に話題になった。小説はそれをヒントに書かれたのだろう。代理母の問題も、ちょっと古いネタのような気がする。それに、医療過誤および代理母についても設定として取り上げられているだけで、突っ込んで描かれてはいない。つまりまあ、子宮を失った医師としての菅野美穂が、どうしても子供が欲しかったという気持ちなどはあっさり捨てている。また、田辺が「医局の内部から変えていく」という言葉も、うすっぺら。学部長になる上司の西村雅彦には逆らえず、かつての愛人であった菅野との関係も中途半端。西村の命令通り菅野を突き放すのかと思いきや、嵐の日、3組の妊婦が同時に産気づくと、途端にヒーローに変身してしまう。おいおい。お前の将来は、それでいいのか? それがバレたら大変だろ! だって田辺は自分の部下である男性医師に、マリア病院に助っ人に来いと電話しているのだ。男性医師がチクったら、それでオシマイだろ?! という辺りは、話が杜撰すぎて・・・。 ・全体にテンポがのろい。3人の妊婦が産気づく場面でも、田辺も菅野ものんびり構えていて、あせってない。これが「ER」ならカメラが動き、人が動き、カット割りされ・・・と思うと哀しくなるぐらい緊張感がない。ホント、勘所の悪いつなぎが多すぎ。 ・わざとらしい演技がクサイ。大杉漣のオーバーアクションなど、見ていて寒気がする。 ・白石美歩が、無脳症の胎児を抱いて写真を撮る。その気持ちには感動するけど、毛布に包まれたどす黒い宇宙人みたいな、中絶された胎児は見ていて気持ちがいいものではない。笑って対応する両親の気が知れなかった。 ・発端として描かれる、大森南朋の医療過誤の件は解決しないのか? 妊婦が死に、胎児は助かったようで、ラストに父と2人の子供が遊園地にいるシーンが映るけれど、父親は大森に対してどういう感情を抱いているのか、それを強く知りたい。 ・菅野美穂が、キレイに撮れていない。爬虫類顔だったりマヌケ顔だったり、肌が汚かったり。なんとかするのがスタッフだろ。ひどいものだ。 ・マリア先生の浅丘ルリ子は、鈴木その子ばりの白塗りで、薄気味が悪い。あれは、病魔に犯されたためのメイク? それとも、普段の厚化粧なのか? ババアならババアらしく、素になればいいのにと強く思う。 ・マリアがチャラい娘の子供を産ませるとき「かいせんいじょうだわ」という。何だ、「かいせんいじょう」って? 調べたら「回旋異常」らしいが、そんなの分かるわけないだろ。 | ||||
ツーリスト | 3/8 | 上野東急2 | 監督/フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク | 脚本/フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク、クリストファー・マッカリー、ジュリアン・フェロウズ |
原題も"The Tourist"。1960年代の映画か? と思えるほどスローテンポの映画。眠くてたまらなかった。エンドロールに"based on the movie...."とあったので、リメイクらしい。昔の映画のリメイク? と思ったら、「アントニー・ジマー」(2005)のリメイクだと。げ。 いわゆる一発オチの映画。だけど、そのオチにもって行くまでが、トロい。あまりにも単純なストーリーで、物語を楽しませるというより、アンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップを見せようというつくりで、スターを見るだけの映画に興味がないこちらには、とても退屈。ジョニー・デップがギャングの手下に追われて屋根を走る辺りで、少し眠気が消えたけど、でも、アクションもほとんどなく、やっぱ退屈。 この映画のキモはアレクサンダー・ピアーズという男で、ピアーズはアンジーの恋人という設定。だけど、それらしい男としてルーファス・シーウェルが冒頭からうろちょろするのだけれど、はっきりピアーズとは描かれない。この中途半端さがずっと「?」としてつづくのだけれど、これはラストのオチに関係があるというわけだ。あと、奇妙なのは、たった数時間同じ列車で旅をしただけなのに、アンジーがジョニデプに惚れた、とかいう話になるところ。いくらなんでも・・・という違和感が、これまたオチにつながる。 ピアーズから「自分に似た男と列車で一緒になれ」という指示がきて、アンジーはその通りにする。そのせいで、警察はジョニデプをピアーズと思い、捕まえる。でも、無関係のツーリストだと判明して、以後、無視される。それこそがピアーズの狙いだったわけだが、そんな手間ひまをかける必要があるのか? というのがわだかまりとして残ってしまう。 実は、ジョニデプこそ整形したピアーズだったわけだけれど、アンジーはそのことを知らない、という設定だ(途中で気づいたのかもしれないけど)。でも、映画が始まって早々にアンジーとジョニデプは接触し、以後もずっと一緒にいる。だったら最初から2人でさっさと逃げりゃいいじゃないか、なのだ。だって、以降のドタバタ珍道中の大半は偶然に支配されている。そりゃ、都合よすぎまっせ、だ。 ま、ジョニデプの狙いとしては、親分一味を警察に処分してもらおうということにあった、のかも知れない。それにしたって、あれも偶然のなせる割合が大きい。そんな偶然にかけるのは、ナンセンスだね。 それに、最後に、ジョニデプのピアーズは、税金を小切手で残していく。洒落た終わり方のようだけど、それで追及の手が及ばなくなるなら、さっさとはじめから脱税せずに払えばいい、という話になる。終わってみれば、すべてムダな逃亡劇だった、ってことになる。あほらし。 | ||||
恋とニュースのつくり方 | 3/9 | シネ・リーブル池袋シアター1 | 監督/ロジャー・ミッシェル | 脚本/アライン・ブロッシュ・マッケンナ |
原題は"Morning Glory"。曙光、てな意味かな。朝一番のバラエティ番組が舞台だから。主演はレイチェル・マクアダムス。相変わらず可愛いけど、もう33歳になるのだね。びっくり。 三流女子大の、行って損するような短大を出て地方(ニュージャージー)のテレビ局のプロデューサーをしているベッキー(レイチェル・マクアダムス)。・・・というだけでも、大した出世のような気がするけれど、ベッキーの夢は全国ネットの番組を担当すること。でも、コロンビア出でMBAをもつ社員を雇うからと、首になってしまう。で、ベッキーはあちこち履歴書を送った結果、ニューヨークの全国ネット局に採用される。って、あり得ない! だけど、映画だからね。 要は視聴率が悪くキャスターも最悪の朝番組なので、偉い人は誰でもいいから押しつけて潰そうとしていた節がある。それを任されたベッキーの孤軍奮闘から一発逆転再起までのサクセスストーリー。「アンカーウーマン」なんてのもあったけど、テレビ局なんかのマスコミが舞台の映画は、割りと多いね。 それにしても、入社していきなり番組のプロデューサーになっちゃうというのも、凄いね。このあたり、アメリカ的だなと思う。で、スタッフが会議であれこれうわーっと言うのを、ベッキーは聖徳太子みたいに聴き分けて処理しちゃう。すごっ。なんでこんな彼女が首になった? と思ってしまう。ま、有能だから仕事にありつけるわけではないのは、スタッフの中に上司の愛人がいたりすることから分かるけれど、ベッキー、どれだけ凄いんだ、お前は! って感じだったね。 フツーなら、ドジでマヌケでおっちょこちょいの彼女が、あこがれの職場に混じり込めて、最初は失敗だらけだけれど、チャンスを活かして自分の存在感を見せる!的な成長物語ではないのだよね。実はベッキーは、やり手だった。地方局のときも携帯を手放せず、恋人もできないほど。そういう娘が、やっと実力を発揮できる場を得た、という話なのだ。だから、サクセスストーリーではあるけれど、ベッキーは大きく成長していない。むしろ、最後には、たまには仕事を忘れて彼氏といい時間を・・・という具合に、私生活の充実にも力点を置く、ような成長だ。なので、サクセスの爽快感は、いまひとつというところかも。 むしろ、放送局内の裏側が垣間見える部分が面白いかも。キャスターは男も女も我がままでつきあいづらいヤツみたいだとか、男性キャスターと女性キャスターの意地の張り合いだとか、先にふれたけれど上司のお手つきの女性スタッフがいたり、あれやこれや。そういうのが畳みかけるように登場するのが、なんとなくリアリティがあったりする。ただし、就職した会社ibsが、3大ネットと比較してどの程度のものなのかが、よく分からない。担当する朝の番組は全国ネットらしいが、NBCのトゥデイという番組とは格が違うみたい。その違いが、ピンとこないのだ。 他にも分からない言葉やコトがたくさんあった。若手の職員は、ハリソン・フォードが演じるマークというジャーナリストを、アンジェラ・ランズベリーと金正日と並んで嫌いな奴3人に挙げていた。アンジェラ・ランズベリーは古い女優らしいけど、なんで? カーター大統領の顔写真に「変質者」という字幕が間違ってついてしまって慌てるシーンは、どう読めばいいのだ? フリッターなる料理をハリソン・フォードがつくるのだけれど、それってなに? とか、やっぱネイティブじゃないと笑えないかも、という情報がてんこ盛りの映画でもあった。なので存分に笑えてないのは、残念至極。 しかし、ハリソン・フォードの、いかにもつまんなそうな顔が笑える。ダイアン・キートンとの確執もおかしい。レイチェル・マクアダムスは、キメの笑顔のときより、フツーの表情のときの方が愛らしいね。 | ||||
