2011年4月

落語物語4/1東劇監督/林家しん平脚本/林家しん平
怪獣物を何本か撮っているらしいけど、今度は落語がモチーフ? 「の・ようなもの」「しゃべれども しゃべれども」「落語娘」なんていう前例があるけれど、さて。
まあ、一応は映画の呈を成してはいた。しかし、ちゃんとしたスタッフがいれば、そこそこの映画はできちゃうからね。
冒頭、スカイツリーが映る。が、最上部のアンテナ部分がまだできていない。なんか、ちょっとみっともない。あえて出す必要はなかったのにね。
話は、今戸家小六(ピエール瀧)に、青年(柳家わさび)が弟子入りするところから始まる。おかみさんの葵(田畑智子)が青年を見つけ、青年は電柱に顔をぶっつける…というベタなギャグ。オーバーアクションで、演出も超くどい。こりゃ困った…。と思っていたのだけれど、次第にクサイ演出が薄れていって、まあ、見ていられた。
で、青年は小春という名を与えられ、楽屋入りする…。という流れなので、こりゃ小春が主人公で、その成長物語だな、と思ったら違っていた。全体を通してみると、小六と葵が一貫して登場し、付録のように小春も登場する。しかし、全体を通したダイナミズム=ドラマがない。せいぜいあるのは、葵の病死をめぐる話ぐらい。あとはもう、エピソードを重ねていくだけで、物語性に乏しい。小春は、ダメダメ前座ではあるが、最後に成長した証を見せるのだけれど、これがまた成長の過程がなくて突然デキルようになってしまうので、なんでー、という疑問しか残らない。エピソードでばらまいた伏線らしきものもとくに回収せず、なんとなく終わってしまう。なので、やっぱ、物足りなかった。
エピソードで大きいのは、山海亭文酒(島田久作)と弟子の心酒(隅田川馬石)の話。なぜか偉そうな心酒が、師匠のひと言で高座で絶句。酒浸りになってケンカして殺される、というもの。でもなあ。いろいろと食い足りなく話で、人物の造形に深みがない。薄っぺら。それと、馬石の柳田格之進を聞かされてもなあ…。
もうひとつは、女流落語家(三遊亭小円歌)の弟子の話。テレビで活躍中で、妻子あるタレントと不倫…という話だけど、こっちも尻切れトンボ。
あとは、今戸家にまつわるエピソードが多いのだけれど、楽屋内の説明など、噺家の世界に関してほとんど説明がないので、しきたりや何やを知らない人は深く理解できないと思う。ま、そういう覚悟でつくったんだろうからしょうがないけど。それにしても、小春の前座仲間2人については、もうちょいちゃんと描写してもよかったかな。
あとの、小朝が漫談家だったり喬太郎がバーのマスター、百栄が常連客、歌武蔵が席亭、文楽が協会長とか、噺家がたくさんでてくるけど、それは発見ということで、知ってる人は楽しめばいいか。でも、権太楼がお爺ちゃん役とはね。ははは。
その権太楼と孫、葵の関係がさっとわかりにくい。権太楼が葵の父親で、床屋。娘の葵も床屋。客の小六が葵と好き合って・・・。なんだけど、いろいろムリが目立つ。まず、権太楼が喀血する。って、おい、いつの時代の話なんだ。小六と葵が、促音が言えない。パンティといえず、パンテーと言う。そりゃ60以上の芸人ならうなずけるが、3〜40代でそんなの、あるはずがない。いろいろと、時代かかりすぎなんだよ。
で、権太楼の孫は、葵の兄弟の娘? 説明が足りないと思う。それと、どーせ孫娘を出すなら、小春といい仲にするとか、工夫があってもよかったんじゃないの?
あとは、葵の病死だな。いい人間を殺すことでドラマ=泣ける=人情物語にできる、という浅はかさ。手垢がつきすぎてて、話にならない。陳腐。
で、やっぱり、この話はできるなら小春の成長物語にするべきだった。そうして、その背後に小六と葵がいる、というようにね。そもそも、この映画で、小六が芸の世界に関わる部分がほとんどない。楽屋入りしたり、若手と話したりが、ない。最初の方で「強情灸」を演ってるところが音声なし(だったと思う)であって、あと、小春に噺(湯屋番だったかな?)をつける部分があるだけ。しかも、落語家の話し方になってない。このあたり、かなり興ざめしてしまう。
というわけで、いろいろと物足りなかった映画だった。噺家が主人公になると、みんなこんな感じの映画になっちゃうのかね。
SOMEWHERE4/4シネ・リーブル池袋1監督/ソフィア・コッポラ脚本/ソフィア・コッポラ
原題は"Somewhere"。なんか、中味のない、からっぽの映画みたいな印象。だって事件や悩み、対立などのドラマらしいドラマもなく、ただ、だらだらと時間を追っているだけなのだから。そして、最後もなんとなく投げやりに見える。もちろん、それなりの意図が包含されているのかも知れないが、それが見えない。または、見るのが難しい。
クルマが、砂漠の道をぐるぐる回ること4〜5回。降りてきたのはジョニー・マルコ。40前ぐらい。どこかの店の階段でずっこけ、左腕を骨折し、ギプスをすることに。部屋に、ポールダンス2人組を呼んで踊らせたりしているが、その後のセックスまであるのかどうかは不明。…いったいこいつは何者? 自分でスタントをする、なんていってたけど、スタンドイン? かと思ったら、何かのパーティで有名スターであることが分かる。でも、そんな衣服、生活スタイルじゃなかったけどなあ。で、住んでいるのも高級ホテルの一室、ということも分かってきた。11歳の娘がいるけれど、母親が連れてきたりするところを見ると、離婚して娘は母親と一緒に住んでいるのかな? 設定がだんだんと分かってきた。それまでは眠かったんだけど。
マルコの携帯には、嫌がらせのメールがしょっちゅうかかってくる。マルコはいつも、誰かに尾行されているのでは? という気持ちから離れられない。娘は父親も母親も愛しているようだ。マルコは遊び人で、隣室の女と目があった数分後にはベッドイン。ベランダから下を見れば、水着の女が胸をはだけて見せはじめる。有名スターだから、誘惑が多いということか。
仕事はムチャクチャ忙しいわけではなく、次の映画のために顔の型どりをしたり、イタリアにキャンペーンに行ったりするぐらい。指示は、マネージャーから電話でくるので、マルコは単独行動がほとんどだ。型どりのシーンは、鼻の穴だけ残して頭部すべてをシリコンゴムで塗られ、固まるまで40分放置される。見ているだけで息苦しくなってくる!
元妻(?)が「家をあけるから、娘をよろしく」と電話で言ってきたので、仕方なくマルコはイタリアに娘を連れていく。国賓待遇で、なにやらテレビの賞などももらってしまう。そのトロフィーが猫なのが笑えた。驚くのは、むかし関係した女がホテルに乗り込んできて泊まっていったこと。港々に女あり、かよ。一緒に朝食をとる娘の複雑そうな表情…。そうして帰国すると、マルコは娘をキャンプ場に連れていく。最初はクルマで。娘は「お母さんはいつ帰ってくるの?」と寂しさをマルコに告げる。次にクルマからヘリに乗り換え、ひとっ飛び。大スター?
家に戻ると、マルコは独り。食事のために大量のパスタを茹でてしまうマルコ。ホテルを引き払うことにして、荷物は宛先まで送るように、という。ってことは、次の住み家が頭にあるってことだよな。もしかして、それは次の映画のロケ地かなにか? で、ひとり車を飛ばすのだけれど、途中でクルマを乗り捨てて、歩いていこうとする。ここでエンド。クルマにトラブルがあったわけでもないと思うが、ぴこぴこ音がしていたのはどういう意味なのかな?
というわけで、ドキュメンタリーっぽい内容を、ドラマチックでなくつないで、だらーんと終わらせてしまった。エンディングテーマは「煙が目に染みる」。自分一人じゃなんにもできない、ということを言おうとしているのか?
でまあ、マルコの周りには心を許せる人物は、弟(友人?)みたいなのが部屋に来たりしているんだけど、あとは娘だけ。他は仕事がらみ。つきあう女は買ったり行きずりだったり。というわけで、有名スターの孤独な生活とでもいうのかも知れないけれど、それはそう見ればそうとれる、ぐらいなもので、気ままで気楽な生活とも思える。そもそもマルコが何を求めているか、が表現されない。もしかしたら、何も求めていないのかも知れないけれど、趣味や娯楽ぐらいあるだろ。女をコマすのが楽しみという男だっているのだから。無趣味で無目的な生活を漫然と送っているから、孤独、とも言えないと思うのだけれど。でも、映画は、この主人公の心は空しいですよ。この映画のようにドラマも何もないつまらない生活ですよ、と言っているのだろう。だから、なに? そういう生活をしたがっている男は、ゴマンといるよ。マルコと同じ暮らしができたら、最高にハッピー! という男も多いと思うけどね。
というわけで、金も女も不自由しないけれど、孤独で虚ろなセレブ俳優の様子を感じ取れ、とでもいうような内容。でも、そのように感じるような演出はされていない。というか、演出していないようにさえ見える。もちろん、演出していないように見えるように演出してはいるのだろうけれど。そんな日常を淡々と積み重ねていくだけなので、だから何!? という風にしか受け取れない。なんか中途半端に見えてしまう。ま、監督が恵まれた環境で、贅沢も退屈と思っている、のかも知れないけどね。
・セックスしようとして寝てしまうマルコ。翌日(?)の新作発表会で一緒に写真を撮られていたのは、その相手の女優?
