抱きたいカンケイ | 5/1 | MOVIX亀有シアター3 | 監督/アイヴァン・ライトマン | 脚本/Elizabeth Meriwether、Michael Samonek |
---|---|---|---|---|
原題は"No Strings Attached"。逐語訳では「糸がついていない」だが、「条件が付いていない」「これだけでいい?」というような意味になるらしい。で、ここでは「カジュアルな関係でもいい?」というニュアンスがあるようだ。無条件のセックスということで、男に都合がいい関係みたい。ところが…。 ナタリー・ポートマンのラブコメである。彼女のラブコメ? ちょっと考えちゃうよね。知的な美形のナタリーが、コメディ? ドリュー・バリモアならわかるけどさあ。がしかし、ちゃんと仕掛けは用意されてあった。 エマ(ナタリー・ポートマン)とアダム(アシュトン・カッチャー)とは幼なじみ。15年前(14歳)のキャンプでアダムが「さわっていい?」と聞くと、即座に「ダメ」とつっぱなすようなエマだった。5年前、パジャマパーティで再会したときは大学生。エマはMIT。アダムはアリゾナ大(?)。1年前に再会したとき、エマはインターン。アダムはテレビ局のアシスタント。アダムには恋人もいた。が、その恋人がアダムと別れ、なんとアダムの父親と結婚するかも、という話で大荒れ。泥酔したアダムは女友達に電話をかけまくり、相手にされずにエマに緊急電話をかけた、らしい。そこで愚痴を言いつつ裸踊りまで…。もっとも、エマは同僚4人と家をシェアしていて、そのみんなの前で、らしいが。落ち込むアダムだったけれど、出勤前のエマといい関係になって、セックスしてしまう。おやおや。この件り、よく分からなかったんだけど、どうしてエマはセックスする気になったんだ? しかも、「間に合わないから45秒でイッて」なんていうようなセックスを? それがこの映画の最大の疑問なんだがね。 エマはどうやら、男女が恋愛関係になることを避けてきた気配がある。デイトしたり見つめ合ったり添い寝したり、そういうベタベタした関係や行為が、嫌いらしい。それなら、なぜそうなったのか、を少しだけでも描いてくれてもよかったような気がするんだけどね。 で、エマは単なるセックスとしか思っていないのに対して、アダムは恋人を失った直後でもあるし、昔から悪く思っていなかったせいもあるのか、少しだけアプローチしてくるようになった。でも、エマは病院での仕事がハードで、つきあっているヒマがない。そこでエマはセックスだけの関係を提案し、アダムが乗る、ということになる。多くはエマが電話し、アダムがいそいそでかけ、病院の仮眠室やあちこちで一発やって、さっさと帰る、というもの。ううむ。エマはそんなにセックスがしたいのか? セックス依存症ではないのか? と思うぐらい、アダムを呼びつけるのだ。 で、エマの周囲には高学歴の同僚もいたりして、アダムはいささか心配になっている。このあたり、エマに振りまわされる男の心理が面白く描かれている。同僚の一人に、アダムがいわれる。「いまは君とセックスだけの関係を保っているかも知れないが、将来彼女は僕の妻になる女性だ」と。彼はハーバード卒の医者だけれど、女性をそんな風に見られるなんて、自信満々だね、というより、達観しすぎてないか? 若い男とヤリまくりの女性を、妻に迎えてよい家庭を築ける、と思っていることが、ううむ。恋愛、あるいはセックスと、家庭/妻とは別のもの、という見方があるのかね。 その後は、少しずつエマが心変わりしてくるんだけれど、そんな自分を認めたくない自分がいるせいか、アダムに決別宣言。しかし、妹の結婚式で、妹に強く勧められ、アダムに電話。けれど、すげなくされ、ハートに火が点いた感じ。クルマをとばしてアダムの家に行ったら、アダムは同僚の堅物女性となにする直前で、泣きの涙で帰路についた…はずなんだけれど。ここで、都合よく(ラブコメだねえ)アダムの父親が急病で入院し、その情報がエマの同僚からエマへ。病院で再会して、ハッピーエンド!という、ラブコメの王道を踏襲しながら、いろいろと興味深い描写があったりして、面白かった。 アメリカ映画って、底辺の、もうどうしようもない家庭が題材だったり、南部の保守的な町がでてきたり、出口の見えないようなどん詰まりの状況が描かれていたりと、種々雑多だけれど。ラブコメに限っては都会のインテリがモチーフになってること、多いよね。まあ、ドリュー・バリモアみたいな半分アホな肉体労働者っていう場合もあるけどね。で、この映画も、アダムはテレビ界の大物司会者(?)の息子で、アシスタントをしているけれど暮らしに困ることはない。エマはMITの医学部(なんてあったんだ)のインテリ。現実からはほど遠い連中ばかりがでてくる。まあ、生活苦からは恋もコメディも生まれない、ということなのだろう。 以下、いくつか面白かったことを。 ・エマが母親とその彼氏と一緒のクルマで妹の結婚式に向かうのだけれど、母は「彼はベッドの上では凄いのよ」なんてことを娘にいう。ううむ。そんな親子がいるのか? ・そのクルマなんだが。アダムの愛車はちょっと古いBMW。ハーバード卒の医者はトヨタのプリウスで、これに乗ってると環境に配慮したやつ、と見られるようだ。エマがアダムに会いに行くとき飛ばすのが、アウディ。と、アメ車がメインででてこない。うわ。こういう状況なんだな、アメリカのセレブの世界って。 ・周り近所が同性愛ばかり! ハーバード卒も、やっぱり同性愛? その率たるや30%ぐらいいってるんではないの? まあ、セレブな世界に限ってのことかも知れないんだけど。 ・おかしなキャラがたくさん登場。テレビ局のスタッフで、やたら写メする中国人(?)が面白い。自分のチンポ撮ったのを女性陣に見せるのはどーかと思うけど。プロデューサーに「仕事はできるんだけど・・・」なんていわれてたけど、何の担当なんだろ? 居酒屋店主の黒人は「俺の顔を見ろ」というのかせ口癖? メガネのプロデューサーは、堅物なのかなんだか分からないけど、アダムに気があるみたい…。でも、これまたアダムの父親と関係をもっちゃうんだよなあ。アダムの同僚と、エマの同僚の女性医師は、まっとうなつき合いを重ねていって、ゴールインの模様。アダムとエマの関係に対比しているのだろうけど、この進行も面白い。 ・そういゃ、妹の亭主はインド系?だったな。 ・ナタリー・ポートマンは、頭がでかい。というより、手足が短いのかも知れないけど、華奢なんだね。顔つきの立派さと較べると、とても違和感。 | ||||
ルイーサ | 5/4 | ギンレイホール | 監督/ゴンサロ・カルサーダ | 脚本/ロシオ・アスアガ |
原題は"Luisa"と、まんまである。アルゼンチン/スペイン映画。舞台はアルゼンチンのブエノスアイレス。設定も展開も面白いんだけれど、あちこちに突っ込みどころが満載。真面目なドラマなんだかコメディなんだか分からなくなる部分もあったりして、いまひとつ説得力が足りない。けれど、曰く言いがたい魅力というか、捨てがたいものがある映画だった。 猫と暮らすルイーサ。毎日決まった時間にでかけ、墓参りをしてからオフィスに座る。客はほとんど来ないみたい。なんの店だ? と思ったら、私営墓地だった。管理ではなく、販売の方らしい。あと1年で定年で、30年間勤務。現社長の父親の代からで、ルイーサの家族の墓もこの墓地にある…。が、若社長が経営改善するからと突然ルイーサを解雇してしまう! ルイーサは、もうひとつ有名女優クリスタルの家政婦もしていたらしい。けど市内のマンションを引き払って郊外に移るので、辞めてくれていわれる。2つの仕事を一挙に失ったルイーサ。金に困って地下鉄で物乞いを始めるが…、という話。 ルイーサには夫と娘がいたけれど、事故か何かで失い、以後1人暮らし。墓が勤め先の墓地にあるのだから、30年以内の出来事なんだろう。娘は5、6歳ぐらいだった。ってことは、少なくとも30歳前ぐらいに子供を産み、30代半ばで1人暮らしと考えるのが妥当だ。時代は1980年前後。しかし、ルイーサにはいろいろ不自然なことが多い。 ルイーサは地下鉄に乗ったことがなかった。ずっと家と勤務地である墓地をバスで往復するだけで、他に出歩いたことがないみたい。って、信じがたい。偏屈ババアで世間を断っているならまだしも、かつてはフツーの家庭があって、それで地下鉄を知らないというのは変だよな。Wikiには、アルゼンチンの地下鉄は1913年にできたとあるぞ。 ルイーサは、なぜ物乞いする必要があったのだ? 30年間、ほとんど浪費してこなかっただろうに。貯金ぐらいあっても不思議ではない。会話の中に借金があるとはいっていた。では、何の借金だ? それには言及がない。それに、住んでいるのは管理人付きのアパートだけど、あれは単身者用なのか? 立派に見えるけどなあ。なんか、日銭で毎日暮らしていて、いったん収入が途絶えると絶望的、みたいな暮らしをしているようには見えないのだが。 ルイーサは、社会常識なさすぎ? 銀行から、口座管理料は会社が払っていたが、これからは自分で払うことになるがどうしますか? の通知がくる。それで支店長に会わせろと粘ったりする。銀行が退職金のことに関係ないぐらいのことが、分からないのかね。労働基準監督所とか弁護士に相談に行けよ、と思ってしまう。 電気を止められているのに「ヒューズが」なんていってるのも、あり得ない。第一、管理人がいるのだから、ヒューズぐらい直せちゃうだろう。っていうか、ブレーカーもなく、いきなりヒューズなのか? アルゼンチンは。 ルイーサには、家族親戚はおらんのか? いないということにしないと話が成立しにくいからだと思うけれど、それなりの理由が必要だよなあ。 というように、杜撰な部分がたくさんある。これを解消するような理由をちゃんと前提として述べないと、説得力が薄くなる。というか、半分以上コメディに見えてしまった。いや、コメディ路線を狙っているのかな、と思ったぐらいだ。 それでも、60歳で収入の道が途絶え、職安に行くという発想もなく(あれば、トイレ掃除ぐらい見つかるはずだけれど、現在のアルゼンチンは極端な不況のようだしなあ…)、うろたえつつも元気に物乞い生活に突入するという話は面白かった。 最後、猫を引退女優の焼却炉で焼き、遺灰を勤めていた墓地の、夫と娘の墓石の横に埋めて(もっと深く彫らないといかんと思うぞ)、満足げに戻っていく姿で終わる。しかし、それじゃ何も問題は解決してないだろ! 生活費はどうすんだ! せめて退職金をとるとか、次の仕事が見つかるとか、未来につなげたいよな。それがないと、ルイーサの将来が気になって気になって…。 それにしても、彼の地の地下鉄にはあんなに物乞いがフツーにいるのか? 車両にも。 ホームにある売店が、壁にものを並べていたりと、凄い格好になっているのが驚き。 | ||||
八日目の蝉 | 5/6 | 池袋東急 | 監督/成島出 | 脚本/奥寺佐渡子 |