アメイジング・グレイス | 3/11 | 新宿武蔵野館2 | 監督/マイケル・アプテッド | 脚本/スティーヴン・ナイト |
原題も同じく"Amazing Grace"。2006年イギリス映画らしい。なんでいまごろ? 「奴隷貿易廃止に尽力した政治家ウィリアム・ウィルバーフォースの人生」の話なのだけれど、表面をなでるようなデキで、掘り下げ方が甘い。こりゃTVムービー? それも、長いのを短くまとめたものか・・・。が、IMDbでみると本編らしい。見知った顔はアルバート・フィニーとルーファス・シーウェルぐらいで、他は印象の薄い役者ばかり。ううむ・・・。 病気がちのウィルバーフォースの現在と、議員に成り立ての頃の様子が交互に描かれる。とはいっても、調べたら議員になったのは大学卒業後すぐの20歳そこそこで、同級生のウィリアム・ピットが首相になったのは24歳だという。げ。若すぎないか? まあ、事実なんだからしょうがないが。で、奴隷制度反対の意志を示すウィルバーフォースが、ピットの支援や、その他の人びとに応援しつつ法案を提出するが、拒否されるのが過去の部分。それからしばらくたち、病気に冒され、将来の伴侶となる女とであい、再び法案を提出する決心をするのが、現在の部分。 なのだけれど、あらゆる部分で描き方が中途半端。なぜウィルバーフォースは博愛主義になったのか? なぜピットはウィルバーフォースに奴隷制度反対の法案を出させたのか? 1対300の戦いといっていたのに、ウィルバーフォースが属する政党は、党を挙げて奴隷制度反対ではないのか? 1人、ウィルバーフォースの味方をする議員が出てくるけど、どうして? ウィルバーフォースを頼って運動家や黒人がやってくるけど、どういう連中? さらに、現在のパートでも、ウィルバーフォースの病気はいったい何なのか? とても苦しがってるけど、不治の病ではなさそうだし・・・。見合いさせられたカタチの彼女との関係も、なんか曖昧。結局、結婚を決めてしまう過程も、あれよあれよではないか。反対派の様子も、なんか、よく分からん。世論はどうだったのか。それも描かれない。さらに、ピットが首相になっても、首相という存在の影響力があるのかないのか、それもよく分からない。ピット亡き後の首相も、ぜーんぜん分からない。 それと、タイトルにもなっているアメイジング・グレイスだが、ウィルバーフォースが昔通っていた教会ので、奴隷船に乗っていたという男がつくったという話だけど、作詞だけなのか? 作曲も? その男は悔い改め聖職者になっているが、どういう状況であの歌をつくったのだろう? そこを描かないと意味がないと思うのだが。 面白いのは、オリジナルのアメイジング・グレイスが、私たちが知っているメロディと少し違うこと。違っている理由はなんなのだろう? そういえば、インターバルの時間に本田美奈子のアメイジング・グレイスが流れるのだが、別に聞きたくはない。本田美奈子は嫌いではないけれど、この映画とは関係がないからね。 というわけで、上っ面をなでたような、荒筋のような物語で、いまひとつ入り込めなかった。 | ||||
ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ | 3/13 | ギンレイホール | 監督/サム・テイラー=ウッド | 脚本/マット・グリーンハルシュ |
原題は"Nowhere Boy"。行き場のない少年、みたいな感じらしい。ジョン・レノンの青春時代の話。ドイツ・ハンブルグに行く前、ビートルズ以前の話。セクセスものというより、"Mother"に歌われた母への思いの部分をドラマにしたもの。生みの親と育ての親に挟まれた苦悩、と簡単にいってしまったいいのか疑問。むしろ、母親への愛憎というのかな。ううむ。 レノンが伯父・伯母と暮らしていて、あるとき伯父が亡くなる。その葬儀にきていた女性に気づき、母と知る。そのあたりで、ああそういえば、と思い出す。詳しくは覚えてないが、生まれ育ちに問題があったんだよな。でも、そういう人は世の中に幾人もいるわけで。まあ、レノンがショックだったのは、実母が徒歩圏内に住んでいた、ってことかも。 で、レノンが訪問すると実母は大喜び。べたべたするようになり、いつも一緒にいるようになる。このあたり、ちょっと理解不能。そんなに愛する息子なら、なぜ手放したのか? 近所に住んでいながら、なぜ会いに来なかったのか。伯母(実母の姉)が拒否していたのか? のちに実母は伯母に「あんたが息子を奪った」云々いうので、そういう傾向はあったのかも知れないけど、伯母に言わせると「あんたの母親は身持ちが悪い」ということになる。藪の中かな。 実母に会いに行くようになり、勉強もしなくなったレノン。伯母が叱ると、レノンは実母の家に住むようになる。この辺りも、身勝手なレノン&実母、という印象。実直でマジメ、レノンを温かく見守っている伯母が、可哀想に思えてくる。まあ、実母への思いが強かったのかも知れないけどね。それにしても、再会後の、レノンと実母のべったりぶりは、異常に見える。ひょっとして躁鬱病かと? と思うぐらい実母は気分屋だ。 まあ、それも、レノンが実母と別れた理由を正確に知るまで、のことなんだが。で、伯母がレノンと実母の前で、何があったかを赤裸々にいう。のだけど、ここ、すっと頭に入ってこなかった・・・。実母は亭主が航海中に男をつくって娘(レノンの妹)を産んだ? 彼女は孤児院へ。亭主が「やりなおそう」といったが、実母はそれを拒否し、籍を抜かないまま現在の男と一緒になった(それで娘が2人できた)。NZへ行くことになった亭主(レノンの実父)は、最後の話し合いに来るが、実母はNZには行かないと宣言。5歳のレノンに、実母と暮らすか、実父と暮らすか決めさせた。幼いレノンは実父を選んだ。でもそうなるとレノンとはもう会えなくなる、と思った伯母がレノンを掠った(?)。ということでよかったのかな? で、それを聞かされたレノンはそれまでべたべただった実母に怒りをぶつける。のだけれど、いったい何に対して? 自分を捨てた実母に対して、は分かる。けど、5歳のレノンはそんな母を見捨て、父親を選んだのではないの? とすると、父を選んだ自分に対してなのか? また、実母に任せられないからと自分をさらって育てた伯母に対して? なんか、よく分からない。 で、その夜に酔っぱらって街をうろつき、店に入ろうとしたら同級生の女の子に会い、その片割れから「looser」(負け犬)と罵られるのだけれど、レノンが衝撃を受けてああなってるのは分からないはずだし、すでにバンドとしても成功していたのだから、この言葉は不自然だよなあ。 というわけで、実母との葛藤は、あまり胸に迫ってこなかった。むしろ興味深かったのが、レノンの音楽との出会いとのめり込み方。伯父がくれたハモニカ、実母が教えてくれたバンジョー、ポールとの出会いと、ポールによって知った豊富なコード。なのに、まともに描かれるのはポールぐらいで、ジョージ・ハリソンはグループに入るときに名前がでてくる程度。もっと、ビートルズのデビュー前の人物交流を、かちっと描いて欲しかった。誰がいて、誰が入って、誰が抜けたか、というようなことをね。そっちの方が興味深い。 結局、母親への歪な思いは、映画ではよく説明されていない。個人的には、実母よりも、よりレノンを愛していたであろう伯母の存在の方に興味を覚えたし、シンパシーも感じた。 | ||||
東洋宮武が覗いた時代 | 3/15 | キネカ大森2 | 監督/すずきじゅんいち | 脚本/すずきじゅんいち |