・頼んだマッサージ師がいつもの女性ではなく、男。と思ったら、そいつが全裸になってしまう。「お客さんと同じ格好でマッサージするのが主義で」って、おいおい。
・イタリアの部分はまんま「ロスト・イン・トランスレーション」イタリア版だね。
エレベータで乗り合わせたのは、ベニチオ・デル・トロ! カメオ出演か。部屋番号を聞かれ、言うと「ああ。そこはボノが泊まった部屋だ」と。
マルコは、金髪さらさらヘアーの女性が好みなのかな? ポールダンスの2人、隣室の女性、イタリアの女性もそうだった。途中で寝ちゃった女性は黒髪だったかも…。
そうそう。イタリアから帰ってきて、部屋に戻ったら中にいた女性は、あれは隣室の女?
ザ・ファイター4/4池袋東急監督/デヴィッド・O・ラッセル脚本/スコット・シルヴァー、ポール・タマシー、エリック・ジョンソン
原題は"The Fighter"。真実に基づく映画らしい。けれど、Wikiを見ると世界挑戦は失敗、とある。じゃ、映画と話が違うじゃん!? エンドクレジットに、実際のミッキー&ディッキー兄弟らしい2人が写る。もっとも、どっちがミッキーかは分からなかったけど。
母子、兄弟がべったりの家族に育ったミッキー(マーク・ウォールバー)が、ボクサーとして世界チャンピオンになる経過を描いている。が、ボクシング映画というより、ベタベタの兄弟愛、盲目的な息子愛の母親ばかりが目立って、うんざり、な気分になっていった。ううう。
かつてボクサーを志し、レイ・レナードをダウンさせた、という一瞬の栄光にすがるディッキー。自分の夢を弟ミッキーに託したものの、ミッキーは伸び悩んでいる。なのでヤク漬けの毎日のディッキー(クリスチャン・ベイル)。すでに26回も警察のお世話になっている。ミッキーのマネージャーは、母親アリスが務め、トレーナーはディッキー。こういう家族ぐるみでコトをなし、プロの他人を介在させないのは、移民か? と思って見たら、アイルランド系らしい。この系統は、大家族主義なのか? やたらオバサンが出てくる。誰の父親は誰で…なんてことを最初の方で言っていたけれど、なんだかよく分からず。あとになって、みなアリスの子らしい。自身、9人の母親と言っていたし…。げっ。その7人の娘たちは、結婚してないのか? すげえ不細工ぞろいなんだが。
で、金欲しさにマッチメイクするのだけれど、当の相手が風邪でダウンで、ミッキーは自分より9キロ重い相手と試合をすることに! このときミッキー「勝てる相手と組んでたのに!」とまあ、ボクサーとも思えないような発言…。母親も兄も、こうやってミッキーをボロボロにしていく。
というところで、ミッキーは酒場の女シャーリーン(エイミー・アダムス)と出会う。走り高跳びで大学に推薦入学し、中退。でも、近所じゃ高学歴。でも酒場で働いているので、バカにされていたりする。という設定がおかしい。で、ミッキーに「あなたをスポイルしてるのは家族よ」というのだけれど、母親や兄を断ち切れない。こういうところが理解不能。母や兄を信じるミッキーもだけれど、自分のしていることがミッキーにとって最善、と信じ込んでいる母と兄は、頭がおかしいんじゃないかと思えてくる。という展開が、前半えんえんとつづいて、うんざり。
で、ミッキーを他のジムに取られないようにするための金をつくろうと、ディッキーが強盗詐欺で逮捕・投獄。もっけの幸いでシャーリーンがミッキーを説得し、地元の金持ちと警官をやってる(?)トレーナーという体制で、マッチメイク。どんどん勝ち進んで、メキシコ人の不敗ボクサーとの試合になるんだが、いっきに冷める。だって、それまでの試合では手も出ていたのに、この試合では打たれるばかり。なんで? 理由を示さないのでは、分からない。あとからミッキーが「最初の作戦ではダメだった。兄貴に教わった作戦にして勝った」みたいなことを言うのだが、打たれっぱなしだったのは作戦かい? 解せない。
ずっと殴られっぱなしから、8ラウンドか9ラウンドに急遽復活。ボディに一発で相手を倒してしまう! って、やっぱ、映画だな。「あしたのジョー」と変わらんぜ。で、この試合で世界戦が舞い込んでくるのだけれど、ここで兄貴が出所してくる。で、当然のようにジムにやってきてトレーナーを買って出ようとする。悩むミッキー。兄を断ちきることができず、シャーリーンと警官トレーナーは「勝手にしろ」とでていってしまう。おやおや。
で、ディッキーはどうするかと思いきや、カンボジア人の麻薬屋敷には引き込まれずに、シャーリーンの家に行き、説得してしまう。ええっ? なんでディッキーのトレーナーを認めちゃうんだよ。でもま、控え目に、参加するぐらいなんだろ、と思っていたら、なんとメインのトレーナーとして練習も、試合もアドバイスしはじめる。こんなのありかよ。どこに、兄貴がミッキーの面倒を見ることを了解できる筋道があるってーの? これでガックリきてしまったよ。
で、この世界タイトルもメキシコ人との試合と同様、最初はボコボコに打たれ、最後の方に突然復活し、ノックアウトしてしまう。「あしたのジョー」かよ。ああ。つまらん。
というわけで、この映画は断ち切れない兄弟愛を売り物にするのかもしれないけれど、こんなうっとうしい兄弟愛に涙する、感動するやつはいないと思うんだがね。もちろん、盲目的な母親もね。むしろ、うっとーしくて、くだらねえ。それを善とするアイルランド移民とは意見が合わないかも。
・それにしても、洋の東西を問わず、ボクサーは貧乏人で無教養で無学歴で乱暴で一途なやつしかならないのね。
ディッキーの「再起」のドキュメンタリーを撮っていたクルーも途中から「転落人生」にテーマを変更し、TV放映。それを刑務所内で放映するのを得意化に見ていて、途中から「変だな」と気がつくディッキーって、どうよ。
・ミッキーがシャーリーンとの初デイトで、わざわざ別の町まで「ベル・エポック」という映画を見に行くんだけど、タイトルを誤読し、映画の途中で寝てしまう。なんか、残酷なエピソードではないかい。
・世界戦のとき、ミッキーが「俺の名にEはない」とかなんとか言うんだけど、どういう意味なのだか分からなかった。
そういえば、母親のアリスが産んだのは9人? ディッキーとミッキー。いつも一緒の娘たち7人。でも、ミッキーが娘を預かってもらっている家族があって、あの母親の方はミッキーの姉か何かではないの? 違うのかな。
・それにしても、アリスの亭主って、いったい何人目なんだ? 誰の父親なんだ? っていうか、よくあんな強引な女と一緒に暮らしてられるよな。と、感心してしまう。
・エイミー・アダムスは、下着姿のサービスカットあり。ただし、幾分、肉がだぶついてはいるけどね。
ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島4/11新宿ミラノ3監督/マイケル・アプテッド脚本/クリストファー・マルクス、スティーヴン・マクフィーリー、マイケル・ペトローニ
原題は"The Chronicles of Narnia: The Voyage of the Dawn Treader"。ナルニア3部作(?)の3本目。今回は、4人兄弟のうち、下の2人と、従妹の少年がナルニアに行って大冒険という趣向。第二次大戦中で、上の2人はアメリカで暮らしている。もう大人になってしまって、おとぎの国を夢見ることができなくなってしまった、ということなのだろう。
ルーシーとエドマンドは、イギリス国内の親戚の家にやっかいになっている。それがあるきっかけで、またまたナルニアへ。ついでに従兄弟のユースチスも一緒に移動してしまう。で、ルーシーって、あのブタ鼻のこましゃくれた娘だよな。だけど成長して、なんか造形的にきれいになってる。ブタ鼻が目立たなくなってる。幼児に不細工でも、長じるとましになる娘は、いるのだね。で、3人はカスピアンらの乗ってる船に救われる。なんでも、ナルニアの一角にあるある島をめざしていた。ナルニアの7卿とかいうのが行方不明になっているとかで、探しに行くのだが、最初の帰港地で早速捕まってしまう。なんとか逃げ出すが…のあたりで、沈没。一瞬ではなく、たっぷり30分は寝たと思う。で、目覚めてみると、相変わらず一行は旅をつづけている。しかし、なんか盛り上がらない映画だ。大きなダイナミズム、ドラマチックがないのだよね。それはきっと、一行が求めているものが何だかよく分からないからだと思うんだが、場当たり的にエピソードを重ねていくだけの話だからではないかと思う。ゲームでアイテムを集め、ダンジョンを攻略していくような楽しみもない。
たとえば、ある島に行ったら食事中のまま囚われている数人の卿を発見する。そこに妖精みたいのが登場し、一行に食事を供しようという。こら、この妖精は悪者だな、と思ったんだけど、実際はそうではなかったようで、あっという間に翌日になって船を操っている。ええっ? だよな。なんだかよく分からん話だな。
さらに、最後の卿を探しに孤島に向かうのだけれど、人魚たちは「やめろ」と身振りで知らせる、が、一行はそんなのは意に介しない。で、到達して。卿は救ったが、「畏れ」がイメージ化して巨大海竜といて襲ってくる。ううむ。強引だな。で、このとき威力を発揮するのが、欲に駆られて翼竜にされてしまったユースチスなんだけど、他の連中がほとんど威力を発揮できないでいる中、変身させられてしまった翼竜のパワーを最大限に活かして、大活躍するのだ。いっぽうの人間たちは、右往左往するだけでほとんど役に立っていない。
まあ、そんなユースチスも、投げられた剣でケガをして、なぜか別の島にワープしてしまうんだが。それはそれで映画だから許すとして。でも、剣が7本そろって威力を発揮するというのも、ありきたり。というより、この映画の敵はいったい何だったのだ? 寝ている間に、ちゃんと説明があったのかな?