予告編でもしっかり言っていたし、宣伝コピーも「優しかったお母さんは、私を誘拐した人でした。」だった。この事実は映画が始まってすく分かるとは言っても、原作を知らない人には意外なことでもある。あえて言わなくてもよかったんじゃなかろうか。事実、映画が始まって裁判証言が始まるのだけれど、どうやって誘拐されたのか、いつ解放されたのか、というようなことを考えつつ見ていったので、冒頭に意外性もなく、つかみ、もなかったように思う。どうやらテレビドラマにもなっていたようなので、多くの人が知っていることなのかも知れないけど、知らない人だっているんだから。 で。全体の感想をいうと、だらだらとメリハリがなく、ヤマ場もなく、だらーんとして、ムダに長い2時間半だった。ひとつひとつのカット尻がながくて、ちょっとうっとうしい。もっと畳みかけるようなテンポのある部分と、じっくり見せる部分と、描き分けた方がよかったんではないのかな。 いっぽうで、クレーンを使って寄っていったりする部分が何カ所かあって、丁寧に撮ろうとしているな、と思った。それでも、だらだら感はぬぐえないけどね。 秋山丈博(田中哲司)と恵津子(森口瑤子)は夫婦。丈博は野々宮紀希和子(永作博美)と不倫していて、「結婚する」とつねづね言っていた。妊娠したが中絶し、子宮なんとかで子供ができない体になってしまう。ところが丈博と恵津子には子供が生まれ、別れ話も…。生まれた子供の顔をひと目見ればふっきれる、と丈博の家を訪ねたが、ひとり残されていた赤ん坊を思わず奪って逃走してしまう…というのが発端。 最初に裁判シーンで、希和子の陳述と恵津子の「死ね」という逆上の様子、が描かれる。で、時間が遡り、誘拐のシーンへ。以降、逃亡の様子と、現在の秋山恵理菜(井上真央)をめぐる状況が交互に進んでいく。あらゆる部分で突っ込みが足りず、中途半端。にもかかわらず、描写はだらーんとゆるい。もっとガツガツひっかかりながら描いていけよ、という気分。 本来この物語は、子供を他人に奪われ、結果的に、本当の親になつかなくなった子供をもつことになった親の葛藤。注がれた愛情が、実の母のものではなく、誘拐犯という他人のものだったという不条理を抱えつつ育っていった娘。の、物語のはずだ。他人の子供を奪った女の身勝手もあることにはあるが、それはきっかけにすぎない。ところが、壊れてしまった家庭の様子は、パターン的にしか描かれないのだよ。 たとえば、娘を奪われた恵津子は逆上のワンパターンでうんざり。亭主の丈博はそれを止める役目。まあ、丈博の浮気がそもそもの原因だから希和子を責めにくいのかも知れないが。しかし、希和子の裁判に丈博と恵津子がそろってやってくるって、そんな義務があるのかい? かえってマスコミにコメントを求められたりするんじゃないのかね。で、裁判に出ているときは、娘の恵理菜はどこに預けていたのだ? 恵津子は、誘拐された子供はとりあえず忘れて新しい子供をつくったら、といわれ、「そんなことできるわけないじゃない」と応えている。うーむ。そうかなあ。そうでもないと思うがなあ。女性一般というより、恵津子個人の問題のような気がするんだがなあ。 そういえば、事件後もずっと秋山家は同じ所に住んでいたようだ。マスコミのおかげで亭主は転職を繰り返し…といっていたけど、よく同じ家に住みつづけられたね。周囲の目は気にならなかったのね。それと、住宅地の一戸建てだから高額なローンを組んだのではないかと思うのだけれど、よく払いつづけられたね。いや、それより、よく丈博と恵津子は離婚しなかったな。なんていうことを思った。 希和子は最初に友人を頼り、さらに大阪に行ってオーガニックをめざす宗教団体のコロニーにもぐり込む。それで恵理菜が3歳ぐらいまで過ごす。のであるが、きっかけが宗教団体の自然食販売車なのだ。コロニーは俗世から隔絶した空間のようだけれど、営業活動もやっている。というところが、なんか不自然な気がした。だって、そんなところでつくってる野菜なんて、誰も買わないだろ。マハーポーシャのコンピュータだって、一般人は買わなかったぞ。そのコロニーは女性だけで、問題ありの女性がほとんど。しかし、子供が学齢期に達したら就学させなくてはならないはずで、その部分はどう克服していたのだろう? そんな問題が発生する前に、あの団体は解散させられてしまったのかい? 手入れがある(具体的には描かれていない)というので、希和子と恵理菜は逃げ出す。のだけれど、コロニーで着用の、麻みたいな衣服なんだよ。しかも、ほとんど手ぶら。それが、コロニーで一緒だった女性沢田久美の実家のある小豆島まで、どうやって行けたのだ? まず、お金。衣装。その他その他。しかも、希和子は指名手配中なんだろ? あの顔じゃ、すぐ見つかっちゃうよ。福田和子を見習って欲しいものだ。 で、偶然にも沢田の実家が素麺屋で、住み込みで働けることになるという幸運が! って、都合よすぎ。しかも、ラストにつながるんだけれど、20歳の恵理菜はこの島を訪れ、「ここに帰りたかった・・・」と泣き崩れるのだ。げ。この地に、そんなに思い出があるようには見えなかったがね。もしかして、母親と思っていた希和子との、変温無事な数年の生活が、忘れられないということを言っているのか? それにしたって、4歳ぐらいまでの記憶だろ? そんなの、あまり覚えていないと思うけどな。しかし、この終わり方は、なんとも尻切れトンボ。なにも解決することなく、すべてがほったらかしのまま終わってしまっている。こんなんでいいのか? そうそう。現在の恵理菜が行ったら、世話になった沢田家は「売り家」状態だった。なんで? 事件に関わったからってことはないよなあ。変だよなあ。それにしても、小豆島のあんな古い家、誰が買う? 「売り家」の貼り紙に、どれだけの意味があるのだ? 映画的に分からせるだけの手法だよな。陳腐。 で。現在の恵理菜は大学生。で、妻子持ちの岸田(劇団ひとり)と不倫中で、妊娠する。希和子と違うのは、堕ろさずに生むという点だが、こういう設定はありがちというか、頭でつくった構造という気がして説得力がない。これは原作のせいだろうけど、潜在的に子供は親の真似をする、なんていうことを言いたいんだろう。陳腐な設定だ。 恵理菜に接近するのが安藤千草という女性(小池栄子)で、恵理菜のことを書きたいらしい。千草は恵理菜の住まいも知らないのに、バイト先の居酒屋にやってくる。おい。どうやって見つけたんだ!? で、恵理菜は簡単に千草に心を許し、あれこれしゃべり、なんとコロニーの跡地に一緒に行ってしまう。って、フツーありえないだろ、そんなの。自分のことを書いて金儲けしようというようなやつに、話なんかしないと思うぞ。とくに恵理菜みたいな性格だったらね。で、その後、千草は自分も昔コロニーにいて、恵理菜と一緒に遊んだ、と告白。まあ、理解できないではなくなったが、なら最初からそういえばいい。わざわざコロニーまで行って、そこでやっと関係をいう意味が分からない。それに、コロニーで暮らしたせいで性格も引っ込み思案。男に関心が持てず…なんて言っていたが、いくらだからって、腰のひけた演技(たとえではなく、及び腰の姿勢になる)は、あまりにもパターン的すぎるだろ。 それでまあ、恵理菜と千草は小豆島に行き、沢田家の跡地を訪ね、写真館で希和子と一緒に撮った写真を見る。主人は恵理菜の顔を見て15年以上前の記憶を呼び戻し、ネガをもってくる。プリントは5年前に希和子がやってきてもっていった、と。うへー。まず、希和子が素顔で小豆島に渡り、写真館にやってきたというのは、冒険だろ。あの事件の犯人がやってきたのだ。2年ぐらい住んでいた土地に、そう無防備にやってこられはしまい。そういえば、逮捕のきっかけになったのは島の夏の行事に参加していた希和子と恵理菜がアマチュアカメラマンに撮られ、コンテストで佳作になったことだ。ちょっとマヌケすぎないか。連想したのは松本清張に「顔」という短編。カメラマンが近くにいるのを知りながら撮られたようなものだから、浅はかとしかいいようがない。 それにしても解せないのは、恵理菜の心。4歳までの記憶というのは、そんなに強烈なものなのかなあ。そもそも育ての親が誘拐犯とは知らないのだから、実母が育て始めたとしても案外と早く慣れるのではないだろうか。戦乱の世にはそんな例はいくらでもあったろうし、中国大陸でもあったろう。幼児のトラウマになるほど、の、ことか? 観客あるいは読者は、「誘拐犯」という設定に騙されているような気がしてならない。あるいは、恵理菜が異常に記憶力がいいとか。島の様子を覚えていたり、写真館のことを思い出したり。私にはあんな芸当は、できそうにない。 タイトルにもなっている「八日目の蝉」。7日で死んでしまう蝉が8日目を生きたら、他の蝉が死んでしまっているのに自分だけが生きているので寂しい、といっていた。でも、あとから、他の蝉が見ない世界を見られるのだから仕合わせ、とも言っていた。その意味がよく分からない。蝉は、恵理菜のことなんだろうけれど、単純に、他の人が体験していないことを体験すること、を指しているのかい? 分からん。それに、みんな一斉に生まれ、8日目を迎えたなら、自分一匹生きている、ということが分かるかも知れない。でも、蝉は次々生まれて死んでいく。だったら、今日が何日めかなんて気にしないだろ。後から生まれた蝉が元気に鳴いているのだから。違うか? というわけで、真面目な映画にしては穴がありすぎるような気がする。千草の本当の目的は何なのか? あの後、千草は恵理菜と自分の話を書くのか? 岸田は、簡単に恵理菜を諦めるのか? そんな感じでもなさそうだったけどなあ。丈博と恵津子は、この後も夫婦をつづけるのか? 沢田家はどうなったのだ。コロニーから戻ってくると言っていた娘は、どうなったのだ? どっかで無事に暮らしているのか? など、散らかりっぱなしで、収拾されていない。なんか、いい加減。 そういえば、写真がひとつの鍵にはなっている。カメラマンに撮られて行方が発覚。そして、写真館で撮られた記憶。いずれも島での出来事なのだが、それ以上には言及されていない。きっと監督が大して考えずにつくっているからではないのかな。奥行きの浅い映画ではあった。 3歳児の娘の挙動は、自然でとてもよかった。けれど、4歳児の娘は顔が男の子みたいで、あまり可愛くない。まあ、男の子の衣装を着ているから、なんだろうけど。ううむ。永作博美の、すっぴんみたいな顔はすっぴんなのか、いっぴんみたいにメイクした顔なのか。ちょっと知りたい。 | ||||
まほろ駅前多田便利軒 | 5/9 | シネ・リーブル池袋1 | 監督/大森立嗣 | 脚本/大森立嗣 |
不思議なテイストをもった映画で、中盤過ぎまで面白く見た。後半になって犯罪がらみになってくると、いささか話が散漫になってしまう。惜しい。不思議な感覚で最後まで押し通せたら、いい映画になったと思うんだが…。 大森南朋と麿赤兒がでてるんで「?」と思っていたら、監督が息子だったのね。で、「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」の監督なんだ。ははあ。なるほど。台詞が巧みなわけだ。それに、伏線の張り方が気が利いていて、ちゃんとあとから「なるほど」になる。こういう部分は、上手いね。 東京が神奈川に突きだしている町といったら、町田だ。まあ、地理的には神奈川だけど、行政的には東京。その中途半端がこの映画の根底にある、ってことだろう。で、多田啓介は便利屋の個人営業。ある女性から犬を預かり、他の仕事もこなしていく。…のところで、女性が泣いているシーンが挿入されていたのだけれど、あれは、犬の女性だったのか? よく分からなかった。…で、バスが間引きしていないか調査しろ、という仕事を終えて帰ろうとして、かつての同級生の行天春彦(松田龍平)と出会う。行天は「泊めてくれ」というが啓介は断る。のだけれど、かつて技術家庭の時間だかにふざけて、行天の小指に傷を負わせた過去があるので、泊めることにする。というわけで、行天が多田便利軒の居候になる、というところから話が始まる。 以降、コロンビア人の売春婦や、小学生の塾の迎えだのの仕事をつづけていく。この過程は、なかなか面白かった。行天の、ふわふわした感じ。松田龍平の演技もふにゃふにゃしていて、とらえどころのない人物を演じている。真面目なのか本気なのか、何を考えているか分からない、とても曖昧でつかみどころのない人物。それに対して、割りと真面目だけれど、妙に明るくない啓介。このコンビが、結構、絵になっている。ケンカしても本気にならず、啓介がムキになっても行天がひょいとかわして笑顔で受け止める距離感。なかなかいいコンビ。C3POとR2D2か、藤原釜足と千秋実か。 いまどき、2人とも煙草を吸う。ヒゲも生やしている。長髪で、普段着。それはある意味、世間からはみ出ているという証拠だ。それでも、2人ともに結婚歴があり、行天には娘がいて、啓介にも子供がいるらしい(?)暗示がなされるのだけれど、啓介は話したがらない、という設定。そういう背景にありながら、啓介は社会正義を説いてしまったりする。たとえば、塾からの迎え仕事をする対象となった由良という小学生にであったりする。「お前は親から与えられてないかもしれない。でも、お前はこれから誰かに与えることができるんだ」といいつつ、自分は他人になにも与えていないことを反省したりする。この後ろめたさも、伏線だ。それ以前にも、預かっていたチワワが震えることを心配し、深夜に動物園に電話したりするのだけれど、これも、実は啓介と子供との関係を暗示する伏線だった。何気ない伏線の張り方が、実に巧妙。 そんな凸凹コンビのお話も、中盤を過ぎると周囲がきな臭くなってきて、のほほんと楽しんでいられなくなる。それはたとえば、小学生・由良あたりからジワジワやってくる。由良が、2人に迎えに来られると迷惑なわけ。それは由良がステックシュガーに見せかけたクスリをバスの中に隠している行為から発覚する。…このシーンで、何気にバスに乗り込んでくる男の横顔が岸部一徳なのだが、その後、ずっと登場しない。どういうことだ? と思っていたら、後半になってでてきた。