原発がメルトダウンか! しかも計画停電で電車も間引き運転の最中に大森まで行って、帰ってこられなかったら…という不安もないわけではないけれど、まあ、それはそれで。 原題は"Toyo's Camera(2008)"。東洋宮武の名前は見たことあるけど、どんな人だっけ? で、日米開戦後に設置された日本人収容所に送られたカメラマンで、所内でこっそり写真を撮っていた人、という説明に「ああ、そういえば」と記憶が甦ってきた。では、その宮武東洋のドキュメンタリーかというと、半分ぐらいかな、その部分は。あとは442部隊の話と収容所内の一般的な話。なので、伝記ではなくタイトル通り「覗いた時代」だった。なので、いささか食い足りない思いが残った。 スチル写真家なので、作品が淡々と現れる。のはいいんだけど、他にもA.アダムスやE.ウェストンの写真もでてくる。まあ、この2人の写真にはクレジットがつくから区別できるけど、それ以外の写真もあったりして、視点がいまひとつカチッとしていない。さらに、東洋宮武が写っている写真や映像もあるのだが、それは誰が撮ったんだ? とか、首をひねってしまう。また、宮武が撮った収容所内の写真にほとんどクレジットがないので、写っている人物が誰だか分からなかったりする。それと、宮武の娘らしい人物もでてくるのだけれど、これもクレジットが不親切。また、エンドクレジットにラップがかぶるって、歌詞は映画の内容に関係あるようなのだが、なんと訳が字幕ででてこない。これは変だろ。そのうえ、日系人が片言の日本語をしゃべる部分も、日本人声優が日本語でしゃべってしまう。クレジットについては不満が多い。もっと丁寧に字幕がでていたら、もっと理解が深まったと思う。 そういう欠点はあるにしても、所内における一世、二世、帰米の対立、アメリカに忠誠を誓うか否かの質問状の波紋や、アメリカ派vs日本派の戦いなどは興味深かった。収容所に入れられていないハワイの日系人と、米国内の収容所からの日系人が442部隊に合流したが、ケンカばかり。ハワイの連中を収容所に連れていったら、以後、ケンカはなくなったというエピソードも面白かった。 E.ウェストンに師事し、A.アダムスと友人だという。そういえば、収容所のマンザナの風景が、A.アダムスの写真に似ているなと思ったんだけれど、影響があるのかもね。 手づくりのカメラでコソコソ撮っていたら、同乗するアメリカ人がフィルムを持って来てくれたり、ついには所長が「家からカメラをもってきて記録しな」といい、所員の奥さんを宮武のアシスタントにつけてくれたりする。日系人の隔離は間違っている、と思う米国人がいたことも、救いだと思う。 | ||||
442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍 | 3/15 | キネカ大森2 | 監督/すずきじゅんいち | 脚本/すずきじゅんいち |
原題は"442: Live with Honor, Die with Dignity(2010)"。「東洋宮武が覗いた時代」の442部隊の部分を1本の映画にした感じ。監督が同じとは最後まで知らなかった。同じよーなスチルやフィルム、同じ語り手が登場するので、なんで? と思っていたのだけれど、なるほどね。 100大隊というのが最初に登場し、そのあと442部隊の話になるのだけれど、その二つの隊の関係がよく分からないまま話が進む。と思ったらしばらくして、442は100の下位に属する部隊であることが分かるが、でも、よく分からんところもあったりする。しかしまあ、アバウトに行こう。 一世、二世、帰米の対立やハワイ派vs収容所派の話は、少し詳しく描かれる。驚いたのは、真珠湾では日系人部隊が防衛隊として働いていたということ。 人物に対するクレジットも、「東洋宮武…」よりも分かりやすくなっている。なので、あとは、442の快進撃の話だ。イタリアに上陸し、各地を解放。でも、ローマへの道を切り拓いたのは442なのに、442はローマに入れず、他の白人部隊が堂々と進軍していった、なんていうのは、完全に差別というか、日系人を飼い犬扱いだな。休みもほとんど与えず、激戦地に次々と送り込まれる。200人の救出にかりだされ、800人も戦死してしまうことも…。 90歳前後の生き残りがイタリア(フランスだっけ?)の街に呼ばれて行った映像も、そこのある銅像は東洋人のものではなく、白人のもの。ううむ。と思っていたら、別の地では日本人顔の銅像もあったりして、ほっとする。イタリア人もアメリカ人も、日系人に敬意を表している様子なのも、ぐっとくる。 ダニエル・イノウエが、手榴弾をもっていた右手を吹っ飛ばされ、すぐに左手で手榴弾を拾い上げて投げた。なんていう話は、凄いのひと言。みんな、いくつもの死線をくぐり抜けてきた爺さんぞろい。運もあるんだろうけど、敬服してしまう。多くの賞賛を集めているのもうなずけるる。あと、最後の方。みなが「自分は英雄なんかじゃない」「猫を轢いても感触は残るのに、人を殺した記憶が消せないわけがない」など、TPSD(心的外傷後ストレス)に悩んでいるのも、なるほどと思ったりする。戦場の、少年兵との対峙や、その他、話も生々しい。娘たちも「初めて聞く」というぐらい、戦争のことは口を閉ざしていたというのが、重かった。 442のおかげで日系人の評価も変わったとは言うけれど、白人なみということではないだろうな。せいぜい、収容所に送られなかったイタリア・ドイツ人レベルということかも。むしろ、東條英機や松岡洋右が「君たちはアメリカ人だ。アメリカに忠誠を誓え」と言ったというエピソードには、ちょっと感動した。 | ||||
台北の朝、僕は恋をする | 3/16 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/アーヴィン・チェン | 脚本/アーヴィン・チェン |
まだ余震が発生し、原発はどんどん爆発してメルトダウンか! という最中。不安が的中して揺れた。30分過ぎぐらいかな。ぐらぐら! 後で確認したら震度3だって。手に汗握る映画見物だ。 原題は「一頁台北」、インターナショナル・タイトルは"Au revoir Taipei"。予告編の最初にヴィム・ヴェンダースの名前があったので、ヴェンダースの監督作品かと思い込んでいたが、彼は製作総指揮だった。 どこかで見たことのあるようなストーリーで、コミカル青春ロマコメ。洒落た雰囲気なんだけれど、クライムの部分は戯画化されていて、ちょっとドタバタ。主演女優のアンバー・クォがとても可愛い。 カオの彼女がパリに行ってしまう。フランス語を学ぼうと書店で座り読みをつづけていて、書店員のスージーと知り合う。スージーの方が声をかけるが、カオはパリに行ってしまった彼女で頭がいっぱい! しかも、電話もかかってこない! 久々にかかってきたら、どうも別れ話みたい。そうだ、パリに行こう! と、知り合いの不動産屋のオヤジに頼み込む。すると「金は貸すがブツをもっていってくれ」と頼まれる。 不動産屋はヤクザな甥とその友人3人を社員として使っている。不動産屋は恋人と新生活を夢見ていて、事業は甥に譲るつもり。ところが甥はブツのことを知り、それを奪おうと画策する。 そのちょっと前、甥ら4人は宝くじ屋から詐欺・盗みを働いていた。それで警察は犯人を追っていたのだが…。色事師の刑事がアホな部下と張り込んでいたら、不動産屋→その友人に渡っていたブツをカオが受けとるところを目撃。さあ、と追跡劇が始まって、ファミマで働いているカオの友人も巻き込んで話はドタバタ劇へ。「恋する惑星」と「運命じゃない人」(ほど構成は緻密ではないが)をつないだみたいな出来。 まず、幼顔のアンバー・クォが、可愛い。こんな娘にアプローチされてなびかないカオは、なんなんだ! と思ってしまう。パリに出かける前日、カオとファミマの友人が別れの食事をしようとしていて、街でスージーに遭遇。3人でふらふらしてたら、甥の仲間の2人がやってきて、ファミマ友人が誘拐されてしまう…。って、おいおい、な展開だけど。これはもう、始めからマンガみたいな話だから、設定の不自然さはどうでもいい。様式化されたドタバタを楽しめばいいのだ。 ブツの中味が、たわいのないものであるのは、誰にでも分かる。だから、いったい、どんな下らないものか、と思ったら、なんと不動産屋が粋がって音楽なんかやってた頃の古い写真。自分もパリに連れていってくれ、というつもりだったのだろうか? 映画では誰に渡せ、ということは言われていなかったけれど、ちゃんと渡す相手はいたのかな? いや、それより、最後の方で不動産屋が友だちに別のブツを渡す場面があったけれど、カオに渡したのはダミーで、こっちが本物のブツ? でも、それはパリに持っていくべきものなのか? その辺りが、ちょっと分からなかった。 人質になったファミマの友人が、甥の仲間3人と麻雀してるシーンは、傑作。悪人と人質が和気藹々になるっていうのも、これもどっかで見たことのあるような気がするけどね。で、ファミマの友人が、同僚の女の子が好きで…。なんて話すと、卓を囲む3人がいちいち反応する。1人は「かわいいね」なんて日本語でいう。これは、日本人が「ハッピー」とか「ラッキー」と英語でいうような感じで、日本語が使われているってことなのかね。 逃走シーンでかかる音楽が、ベルヴィル・ランデブーの曲というか、ジャンゴ・ラインハルトっぽい感じで、いい。 ドタバタが終わり、カオはタクシーで空港へ。それを見送るスージー。これは、冒頭でカオが彼女を見送るシーンにダブる。ここで、カオはタクシーを止め、引き返すんじゃないかと思ったんだが。そうはしなかった。で、次のカットは書店で棚の整理をするスージー。そこにカオがやってくる。まあ、これで2人がカップルになるんだろうとは思うけれど、いささか不満。なぜって、カオはパリに行ったのか? 行って彼女に会ったのか? それが分からないと、もやもやが残る。パリに行かず、翌日の日中にやってきたなら、カオは元カノではなくスージーを選択したことになる。でも、行って会って断られたのなら、カオは元カノの代わりということになってしまう。そこはちゃんと描いて欲しかったと思う。 | ||||