というわけで、子供たちの成長譚もこれでおしまいなのか。ユースチスは、「もうこられないのか?」とライオンのアスランに聞くのだが、「まだ来てもらう」と返答をもらっている。ということは、ユースチスはまだ子供だってことなんだろうけど、最後のナレーションはユースチスのもので、でも、今回の出来事以降、ナルニアに行ったという話しはしていなかったよなあ…。
人生万歳!4/12ギンレイホール監督/ウディ・アレン脚本/ウディ・アレン
原題は"Whatever Works"。「何が起こっても(恋愛なんか)うまく行く」みたいな意味らしい。最近は、ちょっとした仕掛けのある恋愛物だの教訓じみた物を撮っていたウディ・アレン。みな新鮮味がなくて、ああ、またこのパターンかと思うことが多かったんだけど、この映画は面白かった。明るいペシミズムみたいな感じ。主人公は老年にさしかかった物理学者ポリス。彼の考えは合理的で、無宗教。マルクス主義も、間違ってはいないけれど、そもそも正直な人間ばかりではないからムリ、と冷静。セックスもムダな動きでしかないと、あらゆることに過度な期待や情緒を廃する。ちょっと青臭すぎないかと思えるほどだけど、まあ、物理学者だからね。で、女房にも逃げられ(といっても長年連れ添った妻がいただけでも凄い!?)、汚いアパートで1人暮らし。友人と言えば大学の学者数人が飲み仲間で、あれこれ思っていることを言い合って憂さを晴らしている感じ。というところに、20歳そこそこの田舎娘メロディとであう…という件が都合よすぎて「ありえねー」と思うのだけれど、そもそもこの映画自体が「ありえねー」というエピソードばかりなので、まあいいか。で、押しかけ同居人となったメロディ。理屈っぽく、チェスの指導員として子供にも容赦ないポリスに「尺取り虫の脳みそ」と罵られながらもマイペースで適応し、次第にポリスが好きになっていく。かつては、コンサート中のテントの裏で、ロックンローラーと一発やって喜んでた、ってのにね。一方のポリスも、最初は「かわいさ30%」とか友人に言っていたのが「50%」になり、「70%」と評価がどんどん上がっていくのがおかしい。理屈とは別に、心はメロディに傾いているのだ。
合理的ではあるけれど、いっぽうで、ときどき不安に駆られて怯えるポリスもいたりする。こういうとき、宗教を信じていないと、不安はなかなか解消されないのだろう。まあ、ポリスは自殺に走ってしまったりするのだけどね。未遂だけど。
娘を捜してやってきてボリスの母親は、がちがちのキリスト教原理主義者(? 最後の方でユダヤ教徒、といっていたっけかな)らしく、若いメロデイには若い男を、と仲立ちをしようとするのだけれど、失敗。なんてことを繰り返しているうち、ボリスの友人とデキてしまって。しかも、男2人との共同生活!って、おいおい。しかも、昔から好きでやっていた写真の技術が評価され、あっというまに新進写真作家になってしまう!! おいおい。その妻を追ってやってきたボリスの父は、妻の様子をみて愕然。浮気相手にセックスが下手と言われたとかで落ち込んでバーに行ったらゲイの客と意気投合。そもそもセックスに興味がなかったのは、彼自身もゲイだったことを教えられ、開花!! ううむ。
で、メロディ自身も、たまたま若い男とつきあったら、ジジイよりこっちがいい、と覚醒。でも、めげないボリス。ではあるけれど、自殺するため窓から飛び降りたら女性占い師にぶちあたり、彼女といい関係になってしまうという。まあ、ほんとうに"Whatever Works"で、ご都合主義的な話だ。まあ、ある意味で、そうだったらいいな、というジジイの夢物語。ジジイのためのお伽噺なのかも知れない。若い娘と1年でもいい関係を結べたなら、そりゃ御の字だろ。こんな具合に、人間万事塞翁が馬的人生を送れたらいいのにね。
ちょっと知的な早口漫才を聞いているような感覚もある。ウイット、ブラックな部分もあるし、教訓じみた部分もたっぷり。なかなか、ボリスの説は快刀乱麻を断つで、こちらは「そうそう」とうなずくところが多かった。そうだよね、と。本人は「ノーベル賞候補に挙がった天才で、おまえらとは人間が違う」と公言するのだけれど、あまり嫌みに感じられないのは、漫才師がいってるみたいに見えるからなのかも。でも、熱心なキリスト教徒やユダヤ教徒が見たら、「なにいってんだ」と怒り出すようなことばかりだったけどね。
観客を意識した映画で、画面の中のボリスが突然、観客に向かって話しかけたり説教したりする。とくに新しい手法ではないけれど、観客が「考える」という作業をするには、こういうシーンはいいきっかけになっているかも。
メロディを演じるエヴァン・レイチェル・ウッドはそこそこ可愛いんだけど、覚えにくい顔立ち。よくいるフツーの美人ってだけ、なのかも。
●暗闇の中でメモした言葉。
・クリシェ/決まり文句、常套句
・ピグマリオン/ピグマリオン効果とは、人間は期待された通りに成果を出す傾向があること
テッド・バンディ/1974年から1978年にかけ全米で多くの若い女性を殺害した犯人。大久保清みたいなもんか。
・ヘテロ/異性愛
・マリエッタ/?
・超自我/自我の防衛を起こす原因
「素晴らしき哉人生」/http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=12106
英国王のスピーチ4/12新宿ミラノ1監督/トム・フーパー脚本/デヴィッド・サイドラー
原題は"The King's Speech"。アカデミー作品賞、主演男優賞、監督賞、脚本賞を受賞。今年前半の目玉作品だ。さて、どんな話なのだ。
でも、案外と単純な話で、吃音症の英国王子ヨーク公(アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ・ウィンザーにして後のジョージ6世)が、言語聴覚士ライオネルと出会い、吃音を克服する過程を描いただけ、だった。このネタだけで2時間は、ちょっと辛かった。途中、かなりだれる。少し眠くなったぐらいだ。もうちょいドラマチックがあってもよかったんじゃないのかな。それにしても、駐日英国大使館が後援だったかなんだか、しているのだね。自国の王室をこのように描かれても、とくに問題がないというところが、敬服に値する。日本だったら「不敬罪だ」と騒ぐ輩がでてくるに違いない。まあ、アルバート(ヨーク公)の兄からして既婚女性と不倫、後に結婚という破天荒なことをしている歴史があるから、格が違うのかも。
というところで、Wikiで主要な登場人物の実際のところをチェック! なるほどね。と、斜め読みで英国王室のことを調べて。が、しかし、これらのことが既知な国民と、知らない日本人とでは、受け取り方が違うだろうな。
で、妻のエリザベスが吃音症を治すため医師をあれこれ探すのだけれど、上手くいかず。ライオネルのところに行ったら「あんただれ?」みたいに扱われたのがおかしかった。いうなれば、皇太子の弟の嫁さんなのに、顔が割れていない。で、後にアルバートが即位して国王になり、エリザベスがライオネルの家を訪ねると、ライオネルの妻がびっくりするのだよね。王妃なら顔がすぐ分かる、ってことなのかね。でも、エリザベスが新聞広告でライオネルを知り、自らひとり(?)でライオネルを訪ね、相談したっていうのは、ありなのか? 本当はうじゃうじゃ取り巻きがたくさんいたんじゃないのかね。
で、ライオネルは、吃音者も歌ではどもらない、自分の声を聞かなければどもらない、というのを実践する。アルバートにヘッドフォンをさせ、それでシェークスピアを朗読させるのだ。アルバートは、うさんくさいと思い込んで途中で投げ出すが、後日、その録音レコードを聞くとどもってない。おお、あの医者は頼りになるかも…と思うという次第。けど、その成り行きは予想できる。また、吃音で悩んでいるアルバートが、自分の朗読した声を自ら聞くか? という疑問が湧いてきて、いまいち納得できない展開でもあった。
以後、中盤は兄のエドワード8世が国王に就任するも、恋人との生活を選択したおかげで、アルバートがジョージ6世として国王になる過程を描くもので、あんまりドラマチックはない。吃音矯正の進化も、あまりない。明かされる、左利きの矯正とX脚の矯正が心的ストレスになって吃音になった、らしいことが指摘されるが、それが分かったところで劇的な変化はない。結局のところ、言いにくい言葉には最初に"a"の音を加えるとか、そういう修正レベル。あとはもう、近くにライオネルがいる、という安心毛布みたいな感じに扱われる。でもって、就任式のラジオ生放送も無事終了し、めでたしめでたし、という感じで終わるんだけど。実際は、あんなに簡単に改善はなかったんじゃないのかな。
結局のところ、アルバートにあるのは吃音という壁だけであって、乳母や兄の意地悪は簡単に紹介されるのみ。いかに苦しみ抜いたか、ということは伝わってこない。妻のエリザベスとの関係も、いまひとつ。それになにより、エリザベスをヘレナ・ボナム=カーターが演じているので、どうしたって蓮っ葉で下品な女のイメージがまとわりつく。それだけじゃない。チャーチルをティモシー・スポールが演じてるのだ。うげ。知性が見えない。そういう役ばっかりだしね。