ほっ…。で、クスリの売人が由良に小遣いを与え、手先にしていたのだ。これ、もっと衝撃的に描いてもいいと思うんだけど、あんまりそうは見えないのだよね。その事実を知っても啓介と行天はあまりうろたえないし、売人の星という男とも危険な関係にはなっていかない。この辺りが、いまいちスリリングに盛り上がらない理由なのかも。 山下、という青年が登場する。2人が食事する中華屋で、母親を罵倒して金だけ持っていく男として、背景のように登場する。と思ったら、山下は星の組織の売人らしく、ちょっと変なやつらしい。というようなことは分かった。けれど、一方でコロンビアの売春婦(?)ハイシーさん(鈴木杏)のストーカーとして登場し、挑発した行天が山下に刺されるという件りがある。ということは、山下は売人として2人に接近したわけではない…のだよな。なのに、刑事(岸部一徳ら)が2人の周囲を洗い出しはじめる。ううむ。この流れは、いまいち説得力がないんじゃないの? 最後は、山下が義母に優しくするようになったという心温まる(?)話になっているけれど、では、山下が行天を刺した一件はどうなったのだ? どういう位置づけなのだ? いまいち分からん終わり方だ。 由良の一件も、放り投げっぱなし。由良は母子家庭で、母親は勤め人。そこで迎えが必要らしい。で、由良のもとに星たちがやってきて、それはどうやら砂糖に誤魔化した覚醒剤を回収にきた様子。このとき、啓介と行天は軽トラに乗っていて、前に駐車していたクルマにクラクションを鳴らすのだが、速攻でてきた男たちにフロントガラスを割られる。思わず啓介が「なんじゃ、こりゃ!」と叫ぶと行天が「似てねえよ、ぜんぜん」と言うのが大笑い。松田優作の「太陽にほえろ!」の殉職シーンの台詞なんだもんなあ。で、2人は星に、クスリは返すから、というのだけれど、弁当屋で大量の弁当を同時に買うことを要求する。さて、弁当を買いにやってきたのは、なんと、小学生の女の子2人! ってことは、由良と同じ進研ゼミ(だっけ?)に通ってる学童の多くが、売人の手先として動いてるってことだよなあ。その驚きがあるのだけれど、以後、この話はまったく追求されない。でも、それでいいのか? 実は、岸部一徳らの刑事が接近してきたとき、そうした流通ルートにも操作が及ぶのかと思ったら、そうはならなかった。うーむ。そりゃマズイだろ。 でまあ、岸部一徳が「多田さん。あなた、お子さんを亡くしてますね」と鋭いことを言うのだけれど、でも、その後に啓介が告白する、赤ん坊を亡くした一件と、刑事が追求しているよく分からない容疑とについては、なんの因果関係もないのだ。だから、刑事が啓介に接近する理由に説得力がない。たんに、病気で子供を亡くした、というだけのことなのだもの。ま、チワワの震えを心配したのは、子供を亡くした一件が重なってのこと、というのは説得力あったけど。 むしろ、行天と元妻(本上まなみ)との一件の方が興味深い。その本上まなみが啓介と会って事情を話すシーンと、行天が山下に追われる場面がオーバーラップする。だけではなく、本上まなみが事情を説明する台詞が、行天と山下のシーンにかぶってくると言う、重層的で変わった表現をしているのが面白かった。というより、くらくら戸惑った。だって、画像と台詞が違うんだぜ。情報が多すぎて処理に困るよ。でも、スリリングだった。 てなわけで、刺された行天は命に別状なく、相変わらず啓介のところに同居するのだけれど、2人の、妻や子供に対する考え方にズレみたいなのが見えてきて、啓介が行天に「出ていってくれ」という。でも、2ヵ月後の年末、冒頭と同じバス停で2人は再会し、なんと、啓介が「バイト募集中だ」と行天に言う、というところで終わっている。この偶然はなんなのだ? いや、そもそも行天は実の親に虐待された、という設定。でも、具体的には分からないけど。で、最初に再会したときは、両親を殺そうとしていたけれど、果たせなかった、ということらしい。ふだん行かない両親の元に、1年後、行天はどういう理由で訪問していたのだろう? ということがまず先に頭に浮かんでしまった。それが解消できなけれは、2人の再々会には説得力がない。なので、この終わり方はしょぼすぎる。 屈折した行天の、妻との関係も奇妙。「子供はいるけど、会ったことない。女の子らしい」という行天の言葉に疑問を感じていた啓介も、本上まなみの説明で納得はするのだけれど、観客には物足りない説明でしかない。だって、製薬会社の営業が内科医の本上と結婚し、子供? と思ったら、なんと、本上はレズビアンで。ぜひとも子供が欲しいからと行天に相談し、行天は精子を提供。でも結婚はした、ということをいっていたような…。試験管ベビーなのに、籍を入れる必要はあったのか? ううむ。意味が分からない。中学生のときは無口で陰気だった行天が、どうして減らず口になったのか。会社を辞めたのはなぜか。本上や娘に対して、なにを思っているのか。というようなことが伝わってこなかった。 というわけで、後半になると話が散らかりっぱなし。ストンストンと話が落ちていかないので、どーもスッキリしないのであった。ううむ。もったいない。 最後に流れる歌が、モンキーズの「デイドリーム・ビリーバー」(だっけかな)に似ていた。くるり、の歌らしいが、どうなんだろう。 | ||||
ミスター・ノーバディ | 5/12 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター1 | 監督/ジャコ・ヴァン・ドルマル | 脚本/ジャコ・ヴァン・ドルマル |
原題も"Mr. Nobody"。フランス/ドイツ/ベルギー/カナダ映画らしいけど、舞台はイギリスだよな? ある男性の、めくるめく人生を走馬燈のように見せる。のだけれど、人生の分岐点における"たられば"によって、複数の人生が発生し、それが同時並行的に進行する。しかも、時制が少なくとも3つあり、1つは着々と進行する。しかも、時制を行ったり来たり! なので、見終わったいまでも相当混乱している。いったい、どのシーンとどのシーンがつながっていていたのだ? と。それでも疾走するような感覚は刺戟に満ちていて、快感だった。 最初に鳩の実験の話。アクションによって餌が出るようにしておくと、鳩は覚える。でも、一定の時間に餌が出るように設定しておくと、鳩はそのたびに驚いて羽根をバタバタさせる。そのうち鳩は、羽根をバタバタさせると餌が出るものだと思い込んでしまう。という教訓話がある。これは、何をいいたかったのかな? 2009年、ニモ34歳だっけかな。いったん死ぬのだけれど、目覚めると老人になっている。西暦2092年の世界で、ニモは117歳。セックスも肉食も禁止された世界。テレビが「地球最後の人間の死」が近い、と生中継している。Webサイトをみたら、「人間が死なない世界」と書いてあった。ふーん。そうだったのか。で、過去を思うニモ。 父親と母親の出会いから、ニモの誕生。両親の離婚。そして大きな分かれ目となるのが、列車で去っていく母親についていくか、父親と残るか。この2つの話が進んでいく。さらに、ニモには幼なじみの女の子が3人(アンナ、エリース、ジーン)いるのだけれど、このそれぞれと結婚した場合・・・という岐路がある。そうやって複雑な人生が織りなされ、錯綜し、117歳の現在になったり、過去に戻ったりと、忙しい。その映像の奔流が気持ちよく刺戟してくれた。 母親と暮らすニモ。母親は再婚し、相手には娘がいる。それが、たまたまアンナだった。アンナとニモは愛し合うが、両親の再度の離婚によって離ればなれになってしまう。父親と暮らすニモ。父親は病気になり、ニモが世話をする。ニモはエリースと再会し、半ば強引につきあい始める。結婚したものの、不幸な結末を迎える。東洋人のジーンと結婚したニモは、どのニモだったんだろう? いちばん描き込まれるのは、9歳と15歳のときのアンナとの関係で、次がエリース。ジーンとの関係は、ついでみたいな感じ。なので、必然的にアンナに集中していくんだけど、9歳のアンナはひたすら可愛い。15歳のアンナは、美人ではないけれど、小悪魔みたいで魅力的。で、両親の離婚で別れてしまい、月日は流れて2009年。別の人と結婚しているアンナもいれば、そうではないアンナもいて。長髪で、その日暮らしをしているニモは、アンナの面影を追い求めている。そういうところに、クルマで水没する場面や銃で撃たれるシーンが挿入されて、こりゃもう1回でつながりは到底覚えきれない! 忘れてしまって書けない! で、ラストはどうなったんだっけ。偶然、街で再会した2人。でも、アンナにもらった電話番号が豪雨で消えてしまい…! でも、再会しようと言っていた灯台の近くのベンチで生活するように待ち続け、アンナと再会! めでたしめでたし。 117歳のニモも、さあ、死ぬぞ! とみんなが注視するのだけれど、死ななかったんだっけ? いやもう、映像と話の洪水に、頭がついていかない。 おもしろい表現が随所にある。ニモを追うカメラ。ニモが鏡の前に立つ。これを背後から映している。そのままニモは鏡の向こうの世界に行ってしまう。それを追っていくカメラ…。壁にもたれているニモとアンナ。そのまま倒れると、自室のベッドの上に…。舞台にいるアンナ(だったかエリースだったか)が、いつの間にか床屋の中になってしまう…とか、時空を超えるような感覚。 「チェスで大事なのは、動かぬこと」とか「人生が選択できるようになった」というような教訓もあったなあ。もしかして、すべては9歳のニモの想像の産物だったりするのか? ああ、こう書いていてもどのシーンの誰が何をしたのか、記憶も定かでなくなっていて。数回見ないと、アウトラインもつかめないかも知れない。でもま、それを知ったからといって、どうなるということもないだろうけど。 いろんな映画を連想する。2092年の、年老いたニモは「2001年宇宙の旅」そのもの。もちろん、宇宙船のシーンもある。台所のテーブルの上のセックスは「郵便配達は二度ベルを鳴らす」。書き割りの世界にいて、ドアを開けると海! というのは「トゥルーマン・ショー」。水没するようなシーンは「エターナル・サンシャイン」。本人が記憶を失って別の人生を送るようなところは、「マジェスティックス」。…と、ジム・キャリーの映画が多いんだけど、ニモ役のジャレッド・レトーはジム・キャリーそっくりなのだ。なんか関係あるのかな。過去の記憶が走馬燈のように展開するところは「ドニー・ダーコ」。人間が同じ模様のセーターを着ている場面は、どんな意味があるのだろう。どの映画の引用なのだろう? 他にも、いろいろあったと思うのだけれど、忘れてしまっている。ああ。愚痴になってしまっている。映画に翻弄された俺がいる! 音楽もよかった。いろんな曲がかかって、楽しい。でも、おそらくそれぞれに意味を持たせているはず。テーマ曲のようになっているのがコーデッツの「ミスター・サンドマン」。次に頻度が高かったのが、サティの楽曲だったかも。アンドリューズ・シスターズの「ラム・アンド・コカコーラ」もあったっけ。あと、最初の方でかかったジプシーっぽいのも、気になるなあ。ああ。意味が拡散して、とても追いつけない。 とはいうものの、1時間半目ぐらいからのエリースとのエピソードは暗く面白くないので、退屈だった。一瞬、寝落ちするかと思ったぐらいだ。それでも全体的に見ると、記憶に残る部分が多い映画だった。映画的知識・経験がないと、とても分からないと思う。分からないことが多すぎて、ついていけない! | ||||
秒速5センチメートル | 5/13 | キネカ大森1 | 監督/新海誠 | 脚本/新海誠 |