悪魔を見た | 3/17 | 池袋東急 | 監督/キム・ジウン | 脚本/パク・フンジョン |
英文タイトルは"I Saw the Devil"。残酷シーンが多いというのは知っていたが、評判ほどではなかった。というか、「冷たい熱帯魚」につづいて、こりゃ人間解体映画だな。もっとパワフルな映画を想像していたので、あまりの杜撰さにがっくり。緊張感がみなぎっていたのは最初の30分ぐらいで、3人目に女子高生を誘拐した辺りから飽きてきて、以後、ずっと眠かった。 スヒョン(刑事かと思ったら、国家情報院捜査官だと)の婚約者が殺害された。スヒョンは、休職中に警察が容疑者を4人に絞ったことを知る。婚約者の父が元警察官で、情報を得たのだ。スヒョンは容疑者を一人ひとり訪ね、拷問。で、3人目のギョンチョルが犯人であることをつきとめる。さてどうするのかなと思ったら、これがアホらしい。いったん捕まえ、ボコボコにするのだけれど、金を与えて逃がすのだ。もっとも、GPS発信器+マイク付きのカプセルを飲ませて、なのだけど。で、しばらくしてまた捕まえ、ボコる。また放して、捕まえ、ボコる。これを繰り返すが、ギョンチョルもGPSに気づいて下剤で出してしまう。さあ、どうなる? 「ボストン絞殺魔」や「コレクター」を思わせる成り行きに、「狩り」の要素を加えている。 最初の被害者は、パンクした車中の娘で、スヒョンの婚約者。バールのようなものでフロントガラスを割り、ボコボコと頭を殴って血だらけにし、引きずって隠れ家へ。で、切り刻む。2人目は、バス停で乗せた娘で、これもボコって血だらけにする。首をギロチンでシュパッ! ギョンチョルの目的がさっぱり分からない。犯すためのように見えないし、サイコ的でもない。単に殴り殺して切り刻んで捨てるのが目的のよう。でも、この手の犯人によくある設定のように、知的には見えない。がさつなのだ。 で、3人目は、塾の生徒。ギョンチョルは送迎バスの運転手が職業らしいのだが、その生徒の1人を温室に運び込み…。おお。やっとギョンチョルが性欲を見せた。という危機一髪もしかしてされちゃったかも、というタイミングでスヒョン登場。で、ここでスヒョンがギョンチョルをボコり、GPSを飲ませるのだけどね。解放されたギョンチョルが病院に行き、手当てしてもらったあとで看護婦を襲う! というタイミングでスヒョンが現れてボコり、アキレス腱を切った? と思ったら歩いているから違ったか。で、また放免する。 よろよろ歩いていたら軍隊のジープと遭遇し、次のシーンは山小屋みたいな家で食事をしている。夫婦者に助けられたのかな? と思ったら、そうではなかった。夫婦に見えた男女がこれまた殺人鬼で、勝手に入っていたのだった。…というのはいいけれど、ギョンチョルと男女がどういうつながりなのか、分からない。なんで連絡が取れたのだ? 携帯で連絡し、男女に家を乗っ取ってもらうよう注文したのか? と思っていたら、ギョンチョルは女の方を襲って背後からバコバコ。でも、女も嫌がっていない。男も、その様子を知りながら、目的はこの家の住人…。包丁をもって軟禁していた奥さんを引きずり出して、いざ! というところでギョンチョル登場。3人をボコボコにする。 スヒョンの目的は、なんなのだ? キャッチ&リリースして面白がっているだけ? 憎ければ殺せばいい。簡単に殺したくないなら、指を1本1本落とすとか、生爪でも剥がすとか、チンポに針を100本ぐらい刺すとか、いろいろイジメ方はあるではないか。なんとムダなことをしているのだろう。それに、確実に被害者が増える。そういうことに、考えが行かないやつなのか、スヒョンは! アホか。 このスヒョンを支援している部下がいて、彼がGPSを用意したり、上司の会話を盗聴してスヒョンに教えているのだが、どういう部下なのだ、こいつ? 自分のしていることが分かっているか? っていうか、そうせねばならぬ義理が、部下にはあるのか? 説明はなかったと思うんだが…。 休職中のスヒョンが犯人を簡単に捕まえるのに、本家の警察がなーんもできないのも、無能すぎ。あり得んだろ、そんなこと。 で、行方を見失っている間に、ギョンチョルは薬屋の店主を殺して下剤を手に入れ、GPSを出すと、タクシーの運転手をボコってクルマを奪う。そして、警察に電話して「自首する。その前にひと仕事」といって、スヒョンへの復讐として婚約者の父、婚約者の妹を血祭りに上げる。どんどん犠牲者は増えていく。こんなアホな国家情報院捜査官、あり得んよ。 で、スヒョンは自首しようとしたギョンチョルを誘拐し、ギョンチョルの隠れ家へ連れていく。おいおい。白昼堂々そんなことして、なぜ捕まらない? スヒョンは、ドアが開くとギロチンが落ちる仕掛けをして、ギョンチョルの両親と息子を呼ぶ。母親が思いきりドアを開けて、首がゴロン。去っていくスヒョン。終。って、バカバカしい。やられたから、やりかえす。法を守るべき人間が、法を無視して復讐する。そこに、爽快感はさらさらない。スヒョンへの私怨だけで問題が解決する、と思うような出来損ないで身勝手な国家情報院捜査官の、くだらない行為に翻弄され、たくさんの人が犠牲になりましたとさ。あほらし。 この手の映画にしては、テンポがのろい。タメをつくりすぎで、イライラする。さっさとアクションだろ。もっとつまんで90分ぐらいにし、辻褄を感じさせないようなつくりにすれば、ましな映画になったかもだけどね。 | ||||
わたしの可愛い人 - シェリ | 3/19 | キネカ大森2 | 監督/スティーヴン・フリアーズ | 脚本/クリストファー・ハンプトン |
原題は"Cheri "、英/仏/独。2009年。原作は、コレット。「青い麦」、読んだことあるぞ、むかし。 ベル・エポック時代の高級娼婦=ココットに関する話。オープニングタイトルのバックに、実際にいた高級娼婦と、彼女たちに夢中になり破産した国王なんていうのが次々と映し出される。へー、という印象。高級娼婦というのは、そういう存在だったのか! もっと知りたい。がしかし、映画が終わってみれば、この部分が一番面白く、興味深かった。 でまあ、そういう高級娼婦にレア(ミシェル・ファイファー)がいた。4〜50歳ぐらいの設定か? レアは友人のマダム・プルー(キャシー・ベイツ)の家に行き、若い(19歳?)シェリ(ルパート・フレンド)と出会う。レアとシェリは短い関係のつもりが6年(?)もつづいてしまう…。というイントロが、分かりにくかった。それぞれの関係が見えないので、シェリはレアの息子でプルーに預かってもらっていて、それが禁断の近親相姦? なんて勘違いしたぐらいだ。そしたらシェリはブルーの実子で、ブルーはかつての同業者仲間だと言うことが分かってきた。そうなると、あまりにもひねりのないストーリーが退屈で退屈でたまらない。特別に官能的なシーンがあるわけでなし、ミステリアスな部分があるわけでもない。青年と年老いた元娼婦の関係なんて、そのうちむ終わるに決まってる。 それにしても、息子の世話を昔なじみの年増の娼婦に任せるというのは、どういう神経なのだろう。そうやって男を磨けということなのか? シェリはレアの若い燕になって、まるまる世話してもらっているなんて! そんなに年増娼婦がいいものなのか? ブルーのところには、まだまだ現役の娼婦もやってくる。でも、もの凄い厚化粧だったり、男みたいのだったりする。それが若い相手を引き連れていたりするのが、不可思議。というわけで、パックグラウンドは興味深いんだけど、丁寧に描かれないのが片手落ち。 で、ブルーは「孫の顔が見たい」という理由で、シェリに結婚相手を見つけてくる。これがまた元同業者の娘。シェリも彼女も、父親の顔を知らない関係というのがまた、考えればもの凄い。それに誰も異論を挟まないのだから。結婚は強行され、シェリ夫妻はイタリアへ新婚旅行。傷心のレアも旅先で若い男を引っかけたりする。にしても、年増娼婦がなぜにそんなにちやほやされるのか理解に苦しむところ。 でも、シェリもレアを忘れられず、妻になじられヨレヨレ。