面白かったのは、ライオネルという存在。オーストラリア出身で訛りがあり、クリニックを開いているけれど正式な医師免許がないので「ドクターと呼ぶな」という。それでいて、皇太子=国王に対しては「バーディ」という愛称で呼ぶことを認めさせる。宮殿に来い、といわれても了承せず、アルバートがクリニックに来ることを要求する。医師と患者はイコールだから、ということらしいが、王家を戴く国家にあってこんな勝手を言えるのは、やっぱオーストラリアの出身だから? しかも、シェークスピアをすべて暗唱しているほどの芝居好きで、いまだに芝居のオーディションを受け続けているという、うさんくさい男である。どうしてこんな医師が…という疑問はぬぐえない。不可思議。
というわけで、とくに悪い話ではないけれど、来るものはなかった。それで? ってな感じ。
婚前特急4/13テアトル新宿監督/前田弘二脚本/高田亮、前田弘二
映画的なテクニックは下手くそな部分が多いんだけど、話は面白かった。これでそこそこのスキルがあったら、相当の快作になったかも知れない。
24歳のOL、チエ(吉高由里子)は、男女関係にクール、というか、あっけらかん。人生は短いのだから、多くの男とつきあって楽しまなくちゃ! って派。一方、友人のトシコ(杏)はさっさと結婚してしまう。「あんたも結婚したら」と言われたけれど、それは考えていない、様子。でも、現在つきあっている5人の男たちを査定して、ふるいにかけようと思い立つ。最初のターゲットは、パン工場の工員タクミ(浜野謙太)なんだが、浜野がいい味だしてる。
チエの好みが面白い。最初の方に5人のメリット/デメリットをメモするシーンがあるんだけど、これで5人の様子がつたわってくるのだから、凄い。で、イケメンがいないのだ。タクミはチビで小太りで無神経。美容室の三宅(榎木孝明)は妻ありの50代おっさん。西尾(加瀬亮)はこぶつきのサラリーマン。出口(青木崇高)はバイクショップ経営。そして野村(吉村卓也)は学生で、彼だけがちょっと甘いマスク。っていうか、なんでタクミなんかとセックスしてるんだ? 不倫も? っていうような、不思議な男選びをしている。ひょっとしてこれは、いい男だけではなく、いろんな男とつきあおうという、心の広い女なのかな? まあ三宅は旅行に連れていってくれる。西尾はいい相談役で、チエは他にもつきあっている男がいることを話している。出口は、ストレス解消役。野村はアクセサリー代わり? というなかで、やっぱタクミは変。
タクミとの遭遇が、また、おかしい。風呂屋に住み込みで働いていて、火事。焼け出されて住むところなし。酔った若い女を介抱するフリをしてアパートにもぐり込み…という、とんでもないことをしてたやつらしい。チエもその手にかかって、住み込まれてしまった…。という出会いから始まったってんだから、チエも相当いい加減だよな。現在はタクミもアパート住まいだけれど、風呂がないからとしょっちゅう入りに来ている、という設定。で、そのついでにセックスしていくぐらいで、デートといっても荷物もちをさせられるのがオチ、という家来扱い。
で、そのタクミに「別れて」といったら、タクミがきょとん? 「なんで?」とショックなのかと思いきや「僕らつきあってないじゃん」といわれ、チエの面目丸つぶれ。「別れても、肉体関係はつづけよ」といわれ、さらにショック! この、笑いのズレ方が新鮮でいい。
で、次々に査定して別れて残る男は…という話かと思ったら、違った。なんと、他の4人は脇役で、主眼はチエとタクミの物語になっていくのだった。けれど、これが、基本構造は不細工男と可愛い顔立ちの娘、という構造。けれど、こっちはチエが滅茶苦茶性格悪いのだけど。
この映画のキモは、つきあってやってる態度のチエが、実はタクミにつきあってもらっていた、ということを知って、立場が逆転するところにあるわけで。こうなると、必要のない家来だったけど、手放すのが惜しくなってしまう、という女心が上手く利用されている。
なーんと、タクミは、パン工場の社長(?)の娘であるミカに恋していて、なんとかつきあいたいと思っているのだけれど、そのことをチエに相談していたりするのだ! で、チエがミカを調べると、ケーキ屋さんでバイト中の彼女は、おじさま方に評価が高いらしい。といっても、おじさま方がつきあっている若い娘に、何をプレゼントしたらいいか、を相談される程度なんだけど。で、それを勘違いしたチエは、「ミカはやりまん」という小学生の評価を信用してタクミにつたえるといういい加減ぶり。ところが、「やりまんなんてウソ!」と信じるタクミはミカとつきあい始め、なーんとプロポーズを受け入れられてしまう!(このシーンは、エア指輪を差し出し、それをミカが受けとるという、あの「ALWAYS 三丁目の夕日」で使われた手法を利用しているのだけれど、これは「ALWAYS」の発明なのか?)  となると、嫉妬の炎が燃えさかるチエ。タクミとミカ、西尾とチエ、という4人で食事会をしている最中、チエはタクミにキスして逃げ出してしまう。ううむ。女心ですなあ。
で、追いかけるタクミ。スクーターで逃げるチエ。いっしょに藪の中に突っ込み、ひと晩警察のご厄介になるのだが、チエにはトシコが迎えに来る。でも、タクミには誰も来ず、やっと朝方ミカがやってくる。ここで、タクミはすべてを正直にありのままにしゃべってしまう。と、ミカは「あんたはチエが好きなんでしょ」と一発殴って去っていく! ううむ。そういう展開か。
互いに自分が本当に思っている相手は誰なのか、やっと分かった2人。タクミはチエのマンションに行くが、いない。チエはタクミのアパートへ。中に入って物色していたら、タクミの帰ってくる音。チエは隠れ場所を探すがない。押し入れを開けるが、余地はない。どうする! と、とつぜんチエは畳に倒れ込んでしまう。おーい。死んだふりか? 大笑い。帰ってきたタクミに起こされ、罵り合いながら争っていて、壁に激突したらボコッと穴が開いて(またまた大笑い)隣で食事中の老婆(白川和子)に「ケンカは生きているうちにやりなさい」と説教されてしまう! いや。このギャグのセンスはなんなのだ。凄くおかしい。
でまあ、2人は結婚してハッピーエンド。いや。破天荒で、最初のうち気になっていた下手さも、最後はほとんど感じなくなった。物語の世界に引きずり込まれてしまったよ。
ところで、最後にブーケをもらったのは、あれは、ミカなのか? お化粧してたから、よく分からなかった。
チエの吉高由里子は、可愛い顔立ちだけど「はあ?」という安っぽい口調が板について、いいキャラを創り上げていた。タクミの浜野謙太も、根っからのズボラが絵に描いたよう。とてもいい。なのだけれど、個性という面ではいささか弱くて、なかなか頭に定着しない。ま、俺がジジイになったせいかも知れないけどね。なんとなく吉高由里子を北川景子的に、浜野謙太は次長課長の河本に置きかえてみちゃいそう。とくに吉高由里子の方は映画の主演にしては、いささか弱いと思う。
それから、「婚前特急」というタイトルは、いまいちだな。
いま、面白いと評判になっているせいか、水曜1000円でデーで女性客たくさん入っていた。
突然炎のごとく4/15キネカ大森2監督/フランソワ・トリュフォー脚本/フランソワ・トリュフォー、ジャン・グリュオー
1961年作品。原題は"Jules et Jim"。107分。最近始まったキネカ大森の2本立名画座の、トリュフォー作品。タイトルは知ってるし、3人で歩道橋みたいなところを走るシーンは有名だから知っているが、通して全部見たのは初めてかも。
でまあ、前半部分、第一次大戦前の享楽の日々の部分はエレセントリックで面白かった。でも、戦後の部分は観念的に堕してしまってつまらなかった。心で思っていることをナレーションで延々説明してしまう手法は、この時代に主流だったのかな。なんか、過剰過ぎる感じがしたし、映像で見せろ! という気分になった。
話は、ちゃちい。オーストラリア青年ジュールと、フランス青年ジムが意気投合。パリで遊びまくる。ある石像美女のスライドを見て感動していたら、そっくりの女性カトリーヌ(ジャンヌ・モロー)と出会い、またまた意気投合。遊びまくる。ニンフのような女性をめぐる三角関係。これ自体は面白い。でも互いの好意度が、あんまりよく分からない。性的交渉はなし? はっきりしない。で、2人は大戦に従軍し、敵となって戦う。戦後、ジムがジュールを訪ねると、ジュールはカトリーヌと結婚していて、娘もいる。…というところから現実問題が介入してくる。
映画はあまり描かないけれど、カトリーヌはふらりと家をでて戻らなかったり、別の男友達も何人かいる様子。奔放であるが、それだけの存在であり、どこに向かおうとしているかまでは描かれない。そんな彼女をジュールは諦めているような、それでもいいような。なんか、よく分からない。分からないのは、心の動きを独白で延々語ったりするからで、おそらく語られていたのかも知れないが、印象に残っていない。やっぱり、このあたりは映像で見せないと、残らない。
で、ジムにはつきあっている女性がいるのだけれど(このあたりも、とくに説明がないような感じででてきて、ううむ)、だんだんジムとカトリーヌの関係が密になっていき、肉体関係も…。でも、この時代のカトリーヌは、あまり魅力的には描かれていない。フツーのオバサンにしか見えない。エキセントリックな部分は、表現されていない。で、最後はカトリーヌがクルマにジムを乗せたまま川に突っ込んで、2人が死に、ジュールが残される、という話。