2007年製作のアニメ。背景が、ビデオ画像を取り込んでCG加工したような感じ。別の喩えでいうなら、エアブラシのスーパーリアリズムみたいなテイスト。なので、正直いって気持ち悪い。奇妙にリアルすぎる質感が、浮いている。それと、ほとんどの画面でパンフォーカス状態になっている。手前も最奥もピンがきているような描き方だから、情報が多すぎて目のやり場に困る。もっと焦点距離の浅いレンズ、という設定でやってくれないと、疲れる。映画は3話からなる。 第1話「桜花抄」。小学校の同級生2人、遠野貴樹と篠原明里。卒業と同時に明里は栃木に転校。1年間文通し、貴樹は会いに行くことにした。放課後、豪徳寺を出発。7時過ぎには両毛線・岩舟に着く予定が、大雪で電車が遅れ、到着したのは11時過ぎ(だっけかな?)。2人は駅を追い出され、路傍の小屋で一夜を明かすという話。 最初、中学卒業で、会いに行ったのは高一かと思い込んでいた。途中で、小学生と分かって冷めてしまった。色気づきやがって、ガキが、と。やってることは、中一のレベルを超えている! 貴樹のナレーションも、中学生のボキャブラリーじゃない! ひょっとして貴樹は明里の家に泊まるのかな? と思ったんだけれど、そうではなかった。娘が翌朝まで戻らなかったら家族は大騒ぎじゃないのか? もちろん貴樹だってだ。電車を乗り継いでいく様子は面白いんだけど、小学生なので新宿までも一人で来たことがないのに、やってることは、冷静に見れば変だと思う。「秒速5センチメートル」は、桜の花びらが落ちる速度らしい。 第2話「コスモナウト」。種子島。澄田花苗は転校生の少年に一目惚れし、勉強して同じ高校へ。彼は弓道部。その帰りを待ち伏せし、よく一緒に帰った。けれど、彼は東京の大学をめざす。でも、自分の将来は、決めかねている…という話。始め、1話とは関係ない男女の話かと思ってた。帰ってきてあらすじを見ると、転校生の少年は1話の遠野貴樹だったのね。ぼーっと見てたから、気づかなかった。転校先も鹿児島といっていたので、余計かも。もちろん種子島は鹿児島だけど、でも、やっぱ違うだろ。 こちらは貴樹が一方的に惚れられるだけの話なんだけど、傍目に見て2人はしょっちゅう一緒なので仲がいいとしか見えない。だけど、花苗は「告白しなきゃ」と思い詰めている。マンガやアニメにありがちな設定だけど、説得力が足りない。だいたい男子は、男同士でつるむ。帰りに女の子とバイクで並走なんてしたら、即刻うわさでもちきりだ。でもそういう気配もなく、花苗だけが悩んでいる。なんかよく分からん話だ。花苗の進路についても、母親は無関心。花苗の姉に「話を聞いてやれ」というのも、どうかと思う。親だろ、あんた! と。花苗が夢中になっているサーフィンにどういう意味があるのかも分からない。さらに、落ち着き払って影のある花苗の姉は、どういう存在なのだ? そもそも、仕事は何をしているのだ? 宇宙開発事業団の打ち上げがでてくるけれど、そっち方面? そういやあ、ロケットを乗せたトラックは「時速5キロ」っていってたっけかな。これは、「秒速5センチメートル」に対比させているのかな? そういえば、出すアテのないメールを打つようになったという貴樹だけれど、彼の頭の中には、明里のことはなくなってしまっていたのか? 第3話「秒速5センチメートル」。遠野貴樹は大学を出て、プログラマーになったらしい。でも、単調な日々に嫌気がさして、会社を辞めたらしい。ありきたりな展開だな。いっぽう、1話に登場の明里は、もうすぐ結婚らしい。貴樹は明里の面影を追いながら、空しい日々を送っている…という話。そこに、過去の思い出がぐちゃぐちゃとインサートされる。で、だから、なに? という風に思ってしまう。 中学や高校で、この人は、と思ってはいても、時が来ると忘れてしまう、ということは誰にでもあること。でも、このアニメからは、切なさや哀しさというのが滲んでこなかった。通り一遍な感じで、グサッとこないのだよなあ。設定に曖昧な部分が多くて、人物の造形の掘り下げがいまいちなところが原因なのかなあ。ううむ。 | ||||
雲のむこう、約束の場所 | 5/13 | キネカ大森1 | 監督/新海誠 | 脚本/新海誠 |
2004年製作のアニメ。これを「秒速5センチメートル」の後に見たのだけれど、パンフォーカス的な表現がないので見やすかった。ってことは、悪い方に進化してしまってるってことか? この監督。 ごくフツーのロマンスかな? と思って見始めたんだけど、「塔」だの「軍需工場」なんていう言葉がでてくる。ってことは、未来の話か、たられば物語か? なんなんだ? でも、舞台の背景については、きっちりとした説明がない。おいおい分かってくるのは、日本が南北に分断され、北海道はユニオンという組織に。以南はは日米で管理しているらしいこと。さらに、北の中心部に塔が建てられていて、その周囲10キロ圏内が平行世界(?)に移行いているというようなこと。 浩紀と拓也は2人で飛行機をつくっていて、それで塔に接近しようと企んでいた。2人は高校生かと思っていたら、なんと中学生だった。で、佐由理という少女が絡んできて、いつか佐由理を乗せて塔へ、なんていう話になってくる。男2人に女1人、飛行機とくればまるきり「冒険者たち」だな。しかし、中学生が飛行機をつくるというのも信じがたいし、国境を越えて塔に迫るというのもアホみたいな話。さらに、2人を応援している鉄工所みたいなところのオヤジが出てきたりして、リアリティはほとんどない。 で、時代は過ぎていって、拓也は研究員に。浩紀は上京して音沙汰知れず。そして、佐由理はいつ頃からか行方不明、という現在になる。ここが、かなりの飛躍だな。ある手紙の存在から佐由理の居所がわかり、拓也が会いに行くが転院の後。調べると、佐由理は睡眠状態で、これによって塔の平行世界拡大を阻止している、だっけかな。でもって拓也は、佐由理を飛行機に乗せて塔に近づけば佐由理が覚醒すると信じ込み、そうしようとする。浩紀はそれに反対するのだけれど、開戦後、なんとなく黙認で拓也と佐由理の飛行を許してしまう。2人が塔に向かって飛んでいき、佐由理が覚醒し、抵抗が無くなったために塔の平行世界の拡大が始まる。けれど、鉄工所のオヤジはたちのテロで塔が爆破されて、エリアは消滅? といいうセカイ系な展開だったと思うが…。 正直いって、背景も分からず、用語が不必要に難解あるいは専門的すぎてイメージが湧かず、話の飛躍もあるので、ストーリー自体もよく分からなかった。平行世界ってなによ? パラレルワールドになると、なにか大変なことが起きるのか? もういちど見ても分からんと思うけどなあ。 あの塔をつくったのは佐由理の祖父で、だから佐由理が睡眠状態になったとかいわれても、だからなに? としか言いようがないよなあ。やっぱ、分かりにくいのは共感が得られないと思うがねえ。 それに、日本が南北に分割されるというのは、ネタが古すぎる。ソ連とアメリカの冷戦時代ならともかく、いまじゃ、リアリティも感じられない。 | ||||
ブラック・スワン | 5/17 | 上野東急2 | 監督/ダーレン・アロノフスキー | 脚本/マーク・ヘイマン、アンドレス・ハインツ、ジョン・マクラフリン |
原題も"Black Swan"。内容はよく知らずに見た。とはいっても、今敏の「PERFECT BLUE パーフェクト ブルー」と似てる、ということは耳に入っていた。でも、「PERFECT BLUE パーフェクト ブルー」は見てないんだけどね。 バレエの世界が舞台なのは、ポスターを見れば想像はつく。それでも、始まってしばらくは、ちょっとがっかり。だって、日本の少女マンガが扱うような世界なんだもの! プリマを狙うニナ(ナタリー・ポートマン)、天才的なリリー(ミラ・クニス)、引退を余儀なくされる高齢のプリマ(ウィノラ・ライダー)。そして、厳しい母親エリカ(バーバラ・ハーシー)。怪しい立ち位置の監督ルロイ(ヴァンサン・カッセル)。ううむ。強欲と嫉妬が入り混じる世界で、純真なニナが汚れていく話なのか? ううむ、陳腐。…と思いつつ見ていた。のだけれど、ちらちら介入してくるホラー映画っぽい影(これがかなり怖かった)。ニナの体に表れる傷(自傷行為にしては、なぜ背中?)。妄想。さて、どうなるんだ? 人間関係は? と思っていたら、どーも人間ドラマになっていかない。リリーとは少しだけ打ち解けて、一緒に飲みに行ったりする。ううむ。ドラマがないじゃん。というわけで、中盤はいくぶん退屈な感じになっていくのだった。 で、次第に分かってきたのは、これはキチガイの世界なのだ、ということだ。アメリカ映画がよく設定としてもちだしてくる、アレだ。「シークレット ウィンドウ」なんかと同じ。被害者、と思わせておいて、実は主人公が変だった、というアレだ。結局のところニナは極度の被害妄想で、二重人格あるいは三重人格もあるというもの。なーんだ。つまんねえの。 ナタリーの実年齢は30歳。ニナも同じとすると、すでに新人ではない。けれど、上を狙うにしても才能があるかないかは、自覚してもよい年齢。それでも、いつかはプリマに! という気持ちがどこからきたか。これは、母親との関係によるのだろう。エリカはプリマになれなかった女性。おそらく監督と関係をもってニナを身ごもり、引退せざるを得なかった。その思いが期待となって、ニナを縛り付けていた。無菌状態でバレエ一筋。男関係もなく、人づきあいも下手。母親の監視が厳しすぎて、オナニーもしてこなかった。そういう神経質そうな30女をナタリーはうまく表現していると思う。 もともとあった精神病の素質が、そういう家庭環境でじわじわと顕在化してきたのだろう。でも一方で、ニナは内在するもうひとりの自分にも気づいている。神経質で小心な自分と違い、大胆で下品で露骨なもうひとりの私。とはいっても、映画は、このダークな自分の存在を幻覚としてしか見せない。 ここで思い出されるのが「イブの三つの顔」だ。実話をもとにした映画で、奥手なイブ・ホワイト、派手好きなイブ・ブラック、上品なイブ・ジェインの3つの人格をもつ女性の話で、主演のジョアン・ウッドワードはこの映画でアカデミー主演女優賞を得ている! 白鳥と黒鳥を演じ分けるニナという女性の話、ならば、そっくり設定は同じことになる。ただし、「ブラック・スワン」では、ニナは黒鳥が演じきれない女性として描かれる。演じきれないけれど、内在するもう一人の自分の存在には気づき始めている。が、人格が変わって、奔放な行動をするもう一人の自分が解放されることはない…。つねに視点はニナのまま、というところが、「イブの三つの顔」とは違うのだけれどね。 で。プリマになりたい。でも自分にはムリ。今度もリリーが…。と思っていたら、とつぜんプリマに選ばれてしまったところから話が転がり始めるのだけれど、結局のところ、それが原因でニナは悲劇的な結末を迎えることになるわけだ。ニナの執着心は、本心かどうかは分からない。母親のプレッシャー=抑圧によるものかも知れない。母親が、それほどひどい人間であるように描かれていないのだけれど、実は…というような描き方もされていない。結局のところ、ニナ個人の物語になってしまっている。まあ、精神障害だからしょうがないのかも知れないけどね。このあたりは、推定するしかない。 おそらく、描かれていることの大半はニナの幻覚あるいは妄想で、事実は少ないのだろう。ニナの主観を、客観描写しているから、分かりにくくなる。あれは全部ニナの主観だ、と判断すれば難解な部分はなにもない。たとえば路上ですれ違う女性が自分であるのは、自分も自由に遊びたいという潜在意識化も知れない。車内のチンポいじるおっさんも、あれもニナの被害妄想的なもの。ニナをクンニするリリーが、一瞬自分の顔になるのも、内なる自分の願望みたいなものなのだろう。しかし、そういう解釈も、結局はニナの妄想の中に吸収されてしまう気がする。リリーと一緒に飲みに行ったのが本当だとしても、その後の展開がどこまで事実だったのかは、やっぱりわからない。まあ、内なる黒鳥を顕在化させるために酒とクスリの力を借りた、ということなのだろうけど。結局、オナニー止まりで男を知ることがないのは、物足りない。 やがてプリマとしての初舞台がやってくるのだけれど、母親もやっとニナの異常に気づいたのか、休ませる。それを振り切って行き、白鳥の演技でミスをする。幕間に控室に戻ると、リリーに「黒鳥は私が踊るわ」といわれ、思わずリリーを殺してしまうニナ。ここも妄想だろうと、だいたい見当がつく。で、殺人で内なる黒鳥が顕在化したニナは、次の黒鳥を見事以上に踊りきる(CGで羽が生えてくる描写は、ちょっと幼稚かも)。さらに控室に戻ると、リリーの死体がない。どころかリリーが演技を誉めにくる。よくよく見れば、ニナを刺したはずのガラスの破片は、自分の腹部に刺さっていた! という、まあ、ちょっと陳腐なサゲになっていて、あらららら。さらに、次の演技で白鳥が死ぬところで、実際にニナも死んでいく。満足の微笑みを浮かべながら…というわけでオシマイ。 まあ、黒鳥の踊りではニナのダークな部分が顕在化したということだろう。白鳥の自分を殺し、黒鳥を目覚めさせたけれど、体は一つ。白鳥が死ねば黒鳥もニナも死ぬ。このあたりは合理的すぎる展開で、当たり前すぎてつまらない。というわけで、やっぱり精神病患者の妄想という話でした。でも、腹にあんな傷があったら、踊りなんてできんたろ。というのが素直な感想。 リリーを演ずるミラ・クニスという女優が、妖しく魅力的。マリオン・コティヤールを俗っぽくした感じで、小悪魔的な感じがでている。それにしても、彼女は背中に刺青の設定だけれど、そんなバレリーナが許されるのかい? 母親役のバーバラ・ハーシーは息が長い。「去年の夏」の印象が強すぎるけどね。といいつつ、実は「カレン・ブラックか?」とずっと思っていたのだった。やば。 監督のルロイの存在は、なんかありそうで何もなかった。まあ、あれで色恋沙汰あるいは下半身の要求になったら、話が俗っぽくなってまるっきり少女マンガの世界だもんな。あの程度で収めておいたから、アカデミー賞も穫れたのかも。そもそも、ニナにとって関心のない存在だから、あの程度の描き方なのかもね。 ナタリーのオナニーシーンは、とくにどーってことなし。 去りゆくスター。登場するスター。という視点から見ると「イヴの総て」が思い浮かぶけど、まあ、あれは古典だから。「ブラック・スワン」では、ニナが登り詰めていく過程・理由が述べられていなくて、一気にプリマになってしまうところが、いまいち説得力が足りない。黒鳥がダメなニナを、ルロイはなぜ抜擢したのだろう? そこが分からないので、いまいちスリリングな感じがしない。 | ||||