で、思い断ちがたくシェリはレアと再開するが、若い妻と比べたらあまりにもレアが婆さんなのに気づいて愕然! というのがおかしいが、ミシェル・ファイファーが老けメイクをしているわけではないので、切迫感は感じられない。その後、シェリは第一次大戦に参戦し、帰ってきたけれど拳銃自殺っていう説得力のない事後がナレーションで語られてしまう。シェリに言わせると「生まれてきたのが、遅すぎた。もっと早く生まれて、レアに会いたかった」って、アホかというロマンス。ううむ。つまらん。 ココットというのは、日本の花魁にも匹敵する教養を持っていたようだけれど、どういうシステムだったのかね。日本の場合は田舎から廓に売られ、吉原の中で過ごす。自由はない。セレブにもなっていない。せいぜい旦那に身請けされ、囲いものになるぐらい。ココットにはマネージャーがいたのかね。みなが「ココットになりたい!」と殺到するほどだったのか? そのあたりも、よく分からなかった。残念。 1900年初頭の雰囲気も、いまひとつかな。建物や衣装がそれらしいけれど、アリモノ=原題に残されたものをそのまま使っている感じで、時代の雰囲気を作り込むことがされていないと思う。 デジタル上映だったけれど、DVDを映写しているみたいな、明らかに汚いビデオ映像。輪郭は甘く、にじみ、キレがない。なんでこんなにボケボケなのだ? | ||||
隠された日記 母たち、娘たち | 3/19 | キネカ大森2 | 監督/ジュリー・ロペス=クルヴァル | 脚本/ソフィー・イエット、ジュリー・ロペス=クルヴァル |
原題は"Meres et filles"で「母と娘」。英文タイトルは"Hidden Diary"。フランス/カナダ、2009年。 つくりはミステリーではないのだけれど、ミステリアスな要素が澱のようにつきまとう。その秘密は最後近くに発見されるのだけれど、意外なオチとなっている。衝撃はないけれど、人間の不可思議さが感じられる。 カナダで働くオドレイ(マリナ・ハンズ)が休暇でフランスに戻ってきた。祖父の葬儀にも戻らなかったのに、あえて戻ってきたのは、子供を堕ろそうかどうか迷っていたからだ。迎える父と母マルティーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)。オドレイは仕事のために、使っていない祖父母の家に住み始める…。彼女は食器洗浄機を設置しようとしたが、台所の奥に一冊の日記を発見する。それは祖母(ルイーズ/マリ=ジョゼ・クローズ)のものだった。 ルイーズは、夫と子供(マルティーヌと弟)を残し、家をでていったまま行方知れず。マルティーヌはいまだに母親を許しておらず、話もしたがらない。そこでオドレイは日記を読みつつ、祖母の行動を類推していく。その後、叔父(マルティーヌの弟)には見せるが、マルティーヌは「見ない」と(確か)拒絶する。 日記からは、夫の仕事場で売り子として働きたがっていた祖母の様子が読み取れる。その他、銀行に自分名義の口座をつくったり、カメラをいじったりすることを、夫から禁止されていた。そうしたストレスから解放されるため、マルティーヌはある日、家出を決心する。そうして出ていった…と、オドレイは理解した。けれど、決定的な証拠はマルティーヌの記憶の中にあった。父親は妻を捜すことがなかった。また、その日の夜、もどってきた父親の手は泥で汚れていた…。オドレイは、祖父が祖母を殺害したことを知ることになる…。と、登場人物同士の妙なつかみどころのない距離感も巧みに描かれ、話もなかなかに濃い。 祖母の時代は1950年代か。ルイーズのファッションもなかなかいい。この映画は、当時の時代背景を知らないと、理解できない。といっても、女性の社会進出が、そんなに男に嫌われていてのか? と、思ってしまうよね。社会状況も多少あるだろうけど、これはもう、祖父が頑固な保守的野郎だったというのが正解ではないだろうか。その祖父は、ずっと「妻に逃げられた哀れな人」という視線で描かれる。マルティーヌは母を毛嫌いし、父親を慕っていたという具合に。でも、マルティーヌの記憶の中には「お前は頭がいいのだから勉強して、技術を身につけ、社会に出て働け」という言葉も残っていたはず。だからこそ医者になって、休む間もなく働いているのだ。もうちょっと母親を理解してやってもいいと思うのだが、ここは映画の設定上、そうはさせられないのかも知れない。 オドレイを妊娠させた男が、フランスにやってくる。彼は結婚してもいい、という。けれどオドレイは「一緒に住む相手ではない」と考えている。男は、いずれ別れるにしても、結婚してもいい、ともいう。しかし、決断できないオドレイ…。 この映画には<誤解>の増幅がある。もう少し人に<寛容>になり、<理解>してあげれば、問題は解消したのに…ということだ。思い込みが過ぎて、相手を受け入れない。理解しない。そこから誤解が生じ、齟齬が生まれる。祖父がもっと妻に理解があれば。マルティーヌが母親に理解があれば・・・。そして、オドレイも子供の父親である芸術家に理解を示せれば…。そうすれば、ものごとは、悪くない方に転がったかも知れないのに、というようなことか。祖母、母、娘の3代にそれがあり、それぞれが理解し合えないままになっていた。それが、隠された日記の登場で氷解していく。 最後、そうした氷解は描かれない。マルティーヌが、母を誤解していたことを認めるシーンはない。オドレイが、件の芸術家と結婚する意思を固めたかも描かれない。でも、おそらく、みなよりよい解決策を選択するに違いない、と思わせる何かがある。たとえば、オドレイが母のために買ったワンピースをマルティーヌが着るというのは、マルティーヌがオドレイを受け入れるようになった象徴として使われているけれど、そのワンピースにエッフェル塔が描かれていたりして、いかにもダサイ。オドレイはインダストリアル・デザイナーをしている(らしい)のだから、もっとセンスのいいデザインを選択しろよ、と言いたくなる。また、ドヌーヴの現在の巨?でワンピースを着ると、図柄が歪んでしまうので、これもまた幻滅。 日記によって甦ったマルティーヌの記憶…これによって、マルティーヌの父親に対する思いがどう変化したか、は描かれていないが、どうなんだろうね。信頼していた父親が、母を殺していた、と知って。 オドレイ役のマリナ・ハンズは、ドヌーヴの娘、とはどうしても見えない。ほお骨が出て、いかにも野性的。妊娠し、お腹の中の胎児の父親もやってきているというのにワインをがぶ飲みしたり、はたまたカフェの店員を誘ってやりまくったり、いまひとつ心理がつかめないところもある。こういうところもミステリー? 同じデジタル上映なのに、こちらはわりとシャープ。ビデオ的な映像をあまり意識せずに見られた。 | ||||
お家(うち)をさがそう | 3/24 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1 | 監督/サム・メンデス | 脚本/デイヴ・エッガース、ヴェンデラ・ヴィーダ |
タイトルの(うち)は、ルビ。原題は"Away We Go"。「私たちの行き先」みたいな意味か? 結婚はしないが子供ができたカップル。よりよき住み家を探してアメリカ・カナダをうろつく話。 バートは保険屋。ヴェローナはイラストレーター? ともに33歳ぐらい。結婚はしていない。でも、現在はバートの両親の家の近くに住んでいる。近くといっても、クルマで数時間はかかるみたいな感じ。近くにすんでいるのは、両親を思って、らしい。このあたり、アメリカ人らしい両親との距離の取り方だな、などと思ったりしたが、これまで見てきた映画が同様な距離を取っているかといえば、必ずしもそうではない。同居はしないが隣同士の場合もあるし、さっさと遠い国に行ってしまうこともある。だから、別に、この映画が標準的というわけではない。 で、バートの両親が近くにいるのだから、孫の世話ぐらいしてもらえるだろう、と思ったらアテが外れる。両親は孫の誕生前にベルギーに移住し、そこで2年間暮らす予定なんだと。両親は50代半ば〜なので、すでにリタイアして資産もあるみたい。優雅だね、としかいいようがない。しかも、両親の留守宅に住めるかと思いきや、両親は他人に貸すつもり。ヴェローナは、「わざわざ両親の近くに住んだ意味がない」と怒りだしてしまう。ってことは、彼女には打算が働いていたということになる。本当は自由に好きなところに暮らしたかったんだが、伴侶の両親に気を使ったのよ、と。でも、彼女は結婚というスタイルにはこだわらない主義で、バートの方は結婚したがっているのに、拒否している。なんとも妙な関係だ。ま、進歩的文化人的な考えの持ち主なのかも知れない。かなりエグいイラストを描くらしいし。 というわけで、2人は親戚知人の住む街を経めぐることになる。ここも、2人の性格を表している。つまり、気のおけない人が住んでいる街に住みたい、という心だ。