いろいろ説明不足、あるいは、セリフでの説明ばかりが多く、映画としてつたわってこなかった。
ジャンヌ・モローは、可愛いより、やっぱこの時代からすでにオバサン顔だ。この映画の時点ですでに33歳だし。ただし、ストップモーションで映される彼女は、美しい。やっぱ、いちばんいいのは、3人が出会ってしばらくの間の部分。とくにカトリーヌが男装して街を歩くあのあたりが最高にいい。けれど、それ以外は、ううむ、だな。
いずれにしても、60年代という時代を感じさせる映画ではある。
あこがれ4/15キネカ大森2監督/フランソワ・トリュフォー脚本/フランソワ・トリュフォー
1958年作品。原題は"Les mistons"。26分。小学生の悪ガキグループが村の娘に性的な関心を抱き始めた、というだけの映画。娘の乗った自転車のサドルに鼻をつけて嗅いだり、娘が恋人と会う場面を追ったりと、常識的に考えていささか異常な感じがする。なので、評論家がいうであろう「誰しも味わったことのある、少年のときの、大人の女へのあこがれ」みたいなものはない。むしろ、変態少年グループという方が似つかわしい。他人のデートに介入したり邪魔したりなんて、フツーあんなにしないだろ。あまりにも誇張しすぎだと思う。もっとさりげない、繊細な感じが欲しいね。
短編だからだろうけれど、人間の掘り下げはまったくしていない。映画は、娘の恋人が山登りで死んで、娘が黒衣で歩いている場面で突然終わってしまう。うっすらと「マレーナ」を思わせる展開だけれど、まだまだとば口という感じ。あの後、まだまだドラマが起こりそうな感じなんだが…。
リュミエールの「水をかけられた散水夫」が、まんま、たわいのないエピソードとしてでてきたのにはたまげた。リュミエールへのオマージュなんだろうが、若いね、トリュフォー。ま、トリュフォーにもこんな時代があった、ということで。ははは。
ピアニストを撃て4/15キネカ大森2監督/フランソワ・トリュフォー脚本/フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー
1959年作品。原題は"Tirez sur le pianiste"。88分。
男が逃げている。でも、シリアス、だけでなく、なんとなくコメディタッチ。で、酒場のピアニストにすがりつき「助けてくれ」と。ピアニストの兄らしいが、どうして追われているのかは、なかなか分からない。この、分からないのがイライラさせるのだが、映画は、2人の追っ手を以後も延々と映し出す。この2人がなんともトンマで、やっぱこれはコメディだろう? と思うのだけれど、そうでもないような気もして、よく分からない部分がある。
ピアニストはシャルリー(シャルル・アズナヴール)。実は、元は有名なピアニストだったが、妻を自死に追い込んでしまい、場末のピアニストになっているという次第。なのだけれど、この元妻の件はすっかり寝てしまっていたので、記憶にない。Webで見て、ふーん、なるほどね、と思っているのだよ。
酒場の主人は、女給のレナにご執心だけれど、レナにはその気はない。レナは、シャルリーに気があるみたい。面白かったのは、シャルリーがレナを送っていく夜道のところ。シャルリーが、手をつなごうか、腰に手を回そうか、もんもんと思っているのだけれど、気がつくとレナがいない…。って、青春映画かよ。
っていうか、シャルル・アズナヴールが若く設定されすぎてやしないか? だって、50歳ぐらいのオッサンに見えるのに、小学生の弟がいる設定だぜ。と思って調べたら、映画の当時、35歳なんだな。うえっ。そんな若くはどーしても見えないんだが・・・。といっても、20歳以上も年の離れた弟は、変だよな。
でまあ、レナをめぐってシャルリーが酒場のオヤジとケンカ。首を絞められたので、思いあまって刺し殺してしまう。逃げる2人。ここに、兄を追う2人がシャルリーの弟を人質にしながら追ってきて、雪山へ。あわれレナは凶弾に倒れてしまう。シャルリーは正当防衛が認められ、また、場末のピアニストにもどる…という話。
ううむ。なんか話が杜撰なんだよなあ。どうもシャルリーの兄弟は身持ちが悪く、その中でシャルリーだけが文化的才能に恵まれ、音楽学校に行ったらしい。あとは、ヤクザ。で、強盗を働いたけれど、仲間を巻いて金を独り占めにしようとして追われているらしい。というところからして、アホな兄貴。で、その兄貴だけを追えば済む話しだろうに、2人のギャングはシャルリーを追ったり、弟を人質にしたりと、どう考えてもムダにしか思えないようなことをする。アホか。だから、このギャング2人がコメディ担当に見えてしまって、映画のテンションがだらん、となってしまう。
シャルリーは、元は国際的な有名ピアニスト。なのに、周囲が誰も気がつかない、ってのは変だろ。これも、萎える設定だな。
面白かったのは、シャルリーの隣室の娼婦。おっぱい見せのサービスカットもあるんだけど、人柄もよくやさしい娼婦に描かれている。でも、シャルリーの家のことや弟の面倒まで見て、あげくは無料で(?)セックスの相手もしてくれるなんて、そんなお人好しの娼婦はいるか? と、いささか疑問な設定。女給レナは貧乏人で無教養だけれど、一途な感じが可愛い。でも、はたしてシャルリーと上手くやって行けたかどうか、怪しいような気がする。自殺した妻は、投身自殺する前にちょっとみたけれど、これがキレイな人で、なんで彼女を大切にしなかったの! と思ってしまった。でも、顔立ちだけからの印象なんだけどね。ははは。しかし、人を殺しておいて、正当防衛が認められてしまうと言うのは、ご都合主義的すぎると思うが…。
そうそう。そういえば2人組が弟を誘拐するとき、隣家の娼婦を部屋に綴じ込めるのだが、ドアの外から鍵を掛けるって、へんじゃないか? というように、すべてにツメが甘い感じがして、途中で寝てしまうのも仕方がなかったかも、という気持ちだ。ははは。
GANTZ4/20MOVIX亀有シアター5監督/佐藤信介脚本/渡辺雄介
奥浩哉の原作マンガは知らない。そんなに人気あんの? てな具合。で、前知識ゼロで見たんだが、最初の30分あまりで、かがっと引きつけられた。「おおっ。どうなるんだ。すごっ」てな感じ。ところが、2つめのミッションの、田中星人(?)っていう、食い倒れ人形みたいな相手とのバトルシーンがあまりにもユルいので、いらだち、萎えた。以後、ずっと最後までこの印象は変わらず。最初は★4つ、後半は★2つってとこかな。
終わってみれば、話の構造は「エヴァンゲリオン」そのままだったなあ。得体の知れない敵がやってきて、それを生身の人間がパワードスーツを着て倒す。その永遠の繰り返し…? に、人間側の事情が加わり、それを起こさせている球体=GANTZがいる。あと、冒頭の、メンバーが集められるSF的感触は「CUBE」みたいな感じ。無作為に無機的な部屋に集められている、という得体の知れなさがある。それと、転送する場面の、体が輪切りのように消える=登場するのは「ターミネーター」を思わせる。最初に岸本恵(夏菜)が裸体で登場するところなんか、とくにね。そういう、どうなってるんだ感が、最初にはあった。それがかなりの緊張感を伴いながら進んでいく。死んだはずの人間が、なぜ生き返ったのか? 球体の中の男は何か? あの転送はどうやって? 異星人を退治する意味=理由は? しかし、そういう問いへの解答はない。いや、それでいいんだよ。訳のわからなさが、導入部としてはもの凄くよかった。
ネギ星人との戦いも、まずまず。なにしろ玄野計(二宮和也)、加藤勝(松山ケンイチ)、岸本恵(夏菜)の3人は初めてのこと。経験のある西丈一郎(本郷奏多)に振りまわされつつも、なんとか生き残る過程はそれでよい。子供のネギ星人の仕掛けなどは、「SAW」を思わせる不気味なユーモアもあったりする。が、しかし。次の田中星人との戦いでは、計も加藤も経験者になっている。鈴木(田口トモロヲ)だっているじゃないか。なのに、なかなか田中星人を撃たない。計も加藤も岸本も、そして鈴木も、銃口を向けるもキャーキャーいって逃げ回り、引き金を引かない。なんで? でもって、やられそうになる仲間をも、呆然と見つめている。「なにやってんだよ、撃てよ!」と、何度、心で叫んだことか。あれはもう、アクションとは言えんだろ。3つめの仁王や千手観音、如来なんかとの戦いでもそうなのだが、戦いの最中に傷ついた仲間を介抱したり別れを惜しんだりと、日本映画に特有の情緒たっぷりのタメが随所にでてきて、キレのあるアクションにならない。なんでああまでして間をもたせ、タメをつくり、引っぱる。なんなんだよ。そんなことしてないで、さっさと引き金を引け! 撃て! 外れてもいいから撃って撃って撃ちまくれ! 反射的にそうするのが戦いだろ。あまりに大衆演劇風で大仰な押しつけ的涙の場面の連続にうんざりしてきた。あほか。で、結局は誰かの発射した一撃で相手は倒れたりするのだから、バカみたい。仁王がいい例だ。2体あって、動かない前に一体を撃ち倒している。その音でもう一体が目覚めると、一同、うろたえもたもた逃げ回るだけ。トモロウなんか、何度バトル場面に遭遇しても単に逃げるだけ〜。GANTZに「いたの? 存在感なし」といわれて笑っているうちはいいけど、ちったあ活躍しろ、と怒鳴りたくなった。セリフもひどい。東博での千手観音との戦いで加藤がやられると、計のセリフは「加藤」という呼び声だけになる。あまりにも芸がなさ過ぎる。