キッズ・オールライト | 5/19 | シネ・リーブル池袋2 | 監督/リサ・チョロデンコ | 脚本/リサ・チョロデンコ、スチュアート・ブルムバーグ |
原題は"The Kids Are All Right"。悪くない。のだけれど、最後に失速してしまった感がある。世間的に妥当で、つまらない結末にしてしまっている。あれじゃ、問題に真っ向から対峙していることにはならない。問題を回避して、アバウトな終わり方をさせただけだ。 冒頭。自転車とスケボーでいたずらしている少年2人のシーン。次に室内でゲームをする少女2人に少年1人の場面。次は、オバサン2人と少年+少女の食卓。ここで子供たちは、オバサン2人を「ママ」と呼んでいる。ん? しばらくして、オバサン2人はレズカップルで、2人は子供なのだと分かった。でも、養子? と思っていると、精子提供者の話になる。なんと、オバサン2人は同一人の精子を使用して、それぞれ娘と息子を生んだらしい。なーる。レズの両親がいる4人家族、なのだった。 ニック(アネット・ベニング)とジュールス(ジュリアン・ムーア)はレズのカップル。それぞれ娘ジョニ(ミア・ワシコウスカ)、息子レイザー(ジョシュ・ハッチャーソン)がいる。こういう家庭は、珍しくないのだろうか? 日本だったら、早速、ワイドショーネタだな。男みたいな名前のニックは、医者。理知的だけれど、大雑把でワイルド。ワインが好き。ジュールスは、意欲はあっても成功しないタイプ。いまは庭師みたいなのを志しているけれど、お客はいない。自然食派。でも、彼女にも無神経な部分はあったりする。たとえば抜け毛をそのまま流して詰まらせたり。ともに50凸凹だけど、たまに愛し合う。そのときに使うのが、ムキムキ男性ゲイのポルノビデオってのがおかしい。そういえば、電動こけしももっていた! キレイ事にしてしまわず、なかなかリアルなのがいい。 で、レイザーが生物学上の父親に会いたい、と思い立つ。それを、ジョニが代行して(問い合わせるためには18歳以上である必要があるらしい)、精子提供者のポール(マーク・ラファロ)に会うことになる。ポールはレストランの経営者。独身で、従業員(?)の、黒人の娘とときどき寝ている。ポールは、実の娘・息子と会うことを了承する。 ジョニはポールにいい感情を抱く。バイク中年なのも魅力だったのかも。レイザーは、どうも性格が合わないみたい。それでもポールは一家に招かれ、食事したり、子供たちと交流をもつようになる。で、ジュールスが庭師を目指しているのを知ると、庭の手入れを頼む。…というところで、先は読める。ポールとジュールスはなぜか男女の仲になり、毎日のようにやりまくり、になってしまう。最初の方で、男臭さを暗示させるところが2ヵ所ある。スケボー少年(レイザーの親友)がオヤジとじゃれ合うとき、オヤジにはがいじめされる。で、「脇がクサイ」というのだ。もうひとつ。素性の明かされないポールが、女性従業員(実は彼女)に、汗臭いのはいい香り、みたいに言われる。ここらは、男の魅力はニオイにあり、を連想させる。だから、ポールがのちのちジュールスと関係をもっても、やっぱりな、と納得できたりする。もちろん、ずっとレズだった女性が、そう簡単に男と関係をもつか? という疑問は最後まで消えない。けれど、その疑問を薄める効用はあったかも。でもま、いまどき男のニオイ礼賛かよ、という気はするけどね。 さて。話をどうやって収拾するのか。これが最大の関心事になるのだけれど、結局のところポールとジュールスの関係がニックにバレ、ジュールスはニックのもとに戻る。そして、ジョニに慕われていたポールの権威は失墜し、家族の仲間になれないまま追放される、という終わり方になる。これって、やっぱ問題回避だよなあ。このままじゃ、ジュールスがなぜ男と関係をもったか、の理由が分からない。それに、他の女と浮気なら分かるけれど、男と浮気したジュールスとニックが、以前のような関係に戻れるとも思えない。むしろ、ジュールスはポールと一緒になった方が自然な気がする。息子のレイザーはニックと暮らし、ときどきジュールスの家に行く、ぐらいな関係の方が納得できるように思えるんだが、どうだろう。いずれにしてもジョニはもうすぐ大学の寮に入ってしまうのだし、実際、映画のラストはそうなって終わっている。黒人従業員の彼女と別れ、ジュールスと家庭を持つんだ! と張り切っていたポールの未来はどうなるんだ? かなり心配。 なので、最後の1/4ぐらいの展開は、不満だ。 まあそれでも、いろいろユーモアに満ちた表現が盛りだくさんで、たのしい。たとえば、ジュールスがポールの庭を手入れするのに雇ったコロンビア人だったかグァテマラ人だかのオヤジ。雇い主のジュールスが昼間からセックスし放題なのを知って、にやにやしてる。もちろんよくある設定だけど、面白い。でも、可哀想にクビにされてしまうのだ。ラストに、その後のエピソードをワンシーンぐらい見せてくれてもよかったのに…。 レイザーの親友のスケボー少年は、中途半端な不良。そんなのとなぜつきあってるのだ? という疑問があるのだけれど、ラストに近づくにつれてレイザーの出番が減ってしまう。ここも、問題を放り投げたまま、の終わり方だ。 ジョニの存在も、中途半端。先の仲好し3人組は、18歳になるのにボードゲームばかりしている大人しさ。女友達は、ジョニのうぶさをからかうのだけれど、一緒にいる男友達はジョニに関心がない。なので、パーティのときジョニがむりやりキスしてしまうのだけれど、あれでジョニの何が変わったんだろう? バージンを捨てる、とかいうのならまだしも…。むしろ、ジョニもレイザーも、同性愛に対してどう思っているのか、がよく描かれていない。逆に、ニックとジュールスは、レイザーとスケボー少年がゲイ関係になっているんじゃないかと心配する。「将来を考えて…」と、もしそうなら引き離すつもりみたい。って、自分たちが同性愛なのに、子供たちの同性愛志向は芽を摘む、という考えなのがおかしい。そういう同性愛カップルが多いということへの皮肉なのかね。それにしても、タイトルは、「子供たちは大丈夫」の意味だろうけれど、これじゃ子供たちの行く末は不安だよな。外見はひとつでも、内実はバラバラの家族になっちゃってるんだから。 アメリカ映画の多くがそうであるように、この映画でも言い訳がたくさんでてくる。ポールも、ジュールスも、「聞いてくれ」と過ちを認めつつ、でもそれには理由があってね、みたいな言い訳をくだくだとする。これは日本人には理解できないところだね。 そうそう。一家がポールの家で食事をするシーン。ニックがポールのレコードコレクションを見ていて、ジョニ・ミッチェルの「ブルー」を発見。互いに趣味が同じと喜び、なんと娘の名前もジョニ・ミッチェルからとった、という話で盛り上がる。バイクの件やもろもろ、ポールに距離を感じていたニックが、かなり打ち解けた。ところが、ニックがトイレに立って、排水口に詰まったジュールスのらしき髪の毛を発見…! 放心の表情でテーブルに戻り、混乱している様子が、ニックのクローズアップで表現される。音声が小さくなり、うろたえている様子が、うまく描けていた。 | ||||
GANTZ:PERFECT ANSWER | 5/20 | MOVIX亀有シアター3 | 監督/佐藤信介 | 脚本/渡辺雄介 |
1作目を見ちまったからなあ。テレビでやってた「ANOTHER GANTZ」もWeb経由で見ちまったからなあ。なので完結編も見ておくか。てな程度。1作目もテレビ版もアレだったので期待はしていなかったけど、期待以下の内容だった。途中から眠くて眠くて、危うく寝落ちしかけた。けど、半睡に近かったから、話もあまり覚えてないよ。 てなわけで。相変わらず星人との戦いがつづいている。玄野計(二宮和也)と小島多恵(古高由里子)が、加藤(松山ケンイチ)の弟の面倒を見ている。これに、何かを嗅ぎまわる重田(山田孝之)、タレントの鮎川(伊藤歩)がからんでくるのだが、話はいまいちピリッとしない。 小さな黒い玉が鮎川に送られてきて、鮎川は指示された人物を殺していく。これは、その人物をGANTZのもとに送り込むため、らしい。玉の中にいるGANTZが、どうやって手紙を出したりできるのだろう? 誰か、現実世界に手先はいるのか? 数人送り込んだところで、鮎川はニセ加藤に殺され、GANTZのもとにやってくる。鮎川も、彼女が殺して送り込んだ連中も、かつてGANTZのもとにいて、解放されたのが呼び戻された、らしい。なんでも、GANTZの中にいるやつのエネルギーが弱くなってる(? だっけかな)とかなんとか。でも、星人と戦うためなら、女子供より武道の達人でも呼んだ方が効果的じゃね? その前に地下鉄内のバトルがあるんだけど、相手は黒服星人。あやしい宗教団体みたいにたむろってたんだけど、重田はこの集団に頼まれて、GANTZで戦っているメンバーのデータを集めていた、らしい。では、重田は情報屋? と思っていたら、最後の方で警官らしいとわかるんだが。おい。なんで警官が星人に情報を提供してるんだよ。警察は何をどこまで把握してて、どうしようとしてたのだ? さっぱり分からん。さて、地下鉄内の戦いで、玄野は敵に銃口をつきつけられ、頭は車外に…というシーンがあるんだが、敵はなかなか引き金を引かない。別に見得を切る必要もないだろ。ムダなタメのせいでテンポは遅れるし、そもそも、変にしか見えない。おい。敵の黒服。さっさと撃て! と心で叫んでしまった。同じようなことは後半にもあり、ニセ加藤が刃を玄野の胸にむけ突き刺そうか、というとき、本物加藤の気配を感じ、刺すのを止めてしまうのだ。あほか。さっさと玄野を刺せばいいじゃないか。いらつく演出だな。 さてさて。鮎川がGANTZにやってくると、小島多恵を殺せ、と命令が下る。なんで一般人の多恵を? で、でてきた答えが、「鮎川が死んで黒い玉はニセ加藤のもとに。ニセ加藤が小島多恵を殺せば、ニセ加藤もGANTZのところにやってくる。それを阻止するために、多恵を殺せということだ」というもの。それで、GANTZメンバーが対立してしまう。って、なんか理屈が変じゃないか? 黒い玉をもってると、GANTZのもとにやってきちゃうのか? ニセ加藤が死ななくても? よく分からん理屈だ。などと考えていると、以降の展開を見ているのがアホらしくなってくる。 玄野と多恵の関係もだ。多恵は、前作で玄野を好きだ、と告白している。そのまま、つきあってるような、いないような。なのに、玄野は多恵を遊園地に誘う。多恵は「小島」じゃなくて「多恵」と呼んでくれ、と頼む。そういわれて戸惑う玄野。って、そんなことで、なんで悩むんだ? 意味ねー。 でまあ、最後はGANTZのもとに黒服星人一派が大挙して乗り込んできて、GANTZメンバーと壮絶な撃ち合い。なんだけど、互いに何発も食らっているのになかなか倒れない。どころではない。加藤、玄野、それから鈴木(田口トモロウ)は生きていた! おいおい。で、最後はウルトラCのワザを、玄野が使う。これで、これまで死んでいったGANTZメンバーもすべて生き返り、平穏無事な生活を取りもどす。ではそのワザとは、エネルギー切れのGANTZに変わって、玄野がGANTZになることだった! というエンド。げ。なんだよ。それって、どういうつじつま合わせなんだよ? なんにも解決してないじゃん。星人たちの処分はどうなったんだ? いやまて、星人は「先に手を出してきたのは、おまえたちの方だ」といっていたけれど、そうなのか? そもそも星人とはなにか。どうして退治しなくちゃならないのか? だれがGANTZを生みだし、どう維持してきたのだ? というようなことはほったらかし。そもそも、どうやって死んだ人間が生き返るのか? いったん死んだ人間でなければ、GANTZメンバーになれないの? いったん死んで、メンバーとして戦い、元の意識をなくして解放されるとして、住まいや戸籍はどうするのだ? 知人にあったら、どうなる? などなど、わからんことだらけ。しかも、玄野がGANTZの中に入って、他のメンバーは元の生活に戻れるって、どういうこと? もうひとつのパラレルワールドなのか? さっぱり分からん。 地下鉄の戦い後の採点で、鈴木が100点を超える。え? 玄野の前に100点越えって、おかしくね? あんなにダメ男だったのに。つづいて玄野も100点を大幅に超えるといっても、やっぱ変だぜ。 | ||||