これは、バートの両親に頼っていたというのと似ているのかも。だれの世話にもならず自立していこう、ではなく、誰かに頼りたいという想いが優先している。こういうアメリカ人もいる、ということなのだろう。 コロラドから最初に行ったのがアリゾナ・フェニックスに住むヴェローナの元上司(上司というのも、ちょっと字幕が早すぎて分かりにくかった)。彼女が凄まじい女で、亭主もまた変人なら子供も変。自虐的に「私のオッパイなんて子供に吸われちゃって、今じゃ靴下がブラジャーみたいなもんよ」と大らかにいう。子供たちは親の話を聞いてなくて、「だから何話しても大丈夫」なんていう。亭主は、すでに女房をあきらめている感じ。 次に行ったのが、アリゾナ・ツーソンに住むヴェローナの下の妹で、キャリアウーマン? このくだりがよく分からなかったけれど、逆に彼女の彼氏との関係についてアドバイスしたりして…。 次はバートの従妹、といっても、血がつながっていない。バートの父親の知り合いの女性の娘(マギー・ギレンホール)で、ウィスコンシン・マディソンで大学の準教授をしている。が、インドかぶれの変人夫婦で、バートもヴェローナもついていけずケンカ別れ。乳母車に乗せない主義、というのがおかしい。で、その従妹の子供は1人だけなのか? 研究室で授乳していた子供は、だれの子? 次は、モントリオールに住むバートの友人夫妻で、養子を4人も養っている。モントリオールには、ヴェローナがバートを、グレイビーソースで釣ってやってきた。バートは、すでに疲れていたけど、グレイビーソースにつられてやってきてた。モントリオールは、それで有名なのか? よく分からない。で、奥さんの方が子供ができてもすぐ流産、という体質で、精神的にまいっているのを知って、バートたちも落ち込んでしまう。というところに、マイアミに住むバートの兄から電話で妻が家でした、と。で、そこに行って兄貴の愚痴を聞いて…。 で、結局2人がたどりついたのは、サウスカロライナにあり、いまは廃屋になっているヴェローナの実家。両親は彼女が大学生の頃に亡くなっていて、ずっと住んでいなかったらしい。その家に入り、裏口をあけると湖(海?)が広がっている。やっと目的の場所をみつけた…。というエンディングなんだが、実をいうとよく理解できない話だった。 それぞれのエピソードが薄くて、そこには住めないよ、という説得力がないのだ。それに、結局のところ「土地」ではなく「人」を頼っているというところが、いまひとつ納得できなかった。なんか、アメリカ人らしくないではないか。自分たちで人間関係を気づいていこうというのではなく、楽ができそうな人の近くに行こう、というのだもの。そんなにアメリカ人は弱かったっけ? それに、最後に実家に行くだろうことは途中で分かってしまう。ヴェローナがいつまで経っても実のならないオレンジの木の話をしたとき、こりゃ、久しぶりに行ったらたわわになっていたりして? と思ったんだけど、そうはなっておらず、ヴェローナが結びつけた果物のおもちゃがぶら下がっていたのには、ちょっと残念。でもって、故郷はやっぱりいいね、というセンチになるラストも、ちょっとアメリカ映画らしくない。まあ、逆に言えば、そういうものを、現在のアメリカ人は忘れているのではないか? という問いでもあろうし、また、故郷回帰の傾向が出て来ているのかも知れない。それにしても、笑える小ネタは満載だけれど、インパクトのある生き方があまり登場せず、結局のところ「みんな誰だって苦労や悩みを抱えて生きている」と知らされるだけなのは、終わり方としては当たり前すぎて高揚感も何もなかった。 ヴェローナ役のマーヤ・ルドルフは見るからにオバサン顔で、インディアンの血でも混じっているのか? というような顔立ち。さらに、妹は黒人が混じっている? という感じ。オフィシャルサイトを見たら、ナイジェリア×スコットランドだって。なんか、そういうところが気になってしまった。それに、役者の名前もなんとかスキーというロシア系がいたり、ルドルフはドイツ系だわな。なんか、寄せ集め感がするキャストだった。という中で、マギー・ギレンホール。彼女はこういうマイナー系の映画によくでるね。 | ||||
ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人 | 3/25 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター2 | 監督/佐々木芽生 | 脚本/--- |
ハーブは郵便局員。アートを志して大学も通ったけれど、作家にはなれずコレクターに。妻で公務員のドロシーも、ハーブの影響で絵を描いたけれど、結局、ハーブとともにコレクターに。安月給でコツコツドカドカ買い集め、作品はアパートに詰め込む。重ねる。押し込む。ポップアートはもう高すぎて手が出ないので、コンセプチュアルとミニマル・アートにターゲットして、ハーブの給料は全部注ぎ込んでいく。そして、いつの間にか有数のコレクターとなり、作家にも影響力のある存在になっていった…。というドキュメンタリー。 やってることはゴミ屋敷の主と同じで、好きなものを身近において手放さない。どんどんため込む。ハーブは「いいね」「これはいい」なんて作品を見てつぶやくのだけれど、こちらにとっては首をひねるような作品ばかり。「何を表現しているか分からないけれど、いい」なんていうことも言っていた。ん? この夫婦、ちゃんとアートが分かってるのか? それとも、売れそうな作家を嗅ぎつける能力に長けているのか? よく分からん。 現代美術は、美しいとか心地よいとか快感とかとは別のところにあるので、その良さはよく分からない。岡本太郎は『「今日の芸術」の中で、「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」と宣言している。これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒する事こそが真の芸術と説いている。(Wikipediaから)』らしいが、多くの一般人はどうせ飾るなら、きれいで心地よいものを飾りたい。だから、壁が見えないほど現代アートがべたべた飾りつけてある2人のアパートは、どうしても住みやすいようには思えない。こころがリラックスするようにも思えない。だからきっと、ハーブもドロシーも、常人とは違う感性を持ち合わせているのだろう。極端なことをいえば、ブリキの破片や紙くずにも、芸術を見いだせるのかも。だって、現代アートには展示の仕方だって大切だし、展示も含めた見せ方を考えたら、あんなアパートに作品をつめこんでいいはずがない。その意味では、2人の審美眼はちょっと変。アートのある空間にはほとんど関心がなく、作品発掘に興味が絞られているのかもね。 実際、2人のコレクションは後にナショナル・ギャラリーに寄贈されるのだけれど、美術史にとって重要なものもあるようだ。といっても、画面に登場した作家で名前を知っているのはクリストぐらいだったんだけどね。まあ、それは、こっちの知識不足なのかもしれないけどね。それと、コンセプチュアルアートはわかるけど、ミニマル・アートというのが分からなかった。後から調べたら、『視覚芸術におけるミニマリズム(Minimalism)であり、装飾的・説明的な部分をできるだけ削ぎ落とし、シンプルな形と色を使用して表現する彫刻や絵画で、 1950年代後半に出現し、1960年代を通じておもにアメリカ合衆国で展開した。(Wikipediaから)』とのこと。こんなの、一般人はあまり知らんだろ。まあ、自分を基準にしちゃいかんのだろうが、それにしても、フツーの観客にも分かる程度の解説をつけるのが礼儀というものだろう。それがあって、初めて2人のコレクションに対する眼差しも、納得はできなくても理解できるようになるに違いないのだから。 最初のうち、2人は単なる変わり種コレクターの一種かと思っていた。そしたら、次第に2人が権威化していることが分かってくる。彼らが個展のオープニングに顔を出すと、人びとが注視する。新人には「この方々があの有名な…」と紹介される。そして、ずいぶん前から2人がその世界では有名人であることが分かってくる。なーんだ、そういう人物だったのか。つましくも、趣味の範囲でコレクション、ではなく、作家を動かせるほどの力もないわけではないのね。実際、作家が「制作途中」といっているのに、「これでいい」といったり。連作に含める絵を指示したり。もちろんすべてが受け入れられるわけではないだろうけれど。新人として発掘してくれることについては感謝しつつも、その後にまでも口を出してくることを、作家たちはどう思っているのだろう。映画はおおむね好意的な人びとの話しか取り上げないが、否定的な見解もあるのなら聞いてみたい様な気がした。