で、映画は加藤と岸本が死んで、第2部へということなのだが、まあ、この2人は復活するのだろうな。西丈一郎はどうなのだろう。次の展開は読めないけれど、エンドロールのあとについていた予告では、いろいろ真相が明かされていく様子。でも、本作の後半を見た感じから言うと、あまり期待できないかも知れないなあ…。なぜ、特定の死人しかあの部屋に集められないのか、なぜ戦わねばならぬのか、というような説明は、ちゃんとあるんだろうなあ。なかったら、困るよな。
ヒロイン的な女性が2人でてくる。最初は、岸本役の夏菜。かわいいとか、美人とは違う感じなので、いまいち…。若い瀬川瑛子みたいな感じ? っていうか、魅力的に撮れていないだけなのかも知れないが。もうひとりは、現実社会で計にアタックしてくる小島多恵(吉高由里子)なんだけど、これがあまりにも不自然。奥手といいつつ計にだけまとわりつき、マンガを描いているからと押しつけるようにして読ませる。そのコマのひとつが映るのだけれど、なんと計がスーツを着てジャンプの練習をしている場面ではないか。おお。これは「HEROES」のアメコミと同じ役割か? と思ったのだけれど、計はなにも気づかない。ってことは、意味のないコマなのか? しかし、彼女が計に絡んでくるのはなぜ? 次作で明らかになるのだろうか? それにしては、あまり伏線もないようなのだが…。吉高由里子は中途半端な美形なので、印象に残らないのもつらいかも。
いくつかの武器が登場するのだけれど、その説明がほとんどない。メカ好きな男は少なくないのだから、きっちり説明、あるいは、使った感想を言うような場面があってもおかしくはないだろう。もったいない。
3つめのミッションで東博が登場し、戦いの現場となる。あんな撮影を、東博は許すんだ。仏像が異星人になって巨大化したり、破壊されたりするのも、気にしないんだな、東博。ううむ。
戦火のナージャ4/21新宿武蔵野館2監督/ニキータ・ミハルコフ脚本/アレクサンドル・ノヴォトツキイ=ヴラソフ、ウラジーミル・モイセエンコ、ニキータ・ミハルコフ
IMDbでは"Utomlyonnye solntsem 2"のタイトルがでてくるんだが、ロシア語の英語読み? インターナショナルタイトルは"Burnt by the Sun 2: Exodus"。で、allcinemaの簡単な説明も読んで、なーるほど、と思った。シリーズ物なのだ、この映画。たしか、冒頭のタイトルも"Utomlyonnye solntsem 2"みたいな感じで、数字の「2」がでていたよ。あれ? とは思ったんだけど、謎が解けた。というのも、この映画、物語の背景などの説明がほとんどなく、最初がかなり辛かったのだ。わけがわからんので、始まって10分〜30分ぐらいまで、目をつむってしまうことはなかったけれど、寝そうになった。目が冴えてきたのは赤十字船の件で、以降はちゃんと見ている。というわけで、予備知識ゼロで見た。
見終わって思ったのは、変な映画、ってことだ。始まりもよく分からん。ナージャという娘が出ずっぱりの映画でもない。むしろ、父親の方が出番が多い。最後は尻切れトンボ。なんなんだ? という印象。それと、これってコメディか? と思うような冗談色の強い表現が散見される。皮肉を込めた戯画化なのか、よく分からんが、思わず笑ってしまうシーンも多い。テイストとしては、クストリッツァみたいな感じ、なのかも。逆に、手足がちぎれたり火傷したり内蔵が飛び出たりという部分もある。どこが本気なんだ? よく分からない。
冒頭、スターリンみたいなジジイに、取り巻きがお世辞を言っている。なんなんだ、この映画? と思っていたら、でてきたケーキに、取り巻きの1人がスターリンの顔を押しつけて息を詰まらせようとする。あれ? じゃ、スターリンに恨みをもつ連中が周囲にいたってことか? それにしても、スターリンってこんな殺され方をしたんだっけ? 違うよな。で、このシーンの年代は、いつなのだ?
で、次は1941年(?)で、懲罰部隊の様子。元大佐コトフの罪が政治犯から汚職(?)に変更になった云々のあとに、ドイツ空軍が急襲。コトフはこの機に乗じて逃げたのか? と思っていたら、どうも違うみたい。で、1943年に、ピアノを弾くドミートリという大佐がスターリンに呼び出され、コトフののことを探れ、と命令される。という構造は分かった。けど、コトフって誰よ。なんでスターリンがコトフのいまを知りたいのだ? 分からん。なんて思っていると、コトフの幼い娘ナージャのイメージがだぶってくるのだが、これもよく分からん。みんな唐突。わけが分からないと、急激に好奇心が失われる。そうして眠くなる。というわけで、完全に眠りはしなかったけれど、目を開いたまま半睡状態でしばらくして、赤十字船のところで目が覚めた。
赤十字船には、怪我人と一緒にナージャも乗っている。けれど、船がどこに向かっているのか、なぜナージャは1人で乗っているのか。そんなことはほとんど分からない。やれやれ。で、ここでドイツ戦闘機が赤十字船を練習台に「ウンコ爆弾だ!なんて尻をだすんだけど、腹を立てたロシア人が照明弾を撃ち、乗組員が死ぬ。腹を立てたドイツの戦闘機が赤十字船を攻撃して…という展開なのだけれど、荒唐無稽すぎないか? 機雷につかまってナージャは生き延びるのだけれど、たまたま同じ機雷につかまっていた牧師に洗礼を受ける。ううむ。共産主義のソ連で、宗教は弾圧されていたんだろう。ナージャは最初拒否するが、最終的には洗礼を受ける。牧師は流され、ナージャは無傷で陸地に流れ着く。って、おいおい。そんなに陸地の近くだったのか? と思ったら、赤十字船と一緒に航行していた船が爆発し、積んでいたレーニン像がナージャのそばに飛んで落ちた。って、おいおい。コメディか?
その後も、ドミートリが聞き出すかたちだったり、単に1941年の描写だったりして、コトフの過去が描かれる。最前線に配置された懲罰部隊のところに、士官候補兵ばかりの部隊がやってきて、後方からやってきたドイツの戦車部隊にほぼ全滅させられたり、なんだりかんだりと…。でも、単なる経過、クロニクルだけであって、コトフの過去が分かったからといって、何かが始まるわけではない。そういうことがあった、ぐらいなのだ。
しかし、コメディタッチは相変わらずで、ドイツ戦車隊をロシアの戦車と勘違いして近づいていくロシアの士官候補兵がいたり。たまたま入った教会で、誰か知らないやつに襲われようとしたとき、たまたま上空を飛行中の飛行機から爆弾が落下し、教会のシャンデリアに引っかかったり。バカか、と思うようなカリカチュアライズされたエピソードがつづく。そういや、前線で、ムスリムが祈りを捧げるシーンがあったけれど、根底には共産主義に排除された宗教、というのもあるようだ。
いっぽう、助かったナージャはどこかの村でドイツ兵にレイプされそうになり、そこをどこかの女に助けられる。でも、ドイツ兵を殺したことが発覚し、村人がドイツ兵に大量虐殺される。でまあ、正義感の強いナージャは、村人は悪くないのに、とドイツ兵の前に出て行こうとするのだが、女に「あんたは生かされた。それが神の思し召し」と説得されたりするのだが、こういう話は、戦争物にはよくあるパターン。しかし、ロシア人が自分たちを主人公にする映画をつくると、ドイツ人を残酷な悪人にし(ジプシー一家を惨殺したり、村人を納屋に入れて焼き殺したり)、自分たちは被害者、という描き方をするのだね。もちろん、スターリンも極悪人なんだろうけど、ね。でも、一般的なロシア人が戦場で行なった傍若無人な行動は、棚に上げてしまう。日本人の立場からすると、おいおい、勝手なこといってんじゃないよ、という気分になる。
というわけで、最後は看護婦として戦場を走り回るナージャ。全身火傷した19歳の兵隊に「キスもしたことがない。胸も見たことがない。見せて」といわれ、裸になってやると、兵隊が死んでいった、というエピソード。これもよくある話だよなあ。と思っていたら、カメラがどんどん引いていって、これでオシマイ。おい。伏線もなにも分からんし、問題も疑問も解決してない状態で、なんで終わっちまうんだよ! という気分になった。で、Webで見たら16年前に製作した「太陽に灼かれて」の続編で、さらなる続編も進行中なんだと。って、そんなの、わかりゃしないよ。最低限、これまでのあらすじ、をつけてくれないと。
そうそう。そういえば、ドミートリと運転手は、過去にコトフに何かしたようなことを言っていたか暗示していたか、だったけれど、こちらがウトウトしている間に、何か重要なことを言っていたりしたのかな? わからんけど。それにしても、3時間30分ものあいだ、不思議な気分で映画を見ていたのは事実。だって、笑っていいんだか、同情していいんだか、よく分かんないんだもの。変な映画。で、冒頭のシーンは、どうつながっているのだ?