クレアモントホテル | 5/23 | ギンレイホール | 監督/ダン・アイアランド | 脚本/ルース・サックス |
原題は"Mrs Palfrey at The Claremont"。老婦人サラ・パルフリーが、ロンドンのクレアモントホテルにやってくる。アメリカ人(だったよな、たしか)だけれど、娘との生活を脱し、孫息子のいるこの地にやってきた。ホテルは老人の長期滞在者ばかりで、まるで老人ホームの如し。飯はまずい。従業員も愛想がない。なんでこんなホテルに住んでいるのか分からん、というようなホテルだ。 まず、この設定で、いささかつまずいてしまう。70歳を超えてヨボヨボなのに、娘夫婦に面倒は見てもらわない、という意志の強さはどこからくるのだろう。寂しさはあるけれど、子供とは同居しない、というのが欧米のスタイルなのかね。で、なぜにイギリス? どうせならもっと温かで飯もうまく、楽しいところにすればいいのに。やっぱ、孫が済んでいるのが頼りとなるのか。というような疑問が日本人にはまずある。(サラは亭主の若いときの写真をときどき見るのだけれど、亭主はいつごろ亡くなったのだろう?) で、次にこのホテルのひどさ。支配人は事務的。ポーターはジジイで仕事も投げやり。愛想の一つも言わない。食事は単調でまずい。部屋は狭く、景観もない。しかも、宿泊客も変人ばっかり。こんなホテルに何年も暮らそうというのは、安いから? ううむ。その理由が分からない。 とまあ、前提に難ありだけど、まあいい。宿泊客は、大概が孤独。訪問客もおらず、出歩きもしない。ほとんどホテルにこもりっきり。サラは孫に電話を入れるけど留守電で、数週間経っても会いにもこない。というある日、郵便を出しに行った帰り、転んでルードヴィック・メイヤーという青年に助けられる。ルパート・フレンドという役者だけれど、金城武にそっくりだ。「わたしの可愛い人-シェリ」にも出てたのね。 そういえば何年か前の小雨の夕刻、歩道を歩いていたら植え込みからゴソゴソ音がする。見ると老婦人が自転車のまま倒れ込んでいる。自力で立ち上がれそうもないので手を差し伸べたのだけれど、それでも元気がない。どうも立ちくらみとか虚脱とかしているみたい。しばらく話ながら見守り、落ち着いてから立ち上がらせてあげた。家まで送ろうとしたのだけれど、でもそれは断られてしまった。ひょっとしたら1人暮らしで自宅を知られたくない気持ちもあったのだろうけれど、不審な扱いをされたのはちょっと哀しかった。根拠のない「不審者に注意」「犯罪が多発」というアナウンスで、日本人は昔のように心を開かなくなってしまったよな。犯罪発生件数の「史上最低」という記録を毎年更新続けている、世界でもトップレベルの安全で信頼性の高い国なのに、まったく残念なことだ。という個人体験はさておいて、サラはルードの部屋に招き入れられ、手当てを受け、お茶を御馳走になり、「今度、食事にいらっしゃい」と約束して帰宅する。 で、ルードが食事に来ることになったんだけど、周囲は「孫が来る」と勘違い。サラも否定できず、しかたなくルードに事情を説明。ルードは孫役を務める。以後、ずっとルードは孫のフリをして、サラと交流するようになる。…という勘違いというボタンの掛け違いから発生するゴタゴタが進んでいく。 小道具が有効に使われていく。2人の関係を、サラ自身が(だったよな)映画の「ハロルドとモード」に喩えて、あれとは違うといったり。サラの思い出の映画が「逢びき」で、ルードが「見てみよう」と借りに行って、レンタル店で恋人となるグェンドリンと出会う。サラの愛読書はワーズワースで、ルードはウィリアム・ブレイクが好み。その引用がよくでてくるのだけれど、物語を理解するのにきっと役立ってるんだろうな、きっと。サラがウィリアム・ブレイクの詩集を買ってルードにプレゼントしようとしたら、グェンドリンが来ているのでやめにしたり…。それと、サラがリクエストした曲をルードが歌うんだけど、ルードはその歌を知らずにテキトーに歌っているのか? それとも、知っててちゃんと歌ったのかよく分からず。この歌だと思うんだけど、テーマソングにもなってた。クレジットを見たら、ローズマリー・クルーニーとあったので、有名な曲なのかもね。知らないんだけど、これも詞が意味を持っていると思われる。 もうひとつ、互いに紹介し合うとき「妙な名前で…というのだけれど、これもよく分からない。主人公の老婦人はサラ・パルフリー、青年はルードヴィック・メイヤー、ルードの新恋人はグェンドリン。これのどこがどーいう具合に妙なのか、残念ながらピンとこない。こうした諸々の表現が分かれば、映画はもっと面白く見られたかもね。そういえば、同宿の男性がサラをフリーメーソンの集会に誘うのだけれど、サラのフリーメーソンに対するイメージも、怪しい団体、だったのがおかしい。 サラとルードの奇妙な関係は、ルードに恋人ができて一変する。ルードはサラと頻繁に会わなくなり、孤独を感じるようになる。そして、ちょっとしたことで階段から転落し、腰骨を骨折。入院して気弱になってしまう。ルードは毎日のように訪れて詩を読んでやるのだけれど、サラに意識があったのかどうか…。というような終わり方をする。ハッピーエンドではなく、かなり哀しい終わり方なのが残念。もっと元気なおばあちゃんでいて欲しかったんだが…。 ルードは母親一人の手で育てられた。ルードはサラを実母に会わせるのだけれど、実母はルードが26歳にもなって定職に就かずふらふらしているのが哀しくてしょうがない。その、母の期待に応えていないことで悩むルードは作家志望で、サラを格好のモチーフとして何編も書き上げ、読ませる。このどれかが雑誌に掲載され、自立への道が…という展開があってもよかったんじゃないかと思うんだが、そんな具合には展開しない。ちょっと残念。サラの孫、娘も登場するが、血を分けた家族より、赤の他人の親切の方が温かい、というのは「東京物語」でも同じだ。こういう、肉親との距離の置き方に対する疑問が、彼の地にもあるのかも知れない。でも、だからこそ、娘や孫のもサラに対する思いが変化する様子も描いて欲しいような気もした。 あれ、と思ったシーンがひとつ。サラが階段から転落したとき、サラの近くに白い足跡が点々とつづいているのだ。あれは、なにを意味しているのだろう? 気になって仕方がない。 | ||||
しあわせの雨傘 | 5/23 | ギンレイホール | 監督/フランソワ・オゾン | 脚本/フランソワ・オゾン |
原題は"Potiche"。花瓶、の意味のようだ。社長夫人、という存在だけで中味のない状態のことを「飾り壺」と表現しているので、そのことだろう。オゾンの映画らしく、舞台劇みたいな脚本で、リアリティはあまりない。話のもって行き方で見せる映画だ。前半は、そこそこ面白いのだけれど、最後にあんな展開が待っているとはね。でも、ああなっても問題は解決しないと思うのだが。 1977年のフランス。傘会社のピジョル社は労使紛争で揉めていた。当時のフランスは、そんなだったのね。よく知らないけど。で、右翼的思想の社長ロベールは組合と対立し、持病の心臓病もあって一時リタイヤ。代わりに婦人のスザンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)が代理を務めることになる。スザンヌは旧知の市長・議員のババン(ジェラール・ドパルデュー)の仲介で組合と交渉。言い分を認めるかたちでストは回避。労働時間短縮などの待遇改善による収益減は、アイディアで乗り切った。息子のデザインの導入や、娘の採用がうまく功を奏した格好だ。 とまあ、コメディタッチで話は淡々と進んでいくのだけれど、えげつないお色気話も、何気ないかたちで挟まってくる。たとえばロベールと秘書の関係は、スザンヌも半ば公認。そのスザンヌは、かつてババンと関係があった。娘は亭主とうまくいってなくて、離婚寸前。息子は、ケーキ屋(だっけ?)の娘とつきあってる…けど、ロベールは家柄が違いすぎると息子の結婚には反対…とか、時代性も反映してか、かなり生っぽい。まあ、それだけにドラマがつくりやすいと言うことなのかも知れないけどね。 それと、思想的な背景が描かれるのが興味深い。ロベールは旧時代的で専横的な資本家イメージ。息子は会社組織が嫌いな共産主義的発想。娘は、亭主の影響もあるのか、父親と同じような考え。ババンは、一介の労働者から政治家になった左翼思想家。…と、はっきり分かれているのだ。当時は、家族や知人でも立場が違うというのが、よくあったのかも知れない。 で、体調も回復したので社長業に戻ろうとするが、株主である家族(創業者はスザンヌの父親で、スザンヌと彼女の妹、ロベールが大株主、さらに2人の子供も株主)がスザンヌを支持。じゃあってんでロベールはババンを巻き込んで組合問題を再燃させ、スザンヌ追い落としにかかる。…っていうのも、ここで色事が問題になるからだ。息子の彼女は、実はロベールの浮気でできた娘らしい。だからロベールは反対していた。でも、スザンヌは、意に介しない。「だって息子はあなたの子じゃないから」と。まあ、このカラクリは予想できた展開だけど。でも、「ババンじゃないわ。会計士だったかしら。テニスのコーチだったかな」なんていいはじめる。おやおや。亭主の浮気を見逃してる代わりに、スザンヌもやるのう。で、ババンの弱みを握ったロベールが、ババンを巻き込んだわけだ(ったよなあ。違ったっけ?)。それで株主総会を開いたら、なんと、娘が父親側についてしまい、スザンヌと息子は会社を追われるハメになる! っていうのも、娘の亭主が、娘のポストに就けるなら離婚もしないし海外に行ったりしない、といっているから、らしい。おいおい、だよな。そうそう。株主総会には、かつてババンと関係をもったときに来ていたドレスを着用していくのだけれど、あのビヤ樽体型で昔のドレスは、ムリだろ! じゃあ、どっかの帆布カバン会社みたいにスザンヌが別ブランドをつくって勝負か? と思ったら、なんととんでもない飛躍。スザンヌが議員選挙に立候補し、ババンに勝利(結果を見ても無反応で、勝ったか負けたか分からないのが、妙だった)。議員になりました! という終わりかたなのだ。げ。それじゃ、会社の問題は解決してないじゃないか! 家族の問題も! そんなんで、何の喜びがあるのだ? と思ってしまう。なので、最後の選挙の展開は、納得いかない。 そもそも、資本家の家庭が舞台になっていて、大企業の創業者の娘=スザンヌが女性の自立を達成する、という話だ。それだと、なーんだ、やっぱり金持ちがやってることじゃないか、としか思えないと思うのだよね。しかも、息子もボンボンの芸術家気取り。娘は資本階級の手先のようなことしかしない。そもそもの会社はロベールが社長になって、左翼のババンを取り込んで工作したり。ババンが選挙に敗れたことで、そういう資本家の手口もおしまい、といっているのか? そううまくはいかんと思うぞ。それに、そうやって分裂した家族の行く末はどうなるのだ? ほったらかしかい。という部分が、気になってしまう終わり方だ。 でも、左翼的なババンも信用ならない、という展開はちょっとだけ興味あり。とはいっても、女性の自立を主張するのであれば、娘こそ亭主と別れ、親の会社を継いでやる! ぐらいのことを言えばいいのにと思う。だって、リストラ策や工場の海外移転を主張するなんて、問題ありではないの? というような印象なんだが。ひょっとしたら、当時から現在までの、フランスの政党の流れみたいのを象徴していたりするのかも知れない。個人的にフランスの政治事情を知らないので何とも言えないのだけどね。実のところは。 | ||||
パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉 | 5/23 | 上野東急 | 監督/ロブ・マーシャル | 脚本/テッド・エリオット、テリー・ロッシオ |
2D版。原題は"Pirates of the Caribbean: On Stranger Tides"。1作目はストーリーもちゃんとしてたけど、2作目からはむりくりで、3作目はほとんど記憶にない。ジャックは死んで、あの世の砂漠をさまようような話だっけ? この4作目はさらにひどい。ストーリーもドラマもない。シーンごとにアクション場面は満載だけど、この演出も編集も勘所が悪くて、テンポがよくない。疾走感も爽快感もない。アクションがだらだらつづく、ってな印象だ。 冒頭の、網にかかった男の話もよく分からず、次はジャックの裁判で、偽者ジャックが船員を集めている、という話に。鍵になるのは、ポンセ・デ・レオンらしいけど、何だ? 聖杯を積んだまま沈んだ船のことか? あるサイトを見たら「永遠の命をもたらすという伝説の“生命(いのち)の泉”。その泉を探す途上で命を落とした探検家、ポンセ・デ・レオンによる200年前の航海日誌が、海を漂う瀕死の船乗りによってもたらされた。スペイン王は驚愕し、伝説の泉をめざして出帆を命ずる」と説明してあった。ふーん。冒頭のシーンだけ見て、これ全部分かるのか? 展開は早いけど、どういう話なのかが分からない。生命の泉って、なによ?(前作ででてきてたんだっけ?) スペインにもたらされた情報で、どうしてイギリスや黒ひげたちが先着争いをするのだ? 聖杯がどーたら、人魚がなんたらと、そういう話はどこからきたのだ? 話が大雑把すぎて、ちっとも理解できない。そんな状態でどんどん進んでいくから、なーんも考えない。つまらないアクションばかり。眠くなってもトーゼンだ。 今回は、キーラ・ナイトレイは不参加。その代わり、ジャックのかつての恋人という設定で、ペネロペ・クルスが登場。男勝りの女海賊という設定だけど、このコンビで聖杯を探しに行くって、「レイダース/失われたアーク」みたいだ。 ジャックの、1〜2作で見られたエキセントリックな感じもなくなってしまって、たんなるトンマなオッサン海賊になっちゃってる。クビをコキコキ、っていう、変な仕草もないし。ペネロペと、人魚が可愛かった、ぐらいだな。でも、ラストは次回作を予期させるような終わり方なんだよなあ。けっ。 お。冒頭の馬車のチェイスで、ジャックが乗り込んだ馬車に乗っていたのは、やっぱりジュディ・デンチだったみたいね。 | ||||
アウェイク | 5/26 | 新宿武蔵野館2 | 監督/ジョビー・ハロルド | 脚本/ジョビー・ハロルド |
原題も"Awake"。大きな拾いもの。手術シーンが始まると同時に、めまいのような感覚を覚えた。それまで思い込んでいたストーリー展開がらがらと崩れていく。歌野晶午の「葉桜の季節に君を想うということ」で、事実が分かりかけたときのゲシュタルト崩壊的な感覚と似ていた。え? ええ? なに? なんだって? 戸惑い、うろたえ、放心し、そして心を落ち着けて修正し、整合性をつくっていこうか、という思いにとらわれた。ノンストップでハラハラどきどき。なかなかよくできた脚本だと思う。いや、予告編を見ないで、大正解な映画だな、これ。 クレイトン(ヘイデン・クリステンセン)は幼くして父を亡くし母の手で育てられた。いまでは父の遺産を受け継ぎ、N.Y.を動かすほどの実業家になっている。でも、心臓に持病があり、移植手術を待つ身の上。以前、心筋梗塞で世話になった医師ジャック(テレンス・ハワード)とは友人関係で、手術の際には執刀も任せるつもりだ。でも、母親はジャックではなく、心臓移植の権威に手術を任せたいと思っている。 クレイトンは、会社で働くサム(ジェシカ・アルバ)と恋愛中で婚約までしている。でも、母には言い出せない。どーせ反対されるから、だ。どーもクレイトンはマザコンで、22歳なのに母と同居。面と向かって反対するのも勇気がいるみたい。サムはそれが不満だ。 てな雰囲気で話が進む。惹句は「手術中に覚醒する医療問題」なので、医療自体がテーマだと思い込んでいた。ドナーがみつかり、手術が始まる。執刀が始まるが、全身麻酔なのに、クレイトンは眠りにつけない。体は動かないが、意識はある。医師の会話も聞こえるし、なんと、痛みもある! ううむ。体が動かないんだから痛みはないのかと思ったら、そうじゃないみたいだ。うわわわわ! なんて、こちらも切り刻まれる感覚で、怖い! のだけれど、執刀医たちの会話が変なのだ。変すぎて、あまり覚えていないのが困ったものなのだが。なんと、ジャックたちはクレイトンを殺そうとしているみたいなのだ。予想外すぎる展開に、戸惑った。だって、それまでの描写でジャックとサムは仲間、母たちは抵抗勢力、と思い込まされていたのだから。それが突然、逆転したんだから驚きだ。 もしビデオならこの部分をちゃんと確認したいと思っている。手術は4人で行われたのだが、麻酔医が予定と違って代役になった。もともと参加する予定だった麻酔医は名前だけでしか登場しない。だからなんだけど、医師の名前をちゃんと覚えていなかったせいで、人間関係がぐちゃぐちゃになってしまったのだ。 代役の麻酔医は、見るからに変そう。それにアル中らしい。これも、クレイトンにはリスクだ! と思わせるテクニックだったわけなんだが、実は彼は陰謀には加担していない医師だったのだよ。つまり、手術は、陰謀に参加した3人と、何も知らないフツーの麻酔医1人で行なったのだ。それでか、3人は麻酔医に「ちょっと休んでこい」なんて言って、手術室から追い出す。このあたりも、なかなかうまい。ここら辺までは、ジャックたちは正義だと観客は思い込んでいるからね。ところがどっこい、なんだから驚いちゃうよ。 ジャックは医療過誤問題で裁判にかけられていてお金が欲しい。それでひと芝居売ったのだけれど、なーんと、サムまでがグルだったことが後から分かるので、これまたびっくり。サムはこの病院で働く看護士で、ジャックといい仲、だったみたい。ターゲットをクレイトンに定め、恋愛関係になり、施術前にどさくさに紛れて式を挙げる。参列者はジャック夫妻(?)。あとはクレイトンが死んでくれれば、遺産ががっぽり、という手筈だったようだ。 手術の行方を見守るサムとクレイトンの母。そこに、ジャックが手術失敗の報。このあたりまでは、サムがグルとは分かっていない。だけど、母親は旧知の医師に連絡をとり、なんと自分は薬を飲んで自死する。そして、自分の心臓を息子に移植するよう、旧知の医師に託す、という流れ。ううむ。これも、クレイトンと母親が同じ血液型という伏線がちゃんと張ってあったなあ。それに、サムが怪しいというのも、母親はいくつかの件でちゃんと見破っていた。このあたりの謎解きも、ちゃんと丁寧かつあっさりと説明してくれるので、とても分かりやすい。 てなわけで、手術が始まってからは「おお」「ええ?」「あらま」「げっ」なんていう驚きの連続で、息をもつかせぬ意外性の連続な展開。いやー。面白かった。 この映画、2007年の製作なのに、ずっと公開されなかったようだ。こんな面白い映画なのに、なんで? だよなあ。 | ||||
少女たちの羅針盤 | 5/26 | ヒューマントラストシネマ渋谷シアター2 | 監督/長崎俊一 | 脚本/矢沢由美、谷口純一郎 |
長崎俊一。相変わらず下手くそだなと思う。脚本の矢口由美って、見たら実は役者の水島かおりで、長崎の妻。なーんだ。仲間内も仲間内。夫婦でこねくり回してるのか。けっ。 広島県福山市。演劇に挑む女子高生4人の青春物語、なんだけど、おまけのようにミステリーがついてくる。このミステリー部分がいかにもとってつけた話で、トリックというか証拠もいたたまれないほど陳腐。こんなんなら、剣道、書道につづいて高校演劇部青春ストーリーにしちゃった方がましだったな。 4年前。瑠美(成海璃子)、梨里子(森田彩華)、かなめ(草刈麻有)は演劇部の同級生。でも、偉そうにする先輩や威圧的な顧問教師(戸田菜穂)に耐えかねて退部。3人+他校の蘭(忽那汐里)との4人で劇団・羅針盤を結成。シャッターの降りた商店街や城跡で寸劇を披露し、注目されるようになる。しかも、地域の演劇コンテストに招待され、またまた有名に。そんな中、蘭がオーディションを受けるというので、かなめともに東京へ。受けるつもりのなかった、かなめが合格し、映画出演が決まる。その、かなめが、ある日、暴行を受ける。つづいて、投身自殺…。 現在。ある女優(顔が一貫して見えない)が撮影現場にやってくる。台本や小道具は、彼女が殺人を犯した、と言っている。この女優は、羅針盤にいた、という。さて…。で、4年前と現在の時間軸が交互に進んでいく。 高校演劇の話は、いくつか「?」はるけれど、そこそこイキイキと描かれる。「?」は、顧問教師がなぜ瑠美たちに厳しいのか。それと、コンテストで1位にしなかった理由がよく分からなかった。顧問教師は、地域の演劇関係者とどういうつながりがあったのだろう? 彼女が推薦して出場することになったらしいが、他の関係者は別の団体に賞をとらせようとしたということか? 後に顧問教師が瑠美に「あなたを見てると、私の昔を思い出す」みたいなことをいうのだけれど、その台詞だけではわからん。商店街で演劇なんて、うるさくてすぐに警察が呼ばれるだろ。4人のストリートパフォーマンスを顧問教師が知るのは、かなり後。そんなこと、あんな町であれ得ないだろ。とか、突っ込みどころはたくさんある。 それと、人物の描き方がうすっぺら。それぞれの家庭は、かなめと蘭の家しかでてこない。蘭は愛人の子、なのかな。だから描かれたと言うことか。でも、かなめの家は、家族は姉のなつめ(黒川智花)しかでてこない。この不自然さが困ったもの、である。 で、問題は現在の部分なんだが、明らかにミスリード。だって「羅針盤の一員」と明言しているのだからね。でも、声は4人とは違う。バラしてしまえば、かなめの姉のなつめ、なんだが。妹殺害の動機がちゃちい。二流タレントのなつめは、妹のかなめが、オーディションで映画出演を射止めたことに嫉妬した、ということらしい。100年前の動機だぜ、それって。暴行事件もなつめの仕業で、「スタンガンと精液さえあればできる」と片づけている。あほか。電話口で聞こえたガムを噛む音も、保冷剤でだした、と分かったという。瑠美が大学在学中に、保冷剤でガムを噛む音を出すのを知って気づいた、という。なのに、事件当日、保冷剤の一つが溶けていたのを覚えている? あり得ん。また、靴飾りについては、かなめの家族に聞いた、という。じゃ、家族も知っていたのではないの? なぜに4年も経ってから、蘭の実父が経営する映画会社(?)のスタッフをつかった大がかりなセットをつかって、なつめに知らせなければならなかったのだ? 説得力がぜーんぜんない。ガムと靴飾りの伏線も、わざとらしくてアホみたい。 というわけで、映画はアホみたいだった。成海璃子は、あいかわらずズケズケいいつつ手が先に出るタイプの女の子の設定。でも、4人の中で1番ブスだったな。かなめ、の草刈麻有は名字で分かったんだけど、草刈正雄の娘。そこそこ可愛い。常盤貴子似の忽那汐里は、線の細そうなところがいい。それと、最初の頃はまったく目立たなかった森田彩華が、途中から輝き出す。彼女は、瑠美のことが好きになって寝顔に思わずキスする梨里子役。だんだんボーイッシュになる演出で、輝いていた。相変わらずなのが、成海璃子だった。やれやれ。 そうそう。この映画、肝心な部分は映さない、という演出を行なっている。たとえば東京のオーディション。2人が明治神宮前の地下鉄の駅から地上に出て歩いていく。次のシーンは福山の公園のブランコ。まあ、それで話はつながるんだけど、なんか手抜きっぽい印象を受けたのも事実。意図的なのか、予算の関係なのか。どうなんだろうなあ。 | ||||
ヤバい経済学 | 5/30 | 新宿武蔵野館3 | 監督/--- | 脚本/--- |