実際、画廊を通さないで作品のやりとりをすることが迷惑、と思っている作家もいるようなことを言っていた。否定的な意見はこれだけだったしね。 それにしても「購入した作品は売らない」「美術館にも売らない」「生活費までアートに投資」「相変わらず安アパートで生活」というのは見上げたもの。というより、どういう価値基準をもってるんだ? と思う。たとえばいくつかの作品を売って立派な家を買い、もっと作品をゆったり見られる環境をつくりたいとは思わないのだろうか? または、個人美術館を開くとか。もちろん名誉とかひけらかしではなく、作品のためにそうすることは考えないのだろうか。まあ、そんなことを考えることもなく、どんどん買い集めてギュウギュウとアパートに詰め込んでいたから、ナショナル・ギャラリーの学芸員も作品が傷むことを心配し、説得したのだろう。その結果、やっと美術館に寄贈とあいなった。そしたら大型トラック5台分の作品が出て来た、とはいうけれど、まあ、梱包によってできたすき間があったから、なんだろうけど。ナショナル・ギャラリーはもっといい環境で生活してもらえるように些少の顎を提供したらしいが、2人は性懲りもなくその資金で作品を買いまくったらしい。こうなるともう、作品に対する愛情とか、見て楽しむ、アートと暮らす楽しみ、というより、買い漁ることへの偏執といってもいいような気がする。やっぱ、ゴミ屋敷と同じだ。 これが、2人に子供があったら別の展開を見せたろうし、ドロシーが「そんなことに投資するよりダイヤを買ってよ。旅行に連れていってよ」という女性だったら、ハーブの行動もまた違ったものになったろう。偏執×2なのだからたまらない。まあ、それで2人は仕合わせなのだし、誰に迷惑をかけていないからいいけど。ゴミ屋敷のオバサンみたいにね。 現在進行形で撮影した映像、2人の過去の写真&映像、再現画像(ナショナル・ギャラリーへの搬送部分)、資料映像が混じっているが、資料映像と過去の映像の区別が曖昧な部分がある。写っているのは若い頃のドロシー? というようなのもあるのだが、どんどん進んで行ってしまうので確かめようがない。こういう部分は、ちゃんと字幕でフォローしたほうがいいと思う。別に「資料映像」と書けというのではない。実際の過去の2人を、ちゃんと分かるようにした方がいい、ということだ。 2人の生活は、猫とともにあり、ごくフツーな感じに見える。でも、ひょっとして、この2人のことだ。変な部分があるんじゃないかと思うのだが、そういう部分は描かれない。あくまでも、前衛アートに魅せられた2人の、ほのぼのとした部分にだけスポットを当てている。個人的には、そうではない部分も覗いてみたい、という気持ちがある。だって、間違いになく2人は変人だもの。 なかで登場する河原温の作品を、去年だったか竹橋の近代美術館で見たことがある。ボランティアガイドのツアーでだったけれど、テーマは真夏の怪談。ガイド自身も「あまり見たくない絵」といっていた「浴室」という絵だ。他にも岡本太郎の絵もあったけれど、これなら芸術は快感ではないのはよく分かる。でも、何をつたえようとしているのかはさっぱり読み取れなかったけどね。 2人みたいなのは特殊だけど、アートを買うというのはいいことだと思う。本物を買うことは、心の充実につながってくる。カレンダーの切り抜きや複製画を飾っているより、1〜2万円の安い絵でも、本物ならではの満足感が感じられる。それは本当。そうして、次はあれが欲しいこれが欲しい、となりやすい。まあ、そうなるのは避けられたけれどね。ほら。なかにはバブル期あたりにか、300万ぐらい出してウォーホールのでかいのを買ったりして、それをマンションの一室に立てかけていたりするやつがいたりするではないか。そういうのって、なんか下品だと思う。作品より、作家の名前で買っているような気がする。無名でも、自分が気に入ったアートを飾るのが、いちばんいい。その意味では、ハーブ&ドロシーは、正しいコレクターの道を歩みつづけてきた、といえる。ただし、アートを楽しむゆとりがあるかどうかは分からないけどね、2人に。 ああ、そうそう。2人の目がどれぐらい正しいのか、それも知りたかった。彼らが買い集めた作家のうち、何%ぐらいが芸術家として食えているか、というようなことをね。だって、芽も出ずに消えていった作家も、かなりいると思うから。 | ||||
トゥルー・グリット | 3/28 | 新宿武蔵野館2 | 監督/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン | 脚本/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン |
原題は"True Grit"。「真の勇気」というような意味らしい。「勇気ある追跡」(1969年ジョン・ウェイン主演)のリメイクだが、それは見てないかも。 右後方のオヤジが、ずうっと鼻をずるずるさせていたので、気持ちが悪いしうるさいわで集中できず。困ったもんだ。 コーエン兄弟で復讐劇。「ノーカントリー」みたいな世界を濃密に、戦慄的に描くのかと思ったら、案外とフツー。オーソドックスだった。 父親を雇い人のチェイニーに殺されたマティ(ヘイリー・スタインフェルド)14歳。自ら酔っぱらいの無頼漢保安官コグバーン(ジェフ・ブリッジス)を雇い、チェイニーを追う。そこに、同じくチェイニーを追うテキサスレンジャーのラビーフ(マット・デイモン)も加わる…。のであるが、冒頭から鼻水男に意識を惑わされて、なかなか話の世界に入れず。しかも情報量の多いセリフでどんどん進んでいくので、あたふたしてしまう。また、人物名がよくセリフに出てくるものだから、そいつは誰だっけ? てな具合で、ついていくのがやっとのこらさだった。 なので、チェイニーがマティの父親の雇い人だったのも、Webサイトで確認した。父親が馬を売りに町へ出て、雇い人のチェイニーが何かして、それを止めようとして撃たれた? …という話なのかな。あと分かりにくかったのが、馬屋(?)との交渉。ムスタングがどーのポニーがどーのと、「?」。ちゃんと字幕を読んでいれば分かったのかも知れないが、なにせ後方からズルズル…で。宿のオバサン、葬儀屋とか、パッパと画面展開するので、ちと大変だった。ま、そのうち再見して確かめるしかないのかも。 後はもう、マティがコグバーンを雇い、追跡の旅に出るだけ。とくに奇を衒ったところがなく、凄っ! という話や描き方はない。むしろ、西部劇の定番中の定番というようなエピソードを次々に繰りだしてくる。絞首刑、意地悪な宿の女主人、葬儀屋、マティの馬による川渡り、見せしめとして放置された死体、その死体を欲しがるインディアン、その死体を買った歯科医、蛇に噛まれた傷口から毒を吸う、ダメになった馬は殺す、ワイルド・ウェスト・ショー…などなど、みんな、どこかで見たようなシーン。まさに西部劇だなという気分になってくる。 面白かったのは、チェイニーの居場所を聞きに行った家でのこと。インディアン顔の子供(?)が玄関にいるのを、コグバーンが蹴飛ばしてどかしたりする、あの生々しさに、ジェフ・ブリッジスはうってつけ。最近は、酔っぱらいだけど心はいいやつ、ってなキャラクターで、いい仕事をこなしてるもんなあ。 いっぽうのマット・デイモンは、西部劇の顔じゃない。でもま、お堅いテキサスレンジャーにはいいのかも。マジメだけどドジなところがあったりして、馬で引きずられたり殴られたり、身体中もうボコボコになるのが笑える。ただし、テキサスレンジャーと保安官ではどう違うのか、よく分からないんだけどね。保安官は地方で選ばれた目明かしみたいなもんで、テキサスレンジャーは州の保安官みたいなの? マティ役のヘイリー・スタインフェルドが、鼻っ柱の強い少女を演じて、お見事。決して美人顔ではないけど、でも、可愛く見えてくる。でも、その気の強さがどこから来ているのか、という説明が少し欲しかったかも。馬と補償金の交渉の抜け目のない会話や、銃撃・死体にも動じない肝の太さは、どこから来ているのだろう? と思ってしまった。 不満は、やっとみつけたチェイニーが、安っぽいチンピラだったこと。テキサスで州議会議員を撃ち殺して逃げてるやつが、マティの家に雇われたってのも「?」。ハナから小金でも盗むつもりで雇われた? テキサスレンジャーのラビーフが、「チェイニーの300メートル以内に1度だけ近づけた」なんていうもんだから、相当の悪玉を想像していれば、ただのアンちゃん。なんたって初めて銃を撃つ(?)マティに撃たれて怪我しちゃうんだから! しかも、どういうつながりか知らないけど列車強盗一味(ここのボスの歯並びの悪さ、他の仲間の個性的な感じも、いかにも西部劇!)に加わって、でも、そこでは下っ端風。ケガをしているからと一味の移動から外され、マティと置いてきぼりになってしまう。