孫文の義士団4/25シネマスクエアとうきゅう監督/●脚本/●
原題は"十月圍城"、"Bodyguards and Assassins"。清朝末期の20世紀初頭。革命派のリーダー孫文が、香港にやってくる。各地のリーダーたちと革命の打合せをするためだ。その1時間の間、囮を使って暗殺団から守り抜く一団の活躍、というか、悲劇だな、こりゃ。
孫文と言えば、中華民国だよな。でも、この映画は北京/香港でつくられている。なんで? という不思議が先ずあった。で、帰ってWikiで見ると、「初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる」「中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸で尊敬される数少ない人物」と、最近では中国でも評価されているらしい。ふーん。しかも、「1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した時、孫文はアメリカにいた」ということで、では、この映画はまったくの嘘っぱちなのか…。さらに「革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。しかし、孫文は革命政府を維持するため、宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者・袁世凱に総統の座を譲る。袁世凱による独裁が始まると、反袁を唱えて活動するが、袁の軍事力の前に敗れて日本へ亡命した」とあって、孫文自身はあんまり革命では機能していないのではないの? Wikiの記述が足りないのかも知れないが、いまひとつ孫文の存在感はつたわってこないよな。
それはともかく、これは孫文の映画ではない。孫文のあずかり知らぬ所で孫文の命を守り、死んでいく悲しい人びとの話。なので、見終わってもいい気分にはならない。また、孫文への畏敬の念などはでてこない。どころか、孫文が人と会ったり飯を食ったり出歩いたりするたびに、ムダに死んでいく末端の連中がたくさんいたのかもしれない、と暗い気持ちになってくる。しかも、そうやって死んでいく連中の多くは、孫文の理想や民主主義についてほとんど理解のないような人ばかりなのだ。こういう命の使い捨てって、昨今でも同じように行なわれているよなあ、と。会社や組織の一部の偉い人が生き残るために、多くの平社員や中間管理職が犠牲になっていたりする様子が、だぶって見えてきてしまう・・・。
孫文が香港にやってくる。各地のリーダーたちと蜂起の打合せをするためだ。護衛を買って出るのが、新聞社の経営者。どうもこの新聞は、反清朝で狙われてもいるらしい。で、この経営者が、商人の所に金を無心に行く。曰く「孫文を守るため」と。商人も昔から反清朝でカンパはしているらしい。商人の一人息子は、イェール大学に入学が決まっているのだけれど、新聞経営者はその息子に孫文の本を与えたりして、反清朝を擦り込んでいる。…ううむ。どういう関係なのだ? 冒頭では説明がなかったと思うんだけど、中盤に息子が新聞経営者に「叔父さん」といったので、商人が兄で新聞経営者が弟か、とやっと分かった。ううむ。
あと、よく分からなかったのが、劇団員たち。どーも劇より革命に命をかけている一派みたいだけど(清王朝に狙われている元将軍らしいが、どういう経緯なんだ?)、これが簡単にやられてしまう。清の暗殺集団はそんなに凄いのか? っていうか、最初に組織的に劇団員を狙う根拠・情報はどこにあったんだろう? それが疑問。
で、孫文が1時間だけ香港に滞在し、打合せをする、それを無事に終わらせるために動いた義士団とは、有象無象の寄せ集めだ。まず、新聞社の社長(本物の革命家)、社員(社長に準ずる?)。商人の息子(叔父の感化)。商人の家で働く車夫(商人への恩義)。商人に金を恵んでもらっている乞食(商人への恩義)。劇団の娘(父親が殺されたことへの復讐)。豆腐売りの大男(商人への恩義)。警官のなれの果て(博打好きが原因で元妻が商人の後妻になった屈折)。というわけで、いい加減な気持ちなのが大半。どこに孫文とのつながりがあるのだ?
つながりは、ない。ごった煮の集団が、清朝の暗殺集団を攪乱し、1時間もたせる、という映画だ。この間、孫文は地域のリーダーと打合せをしているが、彼を守るため奮闘している一団のことは、くまったく知らない。そうやって、たった1時間、孫文の無事を実現するために死闘を繰り返し、死んでいった無名の人たち、という設定だ。なんか切ない。
映画も、その切なさをガンガン映し出す。まるでもう、浪花節状態だ。清朝側の警官は、商人の妻となった元妻と実の娘のために心変わりする。車夫は、見初めた娘(足の悪い、なんかの店の娘)と結婚の約束をする。乞食も、かつて父親の妻に恋をして人生を間違い、アヘン中毒に。商人の息子は、たまたまクジ運が悪く、孫文の身代わりとして人力車に乗ることに…。とか、お涙頂戴の話が中盤にぞろぞろでてきて、うんざり。そんなんいいから、さっさと話をすすめろ! という気分だった。
で、暗殺集団は技術が未熟なので、あめあられと矢を射ってもあたらない。劇団員の娘や大男、車夫、乞食、警官らが要所で活躍して、暗殺集団の行く手を阻むのだが、これって都合よすぎだろ。最後は、暗殺集団のボスが商人の息子を仕留めるのだが、新聞屋の社長がボスを撃ち殺すという、みんな死んでいくパターン。やれやれだな。
最後、商人の息子が乗った人力車が階段を落ちていくのだが、これって「戦艦ポチョムキン」のつもりかよ、というシーンには笑った。
警官役は、「イップ・マン」のドニー・イェンで、暗殺集団の1人との激闘は見応えがあった。でも、やっぱ、林与一的優男風貌なんだよなあ。
劇団員の娘が、いまいち美人ではないのがもったいない。ここは、ひ弱でもいいから、可愛い娘にして欲しかった。
車夫の一途な恋は、ちょっと可哀想。彼だけは生かしてやって、足の悪い娘と一緒にしてやりたい気分。
それにしても、「息子だけは」といっていたその甥をこんな乱闘に引きずり出し、結局は殺すことになってしまった新聞社の社長は、兄にどう言い訳するのだ? お前が焚きつけなければ、彼は一層の革命家になっていたかも知れないのに、たんなる一兵卒として使い捨てするなんて…。
というわけで、孫文さん、あなたの平穏な日常を支えているのは、名も無き使い捨ての中国人たちの、屍の山ですぜ、と言ってやりたい気分。ま、フィクションだけどね。
ガリバー旅行記4/25上野東急2監督/ロブ・レターマン脚本/ジョー・スティルマン、ニコラス・ストーラー
原題は"Gulliver's Travels"。言わずと知れたスウィフトの古典の映画化。でも、現代人ガリバーが18世紀に行く話にしている。で、Wikiで見ると原作の出版は1726年。たしか英国の政治を風刺した内容だったはずだが…。政治だけでなく、社会一般を風刺しているようだな。でも、この映画ではそういう部分はなくなっていて、単なる個人の冒険譚になってしまっている。それでも結構面白かったけどね。
新聞社で郵便係をしているガリバー(ジャック・ブラック)。好きな編集者ダーシーに見栄を張ったせいで、バミューダトライアングルへ単独取材。水柱に飲み込まれて小人の国リリパットへ漂着。縛られ、小便で火事を消し、信頼を得て、隣国との戦いで英雄になるという筋立てはオリジナルのまんま。しかもテンポよく進むので飽きないし面白い。現実社会では編集者にへりくだり、ダーシーに告白もできない気の小ささが、小人の国では逆転するという設定も活きている。マジなガリバーより、このぐらいお調子者の方が、話に合ってるかも。
映画ではとくに主張していないけれど、これはタイムトリップ物でもある。ガリバーは現代知識をどんどんつたえ、「スターウォーズ」「タイタニック」etcを劇にしたて、国王や大衆に見せる。ガリバーがオタクだから、その芝居を3Dシアターのようにして楽しんだりしている。KISSの扮装をさせ、ロックコンサートまで再現する。それだけガリバーが18世紀になじめなかった、と言うことなんだろうけど。なにせ自宅も現代風に建てさせ、悠々自適な生活をしちゃうんだぜ。って、どういう科学知識を擦り込んだんだ? いや、その前に、電気はどうやったんだ? という最大の疑問があるんだが、これは突っ込んだら映画が成立しなくなってしまうので、まあ、見ないことにしておこう。
同時並行で進む、王女と将軍とホレイショ(一般人?)の三角関係は、原作にもあるのか?話の行方はミエミエで、あんまり面白くなかったな。そういえば、リリパットの人たちはガリバーに感化され、21世紀的な服装、慣習をどんどん採り入れるのだけれど、この過程が結果しか表されない。これ、変化の過程を描いたら面白かったかも。なんの違和感もなく最新文明を採り入れている人たちも、変だとは思うんだけどね。
で、ガリバーが心配になったダーシーもバミューダにやってきて、同じようにリリパットへ。という、いささか強引な展開は、まあ、デブが美人に惚れられるという、ある種典型のラブコメ路線だからしょうがないけど。もうちょい、ダーシーがガリバーに惚れる要因をカチッと描いて欲しかったかも。たとえば、あちゃらかなガリバーが、命がけでダーシーを守り抜くシーンがある、とかね。
で、最後は将軍が相手国に寝返って、リリパットは占領される。そこで、変身ロボ(敵国の小人がプラモの組み立て図から造ったもの。R2D2が変身する!)に搭乗した将軍とガリバーが対決し、ほぼ負け状態だったガリバーだったけれど、ホレイショが配線をひきちぎってガリバーの勝ちに。おい。配線から、火花が飛んでたけど、ホント、電気はどこから来るんだよ!
あ、それから。最初に、足に槍を刺されて「いてっ!」って飛び上がってたのに、砲撃された弾丸をはじき飛ばしてしまうのは、矛盾がありすぎだろ。それと、ホレイショはどうやって王女と知り合い、恋仲になったのだ?