原題は"Freakonomics"。監督は1人なのかと思っていた。帰ってからWebを見たら、パートごとに違ってたんだな。しかも、松嶋×町山未公開映画を見るテレビでお馴染みの監督が多い。…でも、変える必要性はあったのかね。ちなみに見たのは吹き替え版。未公開映画を見ていると、字幕が多いと、付いていけないことがあるので、あえてそうした。 ●(イントロ&エピソード間シークエンス)監督セス・ゴードン、脚本セス・ゴードン 原作者の2人が登場するイントロは、不動産の売り時の話。売り手の希望価格より低くても、不動産屋が「売れ」と勧めるのには理由がある。売り主には多額でも、不動産屋には150ドル程度の差しかないからだ、と。 ●「ロシャンダが別名なら」監督モーガン・スパーロック、脚本ジェレミー・チルニック、モーガン・スパーロック 名前によって成功する、しないは分かるか? 当たり前だけど、そんなことはない。でも、所得層や教育程度によってつける名前が違うというのは、ちょっと驚き。貧乏人ほど、ストリッパーみたいな名前をつけたがるらしい。それと、白人と同じような名前をつけていた黒人が、公民権運動以降、ムスリムのような名前、黒人らしい名前をつけるようになったらしい。その結果、郵便で面接に応募しても、黒人への反応は白人より大部低くなるらしい。黒人としてのプライドが大事か、それとも差別されないことが大切か…。でも、根底にはぬぐいきれない差別感があるわけで。それを払拭しない限り、調整することによる見かけだけの平等ということだよな。そういう逆差別的な状態を維持しても、しょうがないと思うけどなあ。黒人=頭がいい、という状況にもっていくのが先決な様な気がする。そうそう。60年代の「黒豹パワー」という字幕にがっかりした。ブラックパンサーという言葉を使えよ、と本気で思ってしまっよ。 ●「純粋さの崩壊」監督アレックス・ギブニー、脚本ピーター・ブル、アレックス・ギブニー 日本相撲界の八百長に1章が割かれている。しかも、日本のマスコミのような曖昧さはなく、告発者・板井や、曙、小錦らが登場。データを元に八百長は存在すると断言。その映像は生々しく、鋭い。監督(?)が、「日本は不正が少ない国」なのに、といっていたのが印象的だった。なのに、不正…。まあ、日本人的な曖昧さを本音と建て前で説明はしていたけれど、擁護はしていなかった。足りないのは、相撲はスポーツではない、という視点だとは思うが。まあ、それは理解できないかも知れない。とはいうものの、力士たちのアバウトさ、失業後のつぶしの効かなさなどにも言及していて、日本人が見ても「なるほど」と思うデキだった。さらに、弟子へのイジメ殺人事件も紹介する。ここでは日本の犯罪発生率が低いのは、逮捕できそうもない事件は死体遺棄として処理するから、と言っていた。効いたことがあるような気がする。ホント。日本の警察は変だ。…っていう犯罪発生率の話は、次のパートだったっけかな? ●「『素晴らしき哉、人生!』とは限らない」監督ユージーン・ジャレキ、脚本ユージーン・ジャレキ アメリカは犯罪発生率が高い。けれど、最近は低下傾向にあるという。で、その理由は? いろいろあるけど、1973年に中絶が認められたことが大きい、という。それまでは貧乏人や非知識階級の子供が制限なく生まれてきて、その結果、犯罪に走るようになった。それが、中絶によって減少することで、犯罪も減った、というのだ。うわわ。説得力はあるけど、社会的になかなか言えない論理だなあ、これ。貧乏で無知な親の子供は犯罪者、って断言しちゃっていいものなのか? アメリカではいいけど、日本じゃ進歩的知識人に攻撃されるような論理だ。でも、こういう意見が言えない日本も、冷静に見ると変なんだろうと思う。 ●「高校1年生を買収して成功に導けるか」監督ハイディ・ユーイング、レイチェル・グレイディ、脚本ハイディ・ユーイング、レイチェル・グレイディ 勉強のできない子に、成績が上がったら50ドルやる。リムジンで家に帰れる。ということでやったけれど、結局、勉強嫌いは成績が上がるどころか少し下がってしまった。もちろん、少し上がった生徒もいるけどね。お金をインセンティブにしても、必ずしも成功しない、ということだな。…このエピソードは、あまり刺激的ではなかったので、ちょっと飽きてきてしまった。 んなわけで、おおむね面白かった。しかし、この映画。ドキュメンタリーと呼んでいいのか? ドキュメンタリー風のフィクションではないのかな? いわゆる再現ドラマ、みたいな感じがしたんだけど。なあ。 あと、どのパートか忘れたけど、最初に方に「ポリオの原因はアイスクリーム」というのが信じられていた時期があったこと。ルーマニアのチャウシェスクを引き合いにした話(なんの話だっけ?)。後半に「幼児にチョコレートを与えてトイレットトレーニングをする話」があったが、これは大成功だったみたい。 | ||||
愛する人 | 5/31 | ギンレイホール | 監督/ロドリゴ・ガルシア | 脚本/ロドリゴ・ガルシア |
原題は"Mother and Child"。中身が濃いぞ、いろいろ考えるところがあるんだぞ、深いぞ…と思わせようという作為が感じられる映画だった。ほんとうに、そんなに深いか? 表面的には何かありそうに見えるけれど、実は張りぼてで、中味がないように見えてしまった。そんな印象。 3つの話が並行して進む。2つはすぐ因果関係が分かるんだけど、残る一つは最後の最後につながってくる。まあ、よくある手だな。最初に、少女と少年がセックスしそうな雰囲気の場面。転じて、現在へ。 1つは、老母と暮らすカレン(アネット・ベニング)の話。カレンは理学療法士。老母の世話を、通いの家政婦に頼んでいるが、どーも心を開けない。職場でも、他人と関わりたくない感じ。新任の男性療法士パコが話しかけても、拒絶の態度。でも、その理由はすぐに分かる。カレンが老母に「あの子も37歳」とか言うのだから。ああ、冒頭の一件で妊娠したのだな、と。14歳だったみたい。 で、エリザベス(ナオミ・ワッツ)が法律事務所の面接を行なっている。相手はポール(サミュエル・L・ジャクソン)。リズはやり手らしいが、故郷のロスに落ち着かず、しきりに勤務地を変えている。ポールは一ヵ所に落ち着いた方がいいというが、リズはそうは思っていない様子。でも、巡回裁判所の判事になりたい、という希望はもっている。…というところで、カレンの娘はリズだとさっさと分かってしまう。しかも、リズは産後すぐ養子に出され、養父母とも死別して1人暮らし、ということも。このあたり、含みがなさすぎて、いささかつまらない。 もうひとつは、子供のできない黒人夫婦が、養子をもらおうと決断する話。養子に出すつもりの大学生と面談を重ねていくのだが、この話は前記2つの話のアナロジーとして設定されているように思えたんだけど、なかなか交わらない。最後に、なるほど、の接点があるんだけど、あんなに細かく描き込む必要があったんだろうか? という疑問が残ってしまう。 映画では描かれていないけれど、カレンは誰とも結婚しなかったみたい。14歳での出産を母親に責められ、男性とつきあうのに臆病になってしまったのかも。老母は呆気なく逝ってしまい、カレンは1人残される。そのカレンに家政婦が、「奥さまは娘に可哀想なことをしたと話していた」と話すが、カレンは「なぜ私に直接言わなかったのか」と怒る。まあ、このあたりのぎくしゃくした関係が、映像で素直に伝わってこないところが残念。だって、2人が言い合いをしているシーンなんてなかったし。むしろ、カレンは家政婦に対して冷たくあたっていた印象が強い。たとえば、断りなく家政婦が娘を連れてくることとかね。 パコは奇妙なくらいカレンにアタックする。これも、不自然さがぬぐいきれない。むりやり話をつくっている感じ。面白いのは、パコはメキシコ人とか中南米の人間みたいに見えること。家政婦も片言しゃべりで、こちらも移民っぽい。どちらも不法移民ではないらしいが、つきあっているのがそういう層の人びとである、ということがわかる。 リズの話は、いったい何を言いたかったのか、わからない。だって、最後は呆気なく死んでしまうのだから。38年ぐらいの人生。いったい彼女は何を考えていたのか? 正直言って、さっぱり分からない。それぐらい、意志の感じられない女性がリズだ。得体が知れない。 リズの生い立ちはほとんど分からない。上司のポールが自分に感心を示しているのを察知すると、さっさと誘ってセックス。しかも、女性上位であれこれ指示をしながらの女王様スタイル。かと思うと、隣家の亭主を誘惑し、たらしこむ。しかも、隣家の女房(妊娠中らしい)が留守だからと隣家に入り込み、自分のパンティを隣家の女房のタンスに突っ込んでくるんだぜ!(その結果は描かれていない) こいつ、ワルじゃん。 後にリズがポールの子を妊娠して産科に行くんだけど、そのときの医師が大学の寮で一緒だと気づく。そして、そのことに触れると、おぞましいことに遭遇したように拒絶する。いったいリズの 少女時代はどうだったのだ。大学生から法律家になり、街を点々としている間に、何があったのか。一切描かない。まるでこれって、養子は性格が歪むものだ、と決めつけているようなもんじゃないか。人間に対する洞察が深いとは、到底思えないような描き方だと思う。 産科医がリズの立場を考え、「子供は処置しましょう」というと、リズは激怒する。まあ、相談せずに処置しようというのは行きすぎだろうけれど、リズも自分の意志を示していなかった気配がする。きっと産科医は、望まれて生まれる子ではない、と先走ったのだろう。でも、笑顔一つも見せないリズにも問題はあるよな。で。そもそもリズは、子供を作りたくてポールや隣家の男とセックスしたのか? ではなぜ、37歳という歳になっていまさら? しかも、妊娠を理由にさっさと法律事務所を辞めてしまう。ってことは、つくりたくてつくったんじゃない、のか? この辺りが分からない。 辞めることを告げにポールの家に行くと(だったよな)、たまたまポールの一族が集まってパーティ中。にこやかに話し合う大家族の様子を映すのだけれど、これは、リズが家庭の温かさに触れずに育ってきたこと、そして、うらやましく見ている、ということかと思った。でも、リズはポールの結婚の申し入れも断り、場末の事務所で低賃金で働くことを選択する。…というリズの行動がまったく理解できない。理解できないから、共感もできない。 リズが辞めてから、原野みたいなところで盲目の少女と出会う。これもまた思わせぶりな設定で、盲目の少女が何を示しているかも、よく分からない。いらいらが募る! カレンが家政婦への反発を弱めていく原因も、曖昧。せいぜい娘の寝顔が可愛いから、ぐらい。自分の考えが間違っていた、とか、なにかきっかけが示されればいいんだろうけど、それがない。なんとなく、なんだよ。同僚のパコと打ち解けていく過程も、ぎこちない。最後にはパコと結婚してしまうと言うのも、かなり強引かも。なんか、この脚本には具体性があるようで、実はなかったりする。そこに、観客をねじ伏せてしまうような説得力がないのだ。 で、黒人夫婦が養子をもらう話だけど、興味深かったのは、妊娠している女子大生が養父母と面接して決断を下せる、というシステム。なんか、女子大生が大人に向かっていかにも横柄なんだよ。もらってもらう相手なのに、平気でエラソーな質問をしたりする。仲介するのは教会なんだけど、「あんたは神を信じるか?」みたいなことをいう。もらう側の妻は、つい本音で「信じない」といってしまうのだけれど、それで失敗したかと思いきや、女子大生は少しだけ養父母となる若夫婦を気に入ったみたい。でも、なぜ? ううむ。 でまあ、リズは子を生むが自身は命を失う。同じ病院で、黒人女子大生が子を生むが、いざとなって養子に出すのを止めてしまう。…という、この件がよく理解できなかったんだけど。あんな簡単に拒否できるのか? それと、女子大生と養母予定の女性がなんとなく似ているので、「?」になってしまったのかも。で、なんとリズの子が、養父母予定の若夫婦の元に行く、という結末。予想では、リズの子は、カレンの元に行くのかと思ったんだけど。ううむ。でも、カレンの家と養父母若夫婦の家は、同じ町内の数軒先、というオチが付いている。ってことは、カレンはずいぶん低所得層だったってことかもな。 でも、それでめでたしめでたしなのか? だって教会は、リズが実母に宛てて書いた手紙をうっかり忘れてしまっていたのだ。あの手紙がちゃんとカレンに届いていれば、2人は出会っていたはず。そして、リズの子もカレンのもとに…。ま、それがこの映画の綾なんだろうけど、フツーなら訴訟問題だろ。それにしても、やっぱり思わせぶりで、実は対した内容のない映画だった、ような気がするんだけどね。 |