なんかひょうきんで、悪人に見えないのが困るよね。 チェイニーに殺されようとするマティを、テキサスに帰ったはずのラビーフが救出し、そのラビーフのスキを窺ってチェイニーがラビーフを殴り、そこでマティがライフル(?)でチェイニーを吹っ飛ばす。これも、定番の流れ。でもその後にマティが反動で洞窟に転げ落ち、死体横の袋から蛇が這い出してくるのは、「インディ・ジョーンズ」みたいで、都合よすぎるかも。 あれから25年。39歳にしてはかなり老けたマティはワイルド・ウェスト・ショーに出ているコグバーンを訪れる。でも、数日前に他界していた。それはいい。では、コグバーンは何歳の設定なのだ? ラビーフは80近いといっていた。では、コグバーンはもっと上だろ。ラビーフの10歳上としても、90近いってことになるよな。ううむ。 ●その後、町山智浩の解説を聞いた。コグバーンは保安官と言うより、その助手で、いわばならずもの。有名なガンマンたちと知り合いだったというのも本当。その事実が、最後のワイルド・ウェスト・ショーで分かる、という仕掛けらしい。それと、マティがチェイニーを撃った反動で洞窟に落ち、蛇に噛まれるのは、いわば神の怒り。そもそもキリスト教原理主義的な家に育ったのに、父の復讐を誓う。そのせいで、多くの人間が死ぬ結果となった。どこかでその報復を受けないとバランスが取れない。だから、チェイニーを殺したことでマティは地獄(穴)に落ち、蛇に噛まれ、腕を失う。それは、彼女が復讐を決意したことのツケなのだ。という説明はなるほどだった。 | ||||
シリアスマン | 3/31 | ヒューマントラストシネマ有楽町シアター1 | 監督/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン | 脚本/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン |
原題は"A Serious Man"。知った顔がほとんどないでも、話は面白かった。コメディなんだけど、ブラック。かといってアイロニーたっぷりとかいうのではない。ベースにあるのがユダヤ教の戒律で、登場するのも大半がユダヤ人。そして、笑っていいんだかマジに受けとるべきなのか、わからないところが多いのだ。これは、理解するにはかなりの知識を要しそう…。 最初に「身に降りかかること全てをありのままに受け入れよ」という警句が出る。ラシという人が言ったらしいが、後から調べたらユダヤ教の聖書学者シュローモー・イツハーキーのことらしい。といっても、彼がどういう人物かは分からないのだが…。そして、古い時代のエピソードがひとつ紹介される。雪の日の夜、亭主がある男を家に連れ帰る。なんでも、助けてもらったらしい。妻にその男の名前をいうと、彼はすでに死んでいる。だから幽霊か、取り付かれているに違いないという。夫は家に招き入れるが、妻は疑ったまま。そして、千枚通しで胸をひと突きし「ほら。幽霊だから血も出ない」という。が、血がにじみ出てきて「帰ろう」といって男はよろよろ雪の闇に消えていく…。って、刺されてしまうのも受け入れろ、というのがユダヤ教の教えなのか? よく分からない。 1960年代の(1967年らしい)アメリカ。ラリーは大学の数学の教授。まじめの定期検診を受け、まじめに大学に通っている。もうすぐ終身雇用が認められそうで、順風満帆。かと思いきや、難問が次から次へと襲ってきて、ラビに相談する。けれど、まともな答えは返ってこない…。という、踏んだり蹴ったりのお話。 妻ジュディスは、ラリーの友人のサイと結婚するから離婚してくれと言う。理解しがたいのが、これが妻の浮気にあてはまらないらしいこと。サイは3年前に妻を亡くしているのだけれど、サイとジュディスの関係は15年前から、とも言っていた。一方で性的関係はなく、結婚することが目的、とも。なんだかよく分からない理屈だけれど、ユダヤ教の戒律に従うと、そうなるのかね。で、ジュディスとサイは、ラリーに「家をでていけ」ともいう。そんな無茶な、と思う。ラリーは、ジュディスがサイのところに行けばいい、というと、2人は難色を示し、結局、ラリーは兄のアーサーと共にモーテル暮らしになる。ううむ。なんでこうなるの? 理解しがたい展開。たんにラリーが弱気だから? 分からない。 息子のダニーは、勉強よりロック。授業中にラジオでジェファーソン・エアプレーンを聞いていて見つかり、ラジオを取り上げられてしまう。他にもマリファナ(?)を友だちから買ったり。反抗期。なのだけれど、一所懸命に成人式のときに暗唱する経典の文章を暗記している。やんちゃとマジメが同居している、変な感じ。 娘のサラは、まあ、ごくフツーな感じで、化粧と整形に関心あり。 兄ラリーが同居しているのだけれど、無職。いささかノイローゼ気味で、あぶない感じ。なんだけど、ポーカー博打が得意で警察に目をつけられている。賭けは、アメリカでも違反なのね。それに、ノースダコタで売春していて、捕まったりしている。やっぱ、変だ、こいつ。でも兄だから追い出せない。これも戒律に関係しているのかな。 他にも、落第点をとった韓国人移民(?)が賄賂をもってきて、挙げ句に訴えるといわれたり。ここは、韓国人のモラルについての洞察が興味深い。「物理の試験なのに数学があったのはおかしい。再試験させろ」「落第点を回避するため賄賂を贈った。賄賂は韓国では当然の行為。合格点にしないなら、賄賂を受け取ったと訴えてやる」という強引なもので、あえて韓国人を引き合いに出す根拠も、あるんだろうな、という感想。 隣人との庭の境界線問題。まあ、ありがちだけど、境界を曖昧なままにしておくのも、どうかと思う。杭を打ったりしないのかな? これはちょっと被害妄想的? 大学へ行くと、終身雇用選定委員会に匿名の投書が来ているという。ラリーの悪口が書いてあるらしい。「韓国人?」と疑うが、あとからサイの仕業とわかる。このサイって、仕事は分からないが金持ちでハゲ。ラリーも「なんでまたあんなやつと」と妻にいうが、よく分からん。 ラリーは地区の若いラビに相談に行くが「駐車場をごらんなさい」みたいな、わけの分からんことを言うので、上級のラビに相談したくなる。それで行ったら、歯の裏側に「助けて」とヘブライ語(?)で刻印されている男の話をする。発見したのは歯科技工士で、なぜそうなったかを件のラビに聞きに来たという。…で、話を終わりにしようとするので、ラリーは刻印されていた理由を聞きたがるが、上級ラビは「話はこれでオシマイ」とだけいう。なんて理不尽。 というところで、ラリーが自動車事故。このとき並走していた自転車に乗っていたのは、韓国人? それはいいけど、同時刻にサイも交通事故を起こし、死んでしまった! シンクロニシティ? するとジュディスは「葬儀費用をだせ」という。なんて理不尽。どうも、サイの財産が凍結されていて、自由にならないらしい。ってことは、身内が他にいないということなのか? 次々と襲ってくる面倒。 コロンビアレコードからの請求の電話も、これは息子がラリーに黙って月々送られてくるシステムのレコードを買っていたらしい。 最上級のラビに話を聞いて欲しくて尋ねるが、門前払い。息子のダニーは校長 からラジオを帰してもらう。のだが、この老ラビ、ジェファーソン・エアプレインのメンバーの名前をつぶやいたりして、なかなかの新しもん好き? 最上位のラビと校長が似ていたけど、同一人物? 弁護士は役に立たない。隣家との境界線について担当するはずの男も、目前で心臓マヒ死。あげくに葬式代や弁護士費用やあれやこれやの請求書の山…。というところで、大学の上司がこっそり、終身雇用は通ったよ、と教えてくれてホッとしていたところに、病院から電話。先日の検診で、話したいことがある。すぐに来てくれ、時間は空けてある、と。 折しも町には、巨大な竜巻が近づいてきていた! というところでオシマイ。悪いことは重なるもの。たとえあなたがシリアスマン(真面目)でも、それはやってくる場合がある。そこに理由はない。すべては神の思し召し。逆らうことはできない・・・。というような、ドツボな話で、暗い。笑えそうなところもあるんだけど、笑ってられないよな、という気分になってくる。 どう考えても理不尽、という設定も多くて、すぐさま「なるほど」と思えないところもあるけれど、それはヤダや教と60年代という時代に関係しているのかも知れない。コーエン兄弟の作品がつづいたけれど、「トゥルー・グリット」よりこっちの方が面白かったけどなあ。 ラリー、ジュディス、サラの3人で食卓を囲む場面で、ジュディス、サラがスープをずるずる音を立ててすする(ジュディスとダニーだっけ?)のだが、どういう意味があるのだろう? 兄のアーサーが悲嘆して泣くのは、モーテルの空のプールのそば。空のプールに、どういう意味が? 心がからっぽ? |