オープニングタイトルは、実写なんだけどミニチュアみたいに見える撮影方法で撮られていて、洒落ている。エンドタイトルも、新聞風で、これもいい。
メアリー&マックス4/26新宿武蔵野館3監督/アダム・エリオット脚本/アダム・エリオット
原題は"Mary and Max"。冒頭で、監督による東日本大地震大津波に対するメッセージが入った。さて内容。昨今の映画とは違うテンポの緩さに最初のうちは戸惑った。そして、次第にそのテンポに慣れていったのではあるが。話が説教臭いというか教訓じみているというかアフォリズムにこだわりすぎというか箴言に満ちている。見ていて気持ちのよくなるアニメではない。重暗く沈鬱になっていく。最初のうちは、それでもメアリーが8歳だったし、周囲の環境をあれこれ紹介するだけだからよかったけど、マックスの病気は改善せず、なぜかメアリーの手紙で病状が悪化したりする。こうした件も説得力がなくて、突き刺さってこない。それに、結局のところ、マックスは精神病だしなあ…と思うと、どーもね。
メアリーは8歳。オーストラリアに住んでいる。母親はアル中で万引き癖、父親は…なんだっけ。爺さんは最近死んじまった。子供はビールジョッキの底から生まれる、と思っている。額にウンコ色の痣があって、同級生にバカにされている。先生にも嫌われている。たまたまアメリカの電話帳を見ててきとーな名前を拾い、手紙を出す。友だちが欲しくて、文通しようとしたわけだ。って、8歳の子供が思いつくことかね。隣家には広場恐怖症のジジイが住んでいる。が、このジジイ、第二次大戦で日本軍にひどい目にあって、足をピラニアに食われて車椅子生活。って、おい、日本軍はそんなにオーストラリア兵にひどい仕打ちをしたのか? 証拠に基づく物なのだろうか? それと、トラックから逃げ出した食用ニワトリが友だち。
マックスはニューヨークに住む44歳のオヤジ。友人はゼロ。隣部屋(?)の婆さんはほとんど盲目だけど、なにかとマックスの世話を焼いてくれる。…なら、友だちが皆無ではないではないか! 昔から職を転々とし、外壁についていたエアコンを落として大道芸人を殺した(無実にはなったが)ことがある。同居人は、妄想がつくりだした人物が1人と、金魚。金魚は死ぬとトイレに流し、また新しいのを買ってくる。
マックスは、メアリーにお菓子を同封して返事を書く。そうして、延々と文通がつづく。メアリーの父親が死に、母親が亡くなる。メアリーは大学で精神分析学か何かを専攻し、マックスの事例をもとに本を書いたら評価され、有頂天。これでマックスが治せる! と思い込んだ。そして、ニューヨークに行く決心をした。
送られてきた本を読んだマックスは、唇をホチキスで留められるような気分になり、メアリーに絶交の手紙(といっても、タイプライターのWの活字(だっけ?)を送っただけだけど。で、自分のしたことが相手を不幸にした(らしい)ことを知って、悩むメアリー。それでも隣家のギリシア人の息子と結婚するのだけれど、気分が落ち込みアル中に! まるで母親と同じ! 夫は愛想を尽かし、前々から文通していたNZの女性のところへバイバイ…。去っていった亭主の子種ももらっておきながら…。でれでれになったメアリーのところに、マックスの謝罪の手紙(収集していたフィギュアを送ってきた)が到着し、(それを知ったのは、隣家の広場恐怖症の爺さんが45年ぶり(?)に外に出て、郵便物が届いていることを知らせてくれたから! そうでなければメアリーは首をつっていた! といういい加減かつテキトーな展開がげんなりさせる。
で、思い切ってニューヨークへ行ったら、その日の朝にマックスは自宅で息を引き取ったばかりだった! という部屋の天井に自分の手紙が張り付けてあるのをみて、微笑むメアリー…って、死体を発見しているのに、そんな反応でいいのか? という具合で、ムチャクチャな展開なのだ。あまりのことに、父親が死んだ辺りから母親の死の後ぐらいまで、寝てしまったよ。
ナレーションと、メアリーおよびマックスのセリフで進むんだけど、軽いセリフがなくて考えさせるような、うっとうしいほど重いセリフがつづいて、疲れてしまう。で、要するに映像で内容を表現できておらず、言葉で説明を始めるから頭に残らない。なら、べつに映像にする必要はないじゃないか、と思う。
で、メアリーの些細な行動でマックスがすぐに落ち込んだり悩んだりするのだけれど、そうなる理由もよく分からない。なるほど、そうだよなあ、と思えないのだ。で、マックスが回復して仲直りしようとする理由=きっかけも、よく分からない。なんか、みーんな中途半端。
いや、その前に、設定が激しすぎる。メアリーは先に言ったように、母親に恵まれていない。とはいっても大学を出るだけの金銭的余裕はあった、というのが不思議なんだけど。無知なメアリーがどうやって恋をして、男を知り、喜びを知ったか。大学でどんな人間関係を築き上げたか、なんていうようなことは無視。
いっぽうのマックスは、ユダヤ人。社会適応できなかった理由はよく分からないけれど、明らかに妄想性の精神病患者だ。後半でアスペルガー症候群(知的障害のない自閉症)ともいっているけれど、たんなる発達障害ではないだろ、あの描き方は。適応障害もあるな。そういや、過食症のセラピーに通っていたよな、マックス。むしろ、女性に言い寄られておどおどしていたから、女性恐怖症もあるかも。なので、フツーの人間の感覚では計り知れない男なんだよ、マックスは。だから、病者として見ないと、話がおかしくなる。私もマックスと似たようなところが、なんていう人は、おかしい。そんなひとは、精神科へ行った方がいい。
それにしても、西欧の映画って、主人公の設定が精神病者、というのがやたら多いな。そんな患者の状態を一般化・普遍化して語っても、しょうがないと思うんだけどなあ。
Ricky リッキー4/27ギンレイホール監督/フランソワ・オゾン脚本/フランソワ・オゾン、エマニュエル・ベルンエイム
原題も"リッキー"。いやー。驚いた。前知識ゼロで見たんだが、監督がオゾンなので、なような感じかな、と思って見始めた。最初は、悪くない。が、途中でトンデモ映画に豹変する。オカルトか? ファンタジー? それでも、もう一ひねりあるんだろうな、と思っていたら、そのまま…。げ。なんなんだよ、これ。ぷりぷり。
冒頭、中年女性カティが役所かどこかで経済的不安を訴えている。スペイン人の夫が出て行ってしまい、困っている。子供2人を施設に預けたい…。なかなか深刻な様子で、シリアスな話になるのかな、と。で、時間が遡り、ある工場。ベルトコンベアの前で働くカティ。そこに、新入社員っぽい男性たちが来て。中のスペイン人パコといい仲になる。って、会ったその数分後、トイレで一発やってるって…。カティには7歳の娘リザがいて、父親は「子供なんか見たくない」とどこかへ。1人で育てていて男日照の欲求不満、という設定だ。で、パコはカティの家に住むようになり、あっという間に子供が誕生する。それがリッキー。パコは育児が苦手で、鳴き声も気に触る。外で女の子と会っていたり、かなり引き気味。で、あるときカティがリッキーをパコに預けてもどると、背中に痣が。「落としたんだろう!」と詰め寄るカティに、「知らない」と否定するパコ。さらに痣がふえ、事態は暗くなってくる…。
ここで観客は考える。きっと娘が嫉妬してイタズラしたんだ。そうして、さらに傷つけるのだろう…。突然、腹違いの弟が登場し、心の歯車が狂っていく幼い娘…。さて、どうなるのだ…。
ところがどっこい。そうはならない。なんと、背中の痣から血が噴き出し、そこから角のようなものが生えてくる。ぎょっ。オカルトかよ。じゃ、リッキーは天使か、それとも悪魔だったりして、ヤバイ方向に進むのか?
と思ったらさにあらず。なんと、カティはリッキーの異変をものともせず、フツーに暮らそうとする。医者に言うでもなし、パコを探し出して相談するわけでもない。自分で羽根についていろいろ調べたりする。いったい何のため? 服の背中に羽根のための穴を開けたり、家の中で飛ぶ訓練をさせたり。おまえ、アホじゃないのか? こちらの緊張は解けて、どうでもいい気分になってきた。
ある日、リザとリッキーを連れてスーパーに行ったとき、リッキーが店内を飛び始めてしまって、事態が公に。保護した後に病院に行ったもの、病院やどこかの機関にリッキーを預けることなく自宅へ連れて帰る。って、こんな事が起きても、医者や政府は動く気配もない。ううむ。なんなんだ、この脳天気さは。
取材陣が殺到し、家に閉じこもっていたのだけれど、ある日、話を聞きつけたパコが戻ってくる。…という辺りで、緊張感も完全になくなり、ふっ、としばらくの間、睡魔に襲われて。はっ、と気づいたら取材陣に公開します、とリッキーに紐をつけてでてくるところだった。5分ぐらい寝たのかな。(どうやらこの間に、カティはリッキーの羽根を切り取ろうとして失敗しているらしい。で、報道陣にお金をもらって公開することを決意した、ようだ)
で、みんなの前で飛ばすんだけど、見とれたカティは紐を放してしまう。って、アホという設定ですか、このカティという女は? あー。うんざりしてくる。池まで追い、池の中に浸って腑抜けになったようなカティが家に戻ってくる。だからどうした!
どうも、それ以降、リッキーは家に戻って来なかったみたいで。しばらくしてカティの前に姿を見せるのだけれど、カティに抱かれることなく、また遠くへ行ってしまう。おやおや。どうなっているのだ?
で、次のシーンは、パコがリザを学校に送っていくシーン。家には、腹の大きくなったカティがいる…というところでオシマイ。え? これでオシマイなのか? じゃ、冒頭のシーンとはどこでつながるのだ? リッキーはどうしちゃったんだ? なんなんだ、この映画!
というわけで、途中からトンデモ映画になったまま、あとは一気に突っ走りつづけて行ってしまった。とてもついていけない。
では、冒頭のシーンは、パコが家をでていった直後のことなのか? でも、パコがでていってもカティは意に介することなく平然と暮らしていたよなあ。子供を手放すとか、そんなせっぱ詰まった感じは見せていなかったぜ。それに、その時点だったら、背中に羽根が生えている。そんな子供を、預ける? 変だよなあ。じゃあ、どこにつながるのだ?
それとも、リッキー誕生のシーンから以降は、すべてカティの妄想だった、とか? でも、どういう妄想なんだ? 別に彼女は何かに怯えてもいなかったし、メランコリーにもなっていなかった。妄想に逃げる必要もないはず。じゃ、やっぱり、最後の妊娠は、リッキーの次の子供? では、リッキーは本当の天使になって、どこかへ行ってしまった? ひょっとして、パコが天使で、そのタネをもらったから? うーむ、分からんし、もう、どうでもいい。結局、トンデモ映画だと思うから。
●あるサイトである人が、リッキーは障害者として生まれたのかもしれない、ということを書いていた。なるほど。であれば、リッキーがどこかに行ってしまうのは、赤ん坊のときに死んでしまった、ということか。それはそれでひとつの解釈だな。

 
 

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